潮平 正道さん

生年月日 | 1933(昭和8)年 |
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本籍地(当時) | 沖縄県 |
所属 | 民間人 |
所属部隊 | |
兵科 | |
最終階級 |
プロフィール
1933年石垣市字石垣生まれ。2021年4月18日逝去。1945年中学入学と同時に鉄血勤皇隊として動員され、石垣島で軍作業に従事。同年6月軍の避難命令に従い山中へ避難、家族とともにマラリアに感染、一命を取り留める。戦後、八重山高等学校で美術を学び画家を志す。1956年日本版画家協会展出展(銅版画)入選。多くの装丁・挿絵などを手がけ、1977年〜1991年石垣市教育委員会文化財審議委員、1993年石垣市文化協会設立事務局長を務める。1997年戦争マラリア犠牲者慰霊碑デザイン、2005年憲法9条の碑(新栄公園)デザイン。学校で戦争体験を語るうちに、自身の体験や知人の証言を基にした絵を描いて説明するようになる。2018年〜2019年八重山の戦争とマラリア記録画展開催(八重山平和祈念資料館、石垣市民会館中ホール)、2020年画文集『絵が語る八重山の戦争 郷土の眼と記憶』(南山舎)を刊行。2019年第35回八重山毎日文化賞受賞。戦争マラリアを語り継ぐ会会長、すくずん会会員、九条の会やえやま共同代表。
インタビュー記録
白水へ車で向かう道中
田んぼなんですよ。
聞き手1:はい。
田んぼですけどね、日本で一番早く採れるお米の取れる田んぼです、こちら。
聞き手2:へぇ、そうなんですか。日本で一番目、すごい。
あの東北の今から20年位前ですかね、20年にならないかな。すごい冷害でね、東北の人たちがお米の苗を。
運転の男性:以後「男性」と記す:ここを左でいいですか?(車が左折する)
ここがホテル日航のオークラ。ごめんなさい、話途中になって。この道がですね、避難所へ行く道です。ずっと西からも東からもこの道へみんな来て、これから山へ行く。
聞き手1:みんな山に行くときはどんなものを持って行ったんですか?
山へ行くときですか?まず、着替えでしょ、それから味噌、醤油ですよ。
聞き手1:どれ位の間、そこの山に籠るというか、山で暮らさなきゃいけないんですか。
僕は6月のですね、大体僕が山へ行ったのは6月の4日だったんですけどね。役所関係ですね、関係は6月の5日までに避難しなさいと、白水へですね。それで民間は、10日までにそれぞれ指定した場所に避難しなさいと。避難じゃなくて退去ですね。
聞き手1:最初に退去をするときに、何ヶ月間位の用意をする想定で皆さん準備されたんでしょう?
いや、これは皆わからないですよ。毎日もう空襲の中ですからね。いつ戦争が終わるかなんて、予想なんかとてもできないですよ。空襲の中を行く訳ですからね。ちょうどね、昭和20年の6月の10日までに避難しろっていう命令が出たのは、はっきりした根拠はわからないんですがね。捕虜がね、15日頃石垣島へ[米軍が]上陸するかもしれないということを、捕虜が言ってたという話もちょっと伝わっているんですよ。ちょっとストップ。
こっちにね、川があって滝があります。これこれ。これの左方をですね、字石垣と字新川、主に字石垣ね、はこれからふかやまたはこっちから入って行く。〇〇、こっちから入って行く。
聞き手1:じゃこの上にも。
はい、ずっと川沿いに、つまりこの水があるからなんですよね。(車の窓ガラスが下がる)僕は隣組隊員で、最初にここで避難小屋作ったの。それで後で親父が公務だったので、公務さざってる所は白水へ行きなさいと。後で命令が出る訳ね。それでまた白水に行って避難小屋をまた作った。僕は2ヶ所避難小屋を作ってるんです。
男性:行ってもいいですか?
はい、いいです。(車が動き出す)で、こっち方はね(と右側を指す)、こっち方は陸軍がずっと駐屯してます。白水はさらにこれを通って行く、行ったんですね。
当時、この道はですね、道幅は歩道も含めて[現在の]約1/3位の幅しかなかったんです。戦後です、こんなに大きくなったのは。(左を指しながら)ちょうど、この奥ですね。ふかやまた。ちょっと、ちょっと止めて。(車が止まる。左を指しながら)あの、あそこにあの山の上にあるの、あれ天文台なんですよ。(山をクローズアップする)
男性:白いの見えます?
白いの。
聞き手1:ああ、本当だ。
あれの手前ですね。手前の、ちょっと今〇〇ちょっと見えない、手前。あそこはだいたい新川、ウガドウとか何とかいう所ですね。新川はあの辺です。
男性:アラカワって荒川滝の荒川ですか?それとも…。
いや、字新川。
男性:荒川ってここにもあるんですか?
新しい川よ、新川。字新川。一番東が登野城でしょ、大川、石垣、新川。四箇字(しかあざ)っていうの、4つ。あの辺ですね、字新川。
男性:何か桃林寺の所も新川じゃないですか、あれは違いますか?
桃林寺まではね、石垣。桃林寺の西の縦の道がある、あれから西が新川。万世館通りがあるでしょ、万世館通りから西が字石垣。万世館通りから東が大川。大川は万世館通りと桟橋通りの間があれが大川。桟橋通りから東が新川。
で、この辺一帯は名蔵って言うんですけどね。当時はですね、マラリアが、もう有病地帯ですので。土地の人は、もう農業するには朝来て、夕方帰る。そういう農業だったんですね。で、ここに住み着いている人たちがいたんですよ。あれはね台湾から移住してきた人たち。(車が動き出す)大体大正時代ですね、移住してきた人たちが点々としてあってね。不思議と彼らはマラリア罹ってないんだよね。でね、何か…これ右。(男性に指示する)それで何か常に家の中でね、薪を燃やしてた、煙を出して。
男性:ああ、燻していた?
はい、燻して。台湾にもマラリアありますから、そういう。
聞き手1:それは予防というか。
予防ですね。蚊を避ける。やっぱり生活の中にこう染み付いていたんですね。それから昭和20年の6月の5日頃、皆、軍のトラックに乗っている人とかですね、馬車とか馬とか、ずーっとこの道を白水へ行ったんですね。ちょうどこの辺に来てですね、この列が、ちょっと止めてもらっていい?(車が止まる)この辺に来てですね、列が米軍に見つかって機銃掃射で皆やられる。そのときに山口町長が亡くなるんです、ここで。私は前の日に、白水に入っていたんですよ。ヤマガタさんも前の日までに入ってたみたいですね。それで空襲でここで、山口『町長』というのは当時、石垣市じゃなくて石垣町だったんですね。町長が軍のトラックに乗って来てですね、ここでやられて亡くなって、何名かここで亡くなりました。私はその日の朝、山から出て、私『鉄血勤皇隊』だもんだから、軍の作業に、軍隊の所へ行く訳ですね。行くときにこの道を通った訳、[機銃掃射の]翌日。そしたらまだね、トラックが燃えてました。馬もね、何か2〜3頭、こっちでこの辺でね、みんな倒れたり死んでました。
男性:その頃の当時の様子っていうのは、今みたいな感じなんですか?それとも木がいっぱい生えたりとか。
いやいや、ここは大体[今と]似てる。
男性:じゃ見つかるのはもうここ来たらすぐわかる。
わかりますね。この奥の大きい木はなかったな、これは(ウインドゥを下げると正面奥に大きな木が並んでいる)。みんな見晴らしの良い所だった。それでね、ちょうど旧暦?ですから、この道路ちょっと高低があるでしょ。低い所に水が溜まってね。水溜まりがあると水溜まりを避けて、道の脇からこう通ってね。ちょうど水溜りの所でね、トラックが燃えてた。(車が動き出す)
男性:[道の]広さも、幅もこれ位ですか?
いや、もうちょっと狭い。もうちょっと狭いですね。こんなに舗装されていないですよ。リオ層だから、ちょっと雨が降るともうこの道はぬかるんでですね。それからちょっと止めて。(車が止まる)
左側の畑ですね、畑の周辺。ちょうどあの山の裏手が白水ですから、それでマラリアで死んだ人、みんな自分の家のお墓まで運んだりなんかはほとんどできないよ。だからこの畑の周辺、向こう方ね。向こう方に仮の埋葬をしていました。そして夕方になるとね、埋葬じゃなくてここで火葬をやってる人もいました。夕方になると、ここで煙が立ち上っていましたね。その頃に僕は鉄血勤皇隊ですから、軍の作業から帰って家へ、いや山へ行くように。この辺にも馬が死んだりしてました。それから、もう少し下りた所の右っ方、ちょっとした見どころがありますけど。(車が動き出す)
男性:広場ですか?
すぐ道の、ここ。ここね。ここでもトラックが燃えてました。
男性:結構じゃあ、攻撃?機銃掃射みたいなの毎日あったんですか?
毎日あったよ。
男性:ずーっと、もう?
うん、毎日あった。毎日ありましたよ。だから昼はもう、行動できないんですよ。外に出ると、道歩くと来る。1人でもね、しつこく追っかけて来ますからね。
男性:前にほら、タコ壺の話し、してたじゃないですか。
はい。
男性:こういう所にもあったんですか。
ああ、ありました、ありました。大体30m位おきに。こういう所みんな掘ったんです。
聞き手1:それは、どういう方が掘ったんですか?
自分の畑の近くに掘った人もいるしね、隣組単位で動員されて。
男性:これは真っ直ぐですか?これは行けないんじゃない?行ってみます?
ちょっと待って。ああ行き過ぎたかな。
男性:バックしましょうか?
(右を指しながら)これ、行けるんじゃないか?これ行けると思うよ。(車が右折する)
聞き手1:じゃそのタコ壺っていうのは、機銃掃射で狙われたときなんかに身を隠す…。
そうね、緊急の。大体ね、2人入れる位でね。2人入れる。
聞き手1:意外と小さいですね。
ええ。結構それで深いんですよ。浅いとやられますからね。飛行機ってのは、急降下するときは大体45度というように当時言われていましたよね。
男性:真っ直ぐでいいですか?
いや、ここを。(車が左折して橋を渡る)45度ですから、タコ壺、穴の中に入ったら頭がね、ちょうど45度の線よりも下。
聞き手1:なるほど、やっぱりそうするとどんどん深くなりますね。
そうです、結構深いですよ。
男性:この道も当時と同じ感じですか。
同じ感じ。ちょうどあんな感じでしたよ。(前方を指す)川沿いにずっとありましてね。それで山から出てきて、この辺当時はずっと田んぼでしたから、田んぼで蛙を捕ったりバッタを捕ったりしてね、食用。それを食べてる。それからこの川の中にタークブ[註:ミズオオバコ]、タークブって言って田んぼの昆布という、要するに固い草だけどね。水の中に生えてる草があるんです、昆布みたいに。あれを採って食べたり。それで私はですね、外から作業して帰るときに、この辺でよく、中へマラリアで死んだ人を担いで出て行きますよね。この辺で、この道でいつもすれ違っていました。そのときのことをちょっと絵にしてありますから、後で。
聞き手2:タークブというのは、茹でて食べたんじゃなくて、生のまま?
ああ、茹でて。茹でて食べました、はい。
男性:マラリアで亡くなった方って、普通沖縄だったらお墓に必ず入れるじゃないですか、火葬してから。昔、あの頃ってどんなだったんですか?火葬してたんですか、それとも入れて、陽が落ちるまで待ってたんですか。
いやいや、皆火葬なんだけど、火葬場まで、火葬場なんてもう空襲の中だから。準備しようとしてないですよ。自分のお墓に遺体を持って行くことすら、危険だったんですよ。だから皆夜になってからね。それでほら、例えば子供が死んでもね、親が遺体を、子供をこう担いで行くんだけども、親自身もマラリアに罹ってる。だから体力がない訳。だからなるべく近くで、適当な所で埋めようという意識がある訳ね。
男性:埋葬した人なんかって、また後日掘って、自分のお墓に持って行ったりとかしたんですか?
そうそう。皆あそこの畑周辺の者はみんな後で持って帰った。だから簡単な目印程度の墓標は立てている訳ですね。
男性:当時もこの道?
当時、まだそっくりですよ。私らが出てきてですね、この辺に来て空襲があるとね、すぐこっちの川、こっちの川の中で遊んでね、待ってました。右のあそこの(車が止まり、山を指す)、ちょっと頂上見えませんけどね。於茂登岳(おもとだけ)の頂上ですね。沖縄で一番高い山です。そこの一番頂上に、農林高等学校に最初旅団司令部があったんだけれども、そういういわゆるコウセンビレイのときにはちょうど旅団司令部は全部山の頂上に移動している。
男性:ちょうど何か作ったんですか、基地とか。
あるよ。陣屋なんかも作った。それからあそこに、ずっと山裾にちっちゃい山がありますね、右の方。ぽーんと突き出てますでしょ、あれの頂上がですね、鉄血勤皇隊の隊長の宿舎をあそこに作ったんですよ。それで隊長の宿舎を作るために僕らなんか名蔵から茅を借りてね、あの上へ、1日に3回も山の上へ運んで隊長の家を作ったんです。
男性:茅って屋根を葺く茅?
茅。こういう茅ね(道端の茅を映し、車が動き出す)。左下が川なんですよ、あれが白水の山の中から。避難地区から脇に流れている川がこの脇に流れている。
男性:川に沿って?
そうそう、川に沿って。(川に沿って車が走る。左側を見ながら)ここは石垣市の飲料水の取水場です。当時はまだ石垣には水道はなかったの。こういう施設はなかった。
男性:水道施設ではなかったんですか。井戸ですか、それとも…。
水道そのものが[なかった]。この左肩に車突っ込んで(と指差し、車が止まる)。
男性:ここでいいですか?
はい、ここで終わり。(車のドアを開ける)ここで降ります。
男性:じゃその頃まではまだ井戸?
井戸よ。だから大変だよ、ほらマラリアに罹って熱を取るために水をかけるでしょ、頭から。あれだからみんな井戸水だったの。ポンプで汲んで。(全員が車から降りる)
聞き手2:あ、先生、虫除けのスプレーですけど[スプレーを差し出す]、かけますか?足の方に。
ああ、はいはい。私も買って来ましたよ。(スプレーを手足にかける)(トランクを閉めて)行くか?(歩き出す)
男性:はい。
部隊の駐屯地を歩く(井戸、炊事場、住民監視小屋など)
あのね、僕いつもこっち来るとね、こっちは水が美味しいものだから、川の水でコーヒーたてて飲むんだ。コーヒー持って来ましたよ。
聞き手1:ああそうなんですか、ありがとうございます。
聞き手2:私は普通の自然水を持って来ましたけど。それはいいですね。
水質がものすごくいいんですわ。
聞き手2:そうなんですか。(蝉時雨が大きく聞こえる)おお賑やか。
(男性に向かってバッグを差し出し)これ持ってくれる?
男性:いいですよ。これ何が入ってるんですか?
絵が入ってるんだよ、後で皆さんに見てもらおうと思って。(しばらく歩いた後、立ち止まってバッグから資料を取り出し)これ県から出しているんだよ。[2組の会話が重なり聞き取れず]祈念館にこの冊子ある。
(資料を手渡し)これ、これご覧ください。白水ですね。そしてこっちが…。(白水の戦争遺跡群と書かれたページを開いて見せる)こちらにいた部隊が中川部隊という部隊です。独立自動車第284中隊第1小隊ですね。いわゆる輸送部隊なものだから、トラックを持ってる訳ですよ。だからこちらへ退去するときに、ここのトラックが何台か、住民を運ぶために出してくれたんですね。それで隊列を組んでいるんで、よく見つかった訳、敵に。それがやられたんです。
男性:ああ、自動車だから目立ちますからね。
ほとんど、トラックです。ちょうど今の4トン車みたいなトラックですね。
聞き手2:そうなんですか。(資料を開く。表紙に「沖縄県戦争遺跡詳細分布調査(VI)—八重山諸島編—」と書かれている)
今日、これは沖縄県から出ている、表紙にあります。この中に白水の部分と、後で行く川平(かびら)、川平の掩体壕の資料も載せてあります。(カメラが資料表紙の下方を映し、「2006年(平成18)3月 沖縄県立埋蔵文化財センター」と記されている)それで白水はですね、この川がずーっとあって、川の両脇にみんな避難所やいろんな壕など施設があるんですね。これがすぐそこですね。この一帯が中川部隊が駐屯していた。つまりあの、山の中に住民を閉じ込めた。ここで封鎖できるような状態、封鎖できるように。それで中川部隊に入隊していた地元の人がいるんですね。タマノセ?さんという方ですが。その方が言ってたんだけどね、敵が上陸したらですね、住民を虐殺するようにということで、弾をちゃんと配られていたそうです、兵隊に。それはちょうど10年位前ですけれども、そういう証言がありました。
聞き手2:何発位ですかね。
何発かはちょっとわからないけど。
聞き手2:何万発ですか。
いやいや、1人ひとりによ、兵隊1人ひとりに。弾が配られていた。そういう証言がありました。あの当時、住民の入り口は、あそこに今、車止めましたよね。車よりもうちょっと向こう方。その方から下り口がありました。ここは部隊の出入り口だった。(潮平さんを先頭に縦一列で歩き出す)
男性:今通った所はその当時から通った所でしょうか?
いやいや、だから当時の道は向こう。これがね、これが中川部隊の使ってた井戸です。軍隊が使った井戸です。で、この辺に炊事場があったんです。
男性:これですか、竈門ですか?
そうその辺にね、ちょっとね土台が少しあります。これ。ちょっとコンクリートありますでしょ、これ。これはここに炊事場があったんです。炊事場の土台の跡です。これ全部もう木で、これこれ(コンクリートを叩く)。炊事場があったんです軍隊の。井戸がここにあったんですね。
男性:井戸は掘った井戸なんですよね。掘ったと[資料に]書いてある。
そうよ。軍隊が掘った井戸。当時ね、どうも川の水を飲むとマラリアに罹るという考え方もあったみたい。だから軍隊はわざわざ井戸を掘ったんですね。
男性:ああ、水が近くにあるのに。
そうそう、水が近くにあるのに。そういう言い伝えもありましたからね。当時の住民の通路はこれを下って行った向こう方ですね。(持っていた鎌のカバーを取り)ちょっと杖を取りましょうね。(潮平さんが道ばたの細い木を鎌で刈り、枝を払い先端を削って杖にし聞き手2、1に渡し、自分の分も作って持つ)
(歩き出す)この一帯は、避難地じゃないです。もうこの辺は中川部隊の駐屯地です。避難するときは軍隊の駐屯地の中を通って行くんじゃなくて、下の方を通って行ったんですね。
男性:[携帯の]電波入らないですね。(しばらく黙々と歩く)
当時はこんなにきれいな道じゃなかったですよ、ほらここに砂利が敷かれてるでしょ。これダムを建設する予定だったんですよ、ここ。それでダムの調査、測量をするために、ダム建設のために作った道路なんです、これは。
男性:じゃずっと後になって、そのダム建設のために。
戦後ですよ、これは。だから、たぶん30年位前ですね。こんなになったのは。
聞き手1:その前は、横道のこういう枯れ草とかが積んでいるような感じ?
もっと、もっと深くありました。(しばらく歩く)
(歩きながら)ここも、まだ避難地ではないです。避難地は川を渡ってから。
聞き手1:ここはまだ駐屯地ですか?
はい。まだ駐屯地ですね。(しばらく歩いた後、止まる)(道の右側を杖で指しながら)ここにですね、ここにいわゆる住民を監視するための小屋があったんです。小屋って茅葺きで2階建てなんですよ。今朝、私、これを絵にしたのをお見せしようと思って。(背負っていたリュックサックを下ろす)これこれ。(男性が持っていたバッグから絵を取り出す)向こう行こうね。(荷物を持って少し歩く。土管が置かれた川に出る。男性と会話する潮平さんの声が途中から聞こえる)家から弁当持って出るでしょ。そしてこの辺に来てアメリカの飛行機、空襲が、爆音が聞こえると、ああもう今日行かなくていいやと。ここで1日遊んで帰っちゃう。
聞き手1:爆音が聞こえるとその日の作業は中止になるんですか?
はい。もう自己判断。
男性:山から下りれないからですかね。
はい、はい。あ、ちょっと早く〇〇ます。(スケッチブックを広げ、絵を見せる)こんな絵。(画文集『絵が語る八重山の戦争』p.89 「白水の避難地の入口に立つ小屋」の原画?)
男性:2階建ての茅葺きですか。
そう、2階建ての茅葺きで。(絵を指しながら)ここに橋がありますよね。橋がね、こちらから向こうへ。(カメラは土台の石?を映す)向こうから避難所に行ったんですね。今あっちへ渡って行きます。
男性:そのときは、じゃあこっちに向かって行ったんですね。
そう。ここに橋があって、ここ[橋の手前]に2階建ての家があった。ちょうどこんなのです。(と前述の絵を見せる)で、橋がこうある。それでね、私は昭和20年6月のね、4日。4日におふくろと2人で、夕方この山へ入ったんですね。すると、この辺まで来るともう真っ暗になっちゃって、それ以上進めないもんですから、ここにですねシーターダって言って、川平の方が賄いをやっていた。(やや小さな声で)慰安所に使ってた。それで僕は1泊したんですよ、2階で泊まりました。で、自分を思い出して[自分を絵に描いて]、2階で1人でぽつんと泊まって、こっちを見てる。これは窓は座っていて、こちらが見えるような[掃き出しの窓?]。そうです、座った状態です。常にこっちを監視できるような状態。
男性:結構、兵隊さんが駐屯、何名かいらした所なんですか?住民を見張るということは。
住民が6月の10日までに避難しなさいということで、それまでは慰安所に使ってた。それで住民が来るようになってからは、通り道でしょ。監視する。監視で兵隊を置いた。監視するために。ちょうどこんな感じ。(前述の絵を見せる)
聞き手2:どういうことを監視してたんですか?住民の。
いや、住民の行動を常に。だから米軍が上陸したら[住民を]虐殺するという前提がある訳でしょ。だから住民の行動を常に監視している訳。行動を監視するって言っても、あんまり厳しい、出て行く度に尋問したり、それはないです。それはないんだけども、いざというときに、きちんと住民を把握できるような体制は常に整えていた。
聞き手2:実際に虐殺は、アメリカ軍が来たときはあったんですか?
いえいえ、アメリカは石垣島には上陸していません。みんな爆撃だけ。だから6月の15日頃、米軍が上陸するらしいと、そういう前提で避難命令が出ている、退去命令が。10日まで、上陸する5日前ですね。(川の流れる音が大きく潮平さんの声が聞こえない)完全に住民を〇〇。そうそう退去。
聞き手2:結局は石垣には米軍は来なかったんですね。
そう、石垣には来なかった。だいたい避難、私が小学校で戦争体験の話をするために、試し描きに?いつもこれ使ってるんですけどね(別の絵を見せる。前述の画文集p.91「白水の避難小屋」の原画?)。ちょうどこんな感じですよ、避難小屋。山の立木をそのまま利用して、お家を作ったのね、一切切らないで。この[絵に描かれた]川が[目の前の]この川ですね。この中は大体こんな、こんな感じ(別の絵を見せる。前述の画文集p.93「フーチバーの煙」の原画?)。
(男性)大きかったんですか?結構。
(潮平さん)大きいよ。隣組単位で10世帯位は。隣組というのは大体15〜6世帯あるからね。全部は来ないんですよ。例えば自分の家に畑小屋があるから、自分の山があるから。[そういう人は]全部行くんですね。でも畑もない、そういう家庭というのはある訳だから。隣組の単位で来て、そして軍の命令で避難命令が出たときに、避難できるような避難小屋を作りなさいと、半年位前に指示がありますから。全部隣組単位で山へ入って、みんな避難小屋はもう作ってある。だからいつ、命令が出るか出るかと待っている。だから6月の1日に命令が出たときに、すっと皆行った訳。あらかじめ作ってあった。
男性:真ん中のこれは何ですか?
うん?これはね、通路でしょ。あのほら、僕が作った茅葺きのお家があるでしょ。あの通路の真ん中に石を置いて、それで草を燃やして煙を[出して]、蚊を追い出すために。あの、あれには作ってないけど。
体験画より(タコ壺、朝鮮人軍属、遺体運搬)
それでタコ壺って言うのは大体これですよ(絵を見せる)。1人の場合には。
男性:結構、奥は深いですね。
だから頭をね、曲げないと45度の飛行機の弾に当たる。なるべく低く低く。これがタコ壺ですね、これ断面図になっています。上から見るとちょうどこんなんです。掘った土を周囲に盛り上げている。これは普通、各家庭にみんな庭に作らされた防空壕。(絵を見せる。画文集p.31「各家の防空壕」の原画?)この家の家族が入る分だけね。その大きさで、掘って丸太を乗っけて、掘った土を上に乗っけてですね。外はちょうどこんな感じになるんですね。これ[入り口]からわーっと入って行く。丸太がこれね。
男性:昔は全部家庭に。
みんなあった。ない家はない。
男性:今はどこにもないけども。
だって庭は埋めないと生活できないじゃない。各家庭にありました。
聞き手1:こういう防空壕を各家庭に作り始めた時期というのは、いつ位からなんですか?
いや、結構もう早くからですよ。空襲があってからじゃないですよ。空襲やもう敵が来るからって。大体あれじゃないですか、もう戦況が不利になって、どんどんどんどんアメリカ軍が北上して来ますでしょ。で、フィリピン辺り来るあの辺までには、民家はみんな作ってましたよ。校庭にもありましたしね。
聞き手1:じゃもう子供のときから、普通にあった。
そうです、そうです。だって僕なんか小学校5年生の初めから、もう軍作業に行ってるので。今の飛行場ね、あれ海軍の飛行場だった。あれの建設に。
男性:平得(ひらえ)の?
そう、平得の飛行場。小学校5年のときから行ってますよ。4年生の暮れ辺りだったかなぁ、はっきり覚えてない。5年生のときにはもう、軍作業に行ってました。
聞き手2:軍作業って言うのは、飛行場を作るんですか。
いや、いろんな作業がある。飛行場を作るのもあるし、それから土のう作りね。(男性に向かって)あの、かます[ムシロを二つ折りにして袋状にしたもの]作ったことあったでしょ。
男性:ムシロの中に土入れて。
そうそう、土のう作りしたり。それからね、この位の石をね(手のひら1/4大の大きさの石を拾う)、みんなそれぞれノルマがあって皆集めるのよ。つまりコンクリートの中に入れる、基地を作るために。高射砲陣地の土台作りにセメントとかに混ぜる、ガラスもね。小学生に皆ノルマあって直径30cm位のカゴに山盛りで、一杯ずつ必ず出すようにって。毎日よ。ノルマがある。それと、縄を30〇〇でしょ、それからかますを出すの。それがノルマなの。それで毎日、この砂利をね、最初は道の側から畑の脇にある石を拾ったりなんかして、それでもう全校生徒が砂利を集めるでしょ、そのうちもう石がなくなる訳よ。今度は自分の家の、親に内緒で、自分の家の石垣の石を持って学校へ行った(石を割る動作をして笑う)。それでノルマを果たしたりね。そんなことしてた。
聞き手1:そうすると、そういう軍作業をやっているときの学校というのは、勉強はどれ位できたんですか?
いや、もうだんだん、私がね、小学校3年生のときが真珠湾攻撃ですよ。大体4年生の後半辺りからは、軍隊が入って来てますからね。そうするとこういうバラサー集めを、小学校4年生の辺りからああいう軽い作業をさせられてます。もう5年生になったら、毎日作業ですよ。それで6年生になったらね、完全に学校から皆追い出される。私の小学校、石垣小学校は陸軍病院、野戦病院、それで朝鮮人の宿舎だったんです。私の家は学校に近いですからね。だから学校の東の方は陸軍病院、南の方は野戦病院、西の方は朝鮮人の宿舎。朝鮮人の軍属ですね。皆若いですよ、20代ですよ。全部国民服みたいな制服着せられて、毎日軍作業に。それで朝はですね、軍事訓練をするんですね。学校の周辺の住宅街の道路で。行進、2列縦隊で行進の訓練という。それで絵をね、私ちょっと描いてありますけどね(スケッチブックをめくり絵を探す)、そこでね朝鮮の人たちは軍事訓練を受けたことがないし、班長は日本の兵隊ですからね、ちょっとでもまずいことをやると棒でぶん殴るんですよ。(絵を探す)これ。これ宮鳥御嶽(みやとりおん)って、家の、御嶽の前の道路なんですけどね。こうやって行進するんですね。(画文集p.37「朝の軍事訓練」の原画?)それで一番前の人は、手と足一緒に出す。緊張すると、こうやって(左手と左足を同時に動かす身振り)こうやって歩くやん。そうすると、お前ろくに行進できないかーと言われて、またぶん殴るんですよ、朝鮮人を。これは日本の兵隊です。これ、毎朝見てました、家の周辺で。
男性:朝鮮人の方って結構いらしたんですか?
結構いたよ。それで、これ石垣小学校のね(別の絵を見せる。画文集p.29「ハエを捕る」の原画?)、何かいろんな、足を怪我して、両足に包帯を巻いていましたね。これ、私が見たんですが。今、石小の西の方に井戸があるんですよ。その西隣、お隣の家に宮良?さんって家があって、私の同級生の家で。その家に遊びに行ったときに、この塀越しにね、こんなのを見たんです(絵を掲げる)。後でわかったんだけど、[絵の中で四つん這いになっている人]これは朝鮮人です。これ[絵の中で棒を持ち見下ろしている人]は日本人の班長、兵隊ですね。[足を怪我しているので]作業へ行けないものですから、朝から晩までハエ捕りを命じられて、この井戸の周辺に台所があった、炊事場があったんです。朝から晩まで、炊事場でハエを捕ってるんですよ。それで夕方、数えて「何匹捕りました」って班長に報告して、「はい飯食って良い」。それを[描いた]。(語気を強めて)日本の兵隊ってね、朝鮮の人を本当にいじめましたよ。本当にひどかった。慰安婦、慰安だけじゃないですよ。これが、僕が小学生の頃に校庭で竹やり訓練。(画文集p.21「竹やり訓練」の原画?を見せる)竹やり訓練をこうやって。順番順番にね、竹やり訓練をこう皆やるんです。
男性:これ小学生ですよね、5年とか6年とか。
小学校4年生のときから、竹やり訓練しとる、僕ら、はい。4年生のときから。ちょうどあの、これですよ、私が見たのは(亡くなった人を担いで一人で歩く人の絵を見せる)。作業の帰りに、途中で。死体をこう菰に包んでね、こういうのにすれ違ったんです、(語気を強めて)毎日。だから大体男の人が担いでるのね、これ大体じいさんです。お父さんとか兄さんだったら皆兵隊ですからね。家にいるのはじいさんとばあさんとお母さん、姉さんしかいない。
聞き手1:こうやって遺体を下に運んで行って、さっき通った畑に埋葬する。
はい。
聞き手1:それはお一人ずつ火葬にするんですか、それとも、どういうやり方で。
一人ずつって言ったって、自分の家の死者は自分で片付けないといけない。だから皆集めてやるっていうもんじゃ(手を横に振る)、ああいう組織なんかないですよ。もう自分で処理しなきゃ、各家庭みんなマラリアで参ってますから。
聞き手1:じゃ、銘々が自分たちのやり方で。
はい、はい。
聞き手2:ご自分の家の畑に行って埋めてたんですか?さっきの畑の…。
だから、自分の家の畑に埋める人もいるし、こちらから行ったら自分の畑は遠いでしょ、だからとりあえずよその家の畑の脇に無断で、穴掘って埋めたり、火葬したりしてた。
聞き手2:そしてそういう風に目印立ててね。
はい、はい。これですね。(画文集p.97 「遺体を雨戸にのせて」の原画?を見せる)こうやって、戸板に乗っけて。こういう風に担いで、手伝ってくれる人がいるのはまだいい方です。まだこれ初期の頃ですね。皆まだマラリアに罹っている人が少ない方の場合ね。こういう風になってくると(先ほど見せた、亡くなった方を担いで一人で歩く人の絵を見せる)、もう自分で処理する以外ないです。それからここに持って来てないけど、例のモッコに入れて二人で担いでる(画文集p.101 「幼い遺体を埋めに」の画のことか?)のがありましたでしょ、あれとかね。
あの荷物、今から強行軍ですから、ここに荷物置いといて。帰りにね、ここでコーヒー飲みましょう(笑)。(皆上り傾斜を歩き始める)こちらが通路?それでここにあった。この前、家の土台ね、礎があるかと思って探したんだけど、もうなかったね。(画面が切り替わり)あのたぶんこれね、穴を掘ってね、こう柱を埋めて作ったんじゃないかな。その方が倒れないで丈夫ですから。
男性:昔の家、石の上に柱乗っけて。
あったでしょ。あれはもう長く住む人が。ちょっとこちら、言いましたけど土台が残ってないですね。(歩いて川に差し掛かる)
男性:その土管ももちろん、あれですよね、後から置いたものですかね?
ああ、これはねダム、ダム建設をする予定で、中の方へずっと調査して、この土管をね、ここに埋めたんですけど、その上を橋にしていたんです。そしたら大雨でもう、この土管じゃ間に合わないんですよ。みんな流されちゃって。
聞き手1:この土管が流されちゃうんですか、すごいな。
ちょっとあの、水を補給してください。(潮平さんが資料を広げて指す)これ、ここですよね。これに詳しく書いてありますね。ここにですね、「中川部隊の井戸」ってありますね。さっきあった井戸。(資料の地図を指差し)今ずっとこちらまで、ここに来ている。中川部隊駐屯の字がある所。こっちからこっちへ[川の東側から西側へ]今渡ろうとしている。えーっと、今日は泳がないでも大丈夫かな?(笑)靴脱いで渡った方がいいと思うよ。それであの、向こうへ渡って足拭いて、また靴に履き替えていい、その方が。濡れちゃうと[その後]結構歩きますのでね。(各々裸足になり靴を手に持つ)
はい、渡りまーす。(皆素足で川を歩いて渡る)
男性:気持ちいいですね。
聞き手1:ああ、気持ちいい。
気持ちいいね。
男性:この辺、川魚とかいないんですか。
は?
男性:川魚とか。
川魚は見たことない。エビがたくさんいる。
男性:ああ、手長エビとか。
エビはたくさんいるよ。
聞き手1:結構滑りますね。滑る。すごい緊張するんですけど、カメラがあるから。この緊張感半端ない。よし、頑張るぞ。
聞き手2:ねぇ。これ持ちましょうか?ゆっくりと。
聞き手1:石が怖いですよね。
男性:靴かカメラかどっちか持ちましょうか?
聞き手1:じゃ靴お願いします。カメラの方が良かったかな?(皆、川を渡り切る)
聞き手1:ありがとうございます。
聞き手2:これ、帰りもこうやって渡るんですか?
聞き手1:じゃないですかね。
すみませんけど、この道しかないんですよ。(みんな笑う)
聞き手2:この道しかないんですね。
男性:いい足裏マッサージに。
聞き手1:確かに。
避難小屋に向かう 点在する竈門
聞き手1:カメラは無事ですよ。
聞き手2:(潮平さんと話しながら)色がいいですね、綺麗な色ですね。大丈夫?
(鎌で木を指しながら)ユカルピトゥヌキャンギ[和名ナギ]というものなんです。ユカルピトゥは士族。士族を騙して。平民がね、人頭税でイヌマキね。
男性:はい、はいはい。
イヌマキに近いでしょ。マキの木を税で出しなさいって言って。
男性:高級木、建材なんですよ。
聞き手1:へぇ、これが。
男性:いや、イヌマキって言う木があって。
聞き手1:ああ、イヌマキが。
それで、これを製材してきれいにやると、木目とかキャンギ[イヌマキ]と全く同じ。だから役人を騙した木という、ユカルピトゥヌキャンギ。これがまっすぐでしょ。
聞き手1:本当だ。
だからいい材料になる。それで本当のキャンギじゃないから、しばらくするとカビが生える(笑)。家を作ってからバレるんです。もうバレたときは税を納めてるから。
聞き手2:なるほど。(4人とも歩き始める)
(立ち止まり)こっちもね、葉っぱがきれいで庭になんか植えると良いですよ。
男性:大きいですね。(笑う)(また歩き始める)
(潮平さんが立ち止まり、前方の草木をかき分ける)
男性:自分、先頭になりましょうか?
後でね、ちょっときつい所があるかもしれないんで。
男性:わかりました。(道を塞ぐ草木を潮平さんが鎌で払いながら進む)ここ、こうやって切って〇〇しないと、あっという間にジャングルになりますね。
そうなんだよ。だからこっち来るときはいつもね、せめて鎌でも持ってないとね。来年来たときにはもう通れない。(しばらく山道を登る)この辺から、避難小屋のあった所です。(右を指しながら)左側は谷になって川ですからね。
男性:右手の方?
さっき渡った川がですね、ここの向こう方に流れてるんです。向こうの水を利用してここで皆生活したんですね。
男性:飲料水はもう困らなかったんですね。
飲料水はもう困らない。(歩きながら)飲料水は困らなかったです。この辺には竈門の跡がいっぱいあります。
男性:石が置かれている。
石を組み合わせてね。(しばらく黙って歩く)
こちらが竈門の跡です。
男性:これ、そのときのものですか?
そのときのものよ。これ僕が発見したの。鍋もね、埋まってたんですよ。鍋はもう、割れちゃったなぁ。
男性:これ、鉄ですかね?
鋳物ですね。これ(と鍋の破片を手にする)。こういう風に。(破片を繋ぎ合わせる)こんな鍋だった。
聞き手1:この炊事場を使っている住人の数って何人位になるんですか?
ちょっとこれはわからない。各避難小屋全部みんな違いますからね。
聞き手1:ああ、規模が。
男性:ここだけじゃなくて、あちこちにこういうのが?
もう、たくさん。一箇所じゃないよ。これがたーくさん、何十棟とあったのよ(両手を広げる)。それに大体多い所で20人位。多い小屋でね。だから最低10人位は皆居たんじゃないですか。
聞き手1:この鉄瓶?も当時のものですか?
そうですよ。これも当時のものですよ、これ。
聞き手2:やかんみたい。
聞き手1:食器も?
そうよ。
聞き手1:へぇ、そうなんだ。よく残ってる。
当時のものですよ、これ。新たに何も持ち込んでないです。
男性:これ[鉄瓶]、錆びないってことはアルミか何かですかね?
アルミ。アルミだね。
聞き手1:名前が彫ってある?
いや、名前はないですね。
聞き手1:あぁ名前じゃないや、単なるキズだ。
これはね、戦争中のものである証拠にね、これ見てください(落ちていたビール瓶を拾い、見せる)。ここにね大日本ビール[DAINIPPON BREWERY]って書いてある。大日本ブリューワリーって書いてある。
聞き手1:本当だ。
祈念館にもあるでしょ、これと同じのがね。
男性:ありますね。
大日本ですよ。
男性:大日本ビールコーポレーションLtd.って書いてある。
聞き手2:これ水汲んできて、こうやったのでしょうかね。
だから当時の器ですよ、これ。割と洒落た器使ってる。
聞き手2:お皿ですね。
こういう竈門が、もう至る所にあります。で、ここにですね、鍋を2つ煮炊きした訳です、3つか。これ1つでしょ(竈門跡の上に円を描く)、[ここに]1つ、ここで[全部で]3つですね。3つ竈門があるというのは結構人数が居たということ。
聞き手2:多いですね。
聞き手1:この辺の避難所を作るのは、大体どれ位の期間というか、いつ頃建設が始まって…。
半年位前にはもうみんな作っていますよ。避難をする半年位前には。だから…。
男性:いつでも逃げられるように?
そうそう。だからもう軍から命令が出てたの。いずれ退去命令が出たとき避難できるように、隣組単位で家を作りなさいと。
聞き手2:じゃもう19年の頃から?
はい。それでどの地域はどこの山、どの地域はどこの山ってちゃんと指定されていました。ここは字登野城。大川はこれを入って、左に入った所。
男性:まとめ役は区長さんとか?公民館長とか?
いいや、もうあんなまとめ役なんていたかな?いないでしょ。だから隣組単位じゃない?ほとんど。今、石垣にさ、一町内、二町内ってあるでしょ?町内。あれは戦争中決めた町内。(立ち上がって振り返り)で、ここの下はもう、すぐ川でしょ。だから子どもたちは全部ここで遊んで。だから楽しかったですよ、子どもたちは。ものがない子どもたちは。だから僕より4〜5歳年下の人なんか、あぁ白水楽しかったよ、川で泳いだよって。楽しい思い出だよ。
聞き手1:キャンプみたいな思い出ですね。
キャンプの思い出みたい。
男性:〇〇いいキャンプがなかったから。
あの田城家具っていう、あそこの社長は僕同級生なんだ。あの人の妹はここで生まれたんだ、避難中に。
タコ壺とL字壕
聞き手1:この木の生い茂り方というのは、もちろん避難所を作るために切り拓いたと思うんですけど、どんなもんだったんですか?
いや、切り拓かない。拓かないですよ。まぁ小さな木はね。立木を利用して柱にするんですよ。
聞き手1:あ、なるほどね。
切っちゃうと上から見えちゃう。だからなるべく切らない。大体こう大きい木があるとね、これを柱にしてね、骨組みするんですよ。
聞き手1:これ位葉っぱが茂っていると、上からは見つからない?
まぁ見つからないでしょうね。だけどね、米軍の戦後の写真見るとね、みんな知ってますよ。だってさ、八重山支庁がさ、今駐車場になってるでしょ、あそこの庭に陸軍の軍隊の材木が置いてあったの。材木にね、何々部隊って焼印を押してあった。それを見えないように草で被せて。草の間からその文字が見えた。これ戦後見たら、米軍の航空写真でちゃんと何々部隊って写ってる。そこに何々部隊がいるっていうのをちゃんと知ってるんですよ。
聞き手1:ずいぶん精度がいいんですね。
はい。それからね、こういう[林の]隙間があるでしょ。木の枝のない所。それと通路があるでしょ。ここに人間の足跡とか馬の足跡、あれなんかみんな写真に撮っている。ああここに馬がいる、人間がいる。わかるんだよ、足跡で。
聞き手2:わかってるのね。
はい。それで、我々は竹槍訓練してる(笑った後、歩き始める)。じゃ行きましょうか。(列の先頭を歩きながら)この坂を覚えておいてください。梅雨時でね、人が通るものだからもう滑って滑ってね。だからいつも、これ滑るものだから、こちら[谷側でない方]から木を掴むように中へ入って無理に上がった。
男性:これいつ位のものですか?
そうです、そのままです、これ。(しばらく黙って歩く)(潮平さんが壕の前で足を止めて)ここにもタコ壷があります。もう随分埋まってますよ。もっと深い。だけど、こっちを通る人のためのものなんですよね。
聞き手2:やっぱりあの、飛行機で爆撃されて、そういうときに逃げて中に入る。
はい、逃げて入るためのものですね。
聞き手2:もうちょっと深かったんですか?
ええ、まだ深いです、この倍位。だから敵の弾がね、45度で入ってくる訳ですよ(手に持った杖を地面から45度の角度で壕に差し入れる)。だからこの線より下じゃないといけないんですよ、頭が。(男性が壕に入って身をかがめ、両手で頭を隠す)
男性:ああ、これじゃ全然隠れないですね。これの倍って言ったら、相当ですね。ここ[現在の壕の底]に、頭が来る位ですものね。
そうそう、その位ないと。だから倍掘らないとね。
男性:(壕の底に木を挿して掘ってみて)確かに柔らかいですね。
(少し歩いて)ここにも竈門の跡があります。そうそう。ここに石を3個置くと、鍋が置けるんだね。で、こちらから薪をくべる。こう2つ。(杖で竈門跡を指す)これは後から生えたんでしょう。(と竈門の間に生えた木を杖で叩く)。
男性:ちょっと何か埋まってないですか。
え?
男性:ちょっと埋まった感じしませんか?
だってもう60年も…。(地面にあったガラス瓶を拾う)
聞き手1:それは何の瓶だ?
これはあれじゃないかな、お醤油か何か持ってきたんじゃないでしょうかね。
聞き手1:それも大日本ビール?
男性:書いてないですね。
これもやっぱりキリンビール。K、Bってあるじゃない。(瓶を男性に手渡す)キリンビールだよ。K、B。KとBって書かれてる。
聞き手1:KIRIN BREWERって書いてますね。キリンビールだ。キリンビール醸造所。
(潮平さんが持っていた鎌で、竈門の間に生えた木を切り倒す)
男性:この木は鋸持ってきて、切った方がいいですね。これたぶん、大きくなって全部[竈門を]ひっくり返しますね。
聞き手1:ああ、そうですね。
(鎌で竈門の石を指しながら)基本的に3つないと、鍋をね、支えることできないから。これ全部川から、川石ですよね。祈念館に置いてある竈門の石も、あれもこっちから拾って持って行ったんだ。
男性:そうなんですか。(潮平さんが道の奥に向かって歩き始め、それぞれついていく)
聞き手1:これさっきよりちょっと大きい?
男性:ちょっと大きいですね。
まだもう少し行くと、大きいのありますよ。
聞き手2:2人入れる位の大きさでしょうかね。
資料にL字型の防空壕というのがあると思うんですけど。あれがこれ。
男性:ああ。
聞き手1:あ、本当だ。
こっちが入り口ですね。こちらから入って、これ上はみんな枯れ木を載せて、土が被さっていたんです。もう随分埋まっていますけど。こういう所でこうやって。(L字壕の中でしゃがみ、身をかがめる)こうやって、耳と目を閉じてこうやって(両手で耳を覆う)。
聞き手1:ここは何人位入れたんですか。
これは14〜5名入れるんじゃない?
聞き手1:ああ、そうですか。そんなに。
はい。14〜5名は入ると思いますよ。
男性:山の中の爆撃とかもあったりとかしたんですか?
ありましたよ。山崎さんはさ、僕と同じ日位に山へ入ってきて、山口町長が死んだ日に、爆撃があったでしょ。その次こっちにも爆弾落ちてるんですよ。で、同じ場所にいた人が、何かまだ生きてるみたいだけど。ロケット弾の破片が背中に当たってね。久保田って人がいますよ。こっちからこう入って、L字型の防空壕で、それでまたこっちで分岐になっている。(防空壕の端をふさいでいた木を鎌で切り倒した後)これはこの上にこう垂木が乗っかっていたんでしょうね。そして土が被さっていた。これ[垂木が]腐ってみんな埋まってしまった。(また歩き始める)
この中にも竈門の跡がいっぱいありますよ。石が3個並んだ。この辺りみんな家ですよ。それでね、私の避難小屋はね、まだ奥へ行って、左へ入って、こちら方にあったんですよ。だから毎日こっちは通っていた。
男性:じゃ行くまでに、他の避難小屋の様子も見ながら。
見ながら毎日通っていた。だからよくわかるんですよ。この道沿いにみんな避難小屋ありましたからね。
ここにも。(鎌で指し示し、道の右側へ分け入る)
聞き手2:やっぱりL字型とか?
これはL字じゃないみたいですね。
大川地区の避難小屋
(道に戻って、立ち止まって振り返り)天皇の写真を置いた所まで行きますか?
聞き手2:はい。
かなりあるよ。
聞き手2:はい。
男性:そこには誰が住んでたんですか?管理している人は?
基本的にはね、八重山支庁の職員。だけど途中からどんどん抜けていって、最後に残った家族はうちの母ちゃんの家族。うちの女房の親父がですね、登野城小学校の校長だったんですよ。それで、八重山全体の天皇陛下の写真を預かる、管理する任務命令を受けて、それでこの八重山支庁の宿舎へ行ったんです。それで結局、その浦崎?っていうんだけど、その浦崎家の家族だけ最後になるんだけどね。あの、絵も描いてあるでしょ、八重山支庁の。
男性:ああ、はいはい。
八重山支庁の上。あそこ2回位ね、そこを訪ねてるんですよ、親父と一緒に。(歩き始める)
男性:この辺も避難小屋はあったんですか?
この辺もあったよ、まだ。この辺もありましたよ。(立ち止まり、左手の薄紫色の花を指し)えっと、これ何てったっけ?野生の。
聞き手2:何ていう名前ですか、これ。
男性:わからないですね、うちの母だったら知ってると思うんですけど。
聞き手2:東京の方ではね、野ボタンっていう。
男性:ああ、そうなんですか。
これ、野ボタンの一種でしょ?
聞き手2:野ボタンの一種ですね。
(道端にある草を刈り取り)これヤブレガサの一種です。ヤブレガサって言う。(傘のように頭の上にかざす)
聞き手1:童話みたい。(一同また歩き始める)
結構人通ってますね。6月は結構来てるのよ、観光に。
(男性)ああ。
(立ち止まって左を向き)えーっと。我々がいた避難小屋は、これをね(左奥を指し)川沿いに上がっていったんです。で、これから先が大川地区。大川地区になります。ちょっと図を見せて。(男性がかばんから資料を取り出し、潮平さんが指で地図を示しながら)これ、この四角い所ね。これ大川。今この辺に来てる訳です、今ね。
男性:大川地区に?
そう、大川地区。で、これがこの四角い中にある壕ですよ。これ全部書いてあるでしょ。ね?
男性:今から行こうとしているのは、この?
そう。こっち、川を渡って。これをこっちへ行くの。(しばし沈黙の後)結構小さい壕が多いよ、大川地区。[カメラは隣を流れる川を映す](また歩き出す)
聞き手2:(高さのある倒木をまたいで越えながら)大丈夫ですかね?
聞き手1:結構ぬかるんでますよね。
聞き手2:またげます?
聞き手1:うん。結構ぬかるんでる。
(流れる川を見ながら)きれいでしょ。(一列になって進み、渡してあるロープにつかまりながら川を渡る)
聞き手1:あ、どうぞどうぞ。後で追いかけます。
(画面が切り替わり、潮平さんが草木を刈る)
(笑って)木にぶら下げとる。
男性:昔は掛けられる所に。これ何かの巣ですかね?アリ?アリじゃないか。
アリじゃない。
男性:これ、あれじゃないですか。サトウキビとかに。
(巣を落として)シロアリ。
一同:うわぁ。
(歩き始める)炭があるでしょ、真っ黒でしょ。ここに炭焼き小屋があるんですよ。〇〇。よいしょ。炭焼き小屋があるでしょ。
男性:戦争前からずっと、炭焼き職人みたいなのがいて。
そう。だからここはみんなが炭で。
男性:真っ黒ですね。
だからこの一帯みんな真っ黒ですからね。かなり炭焼いたんでね。(歩き始める)これからちょっときついですから。頑張ってください(笑)。
御真影のあった八重山支庁に向かう
男性:もうこの辺には人は住んでなかったんですか?
こっちは住んでない。
聞き手2:こっちは住んでないんですね。
男性:じゃ天皇の写真は。
天皇の写真はもう、人間たちよりももっと奥へ。
聞き手2:もっと奥へね。
写真棚にね。紙一枚なのにさ。そこをうちの女房の親父がそれを守る任務を仰せつかって。
聞き手2:仰せつかって。
男性:勤務していたんですか、それともここに住んでいたんですか。
どういう意味?
男性:あの、写真がある所へ。
いや、避難さ。そこに家族全部。番をするために。
聞き手2:そこに住んでいたんですね。
はい。うちの女房はだからそこに居たんですよ。
聞き手2:そうなんだ。(歩きながら)小中学校の天皇の写真を全部集めたんですね。
教育勅語はね、各学校の校長が預かったの、写真だけは集めたみたいですね。
聞き手2:恐れ多いから。
石をこう、敷いてね。道路作ってありますでしょ。御真影のためにこの道を当時作ったんです。こう切って、こう道を作ってるでしょ、これだけ削って。だからあれじゃないかなぁ、当時朝鮮人なんかみんな動員されたんじゃないですかね。(歩き出す、大きな石がゴロゴロする険しい道)
(足音と重なり、直前の会話は聞き取れず)そうそう。夜には家に帰ってるの。寝泊まりはできない。寝泊まりがあると憲兵がすぐに見張りつけるからね。
聞き手2:そうなんですか。
はい。あの、住民が村に帰ることができるのはですね、例えば何か軍の任務と関係のある、例えば気象台ね。気象台の職員なんてのはほら、気象台で観測機械なんかあるけど、そこに居ないといけないからね。だから気象台の職員なんかみんな腕章をしてね、そして町の中を歩いていた。それでマラリアの怖さを知っているお年寄りなんかはね、浦添ばあとか、隠れてばあさんなんか、もう行ったら死ぬから自分は行かないって言ってね。隠れて一人で住んでるばあさんも居ましたよ。だけどときどき憲兵に見つかって、家族呼び出されて連れて行かれましたよ。
聞き手2:もうそこで戻っては来るんですか?連れて行かれて。戻って来ない?
ついて行かなくても、向こうに家族が。なんかとにかくスパイみたいに疑いかけられたらついていかないと。何でこっちにいるか早く山へ行けと。[この辺り、険しい山道を登りながらの会話で、カメラと潮平さんの距離もあり、かなり聞き取りにくい]この間にはもう誰も居なかったですよ。もう少しです。
聞き手2:はい。
男性:ここら辺は住む人は全く。
いえ、全く[居なかった]です。(しばらく歩く)
男性:[足元に]気をつけた方がいいですね。危ないですね。大丈夫ですか?
八重山支庁跡と御真影を置いた壕
あの、ええと。この木の裏っ方に八重山支庁があった。
男性:は?建物があったんですか?
建物があった?建物って、茅葺きよ。こっちが入り口だったのよ。ちょっとあそこね、家を作るために法面があります。斜面を削ってね。
男性:ああ、本当ですね。
法面があるでしょ。
男性:はいはい。
聞き手2:ここですか?
男性:ここらしいです。木が倒れている所位ですか?
ここにさ、ここが入り口でね、ここが入り口だったんですよ。で、建物は、山の斜面をこう削って。ある程度面を作って。そしてあの辺にまた柱をつけてね。で、この辺は床下になる訳よね。こうやって。そして向こうに窓があって。ここに家があった。だからこの法面の幅からすると、お家の大きさがだいたいわかるんじゃない?結構大きかったですよ。
聞き手2:大きいですね。
はい。ここまで削られてるから。
男性:ああ、そうですね。
これからこうやってね(両手を広げる)。これだけだと部屋が狭いですからね。
男性:下の方まで。
かなり広かったよ。僕は2回ほどこの家訪ねてますよ。僕は親父がときどき用事があるって言うんで。それでこっちに住んでる人たちの竈門ですね。うちの女房はこっちで炊いた飯を食べて、命をつないだんです。
聞き手2:なるほど。削った跡を法面って言うんですね。
はい。面を作ってるね。そこに柱をつけて。それであちらに。
聞き手2:こちらへ張り出している。
はい、張り出している。こちらに〇〇。
聞き手2:2畳、もっとありますね。
結構広かったよ。だってもともと、八重山支庁の職員も大体合同で泊まっていたんだ。それで全部家族の所へみんな引っ越して行って、浦崎家だけが、天皇の写真を。
聞き手2:結構ありますよね。
この奥に壕が二つあるんです。
聞き手2:えっ?
その壕に写真をいつも置いてあるんです。
聞き手2:あ、そうなの。
はい。
聞き手2:じゃ、ここは置いてないのね。
はい。(歩き出す)つまり県の出先機関の避難所です、公式にはね。うちの女房の親父は登野城小学校の校長先生なんだけど、その写真を預かる任務があるものだから、八重山支庁の職員と一緒に行動していた訳。
聞き手2:写真はもっと安全な所に入れていたんですね。
はい。もう本当に写真棚に。
(立ち止まり)はい、これが天皇の写真を。
男性:ほう、立派ですね。[聞き手2の方へ振り返り]これが今まで見た中で一番人工的できれいでしょ?
聞き手2:すごいね。
中は閉じられています。もちろんこれは掘ったんだよ、きちんと。
聞き手2:そうですね。
全然崩れてないよ。
聞き手2:崩れてない。
これが天皇の写真を置く所。人間は入れない。人間はもう一つ奥にある。これと同じようなのが奥にもう一つある。
男性:そこに住んでいたんですか?
避難のときは、空襲のとき。
聞き手2:(壕を指し)先生、あそこに立ってみてください。どれ位の大きさか。
(潮平さんが写真を置く壕の入り口に向かって歩く。入り口付近でも人が立てる高さ)
男性:何センチありますか、今?
僕は1m66.5位。だから[入り口の高さは1m]72〜3cmありますね。それでもちょっと下埋まってるからね。
男性:昔はもうちょっと底が。
聞き手2:ねぇ、手前がもっと広かったでしょうね。
土砂が流れ込んでますからね。
聞き手1:当時、そこは蓋というか、扉はあったんですか?そのまま?
あったんじゃないかな。あったと思いますよ。なぜかって言うとね、ここにこれがあるでしょ、これ(持っている杖で壁面の段差を指す)。
聞き手1:段がある。
聞き手2:なるほどなるほど。
これで戸を作ったような感じじゃない?
聞き手1:そうですね。
ね?戸を作らなければこれ[壁面]はこのまま真っ直ぐだよね。ここで何かきちっと仕切りができるように。それでほら、ここに穴が開いて。
聞き手1:本当だ。ああ、窪みがありますね。
棒をこう(かんぬきのように杖を横に持つ)挿してさ。ここ[反対側]にもこう[窪みが]あったんじゃないかな。窪みがあるから。前来たとき、コウモリが居たけど。
(一同笑う)どうぞ。(壕の中に入っていく)
男性:何か今でも寝ようと思ったら泊まれそうな。
聞き手2:奥行きがありますね。[壕の中から外へとコウモリが飛んでくる]こんなにあるんだ。外から見えませんけど。
おお、コウモリ居るわ。
男性:居ますね。
聞き手1:私に向かって飛んでくるんですけど(笑)。
聞き手2:コウモリがいますよ。
聞き手1:私も二匹ほど。
大丈夫、コウモリは何もしないから。ここに天皇の写真が置いてあった。
聞き手1:撮れるかな?
聞き手2:奥の方に来た方が。
聞き手1:撮れるかな?
聞き手2:ほんのりと。
聞き手1:ちょっと待ってね。
聞き手2:先生のシャツが白いから、何となくほんのりと見える。
聞き手1:[画面は真っ暗なまま]どうしたらいいんだ、私は。撮影モード。
聞き手2:すごいね、こんな奥なんですね。
男性:おお、びっくり。
聞き手2:だんだん目が慣れてきました?[画面にうっすら見えてくる]
そうです、そうです。
聞き手2:何m位でしょうか、先生。10mはないか。
いや、10mは優にありますよ。
聞き手2:優にありますよね。ちょっと見えないけど。
14〜5mはあるんじゃない?
聞き手2:14〜5mあるそうです。すごいね。
男性:何か棚かなにかあって、そこに置いてたんでしょうね。
ええ。
聞き手2:安全な場所ですね。こんな所に隠してありました。
男性:隣にもう一つ、同じような場所があるんでしたっけ?
そう。あれは人間が入るとこね。
聞き手2:人間が入る所って。
大体似たような形をしています。(歩いて行き立ち止まる)これ。入り口はあれよりちょっと大きいんじゃない?人間が入る方が。
聞き手2:これが緊急のときに避難するための?
そう、避難するための。で、これから奥はもうないから。
[男性と聞き手2が中へ入っていく]
聞き手1:お、びっくりした。何だ?あ、コウモリか。
(笑って)コウモリ。
聞き手1:こえ〜、すごいスピードで向かって来る。
聞き手2:さっきより深くないけど、10…ね、さっきよりはちょっと深みが足りないけど、すごいですね。
脆いんですよ。
男性:脆いんですか?
うん、脆い。
聞き手2:天皇の所より、少し深みがないけど。
ないですね。でもちょっと幅がありますよね。
聞き手2:幅はありますね。やっぱり人間が避難する所として。おお、すごいね。こんなすごい所。
だからあれですよね、人間の避難所があって、さらに天皇の写真を人間が住んでいる所よりもさらに超えて奥へ。さらに奥の奥に。
聞き手2:さらにまたその奥に。
天皇という、国民との。
聞き手2:権力の大きさ。
権力の大きさがわかりますよね。
聞き手2:〇〇。こんなにまでして。
最後はですね、うちの女房の親父、おふくろ、それから長女、ばあさん、それから…。8名か。8名住んだんですよ。8名あそこの竈門で飯炊いてたんです。
男性:寝泊まりしたまま、〇〇?
そうよ。
聞き手1:その8名になる前っていうのは何人位、あそこで寝泊まりしてたか?
ちょっとわからない。県の出先機関の職員もね、一緒に居ましたからね。まだんばしちょうよう[眞玉橋朝勇]?という方がいらしたけどね。お寺の前に、八重山支庁の総務課長、総務部長。[携帯の着信音]
男性:あれ、電話ですか?
聞き手2:私?
男性:ここ電波通じるんですね。(一同笑)
聞き手1:不思議。
前来たとき通じなかったよ。電波が強くなった。
聞き手2:私じゃありません、今回は。あ、鳴ってるかな?ああ、圏外ですかね。
男性:やっぱり圏外ですね。
聞き手1:たまたま通じたのかな?
聞き手2:東京からでしたけど、だめでした。
聞き手1:瞬間的につながったんですね。運良く。
聞き手2:はい。
男性:ドコモはだめでした。
聞き手2:本当、先生、こんなすごい所を見学させてもらって、やっぱり来なければわからない。
わからないですね。言葉では説明できない。
聞き手2:そうですね。こんなにね、奥深く天皇の写真だけを飾って。それを守ってた人もいたって。
敗戦後
それで終戦になってですね、町へ下りてきて。親父は奥さんにも全然しゃべらなかったらしいんだけどね、奥さんの方が、うちの女房のおふくろの方が、どうも何となく、何か天皇の写真の何かしてるなという雰囲気でわかったらしいよ。
男性:何の仕事に就いているかは言っていなかったんですか。
何が?
男性:あのそのとき、その方が。
仕事に就いてる?仕事は校長先生。
男性:天皇の写真の話とかは。
いや、だからもう、言わなかったんじゃない?そしてうちの近くの宮鳥御嶽っていう御嶽が、さっき朝鮮人が行進している御嶽の絵がありましたでしょ、あそこの境内で、きしゃばえいしょう(喜舎場永珣?)先生と、〇〇先生と、何か3名位でね、ひっそりと天皇の写真を燃やしてるんだよ。
聞き手1:ああ、それは敗戦、負けてから?
そうそう、戦後。つまり、心境としてはね。天皇の写真を預かってるでしょ、預かってますよね。それでアメリカ軍が来る訳ね、石垣島にも。そうすると、天皇の写真を持っていて良いのかどうかね。精神的に追い詰められる訳。で結局焼かざるを得ない。
聞き手2:戦後どの位で焼いたんでしょうか。
いや、そんなに時経ってないみたいですよ。だから米軍がすぐ来てますからね。米軍が、だって山から下りたのがですね、終戦前に下りてるんですよ。つまりこの山の中で、沖縄本島が玉砕したということを、ニュース聞きましたからね。で、その頃から、玉砕した途端に空襲も少なくなったんですよ、石垣の方の。で、逆にマラリアがどんどんどんどんひどくなっていく訳。それでもうだめだっていうことで。それで軍隊もね、軍隊ももうかなり統率能力が低下しているんですよ。だから軍隊のことなんて気にしないで、もう勝手に帰る人がいた。そして空襲も少なくなってきたしね。だからもう戦争は負けるというのも見え見えですから。で、僕なんかも家へ帰って、親父がマラリアで熱発して親父が寝込んで、親父の寝床の脇で、戦争負けたというニュースを聞いてわんわん泣いた覚えがあります。そのときに広島に、マッチ箱位の大きさの、ものすごい威力のある爆弾が、アメリカが開発して、マッチ箱って言ったね、あの頃。それでとてもじゃないけど、日本は太刀打ちできないということで、降伏したらしいということが入ってきた。で、そのときにはまだ、アメリカ軍は石垣に来ていませんでしたね。沖縄本島には居るけど。で、そうだなぁ、それで1週間か2週間位してかな、米軍が来たのよ。港の前に。そして上陸舟艇でさ、水陸両用の戦車があるでしょ。あれがさ、舟蔵の里あるでしょ、あの辺護岸がないから、あの辺から上がってきた。そして西から町へ入ってきた。(帽子を脱ぎ、タオルで汗を拭う)
聞き手2:その頃に、天皇の写真を焼いたんですか?
来る前です。米軍が来る前に。だから写真があること、持っているということ自体が、アメリカ軍に対して説明つかないでしょ、だから。
男性:ああ、そうですね。軍の関係者とか思われても、スパイとか思われても。
そう。
聞き手2:ねぇ、何か罪に問われますよね。
で、それまでにはね、とにかく鬼畜米英って教育されているから。女性たちもどうなるかわからない。もうみんなレイプされて強姦されて、男なんかはみんな股引き裂かれるとかさ、そういう教育受けてるから、僕なんかは。だからもう戦々恐々だったですよ。だけどそれどころか、もう飢えてる所にチョコレートくれたりさ、何かやって「えっ、どうも話が違うんじゃないか」って。
聞き手1:天皇の写真持ってたら、捕まっちゃうんですか?
男性:軍関係者とかと勘違いされないんですかね。普通の人は持っていないから。
そう。
聞き手1:ああ、かもしれないってことですね。
男性:軍の高官だったら裁判にね。
聞き手2:どういう罪に問われるかわからないから、結局燃やしちゃったんですね。
毎年中学生もこっちまで来ますよ。小学生もここまで。みんなぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー言いながら。
聞き手1:水は、ここの辺りだとどこまで汲みに行っていたんでしょう?
あのね、下に小川が。
聞き手1:ああ、そうなんですか。じゃすぐですね。ここは山の高さでいうとどれあたりなんですかね。頂上から、中腹よりもっと高い位かなあ?
200m位。
聞き手1:200m位。あ、帰ってきたコウモリが。(一同笑)
聞き手2:何かあんまり高い山ないですね。
三百六十何m。
聞き手1:あ、一番高いのが。
沖縄県で一番高いのが。その一番高い所へ旅団司令部が移ったんです。
聞き手2:そうですか。じゃ約半分位ですね、ここはね。
山の稜線をずーっと東の方へ行くと、そこへ行っちゃうんですよ。(鳥の鳴き声が聞こえる)風がないですね。
聞き手2:風がないですね。(男性に向かって)もうこれ、シンガキさんが何となく、ここまで皆さん案内して来れますね。これはいい経験ですね。
だからせっかくだからと思って、シンガキ君に行こうって言って誘ったんです。なかなか機会ないんだよね。
男性:そうですね。
聞き手1:でもこれ天候悪いと本当無理ですね。
ちょっとそうでしょ。
男性:登れないと思います。
登れないでしょ、無理です。
聞き手2:さっきの滑る所が登れないですよね。
あれまた、水が増えますからね。
男性:増水しますからね。
増水するから。
聞き手2:今日はちょうどよかった。
聞き手1:ね。
聞き手2:私はずっと晴れ女ですので。
(笑って)ああそうですか。
聞き手2:本当こうやって、ありがとうございました。こんなに実地というのは素晴らしいなと、よく思いますね。すごいですね。
先週さ、ぎっくり腰してね。
聞き手2:あら、まぁ。
4〜5日動けなかったんですよ。ようやく2〜3日前からですよ。
聞き手2:ああ、そうでしたか。大丈夫ですか?
みなさんいらっしゃるのに間に合わせて、治さんといかん、治さんといかん。何とか杖ついて大丈夫。杖つかなかったら、ちょっと無理だな。腰もきついね。杖つくと楽ですね。
聞き手2:楽ですね。
ね、違いますね。あんまり杖なんてさ、ついたことないんですよ。
聞き手2:ああ、そうですか。
聞き手2:みなさんで写真を撮ってほしい。
聞き手1:そうですね。ちょっとみなさん。
ほら、蘭とかさ、花よ。蘭なんかは黒い木にこうくっつけて栽培してますでしょ。エゴノキ、これがそうですよ。これエゴノキです。これは製材、板状にして。これに蘭を植えるとね、常に湿気が。
新芽だけですよ。
聞き手2:それでも食べたんですね。
はい。
聞き手1:みなさん、ちょっと御三方並んでくださいまし。こっちがいいかな?
これ[壕]バックにする?
聞き手1:ああ、そうしましょうか、そうしましょうか。
炭焼き小屋
(画面が切り替わり)向こうまで見えるといいが。(歩き出す)
男性:ああ、炭焼き小屋ですか。
うん。
聞き手1:ここ結構溝深いですよ。[男性の質問の声が重なり聞き取れない]
だから炭焼きの、あのね、炭を焼く窯。
男性:ああ、これ窯の跡ですか。
窯。あの人間が住む家じゃないよ。窯。
聞き手1:大きいですね。
ええ、あのね、木炭はね、こういう木をだいたい人間の背丈位の長さにみんな切るんですよ。それでここにみんな並べる訳。並べて、それでね、手前から火をつけるんですよ。燃やすやつはまた別に要るけど。それでこの屋根はね、薪を入れてその上に土を被せて、みんな密封しちゃう。それで火をつけて、蒸し焼きにして木炭作る訳。空気がたくさん入るとみんな燃えちゃうでしょう。
聞き手1:なるほど。
不完全燃焼の状態をずーっと置いとく訳。
聞き手1:炭焼きはいつ頃やるっていう、季節はあるものですか?特にない?
季節ないんじゃない?
聞き手1:まぁ、いつでもできる。
あの昔はね、こうやって炭焼き小屋作るでしょ。で、この一帯の炭にできる木をみんな使ったら、また移動して別にまた窯作って。それでやったみたいですね。
聞き手1:で、ここは戦前から炭焼き小屋が。
ありました。(歩き出す)
[しゃがんだ潮平さんが鎌で木を切っている]
あ、歩いてていいよ。
男性:いいですか?後からじゃあ。ゆっくりゆっくり歩いて行きますからね。
電信屋(でんしんやー)
(画面が切り替わり車中)(潮平さん)この山裾。で、ここ陣地作るの全部隣組とかね、一般住民がみんな徴用で借り出されて。ここでみんな陣地作ったんですよ。それでB29が上空来たときにね、こちらが大砲撃ったんですよ。ものすごい地響きがしてですね。B29が約1万m位の高さで飛んでるんですね。で、この高射砲は8千mまでしか弾が届かなかったんです。それでもぼんぼん撃ちよったですよ。だけどB29は平気で(笑)。
聞き手2:平気で、行っちゃったんですね。
そう。(左の車窓の外に青い海が見える)
聞き手2:200m届かなかった。いや2千m上空だった。
あの左手の方の岬ですね、あそこは通称電信屋(でんしんやー)って言われてるんですよ。日露戦争のときにですね、バルチック艦隊が太平洋からずーっと日本海へ行って、日本海戦が起きますでしょ。で、バルチック艦隊がこの辺を通ったときに、こちらからバルチック艦隊が近く、近海通ったよという打電をしたのが、あそこに通信施設があったんです、岬に。宮古の漁師がそれ[艦隊]を発見した。宮古には通信施設がなかったの。石垣まで久松五勇士が。
男性:ああ、久松五勇士。わかります、わかります。
あれが石垣に来て、石垣から郵便局へ連絡が来て、郵便局から馬を走らせて、電信施設があそこにあるから、あそこから台湾へ打ったんです。それで台湾から東京へ。
川平湾の特攻艇(震洋)秘匿壕
[会話の冒頭が切れている]になったものですから、川平の住民に秘密にするためにですね、川平の村の住民全部こっちへ引っ越せということで、自分の家をみんな解体してね、こっちへ(車の進行方向に向かって右手を指す)、これから入って行くんですけどね、こっちへ引っ越したんですよ。川平の村が引っ越して、その間にね、川平湾沿いにね、琉球真珠の、今日行きますけど、琉球真珠から今我々が海に入る所、ヨーンの松の所までね、湾沿いを塀を作ったんです、ずーっと。約2kmあります。2km塀を作ったんだよ。海が見えないように。で、あれもちょっと私、話を聞いたんで絵にした。川平に同級生がいるものですから。ちょっとスケッチして見せたら、あ、そうそうこんなもんだったよってね。馬に乗ってね、覗けない位の高さ。だから2m以上ある。
男性:海を見せないようにするためっていうのは、基地があるから?
そう。特攻基地があるから。
聞き手2:それは特攻艇ですね。
特攻艇の基地ですね。
聞き手2:船に魚雷を積んで。
船の両壁に爆弾抱えて。それで軍艦に体当たりする。
聞き手2:それたくさん、何艘もあったんですか?たくさんあったですか?
そうですね、あのこちらにですね、特攻艇の穴が8つあります。だから、まぁ10隻位じゃないですかね。あのね、こちら行って途中からUターンしてます。入る所向こうからじゃないと入れない。
男性:じゃUターンする所教えてください。
はい。
(画面が切り替わり)はい、オーライ。
男性:左に入る所があるんですよね。
はい。左に、すぐそこ。これこれ、こっち。(車が左折する)これを真っ直ぐ。
ここへ車突っ込んで。あっちはもう行き止まりですから。ここで止めて。(車が止まる)
男性:出れますか?
ああ。
(車から下りて歩き出す)[マングローブの説明]それでね、この実がね、これをこちらからポトンと実で落ちるんですよ。それが〇〇にかかる訳ね、そのまま生える。ほとんど岩の上ですから、例えばこういう所に落ちて、こういう所へひっかかるでしょ。それで生えるんですね。実の下は毛根が出て、上から芽が出る。ちょっと珍しいでしょ。一度ロシアの植物学者を案内したことがあるんですよ。そしてこれ[マングローブ]を見てびっくりしていましたよ。実がこう落ちて、そのまま生えるっていうのね。(実の下方を指し)こちらから根が出るんですよ。下に刺さってね。ちょうどこれがそうです。(近くの若木を指す)
聞き手2:実が刺さって、芽が出たんですか。
刺さることができないのは流されていって、そしてカニが開けた穴があるでしょ、穴にちょっと引っかかって、そこでまた生えたりするんですよ。
聞き手2:そうなんですね。潮が満ちてこないでしょうね。
男性:帰れなくなっちゃう(笑)。(皆歩き始める)
男性:1番目の(船の)壕だそうです。
聞き手1:あ、はい。
聞き手2:すごいですね。
これを掘ったのはほとんど朝鮮人ですよ。ダイナマイトでボーンと。それで砂利が出ますでしょ、それを運び出すのは婦人会とか女子青年団とかね。それから与那国の人、それと波照間の人がこちらに動員されてきて、ここで作業した。波照間島の人が。こういうのがこちら方の海岸に5つあります。それで対岸にですね、3つ。3つあるという人もいるし、4つあるという人もいる。3つは確実にあるみたい。4つあるという人もいるけどね。ちょうど僕が初めて調査したのは今から40年近く前に調査した。渡した資料あるでしょ。あれちょっと見てください。あれに中川部隊、あ、中川じゃない大河原か。川平の。(資料:「川平湾の特攻艇秘匿壕群」の地図を指して)これですね。これが湾です。これが対岸です。これがこっち方、こうです。ここにですね、ここに書いてある。これです、これ(壕の地図を指す)。今No.①を見てる。このように5つあります。で、対岸に3つある。4つあるって言う人もいるんですけど、私も3つまでしか見ていないんですよ。これがそうです。これが一番最初のNo.①です。
聞き手2:これもうちょっと深かったんですね。
ええ、まだ深かったです。
聞き手2:もうずっと深く…今はもう土砂が入っていて。
もう落盤しているんですよ。落盤して埋まっちゃっている。
男性:一番長いもので25mって書いてあります。
聞き手2:おお。そんなにある。その前の方の石や何かももっとないんですか?
これは危険だから、誰か封をしたんじゃないですか。向こう行くと、金網で入り口をふさいでありますから。
聞き手2:そうなんですか。
危険だから。
聞き手2:これは1艘ないしは2艘入ってた?
2艘は入っていましたね、確実に。
聞き手2:突撃するときは、ここからこう出して海へ?
あのね、だいたい台車に乗っけているんですよ。車付きの台車に。それで台車を引っ張り出して、すべてバーっと出陣する訳ですね。引っ張り出して、水際まで。
聞き手2:乗って行く人はもう水盃か何かでさよならを。
もう、そうでしょう。
聞き手2:さよならして、もう特攻機と同じようにね。それで行って、軍艦に当たるんですね。
軍艦に当たる訳ですね、はい。沖縄本島ではね、もう全然効果なかったそうです。軍艦の周囲にいろんな筏を浮かべちゃってね、筏にぶつかってみんな爆発していたらしいです。
聞き手1:潮平さんはどういう任務というか仕事をされていたんですか?
僕は鉄血勤皇隊で、毎日軍のお手伝い、作業。旅団司令部のね、屋根の上に網が被さっているんですよ。それで青い木の枝をかけて、枯れた枝を降ろして、そういう作業ばっかり毎日していた。一番[戦争が]激しいときはね。そのうちに、避難命令が出ますでしょ。そしたら山へ行ってね。山へ来たら、例えば鉄血勤皇隊の隊長の宿舎を作るとかね、ああいうことを作業したり。
聞き手1:じゃここはここで特殊潜航艇の。
こっちは一般人はもう全然入れないですよ、はい。全然入れない。道路沿いにね、塀がずーっとあったんですよ。通る人が、海が見えないように。だから住民にすら、住民なんかときどき作業してたりなんかして、それでも住民たちが、さっき言ったように先枝っていう所ですね。あそこへみんな家を解体して移して、できあがってようやく落ち着いた頃にこの塀が完成したらしいんです。もう塀が完成したから、中が見えないからお前たち村に帰っていいよって。それでまた村に帰ってきてね。それで終戦になって、またあの家を解体して、持ってきて作った訳です。だからひどい目に遭っているんですよ。今はあっち行って家作れって、また戻ってきていいよっていうことで。
それでね、ここでね特殊な事件が起きているんですよ。大河原部隊の中にですね、特攻の部隊と海兵隊(注:基地隊のこと)の部隊に分かれていたんですね。海兵隊の部隊はこういうもの[壕]を作ったり、何かいろんな作業をする海兵隊たちですよね。それと特攻隊というのは別にあった訳です。特攻隊はね、食べ物が豊富にあったんですね。海兵隊は食べ物が少なくて、お腹が空いて空いてね、軍隊の食糧の倉庫に入って盗んだらしい。そしたらみんなから泥棒したと、俺たちの軍隊の食糧を盗んだとリンチに遭ってね。それで一人殺されているんですよ。(少し沈黙)このこと村の人みんな知ってます。もう一つ、また見ましょうか。(歩き出す)これが2つ目です。[カメラが壕の脇にある注意看板を映す]危ないですからね。あそこも何か落ちてますね。この深さでも船2艘位は入りますよね。
聞き手2:最長で25mとかいうんだから、相当長いんですかね。するとやっぱり一列に並んで船が置いてあったということになりますよね。
そうですね。(しばらくして歩き出す)
これが3つ目ですね。これはわりと奥まであります。
聞き手2:ずいぶん長いみたいですね、これはね。
あのね、一つはね、向こうへ貫通、通り抜けているのが一つあったんだよね。何番目だったか忘れたけど、崩れてますね。あのね、こっちから見ると向こうが見えたのよ。向こうの入り口が。あの中だったら特攻艇は3隻か4隻位入ったんじゃないかな。
聞き手2:落盤してますね。
はい、落盤してますよね。
聞き手2:かなり落盤してますね。(歩き出す)
一つ通り抜けできたのが、何番目だったか。落盤して埋まってますね。
聞き手2:やっぱりそういうときはダメですよね。どれかが通り抜けできた方がいいですよね。
これ。ここにあります。これが4つ目かな。(歩き出す)
(足を止めて)さっきのが、あれ5つ目かな。途中に1つ見過ごしてるのがあるかもしれない。あれが最後だったか。(歩き出す)
聞き手2:最後ですか。
そうですね。あれが最後ですね。(少し歩いて立ち止まり)あれが最後ですね。まぁだいたいこういう所です。
聞き手2:すごいですね。
それであそこ(杖で対岸を指す)に3つある。あそこの海岸に。ちょっとこっち(手前)に出っ張ってますでしょ。
聞き手2:あの出っ張ってる所なんですね。
そう、出っ張ってる所に3つある。4つあるって言う人もいるんですけどね。私は3つしか見ていないんです。
聞き手2:ほう、あの対岸の方だ。
男性:[遅れて足元を見ながら歩いてきて]すごいですね、フナムシが。
あれが5つ目みたいね。
男性:あれですか?
さっき、角にあった。何か途中にもう一つあったんじゃないかな。ちょっと見過ごしてるのがある。
男性:うわーここ広い。
聞き手2:先生、広いそうですよ、中。
ああ、そうですか。
聞き手1:これ立て看もないね、これは。
聞き手2:何か山の印がついてます。ここにほら。
ああ、そうですね。
聞き手2:山の印がみんなついてます。あ、広い。
わー、ここは奥深いな。
聞き手2:はい。
そうそう、これだこれだ。これを見過ごしたんだ。
聞き手2:これずーっと通り抜けみたいな感じですか。
いや通り抜けじゃないね。2番目か3番目が通り抜けられたと思うんだけど。
(男性が資料を手に潮平さんと話しているが風の音で聞き取れない)
ほら見えるじゃない、3番目でしょ?今のが4番目でしょ、その前の〇〇。だから埋まっちゃってる。
アダン
(画面が変わり)聞き手2:(アダンを指しながら)実は食べられない?
芯を。これどんどん剥いてね、中に白い芯があるんです。新芽が。
聞き手2:それを食べたんですか?
はい。
男性:居酒屋に行ったらメニューありますよ。
今ね、観光客向けにね、これアダンの芯って言ってね。
聞き手2:アダンの芯?
男性:アダンの芯。天ぷらとかで出してます。
聞き手2:えーっ。本当。これですか。
男性:はい。〇〇(潮平さんの声が重なり両方聞き取れない)
聞き手2:あの、いろんな所で、もう体験者の方は難しくて、後を継いでる方が多いですよね?
そうですね。
聞き手2:ひめゆりなんかも語り部の人はどんどん後を継いでもらって。
体験を語ってほしいなんて、言えないんですよ。なぜかって言うとね、なぜ戦争体験を語るかということをあんまり認識しないで、「僕は勇敢に戦った!」なんていう話になるんですよ。
聞き手2:なるほど。
だからここら辺でよく吟味してね、話をお願いしないとね、勇敢に戦った話になると、もう戦争体験どころじゃなくて戦争は正しかった、みたいになっちゃうから(笑)。
聞き手2:なるほど、逆になっちゃうんですね。難しい。
ええ。さて、行きましょうか。(歩き出す)それじゃお蕎麦屋さん行って、お蕎麦食べましょう。
(画面が変わり、皆歩いている)聞き手2:これが〇〇?(立ててある看板に近づき読む)アーサって?
男性:アオサです。
慰安所
(画面が変わり、高所から湾を見渡す)聞き手2:うわー、きれいですねぇ。
あの、海の中に黒い点々点々ってブイが浮いてますよね。
聞き手1:はい。
あれの下に筏があって、そこで黒真珠の養殖をやってるんです。
聞き手2:黒真珠高いですよね。
あそこにね、島があってちょっと入り江になってるでしょ?ちょっと何か家の奥にコンクリートみたいな、ちょっと見えるでしょ?あそこにね、戦前ミキモトが家を作ってそこで養殖をやったという記録があるんです。
聞き手2:あそこに杭みたいなのがいっぱい立っていますけど、あれは何をやってるんですか?
何ですか?
聞き手2:杭みたいのが。この船と向こうの船との間に何か浮かんでますよね。
だからあれが(テープが途切れ、画面は車中へ)
あの慰安所。行くようにしましょうね。
男性:(運転しながら)ここは右で?
左、左、左。(車が左折する)これね、ちょうど道の左方。これがずーっと塀があった訳ですよ。さっき我々が海へ入った所、あの辺までね。塀がずーっとあった、目隠しに。これが川平村の人たちが…ごめん。
男性:過ぎました?
過ぎた過ぎた、ごめん。ごめんごめん。(車がUターンし、走り出す)これ左。
男性:(道端ののぼりを見て)ヤシガニそばって書いてある。
ちょっと緩めて。次あたりを左に入る。
男性:左でいいですか?
左。これ、これを。(車が左折する)
男性:すごいですね。
まっすぐ行って。
男性:昔の石垣ですね。
聞き手1:すごーい、残ってるんだね、まだ。
聞き手2:ねぇ、残ってるんだね。
男性:子どもの頃は、まだたくさんあったんですけどね。
聞き手1:ああ、そうなんだ。
で、この右の家がね慰安所。この家。
聞き手1:これ昔のまんまだ。
男性:これ変わらないですか、今瓦葺、瓦屋根ですけど。
そうよ。瓦葺よ、当時から。
男性:〇〇も残ってますね。本当に昔の家だ。
聞き手1:すごーい、残ってるんだね。
車、ここに止めていい。
男性:はいはい。(車が止まる)はい、いいですよ。
(瓦葺の建物が映る)
(画面が変わり、木の墓標が映る)聞き手2:こういう所から、あの蛇が。
男性:そうそう、ハブが隠れてるんですよ。
聞き手2:這い出してきて、ハブにかまれて亡くなっちゃったりした人も。
男性:だからこれ[石を]セメントで固定していたんですけど、それもなくなって今はブロック塀になっていますね。何かこれ、積むのもテクニックがいるとか言って。
聞き手2:へぇ。
聞き手1:あ、これ積んでるだけなんですか?
男性:下手くそな人が積むと全部ボロボロって。
聞き手1:へぇ、そうなんだ。
(こちらへ歩いてきて)何が?ああ、石積みね。
聞き手1:これ積んでるんですか。
これね、あんまりきれいに削らないんですよ。つまり石と石がね、こう引っかかりがあるんですよ。
聞き手1:ああ。
だから少々揺れても、地震が来ても崩れない。
聞き手1:へぇ、じゃもう本当テクニックですね。
そう。
聞き手1:すごい。無造作に積んでいる訳じゃないんですね。
あの以前はね、こちらに台所専用の瓦葺の家があったんですね。古い写真ではある。あれは崩しちゃったみたいですね。それでさっき、あの公園でお蕎麦屋さん、私お母さんいくつになられたって聞いたでしょ?そのお母さんが女子青年団の頃、戦争中ね、こっち来て、村の、地域の踊りを踊りなさいとか言われてね。でこっち来て、将校たちを慰安したりしてね。慰安所にも使われていた。それでね、慰安所としてはね、ここはあんまり長くなかったらしい。何故かって言うとね、この家は川平の村の中でもとても神高い(かんだかい)家だと。お祭りなんかするときに、どうもこちらの巫女だったとかね。神高い家で、こういう神高い家を慰安所に使うのは、あんた方バチ被るよと。バチが当たるよと村の人に散々言われたらしい。そうしたらその軍隊の、海兵隊の班長だったか、とても気の荒い班長が「こんな馬鹿なことがあるか!」って言ってね、やったらしい。そしてそのうち、その班長が川平湾の中でダイナマイトで魚を獲ろうと思って、やったらねそれが不発して手が(上腕から下を指す)もぎとられたんだって。だからバチ当たったんだよっていうことで、本当に驚いて、しょうがないから奥地に、奥の方に茅葺の家を作って、慰安所をそこへ移したらしいんです。ちょっと車で行きましょう。
茅葺の家。(みな車から降りる。潮平さんが前方の平原を指し)この場所に茅葺を作って、ここが長い間慰安所だったんです。この場所ですね。茅葺だったんですよね。いいですか?じゃここで説明しますか?わかりやすいように。
聞き手1:はい。
この場所が、慰安所が建っていた場所ですね。かなり、結構ね大きい家だったようですよ、茅葺で。
聞き手1:それはもともと民家がここに建っていたんですか?
いや、こちら民家じゃない、にわかにそのために作った訳。慰安所として作ったみたい。だから民家が例の通り、とても神がかりの家だっていうことでね、それでそこへ引っ越してきたのね。
聞き手1:それはいつまで慰安所があったんですか、ここには?
終戦のときまで、はい。おそらく3年位はあったんじゃないですか、たぶん。
聞き手1:どれ位の規模だったんでしょうね?
ちょっとね、規模は…大体この位の幅じゃないかな、こういう風に大体。茅葺の屋根のお家というのは大体大きさは限られている。大体14〜5m位の長屋だったみたい。そんな感じだったみたいですよ。
聞き手1:慰安婦の方は何人くらい居られたかって、知っておられます?
それがわからないんですよ。朝鮮の方が居たということだけははっきりしてます。それで1人朝鮮の慰安婦の方が、帰らないでここで亡くなった人がいる。亡くなってお墓がね、向こう(背後を指す)にあったって言ってるんですけど、もう畑になっていてね。全然跡形もないんですけどね。1人だけ慰安婦が、亡くなった方がおられる。
拝所(はいしょ)
(画面が変わり車中)(潮平さん)ちょっと[車から]降りてもらえます?(皆車から降り、歩いて鳥居をくぐる)ここに拝所があるんですけどね。そういう拝所っていうのは、やっぱり八重山の文化の原点みたいなものなんですよ。で、ちょっと中まで。(歩き出す)
男性:昔は全部こんな感じで、僕らの時代は建て替えてしまってから、きれいになってるんですよね。
(拝所の入り口に立ち)こちらは拝む所ですね。本当はね、こちら[右方]が拝む所、こちら[左方]にもう一つあるんですよ、普通ね。これは水の神様を拝む所。いわゆる沖縄辺りは、一番豊作になるのは水ですからね。干ばつが一番怖い訳です。特別に水の神様を拝む場所って普通こちらにあるんですけど。でこちら[右方]が、ちょっと祭壇みたいなのがありますね、それでちょっと穴が開いてますでしょ。裏方が格子になって向こうへ。つまりお祈りするときに願いごとが通るようにって。空間的に封されてない。(拝所の外側を周り、裏手へ歩く)あのお蕎麦屋さんの中に写真がありましたよね。この石です。
男性:ああ持ち上げるっていう。
そう持ち上げる。この石をこう担ぐ一つの行事があるんです。
男性:何か、旗頭はないって言ってましたね。その代わりこれが残るって。
そうそうそう。(数歩歩いて)そしてこれが御嶽(ウタキ)なんですね。これイビって言うんですよ、これから奥のことをイビって。御嶽の中に一番さらに神聖な場所で。それでこれから先はね、男は入っちゃいけない。男は沖縄ではね、穢れた存在なんですよ。大和文化は逆だよね。女が穢れた存在でしょ。で、よく女の団体が、「あ、これ女性の権利を主張する運動を展開するのは沖縄からやった方がいい」なんて言う人もいましたけどね(笑)。それであそこに灯籠がありますよね。それで向こうにクバ(の木)がありますよね。あれはね、神様が天から下りてくる、その乗りしろなんですよ。でね、一番重要なことは、偶像崇拝じゃないんですよ。偶像がない。何もない。神様と、神様が天から下りてきて、神様と司が、神と人間が相対してそこでお祈りが始まるんですね。でね、そのことを岡本太郎が「何もないということに対して眩暈のするほど感動した」という言葉があるんですよ[注:著書『沖縄文化論-忘れられた日本』より「『何もないこと』の眩暈」]。つまり日光東照宮とかいろんな仏像って必ず背後に権力が関わって、物を作らせる訳でしょ。そしてあたかも庶民に拝ませるっていう。それがないんです、全然。背景に人間と神が、自然の空間の中で相対(あいたい)する。間に偶像なんか要らない。偶像のない、神と人間の相対する場所ですね。それが岡本太郎が、それこそ日本の信仰の原点だって言ってね。自分が眩暈のするほど感動したって『忘れられた日本』という本の中に書いてますけどね。
戦後の戦跡調査
(画面が変わり車中)(潮平さん)(運転している男性へ説明)の所から、ここをずーっと。
聞き手1:ここも下が目隠しされていたんですか?
はい。あそこの角まで。この角まで塀がつながっていました。ここまでね。ここを過ぎるともう、湾は見えないんですよね。(しばらく沈黙)(画面が変わり右手に海が見える)この辺りが平喜名(ヘーギナ)壕って言って、海軍の航空隊の壕があるんですよ。そこにいらしたことあります?
聞き手2:いえ、あります?(聞き手1に尋ねる)
聞き手1:ないです。
平喜名壕。ものすごい大きい壕があるんですよ。
聞き手1:へぇ。今も入れるんですか?
入れます。学校の先生たちが戦跡を巡るときには必ずあそこへ行くんですけどね。それと野戦病院の跡ですね。
聞き手1:ああ。それはどの辺りにあるんですか?
えっとね、街からずっと北の方です。そんなに遠くないですよ。今度いらしたときはあそこへご案内しましょう。
聞き手1:そうですね、ぜひ。
近く寄って入ってみようと思うんですけどね。入る道がないんですからね。〇〇みたい。
男性:入らなかった人って、自分たちの何か、別の所に避難したってことですか?
いやいや、避難したんだけど戦後行かなくなった訳。だから荒れちゃって、道もなくなっちゃったの。
男性:避難した所はあるんだけど、入ってないから。
そう、戦後。
男性:じゃまだ行ったら、何か転がってるかもしれない。
そう。あるんですよ。
聞き手1:こういう避難所の調査っていうのは、どういうふうに戦後行われてきたんですか?石垣の中で、個人の方とかあるいは…。
個人ですね。個人が調査をしている段階で、後で県の調査が始まったんですね。県の調査に我々が協力して、立派な調査、戦跡の報告書ができてますよ。
男性:ほかにはこっちにはまだ入っていないんですか?
いや、家も入っていたんです。ただあんまり詳しく入っていない。
あの、この辺もマラリアでたくさんの人が死んだんですよね。それで僕の聞く所によるとね、あそこはおばけが出るらしいよとかね、そういう噂が立って皆行かなくなっちゃった、怖がって。
聞き手1:避難所だった場所?
はい、避難場所。おばけが出るらしいよとかね。
聞き手1:でもそういう避難所の調査を着手してきた個人の方というのは、やはり体験を実際にされた方なんでしょうか?
いや、そうじゃないですね。体験者じゃない、戦後生まれですね。
聞き手1:潮平さんは特にその[個人の]お一人だと思うんですけど、他に何名かそういう方はいらっしゃったんですか?
いますね。あの大田静男っていって、ちゃんと本を出してる人がいます。彼、でも戦後生まれだからね。
聞き手1:じゃ決して、まぁ避難所で生まれた訳でもない。
そうです。戦後の生まれですからね。
爆雷特攻の訓練
それから左手のね、ちょっと街に向かって傾斜してるでしょ。ここで僕ら中学生のときに、肉弾って戦車に体当たりする訓練をここでやりましたよ。
男性:ああ、地雷とか何か抱えてですよね。
そうそうそうそう。ランドセルみたいに爆薬背負ってね、紐引っ張ったら爆発するの。で、タコ壷を掘ってさ。タコ壷の中から潜望鏡を作って、潜望鏡で、竹で作った戦車を兵隊が上から綱で引っ張るんですよ。それで戦車が寄って来るのを見てね。体当たりする稽古をしましたね。
聞き手1:そんなふうにやるんですか。
はい。
男性:それ、小学生のとき?
中学生。中学1年。
聞き手1:じゃ鉄血勤皇隊になって…。
なってから、なってすぐです。
聞き手1:それ皆やらされた訓練なんですか?
中学生はね。中学の1年生と2年生がやった。3年生4年生はね、もう軍隊に入ってます。1年生2年生は幼いものだから、家から通ったんだよね。
男性:これ左曲がりますよね。
これ左。
聞き手1:当時、そういう訓練、まぁ要は訓練じゃなく実戦だったら100%死ぬ訓練というか、作戦ですよね。そういうことを訓練することについて、特に何か思ったこととか、そういうのって何かありますか?
ええ、もうそれは軍隊が直々に来てね、指導していましたよ。だからそういう訓練をするのは戦時体制下で何か当たり前のようになっていましたね。
男性:国語算数理科社会とか教科の名前みたいなものもあったんですか?軍事訓練って。
いや、なかったですね。ただあの教科の中に軍事訓練という教科はあったようですね。僕なんかの頃はもう毎日が軍事訓練だったですよ。軍事訓練って言ってもあれよ、兵隊の所へ行って防空壕掘り手伝うとかさ、そういう軍事訓練でしたよ。
男性:担任の先生とかって何やっていたんですか?そのときもいたんですか?学級だったら学級の先生がいるじゃないですか。
はいはい。いやもう、学級なんて意味なかったですよ。もう鉄血勤皇隊で。先輩も後輩も一緒ですよ、行動は。軍隊みたい。学級なんてのはもう全然意味を成さない。だって勉強しないんだもの。授業がある訳でもないからね。(画面が変わり)掩体(えんたい)壕が一つあるんですよ。掩体、特攻隊。一つだけ残ってるんです、ここにね。ここもいつも、戦跡巡るときはいつもまわる所です。
聞き手1:石垣島の戦跡巡りっていうのは何箇所位をどれ位の時間をかけてまわるものなんですか?
大体朝からまわって大体4時頃には帰って来れますね。
聞き手1:場所は全島さまざま?
男性:まっすぐでいいんですか?
いやいや、右。(右折する)
聞き手1:あ、空港だ。近いですね。早い。
男性:特攻特攻って言うじゃないですか、あれって神風の特攻の方ですか?
神風も特攻よ。特攻って言うのは特別攻撃隊。略して特攻、特攻って言う。
聞き手1:特攻機も何種類かありますよね?
はい。
聞き手1:人間ロケットみたいな。自力で飛べないものも。
はい。そうですね。
聞き手1:桜花(おうか)とかそういうのだったりとか。後は本当にあの…。
飛行機とね。
男性:曲がっていいですか?
はい。曲がっていいです。特攻はね、飛行機でしょ、それから特攻艇でしょ、船でしょ。それから魚雷。
男性:人間魚雷みたいな。
人間魚雷。魚雷の中に人間が入る訳ですよ。あれは、もうそれこそ爆弾と一緒に、爆弾を操縦しながら行く訳ね。
聞き手1:でもあの潮平さんが練習したような戦車への爆雷持っての体当たりというのも、あれは特攻とはあんまり言わないですかね?
そうですね、特攻とはあんまり言わなかったみたいですね。
男性:実際に戦闘機も配備されてました?
見たよ、そのとき居たよ。
男性:ここから、じゃ飛び立って。
特攻隊、陸軍の特攻隊が。だから伊舎堂大尉って言って、石垣出身の伊舎堂大尉っていう隊長が居たんです、特攻隊の隊長、伊舎堂って言って。その人は白保の飛行場から飛び立った。
男性:目的は?体当たりですか?
体当たり。(携帯が鳴る)
男性:もう近くですよ。ANAですかJALですか?
(画面が変わり、前述の画文集p.47『目隠しの壁』の原画?を持った潮平さん)そう茅ですよ。ほとんど茅。だって湾の中に特攻艇の基地があるんだから。だから川平の村の人たちはね、さっき言ったみたいに皆移住してる訳。自分の家崩してね、皆移住したの。それで移住してね、やっと落ち着いた頃にね、もう帰って
体験記録
- 取材日 2012年7月1日(デジタルデータ35ファイル(計3時間30分46秒))
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
- 『絵が語る八重山の戦争 郷土の眼と記憶』(南山舎)
- 沖縄平和祈念資料館HP「戦世からのあゆみ−戦争体験者戦中・戦後の証言映像―絵が語る八重山の戦争―」http://www.peace-museum.okinawa.jp/testimony/archive/156/
- 地図 ───
- 年表 ───
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