川島 裕さん

生年月日 | 1921(大正10)年生 |
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本籍地(当時) | 埼玉県 |
所属 | 海軍 |
所属部隊 | 空母「瑞鶴」航海士、108号輸送艦先任将校 |
兵科 | 航海士 |
最終階級 |
プロフィール
大正10年(1921)愛媛県上浮穴郡生まれ、2012年11月5日逝去
宣教師であった父に連れられトラック島で育つ、青山学院中学部卒業、東京高等商船学校航海科卒業、大阪商船入社、充員召集、空母「瑞鶴」航海士、108号輸送艦先任将校、戦後は「ぶらじる丸」船長、殉職船員顕彰会会長、戦没船を記録する会会長、日本船長協会名誉会長、国際船長協会連盟名誉会長。(一部に著書『海流 ―最後の移民船「ぶらじる丸」の航跡―』ウェブストア著者紹介などのネット情報を参照)
インタビュー記録
開戦当時の記憶と海軍志願
「例えば、真珠湾攻撃のニュースで、よく海軍志願したという人が多いんですけど、取材した中で。どんな感じなのか、真珠湾攻撃のニュースを聞いた時って……」、あのねえ、宣戦布告をしたでしょ、それで日本は「西太平洋において米英蘭支と戦闘状態に入れり」といった時に、これはえらいことになった、というのがその時の偽らざる国民の感情だった。たいへんな事になったな、と。でアメリカは日本の、ペリーが来て日本を開いてくれた国なんです、アメリカは日本の恩人だったわけですね。日露戦争だってルーズベルトが斡旋してくれなければ講和ができなかったんですよね。それほどアメリカという国は日本の恩になっているわけ。そのアメリカと戦争したら、とんでもないことになる、そしたら、その次のニュースがね、真珠湾攻撃で赫々たる戦果を挙げたという、戦艦何隻轟沈、巡洋艦何隻、こりゃやったー、という。そうしてその2日後かな、12月の10日でしたかね、クアンタン沖で今度はプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを轟沈させたと。これも日本海軍航空隊が大戦果を挙げたって、これが大々的なニュースになっちゃって。その時のマスコミもね、損害というのはあまり書かない、もう戦果ばっかりを書くから勝手にね、大げさに報道するもんだから、みんな「やったー」ちゅうんでね。いずれにしても、若い方は戦争へ行かざるを得ない立場にありましたから、どうせ行くんならカッコいい海軍へ行こう、という気持ちにはなったと思います。陸軍は大変だったと思うけどね、陸軍の戦闘というのは泥の中での戦闘、土の中での戦争というか、しかもさっきも言ったように、兵糧というのは食べるものを担いで戦争するわけだから、自分で。本当に腹がすいたら戦争できないわけでしょ。ですから、中国の広いところで戦争するときには、いろんなものを漁って食べる、ようするに食料補給が追い付かなければ、いろんなものを漁って食べるでしょ、そのうち病気になる、それが病気になって、なんかもう赤痢みたいのになってね、垂れ流しながら行軍しながら、行軍して付いて行けなくなると「お前死ね」つって手榴弾渡されて、「お前死にない」(?)つってね死んで、担いで行ってくれないわけね、もうね。そんなひどい作戦に従事した人なんかも陸軍には随分あると思うよね、もうひどい。その点は、海軍ていうのは「死なばもろとも」で……共同体、本当に運命共同体で。その代わり、船は持てるだけの食料を積んでますから。だから我々は士官室で、フォークとナイフでもって、明日死ぬっていうのに、明日死ぬかもしらんという時にカレーライス食べてるんですよね。それだけ違うんですよ。だから僕は、みんな海に憧れる、海には一つの美しさもあるし、環境の美しさ、それから船自身も姿が美しいし、やはり憧れる要素を持っていますよね。そういうこともあるんじゃないですか。それに赫赫燦然だから(不明)。(取材者と雑談、最新式冷蔵庫を積んでいた話など)。海軍はね、ラムネを作っていたんですよ。艦内でラムネ。これがおいしいのよね。
1943(昭和18)年9月 高等商船学校時代
まぁ先ほどもお話ししたように、私は大正10年生まれでということは、ちょうど昭和16年、満二十歳です。だから戦争のために……、満二十歳というのは壮丁といって徴兵検査を受けて兵隊になる年なんです。私はその前から高等商船学校に入ってました。高等商船学校というのは、もうすでに海軍の軍籍に入るんですね、それが入学した時からすでに身分は「海軍生徒」(訳者注、厳密には「海軍予備生徒」)という身分で、海軍兵学校も「海軍生徒」ですね。だけどその時代は「予備」が付いて「予備生徒」と言ってました(訳者注、「だけどその時代は」とあるが、高等商船学校は明治の頃より海軍予備生徒)。それで卒業すると海軍予備少尉になるんだけど、もう私の時にはもう「予備」というのがね、予備っていうのが少し軽蔑的な言葉ではないか、ということから「予備」がなくなって海軍少尉。私は昭和18年に卒業して、昭和18年9月に、当時の総理大臣・東条英機から「任 海軍少尉」という、海軍少尉に任ず、という証書(訳者注、厳密には辞令)を貰いまたよ、送ってきましたね。その前に私は大阪商船に入社してるんだけど、入社と同時にね、僕は社長のところに「よろしくお願いします」て行ったら、「社員として恥ずかしくない行動を取って下さい、しっかりやって下さい」と励まされて、しばらくしたら、海軍に来い、という召集令状が、海軍大臣からね(訳者注、士官への召集令状は海軍大臣名で発行する、それ以外の召集令状は鎮守府の海軍人事部が発行した)。そして横須賀に行って、しばらくそこで一月ほど、航海学校と。いわゆる海軍における航海ですね。商船は、普通は単独で動く場合の方が多いわけですよね、海軍は編隊航行の方が多い、編隊航行の術を少し実習して。それから赴いたところがトラック島です。
トラック島という場所
トラック島というところは、欧州大戦(訳者注、第一次世界大戦のこと)の時ね、日本が陸戦隊を派遣して、無血占領したところですね。日本からほとんど真南の方に、約3500㎞ぐらいのところ。欧州大戦の時に占領して、その後は国際連盟、その当時は国際連合って言わないで国際連盟、League of Nationsと言いました、国際連盟からの委任統治領だったんですね、日本に対する。その当時はですね、第一次欧州大戦での海軍大臣は加藤友三郎という方で、この方は日本海海戦の時の連合艦隊の参謀長をしておられた非常に立派な方ですね、非常に海軍の中では最も開明的と言われた、後に総理大臣までやってますから、そしてこの方は病気になられたもんだから早く亡くなっちゃってね……。この方を僕が偉いと思ったのは、当時の島民の教化をね、キリスト教を以てするという大英断を下したんですね。普通はまず行けば鳥居を建てて何とか神社っての作るんですよ、日本はね。もちろんトラック神社というのはありました、トラック島というところでした。そこに派遣されたのは私の父親、宣教師として行ったんですね、昭和4年に行きました。その時に私は7歳の少年だったけど、父親に連れられて行った。
その思い出のあるトラック島がね、戦争直前から軍事基地、海軍の重要な前線基地になってた。そこへ私は赴任をしました。というのは、先ほどからお話ししてた瑞鶴、というか連合艦隊がほとんど全部がそこに碇泊していましたね、武蔵も大和もいました長門もいました、瑞鶴・翔鶴、そこの瑞鶴に赴任をしたんですよね。
まぁその時は、僕は今思い出に残るのは、真珠湾攻撃の司令長官をやった南雲忠一中将、それから最後の……、僕は一番偉いと思って尊敬しているのは小沢治三郎中将、これは最後の連合艦隊司令長官。で、トラック島に赴任して、しばらく色々な訓練をしている時にね、ある日、南雲長官と小沢長官の、二人の提督がね、ちょうど戦闘の合間があったんですね、しばらくの間戦闘が続かないで、休戦状態に偶然にね、それで参謀連中とお二人の提督が鴨撃ちに出かけたいと。月曜島というところがありまして、トラック島には秋島・夏島・冬島・春島という四季の名前が付いた島と、それから月曜島・水曜島・火曜島とかね……七曜がね曜日が付いた島があったり、そのほか例えば楓島とかね、とても奇麗な名前が付けてあったですね。その中の月曜島というところで鴨撃ち狙い(?)だ。僕は猟銃なんてこんなところに(?)ないと思っていたら結構あるんですよね、参謀連中がこうやって担いでね。それでその間を、瑞鶴で内火艇を出してくれって言うんですよ、で内火艇を出した。その艇長に僕がなった、艇指揮に。そして二人の長官を、(「緊張したでしょ」)緊張しましたね。海軍兵学校からも一人(訳者注、艇指揮を二人出したが、一人が高等商船出身の川島さんで、もう一人が兵学校出身者だった、との意)。僕は、航海の方は僕の方がずっとね……。
1944(昭和19)年 あ号作戦マリアナ沖海戦
まぁ瑞鶴、私が行った時分からいわゆる「あ号作戦」というものをね。「あ号」アイウエオの「あ」です、「あ号作戦」というものを計画したんですね、昭和18年の、あれはいつ頃になるのだろう、もう終り頃ですよ(「11月くらいと記憶しておりますが」)、あ号作戦の計画を始めた。これはね、その当時の水上艦艇のほとんど全部をですね、でも赤城・加賀・蒼龍・飛龍はもう無いわけです、あと瑞鶴・翔鶴それから大鳳と、そのあとは全部商船改造の空母……隼鷹・飛鷹。その時はね航空母艦が9隻です、それに入れて全部で9隻。それから武蔵・大和・長門、それから霧島……榛名、ようするに戦艦……これはもう前衛部隊として航空部隊の、航空艦隊の方の護衛に過ぎない、ということになるんです。あとは愛宕・高雄・摩耶・鳥海あのクラスが10隻ほど……。だいたい1万屯クラスの巡洋艦が10隻くらい。まぁあと軽巡クラスもおりまして矢矧がみたいな、もうもの凄い大艦隊でしたね。
これが初めて……、ようするにもう私どもは乾坤一擲の大作戦、そしてマリアナ沖のあの辺にですね、敵の大艦隊をおびき寄せて、そこで叩いて、そしてその時の航空部隊と、そのあと残った艦艇をですね、武蔵・大和クラスで追いかけて殲滅しようという、計画だけは凄いんだけどね。まぁそういう目的だったわけですよね。ですから基地航空部隊、第一航空艦隊っていうのは、これとは両方が総力を挙げて掛かるというね。ところがなかなか上手いこといかんのですよ。もうアメリカはちゃんとそんなこと知ってたんですね。その前にも古賀峯一長官が遭難(訳者注、海軍乙事件)した時にZ作戦の機密書類全部いかれた。その機密書類を入手して、取られちゃって、それ以後の海軍の作戦っていうものは、どんどん相手側に筒抜けになっちゃったんですよ。ですから、その裏ばっかりかかれましてね。アメリカ側は乗ってこないわけですよ。こっちにおびき寄せようと思っているのにちっとも……。
そして結局、サイパンに上陸しようとしてやって来て、それでしょうがなくて「あ号作戦」発動ということになったんですけど。ただ僕がその時に感じたのはね、「あ号作戦」これからやろうというのにね、航空母艦の上で訓練しとるんですよ、飛行機の操縦手の下手なことね、まず発着艦といってこれは難しい技術ですけどね、航空母艦から発艦していく、着艦というのはもっと難しいんだけどね、これがやっとやっとなんですよ。そこから始めている、もう本当に初歩から始めている。ですから、敵を求めて航海(飛行)して行って、そして態勢を整えて襲い掛かって、そんなことなかなか程遠かったですね。それで、セレター軍港といったらシンガポールの、あちらの方に行って、あるいはリンガ泊地というのが100マイルほど南の方にありますけど、そこで航海しながら訓練を。その時には色々な想定の元に訓練をしていますけれども、我々の艦隊を敵艦隊と見立てて、航空部隊はセレター軍港の方に、飛行場の方に、そこから我々の方を索敵しながらやって来て、そして攻撃すると。それは模擬魚雷をね、炸薬のない魚雷なんだけど、我々はまた敵襲に備える訓練になるわけですから。そうするとね、あちこちにこう出て来る、日本の飛行機が、最終的には周りからゴーッとやって来ますよ低空で、もうよけられないですよね。やっぱり飛行機には叶わんな、もうつくづく思いましたね……。まぁそんなんでいよいよと発動ということに。
その前にね、タウイタウイというところ、前進基地がありましてね、それはボルネオ島と……スマトラ(訳者注、地名が思い出せない川島さんに取材者が「スマトラ」と答えたが誤り、タウイタウイ島はフィリピン南西部のスールー諸島最南西部にあり、ボルネオ島沖合のややミンダナオ島側)、そのところにちょうど環礁があってね、そこが前進基地で、フィリピンの南、地図があればそういうの分かるんだけど。そこにいる時にね、もう動けないところでしょ、狭いところに大艦隊がダーッといますから、全速力で走って発着艦訓練なんかなかなかできないですね。飛行機はもう、風がなきゃ飛べないでしょ、例えば10メートルの風が吹いていれば、その風上に向かって35ノット、瑞鶴・翔鶴は35・36ノット出ましたから、風に向かって全速力で出すと、そうですね、35ノット出すと、だいたい17・18メートルの風が吹く、それで自然風速が10メートルあれば合計27・28メートル、これだったら飛行機は飛べるんですよ、それを翼に当ててね、飛行機の翼に当てれば浮力が生じて、それでもって上がっていくわけですよね。しかも爆弾を抱いていますからね、爆弾とか魚雷を抱いてますから重たいんですよね。それで一番最初が戦闘機、その次に爆撃機、それから魚雷を抱いた攻撃機、大体決まっているんですよ(?)、それが戦闘機からバーッと出ていくのがね、実に壮観なもんですよ……。見ててね、両方でもって(訳者注、右舷・左舷の両舷に並んで、との意)ね、我々乗組員が帽振ってね、「がんばってこいよ」「武運長久を祈るぞ」っていうことでね、もう感動ですよ、凄い。それで、大鳳・翔鶴・瑞鶴、全艦隊からの飛行機が、上でグオーっと音を立てながら編隊を組むんですよ(手を回す動作、艦隊上空を旋回しながら編隊を組む)、それから敵地へ向かってガーって行くわけですな。そんな勇ましいことね、錯覚受けちゃう(?)、これは勝てたと思う、勝ったー、ていうね、思うんですよね。その前にね、まず索敵機っていうのが飛んでいますからね。索敵機が暗号でもって敵艦隊の位置を「敵艦隊・空母3隻・……戦艦何隻、どっちに向かう、地点なんぼ」と、それを私は航海士なもんだから受けて、それを海図の上に入れるわけね。そうすると味方の艦隊の位置が分かって、この味方の艦隊の位置から何度・何マイルの方向にどういう部隊がいるということを、私の責任でやらないかんわけだ、航海士だから。
それを航海長に報告して、航海長は艦長に。艦長は降りて行って「搭乗員整列」で搭乗員がズラーッと、見るともう少年航空兵(訳者注、少年航空兵は予科練の古い通称)あどけない顔したね。並んで水盃、艦長と一緒に、「諸君の武運長久と成功を祈る」(水盃を飲む動作)、で「行ってまいります」でこう(敬礼の動作)やってんだよ、いやーこんな少年みたいなのが可哀そうに、ほとんど還ってこないんだから。それが一機ずつ出て行って、編隊を組んで。その時にね、しばらくして一機帰って来たんですよ、あれは大尉の……、降りてきて、最初は敵の飛行機だと思って「対空戦闘」と間違えて号令かけたんだよ、いやまてよちょっとおかしいぞ、飛行機は味方信号でバンク、これ(バンク、翼を上下に振る動作)やるんですよ、バンクしてるよ味方だ、それでいきなり着艦用意をして、受け入れたんですよ。そうしたらね、その搭乗員はカンカンになって怒っているわけ、「チクショー鳥海のやつ」というんですよ、そしたらね前衛部隊の武蔵・大和、鳥海もいたらしい……、間違えて撃ったらしいんだねバンバンと、味方撃ち、よっぽど興奮していたんだね。そうしたら他からもバーっとやってね。そうして、せっかく編隊を組んで敵地に向かう味方の部隊がバラバラになってね、そして前衛部隊を通り越してから、また編隊を組み直して敵地に向かった。そして確か村川大尉だったかな、怒ってね、兵学校の出身、「チクショーやつら誤射撃をやりおった」、見たらね翼に機銃の穴がいっぱい空いているわけ……。「よく還って来た」って副長が抱きしめたね。副長というのがまたいい人間的な人で、ムロタ大佐だったかね(訳者注、室田勇次郎大佐、兵学校50期)。酔っぱらうと搭乗員を抱きしめるんですよ、明日は出撃するという日の全艦挙げて宴会の時なんかはね、室田大佐はねカッ(抱きしめる動作)「しっかりやれよ」つってね。まぁその時にね、それで攻撃隊が向かって行った。普通、攻撃隊が行きますと、戦果を観測(確認)する飛行機が見ているわけですね。で、普通ならば「我敵艦隊を発見す」という無電をね、それが我々味方の部隊に入ってくる、しばらくしたら味方の飛行機に対して「全軍突撃用意」、そして「全軍突撃せよ」という無電が入るんですよね、その通りに来たんですよ。さぁその次には今度の無線は何かというと「航空母艦何隻撃沈」だの「戦艦何隻大破」だの、という戦果報告が入るはずだったんだけども、それが30分経ち、もう期待して待っているんだけれども、全然入ってこないですね。それでしょうがないから第二次攻撃隊を出す。その第二次攻撃隊は今度は敵を発見できないで、夕方になってから引き返してきたんだね。それで後から聞いたの。グラマン戦闘機が三段くらいになって待ち構えていたと。
その当時の、あ号作戦の我々の有利な条件というとね、まず飛行機の航続距離が長かったこと、それはアウトレンジで敵の攻撃部隊が来る飛行距離よりもっと遠いところから攻撃できるというのがアウトレンジ航法。それと攻撃が終わったらすぐ、まだその当時は日本の基地があったでしょ、島の、テニアンだのサイパンだのというところの、そこへ行くという作戦でもって、遠いところから攻撃できたんだけど。ところが、先にそこの基地を叩いているわけですから。基地に帰って来ると、まだ上の方に待っていて、フラフラになって燃料もなんも全部使っちゃって、フラフラになって帰って来たやつを、上からバーッと叩き落とす、そういうので全滅したらしいですね第一次攻撃隊というのは。「第一次攻撃隊発進用意」なんていう時は勇ましくてね、いやーこれは勝てたー、なんて思ってたんだけど。とんでもない、もう散々な敗北でした。
そして、その時もう敵は、アメリカの方は潜水艦アルバコアラ(訳者注、正確にはガトー級潜水艦7番艦のアルバコア)、これを我々の方の行動海面に潜ませていた。そして大鳳が沈み、翔鶴が沈んだんですね、その時に……(取材者の「愛宕と摩耶もやられてますよね」との発言は、時間軸がズレているため誤り)。それで僕は見えなかったんだけど、「大鳳の様子がおかしいです」って言うんだ信号兵が。よく見たらカクンと艦首が下がってね、ものすごく波切がおかしいんですよ、あっ艦首がやられている。最初艦長は「これは潜水艦だ」ということでね、たしかにそうだったんだけど。
艦首のね……、航空燃料のタンクがあって、そこをやられたんですよ。それで燃料タンクのガスが、だんだんだんだん気化して艦内に充満して、それが発火して爆発。瑞鶴の目の前でそれはやられたわけですよ。(「あれは一発だけですよね」)一発だけです。それでその時に、大鳳の艦長というのは、前の瑞鶴の艦長だった、私は使えてるしよく知っているし、キクチトモオ(訳者注、菊池朝三・きくちともぞう、大爆発の大鳳より帰還、少将、兵学校45期)って大佐だった。司令長官は小沢治三郎さん、で小沢治三郎さんは旗艦の大鳳がどんどんどんどん艦列を離れて後へ下がっていっちゃう、これからの艦隊の指揮は瑞鶴の艦長これを執れ、という信号が来たわけ。そういう信号を受けたものを私が受けて、それを「艦長、これこれ」ってね。旗信、旗信というと「旗艦」の「旗」書いて……旗艦からの信号「旗信」と言うんだよね、「旗信、今より艦隊の指揮は瑞鶴の艦長これを執れ」、艦長「OK」(レ点を書く動作)、副長「OK」、航海長「OK」、こういうことを艦橋の中で私がやるわけね。そんなもんだから大体様子が分かってるんですよ。それで結局、ガソリンのガスが充満して引火して爆発しちゃった。こうして、その次「翔鶴火災」って言うわけですよ。(「潜水艦にやられたんですよね」)そうです。それでバッと見たら、翔鶴の発着甲板がブカーってめくれてんですよ。それでそこの下から紅蓮の炎が吹き上げてね、その炎の高さがブリッジくらいまでいっている、ブリッジって艦橋の。ほんだら艦長がね「飛行機じゃないのか」、飛行機でもって発着甲板やられたんじゃないかって言うんで「対空戦闘」を令したんですよ。ところが対空戦闘ってったって飛行機なんか全然いないもんだから、やっぱり潜水艦だった。潜水艦の魚雷が弾火薬庫に当たったんでしょうね。それで上へバーンて吹き上げた。それでまた翔鶴もスピード減(?)をして艦列を離れて。そしてね翌日になりました。攻撃は失敗したわけですね、その日の、6月19日か(訳者注、大鳳・翔鶴の撃沈が6月19日)、それで翌朝(?)6月20日、残存の飛行機をなんとかして攻撃っていうんで、しばらく敵に向かって航走していたんですけど、しばらくしたら羽黒が本艦を、瑞鶴を追いかけてきて、「瑞鶴停止せよ」「今より旗艦を瑞鶴に移す」っていうね旗信があった……、「漂泊せよ」「今より旗艦を瑞鶴に移す」、こらもう同じように信号文を読んで漂泊した。そしたら……追いかけてきた羽黒が約1000メートルくらいを隔てて漂泊しました。潜水艦がいるのに危ねーなと思いながらヒヤヒヤだよ。向こうから内火艇を降ろして、こっちへやって来るじゃないですか。長官が来るわけですから、ほいでこっちも長官が乗られたら中将旗をバーっと出さなきゃならん、中将旗を用意して巻いて、そしてタラップっていう舷梯がありますでしょ、そこに長官がボッと足を掛けたとたんにバーっと開くように、私がお迎えに行ったわけ、舷梯まで。そして信号兵に「ほどけ」とやって、中将旗を出して、それから旗艦になったわけですよね、二日目に旗艦。そして、小沢長官が上がってこられた、僕は緊張してね、中将、こっちは少尉でしょ(中尉になってたかな、と独り言)、そして上がってこられて。それで見たんですよ、うち続く敗戦にね、全艦の将兵が「長官の顔は如何に」と思ってみんな気にして見ていますよ、僕もそう思った「長官の表情や如何に」と思ってね、そしたらね、あの方背が高いんですよ、口元にニヤリと笑みを浮かべてトーッと通るわけ、(「いかつい顔してますからね」)そうそう鬼瓦みたいな顔してんの、だけどゆうゆう迫らず降りてこられる(訳者注、正しくは「悠揚迫らず上がってこられる」と思われる)。それで「長官、長官室へ行かれますか」って、「いや、ブリッジに行く」ってそのまま発着甲板に上がって発着甲板をスタスタと歩いて、そしてブリッジまで上がってって、長官の座る一番右手のところにねドンと座ったですよ、それっきり動かないもんね、トイレ行く以外は。その間に今度は敵艦から、我々がやった敵艦から、やっつけたと思った敵艦隊から激しい空襲を受けましてね。で瑞鶴がもう旗艦ですよ旗艦、長旗が揚がっているわけですから、集中砲火。その時に一発、50㎏くらい、あまり大きくなかったですね確か(?)、艦橋の後ろへ直撃弾だったんですよね。その時にもう目の前がバーっと真っ赤になったですよ。ヤッターやられた、と思って伏せたんだけど、僕は無傷だったんですけどね。僕は艦長付航海士だったから、戦闘の最中には艦橋のもう一つ上の防空指揮所っていうところがあって、そこに艦長が行かれて「あの飛行機を撃て、この飛行機を撃て」っていう指揮をする、僕は後を向いて艦長は前を向いているから、後を見て「艦尾の方から雷撃機が迫ってきます」っていうことを艦長に言うわけだから、バンバンバンバン撃ってるから聞こえないでしょ、バーンって背中叩いて「艦長!」って言って、そんなことを。あとから、戦闘終わってから艦長「お前、あの戦闘のドサクサで俺を叩いただろう」って言うんだけど、「いいけど、よかったな」って(叩かれる動作)、いっぱい飲んでね、そういうこともあったんですけど。その艦長は、私は本当に尊敬してるけど。そして、小沢長官もね、その時に一戦闘終わってブリッジに降りてきた、ブリッジっていうのは艦橋のこと。もうね、弾片がいっぱい飛び込んできて、爆弾が集中……、いわゆる直撃弾ってのは一発だけだったんですよ、至近弾っていうのがもの凄く、着発信管だもんだから海面でも落ちたら爆発するんですよ、その弾片がいっぱい飛び込んでくるんだ、それが艦橋へ飛び込んできて、それが顔に当たったりなんかしたり倒れたりね、それでもう血の海になっているんですよ、リノリウムですよ絨毯だったらよかったんだけど、リノリウムって滑りやすい、それに砂を撒いて、血の海ですから砂を撒いて滑らないように、みんなゴム靴履いてくるからね滑るから、普通ならゴム靴の方が滑らなくていいんだけど、もう血糊になっちゃってるから滑ってしょうがない。その時でもね、長官さすがにヘルメットだけは被っとったけど、ズーッと動かないんですよね、いやー肝が据わっとるな~、ってね。そして、その戦闘が終わって、いよいよ夕方になって、敵の飛行機も引き上げていった。そしていよいよ作戦も終了するっていうんでね、あっその前にね、武蔵・大和クラスを「夜襲を掛けろ」っていうんでね、夜襲に行けってやったんですよ、その前衛部隊を。だけどそれももう「引き返せ」ということで、そして「あ号作戦」終了。ということで、参謀長は古村啓蔵(こむらけいぞう、兵学校45期)という人、全艦隊に指令を出した、「全軍北に避退せよ」という命令を出しました。「長官、宜しいでしょうか」、長官がね「いかん」と言うんですよ、「避退せよ、はいかん、全軍北上せよ、で宜しい」こう言うわけですよね。いやその時僕もね、やっぱりそこまで、命令文まで細かく気を遣っておられるのかなーっと思ってね、小沢治三郎、僕は非常に尊敬しました。それが「あ号作戦」の戦闘なんですよね。
爆弾を投下された経験
(「爆弾が落ちる時っていうのは、どんな感じなのですか」)、怖いですよ、爆弾が落ちてくる時にね、空気を切ってシャシャシャシャーという音がするんですよ。空気を切る音が。それでその音が遠くならいいんだけど、それがだんだんだんだん大きくなってくるじゃない、当たる時には、命中する時には。そのうちにシャーーという大きな音になってボカンと来るわけ。その経験は一発だけあります。(「怖いのは目に見えるからですよね、近寄ってくるのが」)はい、飛行機が居るでしょ、まるで鳥が糞するみたいにパラパラッと落としますよ。落とした瞬間を見てたら、これは当たる、これは当たらない、というのがよく分かりますよね。でも僕らは船乗りで、ようするに航海に従事する者はね、行動しているときには何か物体を見つければ必ずその方位を取りますよ、方位というか方向をね、右何度・左何度。で、それが変化をしていれば、まず衝突の心配はない。相手が船になる前(?)。衝突が起こる場合にはね、ズーッと当たるまで方位が変化しません。で、それをジーッと見ているわけ、コンパスを見ながらね、あっこれは大丈夫。それが変わる場合は、どんどんどんどんこうやって(手を交差させながら)行っちゃうか、あるいはこっちの後へ行くか。ですから必ず方向を、そういう癖があるから、爆弾でも見て、あの飛行機が今落としても大丈夫、今落としてもあっち行っちゃうとか、今落としたら向こうへ落ちるとか、それくらいのことは直感的に分かるんですよね。
マリアナ沖海戦敗戦顛末
それで、沖縄の中城湾を経由して、呉へ帰って来たんですよね。呉へ帰って来て、その時にはね大鳳と翔鶴の負傷兵なんかは、格納庫には実質一機も飛行機はない、臨時の負傷者の収容所、それから死体収容所になって、もう目も当てられないような醜い、そう言っちゃ悪いけど仏さんが、首のない片腕のない、そういう人がいたりね。そして、沖縄に向かって引き上げる途中に水葬礼をやりました、とても悲しい。船で滑り台を拵えて、艦橋のすぐ後ろくらいで、みな毛布にくるんで、一つ一つ本当言ったら軍艦旗で包んであげなきゃなんないけど、もう何百人もいるんだから、大鳳・翔鶴の分まで収容したんだから。ほいで士官次室って言いますけど、ガンルームって少尉・中尉の若い人たち、その浴室でね、お風呂場、そこも臨時の死体安置所にして、みんな硬直したのがいっぱい、硬直した死体が、それを一つずつこう持っていて、それで滑り台を、木で滑り台を拵えて、一体ずつこう……。その時に「国の鎮め」ってラッパを鳴らす。その度に航海長が上に居てね、死体が流れていくでしょ、船が進んでいるから、スクリューに巻き込まれないように「面舵いっぱい」ってね艦尾を離すわけ、信号兵がちゃんと向こうに待ってて、遺体が変わったら、また元にグワーッと戻す、それを何回も繰り返す。もう実に悲しい水葬礼なんだけども、それでブリッジには焼香台を設けて、その度にこうやって一体一体(焼香する動作)、司令長官・艦長・参謀長みんなでやるわけですよね。実に悲しい水葬礼、あぁ辛い……。まぁそういうことで呉へ帰って来て、もう負け戦なもんだから、しばらくの間は、負傷兵は病院へ陸揚げしたんだけど、上陸禁止ですよ。というのは、言ったらすぐバレちゃいますからね、上陸してったら、みんな意気消沈してんだから。出かける時はもう意気揚々たるもんがあったんですよ。そりゃね、航空母艦が9隻並んでいるだけで艦隊って頼もしく見えるもんなんですよ。武蔵・大和もそうですよ、頼もしい、姿が。ところが実際はあんまり戦果を挙げていないんだけどね、武蔵・大和なんて全然、相手の戦艦なんか沈めてないです。相手の船沈めたのはほとんど飛行機だから、海軍航空隊ですよね。だけども、ようするに軍艦というのは見たところ頼もしいし、それが艦隊でこう……、僕は艦隊を編成する時にね、だんだん集まって来るでしょ、それを見た時にね本当にこう……、感動しますよ。一番感動したのはね、武蔵・大和じゃなくて、1万トン巡洋艦ね、愛宕・高雄・摩耶・鳥海、4・5隻でねこう……、いわゆる単縦陣でやって来るんですよ。見てたらね、実に堂々たるもんでね……。本当にね「舳艫相銜む(じくろあいふくむ)帝国海軍の艨艟」って言うでしょ、艨艟が「舳艫相銜む」、「舳艫」って言うのは艦尾と艦首のことを舳艫と、舳艫相銜んで堂々と航進する、航進の「航」は航海の「航」、そういう形容詞があるんですよね、まさにその通りですよね。やはり1万トン巡洋艦の姿というのは本当に奇麗です。それが「あ号作戦」の……、「あ号作戦」はそれ(著作)にも書いてありますけどね。僕の非常に印象に残った……。で、その「あ号作戦」で完敗したわけですよね。それ以後はもう、いわゆる日本の艦隊が、日本の海軍が組織的な積極的な作戦というのは不可能になった、飛行機もなければ航空母艦もないという、残存しているのは大和とかね、武蔵はその時やられてましたからね(訳者注、その時に武蔵は現存、後のレイテ沖海戦にて喪失)。まぁそういうことで、羽根をもぎ取られた鳥みたいな……、無力。もう本当に後は敗戦の、急な坂を転げ落ちるように行ったわけですけれども。でも我々は最後まで戦争をしなくちゃなんない。戦争がどうなろうとも、勝つとは思えない、自分が戦争をしていて、勝てるとは絶対そのなんと言うか、本能がもうこりゃ負けるに決まっていると、もう。だけども負けるにしろ勝つにしろ、勝つということは考えない……、自分は生きているわけにはいかないだろうと、そうは思ってましたね。……本当に手足も、五体満足で生き残っているというのは本当に……。
狼群作戦・狙われた兵站
そりゃもうガソリンなんか無いですから、艦隊行動するのにみんな南方に行ってそこで満タンにして、そこから出かけて行ったの。それが艦隊にはね、タンカーが随伴してましたでしょ、タンカーはやっぱり南方に行っていっぱいにして満タンにして、それで艦隊の後について歩いている。ところが、アメリカの艦隊はそれ知っているもんだから、みんなやっちゃう、随伴しているタンカーをね……。「狼群作戦」(訳者注、「群狼作戦」と言う場合もある)って言いましてね、ロウはオオカミの「狼」、グンは「群れを成す」っていうね、狼群作戦で2隻ないし3隻くらいが組んで、索敵をしてそして見つければみんな情報をバーっと出してですね、そしてお互いに連絡し合いながら獲物をやっつけるというのが狼群作戦。まぁこういうのでも日本の艦船は本当にもう……、ほとんど全滅状態……
そのようになってからね、それを「あ号作戦」って言ったんですけども、まぁ「あ号作戦」とか「ろ号作戦」とか「い号作戦」とか、色々あったんですけど。その後はね、今言ったように日本海軍が積極的なあるいは組織的な作戦行動というのはもうほとんど不可能になった。これはもう、一にかかって飛行機がないということですよね、それから燃料もないという。ということからですね、次に考えられた作戦というのが「捷号作戦」、(「捷」という字の説明)、これはねアメリカ軍がフィリピン方面にこの次来襲した時には「捷1号作戦」、沖縄とかあの辺の南西諸島に来襲した時には「捷2号作戦」、日本本土に来襲した時には「捷3号作戦」、それからアッツ・キスカあちらの千島列島の方に来た時に「捷4号作戦」。それで恐らく今度はフィリピンに来るであろうということで「捷1号作戦」が発動になったわけ。
捷1号作戦
この作戦っていうのはね、瑞鶴が残っているわけですからね。瑞鶴と、あと千歳・千代田・瑞鳳、この4隻の航空母艦を、これは内地から出帆をしてって、別府湾に居ました。で、敵の飛行機を、ここに有力な機動部隊がいるぞと、囮になって、そして敵の航空部隊を引き付けて、囮になって引き付けて、そしていわゆる栗田艦隊を、栗田艦隊はブルネイってとこに待機していて、そしてレイテ湾に突っ込んでいく作戦だったんですね。そしてレイテ湾の上空は、敵の飛行機は全部こちらで引き付けるからいない、という仮定でね、突っ込んでいくと。ほいでいわゆるマッカーサー軍団をそこで殲滅しようという、これが「捷1号作戦」だったんですね。で、その通り……、その前に台湾沖航空戦というのがあって……、その時に飛行機をみんな出動させちゃったんですよ。ですから「捷1号作戦」に使う飛行機っていうのは、ちょうど伊予灘でもって航海しながら飛行機を一機ずつ積んだんですよ。普通、瑞鶴で70機から80機くらい積めたんですよね。まぁ最後には飛行機が大きくなったんで70機くらいしか積めなかったけど。それが40機くらいしかないんですよ、台湾沖航空戦で使っちゃったから。それでやっとこさそれ積んで、そして明日出撃するっていうんでね、別府の沖に錨を降ろして、4隻の空母が、あとは随伴する伊勢・日向、伊勢・日向は航空戦艦になって艦尾の方は飛行甲板だった。ということで、そして私はこの……、その時海軍中尉になっていたんだけども、ブリッジを降りてそして自分の部屋へ帰った。「航海長がお呼びです」って言うから航海長のとこへ行って、「何事でしょう」「君は転勤だよ」っちゅうから、明日出撃するっていう日の前の晩に。「冗談じゃない、私はもう覚悟できてますよ」、自分の大事なものは全部別府の、別府に水交社(訳者注、「水交社」とは海軍士官の親睦団体であり、士官専用の旅館・食堂・売店なども併設されていた)がありましてね、水交社に全部陸揚げしてあるんですよ、今はもうこれは戦闘服装といってね、戦闘できる、それでそのままどこでも寝るわけ、ヘルメットと軍刀と。「いや、君は退艦しろ」と、それから艦長伝令(?)が「艦長がお呼びだから、艦長のとこへ行け」と、艦長・貝塚大佐(貝塚武男、瑞鶴艦長・少将で戦死、中将進級、兵学校46期)のところへ行って「艦長、連れて行ってください、私は艦長の元で死にたい、死なせてくれ」と言った。いい艦長だったからね、さっきも言ったように昼間酒飲んで酔って「戦闘のドサクサにまぎれて俺の背中を叩いたろ」って、一杯飲みながらそういう話までした人です。……とてもいい人とでした、貝塚艦長、貝塚武男。「いや私は艦長の元で死にます」って言ったらね、艦長グーッと涙ぐんじゃって「いかん」つって、「お前はこの次の船へ行けば航海長だ」と、小さな船ですから今度は、「航海長兼砲術長兼通信長だ」と、「軍医長まで兼務だ」と、軍医さんがいないもんだから衛生兵だから、「向こうは待っているはずだ、行け」。泣く泣く降りることになって、その間は、出撃祝いってのは全艦挙げてやるわけですよ、もう兵隊も将校も一緒になってね。それがたまたま今度は僕の送別パーティーにもなっちゃってさ、出撃祝い兼送別会なんだ。それで翌朝、軍艦の内火艇を降ろして、私はそれに乗って、大分(別府)の波止場まで送って貰いました。で、私が降りて、その内火艇は本艦に引き返して、またデッキの上に上げて、そのままズーッと出て行きました、出撃していった。僕は波止場に立って帽を振って「がんばってこいよ」って……、辛かった。だって囮艦隊だから、死にに行くわけでしょ、沈むまでやっている(砲弾が飛び交う戦闘の動作)わけですから。ものの見事に、それから5日間。10月20日に出撃して行ったわけですね、僕は20日の朝、早朝に降りたんですよ。そうして、出撃して行って、5日後の10月25日に、瑞鶴は5本魚雷を受けたといったかな、それでもう沈没……。それで、その時に貝塚艦長は最後に傾いている艦の上でね、軍艦旗の降下式をやって、「諸君は長生きして御国のために頑張ってくれ」って言って、自分はそのまま艦長室に入って行った、それで艦と運命を共にされたわけですよね……。あ号作戦の帰りの時もそうだったけど、大鳳の艦長をお連れして、あ号作戦の敗戦の、僕はそれ知らずにね艦長室へポッと信号を持って行った時にオッと見たらね、菊池艦長、元の瑞鶴の艦長がね、へーっとして本を読んでおられる。それで艦長に後から色々話を聞くと、大鳳とともに沈んだらしい、一緒に運命を共にしようと思って、そしたら浮いてきちゃった、浮いてきたら助けんわけにいかん、てわけで駆逐艦の救命艇がね拾い上げて、そして助けたんですよ、そして瑞鶴の艦長室に軟禁状態でね、自殺するといけないから、ほいで自殺しそうなもの、刃物みたいなのみんな取り上げて。それで貝塚艦長と一緒に帰って来たんですけど。その時に「艦長~!」言うて、もの言わんかったですよ、(菊池艦長が)「おお、元気か」。本を読んで、何を読んでいるかと思ったら宮本武蔵だ。あの当時ね海軍ていうのは……(中途で途切れる)
108号輸送艦の思い出
……色々話を聞いてるからね、これはねやっぱり対空射撃っていうのは、飛行機を狙い撃ちしちゃダメなんだ、弾幕を張らなきゃいかん……、と思ってね、私は突っ込んで来る飛行機に対して、その前面に対してバーっと(射撃して射弾が集中する動作)、ただ一機だったですよ、大型機が突っ込んできたんですよ、こっちをバカにして、単艦だから。「ちょっと待て、みんな待て、待て待て待て」って言っとってね(?)、「じゃあ撃ち方始め」敵の前面にバーっと弾幕張ったわけ、そしたらさすがに向こうグオーっと曲がってね、でスーッと行った。あーこりゃやった、と思った。だから本当ね、飛行機に対しては本当に弾幕を張って、一機狙ったってダメですよスピードが速いんだもの。(対空機銃の日米比、などの雑談)。その25㎜(対空機銃)の単装をね、瑞鶴なんかも発着甲板にズラーッと並べたですよデッキ、皿(訳者注、銃座の底板)を置いて、鉄板を置いてね。ほいでその、一発爆弾喰らった時にね、何も遮蔽物が無いもんだからみんなズラーと斃れた、すっ飛ばされたの……。影も姿も見えない方に行くんだから、海にすっ飛ばされた。もう艦に装備されている機関銃(訳者注、海軍では機関銃・機関砲ではなく「機銃」と呼ぶ)以外にね、デッキに並べたんですよ、置いて。それがもう、根こそぎ持っていかれちゃった、吹き飛ばされちゃった……。ですからもう、あの時にすでに海戦というのは飛行機と潜水艦の戦闘だったんですよ、もう戦艦同士の戦争の時代は終わったんだ。それをね日本の海軍、今から思えば艦隊決戦主義、いわゆる艦砲主義とかね、まぁ艦隊決戦主義じゃあね……(無言で感嘆する)、それじゃもう追いつかない時代で、結局武蔵も大和も「柱島艦隊」(訳者注、柱島泊地から動かない戦艦のことを「柱島艦隊」と揶揄した)とかあそこに置いただけ、いつまで経っても出てこない、ってことはやっぱり最後まで置いて、最終的には航空機と潜水艦で敵の漸減作戦をやって、最終的には連合艦隊が出撃してとどめを刺して決着つけるという、日本海海戦の戦略思想をいつまーでも金科玉条に守ってたからね……。
(唐突に始まる、話は時系列ではない)……もっとも劣悪な条件……(聞き取れず)……108号輸送艦。だけどもう話を短くしますけれども、その108号輸送艦て結局最後まで残ったんですよ。104号、106、108が私、先任将校で。そしてもう一つね、輸送艦で艦尾がこうなっている(手で斜めを形作る)、これはねなんか内火艇かなんか積んでいるやつじゃなかったかな、水雷艇かなんか積んでいるような。その4艦でもって、もう制海権も制空権も全然なくなったフィリッピンに輸送作戦、台湾・バシー海峡を渡って。それで高雄に着いた時に、私が乗っている108号だけがね、エンジン故障を起こしたんですよ。それで一緒に行かれなくなっちゃった、修理しなきゃ。だけども、作戦はもうどんどん時期が迫っているって言うんでね、あとの3艦はね直ちにマニラへ突入せよと、そういう命令が来た。それで本艦は修理のためにドックに入る、で修理したわけですね。あとの3艦は、その晩のうちに出港していって、みんなやられちゃって、全員戦死ですよ。その時一緒に行ったら、私も今ここで喋っているわけにもいかないと思うんだよね。故障を起こしちゃってね、機関故障を起こしたために、助かったんだね。あとから考えた、やっぱり108という、それはね除夜の鐘の数が108……、なんかこう縁起のいい数字というものはあるものだなと思ってね、瑞鶴しかりね。瑞鶴は真珠湾攻撃に行った時の6隻の空母で最後まで残った、そりゃそうでしょ。それで私が乗った時に初めて被弾をしたというんだから。あとの4隻、赤城・加賀・蒼龍・飛龍とこの4つ、ミッドウェーで完全にやられちゃった。ほんとうに名前ってのはバカにならないと思ったですね。
香港での終戦
その輸送艦でもそうだけど、南支のね本当に制海権も制空権もないところで、軍隊の輸送だとか、陸軍の兵隊さんの輸送だとか、武器・弾薬そういう輸送ね、やりましたよ。そして香港に居る時に終戦を迎えたというね。そこでその時、そこへ進駐してきたのは、もとの占領をしていた英国の軍隊ですね。英国の軍隊が来て、香港島に日本軍は居っちゃいけないと。入ってきてすぐに、翌日にそのお触れが出たのかな。9月の3日くらいに、もうそれ以後は日本人はいっさいこの香港島に居てはならない、対岸の九龍というところ、九龍側に行けと。九龍に止むなく行ったわけですよ、九龍側にみんな。その時の舟艇を総動員して。九龍側に軍需部があったんですよ、海軍の。軍需部に僕らは船から持っていった毛布を担いで行って、倉庫の中に毛布を引いて寝ようと思ったら、今度はそこに、軍需部の岸壁に英国の駆逐艦がサーっとやって来て、お前たち日本軍はここに居っちゃいかん、と言うわけですよ。とにかく立ち退けと。そんなこと言ったって、どこに行けとも言わないんだから。だけども結局しょうがない、敗戦というものは惨めなものだなと思いながら。
捕虜生活
それでね、捕虜の話をするとね。捕虜収容所、香港の対岸の九龍というところの。もう捕虜というのはね、これはもう嫌なものですよ、人間扱いしてくれないんですからね。ようするにもう、二重の金網のね、あれは三千坪くらいの敷地があった方か、そこに日本軍の陸海軍の捕虜、一般邦人の捕虜も、全部そこに収容したんですよ。それで金網で囲まれて外は二重の、その二重の金網の間が約3メートルから4メートルくらいの間(?)。そこをインド兵が鉄砲を持って、しかも弾を装填した銃を持って巡邏しているわけです、その中に入れられた。その、いわゆる収容所の獄舎っていうのは4階建てだったですよ。僕らはその4階に入った。それをね、僕は士官だったもんだからね、士官は高いとこ、と言われて。ところがエレベーターがないのにね、高い所へ持っていかれたらね、4階に昇るんだもんね、エレベーターのないとこですよ。それでね、収容所のベットがないの、板の間ですよ。しょうがないから軍艦から持って上がった毛布を敷いてね、そこに寝たんですよ。ほいでね、食事は一日二回。しかも一食お粥お茶碗に一杯。ですから腹ペコペコになるわけ、みんな痩せていきますよ。僕も随分痩せた、その当時はあなたみたい(取材者を指して)に太っていた、80㎏くらいあった。それでね、毎日いわゆる使役と称して強制労働に出された。香港に駐在する英国の軍事施設に、今日は何人行こうかってね、いろいろと捕虜の人足をね要求が来るんですね、俺のところに50人くれ、俺のところには100人くれ。それぞれの捕虜の部隊の通訳兼指揮官、僕なんかもよく通訳をやったんだけど。通訳というのは向こうに監督の兵隊がいるわけね、その兵隊にあれやれこれやれというのを通訳するわけ、そんな生活をだいぶんやってました。その時にね、ある日、九龍の丘の上に教会があるんですよ。その周りの清掃管理をやらされた。それが11月の11日だった。突然教会の中から「God Save the Queen」「God Save the King」「ラララ、ラーララ」ていうあれが聞こえてきたの、英国の国歌が。そしたらね、監督の兵隊が「作業止めろ、姿勢を正せ」って言われてね、しょうがない捕虜だ。それでしばらく姿勢を正して全曲終わるまで聞いた。その時ほど屈辱を感じて、負けた時の悔しさはなかったですね。いい曲だよ、あれね。曲としてはいい曲ですよね。いやぁー、と思って。
捕虜時代の食事
そして、そんな捕虜生活をしていくうちに、あのねご飯が二食っていうのはね、もともと日本軍の食糧庫の。軍需部というのは根拠地ですから、軍需部があって食糧庫があったんですよ。それを今度はイギリスが占領して、占領軍の方が全部没収をして、そして一日二食分くらいしかくれない。配給して寄越すわけ。それで捕虜収容所の中に賄い所があって、そこで賄いの兵隊たちが捕虜の食べ物を作るわけ。それを配給してくるわけ。その配給量が少ないもんだから、一日二食しか当たらない、しかもお粥、一杯ですよ。そりゃ痩せるわけでしょ、それでろくな副食がないんだから、梅干しとかね、塩掛けて。(雑談「ギンバイできなかったんですか」(訳者注、「ギンバイ」とは海軍用語で食料などをくすねること)「ギンバイするところがないもの」「食料係は太っていた」など)。それで毎日、使役というのをやらされるもんだから、それに行く人にはお弁当を作ってやるっていうんで、みんなが少しづつ出し合って削ってね、その人にはおにぎりにして、ちっちゃいくらいの一つだけでも持たしてやる。それを置いて作業するんですけどね。もう困った、私は涙を以て、それまで僕は部下を殴ったことはなかったんだけどね、あの時英国の監視の兵隊がね「ちょっと来い」つって、「盗み食いしたやつがいる」という。行ってみたらね、立たされてるんだよ、うちの兵隊が。「どうしたんだ」と言ったら、こいつがねかわいそうなんだ、食糧倉庫に使役へ行って、出来立ての焼き立てのパンをホカホカ匂うやつをこうやって(担ぐしぐさ)運ばせるわけよ、それでこうやって(担ぐしぐさ)わざわざ鼻の先に来るまでこうやって持たせるんだから……、残酷も残酷もねえ(?)。それでとうとう盗み食いしちゃった……。それでしょうがないからね、その兵隊の前でねバカーンと殴って「何するんだ、お前は」つって。そしたら向こうは「あぁ、そこまでやんないでいい」と、あんまりビンタは慣れていないらしい。その時僕は涙拭ってあれしたけど(語尾不明瞭)。それだけどね、とうとう僕はみんなを立たして、これだけはするな、つって怒ったことがね……。弁当を置いて作業するでしょ。その間にね、戦友の分を盗んで食ったんだ。それが分かったもんだから、これはしょうがないなと思って、捕虜収容所に帰ってきてから、「お前たちは戦友の分まで食うとは何事だ」ってね、「立っとれ」ってしばらく立たしちゃった。そしたら下士官が来て「もう許してやって下さい」て言うから「分かった」、そしてそーっとパチンパチンパチン(緩く叩くしぐさ)と、なんかこう頬を叩いちゃって「帰れ」、「今後一切こんなことはするな」というね、これは本当に涙が出たけれども……。
戦陣訓
そんなある日ね、万国赤十字社から、捕虜収容所の査閲というのかな、査察というのがあったんですよ。それは、いわゆる国際法に則って、捕虜をキチンと優遇しているか、捕虜を差別したり虐待していないか、ということの査察が来たんですよ。その前にね、その収容所長が、英国の陸軍少佐かな収容所長、その命令でもって捕虜収容所の清掃作業をいっぱいやらせられてさ、奇麗にして。それで査察団を迎えたわけだ。そしたらば「香港の捕虜収容所では捕虜は優遇されている」という報告でもいったんでしょう。その英陸軍少佐の収容所長が案内して廻った。その時にね、捕虜郵便というねprisoner of war mail、捕虜郵便というものが出されたんですよ。それはね、表面にはね自分の郷里の宛名、まあ肉親宛だね、お父さんの名前かお母さんの名前書いてみたり、裏はね、こういうふうに(手にした紙を郵便に見立てながら)印刷してあってね、ブランクなんです、自分の名前書いて、「私はどこで」どこそこでっていうのは香港と書いて、それはブランクになっている。で「元気にしております御安心ください」それだけしか書けない。それを郷里に送ってくれるわけですよ、その赤十字社がね。それは、その当時はね、郷里では家族たちは、本人が生きているか亡くなっているかも分からない状態ですから。生きているってことを知るだけでも大きな喜びなんですよね。だから、みんな喜んで書いた。ところがね私の部隊150人くらい居たんだけど、3人「いやだ」というのが出てきた。「どうしてだ」って言ったらね、うちの親父が「うちの倅が捕虜になっている」なんていうことを知ったら「家門の恥だ」と言って嘆く、って言うんですよ。その当時ね、いわゆる戦陣訓っていうのがあって、「死して囚虜の辱めを受けず」(訳者注、厳密には「生きて虜囚の辱めを受けず」)というね、東条英機の戦陣訓と称するもの、「囚虜」とは「醜い捕虜」、「死して」だから「捕虜になるくらいなら死になさい」というふうですね。で、それがあるんでね「家門の恥」だと、「我が家の恥さらしになるから俺は出したくない」って言う。そうじゃないんだよ君、もう戦争は終わったのよ、ねぇこれ見るだけでねどんなにあなた方の御家族が喜ばれることか、必ず出せ、と言って強制的に出させた。それで全員、出しましたよ。そんなこともあったね。この話すると、みんなビックリするんだけど。まあそれにもちょっと書いてあるけどね(著作を指す)、本にはね、そういうことがあったということね。それで、終戦の年のね、その幸いなるかな(?)
帰国
捕虜生活がそんなに長くなくて、4ヶ月くらいで済んで、ちょうど大晦日に私は家へ帰りましたね。その3日前に鹿児島に英国船で帰ってきた。英国船……、英国の船長が乗っていて、そして……日本人の帰還兵だとか、それから一般邦人も乗っていましたね。乗せて日本へ輸送してくれた。その上陸地点が鹿児島だった。鹿児島に着いた時にね、桜島がこう……、ちょっとね雪を被っていたんですよね。それ見た時にもうみんな涙が出て来るわけだね、雪化粧した桜島が迎えてくれた。そして上陸をした。お役人に訓示を受けたですよ「もう今の日本はね、我々が戦争していた時の日本じゃないんだよ、そのことだけ充分承知して行ってくれよ」つって、収容所長(訳者注、鹿児島地方引揚援護局長のことか?)がそう言ってましたよね。その時に、DDTという消毒の粉があって、それ頭からぶっかけられ、ここまで(みぞおちあたりを指す)当てられて、バーっとやられてね。そして僕は海軍の士官の帽子を被ってたら、この抱き茗荷(訳者注、「抱き茗荷」とは士官帽にある帽章のこと)のこれをガキっと取られちゃった、アメリカの兵隊にね。「このミンカンギ(英語? 民間人?)、こんなの持ってちゃいけねえ」って取られちゃった。何にするかと思ったら、彼らはそれ記念品にしているわけですよ、敵の捕虜から分捕った(?)。見たらバンドのところにいっぱいくっつけてるわね、階級章だとかね。ほいで鹿児島に上陸した時に見た光景が、日本の若い女性が、そういう仕事の女性だったと思うけどさ、アメリカの水兵の腕にぶら下がって歩いてんだよね。その時、それ見てガッカリしちゃってさ、俺ら命がけで働いてきたのにな、と思って、ちょっとそれは悲しい○○(語尾不明瞭)だったね。そして、そこから復員列車を仕立ててね、西鹿児島からズーッと東海道、九州を通って山陽線、東海道を通って東京まで来たわけだ、帰って来たわけですけどね。広島のところ通ったら、本当に何もなかった広島は。もうその時にね、今後何十年って木も生えないだろう、草木も生えないだろうとも言われた、惨憺たる状況のところ、そこを通って……。(原爆に関する雑談)。あの時、海軍兵学校に私の弟が居たんだけど、屋外で課業をしてて、教官が真ん中に立って話をしてた、何かピカッと来たと思ったら、教官がね「おい、みんなあれ見ろ」って、広島の方にブワーッとキノコ雲が上がってるのが見えたってね、言ってましたけどね。まぁ、その当時の烏山なんていったら非常に簡素なところだったから、何もないところでしたしね。ですから私の駅(?)も千歳烏山(?)に帰って、ちょうど大晦日にゴットンゴットン○○(語尾不明)、欠品(?)列車で。僕はそのまま帰るのがいやだったから、熱海で降りて一風呂浴びて、家へ帰ろうと思って、5・6人で「そうしようやー」つって。で改めて大晦日に帰ったんですよ。そうしたらちょうど電車を降りて、まだ家がある、焼けているか焼けていないかも知らない分からないですよ。電車の線路に沿った道をズーッと歩いて行きましたらね。あの、友達が来て「お帰りなさーい」言ってくれてね、ほんで「みなさんお元気ですよ」とこうやって、それで家族が無事であることが分かったんですよね。ところが面白いんですよね、もう捕虜収容所の中でみんなが言うにはね、「俺の田舎はいいとこだよ」とみんなお国自慢ばっかりするわけね。そりゃそうなんだよ、いつ帰れるか分からないという状態の中で、捕虜生活やっているとね。もうその自分の故郷なんてのはねパラダイスですよ。ほいでみんな寝転びながらね、僕は先任将校と言われて、「先任将校、俺の田舎はいいとこだよ、米だってなんだってどっさり取れますよ、もし東京で食えなんだらね、家へいらっしゃいよ」なんつってそんなこと言ってくれるんだね、部下がね、ありがとうありがとうっつって。実は、それのお世話になったことがあるんだよ。まぁそんなんで、こう自分の家が近づいて来るとね、なんかこう、恥ずかしいような怖いような気になってね、だんだんその、歩調が鈍くなってくるんだよね。そこで門から入らずに、しゃーないですよね勝手口の方から入って、勝手口におふくろが居てね、ハッと見た時にビクーリしてるわけね、しばらくして一息ついてから、おふくろが私にしがみついてきてね。その時の私の母親の、もう栄養失調みたいなものですよ、日本の内地もほとんどろくな栄養が取れない時ですからね。一回り体がちっちゃくなってたように思えますよね。その母は早死にしちゃってね、54歳で。まぁ本当に栄養も十分に取れない時代ですからね。私たち軍人には最優先で食べさせたから、私たちに言えることはなかったけども。それこそ、いわゆる日本の内地、銃後と言うんだけど、銃後の生活っていうのは本当に食うや食わずで、大変だったわけですね。そうまでして戦争していたわけ。まぁあの、そういうのがまぁ私の戦歴ですけどね。
体験記録
- 取材日 20 年 月 日 (miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
- 地図 ───
- 年表 ───
戦場体験放映保存の会 事務局
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