野口 富久三さん

生年月日 | 1924(大正13)年生 |
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本籍地(当時) | 東京都 |
所属 | 第117師団(弘兵団) |
所属部隊 | 弘1471部隊 |
兵科 | 通信隊 |
最終階級 |
プロフィール
1924(大正13)年東京府板橋生まれ ~ シベリア→北朝鮮で抑留
1944(昭和19)年12月に現役編入
第117師団(弘兵団)通信隊(弘1471部隊)で中国河南省へ、無線通信手
満洲・洮南へ移駐し敗戦を迎える、公主嶺で武装解除
1945(昭和20)年12月~1946(昭和21)年7月 チェレンホーボ(イルクーツク州)に抑留
1946(昭和21)年7~12月 北朝鮮に逆走され、古茂(コモ)山に抑留
1946(昭和21)年12月24日 佐世保に復員
インタビュー記録
生い立ち~中国出征
これがあの、ご覧になったと思うんですけどね。経歴としては、板橋の、昔は養育院といったんですがね、老人センターっていう都立の病院があるんです。(現在は別の場所に移転した「東京都健康長寿センター」) そこで父親が働いていた時に、1924年、大正13年に三男として、5人兄弟の3番目の子として生まれました。それで 高等小学校に行きまして 卒業してからその当時の板橋専売局っていう、今はJT、日本タバコになりますけどそこに就職しまして。昭和18年に他所へ、仲間に誘われてちょっと手伝ってくれって言われて1年ぐらい別の会社に行きまして。
昭和19年の12月に現役の兵隊として20歳で軍隊に行くわけなんですけどね。その頃は軍国主義の時代で戦争に行ったら生きて帰ってこれるという望みは全然なかったですね。 やっぱり死んで帰ります というふうに言って、大山駅を国防婦人、愛国婦人(言い直しているわけではなく別な2団体がある)会のご近所のお母さんたちが送ってくださったんですけど。そうやって私は仮の部隊で東部16部隊、そこに1週間ほどおりまして、1週間ぐらいで私等は中国の部隊へ移動が始まるんですけど。品川の駅から今の博多、九州の博多まで直行した軍用列車に乗って、博多からまた、1日ばかり寝泊りしたかなあ。それから関釜連絡船っていう博多から釜山って今は言いますけど朝鮮半島のことですね。そこの港に降ろされて。その頃は日本は朝鮮半島そのものを植民地にしてましたから、今の北と南なんてものは全然想定しなかったですけど。釜山から朝鮮半島を縦断しまして、南満州のところを北上して、 少し 南下したと思ったらまあ 中国大陸の河南省の弘、弓偏にムと書く、弘前の弘ですね、そこの部隊に編入されまして(注:弘兵団:第117師団)、私は電気学校に3年ほど行ったものですから、夜間の電機学校を卒業したものですから、それで通信部隊ですね、無線通信です。それを一期の訓練の内に習得する。部隊から2名ほど選抜して暗号教育も受けました。
それからその当時もうすでに戦況がだんだんアメリカの攻撃が激しくなって、もう中国も追い詰められてきているんですね。それで毎夜のようにアメリカの飛行機が私等の部隊の上を偵察機やら何かが来ましてね、操縦している兵隊の顔が見えるくらいまでに低空なところまで来まして笑っている顔もずいぶん見ました。だけど私等は銃で撃ったって飛行機を落とせるわけじゃないしね、中隊長なんかは「撃て、撃て!」なんて言うんだけど、飛行機に小銃の弾を撃ったって飛行機が落ちるわけじゃありませんから。それで私等は躊躇して撃たなかったですけど。だけど本当にだんだん日本は追い詰められてきたなあってひしひしと感じました。
それである日私は夜の当番で、2時間交代で歩哨に立つんですけど、たまたま部隊長の部屋に行って、 沖縄が 6月23日に陥落したって事を知るんですけど。ああ沖縄が落ちたんじゃもう日本は危ないなって日々感じておりました。そのうちに戦況が急変していきまして、私等の師団が移動するということになったんですね。それで移動する所はどこかといったら、結局、1か月、半月くらい貨車に揺られたかな、中国、満州の、あの満州国っていうのは日本が傀儡政府として築き上げた満州国っていう国を作り上げて日本が支配したわけなんですけど。そこの洮南 (トウナン)っていう白城子かちょっと下がったところですけど。そこの日本の女学校の校舎だったと聞きましたけれど。そこでソ連が進攻するような状況をだんだんとひしひしと感じたんですけど。8月に入りましてもう本当に必死になって私等戦う訓練をしました。それで背中に背嚢みたいに背負わされた爆弾の、疑似爆弾ですけど、戦車に体当たりして戦車とぶつかって爆死するという、そんな訓練を毎日させられました。
だからもう生きるってことは、無気力になりましてね。本当に生きてることがどんなに〇か、先はどうなるのか、本当に毎日深刻な状態になっていましたね。
ソ連軍の侵攻~日本軍退却
それで8月の9日にソ連軍が侵攻してくるわけです。私等は内地にいた時に日ソ不可侵条約というのを日本は結んでいたわけなんですよ。だからソ連は絶対に日本へ入ってこないなと思っていたんだけど、そういう条約を破棄してスターリンは満州目指して3か所から攻め込んできたわけですね。だからその当時私等は軍の傘の下にいましたから、どうにかこうにか生き延びることができましたけど、一般邦人の開拓団の奥さんとか子どもさんなんていうのは本当に状況に対して守る人間がいなかったんですよね。ですからもう本当に棄民政策というのか、捨てられたような感じでね、着のみ着のままで逃げるお母さんや子どもさんの姿をずいぶん目撃しました。しかし私等は自分の身体だけで精一杯なのでね、私、200kmほど10日位かけて歩いて退却したんですけど、辿りついた所が現在の公主嶺ていう、ちょうど満州の中間部くらいになるんですけど、そこで本隊とバラバラになったんですね。私等はもう退却する時は自分、自分で背嚢と銃を背負ってましたからね。それがまた雨が1週間くらい降り続いたかな、本当に涙雨みたいな。雨だったですね。私にすればそんな風に感じました。
それでその前にですね、満州は素晴らしい国だとしてね、日本政府がね、あの満州を作って王道楽土っていうね、なんていうか褒めたたえてね、あそこへ行けば大変な、あの、だから農村の人ですよ。みんな憧れて行くようになったんですね。それで満蒙開拓少年団っていうのが内原(注:内原訓練所のこと、茨城県東茨城郡下中妻村内原、現・水戸市)にあったんですけど。そこへ農村の子供たちが15歳になると入団できたもんですから。15歳ぐらいからもうね、満州に憧れるようになったんですけど。満州に行けば地主になれるとかね。そんな甘い言葉に乗らされて。女の人は大陸の花嫁って賛美されながら移民させられたんだけど、お婿さんも何にもわからないお嫁さんの、そういう大陸の花嫁として移民させられたんですけどね。
しかしソ連が侵攻して、結局民間人はみんな自分の力で脱飛して逃げなきゃならないような状況になってね、着のみ着のまま、本当に。私が10日間歩いたなかでもずいぶん悲惨な状況を見ました。子どもさんを自ら手で下して、泣いたらいけないとかね。そういう小さい子供を道連れにすることはできなくてね、もう着のみ着のままでね、そういうお母さんたちが逃げたってこと私も退却しながら感じとったんですけどね。
ちょうどその頃トウモロコシが実る時期ですけど、そのトウモロコシの間から馬運車に乗って中学生くらいの子供さんが一緒になって車のそばを南に下っていく姿をずいぶん目撃しました。しかしまあねえ、憧れたところがいっぺんに戦場になっちゃうっていうことは、罪の無い人間がこんなにまで酷い状況に追い込まれていくっていうのはね、本当にあの時代は地獄の絵を私らこの目でみました。それから私等は、部隊はそれぞれ駐屯したところで待機させられまして、まあ騙されちゃうわけなんですね。本当は南のほうはどんどん貨車が詰まっているから貨車に乗って内地へ帰れないから、「東京ダモイ(帰還)だ」って言ってソ連兵に言われて貨車に乗り込んだんですけど。やっぱり不安もありましたけど ソ連領に入るためには黒河というところ(の対岸)にブラゴベシチェンスクって町があるんですけど…
武装解除~捕虜となりシベリア収容所へ
(地図を示しながら)この洮南というところから南へ 10日間ほど退却して、これは歩いて逃げたコースですけどね、公主嶺という所まで来まして、ここで武装解除されるわけです。ここには相当の部隊が集まってましたからね。それから、何月だ?9月?ちょうど私等ここにふた月ほどいまして、北上して、(地図を指して)これがソ連領の河ですけどね、黒河というところなんですけどね、黒い河ですね、この流れている河名は黒龍江、むこうではアムール川って言うんですけどね、アムール川を渡らせられて、その時にはもう11月ですから氷結して、川が2mか3mくらい凍ってたんでしょうね、私等馬運車でいろいろ運んだりなんかしてありましたから。ここの氷結した川を渡って2回も3回も4回もね、食料を運んだ。
なんでこんなに食料運ぶのかな、おかしいなと思いながらいたらやっぱり、巧みに、私等乗せられちゃった貨車は南の方に行かないで北の、西の方へ向かって走っていたわけなんですよ。 それが ちょうど こちら(別の地図を見せながら)これはシベリア鉄道ですけどね、それでバイカル湖を見た時に私等、「あ、海だ」って、仲間がね「海が見える」って。こんな湖は私等は見た事なかったもので「あれ?おかしいな」って。おかしいはずなんです。これはバイカル湖って湖だったんですね。その(湖の)下を南下して湖畔を通過するのに1日くらいかかりました。それから西に1日くらいかかってチェレンホーボって炭鉱の町だったんですけどね、ここで降ろされたわけです。(チェレンホーボを指さしながら)ここが私等が収容されたラーゲリ(収容所)です。ここに7か月くらい置かれたのかな。それから私はここ、(チェレンホーボを指差して)これ以上西の方に持ってかれた人もいましたけどね。
(地図の記号を示しながら)この黒いところ(●黒丸印)があるところは(捕虜が)2万人以上、白い丸(〇)は1万人以上、四角(□)は1万人以下、三角印は少数といいますけどね。まあこういう四角いところは1万人以上兵隊が送り込まれたわけですよ。だから緯度によってね、ちょうど私等入れられたところは樺太、北海道の緯度よりもっと北だった。円形になりますからね、地図は。これは正面図になってますけどね、ちょうどサハリンていうのは樺太と同じようなもんです。私等ちょうど冬を迎えたとき、20年の12月にはもう(マイナス)30℃~35、6℃は毎日平均。それでその年には相当の人数の兵隊が亡くなったわけです。なんせ(マイナス)35℃なんて温度を体験したことは一度もなかったもんですから。病弱な人はどんどんと出まして年の若い、15、6の少年たちは体力が持たなくて、ここで相当亡くなっています。
遺骨を持ち帰り、シベリア抑留を教育の場で伝えて欲しい
私等ここで亡くなった人たちも埋葬しましたけどいまだに骨を内地に持って帰るってことも政府は全然してませんからね。一部のところではお骨を内地に持ってきてる部分もありますけど。しかしねえ、ここ(地図をみながら)あちらこちらで何万人、6万人ちかくの人が凍土の地下に眠っているわけですから。何としてもね、平和な国である日本だったらもっとこの、過去60年前にこうして亡くなった兵隊の遺骨ぐらいはね、内地へ持ってきて埋葬してあげたい。私等は常々思いますよ。(強い口調で)ここで眠ってる人が60年も黙りこくって内地を思いながら死んでいったんですからね。そういう思いをもっともっと政治家の人たちには考えてもらいたいと思います。何の罪もない人間がこんなところへ持っていかれて、そういう最期を遂げてるんですから。私等ね、こうやって60年間生きて長く健康で維持されて今の時代をむかえることができましたけど、こういう事もね、現実にあった事を記録として、何としても歴史の上に残してもらいたいですよ。まして小学校、中学校で教えていってもいいんじゃないですか。こういう事があったことをね。語り部として全然、教育の場ではね、あの新しい歴史教科書なんてありますけど、(出版社の名前を出すわけにいきませんけど、)そこで作った本なんか見ると2行くらいしか書いてないですよね。あまりに無残じゃないですか。6万人も死んでる将兵の一人一人に報いる道ってのはもっとあると思うんですよ。
(首を傾げながら)いや本当に日本はね、今の政治家は外交が下手糞っていうかね、もっと真剣に取り組んで政治をやってもらいたいなって思いますよ。今は小学校でもアメリカと戦ったってことを教えてないそうですよね。教科書でもアメリカと戦争したこと書かれてないっていうからね。思いやり予算とかそんなものをアメリカに渡して。イランやあちらの方へは日本は石油をいただかなくちゃならない国ですから、ある程度補給するのが当然だと思いますけど、予想外にいま国家予算てのに組み込まれてアメリカの意のままになっている部分は、私等は耐えがたいなと思います。なんでこんな政治をしてるのかなと思いますよ。もうちょっと言うべきことは言って日本の正しい主張を述べないと外交なんてのはね。相手があってのことですから全て自分の思うようにはいきませんけど、日本は本当に外交下手っていうかね、遡って本当に憤りを感じます。
という事は若いインタビュアーさんの前でお話することでは外れるかもしれないけど。私は小学校の時に日・独・伊 防共協定っていう、日本とドイツとイタリアと結ぶんですね。それでまずイタリアは敗北して敗戦国になって、その次ドイツはモスクワの冬将軍って寒い、零下何十度って、やっぱりモスクワに攻め込んで敗北して、ヒトラーは自殺するんですけどね。そんなヨーロッパの国と手を結んで軍事協定を結んだ過去がありましたけどね、そんなヨーロッパの小さい国と手を結んでね、なんでこんな事が進むのかなって私は思います。それでも日本はしっかりした外交官がいらっしゃいますからね。全ての人にそういう稚拙な言葉を浴びせるわけにはいきませんけど。何かしら欠けてる部分が継承されていまの福田さん、そんなのもね、何か政治に対する、もうちょっとインパクトのある政治をやっていただきたいなと思いますよ。まして安倍総理だってね。
またこれ(話が)逆戻りになっちゃうんだけど。私はシベリア請求請願したときに傍聴に行ったんですけどね、その時はまだ福田首相じゃなかったんですけどね、。採決する場にね、閉廷の10分前に入ってきましたよ、否決するために。その時に(今は亡くなった)小渕恵三の娘さんと同時に入ってきました。だから人数でね、数の勝負で私等の請願は却下されたんです。その時の表情の写真を撮られた部分はありますけどね。いま与党が公明党と自民党が組んで政治を行ってるんですけどね、今の政治はなんか右傾斜がどんどんどんどんしてね、雪崩れ込むようにして落ち込んでいくような感じがしますね。こういう政治をまともにやっていただきたくないと思いますね。
本当にね、私が語ってもちょっとインパクトがなくてね、想いが言葉に変えられなくてね。(インタビュアーに向かって)なかなかお話をこさえることができなくて難しいと思いますけど。現実に体験した生き残りとして、この地に連れて行かれて虚しく死んでいった人が報われるようにね、もっともっと日本の人たちは心を手向ける気持ちを抱いていただきたいなとかねがね思います。
中国での戦場体験
聞き手:一番最初に行ったのは中国ですよね。そこでは戦闘という戦闘はもうしてない?
戦闘はなかったけれどアメリカの爆撃はしょっちゅうありました。それでその時にね、私のはす向かいにいたおおがきっていうのがB29って爆撃機が来まして、爆撃でやられて首を、首の皮一つ残して爆死したんですけどね。そういう状況下にあったんですね。だから制空権っていうのは完全にアメリカ軍の下に支配されていたもんですから。
聞き手:昭和19年の12月に行ったんですか?
12月に行って、翌年の3月10日、東京が空襲にあったその前後に私等もアメリカの空爆にあってますからね。河南省の新郷というところでね。
聞き手:そこで通信兵を?
ええ、(通信兵を)しながら勉強もして、暗号教育とか、無線ですからね。いま通信機はソフトのやつが出てるからね、昔は(指をトントンしながら)電源入れてキーを打つんです。有線と無線があって私は無線だったんです。だから電源を…今はああいうものを使ってる場面を見ることはないです。インターネットや何かがありますから。あんなもの使いませんからね。
朝鮮の収容所への逆移送
聞き手:それでソ連軍が侵進攻してきて日本に帰ると思っていたら、無理矢理連れて行かれたということですね。
そうそう。厚生省にソ連から資料が出てね、2万7千名が各収容所から集められて、病弱者って少し体力が無くなってる人間を列車に乗せられて「東京ダモイだ」って。ダモイって帰るという意味なんですけどね、ダモイトーキョーって言われて貨車に乗せられて。(地図を指して)それでちょうどナホトカのちょっとこっちにね、ブラゴベシチェンスクってのがあるんですけどね。そこに港に着いたんですけどね。船に乗って1日くらいで(あれ、おかしいな。)って思ったらね、最終的にいまは北、北朝鮮ですけども、山肌が黄色くて樹木が映えてない山肌みてね、(これ日本の風景と違うんじゃないか)ってみんなが思い出した。そうしたら着いたところがチョンジュンっていう北朝鮮のセイシン(清津)ってとこですね。いまたまたま拉致家族やなんかの問題で名前が出ますけどね、そこへ降ろされたんです。その港からまた貨車に乗せられましてね。古茂(コモ)山ってね、かつて植民地時代に浅野セメントって会社があったんですよ、今はもうありませんけどね、その浅野セメントが植民地時代にその辺に鉱脈かなんかあって、そこでセメントを掘り起こしてたんだと思うんですね。そこでやらされたわけですね。
シベリア収容所での生活
聞き手:それはシベリアにいた後にですね。シベリアにはどのくらいいらしゃたんですか?
うーんとね、12月から翌年の7月半ばくらいかな。チェレンホーボね。
聞き手:そこ(シベリア)ではどのような生活をしていらっしゃったんですか?
チェレンホーポはね、私、たまたま兵隊さんの頭を刈る理髪師、私、内地で兄弟みんなあの頃は丸刈りだったんでバリカンぐらいは使えるから手を上げたら、じゃあお前やれって部隊でやらされてね。他の人たちは重労働で三勤交代で石炭堀り。そこは露天掘りの炭鉱だったんですよね、そこへ三交代で行くから過激なハードなスケジュールのあれですよ。炭鉱って結構腕使ったり重労働ですからね。
インタビュアー:毎日理髪を?
そう、兵隊さんが結構。何百人っていますからね。ロシアの兵隊さんも来ました。ロシアの兵隊さんは、頭(を刈るの)はいいけど剃刀なんか使って襟足をやるとさ。おっかないからね。ちょっとでも傷付いたら殺されちゃうからね。(笑いながら) だから私はそこまではやらない。内地で軍隊にとられたプロの職人さんが班長になって、理髪のひとつの小屋を作ってそこで寝泊まりしていたもんですから。あまり外の寒いところで作業する体験がなかったものですから、どうにか生き延びている一つのあれになったと思うんです。
聞き手:それでは抑留された日本人の兵隊さんを?
だからね、みんな楽しみにしてきましたよ。憩いの場っていうかね、さっぱりするからね。
聞き手:具体的にどういった生活だったんですか?寝てたところとか、食べてたものとか。だいたい何人くらいいた?
まあラーゲリの中、収容所ではお蚕棚みたいな棚で上下あれして。テントに7、80人いたかな。
聞き手:一応一人ひとりの寝床みたいなものはあったんですか?
持ち込んだのは満州から持ってった自分の毛布とかね、向こうからは全然支給された物じゃないですから。ソ連も、ロシアもヨーロッパの方でドイツやなんかと戦って、相当男性は少なかったんですよね。だから作業所によるとね、女の人はすごい労働力で、スコップやなんか使うのもね、筋肉の割には相当強い労働に耐えていましたからね。
聞き手:食事なんかは?
食事はおかゆと、トウモロコシの粉にしたやつやらスープですね。
聞き手:それを1日3回?
3回もなかったんじゃないかな、2食くらいだったですね。
聞き手:じゃあかなりお腹空いて…。
厳しいですよ。ひもじい思いですよ。
聞き手:よくトカゲとかそういったものを何でも食べたと…。
場所によってね、食べた人は随分いるらしいですが、私はまあそんなに。ネズミなんか食べた人はたくさんいるらしいですよ。
聞き手:衛生的な点で、お風呂に入ったりとかはできたんですか?
お風呂はバーニャっていうんですけどね、(手で示しなが)このくらいの深さの桶1杯で身体洗ったりする、それだけですよ。湯船につかるってことはなくって。もらった1杯の桶で。タオルなんかあんまりなかった。手拭いでね。
聞き手:それが1日に1回?
それも人数が多いから10日に一ぺんくらいだね。
聞き手:病気が流行ったりとかいうことはなかったんですか?
もちろん病気は相当流行りましたよね。それと栄養失調、気管支、呼吸器の病気とかね。
聞き手:でも寒かったでしょうね。12月から7月って。
ええもう、私らが行った時には手袋なんかしても効果なかったくらいの寒さですからね。
聞き手:他の国の人はいましたか?
ええ。ゲルマンって要するにドイツの捕虜の人が来てました。だけど彼らはなんか、私等の教育の仕方は命令のままに従ってたからあれだけど、彼らは割とリラックスして自分の行動で生活していたから、割とゆったりとして悠長に構えていましたね。深刻な顔をしていなかったですよ。やっぱり民族が違うとそうなっちゃうのかなと思ったけどね。教え方とかそういう性格もあったのかね。
聞き手:日本の軍隊の中って上下関係が厳しいですが、抑留生活の中でも同じように?
やっぱり上官っていうのは意識してましたからね。でもこの(肩を指して)階級章は外されてますからね。だけど別の話になりますけれど、話によると将校の人たちは別の所に固められて、モスクワの近くへ集団でもってかれるんですよね。お話が長くなっちゃうんだけど「収容所から来た遺書」っていう辺見じゅんさんが書かれた本をお読みになったことありますか?
聞き手:ないです。
それでは今度あれしますよ。辺見じゅんって人はね、山本幡男さんって人がね、満州で通訳して相当のとこにいて、彼がラーゲリの日本の仲間を励ましながら収容所生活をしている体験談がものすごくきれいに書かれてますからね。あれもビデオもありますからね。今度またお届けのほうにあれしますよ。
聞き手:それで7月までチェレンポーボにいて帰国と騙されて北朝鮮に連れていかれて、そこにはどの位いらしゃったんですか?
そこはちょうど21年の12月くらいまで。12月に江南って少し南に下がったところなんですけどね、そこへ移動させられまして(地図を指しながら)このへんだな。むこうの言葉でクンナムっていうんですね。
北朝鮮での生活
聞き手:北朝鮮でも同じような生活をされていたんですか?
うーん、たいして重労働はなかったんですよね。
聞き手:ただそこにいたと?
そう。そこでも結構亡くなってるんですよね。ソ連政府から送られた資料によって、2万7千人、私もその一人ですけど、半分くらいは亡くなってると思うんですよ。それで今日お渡しできるかと思うんですが、(資料ビデオ?を指して)「北朝鮮から送られたシベリア抑留者たち」この中にありますから参考にしてください。この中に北朝鮮に送られた人たちの話が集約して45分に入ってますから。
聞き手:NHKの番組ですよね。
そうです。馬場さんて人が私の家へ来てますからね。
聞き手:2万7千人の半分が北朝鮮で亡くなっている。
ええ亡くなっている。厚生省では17名帰ってきて10名は死亡、7名(野口を含む)って、私の名前が厚生省のには出てるんですけど。だけどそれだけですよ、日本政府の台帳ってのは。
聞き手:ずいぶん大きな違いですね。
10名は亡くなって17名帰ってきてってそんな乏しい資料でいたわけですよ。だから厚生省っていいながら何たることかって思わざるを得ませんよ。こんな大きな建物建っててね。厚生省の一室に、地下かなんかに引き揚げてきたお骨が何体か眠ってるそうですよね
聞き手:北朝鮮では一応毎日食事とかは?
いやあんまりいい食事はなかったね。
聞き手:何が原因で亡くなっていったんでしょう?
やっぱり腸障害とかね、呼吸器不全とか、栄養失調とか衰弱していってね。だから相当埋められてるんですよね。(ビデオ指して)これ相当鮮明に場面でますから見てください。
帰国~帰還者たちのその後と差別
聞き手:それで12月になって今度こそ本当に帰国だと。
ええ、初めて私が乗ったのは辰日丸、豊栄丸っていう船に乗せられて日本の文字が船体に、ああ日本の船だって、初めてこれはたしかに内地に帰れるなって喜びを一瞬感じましてね。それで2日間位かかったかな、九州の佐世保っていうところに降ろされたわけです。21年の12月24日かな。まあ私は早く帰れた組に入ったからね、こうやって生き延びたんですけど、凍土の地で過ごしていたら体力の限界でおそらく飛び出している人が多いと思うんですけど。だけど政府も6万人もね、凍土の地に眠っているってことをなんにもしないでね、まあ厚生省で組んで行く話は聞きますけどね、他の団体ももう一つあるんですよ。ご存じと思うけど相澤英之っていって。政府機関の団体で年間に1億2千万だかおりてるってことでね。国会議員、衆議院議員だったんでそういうコネがあって。私らの団体は全然無いから自前のお金でやってますから。
聞き手: 政府からの差別みたいな…。それはなぜ?
どういうあれで差別されるのかねえ。最初は山形から斎藤六郎っていう会長が発起して全国抑留者補償協議会というのを立ち上げるんですけどね。山形の鶴岡ですけど、その後を継ぐ人がいなくって東京へ持ってきて東京が主体になるんですけどね。実際は山形みたいなところで本部を開くってことは、政府と交渉しなくちゃならないのに山形へ持ってってあるってことは、過ぎ去った過去を恨んでもしょうがないけどね、やっぱり政治の中心である東京に拠点をおいて運動を始めることが本来の姿だと思うんですよ。それが山形なんてところへ持ってって、そこで旗揚げして呼びかけたために2派に分かれて、そこへきて相澤派っていうのがまた財団法人かなんかであれして、そちらの方へは国から活動資金として年間1億2000万ぐらいお金が出てるって。だからそちらに所属している人たちはそっちから。九段の軍人会館に集まるらしいですけどね、手土産なんかもらって。墓参もだいぶお金が出てラーゲリに行ってるってことを聞きますけどね。そういう政府から降りた金で行くから、個人でも行かれるわけですよ。私らは本当にね、行くのにも何十万円とかかりますからね。
聞き手:そういった政府からの差別のほかに、帰っていらっしゃった後に周りの待遇とか?
ええ、やっぱり差別待遇っていうのは、赤っていう思想的なね、人権差別っていうかね、あの時代は治安維持法とか(注:治安維持法は敗戦直後に失効、以下同様)、いろいろなものが抑圧されて弾圧されてレッドパージやなんかあったんですよね。
聞き手:ソ連にいたから?
ソ連の教育を受けたっていうね。私らはそんな教育を受けた覚えはないんだけど。結局あっち行った人間はソ連の教育を受けてきているってマークされて、けっこう治安維持法でね、抑圧されて弾圧されて辛い思いした人はたくさんいますよ。
聞き手:野口さん自身はあまりそういった経験は?
あんまり私はそういった経験はね、素直だったから。(笑)
聞き手:じゃあ抑留されていた後は取り調べとかいうものは?
私個人的には無かったね。人によっては追跡された人もいるらしいけどね。遡ってね、どんな事やった?とかね、相当、車とかあれして追跡したってことは聞きますよね。
聞き手:それは中国に渡ったのが戦争の終盤だったからということですか?
どういうあれだったかね、その辺のあれはちょっと計り知れないんですけどね。
聞き手:収容所によってやっぱり違うんでしょうね。
やっぱりソ連帰りってのがひとつマークされてね。だから籠ってる人もね口封じっていうかね、私は家内が三重県なもんでね、家内の兄の(軍隊の?)名簿を見た時に、家内が生まれたところの近くに個人名であったのを台帳で見たもんでね、私電話かけたんだけど瞬間的に(電話を切られた?)、突然かけたのも悪かったんだけど、ソ連帰りっていうのを伏せていたんじゃないかなって思うんですね。その人の身の上に立って考えた時にね。だからソ連帰りっていかに弾圧されて、隅々まで抑圧されたのかってのが感じとられたんですけど。その本人に言葉だけで「いけないことしちゃったな」って振り返ったけどさ。だけどあの時はソ連帰りって赤ってね、イメージでね。レッドパージっていうかあったんですよね。
あの砂川闘争ってね、労働組合が弾圧で闘争したことがあるんですよ。レッドパージの人たちがあれして。(手元の扇子を拡げ手見せながら) その時の団長が名をはせた人でね、相当活躍したって。まあ個人の武勇伝を聞いてもしょうがないんだけどね、そんな事を経験した人はそういう絵を描き残してるんですよ。
聞き手:この絵を描いた人ですね。(脇にあった絵を拡げて魅せる) これは何の様子をかいたものですか?
これはね、右の方にいる私らとすれ違う姿を描いたものですよ。左を行くのが一般邦人の開拓団の奥さん、子どもさんの姿ですよ。こっちの方に立っているのはソ連兵が立って監視して。私らが北へ連れていかれるその時をリアルに描いているんです。こういう絵を描いた人はあまりいないんですよね。(写真アルバムを開き絵の写真を見せて)こういう勇崎作衛さんって方が内地行かれてから絵を描いてる。
聞き手: (アルバムの中の絵を指して)これも同じ方が描いてる?
それはまた別の方。
聞き手: シベリア抑留された当時の生活を絵に描いてらっしゃいます。
(アルバムに収められたシベリア抑留の様子を描いた様々な絵が映される。)
(平成3年1月に国から贈られた慰労状、銀杯、「朝枝大本営参謀報告書・関東軍の停戦状況」の載った本のコピー、シベリア抑留関係の新聞記事のコピーなどが映される)
聞き手:こういった盃ですとか10万円の旅行券が送られてきたと。そういった事に関してはどう思ったりしますか?
だけどこういった盃であの地に行った人たちがね、これで完璧とは言えないですよ。まあせめて保証金のある程度の償いはしていただかないとね。
聞き手:それでずっと闘ってらっしゃるわけですよね。
(俯きながら)うーん。
聞き手:結局それに対して政府の方が…。
そうですね。○○になっちゃってますよね。でもまだ民主党の人たちが諦めないであれしてくれってTVで長妻昭さんが私の朝鮮に送られた当時の記事を読みましてね、国会の財務委員会で、その当時麻生さんだったかな、答弁席に立って(映像の)場面がありますからね、記録が、よかったら見ていただければ。まああんまりくどくど言ってもね、政府もだんだん弱ってきてるから。ちょっと「岸壁の母」をハーモニカで吹きますから聴いてください。
聞き手:素晴らしい。(拍手)ありがとうございました。
子供さんのことを浮かべながらね、想いがさ、虚しいですよ。こんな8月13日に亡くなってるのに。最期のお母さんのお葬式までやってね。
聞き手:(地図を出して)ちなみに岸壁の母の息子さんが亡くなったのはこの辺という事ですね。
はい。それはこの前の舞鶴へ行ったときの(映像?)に戦友が語っているのが入ってますから。
出征~戦後、戦争への想い
聞き手:同じお母さまの想いということで野口さんのお母さま、御両親は軍隊に出征するときどんな感じでしたか?
同じ気持ちじゃないですか。
聞き手:何か言葉は交わされましたか?
私が帰った時は「ほんとによく帰ってきたな」という、だって私ら死んで帰ってくるって行ったんだから。
聞き手:行くときはどうでした?
行くときはだってこれは、お国に逆らうわけにいかないんだからさ。そうでしょ。命令に逆らうのはさ、これを避けて脱走すればこれになっちゃうんだからさ。(手を交差して捕まる様子を示す)あの時代はね。
聞き手:家庭内でも話すことはなかった?
家庭内じゃなくたって常識的にさ、頭を洗脳されてるから。親がこうしろとかああしろとかはなかったですよ。
聞き手:たとえばお見送りする時に感情的になっちゃったりとか。
なかった。もうあそこのね、信濃町からちょっと歩いての仮部隊だったんだけど、そこまで母親と父親と弟2人と、あと2人ばかし近所の人が送ってくれましたけど。みんな同じ状態で来てるからさ、私1人じゃないんだからさ、何十人、何百人って集められてますから。それぞれの家族がその想いで送ってるわけですよ。みんな心はひとつだと思うんですよね、共通、感情はね、自分の子供だけがってあれは無いんですよ。
聞き手:野口さん自身は国のために死にたいという風に思ってらっしゃったんですか?
いや、死にたいっていうか、このままじゃ死んで帰るしかしょうがないっていう観念っていうか。今の若い人みたいに誰でもいいから殺すって、ああいう心理じゃないですからね。国、御国ってことはもうすでにそういうことだから。でもね、私、これ2日前の新聞ですがちょっと読んで。おたくは浅草の方へはあんまりいらっしゃらないと思うけど神谷バーって浅草の有名な老舗の店があるんですよ。そこの倅が私と同年兵齢で一緒の部隊だったんですよ。神谷、お父さんが伝兵衛さんって名前出てますけど、倅が伝、伝達の伝だけで神谷伝(つとむ)って言ったんだけどね、それが私たちと一緒の部隊でね、彼は中学…私等よりちょっと上の教育受けてたんだけど下士官の教育に北京まで行きましたからね。ちょっと私らの部隊とは離れていましたけどね、帰ってから訪ねていったけどもうちょっと会話がなかったね。そっぽむいてたからね。私もあまり顔見るだけでいいと思ってね。もう何年も会ってないからね。だけどたまたまこの(新聞に)神谷バーってのが。電気ブランで有名なブランドなんですよ。ちょっと記事読んだんで懐かしいなって思って。(紙面を指して)倅がね一緒の部隊でね、居たんですよ。帰ってきたからね、たしかにどこのラーゲリーにいたかわからないんだけどね、収容所が別々になって分かれましたからね。(新聞を置いて)いやあ80年の歴史っていうのはやっぱり、刻みこんだ歴史っていうのは頁を開いていくとなんか心に残るものがずいぶんありますよ。
聞き手:辛いときにはどんな事を考えていらっしゃいましたか?
その時代?軍国主義っていうのはもう浸透してたからさ、平和を語るなんてことは全然。(首を振る) だって戦うときはソ連と戦うって思ってないもん。ソ連に抑留されることなんてつぶら?も思ってない。鬼畜米英って米国とイギリスは鬼畜だって、そういう洗脳されたあれで戦うもんだからさ。それで私は中国大陸に持っていかれたんだけど。軍隊へ入ったらもうどこへ連れて行かれるかわかんないからね。行先はわかんないですよ。だから私等が行った前の満州の部隊は南方の沖縄とかガダルカナルとかあっちの方へ行ったから、満州って軍隊が空っぽになっちゃうんですよ。それで中国大陸から移動して補充したわけですから。その他に現地で働いてる人ら、一般の開拓団の人たちとか、満鉄に勤めてる人とか、ああいう人たちが軍隊に召集されてるわけだ。作詞家のなかにし礼さんって、あの人のお父さん、お母さんも満州であれして語りに出ますよ。高島礼子が出演した映画がありますけどね。あれは酒造の会社、お父さんはお酒を造ってたという話を聞きますけどね。
いやあ本当にね、平和で60年戦争が無くきたんだからさ、戦争に巻き込まれないように日本はしなくちゃならないですよ。これだけ東京が復興して立ち上がってビルが林立して。問題は地震とか天災がどういう状況か、やっぱり東京の人たちは地震の体験はないですからおっかないですよね。
聞き手:ありがとうございました。
参考資料
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- 年表 ───
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