室井 幸吉さん
| 生年月日 | 1914年(大正3年)3月1日生まれ |
|---|---|
| 本籍地(当時) | |
| 所属 | 陸軍 |
| 所属部隊 | 輜重兵第14連隊(宇都宮)→独立混成第6旅団輜重隊 |
| 兵科 | 輜重兵 |
| 最終階級 |
プロフィール
1938年(昭和13年) 1回目の応召
輜重兵第14連隊(宇都宮)を経て、中国山西省にて独立混成第6旅団輜重隊、兵科:輜重兵)。昭和16年帰国
1943(昭和18年)年3月、2回目の応召。独立工兵第2連隊(赤羽)、兵科:工兵。湖北省
同年秋、フィリピン・セブ島にて船舶兵
1944(昭和19年)年1月、クエゼリン(マキノ・タクラの近く)玉砕直前にパラオへ移動
同年2月、連隊本部がパラオからぺリリュー島へ
同年3月、海上機動第1旅団輸送隊 階級:伍長
同年3月29~31日に起きたパラオ大空襲を経験
同年9月ペリリュー島に米軍が上陸した為、島日本軍の救援の為、逆上陸の兵員輸送に従事
1945(昭和20年)年 パラオの清水村で8月19日終戦の噂を耳にする。
インタビュー記録
アメリカ軍のペリリュー上陸と逆上陸作戦
本当にね、戦争になって、戦闘に加わったのは昭和19年のですね、9月に。それまではしょっちゅう空襲にあったのを見てましたけどね。艦砲射撃なんてありました。ペリリュー島にアメリカ軍が上陸した。それが19年の9月の15日だったですね、空襲があって上陸が初めて来たのが。それから1週間後にそれを応援に行くか行かないかということが問題になったらしいんですね。師団司令部で。それで初めて行くということになって。行くときは船が必要ですから、それではっと?みて私たちの部隊が表に出てきたわけです。アメリカ軍は300隻もねペリリュ―島を囲んでるもんですから、ほとんど余裕無かったんですよね、行っても駄目だって事がわかったんですよ。それでも命令一下、誰も、もうしょうがないの、命あると思う者、誰もいなかったですよ。もうこれで終わりだって。
それでペリリュー島にここからね、上陸地点っていうのが…(右手の資料?を指して)いずれもここには書いてありますけどね、まず歩兵の完全武装した者がね、約30名くらい乗れる船がですね、それが4隻と、それから小発挺っていう約20名くらい乗れる船が、それが両方で5隻くらいずつね、組んだのはね4杯いたね、それが各歩兵1個中隊と砲兵とかそれから突撃隊とかね、そういう者を乗っけて行ったんですよ、逆上陸。ところがいかんせんもう(米軍が)上陸して1週間経ちましたからね、敵はみんな固めちゃって上陸する理由なんか無かったですね。本当は行っても無駄だったんですよ。無駄死に、本当に無駄死に。何のために行ったのかわからないしね、今からすると。
よく生きて還ったと思う。行く途中でもってそれをね、4回に分かれて行きましたから。一番いい回に行った者は全然死にもなんにもしないで帰っちゃった。あるいは送っといて帰ってきたのがあるわけで。ところが私らのところは運が悪くもう見つかって、それでもう滅茶苦茶にやられた。全部船が沈んで犠牲にされたり、乗ってた歩兵らは、歩兵の方は運が悪いことに野州(やしゅう、栃木県旧国名)児で14師団ですから、高崎とか、群馬県のですね高崎、それからあとは水戸の2連隊、宇都宮の59連隊、それがみんなね、野州ですから海がないから泳げないんです。だから船を降りるってことは死ぬことですよね、それでも彼らはみんな船に乗ったまま死ぬよりはいいものですからみんな降りて。それでバタバタもう空襲でやられたり死んだですね。可哀そうだった。もう今では誰かに言っても信用しないようなもんですよね。手足がもぎれて首がもぎれてそういう血が海を真っ赤にしてね、死んでいくのを見た時、私ももう何とも思わなかったですね。戦(いくさ)はこういうものだと思ってたですからね。それが今になってから考えてみると可哀そうだったとか、辛いだろうとか思うようになったがその時は何とも思わなかった。戦争とはこういうもんだと思ったね。
だから中国にいるときも一回戦闘に加わったけど、その時はまだ戦争じゃなくて何かのんびりした、○○みたいな、そんなことないが、小銃で撃ち合いですから大したことない。今度は、2回目は艦砲ですからね、ものすごいこんな大きな(両手を30cmくらい拡げて)弾が飛んでくるんですからね。いっぱい飛んできて近くにも落ちればほとんどすっ飛んだですね。それから飛行機でしょ、飛行機が無かったことが日本の負けの最初の、条件(要因?)だったわねえ。 (しばらく下を向いて) 自分にしたら2回目の時には情けないと思ったですね、それでも何とか助かった者が20名くらいいたんですよ。20名くらいいたもんですからね、それが何とかして船を見つけて帰ろうって。帰れなかったら泳いででも帰ろうという。私らは帰ってもいい命令ですから、あの、船舶兵は歩兵をここの島に送ればね、帰ってもいい命令だった。だから私ら降ろしたからにはもう帰っていい。泳いでも帰ろうっていったらいい塩梅にね、〇〇島の兵隊の船がいっぱい故障しててね、遅れてきたわけ。その船が歩兵を降ろしてからすぐそれに乗って帰ってきた。途中でやっぱり行くときにやられた所の辺りに見ると惨憺たる有様、もう本当に帰りは怒りながら帰ってきましたよ。みんな死んだ人がねえ、辛い目にぶち当たったのを見てもう何て言っていいかわからなかったねえ。(しばし沈黙)。だから戦争ってものはやるもんじゃないし、やるべきじゃないと思う。ああいう無残な目は二度とやりたくないし。
それから私もね、戦争に、誰が何のために始めたの? と考えてみたら、結局は日本は貧乏な国だから日本が無くなれば中国に攻めて行ってですね、占領して分捕ってですね、支那事変じゃなくて (明治?)27、8年の日清戦争の時にはあれでしょ、国家予算の4年分くらい、戦後にお金、賠償金を取ったんでしょ。だからお金が無ければ中国へ行ってやるのが日本のね、そういう気じゃないんですか、だからロシア撤退でもうお金をね、賠償金を取ろうとしたんでしょ。ところがそれだけは取れなかったけど。あの時もそうでしょ。もうなんか困ると中国へ攻めて行って何かかんか言って取る。台湾だって取ったんでしょ、ある意味。ああいうのを見ていくらあれだろうが人の国に占領、侵略していくなんてとんでもない話だと思う。戦争はやるべきじゃないし、まして侵略戦争なんてやるべきじゃない。いまだにあれでしょ、昨日のサイパンのあれなんか(前日に放送されたNHK終戦60年企画 「僕らは玉砕しなかった ~少年少女のサイパン戦~」のことか) まだ遺骨があるんでしょ、私たちの部隊もペリリューにね、遺骨収集で行ったんですよ。行ったけど、もうやっぱりね、青くなって、白くないんですね、私たちは遺骨っていうものは白いものだと思ったら青く、青錆びちゃって青くなっちゃって。全然わかんないですよ。(沈黙)
戦場での食糧事情
一番のやつは結局、最後の時はペリリュー逆上陸の、その、戦争は旅団?に私はおったけど、あとパラオで引揚げて来てからはね、今度は守備部隊に入って(パラオの地図を出す。) これが私のパラオのあれなんですけど、(地図を指して) これが守備部隊で、私たちはここに居たんです。(どこか指しているが映像がぶれてて不明。) この辺です、工兵ですからこのマークがある。それから (島の南端、コロール島の方から指を上に動かして)歩兵59連隊はこっちからですね。 (バベルダオブ島の南端の西側の湾を指して) こっちが15連隊、 (島の北東部分をぐるっと指して) こっちが53旅団(注:独立混成第53旅団)というね。私たちは旅団付き (の輸送隊) だったですけど。でもこの時にはほとんど逆上陸に行くときですね。 (コロール湾の真ん中あたりを指して) ここから、15連隊から2個大隊が取ったものですから、もうこの歩兵隊は一個連隊じゃなくて一個大隊になっちゃった。3分の1に減っちゃった。だからアメリカ軍が上陸してきたらとても抵抗できなかったですね。おそらく、これは私たちの推測ですけどね、おそらくペリリューで玉砕した人は人肉を食ったでしょうね、ほとんど。食う物が無いんですからね。70日間戦争したんですから。食べる物もあるはずないですから。弾丸もなくて弾もなくて全部切り込み隊で行ったんですから。まず間違いなく食べてると思う。私たちもここにいたんですよ。お腹が空いて食べるものがない、夜、今では時々銀座あたりで出しているらしい、アイスクリームみたいにして出しているらしいタピオカっていう芋があるんですよ。芋ですけどね。木を差しておくと半年位で (実が) 生るんですよ。こんな大きいのがね。それをやっと探して食べるとか。あとカタツムリとかトカゲとか食べられるものは何でも食べたですよ。このあいだ中1の孫が来まして 「お祖父ちゃん、その時何を食べた?」 っていうから 「お祖父ちゃんはマイマイ食べた」って。向こうじゃフランス語ですからね、違いますね、何と言ったかね、フランス料理に出てくる…
聞き手 (エスカルゴ?)
うん、あれだって言ったら 「よく食べる」 って。 「生で食べたのか?」 って。(笑いながら) 生じゃ食べられないですよね、いくらなんでも。それから今は家の中に出てくる、あの、羽根の生えた虫、あれを食べたって言ったら 「嘘だ」 って信用しないんですよ。今はジュネーブに住んでいる孫ですけどね。恥ずかしいんですよ、食べた物を言ったら。何でも食べたから。虫のつかない、いや、食べた葉っぱを食べるんですよ、ところが虫が食わないやつは我々も食べられない、結局虫の食べた葉っぱを取って食べた。ですから汚い話だけど便なんか全然まともな色をしていない、みんな緑ですよ、グリーン。 (笑い) みんなしてお互いに笑いっこしながらやってたですけど。〇〇じゃないですよ。あれが一番ひどい思い出ですね。
ですから中国なんかでは向こうにひっぱられて、ロシアに引っ張られた人たちもだいぶ食べるものにはね、酷い目にあったそうだけど、食料はたとえ1日いくらでもあったからいいんじゃないですか、私らに言わせれば。私らはね、一番少なくなった時、1日中、何ていうんですか、あれ (思い出しながら) あの金平糖の付いた、今、非常食ってあるじゃないですか、乾パンですね。あの小さなやつね、あれ3つだったんです。あれが1日の食糧です。うん。それでなかったら米の場合はね、1日30グラム。30グラムってどうして食べますか? 煮ようがね、煮てるとね、飛行機が煙が出るから爆撃されちゃう。だから生で食べちゃう、よく噛んで。そういうことでしたからね、ロシアに引っ張られた人たちと私たち、同じ辛さですよ。
それでも天皇を恨むとか何を恨むとか無いってことは、教育ってのはすごいものだなと思うね。今でも憶えてるのは私ら唱歌って言ったがね、学校に1年生で上がって歌う歌は 『日の丸』 ですよ。そのほかに歌うのは紀元節の歌とかね、日露戦争の歌とかね、5月の27日は海軍の歌ですが、橘中佐の歌とか広瀬中佐の歌とか全部ああいうの習ってきたからね、戦争って、その周りの人とどうしよう、こうしようって考え自体なかったですね。今になって馬鹿な自分に気が付いてるよ。あれ教育ってのは大変。で今石原さんが君が代を歌えって。罰っしているらしいけどこれはとんでもない間違いだと思いますよ。なんで君が代なんだって。君が代なんかあってもなくてもいいだろうと思いますよ。あれはね、国の歌だなんて考えられないですよ、私たち。私は、他の人はどうか知らないけど君が代なんて絶対私は歌いませんし。あれがね、国の国歌だなんて、随分人、国民を馬鹿にしてると思う。ですから私は靖国神社には行かないです。行くなら千鳥ヶ淵へ行きます。あそこまで行って靖国神社の前を通っても絶対に敬礼はしないし。というのもあの当時の我々を引っ張ってった偉い人たちが、何を考えて戦争をして何を考えて、死んでいく人間に対してどんな考えを持っていたのかと思うと不思議でしょうがないです。よく人間の顔をしていられるなと思って。
パラオの日本軍
大体、第1回目の時は一隊(ひとたい)ゆら?(輜重)隊ですからね、あまり戦闘になっていない。最初に突然隠れてね、襲撃されたとき、ゆら?隊で飛んできたときにですね、いきなり撃たれたんです。その時にはいや驚きました。まだ入って半年位だったからですね、小銃の撃ち方もろくに知らないぐらいだったから。それで小銃の弾の飛んでくる反対側へへばりついて古い兵隊に 「どこ向いてるんだ。馬鹿野郎。」 と脅かされたものですよ。(笑いながら) でもね、1回それやって自分も弾を込めて撃ち始めるとね、5発くらい撃つとだいぶ落ち着いてきて。それからは戦争になったですね。それまでは何回やっても同じだったですね。小銃の音ってのは怖いと思ったら、2回目は小銃どころか艦砲まで来たから驚いた。艦砲とか迫撃砲とか、それから何というか、光って飛んでくる、バーナム弾っていうのかな? ナパーム弾って言うのかな?あんなような弾まで飛んできましたね。ですからみんなこの辺で死んだ人たちは可哀想ですよ。このパラオのコロール島に連合艦隊がいたんですね、私たちが行った時、3月は。それであの時にはもうすでにあれが死んで、山本(五十六)さんですか、亡くなって。あと豊田さんって言ったかな、連合艦隊の司令長官は。豊田…第2回目の連合艦隊の司令長官ですね。豊田副武、トヨダソエタケって言って。(正しくはトヨダソエム)。確かそうだと思ったですよ。その方ですよ、これはパラオの方で、いやあそこ、ミンダナオの方へ飛んでいく途中で飛行機が落っこっちゃって捕虜になって死んじゃったのは(パラオからミンダナオ島への移動中墜落死した連合艦隊司令長官は古賀峯一。豊田氏はその後の長官)。だから連合艦隊は山本艦長と2人亡くなってる。司令長官は。だから私たちは昨日もみんなで話したんですけどね、いちばん死に損なって生きたのはフィリピンから行くときに、クェゼリン、そうそうクェゼリンって所、そこに行くときにね、行く1週間前にアメリカが上陸してやられたのは私らがあと1週間早かったらね、私らも玉砕した、そこで。それで命が助かった。(地図を指差しながら) 2回目はこの島へ突撃と決めてたけど (別の場所を指して) 私らはこの島にいたんですよ。コロールって。こっちは本隊が行くのに後で追いついたんですね。(地図を)これは後であげますよ。どうぞ持って行ってください。
(地図を指しながら)この59連隊っていうのは宇都宮で、15連隊ってのは高崎です。それからあとは水戸は2連隊、2連隊は水戸ですね。それで尚且つ、あれですね。ペリリューへ応援に行くまで1週間くらい話あってそれから行ったんですけど。1週間待たずに3日か4日でね、相談して行ったらあんなに全部死ななかったですね。あれも参謀長が悪いんですよ。結局、参謀長の決断が遅かったんです。その参謀長っていうのはあの、あそこの、絞首刑になった山?。絞首刑になった大将。 (考えながら) うーん何ていいましたかね、あの、シンガポールのほうで、フィリピンの政治家になった(第14方面軍司令官の山下奉文を指していると思われるが、参謀長が誰を指しているかは該当者がなく不明)。その時のね参謀長が(地図を指して) ここの時の参謀長だった。だからね、偉そうなこと言ってね、ふんぞり返ってるからそうなるんだって。みんな非難轟轟だった。 もうだいぶやっぱり覚えてるつもりで忘れちゃった。
もうしかし私たちはね、中支にいる時にね、戦争が負けるのわかったんですよ。昭和18年じゃなくて16年ですか、16年に大東亜戦争を始めたときに負けるとわかったの。何故かっていうとね、支那軍と戦争してもね、一生懸命占領するわけですね、ここならここへ行って占領する。占領してもそれを維持する力がない。だから帰ってきちゃう。何のために行ったのかって。向こうに行ってさんざんぱらやって死んでですね、戦死者を出して、それを埋めることもできないうちにもう退却する。退却した跡にボコボコと入ってくる。だからね、こんな戦争してて勝てるわけがない、おかしいぞっていって。ところがもう行ってそこを占領してそこに居座ってね、その辺をあれする能力がなかったんですよ。力がね。だから“支那”だけで相手にしてもね、この体たらくでね、アメリカやイギリスを相手にして勝てるわけがない。みんなそう思ってた。これは誰もが言ってた。もう中国戦線にいた頃、よその部隊はどうか知らんけど私らの部隊はそう思ってた。全部が間違いないことです。だから一兵卒でも負けるってことはわかってる。だから参謀長やなんかがですね勝つなんてことを言ってるのがおかしかった、見ててね。どうせ負けるのはわかってるのに言うことないぞなんて。兵隊は陰では不平満々ですよね、命令だから仕方なく行きますけども。だから評判が悪かったですよ。偉い人たちはね。何やってんだ、戦ごっこじゃないぞ、本当にやると死ぬんだぞ、みんな兵隊は思ってる。子どもの兵隊の戦ごっこじゃないんだ。本当に死ぬんだぞって。大体そんなところが私の戦争の体験談ですけどね。何かまた他にあればお話ししますけど。
中国~パラオ 戦場での生活
聞き手 (18年の3月の独立工兵第二連隊の湖北省のお話って何かありますか?)
湖北省はね、あの、のんびりしたもんでね、敵も来なかったしね、楽だったですね。揚子江の脇におりましてね、揚子江の河入鹿っていうんですか、イルカがね、 (手を回しながら) こう親子で泳いでいる〇〇るんですね、それを見ていてああうちの子供もいるのにどうしたかなって。なかなか〇が○○だったですね。食べ物もね、ありましたよ。皆さんも驚くように豪華ですよ、毎日毎日豚が1頭ずつ。20名位の部隊に豚が1頭つくわけですよ。ですからね、豚の肉もみんな嫌になっちゃって。要らないって。それを、有ると言ったって買ってくるわけじゃないですよ。全部銃剣突きつけて獲ってくる。ああいう事したんですから“支那人”は恨んでるわけですよね。私どもは“支那人”って言っちゃうんだけど。(苦笑)
聞き手 (19年の3月29日から31日のパラオ大空襲の話を聞かせてもらいたい。)
(地図、コロール島の辺りを指しながら) 大空襲はね、ここのね、パラオがこうあったから港なんですね。ここに居た時に、空襲が来た時、夕方ね、行ったわけです。その、命令を受領するために。どういう命令を私らの部隊に出すか、連合艦隊から。行ったら船がいないんですよ。残ったのは20杯ぐらいしか残ってない。連合艦隊全部ね、武蔵、大和はいなかったですけど武蔵はね、あの旗艦になってたですけどね。おかしいなとは思ったですけどね、そうしてみたら脇の方をね、(船が)走ってるんですよ、帰ってきてこれは海戦があるなって思ったら海戦じゃなくてそれは要するにミンダナオ島、フィリピンのミンダナオ島にね逃げたんです、逃げるための逃走。それをあとから追いかけるために飛行機に乗ってですね、豊田さん (古賀峯一の間違い) やなんかが追いかけてそれで落っこってですね、それでやられちゃった。それはあの、ああいう偉い人になると飛行機ですね、歩くのは、私らどっかへ行くっていうのは足でね (行進する身振り) 一日歩くんですけど、ああいう偉い人になると飛行機だったですね。
ですから私は一番長くいたのはこの島 (コロール島を指しながら) とですね、それからこちら (本島/バベルダオブ島) へ帰ってきてからは (本島南部のやや東寄りを指して) この清水って所に。今でもだから清水村のね、ご婦人方も私たちの戦友会があると来ますよ。こないだなんか5人か6人来たらしい。みんなほら、その頃に行った人は子どもだったですからね、女の子もせいぜい小学校に入ったぐらいでしょ。若いから皆元気ですね。男の方は全部兵隊は一番若いのが83かな、83、うん。だからね普通、一般が、均して85でしょうね。私だけが飛びぬけて(高齢で)2回召集だったですから。
だから私は輜重兵 (兵糧、被服、武器、弾薬など軍需品の前線への輸送を担う兵科) としての教育は受けたけど工兵としての教育は全部受けないもんですからね、私は使い物にならなかった、工兵隊としては。ですからいつもそういう命令受領とか、どことどこの連絡兵とか、みんなそういう一人ぼっちでしたから。その代わり兵隊のようにラッパに起こされてラッパで寝るというね、そういう経験無かったの。一人で寝て一人で勝手に起きて、飯も自分で勝手に炊いて食べていたのがあったのね。だからそういう時間が。それからこないだ思い出したのは鰻の日がありましたね、ウナギ。ウナギってね、向こうにいた時にこんな大きな (両手で輪をつくり) ウナギがいるんですよ。1メートル半くらいのウナギがいるんですよね。みんなそこの島民はね (手を合わせて拝む様子) 神様だっていって食わないんですよね。ところが私らは食う物が無くなってきたらそれをみんなゴボウ剣で (三十年式銃剣:刀身の長さと黒い色から将兵たちからゴボウ剣の名で呼ばれた) 突き刺して獲って食べた。考えてみるとウナギの子どもっていうのは南洋の方で産まれるそうですよ。あれが親じゃないでしょうか。もうそれはすごいですよ。うっかりしたら噛みつかれるんじゃないかと思う、大きなウナギで。こないだ鰻の日にね、どうも南方の方でウナギの種、子どもが産まれるって話を聞いて。多分あれが親だったんだって。
それでいいことには、戦争してても良かったことはこの島には河があったんですよね。河があって湖があった。だから水を汲みに行くのは近くにあったから助かった。水だけは不自由しない。もっとも汲みに行かなくてもスコールがありますからね。一日2回、午前と午後にスコールがあるからその時に。最初の頃は喜んで石鹸つけて待ってたけど、終いには石鹸なんか無いから。(笑いながら) (体を) 拭くのにも手ぬぐいもない、無くなっちゃったからどうしようもない、シャツですよ、シャツで拭いた。今行ったら私たちの居た所は全然わからないらしい。 (しばし沈黙のあと資料を探りながら) あと何がありました?。(資料の本をみながら)これにもペリリューのあれが出てますね。 (聞き手が資料の本を受け取り開いてフィリピンの地図を見せる) (地図を指して) うん、私らは本隊が連隊からパナイ島って所にいるの、私だけ一人だけセブ島に行ったの。(しばらくフィリピンの地図を見つめている。)
終戦
(パラオの地図を指して) これ、清水村って言ったんですね、清水村。清水村ってパラオ本島ですね。パラオ本島の清水村っていう所におったですね。うん、ちゃんと私らが死ぬところ、ここ、マルキョク (現在のパラオ共和国の首都) っていうここが私たちの死ぬところだったですよ。ここに塹壕を掘って待ってたです。うん。ああ。戦争が負けたって言うのは18日か19日だったです。それまで分からなかったです。なんか負けたらしいって噂は出て、無線兵、無線では口封じされて言わなかったから、負けたってわかったの19日じゃなかったかな。さすがに中隊長が負けたって言った時に何て言ったらいいのかな、喜んでいいのか、悲しんでいいのか、涙がポロポロ出てきましたね。こんなに一生懸命やってね、働き、命がけでやって負けたなんてのは悔しいと思って。負けたことが悔しかった。半面、1日か2日置いたらこれで帰れるって。その代わり何かねえ、内地、あの日本を指して我々は外地行ってるから内地って言うんだよね、この日本を。内地は女の人が全部ね、慰安婦にされちゃう。まして男はやっぱりあれされて兵隊は全部苦力(クーリー)に使われるって噂があったですからね。日本でもやったんだからね、それは仕方がないだろうって。みんな兵隊は納得しましたよ、うん。我々もね、中国で全部その辺にいる者を捕まえてきてね、ボロを担がせたり掃除させたり、で、もしもちょっとでも変な事、反抗しとる人をバッサリ切り殺したり。そういうことやったんですからね。我々も負けたら仕方がない。どうせ死んだ命だから仕方がないよってみんな諦めたんです。
そうしたら案に相違して待遇が良かったですからね。最初にくれたのが不良品ですけれど缶詰、あの肉じゃがっていうんですかね、ジャガイモと豚肉が入って塩辛く煮たの。それでこの位のね、 (両手で弁当箱くらいの形をつくって) 缶に、こういう(何かを指して) 何て言うか (手を肩の辺まで上げて) この位の高さのやつ。3ポンド入るんですね、それを貰って1回に食っちゃった、あっという間に見てる前で食べちゃった。それまで塩気のあるものは食べたくなかったですからね。海なんだからね、海、塩気あるだろうと思ったらとんでもない話。これ出られないですから、ここから。出て塩気のところ (海岸?) 行ったらね、魚はいっぱいいるんですよ、貝もあるし、獲ればいいんですけど、そこに行くってことは死ぬことなんですね。ということは飛行機が年中ここを (島の地図の上で手をグルっと回して) 上空を飛んでるわけです。だから見つかるとバリバリーって空襲、襲撃されてですね、みんな逝っちゃうんです。ずいぶん死んでますよ。何とかして魚獲ろうとか貝を拾ってこようとか。どうしてあんな事したのかなあと思うよ本当に。可哀想だよ、死んだ奴ら。あれから60年、まあ俺は生きてるにしろ、(眼鏡を外して涙を拭きながら) あんなとこで死んで…。だからペリリューの傍へ5、6年位前でしたか日本の人が何名かダイバーって (ダイビング?) 素潜りするの、あれに行って流されて死んだでしょ。だから我々、集まった時言ったですよ、ざまあみろって。我々がね、決死で行った島へ潜りになんか行くからだ、俺たちの友だちが底から引っぱりこんだんだなんて悪口言いましたよ。彼らだって生きて帰りたかったですよ。ましてこんないい世の中になったんだもの、余計ですよ。(しばらく沈黙の後、向き直って) うーん、そんなもんですね。私の話は。
聞き手 (昭和19年の1月の島の名前ってわからないですよね?)
昭和19年っていうと?
聞き手 (1月に…玉砕してしまった島。)
さっき言ったじゃない。クェゼリン。そこにね、海上機動輸送隊ってのが行ってね、海上機動部隊っていうのが2,3いたんですよ。それを乗っけてね、小さな島をここの島からここに動くために私らの部隊があったんですよ。ところが行こうという手前にアメリカ軍が上陸してきてみんな玉砕しちゃった。だから南方はほとんど玉砕するか食べ物が無くて死んだか、どっちかじゃないですか。西カロリンはパラオですけど、東カロリンポナペの方もね。それから、あるいはクェゼリンの方、それにサイパンもそうでしょ。
玉砕の島々
聞き手 (最初の昭和19年9月のペリリュー島逆上陸の所をもう少し詳しくお話ください。)
あの、あそこはね、私達の部隊が入ってきた大発っていう船があるんですよね。それが陸軍の歩兵さんが完全武装して約35名、40名くらい乗せて、その船が4杯と、それから小発動艇っていってね、20名くらい乗れる船と2隻あったんです。それが5隻組んで小発1隻に大発4隻で一梯団を組んだわけです。それがね、(指折り数えながら) 5隻いたんです。それが大体一船団で歩兵1個中隊、それに砲兵1個分隊くらい、機関銃2個分隊くらい乗っけて、あと戦車用の地雷とか爆撃 (爆雷?) とか、そういうものを乗っけて行ったわけです。で、夜ね、夕方…夜12時くらいに〇〇があったんですけども。やっぱり決死隊に行く兵隊の中に大隊長が刀なんか抜いちゃって意気がってね、行くっていうんでよ。もちろん死ぬに行くんですから我々は可哀想なのはわかってるんですけどね。それでも私たちが一番心配したのは潮ですよ。潮。海には水が、潮が満ち潮と引き潮があるでしょ。満ち潮の時に島に行かなかったら上陸できないわけですよ。ですから私たちはそこまで行くのに何時間かかるからそれに行きたいとバタバタしてるのにね、その隊長さんが延々と演説してましてね、なかなか行けない。もうこっちは船にエンジンかけて待ってるんですけど。それでやっと1時間か1時間半くらい遅れたからこれはいかんと思って。そしたらやっぱりその通りだった。それで島へ行ったら引き潮だった。それで引き潮で、途中でもってね何遍座礁したことか。小さな隆起で (地図を指して) これ全部隆起ですからね、こういうのがあるわけです。だからそういうところにみんな引っかかっちゃうです、船が、みんな座礁しちゃう。それで座礁を戻すためにね、エンジンを逆に回転させたり手で押したりしてやるんですが。それがもう一遍突っ込みやったらなかなか落ちないですよね船は。それがだから満ち潮なら何てことはなかったんですが、引き潮で行っちゃったから。もうねえあれは大隊長の責任負ってもらわなきゃ、そのために間に合わなかった。だから何から何までマズくいったんですよ。せめてあと2日早かったら敵ももっと油断してたのに。
(島の地図を見せながら) これは全部は地図にないですけど。ペリリュー島はこれから下にありますからね、これは日本の方を向いているんですが、こっちですから、ペリリュー島なんかは。(しばらく地図を見ている。)
今はなんかコロール島はものすごく綺麗になってるそうですよ。旅館もあればね。私たちが行って驚いたのはタクシーがあったことですよ、この島にね、タクシーが。へぇーって。極楽へ来たなんて喜んでましたよ。着いた時にはですよ。こんないい所へ来て、日本語が通じるし。それまでは中国とかフィリピンでしょ。それとパナイ島と。あるいはビサヤと○ダッカ?。フィリピンも言葉違うんですよね。それで私がいたあれはビサヤ語だったですよ、セブ島は、その本隊がいたパナイ島はね別な言葉だった。だから両方で話が合わない。で、私は、船舶兵の師団司令部にいましたから、それを20歳~25歳くらいの女性2名を船舶兵団の司令部が雇ったんですよ。すると言葉が通じない。片っ方がビサヤ語で片っ方が何とか語といって違うんですよね。同じフィリピン人2人でもあまりスムーズに話ができない。もちろん私も全然できないですからね。だから通じるのは何とかして英語なんですよ。何とか通じるのは英語、だからみんな英語だと両方ともね、ビサヤ語もタガログ語も通じるんですよ。私はいくらか半可、片言の英語で、(笑いながら) そういうことしてたですよね。あのでも面白かったですよね、何で雇ったんですかね。今考えてみるとああいうの雇うことによって現地人?にもあれする、安心させるために雇ったんでしょうね。それが後で考えてみたらね、それが全部敵のスパイの奥さんだったんです。2人とも。後でわかった。雇ってみていろいろ聞いてみたら向こうの兵隊さんの奥さんだった。で、わかっても私が言うわけにいかないから黙ってたんですね。あれには驚いたですね。どうしてお前たちは英語できるんだって聞いたら 「フィリピンでは英語を喋る」 って。都会ならともかくね、こんな山の中で(英語を)使えるのはおかしいぞって私が言ったら 「いや私は山の中にいたんじゃない。街にいてやられたから入ってきたんだ」 って一生懸命話す。それも聞く方の私の英語が中途半端ですからね、はっきり聞けない。それで結婚してるだろうって聞いたら 「どうしてわかる」って。大体態度でわかるって言ったら 「私の夫は兵隊だ」 って言う。お前たちそんなことここで言わないほうがいいぞ、言ったらお前、やられるぞって。銃殺だぞって。だからどうして雇っていたのか。だからフィリピンは最初から日本に対しては敵意をもってましたよ。民衆が全部。アメリカナイズされてましたからね。アメリカにほら何十年も占領(統治)されてたでしょ。だからアメリカの方が日本軍よりよかったんですね。
だから私は2回目の戦争は今言ったとおりこの〇〇島に行ったのが戦争で。あとは何もしなかった。あと食べるものに困って食べることだけやって。困ってたって言ったって獲れるものも無いから草っ葉とか虫とか。そういうものを食べていたですね。あと3ヵ月(戦争が)あったらおそらく死にました。死んでました。今、私がこの (右袖をめくって) やせちゃってますがね、今と同じです。歩くのがノロノロしか歩けなかった。
中国大陸の話
聞き手 (すみません、最初の経歴のところがビデオが回っていなかったのでもう一度地図など使いながら…えー昭和13年の宇都宮14師団輜重連隊ですよね?
うん、輜重14連隊。
聞き手 (それで山西省に行かれたということなんですけど。)
うん山西省で、行った時はもう忘れたなあ、山東省はね、あの済南から青島(チンタオ)?青島の鉄道、膠済線(こうさいせん)ていうね、そのちょうど真ん中あたり、中間に高密ってところがあったんですよ、高い低いの高、ミツは舐める蜜ですね(実際には密の字を書く)。高密ってところ、そこから150kmくらい奥に入ったところ、徐州に近い方だったです、徐州に近い方にね、第6旅団(独立混成第6旅団)ってのがいたんですよ。その第6旅団に対して弾薬とか糧秣をね、送り届ける。途中でいわゆる八路軍ですね、八路軍とか、○○の、これ蒋介石の軍で。向こうにも2つの軍隊があったですから。それに襲撃を受けて4回位戦闘しましたけど後で考えてみたら簡単なものだったです。それがありました。今考えてみるとあれは、もう本当に戦ごっこみたいな。バリバリバリバリやってて手榴弾を2、3発投げれば終わりっていうような。でも最初の戦闘は怖いですよ。何せ何にも知らないんですからね。いきなりビュンビュン弾が来ると怖かったですよ、最初は。慣れてくるとどっちから弾が来るとか、これは小銃とか、これは機関銃とか弾の音で聴き分けるんです。どっちから来るか、誰が狙われてるか、「お前狙われてるぞー」って。わかる、弾の音で。誰も死ぬのは嫌ですからね。死にたくない。死にたいなんてみんな言ってて、天皇陛下万歳なんて、私、天皇陛下万歳なんて死んだ人聞いたことない、見たこともない。たいてい何も言わずウッって言って死んじゃうとか、お母さんって言うのが多かった。うん。あるいは子どもの名前を呼んだりするのあったけど、天皇陛下万歳なんてのは聞いたこともないし見たこともない。あれは軍部が煽ったんでしょうね。
島の話
聞き手 ((地図を見ながら) ここをずっと指していただけると。)最初は清水村ですね?
私が居た所ですか?居た所はここです。(地図を指差して) これは工兵の〇です。これがそうです。清水村っていうんです。
聞き手 (この島の中でも移動されましたよね。)
はい、これ、これ(本島南部の東岸あたりを指す)から出てったんです。これから出てですね、ここ(本島中央西のカラマドゥー湾) ここから船に乗って。歩兵乗っけてですね、15連隊の歩兵乗っけて。この黒い所、これは海ですからね。それでここの間 (本島とコロール島の間) を通ってペリリュー行ったわけです。ペリリューへ行く時はここ (カラマドゥー湾) から行ったんです、出発点。それからここ (コロール島の中央を指す) から出発したのもあるんです。コロールのここから出発した部隊もあるんです。みんな駐屯地によって違いましたから。
聞き手 (ペリリュー島で兵隊さんを乗せて輸送されるじゃないですか、船で。当然ペリリュー島の周りってアメリカ軍が囲ってますよね。)
そうね、だからそれをね、突破したわけです。見つからないように用心してね。そうはいかないですよね、向こうだって戦闘に来てるわけですから。
聞き手 (見つかると当然撃ってくる?)
うん、○○でも見つかるとバリバリーって。日本軍と違って機関銃も大きいのを持ってますからね。だいたい25ミリっていうと弾丸がこのくらいありましたからね。(右手の人差し指の付け根を持って)弾丸が。これ、人差し指くらいあります。するとね、人に当ったら瞬間、貴方、首が飛びますよ、頭。すっ飛びますよ。腹なんかやられたら大きな穴がバッサリと開いちゃう。小さな機関銃、 (親指と人差し指を合わせて) こんなもんだからって思ってると、とんでもない。本当に当たると大変ですよ。小銃、日本の小銃だって当たるとかなり、当たったとこ小さいけど出口は大きく穴開きますからね。それで日本と違って米軍は機関銃でしょ、バリバリバリバリ出るでしょ弾が。日本みたいにガシャンとやっていちいちバシャンと撃てばまた槓桿(こうかん)を戻して弾を込め直してするのと違うから。日本が5発撃つうちに向こうは100発位撃ちますよ。だから戦争をする相手じゃなかった。(黙って俯く)
(地図を指して)ここにもまだ埋めてきたのがありますよ、死んで。病死してね。僕らがいたところ、清水村にも僕らが穴掘って埋めてきたのがいますよ。そういうのはね、ちゃんと埋まってますからいいですよ。ただ野ざらしになっているのはね、可哀想ですよね。まだこの島 (本島)にはないですけどペリリューにはあります。ペリリューとかアンガウル島。アンガウル島っていうのはペリリューよりもっと南のフィリピン寄りの島。
聞き手 (アンガウル島?)
うん、アンガウル島っていうの。そこにも1,200名、日本軍がいたんですよ。そこは誰も応援にも何にも行かなかった。もう見捨てられた。あのアンガウル島っていうのはチリ硝石 (リン鉱石)が出るところ。海鳥の糞が固まったの。それがね、チリ硝石 (リン鉱石) といって燃やすとバーッと燃えるんですよ。それを持ってきて精製して肥料にしたの。それを掘っているとこがあったの。そこにね、僕ら、1個大隊、1,200名いたんですね。海軍と両方で。ペリリューにも海軍はいましたからね。海軍と、陸軍は正規の連隊ですからね、3千名。陸軍はね。独立の2連隊(歩兵第2連隊のことか)が3千名、それからその他に独立大隊が1個中隊、いや1個連隊?、大隊?これが千名位になるんですか。その他に高崎の2個大隊(注:歩兵第15連隊)が行ったですから。これがやっぱり2千数百名。あと海軍がいますから、だから約1万千名くらいになるんじゃないかな、死んだのは。私らの部隊は帰ってきてもね、そういう事をする、戦争を記録する係が戦死しちゃってもう手帖、全部無くなっちゃってわかんないですよ。だいたいね、85%の人が死んで。そのくらい、帰ってきたのは、85%位の人が死んで15%くらいしか帰ってこなかったって。だから私なんか本当に運が良かった。
語り継ぐきっかけ
聞き手2 (何故、「朝風の会」に手記を書こうと思ったんですか?書いたり語ったりしようと思ったきっかけというのは?)
いや今ね、原稿のあれでちょっといろいろ書いてみたらね、あさかぜに投稿するまでに3か月もかかるじゃないですか。もうこの頃は腕が震えてきたり。頭が、脳梗塞をやったためかいろんなこと(記憶)が出てこない。すぐに。手紙を書くのにも便箋1枚に2時間もかかるんですからとてもじゃないがもう。
聞き手 (書き始めた最初のきっかけというのはあるんですか?)
いや、だからそれが最初に話した、誰がやったんだこの戦争はって、それから責任はだれが負うんだって。あんなに殺しといてね、責任は誰も負わない。戦争を何でやったんだか、それも無い。そんな馬鹿なことあるもんかって。現実に人間が、兵隊が3百万も死んでるじゃないかって。それに関わらずね、何で、誰が、始めた戦争なんだって。それが私の不思議だった。
聞き手(ありがとうございました。長い時間すみません。)
べらべらと (喋ったけど) …(取材の成果は)ありましたか。
聞き手(ええ大分。ペリリュー島は初めてなんですよ。体験を聞くのは。サイパン、中国戦線、満洲、満蒙開拓団、ガダルカナル、ミンダナオ。)
私らもペリリューは今言ったように逆上陸で歩兵乗っけて行っただけでね、それで損害だけ大きかったけど何にもならない。それで戦った者は、尤もペリリューで戦った者は皆戦死したんですから。玉砕して。
聞き手 (生き残りはいないんですか)
いないです。何かね、最後に34名、34名ペリリューの生き残りがいてね。それが戦後2年位経ってから初めて日本の将校かなんかと会って (日本に) 帰ったらしいですよ。(注:澄川道男海軍少将の誘導により、山口永少尉を指揮官とする34名が帰順したのは昭和22年4月21日)
聞き手 (ペリリュー島の守備隊が?)
うん、それは守備隊です。それが助かったの。
聞き手 (1万ちょっとですね。)
1万いくらはいたですよ。いたはずですよ。私らの考えでは。わかるから大体。
聞き手 (お知り合いとかいらしゃったんですか?この中に。わかんないですよね。)
ああそうですね。生き残った人は歩兵15連隊だと思うんですよ。
聞き手 (お名前とかわかりますか?)
名前はわからないね。多分、歩兵15連隊、高崎連隊(注:山口永少尉の所属は水戸の歩兵第2連隊)。
聞き手 (これ34名生き残ったっていうのがわかったのはTVか何かでですか?)
いや後で本になって読みました。
聞き手 (何の本を読まれたんですか。)
何とかの…何の本だったかね。立ち読みしたんだな。
聞き手 (戦記?)
生き残った一番偉いのが山口って少尉だった。
聞き手 (まだ生きてらっしゃいますかね。ギリギリですよね。)
そうですね。もうその方も生きてるかどうか。生きてればもう85になってる筈ですからね。あの時25(歳)でも60年経ってますからね。
聞き手 (玉砕した島の生き残りの方って全く見えないじゃないですか。お話が聞けないじゃないですか。ほとんどいらっしゃらないじゃないですか。)
いないです。
聞き手 (まあアッツ島とかもそうですし。)
それもね、これも立ち読みだったか何かで読んだんですけどね、110名くらい捕虜になったはずですよ。
聞き手 (どこの戦場ですか。)
ペリリュー。いるはずなんですよ。それは全然もう表面に顔を出さないで。わからない。表面に出てきたのは山口少尉が34名、それがね、どこか、ですから群馬県の人だと思いますよ。
聞き手 (たぶん御自身からも捕虜になったとは言わないんですよね。)
捕虜になった人はね、言わないんでしょうね。いやだけど今だからね、もしいれば。今だったら言えるでしょう。
聞き手 (何か伝手だったりありますか。ペリリュー島の取材をしたいのですが。)
ペリリューにいた人は食う物も、もちろん弾もない酷い目にあったんですからね。さっきも言ったように私の推測では多分人肉食をしてるはずだって。これは私の勘ですからね、はっきりした事はわからない。だって食わなかったら戦争できないもの。七十何日間もね、戦争したんですからね。生きてるわけないです。
聞き手 ((『1億人の昭和史 日本の戦史』を見て)これは買われたんですか。)
うん。これは全部日本の中国戦線とね、太平洋戦争と両方。全部6冊、古本市で買った。 (取材者が見ている頁を指して) インパール作戦。
聞き手 (戦友会とかもう出られてないんでしょうけど。そういう伝手とかまだあるんですか。)
いやもう私はあれ(戦友会)は行かないけど。もちろん最後の部隊の生き残った兵が集まる、ね。それから私らの部隊の場合にはね、全然ペリリューへ行かれない者が多いでしょう。行かなかった者が。それはどっかでやってるらしいよ。しかしみんな殆んど死んだらしいですよ。85歳くらいではね大体。
聞き手 (亡くなってしまいますよね。)
うん。それから私が一番最高で91(歳)ですから。
聞き手 (でも変わった経歴をお持ちですよね。輜重連隊から入って工兵になって。海軍も行ってますものね。船舶兵に。)
そのほかに行って、兵隊行ってね、歩哨とかね、夜になると不寝番って寝ないで番するのがいたでしょ。歩哨ってのがあったでしょ、全然立たない。だから(地図を指して)ここに居た時には海軍の武蔵とね、連絡兵、連絡する。それから、みんなさっき言った、フィリピンに居た時はみんなパナイ島にいた。連隊本部はパナイ島にあったのに関わらず私一人だけセブ島に行った。だからこれも全部なし。だからお金がなくて困ったです。
聞き手 (何でいつもお一人だけになっちゃうんですか。)
派遣されるんですよ。命令ですよ。何か副官が呼んでるからと行くと 「お前、どこどこ連隊の本部行って働け、仕事してこい。」って。仕事しろって。もう命令だから仕方がない。それはやっぱり戦友が居るところにね、居たいですよ一緒に。今まで仲良く話していた相手がいたからね。一人だけ持っていかれるんですから、全然知らないところに。そりゃあ寂しいですよ。結局はね、私が輜重兵で工兵として使えないから。それがあったのかも。多分そうですよ。その代わり食事も自由だったし寝るのも起きるのも自由だったし。ただ戦闘になったら困るなと思った。戦闘になったら一人で小銃を持ってやったってどうしようもないでしょう。困るなと思った。その時だけ困ったですね。普通の兵隊さんが経験しないことできて、パラオのコロール島にいたら住民はもう食べるものないですよ、内地からの船が来ないから。そうするとね、私なんか学校にいたから今度用務員が困る。奥さんと二人とも年寄り。食事に困ってね。お米もなければ味噌もない。困ったなって。黙れ黙れ、俺にまかしとけって。それで昔の味噌樽っていうんですか、樽で持って行ってあげて。醬油もとりあえず持ってけって。樽でやったらびっくりしてどこから持ってきたんですか。とんでもないって。(笑)その辺に野積みになってあるんですよ。内地から来たのがね、軍艦に行くやつがあるんですよ、〇〇艦の板が。それを野積みにしちゃうんです。それを言って歩哨に 「おい、向こうを向いてろって、貰ってくる。向こうも知ってるけど黙ってるんですよ。迂回してね、かっぱらったりするとバーンって(銃で撃つ素振り)やられるからまあ〇〇でやる。その人があれですよ、パラオに引き揚げて内地に来るっていうんでね、ペリリューじゃなくてあれね、フィリピンに行ったんですよ。疎開する船で。それが当日撃沈された。おそらく死んじゃったです。もう60位のお爺さんとお婆さんです。それがまた不思議なことにお爺さんが横浜でね、お巡りさんの人だった。で、科を聞いたらね、こういう所のおまわりさんですよね。ちょっと待って、それ家の女房のね男親っていうのがあの辺でね署長やってたんですって言ったら 「あ、私その下にいたんです」 って。そういう不思議なことがあったんですよ。それは吃驚したね。偶然とはいいながら兵隊は特にそういう事がありましたね。
それからもう一人は、ペリリューには時計の修理をする所があった。パラオのコロール島にあった。時計をみんな船で送ってきて直してくれってくるのをね。私は時計屋に行ったらね、名前を見て (左胸を指す。名札のことか。) 室井っていうのが入ってたの。それを見てだと思うんですよ、 「あんた栃木県でしょ。」 って言われた。 「そうだ。」 って言ったら、私栃木ですから、生まれは。聞いたら 「こういう人知りませんか。」 って言ってソウマって人の名前を言ったから。ああそれは俺より1級上の人だって。どこにいるんですかって訊いたら、 「〇〇〇に乗っていって今あのここへ上がってる。」 と。 面会できるかなと面会行ったら入れなかった。〇〇された兵隊と普通の兵隊と全然間を分けちゃって。会わせなかった。ああいう偶然がありますよね。だから私は2回目は本当の戦友っていうのはいなかったです。輜重兵とあれでしょ。片方は、上がった最後が機動部隊にいたんでしょ。私はよその部隊にいったんだから会わないですよ。召集令状だけで違うんですよ。兵隊が仲がいいっていうのはね、同じ部隊に同じ日に入隊してですね、殴られたり蹴っ飛ばされたりしてね、そういう風にされる事によって仲良くなるんですよ。助けてくれるようになるんですよ。とにかく2列に並べると前列一歩前へ、周れ右、回れ右させて番号掛けて、お互いにね、前後ろ並ぶのよ。向き合ってお互いにビンタ。往復ビンタの張り合い。パタパタ痛いから遠慮してると 「この野郎、何っ。」 って。 「遊びじゃないぞ、本気になってやれ。」 って。私もここの指が(右手の親指を指して) 一遍ズルっと剥けちゃって、よく指は助かったけど、 (右頬を指して) ここの傷の周りのも。うん、これ位の傷で助かっているんですから。本当にいい方ですよ、運が良いですよ。
聞き手 (どうもありがとうございました。)
(地図を渡して) これはどうぞ。
聞き手 (頂いていいですか。これは何かの付録ですか?)
いや、これは兵隊が(現地へ?)行ってきたのが撮ったんです。兵士が撮ったんです。だから間違いなく本物です。 (何かを指差して) このマークのとおりです。
聞き手 (また谷田川さんにお会いしますんで。)(谷田川和夫さん:当時の「朝風の会」代表)
そうですか。よろしく言ってください。今行ってないし、投稿してないもんですからね。谷田川さんになってから1回投稿したきり。してないから。
聞き手 (久田さんとも。熱海でお会いして。久田さんも録らしていただきました。)(久田二郎さん:初代「朝風の会」代表)
久田さんも奥さん亡くなっちゃって可哀そうに。
聞き手 (何かありましたら、私の名刺です。)
私も記憶力がだいぶ無くなっちゃって。名前とか人とかわかんないね。最初から辿っていけばどこに居た、ここに居たって言えるんですけど。
体験記録
- 取材日 年 月 日(miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
戦場体験放映保存の会 事務局
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