柴崎 勝さん

満州・朝鮮半島

柴崎 勝さん

生年月日1938(昭和13)年12月5日生まれ
本籍地(当時)山形県
所属開拓団
所属部隊山形県第7次満洲開拓団
兵科
最終階級 

プロフィール

・1938(昭和13)年12月5日生まれ 

・本籍、現住所 山形県村山市楯岡 

・旧満州引き揚げ経験者  

・開拓団名 山形県第7次満洲開拓団 

満洲国浜江省珠河県六道河 

1939(昭和14)年3月入植 

・1945(昭和20)年8月16日 入植地を離れる 

・1946(昭和21)年7月離満し、10月16日 日本(楯岡)到着

インタビュー記録

自己紹介

 柴崎勝と申します。生年月日は昭和13年12月5日。山形県村山市楯岡で生まれております。私のこれからの話しというのは、満州の開拓という次男坊、三男坊対策ですね、それでもって内地には耕すところもない、という事で満州の開拓という募集があって、それに参加したというような内容になっております。

渡満、満州での生活、父との別れ 

 満州に行ったのは昭和14年の4月近くだったと思います。まっすぐ出た船は思い出せません、私が生まれて3,4か月しか経っていませんでした。目的地として到着したのは「満洲国浜江省珠河県六道河」で「山形県第7次満洲開拓団」という名目で出かけたものです。

 それからというのは到着したばかりなものですから、何十人かの団体行動で、男の人は農作業の訓練、女子は炊事当番というような感じで、しばらく1年か2年過ごしております。職場の所にはマルハズと言って、丸い茅葺の建物に入って団体行動しています。2、3年それを生活して米が作れるようになってから、別の場所に移りました。これは隣組の間隔が、隣の家が1km先だとか、そういう広大な広さなもんですから、私はいつも回覧板の当番でした。そこで生活の手助けと言いますか現地ではクリ(苦力)さんを1人頼みまして、そこで色々は働いて頂いた記憶がございます。そうこうしているうちに、家族写真を1枚撮っておこうかという感じで、おふくろと私と現地で生まれた娘2人そろって馬も入れて撮った写真が現在まで残っております。

 そうこうしているうち、私は子供らと遊んでいましたけど途中遊びに出てですね、農作業している馬車、暴れ馬にから巻かれて、開拓で掘り起こした木の根っこが積んであるところの木の根っこの間に入って、やっと助かったような記憶もあります。それを働いている人にも見ていて「大丈夫だったか?」と集まってきました。そこが記憶しています。よく「満人」の子供と遊んで、喧嘩もしたという記憶もあります。そうこうしてるうちに父の召集状が届きまして昭和19年だったでしたでしょうか、父と離れ離れになっています。そしてどうこうして時間たっているうちに、父から手紙が2回ほど届いたようです。1通目は、とにかく帰れないから、向こうからの情報を伝えるような手紙だったらしいです。

 2通目は遺言状として、「激戦地に行く、満州内地には帰れん、後は息子を頼む。」というような感じの、その中に、爪、切った爪と切った髪を丸めて送られてきて、これが最後の父親からの連絡となっております。

聞き手:お父さんその時は何処にいたんですか?どこからの手紙ですか?

 満州にいた時、召集を受けた軍事訓練所、そこで最後の手紙を出していると思われます。その後は、フィリピンの方にルソン島に行っているわけですから

聞き手:フィリピンで戦死されたんですね

 そういう連絡が、私ら家族に入ったし、母はもうここにはいられないと感じてクリ(苦力)通して、現地の畑、建物なんか全部クリ(苦力)にお任せしてきております。

聞き手:クリとは何ですか?

    クリとは、此方でいう下請け人夫さんです。苦力です。クリさん良い人で、「状況が変わって、戻ってきたら全部返しますから」という事で、そんな話で全部預けて来ております。

聞き手:開拓団出るときにクリさんに荷物を全部預けたという事ですか?

はい。

開拓村からの逃避行、現地夫人から頂いた腸詰に感激

 荷物は最小限ですね、子供がいるんで、子供は歩くわけにはいかないもんですから、馬車に乗ってその脇に小物を重ねて落ちないように囲ってきたような感じはします。犬を飼っていたんですけれども、犬がハルビンに近いところまで付いてきていたと現地の人が教えてくれました。そうこうして何処にいても目を付けられているわけですから、逃げる途中転々と場所を変えています。その順番等は私の記憶は全然ありません。

 途中の記憶としては、冬ですね空き家の一軒家を借りて冬を過ごして、逃げている間の一番冬の厳しいところ記憶にあります。食べるもの何もないし春先になると牧草、雑草、葉っぱのものはすべて食べつくすと、食べられないのは、茅の硬いもの、あれだけは嚙み切れなくて食べませんでしたね、あとは子供はビール瓶のふたを拾ったり金物拾ったりして暮らしてましたけれども、冬を越すのは非常に苦しかったです。一転二転場所変えられましたから、その時場所を変えているとき、皆団体行動で避難するわけですけれども、途中ロシアの婦人なのか現地の婦人なのか、向こうで言う「腸詰め」を一つ頂いて、ありがとうございました という感じですね~、頂いて元気付けたこともあります。私は一番人間として、・・敵兵の家族、・・言いにくくて困っているんですけど・・、敵の父は敵で、奥さん方は心が違うのかな、と・・お礼言うならもっと早く言いたかったな と、そういう思いでいっぱいです・・・。

匪賊の襲撃、浜江省珠河県の珠河駅での生活

 行列を作って到着した場所にもまた、何か月かいたんですけども、そこに夜、匪賊が毎晩入るんですよ、刀持って鉄砲持って、騒ぐと撃たれそうな感じで、子供なんかは(何が起きてるのか)わかんないわけですよ。声出そうとすると、親が口を閉まられて何とかその場を逃げるという感じなんです。そうこうしているうちに、匪賊の方も、いろいろ変わった方もいるんで、一番弱そうな匪賊が来てたまたま団長さんが捕まえたんですね、それで近くの役所に届けに行ったら「わかりました」「次の日、罪人を処罰するんで立ち合いに来てください」といわれ、団長さんが立ち会いに行ったそうです。

 そうしたらその罪人は棒殴りの刑で、かわいそうで見ていられなかったと、帰ってきて報告していました。そうこうしているうち浜江省珠河県の珠河駅に到着した。そこでまた長くなると言うような感じが出たもんですから、働けるものはどこかで働いたらどうかという感じで、そこで、おふくろはまだ体は丈夫だったものですから、駅の炊事のお手伝いと、駅の宿舎のたまり場に入りました。

 夜仕事を終えた工夫らは、麻雀の集まりの場だったんですね、夜みんな集まってくるんですよ、そして床を掘りだすんですね、床を掘りだして何か出して麻雀杯開けて始めるんですよ、やっぱり向こうも賭博があったのかなと、今思うと面白く思い出しています。そこは割と裕福なもんですから、広間にベッドを作ってもらって、ベッドで寝起きしていました。

 私はその時ラジオを初めてみました。日本でいえば、並四タイプ(真空管4本を使ったタイプ)のラジオですね、あれが備わっていました。あれなんだと聞いたらラジオと言って放送が聞こえるんだと聞いて、それから私の趣味が電気のそっち方面に向いていきました。そうこうしているうち期限が来て、何日まで集合だということで、そこの炊事場のおばさんから、味噌を半分くらい詰めた味噌瓶を貰ってきました。これは貴重な瓶ですから大事に使って、割れたんですけど、今になってみると相当骨董品に当たるんじゃなかったかなと思われますけど、現在はかたずけられて無くなっています。

聞き手:味噌が入っていたんですか?

味噌が入ってました。しばらくは煮炊きした感じはありますね。

ハルビン扶桑高等女学校での生活、妹二人の死

 また歩いた感じはします。松花江を渡ってハルビンに入った記憶はあるんですけど、なんで珠河県から松花江まで飛び越えてまたハルビンに入ったのか、そこの経路が私としてはとんと記憶がありません。母の記録にもその辺の経路は詳しく書けなかったのではと思っています。松花江を渡ってハルビンに入って、扶桑高等女学校の2階に、当時空いてたんでしょうかね、当時50人以上はいたかと思いますが。そこを借り切りました。そこにロシア人の兵隊が自動機関銃を持って、時間になると巡回していた。そうこうしているうちにここが長かったんですよね、働ける人は扶桑女学校の炊事のお手伝いという事になって行ける人は行ったんですけれども、私の母も行ってました。殆どジャガイモの皮むき、そんな仕事らしかったけれども、帰りにはジャガイモの皮を丸めておにぎりにして、自分が食べられるような数だけもらった人ももらえなかった人もいるようでした。たまたまもらった人はそれを食事にして食べるしかない。そうこうしているうちにジフテリアが流行りだして、満州で生まれた子供は免疫がなさそうだったという事で、亡くなられた。わたしの子供(妹たち)も校庭で埋まっているはずなんで、一度線香をあげに行ってお参りしたいという気持ちはありますけども、そんなところでは、心の余裕は全然ありませんでした。

聞き手:今の話は、妹さん二人の事ですね?

 妹二人はジフテリアにかかりまして、そこに埋まってる訳なんですね。できたら機会があれば校庭を掘れば骨が出ると、何十人かは、そこに埋まっているはずです、あそこは。女学校、記憶としてあるんですけれども。時間がたって長くないという事で、4、5日経ったら、団長さんから 「明日の12時まで日本人を皆殺しという命令が下ったらしいから、みんな準備して、内地に持ち帰れない物は全部焼却処分して待つように」という事になって、前の晩会合が開かれて、手はずを決めたようです。「最後に団長さん、男の人で最後に死ぬんだろうからどうやって死ぬの?」と問い詰めたそうです。よくわかりませんけれども、何とか帰ってきて、次の日12時過ぎても命令出ません。何とか逃れたんじゃないか、と聞いて、私の記憶ではその辺が最後だと思っています。ハルビンの最後の記憶だと思っています。

ハルビンから日本への帰国、父の死を知る

 ハルビンから汽車に乗って出るわけですけども、その後が私、記憶が全然ありません。ただ、満州の鉄道は幅が広いな~という記憶はあります。そうこうしているうちに大連に着いたのかな~と思っています。港に着いたなーと思っていますけども、着いた場所は夜、夕方で暗かったです。鉄砲の弾が頭の上を火がついて走っては伏せ飛んでるなーという事を覚えています。あと火をつけて燃やしてるところがありましたので何してんのかなと思っていたら、やぐらを作って人をかけて燃やしていました。今でいえばおサイロの灯し上げみたいな感じで人間を重ねて処理していたという記憶があります。たしか大連じゃないかと思いますしそういうところも調べたいなと思います。

聞き手:燃やされてるのはロシア人ですか中国人ですか? 日本兵はもういないですね?

日本人ではないです。その辺がわかんないですね。そういう記憶してる人がいればわかるでしょうが、大連かなと思います。そうしているうちに船で日本に着けるというところまで辿り着いたんです。みんな内地に帰れると安心して船に乗って何日間か乗ったわけです。船で亡くなった人もいます。むしろで包んで錨の鎖で沈むように重しを付けて海に葬っていました。それは何十人かおりました。そうこうして日本に着いたのは佐世保でした。佐世保に着くなり外人扱いされましてね、汚い人種だといきなりDDT掛けられ消毒させられて、佐世保本部に何日間かおりました。佐世保から向かったわけですけども、汽車に佐世保から乗ったのか乗り継ぎがあるのでわかりませんけれども、あの当時九州はどうなっていましたかねー長崎から福岡まであるんでしょうけれどもそこら辺の記憶はありませんで〇〇県に入ったあたりから列車が今でいう貨物列車、囲いのある貨物列車なら良かったんですけども、私らが乗った貨物列車はワム形式で、床はあるんですけど回りが柱が4、5本立っていて荷物が飛ばないようにロープで抑えるというような貨物列車に載せられました。それでずーっと広島まで来た記憶があります。広島を通った時には皆注視して、何か珍しいピカドンという爆弾で広島が焼けたんだそうですという事で、一面焼け野原ですねそういうのを見て通過してきました。まだ(昭和21年)10月近い頃でしたからね。8月から大分経ってましたから、私らは被爆してはいないと思いますけど。何とか東京で乗り換えて東北線でやっと帰ったんです。おふくろは楯岡(山形県)を知ってるわけですから楯岡で降りて、内地で生まれたところの、父親を生んだ母親が迎えに来ていたんですけれども、うちの母親は早速「親父帰っているか?」と尋ねました。・・泣き崩れてしまって、やっぱり駄目だったと・・・まーそれはそれでこちらで〇〇を受けながら今まで何とか生きてこられたなと。

 私はこちらで小学校一年から入りなおして、皆より1年年取った1年生になるけどしょうがないと入りました。それから「満州引き揚げ」、「満人」と悪口言われたりイジメにあったりで、何とか高校まで行きました。それで何とか専門学校にも通って勉強したせいもあって某放送局に就職することが決まりました。そこからまた辛いことが又ありました。

 その訳は、我々が(満州から)帰ってくる途中、「満人」に預けた子供が育てられて、だいたい同じ年頃になったんでしょうが、中国残留孤児という事で、放送が出来たんですよね、それがたまたま私の放送局の仕事になりまして、(番組の)送出・監視というような仕事に当たってしまって、1か月半くらいにわたって何年間ですか、放送するたびに(番組の)監視に当たっているわけですよ、こっちに帰って来てからも、おふくろが一緒にいた当時の人が「娘さん、放送に出てたけど、名のらないの~」というような感じで話しして、やっぱり名のって出られる立場になかった人もいるわけですね、どうせ名乗れないと。また思い出して泣きながら監視して、というような状態ですね。つらい思いもしております。忍び難きを忍び 偉い人の言葉通り 堪え難きを堪え まともにしゃべることもできなくなるんですよ。大体つたない私の話しはこんなもので、私の記憶のある限りはこんなもので、後はおふくろのメモを読み返しして探索している段階なもんですから。

聞き手:こちらに帰ってきたかたで開拓団の方はおられるんですか?

 たまたま小学校から中学校までは、同窓生が一人いた。当時はEという苗字でしたけど、今は別の名前になっています。満州引き揚げと聞いてて、話は今でもしています。一人だけですね。開拓団ではなく、満州から引き揚げたという人です。もともと何をしていたのかは本人も言わないし判らない。

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体験記録

  • 取材日  2024年10月30日(miniDV 60min*2)
  • 動画リンク──
  • 人物や情景など──
  • 持ち帰った物、残された物──
  • 記憶を描いた絵、地図、造形など──
  • 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─

参考資料

戦場体験放映保存の会 事務局

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