佐藤 保さん

| 生年月日 | 1923(大正12)または1924(大正13)生まれ |
|---|---|
| 本籍地(当時) | |
| 所属 | 海軍 横須賀海兵団 |
| 所属部隊 | 空母「翔鶴」 |
| 兵科 | 砲術 |
| 最終階級 |
プロフィール
海軍 第66警備隊。1923(大正12)年あるいは1924(大正13)年生まれか
1942(昭和17)年 海軍に志願して、横須賀海兵団に入団、新兵教育館山砲術学校に
1943(昭和18)年6月頃 空母「翔鶴」に便乗してトラック島へ、巡洋艦那珂などでマーシャル諸島のミレー島
水警隊の任務に。部隊はミレー環礁の島々に分散したが、最後までミレー島の本部にいた
1945(昭和20)年初め頃 米軍航空機の機銃で、背骨と左足、右踵の3カ所を負傷
同年10月7日 氷川丸で浦賀港に復員、横須賀海軍病院の分院だった奥湯河原の旅館に入院
同年12月29日 帰宅
インタビュー記録
志願、横須賀海兵団、館山砲術学校
聞き手(志願をされているということで、そのあたりの話を・・・)
今年の12月8日がくると、戦争が始まってから丁度70年。そいで、戦争が始まると同時にね、海軍志願兵募集っていうのがね、あったんですよ。すぐ応募したんですよ。そしたら私の母がね、家では3人、お前の兄さんが3人戦争に行ってるんだから、お前が志願までしなくてもいいんじゃないか、徴兵検査がくればね、徴兵制度だったからね、その当時。徴兵検査がくれば、体は丈夫なんだし、兵隊に行けるんだから、志願してまで行かなくても・・・というのをどうしても志願するんだってそう言って。
その時は17(歳)ですよね、戦争が始まった年は。そんで18の・・・正月ですよね、検査があって、合格して。そして、18ですけど、横須賀海兵団に入団したんですよ。そこで3カ月間、新兵教育を終えて、それで皆各自、船に乗る者、軍艦へ乗る者、戦艦に乗る者、巡洋艦に乗る者、みんなずっと別れて。それで私の所に来たのはね、館山砲術学校に入校を命ずっていうのが来たの。それで千葉県に館山ってのがあるけどね、あそこに砲術学校があったんですよ。そこに入校したんですよ。そうしたところがね、大体あの志願した連中ってのは全部でもって1万3千、5千人くらいいたかな。その時に集まった新兵さんが。そのうちで300人がね、館山の砲術学校に入校したわけだ。そこでもって司令官(校長)から、訓示があって、「君たちは1万5千人の中から特に身体の丈夫い、そして機敏な者を集めて、ここへ連れてきた。ここは海軍特別陸戦隊、敵前上陸は無論のこと、アメリカ本土上陸もあり得る。」といったことを言うわけですよ。その時は戦争に負けてなかったからですね。ここの訓練は実に厳しい、もの凄く厳しいけどそれに耐えて、国のために尽くしてほしいと、そういう訓示がありましたからね。それから六ヶ月間、その訓練の厳しさなんてのは本当に厳しくてね、18,19の若者でもって、国のために必死にやろうっちゅっていった連中の中からね、後ついていけねぇっつって、自殺者がでるくらい、そのくらい厳しかったですよ。こんなものはね、殴られるなんてのは、こんなもの、優しいほうなんですよ。
私は特にね、軽機関銃というもんを持たされたんですよ。軽機関銃ていうのはね、こういう弾をガチャンとつけて(手で筒を作る仕草)、引き金を引くとね、30発ダーッと出るんですよ。普通はみんな鉄砲を持つんですよ。38式っちゅう、陸軍と同じ鉄砲なんだけど、そん時はね、99式っていうそれより少し小さいんですよ。穴照門っていって、照門も穴になってて、ちょっと軽い銃だったの。それから見ると大分大きい機関銃で重いよね。それ持って同じようにやらされたからね、これはきつかったですよ。それ持って、的なんかこう、あるでしょう。(手のひらを見せながら左右に動かす。)その的に対して、3発連射っていうんですよ。引き金ひけば30発すべて出ちゃうでしょう。それを3発ずつこうやって撃ってけっていうんだよ。だからタンタンターン、タンタンターン、タンタンターン、こういう風に撃たなきゃならない。1発でも余計に撃ったら「誰が4発撃てと言ったー!」、すぐにビンタだ。これはきついねぇ。ビンタなんてのは一番軽いほうだったけどねぇ。訓練そのものはきつかったですよ。
ミレーへ
それを終えてね、また横須賀へ戻ったんですよ、海兵団へ。そしたらそこにね、召集令状、赤紙。あれで来た人たち、皆奥さんや子供をおいてから来た人たち、それが600人くらい。そのほかにね、私たちより後に海軍に入った連中、その新兵だよね。新兵終わった連中から600人。そこに私たちね、館山砲術学校をでた10人、ほかの連中あと290人はどこへ行ったか、そいつは知りませんけどね。そこの中に一緒に混じってね、そこでもって、15年も、みんな召集された人たちは20年近く訓練してないからね、その人たちと一緒にまた訓練が始まった。そこで訓練をしばらくしてから今度は汽車に乗って呉まで行った。呉からね、航空母艦の翔鶴っつう航空母艦、それに乗って、便乗して、トラック島まで行ったんですよ。トラック島からね、今度は巡洋艦那珂、その船に乗って、あと残りの大多数はね、輸送船。輸送船に乗って、マーシャル群島のミレー島まで行ったわけですけど。それで結局アメリカの潜水艦がちょいちょいでちゃおる関係で駆逐艦が2隻ね、風雲と巻雲だったと思うけど、護衛についた。それは、速いよ、やっぱり駆逐艦はね。それでミレー島に着いたわけですけど。学校の子供によく見せるんですけど(手書きの地図を見せながら、日本とミレーの位置関係を説明する)。子供が、ミレー島って言ったってどこかわからないでしょう。(再び位置関係の説明)ミレー島ってどういう島の格好をしているかというとね、こういう形をしている(ミレー島内図を見せる)。この一回りをぐるぐるっと回ってね、だいたい5キロくらいなんです。ここにはちゃんと滑走路もありまして、それでここに上陸したわけなんです(4の字滑走路の下部を指さす)。だけどこれはミレー島だけど、ミレー環礁っていうのがあってね、(ミレー島周辺の地図を見せる)環礁はぐるぐるっとこういう小さい島があるんです。この中へ入るには、この高岩水道と、北東水道、ここ2箇所しか入れないわけだ。ここ(高岩水道)はでかい軍艦でもなんでも入れる。あとはね、ここ(ミレー島)からミレー島(環礁を)ずーっと行くにはね、引き潮の時には、膝くらいまで入って渡って行けるんですよ。
戦闘開始前のミレー島の様子
それでここの島に大体ね、150人くらい島民がいたんですよ。それでその島民と一緒に生活が始まった。午前中は訓練、午後はね、塹壕を作ったり、それから防空壕を皆一生懸命作ったですよ。防空壕というのはね、こういう防空壕を作った(防空壕の図を見せる)。約3畳くらいで、椰子の丸太を全部掘って建つんですよ。この上に椰子の丸太を並べておいて、土を被せる。深く掘れないんですよ。海抜2メートルくらいしかないから。もう水がそれ以上掘ると出てくるんですよ。だから1メートル50くらいしか掘れないわけですよ。だからこういう防空壕作って。午前中は訓練、午後はこの防空壕や塹壕作ったりいろいろしてたんだ。お昼休みは暑いところだし2時間あった。昼休みは2時間取らしてはくれてたんだけどね。そうすっと島民がね、この南砲台、ここにね、(ミレー島の図を指しながら)私はここの水警隊つって、ここにいたんですけど、南砲台っていってここから遠浅にずっとなってて、120、30メーターいっても引き潮の、遠浅だから。その先がね、もの凄くきれいなんですよ。ぐわーっと深くなってね、珊瑚だの海藻だの南洋特有の魚が泳いでるでしょう。それはもう、ものすごく綺麗。そこにね、島民が魚釣りに行く。俺もそういうの好きだからね。だから島民に「俺も連れて行ってくれねぇか」って頼んだの。そしたら島民も一緒に行こうって。その一緒に行こうって言ってくれたのはね、酋長の弟、ネナドっていうの。それと2人で、昼休みになるとここ行って。それでここへ行って魚突いちゃ帰ってきたんですけどね、私がここに行った時にね、水警隊でもってね、配属されたんだけれども、高射機銃、飛行機を撃つ機関銃、それを持たされたんですよ。その他にもまだね、小発(動艇)って、船があるんですよ。それを持たされた。こんな小発は持たされるわ、高射機銃は持たされるわ、大変だなと思ったけど、船を誰かに持たさせてくれねぇか、とても一人じゃ(ムリだ)と言ったら、上からの命令だ、で終わりだったけども。魚とりにしょっちゅう行って、突いちゃあ来るでしょう。
それでこのミレー島というのは、どこまで行ってももの凄い椰子なんですよ。この椰子の木をね、島民はね、ここにね(身振りで椰子の木を再現)椰子の穂が出るわけですよ。これがちょっと開いて芯があって小さい実がポツポツあってこれが大きくなって椰子の実になるわけだ。これをね、開く前に結わいちまうわけだ。ガーって結わいちゃって、そんで先をスポンと切るとね、つゆがぽちょぽちょ落ちるんですよ。それをビール瓶へ入るようにしてつるして、そうすると一晩に大体8分目くらいね、つゆが落ちる。島民はそれを「チャガロ、チャガロ」と言ってたけどね、それをそのまま飲むとカルピスをちょっと柔らかくしたようなそんな味なんですよ。それを今度鍋に入れて煮詰めるとね、飴になるんですよ。チャガロを取って甕に入れて5日くらいおいて置くんですよ。そうすると中で発酵して椰子酒になるんです。それは都合のいいもんですよ、椰子の木ってもんはね。島民は魚とってきたのを焼いてね、椰子酒を持っていって、月夜の晩、月夜って言ったってものすごく明るいの。
敵機襲来、ネズミを食す
11月1日だったと思いますけどね、アメリカの飛行機が1機だけ低いところをべーっと通ったことがあった。そうしたら司令官がね、志賀正成海軍大佐ですけどね(正確には司令、海兵48期)、その人が酋長を呼んで、「おそらく近いうちに爆撃が始まるだろう。島民を連れてこっちの島に避難してくれ。怪我をさせたら申し訳ない。」って。(ミレー島周辺の地図を指さす)だからこっちへ酋長は明くる日の2日だか3日に皆こっちの島に行った訳なんですよ。それで11月の5日ですよね。歌も作ったり、霜月5日を忘れられるかって歌まで作ったけどねぇ。5日の日、いつもと同じようにね、ラッパが鳴って、配置につけというラッパが毎日鳴るんですよ。タカタカタンタンターン、タカタカタンタンターン、そういうラッパが鳴るんですよ。これが配置につけっていうラッパです。私なんかすぐもう高射機銃の陣地まで行って、そしたらね、今までの号令は必ず一番頭に訓練っていう号令、「訓練、敵機襲来、撃ち方用意!」ていう必ず訓練が入ってた。ところがその日はね、訓練がないんですよ。あれ?って思った。その号令はね、「3時方向敵機襲来、撃ち方用意!」っていう号令でしたよ。あれおかしいなと思って、方向まで言ってるでしょう、これは本物だと思って。それから機関銃の弾を装填して、そして西砲台、私はここだから(ミレー島内地図を示しながら)3時方向は丁度ここら辺なんです。こっちのほうからね、もの凄い爆音が聞こえてきたね、飛行機の。ずうっと見ていたら、B29が9機見えてきた。それ見た時には、これは俺らの機関銃じゃ駄目だと思って。高すぎちゃってね。そうしたらね、号令が「高射機銃撃ち方止め。」それからね、高角砲。海軍はね、高射砲って言わないんですよ。高角砲っていうの。これが12.7センチの、高角砲。(手で筒を作って大きさを見せる)「高角砲撃ち方始め!」って言ったら皆ここに砲台があるんですよ、北砲台、西砲台、南砲台、望峰砲台・・・皆ね、飛行機を撃つ高角砲から船を撃つ大砲から皆持っているわけですよ。3門も4門も皆あった。高角砲を一斉に撃ち始めたけどね、飛行機が高いから弾が下でもって破裂して全然もう(だめ)。すぐもう「高角砲撃ち方止め」。やめたはいいけど今度は飛行機が丁度私たちの頭の上を通り超してこっちから(地図を指しながら)爆弾がものすごい勢いでダダダダッと。250キロの爆弾だから直径が13~15メーターくらいあるわけですよ。深さが5、6メーターあるこういう穴があくわけなんです。1機が大体14、15発持ってるでしょう、B29。それがね、9機で来たからね、爆弾の数にすると約130発くらいの爆弾が落ちるわけだ。これがダダダダッと落ちてこれはもの凄かったよ、初めてだったから余計に感じたと思う。
それが終わって毎日毎日25日まで20日間、9機来た時、12機来た時とあるから大体計算すると3,000発はここへ落ちているわけだ。こんなものはどこを見たって穴だらけ。ここにおいてあった食料庫だよね、それから医薬品、全部飛ばされちゃって何にもなしですよ。そこから食べるものが無いから、木の根を湯がいてかじってみたり草取ってきて食べたり、だからここにね、ずいぶんネズミがいたんですよ。野ネズミね。草の実を食べるネズミ。ちょうどこのくらい(手で15センチくらいを示す)。」これ一生懸命捕って食べたらね、お仕舞いにはね、ドラム缶を半分に切ってね、それを埋けるんですよ。そしてね、棒をね、渡しとくの。そこに草の実を縛っとくの。ネズミは食べようと思ってコロンとやって下に落ちるの。余計捕れた時には10匹くらい捕れた時がありますよ。それは後だったけど。最初はもう一生懸命追っかけちゃった。
九死に一生を得る
それから25日にね、ここにね・・・(ミレー周辺の図を示す)私のおったところはこのミレー島。ここにマーキン(マキン)てのとタラワとアパママ、これ赤道直下の、ここに3つの島があって、ここに赤く記したのは、玉砕した島なんですよ。そしたら今度はね、タラワにねミレー島と同じように滑走路があったんですよ。その滑走路を使ってね、B29は来なくなっちゃったんですよ。全然来なくなっちゃった。それから今度来るのはね、グラマンだとか、ベル型つって、1人乗りのそういう飛行機がね、今度は20機、30機という編隊で来るようになった。爆弾1つずつ抱いてね、そいで3,000メートルくらいの高さを編隊で来るの。編隊で来るとそれをね、3,000メートルの飛行機を下から機関銃で撃ってもなかなか当たるもんじゃないですよ。そいで小さいし。それがね、うーんと65度、70度くらいまで来ると1番機、1番先の飛行機がね、その狙いを定めて、(ミレー島の地図を示しながら)砲台なら砲台、南砲台なら南砲台、ここにある大砲を狙って急降下してくるんだ。ここにあの。4つ機関銃を持ってるからね、ああいう飛行機は。20ミリと13ミリ。それをうわーっと撃ちながら急降下していって、そして150メートルくらいまでぐっと撃つとそれから爆弾を落としていってぐっとこうやって。(手で飛行機が急上昇する素振り)こういう爆撃。それとあと残った飛行機、30機来たとすると29機、同じようにそこに。だからそこにあるのなんてもう、2回か3回そういう爆撃をされたら、砲台なんてみんなすっ飛んじゃう。砲台なんか1つも無くなっちゃう。そういう爆撃をされたわけですよ。結局あれだ、ずっと急降下してきて撃ってきてね、こうなった時(急降下から低空飛行)もね、機関銃撃ってるでしょう。それとね、(ミレー島の図を示しながら)こっちからきたのがこうきてここ弾が、がーっとこっち来るんですよ。桟橋にね、船が係留されている。つないである。そうすると、爆撃が終わるとすぐ船を見に行かないと。機関銃の弾が当たって穴が空いたら水が入って沈んじゃうし。必ず見に行ってたんですけどね。一緒におったので私よりあの後から入った兵隊に悪いけど見てくれって言って見てもらってたんだよ。爆撃が終わると行っちゃあ見てきて「今日は穴空いてませんでした」つっちゃあ、空いていたらすぐ木の丸太を打ち込む。それで後からちょっとあげて、酸素溶接するようにやっとったんですけどね。ほんであんまり若いのに行かせてもあれだし、俺もたまには行ってみようと思ってね、ネモトって言って、そいつは今千葉にいますけどね、二人で見に行ったんですよ。そいで見に行ったら穴が空いていてね。丸太をつめて、それから入った水を掻い出して、よいしょよいしょ掻い出して、やっと帰るかなと思ったら次の爆撃が来ちゃったの。続いて。そいですぐね、この桟橋からここのすぐここにね(ミレー島の図を示す)、防空壕があった。その防空壕はね、軍属、兵隊とは違いますよね、軍属と言ってこの滑走路を作ったり、仕事に来ていた人たち。そういう人たちがいた防空壕があった。それでそこに飛び込んだんですよ。弾が来るし、それでそこに飛び込んだんだけどね、飛び込んでみたけどすぐ俺らはいつも飛行機を撃たなければならないということが頭にあるでしょう。「飛行機撃たなきゃならないから行くぞ」といったら(ネモトが)「おう」と言って2人で防空壕を出ようとしたんだよ。そしたらね、中におった、10人くらいの軍属の人がいたんだよ。そしたら「兵隊さん、今外に出たら危ない」って言うのをね、「ありがとう。飛行機撃たなきゃいけないから行く」って言って飛び出した。飛び出してね、20秒ぐらいかな、走ったのは。まあ100メートルちょっと走ったくらいですよね、後ろに爆弾の落ちる音がしたんですよ。あの爆弾の落ちる音っていうのはね、シュシュシュシュシュってこういう音だったら絶対大丈夫、これは。これはもう絶対大丈夫ですよ、危なくない。ところがね、自分の100メートル、150メートル以内に落ちる音はね、そんな音じゃない。爆弾が土の中に入る時の音だけ。シャッとこういう音がするんですよ。そういうときにはもう裏でシャッとやったって2人とももうばっと伏せとったけどね、土から何からうわーっと吹き上げて。それでひょっと振り返ったら今飛び出したね、防空壕の近く危なかったなぁと思って。それから陣地へ行って、飛行機がまだいたから撃ってね、それで飛行機が帰っちゃったんですよ。帰っていったからね、その防空壕が気になったのと、船を見なきゃいけないけど、とにかく防空壕が気になって行ったんですよ。行ってみたらね、その防空壕がないんですよ。今言った13、4メートルの、直径ね。穴が空いて、その防空壕すっ飛んじゃって、なくなっちゃった。結局、250キロの爆弾が直撃しちゃったんですよ。だから私ももうあと20秒か25秒、入ってたら、今こうやって今いませんけどね。そんなふうでね、ずっといたんですけどね。毎日その爆撃がくる。
爆弾の種類
あの、みなさん、爆撃の爆弾の種類ってのは知らないと思うけどね。東京や大阪に落とした焼夷弾。あれは知ってると思うけどね。あれだってね最初は大きいんですよ。こんなに大きいの(手を広げる)、爆弾ね。それを4つくらいB29が持ってくる。それを1つ落とすでしょう。そうすっと開いてね、こういう小さい爆弾が40も50も入ってる。それが飛び散って、それでもって1キロ四方に落ちてから燃え広がる。これが焼夷弾だよね。これはみんな知ってると思う。あとはね、破壊弾というのは今まで落とした14、5メートルの穴の空く、いろいろと破壊する爆弾だね。それから今度は、時限爆弾。時限爆弾てのは落とした時には爆発しないんです。2時間3時間経ってから爆発する。それとね、殺傷弾てのがこれが一番やっかいな爆弾で、これでもってずいぶん大勢戦友も先輩も死にましたけどね。これはね、爆弾が落ちてきてここの土のとこにちょいと着くと同時にここに着発信管つうのがついてる。そいでそれがバーンと爆発する。爆弾の破片がね、ちょうど指先(指先の第一関節半分を見せながら)、このぐらいの破片に全部砕けるんですよ。それで真っ赤に焼けて飛び散る。こういう爆弾。これではずいぶん皆大勢命を落としました。それから油焼夷弾っていって、油のあれを落とすんです。相当やっぱり火がついて、だーっと流れるでしょう。
火傷を負った戦友、そして自決、死ぬ時は母
そうするとこの、さっき見せた防空壕ですよ。(防空壕の図を見せる)この中に流れこんで来るでしょう。流れこんでくるとね、ここに入っている兵隊はこのままだったら焼け死ぬわね。だから飛び出して出るんだけど、ここは火の海でしょう。ところがね、靴がもう傷んじゃってだめになっているから結局あの草履を作って自分で履いて。着るものももう無くなっちゃってね。半パンは履いてるんですよ。ちょうど海水浴に行ったのと同じことですよ。それで鉄兜だけは被ってるから。それでここを飛び出してくるでしょう。これはねぇ、体中焼けちゃってね、これはひどいもんですよ。なんたって薬はないでしょう、包帯はない。何にも無い。どうしたらいいかと思って、可哀想だし、ねえ、戦友でしょう。なんとかしてやりたいと思っても何にもできない。それでね、私たちはね、タラワ、マーキン(マキン)が玉砕したあとでもって、くれば俺らも死ぬのはわかってるわね。だからね、死ぬときにはこれを着ようと思ってね、みんなとってあった。死に装束ってのがあるんですよ。死ぬときに着る真っ白いシャツとね、ふんどしと、第三種軍装つって陸戦隊の。これはとってあったんですよ。それのね、シャツを持ってってシャツを裂いて薬も何もつけない。ただ結わいてるだけですよ。そうするとね、化膿してね、膿がこう出るでしょう。そうするとねハエが卵産んで蛆が這っていってこれは悲惨だったですよ。防空壕に入ってるんですけど、防空壕でね、鉄砲の音がしたんですよ。そいで皆で行ってみた。そしたらね、中で入ってる4人の兵隊が鉄砲を口でくわえて、足で引き金ひいて、4人とも死んでました。遺書があって、遺書にはね、どっちしても俺たちはもう助からんのはわかってる。これ以上戦友に迷惑をかけたくないから、一足先に行くから、と。それでその横にね、親に先立つ不幸をお許しください、そしてお母さんって書いてありましたんですよね。(涙ぐむ)これを見てね、私たちの花形、先任下士ですよ、この人ですよ。これ、ここに花形重治(ハナガタシゲジ)って書いてありますよね。海軍兵曹長、花形重治。この人がね、「ちょっとみんな集まってこっちに」(と呼びかけた)。この遺書にね、お母さんって書いてあるのを見て、「ちょっと皆に話したいことがある」と。これはね、その花形兵曹っていうのは、昭和5年の志願兵なんですよ。だからここに(腕を指しながら)善行章(海軍において、入営から3年間問題のなかった者に与えられた記章)を4本つけてるんですよ。海軍は善行章ってのは1本、3年に1本、一生懸命務めてると1本くれるんですよ。これを4本付けてる。私たちは善行章3年も経ってないから善行章なんてないんですよ。善行章のないものから見たらね、神様みたいなもんですよ。それが皆ね、ちょっと集まってくれ。先任がそういって、集まって。そしたらね、「これはね、軍の機密。絶対に話してはいけないことだし、話したこともない話するけど、俺らはどうせここで死ぬだろう」と。おそらく生きては日本に帰れないだろうと。お母さんてのを見てちょうどちょっと話したいことがある。それはね、戦争前、もの凄い訓練だったんだって、海軍は。日本の潜水艦てのは、伊号ってのは大きいんですよね、100人前後。呂号ってのは70人くらい。この潜水艦も潜航したり浮上したりしてもの凄い訓練をしてたんだ。一杯(一艦)のね、呂号の潜水艦が機械の故障で沈んじゃったんだって。どうしても浮き上がれなくて、それでもって中でみんな死んじゃったって。それは無論軍の機密だから誰も知るわけないし。それを引き上げて、で中へ入ってみたんだ。そしたら潜水艦の中って機械がいっぱいでしょう。鎖パイプなんかいっぱい通って、その空いた所をひょっと見たらね、チョークでお母さんお母さんお母さんって書いてあった。どこを見てもお母さん。書くもののない者はね、指を食い切って血でお母さんって書いてる。それを思い出してね、子供にとって母親ってのは実に偉大なんだと、そう話してくれました。確かにね、私が見た戦友は、みんな死んでったのはお母さんつって死んでいってるけどね。本当に子供にとって母親ってのは実に偉大なんだってそう思いました。
敵前逃亡に思う
それからね、同じように爆撃がどんどんでんどん始まってね、大砲はない、大砲は全部やられちゃって何にもない。今度はね、船が来るようになった。日本のまぐろ獲りに行くくらいの300~400トンくらいのあの船がね、ここに来るんですよ。(ミレー島の地図を示す)こっちからね、こう深くなっている所ね、ここん所にずーっと、それもゆっくりゆっくり来るんですよ。もの凄くゆっくり来る。それで何だというとね、拡声器で蘇州夜曲、それから支那の夜つって私たちが兵隊に行く前によく歌った曲をじゃんじゃんかけてくるんですよ。それが終わるとね、「本船は皆様方を救助に参りました。皆様方の戦友は米軍が食料も十分与えて平和に暮らしております。この機会を逃したら皆様方はこの島で餓死しなきゃならないから、速くこっちへ逃げてらっしゃい」とおーい速く来いよと呼ぶんですよ。そうするとね、逃げていく兵隊がね、軍属は大勢逃げていきました。軍属は逃げても俺は仕方がないと思いました、あれは兵隊じゃないからね。国のために滑走路作ったりいろいろ来て内地へ奥さんや子供をおいてきてる人だから。これはね、逃げても仕方が無いと思ったけど、兵隊が逃げていくのは本当にね、そういっちゃあれだけど残念だった。兵隊も結構逃げて行きました。兵隊はね、私もそうだけど必ずね、軍隊に入ったときにね、戦陣訓てのがあるんですよ。戦争の時はこうしなさいって皆戦陣訓で叩き込まれている訳だ。
私も全部覚えてたけど、もう70年になるからほとんど忘れてしまったけどね、だけど最初の書き始めのとこはちょっと覚えてます。最初の書き始めはこういうのが書いてあるんですよ。(以下は、戦陣訓ではなく軍人勅諭の出だし)「我国の軍隊は世々天皇の統率し給うところにぞある。昔神武天皇の躬づから大伴物部の兵ども率ゐ、中国のまつりはぬものどもを討ち平げ給ひ、高御座に即かせられて、天下しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ。」これが最初の書き始めなんです。その後の方へいって、「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」、生きて捕虜になるな、いきて捕虜になるなら死になさいってことが書いてあるわけ。それを叩き込まれていながらね、一緒に戦って死のうなって言った戦友をおいて逃げて行くっつうのはね、これはわからんでもないけどね、食べるもんはないしもう痩せっこけちゃってね、これは実に残念だと思ったですよ。兵隊が逃げて行くってのは。そいたらね、敵前逃亡ですよね。敵前逃亡者は撃てっつう命令があった訳なんですよ。誰が命令したかそいつはわからんけどね、そういう上からの命令があった。まあ恐らく司令はそんな命令は出さなかったと思います。あの司令は。だけど途中から出たのかもしれません。分隊長か、それともその上かもしれません。それで私もその一回見に行きたいと思って(ミレー島の図を出す)、私ここの本部におったから、ここからここまで船が来るのが見えるんですよ。椰子の木がもうなんにも無いから。そいで船が来たから見に行ったんですよ。見に行ってね、それからこうして南砲台の椰子の倒れたところで見てたら船が150メーターくらいのとこずーっと来て船の上をアメリカの兵隊が歩くのが見えるんですよ。ああなるほどなと、そう思ってたらね、どこに隠れとったか知らんが10人くらいがばぁーっと逃げて行ったんですよ(笑)。あ、やっぱり逃げて行くんだって、そう思いながら見てた。そしたらね「おい佐藤」って呼ぶからひょいと見たら戦友がね、「ほら鉄砲」つうから、「俺いらねぇ」つったんだよ。「いらねぇ、俺すぐ帰るから」って。「逃亡者は撃てって命令じゃねぇか。敵前逃亡者は撃てって命令」、命令って言われりゃあねぇ、撃たん訳にもいかんし、まあ受け取るだけ受け取って弾をつめて、逃げてく、こんなこっから上(胸部に手を当てる)から逃げ行くもんで、そんな頭を撃てば簡単でしょう。ひょっと狙ってぽんと撃てば死ぬ。だけどちょっと狙ってみたけどね、自分の頭に浮かんだのはね、この人の親兄弟、逃げてく人のね。敵と戦って名誉の戦死をしましたっていったら近所の人たち国のために戦って立派でありますって必ず言いますわ。けれども敵前逃亡で撃たれて死にましたってのがわかってごらんなさい。親兄弟どれだけ悲しい思いをするか、近所の人たちに白い目で見られるか。それがひょっと頭に浮かんだんですよ。そしたらどうしても撃てなくてね。それで鉄砲をすーっと海のほうに向けて誰もいないところに(向けて)ぽーんっと撃ってやめた。そしたらその戦友もね、「俺もやめた」って。昨日まで一緒に戦ってたのがいくら逃げて行くからといって、命令だとしても撃てないって。私もそういったんですよ。「命令違反になって罰せられようが罰せられていいって。とてもじゃないが撃てるもんじゃない」って、そういってやめてね。そして2人でもって撃たなくてよかったなぁってそん時に言いましたけど、今でもそう思ってます。今でも本当にあの時に撃たなくてよかったと思ってます。
敵前逃亡した兵士の戦後
そいでね、これから、話が戦争のと変わりますけど、九州にね、あのツツミ兵曹つって戦友がいるんですよ。その人がね、あれはまめな人でね、引き揚げた者のところに連絡してね、そいでもってあの戦友会ってのを博多でやったんですよ。でもって、最初に行った時には40年前、もっと前かもしらんね。70人くらい集まったんですよね。北海道からも来たからね。それで段々少なくなってきて、20年くらい前かなあ、こんな話してたんですよ。こんなことがあったぞって話してくれたんだがね、ツツミ兵曹がね、よその町へ用事があって行ったんだ。そして町を歩いてたらね、向こうから来る人を見てどっかで見たことのある人だなぁって思った。そんでその人をそっちからこうやって来て、二人で顔を見合わせてさ、そしたらツツミ兵曹が、「そうだ、戦地で敵の船に逃げていった兵隊だ!」そう思った。そしたらその人がね、ツツミ兵曹が「俺だってことわかったんだなってきっと」ばぁーっと逃げて行っちゃったって。といって話してくれました。それを聞いたときにね、私はこの逃げた人も可哀想な人だなあと思った。戦争さえなければ、こんなことないのに。一生死ぬまでね、その人も苦しまなきゃならない。戦友を置いて俺は逃げたって、そういう後ろめたさをね、死ぬまで背負っていかなくちゃならない。可哀想な人だなぁとそのとき私は思いました。そいでこれからね、学校の小学校のここにある子供の書いてくれた感想文の中に同じ奴でね、九州で、4人の高校生が仲間をいじめて、高校生が飛び降りて死んだ、4人の高校生は警察に連れていかれたけど、このいじめた高校生、どうして自分がいじめられたらどれだけ悲しいかってことがわからなかったか、この高校生はこれから先、ずっと自分は高校の時に友達をいじめて死なせてしまったってそういうことをずっと背負っていかなきゃならない。だからいじめられた人は本当に可哀想だけども、いじめたほうも苦しまなきゃならんから、いじめは絶対だめ。それと今度は万引きで捕まった子供がね、警察へ捕まったけれども。面白半分でやりましたって警察では言ったけども、お父さんお母さんはどれだけ悲しい思いをするか、だから絶対に親を悲しませるようなことはしてはいけないと。今度はゲーム。ゲームの中では、戦争のゲーム中では何回死んでも必ずすぐ生き返る。ゲームと現実は違うんだから、現実は一回死んだら終わりなんだから、命って本当に大切なんだから、お父さんお母さんより先に死ぬということは、一番の親不孝だから、だから絶対に命を落とすようなことがあってはいけない。この3つをこれはね、おじさんと約束してくださいつってね、子供にいうんですよ。子供がこういった感想文くれて感想文の中に「おじさんとの3つの約束必ず守ります」って言ってくれる子供が大勢いますけどね、これはうれしいですよ。話をしてよかったと思います。
米軍はパイロットを救出する
戦争の話に戻りますけどね、同じように来るわけ、あの爆撃が、編隊で。今までね、ずいぶん来た飛行機はぐわーっと急降下してくるのを撃って当たってね、煙を吹くけど、煙を吹いた飛行機はみんな外海へ落ちていくんですよ。落ちた飛行機はどうなるかというとね、アメリカはちゃんとしてますよ。ここに4つプロペラのついた飛行機でね、船がついてるんですよ。コンソリデーテットつうんだよね。その飛行機がね、うわーっと来て落ちたところに行ってパイロットだけひょいっとあげるんだ。そいでそういう爆撃の仕方をしてました。
戦友の戦死
そいでこの上へ、島の上へ落ちた飛行機ってのは本当に無かったんですよ。ところがその日は私たちのところを、高射機関銃の所を狙って急降下してきたんです。そいで真っ直ぐ急降下してきたやつをね、それを3000メートルじゃとても当たらないから我慢して我慢して我慢して1,200、1,300メートルまで来るまで我慢して弾はもうピィンピィンと来るんですよね。それでよしと思ってから撃ち始めた。それで、曳光弾って光って飛んでくる弾ね。あれが曳光弾がいく、それで次の曳光弾、この間に徹甲弾、焼夷弾、通常弾、曳光弾と3発あるんですよ。だから曳光弾が1つ2つと当たると5発当たることになる。それでいっとうを撃ってたらね、主翼があるでしょう。主翼があって胴体があって尾翼があってこの尾翼に方向舵ってのがあるんですよ。この方向舵がぽーんっと飛んだんですよ。やったーと思ったら、他にもまだ当たってたんですよ。
そしたらその飛行機がね、一番先に急降下してきた飛行機がくるーんとこういうふうになったんですよ(手を回転する)。そいで100メーターちょっと向こうところにダーッと落ちたんですよ。やったぞー!と思ってそのとき、初めて島の上に落ちたからね。そうしたらね、残ってた飛行機は今度は俺たちのほうに急降下するのをやめてそっちのほうにぶわーっと行ってね、それでもって爆弾を落としていった。その時の爆弾はね、殺傷弾なんですよ。あの爆弾の落ちる音でもってわかるわけ。破壊弾なんかだとズシィーンとこう、響くでしょう。殺傷弾というと、ブゥーンとこういうあれ。殺傷弾、飛び散るやつね。あいつを落として帰っていったからね、機関銃を手入れして、次の爆撃に備えるように手入れしていたんですよ。そしたらね、向こうの方から「おーいおーい、佐藤佐藤―っ」と呼ぶんですよ。ふっと見ると「佐藤―トコロがやられたぞー」と。ハッと思ってトコロがね、同県人で同年兵なんですよ。それでもって手入れするのを「頼むな」と頼んで、そして声のするほうへ駆けて。駆けながらね、色々な事が頭に浮かんで来るんですよ。食べ物がなくなって木の根をね、湯がいて2人で囓ったり、草を取ってきてたべたり、それから私が初めてネズミを捕った時にはね、ドラム缶で獲った時は大分獲ってるけど、その前はだったからね、1つ獲ってネズミ獲って来た時には喜んで来てね、2人でそれを焼いてね。皮剥いて半分ずつね、旨いなぁつって食べた、そんな事が頭に浮かんできた。それで行った、そしたらね、こういう爆撃を受けて土がこうダーッとここに寝かされてね、左の手を衛生兵が押さえて、こっちにね、戦友が4人立ってたんですよ。そいで私が行ったらすぐに戦友が避けてくれた、私とトコロがもの凄い兄弟以上に仲の良かったことを知ってるからね、避けてくれたの。見たらね、裸でしょう。乳の上、ここに1発破片が当たり、ここ(胸部)の下に1発当たり、腹に1発当たりそれから足に1発、4発当たったの。それから焼けてきてるからね、肉がね、紫色になってますよ。そっから血が出てこれはね、悔しいし苦しいんだろうねぇ、歯を食いしばってね、だから俺が「トコロー!俺だ分かるかー!トコロ-!」トコロはね、顔はうなずいたんですよ。そいで、「トコロー頑張れー、頑張れトコロー死ぬんじゃねぇぞぉー死ぬときは一緒に死のうって誓っただろー!」つってそいでどれくらい励ましてたかね、左の手を握っていた衛生兵がね、顔を横に振って「佐藤、だめだ」って。ほんっとうに辛かったですよ、涙がぽろぽろ出てね(涙ぐむ)、顔のそばいって「トコロー!俺もすぐ後から行くからなー!」って「トコロー!俺も後から行くぞー!」つって、それでこう、顔を見たんですよ。そしたらね、さっきまで歯を食いしばって苦しそうにしてたのが穏やかな顔になって、あの唇が微かに動いたんですよ。何を言ったかすぐに分かった、あれは死んでいく時にね、母親が顔に浮かんで来てるんですよ。だから「お母さん、お母さんー!」って言って死んでる。それはね、なぜ分かるかというと、前にもそう言って死んでる戦友が何人もいたわけなんですよ。ああだからトコロも死んでいく時には母親の顔が浮かんできて死んだんだって、思いました。本当に辛かったですよ。
負傷
それからね、しばらくまた同じように空襲が来たんだけどね、弾が少なくなっちまってね、もう撃つ弾が。もう幾らも無くなっちゃって、なるべく近くのやつを撃つようにってことであまり撃たないようにしてたの。それだけどあまりに近くに来たから今度は撃ったら、詰めてた弾が無くなっちゃったんですよ。弾を取り替えようと思ってね、ひょっと弾が転がってこれを持とうとしたの。ちょうどこういう姿勢になったんですよね(中腰で屈む)。こういう。こいいう姿勢になったらね、こっちから撃って来た飛行機が私の・・・13ミリですよね、13ミリが私のこういう大骨(背骨)がある、この横から入ってこの横に抜けたんですよ。これをね、学校の子供にはよく見せるんですよ。
子供がね、「おじさん、鉄砲の弾が出たってどんなふう?」って言うでしょう。こんな所見せるのもと思うけどね、嘘を言ってると思われるのも辛いからね。ここをね、ここが弾の出た所ですって見せるんです(服を捲り、銃創を見せる)。これは13ミリのね、これと同じ弾ですよね(銃弾を見せる)。ここがこの、突き抜けて。それから足もね、こっから破片が入って(左先を指さす)こっから折れてこっちへ出てるんですよ。こっちの踝も破片が入ってる(右足を指さす)。3カ所一回にやられた。やられたけれどもね、持ってた弾をつめて、撃ってたですよ。そしたらね、その飛行機、近かったからだけれども。(弾が)当たって煙吹きながらブーン(と落ちて)、やったー!と煙を噴きながら外海に落ちていったけどもね。後の飛行機はみんなまとまってずーっと帰って行ったですよ。帰って行ったのを見てね、もう立ってられなくなっちゃってね、それでそこに倒れちゃった。たら戦友は俺をね、いつも寝起きしている所へ連れて行ってくれた。寝起きしていると言っても、モグラ生活ですよ。(横幅が)2メーターのね、(奥行き)4メーターくらいの穴を掘ってね、(高さ)1メーター2,30の、箱形で。下に板を引いて上へ椰子の丸太の折れたやつを並べて置いて、その上に土を乗せて。
そいでその板の上で寝たり起きたりしてた。薬は何にも無いし、仰向けには背中だから寝られない、横向きにこうやっちゃ寝てるんだけどね、これは辛かったですよ。半日横に寝てると身体が半分痺れてきますよね。そいであの、薬がないから海水をね、一斗缶の半分、あれを汲んできて沸騰させてそれを冷まして、それをホースつけて、冷めた海水をジャーッと穴の所に通して、乾いた(布)切れでシャッシャシャッシャ(処置を)・・・ただそれだけでしょう。自然と肉が盛ってくるのを待つからそれは時間がもの凄くかかるんですよ。それで暫くしてからようやく杖をついて歩けるようになってね。その時にはもう弾は全部無くなっちゃっててね、みんなあれだ、爆撃がくるっていうとなるべく爆弾が落ちないような防空壕、砂浜のそばだとかね、あっちの防空壕、こっちの防空壕、中のほうの防空壕は危ないからなるべく砂浜のそばの防空壕がいいよつっちゃあ、防空壕に逃げちゃおったんですよ、こういう防空壕に。
終戦
そうしておったらね、戦争に負けた。8月15日。16日に分かった。そいで負けたってのを聞いた時にね、この戦争で死んでった大勢のね、先輩、大勢先輩は死んでいきましたから、戦友も大勢死んでる。なんだったんだって。本当に死んだ先輩や戦友は本当に犬死じゃないか、なんのための戦争だったんだってそういう風に思いました。
米軍との衝突
見とったらね、アメリカの巡洋艦が入ってきたんですよ。入ってきたらね、上陸してきたんですよ。上陸してきた兵隊がね、皆こうやって日本の兵隊をじろじろじろじろ馬鹿にしたみたいに見るんですよ。中に気の強い奴がいてね、九州の兵隊だったですよ。「この野郎。なに人をじろじろ見るんだ」つって、喧嘩になった。そしたらね、司令がアメリカの兵隊といざこざを起こしちゃいけないと言った。けどあんまり皆が悔しがるんでね、副司令、トクノウ少佐。その人がアメリカの艦長に話をしに行った。どうしてアメリカの兵隊はね、日本の兵隊を馬鹿にしたようにじろじろと見るんだと。日本の兵隊はね、戦争に負けて皆悔しい思いをしている。それを馬鹿にしたようにじろじろじろ見て、日本の兵隊の気持ちにもなって欲しい、ああいった事をしないで欲しいつって、艦長に話をしたらしい。そしたら艦長がね、兵隊を集めて凄く怒ったらしいですよ。お前らはなんつうことをするんだってね。日本の兵隊は戦争に負けて本当に悔しい思いをしてる。それを馬鹿にしたみたいにジロジロ見てどうしてそういうことをするんだって怒ったっていうんですよ。そしたら一人の兵隊がね、これは日本の兵隊に悪いことをした。だけど我々は日本の兵隊を馬鹿にしたつもりは毛頭ない。日本の兵隊をああやって見たのは、あんな身体で、そりゃそうだよね、骨と皮ばっかりだもん。(腕の)太さはこっからここまで同じでしょう、足もそう、ずっと同じで膝だけがぽこっとして。あばらもグワーッと出ちゃってるんですよ。頭ばっかり・・・頭は小さくならないからねぇ?、頭ばっかり大きく見える。よく戦友に言ってた、「なんだお前骸骨みたいじゃねぇか」、「人のこと言うな、お前だってそうじゃないか」。それぐらいだったですよ。だからアメリカの兵隊はびっくりするわね。よくあんな身体で今まで戦ってたと思う、そう思って見たんだ。我々にはとてもあんなになるまで戦えない。そう思って見たんだけど、日本の兵隊には本当に申し訳なかった、謝って欲しい、そう言ったんですよ。それを英語で無論、お話するでしょう。それを聞いてトクノウ少佐ね、艦長にわかった、アメリカの兵隊の気持ちは分かりましたって。そいで降りていって私たちを集めてアメリカの兵隊はこういう風に言ってる。お前たちも悔しいだろうけど我慢しろって言われて。
引き揚げ
それからずーっといたんですけど、10月25日。病院船氷川丸。それがね、入って来た。これがね、氷川丸(写真を指さす)。これはまっ白い船でね、十字架(赤十字)が入って。この船はね、私たち日本の国から外に出て戦いに出た兵隊を一番先に引き揚げに来て、迎えに来てくれた。一番先に船に乗って、そしてミレー島を後にしたんですけどね。船の中で船員、色々内地のことをこっちは分からないから聞きたいわね。船員は皆知ってるわね。それで船員に聞いたんですよ色々。1人の船員がね、そりゃ色々教えてくれました。沖縄が全滅したこと、長崎広島に原爆を落としたこと、神戸大阪名古屋東京大都会が焼け尽くされて内地でも100万からの人が死んだって聞いた時にはね、引き揚げてきた皆涙ぽろぽろ流してね(涙ぐむ)、本当に申し訳ないと。俺たちが負けたから俺たちが負けたからね、内地の人たちがそんな苦しい思いをしたんだ、本当に申し訳ないと、涙皆ぽろぽろ流してね、そういう話を聞きました。よく皆で話し合ってね、「俺たち内地へ行ったらなんて言われるかな」「戦争に負けてね、よくもおめおめ帰ってきたなって、そんくらいのことは言われるだろう」「何て言われたってしょうがない、俺たちは戦争に負けたんだ」。そう話ながらね、船は段々日本へ近づいて、あの富士山。富士山が遠くから見えるんですよ。富士山が見えた時には皆甲板へ出てね、そして死んでいった先輩や戦友には申し訳ないけどね、生きて帰ってきて本当に良かった。その時はそう思いました。
復員、敗戦への後ろめたさ
道路に出て見て、本当にびっくりしたですよ。道路の両側にね、お母さん方が二重、三重になって、200人も300人もだーっと並んでね、皆大日本国防婦人会ってたすき掛けて皆涙流しながら「おかえりなさい、ご苦労様。」って言われたときにはね(涙ぐむ)、こんなね戦争に負けて帰ってきた私たちをね、こんなに温かく迎えてくれる。本当に申し訳ないっつう気持ちでね、身体が震えて涙がぽろぽろ皆泣いた。あの迎えに来てくれたお母さんの中にはね、自分の息子が戦死したお母さんもいたと思います。そして最愛の夫を亡くした若い奥さんもいたと思います。戦争って本当に悲惨です。あんな苦しい悔しい思いをね、今の若い人、そしてこういう学校の子供たちに絶対させてはいけない、そう思いました。
そして私は浦賀の病院へ入って3日おってね、そしてすぐ湯河原、熱海の奥に湯河原ってあるわね。湯河原の奥に奥湯河原ってあるんですよ。そこにね、山翆楼っつう大きい旅館があるんですよ。そこがね海軍の病院になってたんですよ。そこでね、ずうっと治療を受けてて、12月29日、もう帰らして貰おう、それから親元へ行って正月したいから帰してくれって言って。そして軍医のとこへ行ったら軍医がちょっとまだ早いけどっていうのをどうしても帰らしてくれって(言って)、それだから帰らせて貰うようにして、それから汽車でもって東京駅に行った。東京駅で降りてみてこれが東京か?と思いました。あっちこっちね、焼けたビルがある。そしてもう焼け野原ですよ、本当に凄い焼け野原。ここでもね、都民の人たちが大勢死んだんだろうなぁと思ったらね、本当に申し訳ないっつう気持ちね。俺たちみたいな下っ端の兵隊がね、そんなこと思うのはおかしいかもしれないけど、戦地から帰って来た私たちの島から帰って来た連中は皆そう思ってたですよ。俺たちが負けたからって。負けて申し訳ないっつう気持ちは皆持ってたと思いますよ。
実家までの道のり、両親との対面
それで私は東京から今度新宿に出てね、中央線でもって甲府を通って諏訪、あの御柱(祭)のね、諏訪を通ってあそこに辰野っつう駅があるんですよ。辰野で降りて、辰野から豊橋へ行く飯田線ってのがあるんですよ。あれに乗ってね、それでもって天竜川に沿ってずっと行き、ずーっとね、飯田の手前に市田っつう駅があるんですよ。降りて、それから自分の家の方向向いて、あの辺が自分の家だなぁと思いながら。家をこう見てね、ああ古びたねぇ、随分痛んだ家だなぁと思った。それもしょうがないわなぁ、兄弟10人もね、ここで育ったんだから、親は大変だったんだろうと思ってね。そう思ってガラガラっと開けてね。中がね、庭が土間なってるんですよ。土をこう固めてね。その向こうに囲炉裏があったんですよ。火を炊いてね。そこへ入って、母がこっちにねこんな鍋を持って立ってて、父はこっちで薪を焚いて囲炉裏で火を焚いてた。私が入ったら2人とも私の方を見て。私が「ただ今帰りました」と言ったら母はね、鍋をひょっと落として(笑)、両手で顔を覆って座っちまったんですよ。父はね、私の顔をじっと見て一言ね、「ご苦労だったな」と言ってしょっと背中を向けちゃったんだ。恐らくね、涙を見せまいとしようとしたんじゃないかと私は思いました。この時ね、私3年と8ヶ月海軍の軍人生活はその時に終わりました。饑餓の島、食べるものもない島でね、苦しい思い悔しい思いをして死んでいった先輩、戦友ね。どうか安らかに眠ってください。そしてどうか日本の国を守ってください。私はいつもそう思ってますけどね。
亡き戦友のお告げ、慰霊の旅、遺族との出会い
先輩、戦友っていえばね、トコロ、死んでいった戦友がね、一昨年出てきたんですよ。一昨年また出てきてね。そいで「長崎と広島に行ってこい」っつうんだよ。「何しに行くんだ」って言ったらね、「行って原爆で死んだ人たちに戦争に負けて申し訳ない、俺たちが負けたから皆さまにこんな苦しい思いをさせて本当に申し訳ない」って。「俺たちみたいな下っ端の兵隊がね、いったら戦争に負けて上も下もあるかって。負けたから申し訳ないって謝ってこい」って。「そうすりゃあね、いくらか気が楽になるから」って。そう言って、出てきたんですよ。
私一回だったらね、変な夢見たなと思ったんだけどね。3回も同じ夢見たんですよ。だからどうしても一回行ってみなきゃと思って、行くことにしたんですよ、長崎と広島に。だけど私一回ね、どうしても行ってみたいと思った、それが鹿児島の知覧。陸軍の特別攻撃隊があった基地だ。一回どうしても行きたいと思って。それで知覧行って長崎行ってから広島。こういうつもりでね、知覧へ行ったんですよ。知覧へ行って、陸軍の特攻基地ですよね。あそこからは大学出の若い人たちがね(学徒兵だけではない)、250キロの爆弾を抱いて、沖縄の近海に来てる敵の船に体当たりした、その飛び立っていった基地。皆250キロの爆弾を抱いて、油は片道ですよ。向こうへ行く油しか詰めてない。そういう特攻隊だった。そこへ行ってそこの中に入っていったら、これよりもうちょっと大きいかな(自宅の遺影を見上げる)。もうちょっと大きい額に入って写真と遺書。それがグワーッとあるんですよ。日本人だったらあそこへ行って涙を流さない人はいないと思いますよ。私もね、それを見ながらね遺書を読ませて貰いながら、そして戦地の死んでいった先輩や戦友のことを思い浮かべながら涙ぼろぼろと出しながらズーッと見て、「父上母上私は国のために参ります。親に先立つ不孝をお許しください。どうか私のぶんまで長生きしてください」ってそういう遺書があっちこっちにある。それを見ながらね、本当に涙ぽろぽろ流しながら。私と同じようにね、1人のお母さんが車椅子に乗った。90くらいの。お母さんが同じように2人の娘を連れて、もう70近い人。2人で押して、入ってきたの。それで私ね、身内の方か何かが亡くなって来たのかなとふとそう思ったんですよ。だからそういって話したら、娘が違うって。今日は見学に来たんだけどね、私達のお母さんが、しょっちゅう悲しがる。それっていうのはね、私の父は赤紙で召集されて行きました。戦地へ行って戦死したけれども、ただその通知、戦死しましたっつう紙が一枚来ただけだと。だから母はね、せめてどこでどんなふうにして戦死したんだかそれだけでも知りたいってね、話があると。だから私そう言ったんだ。これを見てください、私これを持って行ってた。この弾とね、これは私たちの分隊でもって生き残って帰ってくる時に皆こう書いてくれたんですよ。これを見せて私もマーシャル群島のミレー島つう島で、2年4ヶ月その島には。敵と戦ったのは1年と9ヶ月。戦ってたけども、大勢の戦友、先輩が死んでったけれども、戦友が皆死んでいく時に母親が浮かんで来る。私が見た限りでは皆お母さんって言って死んでる。それで先輩は皆ね、死んでいく時に内地へ残してきた子供や奥さんが浮かんで来るんだと思います。子供の名前を呼んで奥さんの名前を呼んで死んでいってる。だからあなた方のね、お父さん、それから奥さんの旦那さんも死んでいく時は必ずあなた方の名前を呼び、奥さんの名前を呼び死んでいった。これは絶対間違いないですって。そしたらそのお母さんがね「初めてそういう話を聞きました。主人がね、子供や私のことを想って死んでいってくれたなら嬉しい。60何年ここにつかえていた物が取れた気がする。」そう言ってね、喜んでくれました。私は知覧へ行ってね、このお母さんに行き会って本当に良かったと思いました。それでその話をしたのをね、ここに(自分の近くを指さす)70くらいのおじさんが立って私の話を聞いてたんですよ。その人がね、「あなたは海軍出だというけど、そこにあるゼロ戦、それを写真に写したいんじゃないか」って。私ね、ここに【バカチョン※差別表現】持ってたんですよ。
昔のバカでも【※チョン】でも写るっていうあれを持ってたからね。それは写したいって言ったの。陸軍の特攻基地の中に海軍のゼロ戦自体があるのも不思議だと想ったの。そしたらこれはね、海の中に30年も沈んでて、それを引き揚げたから、もう尾翼もないんですよ。けどそれをね、写してやるって言うんですよ。「だけどここ全部撮影禁止になってます」って言ったら、「いや俺はここで一番偉いんだ。館長より俺の方が偉いんだ。だから撮影することは大丈夫だ。こっちへ来い」。それで写してくれたのがこれです。(写真を見せる)これゼロ戦の前で写してくれたんですよ。一番偉い人にお礼をいってありがとうございました。こんなところで写してくれてありがたかった」つって写して貰った。それで今度はお母さんにも挨拶して、「旦那さんのぶんまで金さん銀さんくらいに長生きしてください」挨拶をして。
それから長崎へ行ったんですよ。長崎へ行ってね、原爆慰霊碑の前で「戦友も戦争に負けて皆に苦しい思いをさせて申し訳なかった。ミレー島から引き揚げてきた者は皆そう思っております。だからどうか堪忍してください」つって謝ったら本当にトコロも言ったように少し気が楽になったような気がしました。それから小さいホテルに泊まって、ひょっと起きたんですよ。起きてひょっと外を見たらね、これがそうですけど(写真を見せる)、電車道があって道路のところに子供がね、朝のラジオ体操してたんですよ。そこに行って責任者の方にこれを持って行って見せてね、実は戦地に行って来た者なんだけど、子供にちょっと話しをさせて貰えないかって。そしたら是非お願いしますって。体操が終わったら皆集まれって60人くらい子供が集まりました。そこで爆弾でもってすっ飛んで皆死んだ話、戦友がああやって死んでった、そういう話だとかね、色々話をしたけどもね、私の感じたのはね、長崎の子供は普通の県の子供と違う。私は感じました。あの目の輝きが違います。私の話すことを絶対に聞き逃さないようにする目の輝きね。必死になって聞く目の輝き。私は今でも子供の目の輝きを今でも覚えてますけど、恐らく私は死ぬまで忘れないと思います。あれっていうのは、おじいさんおばあさんが原爆に遭ってね、自分の息子に話をし、息子が子供に話しをする。だから長崎の子供は戦争することに対してもの凄く真剣に考えているんだとそう思いました。
長崎が終わって今度は広島に行ってね。広島の慰霊碑にお参りしてからあっちこっち回ってから千羽鶴の塔がありますよね。原爆ドームの横でサツキが植えてあってコンクリにしてあるからそこに腰掛けてたらこの3人の女の子が来たからね、「これなんだか分かる?」って見せたの。そしたら3人が来て、「これ何?」っていうから、「これは戦争に行ってこれが背中に突き通った弾で、これが戦地から生き残って帰って来た者が書いてくれた」って言ったらね、「戦争に行って来たの?」って聞いてきた。「戦争の話ちょっと聞いてくれるか」って聞いたら聞かせてくれって。長崎で子供に話をしたように30、40分くらい話をさせてもらったかな。そしたらね、3人のこの女の子だよね、涙ぽろぽろ流しながらね、「私たちは今、学校の先生になるように一生懸命勉強しています。学校の先生になったら、今おじさんから聞いた戦争の話、それを必ず子供にします」と言ってくれましたけどね。私は本当に嬉しかったですよ。それでこの女の子がね、別れる時にお腹のところこうやってやるんですよ。(両手を腹部で拭く動作)3人ともこうやってやってる。何をやっているのかなと思ったら、おじさん握手してくれっていうんですよ。二十歳くらいの若い子がね、かわいい綺麗な子が握手してくれってこんな年寄りにねぇ。87にもなって。ああその時は85だった。嬉しいような恥ずかしいような、握手して貰って。
戦場経験を語る心意気
それでうちに帰って来てね、私がいつも思ってるのはどの学校でもどんな団体でもどこへでも行ってね、1人でも多くの人に戦争の悲惨さ、命の大切さそういったのを見ていただきたい。そう思ってね。そうするには、年ももう87だからね、後先がこのくらいしかないけども(指先を狭めて見せる)、棺桶へ片足入れるまではね、どこへ行っても話を。まあ滋賀県中だったらどこにでもそこにあるミニバイクでパタパタパタパタ行きますけどね。行って話をさせて貰いますが。
聞き手(志願されたのは昭和・・・)
17年。
聞き手(何月くらいに入団された)
3月かな。2月だったか3月だったかどっちか。(5月入団の前期志願兵だと思われる)
聞き手(呉からトラック島に向けて出航されたのは?)
18年の6月だったと思いますよ。
聞き手(ミレー環礁にたどり着くまでどのくらい?)
トラック島に1週間くらいいたんですよね。全部で20日くらいかかったんじゃないかな、ミレー島に行くまでに。呉を出てからね。帰ってくる時は氷川丸で帰ってくる時は26日に向こうを出てそれから10月8日(10月7日か、最初の復員船)だったと思いますよ、こっちに着いたのは。
聞き手(船が来て敵前逃亡の兵隊の話をされた時にスピーカーで投降の呼びかけがあったが、あの船が出始めたのはいつ頃?)
19年の末だったと思います。
聞き手(B29にかなり激しい爆撃をされて物が無くなってから1年くらい経ってから?)
ちょっと話さなかったけどね、私そう思ったんだけどどうしてこんな爆撃の穴ばっかり、どこみても穴ばかりのトコロに何で毎日毎日何のためにこんなに爆撃するのかと。こんなの放っておけばいいじゃないかと、そう思ったんですよ。それには訳があったんですよ。それはね、船が来始めたその前ですよね。アメリカの航空隊の司令官がね、日本の司令官宛に書類を落としてました。それにはね、「君たちはこのままだとこの島で餓死しなきゃならんから、降伏しなさい。降伏すれば食料もあげましょう。そして爆撃もやめます。だから降伏しなさい。降伏する印として、この滑走路に十字架の印を出しなさい(ミレー島内図を指す)。」そういった書類を落としていきました。日本の兵隊が降伏する訳がないですよ。最後の一人になっても戦いますからね。だから絶対そんなもの出す訳がないし。そしたら今度アメリカの航空隊の司令官が書類を落として、「降伏しないことがわかりました。これからは、我が航空隊の練習場として毎日爆撃させて貰います」そういった書類を落とした。だからね、毎日とにかく、まぁ訓練なんだろうね。毎日来ちゃあ爆撃してましたよ。
聞き手(その書類の存在は戦後戦友会か何かで?)
いや、ないです。こういうのは落としてきたけどね。宣伝ビラね、こういうのはいっぱい落としてきましたよ。
聞き手(先ほどの書類の話は直接ご覧に?)
いや、聞いたの。
聞き手(どなたから?)
上官から。こういう話があったって。その上官もまた聞いたんだろうね。
聞き手(1年間、船が来るまでずっと爆撃?)
1年なんてもんじゃない。1年と9ヶ月。
聞き手(本当に丸裸ですよね。)
何にも無いです。
聞き手(司令部というか、もぐら生活とおっしゃってましたけど、そういうのは全部地下に掘って?)
そうそう。それでね、こっちのミレー環礁、兵隊は分散してたんですよ。皆ここにおったんじゃ死んじまうから。(ミレー環礁の図を指す)こっちの島、島民の行ってない島に兵隊が皆分散されて、本部にはなるべく少なくってことで。私は終わりまで本部にいましたけどね。本部にいる兵隊は2,000人から帰ってきたんだけどね。そのうちの半分はこっちのほう(ミレー環礁の別の島)に行ってたわけだ。もう戦いようが無いんだから。飛行機が来ても撃つ弾は無いでしょう。なんにもないから、爆撃されないような島に行ってとにかく、椰子の木があるでしょう。椰子の実をとって食べたり草を取って食べたり。とにかくどうやって命を繋いで行くか、皆それだけですよ。
捕虜を「やった」
聞き手(ミレー島は、先ほど野ネズミの話がありましたが、どんな物を食べていたんですか?)
最初のうちは慰問袋が来てたことがあるの。その中にカボチャの種があった。それを植えてカボチャは一生懸命作ったですよ。カボチャがなって、そいつのおかげで随分助かったのはありますけどね。これはね、本当に皆食べるものに汲々としてましたからね、なんでも口に入る物はなんでも入れるという。草の葉っぱなんだって湯がいて食べるでしょう。アメリカの兵隊を捕虜にしたんです。これはあんまり話したくない話だけどね、ノースアメリカンつう、初めて東京を爆撃した飛行機、双発、2つあれの・・・それがね、日本の東京を爆撃して中国まで逃げてきたあの飛行機。あれが12機来てね、こういう爆撃の仕方をしてきたんですよ。(ミレー島図を指しながら)こっちから6機。これは300メーターくらいの高度。こっちから6機、これは400メーターくらいの高度。ここの上(ミレー島)を交差するようにいったんですよ。私たちはこっちへ行く飛行機を撃ったわけ。300メーターくらいの飛行機だから。ノースアメリカン大きいでしょう、曳光弾がピィンッと入るのが分かるんですよ。さっき言った、曳光弾が2つ入れば5発入る。それでこうして撃ってたらね、ガクッとなって煙をウワーッと吹いてね、6機のうち3機が落ちたんですよ。2機は外海に落ちた。1機だけ内海に落ちた。その内海に落ちた飛行機をアメリカの兵隊5人がゴムボート出して逃げてくって言うんで、ここに望楼砲台ってあるけど(島内図を指す)、望楼砲台にね矢倉を作ってあったんですよ。その上に通信兵が眼鏡で見ててね、落ちた飛行機からゴムボート出して兵隊が逃げてくって。すぐ水警隊つって私達で水警隊集合つって船を出して。それで船の一番の頭はここに戦死しちゃっていないけど、カワグチつって山梨の、カワグチ小隊長。そのとき私は軽機関銃持ってたからね。軽機関銃を船先につけて。それから追っかけていったわけ。アメリカのゴムボート必死になって逃げて行くわけ。小隊長もハンカチ振ったんですよ。そしたらね、向こうからあべこべ(?)に近づいて来た。小隊長も降伏しなさいってそのつもりで振ったらしい、向こうもそう受け取った。それで(こっちに)来た。それを船の尻にロープで結わいて連れてきたわけ。本部へあれして、それで私はもう船を繋いで自分の陣地のほうへ行ったから後のことは知らなかったんですけどね。あとでね、あの飛行機は7人乗りなんだって。飛行機の中で2人死んでね、5人が捕虜になったわけ。捕虜を防空壕へ1人ずつ入れて、番兵がついて、それから色々な事を聞いて、アメリカの飛行機がどこでどんな風にって聞いたらしいんですけどね、だけれどもアメリカの兵隊が皆死んだってことを聞きました。だけど俺はしょうがねぇわなって思ったの。なぜかって、日本の兵隊だって食べるのは無くて、草食べたり色々して皆餓死してるでしょう。だからアメリカの兵隊に草湯がいたやつあげたって食べる訳がないです。だから食べるものが無くて死んだんだろうなって俺はそう思ってたの。そしたらね、やっぱり、「やった」らしい。自分たちの戦友が大勢死んでるでしょう。だから戦友の敵だってどうも殺したらしいんですよね。それが戦争終わってから分かってね。逃げてった兵隊とかいろいろおるからね。だから(米側は捕虜虐殺を)分かるわけですよ。結局5人の捕虜に携わった兵隊や上官、下士官ですね。12人、メジロ(メジュロ)ってあるんですよね。メジロ(メジュロ)につれて行かれたんですよ(地図を指さす)。
そして調べられたり、色々したらしい。私達ところの志賀大佐、海軍司令官(司令)だよね、結局一番上、トップってことで責任があるってことで連れてかれた。連れてかれて色々調べられたらしいけどね、司令官がね、裁判所で言ったんだか恐らくそうだと思いますけど、「全責任は私にある」と。「部下には責任はない。私がすべて命令したんだ」と。そういって自決しちゃったんですよ。ツツミ兵曹つって、さっき話した、あの人はね、司令官の従兵してたことがある。それ(ツツミ兵曹)がそう言ったけど、(志賀大佐が)連れてかれる時に「ツツミ君悪いけど帽子を持って来てくれ」忘れたから持って来てくれって。変なことを言うなぁと思ったんだって。帽子のどこかに青酸カリを隠していたらしい。ツツミ兵曹の言うには、帽子のどこかに隠してあった青酸カリで死んだんだろうって。すべて責任は私にある、部下には責任はないといって自決した。だからアメリカもどうしようもなくてね、11人全部返された。そういった司令官だったですけどね、これは立派な司令だったですよ。あんな司令はあんまりいないと思います。この話はね、あまりしないんですよね、こういう学校の子供の時は恐らくしたことないし。メジロ(メジュロ)で死んでどこかに埋けられて後でツツミ兵曹と司令の奥さんと娘が2人いるんですよ。行ったって言ってるけどね、メジロ(メジュロ)へ。メジロ(メジュロ)へ行ったらその娘がね、「お父さんどこへいるの」って大きい声でそう言ってたって(涙ぐむ)。本当に戦争って悲惨ですよ。絶対にどんなことがあっても戦争だけはねしてはいけないし、本当に命って大切だってことを・・・戦地へ行って日本から外へ死んでいった人は210万、20万ともいうでしょう。内地で死んだ人は100万。310、20万つうと、私よく子供に言うんですよ。310万、20万つってもわからないだろう。滋賀県の人全部を一度死んで貰ったんじゃ足りない。もう一回死んで貰って、それでもまだ足りない。二度死んで貰っても足りないんだと、まだ20万も30万も足りないんだと。それくらい沢山の人がね、戦争という2文字のためにそれだけの人が命を落としてるんだ。だからどんなことがあっても戦争だけはしてはいけないということは学校では話させて貰いますけど。
聞き手(ノースアメリカンの飛行機を撃墜したのはいつ頃のお話ですか?)
あれはねぇ・・・19年の末頃だったと思いますね。
聞き手(かなりもう飢えてる?)
うん。もう飢えなんてものは戦争が始まって18年の爆撃が始まってすぐですよね、飢え始めたのは。一回だけね、潜水艦が入って来たことがあるんですよ。ここに入って来たんですよ。北砲台の呂号。呂号つってさっき言った小さい潜水艦ですね。あれが一回だけここに来た(島内図を指す)。それをね、夜俺たちは船を持ってここへずっと行った訳ですよ。ここへ行ったらね、潜水艦の外にね、ちょうどこの4畳半・・・より小さいかな、3畳ぐらいの大きさの四角の米。こういう水枕あるでしょう。あれのもっと大きいやつ。お米を詰めてそれを蓋して。それを重ねて網で3畳角くらいの。それを潜水艦の上に乗せてロープかけて沈んで持って来たんだね。途中で浮いてみたりして沈んで。そして、いつ入るかってわかってそれを持ちに行ったけどね、その時に浮上してつんであるからこれを沈んだら浮くように、それを引っ張るように・・・そういうことがあったですからね。もうタバコも何もないしタバコなんて無論ないでしょう。そうすると何するかというと椰子の木の葉っぱを丸めて火を付けて吸ってみたりね(笑)それで行ったらね、潜水艦の乗組員がね、皆何人も出て行ってね、私達が行ったら船の横に夜だったけどね、「とにかく頑張ってくれ」ってそんで俺たちも「こんな遠くまで米を持って来てありがとう」って言って。そんなそれだけの米があったって幾日も持つ訳じゃないけどね。でも米を持って来てくれてありがたいと思ったらね、「タバコはあるのか」って船に乗ってる者が。「いや、タバコなんてものは無くなっちゃって。皆椰子の葉っぱを丸めて吸ってるつったらね、あの時分にね、「チェリー」って言ったかな、「櫻(さくら)」って言ったかな、あのタバコ。それで「やる」ってくれてね、タダで貰ったんじゃ悪いからって言ったら何でもやるってくれてねぇ。あの時には私も幾らかはタバコを吸ってた。そんなことがありました。持って来たら軍属がね、金持ってたってしょうがないでしょう。兵隊でもそうだ。兵隊はあの時分、1ヶ月で1円20銭くらい貰ってたでしょう。それを半分は田舎へ送って貰うようにして、半分は戦地で貰ってたんですよ。貰ったって使い用がないからね。タバコ持ってるじゃねぇかって評判になっちゃってね、フフ(笑)。「タバコを売ってくれ」つっちゃあ、「1本100円でいい」つっちゃあ、あの当時100円なんて言ったら大変ですよ。どうせ俺はそんなにタバコ吸わないからやるわって人にあげたけどね、中には時計のオールサーモンていう時計があるんだけど、「これでもってタバコ3本と交換してくれ」って(笑)そんなのがありましたよ。そんなことで潜水艦が入ったことがあったけどねぇ。
聞き手(ミレー環礁とミレー島には何人くらい兵隊がいたんですか?)
佐藤:兵隊と軍属で6,000人。
(聞き手)環礁全体で?
そうそう、島民は違いますよ?帰って来たのは2,000人弱ですよね。
聞き手(ミレー島にはどれくらい残ったんですか?)
そうですねぇ、500人くらいいたかな。終戦まで頑張ってたのは500人、4,500人いたと思います。あとはみんな小さい島に行って頑張ってたと思います。椰子取ったり食べたり色々して食べて命を繋いでた訳なんです。それで船が入ってくるからってことで連絡してから皆ミレー島に集まるように。船が入って来て、皆でミレー島から船に乗船して。船が上陸して来た時にね、船には上甲板に波よけの板がある所があるんですよ。そこで1人の兵隊が止まっちゃって動かないんだって。どうしたんですかって聞いたら、「跨ごうと思っても跨げないんだ」って。色々と話してくれた船員が可哀想だなぁって跨がせてやろうと思って、ひょっと抱えたんだって。何もないんだって。骨と皮ばっかりで服は着てるけど。抱いた時に、これでよく生きて敵と戦ってたと(船員が)思ったら涙がぽろぽろこぼれてね、抱えてあげたけど(涙ぐむ)。本当によくこんな身体で生きてたと思ったって。それは後でもって引き揚げの氷川丸の船員であちこち入ったからそういうことを本に書いたりして、それにそんなことが書いてあった。これは皆そんな風だった。本当に皆食べるものがなくて。だからこの短歌にしてもね、「ひもじかと 問うも愚かぞ 此の頃は 死にたる戦友を幸(しあわせ)に思ほゆ」お前早く死んでよかったな、生きとったらこんなに悔しい苦しい思いをしなきゃならんという短歌ですよね。だからこっちは「何故に 吾を生みたりと 父母迄も 恨む程心荒べり」。親を、どうして俺を産んだんだと、産んでくれなかったらこんなに苦しい思いをせずに済んだのに、そういう短歌ですよ。「南海の孤島の砂を紅に染め散りゆく姿如何につたへむ」。「爆撃機遠く去りたりものいはぬ体いくつぞ硝煙の切れ間に」こういった詩を。一番詩を作ったのは成宮(芳三郎軍医大尉、歌人)っていう軍医長なの。この人は日本で有名な短歌を作る人のお弟子さんだったらしいですよ。東大出の軍医長ですからね。
絵描きの話
聞き手(船が来て逃げてこいと放送があったと思いますが(投降した人は)どういうふうに逃げていくんですか?)
結局、船が拡声器かけて来るわね。それでずーっと来て、南砲台の深いところ、ここが浅瀬になっているからね。ここへ来た時に本当にゆっくり行くんですよ。拡声器でもって「皆様を助けに来ました。こっちへ逃げてらっしゃい。あなた方はここで餓死しなきゃならんから早く逃げてらっしゃい。皆さんの戦友は、米軍が食料を十分与えて平和に暮らしているから早くこっちに来なさい」って呼ぶんですよ。それで中に(投降して)行った。これは分からんでもないですよ、逃げて行くのは。そりゃ自分のね子供や奥さんがいれば死にたくないですよ。どうしても子供のところに帰りたい、それは誰しも思うと思いますよ。だから逃げて行くのもね、本当にね・・・俺もそう思った。俺ももし子供や家内がいれば逃げていったかもしらんなぁ、ふっとそう思ったこともありましたよ。だからね、一概に逃げていった人を悪く言う訳にもいかんしね。けれども、やっぱり軍人としてはね、戦陣訓を叩き込まれてる。それは残念だと思いました、逃げて行く人を見てね。
聞き手(グラマンを撃墜したのはその後の話ですか?)
そうそう。撃墜した前の話です。
聞き手(逃げて行くような兵隊さんが出て来始めた後に1機撃墜した?)
そうそう
聞き手(そのときは捕虜はでなかった?)
捕虜はでないです。落ちたのはもう死んじゃってるでしょう。後の飛行機は皆そっち側へ逃げて行ってるし。私の見た限りでは、島へ落ちたのはその1機でした。後は海の中へ、内海へ落ちて5人捕虜にした。内海へ落ちていったのは見ましたけどね。
聞き手(その後撃たれたのはいつ頃の話だったんですか?)
20年の初め頃だったと思いますよ。
聞き手(そうするとどれくらい養生していたんですか?)
結局1年近く。まあ8ヶ月、9ヶ月くらいは。だって何も付けなしに肉が盛り上がって来るのを待つだけだもんね。それこそ何もしないし。足もそのまんまでしょ。足もここから入って(足を見せる)、だから折れた足はどういう風に繋がってるか分からないけど、でもこんなところこんなふうに骨が出てる訳無いもんね。だけど私ここに骨が出てるもんね。折れたやつはこっちの方へいってるんだか、どういうふうになってるか知らんけど、それでもってくっついて固まっちゃったんだよね。
聞き手(寝てるしかない状態なんですか?)
そうそうそう。
聞き手(その間も攻撃というか爆撃というのは・・・)
爆撃ありました。爆弾でもって死んでいいとは思ってましたよ。軍属が死んだみたいにね、直撃でもってドーンと死ねば一番楽でいいかなと思ってました。死ぬんだったらね、ハナリみたいな死に方したいなと思って。ハナリ兵長つってね、爆弾の破片がここ(右のこめかみを指す)に当たってね、こっから上、飛んじゃったんですよ。そしたらもう、あーもうーも無いでしょう。爆弾当たった時には死んでるんだから。トコロみたいなね、戦友みたいな苦しそうに歯を食いしばって苦しいのを我慢してああいう死に方はしたくないなと思って。
聞き手(もう怪我をして寝てる頃になると、弾薬は? )
もうほとんど無くなっちゃってる。あまり撃つ音も聞こえなかったしね、皆もうちょっと遠くなら皆逃げていってね、防空壕の中に入ってると。なるべく爆弾の落ちないような防空壕にあっち行ったりこっち行ったり逃げて。そんなふうだったですよ。どうしようもないもんね。弾が無いし食料は最初からないけども、弾がないし撃ちたくてもね。向こうが好き勝手どんなふうに来ても撃たれないし、平気でもって来てましたけど。
最後
16日ですよ、分かったのは。戦争負けたぞって。
聞き手(その瞬間的にはどんなことを思われたんですか?)
それはね、「何?負けた!?」と思ったのとね、「この戦争って何だったんだ?」そう思ったですよ。あのね、先輩が色々教えてくれるんですよ、私達まだ20くらいだったから。そうするとね、40近い人達が来てるでしょう。そうすると40近い人達が色々なことを教えてくれてね、本当に色々教えてくれた死んでったあの先輩、本当になんだったのか、なんでこんな戦争したのかって思ったですよ、その時にはね。こんな戦争さえなければね、あの先輩も死なずに家族のもとに幸せに平和に暮らしてたのにね。こんな戦争のために2文字のためにね、本当に悔しい思いをして、大切な命をなくして、内地に残った子供や奥さんがどんな気持ちだろうと、そういうこともひょっと浮かびましたね。
聞き手(そのあと、周りの方達の反応というのはどういう?)
やっぱり皆そう思ったんじゃないですか?悔しい思いをしてますから。それとこの地図で見ても分かるけど、アメリカはこっちから攻めて来てるからね(地図を見せて戦闘経過を説明)。だから一番最初から来てる訳なんですよ(マーシャル諸島を指さす)最初から最後までここ。だから、アメリカの航空隊の司令官が言ったって、これは又聞きだから、果たして本当かどうか知りませんけどね。ノルマンディ作戦ってあるでしょう。ドイツがフランスを取って、アメリカとイギリスが上陸したでしょう。その時に落とした爆弾が今までの戦争で一番多く落としたんだって。その次に落としたのがミレー島だって。最初から最後まで落としてるから。アメリカの航空隊の司令がそう言ってたって。本当にまあ、よくもまあ落としたというくらい落としましたからね。
聞き手(武装解除をするまでもなく、武器弾薬等はもう・・・)
小銃の弾はあるから。使ってないから。それはアメリカの兵隊があがって来てね、全部集めさせられて、全部海の中へ廃棄させられたの。
聞き手(米軍の巡洋艦が上陸して来るのは比較的すぐ?)
一週間してから。
聞き手(で、ミレー島に環礁から全部一回兵隊が集まって船に乗って、その船が氷川丸?)
ええそうです。それが日本から外へ出た兵隊で第一便ですよね。日本へ着いたのが第一便。外へ出た兵隊で一番早く日本に着いたのが私達。
聞き手(それが10月の?)
8日かな。7日かどちらかだったと思います。
聞き手(氷川丸はずいぶん立派な船ですけど。)
私もだからあそこへ行ってね、写させて貰ったり、船を見たけど大きくて立派な船です。
聞き手(当時見た時はどういう印象でしたか?)
これは大きい立派な船だなと思いましたよ。ここに書いてあるでしょう。これ成宮軍医長が詠んだ短歌ですよ。(短歌には、病院船氷川丸の白き大きさ、などと詠まれている)(氷川丸の写真を見せる)この船ですよ。真っ白でね、ここに十字架がついてね。
聞き手(全部真っ白だったんですか)
全部真っ白。そこ(短歌)にも書いてあるとおり、白くて大きいと書いてあると思いますが。
活動のきっかけは亡き戦友
聞き手(こういうお話をするようになったきっかけは?)
それはね、私は戦争の話は絶対にしないとそう決めたんですよ。ところが、さっき言ったとおりトコロが出てきてね。「佐藤貴様は間違っているぞ。先輩や俺がどんな思いで死んでいったか。俺たちは話したくても話せない、死んでるんだから。貴様は生きて帰ったじゃないか。俺たちや先輩がどういう苦しい思いをして死んだか、戦争の悲惨さ本当に命って大切なんだと、生きて帰ってきたんだから皆さんに伝えるのが貴様の勤めだろう」そういって言われたんですよ。そう言って言われて、俺も辛いから話しねぇんだって言だったら「辛かったら涙流せばいいじゃねぇか」そういっていわれたんですよ。それから「そうだなぁ、確かにあの死んでった辛さ悲しさ、命は大切なんだってことを皆に知ってもらおう。これは確かに生きて帰って来た者にしか体験した者でなきゃ分からないから」(と思った)。確かに話ながら辛くて涙を流しながら話する時もありますよ。だけどどうしてもこれは皆に聞いて貰わなきゃいけない、そう思ってそれから話するようになったんです。これだけある通り、10年近く・・・これは子供が書いてくれた感想文ですけど。
聞き手(夢の中に出てくるトコロさんというのは軍装?)
それがねぇ、軍装してるんだかなんだか分からないんですよ。ぼやあっとしててね、ただトコロだってことは分かるんだけどね。どういう支度してるんだって言われてもそれは分からないですね。ぽわ~っと出てきてそれから言うんですよ。一昨年出てきた時もそうですよ、3回出てきてね、1回だったら変な夢見たなぁと思うんだけど。3回も出てきやがってね。「行ってこい、行ってこい」って言うでしょう。変な夢見たなってそれから行く気になって行ったんですけど。それでも行って来て良かったと思います。
聞き手(佐藤さんは志願されたとのことですが、それは学校の先生から勧められたとか、きっかけは?)
戦争が始まったでしょう。すぐね、「海軍志願兵募集」っていう広告がね、ラジオで(流れてきた)。それですぐそれでもって志願した訳なんですよ。役場へ行ってね、「こういうことで志願します」っていって。
聞き手(それは17歳の時?)
そうですね、17歳ですね、今の歳でいうと16ですよね、フフ(笑)
聞き手(高等学校?)
高等小学校を終えてね、あれは15かな。ちょっと東京に行ったんですよ。小僧奉公、板金工の。それですぐ帰って来たんですよ。もう材料が無いつって。それで戦争が始まったでしょう。
聞き手(志願された時にご両親は引き留められた?)
そうそう。(兄弟が戦争に)3人征ってるんだから、お前は志願までしなくてもいいんじゃないかって。いや、どうしても志願するんだって言って。親の心子知らずって言うけど、親は辛かったと思いますわ。
聞き手(志願されたのは、お兄さんが戦争に行かれてるというのもあった?)
う~ん、兄貴も行ってるんだから俺も行って頑張らなきゃっつう気持ちはありましたわね。
聞き手(ミレーで3年近くいらっしゃって、その間ご家族とお手紙のやり取りは最初の頃だけ?)
最初ね、爆撃が始まるまではね、何回か手紙を家へは出したし、1回か2回来たような気もするんだけどね。それから爆撃も始まってるから、制空権も取られちゃってるでしょう。だから船は来ないし全然だめなんですよ、連絡つかないし。
聞き手(故郷を想う時はどんな時でしたか?)
そうねぇ・・・それは寝たときに「うちの兄貴達はどうなんだろうなぁ。戦地へ行ってやっぱり戦っているのかなぁ」なんて想ってみたりね。それから「お袋や親父、どうしてるのかな」たまには想いましたけど。あんまり、しょっちゅうは考えなかったね。
聞き手(そういう意味は、帰りたいという気持ちは?)
全然無い。とにかくここで死ぬんだって。それが一番強いですよ。ただ死ぬ時には、苦しまないで死にたいなぁ。死ぬのはいつ死んでもいいと思ってた。
聞き手(ミレーにいらっしゃる時に、お兄さんがどこの戦地にいるのかは?)
全然分からない。
聞き手(ミレー環礁になってますけど、爆撃受けたのは住民が逃げられた方では無い?)
全然ないです。
聞き手((島民が逃げた)島のほうでは、椰子の実があった?)
ええ。椰子の実を取って皆で食べた。島民1人でもって椰子の木7、8本あったら暮らしていけますよ。それとパンの木ってのがあるんですよ。これぐらいの(80センチくらいに腕を広げる)太い木でねこのくらいの(30センチくらい)実がなるんですよ。これが熟したのを取って、芯を抜いてね、その中へ椰子のコブラってのがあるんですよ。堅いアレの中に油があって、あれを細かく切って、削ってそれを詰めて石焼きにすると油がしみこんでそれは旨いんですよぉ。そういうのも島民はね。それからタコの木ってあるんですよ。タコの実ってのはこんな実がなるんですよ(腕を50センチほど広げる)。トウモロコシみたいに、1つの実がこれくらい大きくて、ぶわーっとついてる。ついてるところ熟してくると真っ黄になるわけだ。それを島民がぐわーっと囓るんです。もの凄く繊維があって、囓った汁がもの凄く甘いんですよ。切って潰して、煮詰めるとかしてね、羊羹みたいなの作って、そういうの島民はよく食べてました。
聞き手(終戦を迎えて、氷川丸が迎えに来るその間は長野の郷里のほうに連絡というのは?)
全然できない。
聞き手(湯河原まで帰ってこられてくらいですか?)
そうそう。
聞き手(ご両親が佐藤さんが生きて帰って来るというのを知ったのは帰ってから?)
そうそう。「こういうわけで、上陸して、ちょっと怪我したから、病院におるけど」っつうことは知らせたわけ。
聞き手(その段階でやっとご両親は安心された?)
そうですね。
兄弟の復員(長兄は昭和18年末か昭和19年初め頃戦死した)
聞き手((佐藤さんの入営が)17年だとまだまだ送り出すのも(賑やかだった?))
これは大変だったですよ。旗持って送ってくれて、こういう長い旗があるんですよ。竿つけて「祝」って書いて「入団 佐藤保君」って書いてねぇ。旗を持ったり、皆駅まで送ってきてくれてね。私だけでなしに一緒に入団したのがいた訳なんですよ。それは徴兵。志願兵は私だけ。あとは徴兵で3人。諏訪湖ご存じでしょう。御柱っていって柱を運び出す。あそこへ行って上諏訪で汽車を降りてお参りしてね。「戦争に勝ちますように」ってお参りしたんですよ。帰る(復員した)ときにね、上諏訪で汽車が止まった時にひょっと思い出してね。上諏訪で降りて戦争には負けたけども、どうにか命だけは生きて帰ってくれて本当にありがとうございましたって心の中でそんなことを思ってね。それからずっと帰ってきましたけど。
体験記録
- 取材日 年 月 日(miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
戦場体験放映保存の会 事務局
■お問い合わせはこちらへ
email: senjyou@notnet.jp
tel: 03-3916-2664(火・木・土・日曜・祝日)
Copyright(c) JVVAP. All Rights Reserved.