目次
- 瀧本 邦慶さん
- インタビュー記録
- ●1939(昭和14)年6月 海軍を志願して佐世保海兵団に入団
- ●1939(昭和14)年11月~ 実施部隊・八重山(施設艦)での新兵教育
- ●1940(昭和15)年6月 横須賀海軍航空隊に普通科飛行機整備術練習生として入隊
- ●1940(昭和15)年11月 飛龍に乗艦
- ●1941(昭和16)年 真珠湾攻撃に向けた訓練、出航
- ●勝ち戦と不安
- ●1942(昭和17)年6月 ミッドウェー海戦
- ●兵装転換
- ●飛龍の被弾、炎上
- ●退艦命令、飛龍沈没
- ●1回目の奇跡 ―機銃掃射-
- ●帰途の艦上での弔い
- ●佐世保の海軍病院にて-大本営への不信-
- ●1943(昭和18)年11月 初志貫徹し高等科を経て下士官任官へ
- ●軍国少年の気持ちを変えたのはトラック島の飢餓体験だった
- ●1944(昭和19)年2月-トラック島へ赴任後すぐに大空襲
- ●2回目の奇跡 -防空壕-
- ●3回目の奇跡 -レイテ島へ 生死を分けた抽選-
- ●トラック島での飢餓体験
- ●トラック島のさつまいも
- ●玉砕の真相-戦後調べて憤ったこと-
- ●軍隊の理不尽-飢餓の中で-
- ●1945(昭和20)年8月-終戦-
- ●トラック島設営作業員(受刑者)その後
- ●飛龍の自沈
- ●学徒兵の特攻について
- ●戦争中で辛かったこと
- ●若い人に言いたいこと
- ●空母における搭乗員と整備員
- ●戦争で恐怖を感じたか
- 体験記録
- 参考資料
瀧本 邦慶さん

| 生年月日 | 1921年(大正10年)11月23日 |
|---|---|
| 本籍地(当時) | 香川県 |
| 所属 | 海軍 佐世保海兵団 |
| 所属部隊 | 飛竜 |
| 兵科 | 整備 |
| 最終階級 |
インタビュー記録
●1939(昭和14)年6月 海軍を志願して佐世保海兵団に入団
(聞き手)当時の本籍地は大阪ですか?
本籍ですか?本籍は香川県です。今は大阪に本籍も移しましたけどね、香川県です、もともと。
(聞き手)戦後、お仕事で大阪に移られたんですか?
はい、昭和28年に出てきました。
(聞き手)瀧本さんは海軍に志願をされてますね。そのあたりの経緯を少しお話いただけますか
私の場合はですね。父親が海軍で13年おりましたんです。それでまぁいろいろ海軍の話を聞きましてね。海軍もいいなぁと思うとったんですけど、現実に海軍に志願したっていうのはね、もともと私は、昔は義務教育は6年ですからね、小学校6年だけですからね。で、それすんでから私は商業学校へ入ったんですわ。5年制のね。昔の中等学校ですね。商業学校に入りましたら、中等学校はね、全部軍国主義最高潮の時代ですからね、1週間3時間軍事教練があるわけですわ、正課としてあるんですよ、それが。で、3年生までは銃はもたないで陸戦教育を受けるんですけどね、3年生以上になると、実際に本物の小銃持ってね、訓練するわけですわ。それがね、陸軍の正規の軍人と同じような過酷な訓練を受けるわけですから、私はその陸軍の教練が非常に嫌いでしたんや。海軍の話を父親から聞いてますしね。だからこれやったら、どっちみち兵隊にとられるやからね、検査まで待っとったら。それやったら海軍のほうがええな、と判断しました。陸軍は嫌いだ。それでね、海軍の場合は陸軍と違いまして人数が少ないですから、陸軍の5分の1ぐらいですからね。だから徴兵検査まで待っとったらほとんど陸軍にとられるから。それでそれ以前に志願して入ったほうがいい、ということで、海軍を狙ったわけですね。
(聞き手)陸軍がいやだったのは具体的には?
具体的にはね、陸軍はね、高学年になったらね、3年生以上になったら重装備でやるわけですわ、訓練を。陸軍はとにかく歩かないかんでしょ、荷物せたろうてね、これがもういややったんですわ、ほとんど大きな理由はそれですわ、歩くのはかなわんと。
(聞き手)逆に海軍はお父様が海軍の職業軍人でいらっしゃったということで、海軍のいい印象は?
海軍のいいイメージはね。昔は海軍はものすごくよかったんですわ。待遇もいいしね、それから遠洋航海があるでしょ、平時やからね。父親はね期間は13年と長くおったんですけどね、戦争は全然経験してないわけですわ、戦争体験のほうは私のほうが上ですね。
(聞き手)平時においては、いろいろな場所にいけるし
世界漫遊ですよ
(聞き手)やはり憧れがありましたか?)
そりゃありますよ、当時ね、今と違いますからね。日本の国を離れて世界各国を回るなんてことは夢のような話でしょ。それを海軍に入れば無料でできるわけですね。
(聞き手)ずいぶんお父様から海外での話というのは聞かされましたか?
それはあんまり聞いたことないですね。
(聞き手)自分はぜひ遠洋航海などしたいと?
それよりも私の場合はね、先ほど申し上げましたように、陸軍がきらいやから。それで入ったのが一番大きな原因ですわ。
(聞き手)志願のことを打ち明けたら先生に怒られたと、どうして?
怒られました。当時はね、商業学校ですから、5年卒業したらね、香川県でしょ、ほとんど就職先は京阪神の企業でした。それが、当時満州鉄道いうたらね、これはたいしたものですねん。そこへ入ろうなんて当然望めないわけですわ、普段はね。ところが、案外私はまじめやったからね、ほれでまぁ見込まれて学校のほうで先生のほうでも、私を推薦しとったわけですわ。それでむこうの満鉄の承諾もうけとったんですね。こっちはそれ知らんからね。それで私はもう昭和14年の3月卒業でしょ、2月に海軍の志願が、志願兵の検査がありました。試験ですね。これ、黙って受けとったから。はい。
(聞き手)先生には黙っていたけれども、親御さんの承諾は?
もちろん、家族は全部知っていました。家族以外にはいわなかったです、はい。
(聞き手)当時満鉄といったらすごいいい就職口で?
それはもう、大企業中の大企業ですね、将来性のある。はい。
(それを振り切って、佐世保の海兵団に入隊されたということで、その佐世保でのお話をひととおり聞かせていただきたいんですけど。実際に入隊されてどうだったか、とか)
海軍ではね、昔は鎮守府ですね、鎮守府があったのが横須賀、呉、それに佐世保、これ3か所でしたんや。佐世保は四国と九州それから沖縄これが佐世保の管轄でしたんや。それで佐世保海兵団へ入団したんですね。3か所の鎮守府の中で一番気風の荒いのがね、佐世保でしたんや。
●1939(昭和14)年11月~ 実施部隊・八重山(施設艦)での新兵教育
(聞き手)実際、かなり新兵教育というのは厳しかったですか?)
新兵教育はね、これはもう、新入生ですからね、お決まりの教育やと思います。厳しいというのは実施部隊に入ってからですねん。それ(手記?を指さして)にありますように八重山(施設艦)でのいじめですね。これはね。半端ないじめじゃないんですわ、海軍の場合は。生命の危険を感じるようないじめですから。それが伝統として残っとるわけですわ。特に八重山の場合はね、きつかったですね、それがね。それから小さい艦ですからね。卒業生新しいの、新乗艦した新兵というのは4人ですねん。艦全体で4人、それで一分隊と二分隊が兵科でしたからね。一分隊に2名あて入ったわけですわ。目立ちますやん。だからもう徹底的にやられましたね、はい。それ(手記?を指さして)にも入ってますように、軍人精神注入棒ちゅうのがあるでしょ、樫木の。それで打たれるわけですわ。
(聞き手)どういうときに打たれるんですか?
晩にね、やられるのは晩にやられるんですわ、昼間は作業があるからね。晩に、もう古い兵隊がみな寝て、そのあとで整列かけられてね、やられるわけですわ。ひととおり文句を言われて、文句がすんだらお決まりのバッターですね。身体の弱い者とかね、気迫の弱いもんはもう、一発で倒れましたね。
(聞き手)それは八重山の伝統みたいなものだったんですか?
八重山だけじゃなしに海軍の伝統です、それが。八重山の場合はそのいじめがね、他よりはきつかったと思います。
(聞き手)少人数だったっていうせいもありますかね?
ありますし、やっぱり古参兵の性格ですわな。私の場合はね。Nという私より2年先輩の兵隊がおったんですけどね、これにやられましたね。
(バッターをうってくるのは、わりと特定の兵隊がやるんですか?)
いえいえ。やられるのはね、われわれ兵でしょ、で、やるのも兵なんですわ。その上が下士官でしょ、下士官いうたらね、やっぱりね、そういう場合には顔出ししないんですわ、はい。
(聞き手)上の古い兵隊が中心になって代々やっている?
海軍はね、志願兵、徴兵でしょ、これが半年交代で入ってくるんですわ。徴兵のものは、つまり年取ったもんやね、徴兵で入ってくるんは2月、志願で入るものは6月。これの繰り返しになりますね。ほんで、海軍の場合はね。半年がちごうたらもう絶対服従ですよ、これ。
(聞き手)半年でも?
そうです!半年おくりで入ってきとるからね。そしたら、仮に私が入ったんが17歳でしょ。これ、次の翌年の2月には21歳か22歳の徴兵がはいってくるから、年ずっと上のが。だから年は関係ないですわ。
(聞き手)八重山に乗っていたのはどれくらいですか?
八重山は半年ですね
●1940(昭和15)年6月 横須賀海軍航空隊に普通科飛行機整備術練習生として入隊
(聞き手)その半年たったときに普通科に?
そうです。八重山のね、いじめが非常にきつかったから。生命の危険を感じるようないじめでしたからね。これはなんとかせなあかん、と。この艦でおったら殺されると、いうふうに考えまして、自殺するわけにはいかんでしょう、逃亡するわけにいかんでしょう、ほしたらね、合法的に艦を退艦できる、というのは、練習生の試験を受けてね、合格する以外にないわけですわ。それで普通やったら希望がありますやん、科目がようけありますからね、いろいろ。好きな科目を受けたらええんやけど、私の場合はそんなね、悠長なことは言うておれなかったわけですわ、1日も早く退艦したいから。とにかく科はなんでもいいから一番最初にやる試験を受けたら。これに決めてましたからね。ほしたら、たまたま整備術の練習生の募集があったわけですわ、最初に。で、そこに迷わず願書出しましたからね。それで合格して、追浜航空隊(当時は横須賀航空隊)へ行ったというふうですね。
(聞き手)卒業されたときの成績はとても良かったと書いてあるんですけど
だったんですわぁ、私は知らなかったんですけどね、全然わかりませんよ。ところがね、故郷の四国のね、四国新聞がね、やっぱり新聞社ですね、情報をとったんですね、そして、四国新聞に載ったわけですね、私が。ま、優秀な海軍の普通科練習生の卒業生としてね、優等生で卒業した、いうて私の名前がでとったわけですわな、私は全然そんなこと知りませんや。ほったら商業学校の先生がね、それを見とったわけですわ。ほんで、それ見てね、先生は自分の教え子が海軍入ってでもがんばっとるな、とうれしかったんでしょうね。その新聞の切り抜きとね、先生からの手紙と入れて、私にくれましたわ。それで知ったんですわ。
(聞き手)成績優良だった、っていうのはそれで知ったんですか?
そうそう、だからつまり優等生やから、当時は3番以内ですわな。
(聞き手)すごいですね。全体で何人?
何人中かな?私らの分隊が200人、いやもっとおったかな。はきょう(?)であれですけど、200人以上ですわ。
●1940(昭和15)年11月 飛龍に乗艦
(聞き手)そのあと卒業されてから配属されたのが飛龍ですね
普通科練習生を卒業してね、昭和15年の11月か、ね。
(聞き手)その飛龍というのは、当時から空母として名を馳せていた?
いえ、できたばっかりです。飛龍は進水したばっかりですわ、新造艦で。ほんで、艦隊編入を待っとったんですね、ちょうど。その時です。だから、私たちが乗艦して、飛龍も艦隊に今度は入って、実戦のね、艦隊になったということですね。
(聞き手)新造の新しくつくった空母ということで、楽しみといってはあれですけれど?
いや、そんなことはない、わからなかったですよ。我々はね、新兵だから知りませんやん。ただね、艦自体が新しく艦隊に入ったわけでしょ。だからまっさらですやん、またそこに乗員も初めて乗るものばっかりですわ。1日でも早く艦に慣らさないかんでしょ、訓練もせないかんでしょ。せやから訓練はね、ものすごくひどかったんですわ、きつかったんですわ。もう、書いてあるとおり、歌の文句にあるようにね。土日なんてお休みはないんですわ、祝日もなにもない、いったん外(外洋)に出たら、洋上に出たらね。ぶっとおしで朝昼ぶっとおしで訓練やるわけですわ。搭乗員も、整備員もね。で、航空母艦いいましたらね、とにかく飛行場が移動しよるのと一緒ですから、ね。だから、花形は搭乗員と整備員です。なかでも搭乗員は、飛行機に乗って、飛んでいって、攻撃して帰ってくる、それだけでしょ。整備員はもっとひどいんですわ。仕事の内容がね、地味やけどね。飛行機のね、発着、飛ぶ、降りてくる、着艦する、その作業を全部整備員がやるんやから。他の科の兵隊は、全然そんなこと、なにやっているのかわからんからね、ただみとるだけですわな。その作業が命がけですねん。航空母艦の整備員の場合は。長さが200mあるでしょ、幅が24、5mでしょ。それが飛行場ですから。そこへ、そこから発艦して、そこに着艦するんですから。ひとつまちごうたらもう、すぐ事故起こりますやん。もう海落ちたらそれでおわりやからね。
(聞き手)やはり整備科の優秀な人が空母に乗せられたんですか?
それはわかりませんけど、それは多少あるかもわかりませんね、それは。だから、まぁ、普通科練習生になればね、卒業すればね、マークがつくんですわ、左へね(左腕をさして)。階級章は右(右腕をさして)。そういう、特技章のマークは左につきますね。普通科のマークがつくわけですわ。そしたらプライドあるからね。がんばらなあかんな、ということになるわけですわ、はい。
●1941(昭和16)年 真珠湾攻撃に向けた訓練、出航
(聞き手)昭和16年の11月、に真珠湾攻撃があるわけですがそのあたりのお話しを
あの、私が飛龍に乗ってからね、その間の今度はまぁ大戦勃発までの間ですね、猛訓練があったわけですね。ほって後から振り返ってね、考えてみたらね、ああ真珠湾攻撃の準備しとったんやな~そのための訓練やったな~ちゅうのがはっきりわかるんですわ、はい。で、飛龍はまぁ佐世保の管轄ですから母港は一応佐世保ですわな。ほしたら、やっぱりそれから東シナ海のほうに出て訓練するでしょ。訓練、真珠湾攻撃の訓練やからそれに似たようなところでやらないかんでしょ。鹿児島湾でやったんですわ。(少しの間あり)それ、後から聞いたんですけどね。搭乗員でもわからへんから、なんでこんなところでこんな訓練するんやろなってのはね。真珠湾の攻撃やるためにやっとったわけですね。あとから考えたら。だから国のほうはね、1年くらい前からこの戦争をね、計画しとったと思いますわ、そのための訓練だ。
ほして、11月の中頃にね。別府湾を出航して、千島列島の単冠湾(ヒトカップ湾)へ行ったわけですわ、択捉島のね。で、その時にね、別府湾を出るときにね。普通やったらね。艦は遠洋航海とかそんなんに出るいうたら、艦自体にもっとる重油の燃料タンクですね、これ満タンにしておけばいいわけでしょ。ところが、その時はね、僕は、通路は、なんぼあるかしらんけど、2メーターあがり(?)の通路があるわけですね。艦の中のいたるところに。そこへね。一斗缶に重油を詰めて、それを何万缶?いうて積んだわけですわ、はぁ。艦の空いたところ全部に。なんやろな、思いましたよ。よっぽど長い航海に出るんやな、と、ね、思うたわけですわ。で、その作業やりましたわ、ほな、全部手送りですからね、一斗缶だから。ほっで、別府湾出て東へ進んでね。で宮城、東京の前を通るときにね、総員集合かけられて、甲板へね、で皇居のほうに向かって遥拝ですわ。なんやろなと思うとった。わけわからんでしょ。ほんでそれから、どんどんどんどん北へ走って、択捉島へ入った。11月の初めですわ。寒いんですわ。朝起きたらね。ほんで見たら、島真っ白。どこかな~?思うとったらね、千島列島やいうて。ほして夜が明けてみたらね。他にも空母がおる、戦艦がおる、巡洋艦はおる、駆逐艦はおる、燃料積んだ油槽艦ですね、これもおるしね、大艦隊ですね、ほんで、びっくりしたわけですわ。よっぽど大きな、とにかく大演習やるんやなと思いました、その時。日米開戦なんて夢にも思うてないからね。
そいで11月の24日に択捉島の単冠(ヒトカップ)湾を出航したわけですわ。ハワイに向かって。
その、11月の終わりからね、まぁ12月のはじめにかけての北太平洋っていうのはもう、1年中で一番荒れる時期ですね。それをあとから聞いたんですけど、30年間前までさかのぼって気象を研究したらしいですわ。それで12月8日攻撃ちゅうのを決めたらしいですね。ほいで、11月24日に出て、奇襲作戦ですからね、ハワイの場合は。他の商船とかそんなのにおうたら困りますやろ、ハワイに行きよる間。で、北太平洋の荒れ方みたら、普通の商船は通らないわけですわ。あまりにも荒れて。そこをねろうて行ったわけですわ。だから、こちらはね、なんぼ軍艦じゃ、航空母艦じゃなんじゃいうたってね、揺れますよ、とにかく。あの200mあまりある母艦がね、この大きな波2つくらいでしかのらへんのやから。それぐらい大きな波ですねん。母艦は水平線、あの吃水ね、吃水、わかりますか?艦の。吃水から上20mぐらい高さあるんですわ、母艦の場合ね。水面から20mくらいのところに見張り台があるわけですわ。見張りのね。そこにおる見張り人は波にさらわれましたよ。半分くらい突っ込むから。それぐらい、大きな波ですねん。だから駆逐艦なんかはね、ちっさいからね、(ジェスチャーしながら)こう波があるでしょ、この波に乗って、こんなことにならないんですわ、駆逐艦は。スピードあるからね。こう波の中を縫うんですわ。チャーっと、縫っていくわけだ。そしたらかぶりますやん、こんな波の中に入ったときは。そんなような状態ですわ。駆逐艦なんかね、姿が見えないんですよ、波の谷間に入ったら。
だから、11月24日に単冠湾を出て、真珠湾に向かった。どこいくんやろかな、と。行き先も何も言わんと、出航やからね。ほたら、出航したあくる日にね、艦長から総員集合がかかったんですわ。ほいで、行ったところが、12月8日にハワイ攻撃する、アメリカと戦争になる、という話しだったんですわ。ほんで今からハワイへ向かう、と。艦内のね、ゴミ。一切海にほうることはまかりならん、禁止になったわけですわ。それから、通信関係の、この無線の、ね、あの打ったら電波出るでしょ、それキャッチされるからね、それが一切全部封印。隠密行動ですわ、完全な。そんで出航したわけですわ。それで、さっき言うたように積んだ重油ですね、何万トンというたと思いますわ、目方は、何万缶という数は。それをね、その大荒れの中で、手送りで作業して、艦の重油の入口まで手送りで運んで蓋あけて、タンクの減っているやつを全部補給するわけですわ。その作業がね、4日間かかりました。命がけですよ。もう重油だからやっぱりはたにこぼれますやん、つるつるやしね、普通でもつるつるで滑るところ、艦がこんなに(身体を左右に揺らし)のところ運ぶのやから命がけですよ。ほんで4日間かかって終わったわけですね。
●勝ち戦と不安
それでまぁ、大攻撃はいうてのとおり、やって。で、まぁ勝ち戦と、いうことでね。ほって内地へ帰ってきましたわ。内地帰ったらね、もう、それこそもう、ね、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎですよ、勝ったもんやから。そんでもう、戦争勝ったように思っているわけですわ。私、それ見たときに、それに(手記?)ちょっと書いたんですけど、気になりますやん。こんなに資源もない日本の国がね、ちいちゃな国がね、こんな、世界一のな、モノ持ち、金持ちのアメリカ相手にしてやな、大丈夫なんやろうか、と。最後まで持てるんだろうか、と。こういうことがね、よぎりました。だけど、そんなことはね、我々が心配せんでも、偉いさんが心配することやから、ということでね、済ましましたけどもね。それはもう、ちょうちん行列から何からね、もう、ものすごい大騒ぎやったですわ。国民なにも知らんのだから。実際に、戦地へ行って参加した我々でも、本当のことはわかりませんよ。こっちは一兵卒ですからね。わかりませんよ。ただ、命令の通り、動くだけでね。
それで、ハワイから帰って。12月の末に帰りましたよ、ほんで今度は、翌年の17年の、6月5日にミッドウェイ攻撃しましたわな、それまでの半年間、約半年間、この間はね、陸軍がとにかく南太平洋の石油を取りにやな、これを強制的に、攻めて占領して石油を取ったわけですからね。そのためにもう、じゃあ、スマトラ、ボルネオ、セレベス、ね、それから仏印、あっちのほうへ全部ダーッと進出していって、強制的に攻めて占領したわけですよ。それで、その作戦が半年かかったわけですよね。その間、空母がグーっと一緒に行った、我々一緒にね。だから、あの辺はほとんどがまぁずーっと回っとるわけですわ。パプアニューギニアのほうからね、豪州のポートダーウィンとかね、あんなところも全部ダーっといったんですわ。ほんで一応、占領して、石油関係は占領して取って。
その時にもね、私は、我々は下っ端やけど、何も心配せんでいいんやけど、心配しましたよ。石油はね、日本は無いのわかっとるから。それをね、それまではずっとアメリカから買いよったわけですよね。で、それがストップしたから戦争になったわけやから。ほんで、南太平洋のところを取り上げようと。これはフランスとかオランダとかが持っとったわけですよね、昔はね、そこを強制的に占領したわけですから。それで、油がないのにね、あとどないするんやろか、と。強制的に南太平洋のほうを占領して油を取った重油を取ったところでね。どこで精製するんやと。日本までもってかえって精製せにゃいかんでしょ。こんな何千キロありますよ、どないすんのやろと思いましたわ、はぁ。
●1942(昭和17)年6月 ミッドウェー海戦
(聞き手)で、昭和17年に入って、ミッドウェー海戦が始まるわけですが、そこの話しをぜひ
それでね。17年の4月の終わりに帰ってきたわけですわ、南太平洋から。帰ってきましたよ。それから、積むものを積んで、ね、艦の装備を完璧にしてですね、そして、5月の27日、17年の5月27日いうたら、昔のね、海軍記念日ですよ。で、海軍記念日に瀬戸内海の柱島いうところを出航したんですわ、ミッドウェイに向けてね。ほんで、ミッドウェイの攻撃は6月5日ということで出航したわけですわ。ほして、予定通り着いて、攻撃したんですけどね。ここで問題がね、あったわけですわ。それ何かいうたら、こちらの行動をね、全部アメリカは知っとったわけですわ。こちらがもう、打つ無線ですね、それを全部暗号解読して、知っとったわけですわ。こっちにしてみたらね、それまでずっと勝ち戦でしょ、ハワイから全部勝ち戦やから、ああ、こんなのまた勝ち戦や、鼻歌まじりで行ったんですわ。もう、中枢のほうでもそうですやん、東京の作戦本部(軍令部作戦部)でもそうですやん。悪いのは東京の作戦本部ですわ。普通は、素人考えでもね、戦争やから、まして情報戦やから、スパイ戦やから、ひょっとしたら、こっちのね、そういう電報・情報関係、盗まれておらへんやろうかという心配はね、常にしておかないかんと思うんですわ、中央ではね。そんな心配ひとつもしていなかったわけですわ。だから普通やったらね、攻撃に行くときには攻撃に行こう、相手にキャッチされとらへんやろうか、というね、警戒心は必ず持たないかんと思うんですよ、普通やったら。それを持たずに行ったわけだから。
(聞き手)ミッドウェー海戦に出撃するときの雰囲気というのは?出航のとき飛龍の一般の兵隊の間の雰囲気というのは、これまで勝ち戦を続けてたわけですから、そういう雰囲気だったわけですか?
その通りです。中央も、末端の兵隊も、みんなそういう雰囲気ですわ。だから鼻歌まじりで行きましたわ。あーまた勝ち戦ってね
(聞き手)実際、すごい空母に向けて猛烈な攻撃を受けるわけですけれども、その攻撃を受けている状況っていうのを少し聞かせていただきたいです。
はい、5月27日に出航して、6月5日の未明に出発、第一波が発艦してね、ミッドウェイの島の施設を攻撃したわけですわ、飛行場とかね。だから装備は爆弾装備ですね。ゼロ戦は援護で一緒に行くから。普通やったらそれでいいわけですわ。ほんで、向こうは情報をキャッチして全部知っとったからね、暗号解読して知っとったから、母艦をミッドウェイから2、3百キロ離れたところで待機さしておったわけですわ。こっちはそれ知らん。ほんでミッドウェイ攻撃に行った。第一次攻撃して、帰ってきた。また、爆弾装備してね、空母おるちゅうの知らんからまだ。また爆弾を装備して、行く準備、二次の攻撃の準備をしとった。
●兵装転換
その時にね、他の艦の偵察機が、相手の空母がおるっていうのをわかったわけですわ。で、すぐ知らした。ほしたら、これは大変でしょう?全然おらんと思っとったやつがおったわけやから、空母が。そいでね、当時の航空母艦は4杯で行ったわけですが、加賀、赤城、飛龍、蒼龍。加賀と赤城は、これが第一航空戦隊いうわけですわ。それから、飛龍と蒼龍が第二航空戦隊いいますねん。そんで、こっちの(第一を指して)司令官は、中将が南雲忠一いうね、よく聞くでしょ、名前。あれは、悪い奴ですよ、あれは。あれが司令官や。そしてこちらの(第二を指して)二航戦のほうは山口多聞、これは少将ですねん、ひとつ下ですわ。だから、こっち(第一を指して)が主導権を持っとるわけですわ。そんで、その南雲忠一が、全艦に対してやな、空母がおるのがわかったからね、爆弾を装備しとるのをおろして、魚雷と積み替えろ、こういう命令出したわけですわ。さぁー大変ですわ、艦の中は。爆弾は250キロですからね。抱えて持っていけるような代物と違うでしょ、みんな台車にのっとるわけですわ。ほんで、台車でわーっとまわして上げたり下げたりしながらね、こう装着すんですけどね。魚雷なんて、魚雷は800キロですわ。積み替えって何時間かかりますのや、飛行機全部やから。その命令出したわけですわ。これがね、大きな失敗ですねん。
なんでかいうたらね、だいたいね、太平洋戦争が勃発したときにね、いわゆる海軍の中枢、これのね、この人たちの頭の切り替えができていなかったんですわ。それまでの海軍の海戦ていうたらね、大きな大砲の撃ち合いですやん、艦隊のね。今まではそれやから。ところが太平洋戦争からはね。航空母艦を主体にした航空機戦やと。これに変わっとるわけですわ。それが、変わったばかりやからね。まだ東京の参謀本部(註:海軍なので軍令部)とか司令官なんかの頭の切り替えができてなかったんですわ。うん。そこの切り替えができてないわけや。だから、南雲忠一ちゅうのはね、中将で航空母艦の一航戦の司令官になってきとるけど(第一航空艦隊司令長官の南雲忠一が、第一航空戦隊司令官を兼務)、専門はね、魚雷(水雷)ですねん。魚雷が専門で中将までいっとるわけですわ。航空母艦のことは知らんわけですわ、あまり。だから、付け替えろ!っていって、その命令をもう撤回しないんやから。
で、なんでいうたらね、そのまま爆弾のまま行けーていうてね、言わないかんとこですねん。我々一兵卒でもね、母艦のことがわかっとるものはそう思いますやん。なんでかいうたらね、母艦はね。この部屋を母艦の格納庫としたらね、母艦は水面から上見えとるとこは全部格納庫やから、あれ。格納庫としたらね、一次攻撃から飛行機が帰ってきたら、すぐガソリンを補給して、ね、爆弾を装備して、ほんで出るわけでしょ。そのためにね、格納庫の中は、両側にガソリンパイプがこんなパイプが走っとるわけですわ、何本も。航空母艦はみなそうですねん。だからね、魚雷なんてね、沈めよう思うて魚雷に変え、言うわけでしょう?普通の戦艦とかそんなやつを攻めるんやったら魚雷にせなあかん、ね。ところが、空母やからね、空母の、この装備とかそんなもんちゃんと知っとる人やったらね、頭に入っとったらね、そんな命令は出さないんですわ。爆弾のままでええから行けーて言うて。一発だけね、当てたらもうそんで空母は終わり。1発爆弾当てたらそんでいいんですわ、何万トンの空母であろうと。大火災があるんやから。ガソリンはパイプがワーッと走っとるからね、それで空母は爆弾1発落としたらね、飛行機は飛べないし、着艦もできないしでね。沈んだも一緒ですやん。戦闘力ゼロになるから。そんなことがわからんかったんか、と私は思うとるわけですわ。
しかもその命令を撤回しなかった。もさもさもさもさしとる間に、向こうの空母から攻撃がきて、ほして、加賀と赤城、蒼龍、飛龍だけのけてね、3杯の航空母艦ははるかかなたでね、水平線のほうでね、真っ黒い煙あげて燃えましたわ。昼過ぎですわ、やられたの。簡単に燃えてますねん。そんで終わりや。飛龍1艦だけ残ったわけです、飛龍はこっちにおったから。ほいで、最終的にはね、飛龍に乗っとった山口多聞の司令官が、南雲、中将である南雲忠一の命令を無視してやな、もう爆弾のまま行けーいうて飛龍の飛行機に命令したわけですわ。中将の命令に逆ろうてね、そんでよかったんですわ。ほんで行って、飛龍から飛び立った飛行機で、相手の、向こうの空母を沈めたわけや。ヨークタウンかなんかいうのね、名前ははっきりせんけど。それを沈めたんですわ。そんで、そのかわり飛龍もやられた。だから、差し違えで、の形になったわけですよ。
●飛龍の被弾、炎上
(聞き手)その空母の火災っていうのは、かなり誘爆、飛龍も、大火災を起こして?
それですわ、その話しちょっとしますわ。
もう飛龍1艦になったらね、集中攻撃。もう、蚊が、夏の蚊がね、ダーっと襲撃するようなもんでしょ。急降下爆撃くるわ、魚雷積んだ攻撃はくるわね。ほんで、魚雷はね、発射するでしょ、母艦めがけて発射したらね、わーーっと、こまかーい空気の泡ができるんだ、発射したあとね。わかるわけですわ、魚雷がきよるのが。だから艦はもう全速でね、こう蛇行しながらね、それをかわすんですわ、魚雷をね。で、魚雷はまずかわせた。ところが、最終的に、まぁ爆撃受けてね、急降下爆撃1発先に当たったんですわ。たら、それでもうおしまいです。大火災になるから。で、大火災になった。結局飛龍は全部で4発、爆弾当たったんですわ。ほたら、格納庫の中はね、第一次二次と攻撃に行くために、下の爆弾庫からね。エレベーターで弾とか魚雷を上げて飛行機のこの甲板まで上げてありますねん、弾を。そこにごろごろしとるわけですわ、なん十発いうて爆弾や魚雷や。どんどんどんどんガソリン燃えるでしょ。その熱でね、その爆弾やら魚雷が、これ爆発するんですわ、熱で。これ、誘爆っていいますねん。誘惑の誘とね、爆発の、誘爆、熱に誘われて爆発する。普通爆弾いうたら、カーンって当たって衝突の衝撃で爆発するでしょ、そうじゃないんですわ、こう、じーっと爆弾置いてある。これが熱でやりゃあ。カーッとここで爆発するわけですわ。これがね、母艦の格納庫の中で爆発する、艦の胴体の中で爆発するわけですよ。それが1発や2発じゃないんやから。なん十発いうて次々次々爆発するんですからね。人間のおるとこないわけですよ。そうでしょ。人間どないしたらいいんや。
それ、空母写真ですか?(飛龍?の写真を指さして)空母の場合はね。ここにね、ちょっと空いたところがあるんです、前ね。後ろにもありますねん、ちょっと空いたとこが。人間のおるとこは、ここ(前)とここ(後)としかないわけですわ。この胴体のこの中では全然おられんわけや、火の海やからね。ほんで、私はそん時に、逃げてね、後ろに逃げたわけですわ。後ろの、空き地のところへ逃げたわけですわ。
それで、その間ね、飛龍も最後には爆弾でやられたでしょ。ほって飛龍から相手の艦、母艦を沈めに行った飛行機が帰ってきますやん。やられたのもあるけど、帰ってくるでしょ。見たら火燃えてるやん、どないしますねん。他の3杯はとうにやられとるんやから。着艦できないでしょ。せっかく帰ってきたのに。海の中に突っ込むしかしようがないわけですわ、燃料なくなるしね。こっちはそれ艦の上からじっと見とるだけですよ。どうしようもない。せっかく攻撃して帰ってきたのに、全部、目の前で、海ン中突っ込むんですよ。これが戦争なんですわ。ほんで、まぁだいたい状況はそうですねん。
ほしてね、飛行機ってのはね、空母なんかでも、大きな三連装の機銃ね、ほから高射砲(高角砲)、ようけ積んどるんですよ。それこそ、太陽が今日みたいに晴れとる日でもね、爆発する弾の、爆発する煙でね太陽が見えないぐらい、ようけ撃ったんですわ。それでも当たらない。飛行機っていうのは。飛行機には飛行機でいかな、だめです。それようわかりましたわ。
そんで、そのような中でね、最終的には、ほんでもう飛龍も最後やられましたやん。爆弾がなん十発も爆発してしまった。それやのにね、不思議なことにね。飛龍は、両方の艦のこの壁ですね、鉄板が丈夫やったんかなんか知らんけど、艦沈まないんですわ。上はもうみな吹っ飛んでしまったんですよ。ほんで、母艦というのはね、これが海面のとことしたら、これね、海面ですわ、格納庫の床や。ほたら、この下は、つまり水面から下はね、窯室になっとりますねん。だから、機関科いうのは全部窯室におるわけですわ。上が大火災でしょ、マンホール全部閉めるでしょ。機関科員どないしますねん。逃げるわけにいかんでしょ。蒸し焼きですやん。生きながら蒸し焼きになるんですよ。声を伝える、命令を伝える、伝声管いうものがありますわな。声を伝える管と書いてあるのね、伝声管で聞こえてくる。それを聞いた人から聞いたんですけどね。もう息がでねん苦しい、熱い!いうて、報告がくる、来た、言うとりましたわ。そりゃそうでしょう。ほんで、艦は何万トンあろうとね、艦が燃えだしたら、これ鉄板でできとるんやから、熱が伝導していくわけですよ。はぁ。だから酸素は無くなるしね、蒸し焼きになるんや。それで戦死ですやん。だから飛龍の場合は、1500人ぐらい乗っとって、助かったのは500人。1000人が死んだわけですわ。ほんで、最終的にね、もう燃えるもんは燃えてしまった、飛龍の中のね、爆発するやつは全部爆発はしてしまった。それがね、夜中ですわ。1時2時。ものすごく、不気味なぐらい静かですがな。
●退艦命令、飛龍沈没
そんで艦長から総員集合と命令がかかったんですわ。総員集合いうたって、どないするんや、どこに集まるんやって。艦はめちゃめちゃにやられとるんやから。そうでしょ。もう断崖上っていくようなものですやん、階段も何もあらへんのやから。ほいで、わずかに飛行甲板が、一番上の発着甲板ね、飛行甲板の空いとるところへ集合したわけですわ。ほったら、艦長がね、退艦を命ずる。海軍はね、どんなに攻撃受けて、しようが、命令がないのにね、自分の意思だけで艦を離れた場合、これは逃走罪(逃亡罪)や。そうなるんですわ。爆弾なんかで吹っ飛ばされたのは別ですけどね。自分の意思で、怖いから、なんてね、海の中に飛び込んだら、これは脱走罪になるんですね。で、艦長の退艦を命ずるという退艦命令で初めて艦を離れることができるわけですわ。
で、母艦にはね、常に駆逐艦が2杯、2隻あとからついてきよりますねん。これはいつでも。ほんで、駆逐艦から迎えにきたボートに乗ってね、ほいで駆逐艦に助けられたんですわ。朝から、飯も何も食べてないのやから、朝夜明け前の攻撃しばっちゃ(?)からね。ほんで、あとはね、そういう戦いの中だから飯なんか食べてる間ないですよ。ほんで、駆逐艦に乗り移って、握り飯一つもろうてね、うまかったですよ。飯も何も忘れとったからね。
それで、駆逐艦に乗り移った、その時に、艦長と司令官は、山口多聞と加来止男ね、これ2人は艦に残ったんですわ、降りない、責任感じてね。で、我々が退艦して駆逐艦に乗るのをじーっと艦橋から立てて見とりましたわ。
ほんで、駆逐艦に乗った。乗ったらね、もうとにかく全速力でまたこっちも逃げて帰らないかんでしょ。まごまごしとったら、夜が明けてまたせっかく助かったのに、また攻撃されたらね、いかんから、いう気がありますやん。ほいで、さぁ今から全速で逃げて帰るぞーという時に、おっと見たらね、まだ飛龍がね、2時か3時ごろですわ。黒ーい飛龍が浮いてますねん、目の前で。それ、そのままほっといたらね、アメリカ引っ張っていかれる、えい航して、持って帰って、これが日本の空母じゃーいうて、戦利品じゃいうて、大恥かくわけでしょ。それを防ぐために、味方の、私たちが乗った駆逐艦から、魚雷を2発ね、飛龍に向けて発射したわけですわ。そんで飛龍の中央付近からね、2発やから大きな火の塊がね、2つ上がりましたわ。で、それを確認して、もうこれで沈む、というのを確認してね、それで全速力でまぁ逃げて帰ったわけですわ。それが、飛龍、まぁそのう、戦隊の様子ですわ。
それで、ところがそのう、我々は整備兵やったからね。艦の中の、戦闘時の、この活動する場所は艦全体や、整備兵はね。艦全体が飛行場なんやから。ところが、大砲の要員とかね、機銃の射手とか、そんなんは、それがついとるとこが、まぁまぁまぁ自分の守備場所やからね。逃げられんわけですわ。ほったら、駆逐艦に乗り移って、でまた、下りてね、甲板まで下りるときにね、あちこちで、機銃のこの銃座いうね、そこへ配置についたままでもう黒焦げになって死んどるわけですわ、ようけ。たくさん見ましたわ。そんなんですわ、戦争の正体とは。
●1回目の奇跡 ―機銃掃射-
ほんで、その時にね、これ私のことになるんですけど、これにも書いてあるように(手記のこと?)、私がこうしてみなさんに話しできるっていうのは、3回の奇跡がありましてね、私に。太平洋戦争中に。で、最初の、1回目の奇跡が、飛龍に乗っとった時ですねん。そん時の奇跡いうたらね、どんなかっていったら、急降下の爆弾をやられる前にね、それがまだこない時に先グラマンの戦闘機がね、機銃掃射してきたんですわ、艦の後ろから。突然。私、ちょうどその時、この甲板の上で、作業しとったんですわ。ほしたら後ろからパンパンパーンってきたわけですわ。逃げる間がないから。そこペターッと伏せましたんや。こっち(足のほうを指して)が後ろでね。伏せた。そして頭ちょっと横にひねって、こうして目を開けて見とったらね、私の右30cmぐらい、このくらいやね、30cmくらいのとこへね、機銃の弾がパンパンパンパンパーンと当たっていきましたわ。それ、見とりました。そしてそれが済んで、機銃掃射が済んで、見たらなんともないわけですわ。これはどうもなかったな、と言うてね、引き続き作業しよったわけだ。そしたら同年兵がね、瀧本おまえ背中へちょっと血がついとるぞ、って言うんですわ。へー、覚えないから。ちょっと服脱いでみぃ、て言う。で、作業服脱いでみたらね、右の肩甲骨のとこにね、とっと指で押したようにね、なんやこう穴が開いたような、血がついとるわ、いうて。へぇって。たいしたことないわ、絆創膏貼っといてくれ、いうてね、絆創膏貼ってもろうてね。それで、もう引き続き作業やりましたんや。その時はそれで済んだわけですわ、全然どうもないからね。痛くもかゆくもないし、私自身がそういう意識全然ないのやから。なんか物が当たったとかね、意識なかったからね。
ほしたらわかったのは、それから1週間後ですねん。もう呉へ入港する前に、わかったんですわ。右の手がね、上がらへん、上着の下のとこでつっぱって、引っ張ってね。で、触ってみたら、なにやらこう塊ができるからね、肉が固まって。押さえたらちょっと痛いからね。そんで軍医にみてもろうたんですわ。そしたら、あ、こりゃいかん、弾が入っとるわ、いうてね、言われたんですわ。そんで初めて知ったわけですわ、その時に。あーやっぱりあの時、弾が入っとったんやなぁ。いったん床に当たった弾が、跳ね返ってこっから入っとったわけですわ。ほんで、中をちょうど通り抜けて、脇のこのあたりですけど、きて、止まっとったわけですね。それ知らなかったんですわ。そんなもんですわ。緊張してやっとった時はね。
何の力かわからんけど、目に見えない力で私は生かされとると思うとりますんで。
生かされとるんですわ。ほったらまた生かされとる者の責任としてね、やることがあるんじゃないか、と思うて今語り部になってね、ボランティアで、各学校まわってね、要請があればね、そこへ出向いて行って、大抵は話しをさしてもらっとるわけです。
●帰途の艦上での弔い
(聞き手)そのあと入院されたんですね。佐世保に戻ってから。海軍病院に収容されて。
ここでひとつ言わないかんことがあるんですわ。病院船の高砂丸に乗ってね、呉に入港してからね、ほれから佐世保の海軍病院に行きました。ほしたらね、まぁ、帰る途中で戦艦にね、乗り移ったんですわ。太平洋の真ん中で艦止めてね。駆逐艦から戦艦に乗ったわけですわ。ほしたら、戦艦は大きい、たくさん乗れるけどね。各、他の母艦からの負傷者も乗せとるわけだ、ようけ。いっぱいですねん。臭いんですわ、匂いが。ほとんどの負傷者は火傷やから、焼肉屋と一緒ですやん。肉がね、焼けてね、それが腐っている匂いがもう激しいわけですわ。ほいで、毎日ね、20人から30人ぐらい、呉入るまでにね、死んでいきますねん。ほったら、海軍の場合はね、死んだら、埋めるわけにいかんでしょ、海の上やもん。全部、水葬。遺体を毛布で巻いてね(注:軍艦旗で巻くのが作法だが、数が多すぎるため毛布で巻いている)、ほんで、こういう、こう(手で前にある?台を示し)台があるんですわ。その台にね、寝かしてね、向こうが足、こちらが頭としたら、ひとりで頭のほうをずーっと持ち上げるわけですわ。ほしたら、こういう角度(手で示す)になりますやん。一定のところにきたら、ずーっと滑って、どぼーん。これで終わりですや。遺骨なんてね、戦死したからいうて遺骨なんて入っとるはずがないですよ。陸軍でもそうですけどね、そんなもんですよ。紙切れが1枚入っとったり、石ころが入っとったりね。国というのはそんなもんですねん。まぁ、あとから話ししますけど、国というのはそういうもんですよ。人の命なんてね、若者の命なんてね、兵の、兵隊の命なんてね、消耗品やから。そこらの虫けらの命と一緒ですよ。戦争の指導者、決める者、こういう人は、自分の命をとにかく大事にします。そんなもんですわ。ひとの命は知らない、虫けらと一緒。つまり、国はいざになれば、国民をだまし、兵隊をだまして、見殺しにするっていうことですね。あとでまた詳しく言いますけど。
●佐世保の海軍病院にて-大本営への不信-
それで、まぁ佐世保の海軍病院に入って、入院したんですよ。そしたらね、この病棟、この病棟へミッドウェイ関係の負傷者はここへ全部缶詰にしたわけですわ。缶詰や。悪いこともしてないのにね、いったい何事や、とこれは。トイレも、よそのトイレは使こうたらいかん、風呂も入ったらいかん、こっから一歩も出たらあかん、よその者と話しすることはならん、そういう決まりです、言われたんですわ。何やねんと。犯罪者扱いやないかと思うたんです、その時はね。理由はわかりましたよ。看護婦さんがね、あくる日新聞を持ってきてくれたんですわ。ほしたら、それ見たらね。大本営発表、ミッドウェー海戦、わが方の損害、母艦1隻撃沈、1隻大破。これ2隻だけですわ。実際4杯沈んどるのにね。これが大本営発表ですやん。びっくりしましたわ。わたしらそれまではね、大本営はもう一番偉いとこでしょ。信用してますやん。ところがね、こんな嘘ついとるわけですわ。それで、これは大本営ちゅうやっちゃ悪いやっちゃな、と。国民をだましとるな、兵隊をだましとるな、思いましたわ。
(聞き手)その、同じ病棟にいたミッドウェーの負傷者の方たちは、その新聞記事を見てどんな風に言ってらっしゃいました?
さぁ、記事の内容をどう思うとるかなんて、私は言わなかったけどね、これは嘘書きやがっとるなーと私ら看護婦さんに言いましたわ。それ以上は話ししなかった。
●1943(昭和18)年11月 初志貫徹し高等科を経て下士官任官へ
(聞き手)そのあとの、ひととおりお話しを聞いていきますね。で、海軍病院を出た後ですね、退院された後に、今度は高等科練習生になられてますね。で、ちょっとここでその大本営発表が嘘を書いていて、まぁ裏切られたっていう思いもあって、それでなぜ高等科に進まれたのか。
それはね。ミッドウェー海戦で大敗をしたちゅうのは、大東亜戦争始まってから一番最初の負け戦やったわけですわ。ほんで、今までずーっと勝ち戦やってきてね、たった1回の負け戦でね、こんなもんでへこたれるわけないやないかと。まぁだまだ、それ初めての失敗やからね。ようし、また頑張ってやり返すぞーっという気ですわ。ほんで、私自身は海軍に入る時に、とにかく下からコツコツ入っていこう、中級の職業軍人やね、これになる、と思うとったからね。普通科、高等科と行って。だから、その気は全然変わりませんよ。だから、病院出て、鹿屋航空隊へ行って零戦の今度は整備するようになった。ほんで、資格ができたから、高等科行った、こういうことですわ。
(聞き手)では、むしろ初志貫徹を、ずーっと当初から変わらない、そのようにするつもりだった、ということですね?
そうですね。その時は変わりません。
●軍国少年の気持ちを変えたのはトラック島の飢餓体験だった
私が志願までして、純粋の軍国少年で17歳で志願して入った。その人間が今なんで、こういう反戦平和の運動をやっとるんや、ということになるでしょ。いつ、心変わりがしたんやと。これはね、南洋のトラック島でおって、食料がなくなって、どんどんどんどん餓死していく、その中でね、なんとか生き延びた。ただし、希望はなかったわけですよ、もうトラック島ではね。はっきりわかっとるのは、いつか知らんけどもう近いうちに、いつやろか自分の順番がまわってくるの、餓死の、野垂れ死にする順番いつやろかという状態、つまり絶望の時ですやん、はっきり決まっとるのはその絶望しかないわけですわ。希望はもう全くゼロ。そうでしょ。で、その時に初めて私は、これは国にだまされたな、と。気持ちが180度変わりました。
本来ならね。アメリカみたいに、たとえ兵隊であろうが誰であろうがね、人の命をと、国民の命をとなると第一に考える、という考え方からいけば、食料がなくなってね、どんどんどんどん死んでいく、そういう状態になったらね、もう敵との、敵さんとのこの戦闘力の違いいうたらこーんなにあるわけでしょ。赤子の手ひねるようなもんですよ、向こうから見たら。だから、国の中央はね、もうそこで、そこでええから、バンザイせい、白旗あげなさい、言うてね、降参しなさい、捕虜になりなさい、って言わなあかんのですわ。その命令、人の命大事にするんやったらね、国民を大事にするんやったらね、その命令出さないかんわけです。ところが、己の命だけは極力一番大事にしてやな、兵隊の命はそこらの商品、そうでしょ。それで私は180度変わったわけです、その時から。だから、もうトラック島の話しはまぁあとからしますけどね、もう、その時におふくろの顔が浮かんできましたよ。もういつ死ぬかわからん時ね。痩せてな、もう30キロもならなかったやろと思うけどね。私はその時ちょうど23くらいやったから、まぁまぁなんとか助かったわけですや。そんなんですわ。その時ではね、下士官兵、海軍はね、少尉以上が士官でしょ、将校、ね。下士官以下は両方一緒にして下士官兵って言うんですわ。将校と下士官兵に分かれてますねん、海軍は。この差いうたらね、人間と虫けらの差ですよ。そのぐらい大きな差があるんですわ。もう、対応から食べるもんから着るもんから何からもう全部、こんなに。こんなに違うんですわ。こっちは人間、こっちは虫けら。ね。お国のために言うてね、お互いにね、戦わないかん人間がやで、そういう差ですねん。だから、普段ね、軍隊言うたらね、将校と下士官兵がね、もの言うことなんか、話しなんかすることないんですよ。人間としての語らい、それはもう全然ゼロ。かえ(構え?)!殺せ!命令だけですよ、言うたら。それが海軍の本当の姿ですねん。
(聞き手)このあと、トラック島でのお話しと、終戦を聞いた状況とをお話し聞いていきたいと思いますが、ここでちょっと休憩しましょう
●1944(昭和19)年2月-トラック島へ赴任後すぐに大空襲
今、言うたでしょう、トラック島で今度は2回目3回目の奇跡があった言うて。
(聞き手)そうですね
簡単に話ししましょうか、今
(聞き手)まず、トラック島の空爆を受けて
大空襲
(聞き手)大空襲はその何島に、トラック島では何島に、どこにいらっしゃったんですか?
あのね、トラック島へ行ったのは昭和19年の2月の始めですねん。ほんで、その時に、行ったんですけどね。
(聞き手)じゃ、もう、すぐ空襲
いや、1週間めに空襲来たわけ
(聞き手)ですね
で、飛行機も、他の飛行機の輸送艦で、一緒に行って、トラック島で、大きな環礁の中に島がたくさんあるわけですよね。で、積み上げて飛行機を陸上におろす施設はひとつしかなかったから、この島しかなかったから、ね、ちっさい島ですねん、滑走路が1本あったあれでね。他におっきな滑走路があるとこ、他の島にありますねん。ほんで、ここへ上がった。ほいで飛行機もここに陸揚げして、滑走路が1本ありますからね。ほんで、こっから飛び立って、本当はこっちのほうにある楓島言うとこへ駐留すべきやったんですわ。で、ここから飛び立ってここへ着陸、こっちも滑走路があるからね。ところが、そこ行くまでに、ここのところへ飛行機をもう全部陸揚げして、さあぼちぼちこっちへ行こうかなぁという時に、その前に空襲来たわけや、敵の機動部隊がね、航空母艦の。19年の2月の17、18と2日間やられたんですわ。その時もね。
ちょっとその前にね、トラック島のことについて話しておきますわ。トラック島いうたらね、南洋の、南方方面の1番大きな中継基地やったわけですよね。ほんで、中継基地になったのは、太平洋戦争が始まってから、ですよ。新しいんですわ。で、それまでは、だいたい南洋方面の中心いうたらパラオね。パラオ島にあったんですわ。南洋庁とかいう役所がね。ところが、戦争になって、戦争のための基地っていうたらトラック島のほうが重要なわけですわ。ほんで、こっちをね、太平洋戦争が始まってから、慌てて基地に、基地工事をやったわけですよ。だから突貫工事せないかんでしょう、戦争がもう始まっているんやから。基地建設の作業いうたら、普通は民間から組織した設営隊ですね、これが行ってやる。だけど、突貫工事やるためにはね、普通に連れてった民間人には過重労働はやらせないですわ。ね、問題になるから。どないしたか。昭和17年にね、日本中、日本の刑務所、囚人の、働き盛りの元気盛りのね、囚人を1600人束ねたわけですわ。ほんで、それを強制的に南洋のトラック島へ連れてった。そして、強制労働やらせたわけですわ。ほいで突貫工事やった。それでなんとか予定通りのスピードで基地建設ができたわけですわ。私たちが19年の2月に行った時には、やっと基地建設ができてね、ちょっと形ができたなぁと。今からどんどん飛行機もってきてね、せないかんなぁという時に行ったわけですわ。はぁ。だから、まだ私らは、私の部隊はここへ陸揚げしたやつを、飛行機を本当は飛ばして、こっちの楓島というところへね、いかないかんわけや。楓島自体がまだ十分な滑走路なんか工事がまだできてなかったんですわ。なんとか使えるな、ぐらい。そんな状態なんですわ。ほんで、その空襲受けたときはね。もう壊滅的な損害を受けたわけですわ。全滅ですわ。これも、上に危機意識がなかった。
(聞き手)そのトラック島の空襲が来る前に、もう少し規模の小さい敵機の襲来というのはあったんですか?
なかったんですわ。ところが、帰ってからね、私色々文献を読みました、何十冊って戦争関係の。ほんで、それ読んだらね、トラック島のね、そのね、空襲を受けたことをちょっと書いた本がありましたわ。兆候はあったんですよ。やられる1週間前にね、敵の偵察機がね、飛んできとるんですわ。それがわかった、そういうことがあったということね、本に書いとるんですわ。そんで、それまではね、1週間前までは、大和とか武蔵とかやな、あの連合艦隊のね、主力がトラック島におったわけや。港に。で、それらはな、敵の偵察機がきたから、これは何かやるな、と。危ないから、いうてな。これをパラオへ逃がしたわけや。それがわかったんですわ。その時にはそんなこと全然知らなかったけどね。帰って、図書館行って、本見て、知ったんですわ。それやったら、警戒せないかんでしょう、来るかわからんなぁていうのは。その1週間後に来とるんやから。もう、危機意識がないんですわ、指導部に。それでね、陸軍の、それから南方方面へ行く陸軍の兵隊を乗せた輸送艦がね、もう一時に入るわけや、補給にね。そんなのが入っとったりするんで、海軍の艦も入っとる。大和武蔵じゃないもっと他のちっさいやつがね。だから、海軍の艦と輸送艦だけあわして55隻、沈没されとるんですわ、たった2日間で。それから戦死したのが、陸軍の輸送艦に乗って南方へ行きよるね、人がそのまま艦と一緒に沈んで、陸軍の兵隊が死んでしまった。これが1万5千人。飛行機、持ってきたばっかりの飛行機、焼かれてなくなったのが350機。それから、もう、ここの重油タンクがあったのも燃えてしまったしね。港のその港湾設備も全部やられたわ。全滅ですよ。たった2日でそうなったんですわ。ほんで、私らは、それまでここの荷揚げした小さい島におった。そして、それ済んでからも、今度は飛行機乗ってみたって飛行機ないんですわ。ここで焼かれてしまっとるから。ほったら、名前だけは東カロリン航空隊って名前ついてたって、飛行機のない航空隊なんてね。航空隊じゃないですよ。何もすることがないですよ。ほんで、その後はまぁ一応楓島行ってやな、ほいで滑走路をもっと埋め立てして直したりする作業、土方みたいな作業したりね、そんなことしかないわけですわ。ほんで、それで、その全滅したからね。それでもうトラック島は(両手をあげて)バンザイですわ。それぐらい被害が多かったんです。
だから、まず、食糧がないでしょう、もう内地からの補給できないんやから。飛行機できよったら落とされる、艦できよったら潜水艦にやられる。だからもう、補給はストップ。完全に。だからまず食糧が困る、医薬品が困る、武器弾薬が困る、それから、トラック島からもっと南の方のね、たくさん進駐して行っとる、これらに対する補給も当然ストップですわ。トラック島自体がそんなからね。戦争なんかできませんや、それで。はぁ。
●2回目の奇跡 -防空壕-
ほんで、トラック島におった時に、始めに話したように、2回目と3回目の奇跡が私に起こったわけですわ。2つ目が、もうB29がそら、毎日ね、朝昼晩と定期便で空襲にくるんですわ、はぁ。ほったら、兵舎いうたってね、穴空いてますよ、トタン屋根、穴空いたトタンでやな、バラックみたいなん建てとったって爆撃でまたすぐ吹っ飛ばされるでしょ。穴倉生活ですよ、防空壕の中で、じめじめしたとこで。だから、補給機をようけやられましたやん。ほんで、半年してから、食糧が切れた、その飢餓状態が発生したわけですわ。はぁ。もう骨と皮とに痩せてね。トラック島では陸軍海軍併せてね、4万人おりました、約。その中で、半分の2万人が餓死したわけですから。で、私はまぁ、その時22歳やったから、元気盛りやったからね。まぁまぁま残ったわけですわ。そんでも、もう、いつ、今度は自分のまわり(順番)かいなぁというような状態ですよ、はぁ。
それで、2番目の奇跡いうのは、そのう、毎日防空壕に入る、B29来るからね。ほしたら、防空壕は2つあったんですわ。こちら側に(左を示して)大きな、入口の大きなね、ほいで、周囲は岩盤でね、頑丈な。ぱっと見たとこはね、ものすごく堅牢に見えるんですわ。こりゃぁ安心やな、と。ほんで、中は、入ってわーとまぁるく広がってね、3、40人くらい入れる防空壕。で、私はもう例外なしに、朝昼晩くるんやからね、来たら必ずそっちへ入ったわけですわ、防空壕へ。ほいで、もう1つのほうはね(右側指して)、上の土が薄いんですわ。ただし、入口がコの字型になってね、2つありますねん。ほんで、これ80メーターぐらい離れとるんですわ。ほんで、いつも必ずこっち(左側)もう例外なしに入ったわけ。頑丈そうやからね。こっち(右側)は頼りないから。ほったら、ある日にね、まぁ、毎日来るんやからね、ある日の空襲の時に、何の気なしにね、意識はあんまもうなかったんですわ。ただ、なんとなくこっち(右側を指して)入ったわけや、はぁ。なんの気持ちで、あの、警戒心が強くて入ったとかそんなんは全然ないんですわ、記憶に。こっち(右側)入ったんですわ。ほいで空襲が済んで出てみたらね。いつもずーっと入っとった防空壕が、入口1トン爆弾直撃ですわ。ふさがってしもうてね、岩が細かく砕けてガーッと(降るようなしぐさ)なっとるから。さぁ、栄養失調でフラフラになっとるけど、スコップ持ってはみな夜通し交代でね、あーっと掻いて。出さな、助けないかんから。掻いてのけたら、上からザーっと落ちるんですわ。のける、また落ちる、のける、また落ちる。入口が見え出したのがね、1週間かかりましたんや。1週間いうたら長いですやん。生きとれるわけないですやん、中。中、その時はね、20人ぐらい入っとりましたわ。ほんで、入口がこうあるでしょ、入口あるから、左右分かれて、向こうは出口、入口、空気が向こうやから。空気がきよる方へね。空気吸いたいから頭つっこんでね、わーっと、入口の方へ。頭つっこんで、左右に分かれてね、そのままですよ、亡くなったんですわ。これも戦争の姿や。私にしてみたらね、人間業ではどうもできませんや、そんなこと、何百回いうて、こっち(左側)ばっかりずーっと入っとったのに、たまたまこっち(右側)入ったらやな、その時にこっち(左側)やられたっていうのがね。これが2回目の奇跡ですわ。
●3回目の奇跡 -レイテ島へ 生死を分けた抽選-
で、3番目の奇跡はね、まぁ、これにも書いてあるように、戦争は負け戦がどんどん、ね、ひどくなってくるわ、我々はもう食べる物はないし、フラフラで、いつ自分渇え死ぬかな、順番いつかいな、というふうな時でしょ。希望なんてありませんよ。あるのはもう、さっきも言うたように絶望だけですわ。ほいで、はっきりしとるのは、いつ渇え死にがまわってくるかいな、ということだけですわ。はっきりしてるのは。これは確実に、もう渇え死ぬ。それ以外わかったこと何もないわけですや。ほしたら心理としてね、内地へはもちろん帰れない、ね、帰れない。帰る方法、飛行機もないし艦もないし、帰れるわけないですや。だけど、どうせ死ぬんやったらね、今おるとこよりも、たとえちょっとでも内地に近いとこへ行きたいなという気があるんですわ。本能がね。
ほたら、トラック島よりフィリッピンのレイテ島のほうが内地にちょっと近い。ほんで内心よろこんどったんですわ。だって他の人転勤命令が来てないのに、自分だけそんな嬉しげな顔できひんからね、黙っとったけど、内心ではよろこんどったわけ。ほいで5人の転勤者、転勤なるのはええけどやな、どうやって行くんや、と。飛行機も艦もないのにね、どうやって行くんやと。ほしたら、潜水艦のね、もう一番古い型のね、小型のちっちゃい潜水艦のね、それがあるから、それで、トラック島だけじゃなく他の島おる奴も転勤命令を受けたもんがおるわけや、何人かね。ほったら、その島回って、一人あて(ずつ)各島から乗せながらレイテ島へ送る。トラック島でも5人おる中で、5人がいっぺんには乗れないんですわ、1人しか乗られない。順番決めないかんでしょ。ほったら、ホントは1人はよ行きたいですわ、1日でも早よ行きたいやん。そんなこと思ってても出せませんわな。しょうがない、抽選したわけ。ほんで抽選したら、運の悪いことに、私が5番目になったんですわ。そん時はつらかったですけど、まぁ、待たなしょうがないわな。ほんで、私のそういう行き方で、私の前4人までは無事に行ったわけですわ。あ、今度きたら俺の番やな、と思うて待っとったら、来るというその日にね、連絡が入って、今日来たやつが駆逐艦に見つかってね、相手の。爆雷やら、で攻撃うけて沈没した、と。この連絡ですや。あーもうがっかりしましたわ。はぁ。
ところが、それからもう二月か三月か知らんけどね、してから、通信兵が防空壕の中で内地のラジオを傍受しとるからね、ほんで聞いとったら、太平洋戦争の最後の大決戦を、陸軍と海軍は両方合同で兵隊を集めてやな、最後の戦いを、大決戦をやったと、レイテ島で。その結果、大敗をしてね。完敗をして、とにかく玉砕、全部。戦、総員玉砕、というニュースが入ったわけですわ。さぁ、それ聞いた時に私はびっくりしましたわ。喜んで、順番が早かったり、潜水艦が無事に来てくれたら、私は行っとるわけや、フィリッピンへ。そしたらもう、完全に玉砕やからね、完全に死んどるでしょう。その時も助かった。これも人間業じゃないですよ。はぁ。ほんで今現在生かされとるわけですわ。そんな状態ですねん。
●トラック島での飢餓体験
ほったら、その時にね、おふくろの顔が出てきました。ほんで、どない思うたかいうたらね、はっきりわかっとるのはもう、とにかくここで野垂れ死んで椰子の肥やしになるだけやと。こんな死に方がね、元々海軍に兵隊に入った時からもう死ぬのは覚悟しとりますやん。だけど、この死に方はね、食べ物がなくて野垂れ死んでね、渇え死んでね、こんな死に方は納得できないと、とにかく。そんで、おかあさんに、こんな死に方になってすみませーんいうて、そんな気持ちになりましたわ、はぁ。敵と戦こうてね、死ぬんなら話しわかるけどやな、こんな死に方なんてないでしょう。納得できない、これは国に騙されたなぁと、さっきも言うたように、その通りですやん。国はそんなこと何も心配しとらんわけですわ。玉砕しようが何しようがね。まぁ、そこらの虫けらが死ぬのと一緒やから。それで、私の気持ちは180度変わりました。
(聞き手)レイテ島への転勤命令が来た頃には、もうそのように考えは変わっていらっしゃったんですか?
それは知りません、わかりませんわ。あんな離れてんだもんね。
(聞き手)いや、転勤命令が来ましたね。その頃には、もうご自身のお考えは、国に騙されたっていうふうに、お考えはもうそのころには変わってらっしゃったんですか
あーそれは、なっております。それになっとる、もうなっとるんですわ。もうはっきりわかっとるのは、野垂れ死にすることだけやからね、渇え死ぬことだけやから。だけどね、そういう時の人間ちゅうのはやっぱりちょっとでも内地へ近づきたいなという気は、こらありますわ。
(聞き手)その、レイテ島への転勤命令がきて、ご自身も内心うれしかったとおっしゃいましたが、まわりの方も結構うらやましがられたんじゃないかなと思うんですけど、そういう反応はありました?
あーそうかわからんなー、だから、そういう気があるから、私は嬉しい顔は全然表に出したらあかんと思うんたんやろな。
(聞き手)あまり、それについては表立って、同じ隊の人と、そういう話しをすることはなかった?
全然、全然ないですわ。
(聞き手)かなり飢餓の状態が続いていて、B29とかグラマンとかの空爆というのは、どれくらの期間続いていたんですか?
さぁ、期間どのぐらいやろな。とにかく大空襲受けて全滅したでしょ。それからのちにはね、B29は毎日とにかく、朝昼晩と来ましたわ、定期便に。どのくらい?それからのちは今度は、もっと今度は毎日じゃなくて1週間に1回とかね、減ってはきたけど、その期間はどのくらいやったかはあまり定かじゃないですね。
(聞き手)ただ、攻撃がどこかで、まったく無くなった時期というのはあるんですか?
完全に無くなったのは終戦になってからですわ。
(聞き手)それまでは、間遠であっても、定期的に
うん。ほったら楓島っていうのはね、島は、こういうふうに長い、こういうカッコですわ、卵型のね。こう、こうにちょっと長いんですわ、ほんで長い言ったってこれ、全部の周囲がまぁ4キロか5キロぐらいの島やから。ほんで、島の半分を削って、崩して滑走路を作っとるわけですからね、横へ。ほんで、しとるから。B29はね、編隊組んでね、ばーっと飛んできて爆弾落とすでしょ、編隊やから、こういう、こう山型の形でね、こう広がって、島がちっさいからね。端の方の爆弾はみんな海の中へ落ちよりますねん。島の上通り越して。そんな状態でしたわ。
(聞き手)逃げ場がないですね
ま、逃げ場無いですわ、防空壕いうたってね、もう、なんちゅうか、気休めみたいなもんですわ。
●トラック島のさつまいも
(聞き手)あといくつか質問させていただきたいんですが、トラック島でさつまいもの苗、ここに書いてあるんですが、さつまいもの苗というのは、どうやって入手されたんですか?
これはね、あのー戦争が始まる前からね、南洋は日本が移民統治しとったでしょ、ドイツが負けてね。移民統治しとったその頃にあっちに企業がまぁ進出していったわけですわ。ほんで、その中の企業が南洋拓殖株式会社いう会社が行っとったわけやね。ほんで、まぁ、何しとったか知らんけど、いろいろ商売しとったんでしょう。で、その中に芋も作る仕事しとったんやろうなぁ。そこから苗をもらった、と聞いてますわ。
(聞き手)そうすると、さつまいもの苗は、最初っから島にあったというか軍として手に入れてたんですね、結構前から
まぁ初めからあったんか、他の島にあったやつを分けてもろうてきたんかわからんけどね。もともと最初からトラック島にあったというんではないと思いますわ。
(聞き手)でも、早い時期に持ち込んではいた、んですかね?
そういう産業ではなかったんやろね。だから、畑なんてのなかった、行った時は。
(聞き手)畑を作るようになったのは、もちろんトラック島の空襲が起きてから、物資が欠乏したあとに?
そうそうそうそう。だからジャングル入ってね。あまり木のようけ生えてないようなとこね、なんもないようなとこを、ちょっと。本格的な、あの、開墾じゃないけどね。芋作れるぐらいに、こう畝を作ってね。やりよったわけですわ。
(聞き手)そういう畑の作物は、各部隊、どれくらいの単位で管理してたんですか?
あの、さぁ、他の部隊は知りませんけどね。私らのおったそのカロリン航空隊のあれは、各班にね、班がどのくらいあったんかなぁ、だけどまぁそんなに広くないですわ、畑いうたって。この部屋全部もなかったぐらいやなぁ。
(聞き手)そんなに小さかったんですか
小さかったですわ。ジャングルだから、だからそんな固まって開墾できるようなとこはないですやん。
(聞き手)1班何人くらい、その小さな畑で何人分くらいの食糧を得ていたんですか?
1回の食事にね、まぁ、こんな小さい、こんなの1個ですわ。1日でっせ。1日1個やからな。やっぱなんか他の、腹ん中入れんことには辛抱できませんや。毒にならんものやったら何でも入れとこうという考え方ですね。ほいでジャングルに入って木の葉っぱ取ってきて、しっかりしてて煮て食べよったんですわ。
(聞き手)班ごとに畑を作っていたんですね。そうでもない?
班ごとかな、分隊ごとか…。分隊ごとやったと思いますけどね。
(聞き手)ここにも書いてあるんですが、分隊ごとだとしたら、他の分隊の人が盗みに?
盗りにくるわけですわ。あのね、こういうことがあるんですわ、不思議なことやけどね。食糧なくなるでしょ、ものがない、ほしたら、なんぼ腹が減っててもとにかくもう人のものは盗らないと。あるもんだけ口に入れてね。ほんでそれが当たり前ですやん。みな腹減っとるわけやから。だけど、人より余分にね、ちょっと盗んできてね、食べたりね、するやつがある。すると人より盗んできて食べたら、食べ物はそんだけ余計に食べとるでしょう?だから身体は、食べてないモンよりはしっかりせないかんでしょう、普通は。余計食べてんのやもん。ところがね、盗んできてね、人より余分にようけ食べたやつが先死にました。これは不思議やったなぁ。だから、そんなときに泥棒なんかしてね、見つかったら殺されるなぁ、そういう心配しながら食べたってね、ひとつも身につかん、ということじゃないかなと私は思いましたわ。で、そこにも書いてあるように私は水泳が得意やったから魚捕りに入ったでしょう?カヤック作ってね、で、こんで命ほうったモンもおりますわ。だけど、海へ入って魚捕ったってね、食べんほうがましやねん。海に入っただけでもう身体熱量取られてしまうからね。魚とって補える熱量より、水に取られるほうが多いから。いらいらするだけやから、やめました、もう、これは。そりゃ、海へ入らんと、捕ってきてもろうて食べるんならね、そりゃそれ越したことはないけどね、私の場合は、自分が全部班のやつに食わそう思うてね、やったから。あかんかったから。まぁ、だいたい戦況いうたらそんなもんですね。
●玉砕の真相-戦後調べて憤ったこと-
だけど、ここでひとつね、海軍とは直接、私の戦争体験とは関係ないんですけどね、ちょっとお話ししたいことがあるんですわ。それは何か言うたらね。帰ってから私は市の図書館へ行って何した、戦争関係の本を読んだ。そしたら我々の知らん、一兵卒ではわからんようなことがようけ書いてある、いろいろね。ほんで、その本読んだ結果ね。特に話ししたいのはね。アッツ島、アリューシャン列島の、アラスカの方のね。アッツ島、聞いたことありますか?アッツ島とそれから硫黄島、の玉砕。これはね、本当に許せませんわ、国を。そのぐらいみじめなね、死に方しとりますねん。で、これはね、もう特に話ししとかないかんな、と思うのは、国が、だましてね、兵士をだまして、見殺しにした、というもうこれは証拠やから、動かん証拠やから。で、それはどんなことかというとね、兵力が足らんから、弾がないから、食糧が足らんから、送ってくれ、と言うて本部へ電報、電報を打ちますやん。そしたら、本部はね、よっしゃーわかった、送るから、もうちょっとしたら送るから、頑張っとれーって言うて返事するわけですわ。そしたら、それを真に受けて頑張りますやん、戦地は。弾なかってもね、食糧なかっても、なんとか生きとらなあかんなー思うてね。やるでしょ。待っとったって送ってこんから。また2回目、またやるわけよ。そしたらまた同じ返事ですわ。あーもうちょい今準備中やから、ちょっと遅れとるけどな、今準備中やから待っとってくれ。頑張ってーて言う。また信じよるわけや。また待っとるでしょ。来ない。ぐわーーっとまた3回目、電報打つ。ほったら、いやいやちょっとな、なんとかかんとか言うて、嘘ついてまた引き延ばすわけですわ。なんのことない、東京の本部ではね、もう見放しとるんですわ、ああ、あの基地はもうあかん、だめや。ほってまえ、いうてね。思うとるわけや。だから送らんのですわ。したら、現場、現地はあんた、そんなことはね、夢にも思わんから。東京の言うこと信じますやん、同じ日本人やし。まさか見殺しにはせいへんやろう思うとるでしょう。だからもう3回4回と、4回してこなかった。これでね、現地の隊長が察するんですわ。これは、国はな、もう見放したな、と。見放されたな、とね、思うでしょ。
そしたらね、隊長の立場としたらね。アッツ島は二千四五百人おったわけですよね。それから硫黄島は二万五六千人ですわな。この部下のことを考えたらね。このままでおったら野垂れ死ぬだけや、食糧ないんやから。期間が長いでしょう、長く苦しまないかんでしょう。だから、もう早く楽にしてやりたい、と言うんで、自分ももちろん一緒に死ぬんですよ、だから、もう食料もない、武器もない、弾もないんやから。殴りこみかける言うたってね、夜襲かける言うたって素手ですやん。持って行く武器がないねんから。それでもね、それやってでも、もう早く、命をもうね、始末さしてやりたい、と。長く苦しめないから、ね。つらいから。いうんで、素手で突っ込んだわけですわ。ほんで、アッツ島の場合はね、死んだ、その人から見たらお祖父さん、孫やね、孫になる人がお祖父さんの死に方をやな、絶対、なんとしてでも調べたい、と。どういう死に方したのか、いうて探したわけですわ。
色々生き残っとる人を探したらね。日本では手がかりがなかった。そしてね、あきらめられなかった。アメリカ行ったんですわ。ほんで、アメリカ行って、情報関係頼んでね。だいたい何年頃、アッツ島で駐留しとったアメリカの兵隊さん調べてくれ、生き残っとる人、いうて、調べて頼んだら調べてくれたわけや。ほんでわかったからね、その人のところへ訪ねて行ったわけや、孫が。ほしたらね、おったわけや。ほいで、その人の話しを聞いたらね。こうこうやったんや、と。日本人のね。ここ。
そして我々はあの時に、アメリカの駐兵でおったけど、もうとにかくね、日本人が晩に夜襲かけてくるいうたって、素手でくるんだと。で、素手で、なんぼ素手できてもね、殴り込みかけてきた限りは、やっぱり撃たなあかん、っていうんですわ。だから、素手でもう撃つのはつらいから、その人は、もうどうか日本の兵隊さん、もう夜襲来んといてくれ、と、素手で来んといてくれ、というて、思うたっていうんですわ。それでまぁ、自分のお祖父さんの死に方わかったわけや。
で、硫黄島の場合はね。いまだに本を覚えとるんですわ。NHKが発行しとる本があるんですわ。各戦地の、大きな戦闘のね、あの、ことを記事にしとるわけです、本に。硫黄島の玉砕戦、硫黄島の玉砕戦というね、本があるんですわ。NHKが発行しとりますねん。分厚い表紙でね、ほんで、NHKが発行しとるのは1巻から27巻までありますねん、本が。ほんで、硫黄島の玉砕戦という本は第5巻目ぐらいやないかな、と思うんですけどね。はっきりは忘れ、覚えてないけど。それを読んだらね。あのNHKがですよ、政府寄りのNHKが、全部書いとるんですわ、真相を、硫黄島の玉砕の。どんなことが書いてあったか、私、たいがいのことは恐れんけどね、それ読んだ時にはね、ほんまにびっくりしましたわ。どんなに最後死んだらあかん、死守せなあかん、思ってね、残って、生き残った兵隊が、何を食べて命つないどったか。これ、今ここでは言われません。人間の死体どころじゃないんですよ。それ、ちゃんと本に書いておるんですよ。ほんで、隊長、あれ、中将なんとか中将が、なぁ隊長やったが、最後に手紙、本部、東京本部へ出してやな、玉砕したんですよ。そういうことをね、国は平気でやるんですわ。だから私手記にも書いとんのやけど。国はな、いい言葉に騙されるな、と。みんなは。こんなことを平気でやるんやから、いざとなったらね。国民を騙して見殺しにするぐらいは朝飯前にやるんやから。いうことを、私ははっきり、中学生の前ではっきり言いますねん。だから、よう覚えておきなさい。これは今だけ覚えるんじゃなくて、君たちが生きている間、一生涯覚えとるんだよ、って言います。そのくらい大事なことやからね。
●軍隊の理不尽-飢餓の中で-
(聞き手)あと、2つくらいご質問させていただいて
どうぞどうぞ、なんぼでも。
(聞き手)ひとつは、こちらの手記に書いていただいているんですが、トラック島で飢餓が進んでいる中で、士官が銀飯をごはんを食べていたと。というあたりのお話しを
これ言うの忘れとったわ。私は、当時はね、私はもう昇進していってね、下士官の1番上の上等兵曹いう階級ですわな。それになっとったんですわ。それで班長してね、しとったんですけど、その時にね、班員がどんどん死んでいくでしょう。ほんで、それ(?)から、なんとかしてもらおう思うてね、分隊長のところへ、その班長ばっかり下士官ばっかりが4,5人揃うてね、頼みに行ったんですわ。なんとかしてくれと。応急用の食糧は、冷蔵庫、じゃないわ、防空壕へ入れておるんです。もし敵が上陸してきたら、それを食べて戦わないかんから言ってね。応急用食糧はあるわけや。で、士官はそれを食べとるわけや。当たり前の顔をして。銀飯ですや。麦も入っていない白飯ですやん。こっちは草食べて命つないでおる。向こうは銀飯食っとる。こんな莫迦な話ないでしょう。同じ国の、同じ軍隊で、同じ人間やのに。そういう差がね、どこまでも軍隊はあるんですわ。これが腹立つんですわ。だって、その時はね。ほんまに目の前にいる分隊長を殺してやろう、と思いますよ。その体力がなかったけどね、気持ちだけはそうですやん。だけど、それしたらこっちの負けになるから。できないし。もう泣きながら帰ってきたですよ。
(聞き手)それは何人かで、食糧を分けてくれ、とういう形で?
5~6人で行きましたわ。食糧を放出してくれ、と。
(聞き手)その、放出というのは、防空壕の中に、要は戦闘時の食糧としてとってあるものが
士官殿は、どこで隠してあるものを食いよるか知りません。だけど、こっちは応急用のやつを、隠してある防空壕の中保管してあるのを知っとるからね。番兵が立っとるから。実弾入れた銃持った番兵が立っとんのやから。
●1945(昭和20)年8月-終戦-
(聞き手)で、最後ご質問なんですが、そうしてトラック島で8月に日本が敗戦したという知らせを知ったと思うんですけど、その敗戦の知らせを聞いた状況と当時の様子を教えていただきたいんですが
その時はね、ラジオでね、聞いて、傍受しとるから、知ったけど、どん気やったかな。あんまり深い感激はなかったですね。だけど、あーこれで終わったか、あとどなんなるんやろなー、なんて思いましたな。だって、身体はもうよぼよぼやったしね。だけどまぁこれでとにかく空襲はもうこないようになったなー。な。それで食べる物が一気に増えるわけじゃないんやから。そんで、トラック島ではね。その後ね、終戦になってからは、アメリカ軍が、もうあくる日進駐してきたから。早い、やることが。そして、結局、おのれが爆撃して滑走路へ穴ようけ開けたでしょ。その穴埋めさすんですわ。土方仕事ですわ。
体力ないのにね、しんどいですやん、それ。それで、まぁ、そうなってからは、応急食糧出して、それをまぁ食べながら、ぼちぼちね。まぁ仕事したからな。
(聞き手)その時になって、戦争が終わって、ようやっと備蓄されていた食糧が、徐々に放出されていったんですね
そうですね。そんで、アメリカの、その土方の作業やからね。防空壕埋める、いや穴埋めるったら。だから物食べなできませんやん、そんな仕事。
●トラック島設営作業員(受刑者)その後
あ、そんで、さっきちょっと話し、あのー始めのころしたけど、あの、1600人の罪人集めて作業した言いよったでしょ。あれね。その後の話しがあるんですわ。1600人連れて、強制でやらしたでしょ。作業はそれで一応できた。そしたら、その済んだ後、今度は我々と一緒で、大空襲のあと、食糧なくなってやな。飢餓が始まった。これもみな一緒ですやん、条件はみな。ほんで、それでまぁ死ぬ人は死んだ、助かるもんは助かった、でしょ。それで、彼らは、1600人来た中で、その、設営のため来た人間は、また引率して帰ったわけですわ。12月のね、昭和20年の、本に書いてあったんは、昭和20年の12月の30日に浦賀へ帰った。何人帰ったと思います?1600人の中で。生き残って、帰った者。たったの70人ですよ。1600人連れて行ったんですが、帰った時にはたったの70人。しかもね、浦賀に着いて上がった時に、法務省から役人がやって来て、どんなこと言ったか。今この場でね、お前らを解放する、無罪釈放してやる。その代わり条件がある。トラック島でおった時の話しはいっさいするな、と。ばれるからね。強制労働やらしたことがばれるでしょ。だから、いっさいそれをしゃべるな、と。もししゃべったらね。すぐに逮捕して、放り込むぞ、と。こう、役人がそう言うとるんですわ。そんなことも、いざ、なったら国はまぁ平気でやるんですわ。それ、ちゃんと本に書いてあるんですよ。秘めたる戦争、秘めたる戦記、いうね、秘めたる戦記ですわ。いう本に書いてあるんですわ。
(聞き手)トラック島で、そういう刑務所から来た受刑者が、トラック島で働いていたっていうのは、当時部隊の中で何かそういう情報とか?
全然、知らなかった。私は帰って本読んで知ったんですわ。
(聞き手)ずいぶん、前、瀧本さんが来る前からずっといたんですもんね)
17年からおった。
●飛龍の自沈
(聞き手)質問、よろしいですか?飛龍が沈んだ時のことなんですけれども。駆逐艦から魚雷を2発発射して、沈んだっていうことなんですけども、それは誰の命令で魚雷は発射されたんですか?
それは、誰の命令やったかは知りません、私は。駆逐艦から魚雷発射するのは駆逐艦の人間がやるわけやしね。どういう命令系統でやったか、これわからない。ただ、発射したのを見て、爆発するのを見た、ということですわ。そん中の命令系統いうことは一切わかりませんわ。想像ですわ。アメリカ持って帰られたら困るから、ということで、やったんだろうな、という想像ですね、これは。
(聞き手)じゃ最初から決められていたとかでなく
で、その魚雷発射、魚雷で沈めたということはね、いまだにね、公式にはね、発表してないんですよ。
(聞き手)瀧本さんの乗っていた駆逐艦から発射されたっていうことなんですよね?魚雷は
そうそう
(聞き手)それはなんていう駆逐艦ですか?
名前忘れましたわ。書いてある本もあったけどなぁ。忘れましたわ。
●学徒兵の特攻について
あ、それからもう1つね。ちょっと、これも直接は関係ないことやけど、沖縄の学徒兵が、大学生が、卒業まで延期しとったやつが取消になって在学中のそのまま行ったでしょ、特攻兵になって。この話し、ちょっと、ね。
これはね、これも、国による騙し、見殺し、なんですわ。これはどういうことかいうたらね、あれ全部で4,000人ぐらい死んどりませんか、ね、学徒兵が。それは、沖縄の特攻、特攻ということはアメリカの空母に対する攻撃のことなんですわ。飛行機に乗ってってね。やっと飛行機を飛ばせるだけの技術しか持ってないのが爆弾と一緒にいって、体当たりやからね。それもね、現場の指揮官おるでしょ、現場の指揮官が。百も承知ですよ、現場の状況は。100機行ったって、1機も帰ってこないんやから、ね。それから、向こうの母艦に到達のできないんや、1機も。空母としたらね、アメリカの空母としたら、空母の200キロ前、300キロ前をね、2重にちゃんと戦闘機で護衛しとるわけですわ。たった、経験の1年、飛行機をやっとこさ飛ばせるぐらいの技量しか持ってないのやからね。ここではみな撃ち落されてしまうんですわ。それでなくても重たい爆弾抱えてんだからね。ここでやられる。マチ(袋のマチの意味で使うときのマチでは? 遊び、奥行きというような意味の)があって、2つの防衛線の中へ入って、母艦に近づいて行ったら、今度は母艦のもんのすごい装備しとるから。だから、ゼロです。効果ゼロ。それがずーっと続いとるわけ。で、それを現場の指揮官は百も承知やからね。東京へ電報打つわけですわ。この特攻作戦は取りやめにしてくれ、と。全く効果がない作戦やから。無駄死にさすだけやからね。ストップしてくれっていうて、電報打つわけですわ。聞かない、東京は。聞かない、己の面子だけ考えてね。いったん命令出したやつを取消なんかできるか!ちゅうなもんですわな。お前ら行って死んでこい!なもんですやん、結果は、もう。ほんで、現場の指揮官はそう言われたらしょうがないでしょう、軍隊やから。ほったら、学生らではね、もう、あの、現場の指揮官は、特攻に行くもんがようけ書いとるでしょう、遺言ね、遺言書いとる。みんなわかってますやん、遺言読んだってな、これ嘘書いとるなっていうのは。だいたいもう、行ったって効果はゼロやと。だけどそれわかっとって俺らはもう行かなしゃーないんやと。いうことで行きよるわけですわ。それを聞かない!東京の首脳はね。聞かないわけですわ。奴らが大事にするのは己の命だけやから。そうですわ。
●戦争中で辛かったこと
(聞き手)ありがとうございました。ごめんなさい、なかなか質問が終わらなくて。その、全体のね。瀧本さんが飛龍の搭乗員、飛龍だけじゃないですけど、軍国少年だった瀧本さんが長い、長いですよね、兵隊としてずっと戦ってこられて、トラック島で飢えてから考えが変わられたりしてたと思うんですけど、全体を通じて1番戦争中で悔しいというか辛いというか、そういう時はやはり飛龍が燃えた時とかは辛かったですか?それよりもトラック島で飢えているとき
それはね。その時には私はまだ下っ端の1兵卒で、だから本当に中央でどういうことがあったか、これわかりませんや。だからもう、もうそんなこと考える余裕ないですよ。目の前の命令された、やらないかんことを、それをもう命がけで作業するだけですよ。で、私が今のような気持ちになったっていうのはね。やっぱりね、帰って色々文献読んだわけですわ。ほんで、真相がわかってくる。それからですわ、本気になって私が怒り出したのは。
(聞き手)じゃ、兵隊であった時には、そういうふうに怒るとか、そういうことはなくて、もうひたすら命令
そうですわ、そうですわ。その時でもね、まぁ、中央が、幹部が、司令官がこういう間違いをやったっていうのがはっきりがわかっとったら怒りますよ、なんぼ兵卒でもね。だけど、それをわかりませんやん。そんなこと考える間ないの。なんでこうなったんやろうか、ちゅうようなことね、考える余裕ないですよ、もう。こっちも命がけで作業しとるわけやから。航空母艦のね、花形言うたら整備兵ですねん。整備兵がおるから航空母艦は動いて、しようとするわけですわ。そしたらね、そんなこと考える間ないですわ。もう、動きどおしやから、そんで飛行機があの狭いとこで発着を、ね、着艦する、その作業を全部整備兵がやるんやからね、大変ですよ、これは。
(聞き手)そうすると、飛龍が炎上して、飛び立った飛行機が燃料切れで海に突っ込むしかないのを見てるというのは、整備兵としては辛い
そら、辛いですわ、なんともいわれません、言いようないですわ。だって、整備兵と、整備兵と搭乗員ちゅうのはもう、これ、持ちつ持たれつやから、もうものすごく親密ですからね。
●若い人に言いたいこと
それで、ここへちょっと文献読みしたのを最後に申し上げたいことを、ちょっと簡単に。
まぁ、だいたい察してくれたとは思いますけどね。私の一番、主張、主張したいことですね。それで、これはね、大事なこと、やから、私が、あの、小学校なんかで生徒さんに話すのは、国はね、いざになったら命を守ってくれないから、自分の命は自分で守りなさいよ、と。人は、人を当てにするな、ということね。たとえ親子であっても、戦争になれば、親は子どもを守ってやることができないんやから。そこんとこよく知りなさい、と。いうこととかね。
それから、国やら新聞とかね、いろいろメディアの発表は、全部が全部正しいと思うてね、信用したらいけない、ということ。どんな騙しがあるかわからんからね、その騙しを見つける知識を身につけなさい、と。勉強しなさい、と。そういうことも。それが自分を守ることになるんやから。そういうこととかね。
それから、問題が起きたらね、物事を、大事な問題が起きたら、自分、人を当てにしないで、自分の頭で考えなさい、と。そんで答えを出せ。答えが出たら、その答えにふさわしい行動をとりなさい、と。自分の頭で考えてわからん時には、そしたらどないする。その時はね、偉い人じゃなくて、1番信頼できる人に、相談をしなさい、と。社会的にね、位が高くてね、そういう人には相談するなって私。嘘つきが多いから。それより、自分が信頼できる人に相談しなさい、と。それとまぁ、自分の命を大事にして、ていうのは人さんの命も大事にしなさいよ、と。ね。
それから、戦争は誰が決めるんや、と。何のために決めるんや、と。戦争決めるのは一握りの政治家や。政治家いうたってね、一握りの。中央におる。それと、各役所の一握りの幹部。それと、経済界の幹部。これらが寄って相談して決めるんやぞ、と。何の目的で決めるんや、いうたらね。それは、表面上はね、お国のためだ、って言って綺麗な言葉使うけどね、その言葉には騙されるな、と。本心がどこにあるかをね、よく見抜きなさい、と。それが何か、言うたらね。戦争が起こるのは、政治的な問題が理由になって起こる。ところが、戦争いうのは、いったん始まったらね。戦争が始まった時点からコロっと変わってね、政治問題は引っ込んでしもうて、経済問題が出てくるんやと。すり替わるんやと。経済問題言うたら何やと。経済いうたらえらい難しい聞こえるけどね、何も難しい理屈はいらん、て言うんですわ。経済いうたらこら金儲けやろうがと。煎じ詰めたら。経済いうたらね、金儲けですやん、最終的には。金儲けのために、それが目的で、戦争は始まるんだよ、と。
ほったら、戦争が始まったら、決める奴は安全なとこにおるけど、戦地に実際に行って戦うのは、君らが行くんだよ、と。これをよく知れ、言うんですわ。戦争を決める奴は、命令する奴は、絶対戦地へ行かないから。これよく覚えとけ、って言うんですわ、私ね。
若者の命と引き換えに、若者の大事な命と引き換えに、金儲けするんだよ、と。それが目的なんや、戦争は。口でどんなこと言うてもね。現実の姿はそうなるって言うんですよ、私。だから何も難しい理屈はいらん。
ほいで、もう1つわかりやすく言ったらね。戦争いうたら、大事に大事に育てた息子が、親より先に死ぬことや、って言うんですわ。これも動かせない事実ですわ。理屈要りませんや。必ず、親より息子が先に死ぬのが戦争の姿ですや、ね、本当の。強制的に行かされる。そうでしょう?これ言うんですわ、私。
もう中学生なんかだったら十分了解してくれます、それでね。そんなこと言いよったいうのも、まぁ、それみて、よかったら、差し入れてもろうたらいいですわ、中に、適当に。
(聞き手)わかりました。じゃ、どうもありがとうございました)
まぁまぁ、このくらいで。またあの、聞きたいことがあったら、また電話してください。
●空母における搭乗員と整備員
(聞き手)飛行機乗りの人とは交流があったんですか?かなり
ありますあります
(聞き手)四国で、真珠湾攻撃の時の飛行機乗りの人の話しを聞いたことがあるんですけど、そういう時って、普段はどういう交流をされていたんだろうかと思いまして
いや、普段はね、あまり深い交流はないんですわ。お互いに信じあっとるけどね。だけど、あんまり、この、詳しい戦いの、その、内容とかね、そんなんは話すことないですわ。
飛行機の整備しとったらね。ちょっと、大きな念の入った整備をした時には、必ず試技、試験飛行ね、試技飛行いうのをね、これやるんですわ。で、その整備した本人もそれ一緒に乗っていかなあかん。だから、それいいかげんな整備はできんわけですわ。自分も一緒に乗って、だったもんやから。
(聞き手)命がけでやらされていることになるんですね
そうそうそう。いい加減な整備でけへんもんね。まだ、シ(?)もついてへんけどな。そういうことなっとんですわ。
(聞き手)空母で、200メーターちょっとしかないじゃないですか、滑走路が。で、それに止まるために、こうワイヤーでなんか飛行機をひっかけたりするのがあるんですか?
そうそうそう、それもちゃーんと装置があるわけですわ。それからそれ引っかからんと、何十機もようけ収容せないかん時には、いちいちいちいち下へ降ろすわけにいかんからね。飛行機の前からこうずーっと溜めていくわけや。ほたら、それなんとかせんことには、失敗した奴があったら、ダーンと突き当たるでしょう。だから失敗したときでも、衝突せんようにね、飛行機の前3分の1ぐらいのとこ長さのとこへ衝突防止網いうね、大きな太い鉄の、鋼鉄のワイヤーでつくったね、あれが、バーッと立てるんですわ、高さ3メートルくらいのやつが。で、もし、着陸に失敗したら、出たら、それにバーンと衝突する。ほたら、その飛行機だけは駄目になるけどね、他のはどうもないから、傷つけないからね。そういう装置も色々あるんですわ。
(聞き手)それを動かしたりっていうことなんですね。それの操作も整備の仕事なんですか?
それも整備やけど、それは、別のもんが下でやっとるわけや。
(聞き手)1回、1機飛行機を飛ばすために、だいたい通常整備は何人ぐらいで、チームというか班を組んで仕事するものなんですか?
さぁーなんぼぐらいかなぁ?あれは厳しいですよ。人数の割に飛行機の数多いですわ。もう、分隊の人間、人数忘れたけどなー。だいたい、あのー、ひとつの空母にね、ま、空母の大きさにもよるけど飛龍の場合は、あの、実際に稼働する奴はね、活躍する飛行機は戦闘機、爆撃機ね、急降下の。それから、艦上攻撃いうな、魚雷抱いていく奴、これの3種類積んどるわけですね。だいたい60機ぐらい。20機あて(あたり)。だから、飛行機は、格納庫へ収めるときには全部翼をたたむんですよ。これこうやるでしょ、こう、たたむんです。ほしたらようけ滑るから。
(聞き手)でも、それ、飛行機を飛ばす時には、開くとこからやらないといけないわけですよね
そうそうそう。バーッと開いてね、ピンさしてね。
(聞き手)真珠湾の時とかって、真夜中も作業してたことになるんですか?真珠湾の時は、夜中から飛びますよね、確か。午前1時とか
明け方ね。
(聞き手)夜通しの作業とかになったんですか、そういう時は
夜通しの作業っていうのはあまりないけどね。だけど、晩の作業っていうのはあるんですわ。暗くなってからね。これも命がけですよ、甲板で作業するいうたら。搭乗員の命より、こっちの命がけや。どこに失敗する奴おるかわからんからな、飛行機まちごうてどっち飛んでくるかわからんから、甲板でおっても。ほったら飛行機の甲板にはね、(絵を指して)これが発着甲板でしょ、上のがね。甲板や、飛行機が飛んだり降りたりするね、シューと板みたいになっとるの。ほったらこの横にね。これ今、白く、ちょっと、ちょんとあるけど、これポケットいいますねん。(テーブルで示す)これが、飛行機の甲板としたら、この横にこう、1メーターぐらいの幅のポケットいうのがあるんですわ。人が待機しとるとこが。隠れてね。危ないから、こっちおったら。
(聞き手)私が話しを聞いたのはアメリカの空母の話しなんですけど、やっぱり甲板の整備兵でエンジンに巻き込まれた人とか
ありますよ。
(聞き手)ねぇ、ありますよね。そういう事故がね
飛行機の甲板、長い板で200メートルやからね、せいぜい200メートルやから。そこへ、仮に艦上攻撃機やったら、800キロの魚雷抱いて飛ばなならんのやから。その間に浮き上がらなあかんのやから。ま、飛行機は、だからね、母艦は、飛行機は発艦する時、着艦する時は、風にまっすぐたっていくわけです。向けるわけや、艦をね。風の吹いてくる方向に。ほいで走ったら、風力がでてるからね、飛行機のスピードが少々落ちても飛べるわけですわ。ほったら発艦の時でもね。あの、空母がね、空母が40ノットでるんですわ、スピード。40ノットいうたらね、だいたいキロに直したら倍になるんですわ。ほったら、まぁ時速80キロ。あの海の中で、この大きな奴が時速80キロで走るんですよ。びゅーっともう艦は震えるんですわ。零戦なんかね、零戦なんか戦闘機軽いでしょ。5、60メーター走ったらパーッと上がるんですよ。全速で走っとるから。ただもう30メートル40メートル風が吹いとるわけやからね。80キロで時速走るんやから。だから、大きな、大きな爆弾抱いてても離陸できるわけですわ。陸上やったらびっくりするぐらい長く走らなあかんけど。だから、ま、着艦するのは難しい、晩の真っ暗な夜中にね、この両サイドと真ん中へ電灯の線がわーっとついとるわけですわ。それ目当てに降りてくるんやから。たった200メートルのとこへ。その技術いうたらね、これは難しいものですわ。だから訓練厳しいんですね。後ろにこう、飛行機の後ろからね、ぱーっとカギが落ちるんですわ、鋼鉄のこのフックが、カギが。これを、これを落としてずーっと着艦してくるわけや。ほいで、そしたら、これがパーッと横のワイヤーに引っかかるんですわ、30センチぐらい高くワイヤーがぱっと立てますねん。それに引っかかってほいで止まるわけですわ。そりゃあよう考えて造っとりますよ。
(聞き手)空母への発着陸も、瀧本さんは一緒にパイロットと一緒に同乗して、空母の発着陸を体験されたことはありますか?
あります。
(聞き手)あれ、すごくちっちゃく見えますよね。あんなちっちゃいところに
怖いですよ、そら。だけどもうとにかくパイロットを信じ、あの、信頼しとるからね。自分が整備した飛行機だし。
(聞き手)いやいやだから、空母のパイロットというのは、やはり優秀というか技術的にね
そりゃあもう最高ですわ、あの技術いうたらね。下手な者が乗りゃ生きとられん。もう1遍失敗し海に落ちたらそれで終わりやから。だから母艦はね、これ、ここには見えんけど(絵を指して)発着甲板があるでしょう。この発着甲板の両サイドにね、墜落防止網いう鋼鉄の網を張ってますねん。
(聞き手)少なくともそれにはひっかかるように
5メートルぐらいあるもんな。それにはひっかかる。運が良かったらね。ほしたら、命だけはなんとか助かるわな。
(聞き手)攻撃されてる時も、飛龍で攻撃されてる時も、瀧本さんは砲弾を出したりとかしてたんですか?
弾を?それは、兵科いうてね、水兵で入っとるもんがおる。兵科、大砲とかそういう機銃とかね、それは兵科いう、我々は整備科や、兵科のもんはそういう方面を受け持っとるわけですわ。
●戦争で恐怖を感じたか
(聞き手)怖い、どんな気持ちだったのかなと思って。その初めて攻撃されたっていうか、初めて戦争っていうか
しかし、あんまりね、怖いとはあまり感じないもんですね。機銃掃射受けた時でも、怖いとは思わなかったもんな。そんなもん思う間がない。
いざなったら人間の力いうたらな、いざなったらやっぱりえらいもんですわ。一遍この飛龍におった時、ミッドウェイの時に、私の受け持っとった、あの、隊長のね、飛行機を受け持っとったんですわ、兵学校出のね。大尉やったかな。ごーっつい、こうあんたよりまだもう肥えとったわ。その人がパイロットやった。そいで隊長しとった。そいで攻撃に行って一次攻撃に行って、帰ってきた。ほしたらな、着艦いつもの通りに見とったらうまくやったわけや。ターっと乗ってって、整備兵はすぐに乗ってくんですわ、上へ。走りながら、飛び乗って。ハッと見たらね、着艦した瞬間にね、おひゃー(力が抜ける様子)となったんですわ。どしたのかな思うてハッと見たらね、右足がね、足のとっから先がないんですわ。飛行機の茶色の革靴がね、割れてね、裂けて、ほいで下を見たら、飛行機の下へ血が溜まっとるわけや。〇〇軍の弾が破裂したやつがな、飛行機の下を破って、運転席下から入ってやな、足首直撃して、足首が飛んどるわけや。それにあんた、片足でやな、自分で足この辺で止血して、タオルで、ほして左足だけで操縦してやな。着艦したんや、飛行機。陸上でも着陸でけしませんで、そんなの。びっくりしたな、あん時は。
(聞き手)その方、助かったんですか?
いや、その時には助かったけど、後から爆撃受けて、なったから、その時にうまく避難できたか、こらわかりませんわ。
(聞き手)どうもありがとうございました
体験記録
- 取材日 年 月 日(miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
戦場体験放映保存の会 事務局
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