小林 忠治さん

生年月日 | (昭和)年 |
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インタビュー記録
駆逐艦「雪風」
聞き手:まず最初に雪風と言う駆逐艦についてお話いただいても宜しいでしょうか
戦前から終戦まで生き残った船言うたらこの船1パイだけです。(訳者注;駆逐艦の陽炎型に限定すれば残存艦は雪風のみであるが、古い吹雪型などを含めれば潮・響などが残存している)。後は全部沈みました。もうあのぉこの船も本当に武運も・・・でしたけども自分も本当に・・・おられたものばっかしでしたねぇ。まぁあの艦長の勇往邁進 というか非常に力強い戦地でひと海戦が終わると両手に一升瓶を持って「飲め食え、飲め食え」と言ってから艦長がもう兵員室へみな回ってくるんですわ。両手に酒持ってねぇ。それでもうこの船は神宿る船だから絶対に沈まんからみんな安心して頑張ってくれ言うてね。艦長がそう言って定期的にやって来おるんでした。だからもう艦長も本当に兵隊思いの人でね、この艦長の為ならもういつ死んでも良い気持ちになっておりました。私も本当に今更この船を枕元に置いて毎日寝とりますけれども、今日ば90ばもう直ぐ来るんですけれども、兵員が上甲板で機銃に当たって戦死したものが「おいしっかりせい!」て言いてから倒れた者・・たら「おお済まんけどなぁ、わしの分まで長生きしてくれよと」言うてから戦友が死んで逝きましたけれども、「貴様の分まで生きたるから心配すな。しっかり元気だせ」そいでまぁ「天皇陛下万歳」て言いましたけど、息を引取る時にはやっぱり「おかあさん!」言いましたな。だからお母さんいうものが、いかに頭に残っとったか言うことが、私等でもそうですけども特攻作戦出る時にはお母さんがどうぞ元気で長生きしてくれりゃぁ良いがなと、いつもそう思うとりました。
それでまぁひと海戦が終わって内地帰るが1年ぶりくらいに帰ってきたら、母親がもう本当に寝ずの信心をしてくれてました。冬でも私の実家から八幡様いうてお宮が有るんですけど、そこに毎朝冬でも雪が降っても裸足参りをしてくれよったんですよ。でもう、どうぞ我が子が無事で戦功を果たして帰って来ますように言うてお祈りしとうたらしんですけども、帰った時にはもう半日ぐりゃぁ物を言いませんでしたから。おかあさん帰ったよと言うてから奥に居た時に、そしたらもう涙を流しながらも物が半日くらい言えなかったです。はい、そのくらい我が子の可愛さが言うものが母親に、十分私も子供としても伺えたですけどね。戦場に自分の子を送った母親の心境言うものがどうやったか言うこともね、計り知れたものがありましたね。
まあしかし何回となく特攻作戦に参加しましたけども、もうあの最後沖縄の特攻作戦の時は、大和以下矢矧(ヤハギ)言う軽巡とあと駆逐艦が1台10杯行きましたけど、それで結局最終的に帰ったのがこの雪風と佐世保の所轄の初霜いう駆逐艦が置いてあったんですね。その2杯だけでしたんです。それが佐世保に帰ったらもう触接機が増えてきてもう軍港に入って碇を下すわけにいかんのです。だからもう佐世保からすぐ今度は呉に回航して、呉に回航したらまた飛行機が触接してきて呉でも空爆を受けて、その日の晩に今度は舞鶴に軍港に行って、舞鶴でも激しかったから舞鶴の橋立の裏で伊根と言う漁師町があるんですけども、そこの浅瀬にのし上げて、そいでその日の晩に山に上がって漁師さんから漁網を買ってマストからずっと漁網を張って山に入って木を切ってきて、その青い木をマストから漁網の上に被せてカモフラージュして、日が出るまでには分からんように飛行機から、そうしてからその日のあくる日に皆整列が掛かって「服装改上甲板に整列せよ」艦長命令があって、みんな整列したらその時に敗戦が聖断が下った訳です。
耐えがたきを耐え忍び難きを耐え(忍び)言うあの講話がおうこされまして、いよいよもう終戦があったと
その前夜じゃったですかな、もう夜中も艦長が知らんのに船が動き出してね、船が何もせんのに船が動いて沖へ沖へ出て、どうしたんじゃろと言うことになって大騒ぎじゃったんや。缶(かま、罐)の兵隊が独りで缶を焚いて、沖に出て自沈すると言ってね。もうどうせ敵の弾に当たって、これはもう沈められるんじゃから、我々も銃殺刑に遭うんじゃから、それまでにはもう自分で船を沖に出して自沈しようじゃないか。爆弾が2・3カン残っとるからそれで自沈しよう、そういって、缶の兵隊が無断でから夜中に船を缶を焚いて蒸気を起こして船を動かしたんです。でもう艦長がビックリしてから何とか鎮(静)めてくれ言うてね私は機関科の指揮所の重要な配置におったから私がその大役を承ってから、あの缶の兵隊に言ってから「もうな、事ここに至ってこういうことはしちゃいけんから勇往沈着に対処しようじゃないか」と言うて宥めて、それでまぁ居場所?をやめさせてそしたらそのあくる日に聖断が下ったわけですな。
陛下の耐えがたきを耐え忍び難きを耐え(忍び)・・・対処せよ?ってのが有って、そいでまぁ一段落その後は収まったわけですね。もう本当に無我夢中言いますか今までおかげで命が有ったけれどもこの先どうなるんじゃろうか
そう言うてホントに皆心配したわけですけどもそれが無事に復員と言う日が、まあ何か月か経って郷里に帰るとこが我々が出来た訳ですけども、もう本当に戦前から戦後まで一線で働いて生き残った船いうたら雪風一杯だけですからなぁ。まぁあの戦争に勝ちを取ったら本当にみんな大勲位の勲章が貰えるんじゃないか言うたくらいですけどもね。まぁだけど生きて帰れただけ本当に幸せじゃったなぁと思うとります。だからこの船をわしも毎日枕元に置いて寝とんるです。悲しい思いもしたのも戦後かなり日にちが経ちましたからね。60何年ですかね?今戦後から?(66年ですね)66年ですかね?まだこないだの様な気持ちしております。
志願
聞き手:まあお母さまのお百度踏みのお陰で今無事に帰ってこられて、よろしゅう御座いました。
私は、あの昭和16年の5月1日に志願して入隊したんです。それで海軍教育は3か月で、7月から最初は(第)四艦隊の旗艦で鹿島いう船、江田島の練習巡洋艦だったんですけども。兵学校のね江田島の兵学校の巡洋艦、それが(第)四艦隊の旗艦でもうトラック島の松島領地に太平洋に出とったわけです。それに配乗になってから、あのそいで17年になって海軍の機関講習(訳者注;工機学校普通科練習生のこと)しとったもんですから、17年の1月じゃったですかな?海軍工機学校横須賀学校(注:工機学校横須賀学校(本校))に半年間入校しまして、そこを出て7月の暮れに雪風に配乗になったわけです。まぁあの(第)一線でも本当の最前線最優秀艦でしたからね、この船は昭和15年に佐世保の海軍工廠で出来た船です。だから開戦の1年前に進水した船です。最新駆逐艦でしたけどねぇ。トン数は2000トンほど、乗員は330人。私は機関が特技(文脈から海軍における特殊技能ごとの特技兵の話と思われる。機械と聞こえなくもないが機関だろう)でしたから工機学校に出てこれに入るようになって、あの質問事項が有ったら言ってください。
沖縄特攻
聞き手:日本で有名な一番大きな戦艦が大和とか武蔵とか信濃
6万なんぼ 7.8000トンですかね。沖縄の特攻作戦言うのがしまいにもう日本も、もう最後の作戦だ言うて、まぁその時にまともに動く船は言うたら10パイしかなかったです。大和の次は軽巡の矢矧、あと駆逐艦がこの型の駆逐艦8で10パイ、10パイが沖縄の特攻作戦に出向いた訳です。それでもう、出る日の朝も早うに、日の出る前に上甲板にみんな整列して、祖国日本に向かって敬礼、そして上甲板に伏せってどうぞ思い思いの事を思い浮かべて。私は「お母さん達者で働いて、達者で生きて下さい。長生きしてください。私はこれでお国の為に働いて、働いて最後に作戦に従事しますから」言うて、心?ながらに叫んでそいで夜明け方に出港して沖縄の地へ向かったんです。そいで沖縄から鹿児島の知覧ですかね?あっこから出て丁度沖縄の半コース行った時、坊ノ島(注:坊ノ岬のことであろう)言うとこ、その坊ノ島のとこに居た時に全滅食うたわけです。そん時に大和が沈んだんです。大和の右舷の150m、200m特攻、大和の護衛艦の一番の護衛艦としてついとったんです。そいで大和がやっぱり敵の飛行機が50機ぐらい来たでしょうかなぁ?一番やっぱし大きい船を狙いますからなぁ。大和が集中砲火を浴びて沈んだんです。そん時の大和の乗員が泳いできた者230人かなぁ、今でも覚えとりますが救助しました。
200mくらいあったでしょうかな。あの泳いできた者を上甲板からロープを下して、ロープで泳いで来た者を下がるわけですわ。下がるのがもういっぺんにようけ鈴なりみたいに下がるもんじゃから、引っ張り上げれんわけですわなねぇ。だからもうおい3人から5人かにしてくれ言いてから大きな声しも、もう命がみんな惜しいし、もう飛行機がどんどん空襲しおるわけですから もう我がちに下がるわけですよ。どうにも上がらん。だからそれを少しずつ引っ張り上げて、上甲板に引っ張り上げたらもうぐったりで、気が緩むのと両方で、参ってしまうものも大分いましたなぁ。なんぼその当時2、300mくらい有ったでしょうかなぁ それも海がしけとりますからなぁ。とても体力がいるわけですわ。2、300m泳いでくる言うたらねぇ。もう波が高いですから。そいでもう上がったらもう気が緩んでしもうて、参ってしまうから「気合を入れ!」引っ張り上げたら気合を入れ!てからぶん殴るんですわな。「しっかりせい!貴様」「しっかりしろよ、貴様」ぶん殴る。襟をみたら「少将のマークだ!」これは艦長じゃったんじゃないかぁ言うてね(訳者注;第二艦隊参謀長・森下信衛少将が生存しているため、大和艦長と誤認されることが多かったものの、大和艦長・有賀幸作は大佐であった。森下少将が第五代大和艦長であったことも誤認の原因であろう。なお森下少将を救助したのは冬月であるため、この話は伝聞なのであろうか?)。そんな事があったです((笑))でも引っ張り上げてからなぁ1/3くらいはもう気絶しましたなぁ。本当にもう錚々たる調子でしたなぁ。まぁまぁでも思い出したら何かご飯が喉を通らんような気がします。もしかして私はこう言うホントに強い船に乗っとってから最後まで元気してる暮らしが出来たという事は本当に。何と言って亡くなった人の事を考えたらまぁ何か胸が熱うなる気がしますねぁ。二度とこういう戦争が起きては絶対にいけんと思いましたねぇ。何かご質問が有ったら
漂流者たち
聞き手:やっぱりあの引き上げられたら安心してそのまま亡くなられる方は多いんですか
そりゃあもう気が緩むんだろうねぇ。気が緩むというでから疲れるというでから、息せんよう引取りましたねぇ。だからもう船上がって来た者は、もうぶん殴って気合入れんといけん言うてからな、殴るんですけども。もう少佐のマークが有ったで、言うてから。その者殴ったりした言うてから・・ もうそれはしょうがないからって事で。
聞き手:もう結構重油が流れてだしている様な感じなんですか?
船が沈んだら重油が出ますからな。けどまぁ200mも言うたら重油が流れて来ても薄うなりますわな。もう泳いで来た者は必死ですからな。そいでロープをおろしてもね、いっぺんに捕まって上甲板に引っ張り上がらんわけですわな。こんな太いロープですけどな。そいで鈴なりになったら上がらんでしょ。だから3人か5人にぐらいにしてくれ言うんだけど。それを10人位が掴まってくるわけですわ。
聞き手:上からは何人もで引っ張るんですか?
上から上甲板上からな。雪風の隊員が5、6人で引っ張り上げる。だけどなかなかあの重いですからな、まぁこの船の高さ言うのはなんぼあるでしようか?おそらく吃水(きっすい)から上言うたら6、7m位なもんでしょうかなぁ? あの高い上甲板の方でしたら7、8mも10mちこうも有ったしらんけど。後甲板まで行ったらホントに5mくらいしかないですからな。あの吃水からね。このこっから上がねぇ。まだ模型ですから吃水がずっともっと深いですからなぁ。もう浸かっとう所がねぇもっと深いです。上甲板なんかも私等が海水浴なんかで平時に上甲板から海水の中に飛び込んでから吊り上げられましたけれど15,6mくらいはあったと思いますな それはもう上甲板の先から飛び込んで海水の中にそいで水泳をやりよりました。私は田舎出じゃから水泳なんか海なんて浸かった事がないようなものだから、命がけでやりました。
特攻前の賑わい
聞き手:世界で一番大きな空母だった信濃が沈んだ時も護衛で雪風がついて行っていましたね。大和の後に信濃にもついていきましたね。その時はどんな状況だったんですか
大和は沖縄の特攻作戦時に左舷を護衛しておりました。レイテ沖海戦、比島沖海戦が終わって、呉に帰ってやれやれ半年ぶりに上陸が出来る言うて、まぁあの遊郭がありまして海軍兵隊は上陸したら唯一の楽しみでしたから、お女郎さん買いに、もう皆な半年も1年も上陸して給料は溜まっとって、金は使っとらんでしょ。そいでもう今度はいつ帰るかわからんので、給料も半年くらい前貸をしてくれるわけです。1年分の給料と半年前貸ししてくれたら沢山ありますよって、だから飲み食え飲み食えと色町を荒らしまわるわけです。そいでまた呉の13丁目の遊郭があったんですけどそこがもう大賑わい。艦隊が入ると言ったらねぇ。それでもうとにかく今度出港したら、今度二度と帰って来る事は無いんじゃということだから、半年分の給料と半年分前貸し1年分の給料を使えるわけですからな。もう呉の13丁目いう町が大賑わいじゃったんです。そういう楽しみと二度とこの呉の軍港に帰ることは無いんじゃという意識は皆ありますからな。金を持っといてもどうすりゃあと。だから給料も半年分前貸しをしてくれよったんです。そう言う・・・わけですけども。まぁ生きてこうやって帰ってくるような事はなんかもうとう考えなかったですね。
そいで艦長は寺内正道艦長で その人がもう物凄く勇往邁進(ゆうおうまいしん)型でもうとにかく兵隊は物凄く可愛がりよったんですけども、ラバウルなんかで停泊しとって出撃命令が出たいうて、そいでもう皆よその船は敵地に向かって進撃して来よるのに、うちの艦長はまだ上陸してから帰ってこんのです。
それで先任将校や、あと4、5人の将校が集まってからラバウルの陸上に探しに行くんです艦長を。探しに行きよったら艦長は飲み屋でから大いびきで寝とった。艦長!出撃命令が来ましたよー! 「お?来た?よし直ぐ帰ろう」言いてから、そいで出撃する時は一番後ですわ。でも敵地の泊地へ行くときは一番なんですわ。絶対向こう気の強い艦長でしたからな。負けず嫌いでしたからな。だからもう命知らずの艦長だけど向こう気が強いからなぁ
船の事を考えん事は無い。よその艦長以上に考えてるんやろうなぁ言うてから。そいで一番乗りで行っても弾一つも食らわんのです。不思議なくらいやったです。艦長がひと海戦終わったら、両手に酒一升瓶を下げて来てから「おい、飲め食え、この船には神宿るじゃからな絶対沈まんから安心せい!やってくれよ。おい、飲め食え」いうてから、一升瓶両手下げてから、各デッキにやってくるんです。寺内正道いう海軍中佐でしたけどね。古参の中佐でした。だから兵学校もなんか余り成績ようなかった、人の悪口じゃろうと思うけど、そのくらいの人だからえらい上司の言うことは自分の意思を通す方が艦長で、もう向こう気が強いんですな。だからもう出撃命令が有ったらどうしても一番乗りをしないと気が済まない艦長でした。だからそれだけにまぁ運勢が強かったのか。まぁあの無事に終戦を迎えられたと言う事ですなぁ。だから艦長にはもうみな乗員は頭が下が、上がらなんだですなぁ。ええ。
聞き手:髭の有名な寺内艦長と言うことで、まぁ随分敵の弾をかわすのが上手かったようですね。
父の言葉と覚悟
この年になってから、もうこれを枕元に置いて(プラモデル)いつも忘れる日は1日もないです。まぁ親も父親も日露戦争の経験がありますから、もう生きて帰ると思うな。天皇陛下の為になあ働いてくれ、もう帰る事考えるな言うてから、戦争が始まった時にゃ赤いインクで手紙くれましたけどな。
もう天皇陛下に上げました子じゃからお前は。天皇陛下の為に尽くせ言うてね。トラック島の松島領地の時でしたからな。戦争が始まってから一番最初に父親から手紙が来ましたけど。そう言うて来ました。今でもよーく覚えております。お前は家に要らん子じゃから、わしゃは次男でしたからな、要らん子じゃからもう陛下の為に尽くしてくれ言うて、赤紙でから赤い筆で手紙を書いて寄こしてくれました。それでもうこれはもう家には要らん子じゃから陛下の為に尽くせ、言うて来たんやなとつくづく思いましたけどね。そん時はまだ普通の新兵のまだ眼差しでしたから、戦争言うものがどう言うものであるか訓練の道でしたし分からんでしたけど、まぁあの死ぬことを覚悟せないけんのやな。と思いましたけどね。それが不思議な事にどの海戦に行ってもそう言う向こう気の艦長でしたから一番乗りするのに、弾を一発もくらわんの。もう不思議に思いました。もう沖縄特攻作戦なんかも大和と矢矧が軽巡、駆逐艦が8。そいでこの船が1パイだけですからな、帰ったのは。大和の乗員は230人泳いで来たのを救助して200mくらいあったでしょうかねぇ、大和の沈んだ時は。
泳いで来たのを上甲板から降ろして引っ張り上げて救助してから、そのうちに日が暮れて飛行機が来んようになったから内地へ帰れたんですけどね。他の船は10パイ居て9ハイ沈みました。だから1パイだけが武運が有ったわけですわね。まぁこの船の上甲板配置も大分、流れ弾言うか機銃弾に当たり戦死しましたけど、もう私の仲間も上甲板でから・・・てから・・てから良くも悪くも流れ弾くうてから倒れてから、「おい!しっかりせい!」「もうわしはダメです。宜しう頼みます。私の分まで長生きして下さいよぉ」と言うてから「心配するな貴様の分まで長生きするからそんな事は心配するな。元気だせ」言うてから息引き取ったのをいまだに頭に残っとりますけど。班の人が一人私より1年ほど若い鳥取の方に住んどったと思いますけども。終戦になってからいっぺんその人のお墓参りしてやった事がありますけれども。そう言うとにかく、どんなとこに居てもね雪風に弾は食らわんの。どうして食らわんのか不思議になりましたな。そいで艦長がそういう向こう気の強い人だから、一番乗り、敵地でも泊地行く時に一番乗りで無かったら気が済まなった艦長だから、そいでね不思議に弾は食らわんの。だから沖縄の特攻作戦の時10パイいきましたけど、キーウェイというのがありますわね。キーウェイで沈んで、その内そうですね1パイは初霜いう佐世保の船が佐世保に帰って、佐世保で空襲が激しいから佐世保で碇おろせんでその日の晩に呉に回航して、呉でも激しいから舞鶴に帰って、舞鶴でも橋立の今度は夜回航して、橋立の奥の方に碇を降ろしてその日の朝方凄い空襲で、そいで初霜いう船が入口におったんですけどもそこで初霜も沈みましたけども。その時に私は他艦船救助の指揮権の命令が下ってから救助艇の艇長として橋立の入り口に沈んだ初霜いう船の救助に行きました。行ってねぇ救助しようと思って内火艇を付けてから、後甲板にから元気な者を救助しおったら後甲板からシューと糸みたいなあの黒い煙が出おるんです。スースースースー吹き寄るんです。こりゃ弾庫に誘爆しとるで言うてから、弾庫かね煙が出るわけない。だから爆発するから
内火艇
内火艇を離せと言うから、なんぼどのくらい離したでしょうかね。それでも100mくらい離したでしょうかな。そん時にバーーンと言ってね。もう一発で沈んでしまいましたけどね。まぁ幸いに今救助しとった人間大体助かった。そいで橋立の空襲が激しいからこの船は橋立の奥の方についとった。ただそれが空襲を受けるわけですね。内火艇で救助した人間を乗して帰ろう思うてもね、激しいから帰れん訳ですよ。橋立の松の木の陰に隠れてからじっと見守ってたんですね。なかなか飛行機が・・・してるから、夕方になってから飛行機が来んようになって救助した人間乗して帰ろう。帰ったんですけども、もう自分もそん時に救助した人間を連れて帰りおったらやられておるんですよ。そん時も橋立の松の木があったからこっちも助かったんですけどね。まぁ幸い救助艇の話をさして貰ったんですけど、その時に救助艇の艇長をやりました。機関長の命令以下で。
聞き手:お話を伺っておりましたらベテランの方が多かった言うことですね、ちょっと初霜の煙が出るところを見て、これは火薬庫が爆発すると判断できる人がおられたと言う事ですね。ですからベテランの方々が沢山乗っておられたと言う事ですね。
はい。救助艇にも内火艇ですからね。ボートですからな。あの何本ものオール漕ぐ人間は8人です。片一方に4人しか乗れない。でもあの20人位は乗りましたな。元気な者だけは救助したんですけども後甲板で。もうそりゃ全部救助する訳にはいかんからなぁ。船が小さいから。もうとにかく30機も50機も飛行機来てから、浮いとる船を狙ろうて来るわけですからな。雨あられのごとく爆弾落とすわけですから、もうそりゃどうしようもなかったですねぇだからまぁ思うように合間を見るとか・・・見て。本当に数分の間に救助してもう全速でオール(櫂)漕いで、まぁ橋立に着いて、雪風に帰ろう思うてもそれだけ空襲が激しいから帰れん訳ですからな。橋立まで伸し上げてから松の木の陰に隠れてからいたわけですねどねぇ。そういうこちらも運勢があったから弾食らわず済んだわけです。雪風も相当に敵が来ても低空来た奴は艦砲射撃で落としますからな。あんまり低空にはよう来んわけですからね。もうとにかく砲身が焼けるほど弾打ちおるわけですから。だから飛行機もやっぱり命欲しいからあんまり近寄らんわけですわな。
他男性)米軍機がねアメリカの飛行機もね
聞き手:機関兵のお仕事と言うのはそういうその内火艇なんかの指揮とか言うのも機関兵のお仕事に入るんですか?
私は機関兵ですからね、あの機関科の運転指揮所付じゃったんです。艦橋から戦闘状況じゃって、機械が前進微速とか前進一戦速、二戦速、三戦速、最大戦速。一戦速と言うたら21ノットです。1ノット言うたらね1852mが1ノットですけど、約だから2kmちょっと足らずですわな1ノットと言うたら。2kmと計算しても35ノット全速と35ノット出たんですわ。70kmですわな。自動車で言ったら70kmのスピード出たんです。最大船速でね。機関科の指揮所の重要配置でしたから、まぁ多少は艦橋から命令が来るのを機関長で出して、機械の操縦を一船速、二船速言うて一船速は21ノット、二船速言うたら23ノット25ノット、最大船速は35ノット出るから35ノット言うたら2Kmとして70kmですわな。70kmが最大船速でこの船。海上の70kmと言ったらものすごく早いですからね。
他男性)私は戦後ちょっと船乗った事があるんですけど、最高スピードの事ホースピー言うような事を使うとりましてね、取り舵、面舵とか
何に乗っていたんですか?
他男性)普通の漁船です。対馬でね魚問屋ですから取りにいきよったのです。木造の150tの小さな船ですからね。玄界にでると木の葉の様にこうなるんです。
まぁあのうねりをこの船なんかは、うねりを切っていきますからな。船の中トンネルみたいに入る訳ですわね。大きな船はうねりに乗りますけどもこういきますけどもなぁ。 ・・・・・ですからなぁ
他男性)最初の新兵さんは、新しく入った海軍さんは、初めて駆逐艦へ乗った人太平洋出たりすると船酔いはするんですか?
そりゃしますよ。そんなのブチなぐられて。ブチなぐられてね。直心棒言うのがあるんです。樫の木の棒のこんな長いやつね。あれでケツを30ぐらい殴るんですよ。さばっとって(注:さばる:中国地方の方言でしがみつく)殴られるんですよ。それでもヘタバッテしますんです。ヘタバッタラまた引っ張り上げられてまた殴る。もうそりゃあどんな生き物扱いじゃねぇです。そりゃもう親でも見たら腰抜かすんじゃろうなふるまい。まぁそういう制裁を受けて、海軍精神がこう言うことでこの直心棒で海軍の根性が生まれるんだってことわざがあるわけですわね。海軍精神直入棒って名前がついとるんです。さばっとって殴られんですよ。さばっとサバットで殴られたらじっとしておれんですから。倒れたら引っ張り上げてまたやられる。やったらね1週間くらいはね上向いて寝られんですわ。立って寝るんです。ケツも真っ黒ですから。黒くじて、そういう制裁を受けていました。そうだったんですけどね。海軍精神が軍人直入棒言う棒でね、やられた訳ですよ。まぁああいうむごたらしい制裁をして、軍人精神が注入出来たわけですね。だから弾が来ても怖わなっかた訳ですね。倒れたら何で貴様はってから、フラフラするな!言ってから、また起こしてまたやられる。
他男性)それは新兵さんが船酔いしたら戦争にも何もならんですわね。当分の間慣れるまでが。
船酔いした言うたらブチ殴られる。いこまになぁ班に樫の木の棒がな3本か5本置いてある。それが3人程殴ったら折れるんじゃから、その位やられる。ケツは真っ黒でなぁ。上向いちゃ寝られんで伏さって寝るじゃから。ハンモック言うのは(曲がっている動作)こう言う垂れるから でだからハンモック寝たらこう曲がるからケツがどうしても下におるでしょ。だからハンモックでは寝られんの。チストの上で降りて伏さって寝るの。
他男性)お尻を殴られとるか、痛くてハンモックに寝られんのですね。
ケツを上にしてハンモックに伏さってこうして寝られんでしょ。こう言うになっとんだからな。デッキの上に伏さって寝る。ケツを上にして。それで軍人精神が注入出来たんです。
男性)それが良かったと。それで根性が出来たと
それは人間扱いじゃないですよ。
男性)まぁこのレジメではね、ガタルカナル沖それからレイテ沖海戦それから沖縄特攻と言うように田所さんご説明されとんですけど、
皆行きましたよ。私が読んだ本の中ではそのレイテは本当はルソンをやる予定がレイテにいきなり変更になったんですね。レイテには栗田艦隊が反転して逃げたんだと言う噂があるんですけど
逃げたという事はないでしょう。
男性)沖縄航空戦は、なんとか少尉ですか?雨あられアメリカの弾丸の。その中を飛行機が通り抜けると言う事は至難の業だと帰ってきて基地でね寝とったら何とか少尉が上官にどうしたんだ!言うたらあの雨あられの弾丸の中は沖縄航空戦では突破出来ません。と読んだ事があるんですけども
さぁそんな事は知りませんけども。そんな事は無いと思いますがなぁ
男性)ルソンよりレイテが大事だったのでしょうかねぇ?
レイテ沖海戦の比島沖海戦ですわなぁ。あん時はブルネイとルソン島の間を通ってレイテに出ましたけどなぁ。もうあのぁ、もう言うても60何年の歳月が経ってどうも詳細にお話する訳には行きませんけども。危険性のある所に行きましたなぁ。言う事だけは胸に残っております。
男性)まぁ良く生きて帰られたもんですね
本当に九死に一生いうやつですなぁ。
聞き手:レイテ沖海戦の時はいかがだったんですか?雪風は武蔵と一緒ですか?
ボルネオのブルネイというところにおったかね。レイテの沖に敵艦が表れて出撃命令が下って、あれからルソン島とミンダナオ島の間を通ってレイテの沖に行ったわけですわな。そいで、あっこでひと海戦やったわけですけど。まぁ日本が強いかった言うか無事にまぁしましたけど、とにかく九死に一生を得ましたな。
雪風の救助
聞き手:武蔵が沈んだ時は救助は雪風はしたんですか?
ええ、あのぉ武蔵はね、あのえーとあれはあのぉ特攻作戦の時さね、その時はあのぉ武蔵の左舷を行きよりましたなぁ。そんでもうやっぱり敵が来たら大きい船を一番狙いますからな。だから左舷を200m離れたほう私の船が行きよりましたけど、大和が集中砲火受けて、あのぉこう段々段々傾いてきて、あのぉ片一方の左舷が水すれすれまで近づいたらなって、そいで舷側(げんそく)が半分海水がペチャペチャ洗うくらいなってきて、それがもう夜のうちにもうこうやってバーンとひっくり返って椀を伏せた様になって、兵隊が上甲板に入ってるもんが高いとこ高いとこ上がるわけですわな。そいでもう終いには、お椀を伏せた様になっとったらもう滑り落ちてくるわけだ、海の中へ全部滑って。そいで泳いでくる訳です。その時に200mくらいあったしょうかな、それ泳いでたのを拾いあげた。助けた訳ですけども。それがあの滑り落ちる時にあの鉄板の所に鋲打ってありましょ。あの鋲でケツをするからな、ケツを擦り剥く訳ですな、それで血が出るわけです。それでもうその上はもう本当にね、海が赤こうなるくらい血が出とる。泳いで来た者は特にね。そいでロープで引っ張り上げようといっぺん、いっぺんに鈴なりほどに引っ張るから、そんなに下がったら上がらんから3人か5人位にしてくれよ。大きな声で言いおるけど、みんなやっぱりそれぞれの命が欲しいからいっぺんに下がろうとするでしょ。からなかなか引っ張り上げれんでね。ほんとに困ったもんや覚えてますけども。ああやってもう少人数を引っ張り上げて
中にはもう引っ張り上げた途端にもう弱って、気が落ち着くんと思うてからなえてしもうてから息引き取る。引っ張上げたらもうみんな殴る。殴って気合を入れれば良い。気合を入れるもんが襟章を見たら少佐のマークが有ったぞ、言うのがあった。少佐で有ってもお前殴らにゃ、気合を入れんと死んでしまうじゃから言うて。
結局3人に一人は上甲板に引っ張り上げられた途端に息を引取る。大和の沈んだ時は200mくらい離れとったでしょうかなぁ。この船が。200mを泳いでくる言うたら大変な事ですもんな。それもまた敵の○○が○○いうわけやない、いつ来るか分からんし、触接機も経験もするし爆弾がもうチョイチョイ落としてくる訳ですからなぁ。もうわし達も生きた気がせんし、むろん泳いで来たもんもそう言う気持ちですねぇ。
聞き手:武蔵が沈んだ時は機関課ですから船の中に居られたんですけど、沈む時は外に出ておられたんですね
私は指揮所の配置でしたからね、時々上甲板に上がって見おうたわけです、大和の最後沈む時は見ましたよ。
聞き手:ひゃー大和の沈む時をみられた。武蔵がひっくり返るのも見た。
ええ。武蔵はあれはあの横須賀から回航しよりましたからな、ひと海戦が終わってから呉に帰って初めてあのぉ上陸出来てベッピンさんでも買えるかな?言うてから、言いおったら直ぐ傍に横須賀に回航してくれいう命令下ってその日に横須賀の回航しまして武蔵を。あのえーっとあれはねぇ武蔵を護衛できようたら、あれは静岡県の沖の方でしたかな。あのぉ潜水艦でやられて、そこでまた武蔵は沈んだ訳ですわなぁ。
聞き手:それは信濃ですね。
ああ、信濃、信濃。よう知っとるわ
聞き手:世界最大の空母ですからね。その時はどんな状況だったんですか信濃の時は
もうあのぉそれはやっぱしあの一発であのなかなか沈まんのですからね。あの強速やったら18ノットですから減速は12ノット。速力とスピードは出んようになって12ノットで走よるのが段々段々傾いてきて、こっちから見ようたら傾いてきて、半分海水に浸かって、それからスポーンとひっくり返ってお椀を伏せた様になって終いには沈む、そう言う状況でしたよ。上甲板おった者は高いとこ高いとこへ行って、滑り落ちて泳いでくる。それを200人位救助したでしょうかなぁ。もうそりゃあのーあの船なんかは3000人以上乗っとったでしょう。3300人位乗っとったじゃないでしょうかなぁ。なんにしても6万なんぼ。7万トン弱ね実測は7万トン以降あったと思いますよ。そりゃぁもう乗ってみても山みたいやったからね、こんな船なんか爆弾少々食らったって沈みやせんわい思った船ですからなぁ。山みたいな船だから。戦艦そんな船は。大和、武蔵、信濃 3バイ(杯)とも大きかったですからなぁ。
聞き手:一番大きな3隻とも見届けたと言う事でねぇ
まぁ3バイとも末路を見ました。その雪風は、どんなとこ行っても弾は食らわん船じゃったからねぇ、もう私も何でこんな良い船に乗っとったかな。まぁあの私の母親が戦争中には信心してくれたから、さっきもお話しました様に冬でも裸足参り、雪の上を裸足で雪の上を耐えてくれましたね。まぁそれだから今でもお彼岸とかお盆には必ずお墓参りします。今日まで元気で生かされたのは母親のお陰だと思うとります。今も胸が熱うなります。思い出すとねぇ。
聞き手:お父様のお手紙は要らん子じゃからお国のために死んで来いと
親父はねぇ、日露戦争の経験者ですから、戦争始まる時もさっきもお話しましたが赤い筆で手紙寄こしてから、お前は天皇陛下にあげました子ですから生きて帰ると思うな。言いてからな。そう言った父親でしたから。まぁ母親はどっちか言ったら反対な気持ちでした。やっぱしお母さんの事だけはどういうとこ行っても忘れられなんだねぇ。お母さんの美味しいお乳をいただいて、なぁ今日の日があったんじゃと思っていつもありましたからな。子供の為には母親です。よう覚えておいてください。
聞き手:ガダルカナルとミッドウェイ参戦されたと書いてありますが、ミッドウェイの時にはどこにおられたんですか?6月のミッドウェイ海戦の時には。ミッドウェイも
行きましたよ。はい、雪風はもう全部行きましたよ。何か持ってきておりましょう、参戦したところを(写真の下に)全部書いております。
聞き手:それでミッドウェイの時には日本軍はね、簡単に言いますと?ミッドウェイから日本軍も総力で行ったんですが、その時には空港言うか日本の方が強かったんですけど、ガダルカナルの時には飛行機の状態はアメリカ軍の方が強かったんですか?飛行機言うか空軍の力は、
小林さん)ミッドウェイですか?
聞き手:ガダルカナル時には制空権はどうなんですか?アメリカ軍の方が強かったのですか
ええ。日本は制空権を取って無かったんですかね。その頃からダメだったんですね。もうとにかく日本は負け戦ですからね。
質疑
聞き手:ガダルカナル沖の海戦の時に印象深かった事と言うのはございます?ガタルカナル沖の海戦をでていらっしゃいますよね?その時に印象深かった事はございます?
ガダルカナルちょっと直ぐに思い出せんのだけどね、もうあの海戦行ったの、あれに書いてありましょ。
聞き手:はいはい。
聞き手:志願はどうしてなさろうと思ったのですか?志願をなされたのはあのどうして志願なされた?
志願ですか?私は家で次男坊でしたからなぁ。あの次男坊であの父親日露戦争に行っとるし、兄貴は支那事変、満州事変で、兄貴の方は支那事変、満州事変でから負傷して帰ったんですけど。そいで金鵄勲章貰って。そういう軍人一家でしたからなぁ。親父が「お前は次男坊じゃから家には要らん子じゃから、軍隊へ行って天皇陛下の為に尽くせ!」いう事でわしも志願して兵隊に行こうかという事になって志願した訳です。だからあのぉ18で志願して19で入隊したわけです。普通じゃたら21で兵隊へ入るはずですけど徴兵じゃったらねぇ。19で3年ほど早まったんです。じゃからまぁ勇ましいのは好きだったんですね。小さい時から兵隊ごっこばっかりしよったわけです。
聞き手:まぁあの主だった配置が機関科の指揮所なんですけど機関科の指揮所で戦って何か印象的な事は、思い出になるような事はございました?
機関科の指揮所ですからね、艦橋の方からね。速力をね、一戦速・・・・言うたり、或いは、二戦速、三戦速、全力とかあのその時に艦橋から北で二十度20キロ沖に敵艦が見えるとかいう報告がある訳ですから、艦橋から機関科指揮所にね。それを聞いたやつを指揮所に機関長が海軍中佐ですかなぁ?(註:実際には大尉か少佐か)そう言う人からそういう人に全部伝える訳です。そういう役をしよったです。
聞き手:・・・から大事な仕事だったんですね
運転幹部付き補助員と言う役じゃった。だからその代わり熱い機械室には入らんのです。機械を操縦する訳にはいかんけども。扇風機のあるとこにおったわけですわ。だからそういう重要な配置におったわけです。ですからいちいち戦闘状態は全部耳に入る。敵艦があの北二十度に敵艦が居るとか何とか艦橋からいちいち入って来るのをね、電話で受けて機関長に報告しよった、ほいで前進一戦速増速一戦速言うたら21ノット、二戦速言うたら23ノット、それから25ノット、27ノット、28ノットで最大戦速言うたら35ノット。大体あの1ノットといったら2キロですから35ノットといったら70キロですわな。
聞き手:第四戦速の次は直ぐ最大戦速なんですね。
ええ。そりゃ多分敵艦が二十度に敵艦が見える最大戦速、増速とかいう指令が来るわけですな。そりゃあの海の上の70キロいうスピードは物凄く早いですからなぁ、自動車で70キロ走るいうたらそんな・・・・ですけど、海の上の70キロ、船の70キロっていうたら物凄くスピードですわ
聞き手:機関科の指揮所といったら、艦長さんの同じ情報が入る訳ですからね
全部あの艦橋から入って来る情報は全部私が受けよった。そいで機関長に伝える。機械の戦速とか。普通原速いうたら12ノットが一番航続(こうぞく)距離が長いやつなんです。
聞き手:巡航速ですね
巡航速ですね。それから強速といったら18ノット、一戦速いうたら21ノットです。23ノット、25ノットそれからずーっと、最大戦速は35ノットという具合になっとる。それでもうあの増速的な何号中ポンプ自動とか何号タービン起動とか、そういうのが機械の何かそういう記録を全部艦橋から来たやつ記録全部を記録しよった訳です。それだけ重要配置におった訳です。
聞き手:はい重要な位置ですね
聞き手:それから平和になってこの雪風を退艦されるときに、まぁ記念品で何か持って帰られた様な物あるんですか?戦争でよその国に挙げてしまうから何か持って帰って良いよとか
何持って帰ったか直ぐに思い出せんけど、時計を持って帰ったね。デッキの時計を1つ持って帰ったね退艦する時にねぇ、皆記念になるもんなぁ、持って帰って良いもんが有ったら持って帰ってええよ。と命令があった訳だ。でわしは、毎日この時計を見て当直に着いたり、戦争をしたんじゃからこの時計思い出になるから。その時計は今も私どもの家に置いて動いております。
聞き手:それで今は生活されていると言う事ですね。
そん時、今でもあの時計をみて戦闘配置に着いたなと思う。まだ元気で回りよります。
聞き手:まぁ、時計と一緒でいつまでも元気で。で、こんな大きなネジでね、大きな2000トンの船の時計ですからこうね
いやあの柱時計ですからね、小さいやつです。もうあの枕元に置いとります。
聞き手:それから色々あの軍艦の旗なんかを海軍旗なんかも、まぁあの小林さんくらいの功績のあった方はちょっと内緒で。
あの軍艦旗もね、あの後部の軍艦旗を一つ持って帰って来ました。家にまだお風呂場にちょっと置いとります。
奇跡の雪風
聞き手:そんなものはもう雪風自体は無くなったんですけど、雪風の軍艦旗、雪風の・・凄い貴重なものですよね。
記念ですからなあ。まぁあの雪風はそりゃもう重要な配置におりましたからなぁ。
聞き手:そうですねぇ。本当に優秀だったんですねぇ
聞き手:雪風は全くの無傷だったんです?終戦まで
無傷。
聞き手:被弾なんかまったく無かったん?
そりゃ至近弾を食うてな、多少は呉に入って外板は修理した事が有りましたけどな。もう殆ど直撃弾食らわん。至近弾は食ろうた事があります。そういう時は外板が多少は傷みますからな。そういう時には海軍工廠に入って内地に帰った時に修理する。しかし修理せにゃ戦闘出来んような状態の故障は無かった。
だからのう奇跡の船いうて、奇跡の雪風いう名前がつい取ったわけですわ。何処に行っても弾はくらわん、そいで艦長が向こう気が強いから、もう泊地に乗り込む時は何時も一番乗りで、そいで弾は食らわんのですわ。もう不思議だったですな。そいでひと海戦終わったら艦長が両手に一升瓶を下げて飲め食えで
聞き手:艦長が人心掌握がね?
雪風神宿るじゃいうてからな、ほないうて艦長が酒を下げて来よった。
聞き手:ご自分達でもやっぱりもう何かこう弾は外れるだろう?みたいな感じが出来てくるんですか?
それだからね艦長はな、あの空襲になってもねぇ鉄兜直ぐは被らん艦長は。艦橋の天蓋から頭出すとこがある。そこから覗いてこう見る。そいで操舵長が「敵艦、敵来たれ二十度に敵現る」言ったら。そいで操舵長が「取り舵二十度」と言ったら、艦長が「待て待て、面舵いっぱいだ!」言うて、面舵いっぱい切ったら爆弾ストーン!と外れて落ちる。それくらい操舵がうまかった。瞬間だけど気力がもの凄い強かった。そいで鉄兜を被らん艦長言うて有名だった。「艦長!鉄兜!」言うて持っていったらな「そんなもん要るか!」言うてから甲板に投げ捨てた。そんな艦長です。だからもう戦後長生きをされてねぇ、あの元気で過ごされたんですけどね。まぁ当に大分前になりますけどなぁ。
聞き手:天蓋言うのはこれで(プラモデル)言うとどの辺りになるんですか?これが艦橋ですね。こちらの上のですか?寺内艦長が首だしていたというのは、この艦橋の直ぐ上ですか?こちらでなくて。
一番高いとこ。
聞き手:一番高いとこ?ここに測距儀?がありますね。測距儀?の前?。
うん、そう。私等のデッキが2番煙突のこの下やったんです。
聞き手:この直ぐ下位に機関室の指揮所があったわけですね。
いや、指揮所はこっからこうぐん?ですからな。こっから降りてここが機関室で、こっちが罐室で、そいでここが推進機、機関室はそのタービンを回すわけですわね。
聞き手:指揮所はどこにありました?指揮所。二番煙突?
そうです。二番煙突の下ですわな。
聞き手:敵は一番狙うとしたらどこを狙うんですか?やっぱりこの辺り
聞き手:基本的に真ん中狙うんですね。丁度おられた2番煙突の辺りになりますかね
聞き手:300人位ですと、各科の間と言うのは割と仲がいいんですか?300人位とおっしゃってましたね乗員が。そうすると例えば機関科と砲術科とか仲が悪いとかそういうのは無く、わりと一致団結しているんですか?
運命を共にするんじゃからな、みんな仲が良いです。機関科とか砲術科とか水雷科とかねぇ、あの色々科が分かれておりますけれどもね。機関科でもショウカンで・・あの学校が罐の学校が有るし(註:工機学校には罐の課程があるし、との意味)、機械の学校が有るし、補助機械の学校が有るし、私等は補助機械の学校に行ったもんですから機械の方の取り付けの。じゃからあの機関長直属のあの機関科の指揮所の役やったですからなぁ。だから艦橋からの伝達を全部受話器で受け取ってそいで機関長に報告しよった。前進微速。前進微速言うたら12ノットが原速ですわなそれから18ノットが強速で一戦速言うたら21ノットそいから23、24、25と最大戦速は35ノット。35ノットと言ったら1ノットが2キロですからね35キロですかね。70キロ
同じ釜の飯を食べる
聞き手:さっき言われた海軍のひとつ釜の飯でご飯食べると言いますが、その釜って大きいものなんですか?
ひとつ釜の飯を食う言葉にありますわな。あの主計科の兵隊が釜で飯を炊いたやつを、各班の炊事係りのもんが飯盒持って貰いに行くわけですわな。だからその同じひとつ飯の釜を食うのはそこでいうわけですわな。
聞き手:300といったらそうとう大きな窯だったんでしょうねぇ
300人のは、ひと釜では炊けんのですね。同じ釜の飯を食うたと言う事ですわね。そりゃおおかたわしも釜の数は見たことはないですけど、それは5つや6つはあるじゃないでしょうかなぁ。まぁ大きい事はよう見ていますけどねぇ。
聞き手:一週間の献立は決まっとったんですか? もうこの日は何いうの決まっとったんですか?あの献立、一週間のスケジュール、食事のスケジュールは決まっとったんですか。
どのスケジュール?一週間の?
聞き手:ご飯のスケジュール?それは分からずに何時も来たのもを食べるいう感じですか?
ご飯のスケジュール?
聞き手:ご飯はその炊事係りが勝手にするわけでしょ?何がでてくるか分からないですよね?
そりゃもう与えられたもんを食べるという事。別に注文は出来んのです。注文が出来るならね、欲しい物みんないうんだけどね。それは許されんの。
聞き手:何か一番美味しかったですか?一番美味しかったのは何ですか 美味ししい
普通のご飯です。そりゃ時たまな、祭日とか何とか言う時おめでたい時にはな赤飯が出たりしよりましたよ。そりゃあのやっぱしね市中と同じでからおめでたい日には赤飯が出よりました。
聞き手:まぁ海軍はねカレーですね、カレーですね。カレーいうイメージがあるんですが、海軍カレーとか
カレーはようでました。
聞き手:しかしそれだけの食料を積んどる言う事は大変ですね
食料あの出航する時な主計科が糧食塔載やるわけですわ。半年間は航海じゃったら半年間の分を船に搭載するわけです。それをあの主計科があの選別して
聞き手:まぁ一般的に俗語でいうと炊事当番いうのが居るわけですね。
主計科にもその専門が居る。主計科専門の兵隊が居るわけです。そりゃご馳走する時はご馳走出よりましたよ。そう言う時には君が代を歌えじゃったんですよ。その他には大抵ね国歌を合唱して、それから赤飯が出ました。
聞き手:沖縄の特攻へ出る前は何か特別なお食事だったですか?
そうですなぁ沖縄特攻に出る時、別に変わった食事ない思いませんけどな。上甲板に整列をして内地に向かって“敬礼、黙とう!皆お母さんの無事を祈れ!いう事だったね。二度と生きて帰らんのじゃ。それが特攻作戦ですからな。それが不思議に雪風だけは残って帰った。どうしてこんなに運が良かったんかな?今でも不思議でたまらんの。だからこういう話はな、元気なうちに出来たらとみんなにお話しすべきだと思うとります。
聞き手:雪風は優秀な軍艦だったんですけど、まぁ新しいんですけど戦艦大和なんかはクーラーがついてますね。クーラー。これはダイキンのクーラーなんかが付いていたんですか?
暖冷房が有りましたよ。
聞き手:暖冷房があったんですね (どよめき)
冷房がありますよ。
聞き手:凄い、新しいだけねぇ
あの昭和15年に佐世保で出来た船です。陽炎(かげろう)型駆逐艦言うてね最優秀の船です。昭和16年でしょ?戦争が始まったのねぇ。15年1年前に浸水したんです。佐世保の海軍工廠で。
聞き手:中学1年生の折に日本の敗戦なんです。それから4月に入学して8月まで軍事教練いうのをを受けたんです。その時にまぁ敬礼の仕方ですね、こう肘をパット張れというような配属将校からそう教えられたんですけれど。あの潜水艦の中は狭いからね。海軍はこういう敬礼を肘を張らんこういう敬礼を
前から敬礼
聞き手:はい。それはあの潜水艦無しに、こうですか?海軍は? 陸軍はパットこう肘をはってねぇ。こう気を付けして(気を付けの真似をする)このまま、このままですか?前からですね
前からですね。狭いですからね
聞き手:そう言う事があるからね、万歳はこうしてやってんのにね。狭いから邪魔になるから
私等はね、機関科でも運転幹部付き補助員は機関室の操縦室の扇風機が当たる涼しい所だけですけどな、機関室は35度最低有りますからな。35度から暑い時は38度位上がるでしょ。蒸気の温度が、蒸気の温度がなぁ高いですからな。
聞き手:元々南洋でガタルカナルなんかの南洋での戦い言うたら元々気温が40度近く有る上にもっとすごいねぇ。その日本でも40度
冷房は掛かっておりますけどな、大気気温が上がるとね冷房も暖房も効きが悪くなりますからな。だからあの南洋の方は、やっぱりあの38度くらいはしょっちゅう上がりますからな。まぁあの常夏の国ですから。戦争が始まったのはうち等南洋のトラック島の夏島泊地(松島もあるが夏島と聞こえる? りょうちは「泊地」とはあまり聞こえず「錨地」かもしれませんが、一番よく使う「泊地」にしました)におったわけです。夏島泊地トラック島の夏島とこで南洋移民統治地のね・トラック島いう。
開戦からの雪風
聞き手:大東亜戦争が始まった時にですか?
うん。だけど真珠湾攻撃には行かんかったの。だけどね12月8日でしたかな。
聞き手:うん。12月8日
そういで9日にはもうトラック島に空襲に来ましたよ。
聞き手:向こうが?
そう、ほいでカツオ船一杯やられた。
聞き手:8日に真珠湾攻撃で次の日はこちらに攻撃してきたんですね。アメリカが。
爆弾くろうてなカツオ船沈んだ。あのそれはもう偵察機みたいなもんですからな。戦闘機・・ですけどな
聞き手:それは真珠湾から直ぐアメリカミッドウェイかな?
あくる日になトラック島に空襲に来ました。そいでカツを船で一杯沈んだ。まぁ偵察を兼ねて来たんでしょうけどな。
聞き手:なんか雪風は優秀だったからあのレーダーなんかも駆逐艦では日本で最初にレーダーをつけたみたいですね
電波探知機なんかもついとりますしな。優秀艦でしたよ。
聞き手:優秀艦ですから最初につけてね 活躍する船にやっぱりからつけて
16年にして、17年に1年くらいしてからですけどな、電波探知機なんか全部入って敵が近寄ってくると全部探知しよったよ。そういう文明の力も早よ付い取ったです。
聞き手:そりゃその当時としては非常に優秀ですわね。
そうです。そりゃ最優秀艦ですから。
聞き手:それは昭和17年頃でしょ?16年12月が大東亜ですからね
聞き手:最初に着けたですね。最初に。
潜水艦なんかでも全部探知しよったですね。敵の潜水艦が来よっても電波探知機(音波探知機)で探知しよった。だから爆雷積んどるんですわな、そんなんきよったらもう潜水艦の上に行ってから爆雷落とした。潜水艦を行って撃沈した!いうて・・・た。そうりゃ最優秀艦でしたから
聞き手:潜水艦を敵潜水艦を何隻か3隻ですか、撃沈したのは?
もうそりゃ、何隻もしとるですよ。雪風はもうとにかく優秀艦でしたからな。
聞き手:東の雪風、西の夕立とかいって。(正確には、呉の雪風、佐世保の時雨)
軽巡洋は、夕張とか矢矧とか言うて。沖縄特攻作戦でも矢矧、大和と矢矧とあと駆逐艦が8隻10ハイ行きましたからな。そいで雪風と初霜と2杯帰って初霜を舞鶴へ帰して橋立で沈んだ。そん時に私は、たかせん?救助艇の艇長で行ったんですけども
生存者
聞き手:それであの生き残りの方は今どのくらい残っておかれますか?岡山県では
岡山県に12人おってね、今2人生きとる、いざき町の・オワケタロウさん。同年兵か上だったと思いますけどな。今も年賀状とか写真は貰いますけど
聞き手:岡山県ではもう生き残りの方はお二人ですね。今日はね
雪風の生存者は2人だけ、みなして亡くなった。12人おったんですけどな、12人。県で10人がね皆亡くなってね
聞き手:みんなご高齢になってね
だからもう、みんな死ぬ時にな「おいワシの分まで長生きしてくれよ。」言いてから「おお貴様の分まで長生きしとるよ。」言うてから、もう4倍。二十歳くらいで死んだんだからみんな。
聞き手:その亡くなられた方っていうのは何処での事なんですか?その戦友の方が亡くなられたのはいつ頃のどの海戦の時の
戦争が激しい時だから昭和16年で始まったんかな?戦争は。昭和17、18年ころじゃなぁ激しいのは。比島沖海戦なんかもう船と船と衝突するくらいまで敵の船といきおうたんじゃから、大砲打つなんか無かったけども機銃で打ち合いっこしようもんじゃから。そのくらい接近したんじゃから。
聞き手:復員した時に12人おったんですか?
そうです。岡山県は。だからそれは後は250人
聞き手:復員した時に12人おったのがご高齢で亡くなって今は2人
そう岡山県出身の部隊はね
聞き手:だからそん時は、復員直後は交友は頻繁になされたんですか?
うん。戦友会をしようた。発起人んでな。この温泉の弓場(ゆば)温泉かな。毎年な。
聞き手:弓場温泉、12人位だったらこじんまりと。・・・・・
聞き手:寺内艦長を囲んでの雪風会と言ったものは?有ったんですか?
有った。大阪でようやる。弓場温泉では発起人で・・・
聞き手:すみません。機関兵で敵艦発見と言う伝令が来る時というのは。敵艦が見えたとかいう伝令がくんですけど、小林さんは敵の軍艦や飛行機は見えますか?
艦橋からな機関室でも運転指揮所に機関運転指揮所いうのが有る。そこ詰めだったから艦橋と一々全部報告がある。
聞き手:直接見えてはいないんですね。情報ははいるんです。
戦況は全部入って来るわけ、北二十度に敵艦見るとか言う全部入ってくる。
聞き手:敵艦の場合は、今言うたレーダーが入る訳でしょ。飛行機は何だか分かりませんけど
それは船底におってもな戦況は全部入る。
聞き手:戦闘が終わったらすぐに外に出れる場所におったと言う事です。だから船が沈んだりしたら、自分の味方が沈んだりするのは見れると言う事です。ただもう戦闘たけなわの時は自分の任務がありますからそこは見る事は出来ない。
艦橋から全部なぁ、戦況は全部入って来る。
聞き手:やっぱり敵が居ると言う事が判った時は緊張されますか?毎回毎回
敵艦見えるの?
聞き手:はい。入って来た時はどんな気持ちなるんですか?お心としては。
そんなことはあんたもうなぁ戦争じゃもの。覚悟のうえできっと死んでめいという気持じゃから。お国の為じゃなぁ。喜んで死のうって言う。
聞き手:死ぬのは覚悟ですからね
そういう・・・された者は、ひとりもおらなんだ。あんたらいうたら不思議なようだけどな、自分も今そういう状態ならそりゃ色々思うけどな、その当時は何もおもわん。天皇陛下のためじゃ。身を投げ捨てる気持ちでな、天皇陛下の為こそと言うのが根本じゃった。それが軍人精神じゃから。ちょっと今あんた達には不思議なようだけどな。
命の補償がないんだから、今は惜しいよ、今は長生きしたいと思うよ。平和な世の中やからな。
聞き手:小林さんはね、山本五十六あの司令官、艦隊長官はどのようなイメージを持っておられます?山本五十六は最後元帥にまでなりましたけどね
あの人は立派な人だと思うな。
聞き手:あぁそうですか
尊敬出来るな。
聞き手:あー、尊敬出来る方?うーん。
「皇国の興廃此の征戦にあり」着任した・・・・日露戦争の時には、「皇国の興廃此の一戦にあり」
聞き手:そうです。そうです。
山本五十六。今度の時には「皇国の興廃征戦にあり」そこがちょっと違う。(※山本五十六も開戦時は日露戦争以来のZ旗をあげている。この話題は山本五十六の天皇から贈られた短刀にある「表:皇国の興廃、裏:繋在此征戦」が派生したと思われるが、「征戦」を「聖戦」として会話している可能性あり)
聞き手:聖戦にありだ。
終戦
聞き手:終戦の時はどの言うお気持ちでしたか?終戦の時は、戦争が終わった時にはどんなお気持ちでしたか?
終戦?終戦の時かな。はっ(笑) 正直言ったら、まぁやれやれいう気持ち。(笑)
聞き手:なるほど
聞き手:それでその敗戦、日本が戦争に負けた、と言うのを、それは何処で何時お聞きになったんですか?
それはね、あの終戦はあのえーっと、沖縄特攻作戦帰って舞鶴に入って、それからあの舞鶴が激しゅうて、あの橋立の付け根に行って、橋立が激しゅうて、伊根いう漁師町の陸にのし上げて、あのその辺の漁師町の人から漁網を買ってマストに掛けて夜中に山に入って木を切って被せてカモフラージュして、そのあくる日にあの終戦の詔勅だった。そいでその時は総員上甲板に整列服装改め、そいで「何があったんじゃろうかな?」言うてから、服装改め!服装改め!それでもう一種軍装に着替えて上甲板に整列したんだ。そしたらその聖戦のあの敗戦のな。なんか詔勅が放送された訳です。それでまぁやれやれ戦争も終わったかな?という気持ちになった。
聞き手:それはあの艦長からお聴きになったんで無しに、別にあれでしょ?あの玉音放送ラジオで聴いた訳じゃないでしょ?
それはやっぱりあの、上司からそれはな聞かされたわけですな。
聞き手:それから舞鶴で乗り上げたんいうのは、雪風本体が乗り上げたんですか?
いや、のし上げるいうのは、陸にのし上げた訳では無いんですけども漁師町の漁港にな。
聞き手:横づけしたんですか?
さすがに、乗り上げるいうかな、山の際まで行ったわけです。
聞き手:底が擦れたとか言う話ではないんですか?
そりゃなんぼか擦れとるでしょうけどな
聞き手:それはだからやられても良い様に、あの浅瀬に行ったと言う事ですか?
やられん様にカモフラージュしようということで山のへりに行ったわけですから、そいで山の木を切って朝までには漁網買って掛けて、木を被せたわけですからな。
聞き手:その被せた状態で次の日に、まぁ終戦に
その日のあくる日の終戦になった。詔勅があった・・な。服装改め、上甲板に整列いうて。「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」
聞き手:一種軍装にして、正装をしてラジオの放送を聞いたと言う事ですか?
はい、
聞き手:ラジオを聴いたいう事ですね。
はい。それはあの玉音放送を聴くんじゃからね。みんな服装を改めるわけだ。作業着じゃいけんわけだ。
聞き手:一般のラジオだったら聴き取り難かったんですけども雪風は軍艦ですから明瞭な音で聴こえたんですか
それはあのね、あの直接ラジオを聴いた訳じゃねぇですわ。上司からの伝達が有ったんです。只今こういう事があった。そいで放送が有ったままの事をいわれた。こういう放送が有ったとな。
聞き手:それをそんなら我々は内地でラジオでまぁ今宮城さんがいわれた様に、本当にガガガガと雑音が入って聴きにくかったんですけれど、その艦内では艦長がそれを聴いて、それをあの乗組員に「みんなその整列せい!」言うて、制服で並ばして艦長が敗戦の証書を読み上げたわけですね。
そうですね。
聞き手:あのすみません。沖縄特攻から終戦までって結構間が有りますけど、その間はだいたい佐世保とかが長かったんですか?
え?
聞き手:あの沖縄特攻から終戦までの間というのは主に何処にいらしゃったんですか?
沖縄特攻作戦から?
聞き手:沖縄特攻から終戦までという間は大体何処にどの辺にいらっしゃった?
沖縄特攻作戦が終わって何ぼして終戦になったかな?
聞き手:4か月くらい
聞き手:4月7日が沖縄戦ですから、8月15日まで4か月その間は横須賀辺りに居たんです。ですから信濃なんかを護衛したり残りの駆逐艦が少ないから。だからフル回転していたんです。(註:信濃の護衛はしているが、信濃は1944年11月に沈没)
終戦からね、あの海外の引き上げ作戦をちょっとしたんですよ。あの大陸からね。向こうの兵隊を。
聞き手:終わってからね、戦争が終わってから
引き上げ船は無いんですから、だから雪風はそれにも従事したわけです。私はもう家庭の事情がある者は早よ退艦させいう事で。ちょっと早よ退艦しましたけどな。引き上げには2回ほど中国の方に行ってね。
聞き手:それはその当時もう日本には輸送船いうのがあんまりありませんからね?
そうそう。
聞き手:それから雪風が残っとれば雪風もその復員兵を運ぶ役もしておりますわね?
復員船をしたんです。
Q)ねぇ、ええ。
ようしっとるね。300人おるんじゃから実際には何人くらい帰ってくるんじゃろうかね。復員する時はもっと、復員する時は武装は外して運べるようにすると。日の丸をつけて、日の丸をつけて間違われない様に。それは復員兵ももう完全にあの武装解除ですから、裸のあー、軍服のままですからね。鉄砲も持っとらんのじゃから沢山乗れるわな。
聞き手:乗せたのは復員の兵隊さんですか? 乗せたのは兵隊さんたちですか?復員の時に乗せたのは。
うんそう。
聞き手:あの満州の一般の人とかではなくて
違う違う(顔の前で手を違うと横に振る)中国がね、中国が鉄砲持って・・・・(言葉が重なり良く聞こえず)だから早くそれを中国に帰って貰わないと、いつ何が有るかわからない。だから最優先で兵隊さんは、民間の人はおって貰っても被害がないんです。鉄砲もったり大砲持ったりしている人を早く日本に追い返そうとしてんです。
聞き手:それは中国の考え方ですね
終戦になってから家庭の事情がある人は、早よ日本へ帰してくれた。家庭の事情が許すものは待って復員輸送船の勤務せよ。という事だった。
聞き手:何時頃復員されたんですか?
私はもうあの早よに。輸送船いうのは、一回中国の方へ行っただけでね、すぐ。家庭の事情が両親が病弱だからいうことで、早うさせてもらった。
聞き手:その時は中国の復員兵を日本の復員兵を乗して、日本の港へは何処へ返ってくるんですか
それは色々
聞き手:舞鶴ですか
舞鶴多かったですな。ずーっと北の、えーとあれは樺太の方ですかね。北の端のほうからな引き上げたり。まぁ色々ですわな。中国の方からも帰ったのも有るし。私はもう、復員船は・・・よう覚えておらんけど、一ヵ所行っただけで、後はどっちかいうたら古参の兵隊じゃったかからね。家庭の事情があるもんは、早よ復員させよ。
聞き手:「早よ、家庭に帰っても構わん!」という事ですね。
それだけ恩恵があったわけです。
聞き手:元の軍令部の命令でね。
海軍とか3年で善行章一本付きますからね。二本付く前がもう終戦になったけどな。
聞き手:もういっぺん海軍にね、行っても良いとおっしゃっていたのはなんですか?
何べんでも行ってもええ。
聞き手:何が一番楽しかったですか?
そりゃ面白い事も色々あったからなぁ
聞き手:モテルとか
聞き手:小林さん背が高くて男前ですからね。
船でも演芸会が有るからな。
聞き手:演芸会、あぁ
そりゃぁ、女性の前で言うのはあれですけどね、港々に女ありでなぁ女郎買いに、女郎買いに行く
聞き手:遊郭があったんですもんな。
遊郭が、岡山で行ったら中島みたいなところがあった。そりゃなぁひと海戦終わったら遊郭に行くのが楽しみ。(笑)それでな面白い話をするけど、もうな女にかつれとる(飢えるの意味の方言か)じゃろ?戦争に危ないとこばっかし行ってな。女いう見たら、みんなベッピンに見えるわけ、内地に帰ったらな。そいでな、遊郭に行ってな半年間内地帰らず 半年間と前借りを半年間、1年分前借りが出来る。・・・それでなぁ、飲め食えってもう街中を荒らすわけ。それだからな、遊郭なんて行ったらな、階段2階お女郎さんが掛け上がって来る。階段上がるまで2つくらいする(笑)。
聞き手:ようわからん。(笑)
いや、そのくれえかつれとったなぁもうな、二度と女の味を味わえんと思ったの。この際味合わなぁいけん と思うたからな。いうてこそ、はなしやけどな。あんたらでもなぁもう明日なぁ死ぬいう時にはな、好きな男やったらな、いっぺん交わりたいと思う。誰でも一緒よ。そういう心境や。明日あって今日、今日あって明日なき命じゃからな。
聞き手:そりゃ、あのぉ
何処へ行っても忘れんのは、お母さんの事。お母さんの愛情だけは何時も忘れん。お母さんどうぞ達者で居て下さい。まぁ私はもうこれで帰れんかもわからんと。それがな・・を離れる時のいっつも・・・
聞き手:それはもうあれですね。知覧に行っても靖国に行ってもあの最後に残す遺言は、母上にって書いてあるのが殆どですね。あれを見てもビックリするのは、まぁとてもじゃないけど私の息子辺りの年代ですわ。あんなことは書けません。私でも書けません。凄い
休暇で帰っても母親が、お母さん休暇で帰りましたよといったら、ビックリして半日くらい物も言わんのです。感激して。母親が。
聞き手:有難い事ですねぇ。
体験記録
- 取材日 2006年4月22日(miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
- 地図 ───
- 年表 ───
戦場体験放映保存の会 事務局
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