当真 久子さん

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当真 久子さん

生年月日1925(大正14)年6月5日生
本籍地(当時)沖縄
所属
所属部隊沖縄陸軍病院へ学徒動員、第二外科で看護業務
兵科
最終階級 

インタビュー記録

はじめに

 慰霊祭に行かなかった理由は、越来(ごえく)(中学)にいるとき私のあとをついだ美里中学(沖縄市)なかそねみつ先生、私の先輩(私が1年の時の5年生)が私のあとを継いだが、私は社会教育、特殊教育という特別なものを持っていましたので、ずっと11か年美里(中学)にいました。校長が「あんた跡継ぎを作らないとここから出さないよ」と言われました。そのときひめゆりの塔の修理のために3000円(3ドル?越来に来てから(復帰してから)だから3000円です。)ずつ集めなさいと言われ、集めているときなかそねみつ先生は特殊学級の生徒を連れ「こどもの国」(沖縄市)(固有名詞なので、「こどもの国」のようです)のプールに行ったというんです。そのときに私が行ったらちょうど6/22に黒装束のおばあさんたちが杖をついて慰霊碑に行くのを見たんです。私は涙が出て出て(顔を覆う)、こどもの国からうちまで歩いてきました。それから慰霊祭には行かなくなった。もし自分の子供が元気でいるなら大きくなって孫も見ていただろうにと思わない人はいませんよね。それを思うと[慰霊祭に]どうしても行けなかった。

●おいたち

聞き手(どういう経緯でひめゆり部隊に入ったか)

 私は寮にいた。名前は金城久(きんじょうひさ)。 「久子」にしたのは、中学のときヒサシと呼ばれて男に間違われるので「子」を入れました。現在はヒサコといっています。

聞き手(結婚し当真久子となった)

 大正14(1925)年6月5日、ペルー生まれ。今でいう3歳のとき父母に連れられ日本に来た。父の仕事の関係なのかは覚えてない。父は38歳で(私が5歳の時)亡くなったが、おもかげや叱られたこと、褒められたことは覚えています。きょうだい女ばかり3名で私は次女です。長女は去年91歳で亡くなった。母方はみな長命で97は過ぎているが、母だけは戦後すぐ53歳で亡くなりました。

聞き手(97歳は沖縄ではカジマヤーという大きなお祝いをするんです。)

聞き手(3人の子供を抱えてお母さまは・・)

 喜如嘉(きじょか、大宜味村)では芭蕉布というのがあります。月に芭蕉布を一反やれば月に20円になる。母はそれを私の学資にした。

聞き手(織物の特技をお持ちだったから子供を育てることができたのですね。3歳で帰国というのは沖縄にですか?それは父か母の故郷が沖縄だから?)

そうです。

聞き手(学費というのは尋常小学校の?)

尋常小学校からすぐ師範を受験、高等2年(今の中学2年)で受験したらいっぺんで通ったんです。

聞き手(飛び級ですか)

聞き手(普通なら一高女とか二高女行ってから師範。)

とみちゃんは一高女から二部。私はすぐ師範

聞き手(中学からすぐ師範に入れたのだから飛び級です。)

(注:師範一部は尋常高等小学校卒業で入学。高等女学校卒業からは師範二部。次第に二部が主流になっていったが、当麻さんは一部で、飛び級ではない)

●ひめゆり部隊入隊の経緯

 師範学校昭和20年卒、昭和19年(※昭和20年の間違い)の3/23に、ひめゆり部隊に入った。卒業を前にして、自分の教えた生徒が合格饅頭を持ってきてそれを友達と壕の中で食べました。20年の3/23に、ひめゆり部隊に入った。卒業と同時に寮の人は全部ひめゆり部隊に入ったんです。入るには印鑑が必要だから親元に戻って印鑑をもらってきなさいと言われましたが、自分は金城の印鑑を持っていたので自分で押してすぐ入隊しました。母には話してなかった。

聞き手(その時の気持ちは使命感に燃えて?)

 そうです。母の姉妹は7名でいちばんうえの姉さんは10名子供がいて、うち5名は男子だが一人も徴兵検査に合格してなくて嘆いていたのを小さい時から聞いていたので、「よし、今度こそ私は戦争に行って手柄を立てて、母を安心させよう」という気持ちがあった。

聞き手(まじめな軍国少女)

兵隊に行くのがとてもうらやましいくらいだった。

聞き手(いとこがふがいなかったのですね)

 みな背が低いせいで落ちた。一人は婿養子になり、乙種[合格]で、母、叔父叔母みな宮崎に行って、兵隊に行くのを見送った。それを見聞きしていたので「よおし、女でも戦争に行ってやろう」という気持ちがありました。

聞き手(ひめゆりに入隊できるなら、なにがなんでも印鑑を偽造してまで行きたかったのですね)

 師範学校を受験した時、戦争に行った看護婦の少女小説『天使の翼』とか読んでいましたので、師範受験したがこれでは合格できないと思い、すぐ県病院赤十字看護婦の試験を受けたんですよ、それくらい兵隊にあこがれていた。

聞き手(女性が入隊するとしたら看護婦で入隊。赤紙でとられるのも看護婦ですね) 

ひめゆり部隊に入隊すると軍属です。

聞き手(入隊検査はなく、親が同意すれば入隊できた。反対するわけはないと思ったので印鑑を押して、通ったときの気持ちは)

嬉しかった。戦争に行けるんだ、兵隊と同じだという気持ちがあってね。

聞き手(一人前と認められた、それともお国のために働けるという気持ち?)

お国のために働けるのだという気持ち。

●1945年3月23日 米軍上陸前空襲を受ける

聞き手(20年3月23日といえば、沖縄ではすでに大変な状況で、死ぬかもしれないのに、それでもうれしかった?)

 私はその時は自分の部屋から洗面に行ったら皆逃げていなくなっていた。一人だけあさとかずこだけ残っていて「ひさちゃん、早く早く、空襲だよ空襲だよ」というから「へえ」と思って、[あさとさんは]体が大きいから二人分のリュックサックを持って外に出たとたん敵機がやってきたので、寄宿舎から出てすぐの仮の防空壕(運動場の周りを掘ってありましたから)にはいったんですよ。そうしたら雨降りのあとで水がこんこん。我慢して入っていました。入っていたら軍の飯炊きのおばさんがいて「あんたがた、まだごはん食べてないでしょう、ひもじいでしょう」と言って、軍の飯炊き場は学校のプールの横にあったんですよ。そこから出たらローレライという壕があるんですよ、みなそこに逃げてるんですよ。でも私たちは仕方ないからすぐの壕に入ってしまった。

聞き手(いちばん近いところに)

 そうしたらお昼すぎに岸本(幸安?)先生が自転車で「生徒さんはいないか、逃げ遅れた生徒さんはいないか」と運動場を回っていらしたので、二人とも飛び出て「先生、先生」と言ったら、プールの周りに、あっちには耳、こっち側に手、こっち側に脚、という具合にそのおばさんがやられているんですよ。それ見たときにもうなんとも言えなかったですよ(顔を伏せる。)

聞き手(おふたりのために食事をとりに行った。二人がお腹が空いていると思って)

 あそこのおばさんはね、「おにぎり作ってくるから」と言われて、まさか飛行機が飛んでくると思いませんよ。お昼時間はだいたい飛行機は飛ばないから、このおばさんもそう思って出たんでしょうね。

聞き手(すぐおにぎり作って戻れば大丈夫だと思ったのですね)

 そうでしょうね、そんなに遠くないから。そうしたらもう、こちらには耳、こっち側は手、こっちに脚というように、くっついているんですよ、プールの周りに。それを見て二人とも「早く行こう行こう」と言ってローレライの壕に走ったんです。そのあとはもう、西平(英夫)先生の命令に従って24日は寄宿に戻って食料を持って24日はみな壕を出たんです。

●3月24日 ローレライの壕から識名壕へ移動、南風原陸軍病院第二外科に配属

聞き手(そうすると、23日に入隊し、その日に空襲に遭ったのですか)

 そうです。24日は識名(しきな)の壕、軍の壕にいたんだけど、夜は食料をとって来なければならないから、寄宿にもどって、また夜担いで南風原まで歩きました。第一外科、第二外科、第三外科っていう風にして分れたんです。(野戦病院のようなもので、爆撃で血だらけの人を看護するのだから、外科がメインですよね)

そうです。

聞き手(第一外科、第二外科、第三外科というのは場所による分類か、それともやることが違うのか)

看護することは同じですけれど寄宿の部屋単位で分かれたんですね。

聞き手(どの科にいたかが、後々生き残れるかの分かれ目ですね。久子さんはどの外科に?)

 第二外科。第二外科はですね、引率は与那嶺(松助)先生、それからにしだ(内田文彦先生、あるいは西平英夫先生のことか)っていう担任の先生。この先生は私たちが真壁(まかべ)に行って、また第一外科、第二外科と壕が分かれたんですよ。第一外科はいまのひめゆりの塔のところ、第二外科は糸洲の壕に行ったんです。

●6月18日 糸洲の壕が「馬乗り」される

 6/18に糸洲の壕で私たちの壕は「馬乗り」されたんです。「馬乗り」って言うと、敵が壕の上に・・・(*馬乗り攻撃とは、壕の上に敵兵が陣取ること) その豪はですね、入り口がこう(すり鉢状に)あって、横に(放射線状に)壕があるんですね。私はそのとき18日に「馬乗り」されたことは知らない。「おかしいねー、きょうは飛行機飛ばないねー」とともだち(とよざと、とよちゃん。現なかださん)に言った。私は西平先生から、軍から8反、生徒に布が渡されたんです。その時に 「おい金城、お前は良く働いたから、この1反お前にあげようね」 と貰った。それが水色の裏地。馬乗りされたとき、とよちゃんに「死ぬときくらいはシラミのつかない、新しいモンペを着て死のうよ」ということで、ふたり壕の入り口でそれを縫ったんです。縫っているところ、そうしたら兵隊はあっとも言わずに二人とも死んでしまっているんです。馬乗りしているとき兵隊が入るのを見てやったんでしょうね。そして「パン」  「おかしいねえ、言葉が変だねえ」と、私英語はわからないから、兵隊が二人入って来るとき聞いたんですよ。「兵隊さん、今の声はアメリカですか、それとも兵隊ですか」そうしたら「防衛隊でしょう」、「避難民でしょう」と言うんです。どうも意味がわからない。私は小学校の時から方言は使っていないんです。ずっと標準語で話していましたので、ウチに来るまでも「この金城はヤマトンチューの家がやー?」と言われたくらい。方言もあまりわからなかったんです。「おかしいねー、今日は飛行機飛ばないねー」と言いながらモンペ縫ったんです。あれ[とよちゃん]は手が遅いから、私が「とよちゃん、私が縫ってやろう」と私が縫って「もうこれ着けて死のうねー」と言いながら、縫い終わったらパンパンと来たんです。そこに下級生、二期下の子供たち3名いたんです。壕に3名押し込んで、自分も入ったんだけど、この3名はいないんです。やられて。戦死してます。

聞き手(撃たれちゃったっていうことですか)

(首をかしげて)脚をやられたっていう話も聞いた。脚やられると歩けませんからね。

聞き手(押し込んだときはお元気だった?)

押し込んだときは元気です。入ろうとしたときやられたのか、それはわかりません。脚をやられたそうです。

聞き手(その時ではなく、後に亡くなった?)

そうです。

聞き手(「馬乗り」って言うのは、飛行機で飛ぶのではなく、歩きで兵隊が入って来るということ?)

壕の上に兵隊が入っているんです。

聞き手(アメリカ兵が?ということはもうそこまで来ていたということ?)

 そうです。もう4/1にはアメリカ兵が上陸していますからね。「馬乗り」されたのは6/18ですから。そこから2時ころ、この目(さがん)大尉(目源逸軍医大尉)というのは第二外科の隊長が「生徒さんは出ろ、武器もないから邪魔になる」と言われたのを聞いて与那嶺先生が「金城、ちょっと来てごらん」とおっしゃるから中に入っていったら、「あんたはどう思う?」

●夜中に壕を飛び出し、アダンのジャングルへ

 「先生ひとりに私たちこんなにたくさんのいのちは預けられません。私自分のいのちは自分で処理します」と言って、夜中の2時ころまっさきに飛び出ました。そのころは「馬乗り」してても兵隊は気づかない。あとから出た人たちはもう気づかれてバンバンやられた。

聞き手(女の子でも関係なく?)

 はい。私はもう、水が欲しかった。そして山城のところに湖みたいなんがあるんですよ、沼が。そこ行って水を飲みたいという気持ちで飛び出した。私たちのところのティーラ川というのは水がとってもきれいでとってもおいしい水なんです。それが欲しかった。

聞き手(死ぬかもしれないのは一緒だから水を飲みたい、と思った)

 同じ死ぬならその水を飲みたい、という気持ちで飛び出したら、かねもととよ(一緒にモンペを縫った私の友達)が出てこないから、また戻って手を引っ張ってまた出た。いちばん心に残っているのは、糸洲の部落を通ったら、もう火がぼうぼうと燃えている中から、おかあさんのおっぱいにすがって「あんまー、あんまー」と泣いている子供を見たときもう(突っ伏す)、そのことが頭を離れないんですよ。

 自分が生きるっている確信があればね、この子供を連れて行くんだけれどもそうでもない、死ぬか生きるかわからないところでこの子供を連れていったら、よけいかわいそうだねと思って、その子供を4、5歩くらい横に寄ったけれどもそのまま…

聞き手(守れる自信がなかった)

 そう。山城の部落につく手前に土手があって、その土手のところにまた仮壕があったんですよ。もう夜が明けるから、じゃあここに入ろうって、入ったら、南風原で看護した内科のきむらさんという兵隊がいるんです。「あ、きむらさん」。きむらさんが「水を汲んできてちょうだい」と。棒を持った兵隊かなにかが月影で壕の前に見える。「背が高いけど誰ですかねえ」「アメリカ兵だろ、鉄砲を持っているんだよ、サトウキビでないよ」 「でもねえ言葉がおかしいよ」「アメリカ兵じゃないの?鉄砲持ってるんじゃないの、サトウキビでないよ」と言って、二人はまた出て、かねもとさんと山城に土手を超えて行ったらそこはもう、排便がいっぱい。壕の裏だから出てやったんでしょうね、そこでかねもとさんが転んで(笑う)。仕方ないから、山城の沼のところでかねもとさんに「早く行ってここで洗いなさい」と言って私は近くで水を飲んだんです。それから戦車砲が始まって—

聞き手(さっきのきむらさんは一緒に行かなかった?)

行かなかった。どこでどう別れたかわかりませんけれど。

聞き手(とにかくお友達のとみさんと二人だけで飛び出た?)

 そしてとにかく山城の沼から上がったところで後ろを振り向いたら、第一外科の壕はやられているんですよ。第一外科の人は出ているんだけど、玉代勢(秀文)先生の部隊と第三外科は、入るの見てるんですよ、私は。そしたら上原(貴美子)婦長が看護婦さんにもたれて(両腕を預けて)やってくるのを見た、けれども白い煙がぼうぼうとやってるから、 そこで私たち二人と、おおわんけんと一緒になったんです。健、または「たけ」とも言います。女の子が5人生まれ、トメ、シメという姉さんたちもいるが、男の子が欲しいというので健という名前をつけた。けんちゃん、けんちゃんと言っている。

●国頭突破を決意 捕虜になれという日本兵の助言を拒否

そこで山城の海岸のアダンのジャングルに入ったらまたきむらさんと一緒になった。

聞き手(ではきむらさんはきむらさんで逃げた)

 そう。きむらさんが「あんたがたね、水を汲んできなさい。私はコメを持っているからご飯炊いてあげるよ」と言われて私たち3人鉄兜持って水を汲みにいくと、そこに兵隊がみんな死んでいるんです。水のあるところはバンバンやるんです、みな水汲みに行くから。私は水は汲んだけれど、高射砲にやられるから倒れては立ち、倒れては立ちするから、水はもうない。元のところに戻るときむらさんはいないんです。それからはもう、私たちはジャングルに3名入って、海岸の石の間からなんだか声が聞こえるから、私ちいさいから這って行って聞いたら、沖縄の兵長がいて「生徒さん、ニンニクがあるけど食べるか?」とおっしゃる。「私ひとりじゃありませんよ、3名いますよ」と言って3つ貰って、紙を巻いてそれに入れて「あんたたち、ニンニク食べなさい」と遣ったんです。兵長と話し、海から行って国頭を突破して歩いていく、そして国頭にはアメリカ兵はいないから大丈夫とおっしゃるんです。「私は国頭の者ですからわかります」と言って兵長と話をして、3名で入ることになったんです。「今晩は国頭を突破するからその用意しておきなさいよ」と二人に言ったら、同級生や下級生が海から行くんですね。それで一緒に出ようとしたら、私ジャングルの中で戦車砲にやられて足が痛くて、50メートルくらい行ったらどうしても歩けないから、「とよちゃん、けんちゃん、悪いけれどみんなと一緒に行きなさい。私足が沁みて痛いし、熱もあるから、上に上がる。私置いてあんたがたは一緒にいきなさい」と言ったけど、「あんた独り置いていけない」というから3人で岸壁の上に上がったんです。上がったらまたきむらさんがいるんですよ。このひとたちは「敵中突破」すると言うんですよ。「敵中突破」というのは、日本兵と米兵が戦う中を通っていくということ。そして私は、「私たちも3名一緒にしてください」と言ったら、「悪いこと言わないから、生徒さんは向こうに行って捕虜になりなさい」と言うんですよ。捕虜がみな通って行くのが浜辺から見えるんですよ。

 「だけどどうしてですか。生死を共にした仲間じゃないですか。どうして私たちだけ捕虜になりなさいと言うんですか。もし途中で弾に当たってやられた場合は、すぐ(手を縦に首筋に当てて)やってください、日本刀で」と言って、私たちは一緒に行くことになったんです。

●海に飛び込み捕虜に

 行こうとしてるところにまた戦車砲がバンバンバンバン来たもんだから、3名とも海に飛び込んだんです。飛び込んだらつかまってしまったんです。兵隊が岸壁に隠れて見張っていたんでしょうね。

聞き手(どのくらいの高さから飛び込んだのですか)

10メートル。多分それくらいあっただろうと思う。

聞き手(なぜきむらさんは「捕虜になれ」と言ったのでしょう)

敵は一般人は殺さないから、言うとおりにしなさいと。

聞き手(きむらさんは軍医?)

上等兵。内科の患者だったんです。私たちの壕近くに内科の小さい壕があって、私はよくご飯持ってあげたりしよったんです。

聞き手(傷病兵だったのですね。殺されないから捕虜になりなさいと。でも嫌だったのですね)

嫌でした、ほんとに。生死を共にしてきた仲間じゃないですか、一緒に連れて行ってください、と。

聞き手(そこをもう少し詳しく。それはひめゆり部隊入隊の経緯からすると、仲間意識というより、久子さん自身兵士と同じ気持ちだったのでは?)

 そうなんですね。兵隊と同じ気持ち。なんで今頃になって捕虜になれって言うんですか、生死を共にしてきた仲間じゃないですか、と強く出たんですね。もし途中でやられたらこれ(手を首に当てて斬る)やってくださいね、と。この上等兵は日本刀持っていましたからね。そして飛び込んだところが戦車砲がバンバンバンバンやられたもんだから、時計もリュックサックも全部投げ捨てて。とっさに。3名ともね。みんな元気でいますよ。

聞き手(とよさんとけんさんは、久子さんが司令塔のようにああしようこうしようと言ったから、助かった感じですね)

 さあそれはどうでしょう。とにかく3名飛び込んだら3名とも捕まってしまった。私は足が痛いから、捕まったから仕方ないから言うとおりに海岸の崖を歩いていたら、もう足が痛くて。(両手を喉元に押し上げて)鉄砲(の銃剣)を喉に突き刺して、自決している兵隊がいたんですよ。崖にもたれて。仕方がないから、その軍靴を「兵隊さんごめんね、貸してくださいねー」と言ってそれを外して、履いて歩いたです。

聞き手(それまで裸足?)

裸足。山城の海岸は棘でしょう。皆裸足。靴履いていた者もみなぼろぼろになって皆捨てた。

●伊良波の捕虜収容所で

聞き手(海に飛び込んで、ぷかぷかしているところを見つかったのですか。何か言われました?)

「出てこい、出てこい(日本語)」は聞こえたです。米兵は鉄砲を肩に担いでいたが、突きつけられることはなかった。

 糸満の伊良波(いらは、正確には現豊見城市)という部落、避難民を集めていたところに連れられて行って、二人は疲れてるからぐーすか寝るんですが、私は熱があるし足が痛いし眠れないから「とみちゃん、けんちゃん、起きなさい。今死なないともう死ぬ場所がないよ」

聞き手(収容所で死のうと思ったのですか)

 そうなんです。「どうして[どうやって]死ぬの?」と二人がいうから「どんなして死ぬのかわからないから何とかして死ぬことを考えよう」と言っても、もう疲れているから起きないんですよ。

 アメリカ兵が“Stand up”と言ったから立つと、缶詰くれるんですよ。これ毒が入っているかもしれないから(笑い)3人とも食べずに持っていて、言われるままに歩いて行ったらトラックが止まっていて、乗りなさいと言うんです。そこで金城さいねいさん(中央病院の婦長)という寄宿の看護師さんが「ひささん、おいで、おいで。3名おいで。向こうに連れられて行ったらじゅりぐあ預けされるよ、乗っていくなよ」と言うんです。

(同席者:じゅりぐあは女郎)

 「じゃあ姉さん、どうしたらいいの?」「おいで、私が『看護婦だった』と言うから」ということで、私たちは2週間こっち(アメリカ)の看護婦しました。2週間後みな引き上げる時にはトラックに載せられた。

聞き手(アメリカ人の傷の手当をしたのですか)

 アメリカの看護婦ではあるけれども看護したのは日本の人。そこで桐原婦長(内地のひと)が「私手榴弾一つ持っているから一緒に行こう」と言って一緒に来たところがまえはらです。トラックでまえはらまで乗ってきました。桐原婦長は隠しておいて、「婦長さん、いざというとき私たちは一緒だよ」、と言って毎日食事は運んであげた。だけど桐原婦長は帰られたはず。伊良波(いらは)の部落でいっぺん青酸カリを飲んで吐き出したことがあるんです。桐原婦長は隣部落に預けた。捕虜の管理は戦後はあまり厳しくなかった。監視はしてなかったと思う。

 糸洲の壕から出て3、4日さまよった。海から歩いていく同級生、下級生をたくさん見たが、見ているけれどひとりも助からなかった。引き潮だったから沖にさらわれたか、敵艦がずうっとまわっていたから敵にやられたか、どっちかわかりません。捕虜になったのは6/23か24ころでしょうね。

聞き手(いちばん激戦のときですね)

(遡って)アダンのジャングルで

 もうすごかったですもん、ジャングルの中に戦車砲。もう逃げても逃げられない。じいっと岩の影に座っていましたよ。横になっていたおばあさんがいたんです。破片でやられたのか、ウジ虫がいっぱいくっついている。夜になると嫁さんがご飯持ってきよったです。そのおばあさんの横にいて、夜になると岩からちょんちょん垂れる「水」を(手ですくう)飲んだが、翌日3人とも口が真っ赤。血を飲んでいるんですよ。夜だからわからないから。

 戦後サナダムシみたいなものが鼻から出ました。今は、捕虜になるまでの道順を言っただけで、枝葉を考えると一日では言えないですね。

聞き手(ジャングルは隠れるところがないのですか?)

 アダンがあって、岩があって、岩の間に壕みたいな自然の洞窟があるんです。一人が入れるくらい。話はできるが3名とも穴は別々。食べるものはない。水だけ。南風原のときは飯上げがあって、一日におにぎり一つ。

(2/23(3月の間違い、次も同様)に爆撃を受け、2/24ローレライ壕から別の壕に移る。 3/24-6/24馬乗りの間はなにをしたか)

 南風原の兵舎から派遣され、軍の患者の包帯を洗ったり巻いたりしていた。戦争が烈しくなったので、南風原の壕に移り、生徒壕から、2,3日したら何名かずつ壕に割り当てられた。私は22壕だったと思う。

聞き手(壕は皆つながっているのか、独立しているのか)

 私がいた壕は十字路になっていて、こっちに行っても未完成、あっちも未完成、そこで一人で負傷兵84名をみていた。用便からなにからみんなみないといけないんですよ。

●第二外科の状況 南風原の22壕での生活

聞き手(上官や先生の考え方(軍国的かどうか等)によって、自決を強要されるかどうかも決まったのでは?)

そうなんです。

聞き手(第二外科はどうだったか。)

 先生は(自決しろと)うるさく言わなかった。「どうしたらいいか?」とおっしゃるから、私は「先生一人に自分たちのいのちは預けられないから、自分のいのちは自分で処理します」と言って出たんです。それを止めることはなかった。あとからいしだ先生が「金城、僕も連れて行って」と言ったんです。私は「どこへ行くか(手を振って)わかりませんから、後ろから付いてきてください」と言ったんですけど、どこでやられたかわからない。

聞き手(途中ではぐれた?)

いしだ先生はどこでやられたか—、戦死ですね。与那嶺先生は戦後会いましたよ。第二外科。私たちの担当です。

聞き手(看護婦さん何人くらいいたんだろう?)

第二、第三の総括が西平先生。大阪の方で、帰られたと聞いています。

聞き手(第一、第二、第三で何名くらいいましたか?)

何人くらいいたんだろう…部屋で分けていますから。私たち第二は12名。第二外科が60名から70名くらいですかね。

聞き手(その塊が5個くらい?)

そうですね。

聞き手(22壕では一人で負傷兵84名をみていたということだが、どのくらいの期間?)

 毎日戦死者を埋めたり。私のところは一報患者(まだ歩ける)、二報患者(傷があり歩けないがなんとか直せる)、私がみていたのは三報患者。今日来たら明日死ぬ、2時間後に死ぬ(見込がない)。毎日その処理。

 何という兵隊だったか、前から入っていてそこの壕で脚が治った。「金城、あんた独りでは大変だろう。僕が手伝ってあげる」と言って、手伝ってくれました。毎日道から([遺体を]すべらせて行って)、持ちきれないから。人は死ぬと(手を広げて)膨らむんです。そして初めは穴を掘って草花をちぎって供えていたけれど、後からは弾痕(爆弾で出来た穴)にぶんなげです。埋める余裕がなかった。

聞き手(誰がどう死んだかの記録も当然残っていない?)

 鉛筆とか掴む暇がない。ほとんど寝ないでみているんだから。命じられることもなかった。ごはんは、飯上げ(*炊事場におにぎりを取りに行く当番)が1日1回あった。飯炊き場は、私たちはつかざんの製糖工場に向いた壕、そこから山を越えて行って飯炊き場がある。玉代勢先生はあっちがわの壕、私は一日中衛生の壕に飛ばされて、薬を折ったり巻いたり。夕方は飛行機飛ばないから。夕方西平先生に会ったら「金城、あんたは戦死の報告が出てるんだけど生きてたのか。サータアンダギーでもあげようねー」。 砂糖なんか見たことないでしょう、とてもおいしかった(笑い)。 戦後も、たかやす小学校にいたときに、仲宗根(政善)先生が回っていらしてね、「おい金城、お前、艦砲の食いがらは生きていたのか」(笑い)

聞き手(二報はどんな人?)

 傷はあって歩けはしないけど何とか治せる人。三報は見込みがない、いつ死んでもおかしくない人。三報患者の中に沖縄の人がいてね、一中生、3年と言いましたけどね、「姉さん、僕死なないよね、死なないよね」。そこらへんの近くに親がいるんですよ。それは言わなかった、万一訊かれたら大変だから。僕死なないよねと言いながら死んでいきました。首里の坂下に通信隊があったんですよ。そこにいました。ケガをして運ばれた。もう見込がないとして三報に送られたんです。

聞き手(一報、二報、三報、分けて収容するのではなく、とにかく空いているところに入れるんですね。)

 とにかく私の壕は三報患者がいっぱいいたんですね。初めて入れる時は夜ですから見えない、血を踏んで、もう血の匂いがなんとも言えない、ひっくり返るような気持ちで入っていったんですよ。「生徒さーん、生徒さーん」って。「ウジ虫を取ってくれー」、「痛い」と言う声が聞こえるんです。ウジ虫が噛むから。でもそれをとっている時間がない。

聞き手(85名をひとりでというのは命令なのか。他の人もそうなのか)

私はこの壕に一人だったからほかのことはわからない。

聞き手(22壕には通うのか?寝泊まりはどうしていたのか?)

 私たちはもう帰らないの。落盤してるところで上に座って少し休むくらい。落盤に遭ったらもうおしまい。食事は兵隊(戦友)が運んでいたのでしょう。夕方になるとみんなの水筒を持って(両腕で吊り下げるようにして)、水汲みに行くんですよ。そうすると目(さがん)大尉が「おい金城、水汲むより自分の顔を洗いなさい」って(笑い)。

聞き手(サガンタイは何をする人ですか、衛生兵とか軍医のあつまりですか?)(※大尉を隊と聞き間違えての質問)

 軍医はなんだかいつも寝ているような感じでしたね。普通だったら患者のあれ[治療]をなさるはずだけど、戦争中だから回ることもしなかったですね、ずうっと壕の入り口で横たわっていて。出てくるのを見ると顔が泥だらけになっているから「おい金城、水汲むより自分の顔を洗いなさい」って。曽野綾子先生の本(『生贄[の島]』)に出ています。誰が話したかわかりませんけど。

●南風原の壕から糸洲の壕(最後)に移った経緯

聞き手(南風原の壕から、馬乗りに遭った糸洲の壕(最後)に移った経緯は?)

 南風原の壕にいるときはちょうど大雨の時期、泥だらけでもう南風原は危ないから出て行けということになって、第一、第二外科みな一緒に出たはずだけど、私ははぐれてしまったんですよ、与那嶺先生から、何か本部に行って西平先生に伝言を頼まれて、帰ってきたらもう誰もいない。歩けない患者は青酸カリと牛乳をもらって「死ね」と言われていた。壕はもう水だらけ。患者に「おいお前、早く行け。みんな行ったよ、もう行け」と言われた。そして私は出て行ったんです。

聞き手(患者さんはもう、置いていかれたということはわかっていて—)

そう、そうなんです。歩けないんだから。

聞き手(本部に行けと言ったのは?)

 与那嶺先生だったと思うんです。何と言ったのかねー、なにか使いを頼まれて。与那嶺先生はいらっしゃらなかったね、玉代勢先生は一緒に行った。飯上げ済んでから「ちょっと暇があるから本部まで行こうか」っていうことで二人出たとき、ちょうど山の頂上に来たときに艦砲やられて、先生はあっちに、私はこっちに。

 玉代勢先生にはその後会わない。そのあとに患者が多くなって分けてちょうだいということで、こっちから糸数分室(第12室)に行かれたはず。私の友達で一人いっしょに亡くなった人がいるんですけどね。

(同席者:玉代勢先生を最後に見たとき3名一緒に歩いていたと聞いたが最期どうなったかわからない)

私と一緒に歩いた二人は今生きてるんですよ。

(同席者:最後に見たとき先生が生徒と3人で歩いていたと)

それじゃ第一外科ですかね・・・

●解放 高安小学校へ

聞き手(最終的に捕虜から解放され帰れると伝えられたのは?)

 何も言われない。数字何番から何番までこのトラック、とアメリカに言われみな並べて乗せられた。看護婦のさえこ姉さんは親子一緒にいるのに、さえこ姉さんは金武(きん)に、お父さんは古謝(こじゃ)に、別々のトラックに載せられた。私たちはこのお父さんと一緒だったので、「この人たちは師範学校の生徒だから軍に働きに行かせず、皆でたべものを分けてあげなさい」と言われ、古謝という部落の避難民の家(土間でかやぶき屋根)にお父さんといっしょに連れていかれたため、軍作業に行かずに食べることができたんです。8名一緒、最後は3名。

 捕虜になったとき私と一緒だった3名はトラックも一緒。トラックに乗ったとき、今でも思い出すのは、8、9歳くらいの子供、着物をはずすと首からおまもり袋を下げていた。「あんた名前なんて言うの?」と聞いたら「かみちゃん」と言うんですよ。「かみちゃんはうちはどこねー」と言うと首里だと言う。私に「姉さん、一緒に連れていってね」と言うから「連れて行っても、私たちは何も持ってないから食べるものもないよ」と言ったが、高安(たかやす、豊見城市)までずっとついてきた。高安小学校の親のない子を預けるところがあってそこに預けた。今頃どこにいるのかと思います。もう一人2、3歳くらいの女の子、私にすがりついて(両手でしがみつく)「あんまー、あんまー」と言う。安慶田(あげた)というところに預けましたが、そのあと会っていないし、かみちゃんもあとどこに行ったのかね。

聞き手(自宅に帰ろうとは思った?)

 思いましたよ、でも私たちがいた高安の家は、通訳をしている先生の家、61名の先生があちこちから集まっていて、校長先生が「この8名は師範学校の生徒だからかんたんには置けないよ」と、通訳の家に住まわせてくれた。そのときしんざとさんに聞かれ「ええねえさんはどこね?」と言われ「大宜見(おおぎみ)の喜如嘉(きじょか)です」と言うと「根路銘(ねろめ、大宜味村)から逃げてくるとき見たけど、ボウボウと燃えていた。喜如嘉なら、もう一人も生きていないよ。」と言われ、私はもう肉親には会えないとそのときは思ったが、実際にはそうじゃなかった。みな元気でいて、私を師範に入れた先生が山から回ってきて「ヒサは火にも水にも飛び込んでいく人だから生きては帰らんよ」と言ったのに、母は「ううん、友達3名、必ず生きている。夢に見た」といつも言っていたと妹から聞いた。

聞き手(トラックで捕虜収容所へ?)

 糸満の伊良波部落に収容所があったんですよ。そこに一晩は泊って、そうして友達に、「早く起きなさい、もう死ぬところはないよ」と言うと、「どうして[どうやって]死ぬの?」と。もう二人疲れてしまっているから寝てしまって。夜が明けたら、アメリカ兵が“Stand up”と言って缶詰くれるんですよ。これ毒が入っているかもしれないから死ぬときにはこれ食べて死のうねーと言って、そのまま歩いて行ったら、アメリカのジープが来て。私足が痛いからゆっくりゆっくり歩いていると、一人でおーだー(もっこ)を担いだおじいさんがいた(天秤棒のようなものを担ぐ仕草)。「私たちが荷物を持ちましょう」と言って、私は足が痛いから、クバ笠をかぶって、顔に煤を塗って歩いてきましたよ。

聞き手(それでも見つかってトラックに乗せられそうになって2週間看護婦をしたんですね?)

2週間看護婦をした。手当てしたのは米兵でなく沖縄の人。

●伴侶との出会い

聞き手(もう家がなく、帰るところがないとわかってどうしようと思ったか)

 通訳のはるこ姉さんのお母さんとうちの母[義母]が従妹同士だった(後から聞いた)。うちの母がてんぷらとかやって「3名おいで」と言うから呼ばれて行って、サーターテンプラとか見たこともないから「おいしい、おいしい」と食べたんですよ。そうしたら(鴨居の写真を指して)うちの母が「この子だったら欲しい」と言うんですよ。

聞き手(お嫁さんの面接だったんだ)

 それがわからないんですよ。いっしょうけんめい食べて、そうしたら通訳のはるこ姉さんのお母さんのところへ義母が来て「苦労してる○○ この子だったら間違いない」と言ったと後で聞いた。その家(とおめ)には避難してる人が50名くらいいたんですよ、その50名みな賛成したらしいですね、あとで聞いたですけど。「ねーあんな(以下方言)鼻水たらしていた子供がこんなおばさんになって」とおばさんが言うんですよ。もうおばあですよ、もう曾孫もいます。

聞き手(お嫁に来ないかと言ったのはお姑さん? それとも旦那さん?)

そうです。

聞き手(じゃあ、早くあの娘を貰いなさい、と言われてプロポーズしたのですね。)

そうです(拍手)。

 身内はいないから、相談するのは友達ですよね。その友達に「こういうことがあるんだけどどうしたらいいかねえ」と言ったら、その友達が「早く行きなさい、早く行きなさい、あの人だったら早く行きなさい」と。(笑い) うちのひとは捕虜民を尋問する人だったんですよね。もう私は散々苛められたんですよ、「村長は誰か。名前を言いなさい」とか自分の名前、自分の生年月日、父母の名前、どこで生まれたか、とかいろんな尋問があって、私はみな「わかりません、わかりません」で通したら(笑い)、いがらしという二世がいて、その人は「あんたはここに座っておけ」と言って、「はい」と言って座ってたら夕方の6時まで帰さないわけ。どうしたのかねえと思ってたら、そうしたら友達が裏から回ってきて「あんたはその家の星条旗を(両手でなぎ倒す)したことがあった。あんたこんなんするから、バチがあたった」と言うんですよ(笑い)。そしたらうちの夫は「わてもわかりません、わかりません」 それがもう今はわからないみたい、もう認知症。

 高安小学校に同じ年頃の人が5名いて、だれがこの人を妻にするかねというはなしが出てたんだって。そしたらこの人がうちに来ることになったもんだから、「しいら(私たちのもとの姓)や、まくえっさー(おてんばとか根性がある人の意)」って言ったそうです。きくやまの連中と二人でよく話す。あとからの話。

聞き手(お相手の身内だけで式を挙げて、ご自分の家族が元気だとわかったのはいつごろ?)

 1か年くらいかね。私を嫁に貰おうと思っていた校長先生が高安小学校に来て私の顔を見て「ああ、元気でいるんだ」と叔父に伝えたみたい。そしたら叔父が来て、母が次に来て、叔父が「しかたがないね、あんたが選んだ人だから間違いないだろう。でも私の目の黒い間は絶対苦労させないからね」と言って別れた。

聞き手(結婚してからお母さんに会われたのですね)

そうです。

聞き手(校長先生はがっかりしたでしょうね、人妻になっちゃてて。久子さんはモテたんですね)

 この校長先生はたいらじんいちといって戦後社会主事でした。学校視察にいらしたときか、元気でいるんだと思って叔父に知らせたそうです。

●生き残ったことの不思議さ

聞き手(もしもこっちに行ったら死んでいた、ということを何度もすり抜けてきたのですね)

 ほんとうに自分でも考えられないときありますよ。飯上げに行ったらまだご飯ができてないからというので、ゆうべのごはんをおにぎりにしてあげようね、と軍の飯炊きのおばさん(先に述べたおばさんとは別。南風原のひめゆり部隊の軍属)が言って、「はい、じゃお願いします。いただきます」と言って貰ったが(おにぎりを食べる)、食べきれないでまだご飯粒が手についているとき、このおばさんはもうやられていた。

聞き手(飯炊きのおばさんは軍属ですね)

 そう軍属。うちのひとはきょうだい8名いるんですけど、私の一つ下の義姉さんがこども5人連れて金武に疎開したそうです。うちのひとは「鉄血勤皇隊に行く」からと言って親を見に来たらしい。そしたらお義父さん、このおじい(鴨居の写真を見上げる)が捕まえて「行かさない。兵隊に行ったら死んでくるのと同じだから行かさない」と言って墓に入れて出さなかったそうです。アメリカが”Come on、Come on”(手招き)言ったって、あるおじいさんが出て行って「かまーん、わかんね」といって(笑い)みんなして出てきたそうです。金武に疎開したひとはとっても苦労したみたいです。

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体験記録

  • 取材日 年 月 日(miniDV 60min*2)
  • 動画リンク──
  • 人物や情景など──
  • 持ち帰った物、残された物──
  • 記憶を描いた絵、地図、造形など──
  • 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─

参考資料

伊波園子(1992)『ひめゆりの沖縄戦』 (岩波ジュニア新書).
ひめゆり平和祈念資料館 史料館だより 第58号
 https://www.himeyuri.or.jp/wp/wp-content/uploads/dayori-new-058_20161130.pdf
ひめゆり平和祈念資料館 史料館だより 第60号
 https://www.himeyuri.or.jp/wp/wp-content/uploads/dayori-new-060_20171130.pdf

戦場体験放映保存の会 事務局

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