村田 正之助さん

生年月日 | 1921(大正10)年3月15日生まれ |
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本籍地(当時) | |
所属 | 海軍 |
所属部隊 | 第18警備隊 |
兵科 | 普通科電測術 |
最終階級 |
インタビュー記録
1942(昭和17)年9月1日 現役兵として横須賀海兵団に入団
聞き手:最初に入隊されたのはいつですか?
(昭和)17年の9月1日。17年。はい。もっとこっちへ。近くへ来て下さい。耳が遠いや。すいませーん。
聞き手:これは志願でいらっしゃいますか?
え?
聞き手:志願ですか?
志願じゃなか。徴兵。
聞き手:徴兵で。
ええ。
聞き手:じゃあ、徴兵で海軍は珍しいですね。
いや、珍しくないの。当時ね。ここで(収録している建物を示す)、甲種合格んなったんだから。そこのー(左全前方を指し)門外で。
聞き手:ここ?
ここで。昭和16年。7月。甲種合格って。ここで。ほいで、海軍にねー。そんで甲種合格。ぜんぶでねー、あのー、あれはー、強制的だからね。そん時、当時は。もう、眼鏡掛けてようが、体悪い人は全部検査されたの。それで甲種合格になって、甲種合格、79人受けて、31人甲種合格。その31人の内、7人が海軍。海軍はやっぱり整ってなけりゃだめなんだよ。その当時は。そいで海軍に入って、昭和17年の9月1日に飯坂温泉から歓呼の声に送られて、福島出発して、横須賀海兵団に入った訳。
その前にねー、あなた若いから、私話すっけども、日本はね、当時ね、ね、とにかく、軍閥主義だったの。今の、うー、なんていうか、内閣ね。ああいうのが軍閥主義だったの。当時はね。で、やむを得なく、この戦争だった訳だよ。やむを得なく。ね、それは、日本の行く末を考えたからやむを得なかったの。それ証拠に、復員してね、戦争終わって、復員してから、昭和29年に、九州の三宅炭鉱潰れたべ?それから北海道の、うー、千歳炭坑も出なくなっちったべ?一番わかんのは、常磐ハンエー(炭山?)や35年にや、パーになったべさ。そのために、その当時の人たちは、なんでかんで、南方の資源を欲しいために、始まった戦争なの。ねー?簡単にあなたに言わないと、わからないから。若い人は。ねー?やむを得ず、日本の今後のために、当時の内閣は軍閥主義だったから。ね?戦争を始めた訳。それで作戦負けした訳。日本のね、わずか、日本の200倍あっとこね、わずか半年で全部取っちまったんだから。日本のね、30倍もある場所を、南方全部取っちまったの。わずか半年で。その、一番遠いとこ赤道に、私は行ったん。赤道に。ニューギニア。西部ニューギニア。赤道のすぐ下(両腕を挙げ、掌を下に伏せながら)。そこにー、行ったんだけどもー、駆逐艦一杯と輸送船二杯、行ったんだけども、11日着いたんだけども、着いたその日に、あの、ボーイング爆撃機7機に滅茶苦茶に叩かれて、私の船の後部にいたの、35人どこ行ったかわかんない。私は丁度真ん中で、電波探知、私、電波探知機の、新兵器の、あの、部員だったから。
海軍通信学校を出て、塩屋崎灯台に配置
当時の、電波探知。それでも日本は二年遅れてた。電波探知機。ねー、アメリカから見れば、ドイツが一番早いんだから。ドイツと日本はこうーやってたんだけど、ドイツの優秀なのはアメリカに取られた訳。ドイツの優秀な博士、博士ね。そいだから日本は二年遅れてた。電波探知機。そいで私は、電波探知機、月月火作った高橋俊策(註:兵学校48期、大佐。大本営海軍報道部員在籍時に軍歌「月月火水木金金」を作詞)、えー、マノクワリ、いや、あのー、三重県の、航空隊にいたんだ。高橋俊策。げーつげーつかー作った。あの人の当番(従兵)してたもんだから、無試験で久里浜通信学校に、もう、送られたの、私。昭和18年の1月に。
それでそこ卒業して、ね、それが6ヶ月なのに、ただ2ヶ月。と、当時ねー、日本全土と太平洋にね、11ヶ所、電波探知機、据え付けたの。だけど操作する人間いないから、3ヶ月なのにね、1ヶ月半で出されちゃったの。私ら。そいで、極秘の内にね、自分の行きたいとこね、どこ行くか丸付けろったら、あそこの塩屋崎灯台。そこに丸付いてたんだ(笑みをたたえながら右手人差し指で丸を描きながら)。福島県の。美空ひばり。今あるとこ。ねー。それでそこさ丸付けたら、そこさ11人。福島県の人3人。郡山と、須賀川と、私飯坂と、3人、遠いとこさやられたの。いやー、そうしたらあのー、今のねー、こないだ流されたー、あそこ美空ひばりのとっから200m奥が今中学校あんだ。中学校のすぐ裏の山の屋上さ付けたんだ。電波○○(探信儀)。
そこさね、11人そっくり来たんだ。そこさ。ね?初めてだから。いや、ところがあんーたねー。初めての福島県の海軍基まで外出区域なんだ。平に旅館今でもあっけどもその旅館が指定旅館だったから。そこさ行って、飯タダで食う。ところがあんた海軍基地福島県初めてだから。みんな珍しくて、海軍さん海軍さんって。夕方4時んなっとね、もんぺ履いた女性たちぞーろぞろ付いて来んだ。もうイーヤカンはタダだしねー。梨なんかはタダで食わせられるでねー。なーんでも。それからあんた、ブリだのねああいうの持って来んだ。あの、兵舎さ。んだからこーんな天下素―晴らしいなと思ってたんだね。
1943(昭和18)年 第18警備隊でニューギニアへ
いや、ありがたく3ヶ月半でねー。18警備隊を命ず、と。で、18警備隊なんだかわかんねんだけども、陸戦隊なんだ。ほいで、8月1日までね。あのー、横須賀海兵団に入れるっていう命令。そっくり行ったの。11人そっくり行ったんだ。岡村隊(岡村政夫、海兵38期)って。陸戦隊。ね。
それで、ニューギニアへ行って。ニューギニアの、到着して、看護婦さん26人。俺らと一緒に行ったの。看護婦。それも先上がって、ほいで、俺は電波探知機ね。あの、船では使わんねから。移動式の奴を付けてったから。見張りさせられてたの。前ど、中ど、後ろの。ほいで丁度私、操舵室って、あの舵取るとこの屋根さね、特別に作って、見張りしてった訳。ほいで後ろにいた、俺と同じ行ったのね、爆撃、直撃食ってね。全然、35人、いっぺんにいなくなった。ほいで、前ど、中ど、それで助かってね、それで4時間半泳いだの。爆撃、ボーイング来たんだけども。ボーイングが、あの、去ってもね、単発がね、グラマンだの、ロッキード、ハドソンだの、そんなの来っから、助けに来らんねんだ。基地から。そいで4時間泳いで、飛行機いなくなってから、基地から、船来て、拾い上げられた。みーんなね、水飲んで、半分死にかけだよ。そいで助かった。
ところがね、戦争は悲惨だよ。絶っっ対戦争ってのはやっては駄目。だけど当時の、日本は、やれ、南方資源をね、ぜーんぶ半年であれだけのね、日本のあんた、300倍もあっとこ皆進駐したんだから。それが作戦負け。だから、18年の10月から船一杯(いっぱい)も輸送船入んねんだ。みんな潜水艦でやられて。だかね、陸軍はね、みんなこうやってね(左手で両頬がこけている様を表現しながら)、飛行機来たって逃げらんねんだよ。食い物なくなって。あれだけでかいニューギニアでも、バナナなんかは、もう、こうやって(右手でバナナの房を表現しながら)、バナナはね、下からね、上いくさ、上に、こう生るんだ(両手で、バナナの房が下から上に生る様を表現しながら)。こうね、バナナね。花咲いて(両手でバナナの花を表現しながら)、それで下からこう生る(両手で、バナナの房が下から上に生る様を表現しながら)。バナナね、実んないんだよ。焼いて食ってた。
ほいで、かっぱらって。そいで、昭和19年の3月に、海軍の糧秣あっとこね、なんーとも、人間は取ろうと思ったら絶対取るの。かっぱらうの。陸軍の兵隊がね、かっぱらってきて困るんだ。海軍は420名きりいなかったから。俺ら上がってね。陸戦隊。んだから420名の2年分の糧食あったから。ね?それをかっぱらいに来てね。なんーっとも、どうしたってかっぱらうよ。どんなことしたって。
かっぱらいで死んだ兵隊
それでね。その、陸軍の兵隊さんがね。ね。19年の3月。かっぱらいに来てね。何ともしようのない。副長がね、各々、一番、二番目に偉い人。何ともしようがないから電流回せって。電流回しったんだ。それ引っかかったのが19年の2月10日。それでね。陸軍さん二人。感電死だよ。同じ日本が。こんなこと話してるの誰もいないから見な。あんたら、こういう仕事してて、こんなこと言った人いないから見な。それでね。その通信長っていうの中尉なんだ。俺うんと可愛がられてた人だから。通信長。俺が、ブカンは違うけれども。通信長ね。イノマタさんていう人。俺うんと可愛がられてたから。村田、嫌だなー。戦争はなーって(嫌悪感を表しながら)。なんですかったっけ?じゃあ、19年の2月8日。ね。あの二人、昨日死んだべっての。あれトーツートーツーで(モールス信号の様に右手指で机を叩きながら)、名誉の戦死だと。どうだいね。悲惨だべさ。日本の、糧秣をね、日本の食い物をかっぱらっいに行って、電気引っかかって死んだんだよ。そういう悲惨な死に方。んだから陸軍は、食い物ねんだから。
んだから作戦負けしたのね。もうマニラの入る基地で、潜水艦で、ぜんーぶ日本の船はやられたの。一杯も入んねんだ(右手で人差し指を立てて振り、強調しながら)。18年の10月から。18年の10月から。一杯も船入んないの。んだからあんたら若いからね、わかんないけど、はっきり俺あんたに教える訳だから。ね?んだから、作戦負けしたの。ね?日本はいいと思ってワイワイワイワイとあそのこの、日本の、あんたね、ね、300倍もあっとこみんな取っちまったんだから。ニューギニアまで、俺行ったとこまで、はあ。西部よりね、中部まで、ウエワクってとこまで行ってたんだから。日本は。一番遠い所でウエワク。ね?ボルネオ、もちろん。インドネシアももちろん。ぜーんぶあそこら取っちまった。日本は、進駐したんだから。ね?んだから作戦負けとね、やるべきことをやっ、だけど、当時の軍部は、やむを得なかったんだな。戦後んだってあんた、あの通りね、常磐ハンエー(炭山?)だって炭坑出なくなったやん。あの始末ね。三池炭鉱だってそうだベ。それから千歳。今の炭鉱だって出なくなったべ。それを前見越して、やったんだから。
んだから私昭和10に、2・26事件、東京に丁稚奉公に行ったん。昭和10年に。飯坂尋常高等小学校卒業して。そん時、昭和12年の2月26日、雪パラパラパラ降ってる時ね(註:2.26事件は昭和11年)。あん時あんた、東京の、あー、うーん、師団ね。師団の将校、大尉二名、少尉一名、あと185名の兵隊、ぜんーぶ浜口雄幸殺せって言うべ(註:濱口雄幸の銃撃事件は昭和5年。2.26事件とは別件)。あの頃、執行部、みんな切られたり、鉄砲でやられたんだから。ね。そん時俺、東京いたったから。んだからあの頃からね、日本は、やむを得なかったんだなー。今考えてみっと。
聞き手:海軍の方はそれでもニューギニアでどうにか食糧はじゃあ繋いで。
で、行―かねえんだ、一杯も。ニューギニアはもちろん。一番遠い所だから、ニューギニアは。俺らんとこは。んだからそこから前のね、マニラだの、マニラ入る、台湾の高雄、ってっと、みんな潜水艦でやられる。いーっぱいも入んねんだ。18年の10月から。ほんだから陸軍さん食い物なくて(左手で両頬を掴み、やせ細った様子を表しながら)。ひとっきり俺らのマノクワリに、八万いたんだから。八万だよ。北支、中支からみんな来たんだ。北支、中支。それは、今のオーストラリア作戦、ほら、豪州。今のオーストラリア。あそこ取るために、俺らんとこ守備隊上がってきたん。んだから食い物ねえからみんな転進して。バラバラ、バラバラ、皆。で、そいつらみな(左手で両頬を掴み、やせ細った様子を表しながら)、食い物ねえから皆、こうですよ。あーんなでかいとこだって食い物無くなんだ。んだから、この戦争は、ほーんとにやるべきじゃなかった。悲惨な戦争だったの。んだけどこれ、当時の軍部はやむを得なかったんだな、今考えてみれば。
爆撃
聞き手:あの、電探のお仕事だったら
俺電探。
聞き手:あの、ニューギニアに行ってからもそういう
いやだから、船沈められてもうねえわい。
聞き手:あ、もう道具は全部
うーん、沈めんだ。見張り専門にやった。見張り。4ヶ所で。16人。電探兵。俺見張り。んだから俺らの岡村隊長は、ね、えー、5月15日、爆弾で16人、主計長以下みんなそこで吹っ飛んじゃった。俺の岡村隊の隊長。海軍大尉。
聞き手:19、20年の5月ですか。19年?
19年。
聞き手:19年の5月。
うん、19年の。ね。俺らの隊長。あの、防空壕の、その人中さ入んない人だからさ。俺も本部にいたからわかってんだ。本部にいたから。その人は絶対中さ入んないの。中さ入ればね、50メートルも高いんだから(地表までの厚さを表しながら)、大丈夫なの。それ、こういう、こういうのから(両手で坂道を表しながら)、入口10メートルくらいだったらね、高さ5メートルっきりないんだから。入口は5メートルっきりねえの。んなら、爆弾落ちればね、もう15メートルも入っちまうんだから。んだからそこで、主計長から何から28人全部いなくなった。ほんで、その中でね、長さ、こう、入口4つあって(水平方向に4つの通路を両手で表現しながら)、長さ一つこう、で、まだふたっつこうやって、まだこうひとっつ(水平方向格子状の壕を表現しながら)。で、その上へは50メートルもあんだから(垂直方向を指し示しながら)。一番奥は。入ってねかった。ところが、ガスで、爆撃かけて中にいた人は、泡吹いてね、助け行った人は皆ぶっ倒れたんだ。それから防毒面マスク掛けて、俺らも助けに行ったの。ほいで、今でも死んでいねえけども、千葉のね、ホリコシっつうの、主計兵だったんだ。その人が今でも俺さね、あの、娘さんたちね、あの、えー、ジャガイモだの、ニンジンだの送ってきんだけども。それば、俺ね、引っ張り出してこれやってね(心臓マッサージの真似をしながら)生き返したったんだ俺。ホリコシエイジっての。今ね、生きていれば93。それ、7年前に亡くなったんだ。ホリコシさん。
ホリコシの娘さんがね。先月も、俺さ、あの、ニンジン送ってくれた。1ヶ月、1年にね、3回送って下さんだ。んで俺もね、送ってやろうと思って桃を送ってやるって電話したらいらねって言われたんだ。
聞き手:そういう爆撃ってずっとあったんですか?
毎日!
聞き手:毎日。
定期爆撃ってやつ。それをね。動かれないように。一ところからね、よそさ出らんないように、定期爆撃。それが定期爆撃。それね、全部、南方皆やられた。どこも皆。ボルネオもね、ニューギニアも、ラバウルも、全部。トラック島も。ほんで、海軍はね、船だけね、約ね、350隻みんな沈んだんだ。ね、とにかくあんた、赤城っていう航空母艦。ね。それ、赤城他、優秀なあれだけでかい船、ぜんーぶ沈んだんだ!トラック島。全部。んだからね、戦争は悲惨だからね、絶対戦争はやってはいけないってこと。だけど当時のアレは、日本の行く末を考えれば、やむを得ねかったんだな。今考えてみれば。俺は生きて帰ってきたけどね。やあ、陸軍の人さ飛行機来たって逃げねんだから。フーラフーラフーラフーラ。こんなこと言う人、あんた、今まで聞いたことねえだろう。飛行機来たって逃げらんねんだよ。脚フラフラして。ほいで、道路歩いて、道路わきのやっこい草あっと、草食ってんだ。戦争なんないでしょ。
俺らはね、480人きりいなかったから、2年分の糧食上がってさ、上がってるとこさ行ったから、俺は助かって、昭和21年の6月10日、名古屋に復員してきたん。リバテー(=リバティー)で。アメリカのリバテーで。昭和21年の6月10日。
敗戦
聞き手:敗戦はいつ知ったんですか。
いや、敗戦はね、2ヶ月半経ってから。まだ負けると思わねえから。水平にね、あの、あの、普通なら機関銃下向けんだけど、水平に撃ってね、ビラ撒くんですよ。戦争終わったから、ね、もう終わったって。んだけど、俺らほんとにしないもの。全部。隊長はじめ皆。そういう時代だったの。そんではじめてね、ところがね、連合国で上がって来たのがね、シラス っていうインドの大尉だったの。それのお父さんが、日本の士官学校出てんだ。ほんだから良かったの。待遇が。みんな、ラクダの、うー、煙草ね。ラクダ上がってる煙草(キャメル)。あれだのラッキーだの、そんなのうんと、一人一つずつみんな配給になったでね。インドのシラス(?) って言う大尉。今でも忘れね。その人のお父さんが、日本の兵学校出てんだ。陸軍。陸軍の兵学校。お父さんが。そんな関係でよかった。その人が隊長でね、上陸して来たの。インドのシラス(?) って大尉。うん、それからオランダ。オランダとインド。私らんが。ほんで戦争犯罪人にはね、我々の、私んところの隊には、一人もなんなかった。ただ、戦後、終わってから、使役ね、重労働させられた人ら、8人死んだ。強制的にやられて。私らいっとっこから、大体、二日掛けて、ウエワクってとこね。丁度、えー、ニューギニアの真ん中。真ん中まで、大発って、飛行機で行くんじゃねえから、船で行くんだから。ね。二日かかんだ。んでそこさやられて、俺と福島県に一緒に行った人。
ビアクには行かずに済んだ
俺は演芸隊員だったから。ほんで助かったの。加東大介。『南の島に雪が降る』。あれの、俺らは海軍だから。海軍の方がね、抜群に良かった。海軍はね、19人演芸隊員だ。俺はね、歌専門。今でも90だけど歌うよ。歌えるよ。俺は演芸隊員だったから助かったん。ほんでねえとね、俺が演芸隊員でねえと、あの、えー、あそこ、ビアク島。アメリカがそこを取ったために4発で、そこに、着陸できんのはそこきりなかったの。私らんところから一昼夜かかんだ。ビアク島って。俺ら派遣隊でそこへ行ってね、えー、若松のナカチ(?)っていう中尉、これ玉砕したんだ。若松。ほんで俺連れて行かれる訳だったんだ。福島県、誰だ。6人いたから。そいつは俺さ知らなかったんだ。副長が、あー、鹿児島の、大尉だけど、村田は駄目。副長に断られて俺助かったん。俺行く訳だったんだ、ナカチ(?)っていうね。今でも栄町(会津若松市栄町?)、ナカチって人いるんだ。その、ナカチっていう中尉が、玉砕だ。68人。たった一人だけね、水際でピクピクピクピクしてた人、今北海道札幌にいんだけども、ゴトウシュウジっていう人、この人、なんとかかんとかピクピクしてたのね、豪州の病院に連れて行かれて、2年後に帰ってきたんだ。俺ら集まり、戦後集まったんだけど、2年後に帰ってきたもんだから格好悪くて、捕虜んなったからって、俺らの集まりさ来ねかったの。ところがゴトウっていう通訳がね、そういう訳じゃないから集まったらいいやって言うんで、えー、諏訪温泉、長野県。そこん時初めてその人来たの。私、豪州まで連れて行かれて、捕虜んなったから、申し訳ないって(頭を下げながら)、俺らの前で頭下げたよ。だけど、そんなことねえんだって、言ってね、その人んとこ、あの、頑張れって言ったけどね。俺らそん時ね、えー、なんだかんだって、俺らのすぐ隣の基地にいたのと、陸軍と海軍と、あと俺らんとこで、なんだかんだって、60人集まった。諏訪温泉で、うん。あそこで。そん時、その、オーストラリア連れてかれた捕虜。一人ね。一人だけだ。ビアク島で生きてたの。んだから、戦争はいずれにしても、悲惨だからやるべきじゃないし、それから、その当座は、やはり、日本の行く末を考えれば、やむを得なかった。そういうことね。
いや、とにかくあんた、2・26事件のあれはね、全部満州。昭和7年に満州をね、朝鮮の皇族(註:清朝の皇帝、愛新覚羅溥儀のことか)を祭り上げて、あれ写真あっけどね、天皇陛下の代わりに祭り上げて、写真でいったから。あの人ね。んだから、結局は、早い話が、やれ、我が国を、国全体がね、少しでもみんなが潤うために、始めた訳よ。それが裏目に出た。裏目に出たってこと。ただ、んだからね、軍閥主義ってことは、駄目だっていうことねんだって、それに文句言う人いねえんだもん。みんな軍閥だ。だけど、海軍だけはね、その当時からも、海軍は、んだから、絞首刑になんねかったからね。シバタリンタロウ(嶋田繫太郎のこと?)。海軍だけは。山本五十六も反対だった。連合(艦隊司令)長官。山本五十六は、あー、トラック島(註:ブーゲンビル島)。あそこで敵の戦闘機に、副官と、参謀と、自分と、もう覚悟してたんだ。双発に乗って。敵の飛行機に。7機にやられたんだ。1機。双発の1機。一番遅いべ。それあんた、P51ってすっごい早いんだ。日本の零戦とどっこいどっこいだ。いや何回も、P51と零戦とこれ(両手で戦闘機同士の空中戦の真似をしながら)やったの戦地で見てたよ。
聞き手:ニューギニアで?
あー、ニューギニアで。零戦はいたったから。
聞き手:まだいたんですか。まだ零戦もあそこに。
ああ、あった。なんぼか。なんぼかあった。それから、フロート付きのね。ほら、船付いてる。あれの零戦(二式水上戦闘機)。俺らだから2機あったから。これね、一番上がっとね、あれが、プロペラ回んないんだと。そんでもあんた、4発はね、8,000ぐらいんとこから爆弾落とすんだ。8,000。んで、その上さ行って空中爆雷落とすんだ。このぐらいの爆雷(一抱えより大きいサイズの爆雷を表現しながら)。ね。信管切って、大体、50メートルだったら、バーンっと300メートル四方に散るんだから。それ空中爆雷っての。丁度このぐらいの(一抱えより大きいサイズの爆雷を表現しながら)。ね。高さ、このぐらいあっかな、このぐらいあんな(120-140㎝程度を表しながら)。俺のこのぐらいだから(自分の首下辺りを示しながら)。このぐらい円いの。それ信管抜いてね、飛行機で落とすんだ。すっと4発が、列作って来るっぺさ。みんな分れんだ。その分れたとこを、空中から撃つんだから。それが一つの狙いだった。だから、日本の飛行機も優秀だったんだよ。零戦は。だけども、P51とかね、ロッキード・ハドソンって双胴でね、二つ胴付いてる。これがすーごいんだ。ダダダダダダやってグラマンね。
聞き手:さっきあの19年にいた、あの、沢山亡くなられた時の話がありましたけども、その後もそういうことは度々あったんですか。
いや度々。度々。もうかっぱらいはね。終戦まであった。んだけど、かっぱらいなんて自分らが食うのなくなっから。自分らでやられちゃうから。なんぼ同じ日本人でも陸軍だから。んだけど人間はね、食おうと思ったら絶対取る。どんなに気い付けてたって。これは駄目。人間は。その証拠に、島で、ね、アメリカにみんなやらっち。アメリカのあれが潜水してっと、その島に残ってた連中、夜襲掛けてかっぱらいに行くんだから。それが成功してんだから。アメリカだの、豪州だの。ね。それから、オランダだの。そういうの、夜襲掛けて自分でかっぱらいに行くんだから。それで成功してんの。んだから、人間は食べようと思ったら絶対に捕える。
聞き手:現地の元々の住民というのも接触はあったんですか。
もう住民はね、全部追いやられて。危ないから。それまではね、ジョンゴースつってね、マレー語でジョンゴースっつうんだ。ジョンゴースってそれをね、使役に使ってる訳。自分でね、側に置いて。ええ、なんぼか、残飯くれえでね。海軍はね。それから、野郎、一週間くれえたつと、鳥、鶏。生きてるやつ。脚縛って持って来んだ。一羽。うん。そうすっとね、飯ね、残飯。あの、バナナの皿置いてね(両手をバナナの葉を広げたようにしながら)。士官だの皆食ったやつの残飯。そいつを持たせてやんだ。そいつをジョンゴースっつったんだ。マレー語で。ね。「いい」ってことね。〇〇てオーケー。オモンコソン、嘘ないよって。オモンコソンって言うんだ。嘘つくなってこと。オモンコソン。うん。アフィ。煙草の火、アフィ(api)。アフィ、アダ(ada)。ないか、あるかって、アダ。マレー語。
聞き手:向こうで覚えられた?
ああ、向こうで。向こうで。
1946(昭和21)年6月 復員
いや、んだけどね。船でね、昭和21年にね、21年の5月。ね。あの、でたらめの情報入ったの。日本に帰っと、何で負けて帰って来たって。竹槍でケツ刺されっぞって。そういう情報、入ったの。それから兵隊の格好は全部取ってね。もう、ランニング姿ではあ、そいで名古屋さ入ったの。そうしたら女の人ら万歳々々、良く帰ってきましたってねー。とてもじゃない、そんなところじゃないわい。ご苦労さんご苦労さんってね。あの岸壁で、涙こぼした。
ほうしたらね、ぜーんぶ一律300円もらったんだ。300円。ありゃりゃりゃりゃりゃりゃ。300円じゃすごいなと思ったの。ほうしてね、ほうしてね、光。光って煙草。あれ、あの、橙色の。あれ買ったら30円取られたんだ。30円。ありゃりゃりゃりゃりゃりゃ。俺金の価値観わかんねえから。軍票だったから。ね。300円もらったけど30円取らったんじゃあ、270円きり余んねえんじゃあ、こりゃあうっかり使わねえと思ってはあ。そういうだった。そんで、おりゃあ(俺)は品川で、缶詰3個とね、缶詰3個と。それから、砂糖ね。このくらいの袋さ二つ(両手の親指と人差し指をくっつけて四角を作りながら)。あの、汽車の。
ぶら下げて。便所行ってる間皆かっぱらわれちゃった。まだかっぱらわられるなんて知らねえから。みーんなかっぱらわれちった。缶詰三つと、砂糖少しと。あと、お結び二つ。うん、それから、上野駅から、飯坂、福島駅まで来て。いやあ、やれやれで帰って来たっけ。福島駅で初めて会った人が、カスガヤの息子。正ちゃんじゃないかいって。いやあ、声かけられた時にびっくりしてね。涙こぼしちゃった。ああ。なーんだユタカちゃーんつって。ユタカっていうんだ。イマイユタカっつって。あの、一中のね、校長辞めた、イマイトヨゾウって。この人の息子だ。カスガヤ旅館の長男。んん。
加東大介の演芸隊
聞き手:演芸隊だけは別行動だったんですよね?
演芸隊、だから、シラス(?)大尉がね、演芸隊やってるってのわかったもんだから、女形。わかんねんだ。女だって聞かねえんだ。いや、あれはね、日本は、女の鬘を付けてね、女役やるんだってこと通訳通じて言って初めて納得して、4日かかった。4日。納得に。
聞き手:女性だと思われてたんですか?
だって、おらほに三人だったから。俺と同年兵のね、女形。いや、綺麗なんだ。ほいで加東大介がね、一番いいのは、自分で唾してね(両手に唾を吐きかけ、手を打ち鳴らす仕草をしながら)、そして、白粉付けんのが一番いいんだって。俺らの楽屋さ来て。向こうは、陸軍は食い物無くて、そんな学芸やっとこじゃないから。私の方の色々生地ね、落下傘の生地だのそれそういうの皆陸軍さやって、陸軍。それから麻ね。麻黒く染めて、あの、髪の毛作ったりして、ほいで俺らよりね、1年半も遅く、『南の島に雪が降る』って、これベストセラーんなったんだから。加東大介が。戦後。
聞き手:回ったんですか?お芝居を持って。
いやいや回んじゃねえ。舞台作っといたの。ほいで一番ね、飛行機来ない時、陸海軍関係なく、陸海軍関係なく、今日はどこどこの部隊。あと何日はどこどこで。大体1ヶ月に3回やった。飛行機が来ない時。2回襲われたよ。銃撃。後から、後から入ってね、助かったの。俺の前に跳び込んだ奴、首、こっからここ抜いて(首の左側面から右へ弾丸が抜ける仕草をしながら)、入っとことはこんなぐらい(人差し指を示しながら)。出っとここんなだ(両手の人差し指と親指で、親指第一関節を重ねたサイズの輪を作りながら)。機銃。飛行機の機銃でやられる。頭。ここ抜かれる(首の左側面を示しながら)。ね。そういう、『南の島に雪が降る』って、ベストセラーになった、あれ、そうだ。俺いたとこニューギニアのマノクワリってとこ。加東大介。沢村貞子。姉、澤村國太郎って。昔の人は皆わかってるよ。今日来た人ら。うん。
聞き手:昨日別な所でお話聞いた時に、やっぱりそのお話が出たんですよ。
『南の島』?
聞き手:あの、
加東大介?
聞き手:やっぱり、ニューギニアの飛行場の設営隊の方で、あの、やっぱりマノクワリにいた人で
おお。俺らは演芸隊だから助かったんだ。そんでねえとビアク島いってたもん。うん。ナカチ中尉。若松の栄町。その人に認められた。ところが、副長ってのね、もう、熊本の人で、村田駄目だって。これがまた頭に効いてね、演芸すごいんだ。
聞き手:それは演芸隊員として必要だったから出したくなった。
ああ。そんで俺助かったん。
聞き手:へえ。でもあれは敗戦前からですよね。
いや、違う違う。もう、敗戦前からやってた。いや、戦争が長くなるからってんで、怒気(士気?)[u6] [智田7] を旺盛にするために、演芸隊ってのは組織されたの。それまではね、昭和19年の6月まではなかったんだから。
聞き手:19年の6月にできたんですか?
うん、そうそう、そうそう。そんで始めた訳だから。そんであんた、『ホノオノジショウ』だのね、それから俺はね、管弦楽ね。ドラムね。それから、ハーモニカ。5丁。それから、ピアノはね、オランダのピアノあったんだ。それ爆撃で吹っ飛んじゃったんだ。ピアノ。んだから、そこでね、演芸隊ね、ハーモニカ、4丁。ハーモニカ、4、バイオリン、ギター1丁。それからドラムと。それで歌ってたんだから。
武装解除
そういう訳ですよ。うーん。そういう訳。だからね、今の人の若い人たちね、とにかく、ただ戦争やったと思ってっけど、そうじゃないの。その当時は、日本の行く末を考えたために、始めた訳だから。んだけどそれが裏目に出た訳。作戦負けね。全部、あんた、わずか一年も経たない内に、あれだけの、日本の百倍もあるようなところ全部取っちまったんだから。ああ。全部進駐したんだから。ニューギニアまで。ほんでもあんたね、みんな、んだから、向こうでは、定期爆撃っつって、どこさも出らんないように、毎日定期。俺のところは12時と4時。爆撃機。必ず来んだ。んだから我々。そんであと今度、なめあがってね、魚雷艇で湾内まで入ってくんだから。眼鏡で俺見えるかってっと見えんだよ。真っ裸んなって、魚雷艇の前さね、こういうの付けて(杖を立て、先に何かを据えるような仕草をしながら)、機銃ね。大体1間くれえあんだ。6尺くらい。1間てのね。1メーター、2メーターだ、2メーター。それあんたこう(右手で拳銃の引き金に指をかけるような仕草をしながら)、こっち向けてぶっ放してる。やってんだ。それで、俺ら見張りだから。まともに見えんだ。見張り4ヶ所あったから。
聞き手:それ、見えてもやり返すことはできない
やらんない。こっちに兵器ないから。うん。ほだけど、海軍のね、13ミリ機銃はね、うーんと働いたの。俺らんとこの。13ミリ。これはね、ほんだから、戦後ね、13ミリだけは、筒と(杖を小銃のように構えながら)、弾を、100メートル離して確保しろって。そういう、本部さ来たの。13ミリだけ。あとは全部ね、海に捨てろって。んだから菊の御紋を全部ね、削って(杖を小銃に見立てて菊の御紋を削り取るような仕草をしながら)。ヤスリで削って。みんな海さ捨てたんだ。
聞き手:海に捨てる前に全部やっぱり取ったんですか。
うん。みんな。菊の御紋だけ全部。ヤスリで削って、みんな海さ捨てたの。大体、戦後、2ヶ月くらいかかったかんね。2ヶ月くらい俺らはいたから。ほいでひとところさ皆集めらっち。うん。アタップ(ヤシ)の屋根作らっち。ちょうざ。んだから、厳重に見張りなんかねえの。まあ、鉄砲も何にもねえんだから、何にもできねえから。ただ身支度をね手伝うくらいで。何にもしないの。んで写真をね、ここさね(腹部をさすりながら)、腹さ付けてね、そういったの持ってったら、絶対に帰さなくなるって、そういう情報入ったの。ほんだけど、いい、俺は構わねえっつってね、写真6枚。俺腹さね、飯粒で貼って。飯粒で。腹さへ。
〽サーモアロー
こういう声だ。90で。
聞き手:ああ、なんかもう、演芸隊なのわかりますね。
どうですか。
聞き手:ああ、美声ですね。演芸隊になるのわかります。
ああ、演芸隊。ねえ、これね(動画中で示された用紙を指さしながら)。さっき写真見せたけども、俺ら去年までね、35回。去年、35回やめて、35回は210名集まったんだよ。台湾からも来たんだよ。そういうことやってたんだよ、俺は。こんなのいないよ、全国で。ほんとに。
聞き手:なんかそういう、またこういう、戦争のご自身の体験話して
んだからみんな集まってくんだよ。こいつらもみんな集まってくる(後方に映っている2名を指さしながら)。ね。それ全部おれがやってんだ。第35、32回の時、中曽根大臣。あれ、手紙寄こした。さっきの袋さ手紙入ってるよ。ちょっとみんな見せとったんだけど。皆気にしないから。中曽根から、直接俺さ、村さ手紙来てんだよ。うん。
体験記録
- 取材日 20 年 月 日(miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
戦場体験放映保存の会 事務局
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