武藤 十三子さん

生年月日 | 1924年(大正13)9月27日生 |
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本籍地(当時) | 福島県 |
所属 | 民間人 |
所属部隊 | |
兵科 | |
最終階級 |
東北を回った子供時代
私の父は専売局というところに勤めていて、母はお裁縫の先生を家で、若い娘さんたちに和裁ですけど教えていました。姉は二人で兄が一人、末っ子の私です。甘ったれで、ろくでもない娘に育ってしまい。
聞き手:何年に生まれましたか?
私は大正13年、西暦だと1924年生まれです。福島県石川町というところで生まれました。 上の姉は12歳年上で、同じ子年でした。それから次の姉がそれより4歳年下で、8歳年上で、兄が4歳年上で私が末っ子。
聞き手:お母さんの子供時代、東北時代の話を聞かせてください。
石川町(福島県)の家にいたのは3歳くらいまで 父は山形県の酒田の生まれで山のほうです。小さな農村で。兄が2人いたそうです。父は三男なのね。そのころ三男なんてのはいらなかったのね。前に凄い飢饉の時にがあってでしょう、そうすると食糧不足で、大勢子供がいると食べさせられないのね。そんなこともあったんでしょうけども。そうゆう風習があったんじゃないかな。生まれた時は三男で生まれて、もういらないから始末するなんて言われたんです。お母さん、私の祖母ですが、しっかり抱いて離さなかった、まあ始末は逃れて、でも一番上の兄は早く病気で亡くなって、二番目の兄は日露戦争で戦死しちゃったの。そしてとうとう家を継がなければならなくなった、そういうことがあったのね、昔ってすごいのね。
あのへんではタライというのがあるでしょ洗濯する。それに入れて一晩入れて蓋をするんですって、そして死ななかったら育てて、死んだ子はそのまま。そんな風習があったらしい、そんな貧しかったわけではないと思うけど、そんなことがあったんだろう。父が死んでいたら、私なんかいなかったですね。おかしいんですけど。そういう話いっぱいあるんですよ。
遠野物語というはなしあるでしょ。すごい話、私は序文なんて読まなかったけど、平地人に幸せに住んでる人たちを戦慄せしめよ、って書いてあったらしいですよ。私は序文なんて飛ばして読まなかったですよ。戦慄なんて字は知らなかったですよ。戦いと栗の木の字つい最近知りました。全然知らなかった。 そういう時代に柳田邦男夫なんていう人、書いた人も、あの人は兵庫県の生まれかな、8人兄弟の六番目だそうで、12歳の時に家を出され、一番上のお兄さんが茨城県にいたんだそうです。そこにやられた、自分が口減らしのために出された、大きくなってわかって、慄然としたんじゃないですか。自分がそういう対象だったなんてわかって、ほんとうに酷い時代だった、ちょとした飢饉、いまみたいな気候変動なんて、しょっちゅうあったんでしょうね。そういう時に生まれた子なんか可哀そうですよね。
聞き手:山形にもいたんですよね。
父の郷里の山形で暮らして、そのうちに曾祖父に当たる、その人は血がつながっていない後からはいった、その人が90歳代になってたった一人になって、それでお世話をする人がいないんで、母が子供たちを連れて行ったんです。父は会津若松の専売局に勤めてました。 母はそこへ行ってもお裁縫教室を開いて、少し広い部屋を作ってもらって、そこを教室にして農家の娘さんたちにお裁縫を教えて、私はひとりぼっちでしたね。兄は小学校に行ってしまうし、姉はちょっと離れた酒田の女学校へ行ってるし、学校から帰ってくると、誰もいないし、いつもひとりでした。なんだか人との付き合い方がわからなくて、こんな変な人間になってしまった。人との付き合い方がよくわからないのよね。いつもひとりでした。 山形に行ったのは3歳くらいの頃、小学校2年生くらいまでいました。そこから二本松来たのかな、父は二本松の専売局に勤めて。普通と違う女だけの小学校に入っていました。でも珍しいですよね、女の子だけの小学校。
そこの先生はいつもいつも毎日、お天気が良ければ、外へ連れていって歩きながら歌を歌っていました。とてもたのしかったですよ。 二本松には3年生の時、2年まで田舎にいて、次は仙台。
専売局ってとても転勤の多いところなの。そのころ役人といってましたけど。役人には2つあって、ひとつは「高等官」東京辺りでどんどん出世していく人など。もう一つは「判半任官」って言って、地方にいてあっちこっち回される。タバコと塩を作って、国がもうけてたのね。タバコの産地をあちこちあるかされるわけです。二本松はたばこは作っていないよね。仙台にタバコの工場があって。あちこちの農家の方にタバコの葉っぱを作ってもらうのです。
ご存知ですか、タバコの葉はこんなに大きいんです。あれを収穫して乾燥をさせて綺麗に伸ばして、家内の事業でやっていたのですよ。綺麗に伸ばして形を揃えて、収納の時期というのがあって、それをもって農家の方たちがくるのです。役所に。それを鑑定するのが父親の仕事だった。鑑定してそして等級を決めるの、一番いいのは値段のいいわけなのね。値段がそれぞれ違う、それを役所で農家の方に払って、少しでも良い等級にしてもらいたくて、なんかお野菜持ってきてくれたり、いろいろするんですけど、それを絶対もらってはいけないと父親が母親にきつくいうの。せっかくもってきてくれるのだけど、持って帰っていただくの悪かったんですけどね。だから転任が多くって、ほとんど1年ごとに変わってました。だから私は転校、転校で。小学校もいれると一つ二つ4つ5つくらいかな? あるきました。最初のいれると6つかな。
友達とやっと仲良くなってもお別れなのね。そのうち何となくもう、どうでもよくなっちゃって、でも面白いんですよ、いろんな町にいくとそれぞれの町の性格というか、みんな違うのよね。とても面白いと思いました。今は寂しいとも思わなくなりました。
盛岡の女学校に入学、日中戦争がはじまる
聞き手:1937年くらいに12歳くらいの時に日中戦争がはじまる、そういうときの雰囲気とか話を。
昔の女学校の一年生の時に日中戦争が始まっちゃった。夏休みに始まちゃって、私はお休みで、その頃はラジオもなかったのかなうちに。親たちは知ってたんでしょうけど、私は戦争が始まったなんてわかんなかった。二学期になってお休みが終わって、 寮に戻ったらそういう話だったんだよね。びっくりしましたけど、あまりぴんとこない。わかんないのね。ただ戦地の方に慰問文を書きなさい、と言われて、そういうのどう書いていいかわからないんだけど適当に書いて出したり。慰問袋を作っていろんなものをあれはどうしたんだろ、自分で集められなかったわね、どうやったんだかわからないけど、そういうのに食べ物とか、衣類とか千人針で縫った晒の布の腹巻を作って、あんなのやったってどうにもならないでしょうけど、送ったのは覚えています。何処から集めてかわかなないけど。
盛岡の女学校。父親が転勤すると動かなきゃなんないから、その頃は小学校六年生まで義務教育だったの。それ以上は高等小学校というのがあって。6年生卒業すると試験受けて入らなければいけないの。ちょうど大狭間町という岩手県の花巻の近くのタバコの産地に転勤してたの、盛岡の学校を受けさせられ、そこに入った。
その頃は通学も難しくて。普通列車でちょっと遠いし。バスもあったんだけど、長距離バスなんてなくて寮に入って。学校の寄宿舎ですね。別棟で二つの建物が、南寮と北寮とわかれてあって。お部屋が全部で12ぐらいあったかな、そこに配置されるんですけど。上級生から1年生まで、5人の組になって入りました。けっこう面白かったです、寮の生活は。
聞き手:どんなところから来てたの?
釜石、あそこに大きな製鉄所があったので、製鉄所の家族の娘さんたちとか。商家の方、釜石の方が多かったですね。今テレビでやっている、久慈あたりからきている方もいたし、青森県から来ていた、花巻からも。全部の寮で70人ぐらいいたかな?いなかったかな?60人ぐらいかな。
舎監の先生がいて、寮の生活も面白かったです。時々映画に連れて行ってくれた。寮の一室をひとりの先生が占めていて、女の先生で、映画が好きな先生がいて、時々連れて行ってくれました。盛岡はわりと洋画が早く来ていて、なんだったかな題名忘れたんですが。かなりいっぱい見ました。戦争が始まると。ニュース映画というのが最初に見せられる。戦車が出て来て、もう嫌なんですよね。それがカタカタと農地とかつぶして走っていく、あぜ道に赤ちゃんがざるみたいなものに「いずこ」とかいうのに入れられて、そこでおしっことかしちゃうらしいですけど、赤ちゃんがギャーギャー泣いて、お父さんお母さんだかつれていかれたのか殺されたんだか、ニュース映画を見せられるのが嫌で。その時は目を瞑っていました。何年ごろでしょうかね?
私が17、18の頃に兄が召集されて、満州というところに行きました。向こうにはロシアの兵隊。こっちには日本の兵隊、毎日にらめっこしていたみたいなことを話していました。戦闘状態にはなっていなかったんじゃないかなかったじゃないかな。日本は中国と戦っていたからだと思うけど、私の兄は戦闘はしなかったみたいですね。ですから後で無事に帰ってきました。帰ってくるまえは九州に移らされて、戦争の終わり頃ね。多分、沖縄がだめになって次は九州が戦場になるんで、幸いに戦闘はしなくて無事に帰ってまいりました。ですから運が良かったなんて悪いですけどね。
盛岡にヒトラーユーゲントが来る
私の女学校の三年くらいの時くらいでした。ヒトラーユーゲントが来るというので(盛岡)。ちょうどそのころ、日独伊三国同盟がありまして、もう大騒ぎでした。でも大歓迎するといっても何をするということはないんです、ただの旗を振って遠くから歌を歌って歓迎するのです私たちは「万歳、ヒトラーユーゲント、万歳、ナチス」なんていう歌なんですよ。ナチスが何かも知らないで、歓迎していたんですよ。同盟国の少年達だということで。「北原白秋が歌詞をつくってた。」北原白秋なのね、同じような年の人たちでしたよ。何人ぐらいか人数わかりませんでした。列になって歩いているのを、遠くから見てただけ、同じくらいのような年ごろでしょ、だからなんか親近感もって「万歳、万歳」なんてやってました。あんなことをしてたなんて夢にも思いませんでした。 ドイツは同盟国だということで親近感を持っていたんだろうな。
秋田で就職する、遊郭横の貸家に入る
女学校を卒業した後は千厩(せんまや)という岩手県のところにいました。そこにいたころかな、やはりタバコの産地でした。 次に行ったのが、能代に行きました、秋田県です。あそこはたばこの産地ではなかった、産地ではなかった?近くにあったのかもしれません。よくわからないです。 小学校のころ秋田、その前には山形、秋田、仙台、盛岡 余りに動き回ったから忘れちゃった。 山形県の東根というところ。将棋の駒を作る隣の町でした。あそこにもちょっといました。
能代という町で就職した、秋田銀行の支店でしたけどね、よく私なんか雇ってくれたなと思うの。そのころは、そろばんなのよ、そろばんなど触ったことなくて、けれど男の人が不足していたのね、雇ってくれたんだと思います。若かったので一生懸命やりまして追いつきました。
聞き手:能代はどんな生活でしたか?
あそこはね、はじめは専売局の宿直室を借りて、ちょっといたんですけど、狭いでしょ。貸家を探したら、海辺の周りは防風林がかなりの距離にあるんですけど、その手前の所に遊郭があったんです。その遊郭の端っこに貸家が見つかりまして。2軒続きの一軒はお妾さんが住んでいました。そういう環境でした。その花街を通って銀行に通わなくてはいけないの。朝なんかはそこの女性たちが女中さんみたいになって、結構にぎやかにしゃべりしながらお掃除したりして、その前を通ってか通っていました。帰りは暗くなるでしょ。なんていうかな~、ずらーと並んでるのね、女郎屋というの。格子戸のところに綺麗に着飾って、並んで座っているんですよね。格子戸の外から男の人達が、どれがいいかな探してるの。そういうところを通って帰らなければいけなくてちょっと困りましたけどね。
お隣のお妾さんはそういう所の娘さんだった、とてもいい人で、母とも仲良く付き合っていました。時々余所からくるんですよ、旦那が。来たのを知らないで実家で帰って遊んでいると、実家まで迎えに呼びにいってあげた。仲良くしていたよ。 その頃はお風呂なんか無くって、お風呂場はあったんだけど。お風呂をたく薪がなかったのかな? 銭湯に行くんだけど、その銭湯がものすごく混んでいて、芋を洗うようなで滅多に行きませんでした。よくあんな汚い生活をしてたなって思います。
聞き手:食事の事情とかどうでした?
まだありました。 あっちは海辺でしょ、ハタハタとかなんかいっぱいとれる、バケツにいっぱい10銭とか。それを買ってくる、それを塩漬けにしておくの、おいしいですよ。焼いて食べるんです。お魚は豊富にありました。
太平洋戦争下
聞き手:1941年頃に太平洋戦争がはじまったころは?
太平洋戦争が始まったころは千厩にいたころかな? 東京の軍需工場が空襲されたのかな~?大した騒ぎにはなりませんでしたね。そのころから防空壕を掘るように言われて、だけどうちはね、それからしばらくは空襲はなかった。 それから太平洋戦争が始まったんだよね。 大体ね、私が生まれた頃は戦争に対して、私の生まれたころは、前の年の関東大震災というのがあって。東京は大変だったのね。その頃はまだ電気がなくって。炭火とか焚き火とかでちょうど、正午ちょっと前らしくって、お昼の用意して、すぐ火災になったらしくて大変だったみたい。東京が大変な事に焼け野原になってしまって、私は全然分からないのですが。
その前に大正デモクラシーがあったでしょ、そういう時に活躍していた方たちがもうほとんど刑務所に入れられて、何にもできない状態になっていたんですよね。 その時にあったでしょ、あの朝鮮の方たちが井戸に毒を入れたとか、そういうことで、そのドサクサにまぎれて。亡くなった方もいるのよ。大杉栄、とか伊藤野枝さんご夫婦とかね、憲兵が殺して。デモクラシーの頃に活躍していた人たちは、全部刑務所に入れられて、全然そんな話なんて聞いたことないし、戦争になるのが当たり前で。戦争とか言われてもあんまり怖いとか感じなかった。ただ兵隊さんたちご苦労さんだな。慰問文を時々書かされて送っていました。
あんまり、騒ぎはなかったですんで。ひっそりとしていて、ひどい世の中だったんでしょう、インフレなんかもあったでしょう。親たちは苦労していたんじゃないかと思います。うちはいつも貧乏でした。他にも事情があったんですけど、 本当に貧乏屋でした。小学校の頃、みんな手毬を持っててそれが欲しいのだけど、「買って」って言えないの。ついに毬は買ってもらえることはなかった。小学校にいくとみんな持ってるの、休みの時間にかしてもらい、やってました。
ホントに子供なんてわからないでしょう、貧乏なんて、他にも事情あって、父の弟がぐれて、それを払わなければならなかった。貧乏だっていうんだけど、貧乏の苦しさなんて子供なんてわからないでしょう。小遣いなんてもらったことないんです。みんなが紙芝居なんかみるでしょ。それもみんながお金を払らって飴をもらってるのを見てたんだけど、お金払わなきゃ見せてもらえないなんて知らない、紙芝居屋さんのおじさんが見せてくれていた。そんなこともありました。
太平洋戦争が始まったころは千厩にいた頃かな~?そのあとは能代にいたときには戦争は始まっていて、父が定年退職になって、やめたけど、あと仙台の支局で働かせてくれるのね。仙台に引っ越したんです。仙台では、あのころ(退職)は60ちょっと前くらいだったかな。(退職金がインフレで価値がなくなった)。私が銀行に勤めていたので、銀行に入れたのね。それが封鎖されてしまって戦争が激しくなってから、まけそうになったころ、封鎖されてしまっておろせなくなってしまった。酷いでしょ。あれはほんとに困ったわね。その銀行は小さな銀行で、常陽銀行で水戸に本店がある所の支店だったんです。そこで空襲にあったです。
1945年7月 仙台空襲
空襲の前に防空壕を掘るように言われてでも掘れないんですよね。隣の家で大きな防空壕が作ってくれて、隣組というのがあって、隣組でみんな入れてもらっていたんです。そんなことがあったんですけど。空襲というのは、始めは軍需工場とか多かったのですけど、そのうちに各地の県庁所在地がやられまして。 仙台がやられたのが終戦の年の、敗戦の年の7月の末頃だったんじゃないかなと(7月10日)思うんです。私が勤めていた銀行も全部無くなりました。繁華街がやられました。ぐるっと市電がまわっていて、市電の中が全部やられた。その外に病院とか官庁もあって、住宅地はなんとか大丈夫だったのね。仙台の手前が長町でしたけども、電車がぐるっと回ってそれから長町に行くんですが、その電車に乗って長町から通っていました。戦争で電車はなくなりはしなかったんですど、運転手がいなくなって、若い女の子が運転してました。もう本当大変みたいでしたよ。力がないでしょ女の子は。曲がり角なんかほんと、こんなんにして力を入れて運転してましたよ。(腕を回すしぐさ)
救命袋とかちょっとした薬品とかお弁当を入れて肩からかけていた。電車の中でお弁当箱を盗まれたこともあります。買い出しに行くにも何か持って行かないと売ってくれないんですよ。うちでしょうがないからタバコをもっていって、少しばかりの野菜を分けてもらいました。お米もそうやって買いに行かないと買えないですよ。配給がなくなって。ほんと暮らしは大変でした。戦争が終わってからも大変でした。
仙台空襲の日のことはよく覚えてます。空襲の日は100機ぐらいのおーきな戦闘機、B29って言うのかな。ガーーって、いきなり来たんですよ。大抵は空襲警報というのが鳴って、あ違う違う、警戒警報が鳴ってそれから空襲警報になるの、その時はいきなり来たの、防空壕に走っていくひまもなくて、廊下につ立ってみてました。ぐワーッと来てね。そのとき焼夷弾と言うのがばらばら落ちてくるんです。ものすごい音でしゃしゃしゃしゃしゃしゃーって。あーあれに当たって死ぬんだな、と見ていました。そしたら慣性の法則というんですか?私の上には落ちなくてのり越して、繁華街の方へいちゃって、間もなく繁華街の方から「わー」という叫び声ね、人々の大きな叫び声がわあって聞こえてきて、その時もうやられていたんですね。
火事が起こって、ほとんどもう焼けてしまいましたね。私が住んでいた家は幸いそれからそれていて、焼けなかったんですけど。それが古い昔の武家屋敷だったのかな。そんなに位の高い人のではなく、大きな家ではなかったんです。かなり広くて、石が引いてあったりして、防空壕なんか作れないような。坂を上がってだんだん上がって行って、大きな城門があったりして門構えは立派で、家はそうでもないんです。直したらしくって二階建てになっていて。部屋がいくつあったかな、七つぐらいの部屋があってそんなに広くはないんですよ。台所はまた別棟になっていて、渡り廊下わたらないといけない。トイレも中にもついていたんですけど、裏のほうに大きなトイレがあったりして、そんなところに住んでいました。
私がいた時は二家族で借りていて、結構広く借りてたのね。空襲があったら、知らない人たちが大勢やってきて、仕方がないので、泊めてあげましたよみんな。布団何てなくて、どうやって泊めたのかも覚えてませんけど、あの時は大変でした。
銀行も全部焼けてしまって。ただ金庫室ってのがあるんです。そこに重要な伝票とか書類とか現金とかが全部しまって閉めるんです。それは助かったんです。建物はなくなって、金庫室だけは残りました。それもいきなり戸を開けるとワーッと燃えだすんですって。開けられないのね。何にも書類とか出せないの仕方がなく。支店長宅が近くにあって、花京院通りの続きにある、住宅地であったので。支店長の家の庭に、なんかどこから運んできたのか、長い机などいっぱい置いて、そこに大勢の人が駆けつけて、戦災保険か何かもらいに来たのかな、大勢きていたのを覚えています。あまり自分も大して何もできなかった、何やってたのか、私も覚えてないですけど。 しばらくそんな暮らしをして、後で新しいの建てたのだけど、それまでは支店長の家で仕事をしていました。
焼けたばっかりの時、そこの跡に行ったりして、亡くなった方が転がっていたり大変でした。そういう死体を集めてあるくトラックなんかが来て積んでいくんですけどね、どこで亡くなったのか、(腕を上げた姿勢をして)女の人なんかいて。思い出したくもないですけど。そんなこともありました。
B29が帰っていくときに日本の飛行機が一機だけ舞い上がっていきました。日の丸が胴体にあって、帰って行く時に一度だけ狙って空中戦になって追いつ追われつしていたんです。そのうちに日本の飛行機が体当たりしてぶつかって、日本の飛行機がくるくるくるって回って下に落ちて行きました。それがどうなったかは分かんないんです。報道もなかったし、どうなったんでしょうね。おそらく、下に落ちて死んじゃったのかよく分かりませんけど、それを見てました。怖かったです。はっきり覚えてんのよね。それを短歌にしましたよ。短歌の先生にほめられました。空襲は夜で、ほんとにくるくるって回りながら堕ちていくのが綺麗でした。あの人たちも死んじゃったんだろうな~なんて思いながら見てました。
【『武藤十三子 えんじゅ 収蔵歌 1971年(昭和46年)第13集 漣より
息止めて見つめてゐたり触れ合いて 二機ひらひらと夜空に墜ちぬ
庇う如く腕折り曲げし焼死体 堀り出されたり街の壕より 』】
終戦
8月の15日に終戦になった。天皇が話したでしょ、それを聞く前に広島におーきな爆弾が落ちて大変な災難があったから、長袖の服を着るようにと、言われたの。長袖の服を着てどうにかなるなんて。 終戦のときの話は銀行の支店長のお家で聞きましたが、なんだか良く分かりませんでした。ただ、戦争が負けたんだなというのだけはわかりました。みんながっかりしていました。それまでは勝つと思っていたんですよ、みんな馬鹿だから。
その後、天皇陛下はあちこち歩き周ったんです。仙台にも来たの。仙台に来る日だったんだけど、いつ来るなんて知らない、私が銀行に行く時だったのかな、歩いていたんですよね。街角に車が止まって天皇が出てきた。出てきて何人か居たら帽子を取って、さささって帰っていっちゃったんですよ。車に乗って行っちゃったの、一言も言いませんでしたが。そんなこともありました。
(当時は)お弁当をぬすまれたぐらいですから、ほんとに食糧大変でした。時々母と2人で田舎の方へ、仙台の近くにも田舎があるんです。そこに行って何か分けてちょうだいと言って。なかんか農家の方も(立場が)高くなっちゃって、駄目なんですよね。着物とかいろいろ持って、少しばかり分けてもらって、そんなふうにしてなんとか食べていました。いつもお腹を空かせていました。甘いものなんて全然ないですから、甘いものには飢えていました。
兄が帰ってきて、九州で戦闘は何もしなかった。おかずを作る食事を作るほうにいたらしく、たらふく食べて太って帰ってきました。兵隊さんも食べていたのね。まあ、兄も専売局に勤めていたので、兄と父が働いてくれました。少しは良かったんですが、貯金はおろせなくて大変でした。(貯金はずっとおろせなかったの?)もうダメ、田舎のほうに土地もあったのですが、農地改革でみんな取り上げられました。山林が少しあったぐらいで、ほんと何もなくなっちゃて。田舎にお墓もあったのでね。兄嫁なんかはお墓参りに行っていたので大変でしたよ。父は早くなくなっちゃって60歳なったかならないぐらいで、(終戦の直後に亡くなられたんですか?)。一年ぐらいしてから。兄には会えた。母は毎日陰膳っていうのをしていました。戦争中ずっとしていました。御膳に少しずつ入れて。本当に母親たちも本当に辛かっただろうと思います。父親もですけど。
結婚をして東京に、東京裁判を見る
聞き手:東京の戦後の話
(夫は)一番上の姉が紹介してくれた、姉はここの小学校の先生をしていて、師範学校というのが男子と女子別々の学校があって、そこを卒業しての小学校の先生をずっとしていた。その小学校の同僚の彼女の兄だったの、私の亭主はその兄だった。その人を好きになっちゃって。母なんかは公務員とか銀行員とかに嫁がせたかったみたいですが。この人は学生だった。うちのひとは若い時に胸をやって(結核)休学してずっと遅れて入った。おそらく浪人なんかしてた。私には言いませんでしたが、かなり年上だったんです、同学年の人たちとは。だから「ボス」何て呼ばれてえばってました。学生運動ばっかりやってた。軍隊にも召集されていって年上だから、学徒ではなく学徒にいく前に招集されて。予備士官学校に入れられて高崎辺りにあったらしい、そして少尉になったのかな?馬に乗ったりしてたんじゃないかな。
戦争が終わってしばらくして帰ってきてたのかな、仙台に連れて来たんですよ。八木山という所があって。師団があったところ、伊達政宗の銅像があるところ。その続きに八木山という深い峡谷があって、そこに吊り橋がかかっているところ。そこへ遊びに行って2人で。そしたら、いろんな話をしてくれるですけど、全部文学の話、詩の話とか、ロシア文学の話しプーシキンとか、それにぞっこん惚れちゃったんです。(それで結婚して東京に)
こんな生き方したいなって。母にも許してもらって行ったんです。 東京に行って共産党の組織があるんですよね。サイボウというそのサイボウにはいったのかな?いろいろ小さな集まりグループ。お。それを細胞という。その細胞に入ったのかな、私も。そして彼はまだ学生で、お勤めはできなかった。私は紹介してもらって共産党で働くことになって。私は編集部のいろいろ雑誌出していたんですけど、「前衛」「若い力」とか「科学と技術」「大衆クラブ」と。その編集部がたった一つの部屋に四つあるんですよ。4角にその「前衛」の編集のお手伝いを。一番下っ端で、印刷所に行ったり、原稿を取りに行かせられたりして。東京の地理が全然わからない。いちいち丁寧に説明してもらって地図書いてもらって、そうやってあちこち歩いて。少しずつ覚えましたけど。そこでも「サイボウ」会議というのがあって。私は全然そういうことしゃべれないんですよ。話せないですよ。よくわからないから。
街はまだ焼け跡のまんまで、銭湯の煙突があちこちあって何も無かったりして、電車は動いていました。住宅もあるのはあるのね。住んでいたのは東京工大のあった「大岡山」なんていう、目黒から品川の方に行く電車かな、それに乗って行くんですけども。あと「西小山、洗足、大岡山」どこからでも近い所でした。友達の家の一部屋を借りて、そこで新婚生活を始めました。新婚生活と言っても何もないのよ。その友達は大学の友達で、お父さんがメッキ工場をやっていた方なのね、近くに工場があって、そこの工場の部屋も借りて住んだりもしていました。
面白かったですよ、野坂参三とか沖縄の何とかという人なんていうのかな?(徳田球一)いたでしょう、名前を忘れてしましました。宮本顕治が編集部の大将だった。その下に編集長がいて、水野さんというのがいて、渡辺さんという若い男の人と私がいたのね。私はみんなの一番下っ端で働いていました。あるとき選挙があって女の人が大勢当選したこともありました。あの頃どうしてだか知らないけれど、野坂参三と有名な人と玄関前に立ってて、報道が入ってくるでしょ、それを名前を書くのを3人でやっていたのを思い出します。
その時(戦後初めての選挙)仙台にいた時に投票したのを覚えているので、(東京での)もっと後でした。共産党がいっぱい当選したんです。2人がうれしくて、大笑いしてるのを、お偉いさんたちが喜んでいる。そんな傍にいたのを覚えています。 東京裁判も見たことあります。うちの人が(大学)卒業して「赤旗」に勤めたんですよ、記者をやっていたの。だからその東京裁判に行ってるの、「ちょっと見てみろ」と言って、私も記者のふりをしてちょっと見ました。下の方にずらっといて。戦犯たちが、東条英機とか、いろんな人が並んでいて。こっち側に裁判官、外国の人たちが並んでいて、それをちょっと見ただけで詳しくみたわけではありません。
夫の友達が「河野広中」というのは自由民権の党首でここの出身なんです(福島県三春)。その人のお孫さんがうちの人の中学の同級生で仲良しだったの、よくうちに遊びに来ていたその人が、新潟の収容所の捕虜収容所での仕事をしていて、なんか捕虜たちに、食べ物をこっそり運んでやったりしていたらしい。なんだか、何の罪だったんだか、B級戦犯になちゃたの。巣鴨に収容されて。時々お見舞いに行ったりしたんです。その頃、長女が生まれていて、長女おんぶして行くと「とーちゃんに会いに来たんかい」看守の人が言ってくれたりして。そこで時々あって、誰の本だっけな?名前を覚えていられないですけど、忘れてしまいましたが。いい文庫本あったんですよね。それを投げ入れてくれないかなって。庭に散歩に出されるときがあるんだって、その時に拾うから。そして場所を示されたりして、塀の外から投げたりしたことがありました。それがちゃんと見つかったんだか分かりませんけど。そんなこともありました。ずいぶん何回かいったんだけど。
最後に「チツム大尉」とかいう人がそこで、河野さんにお世話になったんだということを証言してくれて、それで無罪になって出られたの。そんなこともありました、あれはよかったわよね。河野さんも亡くなったわね。とっくに亡くなっているわよね。弟さんがいたけどどうしたのかな。あの人も早稲田に入って
共産党内でもいろいろあって、くびになったの。(で福島に帰ってきたよね)
体験記録
- 取材日 2006年4月22日(miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
- 地図 ───
- 年表 ───
戦場体験放映保存の会 事務局
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