山田 行夫さん

生年月日 | 1925(大正14)年生まれ |
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本籍地(当時) | 静岡県 |
所属 | 陸軍 |
所属部隊 | 独立混成第23旅団 |
兵科 | 歩兵 |
最終階級 |
プロフィール
1925(大正14)年生まれ 静岡県出身
厚生公司職員
陸軍 独立混成第23旅団(独立歩兵第128大隊と思われる)
歩兵(軽機関銃)
海南島、中国・広東省
1943(昭和18)年? 厚生公司の幹部候補生に就職
厚生省薬用植物試験場や東京帝国大学薬学部生薬学教室での教育
1943(昭和18)年6月 神戸を出発し海南島へ
1945(昭和20)年3月29日 海南島で臨時召集(入営は4月15日)、4月17日雷州半島に渡る
2か月で1期検閲を済ませる
1945(昭和20)年6月11日 徐聞から仏山に向かって約1500キロを行軍
食糧が無いので分隊での行動、徴発で食糧をまかないながら進む
1945(昭和20)年7月27日 仏山着
敗戦後中山大学や黄埔の軍官学校跡などで収容生活
1946(昭和21)年5月 復員
インタビュー記録
はじめに 収容所で書いた手帳
特命がおりて「厚生公司(コウセイコンス)」という会社を作った(アヘンの製造をした)。その前にも蒙疆(もうきょう)政府の財源としてアヘンからかなり出ていたがそれとは別に、いよいよ南方進出の(財源確保)のため本場からアヘンをたくさん作って持ってこれないかという事で、海南島に目を付けた。それで海南島で栽培を始めた。
当時の生き残りは殆どいない。厚生公司に中村三郎という支配人がおり現地ですべてを牛耳っていたが、私は軍隊にとられてよかったが、残った日本人はひどい目にあった。支配人の中村三郎はその代表として、終戦になってから広東に引っ張っていかれ中山大学(広東市)の広場で銃殺されている。
公開銃殺なので皆が見ている中でやられた。私は中山大学の構内で捕虜生活をしてるので見てない。後で聞いてビックリした。我々はそれほど自由な身ではなかったので公開銃殺を見に行けなかったが、帰ってきてから後になってからそれを聞いた。から私が厚生公司にそのまま残っていたら、ちょっとやそこらでは帰ってこられなかった。危なかった。何が幸いするか分かりませんが軍隊にいて助かった。軍隊もそれほどいいというわけでもない。初年兵百何十人いて広東までたどりついたのは結局10人いたかいないかくらいです。初年兵は消耗品でしたから。私を教育してくれた古兵さんという人は10年兵でした。兵長だった。下士官ではない。
聞き手:10年で兵長ですか?
兵長です。その当時その程度の人間はごろごろいた。
聞き手:10年で兵長はずいぶんひどいですよ。
現役で兵長さん一人いましたけど、まだ若く班長さんだった。あとは召集ですね。
聞き手:10年で兵長とはひどいですね。
生き残りで、教育のため終戦まぎわの昭和19年ころ召集されたんじゃないですか。そういう人に叩き込まれた。それが台湾軍、母体は九州の熊本連隊です。有名な強い軍隊。
この手帳だけ(軍隊から)持ってきた。終戦後に書いた手帳です。戦時中は書ける環境にはない。終戦後に自分で手帳を作った。もうボロボロだが日にちがはっきり分かった。軍隊に入った日にちや出た日にち、(日本に)帰ってきたのが昭和21年5月何日だとかはっきり分かった。収容所の中で書いた。これから英語を勉強しなきゃいかんというのでね、私なんか戦時中で英語の勉強なんかろくすっぽやってませんから、英語の先生が講義をしてくれるのをみんなで勉強したんです。それで英語がいっぱい書いてある。この年なると、こんがらってしまってはっきりしないが、この手帳でハッキリした。自分の思い込みと随分違う事が書いてある。これは60年前の記録だ。これが本当だ。(地図を見ながらの確認)
厚生公司の幹部候補生に就職
(厚生公司の活動は)昭和18年の7月ごろから始まり20年3月29日に臨時召集令状が来た。昭和18年6月に厚生公司の幹部候補生になった。厚生公司が大東亜省の第3セクターが出来た時に、もともと厚生公司の構成員は満州で蒙疆アヘンをやっていた連中で、山賊、馬賊みたいな人たちだった。絶えず生きるか死ぬかでアヘンの商売をやっているので柄が悪く、気が荒い連中だった。だがこれからはそれではだめだという事で、旧制中学を出た私含めて若者3人が選ばれ、厚生省の薬用剤植物試験場と東京帝国大学薬学部生薬学教室からケシ栽培、アヘンについて勉強させられた。
当時、学校に行っても勉強出来る雰囲気にはない。旧制中学を出て大学、文科系は鉄工場に放り込まれてやすり掛けさせられた。そんな状況だったので、渡りに船で厚生公司に入った。週に4日は埼玉県の春日部、そこに薬用植物試験場があったのでそこで下宿しながら勉強した。金曜土曜は東京大学の生薬学教室でアヘンの生薬としての勉強をした。月給30円を貰った。さらにすべての経費は公司持ちだった。
その時、昭和17年、東京に1回目の空襲があった。昭和18年にはアッツ島が陥落しガダルカナルも危ない状況にあった。それからビルマ、ラングーン作戦も、かなり行き詰まっていたころだ。
陸海軍とも戦争をやるのに金がなかった。金もなければ食料も武器もない状況で、何とかしなければならないという事で、大東亜省が厚生公司にはっぱをかけて、(海南島で)たくさんアヘンを作って中国人に飲ませ、その金を本部にあげてくれという指令が参った。私は昭和18年6月に神戸から帝香丸という船に乗って海南島に行った。その時、警備艇含めた船団を組んでいた。台湾の高雄、香港経由で1か月かかって海南島に着いた。十何隻の船団が海南島に着いた時には4隻になっていた。制空権はなく朝起きてみたらそばにいた船が消えてなくなっている状況だった。潜水艦にやられていた。
海南島に着いてすぐ、台湾で食べたバナナのせいかコレラで1か月隔離させられた。私は海南島の真中にあるナダイという町(に赴任)、海南島の北側にあるのが首府海口(カイコウ)、一番南が三亜(サンア)という位置関係にある。当時まだ海南島ではまだ十分なアヘンができないため、シンガポールから海南島サンガまで南方の生アヘン(アヘンを絞り乾燥させたアスファルトみたいな塊、生アヘンのままでは吸えないのでアヘン煙膏(えんこう)にする)を船で運び、その何十トンもある生アヘンを海軍陸戦隊が守ながら北側の海口までトラックで運んでいた。
陸戦隊の兵隊さんたちが守りながらトラックで山を越したが、海南島の中心部にある(大)五指山は共産軍(紅軍)の占有地でそこを通るとき、爆撃を受けてめちゃくちゃになった。その時私のいたナダイの分遣隊に連絡が入り、私もトラックに載せてもらい駆け付けた。その時には(先に行った)分遣隊は全員殺され、乗っていた警備員も運転手も殺され100%全員が殺されていた。なぜ情報が漏れたのかが問題だったが、アヘンをサンガから陸送するという事自体が大変なニュースなので、極秘とはいえやはり漏れたようだ。
手榴弾でめちゃくちゃにやられていた。その様子は「土民」が見ていて、後で聞いてわかった。アヘンは弾が当たって火が付くとじくじくじくじく燃える。何十トンのアヘンの燃える煙と匂いがすごかった。少量のアヘンが燃えるのならいい香りがするが、大量のアヘンが燃える匂いはすごかった。それは消しようがなくどうしようもなかった。ということで海南島というところは治安がものすごく悪かった。
我々厚生公司の社員には一人当たり1個中隊、といっても15、16人だが護衛がつく。そのくらい危険だった。私が海南島に就いてから、海口で盛大な歓迎会を開いてくれました。翌日には中心部のナダイというところに行ったんですが、私が着いたその晩に共産軍の襲撃を受けた。私は鉄筋コンクリート建ての建物の3階に寝ていたが下から手榴弾がポンポン飛んできて跳ね返って怖くて怖くて1晩震えていた。近所に陸戦隊という軍隊がいるが、襲撃する時は途中で待ち構えているので、彼らも近寄れない。ナダイという町全体がやられたが私は幸い命拾いした。とにかくすごいところだと思った。満蒙、主に熱河省でアヘンを作って動かしていた福田組という機関があるが、これが先に海南島でアヘンの栽培を始めていた。ところが失敗して、及川(勝三)さんに話が来た。
これがけし坊主(雑誌の写真を示しながら)。ポピーの親玉だから赤や白や紫やら綺麗な花が咲く。本ゲシから取るが、鬼ゲシでも頭を積むとアヘンが出て来る。縦に切って、傷を付けて樹液が垂れて来る。固まったのを採るのが生アヘンで、ゴムや漆と同じ。トルコなどから海南島に持ってきてアヘン煙膏にして香港を中心に南支にばらまく。私がいた厚生公司という会社は、日本軍・日本の国にとって一番大切な銭儲けの手段だった。暴力団が麻薬に手を出すのと同じで、それ以外に中国から大金をせしめる方法はなかった。
日本は出兵資金、戦争を遂行する金が底をついちゃって、日本もひどい経済状態だった。その時に目を付けたのがアヘンだった。そこで興亜院が指導して満蒙でアヘンを作り、海南島でアヘンを作り、作るだけではなく南からとったアヘンを煙膏(えんこう)という売れる物にする。
アヘン煙膏を説明する。アヘンはコチコチに硬いものだがそれを水で溶かし、香木の葉っぱやアヘンの吸い殻や香水を混ぜてどろっとした状態がアヘン煙膏という。これを貝殻にいれて(当時はプラスチック容器などはないから)12g当時の金で銀貨1円だった。その銀貨を「大洋(たいやん)」と言った。純銀なので大した値打で、現在だったら何千円とするんでしょうね。現地では大洋という銀貨のほか、儲備券(チョビケン、蒋介石が発行)、軍票などが流通していた。
1945(昭和20)年3月29日 臨時召集され広東省
厚生公司の社員が軍隊にとられるのは変な話だったが、それほど混乱している状況だった。それで海南島の首府の海口に召集で集められたのは昭和20年3月29日だ。毎日毎日壮行会をやってくれて酒を飲んで面白おかしく軍隊に入るのを待っていた。さらに4月15日に海口の国民学校(当時は海外にもあった)で入営して検査して、17日夜11時にに海口を出発し対岸の雷州半島に渡った。船がつけられないので東側の海安(かいあん)という港、日本軍の4中隊が守っていたが、浜にジャンク(中国の船)で着いた。
ジャンクを徴用して、取り仕切っている日本軍の暁部隊が200隻余りを集めて、夜に紛れて我々を雷州半島に渡してくれた。暁部隊というのは日本兵が中国服を着た海賊部隊のようなもので、日本艦船の代わりにトンキン湾から南シナ海一帯の交通をジャンクで取り仕切っていた。昭和20年でも海上輸送では暁部隊は力があった。
距離は(向こう側が)見えるほどで、(日本でいえば)下田から大島くらいの距離だったが、それを海口から大回りして朝方海安に着いた。海安の海岸は遠浅でジャンクを降りて腰あたりまで水に浸って歩いて陸に上がった。丁度上がるときにアメリカの戦闘機に見つかりバラバラと銃撃された。一機だったが繰り返しやられた。低く飛んでくるからが運転手(操縦士)見えるぐらい。無我夢中でとにかく上がらないといけない。弾が大きいので一発やられると体がバラバラになり、ドバーっとした血が流れてくる。血の匂いってのは臭いんですよ、ちぎれた肉も流れてくるんですよ。めちゃくちゃにやられたがこっちは鉄砲を持ってない。対岸のほうでは第四中隊がいて軽機関銃を撃っているが、機が低いところを来るもんだから撃てないんですよ。海に撃ったら味方の我々にあたるし高く撃ったら飛行機が低いので当たらない。その時私は無傷だったが、何人死んだかわからない。それで海岸にやっと上がって生きている人間だけ集まって徐聞(ジョブン)という、大隊本部の福島部隊長(大隊長:福島忠弘少佐、独立歩兵第128大隊と思われる)のところまで歩いて行った。
その時は死ぬかと思った。腹が減ってるし熱いしヘトヘトに疲れているしで、気持ち悪くなり何回も吐いたりして徐聞(ジョブン)にやっとたどり着いた。みんなそんな状況だった。そこに2日いた。4月18日徐聞(ジョブン)に着き、三中隊としてまとめられて、翌19日に三中隊の本部のある竹山(ちくざん)に歩いて向かった。着いたのが6月11日で、竹山の部落で1期間の訓練を受けた。訓練は2か月足らずでそれで検閲が終わった。いい加減なものだった。
食糧は徴発と雷魚
ルットワーというところの砂浜で訓練を受けた。各中隊が別々に訓練を受けた。別々になったのは食料が無く、回り近所の中国の部落を攻めて食料をかすめ取っていたため。あらかたの食料はそういうことで賄った。大隊本部からも食料は来ますけど大したことはない。トウモロコシ、こんにゃく、雑穀類で、お米なんてないですよ。そういったものが大隊本部から時々来ました。
一食当たりの食事というのは飯盒のかけご(掛子、中にあるふた)の三分の一ないな、ちょっと乗っている位だった。それは得体の知れないない食べもので雑穀、トウモロコシ等がちょこっとある。頂きますと食べるとすぐ食べ終わる。おかずは太平洋汁と言ったが、回りが海だから海水と、海藻、ワカメなどというものではなく硬い海藻、その辺の部落から摘んできた草をぶち込んでもの。たまには鶏、むこうの鶏はその辺を飛ぶような鶏で硬い肉で、その足がたまに入っていたり、豚肉の脂身が少し入っていたりという飯だった。それが三度三度共だった。
訓練はものすごく厳しいからそんなもので体がもつわけないため、3つくらいの方法があった。
回り近所の部落には三中隊がいるためほとんどが人がいなかったが、腰が抜け歩けないような老人、爺さん婆さんが逃げるに逃げれないからわずかに残っていた。その家から食料をかすめ取ってきた。また主体は、雷州半島、広東、ベトナムといった南の地域の部落には人口の膝ぐらいの深さの池がある。その池の上にトイレを張り出して作り、その糞尿を餌にして養魚している。雷魚だ。土曜日は午後が練兵休で、網を持って初年兵が池を探しにいき、池を見つけるとみんなで1列になって網をかかえてずっと向こうまで行く。最後まで行くとビチビチ魚が入っている。その魚をつかんでは持って帰ってきた。食べれない量をとってしまうと暑いところなのでそれがすぐ腐ってしまう。生臭く全然おいしくないがそれが蛋白源だった。それで息をついた。
3つ目、むこうにはサトウキビがある。サトウキビは土地がやせても育つ。その黒砂糖を溶かしてレンガ型の型に入れて固めたものを各部落が持っていた。部落民が逃げるときにそれを持って逃げるが、重くて持ちきれないものは残っていた。それを探して徴発した。それを水を沸かして溶かして各兵隊に「おしるこ」と言って配った。二日にいっぺんぐらい食べさせてくれました。これはエネルギー源として貴重でしたね。
もう一つ。訓練と称していたけれども共産部落を討伐するという名目だったが、夜中に遠くまで行って中国人の部落をワーッと攻めていってあるいはパチパチと鉄砲で撃って、擲弾筒で脅かしたりして部落民を明け方追っ払って、出来ている朝ごはんを食べ、残ったものをかっさらって帰る。という事をやった。時々良心がとがめるとみえて軍票を置いてきた。その時の軍票はタダみたいなもので、置いていっても何の役にも立たないけれども、名目として置いてきた。そうゆうこともありました。
軍靴もなかった
「(日記を読む)夜行軍で行った新村の襲撃を皮切りに、マエチン討伐、セイレンチン討伐、それから再度マエチン討伐、中間分掌付近の戦闘」、戦闘となっているが、我々は食料を求めて部落を襲撃している。襲撃し食料を取るために行っている。戦闘などというものじゃない。中間分掌付近の戦闘は、我々がしょっちゅう行くもんだから、相手は待ち構えている。それが戦争になる。向こうが撃ってくるからこっちも撃つ。
「(日記を読む)かつて海南島で経験した弾の下の恐怖はどこへやら、死よりも苦しい訓練の毎日であった。〈訓練と称して襲撃していた。〉」
軍隊に入った時には、衣服が形だけ支給されている。衣服と言っても夏の半袖で、大きい小さいのくそもない(サイズがまちまち)。新品でもなく洗った古着を支給された。ズボンも大きい小さい関係なく人数分くれた。それも中古だった。ゲートルもくれた。靴が問題だった。はじめは自分の靴で訓練していたが軍靴でないので訓練が激しくてたちまちダメになった。一回だけ軍靴の支給があったが、大きい小さいもないため足に合っていなかった。殆ど(みんな)履けなかった。ところが訓練で一番消耗するのは靴。靴が無いのに歩く。しかし素足で歩くような鍛錬はしていないので歩けない。そのためゲートルを足に巻いて歩いた。ところがゲートルもすぐダメになる。それで中国の部落に行くと、廟などに赤い布がある。それを取ってきて足に巻いて歩いていた。ところが足に巻いているとたちまち蒸れる。足がふやけて腐ってしまう。それでまともに歩いているのは誰もいない。「ビッコ」をひいてヨタヨタしながら訓練していた。大変な、訓練と言えるかどうか。訓練と称して、食うために襲撃していた。
武器は竹槍
聞き手:兵器はどうだったんですか?)
兵器は日本から海南島、雷州半島まで来るわけがない。終戦間近だったので船もなければ武器もない。小銃班、擲弾筒班、軽機班があった。小銃がなかった。半分以上が小銃班だから、私は機関銃班でチェコ機関銃をはじめとして九六式軽機関銃がいくつかあった。教育の時も20~30人の中に3丁くらいあった。擲弾筒もいくつかあったが弾がなかった。そうなので部落襲撃の時は簡単に弾を撃つわけにいかなかった。撃ったらなくなっちゃう。
小銃は、小銃班50~60人にいくらもなかった。訓練では38式歩兵銃で受けた。しかしその後の部隊編成で分隊9人に、小銃は、分隊長、狙撃兵2名だけの数丁しかなかった。軽機関銃は1丁あった。銃剣もあったりなかったりだった。だから(ほとんどが)竹槍だった。
話しが飛んでしまった。
結局、訓練を受けるときは、小銃班、軽機関銃班、擲弾筒班の3つの班に分かれて初年兵教育を受ける。戦闘編成になって行軍したり実戦ではそれではだめだから、分隊は普通13人だが我々の時は9人しかいなかったが、1分隊に軽機関銃が1丁あった。敵から分捕ったチェコ製軽機関銃含めて1分隊1丁はあった。チェコを受け持ったのは良かった。九六式は1回撃つとすぐに錆びてしまう。戦争終わたらすぐに磨いてピカピカにしておかないと使い物にならない。擲弾筒も1丁あったかどうか。小銃が問題だった。狙撃兵2名に2丁、3番目の兵士は軽機関銃手、弾薬手、私が弾薬手。(擲弾筒2名、残りの兵士は小銃なんですけれど銃が無いから竹槍だった。訓練も竹槍だったが皆軽くて良いと喜んでいた。弾も無いんだし。擲弾筒班だって擲弾筒持っている人間が少ないんですからあの重い弾持たなくていいんですよ。私たちも4つある弾倉が2つしかないんで、これも軽くていいんですけど。
兵器がないのになぜ召集したのか、そのへんも無茶苦茶だった。昭和20年とはそういう年だった。ガダルカナルは落ちているしラバウルも…。
サソリと蚊と古年兵
聞き手:シゴキはなかったですか?
初年兵のシゴキはすごかった。私たちの兵舎は3中隊だが、中国の大きな家(納屋があり母屋があり真中に庭があり、その周りに苗木がある典型的な中国の家。)を丸ごと占領していた。塀に囲まれているから、所々に歩哨を立てて、訓練を受けていた。ところが狭いので訓練は浜に行ったり近所に行ったり、家から出てやった。私たちがいたのは納屋で、昔、牛や馬がいたかもしれないけれど、。そこをきれいにしてアンペラを敷いた。アンペラはサトウキビを絞ったものを乾かして木綿糸で編んだもの、丈は6尺(1.8m)くらいある。それを土間に敷いて、1人分のスペースは寝返りができないくらいの広さだ。壁には窓がない。泥のブロックで積んだ壁、屋根はサトウキビのアンペラで、雨が降ると漏る。
我々はアンペラの上に寝るが、蟻が来る。ヤモリが来る。ヤモリは小便してそれが顔にかかり、そんなこと言ってはおれないヘトヘトだからそれでも寝ているけれど、目に入り目をやられる人が沢山いた。サソリもいた。南方はサソリが実に多い。サトウキビの殻をどけるとサソリがいる。夜中に這ってきてサソリに刺されると死ぬことはないが、腫れて痛くてかゆかった。夜中に蚊では目を覚まさないけれど、サソリに刺されると目を覚ました。叩き殺すけれど、大きいのに刺されると熱が出た。医務室に駆け込んでも薬はない。蚊もものすごい。ハマダラ蚊に刺されるとマラリアになる。我々はみんな半分裸みたいな恰好で寝ているから、支給されたのだってボロボロになっているから、蚊に刺されないように、泥の家の入口で周りから青い草を採ってきて焼いて、その煙を(家の)中に出す。蚊をいぶりだしてから寝た。煙がなくなったら蚊は来る。煙があるうちは目に染みて涙がボロボロで。
消灯は夜の8時だったがそれまでは厳しい班長の教育があり、軽機関銃の分解清掃を暗がりの中でやらされた。また軍人勅諭もやらされた。
日本人は全体の2/3、残りは朝鮮人、台湾人だった。そういう人は日本語があまりできないから、あまり厳しいことは言わなかったが、我々には幹部候補生受けることも分かっているし厳しかった。朝鮮人、台湾人は教育勅語や軍人勅諭なんかわからないので厳しくはなかった。
軽機関銃は、みんな暗がりでも出来るようになった。たった二か月だけれども。それはしっかりやりました。二か月間の中で台湾出身者が2人逃げていなくなったのがいた。でもあんなところで逃げたって絶対に助からない。
聞き手:私的制裁みたいのはなかったか?
射撃訓練の後は、成績が良くても悪くてもやられた。九州の方言なのだろう、「ださくいヤツは死んでまえ」って軽機関銃の銃身で頭をみんなたたかれた。打ち所の悪い奴がいて頭が切れて血が噴き出した。それでもかまわず端から端までの人をバンバンとたたいた。さすがに血が噴き出した人は医務室に連れていき手当てした。それから内務班なので物がなくなると皆びんた食らった。履いてる靴でやられた。
古参兵の兵長さんは歴戦の勇士で、私は戦争の神様ではないかと思うが、とにかく狩りがうまい。何十人の中で生き残った歴戦の勇士ですから身体が丈夫。徴発が上手い。民家の中のどこに何があるか知ってる。食い物はどこにある、黒砂糖とか、置き場所があるらしくて、動物的な勘でそうしたものを探してくる才能がある。体が丈夫で野性的な勘がある。それから運が良い。運が良いから生き残ったと思う。歴戦の勇士で生き残りしか残ってない。それから九州の久留米連隊は勇猛で知られてるし、それに農家出身で体が丈夫。その当時は殆ど農家出身で10人に8人はそうだった。そういう連中だから粗い。日本人には厳しかった。しかし内地の内務班よりは良かったと思う。なぜかというと、皆な実弾を持っていて、下手すると後ろからやられる。訓練とはいえ実弾持って襲撃しているから野戦と同じ。手加減があったと思う。
2か月の訓練後、大隊本部から検閲官が来て、検閲したということにして(それで一人前になる)。われわれは軍隊に入った時は軍服もちゃんとしたものがなくおんぼろ服を貰ったが、肩章もなかった。一つ星が。それで自分で作ろうとしたが、針も糸もなく結局皆作らなかった。赤い布はあった。猟に行くと。みんなふんどしにしたが、それに白い布で星形作って張り付けろ、というわけです。しかし針糸がなく結局作らなかった。古参兵は持っていた。
同年兵の自殺
検閲が終わって6月になった。6月11日にマエチンに敵の陣地があって食料も武器もあったので、性懲りもなく攻めていった。帰ってきたとき中隊長がみんなを集めて、「明日ここを出て、広東に向かって出発する。準備をしろ。」という命令が出た。その前、帰ってきてからテーブルのある部屋で軽機関銃を分解しスピンドルを入れて清掃していたが、その時、隣でMという海口の税理官だった男、我々より年上で日本女性と結婚していた。その人が軽機関銃で自殺した。ものすごい音がして私は胸がツーンとして分からなかった。机の向こうの土壁に何かが散って、ピシャーっと跳ね返って、拭ったら血だった。音がしたから古兵さんが駆けつけてきて私を押しのけて、見たら顔が飛んでないんだけどMしかいない。銃に1発だけ弾を装填し軽機関銃の銃口を口にくわえ、足の指かで引き金ひいた。頭蓋骨は飛び散り土壁に張り付いている。破片が私の顔に当たった。顔はめちゃくちゃで、もうわからなかった。
なぜそんなことになったかというと、我々はくたびれてへとへとだった。私もMも軽機関銃隊で、小銃は竹槍持っているから軽い。擲弾筒もあるかなしかで軽いけれど、軽機関銃だけは重いものを持って行軍するということは、疲れ果てて悲観しちゃったんだろう。で自爆しちゃった。それが6月11日。すぐに中隊が招集されて、遺体を引っ張り出して、水かぶせて掃除して薪を持ってきて、中隊の前の広場に薪を積んで火をつけて焼いた。で翌朝、出発した。それはショックでしたね。
食糧の徴発を重ねながら、仏山まで行軍
軍隊の行軍は1時間に4km、45分歩いて15分休憩だけど、軽機関銃隊の私は、銃手いなかったので、一人で機関銃等をもって大隊本部まで行けるか(心配だった)。その時は部隊本部に行くまではまだ戦闘部隊編成になってなく銃手という人はいなかった。どうにか大隊本部まで行き着いた。徐聞(ジョブン)という部隊本部まで行った。そこで古兵が入って初年兵と一緒になって戦闘編成になった。9人だった。
それで徐聞からスタートして雷州半島を通って仏山(ブツザン)に着いたのが8月十何日だ。ここまで歩いた。それまで約1500km位あったと思う。ただ最初から食べ物がない。何千人の大部隊が移動するが食料がないので、分隊(9人単位)に分かれてそれぞれ食料を徴発しながら進む。各分隊間は連絡用の伝令がいて中隊本部とは絶えず連絡が取れた。それで広東までに向かって歩いた。如何にして食い物を確保するかそれだけだった。何処からも補給がないわけだから。すべて徴発。

聞き手:(私の部隊も)同じだった。5月からその年一杯一切配給無しだった。すべて徴発。
雷州半島というのは徐聞(ジョブン)が大隊本部だが、もともとは仏山に本部があったが昭和14年に海南島に初めて攻めて、その時日本のものにした。海南島を不沈空母にしてそれ以降、ベトナムやそのほかの地に攻めていった。非常に重要な地だった。海口に飛行場があった。海南島の治安が悪く何度か攻防があり行ったり来たりしたが、3回目に海南島に攻めた時、我々が陸軍に召集されて海南島に入った。
その間、海南島と(仏山)の間を雷州半島を通りながら何度も何千人もの部隊が往復している。
雷州半島は真中に山があり、海側は砂漠みたいなところが多く、もともと貧しいし土地はやせているところだ。そこを飢えた何千人もの部隊が食糧徴発しながら5回行ったり来たりしたわけだから、まともに歩いていたのでは回りは死骸ばかりでどこにも食料がなかった。周りの部落はみんな疲弊して、日本人が行きそうなところには何もない。なので我々は他の部隊が通りそうもないところを選んで進んだ。その時、分隊に沖縄出身の兵士が2名いて、彼らが動物的な感覚を働かせてくれた、彼らの後をついていくと部落があった。部落があれば人がいて瘦せた豚、鶏がいて食料にした。人は日本軍が近づくと逃げた。逃げた後で食べたらどうにか生きていける。食糧があった時は重いけれどそれを持って保存食にする。どこにいっても日本人の死骸ばかりだったが、そういうところは荒らした後なので、なるべくそうしたところを避けて進んだ。熱い亜熱帯の8月だったので死骸は半日ともたなかった。
聞き手:遺体があちこちにあるというのは埋めてない、放置したままなんですか?
放置されている。遺骨は取らず。腕とか指とか、最初はそれをやったらしいんですよ。だけど我々が行った頃はもうそれどころの騒ぎではない。食うのに精一杯。それと日本兵と言ったけど、日本兵だと思うけど、中国人と日本兵とあまり区別がつかない。似たような格好をしている。ひげはぼうぼうだし、ろくすっぽ着るものだって着てないし、日本兵もそうだし、別に武器を持っていない。3日もするとあちこちからウジが湧き、鼻、口、耳、お尻から出て来る。痩せていた体が膨れて、ガスが噴き出し異臭を放っていた。死骸が散々あるところは荒らしまわった後だから、そんなところに行っても食糧はないから、狭いようでも探せばあるところはある。死骸の処理よりも自分が食うのに精いっぱいだった。
中国人の刺殺(訓練)
訓練が始まって1か月たった時に、中国人の男が連行されてきた。ひげはボウボウ、顔は真っ黒。ぼろぼろの服を着た中年の男は、兵舎の中庭に手足を縛られて座らせられていた。私は海南島の言葉が喋れるのでその男に聞いたら、我々がいた竹山(ちくざん)の部落の農夫だった。「日本軍が来たので家族と一緒に山のほうに逃げ、草や実、カエルやヘビ等を食べて生活していた。ところが病気になったので家に薬を取りに来て捕まってしまった」との事。
「その捕虜を2日ほど縛っていたが、上官から男の家を聞けと言われ聞いた。その時、捕虜は家に帰してもらえると思ったのか「にこっと」笑った。それが後に印象に残ってしょうがない。もちろん上官が家に帰すわけはなく参考に聞いただけだった 。
それから男を連れて行軍が始まった。初年兵全員を連れて山の中へ1時間ほど歩いた。山の中腹の丘の上に着いた。古参兵が男の縄を解いた時、男は(解放されると思ったのか)白い歯を見せたが、その直後に目と口を縛られた。絶叫でもなく悲鳴でもない動物のうめき声に似た声が耳に残った。あばれる男は太い木の幹に括りつけられた。何が始まるのか初年兵全員がわかっていた。私は言葉を交わしただけにたまらない気持ちになった。命令に背けば顔の形が変わるほど殴られることは目に見えていた。これが軍隊なんだと自分に言い聞かせた。「突け!」、銃剣の付いた小銃を持った初年兵が木に括りつけられた中国人に向かって走った。
男を突くと、銃剣を次の初年兵に渡した。4人目に私の番に回ってきた。目をつぶって突いた。銃の重みで木に深く突き刺さった。何とか抜いたら班長に叱り飛ばされた。恐怖のあまり目をつぶって走ったために標的を外して草むらにひっくり返った初年兵もいた。初年兵は次から次と突いた。男の内蔵は破れボロ雑巾のようになった。体はどす黒い血の塊となって木の下に潰えた。という経験を私はしている。
こういう話しは、私は叔父が「支那事変」始まってすぐの頃と思うが、中国に出兵して帰ってきたときの自慢話として聞いた覚えがある。私がまだ学校に行っているころだ。朝日新聞の「記憶はさいなむ」という原稿募集に200~300人から応募があったそうだが、私と同じような経験をした投書が一番多かったそうです。日本軍が訓練と称して中国人を殺したという例は沢山あったんではないか。
そういうことも問題だし、何千人もの兵士が食料もなく、食うためにはそこで獲らないといけない、現地でみつけないといけない。ところが現地は日本軍に散々荒らされて、たくさん人も殺されて、食糧も出来ないような戦時体制。食糧もろくすっぽないところに行って、あっちこっちから食料を求めて略奪しながら行軍していたという事も、ひどいことをしていたなと(思う)。1人2人を殺したという事よりも、そっちのほうの被害のほうが中国に対しては大きかったんではないかという気がする。
風呂、散髪、衣服を着替えて仏山に入る
聞き手:中国の現地では、温暖なため作物は1年中採れたのか? 採れない時期もあったのではないか?
暑い時期は採れない。余談になるが私は沖縄に毎年行っている。沖縄は亜熱帯でいつでも作物が採れるよ思っているかもしれないが、沖縄の野菜の半分は内地から行っている。暑い夏は採れない。また虫が多く野菜が小さいときは虫に食われて育たない。だから採れるものが限られてくる。ニガウリは採れる。野菜は夏よりは冬が採れる。
雷州半島は土地がやせている。山の方はジャングル、下は砂漠でそこは野菜は採れない。サトウキビは採れた。虫がつくので農薬がないと野菜はうまく採れないのではないかと思う。魚はさっき言ったように雷魚みたいのが採れた。また乾季と雨季があり、私たちが入った時は雨期だったが、乾季は採れない。ところが意外と果物が多い。ライチとかリュウガン(竜眼)とかが馬鹿みたいに採れる。バナナは品種改良していないモンキーバナナだが、それには助かった。年がら年中あった。バナナには本当に助かった。大きくなると木が腐ってくるが根っこからバサッと切るとまた翌年生える。
7月27日に仏山に着いた。8月14日終戦の前の日にそこを立って広東の華南のキリツソンというところに入った。仏山は日本軍の宣撫地域で日本軍、日本の民間人、中国人が沢山暮らしている大都会だった。
仏山に着く前に郊外に止められて、日本愛国婦人会が我々をドラム缶にお湯、水を入れて洗ってくれた。ひげをそり、頭は丸坊主にしてくれた。頭髪、ひげは伸び放題、服は殆ど着てない赤ふんどしを着て、裸が多かった。足に赤い布を巻いて靴はほとんどない状態の浮浪者集団だった。
そのような集団を宣撫地域に入れるわけにはいかないという事で洗ってくれた。そのあとで新しい服を支給された。衣服工廠(注:正しくは被服廠)にまだ残っていたようだ。武器は無かった。そこで綺麗に全部着替えて、暑いけれどズボンを履いて巻脚絆つけて街に入った。ひげをそって格好をつけて、それで仏山の町に入った。町は勝手に歩くわけにはいかないので上官の引率で、初めて引率外出をした。さらに軍隊に入って初めて給料をもらった。軍票かどうか忘れた。通貨は軍票のほか、大洋(たいやん;銀貨)」、儲備券(ちょびけん)が使えたと思う。
敗戦後と、コレラで上陸が遅れた復員
聞き手:21年に復員で、その間は何をやっていましたか?
集中営で捕虜生活だった。
聞き手:使役には行きませんでした?
行きましたよ。ただ私は部隊長当番をさせられたので(使役に出ることが少なかった)。部隊が最初に入ったのが華南のキリツソンというところ、それから中山大学に入った。この中山大学で厚生公司の支配人中村三朗が銃殺された。黄埔(こうほ)という蒋介石が校長で軍官学校やってたところだが、私たちが行った時は廃墟みたいなコンクリートの建物だけがあって内装もなかった。そこが一番長かった。巨大な(建物が)何十棟と建っていて逃げる場所がないのでそこが我々の集中営(収容所)だった。
コレラで、行くときも大変だったが広東から帰って来る時も浦賀沖で止められた。そこでたくさん死んだ。私は米軍のリバテイ21号(復員船)で帰ってきたが、コレラで(最初)一人が亡くなって上陸できず、広東から帰って来た船はコレラがたくさん出るので上陸出来ないで、浦賀沖が復員船が一杯になっていた。後で聞いた話だが、浦賀が復員船の町になっちゃったという事で有名だったらしい。食料に内地の玄米が配られ、初めて内地のコメが食えた。ありがたかった。
コレラのために、横須賀の水雷学校に隔離された。毎日検便があり陽性になると隔離された。何度か検査があり全員陰性になってから船に帰れた。出身は静岡だが、浦賀にいた時調べてもらったら静岡は空襲で焼け野原だといわれて、帰る家がなくなったなあと思ったが、試しに静岡まで行って駅前の復員事務所で調べてもらったら家が残っているという。実際には爆撃されて一部焼けてメチャクチャだったが、親父がいた。降りた時に新円で幾らか貰った。
浦賀まで来てコレラのために日本に上陸できず死んでいく復員兵が沢山いた。私は昭和18年から2年程度でたいしたことないが、5年とか日本を離れ戦争していた古兵は上陸直前でコレラで死んでいく人もいた。あまりにも気の毒だった。あれでは家族に報告ができない心境だった。
家族を殺された人が中国のいたるところにいる
聞き手:捕虜を銃剣で突いたと聞いたが、それは一回だけか?
一回だけ。捕虜じゃなく近所の農民だった。兵隊だから殺したという事ではなく訓練で一つのコースでやった。中国に初年兵で行った人は高い確率でその訓練(銃剣で突く事)を受けているはずです。訓練というと格好は良いが、中国人当時は「支那人」といったが、部落民を捕まえてきて銃剣で突いて殺す、何のためにやるかというと、「度胸付け」だと言っていました。それが一番の理由だったかもしれない。
同席した元兵士:井ノ口金一郎さん:私がいた部隊はそうした例はなかった。山田さんに聞くが刺すときの心境はどうだったか?
人を殺すんですからね、普通だったらできるもんじゃない。だけどやらなければどうなるかという事がわかっているから、やらざるを得ない。内地で初年兵教育を受け2等兵から1等兵になるころ中国に来た人は、少ないと思う。私のように現地で初年兵教育を受けた兵士はたいていその訓練(銃剣で突く事)をやっていると思う。何人も聞いているが南の方が多くやってる。
井ノ口さん:華北、当時北支と言った所では、線ではなく点でしかないが駐留している中小都市では、中国人は普通に商売しており、そういう状況下ではできにくい状況にあったと思う。私がいたタンサンなんかも日本人が千名いた都市なので、中国人も商売をしている状況下ではやれる状況にはなかった。
海南島では日本軍が点で占領していたが、日本人、中国人が普通に生活していた。そのほかに共産軍、国府軍、山賊、そういう連中同士で互いにドンパチやっているが、通常の民間人との関係は良かった。また仏山、広東は平和な宣撫地域でそんなことはできなかった。ただ雷州半島はメチャクチャだった。また一歩入った田舎はそういうことがあったのではないか。
井ノ口さん:私の場合は、昭和19年3月から昭和20年の終戦まで、毎日毎日が戦場であって毎日毎日泊まるところが違う、そういう生活をやってきた。そういう戦場では全部が非宣撫地域であった。討伐に行くと、向こうが歯向かったり隠したりすると、打つ蹴るだけならいいが、銃で撃ったりして殺した。そうしたことは日常茶飯事で、家ごと部落全体を丸ごと焼いたこともある。毎日のようにどこかで誰かが。私も刺すような状況があって、私が命令を受けて、仲間が刺した。逃げる農民を後ろから銃で撃ったこともある。毎日の戦場ではそうした(殺し)を日常茶飯事にやってきている。私の場合は、病人の父親を子供の目の前で刺した。その子供は当時15~16歳。今生きていれば75歳くらい。「日本憎し」の思いは一生消えないと思う。そういう目にあった人は1人2人ではない、何十万という人がそういう状況にぶつかっている。そういう人は「日本憎し」の思いは消えないだろう。
今、靖国神社の問題が問題になっているが、日本は中国の人に対して大変な迷惑、迷惑なんて生易しいことではなく、滅茶苦茶な事をやってきた。その事を日本人のどれだけの人が知っているか? 皆その話をしたくない。私もしない。でもなんかの時にチラッと出る。中国人を1000万人~2000万人殺している。中国人は大家族なので、家族の中で殺された人が必ずいる。そのくらい日本軍は中国の隅々まで行ってやっている(殺戮している)。
当初は、食料や衣服もあり現地で徴発するという事はなかったと思うが、私が軍隊に入った時は食べるものも服もない。日本国内すら食べるものがなかったんだから、戦地に送れるはずがない。そういう状況だった。武器だってない。日本から何も来ない状態で兵隊だけとった。竹槍だった。海南島で日本人を召集して、それに与える武器がない状態でなぜ入れたか。メチャクチャだった。広東の仏山に着いた時、みっともないという事で、竹槍を山積みにして焼いた。竹槍担いで行った連中は手ぶらですよ。
それから日本の軍隊は銃をピカピカに磨いていた。南方で湿気が多いので錆びないように油紙に包んで包帯に巻いた。軽機関銃も同じ。鉄の質が悪く1発撃つと早く磨かないと錆びてくる。錆びたまま打つと銃身が爆発するので磨いた。だからあまり撃ちたくないし、そもそも弾があまりなかった。それに撃つと報告書出さなければならなかった。
井ノ口さん:私の場合は、戦場に行くと食料の配給はなかったが弾の配給がありドンドン撃った。だからいちいち報告なんかできなかった。一回ドンパチやれば10発20発はすぐなくなった。歩兵が持っている弾は(腰の左右の弾薬盒に)30発と30発で計60発、そのほか予備弾で120発。軽機関銃の弾は50発。小銃と軽機関銃の弾は同じだった。(敵から鹵獲した)チェコ機関銃でも同じ弾を使えた。
中国の部落で略奪した時、民家にある昔の村田銃みたいなものを鹵獲したが弾が合わなく使えなかった。またそうした銃は銃身を切っているのでそうした銃で撃たれると弾がどこに飛ぶかわからず怖かった。中国に対して一番迷惑かけたことは、訓練と称して中国人を沢山殺したことだ。私の場合、食料がなく略奪し殺した。中国の正規の軍隊と戦ったという事はないと思う。向こうから撃ってきたから撃ち返したことはある。その時、重機関銃が応援してくれて、たちまちやった。私もその時初めて軽機関銃を撃った。どこに飛んだかよくわからなかった。そのあと(軽機関銃を)一生懸命磨いた。弾は2つ弾倉はあるけど半分ぐらいしかない、240発くらいだ。弾倉に錆が来て一生懸命磨いた。(銃の入っていた)革のズックはボロボロになり使えなかった。
とにかく、食うために中国人を殺し追っ払い食料を得た。私の場合の戦争は、食い物の争奪戦だった、それが私の戦争だった。それで重慶まで攻めていくつもりで、広東に行ってそこで終戦になった。
井ノ口さん:広東と重慶間の距離はすごいですよ。
そういう馬鹿な作戦を立てた。
日本人は戦争で、なぜイナゴのように飛蝗(ひこう)するのか
聞き手:終戦はどのようにして知ったのか?
広東の仏山というところにたどり着くまで砂漠地帯を進んでいた。砂漠が切れてジャングルに入るところの所々で「ビラ」を拾った。そこには、中国語と日本語で「日本兵に告ぐ」「日本は2発の新型爆弾で消えてしまった。お前たちは日本に帰っても日本は無い」と書いていた。中国は敗戦を我々より早く知っていたんではないか。ガダルカナル、フィリピンは落ちてるしビルマもやられ、沖縄もやられていた。だから日本軍が知らないだけで中国軍は知っていたんではないか。
だから、わりあい交戦せずに進んだ。ソ連が参戦したという話しは中隊長から聞いた。「最も恐れていることが起きた」。原爆の話は一言も出てない。「ソ連が参戦し戦闘が始まった」との事。えらいことになったなと思った。広東に入ったのが8月14日。
聞き手:日本はなぜそんな馬鹿な戦争をやったのか、戦争責任はだれか。
戦時中の雰囲気は独特だった。天皇陛下のために死ぬことは当たり前に思っていたし、特攻隊で死ぬことわかっててそれをやった。そういう雰囲気はあった。
井ノ口さん:そういう純粋な人がいたし、ある程度仕方ないと思っていたのかもしれない。
(同人誌「朝風」の記事)ソ連の捕虜になって中で、日本人が満鉄社員を暑い最中広場で立たせ皆でつるし上げをしている。そこにソ連の中年の女性が仲裁に入り「ソ連の民主主義はそんなものではない」と叱った話があった。なぜ日本人がパッと豹変して、今度は共産主義でなければいけないような言い方をしたか、という問題提起があった。「ソ連の民主主義をなめるな」と言ったと。確かに日本の部隊は、天皇陛下の詔勅で一斉におとなしくアメリカの軍門に下ったわけでしょ、何も内乱をおこさずに。今のイラクから見たら大きな違い。ようするに今の日本人が戦争を総括してないという事だ。いま、中国、韓国は、日本が右傾化の傾向にあるとみている。南京虐殺はなかったなどという人もいるが、あったことは間違いない。日本人がなぜそうなったか。という事で、素晴らしい新聞記事(2005年2月25日の記事)がある。
「人は飛蝗(ひこう)してはならない」いい記事だ。意味は、蝗(いなご)、トノサマバッタ、元々害虫でもないが、何かの刺激を受けてものすごい大きな群れを作って、食い物は全部食いつくしてそれを飛蝗(ひこう)という。
パールバックの「大地」という小説がある。その中に、中国で殿様バッタ(蝗)が、行くところは生けるものが骨と皮になって何も残らない。この飛蝗という現象は日本にはないが、中国や南米にもあるらしい。なぜ普段はおとなしい殿様バッタ(蝗)があんな風になるのか? あらゆるものを食べつくす悪漢になってしまう。そうなる、きっかけはチョットした刺激だという。食べ物がない、気候条件などが整うと飛蝗になってしまうらしい。
その記事は、普段おとなしい日本人がある時、飛蝗になったという。人間が変わっちゃったという。沖縄でも日本の軍人に民間人が殺されたという記録が沢山ある。それもそうだし、ソ連に抑留されその後共産主義者になることも、飛蝗と同じだ。突然人間が変わってしまう。
沖縄に行った軍人も、普通の人間だ。農民もあれば学校の先生もいただろうがみんな普通の日本人だ。それが同じ日本人の沖縄の民間人を殺す。普通ならできないが、戦争はそういうものだ。そういうものだけど、なぜそうなるのか。戦争を美化したい人間はいる。戦争に駆り出されて特攻隊みたいに死んだ人はいた。われわれは召集されて行ったから、それ自体は被害者だったかもしれない。けれど中国に対しては加害者。私も殺しているし、なけなしの食糧をとったために飢死しているかもしれない。
日本人で戦死した人間を今日のための平和の礎として祀らないといけないという気持ちは分かる。ではそう駆り立てたのは何か? 日本人を飛蝗にした原因は何か?
東京裁判は一部のA級戦犯を絞首刑にしたりしたがそれだけじゃない。これがあったからといえ(この戦争が)だれの責任でもないとは言えない。誰かに責任がある。それは皆かもしれないけど、誰も犯人がいなくなる。日本人は自分自身で戦争犯罪人を裁くという事をしなかった。そのことを反省すべきだと思う。何も無い日本人が、ある日突然日本人を殺し、中国人を殺す。そんなことがなぜ出来たのか、誰の責任でもないと言ったら、なっていない。私も明確な答えを持っているわけではないが、我々日本人はなぜ飛蝗し戦争に入っていったのか、戦争犯罪に対して向き合わなかった過去を掘り起こして、改めて見つめなおし反省すべきではないか。
今の若い人は主がなさすぎる。主がなさすぎるから中国や韓国とのあいだで意思疎通ができない。向こうは、中国人は完全な被害者だ。日本は(略奪し殺しを)やってきているんだから。日本と中国の教科書が中身が違う。
井ノ口さん:中身が違うのではなくて、日本は書かないんですよ。日本は事実を書けないでいる。事実をありのまましっかり書いていたら、今の若い人の考え方も違っていたんではないか。また、戦争に直接かかわったA級戦犯らは悪いが、その裏にあるのが財閥だ。戦争は殺しのほかに誰が富を得たかだ。財閥も戦争責任がある。
財閥の話が出たが、アヘンの総元締めが三井物産だった。三井船舶でアヘンをあちこち動かしたが、蒙疆(もうきょう)アヘンの一番のスポンサーは三井物産。戦後はそういうことを表に出さない雰囲気がある。日本の軍国主義は日清戦争で勝ち、日露戦争で勝ち、始まった。以降急に進んだ。日本は強いんだという、○○な(音飛び)民族だという悪い意味のナショナリズがどんどんどんどん。私は子供のころから天皇は神様だという事をことごとく教育されてきた。ことが起きれば神風が吹いて日本は必ず勝つんだ、という(教育)が日本人を動かしてきた原動力の基本のところにある。
昭和天皇の人間宣言が昭和21年1月1日にあったが、あれを聞いてビックリした。
茫然自失の終戦、正直言ってほっとした
聞き手:広東で終戦を知ったときはどう思われましたか?
手帳には「茫然自失し何が何だかわからなくなった」と書いている。
幹部候補生の試験に私は通った。それで部隊解放の通知が8月16日に来た。8月15日の夜には終戦詔勅は聞かされていた。でもその時は何が何だかわからなかった。録音も悪かったし16日になってから部隊会報で負けたらしいという雰囲気の話が出ていた。しばらくしてうちの部隊の一個中隊が機関銃中隊だったと思うが、国府軍に投降しました。あれ、でもニュースになっていないな~。でどうなったのかと思ったけどうちは台湾に引き上げています。日本軍は。私は台湾との付き合いがあったので、後でそれを知った。みんな茫然自失しちゃって、もう何をしたらいいかわかんなくなった。天皇陛下の命令で止めるというんだから、これは止めるしかしょうがない。これは非常に良い大義名分ができたことは確かだ。ほかの人が言ったって聞くわけにはいかない。ところが日本の国というのは天皇陛下が言うとその通りになれる。マッカーサーがビックリするくらいにうまくいっちゃったんでしょうけれどもね。
わしは正直言って、ほっとしました。こんな生活しないで国に帰れると思ったから。みんな本当はそう思ったんじゃないかな。建前としてはそう言えないけど。
聞き手:結構聞きますね取材してると「正直情けないけど家に帰れると思ったらホッとした」という人が結構しますね、やっぱり。
そうでない人もいるだろうけど。職業軍人なんかは複雑でしょうけれどもね。わしらは片一方では幹部候補生に受かって、ヤレヤレ平ベタの兵隊よりはましな感じになりそうな気がしてきたんだけれど、あの時戦争はメタメタで、まさか勝てるとは思えなかったね。日本から武器弾薬は来ない、食料は来ない。そんな中で戦争やってきたんだから。なぜ日本人は飛蝗(ひこう)になってしまうのか明確な切り札(答え)がない。
今の小泉さんのいう事に、今は4割の人が賛成ですね。Aクラスだけが戦争責任じゃないというとそれまでだが、(戦争)責任者は誰だという話になる。責任者を作らないと話は収まらないわけで。だったらAクラス戦犯が祀ってあるようなところへ小泉さんが参拝するのはおかしいですよ。我々はそう思ってますよ。今6割の人はそう思っているらしいけれど、あと4割の人はどう思ってるか。いまなぜ小泉さんの言うことがほんとうなのか、明らかに右傾化してますよね。日本人は「中国の気持ちがわからん」(というが)。わからんという事はないでしょう。日本は中国でこれだけのことをやってきているのですから。日本人が考えている中国や朝鮮、韓国に対する思いと、連中の日本に対する思いとは違う。横田めぐみさんの話がここで出てるでしょ。ここで、北朝鮮でも言っているように、韓国でも言っているように、日本人も強制連行してる拉致してるじゃないか、大変の数の朝鮮人を。それに対して一言もないじゃないですか。
井ノ口さん:中国人もです。
そうですね。それが不思議だね。日本人も北朝鮮に拉致されて冗談じゃないと大騒ぎしてるけど、日本人が戦争中にやっている。違いとしたら(日本は)、戦時中でないのにやられたという事。韓国人中国人を日本人が拉致して、鉱山で働かせたり炭鉱で働かせたという事は、戦争中だから許されるという事なのかな? そういう理屈があるのかな? かもしれない。雰囲気(日本と朝鮮・中国の拉致の状況)が違うという事は確かだな。まったく今は平和な時代だと我々は思っているのに、北朝鮮はそうは思ってませんよ。北朝鮮はまだ戦時中と思っているでしょう。我々は平和な時代だと思っているのに日本人が拉致された。冗談じゃないとカッカして大部分の人がそういう気持ちになっちゃった。
井ノ口さん:朝鮮から従軍慰安婦として拉致された若い女性の数は10万人からいる。
拉致されて大騒ぎしている、北朝鮮への(今の日本人の)思いは分かる。そのことにおいては北朝鮮もものすごく悪い。しかしそれとともに昔日本がやってきた事にも反省しなければならない。 日本が10倍も何百倍もの数を拉致をしている。そのことは一言も触れてない。どんな新聞にも出てない。北朝鮮の拉致は悪い悪いの固まりになっているが、一皮むけば戦争中日本はどのくらいの人の数を男女問わず日本に連れてきて、鉱山で働かせ、炭鉱で働かせ、またはあちこちの土木工事で働かせた。多摩川の上のほうの工事にしたって戦争中に朝鮮の人を大勢使っている。河川工事にしても何にしても。そういうことを考えると、今の北朝鮮の拉致に怒っているその気持ちがわからないわけではないが、昔日本がやった拉致の問題も少しでも考えてもらいたいという気持ちがある。政治家はあれに対しては済んだことだと言っている。
井ノ口さん:済んだも何も、(そのような話は表に)出てないでしょう。今の教科書の中で、たとえば、私いつも言うが、日清戦争終わってすぐに朝鮮の王宮に、大勢の日本人軍人、警察官等の暴徒が入り混じって当時の王宮に押し入って、むこうの皇后を惨殺し裏山で燃してしまう(閔妃暗殺事件)。この事件を韓国人、北朝鮮の人々は、日本の「忠臣蔵」と同じくらいに知っている。一方、日本人は閔妃暗殺事件などは、ほとんど知らない。10人に1人も知らない。全然何にも載ってない。又、関東大震災の時には朝鮮人は6千人殺されている。何の罪のない人が6千人殺されている。
戦争中、何千人もの人を拉致し殺してきたがそれもどこにも載っていない。南京虐殺についても載っていない。今の日本の若い人が、なんでこんなに韓国や中国は、日本に対してブーブー言っているか、日本はもっと威張っていいじゃないか、という気持ちになるのは(何も知らされてないし知らないから)当たり前だ。それなりの教育がなされていないからだ。だと思う。
昔、関東大震災で朝鮮人を沢山殺したという事は歴史上の事実で、誰がどういようとわかっている。南京虐殺で何人殺したという事より、具体的にわかっていることだ。それと中国人、朝鮮人を拉致したこと、日本人が労働力の不足を補うためにやったという事も、誰かの情報などと言うレベルのことではなくて歴史の事実ですね、これは。客観的に証明できることです。戦後になってからいろいろ訴訟もあったが誰も事実無根だとは言っていない。
青春に選択肢はなかった
旧制中学を出て高等学校に入学して、入学したが行っていない。それで間違いが起こって徴集令状(注:徴用令書)が来た。白紙の召集令状が来た。軍需工場で働けと、しかし間違いだった。うちの親父が過剰に反応して八方画策して、知り合いの又知り合いから来た話が、厚生公司の話だった。ここに入れば官費で勉強はできるし、国策にも沿うしと、いうことで厚生公司に入った。
厚生公司の我々の認識では、興亜院の流れで大東亜省のこぶ付きですからね、一番安全確実だった。学校は授業料払ってるから終戦後も復学できた。静岡高等学校ですが。旧制なので現在の静岡大学だ。
聞き手:ご自分の青春への夢はなかったですか?
当時は男は陸士海兵に入らないと。いろいろあったかもしれないなあ。でも私は生薬の勉強が大好きで。生薬学というのは、漢方薬の原料。それにアヘン、ケシ等を入れる、それが性に合っているかというか、それが勉強できたという事が大変良かった。もう少しやりたかったが、私の先生が陸軍から飛行機を回してもらい大東亜の生薬事情を調べることになって、昭和18年6月にその先生のかばん持ちで行くことになっていた。満州から南方まで飛行機で行く予定があった。ところが間際になってから、参謀部の将校が乗っていくからという事で、私は飛行機に乗れなかった。それで私は船で行き、互いに海南島で落ち合うことになった。当時は飛行機も危なかったが船はもっと危なかった、生きて着いただけでよかった。それから軍隊だ。
聞き手:戦時下ですが、押さえつけられたものがあるんじゃないですか? こうしたかった、ああしたかった。不自由さは感じなかったか?)
あの当時、我々は国粋教育しか受けてませんから、あまり他のことは考えなかった。弟は予科練に行ったんですよ。鳥羽の飛行場にいた時に空襲でやられて、破片で神経をやられた。その時は何ともなかったらしいんだけど、段々目が悪くなって、3年ぐらいで完全に目が見えなくなった。そういう戦傷者は当時日本国中にごまんといた。ケアする施設としては国立では世田谷の光明寮というのしかなかった。そこへ入れるために親爺がえらく苦労した。弟はそれで鍼灸師の免許もとって、安全無事な生活が出来るようになりましたけどね。まだ特攻隊に行かねばならないというところまではいってなかった。
あの当時、日本には手術するときの麻酔剤としての麻薬がなかった。ドイツから来ていた。そのためケシ栽培を国策として推進していた。二反長音蔵という和歌山の人が一貫種という、一反で一貫目のケシが採れるケシを開発した。間もなく三貫種という品種も開発した。それが満洲熱河省でできた、ユウコウロという難しい名の優秀なケシの種を改良して三貫種を作ったらしい。厚生省としてはそれで日本国中でアヘンを沢山採って、麻薬というかモルヒネを作ろうとした。そういう時代だった。
聞き手:戦時下に対してあまり不満は感じなかったか?
そんなこともなかったでしょうね。だけど他の選択肢というのがなかったんですかねー。なかったと思いますよ。軍隊に入るか、陸士海兵、あの時はそうでしたね。高等学校に行くはっきりした目的がなかった、そんなのんびりしてられる状況にはなかった。昭和17年ですからね。海南島の生活は王様の暮らしだった。一個中隊の護衛兵がついて、という暮らしでした。
体験記録
- 取材日 2006年4月22日(miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
- 地図 ───
- 年表 ───
戦場体験放映保存の会 事務局
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