永島 ヤスさん

| 生年月日 | 1930(昭和5)年2月23日生まれ |
|---|---|
| 本籍地(当時) | |
| 所属 | 兵器補給廠 |
| 所属部隊 | 879部隊 |
| 兵科 | |
| 最終階級 |
プロフィール
5~6歳ごろ満州に渡る。父は奉天の満州工廠で勤務。奉天ジョウトウ国民学校高等科から奉天の造兵廠(兵器補給廠、879部隊)に動員敗戦直前に清原に移動し、そこで敗戦、暴動に遭う。刑務所に収容奉天に戻され社宅で引揚げを待つ。博多に帰国
インタビュー記録
清原(せいげん)で敗戦を迎える
879部隊ってねあったんですがね、鼻くそ部隊ってね。
聞き手(それも永島さん発案ですか?)
そう。そういうのが多いじゃない。その時は免許なんかなかったけどもね、やってましたね。
(注:879部隊、兵器補給廠満州支廠(奉天)。証言に造兵廠と出て来るが、1940年に造兵廠と兵器廠が統合し、正式には兵器補給廠となっている)
今までのは余談ですけども。まずね清原というところへ行ったいきさつなんですが、本当は奉天にいたんですよ。私たちは奉天の満州工廠というところへうちの父が働いていて、おじがそこの厨房をやっていたんですね。
それですから、そこにね交番の派出所というのがあって、そこにセガワさんという方がいらっしゃったんですね。
で、空襲が激しくなったので、その方はね、清原というところへ行ったので、私たちを母にね、こっちへ来た方がいいからっていうことで「セイゲン」っていう、「清い原っぱ」っていうところへ行ったんです。
それがね結局は先ほど申しましたように馬賊の巣だったんですね。盆地なんです。それでね、終戦になった時に憲兵がね2人、元憲兵だね 結局は。もちろん憲兵の服は着てないですよ。だけど、女子供だからということで、私の方へ毎日のように来てくれてたんですね、お二人で。
そうしましたら、まあ、終戦だから、ある日突然、もう日にち忘れましたけども、ちょっと話し飛ぶんですけど、そこの村っていいますかね。そこには郵便局なんですが、そこで電話の方もみんなやるわけですよ。ある日、もうほら終戦になったので、奉天の方と本部の方と連絡をするんですがね、聞こえるんですよ。ワーワー、ワーワーなんか喋ってるものは。
それでね、そしたらまた駅の方から電話が入ってね。私は、手のひら、イブクロブンキチ(人名であろう)かな。珍しいでしょ? イブクロブンキチと申しますが、今この駅へ来たので、自分たちは立派に戦死したということを、熊本かな…?ちょっと今、忘れましたけども、その方に言ってほしいと言って電話が切れたんですよ。
それで私、心配になって、ガーッとまた電話で、呼んだんです。そしたらね寝ぼけまなこの声でね「はいはい。」って出たから、そこに今ね、ひとり男の方が倒れてませんかって言ったら、「誰もいませんよ。」って言う…。駅のとこだから、いるはずでしょ? それはそういうふうに言われたんですね。で私ね、えー…って胸騒ぎがしてね、また話飛ぶんですけれども、私と亡くなった兄は、霊感っていうのかな、そういうのがね、あるんです。
この前もあったけどね、それは別ですから。それでね、おかしいなと思って心配になったんですがね。それは、その時終わったんです。それからしばらくしてから、終戦…もちろんね。
こういうほら、よく鹿児島なんかであのお酢とかなんか作るって言って、こんな大きなカメがあるじゃないですか。そこの中にコーリャンを入れて、コーリャンの中にね、手榴弾を入れてあるんです。いつでも自分たち、自爆するということで入れてあったんですね。
●現地の人の襲撃を受ける
そしたらある日、日にちちょっと覚えてないんですが、「スイヤー」(誰何、警備の時に相手の確認に使う言葉。正確にはスイカと発音する)って言って、誰だって言うんですよ。向こうから来てね、誰だってことないでしょ。
それでねバババーンって撃ってきたんです。それなもんでね、みんな固まってね、入り口にいたから、手榴弾なんか取る暇もない。
それでみんなでねワーッと外へ出て、それこそこんなぐらいの細い道を表の方へ出たんです。で、表の角には大家さんがいて、布地やなんかの、そこもほら、出張先なんていうかな? その家へ入ったんです。
そうしましたらね、今度ねその裏からね、石を投げるんです。ほいでね、バンバンバンバン投げるので表出るでしょ。そうするとまた表で今度、鉄砲をバンバーンって撃つからまた中に入る。その繰り返しだったんですね。
そしたら最後は兄なんですがね、その兄が、連れがいないから戻ったんです。そしたらね、青竜刀って知ってる? おそらくそれだろうと思うんですね。信じられないんだけど、両手両足だるまさんでしょ。土間に転がってた。
それでね、うちのミヨジマ。あれなんですよね。連れてこようと思った。だけど自分は絶対助からないんだから、こんなで、だからお前だけでも逃げてくれって。
この敵(かたき)は、絶対に七度生まれ変わっても、私はこの話は本当にしたくない(思い出して涙を流されていました)。七度生まれ変わっても必ずうつって…そう言ってミヨジマもね。最終的には兄になったんですがね、泣いて台所のね。ほら石の流しの下に首突っ込んで、私たちもみんなね、それ聞いてね泣いたんですけれども。
そうしているうちにその狭い路地の反対側に、サトウさんという方がいるんですね。サトウさんという方は、女の子をミチコさんか、確かミチコさんだと思うけど、ミチコさんを養女にもらって。本当にいいご夫婦なんですね。そのご主人が鉄砲で撃たれたんですよ。お母さんがもうこれじゃダメだからと言って、台所で娘の首を切ったんです。ここ(首の後ろ)からこういうふうに(喉にかけて)切っちゃったんです。ご自分はお風呂場のあれで首吊って亡くなって…。
お母さんにしてみれば、それで娘はもう死んだと思ったんでしょ。そしたら周りから中国人が来て、着ているものを剥がそうと思って部屋中を引っ張り回して。だけどほら女の子だから、まだ意識があるから抑えて頑張ってたらしいのね。そしたら中には良い人がいて、お世話になったんだと思うんですよね。その人が担架に雨戸を乗せて、駅の前には鉄道関係の方がみんないるんです。電気を通しているから入れないでしょ。だからそこへ置いて来たんですよ。
●留置され、自決者が出る
それで私たちは本当にね刑務所に入れられて、それで庭にみんな座らされて、高い塀の上に機関銃を据えているんですね。中にはピンクの消毒液、昔そういうのがあって、それを子どもさんに(飲ませて)、もちろん自分も飲んで。赤ちゃんとお姉ちゃんにそれを飲ませて。そしたらポンポン痛いよって、赤ちゃんはグエーって吐くわけですよ。お母さんはそれを抑えて吐かせないように。もちろん自分もね、飲んで。お姉ちゃんにねお薬飲んだんだから当たり前よって言って。そしたらそのうち赤ちゃん亡くなったんです。
そしたら留置場のところをね、入ると真ん中でこちら側にたまたまお父さんがこっちにいて。うちのミヨジマね、先ほど言った、さっきはね、うちの姉と結婚したんですがね、それがね。お父さんが見てるわけですよ、赤ちゃん死んだの。それをね、マータイの袋(麻袋)にお米を(入れる袋)…あれをね、あれの中に赤ん坊を入れて。ほいで担いで外へ行ったんです。
ということは当時はね、今はそれはないでしょうけども、向こうはね、犬が食べるんです。ノブコも食べられてるんです。だからねお父さんはね、自分の子供はね、犬に食べられると。どんな思いでね、あれしてるかなと私は思いましたよ、その時は子供でもね。14(歳)だったからね、確か。
それでね、うちのね、ノブコはまだ息があったから、そしたら「どうしたんだ」って言うので、水、水、「スイ」って言うんですね。「ないから」って言ったら、持ってきてくれて、飲ませてくれたの。だから私、その時ね、あ、これは「大夫(ダイフ、立派な人物のような意味か)」だなと思ったんですよ。ほしたらうちの姉も、ほらミヨジマがね、会いたいから、時計を渡して会わせてもらった。
そしたら、その当時ほら、憲兵の服なんか着ておれないから、ラシャってね、こんな厚いね、おそらくお分かりじゃないと思うけど、それを着ていたんですけどね。それを着ていてそれに会って、一応姉も生きててよかったと思ったでしょ。そのね捕まった時はね、道路のね、先ほど言った表、表通りに引っ張り出されてね。こんなね畑の周りを囲むこんな木ね、あのガサガサとして(る)、それでね叩くんですよ。
それでうちの姉がねやっぱり好きだから、それをかばって上に乗ったわけ。そしたらそのミヨジマが逆にここ(自分の体の下)中に入れて。そしたらうちの弟がね体が大きかったんですよね。そしたらね、「男(が)いる。」って言うんです。で私が弟に「しゃごめ!(しゃがめ?)。」って、こうやって(服を)引っ張って。そしたら向こうで分かったらしいんですよ、子供だって。でそのまんまミヨジマは連れて行かれちゃったんですね。
だから、それで話が戻るんですけどね、時計渡して、会って、ということでね。
●清原の駅に向かう
それからね、私たちは、駅の方まで、清原のね駅の方まで鉄砲突きつけられて。ほいで走るってね、ようにして、まあ走るっていうかな…小走りかな、ぐらいでね、駅まで行ったんですけどね。それで列車に乗ったんです。もちろん、もう、水も何も飲んでいないですよ。
その前にもね、社宅なんか行ったんですけども、ご自分たちがそんな思いすると思わないから、自分たちおにぎりなんかやって食べてて、私たちには水もくれないんですよ。まあ最後はその方たちも一緒にね、刑務所の庭に来たんですけれどもね。
うちの…その人なんか裸の方もいらっしゃってね。上(上半身)がね。だからうちの母は自分の着てた羽織を、その方に着せてあげたりしてね、うちの母もね、いろいろと面倒見がいいから。そして今度、庭に入れられたんですよ。大きな畑の中に。そしたらこんなね、こんな(小指ぐらいの)小さなきゅうり、こんな曲がってるんですよ。
それをね、みんなお尻叩かれたりなんかして、軍票(軍が発行した通貨)っていうのかな。そんなのみんな取られて。それでね、ねんねこ(背負い半てん)のノブコをうちの姉がおぶってたから、ねんねこもなんもね、この入口のところっていうかね、そこでみんなが待ってるんですよ中国人が。それにみんな取られちゃってさ。
こんなの(小さいキュウリ)をね、うちの母がやっぱりね、子供がかわいいから、こんなん(すごく小さい)でも、本当にこんなんですよ。それを私にくれたの。私はね母の気持ちはね十二分に分に分かってるんだけども、腹が立ってるわけよ、もう。それでね「自分で食べればいいでしょ!」ってね、母を傷つけるようなことをね、言うんですね。私はね、内心はね、本当に悪い。
だから今でもね、きゅうりを見るとね、母のことを思うんですけどね。だからきゅうりは絶対にね、少しぐらいのものでも残さないでね。今でもいますけどね。まあそんな思いもしてね。それで清原の駅へ行きましたでしょ。そしたら、救世軍ってご存知でしょ? でね、
車に乗ったら、ここを切ったサトウミヨちゃんがね、いたんですよ。ちょうど私と背中合わせで。ああ、ミオちゃんよかったーと思って「大丈夫?」って言ったら、気の強い子だから「うん」って言ってね。そしたらその救世軍の人が窓からね、チェンメン、今で言うと、こっちで言うクレープみたいなのに、いろいろ炒めたものを載せてくれたんですよ。もちろんお皿なんかないからね。
それで私たちはその時ね、毒でも入っててもね、一思いに死んだ方がいいからと思って食べたんですよ。そしたら何でもないでしょ。
だから今でもね宝くじが当たったらね、小泉さん(元首相)の方とね。小泉さんの方は3.11で進駐軍の人(正確には「トモダチ作戦」に参加した米兵)が来て、その時は被爆のあれ(影響)なんかわからないから飲んだりシャワーしたりして、その方が今、国へ帰って、もちろんなくなった方もいるし、するけれどもアメリカでは何も(補償を)してくれないんですって。だからベッドにいる方ももちろんいるけれども、だから小泉さんは日本のためにやってくださったんだから、寄付をお願いしたいっていうことを新聞に出たんです(「トモダチ作戦被害者支援基金」通称「小泉基金」)。
だから私がね、宝くじが当たったらまずそこへやって、あとは救世軍のほうとか、あと難民のだとか自分には何もいらないけれど。
●満州で亡くなった姉夫婦
姉がそういうことで別れて、兄夫婦が。私が憲兵だから、もしものことがあったらと思うから、私が残るって言ったんですよ、姉と。姉がお腹が大きかった。だからね、そしたらダメだって。女の子は残ったらあれだから自分が残るからって言って、で別れたんですけども。それがそれっきりでね。
一緒に行った方はね、お産婆さんと、ご主人が結核かなんかで具合が悪くて一緒に行ったんですね。ところがご主人が亡くなったので赤十字の船で奥さんは帰ってきたんです。それで帰ってから、ミチの方に連絡があって、うちの姉が向こうへ着いてから男の子を産んだんですって。だけどすぐに、栄養失調でしょうね。亡くなったと。
それから今度兄がね、中国語わかんないんですよ。だから仕事に行ってもお昼かどうかわからないじゃない。それでボンボンボンってなんだかこうやってね、やってそしたら向こうでわかったらしくて、それでお昼を食べて。それでそんなことやって帰ってきたんだけど。そしたら結局は産後の日立ちが悪いので、幾日もしないで姉が亡くなったんですって。
それで今度兄が、よくわからないんだけど伝染病、疫痢だか赤痢だかになったんですって。で隔離されたと。で一緒に行ったね、その方がそういうふうにおっしゃってたんですがね。後でね。手紙で(聞いた)。
それでそれがそのままで、鉄嶺市(てつれいし)の方で、みんなそういう人をあれしたって言うんですが。私もね向こう同窓会でね行ったんですよ。元のジョウトウ小学校へね。ジョウトウ高等小学校に行ってね。毎年そこに送ってたんです。うちの方から学校へ。それで、創立記念だからこっち来ていただきたいということで、向こうへ行って。その時にの方やなんかを向こうの人にねあれして探したんですよ。妹と二人で。だけどわからないんですよ、どこにあるか。散々探して。
それで今度、弟が単独で自分の娘を連れてやっぱり鉄嶺市の方を探したけど、そういうのはないって。だからどうしたんだかね。いまだにわからないんだけど、おそらくその辺に捨てて犬が食っちゃったんだと…食っちゃったって言うことはいけないけど。向こうはそうなんですよ。
私たちの社宅はお風呂はないんです。だから銭湯と同じのがあって、コークスが出るでしょ。そこにこの、犬がくわえて(きたのか)赤ちゃんの手があったり、あと窓の下に手があったりとか。そういうような状態だったですね。後で行った時は、私たちのところは小学校になってましたね。外からこう見たら、前も道路が広くなってね、自動車がね、走っていたりして全然様変わりしてね。
だから大連までは行ったんだけども、大連は大きいからね。大連でみんなで写真撮ったりして、その後に清原の方に行こうと思ったら、それはそれはもう、お便所も何もひどくてね。食べるお茶を持ってくるんだって汚いヤカンで持ってきたりしてね。だからね今はね、どうなってるかね…
憲兵さんがね殺されたのがね、今でもね、目に浮かびますね。で兵隊さんもね、いっぱいね見えて、そうなる前。お風呂に来るわけですよ。そうするとね、びっくりしたのはね背中一面、クマさん。真っ黒い毛が生えてたの。だからね、あの方たちはね、どこへ、ソ連の方へ行ったのか。ジャガルカタル(ガダルカナル?)とかいうところへ行ったのかもしれないですがね。
だからああいう方がね、例えば私がさ、こういう人がいたなんて言ったら、おそらく…身内じゃない親戚でもね、なんかそれはうちのおじさんだとかいうのも分かるんじゃないかなと思うんですがね。ものすごいビーッとここまで毛が入ってすごいの。びっくりしちゃった。
だけどね、アメリカの方では、日本人が、日本の兵隊が何人亡くなったかっていうのもね、全部そのお骨とか屍を拾って、それでね何人っていうのも出てるんですってね。テレビでやってましたよ。日本はそんなのないじゃないですか。
沖縄のあれ(集団自決?)だってね、飛び込んでね。それで女の子がさ、洞窟からさ、旗を持ってさ白いふんどしだけどね、それを持って洞窟からそのくれたおじさんウジだらけ…もう、ウジが出てて。だけどその女の子にね、これをあれして旗を持っていけば大丈夫だから。
だから今私ね子供がね、もちろんそれは無理なことだけど、まだこの中におじさんとおばあさんがいるっていうことを言えばなんとかなったかなーなんてね。あれだけど後でそれは私ですって、その女の子がねテレビで言ってましたよ。だからね、私は本当にね、戦争なんていうのは絶対にしたら(いけないと)。理由は何であろうと戦争なんかは絶対にね。まして核なんかも、あれでしょ。
●奉天造兵廠 / 帰国
だから列車に乗ってね、博多に着いたんです。一人3000円しか持ってこれなくて、博多に着いたらば、DDT(殺虫剤)してるでしょ。頭から全部ねこうやってね。ちょっとズボンをこうやってね。全身かけられて、3000円を持ってきたものをねあれして。
そしたらここ(肩)へさ、婦人会の方がかけて割ぽう着でね、その人たちがねおにぎりを作ってくれてね。その味は今も忘れられないけどね。造兵廠っていうお金を作る会社があって。私たちのところはあの門があってね、大きいから、それで変なのがアメリカだとか八路軍だとか来た時は警戒警報だとか、もう中に入った時は空襲警報とかって怒鳴るんですって。ガンガンガンと(金を叩いて)。
そうするとみんながこうカンヌキをかけてね、やって、それで押入れをこう(丸く円形に)切って。それで家に来た時は、隣の方へ行くんです。暖房で暖かいからね。だから押入れをこう切って、紐でねしっかり縛って、隣の方へ行くんです。
そしたらたまたま、そこはご主人が出征してて(奥さんが)寝てたのね。で、気がつかなかった。そしたら開けられて、男の子がいたんだけどね、そこで3人に強姦されちゃって。ショックで寝込んじゃってね。子供は窓から逃げてね。
そしたら一番角のおばさんがね、いつもご飯を持って行ってあげたりね。私たちもそうやって逃げ、隠れていたんですけどね。寝てないからよかったけどね。その人は昼寝し気がつかなかった。だから寝るなら、かけとけばよかったんだけどね。だからあの方も最後は帰ってきたけど。日本人の女っていうのはみんな中国では欲しがるから。
それで中には一人ね、やっぱり妾(めかけ)みたいになったのもいてね。それがね自慢らしくね。親もね恥ずかしくないのかと思うけど、社宅なんか来てね。みんなはねお腹の中ではねバカじゃないかって思ってたけど、話するとどうなったか知らないし。だからね本当にね、戦争は絶対にね、もう理由なんか何もない。
広島を通るときね、あれ見ましたよ。後で長崎もねもちろん行きましたけどね。お友達やみんなでね行って、写真撮ったりね。あそこで永井隆博士かな? いましたよね。あそこも行ってきました。だけどあの方もお子さんがねいらっしゃったからね。その跡は行ってきたけどね。
だからね私ね、ああいう風に手も足もね青竜刀で斬られて、だるまさんになったっていうことはね、あのなんかねお身内の方がね、遠い親戚とかね、誰かがいるとは思うんですけども、どこの方かも分からないでしょう。だからね本当にねあれだけはね、本当にね目に浮かぶからね。
もう本当に「スイヤー(誰何、スイカ)」、「スイヤー」って自分の方から来てて、何が「スイヤー」なんだね。それでねえ、やられて。だけどね、本当にうちはね、親戚やら近所の中国人には本当によくしてもらって。
●子ども時代と兄弟のこと
昭和5年の2月の23日(ご本人の誕生日)
聞き手(向こうに行ったのはいくつぐらいの時ですか?)
向こうへ行ったのはね、小学校の…、一番初めはね西松建設(戦前から満州でダム建設などを行っていた)のあれで親がねそこへ行ったんですがね。その時はまだまだ本当にね、学校なんかもちろん行っていませんしね。5~6歳じゃなかったのかなと思いますね。
それからね満州工廠というところへ、叔父がね食堂のほうをやってたのでね、そこへ行ったんですね。でそこで働いてて、それで一回ね、大連でね、叔父さんがね料理人でしょ。だから兄貴一緒にね船に乗って行こうということになって、父は一緒に船に乗って大連へね、行ったんですね。
そしたら叔父は考えて、もし船が何かあったときは兄弟二人ともダメになるから、やっぱり兄は降りてくれて言って大連で降りたんですね。それで満州工廠の料理の方へ入ったんですね。食堂のほうへ。叔父もその時降りたと思いますね。それで叔父はほら、料理人だからそこで食堂のほうをやってた。
だからもう波乱万丈で、それでなんとか引き揚げて。その間にね、その小学校の2年から3年ぐらいの時に一回、滝野川に来たんですね。
聞き手(そうなんですか)
今でもね、第六尋常小学校(滝野川第六小学校、2017年に紅葉小学校と統合)ってあるんですよ。うちの娘がね、そこを通って「お母さん今でもあるわよ」って言うんですけどね。だから一回ね、その上がるところに大きな神社があるんですよ。そこではね、よくほら昔はさ、紙芝居だとかさ、ゴムのあれでほら引っ張ってとる(ヨーヨーみたいな)そんなんだとかいろいろね、あったでしょ。
そこもね、私ね今でもそういう紙芝居だなんだっていうのは今はないですけども、そこにねこの前ねゴトウさんって言うんだけど、私たちが住んでたところの、私たちがこちらで襖一つでね、昔は貧乏だからね。襖一つで向こうとこっちで分かれていてね。私たちは裏側で、そのゴトウさんっていうのは表側でっていうことでね、いたんですね。
ところが今でもね、そこの…そこはないけども、お菓子屋さんの中に入ったところはやっぱり昔の家と同じようにね。その方たちがいるかどうかはわからないんですが、あったんですね。だから今でも第6尋常小学校っていうのはね、あるって、うちの子はねお仕事でそっちへ行くんですって。
だから本当それ以上いろいろね学校でもね、大変な思いしたこともあるんですが。それはねこれのあれとまた別で長くなるので。あんなこともあったこんなこともあったなってね言ってもあれだからね。
今思い出しても、えーよくあの時にどうやったかなーってね、時々考えるんだ。大変なこと。
聞き手(細かい記憶全部覚えておられるんですね。別にその戦争の時はすごく大きなことだから、まあ覚えておられるのはまあ(分かるが)、そうじゃないいろんな日々のことも全部覚えておられる)
覚えてますね、だって本当に大変だったんですよ。
だからねあの時は本当にどうなんで、よくまあミチコはおぶさってて逆立ち、ぶら下がっちゃってさ、起きるに起きられないでしょ。これは余談だよ。
こう(頭を下げて)やってね、妹がねここ(足元)にいる。だからもう今でもね、どうやって起きたかね。本当にもう夢中だったのね。おかしい(笑)
聞き手(ご兄弟がお姉さんはお一人ですか?)
私の兄弟? 私の兄弟はねさっき言った一番上の兄がもう90…大正と昭和の切り替えの時だから99くらいじゃないのかな、それが長男。
それから次男が、もちろん亡くなったけどね、それが幾つだったかな、過去帳を見れば分かるけどね。過去帳ができないの、今、私。(指が不自由で)バラバラっとなっちゃうから。兄弟全部っていうとね、双子の兄弟。だけど私なんか全然(知らない)すぐに死んじゃったからね。父は陸軍と海軍だなんて喜んでたんだけど、もう一週間もしないで死んじゃって。
その上がフサコという長女。このフサコというのはね、もうお師匠さんももちろん代理やってるんだけど、十二単とお坊さんの衣が縫えればいいっていうぐらいの、18(歳)よ。数えの。そのぐらいだったの。ものすごく優しいお姉さんでね。その姉がね、火の玉になってね、ここに障子があるでしょ。ここに仏壇があるんですよ。こっちの方がねポッとね、こっちにタンスかなんかあって、そこがね、ポッと明るくなったの。そしたらね、仏壇の方へスーッと入ったの魂が。それがね息を引き取った時間だったね。母が姉を連れて帰ってきた時に「おー魂がここ入った」って言ったら、その時間にお姉ちゃんが息を引き取ったって。でその姉でしょ。
それからさっき言ったの、早く死にゃあいいんだけどその兄貴でしょ。その次のカズオでしょ。で、それで私か。それから弟、妹、7人?だなー。
聞き手(あの憲兵の人と結婚したお姉さんは?)
それがタッちゃん
聞き手(フサコさんとヤスさんの間に)
フサコ姉ちゃんの下です
聞き手(それが憲兵と…)
そうそうそう(結婚したお姉さんがいる)
アイコって言った? アイコというのがねぇ、私は小学校の前だからね、アイコというのがね、エキリ赤痢だかだかわかんないけどいてね。人力車に乗って行って亡くなったんです。私の下です。
聞き手(下にアイコさんがいて)
何人いたのか、もう分かんなくなっちゃう。1ダースなら安くなるね(笑)昔はそうですよ、産めよ増やせ(よ)で
聞き手(憲兵さん2人いて、その1人が手足を切られてしまった方で、もう1人がお姉さんの結婚相手の方で)
それで赤ん坊がね、男の子が生まれて。まあ栄養失調で亡くなって、それでその憲兵の兄貴が中国語分からないからさっき言ったようにお昼はワーってやって(分かって)そんなことでね。で姉はうちで寝てて、それで兄がねお姉さんにね、あの時お土産をね、甘いもんよ。
母はね私に欲しがるんじゃない(って言った)。もちろん欲しがらないけどね。そしたら姉がね、お母さん私のね枕元にね、白いね、真っ白いねおじいさんが座ってるんだけどって。あのね、帰ってって言いなさいって、そう言ってね。そんなこともありましたね。だからね魂とかね、そういうのは現実にあるでしょ。
●ノブコちゃんのお母さんの最期
それでさっき話は飛びますけれども、このノブコのお母さんが亡くなったでしょ。その時お昼頃なんですね。みんな暇だから屋上にうちの母もね、屋上にみんないたんだけど、私はね部屋にいたんですよ。入り口のところでひっくり返ってね。なんせね、この(一部屋)ぐらいのところにね十何人寝たからね。
だから私、入り口のところでひっくり返って寝てたの。そしたらね、そのノブコのお母さんがね、こう…膝下から無いんだけど、立ってね、私の方を見てね、桔梗の浴衣を着て立って、消えたの…。それでね、えーっと、思ってそれで屋上に行って母に言ったら、じゃ亡くなったんだって言われてね。
やっぱり帰ったらナカノさんのおじさんがね、私はその話をしたらやっぱり桔梗の浴衣を着て、ここで寝てて亡くなったんだって。おじさんちょっと行ってくるから、やっちゃん(ヤスさん)ここで待っててって言うから。私あんたさ、ここでおばさんがいてね、亡くなったってちょっと行ってくるからって言って、やっぱり私も子供だからさ、いやだからおじさん私も帰るからって言ってね、帰っては来たんですけども。
だからね、おそらくね、お礼にこのノブコを預かってもらって、最後はね、この子も犬に食われてるんだけど、そういうのもみんなね事情がね分かっててお礼に来たんだなと思ってね。あの桔梗のね花はね、5月か6月ごろにできるんですよ。お花がね。前に買ったんだけどね。大事にしてたのにちょっと事情は言えないけど日陰に置いたもんだから枯れちゃったの
私それはね、ちょっと今でもね残念に思って言うけど、娘にもねそれは言わない。だけど私は馬(干支)だけど母のお腹にいるときは蛇(年)だから、執念深いからね絶対に許さないから。
●奉天での空襲と中国人
聞き手(奉天から清原に移ったのって敗戦のどれくらい前ですか?)
それはね、清原に行ったのは、私が14(歳)ぐらいかな。
聞き手(敗戦の間際ですか)
そうそうそう、本当に間際。
聞き手(もうソ連軍が侵攻してきた、からの空襲ですか? 空襲ってさっきおっしゃったのはアメリカの空襲?)
空襲受けたのは奉天だから。それでね、うちの方はそういう風にさ、火薬だとかいろんなものがあるでしょ。うちの社宅のすぐ道路一つだから、そこのところにね、溝を掘って、それでねなんかね、氷の塊みたいなものなんだけど、空襲があるとそれに火をつけるわけ。そうするとほら煙で見えなくなるから、そういうふうにしてました。
それをね知らない中国人ね、家で働いてたのね、食堂で。本当にね真面目なんだけど、そんなの知らないからそれを持って逃げたのね。そこを捕まってそれこそねこういうふう(腕を広げて)に棒でね手足を(縛って)。ここ(太股の上)に石を乗せられて散々と酷い目に遭って、それで一応おじさんが、これはこいつはね昔からうちで働いてて、そんな悪い人間じゃないし、それがね何だかわからないから見てたんだからって、それで解放された。大変だったな、あの時は。
聞き手(それは日本軍にそうされたの?)
そう日本の憲兵にやられたの。だからね、あの倉庫にはね、食堂の倉庫にはね煮干しなんかがいっぱいあるんですよ。だから学校行くときはね、煮干しをポケットに入れてね、みんなで食べながら学校行ったね。あと蒙古風が吹くとね、すごいじゃない。だからスカーフをかぶってね、学校行ったりもしてましたね。
聞き手(その時(奉天で)交換手みたいなお仕事をしてたんですか?)
奉天ではね、さっき言った、鼻くそ部隊のところで、その時はもちろん免許はない。
聞き手(それは学校から何か動員されていったんですか? 自分で何か…)
いやいや、そうじゃないですよ。当時は、学校行くでしょ。教室なんか入らないの。校庭でみんなで… 今で言うと使役じゃないけど、行って例えば戦車のあれを磨くとか、そういうようなことをやるんです。ハチマキしてね。日の丸のハチマキをして、ほいでやるの。
聞き手(前、奉天にあった女学校かなんかにいらっしゃってたんですか?)
女学校じゃないの。高等小学校って言って、6年とあと2年ね。
聞き手(それがさっき、名前もおっしゃってましたね。ジョウトウ高等…?)
奉天ジョウトウ小学校。奉天ジョウトウ高等小学校
聞き手(そこからその879部隊に行ってた…?)
ハナクソ部隊に。それで、空襲や何かがあって、その造兵廠…そこは879部隊だけどね。造兵廠っていうところへ。もう空襲の時なんか大変だった。冬なんかね、凍ってるでしょ。そうするとね、空襲でね、死んだ中国人がね、転がってるの。こんな(仰向けに)なって。で、それをガン箱(棺桶)にね、日本のガン箱とは違うから、さっき言ったこういう(?)、こういう感じ(?)のね
ガン箱にこう入れてるの。そこから手と足がこんななって(ビローンと)出てくる。そんなのちょっと怖いじゃない。だからね下向いてね、造兵廠に行って。そこでも空襲があって。地下でね、飯ごうを炊いてねご飯食べたりね。
●ノブコちゃん
聞き手(ノブコちゃんは、どこの誰かがちょっとまだ私よくわかってないんですが)
あ戻ってきたの
聞き手(ノブコさんは、サトウさんのとこのお嬢さんはまた別ですよね。首切られたお嬢さんは別なお嬢さんですよね。でノブコさんは、そのご近所の人の、その結核になった方のお嬢さん…?)
戻ってきたの?
聞き手(そのお人形さんになって…)
聞き手(ノブコさんについてもう一度ちょっと伺っても大丈夫ですか?)
ノブコがねさっき言ったように、お母さんが結核で入院をしているということで、そこのお父さんね、ノブコのお父さんは、お兄ちゃんがいるんですよ一人。だけどお兄ちゃんはね、近所の私のお友達のお母さんに頼んで昼間ね、面倒を見てもらっていたんですけどね。
それで結局このノブコがね、小児結核でしょ、でその清原というところでいて、それでそこに預かってもらいたいということで母に。だけどね犬猫じゃないから、ちょっとそれを、ましてや当時はミルクなんかないでしょ。お米を冷やして、すりこ木でねやって(すって)飲ませるんだけど。とにかくね、まぁうちの母は信望があったからね。だからホンダさんに(私は)旧姓ホンダ。
「ホンダさんに預けて、もしものことがあっても絶対に恨まないから」ということで預かったんです。ノブコを。それでさっき言ったように暴動あったでしょ。だから八路軍なんかもね、来たんですよ。
あと開拓団の人も逃げてきて、黒龍江を渡ってくる時に赤ん坊をおぶって、浅瀬をこうねみんな。ところが赤ん坊が泣くじゃないの。だから子供を何とかしろと、みんなが見つかっちゃうからっていうことで母親としては本当にね私は辛かったと思う。おぶったまま沈まって子供を殺したの。どんなね、辛かったろうかなと思いますよ。
それで、そんなこともあったり、あとは戦車。戦車でね開拓団の人が逃げてくるのをこうやってバババンって撃つでしょ。撃ってこの(タイヤの)ベルトをこうやって(前進させて)引き殺すことも、それも開拓団の人がねそう言っていました。うちもね、どこへ泊めるかということで、うちにも来たんですよ
だけどねうちもほら狭くて、そういう人を受け入れてやりたいけどもできないでしょ。だからってね他へ行ったんですね。だからあの方たちは、どういう風に清原でね(過ごされたのか)、いろいろあったけども私たちね、その方には会ってないんですよ。
また別の社宅に入ってその方たちと一緒に刑務所に。だけどどんな人か顔なんか覚えてないからわからないじゃないですか。だからそんなことでね、終戦の時なんかはね、奉天が本部で、電話してるとね、向こうがね賑やかって言ったらおかしいんだけど、ザワザワザワザワもうね、騒いでるの。それがねもう本当によくわかるんですよ。だから大変だな、これからどうなっちゃうだろうかなってね思ってさ、いたんだけどね。
結果はねそういう風に最後はね、いい、ひどい目にあって。で、向こうではね、靴を縫うんですよ。布で。糊でね1枚1枚ね貼っていくんです。それをね刺すの。刺してね作っていく。でうちなんかほら、ご近所とさ、あれだったからね。みんなにそうやってね作ってくれた。だけど取られちゃった。
だからね今度ねその中国のお父さん、上海だけど、あっちの方にもそういうのがね、あれば記念と言っちゃおかしいんだけど。私おそらくそれ見たらね泣いちゃうと思う。あとどっかでね中国展とかなんかあってそういうのがねあれば、私はね絶対買うね。お金入れてもらう。本当にね、今思ってもね。あの靴は本当に。一枚一枚ね、糊で貼るのよ。それで刺すの。だからねあれは本当にね、日本でもね、ああいうのがね。
●帰国後の生活
あれはね本当に私なんかね引き上げてきた時なんかね、下駄履いてね、都庁に行った。でね座ってなんかおれないよ。みんなね座席に立ってないとなんない。そのぐらい。でもういっぱいで前(の人の頭に?)にさシラミが這ってんのよ。だからあんたたちは想像つかないと思うけどね、前にこんだけシラミが這っててさ。もっとひどいのはね、私はその頃まだね子供って言っちゃアレ(だけど)18ですよ。だからね本当は採用されないんですよ、数えだから。そうしたら私が引き揚げてきたものだから採用する人が特別に入れてくれた。その時はここ(右胸)が膿でガリガリバリバリっていうの。それはそれはひどかったのね。
着るものもなかったから、それでねそんな事情もあって引き揚げてきたからって、特別に入って、そいだらもう…みんながね「よく入れたね。」って言うから、「こんなんで入れたんだ。」って。ここはバリバリで着るものもないでしょ。だから今でもね忘れられないけど、上着を一枚で着てこの(肩の)辺がさ、変な話、光っちゃう。ぴかぴか。そうするとね、お人形さんだって言う。お人形さんって毎日同じもの着てるから。ホンダさんはお人形さんだってね、意地悪な、Tって言うんだけどね。
それでね休憩時間がねあるのね。そうするとね普通は、例えばね1時間経ったから交代っていうのあるでしょ。そうするとね、その人はね1時間30分ぐらい平気で遅れてくる。最後はね私がこんなだからさ、仲良くっていうの。そういう人もいて。中にはね今度はね炊事場があるんですよ。だからそこへねあの人あれなんだっけな…ご飯?を炊いたりしてね。食べたりも(した)。ヨダさんっていうんだけどね。
やっぱりねみんなね靴をねまともに履いてくる人いないね。みんなタカハシさんなんかもね、本当にその人は真面目一本。私もね真面目だけど冗談を言うよ。その人なんか本当にね、タカハシさんっていうんだけどね、いつもね下駄履いてね、来てたね。
●ノブコちゃんの最期
聞き手(ノブコさんはどこで亡くなったんですか?)
だからノブコは、そこの清原の列車が出た時に亡くなったの。息引き取ったの。それから私が負ぶって…
聞き手(負ぶったのは亡くなってからなんですか?)
そうそう。
聞き手(その前生きてる時お姉さんが少し負ぶってた話がさっき出てましたっけ?)
それはほら、妹だから。妹を第6尋常小…今でもねあるって言うけどね。もちろん引き揚げてからも行って、写真もね、撮ったり…
聞き手(じゃ、ノブコちゃんの遺体はどこでそのー)
学校の校庭。
聞き手(に置いたんですか?)
それで「出発ー!」って言われてどうしようもないでしょ。その前に亡くなった時に学校だからリンゴの箱があったの。それでそこへ私が着てた生意気にさ、シルクのねブラウス着てたの。それを着せて、おしめもね外しちゃってね。シルクの着せて一晩母親とお通夜。お通夜をしてね。
で、夜が明けて今度「出発ー!」って言われて。いやほら、なんかこうね掘って埋めるっていう、埋めたってどうせさ(犬に)食べられちゃうけどね。
出発って言われて、本当にねこのぐらいの浅いとこ、ノブコのあれ(遺体)を入れて、土をかける暇もない。それで急いで次へ行ったわけ。それで次へ行って前に兵隊さんがいたとこなんですって。6階だか7階かな。そこへ行って。ほいで、その時、狭いところで寝てて、そしたら(ノブコの)お母さんがお昼、ちょうどお昼頃にさっき言ったあれの浴衣着て、桔梗の浴衣を着て、来たわけ。
もちろんこんなの(会話したり)ないよ。私その時何気なく、あの服のおばさん、えっと思って。おばあさんって急いで母に、屋上にみんないるから言いに行った。そしたらじゃあ、おばさん亡くなったんだっていうことでね。それでうちの父がそこへ迎えにね来てくれるのに、ソ連兵がいっぱい乗ってるんですよ。列車に。ほいでねコーリャンのご飯の下にこんなアルミのね、デコボコしたのにご飯を入れて、その下にお金を入れて、ほいで迎えに来てくれて。
それでやっと元の社宅、満州工廠の社宅に戻ったの。それでその話をね、おじさんにしたらやっぱり桔梗の浴衣を着ていたって。時間も同じだということでね。ものすごいね絵の上手なおじさんでね、あのだるま? でもこんなだるまさんじゃないですよ。こんなのこんなこんなヒゲの生えたね本当のだるまの絵をね、床の間にこう飾って。
それでね電話したの。徳光さん(アナウンサー)が大連で生まれたっていうことをテレビで聞いたんだけど(注:徳光和夫は都内の生まれで満州には行っていないので、思い違いと思われる)、5~6歳になれば覚えてるだろうから、ちょっとねお話がね。私も大連で生まれて忠霊塔だとか日赤の病院だとかよく知ってるから。あそこはね道路が本当にいいの。
聞き手(都市…ものすごい綺麗な街みたいですね。写真見ると)
だから泥道なんてないの。だから今でもね、そうなのかなと思って。伝えときますって。
聞き手(お父さんってご無事で一緒に帰ってきたんですか、満州から)
そうそう。引き揚げ船でね
聞き手(お父さんは一緒に清原の方は行かないで、ずっと奉天にいたんです?)
そうそう。引き揚げてくる時は9050号っていう、9050号っていう、昔さ、戦車が船の前に開いて、そこから戦車が出てくる(上陸用の)そういうのに乗った。そいでねぇ、博多に着いてから10日ぐらいかな。すぐに上陸はできなくてね、10日ぐらいいたね。その間に舞台なんか作ってね、いろいろカラオケじゃないけど歌ったり踊ったりしたの。
聞き手(船の中でですか?)
船の上でね。そんなこともね(あった)。私はね何か踊ったんだね。踊りね習ってたから。あれ難しいのよ。扇子をね、ポンって(上に投げる仕草)やるでしょ。ポンでひっくり返して手に持つっていうのはなかなか難しいのよ。子供の頃から習ってたから。
聞き手(引き揚げまで…清原から引き揚げた後は奉天の社宅にずっといたんですか?)
そうそうそう、奉天のね。そこからね清原からねあれしてから奉天の社宅に、父親がさっき言ったようにアルマイトのコーリャンを入れて、その下にお金を入れてで迎えに来てくれて。列車の中にはソ連兵やなんかがいっぱいいるわけよ。だからおそらくね、父親はね本当に怖かっただろうと思うのよ。言葉もわからないでしょ、だからね。でもねやっぱり親だから、で迎えに来てくれて、ほいでやっと元の社宅に戻ったわけ。
だからその前にノブコのお母さんが亡くなって、桔梗のね浴衣を着てお昼頃に来たわけ。
聞き手(清原のその刑務所みたいなところには、それは監督をしているのはソ連の人なんですか? それとも中国の人たちなんですか?)
だから中国でしょ大連、だから奉天ね。奉天からそばに、交番の派出所ちゅうの?その人が今度、清原というところへ転勤になったわけ。それで空襲だなんだってあれだから、「ホンダさん…(私は)旧正ホンダだから、ホンダさんこっち来ないか?」って言われて行ったのが運のつき。それからがひどい目にあってるわけ。
聞き手(清原の収容所は中国人が監督してたんですか? それともソ連兵が?)
中国人はもちろんね。
体験記録
- 取材日 年 月 日(miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
戦場体験放映保存の会 事務局
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