川津 敬介さん

生年月日 | 1932年(大正11年)2月28日生 |
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本籍地(当時) | 東京都 |
所属 | |
所属部隊 | 陸軍・登戸研究所 |
兵科 | 偽札作り |
最終階級 |
インタビュー記録
印刷科へ
聞き手:お生まれになったのはどちらですか?
1932年2月28日生まれ。東京の荒川区三河島。ですぐ同じ荒川区南千住に越しました。小学校は南千住の瑞光尋常高等小学校
聞き手:瑞光小学校から次はどこの学校に進まれました?
あの小学六年のときに牛込区、今は新宿区になりましたが、そこに越して新宿区新小川町、神楽坂のすぐそばです。そこへ越して飯田橋のJR駅が近くですよね。一駅が水道橋ですよね。水道橋の駅の前の当時、東京府立工芸学校へそこへ入って、昔の中学校ですから5年ですね。そこの製版印刷科ってところに入った。
聞き手:印刷科に入ったのはどうして選ばれたんですか?
あの父親がね印刷という仕事は世の中が、景気になっても不景気になってもね、需要があるから。印刷科へいけ。府立工芸高校には、精密機械科、金属工芸科、木材工芸科、製版印刷科、と四つ科があった。親父の意見でね、印刷科へ入って、5年修了して。
聞き手:印刷科にいらっしゃったときに戦争がそろそろ近づいてきたということですか?
印刷科を卒業したのは昭和14年ですから、もう16年太平洋戦争ですからね。もう14年にはもうシナ事変で日本が、まあ、悪い言葉では中国を侵略してた時代ですよね。 旧制中学出て昭和14年に陸軍科学研究所へ就職したんです。大学は夜間部へ行きましたから、もうとにかく当時は、昔は帝大って言いましたね。帝大なんて行けるはずでない、私立大学でも昼間はとてもお金がかかって入れない。昭和14年に陸軍科学研究所に働きながら同時に当時、夜間部で学士号を取れるの日大だけだったんですよ。今と同じ学部がありましたしね、そこの予科に入って。
陸軍登戸研究所、科学研究所が1年ぐらいで登戸に引っ越して、陸軍登戸研究所になりましたからね。あの頃はまだ荒川区の尾生というところに親と一緒にいまして、一年ぐらい通いましたね。稲田登戸へ通いましたね。今は向ヶ丘遊園地駅という、そこへ通って。 陸軍を今は悪く言う人が大勢いますけど、陸軍っていうのは海軍もそうでしょうけども。従業員に優しかったですよ。とにかく夜学生が40、50人いましたね。
聞き手:募集ってのがあったのですか?
旧制中学の? 陸軍の科学研究所から府立工芸へ印刷科の生徒2人をよこしてくれ。別に入社試験もなにも無しに、私と島津というのが行きました。採用試験とかそういうのありませんでした。 ただ自宅の方へは憲兵が周り調べて歩いて、あのうちはどういうんだってね、後で聞いたんですけど、一応パスして就職して、役人の卵ですね、まだ子どもですからね、17か18でしょ、17くらいですから。
やっぱり軍は給料は良かったですよ。日給に2円30銭というと、25日働くといくらですか、57円ぐらいなるのかな。 休みはくれませんから、日給月給ですから休んだらその分は消されますから。当時、昭和14年頃は師範学校出て小学校の先生になると40円ですよ。私立大学出てで勤めると50円。だけど、当時の帝大出るとどこに勤めても帝大は70円。そういう格差あったんですね。だけど私がそういうわけで収入には恵まれたし、だから夜間部の大学行っても親の心配は一切かけずにすみました。
聞き手:やっぱりその研究所は秘密の研究してるわけで、ご家族にその話しはするのですか?
そうですね。家族にはここに勤めてることは言ってありますよ。一緒に初めのうちは住んでましたからね。1年今いったように荒川区から、尾生という所からに新宿へ出て、そこから小田急で稲田登戸まで大変でしょ、1年ぐらいで稲田登戸に下宿を見つけてくれてね、私の上司という人が、自分が入ってた下宿屋の身元のしっかりしたのって言われてるから、お前こないかい、そこで2階で下宿してその代わり、食事は一切やんない。ただ寝泊まりだけっていう、向こうもさばさばしてる。で食事は朝は役所に行くと、独り者はみんな朝食を出してくれるんですよ。もちろんお金取られますけどね。お昼は自分で勝手に牛乳と食パンとか自分で買って。夜は役所で食べていく人もあるし、
普通の人は5時退庁だけど、夜学生は4時に退庁でね。トラックで山の上から歩いたら30分くらいかかるかな~、あれをトラックで駅、稲田登戸駅まで送ってくれるんですから。官庁っていうのは大まかなもんだと思いましたがね。官庁では4時ちょと過ぎると、飲み会ですよ、毎日、陸軍の将校、下士官なんか毎日ですよ。あこれはどうも日本もどうかなっていう気持ちがしましたけどね。
あれ、風船爆弾って聞いたことあります。あれね、やめないでやってればね。日本が勝つことはないですが、だけど今回みたいな無条件降服なんかないですよ、対等とはいかないまでも4分6ぐらいで講和できたと思います。日本人は馬鹿正直だから。アメリカ人は利口だから、あそこの房総半島の一番南からふわーっと風船あげると。ご承知のように偏西風というのが常時吹いてるでしょ。アメリカの本土に落ちるんですよ。アメリカ人は利口だからだまってた。日本人はどうも反響がないからこれはダメなんだろうって、やめちゃったんです。
戦後調べてみたら、相当な被害あったらしいですよ。牧場なんかだいぶ牛なんか死んだし、人間も被害を受けた人が割合いたらしい。風船爆弾をやってればこんなみじめな負け方しなかったと思いますけど、まあしょうがないですね。
登戸研究所
聞き手:登戸に移ってから(移る前から)、お仕事としてはどういうことをされていたんですか?
9:50私はね、こういうのを作ってたんですよ(紙幣の写真の載った資料を見せる)。こうゆう仕事をしてたんですよ。これみんな機械がやるんですよ(資料を見せている)。この中の模様(紙幣の金額の背景の模様を指す)、こういう模様、これを機械でやる仕事のその機械を操作してたんです。
聞き手:印刷だとやっぱりこういうものも、まず版を作りますよね、まず版下作りから分業化されているわけですか?そこの部分の機械の何をやるんですか?
私はこれをやる機械が、このサイモン機というんですけどけど、機械がやるんですよ。まあ、円盤があってね、これくらい高さあるかな上に乗ってるこのぐらいの歯車でね、エキセンと言うんですよ。エキセントリックという、歯車をかみ合わせて不規則な動きする、不規則でこうなんだけども、人の手でできないような中の細かい色のついてるとかあるでしょ。こういうの全部機械が彫るんですから。
聞き手:こういうものを本物からそこからどうやっておこすんですか?
これを本物としますね。畳一畳分くらいの大きな写真に拡大するんですよ。こんなのね、線はぼやけてるでしょ、それを面相筆って細い筆で書く、何人かで手分けして。そしてそれが出来たときに、要らない所を消すんですよ、写真でハイポで入れると、いらないところを消えるでしょ。あれしきに白く塗って、要らないところは消すんですよ。 筆の墨のきちんとした残ってるの、それを原寸に縮小するんですよ。普通の人が見たんじゃ。気づかないでしょう。本物そっくりにできます。
聞き手:こういう紙幣を刷る技術っていうのは、日本はその頃は進んでいたんですか?
日本はアメリカと同じぐらい、アメリカより進んでいたかもしれませんね。内閣印刷局の技師が来て指導したんですから。(その研究所に?)はい。内閣印刷局の人で足りないと凸版印刷からきました。凸版印刷の技師なんかがきてね、製版も指導したし、印刷なんかもザンメルってドイツのね、素晴らしい機械なんかも、操作なんかも全部凸版の技術者が来て、やってくれた、(そういう機械は軍が入れたわけですか?)そうです。私はこういう弄ってた機械はね当時1億円したんですよ。当時ですよ。日本で一台きりしかないですよ、内閣印刷局にそれと同じ。 ドイツの潜水艦が持ってきた、どこにあがったんだかね、東京湾にあがったんでしょうね。だから大事にされましたよ。 だけど言っときますけど。こういう既成の紙幣は今言ったようにこう大きくて、そのきちんと書き直して小さくすると私らの入り込む余地ないんですよ。もうできちゃうから。
私がやってたのは戦後っていうか、日本が侵略して、こう、仏領インドシナなんかとりましたからね、そこの札を作った。そしたら陸軍の進むのが早くて、そんなのいらなくなっちゃったんですね、結局既成の10円の日本のあれにゴム印なんかで軍票、軍票と押してそれを使ったんですよ。私の仕事はほとんど実用に役に立たなかった。 ただ一つのロシアの、当時のソ連のパスポートの字模様は、これは手じゃできませんから、こういう波形になってるのがあるでしょう。例えば、こういう曲線をうまく咬み合わせると、思ってもみないような模様ができるんですよ。それをモワレと言うんです。これは偽造できないんですよ。一度やったらもう二度とできないですよ。それをうまく真似してやるんですよ。 そういう地紋がね。これにも書いてありますが、パスポートが有効だった、他の偽札はね、これにも書いてありますけど。
中国はインフレで日本が侵略してから札がなくなっちゃったんですよね。だから登戸研究所で作った札をどんどん持ってて向こうは、いいこと幸いにこれはちょうどいいで、ちっともインフレにならないで助かったという人がいるくらい。
偽札
聞き手:戦力的には?
結局ね、ほら向こうの物資を買うのに全部偽札で買ったから、それだけ得しました。児玉誉士夫なんて人は偽札で宝石、鉱石とか買って日本に持ってきて、金持ちになったんですから。だから向こうの物をたくさん偽札で買えた。向こうの兵隊なんて偽札なんて知りませんから、金もらって喜んでそれで買って、そういう役に立ったと思いますね。
聞き手:中国にいた軍人は偽札だと知らなかった?
知ってるのはうんと上層部、阪田機関っていう人がいましてね、阪田さん。(訳者注;阪田誠盛のこと、松機関(阪田機関)を組織し、上海での情報収集や阿片の中国国内での密売、「杉工作」と命名された偽札の流通工作を行う。その利益で陸軍の武器や資材調達に貢献した。「里見機関」(里見甫)・「児玉機関」(児玉誉士夫)とともに上海三大特務機関と呼ばれた。)(後ろに載っていましたが前に移しました)その人は中国の婦人を妾に持ってね、妾が何人もいるんですよ。その人が偽札を一手に捌くんですよ。その下の人は偽札なんて知らないから。連隊長にこんな札束やったら喜んでね。連隊長も喜んで、偽札なんて知らないから、堂々と使うから、向こうの人も全然疑わない。ほんとの初めの初期、でき具合はどうかなって時には、それを汚したんですわざと石鹸だのニンニクだのごみだのを入れてかき回したりして、いわゆる洗濯機みたいなやつでね。しわを付けて、そして持ってたんですが、だんだん技術が良くなってから、そんなこともしないでね。
聞き手: たとえば紙っていうのは?
紙はね、だからね、王子製紙かな、巴川製紙かな、ちゃんとした製紙会社の人が指導にきてね、本物の紙と同じように作ったんですよ。国がやるんだから。透かしなんかもちゃんと入れて。黒透かしっていうのはなかなか難しいんだそうですけど、それもやって。当時の芸大の教授なんかも来て、いろいろ透かしの図形だのなんだの。私はそっちは知りませんけど。透かし紙っていうのは伸び縮みするからとても難しんだそうですよね。そういうのも作って
それが一部、風船爆弾の風船に利用された、あの風船爆弾の風船は紙ですよ。紙幣を作るところで、やっぱり風船爆弾の風船の紙も漉いて。日本紙の強いやつですね。当時の日本劇場かな、それからお相撲やる国技館とかが広い所でガラーンとしたところでね。女子挺進隊みたいなのを使って、(資料を指さして)これがそうですよ風船爆弾のね。
聞き手:紙は民間で製紙会社で作ったんですか?
紙は登戸の製紙工場を作ったんですよ。指導は民間の人がきましたけどよ、しまいには製紙工場ですよ。国がやるんですから、銭なんかいくらかかってもいいから、 ここにもありますけど、初めはヒットラーが偽札作ったんですよ。日本にもやれって。今先進国でやってない所ないですよ。北朝鮮はいまでもやってますよ。日本で騒がれたことがはあったけど、北朝鮮あたりでやるんじゃないかなと思いますけどね。
聞き手:印刷するのに特殊なインクですよね?
インクそう、そのインクも全部あの本物と同じように分析してね、作って。終戦のときにそのインクをトラックいっぱいもって、日本精工ってあるんですよ、会社があるでしょ、そこの社長になった人います。すごいでしょ、とにかく戦争は悲惨だけど、戦争で金儲けした人いっぱいいますよ。 これなんか(見せながら)まあ、みんな偽札ですからね。こうゆうのを作っていたんですよ。(当時の物を見せてる)これもそうですね。
聞き手:研究所の中でそれを中心になって進めていた方というのは、陸軍の~?
どっかいっちゃったかな~これが~、 (資料を見せながら)これによく出てますから、これお貸しますよ、後で返してくれたらいいですよ。
一番上にいたのが「篠田鐐(りょう)」さんという人、登戸研究所の所長ですね。「篠田鐐」閣下と言うんだか当時、少将だったんでしょうかね、終戦で中将になりましたけどね。その人はやっぱり巴川製紙の社長になりましたよ。やっぱり便宜測ったんでしょうね。紙の材料で、その人は1番上にいて、これ見るとに出ていますが(訳者注;篠田鐐・陸士26期・工兵・工学博士、員外学生・東京帝国大学工学部応用科学科派遣を経て科学研究所員兼参謀本部付、技術本部第九研究所長・少将、登戸研究所長・技術有功章を受章・中将、戦後は巴川製紙所取締役に就任し常務・専務・社長を歴任、繊維学会会長)(後ろに載っていましたが前に移しました)
登戸研究所は、一科が風船爆弾、二科が殺人光線、三科が偽札。で戦後みんなクビ、失業しちゃったでしょ。だからそれぞれ、印刷の関係は陸軍から自分たちが使った印刷機械をただ同然払い下げてもらって、名古屋で明和印刷っていう民間の会社を作ったんですよ。やっぱり昔から武士の商法はうまくいかないでね。地元の民間の人に買い取ってもらって。一部、その民間の人に雇われた人もいるし、そういうのが嫌だってみんなそれで散り散りばらばらばらなりましたけど、
私は幸い今言ったように日大夜間部、英文科にいってましたから、英語教員の免許証を貰ってありましたから、明くる年でしたかね21年、鹿沼で教員になりました
25歳ぐらいかなその時はもう終戦のどさくさで。月給をもらったら300円なんですよね。「粟野」から鹿沼までバスで行くとバス代が1か月が300円なんですよ。あれ、これなんだ? これ何で食ってんだ、当時やっぱり田舎というところはね。ほとんどの人が豪農の娘とかね。お寺の坊さんとか、とにかく学校の教員の銭はタバコ銭という人ばかり。我々みたいな、それで食っている人が1人もいないんで、
ぱっとやめて、今言った名古屋の仲間だけで作った会社いってね、そこへ行っても私はやっぱり人間の性格が勝手きままというか、上手くいかないので。名古屋市の熱田(区)熱田神宮のそばで一年ぐらい居たかな、でもやっぱりちょっとやった教員の味を忘れられない、とにかく民間の会社は日が暮れたって、一生懸命働いたって、銭ならなきゃ評価されないでしょ。 また教員になって、バカでもチョンでも同じだけ月給もらって、つまんないなんて、
また、東京の民間の印刷会社に行ったりしたんですが、とにかく私は技術はないから、こんな技術は民間にないですからね、べらぼうに高い機械なんか使ってるんだから、営業やって、仕事取って来たってダメなんですよね。銭にならならなきゃ、仕事取ってきて不渡りなんかなったら、おまえダメじゃないか。東京の民間の営業なんて厳しいですからね。銭にならなきゃ月給も雀の涙ほどで、からやっぱり学校の先生はが日が暮れれば、銭になんだから学校の先生がいい。また戻ったんです31の時に、それからずっと60まではもう教員で過ごしましたから。何が良かった悪かったか分からないけど。今考えると教員で良かったと思うんですよ。
聞き手:王子に行かれたのはいつ頃ですか?
造幣局は大阪。王子は印刷局、内閣印刷局。 府立工芸、旧制中学出てすぐ17歳、彫刻科にいてぶらぶらしておれと言われて、仕事って別にないから、彫刻を手でやる人もあるし、機械でやる人もあるし、その銅板磨きなんかでやらせてもらったりして。そのうちにおもちゃみたいな機械が来たんですよ。こういうさあ~て、機械で模様をやる、そのうちに登戸にお前が使う機械が来たから戻ってこいと。
聞き手:その間にそちらにいらしたんですね。登戸行く前にそこでもってまあ、そういうことを見ていらっしゃった。
そうすね。 印刷局の彫刻科へ行く前に、1か月ぐらい印刷、凹版印刷てのは、こういうのは凹判印刷というんですね、印刷場へも行かされました。1面に6枚ぐらい、当時は5円札か10円札か。タタタタッタ、版が動いていくんですよ、ゆれながら。そこではインクをねびりつける、ここはインクの綺麗に拭く、ここで紙を入れる、ずーっと印刷して、ここで取り上げる。タタタッタて、面白いですよ、お札が出てくる、そうゆうのを見ながら「じゃあお前これやれってみろ」どっか、やらせられたりして、17(才)か18(才)の頃ですよ。
近づく終戦
聞き手:登戸にいらっしゃったときに。戦争がだんだんと近づいてくるわけですけれど、戦禍が近づいてくる登戸研究所はどうだったですか?
全然、戦争に負ける気ないですよ。負ける気になったのは終戦の二、三カ月前でしょうね。二、三か月前にはもう上の人たちは大尉から少佐あたりの人は分かってましたよね、三ヶ月前くらい私らの上の方の人たちは、この戦争だめだ。私らもひょっとするとこれはダメかもしれないなと思いましたね。
聞き手:登戸自体は爆撃を受けたりはしてないですか?
1回か2回ありましたね、大した被害がなかったです。その機銃、爆弾じゃないですから、機関銃でバッバッバッて用水塔がちょっと打たれましたね。私もたこ壺みたいな穴にはいって、アメリカの飛行機を見てましたよ。グラマンというのを。
聞き手:終戦はどこで?
私は福井、終戦が昭和20年でしょ、その20年になったら登戸やっぱり危ないって、一科、二科、三科全部疎開しちゃったんですよ、これ見ると書いてありますが。 風船爆弾はどこ行ったのかな?風船爆弾は地方じゃ広い場所がないから留まっていたのかな? 長野県へいった人たち。第三科課の印刷、偽札関係はが福井県の武生っていう所、今越前市となっていますが、武生へいってます。そこは製紙場が多いんです、手すき和紙とかね。今の東大の昔の帝大の卒業証書なんかみんな「武生」で漉いたんですね、手漉きで。機械漉きももちろんありますけど、紙の都合で、武生が都合がいいっていうんで、で民間の製紙場を開放してね。開放してといっても取りあげちゃうんですけどね。もちろんお金は払うでしょうけど。
印刷の方法は、武生からポポポポと走る蒸気機関車だけど、人間が走ると同じぐらいのスピードのね、ぽぽぽぽぽ。途中で釜が熱くなってると、水が熱くなると止めて、田んぼの水をくんであの行き帰り?に入れるっていうのどやかな汽車が通ってたの。粟田部という、そこのやっぱり大きな製紙工場を取り上げて、製紙を全部取って。そこに印刷機械を入れて。昭和20年の4月頃行ったのかな、で機械をとりつかった。さあ、いよいよ印刷を始めようっていう時に終戦になった。私の機械も持ってて取り付けて、さあ動かしてみようかっていう時に終戦で、だから、大急ぎで印刷機械は凸版にくれちゃったんですかね。日本に1台か2台かない機械なんか凸版印刷にくれちゃったんです、凸版はずいぶん軍に協力しましたからね。
聞き手:終戦の玉音放送は、それはどこでお聞きになりました? それはどんなような状況でお聞きになったんですか?どんなような場所でもってどういう?
ああ、聞きましたよ、粟田部で。 私は疎開してる時に。やっぱり下宿、やっぱり独身ですからね、高等小学校出たばっかりの子供15、16歳の子供、20人ぐらいいましたが、その中で私が一番年長ですから、寮長なんてね、紙工場の職人を住まわせた建屋を買い取った、20人ぐらい、私もそん中に入って。そこで玉音があるから聞くようにと言われましたけど、もうわかってましたから。さっき言ったように、もう2、3日前に、8月12、13日には、私は、上の人は日本は負けた、天皇の放送があるから聞くように、もう私聞きませんでした。どうせ負けたんだから。
それからあの所帯持ってる人たちが右往左往ですよ。自分たちの故郷へ帰る人もあるし、ほとんど帰りましたね。そこに居座った人は、福井にそのままいた人は一人もいませんでしたね。 それでも粟田部町の警察署で、登戸の人は巡査に無条件で雇いますって言ってくれたんですけど、ひとりもなった人はいません。みんなそれぞれ国に帰って。
私もさっき言ったように教員免許あるから、俺も教員になるからって言ってね。戦争が終わったから、寮なんかも無くなっちゃって、しょうがないから、なんとかなるまで自分の田舎、栃木県へ帰らないで、8月か下宿してね。そこであったのが、今のうちの家内なんです。家内の家に下宿して。暮れの12月に結婚して、そのころはアメリカ全部支配してたでしょ。だから小山駅なんか長距離の切符は1日に1枚か2枚、並んで買うんですから。だから結婚式だって私の身内は一人も来ない。家内の兄弟とか。仲人なんていないでしょ、近所のおばさんを連れてきてね、そのおばさんに、こうやってもらって(三々九度のお酒をつぐ仕草)。それで、暮れに12月の31日かな、やっと、栃木県の親父やお袋のいる所帰って、婚姻届け出して、そんな始末でしたね。
だから戦後も何回も昭和天皇の、終戦の「詔(ミコトノリ)」聞きましたよ。
登戸研究所の処遇
聞き手:登戸研究所にその入った時、待遇が良かったという話を聞いたんですけど、 いる時はずっと待遇よかったんですか?
良かったですよ。だから私はね、戦争は絶対ダメ。だけど軍隊はいい。軍隊で戦場に行った人は酷い目にあったでしょ?内地はもう全然そういうことないですよ。大事にしてくれましたよ。自分たちも自分たちを大事に、兵隊だってほら、下のものを殴ったりなんて全然ありませんよ。今、言ったように夜学生は大事にトラックで駅まで送ってくれたり、一時間早く帰してくれたり、月給を減らす日給を減らすことはないです。大まかなところはありましたよ。
民間では食べ物もないし、正直、陸軍では何でも配給してくれましたから、で私は、酒飲みになっちゃったんですよ。ビールなんか配給してくれるんですから。たばこなんて吸わないのに配給してくれる。タバコ好きな人なんか私の所へ来て、おまえ酒好きだから俺のたばこと取り換えよう。
とにかく民間であのレストラン。今ではレストラン、昔は食堂で、外食券というのがないと食べられなかったんですよ。レストラン行ったって、外食券、配給なんですよね。米なんかないんですよ。さつまいもこう角切りしたようなのとか。お汁粉はサツマイモのお汁粉とか。食糧事情はひどいですよ。銃後の人は大変ですよ。戦場はもっと大変だけどね。ご婦人や子供は本当にひどかった。
上野の浮浪児たって親に死なれちゃった孤児はみんな。(浮浪児昼寝す)「なんでもいいやい 知らねえやい」ていうあの有名な中村草田男の俳句がありますがね。
聞き手:そういう戦争でも、状況としてはとてもいい状態で?
私はもう幸せだったんですよ。兵隊検査がありましたね、二十歳になると。甲種合格になると、否が応でも、陸軍に勤めていようと大学教授だろうと、甲種合格だともう即入隊。私は幸か不幸か筋肉薄弱という、ちょっと目方が足りなかったんだよね。お前は第2乙っていうんでね。甲種合格じゃないから入営じゃないんですよ、召集なんですよ。しかし陸軍のどっかの部署に勤めてる人は召集はないんです。私、本当に中学の同級生の中で一番運がいい、前線行かないで、殴られたりひどい目にあったことなんかないんです。
聞き手:その間はもう戦争中ずっと登戸にいらっしゃった。
そうですね。
聞き手:外に出ることはなく。
それはね、あの終戦の前の年、昭和19年かな?今言った、これ。こういう木箱に詰めて20か30持って行くんです。上海に。上海にいるんですから、そのこの札をさばく阪田さんという人、
その時に中野学校ってスパイ学校を卒業した下士官が宰領していくのですが、我々みたいな軍属の身分で年功順、古い順にお供に連れていってもらった、お供と言ったって、上海に着くでしょう、とクリー(苦力)がそういうのを運ぶでしょ、それを見てたり、下士官に言われてあんたこっちでこうやってくれたり、ああやってくれ、ハイと。19年ごろかな19年。別に大して用はないんですよ。下士官のいう通り。途中でクーリ(苦力)が落とした、何かにぶつかってポチャんって落として、箱が壊れたんですね。札が散らばったんです。下士官が「拾え拾え!」て、みんなで拾ってね、回収しましたけどね。上海はあの当時は租界というのがあって、アメリカとイギリスの租界、日本の租界、そこはが中国人も入れないですよね。「中国人と犬入るべからず」、向こうのホテルに、もちろん日本の軍が抑えているホテルに2泊したかな。その時に日大の友達がやっぱり上海にいた人が海軍の水路部関係の人で、その人と会って話したりして。下士官は品物を渡せばすぐ帰っちゃう。あんたはすぐ帰るなら一緒に帰る。周ってずっとあの頃、アジア号というのがあった、上海から南京を通って、あそこは何とかという、今の北朝鮮、あそこを入って。はい。一直線で釜山までくる、もう降りないで、汽車の中で二泊ぐらいするんですから。「それで私帰りますから」、まだ若かったから帰りました。天津にも、やっぱり阪田さんのイシメがいて(阪田機関の出張所?)そこで二晩ぐらいお世話になったかな、物見遊山じゃないから、あっちこっち見たら、危ないですから。そして、でも中国から朝鮮入るまでに2、3回憲兵に呼び停められましたね。私が生意気な方だったからね。まだ若いから20歳21歳ぐらいだから、ちょっと来い。身分証明書見せろですよ。登戸のを見せると、あっ!行っていい。登戸はすごい力がありましたね、切符なんかないですよ。それを見せるとか、「よろしい。行け」証明書には登戸の研究所の工員であるということが書いてあるわけです。 「陸軍登戸研究所・工員」何々、これを証明する陸軍少将、篠田鐐って。
戦争を振り返って
私は戦争中ほんと前線なんか行った人と違って、もう辛かったこととか、嫌だったこと一つもないんですよ。 だから本当に申し訳ないと思うけど。その戦争のおかげでひどいめにあった人ね。これはもう可哀そうで、あれですけど、 ただ、日本は今ね、負けたから意気地がなくなっちゃったでしょ。今の憲法だってアメリカに押し付けられた憲法でしょう。ドイツだのヨーロッパなんかは、憲法は具合が悪けりゃ、て何度でも改正してるんですよね。ドイツなんかもう何十編も改憲して。日本なんて60年前の憲法そのままありがたがってもらって、あんなのだめだ、憲法改正して。自衛隊はあれはだめだ。
あのご存じでしょう。4、5年か十年ぐらい前にアンケートを取ったら、自衛隊は戦争になったら逃げるって人が90%。そうですよ。国民から自衛隊は税金の税金泥棒なんて言われてるんだもん。そういう言われてる自衛隊が言ってる、日本国民のために命を投げ出す人いませんよ。やっぱり軍隊にして。日本国軍、陸軍、海軍を軍備を増強して、戦争はだめですよ。だけど、スイスの永世中立国みたいにならなきゃダメだめですよ。スイスの軍備は凄いですからね、そうすれば、北朝鮮はもちろん中国だって日本を侮りませんよ。今は日本は侮られてるじゃないですか。今朝もテレビニュースだって、中国が日本の領海すれすれに来て、日本の様子を探っているでしょ、北朝鮮はテポドンとか撃つぞ、撃つぞって言ってるでしょ。あんなの見くびられてるんですよ。
日本は本式で軍備をやったら 失礼だけども何年生まれ?
聞き手:僕は25年生まれ。
昭和17、8年これ日本は3等国だったんですよ。アメリカ、イギリス、日本。そのちょっと前は5等国アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本。軍艦なんかアメリカと匹敵するものあったじゃないです。日本はやればできるんですよ。勤勉な国民なんですから。 原子爆弾なんかで半年もたたないうちにできるんですよ。終戦ちょっと前に仁科よしおさんって人が満州で作ったんですよ。それはロシアに持っていかれちゃた。
(訳者注;仁科博士が原爆開発に成功した事実、満州で製作して侵入したソ連に奪取された事実は存在しない)
聞き手:戦後、教員になられたわけなんですけど、その教員の勉強っていうのは、戦時中にこうされて、戦後教員になられたわけですよ。そのギャップというかっていうのはいかがですか?
それはありましたよ。やっぱり本当に中学生教える勉強は教員になってから勉強したんですよ、こんなこっちゃいけない俺、こんなことを知らなかったんだな。ご承知のように、小中高みんな教員のマニュアルであるでしょう、あれでも、うんと勉強になりますよ。それで私、教員になったおかげで随分力が付きましたよ。とにかくご承知のように、夜間部の大学で英語の勉強してるやつは国賊と言われたんですから、英語の勉強してるのは本当に言われたんですよ国賊と。アメリカは占領したら日本語が必要だからって。サイデンステッカー(訳者注:川端康成、谷崎、三島などの翻訳で知られる)だって選りすぐって日本語教育に当たって、先生は全部日本人。もちろん先祖ですよ、二世三世が、日本語だけで指導して。アメリカ人なんかで日本文学士作ってるじゃないですか。ああいう素晴らしい人が出来るんです。教育が良ければ。日本とアメリカと考え方が全然違う。
聞き手:太平洋戦争ではあの真珠湾攻撃が行われた時っていうのはどういう感じだったんです、登戸の方は?
昭和16でしたね、まだ私は、夜間部の学生でしたね。夜、三崎町の日大の新任教授ね、 「大和資雄」先生てね素晴らしい先生で、その人がちゃんといたんですね。生徒はわたし一人。真珠湾攻撃のとき、大和先生が「とうとう始まったね、日本はどうなるかね?」私はその時、今どんどん風船爆弾でアメリカを攻撃しています。
(訳者注;大和資雄のことか? 英文学者、翻訳家、『嵐が丘』の翻訳が著名。東京帝国大学英文科卒業、日本大学・武蔵野女子大学名誉教授)
よっぽど言ってやろうと思ったけど、やっぱりここまで我慢したんだから。「でも日本は秘密兵器がありますから大丈夫ですよ。」私が陸軍の工場に勤めてるって知ってましたから。「そうかね」って。だけど、 昭和天皇さんだって喜んだっていうんですよ。真珠湾攻撃して昭和天皇さん「案外うまくいったね。」って言ったそうですよ、戦後でた木戸日記(木戸幸一日記)なんかで。イギリスの戦艦、なんか撃沈したでしょ
(訳者注;英国東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスをマレー沖海戦で撃沈した)
「うまくいったね。」ってにっこりされたと、だから、私らは真珠湾攻撃は万歳ですよ。
しかし、やっぱりアメリカは偉いなって、いまだに真珠湾ハワイ行って見ました?沈んだ戦艦が置いてあるんですよね。観光地に、日本が宣戦布告もなしで攻撃したということを大人から子どもにちゃーんと教えてる。アメリカ人は忘れない。本人は機敏だからいつどんなことがあってやられるか分からないと思っていると思いますよ。
聞き手:軍備を登戸研究所とかまあ秘密の研究を今お話ししてたんですけど。まあ、軍隊で見せればみんな知っているようなところだったようですけど、なんかその秘密研究はなんか怖いっていうイメージがあるんですけど一般にはどうだった?
一般の人は戦争中は登戸がそういうことをやっていることは全然知りませんよ。そういう点は中野学校との関係が深いですから。あれはスパイ学校ですからね。口は固いですね。いまだにこれらの私の教員仲間で、私がそういうことやっているなんて知ってる人は一人もいません。私が言わない限り。でも、朝日新聞に二度ちらちらと出たでしょ。熱心な人は知ってますけど、登戸研究所が何をやってるか知らないですよ。
陸軍の工場にいたんだな~くらい。なにやってたかは知らないですし、登戸研究所が何をやってたか知ってる人はほとんどいませんよ。軍は取り締まりというか。ご存知ないかもしれませんが警察だけではないですから、憲兵がうろうろしていますから、下手なことをちょっとでも口外したらすぐ引っ張られます。殺されはしないけど。一般の人と付き合えないような立場になるんです
聞き手:そんな事件とかありましたか?
ありませんね。小林多喜二なんか犠牲者になったけど、私の親だって私が何をやってたか全然知りませんよ。知らないままなくなってしまいましたが。
聞き手:ではこういうことが世に出るようになったのは結構最近?
そうですね。これ(書籍)なんかも去年、この4、5年のうちですよ。
聞き手:やっぱり秘密ですか公にできないに出来ない?
そうですね。まあ、最近ね、こういう本が出るし、風船爆弾のことを書いた人もいるし、知ってる人は知っていますよ。だけど誰がことに当たったか、そういうことは誰も、どこ吹く風ですね。 この人なんかね、登戸の研究で、それまで法政の高校の先生だったのが、明治大学の客員教授になれたんですよ。陸軍登戸研究所に地域の高校生が非常に関心を深めてね、川崎市の高校生がこの渡辺先生(渡辺賢二氏)が指導したりして。わたしのところも一度来て一度話を聞かせてほしいと。私の名前も出てますよ。
一番最初に7、8人で発足したんですよ。それ今いった新宿の百人町に。そん中に、私も最初から入ってます。その時、私は仕事がないからよそよして、あっち行ったりこっち行ったりして見学して、写真部へ行ってみたり。写真部はこういうボタンがカメラになっているスパイ用の器具だとか、殺人光線がなんか50Mでウサギを殺せるようになったんだって、殺人光線もようやくできた頃だというの話とか。 これは(資料)お貸ししますから、読んでください。あとで送ってくれたらいいですから。
聞き手:当時の印刷技術の最高峰の技術が集まったんですね。
私じゃないですけど、私の仲間がね。内閣印刷局に一台きりしかないのを私が預かって、ほとんど何の役にも立ちませんでした。実際に印刷に携わった人たちはの終戦になって個人会社で働いたり。仕事していると腕が磨かれますから。今はそんなこと言われないけど、昔はなんか多色刷りの色合わせとか、職人の腕一本でやったんですよ。今はスキャナーだかなんだか機械的にやりますけど、そういう腕を上げて、いっぱしの職人になった人もいますよ。
私は本当に申し訳ないけど、戦争で酷い目に遭ったという経験がないんですよ。怒られたり注意されたとか一切ない。陸軍いたおかげで、楽々と夜間部に通えて、良かったぐらいですね。ほかの人の話を聞いて、戦争は絶対いかんという気持ちはあります。
本当に終戦の時、今言った福井県の武生で印刷機械だって、ドイツから輸入したザンメルという一度紙をいれるでしょ、そうすると三色、四色がいっぺんにできる。こう(紙を)入れて、あっち行ったりこっち行ったり、四色刷り、五色刷り、多色刷りの日本になかった機械まで。その処分が困った。地域の人たちの眼をごまかすために、陸軍の音響装置の工場だ、(ということにして)使いもしないラッパとか入れて、一般の人に見えるようにして、終戦の時にそれを日本海に持って行って捨てるのに一苦労しましたよ。海に捨てました。
使える機械は今いったように凸版印刷とか、処分たのみますって言って。向こうは、いい機械をもらえるんだから、ありがとうと貰ってくれましたけどね。終戦のどさくさは。そんなこと言っちゃ浅ましいようだけど、私は終戦で何一つなかったですけどね。登戸の本部にいた人たちはトラックいっぱい物資を。 巴川製紙の社長になったんですから
聞き手:当時も登戸研究所にいたのは何人ぐらいですか?
全部で登戸研究所は240名、三科関係の人は150人ぐらいだったかな
聞き手:ご家族は戦争の被害は?
父は栃木県の生まれで若い衆になって、父親は田舎の次男坊ですから、東京行ってひと旗あげる気で、丁度スポーツ屋を始めてね。自分とこでミットだのグローブだの作って、「ミズノ」にあげて、「ミズノ」のラベル持ってきて貼って、そろそろ楽になるかっていう時に支那事変になって。アメリカのスポーツなんかやるのは国賊だってんで、スポーツ屋がダメになっちゃって。母親は終戦の前は、そろそろ疎開、ここらへんもまごまごしてると、爆撃にあうからってんで、終戦の二年ぐらい前から疎開して、田舎で何やってるかな、親父は農協あたりに勤めたのかな? まあとにかく私(ら)も十代の終わりごろで、終戦の時23(歳)ですからね、そんな変な、軍に対して変な気持ちは全然ないですね。
戦争はだめだ。とにかくさっきちょっと言ったように、私は四時で夜間部帰してもらえるけど、それから将校連中は下士官たちを入れて宴会ですからね、毎日ですよ。これはどうもやっぱり軍もだめなのかなっていう気がしました。 酒だってチョコレートだって内地の軍の関係にはなんぼでもあるんですから、で上海行ったら、軍関係には品物は何でもあるんですからね。
中国人を羨ましがらせるわけですね。内地には何もない、本当に何もなくなっちゃった。あるのは軍関係だけ。いいものは全部外地に持って行って、軍隊にひもじい思いさせないようやったんでしょ
聞き手:その時に列車にはどういう人が乗ってたんですか?
普通の人ですよ。中国人、韓国人だの。普通に使うんですから。もちろん、軍隊、軍隊はおっしゃるところにはあまり現れない、ひっそりして。憲兵は大きな顔して中を歩いてますよ。事故のないように、
聞き手:一般の人が旅行してる?
そうですね。まあ、軍関係なんかのが多かったでしょうけど、一般の人だって軍需工場もありましたしね。でも終戦直後のような満員列車っていうのはなかった、みんな立っている人はいないぐらい。中国の女性なんか、おめかしして綺麗にして乗ってる、チン(犬の)なんて抱いて乗ってるしね。普通と変わりません。終戦後がひどかった。全部アメリカ軍に取られたでしょ、アメリカ軍は下まではやらないけど、上で指令するのはアメリカだから。ほとんどの列車も日本人は満員の席、窓から出入り、アメリカ人はらくらくで立ってる、座っているところが空いてるぐらいの列車ですよ。アメリカ人が乗ってるのは。あの終戦後の癪にさわるってないですよ。
聞き手:戦後は武生にアメリカ軍は来たんですか?
アメリカ軍、来たんですよ。宮城のそばの三井総合というのかな、あそこはGHQアメリカ一番上のマーカーサーは、あそこにいたんですから。
聞き手:武生には来たんですか?
アメリカは武生には来なかったな。名古屋にはきましたけど、大都会だけ来た。先ほど話した、陸軍の物資をただ同然で払い下げしたでしょ、民間の会社で、私の名古屋にいたでしょ、 名古屋の総司令部があってそこで仕事をもらって、電話帳の仕事なんです。向こうの電話帳は日本の電話帳と全然違う。そのアメリカ人だけの電話帳でね、毎月刷り直しをする、表紙をきれいな表紙、中は電話帳ですから人と。それを持ってて、構成を見せたり、これでいいとこ悪いとかってのは私なんです。「英語ができるのはお前だけだ」やっぱり、何とか中尉が電話帳のことできたら「あっ行け」って。まあ、優遇されたと言えば優遇されましたね。だから、さっきから言ってるように実際の仕事できないで、営業は本当によほど才能がないと営業は難しいですよ。仕事なん飛び込みで行ってもとれるもんじゃないね、印刷の仕事なんか。名刺ぐらいは取れますけどね。
本当に釈迦に説法だけど、関西の人はね、印刷関係は長年つきあっている人でも1円でも安ければそっちにいっちゃう。東京はもう、1円や10円安くてもうまーく付き合ってると離れない、そういう意味ではやっぱり印刷屋としては関西より東京の方がやりやすいかなって気がしますけどね。だけど、そういう人に、
一人だけ紙芝居屋さんと仲良くなってね、紙芝居の印刷引き受けて、私が係になって。それはよかったですね。今でも紙芝居屋さんと付き合ってる、印刷会社もある。わたしもそこでもちょっと世話になったことあるんですよ。いまだにやってますよ。そこの仕事が主な仕事でね、それで食ってるんです、5人も8人も従業員が。商売は、面白いところもあるし、厳しいところもあるしね。だけど私はやっぱりそういう才能がなかったから。学校の先生でこう威張っているのが良かったですね。言われましたよ。東京の印刷会社であんたみたいに頭の高い人は学校の先生がいいんだって。
偽札
(川津さん場を離れる。偽札を映す)
聞き手:お札は本物と変わらないですよね。
それでね。途中に香港をね、昭和17、18年占領したんですよ。香港に中国の印刷局があってね、ほとんどはアメリカで作ったんだけど、一部香港でも作ったんですね。そこの印刷、中国の印刷所を占領すると原版があったんですね。その原版を持ち帰ってそれで印刷したんだから、本物なんですよ。本物の原版で刷ったんだから、ただ紙は本物じゃないけど、本物と同じように紙作りましたから。だから誰もわかんないですよ。
聞き手:偽札だけど本物として流通したんですね。
そうなんですよ、だから、なんてゆうかな、さっきもちょっと言ったけど、中国は札が足りなくなっちゃって、日本から偽札入ってきたんで、かえって喜んだという話だ。馬鹿な話でしょ、
聞き手:本当の目的はお札を溢れさせて、貨幣を溢れさせてインフレおこさせる?
インフレ起こさせるのがインフレおこらなかった。 ただ、そのね物資を偽札で買われちゃってるってことやっぱり、中国にとってえらいマイナスだと思うんですけどね。だからね、私らはね、よく言うじゃないですか。個人が人殺ししたらもう人殺しだけど、国が戦争で何千人何万人殺してもとがめられない、 それと同じで個人が細々と偽札使ったら手が回っちゃうけど、堂々と国がやってんだからこれは戦争の一手段だから、鉄砲撃ったり、大砲撃ったりと同じだから、私たち罪悪感、全然ありませんね。国のためにやったことだから。ただ戦争はね、これはだめですよね。
聞き手:作る時、この番号っていうのは、やっぱり本物と偽者と同じ番号ができちゃうんですか?
いやそんなことは。だけど皆さん日本のお札で番号を関心ある人いないでしょう。このナンバリングだけはもう日本独特で、だけど同じ番号じゃあありませんよ、ちゃんと連番で メイグラビアを作った男はこのナンバリングの係だったんですけど、戦後これを利用してね、こうゆうのを作るんです、印刷機械で、印刷機械を改良して、これでいままでこうゆうのはものすごく高かったのが、この男が、ナンバリングで打つ機械はでかい機械なんですよ。それでこういうのを作って、トヨタの車の中の内装品なんかも引き受けて、インドネシアで現地の人3000人も使って工場を作って。日本では行田に作って、これ大阪の男だから、大阪にも作って、関西で名士になっちゃいましたよ。登戸研究所出た、(今日年?)もうなくなりましたけど、「オオシマ」という男ですけどこれに出てますよ。何回も私の所へ手紙なんかをくれて、こんなのもその男が送ってくれたんで。
聞き手:因みに偽札は中国だけなんですか?
もちろん日本はアメリカの偽札も作りましたよ。使用するにいたらないうちに負けちゃいましたけど、アメリカの20ドル札ほとんど完成間際まで行ったんですけど、終戦になっちゃったんで、でそんなもうアメリカに対しても中国に対しても酷いことして、責任問われなかった。ひとりも戦争犯罪人にならない。篠田閣下以下、なんでだと思います?
聞き手:交換したんですか?
実際に仕事ができる職人はアメリカに連れて行かれた。アメリカでアメリカが必要とする偽札を作った。今でもいますよ。今までほとんどもう20年経ったから年金暮らししてますよね。私らの親しかった連中も、アメリカにいます。アメリカの年金貰って。アメリカ、もちろん偽札だけじゃない、風船爆弾も殺人光線も、全部オープンにしてアメリカにどうぞったら、免責されちゃった。アメリカはね、やっぱり公平というか私の直属の山本、終戦で大佐になったのかな? 山本あの頃「山本課長」少佐だったけど。(訳者注;偽札・偽査証などの製造を担当した、第三科科長の山本憲藏主計大佐)そういうアメリカの仕事をやりに行く連中を引き連れていって。
課長実際の仕事は何もできませんから、むこうで宝石の勉強して。宝石鑑定士になってアメリカ20年暮らして、日本に帰ってきて、年金もらってたんですよ。アメリカはちゃんともうアメリカの国で20年仕事したものは日本に帰ってきてもちゃんと年金を送って来て。十年ぐらい前亡くなりましたけどね。お年ですから。
聞き手:アメリカが、偽札の技術者を連れていったのは何ですか?普通に偽札の質を上げたいですか?何がしたい?
アメリカはやっぱり偽札作らせた。きっとソ連の偽札でしょうね。アメリカが敵対国だと思う国の偽札おそらく作ったと思います。私は実際に知りませんけど、またそういうアメリカに行った連中は、帰ってきても、本当に口が堅い、一言も言わない。これは見事なものですよ。どんなに親しくして酒飲んでも言わない、ほぼ同じことやったんだろうって、あれはわかりますけど、アメリカに連れて行く前に横須賀で一年くらいやったんですから、同じようなことをやったんですから。
聞き手:関わっていらっしゃったんですかね?アメリカのドル紙幣作るのに関わっていらっしゃったんですか?
私は関係ない。私はこれ(中国紙幣)でもない。(仏印ですね?)戦争終わった後の、日本が占領した国の札を作ろう。だから私はこういう周りの模様だの地模様などを、お札でよく風景なんかが入ってるでしょ。あれアンコールワットなんかね、当時の芸大の先生が来て「アンコールワット」を書描いて、今インドネシア、前、仏領インドシナ、そのお札なんかも作りました。しかし、使用に至らない、今また取り返されましたけど。
聞き手:量産体制には時間かかるんですね?(半年とか1年以上かかるんですか)
あたしよく分かんないけども最初にね、8人か9人で新宿区の百人町でやった頃はね、本当に幼稚な、こういうのをただ写真に撮って、塩酸をかけて凸凹を作って、あれは使用にたえないと言ってましたけどね。実際に中野学校の下士官なんかちゃんと本物と見分けがつかないようなやつを上海に運ぶようになったのは、最初に初めてからやっぱり4、5年かかってるでしょうね。そうなれば、もうあとはもうやり方が分かっちゃったから。アメリカ20ドル紙幣なんか、ほとんどできたんですよね。だけど、実際に大量生産になる前にもう終戦になっちゃいましたからね。
体験記録
- 取材日 2009年10月31日 (miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
- 地図 ───
- 年表 ───
戦場体験放映保存の会 事務局
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