鷲見 米二さん

生年月日 | 1924(大正13)年11月19日生まれ |
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本籍地(当時) | 岐阜県県 |
所属 | 陸軍 |
所属部隊 | 陸軍中部第4部隊(岐阜歩兵第68連隊補充隊)→東海第26部隊機関銃中隊(鈴木隊) |
兵科 | |
最終階級 |
プロフィール
岐阜県蛭川村出身(現・岐阜県中津川市)
1924(大正13)年11月19日生まれ(取材、2023年10月)
海軍軍属で幌筵島(カムチャッカ半島南)にて、飛行場建設に従事
1944(昭和19)年9月1日 現役兵として陸軍中部第4部隊(岐阜歩兵第68連隊補充隊)
1945(昭和20)年4月 東海第26部隊機関銃中隊(鈴木隊)に転属
インタビュー記録
甲種合格
聞き手:米二さん、お話し聞かせてください。何年生まれですか?
大正13年11月19日。
聞き手:ご出身は?
蛭川村。(岐阜県恵那郡蛭川村、現・中津川市)
聞き手:ご兄弟は?
兄弟8人。男の人が3人。女の人5人。
聞き手:徴兵検査は蛭川でやった?甲種合格だったんですね?
うん。
聞き手:その時の話し覚えていることはありますか?
あの時にゃあ(東海地方の方言)、甲種ならどえらい、えばったものだわ。第1乙種だとか丙種やとかどこか悪いと、兵隊へ行くだけの体力がなきぇな丙種や。
聞き手:検査の結果はすぐ出るんですか?
そうそう、その場で
聞き手:そのあと連絡はなかったの?
入営はあの何に役場の方に・・・
軍属として舞鶴、大湊、幌筵島へ
聞き手:最初は軍属だったんですね。役場から出頭せよと、紙をもらいに行ったんですか?
いや持って来てくれた。
聞き手:それに1943年の3月25日に岐阜駅前に集合と書いてあったんですか?
そうそう、
聞き手:その時、持って行った荷物は何かありますか?
いや、何もない、着の身着のまま。そのまま岐阜で集合して、すぐに舞鶴へいった。
聞き手:その時にどんなものを支給されたんですか?
着るものもこれも。そりゃ、兵隊の服装やはな(岐阜・東農地方の方言)軍属だから
聞き手:兵隊さんと同じなんですか、そこには何日ぐらいいたんです。
そこにはたんと(たくさん)おらなんだで。これを幌筵へいくやつが、あっちはまんだ第二次の奴らとか、北方のほうが欲しかったん、従業員が
聞き手:それからじゃあ北陸線でどこまで行ったんですか?
北海道(?)
聞き手:大湊じゃないの?
大湊の軍港で働いた
聞き手:このあいだ聞いたのは、大湊に行ったら1週間ぐらい船の中で留めおかれて?
そうそう
聞き手:その後出発できないから降ろされて工場で働いた?
そこよ
聞き手:工場は何の工場かね?
工場は海軍の工場。海軍の仕事やったで。片づけやら。仕事あって、ないようなもんでゆっくりだった。行き先が途切れちゃったもんで。そういっとて、こんどは幌筵の方で飛行場はよやらな、そこへ
聞き手:じゃあアッツ島の玉砕が終わってから出発したんかねえ?
そりゃそうや。あのなに~舞鶴から向こうへ行きよる時、ちょとアッツ島が玉砕されかけたっていう話になった。そうゆうふうになったと思うよ。
幌筵島での滑走路づくりと生活
聞き手:幌筵ではどんなことをしてました?
昼中、海の中にトロッコを引いて、トロッコを引き潮のうちに石を積んで。それからダーとあげてきて、あっちは土地は沼地のような、沼地みたいな所ばっかり。そこへ入れて電圧してよ。滑走路を作った、
聞き手:まず岩を置いて、
そうそう。うん。力かけて。
聞き手:何人ぐらいで働いたんですか?
ほんでも30人ぐらいいたで
聞き手:コンクリートなんてあるんですか?
あった
聞き手:最初着いたのは夏ぐらい着いたんかね?
夏やった、なに出るが舞鶴出るのが3月末やでよ。
聞き手:幌筵ではどんなもの食べた?
食べるものはいいものがあった。なんでも喰うものはいいものがあった。米も向ういっとった。
聞き手:野菜はなかったでしょう?
野菜もほんでもあった。魚は豊富で。幌筵はよー川が、広い河があって、水があって、流れて8月頃になるとシャケが卵を産みに上がってくる。ほいで番線を曲げちゃ、ひかけて(とって、腹から)スズコを出して。それは美味いもあったなあっちには。他の食べる魚そりゃ何も食ったとは言えんけど。まずほら土地でとれたもの。
聞き手:釣りとかもしたんですか?
せやできたけど、船の中でよう、ちょっと俺なんか暇がある時、あの針の、釘の曲げたやつにひぼ(紐)つけて、やって石をつけてバーっとほかり込んで、ずんずん、ずんずんと引いてきよると、何が来るってあの魚のカレイがビョチャビィチャて先に(釣り糸に)。
聞き手:新鮮だから刺身で食べれるね。料理は誰がしたん?
料理はそりゃ船の中はな。何がおるもんで炊事が
幌筵島への米軍の攻撃
聞き手:アメリカは来た?工事してるときには
あ~アメリカはこん(来ない)、アメリカは艦砲射撃打ってくるだけ
聞き手:大きな戦艦が来てたんだね?
艦砲射撃は晩や(夜)でわからん。くろう(暗く)なると、どかーん、どかーんと。聞き手:昼間は攻撃がないの?そんな近いところから打ってこーせん(こない)。そりゃあんなものは今、北朝鮮でもアメリカへ打てるぐらいの、遠くから打ってくる。確かに近所に来てるんやけど。
聞き手:日本軍は守備はないの?
日本軍はとにかく穴に行って入れと。何もあらへんもんで、とんで伏せて、えらいこっちゃと。
聞き手:穴は何? 蛸壺?
いやあ、弾が落ちたところ。同じところに二発とこんて。
聞き手:いつ帰って来たんだっけ?幌筵から出るのは何で出たの?飛行場が完成したの?
なんか知らんけど、飛行場はまんだまんだ(方言;まだ)完成せんけど。兵隊の関係か知らんけど~とにかく家へ来て、初めて一夜さ寝て。(故郷へ帰ってきた時の話)
聞き手:輸送船三隻でみんなでのって帰ってきたんだよね。これ幌筵からみんな帰って来たんだよね。舞鶴へ、その時の話を?
別に向こうから三隻乗って、できて船団引っ付いてきへんでね、バラバラでくるでね。向こうの方のなにを1隻が来よる、こっちから1隻くる、そんなふうだもんで。
聞き手:米二さんの乗った船の名前は?
「粟田丸」
聞き手:沈んだ船があるんだよね。その名前はわからん? 舞鶴にまずに帰ってきた時に二隻しかなかったの?
ほりゃあ、途中でやられたってのわかったで。やられたぞって(録画されていない以前のお話:知り合いの市内坂下町から来ていた黒柳としおさんが沈没した船に乗っていた)
入営前1日だけの帰郷
聞き手:幌筵に1年ぐらいいたのかね?
ふん、1年もいた。
聞き手:44年の夏に帰ってきてすぐ召集、入営。
ほお
聞き手:どうでした?その時どう思いました?
どう思うたって、あんときにゃ(当時)ひと夜さ寝たの、オヤジさんが抱いて寝てくだされた。(一晩だけ家に泊まり入営)
聞き手:親父さん抱いてくれて、どう思ったね?
そりゃあ。親に抱かれて寝るなんて、嬉しかったさ。おそらく親父さんも今度は帰って来れまいと思っておられたに。(涙ぐんで、感慨深げ)
聞き手:帰ってこれてよかったね。
こんなに長生きしちゃて(笑)
聞き手: 親父さんはいくつまで生きておられた
83。。
聞き手:お兄さんたちも生きて帰ってこられた。お兄さん達の戦地は?
あれは、中国。2人とも中国。
軍隊手帳の記録
(米二さん軍隊手帳を出して読み始める)
聞き手:それが軍隊手帳ですか?
軍隊手帳、そうや、(軍隊手帳を読んでいる)二等兵、歩兵、中部・・・(以下読み間違いもあるが軍隊手帳記述より転記)昭和19年9月1日現役に編入、昭和19年9月1日現役兵として中部第4部隊に入営、同日さたけ隊に編入、同日二等兵。昭和20年3月1日一等兵。。昭和20年2月28日軍令陸甲第34号に依り東海第26部隊臨時動員(中部第4部隊復員)下令、4月1日編成(復員)着手、4月2日東海第26部隊に転属、同日鈴木隊に編入、4月6日動員(復員)完結。徴兵検査は書いてあったか?書いてないか、あれは俺はそこでやっとるでよ。徴兵検査は19年の9月1日前に入営やもんで、1年前やもんで18年9月1日
聞き手:幌筵に行ってるでしょ、あっちでやった?
そうそう、あっちでやった。それで帰って来た。
聞き手:話違うけど~お兄さんは?
兄貴は上海で、敵前上陸で負傷して、すぐに帰って来た。もう一人の兄さんは終戦までいて、満州いっとって、何に連れていかれて、ロシアへ連れて行かれて一年後に帰ってきただ
聞き手:抑留されたんだね?
俺は終戦のその日に帰ってきた。俺はそこ(稲沢)におったもんで。
聞き手:9月1日に入営して。それは名古屋ね、岐阜?
俺は岐阜
聞き手:訓練はどのぐらいしたの?初年兵の訓練は。
訓練は4部隊よ。1年や。1期の検査(検閲)が済んで、そのうちに汽車に乗ったり、いろいろと
聞き手:入営してから訓練があるの?
入営すると一期二期三期と訓練がある。
聞き手:実戦は? 1期は?
1期は三か月。1期済むと一等兵になる。
聞き手:じゃあ1期うけて、東海道本線に乗って静岡の方に行ったんだよね?
そうそう。なんてゆう部隊だったかな名前だかな、軍隊手帳に書いてあるはな。機関銃中隊第3機関銃中隊、鈴木隊、
聞き手:これによると昭和の17年の3月10日から舞鶴の施設部において土工に従事
それは幌筵いっとる時、舞鶴からいっとるから
聞き手:3月25日に岐阜の駅に集まれというのは?
3月25日陸軍記念日やな、その日やわ、
聞き手:10日と書いてある
10日、そいつがほんとや、
聞き手:身体の徴兵検査は岐阜でやった幌筵に行く前にやった?
鷲見さん:徴兵検査、そりゃ行く前じゃぞ、徴兵検査と書いてないか?甲種合格と書いてないか?
聞き手:軍隊手帳を探す、これか甲種合格とは書いてないな~
(徴兵検査をどこで受けたかが不明、ご本人は出身の蛭川村と言われるが)
聞き手:玉音放送はどこで聞きましたか?
玉音放送は、おらー汽車の中でなにで、あの岐阜の向こうの駅や、なんとゆうとこだった、大垣ではない、ほならこっちは、稲沢(愛知県)の駅、稲沢で寝起きしておった、稲沢の隣にでかいお寺があったわ、そこで寝起きをしとったわ。
聞き手:もう翌日には解散だったの?
その晩帰って来た、「着の身着のまま持って、一時帰っとりなさい」とと言われ、その日に解散になった。
聞き手:お米はどこでもらったの?
お米は部隊でもらった。鈴木部隊、機関銃中隊、鈴木隊といった。
聞き手:東海第26部隊臨時動員~(軍隊手帳を読んでる)これには徴兵検査のことは書いてないね?(聞き手が軍隊手帳を読んで確認している)
入営した時からしか書いてない。
聞き手:舞鶴の施設部に行ってるのは書いてあるね、幌筵?
幌筵からかいてあるか? 舞鶴管轄やで。
幌筵島の宿舎、シラミ
聞き手:土木に従事と書いてある。幌筵はどんなところに住んでいました?
部隊はよ、各班ごとにこうゆうあの4mの4m。4mから10mくらいの穴を掘って屋根だけ、こう。(屋根は)トタン、あっちは沼地やでよ、おら水をどうやって上げたか、そこを見なんだ。水は溜まっとらなんだ。
聞き手:何人ぐらいいたんですか?
その時は35.36人くらいやったな。飛行場の滑走路やな。滑走路といってもこんな石を一つもっていっても、どんどん、下の方におりてっちゃうわな、下は沼だやで何でも何でも持ってきちゃ上げて、飛行機がだーと下りても、くるわんように、コンクリして
聞き手:その岩はどうやって調達したの?
みんな海の底から持ってきて、夜が明けるとトロッコをよ、海のずっと沖の方へ押してっといて、明るいうちに積んどいて、そうやっておいて、暗うなりかけるとそいつみんな持ってきて、みんな並べて、なあどんどんどん打ち込んで並べて、そんでまた持ってて、また明るいうちに載せて、そんなことを繰り返しとったわ。
聞き手:幌筵は冬は寒かった?
寒い、こんな陽の当たる日はなかった、みんなほんで、けさめ(雨)みたいな日ばかり、背中に「シラミ」がぞぞぞぞぞ~ととんでくやつがようわかったよ。
聞き手:着る物は寒かったでしょ?
寒いというかよ、そんなあのもっとも寒い所だけど、寒いということ感じんでよ、ケチな汗が出てよ、ぎゃーて、感じやった。
機関銃中隊での勤務
聞き手:米二さんが機関銃中隊、はどこまで行ったんですか?
機関銃中隊は部隊やで瑞浪(中央線)から静岡から、東海道線をこう走っとった無蓋車で屋根のない汽車に一番前に、アメリカは1回来た、終戦の当日に来たわ、だっだっだーと撃ってったわ。よう当たらなんだなーなんて言っとったなあ、豆を積んどった、そこから黒い煙がぼーぼーと出よった。弾の当たったとこ。
聞き手:静岡の五島村(現浜松市中央区)にも機関銃撃ちに行ったんですか?
それは撃つというより部落がトーチカ作るやろ、そのトーチカに機関銃据える銃座、角度をみる。
聞き手:じゃあ日帰り?
うん、それはだからその日帰りやっとかかれへんで。ずーっと、周ってほうぼう、
聞き手:じゃあ寝泊りしてるのは稲沢なの?
そこまで五島村も寺だで、泊まってきた五島村も寺やった、明日の朝から、そこから出て、泊まっとっちゃ、またそっち行って。
敗戦翌日の帰郷
聞き手:また終戦のときの話をもう1回聞かせてください
終戦になったときは昼ちょと前やったわ、岐阜の部隊、稲沢の駅入ろうと思ったら、警戒警報が発令されて、今度は来るかもしれんぞといったら、すぐに艦載機がパタパタあって、汽車に沿って、撃ってったわ。その時は攻撃で火は付かなんだけどよ、豆が焦げた。そんで終戦になっちゃったわな。ほいで部隊の方からまあ終戦の何があったもんで、着の身着のままうちに帰っておりなさい。ほんですぐそばだもんで、この軍足に米を一杯づつもらって、軍足は結構入るぞな。恵那で勤めていた山仕事の三宅と言う家やったは、そこ寄って「帰って来たわ」って米をやったら喜ばれたわ。(大雨でトタン屋根を打つ雨の音がひどく聞こえない)
それを父も百姓でも米あらへん、みんな出しちゃって。本当に百姓やっとっても米はなかったで。一番、米の味ないて、味ない米を、あれ豆やったかなあ、豆を・・・った米、雑炊炊いてよ、あるもんなんも飯の中に入れて量を増やして(喰った)
その晩は、昼を恵那について、昼中は「行く時に死んで帰ります」言って、出って(出兵)昼中逃げて帰ってきたわけ。晩になってから。それはそれで、兵隊の靴やで草むらを歩いてきた。俺の兄さんの奥さんの家はそこやもんで、そこへ来よったらおとうが「うささ、うささ(名前を呼んでると思われる)外泊かい?」って言われた。あんなたるいことはなかった。(たぶん恥ずかしいような)
聞き手:お家にすぐ入れなかったの?
うちは入れなかったんだね。しばらく経ったら、うちの衆が見つけて出てきてくれて、その夜明け、親父さんが警察に相談せんかて、いかにも早いで、逃亡してきたでないかって(笑)
聞き手:それはすぐ解決しました?
うん、そんな早いこと、おらがぐらいだで、そんな早く村に帰ってくるのいないで。
聞き手:どんな気持ちでした?
帰ってきてもしばらくは家出れらんだなあ。生きて帰ってくるなんて思ってもおらなんだで。白木の箱になって帰ってくるって勢いつけていった。生きて帰って、逃げてきたって(言われていた)(笑)
聞き手:でもお父様も帰ってきて喜ばれたでしょ
あー喜ばれた。
聞き手:そのときお兄様もいたんですか?
おらんおらん。(いない)
戦争の話をしながらの山仕事
聞き手:その後はどうでした?
それからうちでまあ俺は、山仕事をしとったもんで、兄貴と一緒に。兄貴んちは来とったけど、二番目の兄貴は来とらなんだ、兄貴と山をやって。ついて山仕事した。
聞き手:上のお兄さんがケガしたんだっけ?
あれはよ、行く時に敵前上陸で負傷して、そして帰ってきた
聞き手:お怪我はよかったんですか?お兄さんの怪我、早く治ったん?
うん、ほんでも傷痍軍人やった。傷痍軍人で。
聞き手:山仕事は出来たんだ?
出来た
聞き手:山仕事はどんなことをしたんですか?
伐採や、倒して4mに切って、出して、昼は山仕事やったで、
聞き手:お兄さんから戦地の話は聞いた?
ほら、まあ山行って、みんなで道具を研いだり、火焚いたり、飯食ったり、その時にはそんな話ばっかりや
聞き手:どんなの覚えてる?
それは「シナ人」が、中国行った時はどうやったとか、こうやったとか話ばかり。
聞き手:下のお兄さんがシベリアから帰ってきてから話はした?
うん、したした、あれは一年後やでな、一年経ってから帰ってきたもんで、あれんたらは難儀してきたわ。そりゃ、山仕事したら、飯を食っとると時と道具研ぐときは、兵隊から帰って人ばかりだもんで、そりゃ話しやろ。
聞き手:戦友会はあったの?
その衆はまあ無いな。ほんでもよ、ここ2年ぐらい前までは、慰霊碑が祀ってあって、9月15日か?、8月15日だ、そりゃー寄って参っとった。ここ2、3年何の病気(コロナ)が流行ってきてあれからない。
聞き手:あの温泉の林さんは同じ部隊ではないんだよね?
彼は一年後、あれは、違う。まあ一応は岐阜は、この近所は岐阜部隊、召集されて入るけど、みんな部隊要員でよそ行っちゃう。ただここで召集して、入ったというだけで。
聞き手:そうだよね。上のお兄さんは何年ぐらいに行ったの? 上海にいつ行ったの?
あれは早かったで、現役で早かったで。「シナ」(日中戦争)が始まると同時ぐらい。
軍隊は殴られるところ
聞き手:軍隊の食べ物はどうでした?
食べ物はあっち行った時は良かったよ。魚は何でもあったしよう。
聞き手:それは幌筵やろ
岐阜の部隊はよー。月曜日は何、火曜日は何、水曜日は何、決まっとったわ。そりゃ。いま現在食べる物より、・・・良かったよ。うまいもの食っとらん、全く。で痩せちゃう。
聞き手:軍隊の練習とかは厳しかった?
別に厳しいってことはないけど、シャンシャンやってきゃ、厳しいことはないけど。何ていいな、その、とにかく殴られたわ。(笑)覚えがないけど、なんでこんなに殴られるかな。
聞き手:誰が殴るの?
古い兵隊。で1期の検閲済んで初年兵が入った。俺は今度は殴ってやろうって、そしたら私的制裁の撲滅って言って、初年兵は初年兵で別の部屋に入れちゃった。殴ってやるような恩は返せなんだ。(笑)
聞き手:古い兵隊というと殴る人は何年ぐらい軍隊にいる人ですか?
古けりゃいい、一年1期でもいい、先輩なら。入ると初年兵、古兵、初年兵、古兵とあの部屋の周りに寝てここには古い兵隊と初年兵のあの襦袢やとか服たたんで、頭のとこにちゃーっと並べて。「なんやこの並べわ、この並び方は誰や」竹刀をもってきてはたき落としといて、「ちゃ、ちゃ」とたたかれよったわ。
聞き手:米二さんが殴ることはできんかった?
殴ることができなかったんだで、殴られたぞんやわ。
聞き手:配給された鉄砲を撃つことはあったの?
演習でうったぐらいで、鉄砲でなくて機関銃やはな。演習で撃ったことある、実戦じゃないわな。鉄砲撃ったことはない、そや戦闘に入ったことはないもんで。
聞き手:1年足らずで終わった?軍隊で思い出すことある?
まあ、思い出すことは、軍隊という所は殴られるところやったと思うぐらいで。
聞き手:どのくらいの人数で動くの?汽車に乗って動く人数?
6人 鈴木隊。
聞き手:それはずーっと変わらないの?
そやまず変わらん、また他所にどこか変わっていくと編入されてそっちへ。
体験記録
- 取材日 2006年 月 日(miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
戦場体験放映保存の会 事務局
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