金谷 安夫さん

生年月日 | 1920 (大正9)年4月17日生 |
---|---|
本籍地(当時) | 鹿児島県 |
所属 | 佐世保海兵団 |
所属部隊 | 第761海軍航空隊(龍部隊) |
兵科 | 整備兵 |
最終階級 |
インタビュー記録
プロフィール
1920(大正9)年鹿児島市生まれ。2010年逝去。鹿児島工業学校(現・鹿児島工業高等学校)機械科卒業、三菱長崎造船所に勤務していた1943(昭和18)年6月に召集、佐世保海兵団へ入団。出水海軍航空隊の整備兵として配属後、第761海軍航空隊(龍部隊)へ配属、1944年4月テニアン島へ赴く。テニアン玉砕後、1年以上ジャングルで生き延び、1945年9月投降、1946年7月復員。1974年サイパン慰霊旅行の同行で再びテニアン島を訪れたことを契機に、翌年から25回以上テニアンを訪問、慰霊と遺骨収集に尽力。著作として記録映画『姿なき墓標』(1975)など、著書に『戦塵の日々 原爆の基地テニアン島の戦闘と遺骨収集』(1996・自費出版)がある。
証言ビデオから・・・
(TVから流れるビデオのナレーション)「アメリカ軍に追い込まれ、最後の司令部となったのがこの洞窟でした。ミサオさんは最後となった昭和19年8月2日、この近くにいた可能性があります。8月2日は司令部が玉砕した日でもあります」
(ビデオ内・案内人の男性が地面からものを拾い、カランカランと音がなる)「このものはもう全部当時のもの、これも…これは本当に〇〇の?海軍の食器ですね。鍋があるでしょう」
(女性遺族?が近づき、賛同するように)「ねぇ」
(男性)「これはおそらくあの司令官の人たちが使ってね、そしてご飯炊いたんじゃないか」
(ナレーション)「大きな鍋が置かれていたのは、日本軍の調理場の跡でした」
(女性)「もう最後本当よかった、こういうことです。やっと今わかりました。ここで済むよ(と鼻をすする)」
(金谷さんの声)「と、いうこと。ですね、これは」(とビデオを止める)
ここで撮ったら暗いか?逆光?
(そうですね、ちょっと逆光になっていますね。)
じゃ、そっち電気点けるか。(と立ち上がり、電気を点けに行く)
支離滅裂じゃないけれども、順番は変わってしまうけど、帰ってきた当時ね、21年の7月に帰ってきたんだ、7月10日。7月10日に帰ってきて、帰ってからしばらくは収容所に居ったんよな。収容所に入れられて、何やかんやいろいろ訊かれて、そうして帰ってきた。そのとき、うちの親父が市役所に勤めていた、市役所。(手元の資料を見ながら)で、市役所に勤めとって、どこば話よりよったかな。
収容所の話
それはまた別にしてね、テニアン島で終戦後、僕らが捕まってすぐ1週間ばかりテニアンに居ったんだけども、その間に収容所の所長というのが居って、その所長は何かって言うと、中尉か大尉かだったんだけども、本当の親日派なんだよな。日本語がよくできるしね、方言もよく知っているんだ。この男が非常に親日家でね、お前たちはよく頑張った、戦ってよく生き残ってくれた。感謝の気持ちでお前たちば海水浴に連れて行くと。日本で海水浴なんて言わん、全然なかったんだもの。そうして海水浴に連れて行って、ここから行って、そこの間の向こうの岩のあるところのこっち(手前)側だけで泳いでおけと。その先に出て行くと波が荒くて、流されたらもう捕まえ切らんぞと。わからんようになるぞということでね、そうして(泳ぐ仕草)帰ってきたら、そうしたらあの頃ボトルに入ったビール350mlかな、ビールがあったんだよ。それを1本ずつこうして(瓶を配る仕草)。捕虜にビールなんて禁物だったんだよな。そのビールをくれてね、そのビールを飲んだ。久しぶり、ビール飲んだのは。いやもう嬉しかったよ、嬉しかったな。ともかくこの将校に感謝したな、ありがとう。日本ではこげんことはなかったんだ。それをしてくれたんだから、ありがたかった。
それからもう1人はね、アメリカ兵が終戦後はいろいろ呼びかけというか、「戦争に負けたんだから出てこいよ」ということを言って、なおサイパンからも人がだいぶ来よったんだ。サイパンから人が来てね、応対っていう人が来てくれて、それに付いた兵隊たちも来てくれて、「降伏やけぇ出てこい、出てこい」と。[米兵は]あっちこっち洞窟[にいること]を知っているんよ、僕らがな。そこの洞窟をあそこもあそこもと言ったら、そこをずっとまわってから来よるとたい。僕のところには来なかったけど、あっちこっちの洞窟に行って、噂の話を聞いたとかいろいろ資料が残っとるの。それがどうしたかしらね。
なかには、それで出ていこうかなということで出て行って、捕まってそのまま収容所に入った者もおる。なかには、いや俺はやっぱり仲間のところに帰ると言って、それじゃ返してやろう、返してやろうとアメリカ軍が。そういうことを言ってくるアメリカ人が居ったんよ、それが収容所の所長。シュナイダーというのが居って、それがビールを飲ませてくれた収容所の所長だった。これは偉かったなぁ。本当ねびっくりするような人やったよ。そして帰るときどうしようかと言ったら、よし、もうどうしても居りたくないんだったら、しょうがないから帰れと。明日車出してやるから、その車に乗ってジャングルまで行けと。ジャングルの下で降ろすから、お前そこで帰れと。その軍人は送ってもらった。それでどうしたかといったらね、缶詰やら食糧やら何やら、2箱もらって、これお前にやるから、ジャングルで飯がなかろうから、これを食ってつなげと。それでもらって帰ったの。それは後でね、この話をしてくれた男がおった。こんなこともあるんだ。
それからサイパンの収容所に移されてからね、今度は収容所の所長が変わった。何かって言ったらね(へへへと笑いながら)中国に行ってね、日本兵、ジャップにやられた部隊の隊長が居るんだよな、それがサイパンの収容所の所長〔になった〕。あのとき2千人くらい居ったかな。全部集まって、そのほかの南洋群島に居った、サイパン、テニアン以外の島からも集められた連中がそこに2千人ばかり居ったわけ。そこがいっぱいになると、昔はハワイに送りよったんだ。それを僕らのときはそのままで、そのままずっと居ってね、そこで2千人ばかり居ったけど。そこの収容所の所長がやられた収容所の所長。それがまぁ日本人って言ったらキーッと(いきり立って、銃剣を突きつける真似)する男だったんだよ。それから今まで8時間労働で、朝何時から8時間だったのが、お前らは8時間じゃ足らない、まだ働けと。9時間にしろ何時間にしろ、夕方6時まで働かせよった。
(完全に自分の恨みですね。)
それからカルポスというのがあってね、刑務所じゃないけど収容所(留置所)、悪いことをした時の収容する場所があったんだ。それは1つのこの位の小さな箱じゃないけど、幅は三尺、高さは背丈くらい、長さは寝るだけの小さな箱があった。その箱の中に入れる。そしてそこの中に入れて、カルポスと言ったんだけど、カルポスの1週間や10日とか、悪いことをしたらみんなそこの中へ入れられた。人がどんどん増えてね、しまいには居れなくなって、入れなくなって、そのうち収容所の所長が変わったかな。酷かったことがあってから、ほんとあれ(?)ひどかったわ。そういうようなことを後、米軍も信頼関係やな。信頼するといろいろよくやってくれる。
ああそれから、痛かったら逃げろと、ここ(と太ももを叩く)撃たれて、ひっくり返って痛かったら逃げろ、と言われたとき。これはある戦友会でその話をしたの。そしたらそこの戦友会に来たのがね、熊本の人が僕を呼びにきて、諫早に行って諫早でその話をして、そうしたらみんなお坊さんの関係の人が集まっとった、兵隊に行った人が。僕はテニアン、サイパンだったけれども、その他の島から集まった人たちが居った。そのお坊さんたちがお前どげんことをしたかというわけで、僕の生き様をいろいろ話しよったら、やられてこうやってひっくり返って「痛かったら生きとるぞ、逃げろ!」と言われて、帰ってきたと。ほぉ、それはね亡き戦友が確かに言ったはずじゃと。それがお前のところの耳に入っとるんじゃと。不思議と耳に入っとるんだものなぁ。
戦中のことを夢で見る
それからもう一つね、終戦後帰ってからね、しばらくの間というもの、毎日毎日その戦中の夢を見た。戦地の夢を見よった。これもここに書いてあるよ。夢をみて、何を夢見たのかというとね。崖の下から戦車がガッガッガッ上がって行くんだな。そこで僕らは震えておって、下から上がってくる戦車をわーっと思ってこうして(丸めた手で両耳を塞ぐ格好をして)塞いでね。引っ込んだところに隠れていると、頭の上をスーッと通って行く、戦車が。そして先の方へ行って、あっと思ったとき、目が覚めるんだ。夢。
(実際そういうこともあったんですか?)
あった。あったんじゃなくて、それは夢だ。実際には戦車が頭を通り越したことはなかったけれども。戦車に遭ったことはあった。それも何回か遭ったことはあった。その代わり、サトウキビ畑の中に入っとって、サトウキビをこう組んで何かしとったら、バタバタバタバタと戦車の音がするしな、これはおかしいぞと思ったらね、サトウキビ畑を耕して道路を作るとか何とかしよったんだな。そこの作業に引っかかってしまった。ちょうどサトウキビをこう束ねてテントを張って、そこの中に1人ずつ寝とった、別々に3人か4人寝とったんだ。「おかしいな、何かあっち音がするぞ。どうか、聞こえるか?」「うん、聞こえる」パンパンパンパン。そのうちサトウキビがこう(後ろにのけぞる)倒れてくるの、こっちに。「こら、来たぞ!」と思ったら、こう[こちら側に]倒れてくるからパーっと逃げたんだ。そしたらね、そのエンジンを発動機回して来よった奴が止まって、エンジンはかかっておったけれど、動くのをやめて、「ジャーップ、ジャップ!」と言うんだ。JAP。言う人がおるから、こりゃ何か来るぞと思ったら、居る場所ないわけだ。それでずーっと行って、すぐ先の方のサトウキビ畑の反対側の方に行って、ここからこう逃げた。
(よう逃げられたですね。)
それからもう一つはね、これは(と資料を眺め、めくる)戦友会に行って、お坊さんと話しよるときに、その夢の話をしたらね、その夢の話というのは(語気を強めて)毎日決まって同じ夢ばかり見るんだよな。いくつかパターンがあって、下の方戦車が歩いとるとか、兵隊がこっち来るとか、何をするとか3つか4つあって、毎日同じ夢を交代交代に見てね、その間完全にもうビクビクしながら(体を縮める動作)起きて、戦車が行ってしまったら、はぁーっとなって起きると戦車があっち行っている。また夢やった、また夢やった、また夢やった。毎晩夢を見た。そして結婚してからも夢を見た。
戦後再びテニアンへ
(結婚されたのは、戦争が終わってどの位だったんですか?)
戦争終わって、21年の7月10日に帰って来るんだ。それから毎晩、毎晩その夢ばっかり。
(ご結婚されたのはいつ位ですか?)
いつやったかな。(資料を取りに立つ)結婚したのは…わからんな。
(結構戦争終わってからは長かったんですか?)
いや、すぐ結婚した。
(あぁ。)
昭和22年。
(じゃ、もう[復員した]翌年ですね。)
12月20日結婚(へへへと笑う)。この頃も夢を見よったよ。家内は知らんものな。夜中に起きると怖かったな。その話をお坊さんの集まりの戦友会で話をしたら、それはやっぱり戦友が呼びかけて来よるんだと。だからお前はなんとかしてやれと。それがいつやったか、大分昔だったけれども、よし何とかやろうと思い、一生懸命やった。そしてそれから造船所に勤めとって、その間ここに来て造船所に勤めて、10年位経ったらだんだんそういう夢が少なくなっていって、10年経ったら仕事が忙しくなってね。今日は出張じゃ、また東京に行け横浜に行け、神戸に行け。船の仕事やったからな、エンジンの仕事。だから出されよった。そしたらもう夢どころじゃなかったんだよな。夢どころじゃなくて、仕事が忙しくて完全に忘れて、それから何年か忘れてしまって、昭和49年。
それから20何年経っとるな。49年にね、あの頃日本航空のグアム・サイパン行きができたんだよ。飛行機が初めて。じゃこれに乗って行こうじゃないかという訳でね、長崎の市内に居った若い女の子14〜5人。男は3人ばかり居ったかな。それが新聞広告が出たよ。こういう訳でグアム島に行ってみたいと思うということだったんで、(受話器を持つ仕草)俺はグアム島じゃないけど、サイパンやテニアンに居ったことがある兵隊だが、話ば聞かせてくれんかと言ったら、どこどこの喫茶店で話をするから来てくれんかという訳でなぁ、行ったんだ。そしたら喫茶店に女の子やら、男の子やら集まって、コーヒー頼んで飲んで、何だかんだ話ししよったら、ぜひ来てくれって。49年まだ僕は会社に行きよったもんね。だから正月休みを利用して行ってきた。嬉しかったなあ。テニアンには行ける予定がなかったんだけど、なんとかして行こうじゃないかと言ってテニアンに行ってみたら、懐かしかったな、涙が出た。嬉しかった。
それから行き出してなぁ。好きになって毎年毎年行くようになった。それから毎年毎年行くようになって、最終的には、昭和59年か。49年に行ったときには、日本の政府から来たと。それから長野の山岳会というものがあって、そこの連中が来てくれてね、洞窟という洞窟をほとんど漁ってしまったと。だから大きな洞窟はあるけれども、我々は入れんのよね。洞窟の中真っ暗でしょう、電灯も何も持たんから、僕らは。ただ懐中電灯を持って、これだけしか行かれんわけね。2段3段じゃなくて、ずーっと下まで[洞窟が]あるんだもの。そういうこともあって、その長野の山岳会が行って、下まで全部上げたと。よくやってくれた。やってくれたものだから、だいぶ助かったんだよなぁ。その話を聞いて、山岳会が来とると。それから厚生省の遺骨収集も来よるぞという話を聞いた、49年に。
(飛行機ができてすぐくらいのときに。)
その前からやったな。その頃から盛んになってね、どんどん行きだして、こっちは行きたいなぁ行きたいなぁと、思っても行く伝手がないんだよな。だからあっちこっちで行く伝手に乗っちゃ行き、あっちの伝手で乗って行きしよったけれども、そこのところである人を捕まえて、その人が遺骨収集とか何とかの人で、それを捕まえたんだけども、一向にお呼びが掛らんのよね。これに10年かかったな。49年から59年になってから初めて、どうか行かんか、行くなら連れて行くぞと言われて行ったよ。それから作って行ったのがこれだ。(と手元の資料を叩く)遺骨収集。で、遺骨収集に行って何したか、って言ったら遺骨を拾わんばな。ただ遺骨がどうこうと言ったらば、その当時をそのまま物語っとるんだよな。
(そのまま。)
おう、そのままの姿で僕らどうしとったかと言ったら、敗残兵をしとったんで、テニアンで敗残兵をしとったら何かと言ったらば、戦争に負けた訳だよな。しょうがないからどうしようかって言ったら、生き残っとるんだよな。生きとったんだよ。生きとって、どうしようか。アメリカ軍が全部占領してしまっとるぞ。どうしようか。しょうがないから、日本の兵隊が必ず奪回に来るはずだから、そのときは後ろから行こうじゃないか、ということなんだ。そう考えておったらね、それどころじゃなかったんだものなぁ。食うのが一杯で。何を食ったらいいか、食うものがないんだもの。あるときに、大昔に担ぎ上げとった洞窟の中に米があったのがわかったものだから、そこに行って米を少しだけ取って、どうしたらと言ったら兵隊3人で行って、3人の1人の兵隊がズボンの縫い目に、ここを封付けて?この中に(とウエストを広げる真似)いっぱい入れる。そして担いで帰ってきた。
(うわぁ、考えるものですね。)
そこで1ヶ月分くらいはあったんだよなぁ。だいぶ食えたんだよ。それからその後でそこに取りに行ったら、全部焼かれとった。アメリカが、石油引っ掛けて、バーっと燃やした。
(来とるというのがわかったんですかね。)
やられた。そういうこともあった。食糧難というのは非常に難があったなぁ。あるときはここ(脚を指す)を撃たれてみたりね。
戦後処理の違い
それから国の戦争に対する反省。(語気を強めて)全く反省してないもんね。戦犯が出たでしょ。戦犯が何人かおって、死刑になっとるな。あれは連合軍がやったんだと。我々はやってないと言うんだ。あれも戦死したんだから祀ればいいんじゃないかという訳で、靖国神社に祀った。そしたら天皇陛下、昭和天皇がそんなところには俺は行かんと。行かれんやったもんなぁ。今年号が変わったから何とかかんとかじゃないけど、天皇陛下は行かんもんなぁ。そんなところにね、そんなことまであるんだよな。と言うことは結局、天皇陛下が行かんということは、お前が命令を出したんだから、お前が責任を持たんといかんじゃないか。その責任は誰も持つ人がおらんの。誰が戦死させたんか、誰も俺は知らんという。
結局ね、僕らが帰ってきたときは何をしたかというと、僕らはアメリカ兵から「お前たち内地へ帰ったら、何にもないと思え」と。故郷に帰ったら家はないと思えと。アメリカの飛行機がテニアン、サイパンから出て行って全部爆撃して、日本の街は全部なくなったということよね。そういう訳で何にもないから、良いものを持って帰れというわけでね、毛[ウール]のシャツとか、南洋にも毛のシャツがあったんだよ。それから毛のズボンがあった。軍服じゃないたいな。毛のズボンの民間の服があったから、それを履いた。ここにPWと書いてあった、捕虜ということ、戦争の、Prisoner of Warと。それを何で書くかというと歯磨き粉で書けと言われた。歯磨き粉でPW、[ズボンは]真っ黒な黒地だったものな、黒の毛の上等なやつよ。それにも、背中にもPWと書いた。みんな書いて、毛布も上等な毛布を持って帰った。そしたら収容所で全部取り上げられた。そして昔の軍服、穴の開いたやつとか尻に穴が開いたの、毛布といえば(広げて透かす仕草)先がこう見えるようなものに替えられてしまった。
(監督していた人が代わったからですかね?)
収容所の監督、鹿児島へ帰って鹿児島の収容所の所長がそういう風に取って、取り上げてしまった。本当ね、かわいそうだったな。それから給料。給料300円だけは払っとくから、あとは整理がつき次第払うからそれまでは待っとけと。未だにくれんもんね、未だにくれんのよ。それどうしたかというとね、あるときね、行政監察局というのがあるね、行政を監察しとる、取り締まっている局がある。そこに何かの用事で行って来いと行かされて行って、私はこういう訳で給料をもらっていないけど、何とかなりませんかと言ったら、はい、それじゃ調べますから、明日返事しますからお宅の電話番号を教えてくださいと言われて、電話番号を教えた。そしたら翌日電話が来た。昨日電話いただいたこうこう言う者ですけど、と丁重な挨拶がきたよ。そしてね、これは昭和25年に打ち切りになっております。だから今のところ如何ともし難いです、どうしたらいいでしょうかと言ったら、議員立法を頼めと。議員立法ってどげんすっとですかと言う訳だけど、知らんでしょう。議員さんに頼めっちゅうね。そしたらお金がいるじゃないですか。そりゃいるでしょうねという訳よ。どれ位のもんですかと聞いたら、片手とか両手とか。5万とか10万じゃない、500万とかいくらとか、そんな馬鹿な、金があるものか。500円位もらうのに、5万も10万も出せるものか。そしてね、行く度に市役所に行っちゃ、こういう訳でもらったのが、それは14年だったかな、厚生、行政監察っていうの何年だったかな。平成4年やったか、覚えとらん。という話よ。その後でも行ったけども、2〜3年前になってやっとコピーしたものをもらって、ここに未請求の軍人給料については、昭和25年の何月に打ち切ると。
それが出とってね、何でそういうことをお前たち知っとって、俺に打ち切りになるから早よ申請しろと言わんかという訳よ。そして言い出したら、黙って一言も返事しない。そして結局、どこに行って何を言えばいいか。どこに行っていいか悪いかわからんもんね。市役所に行っても、県庁に行っても同じでしょう。そしたらどこに行くか。公民館に行ってもしょうがないし。警察に行ったらひっ捕まるかもしれんし、そしたらどこに行くか。下駄屋に行くか、靴屋に行くか、そういうところに行っても話になるはずがないし、市場に行っても話は…結局話しするところがない。ということは結局何かって言ったら、何にも市役所が耳を塞いで話を聞かんからダメだ。うまくできとるよ。そして市役所の連中は何をしとるかと言うとね、上手いことばっかりやっとるの。全部でいくら、お前全部脱げと言われて、全部脱がしてこれと替えろと。そして全部(横に流す動作)。
本当ね、そして終戦後も、戦争の終戦処理が全くできてないでしょ、そういうこともね、僕らの給料で払うのは払ってしまわなきゃいかんのよ。アメリカはそうじゃないものね、アメリカはアメリカにいた日本人の1世や2世を全部収容所に入れておった。そして家屋敷を焼き払うとか何とかしとる。その後戦争が終わってから、全部補償しとるもんな。それはなぜかと言うとね、俺はアメリカの2世だと兵隊に行ってアメリカのために働く。但しその代わり、日本人を殺すことはしないと思う、我々は。アメリカの兵隊だから。だけども、アメリカの人間だけども、もともとは日本人だから、日本人と戦うことをしない。だからね、サイパンに来とったのも、アメリカの[日系]2世が来とったよ。その連中がいろいろ通訳してくれたり、何やかんやしてくれた。(しばし黙って頷く)で、その通訳は、アメリカはそうやって2世がうんと働いてくれて、相当働いているらしいもんなぁ。相当戦死者も出しとるらしい。だけども、それ全部連れて帰って、家を整理してくれて、残った家族は全部元のところに帰してくれて、いくらか給料もらっていたと。ああ、それから僕らもサイパンにおって、収容所におってサイパンで作業に行ったときはね、いつも給料くれるんだよ。日本人の収容所に連れられて行っとったのは民間人と兵隊と別々に収容所があってそこに入っとった。僕らは兵隊のキャンパスに入って、あちらは民間人の。民間人も作業に行ったら金をもらう。日本人も兵隊でも金をもらう。そしていくらかもらって、お前たち帰ったらば、これをアメリカの兵隊に書いてもらえということでもらって帰ってきた。証書をね、何と書いてあるかわからんけど、もらって帰ってきて、それを見てみたら何とか書いてあったよ、で、あのとき20…?いくらあったか知らんけど、金もらった。それをどうしたかって言ったらね。家に帰ったら近所に銀行に行く人がおって、その人が「あ、お宅は帰ってきたんですか、それじゃそうしたら何とかはもらっていませんか、証書があったらください」と。それを持っていったらね、金持ってきてくれたよ。ドルを円に換算して替えた。そしたらその後でね、アメリカの兵隊が来てね、お前はこういうものをもらって帰ってきたろうと。それはこういう訳で日本の銀行の人が来て、持って行ったと。で金もらったと。そこでじゃ、教えろとそこに入れたらとそこへ連れて行って、何とか話をしよった。そして、アメリカはアメリカでそういう証書を取り交わしたんやろうな。だから金払ったり、何かしとるんじゃろう。そこは僕は知らん。
アメリカはね、するだけのことはしてくれとるよ。僕らは戦争へ行って、日本ではもう戦地へ行くときは、死んで帰れ、死んで帰れと送り出されとる。それから一度家に帰ったときも、うちのお袋もお父さんも兄弟も親類の人も、死んで帰れ死んで帰れと誰も言わなかった。その代わり、駅へ行って場を作って「死んで帰れと励まされ〜(と歌い、頭を下げる)」涙が出よったよな。それから親父が一緒に夜汽車に乗って、朝起きたら佐世保に着いとった。そして佐世保に着いて、親父が来てくれてね、脱いだやつも全部梱包して親父に渡して、親父は長崎に来て、長崎○○に僕は勤めとったから。長崎の下宿にね、机やら本箱やら何やかんやと、必要なものは家に持って帰って、その他のものは置いとったんだよな、夜具とか何とか。全部親父が引き取りに来てくれてね、そして佐世保に来てくれて、僕の荷物を持ってその後で長崎に来て、長崎も自分〔父親〕が居ったことがあるからな、良く知っとるんだよな。そしてそこでうちの下宿やら何やらぐるぐると周って、荷物やら何やら送り返して(両手で軽く荷物を放るような動作)、送り返して、してくれた。
だけん、アメリカはね、しっかりしとったなぁ。だけんアメリカは信用になる。そして日本は何をしたかと言ったらば、何にもしてくれていない。兵隊の給料もしてくれない。で、ある程度あのとき話しに行って、「俺は兵隊に行って給料もらっとらん」「へぇ、給料もらっとらんと。何で行ったとですか」「兵隊で行ったったい」じゃ何ね、ボランティアで行ったとね。ボランティアじゃない、一等兵でちゃんと行っとったやん。何も昇給も何もせんで帰ってきた。何にもせんでも、ただもらったら30円か知らん、もらっただけや。30円か(頭をかく)。本当バカみたいなものだった。それだけで何をしたかって言うと、国は全然やってないもんな。そして、公務員になった人は、いろんなことで得をしとんだよ。年金もちゃんともらっとるんだよな。僕らね、加算を加えると10年になる。現役は3年。で、現地に行けば3倍になる。大体12年だけど、2年半しか行ってないから、10年しかない。10年では恩給がもらえない。10年以上になれば恩給がもらえる。その恩給がゼロ。で、給料はゼロ。それじゃ何しに行ったんかって言ったら、ボランティアで行った。ボランティアでもね、往復の旅券くらいくれるぞ、とみんな言う訳。そりゃそうじゃろうばってんね、何にももらってない。その代わり、ただで送り返してくれたけど(笑)。本当にバカみたいね、バカ。それでね、何とかしようと思うけれども、如何ともし難くて、市役所に行っていかんなら、県庁に行って何もしてくれんと、行き場所ないもんね(少し沈黙の後、肩を揺らして笑う)。本当にね、情けないよ。それで日本が何をしたかというと、本当に何にもしてない。終戦処理を、自分で終戦処理をやってない。あれが全くダメだな。
生きて帰れた理由
それからね、私は生き残って帰ってきた。この理由、これを話したいのが、僕一番に肝心やった。生き残って帰った、何で生き残って帰ってきたのか。3%、100人のうちの3人。よく帰れたなぁと。と言うことはね、結局僕らが海岸まで追い落とされて、海岸に行ってどうしてもこうしても飯も食えんし、そのときポケットの中にね、米を持っとった人がいて、お前ポケットの中に米を持っとったら、その米をちっとくれんかと言ったら、いいよ取れと言う訳でね、ポケットの中に手を突っ込んでこれだけ(握った片手を見せる)もらった訳だ。[その米を]ポケットの中に直して[註:”しまって”を意味する九州の方言]、ポケットの中に入れて居って、少しずつ食う訳だよな。(米をつまんで食べる仕草)
(そのままですか。)
ああ、生で。釜も何にもないんだもん。海岸にも降りて行ったけど、海岸よ。これもあるかな(資料をめくる)。海岸に追い落とされて、それをやってしまうんだ。で、その海岸に行ってね、海岸で、これも後で出てくるけども、海岸で[戦闘を]やっとるときにもういよいよ腹が減って、もう1週間食わんやったもんね。そしたら腹減るどころじゃない、水ばっかり飲んでいるとね、すると便が出なくなる。こりゃいいよ、それから小便だけは、たらたらたらたら、座っとって小便だけさーっと、ただそれだけ。夕方になったら、水筒をみんな3人分、4人分担いでね、水汲みに行く。一升瓶にも入れて持っていく。それでみんなこう配って。それで1週間交代交代で、毎日毎日交代で、夜になってから水汲みに行くんだよ(笑って頭をかく)。そしてやったところが、もう腹減ってしょうがない。しょうがないから上に上がってね、俺たちは日本の兵隊が来たらば、後ろからやろうじゃないかという訳で、ジャングルの中に入ろうということでね、ジャングルに逃げることにした。海岸に居ったのがね、海岸を歩いて岩の割れ目から上に上がって行ったんだけど、その岩の割れ目の途中でね、途中に行くまでに相当流れ着いておったなぁ、死体が。と言うことはね、その頃民間人がやっぱり自決をしようという訳で、自決をした人が居った。それが崖から飛び降りて、海岸に落ちた。それが流れてゴロゴロしとる。それらを踏みつけるとか胴体に乗り上げるとか、そういうことが再三あった。そして(両手を合わせ拝む)ごめんなさいと言いながら、よけて通って。そうしてあるところへ行ったらね、片一方大きな穴があって、岩があってね、先へ行けなくなってるんだものな。こりゃ行けんぞ先にとなったら、こりゃ行けんぞ、水に浸かってどうにもならんから。よく見るとね、朝方になってから、よく見ると水際からちょっと上がったところに岩がこうあって、そこが掘れとるのよ、大きく。洞窟ができとるの、こう掘れて(右手をぐるぐる回す)。こんなして掘れとる(右手を上下に動かす)。これがこう(上から下へ半円を描くように右手を動かし)掘れておる。じゃろ?こう岩があると(と左手に持った資料を岩に見立てて)、こう掘るとなると、こんなした穴が開いとる。そこにね、14〜5人、陸軍の兵隊ばっかり。14〜5人がこう(倒れている仕草)。結局あれ自決やったろうな。それは後で思ったんだけども、その当時はここにも兵隊が死んでおる、まとまって死んでおると。何でじゃろうかいと思いよった訳。と言うことは結局ね、上の方からは見えるところじゃないし、岩があって、こっち(手前)側だから、完全に背丈、背が見えないところなんだよな。それでもそこがやられていると言うことは、結局今になって考えると自決じゃなぁと。そのときは、ここまで来れば小銃があるから、弾をみんな持っとるから、ここまでくれば小銃が拾えるぞと思いよった訳よ。そしたら小銃どころじゃないんだもの。そこをこう(這い上がる仕草)上がりよったらね、うまいこと岩の割れ目に沿って歩いたら上がれる。
そうしたら上の方にね、ちょっと横に行ったところに「あぁ、兵隊さん」と言った人が居って、ううというような[うめく]声がしてね、見たら人が倒れとった。そしてもう動けんと。マッチばくれという訳だ。火薬を持っとるからマッチをくれ、貸してくれと。あのとき僕はマッチとか何も持ってなかったんだ。それで「死ぬな、頑張って居れば迎えに来るから」俺たちは日本の兵隊が来たら、後ろからヤンキーをやることにしているんだと、お前たちも上に上がって来いと。「元気出して上がって来い」と言う訳で、米を少し、残っていた米が少ししかなかったが握らして、僕はいよいよ食うものがない。どうしたかって言ったらね、そこを通り越して上に上がった、上がったらジャングルがあるんだけど、斜めになったところがあってね。そこをずーっと上がれる。こう岩を上がって立ち上がってここに行ったら、ぱーっと先が見えとる。そこ何にもない、ところどころ芝。芝が生えておって、こんもりあって山ができとるんだよな。背丈より高いくらい。2〜3、何箇所かこうやってところどころあって。あそこをね、こう順繰り順繰りに辿りながら向こうのジャングルまで入ろうじゃないかと。そして入ったよ。
そして初めて米を拾ってね、民間人で居った人たちの跡を探して、米を拾って炊いて食べた。(少々の沈黙の後)それはうまかったなあ。初めて炊いた飯。それが米と玄米と白米と何やかんや、麦やら何やら一緒くたにしてみんなで炊いて、水はどうするかと言ったら、スコールが来る。スコールが来るとね、椰子の木やら何やらがこうあるでしょ、そこにね、ひもでもネクタイでもタオルでもいいから巻きつける。藁でも何でもいい、巻きつける。そうすると、幹からこう伝わって来たやつが(巻きつけたものに)通ってくる。水がいくらでも取れるんだ。水を集めて飯を炊いた。そうしたらね、見つかった。ヤンキーに。上からバンバンバンバーンと撃ってきた。そう言うことで、そこで死んだのは何かと言ったらね、下の洞窟で死んどった兵隊は、これはやっぱり自決したんじゃなと今考えればそう思う。その当時は小銃があるから、ここに来れば小銃が取れる、それから擲弾筒(テキダントウ)もあったから、これを持って帰れば擲弾筒取れるな、いろんなものがあったからね。そう思いよったところが、やっぱりこれ自決やな。
遺骨収集
それから遺骨収集に行き出して、テニアン島の山の一番南の方の山のところ、崖のところで、そこであそこに遺骨があったから行こうじゃないかと連れて行ってもらって行ったらば、いくつかあるんだよ。だいぶあったよなぁ、まとまってあった。で、ここは戦争があったはずじゃないが、何でこんなに死んどるのかと。遺骨収集に行ったときは、お骨があるからという訳で丁重に拾ってきたけれども、よく考えてみるとあれもやっぱり自決じゃなかったかなと。隊長の自決やな。隊長が自決するから、お前たちも全部集まって自決じゃと。そして僕らが嫌じゃ、私は何とかじゃとか言うといっぺんにやられるんだな。隊長は持っとるんだから(手榴弾の形のように握った手を丸くする)。僕らは何にも持たん、どうしようもない。(少し沈黙)本当にね、情けないものだった。そう言う訳で、考えてみたら、どっちみちあれは自決やったなと。それから後は民間人がいろいろ、たくさんの人たちが自決やら、お母さんを殺して何とかじゃ、と随分あったんだ。そんなのを聞くというと、あそこに死んで居った、ここで死んで居った。町の中でも相当まとまって遺骨があったところがあった。あんなところもひょっとしたら、自決やなかったのかなぁ。それは今になって思い出すことだ。その当時はあぁ、これだけある、遺骨がこれだけある、かわいそうに、かわいそうに。それだけで遺骨を拾って来よったけれどもそうではないんだなぁ。考えてみると、あれも自決じゃないんかなと。そして結局、何をしたかと言うと、隊長が集まれ、手榴弾持っとるじゃろう、みんな持って1、2、3、万歳!ボーン、ボーン、ボーン…!(頭上に上げた両手を動かし、爆発を表現)、が主じゃなかろうかな。
(だからどんな風に亡くなったかというのがわかるような状態ではない訳ですよね。)
だからそうやって死んだのはね、まとまって死んでいるでしょう。何でこんなに死んだか。一つはね、テニアンには千体埋葬地点というのがあった。何かって言ったらば、あのカロリナスの一番最後の台上で、戦死した人が多かったから、それを全部集めてね、一箇所に埋めたと言うんだよな。埋めたと。それをブルドーザーで穴を掘って、そこの中にバーっと埋めたと。そこを探そうと言う訳で、一生懸命探したけれども、そこのところが全然わからん。だからそこを掘ればね、大量のお骨が出てくる。お骨どころじゃなかったんだもんなぁ。わからん。だから結局、千体埋葬地点っていうのは、わからんじまいではあるんだけども、結局そうやってまとまって死んだところは、結局自決じゃないかなぁと。今頃になって思い出した。まぁそう言うことやなぁ。
(じゃ逃げてまわっていたときには、そういう自決が起こっていたとかいうことは考えない?)
考えてなかったな。その代わり、手榴弾というのはね、陸軍が居ったところを歩いたときには必ず何やかんや手榴弾が1箱ずつ置いとったもんな。手榴弾いっぱいあるんだよ、ジャングルに行けば。それを手榴弾1発持って行こうったって重たいしな。(後ろを向いて)手榴弾あったんだけども、あるよ(と後ろを指す)。空で火薬は抜いてある。
それで結局ね、民間人が非常な苦労をしとるというのは、どういうことかというと、日本には南興会というのがあるんだよな。南に興す会。南興会というのがあって、そこの南興会はね、南に居った南洋興発の人たちが集まった会なんだ。それでサイパン、テニアンの民間の人たちは皆、南興会だったものだから、南興会に入っとる訳。で、僕もそれであるとき、ある人にお前も入らんかと言われて入らせてもらって、3回参加したことがあった。そしたらその中でいろんな人が居るわ。いろいろある。こりゃもうびっくりするような人がある。でも結局ね、サイパンではサイパンの玉砕のときの映画がよくあるな。あのとき崖からね、女の人が飛び降りるところがあるんだよ。見た?
(いや、見てないです。バンザイクリフとかがある。)
そこのビデオもあるよ。それでそこから飛び降りるところがある。飛び降りるのが私のお母さんやって言う人がいる。お母さん。
(えっ、その…。)
ほんとかっちゅうごとある。いやそれはもうお母さん、自分で信じとるんだもんな。いやぁ僕はもうお母さんでいいと思った。そう言う訳でね、その人も南興会には今度出てきてなかったから、今度は出てきてなかったよ。だからおそらく亡くなったかなぁ。あ、10月のね、10月の10日くらいにあるんかな、毎年。
(ああ、じゃつい最近、今年もあったんですね。)
あった。それで、その南興会に行った人から、井上さんちゅう人がさっきのあれをくれた人だ(後ろを見回して、封筒を取る)。井上さんから連絡もらいましたと。この井上さんな。彼が僕に南興会に行って資料を持ってきて送ってくれた。それを見ると58名か、出席者。僕らが居っとったとき100名超しよったもの、だいぶ前だったけど。そしてその中でね、二瓶さんという人が居ったけれども、その人も来ていなかった。その人もやっぱり年は年やけどもな、それはまたかわいそうな人なんだよな。民間の人の、テニアンの人。
テニアンでね、お母さんを(銃を構えて撃つ真似)。それがまた、その人も偉かったけれども、お母さんも偉かったか何か知らん、死ぬときはもう皆自決するっていう訳で、皆自決してしまいよったのを、あっちもこっちも手榴弾がバーンといってみたり、何やかんやしよって、海に飛び込む人が居ったり、何やかんやしよった。そういう訳で、亡くなるときね、お母さんが息子を呼んで、その息子をね、その二瓶さんという人を呼んで、お前は私が生んだ子供だから、私を殺してから死んでくれと。(ため息)2人ともしばらくこうして(うなだれる)居って、後は何とかかんとかお母さんがとうとう自分であそこへ行って座って、撃ってくれと言うから撃って、二瓶さんが心臓を撃ったらば、血がどーっと出たけれども、あぁーとうめきよった。そしたらお父さんが、お父さんが居った。頭を撃たな駄目じゃ、頭を撃ったら(倒れる真似)。それを二瓶さんという人が自分でやったと言うんだよな。こりゃねぇ、そんな人が居るんだから。
それからもう1人は、別の人は飛び降りる人をうちのお母さんだったんだと。お母さんだと信じとるのよな。信じとるからこそ、何かしら何やかんやいうことを我々が言う必要はなかろうと思う。それでよかろうと、そう思えばそう思っとけばそれでいいじゃないかと。それだけ思えるだけね、長生きしたんだから、いいじゃないかと。そんなことかわいそうだよ。民間人もかわいそうだ。民間人も相当な犠牲を出しとるもんなぁ。兵隊はどっちかというと、それこそ3%。でね、3%がどこで死んだかって言ったら、死んだとこないとやもんなぁ。結局はあっちこっちで自決してしまっている。結局そうじゃろう。(しばし沈黙)かわいそう。
それで死んでしまったら何にもなし、ただゼロ。僕でも死んだら、ただゼロ。何やかんや持っとるけど、もう邪魔になるから捨ててしまえ。もうこんなの捨ててしまえと言うことだろうな。もうそんなになるんだろうと思う。子供も居るけど、孫たちも居るけど、戦争の話をしたって、あまり聞きたがらんしな(小さく頷く)。何とかしてね、僕は戦争の話を残したい。それで一生懸命になって、これ戦塵の日々を書いたのはどうして書いたかって言ったらば、大昔はここ長崎に来てから、夢を見なくなってから、忙しい盛りに新聞広告の中に白紙があるな、その後ろにこう(ペンを走らす真似)。その白いところに書いたやつを集めて、そしてこれを作った(ぽんぽんと資料を叩く)。
(へぇ。)
そしてこれをどうやって作ったかと言ったら、これワープロで打ったんだ(両手でキーを叩く真似)。本当にね、何かしらん、やりたいだけのことはやったつもりでおる。
それからもう一つは、49年から慰霊に行き出して、それであの頃は8ミリカメラだったから、8ミリを回してカメラで撮ってきて、あれは30分、15分か?15分くらいのテープで、それを買ってきて東京へ送って現像してもらって、使いよったんだもんな。その頃からの8ミリの経験からビデオにしろ、ビデオがなくなったら、今度はパソコン。どんどんどんどん変わって行ってしまってね。変わるのは変わるけども、残すのは残さなきゃいかんし、どうして残したらいいか。結局ね、パソコンっていうのはいいねぇ、安くてできるから。
それから二瓶さんのやつもあげる。ビデオがあるから、テープがあるからテープで。そのほかにもいろいろ取ってるよ、僕は。8ミリの、大昔にあったビデオの、何て言うかな、放送、NHKだとかあっちこっちの放送されたものを録画して取ってある。いやぁそりゃまあ凄いなぁ(立ち上がってまた座る)それからね、ああ足が立たん。ちょっと〇〇置いとっていい?
(いや、ちょっと今何か。)
何か二瓶さんじゃなかったけど、どこ行ったかなぁ。取っとらんとばいな。あの、あれだったよ。何とか放送。(黙って資料を探す)民間人の、現地に居った民間人を取り集めたテレビがあった。民間人ばっかりで兵隊はほとんどなかったな。(しばし沈黙)
あんた、あれをあげたってよかったけど、現地の写真は少なくて、こうやって話をしよるところは、撮ったばかりのやつをたくさん並べてあった。それで大体終わりか?(資料に目を通す)じゃ僕が言ったことの、今言ったことのごく一番最後に考えたことであって、本当のことはこれ(資料を指で叩く)に全部書いてある。遺骨収集に行った実際の状況というのはここにある。それで今からどうするか。
戦争中の話
(ちょっと戦争中のお話を教えていただきたいのですが。)
戦争中の話がね(椅子に座り直し、腕を組む)。戦争何をしよったかと言ったらば昭和19年の6月11日に、6月11日の11時だもんな。第1回の空襲が始まったのが。そして空襲が始まってそのとき、どんな残ったかと言ったらば、こんだけ居った訳だ。(と資料を見せる)これだけね。部隊がいろいろ書いてあるでしょ。これだけの部隊が居って、いくらも居ったけど、僕らはどこかって言うと、761海軍航空隊。で、一式陸攻で飛行機で72機持っとった。これだけ飛行場に居った訳だよな。これだけでなくみんな各々命令を受けてこっち行くあっち行く、戦争に行きよったったい。で、761部隊は重爆撃機だから爆弾を持ってあっちこっち行きよった。(しばらく沈黙)
これを持って行かんでも、ビデオがこれはある。見たらわかる。で、これだけのものが、飛行機が居って、その飛行機が何をするかというと、基地に居っちゃ何もできんのだものな。現地に行って爆弾を落として初めて、戦果が出るんであって。基地じゃ何にもできんのよ。で、残っとる兵隊は何をしよるんかと言ったら、整備兵ばっかりでしょ。その整備兵は何をするかって言ったら、飛行機が出とる間、暇なんだよ。まぁ残っとる飛行機を整備するっちゅうことはあるけれども、大きな仕事はない訳だよな。だから陸軍の兵隊はどうしとったかと言うと、(頭を横に振って)ちょっと待って。テニアン島というのは、大きな航空隊がある島。不沈空母と言いよった訳だ、不沈空母。それに対して、サイパン島はどこかと言うと、見える先にあるんだものな。テニアンがある北の東側にサイパン島があって。ここの間は9kmかな。
(4km位。)
近いところは。もう見えとるんだもの。ここは何かと言うと、不沈戦艦と言う。不沈戦艦に不沈空母。不沈戦艦があるからテニアン島は大丈夫だ、と言いよったところが、敵が来たら、飛行機が全然いなくなって他所へ行ってしまった(両手を広げる)。他所の飛行場へ行って停まっとる。本当にね、残っとる兵隊は何かって言ったら、ただの整備兵やら、自動車の運転手やら何かでしょ。あと主計兵か、飯炊き。どうにもならん。で、鉄砲を持っているかと言ったら、鉄砲は誰も持たん。海軍の兵隊だけが持っている。海軍の水兵科だけが小銃を持っていた[註:実際には陸戦隊だけが持っていて、水兵科が皆持っている訳ではない]。あとは誰も持たん。整備兵も隊長になれば拳銃を持っている(片手で拳銃を撃つ真似)だろうけど、その他は誰も持たん。
それでそこに艦隊が来て攻撃始めて、敵が上がってきて戦争と言ったら、何にも戦争するものがないんだもの。(肩をすくめる)本当にバカみたいなんだよな。それが本当の日本の戦争。何であんなバカなことをするか。やっぱり、これはもう初めからこうなることがわかっとったんだろうな。わかっとって、そのままやられてしまって、ずるずるずるずる、マリアナまで引っ張ってきて、そしていよいよ取られてしまって。そして東京空襲が始まったんだ。それから東京空襲が始まった。(机上の資料を見ながら)これだけの飛行機が居ってね、何をするかと言ったらば、飛んで行って初めて、効果があるんであってね。ここの島に居って何ができるか、何にもないんだもの。で、6月11日11時に敵が来て、空襲始めて爆弾落として、その間僕らはどうしとったかと言うと、トラックに乗って池の側に行って、池のジャングルの側の木の中に入って、自動車を隠しとった。で、そこで昼寝しとったんだよな。敵が来るという訳で、そこに持って行って、昼寝じゃないけれども、何もすることないから、結局寝とった方がいいと言う訳で、寝とったんだよな。そしたら、そこで空襲が始まって、出てきたらボコンボコンボコンと、飛行場を狙ってきたものね。滑走路を降りれないようにするために。滑走路をやられたら、全然ダメだもの。だからしょうがないから、僕らは夕方になってアメリカの飛行機が帰ってしまった後で、全員飛行場に集合。で、何かと言ったら、モッコ。モッコってあるでしょう。前と後ろでこうやって、シャベルで土を入れてバシャっと。土を持っていって穴埋め。そんな作業をしよった。そしてアメリカが上がってきたら、どういう作業をしたかって言ったら、穴はブルドーザーでバーっと押して歩く。ブルドーザー。あの頃ブルドーザーなんて、日本人は知らなかった。
(何か怪しいのがおる、とかいう感じだったんですか。)
え?
(何か変なのが動きよるって感じだったんですか?)
(頷く)ブルドーザーじゃなくってね、戦車が雨戸を前に引っ付けて、そして押して歩きよった。そう思っとった。よく考えたら、あれはブルドーザーだ。それからね、昔の話になるけども、大昔うちのおじいさんは、船に乗っとったもんで、外国の航路を行きよった。だからチョコレートとかキャラメルとかコーヒーとか、コンビーフとかバターとかチーズとか、何とかかんとかいろんなものがあったんだよな。その頃僕らが小さい頃は、そういうものは全然知らなかった。おじいさんのところへ行くと、初めてね、バターだとかチーズだとかコンビーフだとか、何とかかんとかといったものを初めて知った。そしてその頃、チョコレート、僕らは小さな子どものときだったから、チョコレートをもらって食べるのが好きだったんだ。おじいさんやらお父さんが行って、コーヒーを飲みよったんだよな。ああ、それからもう一つはね、僕らがテニアン島で敗残兵になってから、結局カロリナスの断崖の北側に居ったんだけどね、そのジャングルの中で何をしよったかと言うと…(黙って頭を指でコツコツ叩く)、ちょっと頭が変になってきた、わからんようになってきた。
何を言いよったかね。ともかくキャラメルとか何とかもらいよった訳ね。そのときはよかったけども、敗残兵になってから友達が、集会所というのがあって、住吉神社というところがあって、そこに夕方になるとみんなが集まってきてね、話をする訳だ。その話の中で、あのヤンキーの塵捨て場からこういうものを拾ってきた、こうやった。ヤンキーの石鹸はね、泡がヌルヌルするとが出てばっかで役に立たんと言うんだよ。何か、見せてみろと言ったら(匂いを嗅ぐ真似)チーズだもんなぁ。これは泡が出るはずがない。これチーズだよと言ったら、へーっと言ってる。チーズって何か知らんのよ。何も知らん、チーズも知らんやった。だから教えてもらったら、へーっと言ってる。持って帰る人は持って帰りよった。だからバターも知らんしな、それにコンビーフなんてものは全然知らなかった。赤い肉。肉と言ったら、ビフテキにすると黒くなる、茶色になるでしょ。赤い肉やったもんな、コンビーフは。それからベーコンにしろ、赤いでしょ。赤い肉にびっくりした。そんなことがあったよ。
ま、それはそれで置いといて、本題に入るわ。本題に入って、どこに行ったかな。
(軍隊に入られたのはいつのことだったんですかね?)
入隊
入ったのは18年の6月1日。これ書いてあるよ(と資料をめくる)。6月1日。その代わり、これ[資料]全部読まなくちゃいけない。
(軍歴表は、あれ陸軍用だったから書かれんやったとですか?あの、紙を渡してあった。)
(後ろを向き、後方の紙を取って聞き手に見せる)
(あぁ、書いてありますね。)
(本を手に持ち音読する)「召集令状。私は大正9年(1920年)4月17日生まれ。昭和15年、満20歳になり、国民の三大義務の一つである徴兵検査を受けた。生まれつきひ弱な私は身長が159センチ、体重48キロ(聴き手の方を見て笑う)。以前ならば、『丙種合格』だったところを、一階級引き上げられて『第二乙種合格』になって、第二補充兵になりました」。そして支那事変が始まって、支那事変は16年からやな[註:昭和12年から]。その頃は、召集を受けて、教育召集を受けて、長崎の浜の町を走りよったんだ。
(最初は鹿児島の、召集を受けたときは鹿児島ですか?)
長崎。長崎で親父が持ってきてくれて、(資料をめくりながら)これを見てもらおうかな。電報。読んでちょうだい。(声をあげて笑いながら)読んでちょうだい。
(カナヤヤスヲ オメシノレイヲウク 六ツキ一ヒ、一日ですかね?)
これはね、ちょっと待てよ。眼鏡。
(6月1日ですよね。)
(老眼鏡をかけて電報を読む)オメシノレイヲウク 六ツキ一ヒサセホニウダン 二六ヒゴロカエレルカヘン サタトキ 受信 父からの手紙。ほら。(と資料を見せる)金谷家の名誉にして、とか何とか書いてある。
(あぁ。)
まぁ武士の家に生まれたらば、こういうことを言うのは当たり前じゃろうけど、親父が書いてくれた手紙。この手紙今もあるよ。それから汽車に乗って行って、出水海軍航空隊という鹿児島の出水。出水知ってるでしょ?あそこに海軍航空隊というのがあって、そこで練習を、新兵教育を受けたんだ。それから整備兵の教育も一応あったもんで、整備兵の教育も受けた。
(じゃあもうそのときには飛行機に…。)
整備兵のつもりで居って、整備兵を受けた。ところがね、そこの整備兵の飛行機は何かと言ったらば、昔の赤トンボというのがあった。歌があるでしょう、赤トンボというのが。その赤トンボの整備兵だったんだな。整備を受けた訳だ。僕は鹿児島工業学校の機械科を出とったもので、エンジンのことはよく知っとった訳だ。それから三菱の長崎[造船所]に居ったでしょう。機械のことは知っとった訳だ。三菱の何とかいう製作所[註:金谷さんの手記には中島航空機製作所とあるので、言い間違いの可能性あり]から来た人がね、その赤トンボを作る工場に居った人で、その1人が来た訳たい。遠目塚というのが来てくれて。それがよく知っとったんだ、赤トンボというのをね。で、エンジンはこうこうで、何はこうこうで、先生がいろいろ説明して、これは発動機で、エンジンはピストンがあってこうこうなって、クランクがあってプロペラ回して、と話をすると、わかったか?と言われて、はーいと手を上げると[自分と遠目塚さんの]2人しか居らんのだもの。あとは全然手を上げない、訳がわからないごとある。百姓ばっかりだから。手を上げるのは2人ばっかり、しまいには、1人は遠目塚、赤トンボを作る工場に居った人間だからよく知っとる。僕は僕で発動機のことをよく知っとるし、飛行機は知らんやったけども、こうこうすれば飛ぶものだということは知っとった訳だな。そんなものだから、お前たち2人はもう手を上げんでもよろしいと。ただ話を聞いとるだけやった。そういうこともありよった。そこで飛行機の整備兵は面白くないなと思ったら、自動車の講習をやるから、好きな人集まれということになってね、ほぉこれはいいぞ、自動車の運転手になろうかっちゅう訳でね、自動車の運転免許を取りに、そこの自動車講習所に入った。
そしたら、飛行場の一角に道路を作って、道路は何かと言ったらば、藁の縄を土にこう引っ張ってね、ところどころ留めてずーっと道路を作って、曲がりくねった道路作って、曲がり角に戸板を置いたり、土のうを置いたりなんかして道を作って、そこをぐるぐる回りよった。なかには踏み外す連中が居ったりなんかしよったけど、まぁ何とか行ったな。そこで講習会受けて、龍部隊[註:761海軍航空隊の秘匿名]に入った。で、龍部隊に入ったら、龍部隊どこかと言ったらば、11月になってからか。卒業して12月になって、龍部隊に入って鹿屋航空隊、鹿屋。
(はい、あぁ鹿児島の。)
鹿児島の鹿屋航空隊に入って、そこでまた龍部隊の本当の編成、編成って言うのかな?みんな人を集めるために、ここに基地を作っておいてね、そこに整備兵が集まった、飛行機の搭乗員が来た、何が来た、どんどんどんどんそこに集まるところがあった。そこに居ったんだよ。で、そこに居ってしばらくの間、自動車の練習とか何とかやって、街にも出たことがあったな。街に、隊外の運転に行って(ハンドルを回す仕草)、街の中をぐるぐる回って、「おーい、兵隊さーん」と皆が手を振って。その頃は兵隊さんで手を振る頃やったからな。自動車がなかったから。
(あぁ。珍しかったんでしょうね。)
そして1月2月になってから、先程の、2月になってから休暇をもらって家に帰ってよろしいと。という訳で家に帰って、そして親父に髪を切ってもらった。で、そのときにそういう話[註:切ってもらった髪を〔形見に〕残しておいたら、と父親に話したこと]があった。そして親父にすまんことをしたなぁということを(資料を持って)これにも書いとる。これも後で思ったことをそのまま書いとるごとやけど、書いたんであってね。本当にあのときは、親父にはすまんことをしたなぁと。本当にいらんこと言うたなぁ。黙って置いとくと、本当やったら神棚に。親父には心配させただろうなぁと思った。それから親父は死んでこいとは一言も言わんやった。お袋も言わんやった。兄弟も言わなかった。駅の前に行って歌う歌は全部「死んで帰れと励まされ」ばっかりだもの。本当ひどかったよ。それから「死んだら母を褒めてやる」とかね。そういう歌ばっかりだったでしょう。昔の歌は全部そうでしょう。全部それに踊らされてね、そうやって書けばまたいくらか新聞が売れる。売れるか売れんか何か知らんけど、何かありよったんじゃないですか。本当にあれやられたな、僕らもそれに乗らされて、しょうがなくて、親父もしょうがなくて送り出したというようなところやろな。僕らはどっちかというと、昔の丙種だったでしょ。丙種ちゅうたら兵隊に行かんでよかったんだもんな。だから丙種ならば内地に置いといて、産業戦士で置いとってくれんかなぁと思いよった訳たい。と言うことは、僕らの先輩が海軍工廠に行きよった。海軍工廠に行って何をしよったかと言ったら、軍艦の設計をしよった。
(一番やりたかった。)
やりたかったとこたい。僕らはその頃は何をしよったかと言ったらば、検査課というところに居ったもんな。造機検査課。造船検査課というのは船の検査。造機検査というのは積む機械の検査。それの組立工場とか機械工場とかあって、そこの工場に行って、何やかんや不具合品が出た場合に、検査表というものを書いて、それは検査工が書くんだけども、書いたのをこれはどうしよう、これは廃却だ、これは使おうとか何とか、軍艦のものであればね、海軍のやつは軍艦になるから、監督に申請せにゃいかん。これはこのまま使います、どうするというのは申請書を使って持って行って、何枚か貯まったら、監督へ持って行って、挨拶して一つずつ説明する。現地に来てもらって、組立工場やら機械工場やらぐるっと回って、これはこれです、これはこれですと説明する訳だ、監督官は。そういう仕事をしよった。だけども、早く設計に行きたいなぁと思っとった。なかには、海軍工廠へ行って設計をする人が居った。早くあれになりたいなと思っとった。とうとうなれんずくで、検査課に居ったときに、召集令状が来た。
召集令状が来たときは、何かと言ったらば、ちょうどそのときに、防護団の当直中だったからな。18年の5月の何日か。5月の何日か、これ来ている訳たいな。何て書いてある?5月の何日?わからん?(資料を見る)
(日付は書いてないのかなぁ。)
わかる?(資料を手に取って音読する)「40、鹿児島」わからんな、日にちは。それからね。(ページをめくる)それから6月の10…(ページをめくる)「電報」あ、22日の晩か。18年の6月22日[5月22日の言い間違い]の晩に防護団の当直で詰所に居ったんだよ。あの飽の浦(あくのうら)の詰所にね。そこに居ったところが、下宿屋のおばさんから電話がかかってきて、こういう訳で電報が来たと。電報を読んでくれたら、こうやった。それからそれじゃどうするかと、今当直で誰も居らんから、しょうがないから朝になって皆が出てきたらば、課長に話して、こういう訳で召集令状が来たという話をしようと。それから行くようになった訳や。で、親父から手紙が来てこうやって読んで、鹿児島に帰って。(深いため息)何ばい?(肩をすくめて笑う)それから?
(それで、鹿児島に帰られて学校で教育課程があって、自動車に乗る。)
それから佐世保海兵団に入った訳だよね。
(これは、そしたらそれは6月に召集があって、佐世保に。)
いや、5月の22日。電報が来たとたい。
(長崎で勤められているときに電報が来て、鹿児島に一回帰られて?)
うん、長崎で電報を受け取ったよな。それも造船所の詰所で当直をしとったときに電話が来た。こりゃ大変ということになった。それからそこを辞めて僕が帰って、親父が後で佐世保に送ってくれて、そして荷物を取りに来て、下宿から荷物を全部引き上げてくれた。そして、出水航空隊に入ったな。そのときは出水航空隊から鹿屋航空隊へ行って、それから一応家に帰って、散髪してもらって、その話があって、自動車講習生[註:正確には自動車講習員]、それから龍部隊の編成、龍部隊はこういうものだったと。1、2、3…(と数える)10の航空隊があった訳だ。その中の761海軍航空隊。で72機。飛行機が72機あった。
(その72機は、金谷さんがテニアンへ行かれたときには全部残っとったんですか?)
テニアンに行ったときは、一緒に行っとるからな。一緒に行ったときどうやって行っとるかって言ったらね、これまた傑作があった。これ[資料]にも書いてないけども、行く朝ね。2月になってから行ったんだけども、書いとらんじゃろ(資料をめくる)。書いとらんはずと思うんだけども、(資料を読みながら)あぁ、やっぱ書いとるばい。「2月上旬、航空母艦『千歳』にてテニアン向けの鹿児島湾の古江港を発進した。私は出発当日朝、尻を叩かれ、起重機車を運転して航空母艦千歳の待つ古江港に向かう途中、尻の痛さに耐えかねて古江の坂道で運転を誤り、10m下の川に転落して負傷した。鹿児島航空隊の病室に入室したのでその後テニアンに行くこととなった」[読んだ言葉と本の原文が若干異なる]
ここで(大きく咳払い)、いよいよ声が出なくなったばい。鹿児島に入室しとる間は、あぁ2ヶ月間入室しとってね。どうしとったかと言ったらば、給料も何にもないんだよな。飯だけは食わしてくれる。だけども煙草の金がなくなって、閉口して家に電話じゃなくて、手紙書いたとかな?ともかく何かしてね家に連絡して、煙草を少し送ってもらって、金も10円か知らん、送ってもらったことがあった。それから鹿屋から東京に行く飛行機があるんで、その飛行機に乗れということで、飛行機を探してもらった。金を持っとるかと聞かれて、金はありませんと言ったら、汽車に乗れんやったんだよな。飛行機ば探してやるけん、飛行機に乗れと言う訳で、鹿屋航空隊だったから、飛行機を探してくれた。その飛行機に乗って、千葉県の先の何とか航空隊というところに行ったんだったな。忘れたね。書いとろうけどな(本をめくる)。館山航空隊。そしてこれはどこかなぁ、館山じゃなくて、千葉の南に館山ってあるかいな。
(館山というのはあるはありますね。)
それから北の方に何か、あれは何とかちゅう言ったか…。
(習志野とか。)
あ、香取航空隊。千葉県の香取航空隊に向かった、館山空からね。(黙ってしばらく本を眺める)
(だいたい皆で一緒に行くはずだったところをちょっと遅れて行かれた感じだった。)
うん、それがあの、航空母艦の「千歳」というのが居ったんだ。その「千歳」に乗って本隊は出て行った。だから車は車に積んで、航空母艦の中はいくらでも積める。航空母艦に自動車を全部積んで行った。僕は遅れて行った。遅れて行ったからさ、車1台ペケ[×]したでしょう、壊したでしょう。こりゃねぇ、僕は叩き殺されると思った。本当にそう思ったよ。間違いなく、現地に着いたら叩き殺される。そういう訳で香取航空隊に居ってね、もう行きたくない、行きたくないと思ったけど、行かにゃしょうがない、どうするか。やっぱり行こうという訳で行って、行ってみたら、横浜を発つときに雪が降っとって、風邪引いてしまって、僕らは全部夏服しか持たなかったものだから。全部着ても、寒くて寒くてしょうがない。風邪引いてしまって、飛行機が一式陸攻ではなくて、これ二式大艇で大型飛行機。これに乗って行って、サイパンに着いてやっと着いたときは熱があったんだろうなぁ。で、サイパンからテニアンに送ってもらって、それは船で行ったんだな。船で行って着いたら、熱があるものだからすぐ病室に行ったんだよな。そこでいろいろ診てもらった。そうしたらね、えらい病気言われた。三叉神経痛。三叉神経ってここから(と眉頭を指す)出とるんだって。目の奥のところに穴があってそこから神経が出とって、それが狂っておかしくなっとると。診てくれたよ。大島軍医大尉という人が居ってね、その人が診てくれた。その大尉は後で戦死して亡くなった。その弟さんとテニアン島で一緒になったことがあった。嬉しかったよ。
それでもう、これは叩き殺されると思っとったが、そしたらね、入室した病室に入ったでしょ、テニアン島でね。病室に入っとって、その頃話があったのは、ペリリュー島に移転すると。その頃からすでにもうペリリュー島に行くという話になっとったんだよな。行ったのは5月の…何日やったかな。テニアン島に渡ったのはいつやったか。(資料を指して)何か書いとるよ。先書いたばい。テニアン島に渡って。(しばらく沈黙)
サイパンに着いて、馬船(まぶね)って言いよったかな、エンジンのついた小さな船に乗って、テニアンまで渡った。そして波止場に着いたらね、自動車部隊でしょ、龍部隊の自動車が来とったの。「おお」(手招きする仕草)という訳でね、回って伏して見てみたらものすごいんだ、それがな叩くのが。
(はい?)
叩くのが。尻っぺた叩くの。バットで。僕は鹿屋航空隊を出るときに3発叩かれとるんだもんな。トラックを運転してるときに、起重機でこう上げる、起重機のついた自動車があるんだよ。その自動車を運転しよって、ひっくり返って坂から落ちて入院して、出て来れんで、後で行った訳だ。そこで(頭をかいて少し黙って)ときどき忘れるわ。
(その自動車部隊に配属されて?)
テニアン島着任
これ行ってみたらね、ペリリュー島に転進するということで、それが行けばちっとは収まるだろうと、収まるまで病室の中で一生懸命我慢して、何とかかんとか言って出なかったんだ。かこつけて、頭が痛いとか何とか。そしたら三叉神経痛ということで、下ろしてくれたもんな。おい、俺明日ペリリューへ行くぞと皆話に来てくれてね。それでXX下士官が行けば静かになるなと思ったんだよ。それから出て行った。
(何か怒りそうな人が…。)
(頷く)本当に怖かったよ。もう生きる気持ちがしなかったな。そしてよく、そこで叩き殺されんでよかったなと。本当ね、昔は叩き殺して平気だったんだものね。僕らの下の者も3人叩き殺されはせんけども、動ききらなかった、寝たっきり。如何ともし難い。3人(指を3本立てる)。ああこれ4人目だったら、本当に死(指を4本立てる)だと思った。やっと助かった。それからやっと考えて、最後に生き残ったのはなぜかと考えたら、隊長は弱虫だって初めから逃げてしまっとったんだけど、それはなぜかと言うとね、何にもしきれなかったんだろうな、自決も何もしきらずに結局ジャングルに入って、何もせんで、下士官に任せきりで何にもせんやったものだから、結局それで助かった。だから昔の自動車の運転手の車庫の兵隊というのは[生き残った人が]割合に多い。いくらか数は数えとらんけどもとにかく多いよ。何割かが帰ってきとるね。かたや3%、かたや何割かが帰ってきてる。
しかし車庫長というんだけども、その男というのは向こうに行って、テニアンに着いてすぐから、(小指を立てて見せる)女を捕まえて、沖縄の女だったけども、捕まえて妾やな。妾にして、隊に居らずに泊まりに行きよった。戦争がいよいよ始まったら、先に行ってしまって、どんどんどんどん先に行って、弁当持って来い、飯持って来い[と命令される]。そうすると握り飯を持って行ったり、ご飯炊いて持って行ったりしよった。そしてそのときは彼女を連れて一緒に行く。そのときに僕と同窓の、大分工業を出たのが居ったんだよ。僕とポン友だったんだ。僕は鹿児島工業で機械科、向こうは大分工業の電気科やった。電気は俺に任せとけと言っとって、機械は俺[金谷さん]に任せとけと言いよった。その男が工業を出とって、5つ6つ年寄りやったな。それがまた傑作でね。髭が濃いんだよな。こうしとるんだよ、髪は(両手で長髪のジャスチャーをする)。まあ勇ましかった。そのとき外出でね、隊外へ出て行くときに雨降りだった。カッパを着て行くでしょ。カッパを着ると髭だけ見えとって、肩章とか何とかが見えんとたい。だから彼と一緒に歩きよると、下士官たちがはっと(敬礼の仕草)敬礼するんだ。
(偉い人に見られて。)
あれも一等兵だもんな、僕と一緒だから。僕らもこう(敬礼の仕草をする)。そうしよったら、それが戦地に行くときに、僕が髪を刈ってもらって家に帰ったとき、そいつは宮崎に行って親父さんに会ってきた。そのとき刀をもらって、刀を差して帰ってきて。勇ましかったね。これやったら勝つばいと思ったよ。ところが、勝つ戦争じゃなかった。戦う(刀を振り下ろす仕草)戦争じゃなかった。飛行機を飛ばす部隊で、飛行機がいなくなったら何をするかと言ったら、何にもすることがない。友軍の飛行機が来てくれたらという訳で、滑走路を埋めろと言われてモッコに土を入れて、こうやって埋めて100杯埋めたって埋まらんとたい。それからもう一つはね、滑走路というのは、夜になると石油を入れる缶があって、その上に芯がこう出とって油たっぷりになっとった。煙がぼーっと出て、火が赤く燃えよった。それを5mか10mおき位にずーっと滑走路の周辺に置いた。それも自動車の運転手の仕事だったの。飛行機が飛び立つ前には、ずらーっとそのカンテラを置いて。10mおきに車で行っては一丁下ろして、ここに置く。また車使って10m行って下ろす。最初の頃はそれをやりよった。そういう仕事どころじゃないんだもん。飛行場もベラーっとやられてしまって、穴だらけだもの。それを埋めろと言う訳でモッコを持って行ってね。昔はアメリカはブルドーザーというものがあったけども、日本にはなかったんだもの。モッコしかなかった。それでよくあれと戦争できたなと。それからさっきの地図ね。あの地図に爆弾庫と燃料庫というのがあったな。あれは地図で見るとよくわかるんだけども、先っぽに穴が2つあって、切り通しの崖があって、その奥の方に一つは爆弾庫、こう行った崖の先の方に燃料庫があった。その2つがここからこう入って(両手を前へ伸ばす)行くような道が分かれあってね。僕らも何回か行ったんだけど、様子が変わってしまって、終戦後は全然わからんやった。終戦後、僕は24〜5回遺骨収集や何とかで行ってるものね。それでもそこはわからなかった。そしたらこないだ、終戦後60年か。あのとき行ったときに何とかあの爆弾庫があったところに連れて行ってもらって、ああここなんだと思ったことがあった。
(その爆弾を運んできたりとかいうのは自動車でやってたんですか?)
(深く頷く)みんな自動車。自動車部隊は何をしよったかと言うと、飛行場は飛行場関係の仕事があるんだな。それからバスがあった。バスというのは人間を乗せてあっちこっち行く。それから搭乗員を乗せて飛行場へ行く。[飛行機が]着いたら兵舎に連れて帰る。それともう一つは主計科の兵隊。主計科の兵隊は米を倉庫から烹炊所、飯炊き場まで車で運んでやるとか、水を汲みに行くとか、水がなかったんだものね。それは5km位離れたところまで行って、水を汲んで帰ってきよった。僕らが何をしよったかと言ったら、燃料車、トラックの後ろに丸い[タンク]、燃料を積むのがあったでしょ。あれをきれいに掃除して、石鹸で洗ってきれいに拭いて、石油がなくなるまできれいにして、それに水を入れて持って行きよった。そして主計科に持って行く。主計科に持って行ったらドラム缶の中にワーっと[水を]入れて行く訳だ。ドラム缶に入れた水を主計科の兵隊が革に入れて米を研いで、ひっくり返しておかずを炊いて何をして、としよった。僕らすぐ側に兵舎があってね、その兵舎の写真もあると思うけどな。そこで何をしよったかと言うとドラム缶に水を入れて、ドラム缶風呂を作りよった。ドラム缶に水を入れて足らんようになったら、バケツでこう移してしよった(笑う)。そこは行ったことあるな。
(その頃は普通に水もいっぱいあったんですね。)
いやいや、いっぱいあるんじゃなくて、持ってくれば僕らは使いよった。ところが兵隊になったらそうじゃないんだもの。もう水筒1杯もらったら、一日中それで我慢してた、帰るまでそれ1本しかないの。そりゃ兵隊なんかきつかったろうと思うよ。もう一つは、搭乗員になるとね、増食というのがあったかな。普通の食糧じゃなくて、増加食糧と言うのか。搭乗員は特に、体力は十分必要だからという訳で、食糧が別にあった。その食糧は何かと言うと、チョコレートとかキャラメルとかビスケットとか何とか入った缶詰をもらったり、ビスケットをもらったり、缶詰をもらったりしよったんだな。その缶詰ね、搭乗員はもう同じものを食いたくないからと、あまり食わんで持って帰って、整備兵とか兵隊にくれよったんだよ。で、缶詰を僕らもらえたんだよ。いつもそれは良かったなと思いよったけど、いくらもらっても…(沈黙)ま、余計もらったな。そしてポケットの中に入れとって、チビチビ食べとった。キャラメル出して食べてみたり、チョコレート出して舐めてみたり。それはやったことあったよ。それに行くのは、車に乗って行くと搭乗員が下に降りたり、バスに乗ったりすると、そうやってやることがあったしな。それからもう一つはね、普通の乗用車で将校を乗せて走る車があったんだよな。それは何をするかと言うと、将校を乗せて走るときはフロントガラスにまん丸い標識があるんだ。青いのは兵隊、赤は何、将校になると黄色とか何とか。将校を乗せるときは黄色の札を上げておく。兵隊はあまり乗らんけどね。下士官だったら青いのとか何とか、そうやって出して、それにはちゃんと助手も乗ってきたもんね、昔は。運転手が居って助手が居ったんだ。昔はみんなそれだったんだよ。バスもそう。車掌が乗っとった。今は車掌はいないな。車掌が乗ってお金を取りよったんだよ。現地でも車掌が居って、自動車のエンジンをかけとる前へ行って回しよったんだから。僕もやりよったよ。回しよってキンと逆手にやられた。そうしたらもう手が千切れる位に痛かった。こうやって回しよると、ガクーンと向こうがエンジンがかかって逆回転を始める。そういうこともやっとった。
(じゃ結構将校の乗った車にも乗られたことがあるんですか。)
は?
(その将校が…。)
(首を振って)将校はない。バスも僕は乗ったことない。
(じゃ運ぶ車ばかり乗っていたんですか。)
うん。ということは結局ね、えっと4月に行って、病室から出てきたのは5月だったと思うな。だから5月になったら、6月でもう戦争が始まったでしょ、間は1ヶ月しかない。本当の軍隊生活は1ヶ月。何にもない。本当にどっちかって言ったらば、馬鹿みたいな哀れな兵隊で、これでも兵隊かって言ったら兵隊だものなぁ。兵隊じゃない誰かと言ったら、民間人じゃないんだもん、兵隊だもの。民間人はお前たちは生きては帰られんぞと言われとるしな。もしも捕まったら、女は特に何とかかんとかされるとか、ハワイに連れて行かれるとか、女はお母さんたちも、女の人たちも皆そうやって、二瓶さんがこうやった(銃を構える仕草)、これやっとるんだもの。これは多かったと思う。手榴弾なんかはあっちこっちにたくさん袋の中に入れて置いてあるんだもんな。そんなの持って行く人は持って行きたいけど、2つ以上あれば重たいもの。そしていよいよ戦争が始まったら何かと言ったらば、結局6月11日に敵が来て攻撃が始まった。そのとき昼間はどうしとるかと言うと、僕らは海岸に出て行きよったんだよな。海岸に出て、岩の割れ目の間の中に縮まって入って居った。上には木が生えとるじゃないけど、日当たりの陰ったようなところへ行って、そんなところに居った。一日目はそこで過ごしたけど、帰ってきたら爆弾の穴埋めへ行く。そして夜遅くなって初めての昼飯が出てきた。昼飯じゃなくて晩飯が(笑う)。それももう握り飯やな。握り飯をもらってやっと食って、それでそこで一晩寝る。寝るときはどこで寝るかと言うと、日本のその頃のトーチカがあって、飛行場の周辺にそのトーチカがあったので僕らは戦争が始まったらそこで寝泊まりした。そしたら戦争が始まって翌日、朝からどんな状況かと言ったらば、敵の空襲が始まるぞという合図、敵機空襲の合図、空襲警報というのかな、その警報が出てしばらくすると飛行機が飛んで来よった。警報が出る前に、僕らは車に乗ってあっちこっち退避しよったんだよな。退避するところがなくなったものだから、あそこはいかんから今度はこっちと言う訳で、テニアンの地図で言うと一番北側ね、サイパンの見えるところ、あそこの海岸へ行って、一日か二日かそこに居たことがあった。
(車を持ってですか。)
車を持って。
戦後の仕事の話
軍隊が来とったからな。そこに勤めに行きよったんだ。航空隊が主だったけれども。あの芦屋の航空隊とか、あっちの航空隊、芦屋とかもう一つどっかしらんの航空隊が主やった。
(結構いろいろ、終わってからは転々と動かれていたんですか。)
転々と動いた、あっちこっち動いた。そして29年の3月か。再びここ[長崎]に来て。で造船所へ行って。で、定年退職して、あっちこっち小さな町工場をうろうろして。最終的に長大[長崎大学]が採ってくれたものだから、長大に入った。そして一番最後は技官。
(技官?)
技官。教官じゃなくて技官。
(大学もそういうものがあるんですか。)
そう(頷く)。
(それでこの辺にずっと住まれているんですね。)
それがね、50年ごろだもんな。53年に定年退職か。度忘れしたばい。(金谷さんがカメラレンズを指差し)テープ入ってない?
(いや、大丈夫です。そうしたら、戦闘が始まってしばらくは車を隠して… 。)
しばらくそうしよったけど…。(しばらく沈黙)それから上陸してきたのはいつやったか。上陸してきたのは(本のページをめくる)。
テニアン島での戦闘
(本を音読する)「6月13日。珍しく今日は空襲警報がない。平常通り3時起こし。車の退避、仮眠、ハゴイ池のほとりのジャングルにて作業を行う。なぜか今日は敵の飛行機もいないのに爆発音だけが聞こえてくる。時限爆弾の破裂かと思ったが、しかし良く聞くとシュルシュルドカンシュルシュルドカンと音が聞こえてくる。これは昨日までの爆弾の落下とは違った音であった。近くで爆発するときはシュルシュルの音がドカーンドカーンドカーン」。という訳で、艦隊が来たんだな、このとき。艦隊が来て何かって、えーっと、13日の朝になってから艦隊が来とった。朝になったら艦隊が島の周りに張り付いとった。そしてどんどんどんどん艦砲射撃を始めてきた。だものだから、こりゃ俺たちは居るとこ居れんようになってどうしようかと、しとったところに陸軍の兵隊が走ってきて、敵が来た、敵の艦隊が来たと。(本を見ながら)海軍の兵隊はラソの山というのがあって、その山に退避しろと。ラソの山。に退避しろと言われて退避した。(しばし沈黙して本を読む)
そうしてもう、何のかんの言う暇もないたいな。敵が来たから何のかんのと言う暇もなしに、そりゃしょうがないからそれじゃラソに行くという訳で、ラソまで今度は歩いて行ったんだものな。
(車はなしで。)
車はなしで。車は乗れんから。いつ見つかったら撃たれるかわからん。もう危ないから車は降りて、ラソまで歩いて行って。でラソに行って、ラソの山に上がっていって、岩の間に入り込んで、あそこに1週間くらい居ったんじゃなかったのかしら。ラソの山に。そしてそこの山を登る途中で海が見えたの。良く見えるというと、海がバーっと見えるところに出てきて、軍艦がいっぱい並んどるの。数えてみたら120あった。120数えたけども、それ以上はもう数え切れなかった。ということは、サイパンの沖になると、バーっと重なってもう見えないんだ、数えられない。数えられるのは120あって、びっくりしたことがあった。
それからこう大きかったなぁ。(ページをめくる)それから6月の15日から12日まで[註:20日の言い間違い]日の出神社って書いてあるな。(本を黙読する)そしてこの間もね、夜になると、昼間はもう何にもできん。だから木の陰に隠れていて、車を置いといて、自動車の整備をするとか何とかやって、昼間はそこで寝とって、寝とってじゃないけど、艦砲射撃が来るやら、飛行機が来るやらなんだしよった訳だ。だけどもそこで寝とったんだろうなぁ。何にもすることがないから。で、夕方になるというと、兵隊を運ぶとか燃料を運ぶとか、何をするとか機材を運ぶとかそういう作業に就いとった訳だ。6月15日から20日の間は日の出神社に居って、そういう作業をして。(しばし黙読)
それからいろんなことがあったなぁ。兵隊を運んでくれと運びよったら、途中で担いで歩きよったら、ダラダラーっとぬるっとしたのがここ(首すじを指す)に流れてきて、何かと思ったら血。兵隊をこう(肩に担ぐ動作)担いどったでしょ。これがこうやって血がこう(肩越しから首すじを指す)流れてきて。ひどいことがあった。そのときはまだ何ともなかったから、僕は。(ページをめくる)
それからサバネタバスの民家に行ったんだな。それから7月の上旬になってから、一番最後のマルポーというところがあって、そこの菊池さんという人の家があってね。そこの家を借りて僕ら兵隊が泊まったことがあった。そこの菊池さんは昼間は弁当を持ってね、ジャングルの中に入って退避しておって、その頃毎日毎日飛行機が来るやら、艦砲が来るやら、そうしとったものだから、昼間動けん訳だ。で夜だけ何か仕事しよったんだけど、菊池さんのところに居って、僕らはもう飯炊きだけ。あぁ、その頃はまだ前線の飯炊きがあったかな。前線の兵隊たちに飯を炊けということ、僕らが命令を受けた訳だ。そして前線の飯炊きに飯を炊いて、車に積んじゃ持って行きよった訳だ。で、それをやりよってね、菊池さんのところで居ってそれをしばらくやったなぁ、大分やったばい。(ページをめくる)あぁ。それからアメリカ軍の上陸だ。7月24日、アメリカ軍の上陸。(背を起こし前屈みになって)アメリカ軍の上陸はどこかと言うと。(立ち上がって探しながら)地図はどこにあったか。
(金谷さんが大きな地図を見せて)何とかする?
(あぁ、そうですね。)
(地図を両手に持って広げて)こうやって映す?それともここに置いて映すか(床に地図を置く)。この地図が。(床に置かれた地図が映る)
ここのところ何とか映らん?(クローズアップし、テニアン島の北端が映し出される。地図は2枚あり、左の地図は日本語、右の地図は英語表記。右の地図が等高線や地名、緯度経度や水深など細かく標示されているのに対し、左の地図はおおざっぱな標示)あんまり近いか。(カメラがズームアウトし、双方の地図全体を映す)日本の地図というのはこんなもんなんだ。ようまた、これだけの違いの国と戦争しようと思ったもんだなぁと思ったよ。全く別。
(金谷さんたちがいらっしゃったのはどこら辺になりますか。)
眼鏡がないと見えんわ。あぁ、これか。(英語の地図の北端の西側を指しながら)ここに3つあるね、1、2、3。原爆の倉庫。原子爆弾の倉庫。
(これがですか。)
で道があって、これをこう来て、ここに点があるでしょ(少し内陸を指差す)。こうなっとるでしょ、そっちから見ると(カメラは地図を映しており、金谷さんの手元が映らず動作不明)。こっちとこっち、長崎と広島の原爆の搭載地がある。そして僕らが居ったところは、ここのところの(搭載地より少し南側を指す)何とか言うトーチカの後ろに居ったんだ。これの後ろ。この辺に居った。そして爆弾庫のあったところっちゅうのは、これが爆弾庫か(地図上に丸く指で描いて示す)。これこう曲がったでしょ、これ真っ直ぐでしょ、ここよ。(2回大きな円を指で描く)で、これどこかって言ったら、全然わからんもんね(と日本語の地図を指で叩く)。全くわからん。
そしてこれがいつのものかと言ったらば、昭和19年(と日本語の地図の端を見せる。昭和十九年調製 参謀本部と記載あり)。これ何か〇〇いくらか知らんけど、これ終戦後かな。よくね、これだけの国力の差がこれだけあるんだものな。これによく戦争をしようと仕掛けたものだと思うよ。本当にね、バカなことしとる。僕らが考えてもそのバカなことだもんな。で、僕らがそのね、司令部とか何とかに居った偉い人だったらば、言えるか言えんかわからんことじゃけども、実際はどっちかっちゅうと、本当にねバカな戦争やったなぁと思う(眼鏡をかける)。今になって考えて、もう残念でしょうがないけど、如何ともし難い。そしてその戦争の後始末をどうしたかと言ったら、何にもせずにそのまま終わってしまって、もういいじゃないか、いいじゃないかでもう終わってしまおうと。それは本当ダメだったなぁ。国民として情けないね。兵隊のことは兵隊じゃないけども、ちゃんときちんとしてしまえと。ちゃんと戦争のことは後始末してしまえとー。それをせずに居ってから、何とかかんとか、ダムを止めるとか[註:取材当時の時期的に八ッ場ダムの話か?]かんとか言ったって、どうなるものか。ダムもあれだけ作ったやつを何で止めると言うのかと。向こうの現地の人間も、このダムを止めてもらったんじゃ困ると言うのを、やめろやめろと。本当ね、何か国はおかしいと思う。
アメリカ軍上陸
アメリカ軍の上陸地点はどこかなぁ。上陸地点がこれ分かったかな。(両手で地図を広げて探す)うーん。(地図を畳む)
アメリカ軍の上陸というのは、アメリカ側の、この南にね、街の港というのはここにあったの(地図上の島の南西部を指差す)。この港に、これ見えるかなぁ。(テーブルの上にあった地図を立てて)そっちでいい?ここ映る?[カメラがクローズアップする]ここの港ですよ。ここ小さいけれども、わからんけど、ここの港から上がってくるということになって、ここではサンゴ礁がぐるーっとあって、巻いとるでしょ。サンゴ礁があるんでここは船が通れんところ。だからこう[迂回して]まわって、こう上がって、こう上がってくる。というつもりで、ここにね、陸軍の兵隊とか何とか集めて、全部ここで頑張っとったところを、ここじゃなくて、北の方から上がってきた。北の方のどこかって言ったらば、ここのところかな(地図上に指で円を描く)。ここのところに上がってきたんですよ。そしてここのところ、どんなものかって言ったらばね、これは昔岩がゴロゴロゴロゴロしとった。何て言うか、ゴロゴロした下から、地面から出てきた岩であって、サンゴ礁やな、昔の。だものだから、ここからはね、上がれるところじゃないと思っとったんだ普通。ところがどうしたかって言ったらば、そこをね、艦砲で打ち砕いてきた。艦砲で打ち砕いてきて、こんな1mか2mの崖だったところを全部打ち砕いてしまって、砂浜にしてしまった。それでそこから戦車がゴッゴッゴッゴッと上がってきた。
そして今、砂浜じゃないけども、真っ白い岩肌が出ている。そこから上陸してきた跡だよな。それが未だに残ってます。その脇にトーチカがある。そのトーチカの中には、あぁそこのトーチカも僕らが遺骨収集した。それは大昔だったけど、遺骨を収集して、じゃここはトーチカだからという訳で、きれいに土をどけてね、今はトーチカとして保存してある。そうしたらば…。
(かなり近くですよね。その上陸してきたところは。金谷さんの〇〇ときと。(話者不明の女性の声、〇〇さんがいる?と尋ねる)この辺にいらしとったんですよね?)
(前屈みになり地図を見ているがフレームアウトする)うん。いたのはここだ。
(この辺ですよね。)
うん、これの側の横。これ、このごちゃごちゃっとしたところ。この辺にいた。それからここだ。(カメラがパンし、地図を指す金谷さんの手元のアップ)このごちゃごちゃっとしたところ。これ、ここがあるでしょ、外側。何かないかな(席を立ち、探し物をする音)。
(鉛筆で島の北端西側の海を指しながら)ここね、ぐちゃぐちゃぐちゃーとしてここまで来てる。ここはサンゴ礁ですよ。海の中のサンゴ礁で、引き潮になるとこれが出てくるけども、満潮になると隠れてしまう。で陸地というのはどこかと言うと、これが陸地の境界か。(鉛筆で地図を辿りながら)これが陸地。これからが陸地で、ここがこう引っ込んどるでしょ。それがね、大体この辺じゃないかと思うんだけども、上がってきたところはこの辺なんだ。上陸してきたところ。はい。上陸したところはここ。ここから上がってきて、で、日本の陸軍も大慌てに慌てて、[島南西部の]港に居った戦車が11台あったそうだよ、日本の戦車が。その11台のうちの1台故障で10台が動いてね、ここに居ったのがあっち[島北部]じゃーちゅう訳でゴロゴロゴロゴロ行ったんだそうだ。間に合うはずがないよな。たったそれだけしかないんだもの、戦争するのは。その他にも砲台というのはたくさんあった。たくさんあったけれども、ここら辺(地図を指す)とか、この辺とか、この辺とかあったけれども、大した数じゃなかったなぁ。で、軍艦一艘来たらどれだけの大砲があるかっちゅうたらね、巡洋艦が来たら10門くらいの砲があった。10門砲があるでしょ。ここ3門でしょ、ここ3門でしょ、またここまで3門で合計9門でしょ、巡洋艦一隻でここだけ全部賄う。(語気を強めて)本当ね、数では全くもうダメだった。だからやられるままにやられて、おしまいと。
で、ここから敵が上がってきたんだけど、ここには夜襲をかけろということで、夜襲をかけるのに航空隊や陸軍の兵隊やら戦車が行くけども、行ったってもう、ヤンキーどもは上がってきたらすぐ、どうしとるかって言ったらね、鉄条網は鉄条網じゃないけど、鉄条網もあるんだよな、バラ線ね。バラ線をダーっと張っておいて、杭を立てといてバラ線張って、それに缶カンをぶら下げて。そして缶の中に石ころを入れてある。こうゆするとこれカランコロンカランコロンと音がするでしょ。お、敵が来たぞという訳で、じゃぁと起きてきて、よく向こうを見るというと敵が来た、それじゃ撃ってやろうと撃つんだよ。それだからね、もう戦争になるもんじゃない。日本の兵隊がこう隠れて(両手を前に出して這うポーズ)這う前からとかじゃないんだもの。ちゃんとアメリカは、このぶら下げとるカランカランとした音がしたらぱっと移動する。あ、来たってすぐ。みんなそれ。ここでそれやって、ここで何百人か玉砕してやられてしまって、その後ただ押されるだけ押されて、それで下がれ下がれ、どんどんどんどん下がってきて(指で地図を南下して示す)、どんどんどんどん下がってきて。ただそれだけしかない。で、僕らもここを押されると同時に、もうここら辺まで行っとったけれども、この辺も押されて、上がって来たらこの辺に来とった。その後ろ後ろをずっと行っとったけれども、本当の戦争の真っ最中のど真ん中には行ったことがない。その代わり、艦砲射撃ドンドコドンドコやられた。で、あたりどころが悪ければ、何人か一緒に死んでしまう訳だ。本当にね、だから日本の兵隊でもまともに、さぁ来いとチャンバラした連中は誰一人もいない。それから狙い撃ちしてね(銃を構える仕草)1人ずつ、戦争撃ってやられて、撃って殺してやられてということがあるかっちゅうたら、全然そんなことはない。ただもう艦砲で撃ちっぱなし、撃ち叩かれて、戦車が来てドンパーン、ドンパーン、ドンパーン。近くにいたら、ドンちゅう音と同時にパーンって破裂するものね。ドンと音が聞こえたら、パーンと破裂する。(後ろに少しのけぞりながら)ドンパーン、ドンパーン。
ああそれから、向こうはサトウキビ畑だったものだから、黄燐[おうりん]弾というのを奴ら使いよった。黄色のリン、黄燐。黄燐というのは何かと言うと、空中に出ると燃えるんだよね。で、それを大砲の弾に詰めて、発射してブオーッと飛んできて、サトウキビ畑の上に来るというと、ボカーンと破裂する。こんな格好で破裂するんだよな(握った手を斜め下に振って開く)、先が。するとふわーっとこれから飛び出して来る、黄燐が。黄燐が飛び出したら、ふわーっと真っ白い尾を引いて下に降りて行く。下に落ちたらバーッと燃え出す(両手を高く上げて炎を表現)。サトウキビだものだから、いよいよ燃え盛ってしまって燃えてしまう。あれやられたよ。
それから、もう敵の戦車は戦車を一番先に出して、どんどんどんどん撃って、撃って、撃ちまくって、ともかく畑を耕すくらいに撃ち砕いて、地雷とか何とか全部耕されてしまうんだよな。そしたらその後ろを銃を逆さまに担いで、煙草をふかす兵隊どもがノロノロノロノロついて行くんだ。何にもせずに。そして戦車が行って、一番最後には今度は杭を立てて、バラ線を張って、缶カンを据えて。そして自分たちは後ろに下がって。そしてそこでテントを張って寝とる。で、この缶カンの音がカランコロンと音がすると、すぐ飛び出して行って撃つと。その代わり、やっぱり奴らも裸になってゲートル解いて寝るんじゃなかろうけどね。やっぱりもうそのまま、戦闘のままで寝ちゃうんだけど、何もせんで寝とると。煙草吸いながら寝とれると。それだけの違い。こっちはもう精一杯やっても何にもすることない。
で、せっかく持ってきた、僕の同窓兵が持っとった、あの何とか刀、役に立つもんじゃない。それから鉄砲持っとっても、鉄砲で役に立つもんでもなかった。だからもうそれでしょうがなくて、どんどんどんどん押されて、カロリナスの菊池さんというところとかここら辺に居って(地図を指す)、ここら辺かな。ここの菊池さんの家に来て、そこで1ヶ月ばかり居ったけども、菊池さんはその間いつもジャングルの中に入って、夜になったら握り飯作って、またジャングルに入る。そういう生活だったけど、菊池さんは八丈島の人でね、割合に早く手を上げて出とって[註:投降の意味か]、その娘さんが居ったんだよ。あの頃でよちよちの赤ん坊やったもんね。それが今もう60いくつのおばあさんだもの。それでその人に昔電話したら、自動車の運転手をしとると。お父さんもお母さんももう亡くなったと。あの頃僕らが24〜5[歳]位のとき34〜5位の人やった。10位違っとったものな。だから違うんだ(首を小さく横に振る)。で、菊池さんという人には大分お世話になったから、1回菊池さんを連れて行きたかったなぁと思うけど、菊池さんはとうとう行けなかったな。それから娘さんは行ったけども、自分の家は探し切らなかった。僕が連れて行っとけば、ここだということがすぐわかったんだけど、そこはわからない。哀れだったねぇ。本当に菊池さんにはいろいろ世話になったんだけど、何にもお返しができなかった。
決死隊
そして、ここら辺に(島の中部を指す)ウロウロしておったところが、敵がだんだんだんだんこうやって(掌で地図を南下して辿る)攻めてきて、僕らの兵隊の部隊にね、何を命じたかって言ったらば、サバネタバスってここはジャングル、山の上平らなところがあるの、ここ。崖でしょう。ここも平らがあって、平らがあって、ここは崖なんですよ。ここが、縁が。ここが平ら(島の中部東側を指す)。ここに行って飯を炊いて、前線に飯を送ってくれと、握り飯を。命令が来た訳だ。そうしてどうして命令が来たかって言ったらね、僕ら菊池さんの家だから、ここに居ってさ。ここに居ってその話を聞いて、こりゃどうしようかって言ったら、こりゃ決死隊だって言う訳だよ。へぇーそげん危ないとこですかって言ったら、危ないって。敵の戦車がそこまで来とるって。もう昼間ここまで(地図を指す)来て、ここら辺でバンバン撃ちよったと。こりゃあ明日はここら辺まで来るじゃろうと。だからそこに行って飯炊けって言う訳だ、だけん決死隊だと。どうしようか。集まった中で僕が一番上だもんな。僕の上に居ったけども、その1人の兵隊は、車庫長と一緒にどこかこっちの方まで(見切れているが、さらに南を指している?)退避してしまって居らんとたい。で飯ば持って行きよった訳たい。何も知らん、そういったことは(両手を上げてぶらぶらさせる)。
そしてとうとう、僕は考えてみたら一番上だと。それじゃどうしようかと。手を挙げて、それじゃ行こうと。あと何人かがこう[註:手を挙げて]、7〜8人やったかな、飯炊きが出てきて。それから米を担ぐのが居ってね、籠を担ぐのが居って、何をするのが居って、全部で7〜8人でトラックで行って。で、ずっと行ってここからね、ここから登ってきて(島の中部東側を指す)。この辺から登ったんかな。何か道があるでしょ、登って行ったよ。そしてここの上に上がって行って、上がって行ったのが20…7月の29日の晩[註:手記では7月28日]に上がって行って、ここで飯を炊いて、それどこで炊いたかって言ったら、倒れた民家があって、民家があるというと、トタン板の屋根だから、トタン板や何やかやいっぱいある訳ですよ。そして[トタン板で]こう囲えばね、火を囲って敵に見えなくすることができた訳だ(微笑む)。そういったことでそこのところを探してその民家の跡でかまどをこう作って、何とかして敵から見えないように囲いを作るやらして、そこで飯を炊いて。そして飯を炊いてね(両手で握り飯を作る仕草)、握り飯、茶碗2つ分で握り飯作ってこうやったら、これ位大きな握り飯。でそれを包んで、バナナの葉や何やらでまた巻いて。何か長い葉があって、それでぐるぐるっと巻いて。1つずつ巻いてこうなる(1つずつ並べる仕草)。こんな大きいんだもんな(丸く広げた両手の指を合わせ大きな丸を作る)、握り飯も。それを1人に1つずつで、それが1日分だもの。それだけ、それを食う兵隊もきつかったろうばってんが、まぁ炊いてやる方もきつかったなぁ。そして炊いてやって、それから朝、いよいよ兵隊たちが取りに来て、渡してやって、みんな持って帰ったよ。僕らはまた下に降りてきて帰る途中、もう車使えんものだから。どうしてかって言ったら、ここまで降りたらもう、敵がそこまで来とってね、ポンポンポンポンって、ポンパーン、ドンパーン、ドンパーン。ドンといったらパーンって撃ってくる(笑う)。もう肝が抜けるやら何やらで、やっとそこを通り越してジャングルの中へ入り込んで、ここから帰って来たんだ。よう帰ったなあ。
そしてそこのね、軍医が居って僕らが世話になったところ、ここら辺(画が見切れているが、島の北部を指している?)に軍医が居ったんだけども、その軍医は何かここ(島の中部の東側を指す)居ったらしいということだもんな。で、その大島軍医という人が居って、その大島軍医というのが、軍医さんの弟さんと会ったときには、ここで死んだから知らんかと言われたけども、ここはおそらくね何にもないところであってね、ただ野っ原ぼうで、民家の跡があって、崩れたところがあって何にもないところだったけど、やっぱりここで死んだらしいと。何かしらそんな話があるんですよ。それは本もできています。あぁその本も貸してあげようか。そして弟さんは弟さんで、自分の兄がこうやって死んだというものだから、やっぱり供養をしたいという訳で何かしとる訳だな。
そしたらまぁ、ここを終わって、ここに帰った(地図を指しているが見切れている)。で、菊池さんのところに帰ってきたら、今夜ここを撤収してね、このカロリナスの台上に司令部があるから、その司令部に行けという命令が来た。7月の30日だ。7月の30日にそういう命令が来て、上がって行って、31日になってからやっと台上に着いて、台上をウロウロするごと何とかかんとかしよったけど、場所がわからんで、うろついとったらば[8月]1日になって、1日になってこっからここら辺をウロウロウロウロしよったら、どっかこの辺から(島南端手前の東岸を指す)上がってきた民間人か何かがね、これがサイパンから見えるところなんですよ、ここは。サイパンとかが見えるものだから、サイパンからの砲撃でここをやられて、民間人たちがいっぱいここに避難しとったのを、何か飯炊きか何かするときに煙出したんだろうなぁ。そうしたら人が多いということがわかって、そこをバンバカバンバカ撃たれとるんだ、艦砲で。艦砲とサイパンの砲(?)かな、それで撃たれとる。サイパンからここまでって言ったら、14〜5kmしかないものな。そこから撃たれとるんだ。で、ここで撃たれてね。僕らここからこう行きよったらば、バーッて上がってきてこりゃおかしいと思って、道見たら下からバンバンバンバン上がってくる、兵隊はいなかったけど民間人があちこち倒れてる。そうこうしよって、あぁここに僕らは居ったんだよな。そしてそのときに豚小屋があって、豚小屋を探してそこで昼寝をしようという訳で、そこで寝とったら、パンパンパンパン、バンバンバンバーンって音がしたもんだから、慌てて起きてみたらば、民間人が上がってきよる。かたや僕らは4人居ったか。4人一緒に並んで寝とってね、4人寝とって、僕は一番こっち側[右側]に居った。一番こっち側って言ったらおかしいけど、頭をこうすると右側に寝とって、その次に1人寝とってね。その次に2人居った。ここの真ん中に居った、僕の隣の男がね(叫ぶ)「撃たれたぁ」と言うものだから、どこを撃たれたかと言ったら、足を抱えてこうしとる(背中を丸める)ものだから見てみたらね、足からこう血が出とるんだ、ちびっと(左足首を指して抱える)。で、革靴を履いとるもんだから、ここからちょこっと何かしらん、破片が見えとってね。血は靴の中に溜まってしまっとる。そしてこれをどうしたかと言うと、痛くてどうにもならん。もう痛い痛い痛いと言っててね、しょうがなかった。それからどっか連れて行ってやろうという訳で、ウロウロして見てみたら、下から民間人たちがワーッと上がって来る最中だった。これは危ない、それじゃどっか行けという訳で、徳永というのがそのときやられたけど、徳永を抱えて(背負う動作)、僕らここのジャングルを歩きながら、司令部を探して歩こうという訳だ。司令部に集まれということだったから。司令部を探して歩く途中で、大砲の弾の当たった爆弾の跡か何とか、大きな穴が開いとるんだ、すり鉢になって。その中に大抵1人か2人ずつ死体があった。
そして、いくつもその穴を見ながら、だんだん上に上がって先に行って進んできて、とうとう司令部はわからんずくでね。徳永を担いでどこか、ここの山まで来た。ここの山まで来たところが、徳永がいよいよこう苦しがるものだから、どうかしよったら飛行機が来た、昼になって。飛行機が飛んで来て、ブーンと飛びながら、こりゃ見つかるぞという訳で木の陰に隠れるやら、何かこうしよった。じゃ飛行機が行ったから、それじゃまた行こうという訳で、何の気なしにね、(地図を指す)ここら辺をこう歩いてきて最終的には司令部を探すつもりで、司令部司令部司令部と来たんだけど、どこにも見当たらない。見当たるどころじゃない、ここはジャングルだもんなぁ。で、じゃここを通り越すと、畑になっとるけど、[司令部は]畑の中じゃなかったんだ。わからない。とうとう、わからんずくでここに降りてきて、出てきてみたら飛行機が飛んどる。そしたら徳永をどうしようか。危ないから、どうしようこうしようとしよったらば、大八車というのがあった、昔。大きな車がついてこう引っ張る車。あれをね、横から見たら大砲に見えたんじゃろうなぁ。飛行機から見ると、横から見て。車があってこう(手を斜めにする動作)向いとるものだから、大砲に見えたらしい。それを目掛けてこう撃って来たんだよ。ちょうどそこのところにね、ああ大八車があるからあの下に入れって言って、僕ら下まで入って行ったんだ。そうしたらパンパンパンパン撃ってくるんだもんな。パンパンパンパンと撃ったのは当たらずに次の方へ行ってた。その次にまた、こう行ったのがひっくり返して[註:旋回して]またこう来て撃った。その途中でね、敵の弾の間を縫ってこう逃げて、逃げて逃げて、敵はこう曲がって行くんだけど、僕らはその[旋回する]瞬間にこっちへ逃げて、こっちへ逃げてしてね。やっとジャングルの中へ入り込んで、そうしたら僕らの隊長じゃなかったけども下士官が居ったから、こういう訳で足をやられた、どうしたらいいかって言ったら、お前たちで何とかしてやれっちゅう訳よ。何とかしてやりたいけど、何ともならんしな。「衛生兵は居りますか」「衛生兵も何もここらには居らん」し、陸軍の兵隊が居ったから聞いてみたら、陸軍の野戦病院は撤収して、どっかしらんに移って来とると。だからそこを探さなきゃないと。(頭を振って)しょうがない。
そこで下士官とも別れて、しょうがないからどうするかと言ったら、徳永っていう奴だったけどその徳永が、もうここで、もう歩ききらんからね、俺はもうここでよかばいっちゅう訳でね。こりゃどうするかって言ったら、もう動かんと言うの。こりゃどうしようか。それからしょうがないから、どうしようかって言ったら、最終的に飯をやって、手榴弾を渡して2個やって、そして敵が来たら1発投げろと。[もう]1発で自決しろと。これは飯でお前がもう食うだけ食えと。そして別れたんだよ。そしたらね、後で行ってみたけどわからんな。で、戦争中はもう捕虜になってからは全然わからんけど、そのほか、ときどきここに用事があるんで行ってみるけども、どこだったか場所はわからん。
で、ここに上がって来た道があったけれども、そこもわからんし、僕らが寝とった豚小屋のコンクリートの家もわからんし、もうわからんですね(首を振る)。もう本当に徳永はそこでもう死んでしまったなぁと。(しばし沈黙)
敵機の機銃掃射
それからね。僕は本当の死体を見るというのは、死体じゃないけども、死人。これ徳永もここで死んどると思ったもんな。それからもう一つね、ここの菊池さんの家に居るところ、マルポーの池の側の(地図を指す)。菊池さんの池の側に居るときに、菊池さんの民家が艦砲でやられたんだよ。艦砲、艦砲射撃でバンバンバンバーンってやられた。いや、艦砲射撃じゃなかった、飛行機にやられた。飛行機が来てバンバンバーンと撃ってきた。艦砲射撃じゃなくて飛行機。そのときはどうしたかって言ったらね、そこの菊池さんの家というのは、僕ら兵隊は、大いばりで昼間はそこ[民家]一軒借り切ってしまって、大いばりで昼寝をしとったんだ。それが朝何時頃かな。10時頃か11時頃やったか知らんけども、飛行機が来てバンバンバーンと撃ってきた。で、そのとき何をしとったかと言ったらね、菊池さん[家族]はみんな山に入っとったんだよな。あとは全部、あっちで寝、こっちで昼寝しとるんだ、昼寝じゃないけど、寝とるんだもの。朝飯食ってすることないもんだから。昼間は動けんし。そうして寝とったら、そうしたらね、トイレが1つしかないもんだから、偉い人から順番にしよる訳だよ。なかにはね、そこ[トイレ]の中に入って軍歌歌って、[軍歌の]終いまで出て来ん、歌い終わるまで。5分も10分も経ってやっと出てきて。その後に入って。何回かその後に入って、僕らは10時頃になるんだよ。トイレに入るのが。朝から支度をしちょれば、10時頃になってやっと入って、座ってしよったらバンバーンと来たのがね、こっちは三尺[約90cm]しかないトイレだもんな。トイレは三尺四方。その向こう側は物入れがあって、海軍というのは衣嚢(いのう)というのがあってね、衣服を入れる袋。四角なこれ位、十尺ばかりの長いこの位の袋があって、それを1人ずつこう入れる棚があってね、その棚に入れるように設えてあった。設えたんだ、僕らで。そしてその中に衣嚢を入れて置いておったところを、それを通り越してね、僕らのところの屋根を通り越して、僕らの壁を通り越して、ババーンとトイレの中に来たんだよ。僕がしゃがんどるとき。しゃがんで立ち上がったときに、ババーンと来たものだから慌ててしゃがんで。弾通り越してしまって(頭上で手を横に振る)しばらく飛行機はあっちへ行ってしまった。どうしよう。こちらは大慌てだ。慌てて(ふんどしを締め直す?仕草をして笑う)、出てきた。出てきたら、藤田がやられた。藤田というのは、僕らと同じ一等兵が居って、それは福岡の男やったけど、それがやられた。行ってみたら、縁側で続いてねひっくり返って、頭(のけぞって、両手で頭から血が流れているジェスチャー)。
それが、後頭部から撃たれて頭のこっち(髪の生え際を指す)から抜けたんかな。で、もう即死やな。それからどうしようかと言う訳だよな。どうしようかと言うと、どうしようもないし、これは埋める訳にはいかんし、じゃ軍医のところへ持って行って、診せとかんばいかんばいちゅう訳でね、夜になってから軍医のところに車で連れて行った。で車で連れて行って、僕はそのとき行かなかったけれども、車の後ろに乗せて、運転手と助手と2人で行って、こういう訳で藤田が死んだと。それで連れて来た。そうしたら軍医に怒られてね、「死んだ男を連れて来てダメだろうが!埋めてやれ」って。「それくらいお前たちできるじゃろ」と言うの。「はい」。結局、連れて帰って埋めてやった。そして結局、藤田を連れて行った男がね、後でこう出て来てからしばらくウロウロしとったらば、そこから、病室から出て来た。病室がここにあったんだ(島の中部より少し北を指す)。ここのね、カロリナスの山があった、サバネタバスの山、ここの山。こここう(島中央部の等高線?を指でなぞる)あるでしょ。ここ山の高いところ、これ山の険しいところ。等高線がこう重なったところ。ここのここら辺にあった。ここら辺に、ここから連れて行って、ここで診てもらったら「お前たち、なんばしよっとか」って怒られて、で「埋めてやれ」って。で、後でそこから出てきた[別の]兵隊が、あのとき軍医が言いよったって。「あのさっき来た男は、お前知らんか」と言われて、「いや、知りません」。「あの男はちっとイカれとるばい」って。「死人ば連れて来て、何になるものか」。そうやって言われたって、その男が聞いとっとったい。ヨロシュウのがね。そしてそれがカンカンになって怒っとったばってんが、最終的に連れて帰って来て、菊池さんの家の側の、芋畑があったところの石のこっち側に埋めておけば、目印になってよかろうと言う訳で、そこを掘って埋めてやって、石が目印になった。わからん。その後行ったけどわからんやった。
そしてそこを…それはもうそれで一回終わって、それから飯炊きに行って、飯炊きから帰ったらば、もうカロリナスの台上の司令部に集合と。司令部に行けば銃もあるし、手榴弾もあるし何でもあるっちゅう訳で、行ってみるけど司令部がどこやら、全然わからん。それから家がないしね。家があってもときどきしかないし。ジャングルがあるとそこの中も歩きよるんじゃなくて、外に出ると畑だ。畑の中はもう飛行機が飛ぶと危なくて、走って歩いたり何とかして、徳永を担いどるしね。交代で担いでやっとここまで来て、逃げてきて、それからここからね。(膝をパチンと叩き、小さく何度も頷く。しばしの沈黙)
それから一番最後に、僕らはここから徳永をおんぶしてジャングルに入って、どこかここのジャングルに入ったらしいな(島の南端手前の東側を指す)。でここにジャングルがあるんだけど、ここのジャングル通り越してね、最終的にここじゃないかと思うんだけどな。ここを降りよったらね、道がなくなって、こっち側にしか行けんようになって、ここに降りた。ここは急な崖なんだよな。そして急な崖であるけれども、土の崖である。だから木が生えとって、そこを伝って降りれば何とか降りれる。本当にここのところよ。(地図にクローズアップ)暗いな。ちょっと待てよ(テーブルに置かれたものを片付ける)。
ここだったんだろうと思うけどな(島南端近くの中央部を指す)。で、徳永を下ろして、それからジャングルの中入ってここのところへ行ってね、ここで一晩泊まって、翌日ぐらいやったかな。徳永と別れて翌日くらいやったか。そのときはどこ、この辺(東側を指す)か。じゃこの辺で別れたとかな。
海岸での戦闘
(で、崖のあるところに来て。)
ここの崖がね、ここの緩やかなところを下って行って、ここは大きな相当な崖だけど、ここを下って行って、海岸は17〜8m位の崖だから、ちょっと行けるところじゃないんだ、ここは。そして、ここは行けるところじゃないから、こっちだったら何か下まで降りれそうだなというようなところが見つかったもんで、ここからねこっちに降りて行って、ここを下ってここの海岸に降りてきた。で、海岸に降りてみたらね、海岸に降りたらば、夕方だったけども、民間人が何人か来とって、5〜6人居ったな。で話を聞いてみたらば、ここやったら大丈夫だとか何とかいう話で、それから兵隊さん水ありますかって言うから、水はないって言ったら、水があるから飲んでくれっていうことで、水を飲んだらね、水のあるところが崖の下のここにあったの。これが未だにどこかわからんけどもね、そこの崖の下のここの水溜りに行ってみたらば、大きな岩があって上がね、畳が3畳くらい敷かれる位の水溜りがあってこの位(高さ40cm位を手で示す)貯まってるの、水溜りが。そしてこう飲んでみたら真水。雨水が溜まってそこに貯まる。潮水は入って来てないんだよ。これはしめた、ここに居ったらしばらくは大丈夫だということでね、大丈夫だと思って居ったけども、さっき話したように、毎日毎日水だけ飲んで、米粒をこれだけ(片手を握る)握っとった奴を少しずつ食べよったけど、終いになくなってしまって、ひと粒食べちゃ何とかしよった。終いにはもうここに水汲みに行く、当番で行くのにね、足が立たんのよ。飯食ってないから。これだけ(座った姿勢から少しだけ腰を浮かせる)上がろうと思ってね、上がりきらんのさ。ここに足を上げようと思っても、足を1人で上げきらん。で結局どうするかって言ったらば、結局この足を[両手で]抱えて上に上げて、やっと上がって、そうしてどうしたかと言ったらば、やっとその水を汲んでね。水筒に詰めて、一升瓶を3本ばかり持って行って、それを持って帰った、やっと。これじゃもうダメだから、先にジャングルへ上がろうじゃないかと。上がったら食料は何とかなると思ったんだ。そしたら朝起きてみたらね、随分人が来とったよ。いっぱいになっとったもん。それから何日か経つうちに、その水がやがて終いになってきたんだよなぁ。これは危ないからもう早く行こうと、そこで1週間も居りよったもんなぁ。それから飯を食ったのが9日目だったかな。その代わり、足はここ海岸を歩くときはふらふらで歩いとった。
そして、海岸の岩場の洞窟の中に兵隊がたくさん死んどって、これは兵隊によくもここまで来てやられたなと、頑張ったな、よくやってくれたと思いよったけど、最終的に考えると、今考えるとあれは自決やったかなと。あれはかわいそうなことをしたなあと思って。
ま、それはそれで置いといて、上に上がってきて、民間人が1人居って、ダイナマイトを持っとるからマッチを貸してくれ。マッチを1本でいいからくれとか何とか言われて、俺たちは煙草も何も持たんと。マッチもないと言ったけどね、それは諦めきらんような顔しとったけど、僕らもマッチをやってダイナマイトでボカンとやられたら、ヤンキーに見つかったりなんかすると困るから。だから困るからもうそう言うことはせんで、何とか生き延びろよって言ったけど、どうかねぇ。生き延びたかどうかわからんけど。本当かわいそうだった。あれもかわいそう。
そしてそこを通り越して上に上がって、初めてのジャングルに入って飯を炊いて。民間の[住まいの]跡を探して、米を探して。そして玄米があって、胚芽米があって何があって、籾殻で、籾は食えんからどうにもならんで。それで水を汲んで、水を作って、椰子の枝に縄を巻きつけて水を取って、炊いたら[敵に]見つかった。あぁ、そこまで話したな。そこまで話して、それからっちゅう訳で、洞窟の中に入ってね、ここやったら今回は大丈夫だ。洞窟の中に入って、そこで昼寝しよったんだ。昼寝しよる〇〇たって、飯は食ったし、飯は食ったじゃなくて、玄米と胚芽米と何とかかんとか麦とか混ざったの、食えたもんじゃないんだよな。それでもうまかったよ。腹一杯食ったよ。そしてそこの中で昼寝しようと昼寝しよったら、陸軍の兵隊が1人一緒に居ったけど、その兵隊が俺は出て行くと言って出て行ったんだ。よその部隊の、陸軍の部隊の兵隊に行くから、俺は出してくれという訳で、出て行ったんだ。それが出たらね、パンパーンって撃たれたの。ヤンキーが来とったんだ。そこに居って出て行ったんだよな。また悪いときに(顔をしかめる)それが出て行ったんだものな。そしてそれが出て行ったものだから、[撃たれた兵隊が]出てきたところに上がって来たんだな、僕らのところに。伏して見てみたらね、マニホールドって言うんだ。Manifold[註:多様体、多気管の意]。マニホールドっていうのは穴、洞窟。マニホールドがあると。マニホールドがあるからみんな集まってきた。ガタゴトガタガタと石を踏む足音が聞こえて、これはヤンキーが来たばいと思ったよ。そしたらね、手榴弾放り投げてきた。手榴弾放り投げてきたらね、あのときに居たのは…。マニホールドと言って手榴弾を放り投げて、コトンコトンコトンと音がして落ちて来たらば、コトンコトンコトンと落ちてきて3つ数えたら手榴弾は爆発するんじゃったものな。コトンコトンコトンと落ちてきて、シュシュシュと言い出したから、1、2、3(指折り数える)…10数えても爆発せんもんね。これはおかしいと思ったらね、不発弾(笑う)。それから後で見たんだけど、そのときはどうしたかって言ったらば、そこは3人はやっと寝れるくらいの、4人が何とかというところでね、その深い穴があって、その横っちょには岩の裂け目じゃないけど、裂け目がこうやって(手で縦の裂け目を表現)あって、体を入れればこうやって入って行ける裂け目、それが2つ位あったの。だからこっちに1人入って、そっち側に1人入って、そして入ってね。1人は奥に行って、僕はその奥に、その後で入って行って。そしてしばらくしよったら、またマニホールド!って言ったらばよかったが、コトンコトンコトンと音がしたら、今度はシュッシュッシュッシュッって音がしよるもんね。手榴弾の音が。これは1、2、3と数えたらバーン!と。(ふらふらになった仕草)もう何にもわからん。何にもわからんでこっちはね(左肩から左腕をさする)、シャーンとなって何かチカチカしてね。もう生きた心地はないけども、やっぱり生きておったんだな。助かったよ、そこで。そしてこっち(左耳を指す)は穴が開いとるんだもの。そしてね、これ穴が開いたのわからんで、たーっと耐えて(両手を握りしめ身を縮める)、それが昼から飯も食わんで一晩じゃなくて一日中、そのまましゃがんどった。そしてヤンキーが出て行ってね、しばらく経って、もう大丈夫だから行ってみようかという訳で出て行った。そして出て行ってみたらね、ダイナマイトというのが、四角なダイナマイトを4つ並べて、それに信管を挿してね、信管を押せばダイナマイトが破裂するようになってたんだろうな。そのダイナマイトの爆発するのが、それが4つあったよ。そしてなお出て見たらね。
ヤシガニとヤシの実
ともかくあのヤンキーが出て、もう大丈夫だからへばりついた岩の割れ目からこう降りてきて見たらば、そこにヤンキーのダイナマイトがあって、信管がついとって、その信管を押してあるけども不発だよな。それからもう一つはね、しばらくじっとこう聞いとると(右耳に手を当てる)何か音がするんで、こう聞いてみるとね、ガサガサ、ガサガサって音がするの。あーっと思って(のけぞる)身構えとってよく見たら、釜があるんだよな。飯炊き釜。そこにね、僕らが来るときに獲っとったヤシガニ。ヤシガニというのは知っとるでしょ。ヤシガニというのがあってね、それが美味いんだよ。そのヤシガニ獲っとったもんでね、そのヤシガニを釜の中に入れとったら、ヤシガニがガサゴソガサゴソ動き出した。
それで動き出して釜の中で蓋しとるから、茶釜じゃないけど、釜があるでしょ、蓋に2本柄があって、重たい釜。だから[釜の上に]上がって来れんとやね。で、そのヤシガニがバタバタバタバタしとって、そのヤシガニが晩飯のおかずになった。(何かを思いついたように人差し指を立て、後方を見て)そのヤシガニの小さいのがあるから、ちょっと写真だけ撮って。
(ヤシガニの剥製を手にした金谷さんが映る)どうする、白い紙がいい?(白い紙の上に置かれたヤシガニが大写しになる)
(これは、え、何?)
これがヤシガニっちゅうんだ。昔はね、こうした触角じゃないけど、あってね、きれいかったんだけど、触覚は触ったらすぐ取れる、ポキンと折れて。そしてこれが大きなものになるとこれ位(手で大きさを示すが見切れている)あるんだ、ここが。そしてここがこの位あって、こんなになるよ(全体で2倍位の大きさか?)。そしてここ[甲羅]を取って曲げるとね(ヤシガニをひっくり返す)メスだとここに卵をいっぱい持っとるんだよ。で、それメスだったものだからね、これ[卵]がこう被ってね、これ大きいんだよ、まだね、これ位あるよ(片手を軽く丸めて大きさを示す)。これがこうしとる。こうしとって、ここの中に卵がいっぱい入っとって、それが美味くて、これをこう剥ぐというと、あとはここ[甲羅]の中に殻があるだけだけども、これはカニの殻と全く一緒だな。肉は少ししか入っていない、ここは。美味いのはここ[卵]。これが非常に美味いんだ、ここが。それでこれがね釜の中でゴソゴソいったもので、これ見てみたらこれがまだ生きとるんだものなぁ。それで、これ炊いて食おうやということで、炊いて食った。こりゃ美味かったよ。これヤシガニ。
(ヤシガニ。これはどうしたんですか?)
え?
(これは拾ってこられたんですか?)
これは後で行って、拾ってきて、薬でここの中へ、何て言うんかな。
(剥製みたいな。)
剥製にしてもらって。そのときはツノみたいな、こうあったんだけどもヒゲがね、もう全部取れてしまった、これだけ。で、こんなものをもらったりなんかしよったら、もうこれやみつきになって、好きになってね、あの中に(左方を指差す)いっぱい集めるようになった。で、これがヤシガニ。(ヤシガニを持って立ち上がり左手に去る)
(二つのヤシの実を持った金谷さんが映る)これはヤシの実やね。(茶色いヤシの実を示し)この外側に大きな皮がこれ位(人差し指と親指で5cm位を示す)ついとる。だからこれだけになる(両手で大きさを示す)訳だ。1人で持つのは持てるけど、大きな殻になる。これ(黒いヤシの実を持って)もそう。これはどうしたかって言ったらば、これ(茶色いヤシの実を取って)を割るとね、若いやつは割るというと、中に白いのがいっぱいついとる、厚さがこれ位(指で2〜3cm位を示す)。で、水がこれ位(人差し指と親指で丸を作る)あってね。ちょこっとだけ真ん中に溜まってる。それを割って、(茶色いヤシの実を見せながら)中を出して、油だけを取って。そしてこれはここでこう繋いである。これがまた面白いんだ。(ヤシの実に開いた穴を見せる)
(顔みたいになってます。(笑う))
顔でしょ、これも顔だもの。(別の黒いヤシの実を見せる)全くおんなじ顔。で、これも同じようで、これ[茶色]は若い方だな、これ[黒]は熟した方で、あそこに白いのがある。あの白い方も若い方。若いのは結局、まだ水がいっぱい入っとって、若いのは美味しい。これ[黒]はもう水はこれくらい(片手の人差し指と親指で小さな丸を作る)にあって、ふふっとする[すする]しかない。その代わりこのコプラ(註:脂質が豊富で油や石鹸、燃料のもととなる)というのはね、白いのがいっぱい入っとって、ここから割ってそれを取って、乾燥させてある。だからもう大丈夫。で、これが面白いんだわ。(二つのヤシの実を見せる)この顔が面白い。これはこれで終い。
敗残兵生活の始まり
そこでその(地図を広げて見る)、それが上がって来たら何かここの中のジャングルやったろうな。この辺りのジャングル(島中部より南寄りの東岸を指す)。それでそこでやられとるんだから、ここはもう居れんから危ないからという訳で、それでジャングル出てね、どこに行くかっちゅうと、菊池さんところがあったな。菊池さん。(地図を広げ、島中部より北側中央を指す)ここの池の、ここの側。菊池さんのところのここのね、東側の斜面。等高線が詰まってるでしょ、詰まってるところは崖の険しいところ。ここのどこかのジャングルに入ればどうかなぁということを考えて、ここを突破してこっちに来た(東岸から中央部の内陸を指す)。ここを突破するのに、どうするかと言ったら、要するにここから何やかんやしながら歩いてきて、やっぱりこのジャングルを出るまでに一日か二日はかかったなぁ。やっぱり米兵が下ば警戒して歩きよったわ。
そしてそのときも上から見ながら、ここからやったら手榴弾が届くがなぁと思いながら、危ないことをしたら負けるから。だからやめとこうと(両手の拳を握り我慢するポーズ)。そして上から見てた。そしてここでやっとこ来て、何とかかんとかここに出て来た。ここに出て来てからが大変だよなぁ。ここまで出て来るのは出て来たけどもね、ときどきヤンキーのバラ線に引っかかって。でカランコロンと音がして、ヤンキーがパッと灯りつける。灯りつけてね、探照灯をパーっと照らしてあちこちこう見て回るけど。危ないからじーっと(身をかがめる仕草)。怖かったよ。何回かあった。何回かあったけど、ここまで出て来て、ここに来たときはおそらくその天下泰平やったけど。ここのジャングルの山の上に来てね、ここから下に降りて行けば、昔に居った山に入れるなと。退避しよった頃の山の中に入れるなと入るつもりで居ったところが、そこまで。そこに行く前に、スコールに遭ってびしょ濡れになったことがあった。(膝をパチンと叩き、しばらく沈黙し頭の後ろで両手を組む)。それからまた大分あるけどなぁ。
(場面が切り替わり)生き延びたかと。一番初めに話したところの一番だ、大元やな。そしてあれはあれに置いといて、その後現地に行って、こうやって、こうやって、こうやってずっと来て、やっと今ここまで来て、で洞窟の中から出て来てここに行こうかどうかしよったところ。で、ここに来て、これからまたしばらくあるよ。それから敗残兵生活というのが始まった。
(それからも、終戦まで1年くらいありますよね。その間ずっと逃げてというか、隠れて転々としとられたのですか?)
隠れとった。それは大ごとたい。隠れとる間に(少し黙って頷く)、うん、ここ怪我したんだもんな背中。はぁ(ため息)、まだある。(黙って、少し笑う)
じゃ今日の最終は何時?
(今から面白いところですか?)
あるよ、いくらでもある。本当にもう話せばキリがないんだもんな。
(テープがこれが最後のようなので、あと50分位かなと、テープが。)
あと50分?
(はい。このテープがあるのが。)
テープは家もあるよ。もう古いの使ってよかけん。そしてここ、不沈空母と言われたから航空母艦の代わりはしよるかもしれんけども、沈まんかもしれんけども、取られてしまっては何にもならんのだもんな。かえって航空母艦で沈んだ方が、敵には使われなかったかもしれん。(しばし沈黙)
(地図を指しながら)それからあとね、どうしたかって言ったらば、ここで雨宿りしとって、びっしょり濡れて、こりゃいかんからと思ったら下の方にね、ちょっと降りたところに洞窟があった。民間の人たちがあっちこっち入っとった洞窟じゃろうと思うけどな。ここにあったんですよ。その洞窟があったもんで、その洞窟に入ろうかなと思ってウロウロしよったらば、あぁそうだ、あぁそうだそうだ、思い出した、雨に濡れてびしょ濡れになって洞窟を探して、そこの洞窟の中に入って居った。そしたら、ヤンキーが来た。そしてヤンキーが来てどうしたかと言ったらば、洞窟って言うのはね、漫画を描けばよかっちゅうごとが、描ききらんから。だけども、大きな岩があってね。大きな岩があってそれで半分えぐれとるんですよ、ここね(地面を指す)。その前にはもう一つこうした岩が(手を立てて高さのある岩を表現)立っとって、でここの間がこうやって、こここうやって(段々を表現)、ここからこう下からこう入って行って、大きく畳1枚か2枚位の隙間があって。そういうところがあったもんだから、ここの中に入っとった。そしたらそこが見つかってね、その日。その日入ったらすぐ見つかった。入って何時間かしたら見つかって。そしたら僕は昼寝じゃないけど寝とったら、「おーい(揺さぶられる)いびきが大きいぞ、敵が来た」と起こされた。いびきをかいて寝とったらしい。そしたらカタコトカタコト音がするの。そうしたらば、ここの入口をこう入っとるとこね、こっち側に、民間人が居ったものだから蚊帳やら何やら持って来とった。そして鍋やら釜やら何やらいっぱいごちゃごちゃしとった。それをひっくり返してガチャンガチャンガタンガタン、音がしよったよ。そしたら[米兵が]蚊帳をこう[手前に]引っ張ったら、僕らの穴の入り口を石で押さえてた、その石がゴロゴロ動き出してね、こりゃ見つかったかなと思ったら、そのままで何もせんで、終いには足音が遠のいていなくなったもんね。そしたらね、すぐその下にね、もう一つ洞窟がある。そこに洞窟に居った海軍の兵隊が、ひょこっと上がってきて僕らのことを気がついたんだろうなぁ。「必勝」と。「必勝」と言ったらば「信念」と返す言葉があったんだよな。「必勝」と言って「信念」と僕らが返したら、すっとやって来て、俺はどこの誰だ何だかんだ話をしたら、それじゃ下の洞窟が空いとるからね、洞窟に入らんかと言う訳たい。下の洞窟を探して入れてもらったんですよ。
そしたらそこでね、まる1年(指を1本立てる)、1年洞窟生活やった。これを1年間は長いよ。その1年間は本当に長い。だけんそのときは何をしとったかと言ったらば、要は食うものを探すのに精一杯だもんね。で、どんなんして探すかと言うと、一番いいのは芋畑を探す、さつま芋。で芋畑を探して、その芋を掘るんだよな。ところがね、芋畑も民家の人たちが飼って居った牛とか豚とかがひっくり返してしまうんだよな、そうして食うんだよ。で、あの連中余計食うからね。そこら辺の畑をほとんどね、一晩で荒らされてしまう。それでも掘るだけ掘って帰らんと、と担いで帰るけれど、芋は重たいからな。何本もないんだよな。持って帰って何とかかんとか、また[畑に]行ってみると、また盗られてしまっている、掘られてしまっている、芋畑。それから芋は、もうしょうがないから、今度は何を食う。食うものがないんだもん。それで何かって言ったらね、デンデンムシが美味いぞと。というのはカタツムリを持ってね、カタツムリというのは長いから、長崎のデンデンムシは平べったいデンデンムシでしょ。平べったいデンデンムシはぐるぐるっと巻いとるけど、[テニアンのは]長くてね、ここに巻貝の長いのあったかな。デンデンムシ。それを取って来てね、初めデンデンムシが美味いからという訳で、デンデンムシを獲って来て、そのまま鍋で煮てね、食べよったけども、目がひょっとして口がひょっとしてね(顔をしかめる)、あとは白く泡吹いてさ、もう食えるものじゃなかったの。
そしてどうするかって言ったらば、住吉神社というのがあるんだけど、ここら辺にこうあるんだ(島の南端より少し手前を指す)。ここの住吉神社に行くとね、敗残兵が寄り集まってくる集会場があった。そこの集会場に行くと、いろんな情報が入る。でそこで聞いて見ると、カタツムリを全部石で叩いてね潰してね、硬いところだけ取って缶カンの中に入れて、缶カンの中がいっぱいになったら、手でこうかき回すと泡が出てきて、ババババとなって(あぶくが出て来る様子を手で表現)、硬いところだけ取れるから、それをまた別の缶カンにこう入れて。そしてまたこうかき回すと、また泡が出てくる(笑う)。それを2〜3回やればね、泡がとれるからそれを持って帰って。芋を炊くときはね、デンデンムシを先に一番初め入れといて、それから芋を入れると。そうするとデンデンムシからヨダレが出て来てね、水気が出る。水が少なくて済む。そうして芋を蒸して食いよった。芋と蒸してじゃなくて、後も全部練ってしまってね、これ位(丸くした両手の指を合わせて丸を作る)の缶カンがあって、これ位の缶カンあるな、あのピーナッツの缶詰。これ位の缶詰にいっぱい入れてね。それを一日分。一日分にして3人で使いよった。
そしてそれで一日分もらってそれを少しずつ晩のうちに食って、朝になったら食って、結局昼は寝て、夜仕事に行く、仕事になった。昼と夜とが全く逆になった。そして夜になったら住吉神社まで行ってニュースを聞いて、どういうこっちゃ、こういうこっちゃ、艦隊が来るとか何とかかんとかと言う話があったり、何やかんやする訳よ。そしてある日、これ山の上から見とると、毎晩赤い火が燃えとるところがあるんだもんね。毎晩燃えとるんだもの。それをよくこの住吉神社で聞くと、あれはヤンキーの塵捨て場って。ヤンキーのゴミ捨て場。そしてゴミ捨て場でゴミがいっぱいになったらじゃなくて、交代交代にゴミを焼きよると。だから毎晩燃えとると。へーっちゅうごとでね。そして交代交代に焼くから、今日はここ焼いたら、ここにいっぱい溜まっとるのよね、隣のが。で明日ここを焼くと。だからその晩に行くとなると、その隣のゴミ捨て場にいっぱい新しいゴミが溜まる。そこに行くと、缶詰やら何やら、こんなのいっぱいあるちゅうんだ。こりゃしめたと思ってね、大喜びで行ったよ。そしたらメリケン粉があるやらね、缶詰があるやら、野外に持って行く飯やら、コンビーフとチョコレートやら、キャラメルの缶詰、それが2つずつが1組なんだよな。それが1ケース持って行くんだ。いくらかというと12ケース。5人行っても10人行っても1ケース持って行く。1つずつ食えば上等だから、後半分残る訳よ。残ったのはそのままやりっ放しで帰る、敗残兵掃討に行って。それだけ向こうは余裕があったんだ。そのうちのその物を食って、塵捨て場に行くというと、メリケン粉を拾うとか何を拾うとか。
DDT
それからね、靴があったなぁ。靴がね、探すとね、僕らの足にちょうどいい靴があるんだもんなぁ。ヤンキーのあの大きなのに。そうかと思うとね、こんな長いのがあるんだよ。後で収容所に行ってから聞いてみたらね、靴の上から履く靴。それで何するかと、作業するときにそれ履く。びっくりした。いろいろあるんだもん。そこでいろんなもの仕入れて帰って、ある日これがDDTというのがある。DDTって知ってる?DDT。昔のハエ殺し。
あのね、うちの家内が満州に居ったんだけども、引き揚げて来るときは全部シラミが付いとったから、DDTを頭からかけられて、背中に入れられて、ここ[ズボンの中]にも入れられて真っ白くなってしまった。僕らも帰ったときはそうやって全部真っ白にされて、家に帰るんじゃなくて、夕方になったら弟やら何やらみんなが来てくれたから、収容所にね面会に来てくれた。(髪についたDDTを取る仕草)少しずつ粉を持って帰りよった。それ位、内地はシラミも多かった。それからそのDDTというのはね、それがここ[本]に書いとるように、DDTの缶があったんだよ。で、DDTの缶というのは僕ら知らんしな。DDTの缶拾って、それどうしようかって言ったらば、持って帰ると言う。持って帰って、それが大きな缶。これ位のでこんな缶(手が見切れておりどの位か不明)。どれ位の缶って言うのかな、ちょっと重たい缶よ。それ3つ、1人に1つずつからって[註:”背負う”を意味する九州の方言]持って帰って。そして開けてみて炊いてみたけど、煮ても焼いてもどうしても食えるもんじゃない。喉通らん、薬だから。そして缶を見たらね、DDTって書いてあって、ハエ、ハエっているのがあるでしょ、フライ[Fly]。あとモスキート[Mosquito・蚊]。それで戸を退けて蓄えろ。From storage 何とかかんとかmosquito何とかって書いてあるんだよ。片言であって読めんとたいな。何のことやらわからない。昔のDDT。それを拾って帰って、持って帰った。どうしても食えんやった。喉通らん。そしてしょうがないからどうするかって言ったら、そのときはもうゴミ捨て場というのを決めておいてね(後ろの窓を向いて、外が薄暗くなっているにに気づき)、もう[カーテンを]閉めんといかんな。閉めるからちょっと待っとって。
(奥様がカーテンを閉める)そしたら、ポーンと投げると下の方に落ちよるんだから、パーンとこう広がるんだな。そして2〜3日経ってねそこへ行ってみたら、今まではそこへ行くと蚊が、ハエがわーんと来よったのが、ハエが1匹もいなくなっとる。ハエ殺しだもんな。それを3缶ぶちまいとるんだから、そこはもうハエなんか居れる訳ないんだろう。だからみんなハエが死んでしまって。
DDTの缶なんて、書いちゃあるんだけども、読みきらんとわからんで捨てたら、本当ねあの頃は、シラミが居ってシラミが居ってもうしょうがなかったんだ。そしてこうやって着とってね、寝とってね、ここの[服の]外には居らんけどね、こう裏返すというと、ここの縫い目にズラーっと居ったんだもの。それからあっちも背中も頭も。あれ知っとけば、[DDTを]かけときゃね、シラミに食われんでよかった。それからもう一つね、それ[DDT]を持って住吉神社へ行けば、食料と換えられたと思ったんだ。これ持っとけばシラミが消える、ああそれじゃくれ、その代わりみかんも持って来い、何もなかったけどな。芋を持って来い、何かと換えられたと思った。だけど、とうとうそういうこと知らんで、それから[ハエが]居なくなって…。(床に滑り落ちたものを拾い、床にあった地図をテーブルに戻して、本を黙読する)あぁそれからね、(広げた本をテーブルの上に置く)ここに書いてあるよ。DDTのこと書いてある。
(あぁ、ここにありますね。)
DDTのこと、ここ。これはフロッピー[註:磁気ディスク]に入っとるけん。
そして山賊になって。山の中入ったらとうとう、ここの山の周辺にね、ここからこっち、ここは山に登れるちゅう訳だけど(地図の島南部中央を指す)、ここら辺の周辺に下の方にね、鉄条網を張り出した。木[杭]を立ててバラ線を張るのがあるでしょ、鉄条網、ずーっと。そして”Off limit, danger of the Jap[日本兵の危険あり立入禁止]”、日本人の兵隊が居るから危ない、入るなと。敗残兵が、ジャングルの山賊になった(笑う)。そしてここ[カロリナスの洞窟]の中に入っとって。それからがいろいろあったなあ、ここでは。本当にいろんなことがあった。
(地図を指しながら)ここにあって、僕らが居ったところはここだから、これ[その間]が1km。1kmはこれだけか?(親指と人差し指で地図縮尺を測る)やっぱりこれが1kmか。だから1km位離れとるんだよな。で、1km離れとってそこをね、夜行くんだよ。真っ暗墨になってから。それが真っ暗墨の闇夜は、全く歩けない。それから月夜の晩だと歩ける。これはねぇ違うね。月は三日月でも出とれば歩けるよ。月が引っ込むともうダメだ。だから月の出とる間に行って、それ養生して、あっちこっち探して芋掘って、帰って来る、月夜の晩だ。それから僕はここ(左足を指す)を怪我した[註:撃たれた]でしょう、怪我をしたときどうしたかって言ったらば、一番初めに作業に行ったときに、一番にやられたもんね。そうだものだから、あと闇夜の間は全部、僕は1人で寝とったんだわ。痛くて動けんで。(腰を押さえる仕草。金谷さんは左足とともに腰を撃たれた)そうしたら全部他の連中に食わしてもらった。気の毒なことしとったわ。で、食わしてもらって(しばし沈黙の後、うーんと唸る)。
投降に至るまで
(頭をかいて)えっとどこまで言った?そして住吉神社に行くと、いろんなニュースが入ってね、終いがてらになるというと、サイパンから投降勧告というのがやって来よるようになった。投降勧告というのは何かと言うと、もう手を上げて出て来いという訳やな。で、それはもう終戦の前から来よったようだったな。そして俺たちはもう負けちゃおらんから、どうとかこうとか言うけど、もう負けたのは当たり前だな、どう考えても。それから奪還に来るということを聞いとるけども、一向に船送るのじゃなし、飛行機を送るじゃなし。こりゃもう完全にダメだと。そう思っとったところが、そのヤンキーの塵捨て場に行って、雑誌の『LIFE』[註:アメリカで発行されていた写真中心のニュース雑誌]というのがあったな『LIFE』を拾って来るとか、新聞を拾って来るとか何とかしてね、片言じゃないけど、こう見とったら”Surrender of the Jap[日本降伏]”って書いてあるんだよな。これはJapがSurrender、手を上げたと、降伏したということを書いてあるもんで、こりゃやっぱり負けとっとばいなぁと思いながら、雑誌を拾って持って帰って。
こうやって見てみるとね、中に横浜の兵隊が居って、あ、これ横浜のどこのところじゃと。ヤンキーと日本の女性がこうしとる(抱き合うジェスチャーをし、顔をしかめる)。これは確かにもうヤンキーばい、何とかばい。そしたらやっぱり負けとっとるのは間違いなかばい、ということやった。それから手を上げて出て行こうかどうしようかっちゅうのは、ありゃ難しいもんだった。俺は志願兵だから出て行かれんとかね。俺は何とかだから出て行かれんとか、死んでこいと言われたから出て行かんとかね。しかし俺なんかも早く行きたいなぁと、出たいなぁと思っとったけど、何か出て行かれんしなぁ。友達がそうやって言うならば、出て行けんばいと。最終的にどうしたかと言うと、いよいよ出る段階になってから、ここら辺に集まって(地図を指す)、この道がいろいろこうあるんだよ、ここね。道があるけども、この辺のとこから道のどっかこの辺の家で、話をしながらどうしようかと言ったらば、誰かがこうしようかと言ったら、じゃああれも連れて行こう、これも連れて行こうと合計9人か10人位寄ってきてね、そこで話をして、行くか、出るか出るまいか、一晩中かかったよ。僕らは出ることを初めから決めとったし、何とも思わなかったけれども、出るつもりをしとったところが、彼らは行かんとか行くとか何とか、終いにはうーん、行こうかどうしようか、とうとう出る方になってしまって、そして手を上げて出て行った。
それで手を上げて、ここの幹線道路というのがあって、これをこう(島の中央部を縦断する道路を指し南下を示す)行きよったものね。ここの位置。これは幹線道路で、この道はなくってね、後でできた道で、ここまであったけど、これから先がなかった。ここは急な坂。だからこれからこう行って、こう回って行きよった。ここが街。ここはアメリカの宿舎とか何とかこの辺にいっぱいあった。ここから回ったここのところのどこか幹線道路のここで待っとけば、ヤンキーの車が通るから、[白]旗を振ればね、車が止まってくれて何かしてくれるじゃろうと。そういう訳で行こうやと言うことで、話が決まった訳だ。そしたら行く順番がまた、こりゃまたいろいろあるんだなぁ。それから俺嫌じゃ、こうじゃ言いながら、結局設営隊の、設営隊といって民間団体じゃないけども、設営隊というのが居って、軍隊に使われた、兵隊が使う部隊があったんだよ。でそれは何するかと言うと、土木作業とか、建築作業とか、そういう作業をする作業の部隊があった。その部隊の34〜5の、あのとき僕ら20いくつであって、10位上の人が居ったもんね。5つ位の上か。その人が居って、その人が年上。誰かが言い出した、年上順に行こうじゃないかって。年上順にこっちへ向かってね並んだんだ、ここに(地図を指す)。そしたら僕数えたら2番目だもんなぁ。あとはみんな若いとやもん。下士官が居るやら何やら居るけど、みんな僕より若いもん。だからしょうがないから、モリタさん[註:手記では栗原さん]っていってね、北海道の人やったけど、モリタさんが民間人で一番歳が多かったものだから、その人が一番先になって、その人が先に行って何回かこう行ったり来たりした。道の右側を歩いている。そうすると車が来たら止まってくれる。そうして行きよったけど、もう終戦後になったら、人が、バスが少なくなった、車が。そして朝早かろう。朝早いからいよいよまた、車がないんだよ。そうだものだからどうしようかこうしようか、行ったり来たりしよったけど、とうとうそのね、モリタさんっていって設営隊のオヤジさんの一番上の年寄りが、朝から出して来るわいっていう訳で[用足しに]ジャングルの中に入って行ったんだよ。ジャングルの中に入ってからしばらく煙草を吹いて何とかかんとかしよったら、ブーっていって、後ろ見たら車が来よるもんな。こりゃあっちに入って行ったモリタさんは出て来んもんね。こりゃどうしようかと思ったら、僕が2番目だもの。モリタさんが旗を置いとるんだよ(テーブル上のタオルを広げて笑う)。しょうがないから、僕が旗竿でその旗をこう[左右に]振った。そうしたら車がスーッとこう来て、ババババ、ヒュッと止まってくれた。それからね、自動車のハンドル左ハンドルだものな。で右側に居ったでしょ。で右側を走って来るんだもんな。左ハンドルだから真ん中のギアを飛び越えて、もう一つこっちの席に来ないかと言った。1人乗っとった。そうしたらその1人がね、こっち[助手席]に乗ってきて、ドア開けて、お前(自分を指す)乗れって。あとはこっち、後ろから乗れって、合図するんだよ。合図でよくわかるんだよな(笑う)。合図してもらって乗って、僕は助手席に乗って、ワンメントイレ行っとるからしばらく待ってくれということを言ったんだ。そうしたらしばらく待っとってくれた。そうしたら彼がこうやって(ズボンを上げるポーズ)出てきたよ。彼は必死に履きながら(声をあげて笑う)。そうして出てきたら、来い来い来いと彼を呼んで横に乗せる。そうすると僕はシャフトの真上に乗る訳たい。ここ[金谷さんの左が]運転手、で[モリタさんは]こっち[金谷さんの右]に乗った。そしたらヤンキーが、兵隊が銃を置いとった。その銃が邪魔になるから僕に持てと。(真顔になって)平気だったよ。
本当ね、ヤンキーの兵隊、これで平気。それで結局3人乗せてあと全部乗ったか?と言われてOKと言ったらば、それじゃ行こうと連れて行ってくれた。それでその連れて行く途中で、収容所へ行けばメニメニフレンド[Many many friend]が居ると。たくさんのフレンド、友だちが居ると。メニメニフレンドって言いよった。それだけ何とかわかったがあとは何かしらわからん。[収容所に]行ってみたら、先に出た連中が居った。あぁそれが9月の15日。僕が出て行ったのが9月の15日。
(ちょうど1か月、戦争が終わって1か月後ですね。)
1か月後。1か月後にね、よく出て行ったと思ったなぁ。で、その間に、雑誌を拾うとか新聞を読むとかしながら、あぁもう負けたばいと。じゃ出ようかどうしようかと言って、9月の15日。16日か15日か、16日か。覚えとらんばい。これ[資料]見たらわかるばってん。はっきりしたところはそこで見て。[註:手記には投降する前日が9月16日と確信していた、と記載あり]
そして出て行って、収容所に入ったらば、いろいろ説明してくれたな。それからここの飛行場、飛行場もおそらくこんな(英語版地図を見せながら)なっとったんじゃろうな。これじゃなくて、(大写しになった地図を指す)飛行機がいっぱいここ、ここ見えるでしょ?へっ込んだところがあるでしょ。これ全部飛行機の駐車場。B29。ということは、日本の爆撃に行く[註:行った]飛行機がここにずらーっと停泊しとった。[終戦後は]飛行機はもう飛ばんでもいいから。もう今のところ休んどる、みんなここで。ずらーっと居ったよ。それを収容所の所長が連れて行ってやるって言って、車に乗せて連れて行ってくれた。どこをどう回ったか知らんけど、これは大層な飛行機だと。これは負けるのが当たり前じゃろうな、とつくづく思った。そして収容所に帰ってからしばらくしとったら、僕らを連れてきてくれたバスの運転手が来たもんね。それが何かと言ったら、煙草を持って来とるんだよ、煙草。で煙草をね、あのとき1箱やったろうと思うけどな。1箱をみんなに1つずつくれたと思った(ニコッと笑う)。それでもね、今までこのね、一等兵だったのを上等兵長になったか何か知らん、見ておくれと[見せて]、肩章も上へ上がったぞって言うんだよ。ニコニコしとるんだもん。みんな〇〇握手してね、煙草1つずつくれて、キャラメルくれて、何かしたごとだったよ。アメリカ人は平気。
もう僕らはね、手を上げて行ったらひょっとしたら殺されると。何とかかんとか言っても、怖かったよやっぱり。そうやって車で、何のことはなしに連れて行かれて、いつの間にか兵舎に連れて行かれて乗せられて、それから2〜3日経ったらば、飛行場の見学に連れて行って。それから海水浴に連れて行って。おまけにビールも(飲む仕草)。本当にあんなことはなかった。それが日本語のうまい上等の何とかいう士官だったかな。良くしてくれた。それからサイパンに移されて、それからサイパンで約1年。[1945(昭和20)年]9月に行って[1946(昭和21)年]7月までだもんな。(膝をパンと打って笑う)
よくやったよ、しかし。そしてサイパンの収容所に入ってからは、僕は仮病じゃないけども、やっぱり仮病。これはもう入れん方がマシやな。ちょっとばかり、僕にしちゃね、言いたくないけども、やっぱり仮病やった。そして本当の機能障害でね、足をびっことか片手とかいう人たちはね、[昭和]21年の3月に帰ったんだよ。で3月に帰った人に頼んでね、こうこういう訳で俺サイパンで生きとるということを家へ教えてくれんかということで、手紙を書いて住所を教えてやって、手紙を出してもらったんだよ。そしたらその男が、家に手紙を出してくれて、教えてくれた。それがまた偉くてねぇ。その人がいろいろ教えてくれとるよ。そしたらうちのお袋がさ、手紙の返事を書いとるんだ。で僕は、向こうからもらった手紙はわからんけども、いや、何かはもらったとよ。(本をめくる)手紙、手紙。戦塵の悪夢、いや。
(本をめくりながら)どっかでかあるはずやなぁ。
うちの母からもらった手紙を、そのまま僕に返してくれた。そして僕が帰ってからね、彼が言うたのは「金谷君はサイパン島で生きとる」ということだけしかなかったらしかっちゃな。言うて来とらんらしか。そしたらうちのお袋としては、「金谷は3人兵隊へ行ったが、1人だけは帰って来たけども、2人がまだ残っとるので名前はどっちでしょうか」と言ったら、「金谷だけしか知らん」と言う訳だ。そしたらどうにもならんで、何とかかんとか言いよったらば、そうこうしよるうちに7月になって僕がひょこっと帰ってきた。そしたら家では大喜びに喜んでくれた。そのときの家の母が書いた、津田さんに出した手紙というのが残っとって、その手紙は写しをここ[本]にちゃんと書いてある。それ2回位出しとるな。うちのお袋はやっぱりね、こうやってきちんとしてくれよったから良かったと思う。(頷いて笑う。自分の頬と顎をなでて)これでもうおしまいか。
(場面が切り替わり、攻撃機のパネルが映される。タイトルに一式陸上攻撃機 所属:海軍とある)どっちでもいいけども、いっそのことカメラ、三脚つけて。
体験記録
- 取材日 2009年10月31日 (miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
- 金谷安夫「戦塵の日々」 原爆の基地テニアン島の戦闘と遺骨収集(転載HP:https://www.paupautours.net/戦塵の日々-金谷安夫著-パート1/)
- 西村明「隔たりへの感受性–遺骨収集・戦地慰霊への宗教学的アプローチ」(文化交流研究;東京大学文学部次世代自分学開発センター研究紀要)
- 地図 ───
- 年表 ───
戦場体験放映保存の会 事務局
■お問い合わせはこちらへ
email: senjyou@notnet.jp
tel: 03-3916-2664(火・木・土・日曜・祝日)
■アクセス
〒114-0023 東京都北区滝野川6-82-2
JR埼京線「板橋駅」から徒歩5分
都営三田線「新板橋駅」から徒歩7分
Copyright(c) JVVAP. All Rights Reserved.