川森 正二さん

生年月日 | 1919(大正8)年1月生 |
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本籍地(当時) | |
所属 | 陸軍 |
所属部隊 | 旭川歩兵26連隊 北海支隊独立歩兵第301大隊 |
兵科 | 歩兵 |
最終階級 |
インタビュー記録
1940(昭和15)年3月 旭川26連隊入隊
私も出身は小樽なんです。旭川の26連隊。私たちがここに入りました時、本隊は街に入ったときにね、留守隊。ノモンハンで2/3が大打撃を受けた部隊なんです。
15年3月に入隊。14年に私仙台におりまして。その時150人おって、兵隊の現役兵150人のうち12名しか受からないですよ。そのうちの一人だったんですね。父親が漁師で胸囲が90センチあったんですよ。逆三角形の体格。仕事は仙台で郵便局に勤めていたのですが。東北大学の医学部の職員で解剖学の。勤めながら夜学行って。それがかえって軍隊いって利益になりましたね。
軍隊入って、昔の軍隊あたりは外部と関係がない。新聞は一切見れない、言ってみれば「バカの養成所」で、旧態依然で明治日露戦争の、なんでも古いものが幅を利かせていたんです。昭和15年の年に、経理学校、主計になるのを志願して、昭和16年に東京中野の経理学校を終わって。本土、それでアリューシャン行ったんです。
戦後に遺骨収集で訪れた思い出話
西間さんから前もって連絡を戴いていたので、一連の資料を全部作っておきました。17年の1月1日に下士官になって、幻の勲章がこれで昭和20年の1月25日、終戦間際にもらっているんです。終戦前に勲章もらったんですね。アッツ島は一番最初に玉砕したところなんですね。ここ兵隊さんの顔にみえますでしょ?
私たちが上がったのは、昭和17年6月8日にあがったんですね。まだ海岸線に2メートルくらい雪があったんです。今亡くなりましたが、杉山さんというカメラマン(杉山吉良のこと)が写したんですが、その時はこの雲なかったんです。昭和50年くらいになって写真を現像したらでてきたんですね。それはなぜかというと、山崎部隊が玉砕しているんですね。30名くらい部隊がいたんです。食べるものもなくて死んだんですね。それで雲が現れたって言われてね。
1,943名があがっているんです。アメリカ人が2名いたんです。これはキリスト今日の教会なんです。病気で3人くらい死んでいるんです。ぽつっと兵隊の顔があるのは、わかるのですが、雲が出たのは不思議で。戦争色々な不思議なことがあるんですね。戦友会やりまして、中川さんって人が中国支那の兵隊さんが、死ぬ間際の言葉を取ってるんですね。
それからね、今そこにビデオうつりますけどね。上、アメリカの飛行機が飛んでいるのは音でわかるんですけど。下見えないんですね。今日、西村さんからお聞きしたので、一連の書類やらを揃えました。この資料をもって。平成5年の年に遺骨収集で。50名何名いっていて、3回いっているのは私だけで。遺骨収集のあれした人は大学の先生になっていて写真を撮ったんですね。
北海道分断を防いだ戦い
北海道から占守島、半日で終わらせて、北海道を分断させる。これが非常に今になって北海道の若い人はほとんど知りません。北海道の分断を防いだって話題になっているんですね。88歳ですね。
第一線で戦闘したのは3,000人くらいですね。15メートルくらいでソ連軍と打ち合いになったんです。そうなると、(ソ連軍が)撃っているのが自動小銃で72発撃てるんです。日本軍は1発ずつ。一番威力があるのが手榴弾で。3発持っていて、最後の一発は自殺用で。ちょうど手榴弾はジュースの缶くらい。投げられないと、数メートル先で爆発するの。本当に戦争は何が起こるかわからないですね。
1942(昭和17)年6月8日 アッツ島上陸
昭和15年3月に入隊して、昭和16年4月に経理学校。旭川に帰りまして、26連隊。で、アリューシャン列島です。昭和17年6月8日ですね。部隊動員がかかったのは5月9日です。それから、北海道の旭川市で、青森いって、海軍が護衛して、いきましたので。8月7日に海軍は舞鶴の陸戦隊がキスカにあがったの、私たちはアッツ島にあがったの。アッツ島はね、キスカ島はアメリカ領だから、そこを占領するとアメリカ本土を占領したことになるんですね。住民が42名いたんですね。その人達は終戦まで日本国内にいて、アッツ島に帰らずに半分は死んだんですね。アッツ島はとんでもないところにきたなと、何にもない、とんでもないところ。魚はたくさんとれましたがね。鮭が5キロくらいあるのが手づかみできるの。長靴はいてね。手づかみしてとってくるの。樽に縛り付けて、30分もしたら樽にいくらがいっぱいになるの。醤油いれてご飯食べるの。イクラどんぶりです。船にも満載して食料。
アッツ島というのはね、飛行機がくるわけでなく、上陸した次の日きただけで、あとはこないの。キスカとアッツは300キロ離れているの。キスカ島はね。飛行場はない。何もない。アッツ島にいた3か月は何もやることないの。敵がくるわけでもない、毎日海いって、魚とって栄養失調なんていない。みんな丸々と太った。
1942(昭和17)年8月25日 キスカ島へ
3か月後にキスカ島で、海軍の陸戦隊だけで、アメリカの爆撃が激しくなってきて、もしかして米軍が上陸くるかもで、キスカ島に来てくれってことでキスカ島に行ったの。上陸した翌日から毎日爆撃なの。大きな爆弾だと死んでいたけど、戦闘機の60キロ爆弾で落ちたら扇形に炸裂するの、近くにいる人は助かるの。破片は4メートル先の遠くの人が死ぬの。私たちは助かった。金曜日は米軍飛行機はこないの。特に13日はこないの。キリスト教のなんかなんでしょう。木曜日に酒をあげて、今日休めって。
アッツ島からキスカ島に移るときにね、船に食料全部積めませんからへ、玉ねぎなんかも兵舎も石油をまいて火をつけて燃やしているんです。アメリカ軍がきて利用することないのに、あんな馬鹿なこと。
10月、11月は零下30度で何もないところにあがった。後から上がった玉砕した人たちは満足に食べるものもなくてひどい目にあった大変だったかと、私たちは恵まれていた。焼き払われた兵舎と糧秣とここに書いているでしょ。そのままにしておけば、あとから上陸した兵士がつかえたのに。
私がキスカ島に上陸する前は、舞鶴の海軍の陸戦隊がいたの。上陸するときは特に攻撃はなかったの。行くまでの8時間かかるの。海軍が潜水艦を警備してくれたの。上陸した後に毎日爆撃だったの。アメリカ軍は物量が豊富ですから、飛行機がどんどん飛んでくるんです。キスカというビデオにありましたが。
爆撃は一回2時間くらいですね。キスカ島の海軍の部隊はシンガポールでね、レーダーにうつるわけです。情報は入るので防空壕に入るの。3,000メートル上空から爆弾を落とすので、そんなに命中しないの。キスカ島を撤退するときに、食料やなんかを米俵を爆弾で空いた穴に投げたの。私は立ち会ったの。480俵をキスカ島で撤退する前にね。時間はっきりきまっていないのに、撤収できるかわからないのに。もし、成功しなかったら食べるものなくて3日と持ちませんでしたよ。運よく奇跡的に撤収できたらからね。ケ号作戦、キスカ島の撤収前のガダルカナル島撤収でね。
1943(昭和18)年7月29日 キスカ島奇跡の撤退
1943(昭和18)年7月29日がキスカ島撤退ですね。8か月島にいました。その間ずっと(米軍の)爆撃です。アッツ島も霧が深いから、落とせなかった爆弾を帰りにキスカに落としてくるの。
よくあれで私たち死ななかったもんだと。海軍は高い山をずっと掘って、陸軍はそういうのないから、たこつぼですね。戦闘機の爆弾を落とされてもやられちゃうくらいですね。撤収のとき、アメリカの海軍が8隻くらいきて、艦砲射撃1時間くらいしてきたんです。空襲よりも、艦砲射撃のほうが、炸裂するとすごいの。剃刀の刃みたいなの。
必ず2発くるの。1時間くらいやられた。艦砲射撃は沖縄あたりでもやられたけど、飛行機の爆弾よりもすごいの。キスカ島の場合は、まだ死んだ人達の遺骨を引き上げましたが、150名くらいの遺体を撤収のときに持って帰ったらしいです。海軍は。17年11月かに司令部が出来たんです。それが、司令部の指揮下にはいったわけです。 301大隊が私たち。302大隊は直接キスカ島にあがったの。アッツも知っていて、キスカを知っているのは私たちだけなの。北海支隊が私たちなの。玉砕しました山崎部隊は、第二支隊じゃなかったかな。両方を知っているのは、30名くらいかな。生きてるの。
1943(昭和18)年5月12日、キスカ島にいましたね、アッツ島が玉砕したっていうときは寝るときも軍装でしたよ。アッツが玉砕したら、すぐキスカに(米軍が)くるとおもっていましかたら。朝に艦隊が迎えに来て、あんなにうまくいくとは思いませんでした。撤退は上の人間だけが知っていて、兵隊は知らないですよ。いよいよ撤退の間際に初めて言われたんです。
内地出るときもどこにいくかは言われたことないですから。これから救援がくるから、確か7月10日くらいかな、第一回目の作戦があったかな。その時は駆逐艦やら縄梯子をこしらえて、それを上り下りを毎日したわけです。どうすれば早く登れるか練習したの。
乗船するときに、船だから制限がありますでしょ。重さの。何人乗る制限があるの。持っていた銃を海に捨てたの。菊の紋章があるでしょ。海軍の司令官の指示でした。軍艦に人間を乗せるために、重さが超えると装備を投げろってなる。最後になったら、見通しがついたから、もう投げないになったが、8割は海に捨てたかな。銃を海に投げ捨てることは、海軍の指示に従うんだけど、こんなにうまく撤退できると思わなかった。
必ずアメリカ海軍と戦闘になると思った。アメリカの艦隊とも海戦になったら3分の1助かったら上々だ。千島に帰るか、北海道で替えて食べ物買う必要あるから3億9千万近くのお金を持っていた。腹に巻いた。兌換券(だかんけん)ってのがあって、金貨と替えれるの。
大発往復で、100名くらい乗れるの。25隻あれば250人、2往復で500名。武器は軍艦に乗る前に捨てたの。縄梯子で登ったの。大発に乗る順番は、そこで指揮官がいて指示するの。本部は一番あとだった。2回目の乗船。いつも霧なのに晴れて、霧が深くかかって飛行機は音はするけど見えないの。軍艦の下は鉄板でしょ。座ったまんま5時間もいるんで大変でしたよ。あと一昼夜くらいは全速力で走りましたから。アッツ島を通るときに、英霊が頑張れよって言っているのを見たという兵隊もいたよ。 7月29日に脱出成功するまで、ずっと20キロを往復してたの。山道なのよ。直線だと10キロくらいかな。
24歳で2メートルくらい離れたところに高射砲陣地があったの、そこが爆撃で10数名死んでいるの。自分の影が幽霊のように見えて軍刀をもってね。アメリカの軍艦からサーチライトがきて、ぱっと止まるから伏せるの。攻撃がくると心配してたの。戦争のあれはね、とんでもないバカげたことしてたの。最初は助けがくるって思っていなかったの。もうこれで終わりだっていう心境だったよ。アッツ島が玉砕したから、次はキスカ島だ、あとは死ぬだけだ。同僚ともみんなおんなじだった。爆撃は毎日あったの。13日と金曜日は爆撃こないんです。迎えに来る船がくるっていうので、行きはいいけど、帰りのバカげたこと。靴を履き替えないといけない。靴はたくさんあった。湾にいって、霧が晴れて大発がくるの。カット晴れたの。奇跡だよ。アッツ島の英霊が守ってくれたと、それ以外に考えられないですね。今、陸上自衛隊は3か月で交代しますね。兵隊が見てるのは同じ服を着た兵士しかみないの。
そうしたら、昔の師範学校出た兵士がおかしくなったの。女性を全然見てないと、おかしくなるの。内地に帰ると治るの。女の人を全然みてないでしょ。女工さんがピンク色の腰巻を干しているの。何百人も見に行くの。そういう事例があるから3か月で交代させるの、今の陸上自衛隊は。7年女性をみていないと、60超えたおばあちゃんでも、みんな美人に見えるの。今の若い人は、隔離されているわけでないから戦争やりますと、本当にばかげた体験をしなくてはいけないのね。年寄りと女の人と子供が被害受けるの。中国では、日本軍兵士がずいぶんひどいことやったらしいですよ。南京の虐殺とか。
1945(昭和20)年8月 千島(占守島)をめぐる戦い
キスカ島を脱出したあと、千島の北部に2年2か月。内地に帰れる思った。ソ連軍でなくて、アメリカ軍が上陸してくれれば、シベリアにいくことはなかったんですね。北海道を救ったのは私たちだと誇りは感じています。アメリカ軍が武装解除くるから、いつでも引き渡しできるようにと準備してたの、飲んだ多時にソ連軍があがってきたって電話がきて。ドーンと音がなったの。囚人、軍服も来ていない兵士が最前線にいて、その後ろに督戦隊がいて、前線の兵士を追い立てるの。
頭撃たれた兵士が、「おっかさん、頭痛い」って2回呟いて死んだのをすぐ傍で聞いた。その場その場で戦争は違いますから。10人のうち7-8名は死んだわけで。ソ連との戦闘は、15日で終戦で、その3日あとに攻めてきて、戦争が終わったので降伏しろって命令が出たので、停戦したの。最初から15日でおわってるんだから、千島もそのまま日本軍のものだったと思うけど。千島が今、日本の領土になっていれば海産物で困ることもなかったの。戦闘は3日間続いたからん。23日に確か武装解除したかな。
1945(昭和20)年10月 シベリア抑留
1,000人単位の部隊にさせられて、シベリアに連れていかれた。ソ連軍に一番抵抗した部隊ということで、一番ひどいところに連れて枯れた。私はまだ主計だからね。ロシア語の特訓を受けてやっていましたね。身分証明書出せって、ソ連の番兵がいて出れなくて、私たちは事務所に行けた。マガダンの収容所の作業は10月にいったときに、山行ってまき切りですね。いった年に零下30度で、体持たないからバタバタと死んだ。死んだ人たちを墓地に持って行っても、オオカミがうようよしていて、みんなオオカミの餌ですよ。マガダンで死んだ人は大変だなって。平成4年に行ったとき、10数体見つかっただけで。
零下50度。アルコール100度の。それを飲んで寒さを凌ぐの。酒に黒豚の油をいれて、それを胃袋を入れて。薄めて飲むと聞かないから、飲んだらすぐに水を飲んで、パンを食べるの。そうするとパンがアルコールを吸収するの。日本の酒の内地帰ってたらお茶みたいなもんだ。4年ン2か月シベリアにいた。帰ってくる順番は、スターリンが死ななかったら私は帰れなかった。千島の部隊に抵抗されたから、北海道を占領できなかった。だから、死ぬまでただの一兵士も返すなと言ってたようだ。スパイ容疑で刑務所連れていかれた人も。海軍の兵隊さんで10年間抑留された人もいますよ。
帰国
4,000名が貨物船に乗せられて、3日目についたんです。舞鶴にきたら、迎えの船がくるんでそれに乗ってください。タラップのったら武装警官が20名くらいいるの。また、出たら武装警官がいるの。大広間に7名入れられた、どこも出られない。250名くらいになった。共産教育してたメンバーもいた。
京都についても、武装警官で、東京に着いたら軟禁されて函館ついたら、夜中の11時くらいの汽車で移動。小樽駅ついて、迎えがきていましたね。小樽駅につく5分前に復員証明書渡されただけで、35歳で帰国しました。戦友が造船所やってるからっていうんで、夕張で仕事をした。小樽は2日だけ。シベリアは共産主義者だって言われるので、仕事がない。官公庁はダメ、零細企業しか仕事がないの。戦友会の仲間は喪中ハガキくるから、今はほとんどなくなった。
体験記録
- 取材日 20年月日 (miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
- 地図 ───
- 年表 ───
戦場体験放映保存の会 事務局
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