関山 武治さん

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関山 武治さん

生年月日1920(大正9)年6月4日生まれ
本籍地(当時)
所属陸軍
所属部隊歩兵隊49連隊入隊→第35師団220連隊第4中隊帰属
兵科歩兵
最終階級 軍曹

プロフィール

第35師団歩兵第220連隊 中国河南省

1940(昭和15)年12月北支部隊要員として東部63部隊(歩兵第49連隊)に入隊

1941(昭和16)年1月北支派遣軍上記部隊に入隊

1944(昭和19)年3月 第117師団(弘兵団)に転属(中隊のまま)

1945(昭和20)年5月 第6独立警備隊(至穀兵団)に転属(中隊主力2/3)

河南省新郷で敗戦、収容

1946(昭和21)年4月 復員

最終階級:軍曹

インタビュー記録

1940年(昭和15年)12月15日に入隊、年末には塘沽へ

 徴兵検査は、日本の男子と生まれれば誰でも否応なしに受ける検査なんで、体の丈夫な者は軍隊に行くというようなことで、当時は国民皆兵の時代であったから、多少の・・

 徴兵検査は20歳になると受けなきゃならない義務があったわけで、徴兵検査は下(した)検査とも本検査ともいいまして。19歳が下検査といって徴兵検査の予備的なものであったんではないかと思いますが、検査方法はほとんど同じようでありまして、身長・体重・内臓検査、機能検査、視力・聴力の検査もありましたね。その時に具合の悪いところがあれば1年かけて治して、20歳の本検査と言ってました徴兵検査に臨んだわけです。

 徴兵検査の結果は、甲種合格、乙種合格、丙種合格というような種類に分けてありまして、甲種合格は軍隊へ入隊すると。乙種には第一乙と第二乙があり、平時であれば第一乙と第二乙は軍隊に入るようなことはございませんでしたけれど、支那事変が勃発しましてからは、甲種合格は100%、乙種合格も100%近い人たち、ほんの少しの人が残ったという程度ということで。大東亜戦争が始まりましてからは、徴兵検査で第二乙種として外れてた、軍隊を逃れた人たちも応召ということで、軍隊に入隊させられたということでございました。当時は国民皆兵時代ですから、丙種で兵籍を免れた人も終戦間際には召集されて入隊したという話も聞いておりますけれども、とにかく当時は日本男子と生まれて成年に達すれば軍隊に入ることがなによりも義務であり、また名誉であるといわれておりました。

(聞き手)入隊はどこにされたんですか。

 わたくしは、東部63部隊(62と言っているが山梨とのことなので63部隊であろう)と言われました、歩兵隊49連隊のありました山梨県甲府であります。

(聞き手)どのくらいいたんですか。

 甲府には約10日ほどであったと思います。12月の15日に入営しまして、月末には、25、26日頃ですかね、もう少し早いか、約10日ほどだと思いましたが、甲府を夜行列車で、外も見えないようなことで黒幕でもって覆われて、東京の芝浦桟橋に着きました。芝浦桟橋からは軍の輸送船ですが、民間の船を徴用して軍用輸送船に使ったようでございます。われわれの乗った船も随分大きい船でしたけれども、名前は知りません、また聞いたこともありませんでしたが、中は確か三段くらいになっている貨物船でした。貨物船の一部屋を上と下に区切りまして、その狭い中へ、天井も何もない、中を歩くところもなく這いずって奥の方へ入るような低い部屋に改造した輸送船に押し込められまして、われわれの連隊の全員と、砲兵も一緒だったようなことも聞いておりましたけれども、われわれ星一つ(二等兵)では確認するようなこともありません。ただ話を聞いているだけですけれども。

 丸2日、3日目くらいに北支の渤海、黄海でしょうか、北支・塘沽(たんくー)港に着きました。あそこは黄河が運んでくる土砂で海がだんだんだんだん浅くなって大きい船は港に入れないということで、沖の方に停まりまして、それから小さい船に乗って港に入ったわけですけれども、われわれが下りた時にはもう寒くて、海の中に一面氷が張って氷だらけで、ゴロゴロゴロゴロ氷の中を小さな船が進んでいったのをはっきり頭の中に残っております。非常に寒い朝で、船の中で立ったまま北風で耳がちぎれるほどの痛いような寒さを感じて、日本とはずいぶん違った寒さだなと思って上陸しました。

(聞き手)12月29日ですから、寒いですよね。

(聞き手)当時の北支の連隊の名前は何だったんですか?

 塘沽から鉄道に乗り換えまして、京漢線ですね、北京から漢口のほうに行く線でしょうか、その鉄道で。客車で行かれるんじゃないかなと期待してたんですけどとんでもない、貨物列車なんですよ。アンペラを敷いただけの何にも無い、その中へ60人からの人員が押し詰められて、もう座っただけでも足を延ばせない広さ、そんな中で目的地の河南省新郷(しんごう)へ到着したのが1月3日であったと思います。

 部隊は第35師団220連隊、その中で私は第4中隊帰属ということになりました。軍旗のあるのは歩兵だけでございますから、ああ騎兵もありましたかね。全部の部隊が軍の連隊旗があるというのはまあ限られたところで、わたしたちの部隊も軍旗がありましたので、大変誇らしげに持って入隊いたしました。

河南省新郷にて、毎日ビンタの初年兵教育

 着いたところは新郷というところで、黄河のふちまでは30キロくらいあったのではないでしょうか。そこに日本軍によって建てられた四角な兵舎がございまして、一辺が500メートル以上あるでしょう、四角にレンガで囲んだ新しい兵舎で、平屋建ての細長い100メートルは優にあると思われる兵舎が、南側に2棟、北側に2棟、西側のほうにも2棟ありまして、その中に教育隊もありますし、そこに駐屯する部隊もありました。われわれは第1大隊、第1大隊というのは1中隊から4中隊までと第1機関銃中隊、この五個中隊が第1大隊になっていて、第1大隊は新郷で、第2大隊は(河南省)汲県(きゅうけん、別名:衛輝)のほうで、第3大隊は湯陰(とういん)という大隊本部が駐屯しているところで、初年兵教育が行われました。われわれのいたところも、二棟が第1大隊の初年兵教育隊でございました。北側の二棟は連隊直轄の連隊砲とか通信中隊とかそのような部隊と、また新しい初年兵の教育兵舎でございました。西側のほうに同じような長い兵舎が二棟あったんですが、そちらは歩兵連隊が使用しておりました。そこで初年兵教育が行われました。通常初年兵教育は4ヶ月くらいかけるのが普通のようにも聞いておりましたけれども、私たちの場合は3か月に短縮されたようです。というのは、4月から連隊で行われたと思いますけども、作戦がございましてね。濮陽(ぼくよう)方面の“きろのべ”地区掃滅作戦というふうに言っておりましたが、その作戦に参加する都合上、教育も1か月短縮されたんじゃないのかなと、私なりに解釈しております。教育が終わるとすぐに、初年兵も3分の2はその作戦に参加して、3分の1は中隊が駐屯するそれぞれの駐屯地へ向かったわけです。

(聞き手)初年兵教育時代に印象に残るなにかありました?

 教育中は非常に厳しくて、わたしたちの教官は幼年学校から士官学校を出たパリパリの教官だったもんだから非常に厳しくて、他の中隊の教育隊とはだいぶ違った厳しさがあったようです。厳しさといっても、私的制裁としてあまり歓迎されないビンタでございましたけれども、ビンタは朝から晩まで無い日は無いというくらいにひどく教育を受けたわけであります。それが幸か不幸かはわかりませんけども・・・(何かまだ言いたげだったが、質問者が別の質問へ)

1941(昭和16)年4月 便衣が潜む共産地区の農村

(聞き手)12月に入って教育が終わって、次の年の5月にもう作戦に参加されているんですね。

 いや4月には参加しました。4月の濮陽方面への作戦は、共産地区の討伐でした。連隊が動きますから作戦という言葉なんですが、そこには共産軍が住んでいて、正規の軍隊であるか或るいは住民であるかわからないような、いわゆる便衣(兵)ですね、そういう服装でおりまして、出てきて日本軍と戦う或るいは鉄道を爆破するとかいうことが頻繁に行われておりましたので、その討伐に入ったようですけれども、その地区の武力を無くしてしまうというような作戦であったようです。

 彼らは棗(なつめ)を常食としてたようですね。庭にあるいは部落の周りにも棗の木がいっぱいありましてね、棗が成ったのを乾燥・保存しといてそれを常食にしていたようなんです。また畑ももちろん、平地ですから見渡す限りもう麦畑であったり、とうもろこしがあったり、綿畑であったりとか、豆畑であったりとか、まあこれは秋のことでありましたが。そういうものを作っておりまして、そういうことができないように、住めないようにとのことで、棗の木を切ってしまう、家は全部焼いてしまう、生活に必要な井戸も使えないように壊してしまうとか、そんなような作戦であったと思います。作戦は比較的短くて、4月の末には終わったように思います。

 われわれは部隊と一緒に引き上げないで、われわれの中隊だけは、わたしたちの中隊本部が駐屯している付近に敵が現れて敵襲を受けると、大きな部隊が包囲しているというような情報が入りまして、連隊長命令でわたくしたちはもう、すぐにトラックで鉄道沿線の駅まで引き上げてきまして、その駅から装甲列車へ乗って急遽新郷まで来たんです、新郷からはまたトラックに乗って駐屯地の“たんでん”(地名)まで急行したんですけれども、幸いにも敵襲もなくて平穏無事であったということで、帰りも行軍せずに済んでほんとうによかったな、とお互いに喜んだ作戦でしたね。

中原会戦、砲を分解して遮蔽物なき三尖の坂道を搬送

 その次は中原会戦ですね。中原会戦は5月入ってまもなく、10日頃には始まったんではないかと思いますが。編成は濮陽方面の編成とほぼ同じで、中隊長以下2個小隊の編成で参加しました。三尖(さんせん)の山(太行山脈の支脈で、3つの峰がそびえ立つことから名付けられた。沁陽市の紫陵鎮に位置し、黄河を望む景勝地)の中に中国軍が蟠踞(ばんきょ)して日本軍を悩ますということで、中支軍も一部参加したということで、かなり大きな作戦であったようです。で、わたくしは第1小隊に所属していましたけど、三尖の山に登るまでの間に相当の行軍があったんです。行軍で足にマメが出来て、少しびっこをひいてようやくついていったものだから、目的地の済源(さいげん)という敵の司令部があった大きな町に行く直前に中隊と別れまして、済源の町へ入りました。本隊は済源の街へは入らずにすぐ三尖の山の中に入っていったわけなんですが、わたくしは比較的体の悪い、疲れた落伍者というような形の者が6-7人、各中隊から全部残されたんですね。1個小隊ばかり30人近く残されまして、余所の何中隊だかわかりませんが小隊の少尉の指揮下に入りまして、1個小隊を編成して済源という部落の中に入りましたが、既に他の部隊が済源城に入って戦闘もなく穏やかでございました。そこで4-5日休んで、すっかり足も治って体の疲れも治りましたので。その留守に日本軍の部隊がどんどんどんどんその大きな済源という町の中へ入って来て、戦闘指令所という師団のいわゆる戦闘を行うための司令部が済源の城内にできたんです。その時に、師団長や参謀長などの幹部がそこにいて、三尖の山の中に入っている配下の部隊の指揮を執っていたところでした。たまたま、師団司令部の参謀長ではないのですが少佐の参謀の護衛で三尖の山の中に入って、各部隊を激励するため山に入る護衛を命ぜられまして、われわれの1個小隊30人くらいと師団司令部からはその参謀と参謀に同行する30人くらいの1個小隊の兵隊、それから野砲隊が一緒に参りまして、砲を一門持ってこれも30人くらい、総勢100人くらいの部隊で三尖の山へ入るために登山口へ行ったんです。

 登山口から、われわれ(歩兵)は銃を持っただけですから山登りも出来ますが、道らしい道ではなく急な坂道もあるので、砲は馬で引っぱっていっても登れないので全部分解搬送になって、砲身とか車輪とかみんな別々にして馬の背中に載せたり人間が担いだりして山登りをしました。非常に急な、また敵からもし狙われれば遮蔽物のない山道で、全滅するというような錯覚もありました危険な坂道を、3時間以上かけてようやく頂上へ登ることができました。登って部隊がいるところにも行きましたが、なかなか水がなかったり、休む場所もなかったり、泊まる場所がなかったりなど随分苦労しました。各連隊が駐屯している本部のあるところを転々と移動しながらわれわれは護衛の役を務めて、帰りにもういよいよこれで終わり、済源の司令部へ帰るということで山の降り口まで来たときに、喉が渇いて水なんか全然ないですから非常に水にも飢えていたところ、ちょうどそこに水たまりを見つけまして、これは大丈夫だなとその水を飲んだんです。それが禍いしたのだろうと思いますが、私は赤痢になってしまって、済源城内に入った時にはもう下痢で30-40分ごとに便所に行かなければ間に合わないような状態になって。すぐ隣に野戦病院が出来ていたので薬をもらってこようとそっと診療にいくと、軍医が診察して便を見て、ああこれはすぐ入院しろと言われ、入院をさせられました。それで中隊復帰ということができなかったのですが。中原会戦は赤痢になって入院したという記憶があって、本当に残念というか無念な作戦参加であったと思っております。

 1941(昭和16)年9月 第一次河南作戦、師団を挙げての黄河渡河

(聞き手)昭和16年の12月8日の日米開戦時の戦地はどうでした

 そのまえに第一次河南作戦というのがありました。9月末から11月いっぱいくらいまで2か月くらいありました。河南作戦の前段といいましょうか、一部といいましょうか、要は黄河を渡って渡河して敵の本拠地である鄭州を攻撃するというのが目的でありました。わたしたちは中原会戦が終わりましてから、焦作(しょうさく)という街へ警備交替があって、そこへ第1大隊が駐屯しました。

 大隊本部付と言うことでわれわれの中隊は焦作から河南作戦参加ということで、焦作から新郷に行き、新郷で連隊が集結して、黄河のほとりまで夜行軍、昼間は寝て夜に秘密行動して、敵にわが軍の行動が察知されないように闇を利用しての軍の移動であったわけです。黄河のふちにたどり着いて工兵が用意した船2艘をふたつとも(艫)を寄せ集めて2艘を1つにして沈まないようにして、1艘に1個分隊ずつ乗りまして、黄河の強行渡河でございました。10月2日の未明、月が沈んで暗くなるのを待って渡河しました。その時は第一線渡河が第1、第2中隊、第二線渡河が第4中隊とわたしたち、の順番で渡河するように最初から指示されていました。渡河が始まると、向こうからもう敵の射撃、或いは迫撃砲がものすごい勢いで飛んできました。日本軍もわれわれが渡河するだけでなくこれは師団を上げての作戦ですので、われわれの右には221連隊が渡河、左側のほうは219連隊が渡河していて、われわれも渡河点を二つに分かれてやったようです。われわれの第1大隊、その後に第2大隊、連隊本部があってその後は第3大隊、のような順序で渡河したようでございます。

 対岸である黄河の南岸にはトーチカなんかも出来ていて、日本軍が渡河してくるのではないかと前もって彼らも察知してましたから、トーチカを作ったり非常に頑固な陣地もあったようです。渡河するまではさほど犠牲はなかったようですが、渡河してからは非常に多くの犠牲が出ました。第1中隊でも第2中隊でもわれわれの中隊でも、各隊何十人からの犠牲が出たのではないでしょうか。第一線渡河は第1中隊と第2中隊ですが、渡河してから陣地を取ってその次の陣地に進むときには第3中隊が交替になるんですね。われわれはその次に、第1中隊が1つの陣地を奪守し、次の陣地に進むときには後ろにいた第二線の中隊が第一線と交替して最前線になって進むわけなんです。これを交互に繰り返しながら前進するんですね。

わたくしもその時は軽機関銃手ということで参加したんですが、第一線の渡河の方はどうにかまずまず順調でしたが途中エンジンが止まりまして、川の中へ飛び降りたんです。黄河は沖積土みたいでぶくぶくしててぐずぐずして足がもぐっていっちまうんですね。こんなところで死んでたまるかと、みんなで励ましながら、船が流れないように押さえながら、浅瀬でしばらくエンジンが直るのを待ってました。歩きながら、といいつつ片方は流れてますからなかなか進みませんけども、30分近くかかったか、エンジンがかかって全部乗って、それこそ濡れねずみになって上陸したんです。それまでは全然犠牲者もなかったんです。第1中隊と交替して第一線に回ってから、わたしたちが攻撃する部落が敵の頑強な抵抗によって犠牲者が出まして、わたしの分隊は8人いたのですがその場で2人が戦死してしまいました。わたしたちはまだ星2つになったばかりでしたが、同じ分隊にいた古い3年兵の上等兵と2年兵の上等兵が、二人とも撃たれて即死状態で亡くなってしまいました。敵の撃つ弾や迫撃砲はものすごい数で、音が一発一発の弾の音ではなくザーという音でした。畑の中で攻撃したのですが、豆畑でしたから豆に弾がバンバン当たって、バララバララと落っこちる音がする、すぐ近くまで弾が飛んで来ているのがよくわかりました。

深夜の突撃命令、敵軍の銃火で真っ赤な中へ中隊100人で前進

 その日は夕方まで敵と撃ちあいになって、暗くなってから部落に引き上げてきました。そしたら夜中に、われわれの中隊は前の陣地に突入しろと、陣地を奪取して部隊が前進できるようにということで、われわれの中隊は突撃命令が出たんです。2時頃に宿舎を出まして、敵の陣地に近づくために迂回の道をとりまして、正面を避けてずーっと敵の左側のほうへ歩いていくと川がありまして。そこの二ヶ領用水(川崎市多摩区)より少し大きいくらいの川なんですが、そこに突き当たって川に沿って更に進んで、川の中で月が落ちるのを待っていたんです。敵はわずか5、600メートルという距離で、正面ではなく横に位置していたわけなんです。川の中で全員一列に並んで岸にもたれながら月が落ちるのを待っていたんですが、もう渡河以来不眠不休で全然一睡もしていませんから、立ってて居眠りがでちゃうんですよね。「みんなして寝ちゃだめだよ」ということで伝達もありましたけど、隣のものが居眠りしてるから、おいおい駄目だよ寝ちゃ、と肩叩いて起こしてやって。そうかと思うと今度あべこべに自分がいつの間にかうとうとしてしまって、立ったまま水の中で寝ていましたね。

 月が沈んでそおっと外に出まして、中隊が一線になって静かに豆畑を進んだんですが、なにしろ秋ですからもう、収穫間際ですからね、青いうちなら踏ん潰しても音はしないだろうけども枯れてますから音がする。100人からの中隊の兵隊が一線になって行くんですから、いくら静かにと言っても静かにしようがないんです。で、200メートル以上あったでしょうねえ、敵に気づかれて一斉に撃たれたんですよ。重機関銃から軽機関銃、小銃、迫撃砲から猛射撃、見てると前がもう真っ赤な火の海でしたね。そこに突入するんです。よくもまあ突入するまで怪我人がなかったな、と思ったのですが、後で聞いたところによると、第1小隊の小隊長のマエダという士官学校出の将校が、われわれはマエダ少尉の小隊じゃなかったから行かなかったんですが、マエダ少尉の将校斥候として5人くらいの兵隊を連れて小さな川の渡河点まで行って、敵のすぐ傍まで行って敵情視察をして帰ってきたというんですよ。事前にそういう準備をして敵陣に突入できたので犠牲がなかった。敵陣の途中まではほとんど誰も怪我をしなかった。敵も固定した陣地ではなく、急に日本軍と戦争するようになったもんだから自分で壕を掘ったり、何か持って来て邪魔物を作ったりした急造の陣地ですからね、そこへわれわれ突入していったんですけど。後ろで見ていた大隊本部や連隊本部、ほかの兵隊たちは、あのものすごい銃火を浴びたんじゃ、とても突入したって一人残らず全滅ではないかと思っていたという話も聞きましたが、わたしたちも命令ですから、死ぬの分かっていても行かなきゃなんないという、いわば責任感、使命感というんでしょうかね。死というものをなんとも思わない、死ぬのが当然と、いつまで持つかな、というような気でいましたね。

 敵の陣地を攻略してやれやれと思ったら、一時そこで停止という形となり、それぞれ個人でタコツボを掘れと言われました。作戦討伐なんかにいくと、こんなちいさい(30センチくらいの幅を両手で見せる仕草)円匙、柄のこんな短い(60センチくらいの幅を両手で見せる仕草)、あとは鋸だとか鉈だとか斧そういうものを1つずつ持たせられるんですね。だから壕を掘るときにはスコップがあるし、家を壊す、補修する時には鋸もあるし斧もあるしね。そんな器具を持っているので、スコップで一人一人壕(タコツボ)を掘れと。でもこんなことしてもどうせ死んじまうんだからなあ、と思いながらねえ、馬鹿馬鹿しいしいけどしょうがねえ掘ろうととりあえず掘ったら、案外砂みたいな土で柔らかいから簡単に掘れたんですね。で、すっかり夜が明けたら、そうだね300メートルくらいのところで砂山みたいのがあったんですね。われわれ夜だから分からなかったけど、夜が明けてみたら砂山があんなところにあるよ、なんて言っていたら、そこから今度は機銃掃射をやられて。敵がそこに陣地を築いちゃったんですね、タコツボから頭が上げられないほど弾が飛んでくる。後ろの部隊がわれわれのいる1つの陣地を取ったけど、すぐ前から機関銃を並べて撃たれてて、後ろの本部が前進できないくらいなの。

 もう腹は減ってくる、喉は乾いてくる、何かないかなって見たら、わたしがいたすぐ後ろ側に重機(重機関銃)の陣地があったんですね、薬莢が、撃った殻が山のようになってた。その脇に茹でたさつまいもがしっ散ちらかっている。あとターピン(大餅)という、小麦粉を焼いて丸めたやつ、ニラだとかニンニクとか入れて食べるんですけど、そんなものも転がっていて。(戦友が)俺が取りにいってくると、這いずってすぐ後ろだから取りに行ったんですよ。で、集めて持ってきてすぐそこ、1メートルか1メートル50くらいのところで撃たれて。やられたーっていうんで、弾薬手と二人で壕の中に引きずりこんだんですね。右の腿から左の腿へ弾が入って止まっていた。これ(ご自分で書かれた本を指さし)にも書いてある、イナバなんですけどね、川崎の市役所のそばのイナバ医院ていう医者の息子なんですよ、兵隊から帰って来てその人は丈夫だろうかと調べたんですが、親は医者で兄貴は医者になったが、本人は医者にならなくて蒲田のほうへ所帯を持ったという話で。私が耳にした時にはもう亡くなっているということでした。その時にも、穴を掘ったってどうせ生きちゃいられないんだからなあ、重たいものは全部放っぽってっちゃえ、どうせ死ぬんだから、なんていいながら、穴の中へ余計なものはそこに埋めてっちゃったような記憶がありますね。

(質問者が日米開戦時は?と話を振るが、上の話がまだ終わっていないので続ける)

 それで警備地の焦作へ一時帰ってきたんですよ、本隊はまた覇王城(はおうじょう)という京漢線が架かってた鉄橋のそばの陣地を確保して、河南作戦では他の部隊は全部場所からは北岸へ引き揚げてきたけど、その陣地一角だけは後の作戦行動の拠点として確保したんですね。そこでも拠点を確保するために当初はものすごい攻防戦が繰り返されましたね。

日米開戦の知らせは焦作で聞いた

日米開戦の時は、焦作という部落にいました。いわゆる黄河の南岸の一部の陣地を警備交替して一時帰ってきたんです。全部そこを他の部隊に引き渡してまた覇王城という陣地に戻ったんです。焦作で12月8日の朝、連隊本部へ全員が集合して大隊長から、(米国と)戦争が始まったということを初めて聞いたんです。

(床の間にある、師団長からもらったという掛け軸が映る。質問者が、お茶を持ってきた奥様と少し話す。)

*覇王城の位置:鄭州の北西、黄河に面した村 、↓の地図内(一番上の段、72-73の線内)

https://maps.lib.utexas.edu/maps/ams/china/txu-oclc-10552568-ni49-8.jpg

1941(昭和16)年10月 黄河南岸の覇王城陣地での攻防

10月4日にわれわれの部隊が敵の根拠地であった鄭州を攻略しました。これが作戦の目的の1つであったようでございます。鄭州を攻略しましてからは、われわれは鄭州の前方1、2里のところに駐屯しまして、敵の侵攻を阻止していたんです。われわれ第1大隊はほとんど大きな戦闘にぶつかることはなかったんですが、われわれの左の方に駐屯していた第2大隊と第3大隊は敵の部隊の攻撃を再三受けて、かなり多くの犠牲が出たようでございます。鄭州の南方1、2里のところで約1か月近く、10月いっぱいくらいだと思いますが、そこで警備についておりましたが、急に鄭州を撤退することになりました。夜間に乗じて、わたくしたちは引き揚げてきたんですけれども、後ろから弾が来る、彼らはわれわれが撤退したのを知っているからすぐ後ろに追随して攻撃を仕掛けてくるんですね。一番最後尾の任務を受けたときなどもう、すぐ後ろに敵が付いてくるので、本当になんというかな、孤独感というか、こんなところで後ろ玉を喰って死んだらつまんないことになってしまうというふうな気持ちもありまして、本当に嫌な撤退でございました。

 そして日本軍が1か月前方で敵と対峙している間に、日本軍が黄河の鉄橋がかかっているところ、山なんですが覇王城というところに陣地を作った。その陣地に到着したのが11月の2日か3日頃ではなかったかと思います。陣地はかなり出来上がっておりましたが、まだ完全なものではありませんでした。山の沢を利用した陣地でございました。陣地の前は何十メートルかの深い沢に囲まれておりまして、それが縦横に走ってずいぶん複雑な陣地でございました。敵はその覇王城から日本軍がどんどん引き上げて北岸へ帰るであろうということで、毎日のように猛攻が加えられまして、敵の機関銃あるいは迫撃砲の飛来はものすごい数でございまして、こんな戦闘は河南作戦以降、そんなに戦闘した覚えはございません。われわれの中隊が受け持ったのは覇王城の山の上の左翼のほうで、敵との距離が小さい沢だから50メートルもないような陣地で、夜などもう敵と話ができるような距離でございました。

 そこで対峙して敵と戦いを続けていたわけですが、夜になると青い信号弾が上がって猛攻撃が始まるんです。敵の機関銃の曳光弾が飛んでくる、日本軍がこれに呼応して曳光弾が入った機関銃やら砲が飛んでくる。両方がもう撃ち合いを始めまして、わたくしたちのいるところまで敵は非常に勇敢で沢を登ってきたことがあるんです。わたしなんか一番最前線ですから。(こちらの陣地は)交通壕で全部つながっているんです。敵が途中の沢を登ってきて交通壕まで来て、交通壕の上から後方の本部へ射撃が始めちゃったんです。われわれは「全員引き揚げろ」ということで、交通壕づたいにずーっと本部へ引き上げる途中、敵がもう上がって来て交通壕の上から後ろのほうを撃ってるんです。気づかれたらお終いだと思って小さくなって、音がしないように分からないように交通壕を通ってようやく本部まで引き上げてきたんです。

 われわれは、今度は重火器の射撃の番だと、大隊砲だったか10センチ榴弾砲とか山砲だとか、そういう砲と機関銃の一斉射撃でもって敵と・・・そうですねえ2時間くらいはやってたんじゃないでしょうか。砲の零距離射撃なんて、撃つと同時にすぐ先で破裂するんですね。それが2時間くらい続いてようやく彼らは赤い信号弾が上がって、攻撃が一時止んだんです。われわれはまた元の陣地に戻らないといけないけど、まだ交通壕に(敵が)いるんじゃないかと大隊本部から手りゅう弾なんかももらいましてね。持てるだけ手りゅう弾もって、音がしたり怪しいなと思うと手りゅう弾を投げて、だんだんだんだん自分のいた陣地に戻って行ったんですね。

火力豊富な敵、応戦には手りゅう弾やガス筒も使った

 ようやく夜が明けたと、朝になったら迫撃砲が飛んでくるわ飛んでくるわ、一秒に一本ずつじゃないんですよ、私は歩哨に立って数えてたんですからね。一秒に一発じゃなくて、一分間に60発以上が飛んでくるんですからね、それが後ろの方いったり横の方で破裂したり。渡河点のほうで、或いは渡河してる黄河のふちの方までも飛んで行ったということで、前線も後ろもないような陣地の戦闘でした。あくる日は、またやられるだろうということで陣地についていましたが、敵の攻撃に備えて本部の方から黄河を渡っていろいろ弾薬なんかがどんどんどんどん運びこまれまして、手りゅう弾も歩哨1人に対して1箱ずつ渡ったんです。それと赤筒(あかとう)というのも渡ったんです。赤筒というのはそうですね、300ccの自販機で売ってるような飲料水くらいの大きさになるんですけど、それのふたをとってこう擦る(手のひらで瓶口を手前から手先に擦る動作)と発火して白い煙がでて、涙が出るくしゃみが出る、そういうガスが入ってる、われわれはガス筒と言ってましたが、それも1箱くらい歩哨のところに届いたんです。歩哨と歩哨の間は40-50メートルくらいの間隔なんです。われわれも色々考えまして、住民が捨てて行った着物やなんか残ってたのを細く割いて紐にして、その先に手りゅう弾を縛り付けて、敵が上がってきたら頭の上で爆発するようにと。下まで転がって落っこっちちゃあ何にもなんないから、上がってくる頭の上で爆発するようにと紐をつけておいたんです。そんなことをやったもんだから、翌日も青い信号弾が上がって猛射撃を受けて敵も這い上がってきまして、ガス筒なんかを点けて下に放り込んでみると、咳してるのがよくわかるんですね、でとうとうその日は敵側に陣地を取られないですみました。その翌日からはひどい攻撃はなくて、敵も日本軍はもう北岸には引き揚げないんじゃないかと諦めたんじゃないかと思うんですけれども。

11’05’’

 そうしてるうちに、友軍のゆうしゅつ(救出?)にいかなくてはというのが一つ出来たんです。というのは、第1中隊の1個小隊が、われわれが鄭州のげんぽう(北東(うしとら)を意味する「艮」の意味?)の方にいた時に、師団司令部の護衛で、われわれがいた覇王城の2、3里下流だと思うんですが、京水鎮(きょうすいちん)という陣地があってそこにいたんですね。司令部はみな引き揚げて北岸へ渡ってしまったんですけど、1個小隊と連絡がつかなくなった、取り残されてしまったんですね。それを救出するということなの。でまあ聞いたところによると、連隊本部では作戦会議を開きまして、陸から行くか、黄河を渡って渡河するかと会議をして、陸から行くと覇王城は敵がとえはたえ(十重二十重)と囲んでおりますから、相当の犠牲が出るだろう、対岸から黄河を渡って強行渡河で救出する手が一番いいだろう、と。もう3日も4日も経ってますから食うものも弾もなくなってる状態なんですが、幸い日本軍は飛行機がありましたんで、空から弾薬とか食料を補給していたらしい。そこで1個小隊はまだ健全であると分かったんで、われわれは一時また覇王城の警備を他の部隊に任せてまた北岸に渡って、友軍が残されてる対岸へ行きまして、そこから第1中隊が第一線で強行渡河をして無事に友軍を救出することができたんですね。もし第1中隊が失敗すればわれわれ第4中隊が第二陣として渡河するということで対岸で待ってましたんですけれでも、第1陣が成功して全員船で救出することができて帰ってきたんでね、大きな声で万歳して喜びました。

1941(昭和16)年12月 焦作にて日米開戦を知る

 それからまたすぐに覇王城に戻って、敵との攻防戦をしておりまして、11月の末までそこにおりまして、また一時警備を交替して、これからはわれわれがしばらく覇王城の陣地に常駐するということで、今までいた焦作という街へ引き上げて移動の準備をしておりました。12月8日に大隊本部に集合しまして、大隊長から日米開戦が今朝始まったと、ハワイにおいては非常に大きな戦果を挙げたというような話を聞きまして、いよいよ大きな戦争になってしまったのかな、いよいよわれわれの任務も重大になってきたというふうな感じがいたしました。それから本隊は、20日頃ですか、また覇王城に向かって大移動を始めたんです。

1942(昭和17)年 一選抜で上等兵に進級、冀東作戦と蘇淮作戦

 しかしわたくしは、来春入ってくる初年兵の教育を命ぜられた。命ぜられるまでに大東亜戦争(の開戦)が終わってすぐ12月に上等兵に進級いたしました。一選抜の上等兵でございまして、一選抜の10人ばかりがそこで上等兵に進級したんですが、そのうち5人が初年兵教育と言うことで本隊とは分かれまして、下士官はいわゆる班付きの状況ですが、下士官が5人いや4人ですね、が初年兵教育ということで、本隊とは分かれて私たちは新郷へ参りました。新郷で3週間ぐらいですか、教育を担当する助教、助手と言ってましたけど、連隊の集合教育が新兵舎で行われるんです。新兵舎では3週間の初年兵教育の復習みたいなものでしたから気楽な教育でございました。初年兵は2月の初めに入ってきたと思います、われわれは1月の初めに入隊したんですけど、1年遅れた16年兵は2月に入隊してきたと思いますね。そこで5月まで初年兵の基礎教育が行われたんですが、第1大隊は黄河渡河点の京漢線がわたってるいわゆる覇王城の近くの部落を接収しまして、第1大隊はそこで初年兵教育をおこないました。初年兵教育が終わりましてからはまた、われわれの部隊が警備をしている覇王城へ戻りました。覇王城で7月にまた警備交替がございまして、覇王城の警備を第1大隊に任せまして、大隊本部が湯陰というところにありまして、われわれ第4中隊は大(現在は太の字)行山脈の山のふもとの“せいかろう”(地名)という小さな部落に派遣されました。湯陰からは7、8里離れた陸の孤島と言われたさびしい町へ派遣されて警護に当たったんです。その時に4年兵はわれわれと一緒に行かずに、覇王城から満期をいたしました。

20’00’’

それから“せいかろう”に駐屯してから、今度は秋に「きとう(冀東)作戦」てのがあって、わたしが分隊長として1個小隊が作戦に派遣されたんですね。冀東作戦は16年(17年の間違いと思われる)9月半ば過ぎから11月いっぱいくらいまでですね。それが終わって帰って来て、“せいかろう”で17 年のお正月を迎えたんです。で、2月から中支のほうの「そわい(蘇淮)作戦」(注:蘇淮作戦は昭和18年2月、よって18年2月の間違いと思われる)へまた1個小隊が参加したんです。中支の作戦にはわたくしたちの連隊から2個中隊が参加したのかな。第1大隊から1個中隊、第2大隊からも1個中隊が参加しておりました。第1大隊は、中隊長は第3中隊のキシ(名前)隊、といってましたけど、第1小隊は確か第1中隊から1個小隊、われわれ第4中隊から1個小隊、第3中隊からは中隊長と1個小隊があって、3個中隊編成でした。第2大隊からもそういった混成の1個中隊で、われわれ220連隊からは2個中隊が参加して。それから221連隊からも1個中隊が参加いたしました。大隊長は219連隊の出身でハヤシという少佐でございました。大隊本部と機関銃と1個中隊と、一般兵の中隊が1個中隊と機関銃中隊と、大隊本部が219連隊から編成されて、混成の1個大隊が中支の作戦に参加したんです。

(聞き手)この作戦はなんというんですか

 「そわい(蘇淮)作戦」と言ってました。開封で編成を終わりまして、徐州を通って、貨物用の軍用列車で徐州から南京へ参りました。南京から鉄道貨物に乗って鎮江(ちんこう)というところで降りて、揚子江を渡って揚州で2-3日駐留しておりました。揚州から今度は、小さなポンポン蒸気みたいな船に引っ張られて5-6隻が繋がっておりましたけれども、もうそこから作戦参加ということで黒い幕が船にかけられて、外へ顔や手を出さないようにということで、顔も頭も黒い布の中で、外を見ることができなかったですね。一昼夜以上でしょうか、それくらいかけて揚州から、上陸したところは・・なんて言ったっけな・・・(度忘れ)これ(ご自分で書いた本)見れば分かるんだけどな。

落伍は戦死とみなすと言われ、夜通し行軍も落伍者なし

 それから歩いていよいよ作戦行動に出ました。われわれが行動したところは米の産地という事で、水田地帯だった。とはいえ、われわれが行動を起こしたって道路らしい道路がなくて、6尺くらいの道きり無くて、両脇は水田なんですね。でも水田らしく切株とか全然残ってなくて水だけで、見渡すかぎりなんだか湖みたいな気がしましたね。そんな中を歩いて行軍するんですから、時々弾が飛んで来たらどこに逃げるんだろう、奇襲を受けたら水の中でどうなっちまうかなとたびたび考えましたね。2-3日そんな行軍を続けて、着いたところは水の無い、いわゆる湖からはちょっと離れた部落へ駐屯しました。そこからはもう陸地ばかりで湖らしいものはなかったです。そこからは敵の本拠地の攻撃態勢に入るということで。普段の大部隊の移動攻撃の場合には、患者が出たり負傷者が出るとあとあと友軍がみんな拾っていくんですね。それが、われわれの時は1個大隊の単独の部隊ですからそういうことが出来ないと、これから長距離の行軍が始まって、戦闘地域に入るということで、出発にあたって中隊長からも、長距離の行軍だけど、行軍に落伍したものは戦死とみなすからそのつもりで頑張れ、と言い渡されたんですね。それから夜行軍でその部落を出発して、目標の敵の本陣へ向かっての行軍が始まりまして、もう歩き通しですよ。まっくらやみで分からないんで、背おい袋って背嚢なんですけど、その後ろに白い布を割いてくっつけておいて。白い布ならわりあいに暗闇でもよく見えるんですね、それを目安に行軍を続けました。でも眠くって疲れちゃってるし、寝ながらの行軍ですよね、居眠りをしてぶつかったり、目を覚ますと前にいる人がどこに行ったか分からなくなるとかね。長い大隊の行軍ですけれども、いつもわれわれが一番先にいたような気がしますね。

 1日1晩で20何里って歩き通しでしたけれども、一人も落伍者はいなかったですね。わたしの分隊にも1人弱いのがいたから、もう到底駄目だな、こりゃあ最後までついて行かれないだろうと思ってたんですけど、まあ気持ちの持ちようなんですよね、もう置いてかれれば戦死ということで捕虜になるか殺されるかですから、必死についてきたんだと思いますけども。一人も落伍なく目的地まで着いてきましたからね。目的地に着いたのは夕方になってしまったんですけど、もう中支の部隊は敵の本拠地を朝から攻撃していたんです。われわれが着いたのは夕方ですから、明日の朝、黎明攻撃で突入しろという命令をもらったんです。

車橋鎮の城壁をよじ登って突入、敵の手りゅう弾は飛距離は長いが半分は不発

 四角の城壁ですから、二方から中心部を攻撃してたんですが、敵も抵抗して陥落しないの。そこにわれわれが行ったんで、もう一方の場所から攻撃しろと言う命令をもらったんです。夜が明けるのを待ってて、周囲はクリークになってるんです。小さいクリークだから橋を作れということで、どうにか4メートルくらいの橋を作って暗闇の中、夜が明ける前に出て行ったの。そしたら敵に気づかれて一斉射撃を受けて、もう動けなくなったんですね。われわれは、いくらか明るくなってきたから敵の間隙を縫いながら、そばに小さな農作業の小屋みたいな小さな小屋があったので、そこへ駆け込んでわれわれの小隊だけはその陰に隠れたんです。敵からは70-80メートルくらいきり離れてないもんだから、射撃はされるし手りゅう弾も投げられるしで。手りゅう弾が自分の前まで転がってくる。日本の手りゅう弾だとあんまり遠くまでは投げられないんでね、30-40メートル投げるのは腕の強い人ですからね。ところが向こうのはね、柄がついてるんですよ、すごく投げいいんですね。ですから60-70メートルくらい城壁から離れてたけど、城壁の上から投げる手りゅう弾がすぐ前まで転がってくるんです。

 でも幸いなことにね、手りゅう弾は投げられても破裂しないのがうんとあるんです、投げられても半分は破裂しない、不発なんですね。だんだん明るくなってきてもう突入できないんです。そしたら後ろにいた砲兵が、大隊砲の機関銃の一斉射撃で敵を攻撃して、敵の城壁もレンガで積んでない泥を盛っただけの城壁だから、高いは高いんだけど。それが当たって崩れるのがよくわかるんですね。で見たら、大丈夫だ城壁へ登れる、ということで、われわれが突入するのを後ろから援護するように擲弾筒の援護射撃を打ち込んで、前のクリークを渡ったんです。クリークもどのくらい深いかわかんないんだけど、渡り始めたらわたしの胸まであったんですね。だから銃を上にこう(頭の上に)持ち上げながら、小さい兵隊なんか首だけっきり出てね、また上からも撃たれるし手りゅう弾は投げられるし、手りゅう弾もすぐそばに落ちるんだけど、不発弾が多かったからね。城壁の下までへばりつくまで、みんな渡れちゃったんですね。城壁登っていってみたら今度は敵がいっぱいいるんですよ、中に。このままじゃ危ないってんで、(体に)対角に縛り付けてる手りゅう弾を急いで解いて、みんなでいっぺんに放り込んで、破裂すると同時にそこに飛び込んだんですね。敵も右往左往で、後ろの方に大きな城門じゃない小さい門があったんですけど、そこへ集中して逃げてる。右のほうの本隊も一緒に突入したんです。ですから、敵との撃ち合いというのはほんのわずか、飛び込んだ時にちょっとあったけど、でも彼らが浮足立って逃げたもんから、戦闘らしい戦闘でなく彼らが逃げたから。でも彼らの死体がいっぱいできてたよ。どうも近いからこうやって引鉄引けば当たっちゃうんですからね。

 それから先を深追いしないでね、夕方までいたんですけども。今考えてみるとどうしてもあの、水の中渡って体中びっしょりで、濡れてないのは肩から上くらいなんだよね。2月の確か15-16日の寒い盛りですよ、そんな時にどうして乾かしたかなあと思って。着替えなんてみんな置いてきちゃって軽装で行ったんだからね。どう思い出そうとしても出てこないんですね。おそらく焚火に当たりながら乾かしたと思うんですけども。

 これは蒋介石の軍隊だったんですけど、次の攻撃地攻略の命令が出まして、阜寧(ふねい、江蘇州塩城市阜寧県)という部落まで。そこまでは2-3日の行軍で行ったと思いますけど、行ったときにはすでに中支軍が入って敵は撤退しておりました。でこの敵っていうのは今度は八路軍、共産軍なんです。

共産軍地区陳家集では留守部隊が襲撃され、43人全員が殺されていた

 阜寧というその部落は、支那事変が始まった当時に攻略して日本軍が占領してしばらく駐屯してたらしいんですけれども、2-3年前に引き上げてきた、撤収しちゃったらしいんです。そこに共産軍が入って来て、日本軍を脅かそうという状況で、その共産軍の拠点を攻略したんですが、日本軍が行ったときにはもう敵は撤退して戦闘がなく入城できたというような話もしていました。そこでしばらく休んでいましたけどわれわれはもう、車橋鎮(しゃきょうちん)へ一番乗りをして攻撃突入した功績によって、われわれの中隊は軍司令官から感状(かんじょう)が出るだろうと、感状はもう間違いなしだ、感状が出れば分隊長以上は金鵄勲章、これも間違いない。中には勇敢な兵隊も金鵄勲章がもらえるかもしれないなんてね、そんな話で持ち切りだったんです。

 阜寧という部落で大隊が駐屯し幾日か休んでおりましたら、われわれの中隊は今度はそこから5-6里離れた“ちんかしゅう”(塩城市塩都区陳家集?)と言う部落に警備にあたるため派遣された。その辺には日本軍が入ったことはないらしいんですね。行ってみたら、もう人も家畜も家財道具も何もない、全部どこかに持ち去っていて。われわれが北支の討伐作戦に出ても、たいていはもう纏足のおばあさんが歩けないから軒下でつむんで(**)いたりするのを時々見たんです。鶏とか豚とかアヒルなんてのは持ってかれないから置きっぱなしだし、家財道具もかなり置いてありましたけど、その“ちんかしゅう”(陳家集)ていう部落に行ったら全然何にもないんですね。その静けさというか無人化したところが、むしろ不気味に感じました。

**甲州方言で「つぐむ」は、「(立ち)すくむ」「(体が)こわばる」「崩れる」といった意味で使われ、「ずっくむ」「つっくむ」のように使われます。驚きや恐怖、緊張で体が動かなくなる様子や、土手などが崩れる様子を表す言葉です。似た言葉として「つんむらかす(おもらしする)」、「くむ(交換する)」などがあります。 

 そこで陣地構築したりしてしばらく付近の警備に当たってたんですけど、またその5-6里先の部落へわれわれの主力が進駐することになり、一週間くらいの期間でまた帰ってくるということだったんで、1個小隊と機関銃中隊1個分隊が配属になって来たのを留守隊として、われわれ本隊が5-6里離れた“とうこうちん”(東溝鎮、現在の阜寧県の行政区画にある東溝鎮であろう)、と言ってましたけど、そこへ2週間の予定で行きました。むこうへ行ったら毎晩のように戦闘なんですね。大きい戦闘ではないのですが、小銃と手りゅう弾くらいで、毎日夜になると戦闘態勢に入って撃ち合いをしたんです。1週間くらいで後続部隊が来たからそこは渡して、今までいた“ちんかしゅう”(陳家集)という部落に戻ってきたんです。ところが部隊が帰ってきたら、兵舎が焼かれて部落全体が焼かれ落ちていて、43人残ってたのが全員いないんです、一人も残ってない。われわれが周りのクリークを探したらクリークの中に放り込まれてる、しかもそれが裸で、褌一本で、着てるもの全部剥がれちゃってるんですね。次々とクリークから死体を見つけまして、翌日も死体探しをして、部落の外のほうも、土が新しいからと掘り返してみると、死体が3人も4人も一緒に埋めてあるんです。そういうのを全部集めて18人ぐらいの死体が収容できましたかね。わたしたちの小隊は火葬の準備を仰せつかっちゃって、でも部落もみんな焼かれちゃって燃えるものもないんですね。でも彼らも信仰心があって廟というお寺のような仏像がある、が残ってたもんだから、それを壊してこれで死体を焼こうということで、廟を壊しまして庭に積み上げて、そこへ一人づつ並べましてね、確か16人だか18人でしたね、あとの死体はわかんないんですよ。それを焼いて。私は焼くときに、警戒の分哨長(ぶんしょうちょう)を命ぜられてね、一晩中屍(しかばね)衛兵というか警戒にあたらせられたんですが、いやあ今度はもう俺たちの番だな、俺たちも皆やられちまうだろ、全員戦死じゃないかと、いつ敵が来るか分からないんだからという噂で。

 この2日間は敵に殺られた友軍の死体を探しながら、火葬の準備をしながら、みんなで今度は俺たちだな、いつ死ぬんだろう、誰だ一番最初に死ぬのは、なんて冗談話もしながらもね。夜の衛兵なんかも「敵が来る」という錯覚を起こすんですね。わたしなんかもそうでしたね、きっと来ると。火がぼんぼんと燃えてるんですから、そこで死体焼いてるんですから。そのところに歩哨が立ってるんですからね、敵から見たらいい目標ですからね、必ず敵の奇襲がある、そういう錯覚にかられました。夜中になって、敵がいると錯覚を起こすんですよね、歩哨が銃を発射しちゃうんですね、先に撃たなきゃ撃たれちまうという気があるから。ほら敵襲だってんで、わたしが分哨長だったんで歩哨のところに飛んでったら「今そこに声がした」ていうんです。それじゃ大変だってんで、控え兵1人一緒に連れてってお前ら二人で警戒しろ、と帰って来て、小隊長に報告したりなんかして。すぐ後ろの民家の中で中隊のやつらが仮眠してますからね、その中でも家の壁を抜いて敵が来たら打てるように穴を明けて銃眼を作って警戒しながら不寝番たてたり歩哨たてたりして休んでたんです。で、銃声とともに一瞬で非常だ!敵襲だ!というのでみんな起きて準備をしてましたけどね、そういうふうに精神的に変化しちゃうんですね。わたしもそういうふうでした、当然敵が来たんだというふうに、先にそう思っちゃうんですね。

 そんなことがあって、今度は弔い合戦だっていって、敵が逃げた後を追いかけていったりなんかしてね。追いかけていくときに一番心配だったのは、弾がないんですよ。駐屯してたところは中隊帰ってくれば食うものもあるし、予備の弾薬もあるから使ったものすぐ補充できた。ところが留守中に全部焼かれちゃったもんだから食うもんもなければ弾もない。1週間ばかり留守にしてるうちに毎晩のように敵襲受けて弾撃ってるから、どんどんどんどんなくなっちゃう。1週間して帰って来たらそんな状態なもんだから弾が補充つかないんですね。わたしなんかもう1/3きり無かったな、2/3は撃っちゃってもう無いんですよ。弔い合戦でこれから敵を追うというけど、敵のでっかいのがきたら何時間持つだろうか、弾がないじゃないかって。軽機関銃なんて大きな弾匣(だんこう)という弾が入ってる箱、1箱はもう空っぽなんです、もう片方も半分も使っちゃってる。これじゃ何時間も持たないなあというような、本当にさびしい気がしましたよね。

終戦後もしばらくは新郷と沿線を警備

 そうですね、もう生きて帰れないんだから1人でも敵を殺して死のうじゃねえかとお互い言ってたんですね。到底もう帰れないだろう、日本軍は去勢されるんじゃないか、生きては帰れねえで、労働の奴隷みたいに使われて日本へは帰れねえだろう、というような話がさかんにされ、到底生きて帰れないだろうなあというふうな予感はしました。

(聞き手)そこで武装解除になったんですね?

 そこからすぐには武装解除にならなくて。武装解除は蒋介石の軍隊が来てから、と言われ、それまでの間は日本軍は今まで通り大きな都市や鉄道等を守って守備をしといてくれということだったらしいんですね。したがってわれわれは、新郷の都市と沿線の警備が終戦後の一つの任務だったんですね。終戦後は共産軍とのいざこざがありましたけど、でも実際に戦闘を交えたということはあまり聞かなかったですね。

(聞き手)それでいよいよ日本へ帰ることになりますが、日本に引き揚げてくる船は新郷から上海へ出たんですか?

 徐州へ出て、徐州から南京へ出ました。南京からは鉄道で上海に。途中なんかも武装解除して何もないですからね、輸送も無蓋の貨物列車ですよ。いくら詰めたって1個中隊1車輛ずつの配車なんですね。これじゃあ入りきらないってんで、二段に作らなきゃ乗り切らないと、自分達で新兵舎の床や板を取り壊して、無蓋車を二階に作ったんです。覆いは柱を持ってきて、風よけ雨よけには各人に支給されてる小さい天幕、6尺~2メーター四方あんのかなあ、をつなぎ合わせて貨車を覆ったんです。で上と下とに分かれて。貨車間の連結部にトイレ作ったんですよ。だから走りながらでもつかまってトイレができるように。

 徐州までは順調に来たんですが、徐州に来たら動かなくなっちゃって、何時間も止まらされたんですよね。南京着いてもなかなか揚子江渡らないんですね。北側だから、南京は南側ですからね。揚子江の鉄橋を渡ることができないんですね。後から聞いた話ですが、彼らはモノを欲しがってたんです。そういうこともあるだろうということで、有蓋貨車が2つ配車になったんですよ。連隊本部は有蓋列車に乗ったんですね。連隊本部は新兵舎で貯めてた米だとか塩だとかぱいめん(うどん粉みたいな)とか詰め込んでたんです。どこに連れてかれちゃうかわかんないし、ひとつの不信もあったんでしょうね。それを持ってるの、知ってるわけじゃないんだろうけれども、ものをよこせということらしいのね、そうしないと列車動かさないらしいの。交渉にあたって米だとかぱいめん(うどん粉)とかを彼らに渡して、次の管轄の区間を過ぎることができた、でも次行くとまた要求される。交渉する将校なんて腕時計を欲しがられてやっちゃった、というか取られちゃったってね、そういうこともあった。

帰還途中、中国人や米国人に持ち物を無心される

 南京までかろうじて到着して、南京から上海まではスムーズに行きましたね。上海で一晩泊まって、船に乗るときにまた身体検査・始末検査なんかがありましてね、新郷出発するときも検査ありまして、必要以上のものは持たせないと、写真なんかも人物写真だけだと、余計なものはみんな取られちゃいましたけどね。でいよいよこれで乗船だとなってきたら、乗船所の波止場までの間、隊列を組んで歩いてきてましたんで、こんな小さい子供がね、中国のしょうはい(小孩:子供のこと)がね、小刀だとかナイフなんか持って飛んでくるんです。なにかな?と思ってたら、兵隊がはめてる時計を盗りにくるんです。だから左側歩いてた兵隊は上着とられちゃったんですよね。こんな奴!て(げんこつを振る仕草)ガーンとやれば吹っ飛んじまうような、まだこんな小さいんですよ、でも彼ら刃物持ってるしね、ケガでもさせたら警察沙汰になっちゃうし、またケガしてみんなと一緒に帰れなくなったらいつ帰れるかわかんないってんで、みすみす時計を盗られて渡して。本当にね船に乗るまで生きた心地しなかったですね。こんなやつらにこんなひでえ恥かかされてこんな侮辱されるということはね、なんて日本人てのはよーって、悔しくて悔しくて。

 日本は佐世保に着きました。船はLSTというアメリカの上陸用舟艇でした。どんどん船が進んでいくと、ここのとこの扉が上陸の時にばたっと開くんですね、そこから戦車とか兵隊がダーっと上陸するんですが、LSTといってましたね。大きな船で、新兵舎どれくらい人間がいたのか分からないけども、それ全部入っちゃったみたいですね。それで乗ったらね、軍人じゃないんですね、船員なんですね、民間人なんです、黒人ばっかりでしたね。そしたら今度はわれわれのこれ(腕時計)を欲しがってるんだよ。そしてわれわれまだ階級章つけてましたから、1つずつ取ってくんですよ。一等兵、上等兵、伍長、軍曹って階級別に趣味で集めてるんですよ。もう抵抗も何もできない、この野郎!と思うだけであってね。船の中でも、こりゃ日本には帰れないな、どこかの島に売っぱらわされるんじゃないかと、日本に向かってるんじゃねーぞという話出ちゃってさ(笑い)。

 日本へはあくる日の朝だったか、一昼夜か二昼夜かなあ、そこんとこどうもはっきりしないんですけど。その間、食事は出ましたけどトイレはね、でっかい船の横っ腹の突き出しにあったんですね、波に揺れてこんなになる(傾く)と波が尻にひっかかるくらいですよ、つかまってないと海にほうり出されちゃいますからね。

(聞き手)LST一艘には何人くらい乗ったんですか。

 何百人ということはないだろうな、でっかい戦車が何十車輛といくつも乗る奴ですからね。どのくらい乗るのかわれわれは船の・・(で突然切れて終了)

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体験記録

  • 取材日 年 月 日(miniDV 60min*2)
  • 動画リンク──
  • 人物や情景など──
  • 持ち帰った物、残された物──
  • 記憶を描いた絵、地図、造形など──
  • 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─

参考資料

戦場体験放映保存の会 事務局

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