中島 速雄さん

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中島 速雄さん

生年月日1918(大正7)年生
本籍地(当時)茨城県
所属関東軍第3軍司令部 
所属部隊満州273部隊
兵科歩兵
最終階級 

プロフィール

昭和14年4月漢口上陸後警備活動、南京峡に移動、戦闘。

昭和14年9月マラリアに罹患し揚子江の反対側に九江の兵站冷淡病院に入院、退院後上等兵に進級。

昭和15年 途中から12月、武寧(ブネイ)で警備。戦闘。

昭和16年12月、2年で満期除隊の予定がすぐ臨時召集になりそのまま軍に残置。伍長昇進。

その後、北支の太原(タイゲン)に移動し共産党ゲリラ退治。その後徐州に移動し太平洋戦争が始ま

るまで警備。

南方に移動するため徐州から南京、アモイ(厦門:中国福建省)経由しタイのバンコクへ。

インタビュー記録

昭和14年4月漢口上陸後警備活動

 軍隊は昭和14年1月に仙台に入隊しました。というのは本籍が茨城県土浦でした。補充の意味合いで仙台の四連隊(歩兵第四連隊)入りました。入隊した年の2月に、新兵団の軍旗を皇居で頂いた。その軍旗を持って新しい兵団として中支に向かうということで新潟に集合した。そして船出して直、中国に行きまして、揚子江を3月に出まして、4月に漢口に上陸しました。

 行った当時は戦争の後(日中戦争開始後)だったものですから、水道は殆ど出ないし電灯なんかも勿論出なかったんですけれども、4月から戦闘に出る8月まで漢口の警備という事で活動していた。その間、治安がある程度収まったものですから、警備と言っても中山公園に散歩に行ったりで穏やかな時期でした。たまには便衣隊というんですか、町の中に居りまして、懐中電灯みたいな明かりがピカピカと点いたり消えたりするんですよ、私はあの当時一等兵になったばかりですから、「中島、お前ちょっと行って見てこい。」と言われ行ってみると、戸を押して開けると「バターン」と戸が閉まっちゃうんですね。だからやたら入ったら首でも切られたら大変だという事で、足で戸を蹴飛ばしたら、「バタバタ」と人が逃げる音がした。という事があったが、危険なことはあの当時はその程度で、大したことはなかった。中国人は夜中でも寝ないですね。「わやわや」しゃべっているんですね。あれが気持ち悪いんですね、たまに屋根から飛び降りてくるような音もしますしね。

当時はまだ新兵でしたからね、古くからいる兵隊さんに色々聞いてね、私どもは入った時には三年兵がまだ居りまして、彼らは満州のノモンハンでソ連兵と戦した連中ですからね、やっぱり一回戦闘の経験があるからですかね、肝が据わっているというか何か、ずいぶん頼りになりました。

 結局は8月まで漢口に居りまして、それから南下して、南京峡?という所を出発点にして討伐に入った。南京峡から初めてここから300mから400mの地帯には中国兵がいるから十分油断をしないように気を付けていけとそういわれて、その着いた晩は何もなくて、そこで初年兵で入った時の教官、片岡という少尉に「中島、ここで歩哨に立て」と言われた。敵前で歩哨に立つとはどんなことがあるんだろうかと、そうしたらゴザを持ってきましてね、危ないからゴザしいてそこに伏せて見てればいいからと言われた。「そうですか」と言いゴザの上に横になって、何か音がしたり敵兵らしきものが見えた時はすぐに報告するようにといわれました。でゴザの上で寝そべっていたが、怖いもの知らずというか、平素疲れている感じもあるんでしょうか、私寝ちゃったんですよ。朝になってから起こされたんです。片岡少尉が来てね、「おまえ、一晩中寝ちゃったんだなー」。「ハア」、と自分でもわからない。

敵前でね、居眠りとか眠った時には死刑になるというような刑法があるでしょう。これは大変なことをしちゃった、と思ったが、片岡さんが良い人でね、俺だけしか知らないんだから、気を付けてやれってわけ。お陰様で助かったと思った。その日の夕方前進するという事で隊列を組んで、一番先に先兵、歩哨的な(役割の)が出る。その後に歩兵が警戒しながら出る。約15分位経った時に速射砲というあの当時新兵器だったが、知らないもんだから、大隊長が「速射砲ただちに前進」と言うんですよ。

大砲ですからね。それが先兵の後に付いて出て行くなどという馬鹿らしいことはないんですよ。大隊長も速射砲という新兵器は知らないで、1分間に20発撃てる大砲だというんでね、軽い機関銃を大きくしたようなもんだと思ったらしいんです。それで先兵の後に付いて出発しろと言ったらしいんですけどね。それで行軍に入った。行軍してからどの位時間がたったかわかりませんけどね、急に前方の森からね機関銃で撃たれた。初めての事でしたのでビックリしてね、すぐに速射砲準備という事でね、速射砲を備え付けなきゃいけない。あの当時私は七番砲手と言って、大砲が撃った後に後退しますよね、それを止めるために槌を打つ仕事なんですよ。急いで馬についている槌を恐々中腰になって取って槌を打つ準備をしたんです。三年兵は、砲を打つ準備をちゃんとして脚を開いて準備している。ビックリしたのはその脚の上に跨って座っているんですよ。それでね戦闘経験があるという事はこんなもんかなーと思いましたね、こっちはピュンピュン機関銃の弾が飛んできますから中腰になってますけどね、その先任兵たちの落ち着いた姿を見て、俺は初めてだけど落ち着いているなあと感心した。 

 こちらが砲を10発たらず撃ったら向こうは逃げだした。こんどは追跡で砲を集めて追跡だから準備して急いで走っていかなければならない。小隊長の片岡少尉が一生懸命走りだす。片岡少尉も戦闘は初めてなんです。だから急いで追っかけなきゃいけないと思って追いかける。向こうは逃げる。それを一晩中戦闘しないで追い掛け回すんです。それで夜が明けてから休憩という事になったが、片岡少尉が「いくさとはえらいもんだなあー、俺はくたびれちゃった。」と言った。一晩中、駆け足に近い状態で走ってるんですから。まー小隊中隊のものもえらい(大変)でしょうけれども、私ら初年兵は余計えらい(大変)ですよね。気をつかわなきゃなんないし走るんだから。それが初めてのいくさの経験だったです。

蒋介石軍との戦闘

 その後、修水(シュウスイ)とか中支の南部の方を中国兵、はじめの頃は国府軍という蒋介石の軍隊ですかね、あれがいたのを追い払う。それが悪さしないように地区からなるべく遠いところに退却させる。という目的をもって移動しながら、10月の初め頃まで活動した。その間多少の戦闘はありましたけれども、大きな戦闘はその当時はなかった。

 9月頃、自分は気が付かないんですけどマラリアになったらしいんです。大休止の時に、丁度溜池があったもんですから水を汲んで飲もうと思って、コップを池に差し出した時につんのめって池の中に顔を突っ込んじゃったんです。大休止で他の兵士もいたのですぐに引き上げてもらったけれども、で自分で気が付いた時には担架に乗せられて、武寧(ブネイ)という村に連れていかれてそこでマラリアだという事がわかったもんですからすぐに野戦病院に入院させられて、そこからまた南京揚子江の反対側のの近くに九江(キュウコウ)というところがあるんですが、そこの兵站病院に入院して10月から1月の初めまで入院していたんです。ですから3か月入院してましたね。初年兵で10月から入院していたら進級などという事は考えられませんから、私は6歳の時に親父がなくなって母親に育てられ、母一人子一人ですから、軍隊は2年間くらい勤めて上等兵にでもなって早く帰りたい。それで結構だと(思っていた)。

 仙台に入隊した時に事務室でそう言った。あの当時、中等学校卒業すると幹部候補生の受験資格があったんですけどもそれはしません。せめて下士官候補生に希望しないかと言われたがそれもしません。2年経ったら帰してもらえばそれでいいからと頑張った。事務所には人事係の准尉をはじめ隊付の将校だとか偉い人がずーっといるが、そこで新兵の私がそう言ったもんですから「貴様、国賊だ!」と怒鳴られた。国賊だと言われたって、軍隊逃げるわけじゃないから気持ち引き締めて一切しませんと頑張っちゃたんです。それである程度認めてもらえたと思う。強制的に受けろとは言われませでした。後で聞いたら昭和14年までは辞退をしたら(希望を)ある程度聞いてくれたらしいです。

 ですから私より1年若い人たちは希望を聞いてもらえなかった。みんな幹部候補生なんかの試験を受けさせられました。  受ければ現役になりますから帰れませんわ。だから私より若い二人がいて将校になりましたが二人とも戦死しました。私と同年兵が8人ぐらいいましたが下士官候補を受けて全員インパールの戦闘で戦死しました。私はインパール作戦に行ってないけれども、行った連中は、私より年次が一緒か下のものでも、現役志願した人は全員死んでます。だから私は悪運が強いんだと思ったことあります。そして入院して部隊に戻った時に退院方と申告しますね、その時に人事から退院申告のついでに上等兵の進級の申告もしろと言われた。「これは儲けたな~」と思って、一番嬉しかったです。

 というのは上等兵になると歩哨に立たなくていいんですよ。あの当時、戦地では二等兵はいませんけど一等兵がおりますね。同年で入ったものはまだ一等兵だけれども、自分は入院して一等兵の経験は半年しかしてなかったけれども上等兵になっちゃったから大儲けと喜んじゃった。早速衛兵勤務が付いた。衛兵勤務に就くと歩哨が4か所で、3交代だと12人の兵隊が必要になる。その歩哨の交代役が衛兵の私の仕事になる。それに衛兵司令の下士官が一番上についてそれに先輩の上等兵が一人横についている。1時間毎に交代ですから歩哨の4人を連れて各所へ1人ずつ交代させる。異常なし、交代という事で、4人連れて戻ってくれば私の仕事終わりなんです。そういう事で上等兵になってうれしいというのはそういうところにあったんですよ。そしてあの当時コロウホ?という場所だったんですけれども、そこは戦闘の前線地区で、特に一月だったもんですから冬季攻勢と言ってね、大攻勢があったらしいんです。私が行った15日頃は丁度静かになっちゃったんです。それまでは大変だったらしいです。ドンパチドンパチでね。

 それで衛兵の司令が「中島、お前が来たら静かになっちゃった。」と言う。こっちは喜んでるし、戦闘は静かになったしでよかった。たまに便衣隊の家族かなんか一般の人間らしいのがちょろちょろ山の間から出てくるんですよ。その時に機関銃中隊の中隊長が、敵情視察ということでそっちの地区を偵察し帰ってきた。異常はないからって、こっちの部隊に近くなって安心したんでしょうが、狙撃兵に撃たれて一発で死んじゃった。あの当時の向こうの(中国兵)の狙撃技術と言うのは立派なもんでしたね。我々は拳銃や三八式歩兵銃を持ってるけれども、撃っても当たったためしがないです。それで狙撃兵は一発で当たったでしょう。あれは立派なもんだとびっくりしたことがある。それから戦闘が終わって武寧(ブネイ)という地区に部落に戻りまして、15年の途中から15年12月まで警備でいた。

  その間、武寧の町には冬期攻勢というか、中国人は12月に向かってくるんですね。前のコロオの時も12月末、今度の武寧の時も12月に冬季攻勢というふうに攻撃してくる。あの時は戦闘が終わった後ですから速射砲も2門ほど修理に出して、それから砲兵の大砲も修理に出して、城内には速射砲一本と山砲が一本と2本の砲しかなかった。そういう情報が向こうに伝わってんでしょうね。だから今日本には砲が無いから今こそ攻撃の機会だと。あの当時中国の10個師団、10個師団と言っても日本の師団と違って、1個師団1000人位の兵士しかいないから約1万人が大挙して攻撃してきた。それでまー日本の軍隊は小人数しかいないし砲は無いからと言って馬鹿にしたんでしょうね。

 脇の山に登ってね、山の上からこっちを眺めてるんですよ。あの当時、城内には日本人の商人が貸家だとか一杯飲み屋だとか、商売人が3~4軒居りましたからね、「兵隊さん頑張ってください」自分たちも危ないから「頑張ってください」と、店の品物をどんどん出してくれるの、頑張ってくれと品物を貰ってもしょうがないけど、しょうがないから受け取ったのもありますけど。それで城壁を上ってくるんです。あの当時、傘を背負っている兵隊もいた。本当に勇ましんですよね。こっちは、砲の弾も少ないから撃ちませんよね。対抗するのは機関銃位でしょ、それに歩兵銃でしょ、日本軍の兵器と言うのはあの当時みすぼらしくてね、それで大正時代の兵器でしょ(注:三八式歩兵銃は明治38年の制定)、1発撃っては、一発込めてでしょ、お粗末なんですよ、あれでは勝てるわけないんですよ。それでも前の山から登ってくるからね。私は4番砲手になってましたから、弾が6発しかないんですよ、砲の弾が。で連隊長は軍旗を焼く準備をしてる。

 だから私が中隊長に話しして「どうせやられるんだったら、この弾打ちましょう。」と言った。「撃ってもいいでしょう」と言った。そしたら「しょうがない。軍旗焼くようなことになったら大変だから弾を撃っても良い。」と言った。承諾を得たから、山にいる向こうに向けて、近くの山でしょう。完全に当たりますよ。戦車砲の徹甲弾は鉄を打ち抜いてから炸裂する弾で、榴弾と言うのは木の葉っぱにでも当たったら炸裂する弾で、その榴弾が3発あった。向こうの山めがけて榴弾を1発撃った。そしたら向こうがビックリしてたちまち逃げ出しちゃった。こんどはそっちの山に(撃った)。そしたらまた逃げ出した。向こうは弾がないと思っていたが弾があるんだ(と思い)、これだけきれいに撃ってくるんだからまだ弾があるんだと思ったらしい、不思議なもんでね、突然ラッパが鳴り出し、一斉にみんな引き上げちゃった。あの点がね引き揚げ方もきれいだしびっくりしちゃった。そのおかげをもって、それだけじゃないでしょうけど、向こうが一応き上げてくれて助かったですけれど。あとで捕虜になった人間(中国人)から聞いたら、この武寧の町は東京を守る第一戦なんだ。この武寧を上手くすればお前たち東京に入れるんだ。そういう教育受けていたらしい。だから彼らは東京に行かれるという事で、武寧さえ乗り越えればあとは東京に入れる。という教育を受けていたらしい。なんともお粗末な教育だったですね。

満期と臨時招集

 それが終わってから、12月過ぎてからちょうど二年になりますからね、満期になりますよね、現役だから。12月末に命令が出て満期除隊という事になった。これは良かったと思って、満期除隊それで同日付を以って臨時召集、2年で帰れると思ったら臨時召集、また2年位勤めなければいけないと思ってガックリした、同時に陸軍伍長に任ずるという。伍長に上げてもらってもねー。

 その前に9月頃に新制度で兵長と言う階級が出来て、兵長になってましたけど、臨時召集で伍長にしてもらった。これは戦時の事だからしょうがないなと思った。あきらめて、ま上等兵で帰ればいいと思ったが伍長になって、それでいいやと思ってね。でもおふくろはまだ帰れねえからあれだろうなーと思ってね、あの当時、戦時中は入隊前に勤め先がある場合は給与が親元に出たんです。私は学校出てから、一時東京のヤマサ醤油の東京出張所に就職してましたから、あの当時給与は70円だった、弟は東宝?に就職しており給料は100円近くあった。だから170円くらいが、おふくろの懐に入るでしょ。だからありがたいことだなと思っていた。あの時代だから醤油は1か月で3号か4合くらいしか配給がなかった。ところが私はヤマサ醤油でしょ、醤油が1升瓶で来たらしいですよ。だから割合悪運が強くてね、あっちこっち上手くいったなと、任期が長引いちゃったけれどもあきらめて勤めることにした。その後、北支の太原(タイゲン)の近くに八路兵(パ―ロピン)、共産軍の兵隊がうろうろしてるようだから、中原会戦という名前でパロピン退治に行くという事で北支に移動したんです。太原と言うところに集結してパロピン退治で入ったんですけど、あの辺は黄砂の激しいところで、目鼻に砂が入らないように防塵メガネをつけたりしていたが、戦は大したことないんですよ、

 向こうは中々ずるいから、まともな戦闘をしようとしないんです。だから今の中国の感じに似てますね、まともに戦闘しないで、今でいうゲリラ戦が上手いんですね。だから部隊が集合して行ったときには、歩くだけで何もいない。夜間になると何か悪さしてくる。それでも大したことありませんから、一か月位で作戦中止という事になりました。そして徐州と言う村に戻りまして、大東亜戦争が始まるまで警備にいた。徐州では半年以上楽しました。その間、戦病死した兵士などが北京の陸軍病院に入ってましたからね、で、「中島班長、お前北京に行って〇〇の遺骨を貰ってこい。」と言われてね、北京に出張して 遺骨取りに行った事あります。

あれは一般の中国人と言うのは、列車にぎゅうぎゅう詰めで大変な苦労していますけれども、私の場合は特別ですから、2畳くらいの個室を貰えて往復行かれるから楽だった。北京の病院についてからも、あの当時16年の半ばですから、戦死者の扱い方も丁重だった。病院でも優遇してくれました。私は部外者だけれど、病院の大きな風呂に一人で入れた。水滴が上からポチンポチンと落ちるような良いお風呂に入れた。戦闘中にあんな良いお風呂に入れるのは初めてだから、良い思いをした。昼は衛生兵がバスを出してくれて北京の市内を観光させてくれた。あの当時、北京の町は平和で、ダカダカダカダかと甘栗の店も出てて平和なもんでした。軍隊に入って向こうのお金で飲み食いしておまけに市内を見物させてもらってまあ良い思い出でね。あの当時中国人も立派な人は、日本人と変わらないように見える人もいてね、街で会って声をかけると「オーデブンミンバイ」という。ああそうですかと。栗のおいしいのを買って、良くしてくれるからと病院の人、病室の人に配ったこともある。三日ほど居て北京の駅から徐州に戻るのに、在隊の日本兵が、戦死した兵の遺骨だからと皆が並んで見送ってくれた。あの当時まだ立派だった。こっちは遺骨の箱を持ったまま列車に乗るだけだから楽なもんだった。そして(列車の)立派な部屋に入って、ちょっとして動き始めてから、ドアをトントンとたたくんですよ。開けたら大尉の肩章つけた人が「大変失礼ですけれども、うちの連隊長が関東軍から南京の部隊に転属することになったので、他に良い部屋がないもんですから部屋に連隊長を入れてくれませんか?」と大尉が頭下げて言うんだから「どうぞ結構ですよ」と言った。連隊長が部屋に入って、大尉は外に出て廊下に立ってるんですよ。「大尉殿もどうぞ」と言っても「結構です」と言って廊下に立っていた。やはり連隊長を守護しなければならないという立場があるんでしょう。徐州まで立っていた。さらに当番兵がお菓子を持ってきたりしてお菓子まで食べられた。大尉のおかげで滅多にないことだった。徐州に着いたらうちの連隊の兵隊がズーと並んでいるんですよ。その後部隊に戻った。遺骨を持ち帰ったおかげで良い思いをした。

歩兵砲と馬

 12月のいくさが始まるまでズーっと徐州にいた。まだあの当時、伍長のままでしたけれども、隣が飛行場なんですよ、そこでね、歩兵砲で馬でもって移動しますから、広い飛行場だから馬運動で走り回るのに丁度いいわけですよ。中隊付きの曹長が意地の悪いやつでね、私が初年兵で入ってから砲にばっかり付いててね馬には付いたことないんですよ、普通初年兵と言うのは馭兵(ぎょへい)といって馬の手入れに付くこともあるんですけれど、砲の手入れなどばっかりで馬に付いたことがないんですよ、勿論だから馬に乗ったことありませんよね、馬はいじったことがないでしょ、それを意地の悪い曹長が知ってるもんだから、「中島班長」「はい」と言ったら、曹長が「今日は馬運動の指揮をとってくれ」、えっ、馬を扱ったこともないのに、指揮を取れって言ったって、取れるわけがない。「これぁー、野郎やったなー」と思った。それで、馬屋にすぐ駆け込んだ。それで兵隊に「俺は明日、馬運動の指揮を取らなきゃなんないんだ、だから一晩で馬を覚えなければなんないんだ、だからおとなしい馬を探してくれ」と言ったの、「班長殿、馬運動の指揮を本当にとるんですか?」「言われたんだから指揮足らないわけにいかねー、俺一晩で覚えるから」と言った。それでおとなしい馬探してくれて、一晩中おぼえこみました。もう必死ですよ。

 それであくる日、どうにかこうにか行けるけどね、だけどね駆け足が出来ないんですよ。駆け足しないためにはどうしたら良いのかなと考えた。あくる日、うちの馬二十何頭いるんですよ。で馬運動の準備して乗って、全部横に並ぶんです。指揮者は一番右端にいる。「右へ進め-」といって頭を右に向ける、「歩度(ほど)詰め、速足」ピカピカピカピカとこれ位なら落ちない。それで曹長は飛行場に行くと思ったんでしょう、飛行場に行ったら駆け足しなきゃなんない。駆け足の好きな男だから。」「今日はみんなの慰安のために街に出るから」と言った。徐州の街の中へ「右へ進め、歩度詰め、速足、ピカピカピカピカ」そうしたら曹長かタカタカと来て「おまえ何処に行くんだ」「街に行くんだ」と言ったら「街に行ってどうするんだ」「みんな休めるから」「それはおかしいじゃないか」「今日は俺の指揮なんだから、俺の指揮に従え」と言って、徐州の街に行って、街に行ったらみんな遊ぶでしょう。だからそこに行った「今日は兵隊連れてきたから」「兵隊を慰安の意味で休ませてくれ、何かごちそうしてやってくれって」おれが、外出の時にきて、金を払うからといって。あの当時戦時勤務と言って給料が増えてるわけですよ、だから懐がゆっくりでしょ、普段使わないから金はあるからね、そういうこと言えるわけです。1日、徐州の街で休ませて、また帰ってきて馬運動の指揮を終わらせた。曹長の顔に「ざまを見ろ」と思った。

 そういう事で部隊の警備は楽でした。大東亜戦争が始まるなんてことは夢にも聞いてませんから、また徐州の山で、幕で山を囲ってウサギなどを追い出し遊んだことなんかもある。大東亜戦争が始まった日、朝5時ころ、非常呼集ラッパが鳴ったんです。あわただしい非常呼集ラッパが鳴り、何事かと思ったら伝令が飛んできて「全員飛行場に集合、服装は第一軍装」一番良い服装なんです。何事が起きたかと思ってね、急いで支度して整列したところが「米軍を攻撃して大東亜戦争が始まった。」と聞かされたんです。

 ただちに命令が出て「南方転進」。だから早いですよ、前から分かってたんでしょうね。「南方転進のため私物の整理をしろ」との命令が出た。それから1週間くらい経ってからすぐ出発しました。南京に集結しましたら、先鋒隊は船に乗って南方に出発した後でした。私たちも二日か三日後くらいに出発と言われていたが、悪運が強くうちの中隊で天然痘の患者が出たんです。だから出発できなくなった。うちの中隊だけ遺留で止まってしまった。それで1か月近く南京にいたんですけど南京見物が出来た。あの当時、南京の街は(本来)見物できなかったが1か月もいれば見物できますよね。将校は朝からあくる朝まで外出できた。下士官は朝から(夜)12時まで外出できる。兵隊は夕飯まで外出できる。だから私らは12時まで帰ればいいでしょ。仲のいい渡辺と言うのがいたが朝鮮の連隊から転勤になってきた男で、成績が良くって下士官になってきた。その男と外出し12時ころまで遊んでた。12時になるころめんどくさいなもう少し遊んでいようという事で12時過ぎても遊んでいた。

 しょうがない帰ろうとした。ところが衛兵には誰それが外出と言う書類が残っているわけですよ。だけど構わねーから、衛兵のいる正門ではなく裏門から入ろうとそこへ行ってから部隊に帰ったふりをするわけ、「歩調をとれ!ピカピカピカピカ(歩く音)」二人で通ると、営門の歩哨がちゃんと敬礼するわけよ、そのまま部屋に入って急いで寝ちゃうわけ、そうすると衛兵が中島班長と渡辺班長がまだ帰っていないという。見てこいと言われて見てみると、二人とも部屋で寝てます。「おーいつの間にか帰ったな」と。そんな悪さをしたこともあります。その後、南京から南方に出発することになって、途中船に乗って、直にいけませんからアモイ(厦門:中国福建省)と言う台湾の反対側(西側の中国福建省)にちょっと止まったことあります。あの当時向こうの現地の人が、日本の軍隊の船が通るとバナナ何かを持ってきて「買ってくれ買ってくれ」とやるんです。買う金はまだ持ってないから、官給品で貰った鉛筆だとか配給で貰ったふんどしの布、あの人たち向こうの人たちは知らないから、ふんどしの真っ白な布を喜んで「これどうするんだ?」と言う。それで「布を頭にかぶってひもで縛って後ろにやると日除けになるんだ」といっていた。ふんどしの布一枚上げると喜んで、バナナをこんな(一抱え)にくれるの。鉛筆一本でバナナこんな(一抱え)にくれるの。だからバナナふんだんに食える。そんなこともあって、あっちもうれしいしこっちもうれしい。

タイのバンコクに入りまして、ルンピニーという公園があるんですけど、そこに天幕を張って半月位居りました。本隊は先に着いてますから、それからビルマに攻撃に入ってますからね。わたしらは。

昭和16年 ビルマ

 あっちこっちあっちこっち見物出来るもんだからこんないいことはない。それに下士官は兵隊と違ってある程度自由が利くでしょう。昭和16年にあんなのは日本にはないけれども、街に行ったら女の裸踊りがあるでしょう。入って見物して、外出は本来できないんですけど通過部隊だから外出が意外と緩やかなんですよ。憲兵がいて「どこの部隊か?」と聞かれると「〇〇の部隊です。」と答える。「おたくの部隊はしょうがないねー、将校、下士官、兵問わず遊んでばかりいる。」櫻井と言う部隊長の印を付けているが「㋚の部隊は遊んでばっかりいるね。悪さしないように遊んで帰ってくれよ」と言われた。

 何回も出ているうちに同僚が先を歩いている。私が後ろで一人で歩いている。(その同僚は)憲兵につかまって何か諭されているような塩梅だった。で私に「おたくは?」と聞くので「今、ルンピニ公園にいる、こういう部隊です」「今、部隊に帰りたいと思ってるんですけど道に迷って困っているんですけど、ルンピ二公園に行くにはどうやって行けばいいんですか?」と「迷ったように言った。」そうしたら「ここをこうまがって・・いけば帰れるから」「ありがとうございました。助かりました。」と言った。迷った振りしたから助かって帰ったことある。兵隊から「班長は遊んでばかりいるじゃないか」と言われた。兵隊は外出厳しいですからね。兵隊から突き上げられたことがあります。

 それからビルマに侵攻するという行動に入れて、少し北上して山の中から国境を超えるわけです。その時、虎が出るから注意って、あの当時、虎が出ようがヒョウが出ようが恐いことねーやって、皆、鉄砲持ってるんだもの、心配することねーや、一つも怖いことねーや、って。出やしなかったけれども。

 本隊は北上したぺルンと言う町から入っていくと、私らはビルマの都市に直に行かれるわけで、途中でうちの兵隊が持ってた弾薬運ぶ馬がお産をしましてね、かわいい馬を生んだんですよ。そのため一日だけ休憩してもらった。馬は大したもんで、生まれた次の日には歩くんだから。兵隊が手りゅう弾を落として探してたんだけれども見つからず、行軍に遅れるから行っちゃったんですよ。その手りゅう弾を仔馬が蹴っ飛ばしたらしいですよ。それで破裂して仔馬が死んじゃったんですよ。かわいそうなことをした。仔馬が折角生まれてちょこちょこ歩いてた。でも(仔馬は)足手まといになるから死んじゃっても仕方ないなと思った。

 ラングーンの街に入ったが、他に戦闘部隊は入ってないから一番乗りなんです。街の中の大きなデパート、商品が貴金属かなんかいっぱい置いてある。だから取ろうと思えば取れる。戦闘中の部隊だから貴金属なんか取ったってしょうがない。で何を取ったと思いますか? 一番欲しいのは化粧石鹸、あの当時あったのはラックス、ラックスの石鹸がありました。そのラックスの石鹸を1ダースくらい取って、せっかく金目のものがあるところに来たんだから、何か良いものないかと、で取ったのが象牙のパイプ。あの当時タバコは吸ってません。象牙のパイプ一本とラックスの石鹸1ダース取っただけです。

部隊に戻ってから「おい、良い石鹸があるからこれ使っていいぞ」ってね。だからたちまちなくなってしまいました。

 片岡の小隊は前線に出発するからと言うんで、トラックが用意されてた。トラックに乗ってイナンジョンと言う、石油の出る、あの戦闘は後で聞いたが、真中にイギリスの系統の兵隊、その周りに日本の兵隊、その外側を中国の兵隊が囲んで十重二十重の戦だったらしいですよ。私らは天然痘の患者のおかげでその戦の後に行ったんだから、大したことないですわね。たまにバチンバチンと音はするけど、ここでも私の場合は悪運が強いというのかね、私の悪運のおかげで中隊皆悪運だらけになっちゃって。それから北上してマンダレなんかまで北上して英国軍を追いかけて、あの当時英軍の兵隊はおとなしかったから、日本の兵隊みたいに殺気立ってなかったから弱かったですよ。だからたちまちビルマからイギリス軍の兵隊みんな追い出しちゃった。逃げるとき川を渡ってインドに逃げた。車両や装甲車やら3000両とか言ってましたけど川を渡れないから、携帯食料やらも重いものは捨てて逃げた。だから進軍中に道路を見ると肉の缶詰やら練ミルクの缶やらが一杯落ちていた。日本の兵隊は練ミルクなんてのは見たことないでしょ、だからこれはすごいなと、私は練ミルクの缶を空けてクッククックと飲んで美味しいわね、飲みすぎて胸が悪くなっちゃった。あの当時ビルマではコレラが流行っていた、日本の兵隊に、それで練ミルク飲みすぎて戻したら、中島班長はコレラかもしんない、病院に入院だとなった。

コレラ患者と共に

 入院する前に、木の枝に荒縄で四方を囲うわけよ、それで荒縄で囲んだ中に入れられちゃう、本物のコレラ患者と一緒に私も入っていた。こっちはうつっちゃいやだなと思うけどしょうがない。本物のコレラ患者が這って私のところにきて、「腕がつってしょうがないから腕を引っ張ってくれ」と言う。肩に足をかけて引っ張ってあげると「ああ楽になった。」と喜んでいる。コレラ患者には(うつらないように)近づかないないようにしてるけど、相手が寄ってくる。2,3日して病院に入れられてコレラでないことが分かった。軍隊だから病名を付けなければならないので「大腸カタル」という事で1週間入院させられた。

プロムの街で

 そのあと中隊に帰ったが、中隊はプロムと言う町に警備でいた。私はその時、3月1日に軍曹になっていたんだけども戦闘中だから伍長のままでいた。中隊に行ったら「遅れたけど進級の申告をしてくれ」と言われ、軍曹の申告をしてプロムと言う町に着いた。そしたら下士官候補の連中が7名か8名が2部屋に入っていた。私も同じ階級なのでその部屋に入った。ところが同じ階級だけれども何かって言うと「中島、あれしてくれ」と言われた。彼らは下士官候補生(志願)で上がっているから、私より3カ月早い。私は同じ軍曹だけれども彼らより3か月遅れていたので言われたことはやらねばならなかった。私にしてみれば現役の私の方が下士官候補のお前らより偉いんだ、というのが頭の中に在った。「何言ってんだ、同じ階級なんだから偉そうなこと言うな」と言って、先任の下士官 神崎昇(カンザキ ノボル)と喧嘩したことがある。石鹸を口の中に入れて口の中が泡だらけになったことがある。

ある時、予備の士官学校を出た幹部候補生が、見習士官で二人うちの中隊に来た。衛兵が立っているところに見習士官が入ってきた。見習士官には将校並みの敬礼をしなければならないが、(衛兵は)戦闘で荒くなってるから、なんだ見習士官かって、上官にする敬礼しかしない、そしたら見習士官が「敬礼の仕方が違う」とひっかけた。私が窓からそれを見てて、そこに行って「ちょっと俺の部屋に来いや」といって、私より1年下が見習士官になっててわかってるから「あのな、あんたら見習士官で階級は上だという事はよくわかってんだ、だけどここは戦場なんだから一般の兵営とは違うんだ」と、だから下手なことしたらえらいことになる。「俺は見習士官でこの中隊に戻った。だからこれからよろしく頼むなということで、兵隊みんなに饅頭でも買ってきてやれ」と言ったの。「これが世間並みの応対の方法なんだ、軍隊なんて言ったって世間と変わりないんだ」「あんたたちこの隊の将校として活動しなければならないんだから、兵隊ににらまれたら大変なことになるから、その辺は気を付けねばならない」私はその辺はよく知ってますから、「兵隊にはある程度気を使って、軍律は元だけれど、周りのものに世間並みに良くしてやることは身につけておかねばならない」と下士官が見習士官を説教したことあります。

 プロムの街にいたけども、長いこと居ると将校の立場から、気に入らないことあるでしょ。その時Kと言う将校がいた。まだ少尉のまんまだったかなー。うちにOと言う同年兵の上等兵のいた、彼が私のところにきて、「今日は外出してください」という。私は「わかった。12時まで外出するから用事があるならその間やっておけ」。私は夜中の12時に帰ってきて、その日のことは分からなかったが、明くる日の朝、点呼の時にKと言う士官が週番士官で赤いタスキを付けてるが、顔が(殴られて)腫れあがっている。夕べやられたなと思った。Kが「点呼終わり」と言って、すぐ引き上げた。顔が膨れ上がっているから長居出来なかった。

 O上等兵に「きのう何かやったか?」と聞いたら「やったよ。いい気持ちだ」。将校相手に「K少尉出てこい」といったらK少尉が軍刀を持ってきた。丸腰でくればひどいことはされなかったと思うが軍刀を持ってきたので「やる気だな」という事でやられた。兵隊7、8人で皆、古参兵になってるから、かれらにやられた。おまけに軍刀のさやの中に醤油を注ぎこまれちゃった。そんな苦労をしたこともあったみたいだ。

私は大した用事もなかった。あの当時のビルマは中国人とあまり仲が良くないが、(日本人に)人懐こかった。「日本の兵隊は大好きだ」という。 何が大好きかと言うと、皮膚の色が日本の兵隊さんと同じだという、それと日本人はイギリス人と違って同じ社宅で一緒に食事してくれる。イギリス人は食事するとき〇〇(聞き取れず)を使わせない。自分たちはフォークやナイフでしょうけど自分たちは手掴みで食べなきゃいけない。分け隔てするからイギリス人は好きじゃない。日本の飛行機はいっぱい来るから大好きだ。「ここから馬車で5~6分離れたとこに伯父さんの家があるから、お寺をしてるから遊びに来なさい」と言われもてなしを受け遊んだこともある。誠に気持ち良かった。

帰国

 8月の末にようやく、臨時召集されてから2年経った。計4年経った。ようやく帰る命令がもらえた。8月に全員一緒に帰ればいいんだけどもイギリスの船がいて危ないからと言って、部隊を3回に分けて帰る。中島班長は最後の組、という。8月と10月 なんで俺が違うんだ。早く帰りたいでしょう、なんで俺がしんがりなんだ、冗談じゃねーや、一緒に来た連中が先に帰っちゃうのに、私はしんがり、馬鹿にしてやがんなと思って。でも命令だから従わなきゃならないやと、12月までビルマにいなきゃなんないでしょ、で8月に帰っちゃう、10月に帰っちゃうってね。

 その間、山田長政がいたっていうサンチホウとか、あっちこっち見物して、ようやく12月に乗船命令が出て船に乗って、シンガポールに着いて、シンガポールで半月位、また街の中見物出来るでしょう、大戦の開戦したホールの観光施設が出来ていた。3畳くらいの狭い部屋だった。ビルマ出るときシンガポールで使える通貨に、日本円で15円くらい替えた。行ったら食べたいものもあり金使った。それから映画があり、巻きたばこを1ッ本やると見せてくれる。金、使っちゃった。最後に日本の料理屋に行ったら、天ぷらがいい塩梅に上がっていた。これがあるなら金使わないでいたらよかったなーと、天ぷら食いたいけど金がないしなーと、同僚2人と眺めていた。そしたら中から仲居さんが出てきて「二人で何しゃべってんの」と言ってきた。日本人だった。「天ぷらがあるとしらなかった。天ぷら食いたいなー、でも金が無いからしょうがないよ」といった。そしたら「私がおごってあげるよ」といって、おごりで天ぷら食べさせてもらった。あーいう事もあった。シンガポールを観光で歩いた。

 あの当時、現地の人もタバコ屋などなかったから、私ども宿舎の床下に潜ってきて、下から「ポンポンポンポン」とやるんですよ。「なんだ」というと、「プリーズ シガレット」と言ってくる。床の割れ目からタバコを落としてやると、喜んでいた」あんなこともあった。ようやく、シンガポールを出発して台湾の高雄に着いが上陸できなかった。

 その次は何処に行くかと思ったらフィリピンのマニラ、これも船が無いからまたいなきゃなんない、これでまた街を見物出来るから、私は軍隊にいて戦闘もしたけど見物もした。マニラの街で映画館に入ると、映画は英語の字幕が出る、しゃべるのは日本語。やはりところ変われば品変わるだな、と思った。遠くに行くと危ないから、子供たちにおまえたち相撲を取れ言ったが、相撲と言っても何だかわかんないから、(拳闘の身振り)これならできるというので「やれ」と言った。そしたら「プリーズギブミーシガレット」タバコくれと言う。タバコあげたら子どもどうし拳闘のマネして見せる。あの当時、マニラの街の家屋を見ると電灯が、皆、蛍光灯だった。日本は裸電球だったけれども、向こうは潜水艦で使った蛍光灯を家庭で使ったらしい。マニラに半月くらい、ダンスホールを宿舎に変えて、私たちは端の方に天幕を張り、真中に通路があり反対側は他の帰還部隊の兵隊がいた。すると真中で何かが起きる。兵隊生活長いから喧嘩なんか慣れてる。喧嘩が始まると「オーヤレヤレ」となる。今だったら「止めろ止めろ」というけど、あの当時は「もっとやれもっとやれ」だった。気が荒くなってる。

 でようやく船に乗って、日本の内地へ帰れるとなった。私たちが乗る船一艘だけなんですよ。あとは〇〇組んで7~8隻が一緒に帰る。この船はまだ上等で船足が早いから一隻でもって帰るんだ。船足早くて早く内地に帰れるんだったらいいや、と思ってそれに乗った。船の中では麻雀やって遊んでばかり、暑苦しいから甲板に出て涼んだこともあった。甲板に出てるときタバコか何か知らないが「チカ」と光るものが見えた。海軍さんが乗っていたので知らせたところ。敵の潜水艦だ、狙われるかもしれない。とすぐに応対して、(航行が)ジグザクになった。そのうち爆雷を投げ込むでしょう、あれすごいね威力がね、「ドグーン」と走っている船が引き戻されるようなね勢いでね、いい塩梅に当たらないで門司港に入れた。当時、門司と下関の間に連絡船が走っていた。みたらお母さんがねんねこで子供を負ぶっていた。あ~漸く日本に帰ってきたなと、下関に到着して、言っちゃけないんだけれども呉で郵便局から家に「今呉に到着した。明日あたりには水戸に戻れるから」と、あの当時、トランク2本に土産物を持って帰った。日本にないような土産物を持って帰った。「土産を渡さねばならないので水戸の駅で待っててくれ」と電報を打った。いーあんばいに届いたらしい。電車が上野から常磐線に入るとい思ったら、山手線回りで、水戸に着いたのが夜中の2時ころだった。呉で(検査で)荷物を検査されたが、皮の靴を検査員に上げ見逃してくれと言った所、「いいよ」と言って見逃してくれた。駅にはおふくろがいないので、水戸の隊にトランク2つ持って部隊に入った。隊に入ったら仙台の人事にいた人が将校、少尉になっていた。「オー中島帰ったか」「何とか無事に帰りました」「よかったなー。お前、軍隊に入る時2年経ったら帰ります。と言ったなー。お前大したもんだな―あんな兵隊初めてだぜ」と言われたことがある。褒められてうれしくなっちゃって「何か上げましょう、と皮の靴とかバンドとか、あげましょう」と言った。「これは何だ」「これはマラリアの薬だ」「これは官給品だから持ってちゃまずいんだ、これは持って出られないから返して出ろ」といわれ、せっかく沢山持ってきたマラリアの薬が全部取られた。一日二日この隊にいりゃいんだからと思った。何も用事がない。飯の時間になると、兵隊が食事を持ってまいりましたと食事を持ってくる。すると古い兵士が「何だこの飯は」と難癖をつける。それだけ気が荒くなってる。「おまえの班長呼んで来い」という。(相手は)下士官だが、平の兵隊がビンタする。「は、申し訳ありません」という。そんなこともあった。「おまえ上官に向かって無茶するな」「だってこいついなまいきだもの」こんなだった。2時ころ、風呂に入るからと言って風呂に入った。だれもいなかったがそのうち1人入ってきた。「お先に失礼します「あどうぞ」といって、私が先に風呂を上がり服を見たら相手は「べた金(将官)」だった。こんなえらい人と同じ風呂にはいちゃった。こんなこともあった。そうかとおもうとビルマで買ってきた、営内で履くような半長靴を履いてたら、下級の将校が「おい、お前」といわれた。こっちは軍曹だから言われてもしょうがない「その靴は何か?」「ビルマで買ってきた半長靴です。」といったら「そんなもの履いて営庭歩いちゃいけない、ちゃんと隊の半長靴を履いて歩け」「はいそうですか、すみません」やたら訳の分かんないのが威張っていた。そんなこともあった。

 8月に帰還命令が出て、ようやく身軽になったのが4月29日、天長節の日。4月29日にようやく営門を出た。そしたらおふくろが来てて「おまえ、ようやく帰ってきてよかったね」と。そしたら「トシオ(弟)がここにいるよ」という。弟が5歳下なんだけど、新兵でここにいるという。「何だ早くわかっていたら良くしてやれたのに」とおもった。面会票を書いて「中島と言う二等兵に会いたい」言ったら、出てきた。(弟は)「兄貴がいたんか。ビルマから兵隊が帰ってきたと聞いたけど、怖くて声かけられなかった。」そりゃそうでしょう、現役の伍長でもビンタとられるような兵隊たちだから。いることも分からないからね。「中島と言うひとが居ないか」と聞くこともできなかった。

ある時、酒保に行ったら「おまえ中島か?パンが欲しいなら好きなだけ売ってやるぞ」と言われたという。当時は1人何個と決まってたらしい。「それじゃ3個ください」と言って食ったことあるという。聞いたら自分と同年兵で先に帰った兵隊だった。私の弟だとわかったから、余計売ってくれたという。ということでようやく内地に帰れて、苦しいこともあったけれども、後で思えば、いろいろ見物出来て海外旅行みたいなもんだと、あきらめたこともありますけどね。

ビルマにいた頃

ビルマにいる頃は、行軍行軍と暑い最中を、水筒に一本の水しかなく歩いたこともある。その時乾季で、大休止では、3食ご飯を炊いて休憩する。馬に水のませるにも水がない。水が無いから硬い川を掘る、体が入るほど深く掘る。染み出した水をコップにとってそれで炊飯したり飲み水にする。えらいもんですよ。そんなにして苦労して水を飲むとき、他の隊の軍医の隊が来たんです。ひょろひょろになって、「兵隊さんすまんけど、コップに半分でいいから水を飲ませてくれ」そしたら兵隊が「冗談じゃないやこれだけ(集めるのに)どれだけ苦労したと思うんだ、やるわけにはいかねえんだ」と断った。

 そして、私をみつけて「班長殿、これに半分でいいから水を飲ませてやってくれないか」「兵隊に頼んだら断られちゃった」という。「そうだろうな、兵隊もこれだけ水でも大変なんだよ」あまりかわいそうだから兵隊のところに行って「悪いけど半分水を分けてくれないか」「飲ますんか、ちきしょう、うるさい野郎だ」といったが班長が言うんならいいやといって飲ませたこともある。

 もう上官も糞もないんですよ。もう人間の気持ちになっての応対ですわ、戦場は。だから何で敵の兵隊を殺さなきゃならないんだ、と言う気持ち(になった)。挨拶をしたこともない、良いも悪いもない人間を敵だと言って殺さなきゃなんないという、戦争というなー、惨いもんですよ本当に。そして精神的に荒れてるから、死体が半分になってるのを見たって、どうもなんなくなっちゃってる。砲弾を撃った後に向こう側に行って見ると、死体がちぎれて落っこっていたり、それを見てもどうもない。田んぼの中に沢山死体が転がっていて、そのわきを流れる水を飲んで「おいしい水だな」と飲んだ。

 夜行軍で真っ暗な時に、「チョロチョロ」と水の音がするので近づいて飲んだことがある。次の朝、見てみたら汚ったない水で、ボウフラが沢山いる。そんなこともある。いろんなことがありましたよ。

一回は、大休止という事で板の間で寝そべっていたら、「バチッ」といって脇腹抜けて、こっちに抜けてきた、向こうの兵隊が刀で雨戸越しに刺した。脇に抜けたから助かった。そしたら兵隊がたちまちその敵を殺しちゃった。あーゆう事があった。

 ある時は、中国で大休止で田んぼに寝てた。出発と言ってみんな出発しちゃった。月夜の晩だったが、目覚めた時誰もいなかった。あの当時1000m離れたら便衣隊にやられるという事があった。それなのに私一人だけ田んぼに寝てた。「これはえらいことになった」と部隊が行ったと思われる方向に歩き出した。そしたら騎馬伝令が馬で「パカパカ」ときた。「中島班長か?」「そうだ」「あー良かった」、今、後尾異常ないか、後尾異常ないかと(点呼したら)「中島班長居らず」となった。それで騎馬伝令が急いで探しに来たという。「無事でよかったなー」と思ってね。

 また、凄い急な山が石山で滑るんですよ、そこで砲身を積んだ馬が滑りおちてしまった。それで私と小銃持った兵隊と馭兵(ぎょへい)の3人で、砲身馬の荷物を積みかえ砲身も積んで出発しようと思ったら「パカパカパカパカ」ヒズメの音がする。そしたら私らの後にきていた山砲隊がここに来た。

 山砲隊が来るから心配ないやといったら、小銃持った護衛の兵隊が「俺、糞したくなった」という。「今山砲隊が来るからいいよ」といった。で馬の音が聞こえなくなった。山砲隊はこっちに来ないで別な方向に行ってしまった。「こりゃーえらいことになった。それじゃ小人数で部隊を追いかけなきゃなんない」。闇夜だから、木の枝に付けた白い紙(目印)を追いかけて行った。そのうち分かれ道に当たり山の方向と下の道を行く分かれ道だったが、下の道の方向に行った。敵がいるといけないからと、拳銃はすぐ撃てるように準備し、刀は背負ってすぐ抜けるようにした。白い目印を付けながら、ようやく部落を通り抜けて行ったら、向こうの方で中国語でしゃべっている。これは道まちがって、中国の部隊の方向に入っちゃったな。ちょっと待てと言って、這って話が聞こえるところまで行った。

 そしたら「ニーカカンゼ?」という。あーいう言葉は日本の兵隊しか言わない。これは日本の兵隊が使っている苦力の隊だから心配ない。といって、案の定行ったら衛生隊がいて、追いついたこともあるし、何というか、いろんなことがありますね。

水戸連隊

20年の春に本式な招待があって、水戸の連隊に終戦までいたんです。でも行くにも出る船が無いから行かれなかったらしいです。3回に分けて帰ったけどもこれは運がよくって、1,2回で帰ったのは南方や中国に召集で出た。私は出る船がなくずっと内地にいた。

(司会者質問:水戸に2回目に入られた時、そういう状態だったんですか?)

水戸に入った時、私より上にいたのは、中隊長で何もわからない中尉、なったばかりの見習士官、ロートル(年寄のこと)の曹長、その次が私だった。「中島班長、こういう時はどうすればいいんだ?」と聞く。その時の中隊長をO中尉というんだけど敬礼の仕方もわからない。「正式な敬礼の時は軍刀はどうすればいいんだ?」とか、そんな兵隊ばかしだった。陣地構築なんて言ったって、構築の仕方を知らなかった。

 水戸にきて受けたのは艦砲射撃だけです。鹿島灘の沿線の艦砲射撃を受けた。艦砲射撃は私は水戸に行って初めて受けた。それまで艦砲射撃なんて受けたことない。住民に早く防空壕に入りなさいと言ったら、布団なんかを被って防空壕に入るもんだから、防空壕がすぐいっぱいになる。それで「防空壕に入る時は布団なんか持たないで体だけで入りなさい」といった。ある時、子供をおんぶした人が居たが、子供の首がないの、砲弾の破片で子供の首を削いじゃった。お母さんは知らないまま防空壕に入った。水戸の航空隊があるが、空襲警報が鳴ると一斉に飛びたつ。戦するために飛び立つかというとそうじゃなくなく逃げるために飛び立つ、だらしないもんですよ。向こうの飛行機がいなくなると日本の飛行機が飛んできて。

質疑応答

(司会者質問;中国で捕虜になるという事はよくあったんですか?)

中島さん

 たまにはある。1回捕虜になった兵隊がニコニコして帰ってきたことがある。「お前良く帰れたな」と聞いたら、「向こうは給料良いぞ、食事が出て、1週間なり働かせて給料が出た。」給料もらって無事に帰ってきた。だからその男またいなくなっちゃった。これは良いと思って。

 日本の軍律というのは、重く受け止めて自殺する兵隊、私の部下のK(公開時イニシャルに)という上等兵が自殺した。戦闘中に田んぼの陰のところで、私が命令の整理していた時「バ-ン」と小銃の音がした。そしたら兵隊が「敵襲!」と言ってあがっていった。敵襲じゃなかった。Kが自殺した。行軍がつらくって自殺した。これは戦死という事でだしました。私が後で見たら功績が無いんですよね。戦闘中に戦死して功績が無い兵隊というのは無いから、これはどういうわけです?と聞いたら、「お前も知っているだろうけれども功績付けられんだろう」と言われた。しょうがないですわね。中には立哨中に銃口に手を当てて足で引き金引いて、ガス壊疽で腕切っちゃったのもある。中には速射砲の兵隊が、太陽熱で砲弾が自然爆発し、砲弾を持っている指先が全部なくなっちゃった。ほかの兵隊があーあー騒いでいるから、私その兵隊の手を掴んで危なくないところまで引っ張ってきて軍医にきてもらった。軍医は(手の)神経やらなにやら「ちゃっちゃちゃっちゃ」切り落して包帯を巻いて「下げ」という。軍医も荒いからね。中には自分の腹突き刺して自殺したのもいる。腸が飛び出しちゃう。軍医はそれを腹に戻すのではなく腸を切って捨てちゃう。そして包帯する。えらい粗いもんですよ。

私は腕に破片が入った事ある。麻酔もなしに切って取り出し、おわり。戦地はそんなもんです。

 休憩して、兵隊を枯れた川の下で休ませて、私は見るために塀の高いところに横になって寝ているうちに居眠りして、競馬の夢を見た。梯子みたいな所から馬が首を出して、それが上がるとばーばーと馬が走り出す。パンパンパンパンいうから見たら後ろの山から撃たれてた。わっと下に下がってどうもなかった。いろんなことがある。

あの当時の軍馬というのは良く知ってる。山と山の間をすり抜けないといけない、兵隊がちょろちょろするので機関銃で「ババババ」撃つ。止んだ途端に(尻を叩くと)バーっと通り抜ける。その時次の馬が行くかというと行かないね、ちゃんと待ってる。また兵隊に機関銃を撃ち撃ち止むと、尻をたたかなくても馬はバーッと通り抜ける。馬もちゃんとわかってる。中には馬は足折ったらだめですから、これは殺していかなきゃしょうがないや、そしたら馬が泣くんですよ。初めて知った。涙が出るようだ。「おまえな、ここにいてもしょうがないから」といって、表情も悲しい表情してる。殺して引き上げたこともある。

 川を渡る時、石が2本に積まれて渡れるようになっている。馬は石を踏み外して倒れ横になってしまう。そして足を折ってしまう。しょうがないから足切って流しちゃう。そんな悲しい思いもした。中国で戦死したのは少なくて、中隊でも死んだのは百人位しか死んでない。インパール作戦まではみんな元気で、インパール作戦に出た人は私の顔見知りが多いがほとんど死んじゃっている。

あんな戦をしてるのに、牟田口というのは、あの司令官馬鹿だね。将校の服着てると危ないからと兵隊の服着ている。狙われるから。あんなのを軍司令官にするような当時の軍の幹部というのもいい加減なもんだ、本当に。兵器もね何ですか古い兵器ばかりで、向こうの歩兵が持ってる銃は「ババババ」と出る。日本の兵隊のは「バツン」「バツン」と出る。勝つわけない。だから同じ兵器を持ってれば負けないなという気持ちはある。

司会者 「うその38という言葉があるが、あれは当たらぬ38という意味ですか?」

中島さん

 「そうです。」

 終戦間際になると向こうも慣れた。日本の兵隊というのは、敵の陣地に対してはじめ砲弾を「バン」「バン」と打っておいて、その間に歩兵がズーッと行ってて、「もういいぞ」と旗を振って砲弾を打つのを止める。そして向こうの陣地に飛び込む白兵戦です。白兵戦をやって勝つ。向こうのはそうじゃない。陣地に入ってこられると困るという事で鉄条網で張る。それで火器でもってバンバン撃つ。それで入れないようにする。夜は夜で一晩中照明弾で明るくしてる。だから日本の兵隊が草が揺れたりすれば判るが、人が居なくても居なくても「バンバンバンバン」撃つ、日本軍が1発撃つと祭りじゃないが100連発が来る。兵器が違う食べ物が違う。日本の食べ物は、飛行機から落とすときそのまま落とす。だから樽のものなんか割けちゃう。向こうは落下傘付けて落とす。あれが違う。何でもかんでも違う。

 戦車にしても、最初のうちは向こうの戦車が来ると日本の戦車隊が任しとけと出ていくが、しばらくしてからみんなやられて戻ってくる。向こうの戦車は(装甲が厚く弾が)通らないが、こっちの戦車は(弾が)通る。それだけ向こうは人間の命を大事にしてる。航空機もそうだ。操縦士の命を大事にするようにしてる。戦車も勿論そうだ。日本が徹甲弾を撃ってもその時は止まるがすぐ動き出しこっちに来る。日本の徹甲弾は装甲を打ち抜けなかった。終戦近くの時、速射砲の弾が二十何ミリで相手の装甲を打ち抜けなかったが、三十何ミリの弾をドイツが作った。それが潜水艦でインド洋まで来て日本にくれた。でもそれは日本の速射砲には使えないから、山砲は口径が同じだから山砲で(タ弾という砲弾)を撃って、インパールの中隊が全滅した時にセイミヤキヨシという兵隊が、山砲の隊長に「タ弾使いましょう」と進言し、それを撃ったら向こうの戦車を3両擱座したという。そしたら他の十何両いた戦車が引き上げていった。それだけ向こうは命を大事にする。向こうの兵隊は1日戦したら1日休むという。だからこっちは今日攻めてきたから明日は来ないとわかる。日本は人も少ないし弾も少ないので休むかと思ったら、明日の戦のために自分の身を隠す壕を掘らなきゃならない。日本の兵隊は休めない。身を隠すだけなので(約30cm)掘れば十分なんだけども土が固いと大変、だから日本の兵隊はえらい苦労した。

 現役の頃、「おまえら何だ、消耗品みたいなもんだ。」あの当時はがきは1銭5厘です。「1銭5厘で兵隊は何十人でも来るんだから」こんなアンバイだった。人の命をどう思っているのか。そういう教育に持っていった軍隊の幹部というのは、馬鹿たればっかしだ。終戦時の上に残っている兵隊は皆ひどいもんだ。馬鹿ですよ本当に。

私の同年兵でT・T(公開時イニシャルに)というのがいる。捕虜収容所に勤務していて気に食わないことがあるでしょ。捕虜を引っ叩いたことがある。それが元で刑務所に入ってた。10年近く入っていたらしい。収容所で東条さんの背中を流したって。この男はまだ元気で水戸に居ります。

参考資料

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戦場体験放映保存の会 事務局

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