目次
- 岡崎 輝城さん
- 「昭和17年、満州とソ連国境で2年間、新聞もラジオもない生活」
- 「昭和19年、半袖半ズボンに着替えさせられ、南の島の戦場へ行くと分かった。」
- 「日本を出て2日目、但馬丸がアメリカの潜水艦から襲撃を受ける。」
- 「サイパン島上陸、朝5時~夜8時まで死に物狂いの陣地構築が始まった」
- 「昭和19年6月11日アメリカ軍の爆撃でサイパン島は煙と砂と火の海になった」
- 「水平線が見えないくらいのアメリカ大船団、日本には帰れないと覚悟した」
- 「昭和19年6月15日夕方5時から1時間半の日本の総攻撃が戦史に残った」
- 「翌16日逆転アメリカの総攻撃を受けてなんにもなくなった」
- 「部隊は30名の少数に、アメリカ軍上陸後ゲリラ戦が始まった」
- 「戦死した中隊長の後追い自決をしたH中尉」
- 「戦車と飛行機VS山砲一門と軽機関銃1台、敵うわけないゲリラ戦」
- 「何千何万人の邦人がジャングルを引き揚げる中、孤児になっていく子どもら」
- 「兵隊らの最期の言葉は、『水』か『お母さん』」
- 「慰霊碑が建つということは、遺族の望みがなくなるということ」
- 「戦前のサイパン島、兵隊と民間人(女性)との交流」
- 「ゲリラ戦で仲間は半分に。負傷し意識朦朧のなか、捕虜になった」
- 「日本人捕虜専用の病院船へ運ばれる」
- 「負傷兵は病院船で手術と手当をしてもらった」
- 「話をゲリラ戦の半ばの頃に戻す」
- 「ハワイ陸軍病院での治療や手当は敵ながら天晴れ」
- 「アメリカ人の日常から『平等』を学んだ捕虜生活」
- 「アメリカ戦争規定によって捕虜は太平洋側から大西洋側(アイオワ州)へ移送」
- 「1日80セントの賃金支給。お菓子、タバコ、ビール以外は無料の収容所生活」
- 「対ソ連戦を見越していたアメリカ」
- 「戦後はハワイに戻り、病院建設や飛行場のサービスの仕事をした」
- 「捕虜生活で、アメリカという国への見方が変わっていった」
- 「日本は焼け野原、ここで1円でも貯めたほうがよいと言われた」
- 「祖国日本へ無事を知らせる手紙を、誰1人として書こうとしなかった。」
- 「移送列車の中からみたアメリカ大陸の広さに驚いた」
- 「ハワイ在住の日本人から、巻き寿司や観劇の歓待を受けた」
- 「死んだ戦友は帰らない。戦死者の遺族を詣でたときは辛かった」
- 体験記録
- 参考資料
岡崎 輝城さん

生年月日 | 1921(大正10)年生まれ |
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本籍地(当時) | 香川県 |
所属 | 陸軍 |
所属部隊 | 野戦重砲兵第9連隊第2大隊第5中隊 |
兵科 | 通信兵 |
最終階級 |
プロフィール
1921(大正10)年生 香川県坂出市在住
1942(昭和17)年 現役入営、野戦重砲兵第9連隊第2大隊第5中隊
通信兵として満州牡丹江東寧(トウネイ)へ
1944(昭和19)年3月 サイパンへ
同年6月15日 米軍上陸
同日夜、隠していた野戦重砲の攻撃で打撃を与えるが、翌日部隊は30名を残し壊滅した
山中でのゲリラ戦で負傷、捕虜になる
1944(昭和19)年7~12月 ハワイ陸軍病院に収容
その後、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ハワイ北キング収容所などに収容される
1946(昭和21)年12月 帰国
インタビュー記録
「昭和17年、満州とソ連国境で2年間、新聞もラジオもない生活」
うんまあ、サイパンからの生き残りとして帰ってきたんですが、今の時代、この平和な時代には、なかなか皆さんにも分かってもらえないような、悲しいことやら嬉しいことやら、人生の中の、まぁ1ページを皆さんにも聞いていただいて、まあ何かのご参考になればと思ってお話ししたいと思います。私が満州に行ったのは昭和17年、戦争が始まって3ヶ月の後(のち)でした。まぁ自分なりに、戦争のために生まれてきたんかなと、こんな(ふうに)に思いました。大東亜戦(争)が始まってすぐのことでしたが、それでまぁ初めから、満州の野戦重砲隊、ソ連国境の東寧(トウネイ)というところへ入隊しました。そこで2年間、一生懸命に北満警備に当たって暮らしていました。その間に戦争はだんだんと進行していたものの、兵隊には新聞もラジオも2年間何にも聞いてないので、大東亜戦争がどうなっているのか全然分からずにいたんです。
「昭和19年、半袖半ズボンに着替えさせられ、南の島の戦場へ行くと分かった。」
ところが、急に私たち部隊にも動員令が下りまして、私たちがおりました国境、東寧という町から私たちの野戦重砲(隊)へ、それから戦車隊、高射砲隊、そういうものが動員されて、列車で釜山に向いました。その時に私たちは、部隊の半分が、どこかへ行くんだということで、太平洋戦争がどうなっているのか全然分からずにいましたんですけれども、汽車が南下しているのは分かりました。それでまぁ3日目に、私たち子どもの時から海に育っちょったんで、潮の匂いっちゅうのはよく知ってましたんで、釜山が近くなってきたら、貨物列車の中から匂いを嗅いで、「あ!これは海に近くなった」のは分かりました。それでこれは釜山が近いんだなと。それで釜山に着いて、一番に、たくさんの御用船がおるし、たくさんのまぁ軍隊が、次々と御用船で出航していくのを見ましたし、その時に私たちも満州の防寒服から、全部、半袖半ズボンのズボンに全部交換されたので、「あー、これはもう戦場へ行くんだなと。南の島へ行くんだな」というのが分かったんですが、どこの島へ行くとかそんなんはもう、兵隊にも下士官も将校も誰も知りませんでした。
その時にまぁ、選抜された私たちは、満州から出る時には、皆競争で、これ(選抜)に漏れた兵隊は、中隊事務所へ押しかけて、「何でワシらは戦場へ行かせてくれんのか」いうことで、事務曹長(中隊事務室勤務の曹長)に食ってかかって大騒ぎになったことも(今)思い出しました。まぁそのくらいその時代には、皆戦死するとか死んじゃうとか、そういうことはあまり自分らも考えていなかったです。もうやはり軍人教練を受けて、軍隊教育を受けた我々には、まぁそういうことだったかと思います。
「日本を出て2日目、但馬丸がアメリカの潜水艦から襲撃を受ける。」
まぁ、話はそれにして、私たちの着いたのはサイパン島でした。これは日本から言えば、内南洋で日本の防衛圏内であって、ここを破(ら)れるようなら日本はもうお終いだと。中部太平洋というのは、日本の重要な一番、第一線の守りの所で、そういう気持ち(防衛圏は破られないと思い込ん)で平気でおったところが、日本を出て2日目の晩に、もうアメリカの潜水艦に襲撃を受けたんです。
それで私達の乗っとった船は、三列縦隊の最後尾で、日本郵船の但馬(たじま)丸という七千トン級の輸送船でした。これが朝の8時に、見張りが四方八方、各見張りが付いとったんですが、敵の潜水艦が浮き上がると同時に、「時計10時方向敵潜水艦!」という怒鳴り声と同時に、これは管制官の通信のパイプが通っとって、船長と機関室への直通に聞こえるようになっとんです。それで、「敵の潜水艦、10時方向発見!」(聞こえたと)同時に、私らの但馬丸が、面舵いっぱい(に)ガァーと(舵を)切ったもんだから、私たちもその時に朝の食事で甲板へ出とったんですが、水深1メートル位のところに、真っ白な白い航跡が、私たちの但馬丸(へ)向けて、2本(の)魚雷がダァーとまっしぐらに突進してくるのを見たんです。あーまぁこれで私らもこの船と一緒に爆沈するんだなと覚悟したですね。それがあまりに速かったので、私らが目測したよりも早く、船(但馬丸)が面舵いっぱい切っとった関係で、後ろのスクリューから2~3メートル後ろを魚雷2本がサァーッと通り過ぎたんですわ。もう1秒遅かったら、私ら爆沈するんだったんですけどもね。まあそういう危険なことを体験して、なんや中部太平洋をこんなこと(敵潜に襲われるような状況)とは知らなんだと、皆びっくりしたようなわけです。
「サイパン島上陸、朝5時~夜8時まで死に物狂いの陣地構築が始まった」
それでサイパンへその当日上陸して、上陸するまでは、サイパンへ着く(と)いうのは誰も知らなかって。その日のうちに、この船団はサイパン支部に着くんだということが知らされたわけで。それまでは、誰も自分らがサイパンへ行くのを知らなかったんですよね。
それでまあサイパン島へ、3月20日に満州(を)出てから2週間ぐらいかかりました。下関や大阪で、砲弾やら通信機材やら、いろんなん積んで時間が相当かかって、結局、東京湾(を)出港して、7日ぶりにサイパンへ上陸したんです。まあそんなことで、サイパン上陸したら、もうその日から陣地構築が始まって、戦争が始まるまで、まあ戦争のための構築に、夜の8時頃まで、朝は5時頃から、もう陣地構築一点張りで、まあ死に物狂い、「今に戦争が始まるぞ!」という恐怖心というかそういう気持ちで、一所懸命に陣地構築(を)やっとったわけです。
私達が陣地に着いたのが、今から振り返ったら、その時に日本の方も情報をよく感知しとったし、サイパン島の島の状況からして、敵は必ずこのチャランカ(チャラン・カノア)沖へ上陸してくるだろうということを予測しとったわけです。それが、このチャランカ沖いうのが砂浜の遠浅で、サイパンには、ここしか上陸(用)舟艇(しゅうてい)が上陸するところはなかったんです。だからもうこれに間違いないと。他は断崖絶壁で、上陸(用)舟艇(しゅうてい)でも戦車でも上がるところはなかったんです。そういうことで、私たちも戦争が始まるまでに2回ほどこの砂浜めがけて、野戦重砲の砲弾の実弾射撃をして、必ずこの砂浜へ砲弾が落ちるという確信を持って待っとったわけです。
「昭和19年6月11日アメリカ軍の爆撃でサイパン島は煙と砂と火の海になった」
6月の11日だったですか。敵のグラマンとロッキードが何百機となく一気に襲来してきて、空襲サイレンが鳴って、爆撃が始まったんです。それでしばらくすると、今度は遙か水平線の彼方から、アメリカの戦艦の巨弾が、このチャランカの平野めがけて、炸裂(を)始めて、恐ろしいほどの大きな音とともに、サイパンじゅうが煙と砂と火の海になってしまったんです。もうその日の午後には、サイパン島全部がもう砂と煙と、それ(砂と煙)で前方が見えなくなるぐらい、艦砲射撃と爆撃で何も見えなくなりました。
それでそんなことが2日間続いて、もうサイパンには日本兵は1人も生き残っとらんと、そのぐらいな爆撃を受けて、アメリカも、もうサイパンには日本軍は1人もおらんだろうと、そのぐらい私たちは爆撃を受けたんですが、最初の爆撃が始まった頃に、アスリート飛行場に、日本の一式陸攻(一式陸上攻撃機)やら零戦(零式艦上戦闘機)が少々おりましたけれども、もう30分かそこら、空中戦があったら、もう日本の飛行機は一機もいなくなったんです。そうすると制海権、制空権は先方(アメリカ)に取られてしまったと、こんな感じになって。
「水平線が見えないくらいのアメリカ大船団、日本には帰れないと覚悟した」
夜になって、ラバウルあたりから日本の友軍機が何十機か、サイパン島の戦艦めがけて爆撃に来たんですけども、これも僅か15分か20分のうちにもう皆落とされてしまって、またアメリカの何百隻という、戦艦、巡洋艦から高射機関砲が夕立が降るぐらい、その日本の飛行機めがけて、曳光弾が上がっていくのを私たちも見たんですが、あれほどの弾(を)集中されたら、そらまぁ飛行機も落とされるのも無理ないと思いました。
もう3日目には、そういう日本の援軍の飛行機は、もう来なくなってしまって。アメリカ(は)その時に、私らの観測所から、私たちも通信兵だから、何回も電話線切られてしまって、補修に飛び出したんですが。最初に行った時に、観測所におった同年兵のアラキが煙幕の間からチラチラと見える、サイパンの沖合いが見えるんですが、その見えた瞬間に眺めたサイパンの沖合ちゅうのは、まぁアラキが、「ワシ読んだら(数えたら)七百隻位は読んだけども、おそらく千隻はおるだろう」と、これは本当に水平線が見えんぐらい、サイパンの沖合いは、戦艦、巡洋艦、輸送船団でね。まぁあの大船団を見た時に、これはもうわしら日本へ帰れん(ない)は、もうここで戦死せなしょうがないんだなと思って覚悟したですよ、はい。そのぐらいの大船団でした。
それで、その戦艦と飛行機からの爆撃が、まぁあまりにもひどくて、とにかく15日にアメリカが上陸しかけた時には、もうその上陸に向かって、日本軍の攻撃いうのがもうほとんどなかったんです。だからもうアメリカの方も、日本軍は1人もおらんだろう(生き残ってないだろう)というぐらいな気持ちで、(アメリカは)上陸を3日目にもう開始したんです。それで私たち野戦重砲(隊)もその時には、まだ一門も破壊はされておりませんでした。もう3ヶ月もかかって、陣地構築して、私たちも大砲の上に椰子の丸太を置いて、その上に10ミリぐらいな(の)鉄板を敷いて、その上にもう1メートルぐらいの土を置いて、その上にもう草を植えて、炊事で使った水をそれにかけて。サイパンでは、水がほとんどなかったですからね。炊事に使った水でも、捨てるわけにはいかなんだ。
風呂に水というのは無かったんです。3日に一遍くらい、夜食夕飯が済んでから、各小隊毎に、サイパンのチャランカの沖合まで、海の塩で風呂に、まぁ海水浴というかね、そういうことをやっておったんですが。とにかく、ご飯炊く、おかず炊くいう、その水がほとんど無くて。1ヶ月ぐらいして、ガラパンの街に、海軍の海水分離機が動き出して、それでドラム缶に各中隊1本か2本ずつ配給になりよった。それで各中隊、飯を炊いたら、兵隊がタオルに水をつけて、身体を拭くだけのタオルに水を染み込ますだけの水をなんとか確保できたくらいでした。まあそれは余分(余談)ですけども、まあそんなことで、戦争が始まったんですけど。
「昭和19年6月15日夕方5時から1時間半の日本の総攻撃が戦史に残った」
まあアメリカの戦争というのが、なんちゅうか・・夕方の5時が来たら、何百機となく襲来しとった、あのグラマン、ロッキードも一機もいなくなってしまうんです。みな、航空母艦へ帰ってきて。なんか(まるで戦争を)仕事(と捉えている)というか、5時が来たら戦争やめという、なんか変な感じだったんですが。私らも2日目にそれを感知したもんだから、連隊長も明日の夕方は仇を取ってやろうと言うんで、5時が来るのを、明くる日の5時がくるのをなんとか耐え忍んでおったわけです。
それで明くる日の15日の夕方5時、飛行機が帰ってしまって、それで野戦重砲十五門が一斉にこの海岸線めがけて、総攻撃をやったわけですけど。その時に、アメリカの方は、もう一発も弾が来ないもんだから、海岸線ずっとテントを張って、なんかアコーディオンみたいなものを弾いたりなんかしよるような、双眼鏡で見たらそんな感じでした。えぇ、そこへもってきて、私たちの十五榴弾砲が、1時間半ぐらいかかって、もう総攻撃(を)やったんです。其の時は、砲弾(を)運ぶの(が)間に合わんで、民間人やらそこらいる軍属が皆、野戦重砲の砲弾運びを手伝ってくれはって、それでとにかく、あの大砲の砲身が仕舞いには焼けてきたんです。そのぐらいまぁ、死に物狂いで撃ったわけです。その時の戦果というのは、サイパンでアメリカの海兵隊の戦死した数の大半が大戦果として、サイパンの戦場、戦史に残ったわけですけど。
「翌16日逆転アメリカの総攻撃を受けてなんにもなくなった」
明くる日は、これが逆転というか、アメリカの方も、確かにでっかい重砲がたくさんおるぞと。あいつ(重砲)をやっつけんことには、サイパン上陸でけんということで、向こう(アメリカ)は誘導作戦というか、明くる日は朝8時頃から敵の戦車が前進を始めて、昼の1時頃にはもう私らの観測所の下100メートルぐらいまで迫ってきたんです。それで観測所からいろんな通信で、私らもいろんな砲手で、砲手の後ろの通信兵だったけど、次々と連絡が入るから。
大砲というのは、観測所から三角法で計算して、皆敵と大砲との角度、そういうものを皆計算して、射撃しよんであって(するのであって)、観測所がやられると、「めくら」(見えない)になっちゃうんですよね。それで連隊長も、「さぁ、あともう10分か15分待ったら、観測所、戦車に攻撃せられかけたら」、大砲(は)撃てなくなるんでね。
それで、昼の日中、午後の3時頃だったでしょうか。もう野戦重砲大隊も最期だということで、グラマンやロッキードがブンブン空(を)飛んでる中をね、総攻撃(を)始めたんですわ。もう総攻撃が始めな(いと)、前に戦車が来よる。結局向こう(アメリカ)は、戦車を差し向けたら、野戦重砲を撃つだろうと、撃ったら上から爆撃してやろうと、そういう戦略でね、やってきたわけ。だからもうやられるのはしょうがない。もうこれで戦死せなしょうがない。まあそういうとこ(まで)追い込まれてしまって。それでまぁとにかく、息の続く限り撃てというんで。何百発も撃たんま(間)に、砲撃が始まって10分も立たんうちに、各中隊へグラマンが何十機と集中して来たんです。
それで、もう大砲どんどん撃っちょるから、煙が上がるからね、それはもう飛行機から見よったら分かるんですわな。で、四中隊も、五中隊、六中隊、各中隊、皆谷間は別だったですけどね。そこへ目がけて、何百機のグラマンが急降下して、連続の急降下(を)やられたですわね。だから私らが、通信壕からもう音がしなくなって、通信壕から首を出した時には、もうそこらじゅう瓦礫の山で、深く掘れてしまって、大砲も兵隊もなんっにも、なくなってしまったんです。
はい、まあちょっと休みましょう。休憩
あの、後ろの壁へ二偏くらい叩きつけられて、目も鼻も皆砂で埋まってしもて、見えんようなってしもてね。しばらく30分も●●して、涙がなんぼでも出て、砂が少しずつ目から退(の)いて、爆撃が終わってから1時間も経って、やっと塹壕から這い出してみたら、もうそこらはもう何にもなかったですわ、はい。それから今度は、あくる日から、コンバットみたいな、今度は戦争に移るんですけどね。
「部隊は30名の少数に、アメリカ軍上陸後ゲリラ戦が始まった」
聞き手:奥の方にこう入っていく?
それがね、1日にその100メートルぐらいしか、アメリカの兵隊というのは、前進しないんです。前に戦車を先頭にして、兵隊はその後ろからで、日本の兵隊みたいに、第一線でドカドカと機関銃(を)撃ったり、そういうことはやらんですから。だから、私らが傷ついて倒れてしまうまで、おおかた2週間あまり、おおかた20日近くかかったでしょうね。その間ゲリラ戦をやったわけで。
聞き手:ゲリラ戦に移られたの、部隊の中でどれくらいの・・
そこらへんはまた後から順々に(ゲリラ戦の)話ししましょうね。
夕方ね、戦いが終わってから、私たちも日本の開拓者が造ったと言われる南興(なんこう)神社という神社が、私らの部隊の中ほどのところにあったんです。そこで中隊事務所なんかも、民間の小さな家を借りて、中隊事務所なんかを作っとったんで。私たちが夕方になって、そこまで引き上げていったら、私たちの中隊はもう10人か、そこらしかいなかったんです。四中隊、五中隊、六中隊全部合わせても、30人そこらで、その時に四中隊長のヤマカワ中尉、この人が・・将校ではその人だけ残っとったんす。あと将校は一人もいなかって(いなくなった)。私たちの五中隊では、ハットリ少尉さんが残っとって。
あのまあ、その前に話せないかん(しないといけない)のですが、夕方前に、そのハットリ曹長が、私たちのミツイシ少尉いう、指揮小隊長も残っとったんです。もう一遍、観測所へ行って、残っとる通信機やそれを引き上げて来いということ(命令)で。その時に、私とそのヤマグチとタニノ言うんと、もう一人アラキじゃったか、4人で観測所まで200メートルぐらいあるんですよね。それをダダーと駆け登ったんですわ。それで5、60メートルん(の)ところ(へ)行ったら、向こうからアメリカの兵隊が5、6人上がってきて、山の上でね。こっちは5、60メートル手前で旗と見つけて伏せたんですけど。アメリカの兵隊が、あの旗でも立てるつもりか、つるっぱしで、山の頂上(で)なんか作業しよる。
それで、ヤマグチと、4人が、「どうすりゃ?」ここまで取りに来たんだけど、あいつら(アメリカ兵)おるんではどうしようもないと。それで、「おい、右から1人ずつ50メートルぐらいだったら、何とかまだ夕方で照準できるから、当たっても当たらんでもいいや。右からお前は2人目、お前は3人目で皆狙う」って。1・2・3(の合図)で、あいつら撃てっちゅうんでな。ほいで、3人が撃ったら、(アメリカ兵)2人ぐらいはもんどりうって倒れたんやけども、あとは向こうが伏せたらしいんじゃな。そしたら今度は、向こうは自動小銃で、私らは騎兵銃やからなぁ、一発しか弾出んでしょ。それで、それー!ちゅうてもう、一目散に谷(を)目がけ下りた(逃げた)んじゃ。
「戦死した中隊長の後追い自決をしたH中尉」
それで下りて帰りよる途中に、五中隊の中隊長が戦死してるところを、ちょうど横を通ったんですわ。その時に、何で中隊長(と)分かったかいうと、もう焼けてしもうっとたけども、軍刀がついとんのと、中隊長の長靴、長靴を履いとる。兵隊は革靴やけどね、中隊長は長靴でしょ、革の。だから、あ、中隊長(が)殺られとるわいうて。
それで元の南興神社まで引き返したら、そこで編成をやり直して、今から山砲の小さい大砲が1台残っとるけど、それの編成をして、それで後は、明日の朝までに、ここから200メートル引き上げたところで、1日構築する言うんで、その間(ま)に、後の仕舞いせい言うんで、そのミツイシ少尉が、「中隊長の戦死しとったのをお前ら見てきたんやったら、今からこれスコップ2丁持って行って、何とか埋めてしまって、誰と誰が戦死しとったか見てこい」と言って、それで2人位が飛び出して行ったんやけども。その時に、先にハットリ中尉が、「お前ら来んでいい。ワシが行って確認して仕舞いする」言うて、ハットリ中尉だけが飛んで行ったんですわ。
そしたら、そのハットリ中尉が30分経っても帰って来んでね。それでまた、ミツイシ少尉が、「お前らちょっと行ってみて来い」言うんで、ヤマグチ、ワシの戦友のヤマグチと、もう一人誰だったか飛んで行ったら、そのハットリ中尉いうのは、いよいよ軍人精神に徹した人やってね、私らも初年兵教育から徹底的な教育を受けよった。その人が中隊長の横で、自分で(額を指さし)拳銃で死体をぶち抜いて戦死(自決)しとったんです。まあそういう人やったんやけどもね。
「戦車と飛行機VS山砲一門と軽機関銃1台、敵うわけないゲリラ戦」
それからが、明くる日からゲリラ戦で、私たちは山砲一門と軽機関銃が1台、それで15人ほどで2つに分かれとったから、1つの班が15人ぐらいだったんですわ。それで相手は戦車でしょ。そりゃ、もうとても敵うわけないんだけどもね。向こう(アメリカ)はね、戦車でも、戦闘の戦車1台でも、煙(が)入って(戦車が)壊れるとね、あと20台ぐらい来よる戦車がもうクルっと(方向を変えて)ダァーと逃げてしまうんです。絶対に戦争を仕掛けてこんのですわ。それだから、まあ何十日も戦争できないけど。ほったら(そうしたら)向こうは2、300メートル知られてしもたら、それから15分か20分したら、必ず飛行機が来るわけだ。爆撃せられてな(される)。だから私たちも、それからまた100メートル、200メートル、後ろの茂ったどっかに隠れてしまわなんだら、そこらじゅう、爆撃せられて(される)。そういう戦争を毎日毎日繰り返しとったんですけどね。
「何千何万人の邦人がジャングルを引き揚げる中、孤児になっていく子どもら」
またその頃に私らが一番、もう初めの日だったか。私らの陣地へ下がったら、アスリートの飛行場の半島の、向こうの方におった邦人やいろんな人が引揚げて、私らの後ろを通ってサイパンの北の方へ逃げよるのが(あった)。夜になっても、家族の誰がおらん、彼がおらん、子どもが駄々こねて動かん、なかなかね、引き上げながら。
私らの部隊の後ろに、ようけ(たくさん)食料やら色んな積み重ねとるけど、水がないけん、食べられんねんな、あれ。だけど何でもええからお前ら持ってはよ(早く)、後ろに行っちまえ、やかましい言うて、夜のうちに誘導すんだけども。何千何万人の人がね、皆、後ろドカドカとジャングルや林の中を後退して行きよんじゃけども。皆自分の全財産持っとるでしょ。だからその裸足で逃げるようなわけにいかんでね。そいでまあ、朝が来てしもて、また(アメリカの)戦車が来かけて、まだその邦人ら逃げ遅れたん(者)がたくさんおって。
一番私ら、今も忘れられんのがね、私らの機関、軽機関銃手やったんやけども、それから5、6メートル後ろで、若い25、6(歳)、30(歳)ぐらいの女の夫人の人が倒れて、それ見たらね、(弾で)胸打ち抜かれとんじゃ。それで、2つか3つになる子と、4つぐらいの女の子2人が、「お母ちゃん、お母ちゃん」って言って、胸(を)叩きよんやね、泣きもって。もうあれ見たらまあ、ほんまに人間の悲劇ってこんなことかと思った、ほんまになぁ。本当にもう、戦争なんかしたらあかんと思たな、あれ見たらなぁ。わしが民間人やったら、あの二人の子ども抱えて逃げるんだけども、こっちは兵隊じゃ。向こうの戦車と戦争しよるんだから。そんなんかばってやるわけにいかんやろ。
あぁ本当にね、もう戦場というのは、民間と兵隊と・・。もうサイパンだけじゃない、沖縄戦もそうだったけども。もうごっちゃだからな。だけん、早う逃げ逃げ言うても、いや子どもが1人おらんとか、なんとか言うて、もう行ったり来たりなってしもうて、もうごった返しやな。その第一戦から後ろはね、サイパンのゲリラ戦っちゅうのはそんなんじゃったんじゃ。本当にね、生き地獄というかね、ほんまに人間としたら、ほんまにこれほどの悲しいことはないと思いましたよ。その女の子二人がどないなったかと思うと、今も思うよ。
「兵隊らの最期の言葉は、『水』か『お母さん』」
むろん兵隊もね、後から話ししても、今話ししてもいいけどね。やっぱ死んでいく兵隊は皆、最期に怒鳴ったのは、「お母さん」。うん、あの「天皇陛下万歳」なんて、そんな勇ましい兵隊おりゃせんわ。あれは、ほんまの軍事教育だけの話じゃ。まあ考えてみたらあんた、二十歳やそこらねぁ、まだほんまに大人になったばかりぐらいじゃわな。今の大学生見て、皆もう大学入学するのに母親がついてきとるやないか。私らの時代はそういうことはなかったよ。大学なって、母親がついてくるなんて、そんなバカな話あるかいな。小学校の1年生や保育園なら、お母さんついて行くけどな。
あれ今から考えるとやっぱり20歳らの子はね、それはもう最期に死んでいく時は、やっぱり、「お母さん」て、怒鳴ったわ。いやもうその声は、今もワシら忘れられん。もうサイパンで死んでいく時に、もう「水」言うか、「お母さん」言うかどっちかだ。
ほんまに水が無かった。もう仕舞いには、自分のションベンまで飲んだんじゃ。それぐらい水無かったんですよ。あんたも、その日本の真夏で、あんた3日ぐらい水飲まんと居(お)り、よう居らんだろ。●●てもようおらんで、水気無い言うたらな。まあ海出て、何回塩水飲んでみたけど、あらまた飲めん、辛くてな。だからそこらにね、乾パンがあろうとな、食料があってもな、人間ちゅうんは、水がなかったら絶対食べられんわ。もう食べられたのが、何とか食べられたのは、あのカニ缶の水だけ。あれはあんまり辛ないんでな。ほんの少々塩が入っとるぐらいでね。もうあれぐらいだな。後はサイパンでも、焼け野原のそこらに缶詰がゴロゴロしよるけど、誰も食べる人はない。なんでかいうたら、水がなかったから、食べられんですよ。まあそんなことでね、あの一番苦しい思いをしたっちゅうのが、やっぱり人間ちゅうんは、いよいよ死によんなったらやっぱり、「お母さん」言うわ。まあそれでちょっとおやすみ。
「慰霊碑が建つということは、遺族の望みがなくなるということ」
●●兵の奥さんとなられる人が、結婚はしてなかったんじゃ。もしやサイパンで、横井上等兵(横井庄一軍曹、グアム島残留日本兵)みたいに生きとる人がね、ね、ひょっと(したら)私らの主人も生きとらせんかと、そういう気持ちで、その婚約者は待っちょったわけやな。慰霊祭まで済んだいうたら、「サイパンには誰もおらんのかと、生き残りはおらんのじゃろか」言うて、その、私んとこへ電話がかかってきたんじゃ。そやけどその人はその、きっとどこかで生きとると思って、今日まで生きてきたけど、もう、慰霊碑も完成した今日になったらな、もうその・・なんか、待ちに待った、その・・夢ももう消えてとんでしもうたと。そやけに(そうだから)、皆さん、慰霊碑が建って、おめでとう言いよるけど、何も嬉しいことないと言うてな。「もう私の主人はもう帰ってこんのじゃ」言うてね、嘆きながら電話かかってきましたよ。
「戦前のサイパン島、兵隊と民間人(女性)との交流」
えっと、それでは、人間と戦争ということについてちょっとお話したいと思います。人間というても、兵士と異性という点でちょっと、戦場、サイパンにおける、いろんな兵隊と異性ということでお話ししたいと思います。これは、南方戦線やら、いろんなところでは、いろんなその国の異性との問題が色々あって、日本の兵隊の悪口とかいろんなんが、戦後になっていろんな問題を起こしてましたから。
サイパンでは、戦争とそういう民間人との、イザコザっちゅうのはほとんど無かったんです。そういうことで、今でも日本人はサイパンに観光に行ってもねぇ、サイパンの人が日本人の悪口とか兵隊の悪口とか、それは全然ないんです。いかに日本の兵隊が純情でまた規則正しかったかということがわかるんですね。これは、あそこ(サイパン)で邦人から略奪とかいろんなことをやっとったらね、今のサイパンは今みたいなええ(良い)観光地とか、日本人がボカボカ行けなくなっとるでしょうね。だけどサイパンではそういう、民間と異性とのそういう問題が全然なかったんです。
それでまあ今に日本人が何万人行ってもあそこは平和でね。まあ、天皇陛下も行くというのは、サイパンがいかに平和で美しい島で、人間的にもまだ日本に対しても友好的なんですよね。そやけん、天皇陛下も安心してサイパンは行けたんですよ(笑)。私たちもね、戦争で、ねぇまぁ行っとったけど。
今からちょっとお話ししますけどもね、私たちがその陣地について、観測所とその砲列との間へ通信線を6本も7本も引いとったんです。というのは、爆撃されて線が1本でも切れたら、通信ができないということになったらいかんからね。何本も線引いとるし、それから無線機も持っとるし、十五榴砲も持っとるし、それから照明による信号もあるし、手旗信号もあるし、5(いつ)通りぐらいの信号、技術を持っとんですよね。
そうやけど無線はもう、アメリカの電波でグチャグチャにさせられてるのでいかん(使えなくなっている)し、手旗信号とか、それから発光信号いうのは、向こうは煙で見えんからこれもダメなんです。そしたらもうあと残ったのは、線引いて電話連絡以外にね、その命令の(を)与えるもうそれ(手段)がなかったんです。そやからもう毎日、もうずっと、砲列と連隊本部、そういうとこの間を、ツルッパシで掘って線を埋めて、少々の爆撃かなんかで電話線が切れんようにね、そればっかり工事やりよったんですよ。それがまた、南方の暑いところでね、水はあんまり無いのに。
それで一所懸命にやりよったら、ちょうど観測所と私らの砲列の中間ぐらいのところに、小さな民家が2、3軒あったんですわ。その1軒へ、ワシの戦友のヤマグチ、「おい、あそこに行ったら少々水あるかもしれんからもらってくるわ」言うて飛んで行ったら、私も後からついて行ったら。え~なんぼ?40(歳)ぐらいな(の)綺麗な、田中絹代みたいな綺麗な奥さんがおってやね。17、18(歳)ぐらいの娘さんと2人で。主人は、あの南洋興発(株式会社)の製糖工場に勤めよんじゃということで。そこへ行ったらコーヒーを出してくれた。私らは戦場、満州の果てから急に来て、満州では外出なんかなかったし、コーヒーというものは2年ぐらい飲んでないでな。その時のコーヒーのうまかったことは、もう忘れられへんでね(笑)。はいそれぐらいね、まあその民間人と兵隊というのはもう、私ら満州から来た兵隊にとっては、もう全然ね、離れてしもとったから、その時のコーヒーのうまかったことは、今も忘れませんよ。
それと、その陣地を構えた、さっき話した、その南興神社の民家に中隊事務所を構えた時に、そこの家に、まだ女学校行きよったハチコ言う女の子がおったんや。その子が、南方での食べるもの、いろんなもの、ヤシの実をこうやって食べるんだとか、こんなものはこうやって食べるんだとか、色々教えてくれたりね。ほんでまぁそこらじゅうに、兵隊は男ばっかりで、女の子はその人ぐらいだから、それこそ人気者でね。うちの中隊のもうお嬢さんでね。「はっちゃん、はっちゃん」、言うてね。それこそもてはやされよったんやけどね。
満州ではね、演習に行ったら1ケ月も1ヶ月半も演習に行ったら、満州のあの山ん中に行ったら、満人もおらなきゃ兵隊だけで。男っちゃ、まぁ、二(ふた)月ぐらい、女の顔見らなんだら(見なかったら)、「おい、頭変ならへんか」って(笑)。そういうところにおった兵隊がね、そういうところに来たら、まあ女の顔見ただけで、もうなんか嬉しくなっちゃって。そのぐらいね、満州でおったら本当に女の人、見ることなかったですよ。だから、女の人見たら、「みんな美人だ」と言いよったんです(笑)。それがあのずっと裏の方に、島民の家が5、6軒あって、そこら行ったら、でっかいヤシの木がたくさんあってね。そのヤシの実を買いに、昼の休憩時間なんかに、大急ぎで、ヤシの実珍しいから買いに行くんですよ。それで塹壕を掘って、いろんなやりよったら、暑いもんじゃから、間(あいだ)で買いに行くんだけども。
若い兵隊が1つ面白いのは、ヤシの実買いに行ったらね、そこの女の人、嫁さんでも誰でも、あの1つの、枝がないヤシの木、あれスルスルスルスルと、お腹付けずに足と手だけで上がって行くんよ。お猿が上がるみたい。日本人にはちょっと真似できんやろ。お腹付けなんだら、日本人なんか絶対にあんな木に登れんわ。それがお腹付けずに手と足だけで上がっていくよ。
聞き手:女性もですか?
はい、女の人みんな。だからパンツのお尻が、お尻が見えるから。それを見たさに皆ヤシの実買いに行くんだって、こう言うんだ、ワハハハ(笑)。まあ、戦場で、戦争始まるまでは、そんなエピソードというかね、まあ一つの兵隊の、まぁなんちゅうかね、日本離れた戦場近く行って、そんなことぐらいが楽しみの一つだったんですね。はい。
「ゲリラ戦で仲間は半分に。負傷し意識朦朧のなか、捕虜になった」
まあ、そのぐらいにして。まあそれは、戦争が始まる前の話であってね。あの戦争が始まって、もうゲリラ戦になって、タッポーチョ(タポチョの表記もある。)の東あたりで、戦争やりよったことから話しますとね。もうその時には、弾も少なくなってきたし、それと私らの山砲の前に、名古屋(豊橋)の兵、百十八連隊か、その歩兵の第一線があったんですわ。それで、ワシらその後方で、戦車攻撃やりよったんやけど。アメリカの兵隊のその進撃がバタバタせんから、のんびりした戦争みたいではあったんだけども。やっぱり爆撃やら戦車砲で、1日にやっぱりなんぼ上手にやりよっても、2人、3人、殺られていくからね。1週間経ったらもう、うちの、その砲持っとる15、6人おったんが、7、8人までね、減ってしもうてね。タッポーチョからもうちょっと下がった電信山、そこから下がった順々北に下がっていく。電信山近くになったら、6、7人になってしもうて。
それで最後の戦いやった時に、私のすぐ横で、九州のフカボリいう戦友がおったんが、ちょうど私が双眼鏡でその前を見よったわ。4メートルぐらい後ろへ、東の海岸におった巡洋艦が、4、5発、10センチぐらいの砲弾、大きな砲弾じゃないんだけどね。10センチ砲弾を4、5発、私らの陣地(を)見つけたんやろな、撃たれたんじゃ。それで4メートルぐらい後ろに一発落ちて、その一発がバーンと跳ねたら、私らもベンとひっくり返ったんやけどね(笑)。
そしたら私らこう見たら、煙かぶって砂かぶったけど、痛いとこはないなと思って。そしたら横から、ワシのえ(とこへ)フカボリいう奴が持たれてきたんやな。で、「オイオイ押すなよ」言うたら、見たらお前、首が吹っ飛んでないんじゃ。それでやっぱり砲弾のその欠片らの大きなやつがきたんやろうな。一緒に並んで、すぐ横の胸から下は壕の中やけどもね。首がすっ飛んで、首からダクダクダクと、ワシの肩の上、血がダダダダーとなって、わし(の)パンツの中まで濡れてしもうたけどね。まあそんなこともあって、順々に兵隊が減ってしもうてね。
その明くる日になって、大砲も壊れたし、それでもうあとその頃には機関銃もなくなって、もう手榴弾と自分の持っとる歩兵銃、騎兵銃、小さい歩兵銃よりちょっと小さいんですけどね、騎兵銃だけでね。まぁ、これで戦争せぇ言うてね(笑)、全然ね(戦えるわけがない)。で、6、7人でね、やってた時に、もう夕方になって、敵もいい加減弾ぶち込んで、わしらもその時に、迫撃砲でその腰をやられてしもうて、もう動けんようになったんじゃ。他の兵隊もそこらで散らばっとったんが、戦死したのか、もうちょっと後ろへ下がったか、もう自分らも動けんしね。
朝になって、敵の歩兵部隊とトラック2、3台連なったジープやらがやってきよんやな。音がしよるんでわかるけど、わしらももう半分血が引いとるけに、眠っとんやら、生きとんやら、もうなんかウッツラウッツラ(意識が朦朧)としよるんやね。「敵が近づきよるなぁ」いうのは分かりよったけど、もう自分は負傷しとるし、「もういつ殺されてもええや、もうしょうがないわ」しょったら(そしたら)、近くまで来て、ジープやトラックが停まったわけ。
そしたら、アメリカの兵隊がトラックからバタバタと5、6人飛び降りて、アチコチきよるでな。なんか大きな声で、ヤイヤイ言いもってきよるけど、まあ来たら自動小銃で撃たれるじゃろうと。まあこっちはもう動けもせんし、しょうがないわと思ったら、私んとこへも、アメリカの兵隊が2人ぐらい来たわ。で、来ると同時に、「ヘイボーイ」言うたわ。それでワシら倒れてるとこ銃持っとる。(ワシの)銃をバンと足で踏んだんやな。結局なんぼ眠った格好しとっても、撃たれたらいかんから、向こうもな用心しとるでな。もし生きとったらやられるけに、途端に足踏みつけて、片足でボーンと銃を蹴っ飛ばしてな。ハハハ(笑)。銃をね、私の持っとる銃をボーンと蹴っ飛ばしてやな。で、私がウンウン言いよったら、なんかヤイヤイ言うて、生きとるらしいぞいうこと言いよったんじゃろう。そしたら胸に、その耳当ててみて、心臓の音聞いてやなあ、あぁこれ生きとると。(アメリカ兵は)それが分かったら、後ろに手をあげて、「ヘイボーイナントカ」言いよるわ。担架持ったヤツ来い、言いよんやな。
そしたらトラックから担架持った兵隊が2人飛んできて、それでワシら担架に乗せて、サッサッとトラック持って行ったわな。そんなんして、そのトラックに、そこらへ倒れておった4、5人を乗せて、それでもうすぐに一目散に(移動)。
「日本人捕虜専用の病院船へ運ばれる」
サイパンは真ん中に山脈があるから、私らは、その東側におるから、南もうで(回って)、なかったら(そうでなければ)西側のガラパンの港へ(行く)。それで輸送船の病院船はその西側の海岸におるからね。私ら乗せて30分ぐらいかかって、もうずっと南側の飛行場の方もうって(回って)ね、それでアスリートの飛行場の横を通って、ガラパンの港近くに来たら、こっちはうつむきに寝とるけども、やっぱりちょっと潮の匂いがするし、それで順々、「これ海へ来たな」と思ったら、港に他の船がたくさんおるから、マストが見えるな。「ああ、これは港に来たわい」思ったら、そしたら担架から下ろして、上陸(用)舟艇に乗せて、上陸(用)舟艇に、その時ね、5人か6人乗せたわ。 乗せると輸送船までもう5、6分じゃわな。バーッと、上陸(用)舟艇が走って、本船に横付けになったら、上からクレーンがバーッと下りてきてね、それで、上陸用舟艇ごとワーッと甲板に吊り上げてしまう。
ほいだら、担架をすぐに、看護婦がようけ出てきて、病院船でもみんなエレベーターがついとってな。それで、エレベーターにみんな乗せたら、サァと下がって。で、下行ったら、あの日本の兵隊はその船に早いもん(者)100人ぐらい乗せとった。
「負傷兵は病院船で手術と手当をしてもらった」
で、ワシらその横の手術台のとこへ連れて行って、手術台ってそんな診察するところ、なんぼ10人ぐらいがいっぺんに治療するところができとってね。そこで看護婦が3、4人かかって、それで私らの服をみんなハサミでジャジャジャジャと切ってしもて(笑)、脱がすいうたって、もう負傷しとるし、もうどうせ泥だけでしょ。だからハサミでみんなザザザと全部切ってしもうて、裸にしてしもての。
それであの、今度は脱脂綿で綺麗に拭いて拭いて、ほいでそんなんしながらも、はや(早)従医が傷の手当をね、して。それで1時間ぐらいそれかかって手術したら、そしたらもう下の寝台へ放り込まれたら、そしたら通訳(が来た)、あれ朝鮮人じゃわな。ものの言い方がな、朝鮮人の通訳が日本語のできる通訳が来て、「あんたがたは、いまから、ハワイへゆきます」そういう物言いするから、これは朝鮮人やな(笑)。「なにもシンパイせんでよろしい。ハワイのリクグンビョウインへはいります」言うて、そない言いよるんでな。それでサイパンから、なんぼ・・4日か5日ぐらいかかったかな。ハワイの陸軍病院へ行ったです。
はい それで まあちょっとおやすみ
「話をゲリラ戦の半ばの頃に戻す」
それでは今からね、サイパンのゲリラ戦ちゅうんか、戦い半ばの頃の、いろんなお話をちょっとしてみたいと思います。
戦いの真っ最中のことでした。私たちは、銃砲が無くなって、小さな山砲1台を持って、敵前戦車の出てくるのを攻撃しとったわけです。何日目かのことだったんですが、前の歩兵第一線の横に、戦闘司令部があって、私らは指揮しとった小隊長が、「戦闘司令部へ連絡に行って来い」こういう命令を、私の一番、あの四中隊のあれは小隊長やったわ。私の名前をよく知っとったんで、他の兵隊の名前をよく知らなかったのか、私に、「岡崎、お前行って来い。もう一人誰か連れて行け」とこういう命令だって。
そっから飛び出して、陣地、戦闘司令部までは、4、500メートルぐらいあったでしょうか。その間はもうサトウキビ畑が焼けてしまって、何もないんですわ。それで、ヤシの木が2、3本、そこらに行く途中にあっただけで、ちょっとした壕みたいなものがそこそこにあって、それをつたって、その時に行ったのは確か、マゴ上等兵だったと思いますが。それと2人で、すっ飛んで行って、4、500メートルぐらい行った時に、もうここらでボチボチ戦闘司令部があるんじゃないかぁ。それから100メートルぐらい向こうにジャングルがあって、それの右の方ではないかという憶測で、そこまで行ったら、なんかその前のジャングルの中で、なんかがチラチラと動いたから、「あ、友軍がおるな」と思った途端に、そのジャングルの中から機関銃でババババッと撃たれたんです。ありゃりゃ、これは敵がおるわっちゅうんで、ペタッと伏せたんです。そしたら、まぁ機関銃の音が止んで、
しばらくしたら、あの邦人の女のお母さんと子どもが、てくてくと下りてきたんです。その敵陣の方から、それでその人が言うには、「こっから前は敵がたくさんおるに、あんたらどこ行きよん」と言うから、「どこ行きよんって、戦闘司令部やって」(と答えたら)、「戦闘司令部みたいなもんないよ」って(言うん)。そうこうしてるうちに、その女の人は後ろにずっと下がって行って。
それからしばらくしたら、今度は友軍の兵隊の包帯したやつが、松葉杖ついて、てくてくとまた下ってきたんです。それで、「あんたたちどこ行きよんだ?」って聞いた(聞いてきたか)ら、「戦闘司令部やって」(と答えたら)、「戦闘司令部らもうとうに後ろに下がったよって。前は敵ばっかりやないか」と(言われたので)、「お前撃たれんじゃないか」と言うたら、「わしは負傷しとるし松葉杖ついとるから敵も撃たんのじゃろうと。あんたら行きよったら殺やられちまうよ」と。「そんなことないだろう」と(答えた)。
まあそうこうしてるうちに、私らは任務やからしょうがないから。立ち上がったら、途端に機関銃でバババッと撃たれたんですわ。あぁやっぱりこれは敵や、これはあかんわ(ということ)で。それでサトウキビ畑は焼けてしまうて、もう何もないんやけども。こんな石がね、ヤカンぐらいの石が1つあって、それを頭の前に置いて、ペタッと寝て。それでしばらくたったら機関銃の音が止んだから、後ろにおったマゴが、ワシが前で、後ろにおったマゴが、ちょっと頭上げたら、敵の方は双眼鏡で見よったんでしょうね。動いたからまたバババッと機関銃で撃たれたんです。
それで、「これはもう動くな」と言うて。それでペタッと寝たきり、しばらくしよったら、向こうもこら機関銃ではどうしようもないと思ったんか、今度は迫撃砲弾を4、5発撃ってきたんですわ。あれはこう高く上がって上から落ちてくるからね。それがまた3、4メートルマゴ上等兵の3、4メートル後ろへババンと落ちたんじゃ。そしたらマゴが、「おい、やられた」言うけん、「何だ?やられたか」言うて、「動くなよ」言うても、「なんかお尻を少し擦(かす)られたらしい」って、こう言うから、「まあそれぐらいなら大丈夫じゃわ」言うて、そこでペタッとへばりついたまま、夕方の6時近くやったから。とにかく暗うなるまで動くなということで。「動いたらやられるぞ」と言うて、暗くなるまでの1時間ぐらいはね、ほんまに3年(と感じる)ぐらい長い。向こうは眼鏡(がんきょう)で見よるから。あいつまだ戦死しとらんから、生きとるとぞ言うてね、まあそんな伝令に走ったこともあったですよ。
それとまあ、あの食料がないから、それの明くる日ぐらいだったか、もう何にも食べるものがないし、どうしようもないから、そこら探しにジャングルの中をゴソゴソ行ったら50メートル と離れてない、30メートルぐらいのとこで、敵の歩兵と視線が合(お)うたんですな。向こうも恐る恐るやってきよる。こっちも恐る恐るジャングルを行きよっとるからね。
向こうはペタッと寝た途端に、自動小銃でババババッと撃つからねぇ、こっちは歩兵銃だけでしょう。だからもう、アメリカの兵隊ともう見えた途端に、こっちはもうペタッともう寝るしか、他はないんでな。向こうはね、こっちは寝てしもたら、もう撃ってもあかんきに、向こうは逃げちゃうから。必ずね、まず前進しないから。その間にワシらもサァッと後退するんですけどね。
「ハワイ陸軍病院での治療や手当は敵ながら天晴れ」
それではあの、サイパンからハワイの陸軍病院へ送られてからのお話をちょっといたします。アメリカのね、病院船ちゅうのはね、サイパンへ6隻持ってきました。6隻のうちの3隻は日本の兵隊用、3隻はアメリカの兵隊用、まあ半分半分、初めから作戦計画がアメリカはそんならしかったんです。
だから、日本の兵隊(を)載せる病院船3隻持ってきとったんです。その中の一隻で、私らはハワイの陸軍病院に送られて、それでハワイの陸軍病院の1病棟に50人入れる病棟だったです。その1病棟に、軍医が2人ぐらいと、それから看護婦が6、7人、それから通訳が一人。そのぐらいな(の)編成で、至れり尽くせりでね。もう手術から始まって、あらゆる手当をしていただいたんです。だいたい皆、重症患者ばかりだったから、早い人で2ヶ月ぐらい、私ら半年かかりましたけどね。あの敵国ながら天晴れだったと思いますね。
看護婦さんも夜中の12時、3時、3時間ごとに注射を打たないかん。なんか夜中の12時、午前3時、朝の6時と、「ヘイ、ボーイ」と言って、ちゃんと起こしに来て、注射しよったですよね。なかなか日本の病院でも、お金もらっとる看護婦さんでもなかなか眠たいやろね。そういう点はね、むろん私ら一人で動くこともでけんから、1週間に2回、パンツ、ランニング、敷布、全部看護婦さんが来て、取り替えてくれよったですよ。それで食事も三度三度、ちゃんと運んできて、また食べ終わったら膳は全部引いてしまうし。
もう本当にね、無料で敵国でこんな扱いされたら、なんか初めはね、まだ戦争中だから、せっかく生きとったんだから、まぁ治して、ちょっと太らせて、どっかフィリピンかどっか持って行って(捕虜を運んで)、全部銃殺でもしてしまうんじゃないかというような、私らもなんか最初は不信感持っとったんですけどもね。半分怖いいうか、あんまり親切にされるからね、怖いという感じもしよったんですけども。
後から考えたら、アメリカは、デネバ(ジュネーブ)条約、これは昭和の始め頃に、日本からは松岡全権大使が行って、この会に参加して、日本は拒否をして帰って(注:ジュネーブ条約のうち1929年の捕虜条約を批准しなかったことと、1933年ジュネーブでの国連脱退とが混じって話されている)。日本には捕虜はないと、そういうことで帰ったんですが、アメリカは私らの収容所病院にちゃんとでっかい紙に、日本語で、「アメリカ合衆国は皆さんをジェネバ(ジュネーブ)条約の規定によって、全てのサービスを行います」ということをちゃんと書いてあったですね。これに違反しとる場合は、スイスあたりの中立の会が1ヶ月に1回訪れるから、そういう人に申し出てくれと、不服がある場合は申し出てくれと、そういうことをちゃんと書いてありました。
あれがあの、普通のジャングル戦とちょっと違うとこで、相手もやっぱり怖いもんだからね、絶対に前進してこないですよ、はい。まあそんなことで、しまったぁということが、もう1日のうちに何回も、ジャングルでやりよったらね、ありましたよ。
「アメリカ人の日常から『平等』を学んだ捕虜生活」
半年かかってハワイの陸軍病院を出たんですが。日本と違うところは、アメリカは着る物、食べる物、兵隊も大統領も同じ。今の日本はまあそれに近い。今は田舎に住んどっても東京に住んどっても食べるのは同じになったですけど。昭和の初め頃の日本ではとても考えられなかったことですよね。お金持ちと貧乏人との食べ物が違う。これは当たり前だったです。着るものも違うしね。アメリカではそこら辺が平等だから、私ら最初行った時はちょっと戸惑いましたね。
将校も、それから夫人も女の人も、みなそりゃ、どっちかいうたら平等で、病院なんかでは兵隊よりも看護師さんの方が、一節(ひとふし)上、そんな感じが常にしておりました。なんでかいうたら、入り口でも女の人が入ってきよったら、男の人が待っちょると。そういうことで。エレベーター1つでも、女が乗りに来よったら、男はたとえそれが看護婦であっても、片っぽ男が将校であってもやね、女の人が乗るのを待っちょる。絶対先に乗らんですわ。ハァハハハ(笑)、レディーファーストいうけど、私らアメリカ行って初めてねぇ、こういう場面を見て、日本人ももうちょっと勉強せないかんな(と)思いましたよ。もう何もかも食べる物も違うしね。そういうね、平等とかね、男女差の平等とか、そういうものはもう徹底的に病院で教えられました。
それからアメリカ本国へ渡らされたいうのは、アメリカの戦場の戦争規定によって、敵国人は、太平洋側においてはいかんという法律ができて、ハワイにおった邦人も、それから私ら戦場で傷ついた兵隊も全部、大西洋側へ持って行かれたわけです。太平洋側おったらいかん言うんでね。
「アメリカ戦争規定によって捕虜は太平洋側から大西洋側(アイオワ州)へ移送」
私たちは、列車に乗せられて、ロッキード(ロッキー)山脈を越えて、ミシシッピ川をずっと遡ってカナダの国境近くのアイオワ州、そういうところへ連れて行かれて、そこらは12月だったら雪がたくさん降りよりました。
そういうところの収容所で3、4ヶ月おりました。そういうところでも、ちゃんと暖房はしていただいて、食べ物はアメリカの兵隊と同じ、それから服も同じ、ただ私らは背中にPW(Prisoner-of-War=捕虜)の文字が入っとるだけでね。服装もアメリカの兵隊と同じ。それで1日8時間労働で、作業のできる人はすると。それから病気の人はちゃんと入院もするし手当もしてくれるし。途中で私たちも急性盲腸炎をやりまして、それで盲腸の手術もしましたけれども、日本で手術するよりもまだまだ、あの、なんちゅうんか、丁寧に取り扱っていただいて、まぁよかったですけど。
収容所でも、8時間労働やったけれど、午後の3時が来たら、もう全部終了で。私らに5人に1人の、まあ銃を持ったアメリカの兵隊がくっついて、まぁ監視しとるわけですけども。日本人は絶対に逃げたりなんかはしないというのをわかっとって、あいつら(アメリカの兵隊)ももう安心して、今日はここでこういう作業すると、「わしらちょっと用があるからいなくなるけど、お前らちゃんとここで作業しよらないかんぞ」言うて、(アメリカの)兵隊どっか行っちゃって。ハハハハ。監視をせないかん兵隊がどっか行っちゃっていなくなるんですよね。
それで午後の3時がきたらちゃんと帰ってきて。「おう帰ろう」言うて、またトラック乗せて帰るわけですけども。まぁ日本人っちゅうのは大人しいと思いよったんか、ね、信用してくれとったんかね、アイオワ州でもそんなんで。「あんた方はだけどもう少し紳士にならな、ちょっと野蛮なとこがあるぞ」と、いうようなことは(アメリカ兵から)時々言われよりました。
アメリカでもアイオワ州行った時に、日本で言うたら、タキイとかヤマト農園とかいう、ああいう種苗会社のでっかいのあるんですよね。ああいうところの作業所行って、それで色々作業しよったわけですけどね。そしたら農園でうさぎを見つけて追っかけよったら、そこの農園の主任さんがどういうたから言うたら、「あのうさぎもね、あの山へ帰ったら、子どもたちやお父さんお母さんもおるかもしれんと、あれ(うさぎ)が帰らなかったら心配するよと、な。だからあんたらそんなん捕まえたらいかん」っちゅうてな。そういうこと言われたですわな。
日本人はその点、うさぎなんか見つけたらすぐ追っかけまくって捕まえるでね。で、ハワイの陸軍病院おった時も驚いたんですけどね。少し元気になってその病棟と病棟の間へハンモック出して寝よったらね、足をなんか知らんつつくから見たら、小鳥が来てね、なんかくれいうて、靴つつくんやね。そこらに鳥おっても絶対逃げんですよ。あらまぁ、日本とえらい違うな(と)思いましたよ。なかなかね日本じゃそんなことあらせん。そういう点がやっぱりあの時代でも、まあ(アメリカの方が)役者が一枚上手やな思いましたね。
「1日80セントの賃金支給。お菓子、タバコ、ビール以外は無料の収容所生活」
それでまあ、収容所の中は、働いたら1日がね、お金、アメリカのお金で80セント頂くんですわ。それはむろん軍票で。それで四方には、売店があって、その売店の中にビールからお菓子からタバコから、そこらのローソンみたいなんですね。何でもあるんですわ。で、80セントあったら、自分らはその食堂があって、食堂、アメリカの兵隊並みの食事だからね。もう食堂やからビールやらない代わりに、もう飲み物やったら、ミルクからね、パインジュースからオレンジジュースからコーヒーから何でも好きなだけあるし、食べる物も、何でも好きなだけあるから。食べるものに一銭もいらんでしょ。もうパンツまで支給されて。下からいくと、靴から靴下からパンツ、全て支給。上の方は日本の軍隊と違うて、髪につける油から櫛からね、歯ブラシまで全部が支給されるわけで。そしたら買うものいうたら、もうお菓子かタバコ買うか、ビール飲むヤツはビールぐらい。
「対ソ連戦を見越していたアメリカ」
そうするとね、あの収容所ではそのようなことで、一つなんか気がかりだったのは、戦争中だから、アメリカの情報部いうのがあって、これは何を聞き出すか言うたら、もう日本のその1個連隊に何人おって、わしら大砲やったら、一個連隊になんぼ大砲あって、なんやそんなん分かりきっとるわけね。
何を聞くか言うたら、みなその、きたとこの、自分の兵隊、アメリカの兵隊でも情報部でも、我々の方が知っとること言うたら、何を知っとるか言うたら、満州におってやね、「何月の何日頃には雪がくる(降る)かとか、何度ぐらい温度があそこらでは下がるかとか。あんたがおった横の綏芬河(スイフン)河という河はね、幅がどれぐらいあるのかとか。いつ頃、どれぐらいの水が流れよんかとか。冬が来たら何センチぐらいの氷が張るんかと。それであんたら、野戦重砲で大砲引っ張って演習に行くの、何日頃からその河を大砲やら戦車が通りよったんか」と。そういう話ばっかり。それで、「こっから見たら、ソ連のどこがどの程度見えるかと。この一貫山(イッカンザン)いうこの山の上から見たら、ソ連のどこら辺まで見えるか」そういう話ばっかり。日本の陸軍や海軍の話ちょっともないんわな。
聞き手:関心が移ってるんですね?アメリカの方からしてみれば関心が
結局もう、ソ連と。日本やっつけたら、次はソ連と戦争せないかんと。これはもう早、その大東亜戦のときに、アメリカは探知しとったんやね。ソ連と戦争せないかんのやいうことをな。だからあれ、朝鮮戦争すぐ始まったでしょ。そやから、わたしら満州から来た兵隊じゃいうのを関知しとったからね。情報部からしたら、今日はね、あんたと話ししたいんだけどもいいですか。ほんならまあ映画でも行きましょう。収容所から自分の車に、私乗せてやな、明日はまた他の人乗せて、今日はあんただけ行きましょう言うてな。2人で行ってな。
それで、町のレストランで、ご飯食べてそれから映画見てね、それで帰ってきて1時間ぐらいそういう話をするわけじゃ。うん、それが情報部。だけん、日本の情報部やったら、この野郎いうて、どつかれたり、叩かれたりするけど。向こうはそうじゃないんじゃ。ちゃんと映画見て、それでご飯食べて、それからそういうね、満州国境の話。あんたがたらおったとこはこうだったでしょ。ここらの山はどのぐらいの木が生えて、林がどうだとかね。で、こっから見たら、ソ連のどこらへんがどのぐらい見えるんかという、そんな話ばっかりやったよ、うん。で、水は綺麗なとか、この河川敷ではトラックなんかが入ったらどのぐらい跡形がついて積もるのかね。
そういうもう細かいとこまで話した。それでバラス(砕石)がどれぐらいあるとか、砂かね。小石の大きさはどのくらいな、この綏芬(スイフン)河の東寧(トウネイ)の町のこれぐらいの河やったら、 河の砂の大きさは、バラスどれぐらいの大きさなんか。戦車が入ったらどれぐらい積もるかとかな、そんな話ばっかりだ。
あんたら野戦重砲やから分かるやろ、そらうちら、牽引車や戦車やら、トラックやらみな持っとるからね、そういう話ばっかり。そんで、東寧(トウネイ)では零下、12月、2月、そのへんで温度はどのぐらい下がってどうだとかね。そんな話ばっかりしよったよ。うん、それが情報部。
「戦後はハワイに戻り、病院建設や飛行場のサービスの仕事をした」
聞き手:特に満州にいらっしゃったし、野戦重砲だったということ(所属部隊と経験)が良かったんでしょうね)
うんそやね。収容所ではそういうことやらね。あちこちに邦人がおってね。ハワイでは1年近く、また向こうの本州でおって、最後にまたハワイに後戻りしたんですわ。それでハワイでまた半年ぐらいおったけども、その時にはハワイのホノルルの町の北キング街いうたら、一番北の端でね。そっからその山の方へ100メートルぐらい上がったところ、その戦争中に、アメリカの陸軍や海軍が駐屯して、そこから輸送船や何かに乗るために、1週間とか10日とか滞在するところ。そういう兵舎がたくさんあるんやね。私らはそういうとこ入れられて、そっから各作業所へ向いよったんですけど。
その頃はもう戦争終わっとったからね。ホノルルの街を、わしらのトラック通ったらね、2階の窓のあちこちから日の丸を振るんじゃな。あれあんまりようけぇ日の丸出して振りよったら、なんぼなんでも敵国やな。あれ、日本人もおるわけや。だからなんか気の毒みたいなんやったんやけどね。向こうではね、捕虜というのは、日本と全く反対の金鵄勲章(きんしくんしょう)、えらいもんじゃ向こうはな。敵国の捕虜なるんは、第一線いなきゃ捕虜ならんわ、戦争せな、 敵国そういうものにならせんのやからな。向こうでは勲章ものの、将校でも何でも偉い人になれるんだわ。そんなわしらはその、お前らというような見方はせんわけじゃ。
向こうの監督さんや皆もね、作業一生懸命やりよったら、あんたがた無理して働かんでもよろしいって。なんで?言うたら、戦争で傷ついてやな、異国の空まで来て、そうバタバタ仕事せんでもええって、こう言うの。あんたは立派な人じゃと、そう言うんじゃな。向こうのアメリカの仕事しよった監督やら皆がな、アメリカでは、戦場で敵国の捕虜なったら、もうこれは凱旋したらな、もう大威張りだ。
やけん、あんたらも無理して働かんでよろしいと、こう言うんじゃ。ハハハ。そういうことで、もうちょっとでも病気とかそんなんやったら、ちゃんと医務室があって、今の日本と次いでね、怪我人とか腹(ハラ)痛とか、みんな救急車でホノルルの陸軍病院なり、そこらの病院に大急ぎで運んでくれて手当てするしね。もう人権尊重いうのは徹底しとったな。だからこういう話したら、ソ連に行っとた人、ワシら寒い目して、食うものも食わずに、寒さで死んでいったやつもようけおるのにまぁ。お前らええ目したの言うても、そらもうしょうがないわ。ハハハ。そういう運命だったんじゃわってね。
アメリカではまあそういう生活で。食べ物も別に欲しいもんもないし、仕事に行ってもそんなんでね。ハワイにおる時は、だいたい10人ぐらいのグループで、みんな作業番号が付いて、ダイヤモンド岬の方の何かの作業とか、陸軍病院の建設現場とか飛行場のサービス業とかね。1ヶ月ぐらいでみんな順々交代するからね。私も陸軍病院も建設現場も行ったり、飛行場も2ヶ月ぐらい行ったけど。飛行場やなんかいうたら、ジープで、その食品を降りてくる飛行機にみんな、今からフィリピン出る飛行機の何百何号に、コーヒーパックを4つと、それから食事を何百何十人前積み込め言うて、伝票もろたら、その通りに食堂から受領して、ジープに乗せて、えーと?何百何号、どの飛行機や言うて、探した飛行機、あっと思って積む。ほいで、着いた飛行機から残飯出して、そういうね、飛行場行ったらそういうサービスをね、わしらやりよったんやけどね。
まあそういうところでもね、やっぱりこのアメリカいう国は、女の人が威張っとん、ハハハハ(笑)。あれには参ったな。そやけんまぁ、女はアメリカにおったら、もう女王様じゃのう。あれだけは日本とちょっと違うね、ハハハハ(笑)。ほらもう、レディーファースト、こら徹底しとるわ。私らでもミシシッピの上流におった時に、一遍、営倉(えいそう)に放り込まれた。なんでか言うたら、夏の暑い時にね、裸でその夕飯前だった。暑いきに、兵舎の中でおらないかんきに、まぁ布団も干したりしとったから。あれ、組み立て式のベットやから、ベッドを庭へ出して、
あれ3人ほどでぐちゃぐちゃと話よったら、バリケード線があって、その外側に通路があって、もう一つ向こう側にバリケード線あって、それから向こう(は)ドイツの収容所なんねん。ドイツの収容所と並んどったんやけどね。その間の通路を看護婦が通りよってやな、それでナントカ言うて、文句言うたげな感じで、通ったんじゃな。
それで30分くらいしたら、MP(military police)がやってきて、お前らちょっと来いっちゅう、それで連れて行かれたら、それで通訳の話聞いたら、あんた方はその、女の通るところで裸で寝よったやろって。これはアメリカの軍隊では刑法第何条か知らんけども、ハハハ(笑)、お前ら罰金取るわけにいかんから、1日営倉行きじゃと、ワハハハ(笑)。女が裸になるのは、これは構わん。変わっとるよ。男はね、女の前で裸になったら、軽犯罪法、ハハハ(笑)。それで1日、営倉に放り込まれた。おいおい、変わった国やのぉ言うて。
サンフランシスコで出発、自動車あの、汽車の予定がつかんで、サンフランシスコの収容所でね、1週間ぐらいおったんやな。そこで運動場で皆野球したり、いろいろ遊びよったら、毎朝、その30(歳)ぐらいの女の人がね、日本人じゃないアメリカ人じゃ。それがいつでも冷やかしに来るんやな。ほいで、こうやって胸出して見てる(胸元をはだける仕草)。ほいで、また行ってしまうんやな。まぁ、変わった女の人もおるなと思った。女はね、男の前で乳出しても、これは軽犯罪法でないんじゃ。変わった国じゃ、そんなんよ。
「捕虜生活で、アメリカという国への見方が変わっていった」
聞き手:入院してる間に、アメリカへのイメージも随分変わりましたか?
うん、まぁまぁ、順々に変わったね。あまりにも違うからね。結局、敵国とか敵兵とか、そういう感情は、看護婦さんも軍医も誰も持ってないんじゃな。同じ人間じゃと、こういう感じだったですね。だけん、病院でも別に1つも虐げられたとか、捕虜だからどうしたとか、日本人だからどうしたいう、そういう辛い感じとかイメージはなかったですよ。さすがアメリカ文明国じゃな(と)思たですよね。あれがソ連あたりじゃったら、ほんまにね、コテンコテンに、ハハハハ(笑)。アメリカいう国は、敵とか味方とかあんまりそういう意識はないんかな思てな。私らもうつくづくそれは思いました。
収容所に対しても、何にもイザコザは全然なかった。それで、アメリカにおる邦人からね、あんたがた困っとるでしょう、言うてな。アメリカのキリスト教連盟から、オルガンやらピアノやら、それから吹奏楽器やら、ラッパやら全部貸してくれて。それで日本のナントカ邦人会いうところから、100冊も日本の文学を、本を持ってきて。あんたがた退屈だろう言うて。あんたらまぁ、あの昔の、谷崎潤一郎やな、菊池寛や、いろんなもの、小説も何百冊いうて貸してくれるし、ハハハ(笑)。野球もしたいでしょ言うて、野球道具もくれるし、もういよいよホンマに何不自由なく、不自由なのは女だけや、アッハハハ(笑)。後はもう別に、だってお金が欲しいと思うんでなし、
寒いとか暑いとかもないし、お腹が空いたいうのもないしな。本当にまぁ、捕虜という身分にしては、あまりも今から考えたら良すぎたような感じでね、病気すらちゃんと病院で手当してくれてやな。ほんまにこのやろうって言うようなことは何もなかったですわ。
聞き手:もともとアメリカに対してのイメージは、戦闘していた頃は、そういう国だというイメージはありませんでしたか?
あーないない。今でこそ、こういう話(ができる)。その時代に日本や、もう、なんちゅうか、ヤンキーのそのね、鬼みたいな国じゃぐらいにしか思とらんから。何をされるかわからんいう、ね、敵国扱いで。アメリカの褒めたり、そんなことしよったら、ほんまに憲兵に引っ張って行かれるな、うん。
「日本は焼け野原、ここで1円でも貯めたほうがよいと言われた」
80セント頂いた中で、残ったらね、軍票だからアメリカのドルではないから。みんな余ったら捨ててしまうんでな。次に、次の月が来たら、また先月の働いたん全部くれるわけじゃ。どないなりよんかと思ったらな、東京の上条(カミジョウ)さん、上条鉛筆の、昔、上条鉛筆いうんがあった。そこの社長の息子やったんやな、上条さんがな。あれ(上条さん)が、うちの収容所の衛生係じゃった。
その人がもう、病院行ったり来たり、私らのサービス部隊いう、部隊本部があって、そこへ居たら、上条さんが言いよったのに、あんたら一人一人の毎月働いたん全部、うちのこのサービス部隊だけに、女の事務員が20人もおるでいうて、その頃タイプライターもないからな。何しよん言うたら、皆の働いた給料やらその部隊で使いよるね、そのいろんな経費やら、そんなんの事務と両方。お前らの軍票も放ったらいかんぞ、あれ戻したら、全部貯金になりよるよ言いよるん。そんなバカな話あるか言うて。いや本当じゃ、明日お前の見てきてやる言うて。お前は三十何ドル何セントちゃんと残っとるでって、そない言うんじゃ。
それである日、(上条さんが)あれ(軍票)どないすんか聞いて来てやる言うて、それで連隊区の司令官に、上条さんが聞いたんやな。あれはあんたらが日本へ帰る時にアメリカの為替であんたらにあげます。アメリカ政府は、嘘は言いませんとこう言うたよ言うて。なんとか、言うて。一人一人の兵隊にそんな残高や、そんなんくれるかや言うて、それくらいに思っとった。
案の定、帰国するようになったら、全部にあんた、アメリカ国家のマークの入(い)った。コレ日本に着いたらな、ちゃんと銀行なりで、日本紙幣に変えてくれますよと。皆にこう言うて、くれた為替を。アメリカで働いたん、飲んだり食ったりして、残ったやつをね全部、アメリカのドルで計算して、1ヶ月毎にちゃんと、集積しよんねん、積み立てよん。そんなん、知らん。始めは知らんけに、皆放ってしまいよった。
あんたら取っとかな、日本に行ったら焼け野原で何も無いっちゃから言うて、おぅ、1円でも貯めないかんでちゅうて。日本帰る言うたって、格好悪いて帰ることもできんけど。だんだんと話聞きよったら、ワシら捕虜になっとったけども、日本いんでも、まぁそう恥じでもないような国になりよんかなと思うて、それでもなんか恥ずかしいなぁぐらいでな、おったら。まあ最後はそういうことやった。
そやけん、アメリカで働いて残った金、始めは放りよったけども、ハハハ(笑)。それちゃんと為替でくれたですよ。収容所の中というのはまぁ、そんなことでしてね。
元気な人は皆働く代わりに、ちゃんと軍票くれて生活しよりました。日曜にはハワイ居る時にアメリカの兵隊との対抗試合、また野球の対抗試合、妙なことになったのぉ言うて。今ならね、そんな当たり前と思うけども、あの戦争のアメリカと戦争しよったけん、ハハハ(笑)。アメリカの兵隊と対抗、野球の対抗試合しよった、ハハハ(笑)。ちょっと考えられないでしょ。でも向こうはね、敵国とか味方とか、ほとんどの兵隊にもそういう関心がないんな。
聞き手:収容所に行かれた時は一応戦争終わった後ですか?病院の時ですね。
それは終わってます。
「祖国日本へ無事を知らせる手紙を、誰1人として書こうとしなかった。」
聞き手:最初、捕虜になられた時というのは、恥ずかしいと思われるような気持ちはどうでしたか
そりゃ、皆もう、収容所におってもね、もう半年、戦争が終わる頃までは。だから毎週、中立国のスイスの大使がやってきて、一人一人にハガキを配ってきてね、「これは中立国(スイス)が発行しよるハガキで、絶対に日本へ届くんだと。だからあんたたちは、ちゃんとハワイで生きとります、元気ですいうんを書いてな、お父さんお母さんに送ってあげるきにな」と言って書いときなさいと言うて、ハガキを配ってきよったよ。それが1枚も投稿せんけな、あんたたちは犬や猫と同じじゃな。日本には親も兄弟もおらんのかっちゅうてね、スイスの大使は嘆いたです。私らの親切、私らのやりよることに不服があるんかちゅうてね。まぁ、日本の教育を受けとったらしょうがないんですいうて、ハハハ(笑)。
代理の人が、スイスのそういう人と話しても、なかなか理解されなんだですわ。他の国は、もうドイツの収容所なんか、千人ものハガキを抱えて、スイスのそういう係さんがなぁ、ハガキを抱えて。あれ見てみ、スイスの(係員は)、皆さんのために、ああやって皆ハガキ持って行きよるよと。日本の収容所から1枚も出てこんじゃないか言うて。
聞き手:お手紙を送るということに関して言えば、ご家族の外聞ということもあるんでしょうか
そうそうそう。
聞き手:ご自身の気持ちの中ではどうでしたか
うーん、まぁね。ハワイの陸軍病院出て、アイオワ州送られた頃までは、おそらく皆どこかで 一遍にもうこれ面倒くさいから、集団で自殺させるか、銃殺してしまうんじゃろうのう言うて、そういう話は何回もありよったよ。だから、もしほな解放されたらどうするかいうのも、まぁなんじゃな、もうなんじゃ、どこぞアメリカのカリフォルニアのどっかそこらで、もう年を寄るまで働いて生きとったらええわ。日本にはもう二度と帰れんのやから、もうそれでもええわ。サイパンで死んだと思えりゃええわ言うて、それぐらいの皆諦めでね、日本へ帰れるとかいうのは、戦争が終わって半年ぐらいまでは、誰も日本へ帰るようなことは言うてなかったですわな。
「移送列車の中からみたアメリカ大陸の広さに驚いた」
カナダの国境のアイオワ州で居る時に、終戦になったんじゃ。それで日本がもう負けて終戦なったぞいうのは、アイオワ州に居る時に聞いたんやけどね。そこで3ヶ月ぐらい居って、それから列車でまたコトコトと、サンフランシスコまで出てきたんやけどな。1週間ぐらいかかったかな。
砂漠を、あれ横切るのにね、まあアメリカの砂漠っちゃぁ広いよ。朝、田舎駅を出てな、汽車1回も止まらずに、次の駅まで、夕方の5時頃まで走り通し、1回も止まらん。ほいでも、家一軒ない、何もない、ハハハ(笑)。そりゃあの、アメリカのあの、でっかい砂漠。まぁ、汽車1日走ってもね、家一軒もないぞ。まぁ、ここらであの映画で言う、ああいうあのハハハ(笑)、出てきたらそりゃもう、汽車だって、まぁストップせられたらなぁ、もう何もかも奪われてしまうわ。本当にもう、砂漠やからね、こんぐらい(人差指から親指の間を示して)、の草しか生えとらんでな。南の方へ行ったら、こんな太さの2メートルも3メートルもある、ニョキニョキっとしたサボテン、あれがそこそこにあるぐらいでな、あと何にもない。そりゃもう本当に、アメリカの大陸の広いのには驚いた。
ロサンゼルスの郊外に出てきて、えぇ、あそこでも2ヶ月ぐらいおったかな、ロサンゼルスで。それはロサンゼルスの郊外でね、あそこらは綿の大産地でね、綿摘みを2ヶ月ぐらいしたよ、秋じゃってね。まあ、いろんな体験はしました、ハハハ(笑)。
だけどそういうところでもね、メキシコ人がたくさんおってね。メキシコの方は、なかなかその友情的な人ばっかりやな。なんか日本人と違うて、誰にでも物言うし、その会釈はするし、まぁなんちゅうんか、人間が朗らかなちゅうんかね。
我々、汽車で通過しよっても、ほとんどが線路工夫じゃいうのは、みんなメキシコ人だ、そういう人が皆その手振ってくれたり、なんか大きな声で怒鳴るしな。元気でやりよるか言うて、こっちも英語なっちゃあ分からんけども、大きな怒鳴ってやったらね、ハハハ(笑)。そういう点は開放的ないうかな。日本人じゃわ、どこ行っても、どこ付き合っても物言わん人種じゃいうて、向こうの人に言わしたら、そういうな。
アメリカ人はその点なんか日本人に比べたら田舎でおってもどこに居っても、ちょっと開放的やなあ。日本人はもう知らん人には、物も言わんかったいうような感じがね、多いですね。
「ハワイ在住の日本人から、巻き寿司や観劇の歓待を受けた」
まあ、収容所ではそういうようなことで、ハワイに居る日本人の方からはもう非常にお世話になりました。戦後になってハワイへ帰ってきた頃は、日本人もたくさん本国の方へ行かされとったんが、だんだん帰ってきたもんじゃから。私らの収容所へ(来てくれた)。
一遍にあれ、どんなして作るんかな、大きな食堂で作るんかな。あんたらその巻き寿司はもう何年も食ってないだろ言うてな、巻き寿司を1,000人分持ってきてくれた、ハハハ(笑)、トラックで。ハワイには、近松門左衛門一座の弟子が作った、そういう劇団がおるんやな。それが月に一遍くらい、慰問に来るわけじゃ。そしたら、司令部の方もね、もう知れとるけんか、「もう、もうええもう」(と言って)、司令部からの認可証を持ってきたら、数を、その慰問団の一行は23名で書いとんのを、50人ぐらい来とんの。(人数を)数えんよんと、「OKみんな入れ」言うて、ハハハ(笑)。そういう慰問団がね、月に一遍ぐらい来るし。
それからアメリカの映画ちゅうのが、これは週に毎週、あれ金曜日だったか、毎週(上映が)あるわけ。収容所の中で、映写機がちゃんと備わっとってね。それでアメリカのあらゆる、それまでに出た有名ないうたら、ノートルダムのせむし男だとかね、ああいうテキサスのいろんな、南北戦争の、あらゆる映画をもう何百本と観たよハハハ(笑)。毎週あるんじゃから、こっちは用(事)がないから。こういう(現在の)生活しとったら皆用事があったら走り回らなきゃいかんけど、向こうは収容所だと何も他に用(事)がないから。映画があるたびにちゃんと(鑑賞した)。
まぁ、アメリカのパラマウント映画、いろんなやつたくさん観たわ。
「死んだ戦友は帰らない。戦死者の遺族を詣でたときは辛かった」
聞き手:収容所生活のイメージが(思っているものと違いますね)
ハハハ(笑)。なんか、極楽行っとったような話になっちゃうけどもね、ハハハ(笑)。ええ、真実はそうなんですよ。サイパンでは、何十回も死ぬようなまぁ思いもしたし。まぁ、死んだ戦友はかわいそうだけどね。これも、これも一つの運命じゃ、しょうがないもんなぁ。
だからまあ私らも、今考えたら、まぁ本当に、1人でも多く助かって帰ったら良かった思いますけどね。まぁそら、死んだもんは帰らんもんね。また私らもその遺族、一軒一軒、中隊長の奥さんと私らの小隊長やった妹さんと、あのぉ4人ぐらいでね、九州のうちの中隊だけの戦死者の家をずっと詣ったけどもね。そらもう、そこらの親たちにしてみたらな、ほんまに気の毒やった。私ら行っても、ほんまに、あんたどうして生きて帰ったん言われたら、もう逃げ出さないかんわな。ほんまに辛かったけどね。
だけどまぁ、なんじゃ、みんなのおかげで、まぁこうやって、生きておれるんかな思って、ハハハ(笑)。ま、そこら辺でよろしいでしょうか。
(地図を見ながら)
はい、ここが上陸地点なんですよ。地図見てもわかるでしょ、砂浜がね、これが砂浜なんですよ。アメリカがここへ上陸してきた。私らの部隊はここらの谷に皆おったわけ。私らが戦闘の半ばでやられてしもうたのは、ここはね、タッポーチョの峰がね、山脈、こう通っとんです。戦争は、アメリカは、この海岸線とこれこうと2列で進んできたわけ。私らもうバラバラになってしもたんは、だいたい、ここ電信山いうとこですけどね。ここらへんになるでしょうかね。電信山のちょっと手前で。
聞き手:負傷されたのが?
ここら辺なんです。日本の本国との通信塔(が)建ってた、電信山というのはここなんですわ。高いやつが、無線のアンテナの高いヤツが建ってましたね、ここね。最後には、だんだんとここまで追い詰められたわけだ。
聞き手:これがバンザイクリフですね
そうそう。
体験記録
- 取材日 20 年 月 日(miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
戦場体験放映保存の会 事務局
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