垣花 武一さん

生年月日 | 1930(昭和5)年生 |
---|---|
本籍地(当時) | |
所属 | |
所属部隊 | |
兵科 | |
最終階級 |
インタビュー記録
この飢餓との戦い、これが阿嘉島(アカジマ)戦の特徴なんです。武信(たけのぶ、従弟)なんかね、当時4、5歳かな?少年のころだから記憶はあんまりない我々は実戦践で闘って、飢餓戦の中で日本軍と一緒に飢餓戦を戦い抜きましたね。その中に特攻隊員もおりました、で、この人たちとは交流は戦後も続いてるんですよ。
だから、元日本兵とかいうんじゃなくて、我々がいつも言うのは軍令部ですよ。大本営が悪いんでね、ここの兵隊が悪くはないです。中には若い連中には悪い連中もいたし、沖縄県、沖縄県民だって日本軍ですよ。
聞き手:あ、そうですね。あ、そうですね、みんなから、
よくマスコミから言(聞かれる)われるの武一さんはよく日本軍も糾弾してるんだけど、今もってね。今なんで元戦友なんかと交流し仲良くしてるか、矛盾があるんじゃないかと言うんだけど、あなた方は戦争を知らないからそんなことを言う。我々が俺が憎んでいるのは大本営とかね軍令部であって、ここの兵隊じゃないよ。これを訴えて来てる。だから戦争体験者じゃないとわからん部分がある。(うん)こっちからやっぱり生還した連中なんかも約200名近く、今でも交流あるんですよ。隊長とも3回会ったし、(そうですか)当時は憎むべき隊長ですよ。でも彼も帰ったら一市民になってるし、孝行親になって(そうなんですね。)その人を憎めってちょっと無理ですよ。
あの経験のない人たちは、悪い日本軍だということで、こうやる人もいるんだけど、体験者は一緒一緒に戦って血を流したらやっぱ戦友ですよ。そういう意識があるもんだから。よく言われるよ、なんで旧日本軍と仲良くて、おかしいんじゃない?矛盾してるんじゃないかと言われるんだけど、これ、ちょっと当たらない。
聞き手:当時おいくつ?お誕生日はいつですか?
3月いや2月26日生まれですから、ちょうど15歳になっておりました。戦時中。ええっと?昭和5年2月26日。226事件の6歳の時に226事件があったんですね。誕生日。だから、自分たちが生まれ育ったあの幼少時代っていうのは、もう全部戦時体制下でしょう、物はないし。物資がないしね。全てお国のためだから頑張りなさい辛抱しなさいという生活を強いられているから、あの戦前の貧しさというのは、あんまりこう記憶にないんですよ。あれが普通だったから。
聞き手:ずっと島の方におられたんですか?
私はね、生まれたのはここで14歳の時、旧制中学です(エリートですね)。我々は旧友16名いるんですが、中学に進学したのは3名ですよ。でこれ中村〇〇という、今医学博士でまだ現役で働いてるんだけど金城幸善(こうぜん)と言う。もう一人いたんだけど。彼はもういなくなってはっきり言って、残ってるのはわたし一人ぐらい。うん。一方じゃあえっと向こうの那覇の学校旧制中学に行っておられたけど、昭和19年に入学しましたね。もうあるんですよ。こんな田舎から中学に進学するというのは容易じゃないですね。まず勉強ができなければいけない条件。それから財力がない。でお父さんなんかヤルートというマーシャル群島に出稼ぎ行って、子供たちのため10年働いて仕送りしたんですね。子供たちのために。
当時も学問をするのが脱島、島から抜け出すにはそれしかない。だから子供たちは一生懸命だったんですよ。
もう。怠けようと思っても怠けられない、親は何のために南洋に行って出稼ぎに行ってるか分かるなって母親にいつも言われて。(うんうん)だから、お父さんの期待に応えるには勉強する以外ないのよと言われた。中学入学したときにもう希望いっぱい持って行ったんだけど。
その年の6月には、日本軍がどーと来るわけ6万人が首里軍??に、我々その予想もしていなかったし。なんでこんな小さな島に、この那覇に、6万人の日本軍の先鋭部隊がどおっと来るのか聞いたら、あの頃、軍の話は秘密だからなかなか聞けない。親しくした兵隊から、どうも沖縄は戦場になるんだと、本土防衛にどうも君たちのところが防波堤になる。我々も君たちの島を守りに来たんだ。協力せーよという体制ですね。
司令官も直接会えましたよ。最初に来た司令官が渡辺中将と呼ばれて、細身の人で病弱でこの人、8月に退任するんですよ。
で、代わりに牛島が来るわけで牛島とも会いました。私は、(ええ) 15歳、14歳の少年だよ。温厚な人でね、牛島さんはわざわざ車停めて。僕はちょうど牧志(まきし?)の下宿屋の隣の小川でカニをとっていたんですよね。夏休みで、司令官の車がちょうど小さな橋があって、そこで凸凹があったものだから車が止まったんですよ。
見たら将官の旗が(将校が乗っている車には位に応じた色の旗が付けられた)見えてるんですよ。一見してすぐ分かった。私は気をつけをして敬礼した、笑いながら笑いながら長官が「何してるのって坊や何してるの」って、カニとりです、「そうかカニが取れるか」で、初めて司令官という人の顔を見てびっくりしてね。
この人たちが、島を守り来たんだと。一瞬ほっとしたし。その防衛に来た兵隊たちは非常に友軍と非常に仲良しだったんです。君達も大変なことになるかもしれんけど、お国のため国土防衛のために一緒に協力してくれるか?もうこういう宣伝文句で住民の周り?にも親しく、なんとかみんな兵隊たちはほら、軍人精神というのをやって軍人なんて言うかな?この軍人というのは非常に礼儀正しさ優しさというのをアピールしていたんです。
あの頃は我々それに憧れておりました。まさか戦闘となって戦場になって、優しかった兵隊達が豹変していました。もうなんと言うか人間性も失って、だから戦場とは大変だなと初めて思いました。あ、戦場になると、こういう人間になるんだと堕落して、帝国陸海軍っていうのはもう世界でナンバーワンと呼ばれた日本帝国陸海軍がこんなに堕落してくるから、戦場で初めて見て。ちょっと少年として大ショックですよ。自分達が憧れていた軍隊、兵隊がこうなっていく、だから戦場と戦争は、人間を変えるだな。あの我々飢餓戦が5ヶ月ぐらい続いてる。その間につくづく思いましたね。今まで我々が教わったのは、いったい何だったかな?で負けて日本軍はさっさと引き上げていく。米軍の軍門に下るわけ、我々捨てられるわけさね。お世話になっておる、何の一言もなく、みんなここで浜でションボリとアメリカ軍の軍門に下って行く。あのよぼよぼの日本兵を見て。
(すみません、気を使っていただいて、これ開けて、ありがとうございます。すみません、ありがとう。どうぞ。あっ、ありがとう。はい。でもあの喉乾くのはむしろ私は聞いているだけど、話す方がそうです。)いや、もう去年はいっぱい取材に来たんですけど、それぞれ去年、去年か、去年だね。神戸大学院生が毎年くる子がいるんですよ。今度大学院を卒業すると言ってかれこれもう3年続けてきてるんですよ。その体験におんなじことを何年も言って、(私もたぶんまた今日一回目で、この後何回かちょっとあの若い人たちもつれてくると思います。)
集団自決
沖縄戦で1番集団自決があったのは、ほら、慶良間列島でしょ。なんで阿嘉島だけでなかったかというと、それを避けたかという、これをねマスコミやあるいは専門家の人が、違いをよく調べに来たが、要因がよくつかめない、同じアメリカ軍が上陸、77師団同じ規模のアメリカ軍が上陸して攻撃もあって、なんで阿嘉島だけにそういう悲劇がなかった、防げたのか?これはね、いろいろ私も自分なりの。なんと言うか検証というか調べてみて三つの理由があるんですよ アメリカ軍がね、短期で引き揚げて、長期の掃討作戦、掃討作戦を放棄した。なぜかといえば、あの島占領しても価値がない。他の島は地形状、絶対確保せんといかない渡嘉敷、座間味、慶留間(げるま)は。なぜならば海峡に入ってくる。アメリカ軍77師団でなんか海兵隊がやっぱり何千隻も入って来る。この海峡に全部集結したんですよ。
それを特攻、日本の特攻から守るには周囲の島に高射砲陣地を作らんといかん、その作戦に作戦が彼らにもあった。だから3つのうちもう完全に占領する命令、阿嘉は占領しても使い道にならんから放棄せいということだったらしいんだよね。これを我々は知らない。だいたい3日間で逃げたから彼ら(米軍)は我々を恐れて引いたんだと、我々は思って万歳したんですよ。僕らが勝ったんだと。
でも。(すみません)おかしなことに、周囲は完全に包囲されてる軍艦がいっぱいで、那覇の方から毎日毎日夜「ドンドンドンドン」もう100の雷、百雷(ひゃくらい)っていうの、あれから落下するような音、毎日「ドロンドロン」は、なんだろうあの音は?情報が全く入らない、想像としてあっちは戦争やってるんじゃない?本当はと。それぐらいだったですね。終わるまで8月23日に終わる日まで。何も情報としてあげられないね。孤立して飢餓戦。補給は絶たれてるし、武器もないし、食料もないし洋服もないし、そんな生活を5ヶ月間、我々は辛抱していた。
だから集団自決がなかった理由は、アメリカ軍が短期で引き揚げた。もう一つは日本軍が特攻作戦に失敗した。野田隊長が率いる100挺の特攻ボートの写真がある。上の方に、あのボートで爆雷を抱いて突っ込むはずの、自爆するはずの100名の特攻隊が全部生還して帰るわけ。っていうのは特攻艇を準備していて、それまでにアメリカの攻撃が先に来たもんだから先手を打たれてしまう。(うん)出鼻を挫かれてしまう。だから成すすべがないさ、彼等は。彼等らは任務として武器としてあれを持って来ているのに、それを果たせなかったという失敗。作戦で失敗、で野田大尉は自分たちの作戦が失敗しても天皇に対して申し訳ないとそういう気持ちになったもんだから、住民に対しては、自分達は生きているのでこのまま死ねとは言えないにさ。まずそれで命令がなかったということ。
で、もう一つ夢を持っていたんですよ。日本陸軍には陸軍記念日が3月にあるし、それから4月からで天皇陛下の誕生日は4月29日、海軍記念日が5月27日から。その日には必ず日本のね、連合艦隊、世界に冠たる優秀な艦隊が我々を救いに来る、沖縄を奪還しに来るから、「その時まではみんなに頑張ろう」という、これやっておく隊長命令で。隊長だって大本営から情報をこれっぽちも来ないもんだから、情報がないわけ。自分たちが負けていると思ってなかったんじゃない。(なんか通信機壊しちゃってたみたいですね特攻するつもりだったので)通信隊長もいたんですが。彼は3月26日、米軍の方の上陸を見て、沖にも進行している米軍の大艦隊を見てこれは駄目だと思ったんですよ。で隊長は我々敵が上陸すると陸上の警備陸上勤務の戦闘軍?〇〇自爆で、玉砕戦者というか、あの。相手の装備を見て敵わない、専門家だからわかるわけです。で、隊長も野田隊もわれわれも君達と呼応して特攻に出撃する、全軍玉砕の構えだったわけね、3月26日の朝までは、しかし、どうも出撃失敗するし、柴田さんも隊長命令で大本営に玉砕電報を打ったわけですよ。
玉砕
これは玉砕というのは全員玉砕だけど、全員戦死しなければいけない、でも玉砕電報を打ったからには、そこで生きて生存している事態がおかしいわけで、天皇に嘘を言ったことになる。大変な責任を問われる、当時としては。だからなんかそこで、隊長の考えが揺らいだんじゃないかと自分たちは受けてるしね。住民に死ねと言えないだろう。住民からは、受命に行ってるんですよ。はい、隊長さんみんな自決する準備してますね。家族ぐるみで輪をつくってもらう手榴弾は2個ありましたから家族にも、もうみんな囲んで天国に一緒に行くんだから。
何も悲しいことないよと素晴らしいところで、お父さんが子供達にそういうふうに。各家庭もそうように説得して、いよいよ準備してあの妹なんかもその時9歳かね目隠してお母さんが、姉さん看護婦をやってたから包帯がいっぱいあったんですよ。あれで、脳を隠して目隠しをして、みんな一緒だから怖くないからねと。準備してる時に古老たちが、この古老がね、僕は良かったと思うよ。一応ね、我々日本人として、敵の捕虜になることは不名誉なことだし、やってはいけないことだから。でも命令がこない前に我々が自発的に死ぬっていうのもちょっと問題だ。隊長の意向を聞いてこい、聞いた方がいいんじゃないの?と。古老たちが言って、防衛隊の代表が西安さんという人が私のおじさんになるんですけど、お父さんのいとこで、この人にうちの父親「西安、隊長のところに行ってる伺ってこい」と。みんな準備してる、自決準備してるから今手榴弾にね、安全ピンを(抜く仕草)みんなやるんだ準備してるからね、隊長の意向をまず聞いて来い。走って行ったら、隊長は今ちょっと様子がアメリカ軍が撤退する模様だから今死ぬのを待て、自決を待たしてね。
死ぬなじゃない、まず待たせと言ったらしいんです。この人がこの一言で、住民は自決をやめたんです。帰ってきて、この防衛隊が言った言葉が。〇〇〇〇の隊長の言葉じゃないんですよ、ちょっと変えたんですよ。隊長がね死ぬなと言ってるよ、先走ったことするなと言ってるよと。これはちょっと付け加えてみんなの前で言ったわけで、みんなはもう息を吹き返してみて「やめたっ!」て。隊長の命令で死ぬな言ってるよっていうふうに、みんな400名の住民にみんな、こう調べ?とったもんだから。この防衛隊のおじさんが隊長命令で死ぬなと言ってるのに早まった事するなって言うもんだからシュンとして、うん、みんなあるでしょう?なんか息をふきかえす、あの一瞬は何ともいえない。(そのとき部隊の方じゃなくて、ご家族の方に一緒にいたんですか?)僕はね、はい、逃げていたんですよ。隊から、もう戦況を見てこれおかしいという、隊長もちょっと出撃は失敗するし。どうもアメリカ軍に敵いそうにないなと思ったんですよ。そういう弱い弱い部分がこう見え隠れしたもんだからです。その前に攻撃がひどいもんだから、係の伍長さんが義勇隊、義勇隊というのは子供さんのまだ16歳15歳、君たちは撤退、後ろに下がれという命令があったもんだから、ああ今、逃げたわけさ。(最初はなんか切込隊に一緒に行くっていう話もあったんだとか、はい)自決を集団自決を避けるわけでも、アメリカがそこに居るんですよ。今晩をきして突撃する。陸上戦になるんだと言って、みんなその準備をせという命令があって、我々も地理に詳しいので、道案内の役目はせということだったんですよ。
切り込み隊
防衛隊も、地元の人たちが先頭に立ってお前たちは道案内やれと、命令があったんだけど、切り込み隊長が鈴木という隊員だったんですよ、岐阜県の。この人ね年配で39歳ぐらいのまあ、いわば兵隊では古参の人で、いろんな経験をしてきている人で、君達はね、死の道連れにするわけにはいかんだろう。まだ子供だしね、やめておけ。この一言。で我々はもうその準備して、手榴弾も貰って、道案内して、アメリカ軍の陣地に切り込む準備をやっていたのに。隊長のおかげでそれを下げることができて。
しかし、これを鈴木さんが率いる60、59名からその16名が戦死、部落から〇〇〇に突入してでもね。問題なのがアメリカの資料です。アメリカの方は2人しか死んでないんです。日本軍の襲撃を受けた、日本軍が一方的にアメリカ軍の陣地に切り込んで、あいつらもバタバタやっとって何十名何百名の敵をやっつけてきたという報告があったのに、戦後もずっとこれを信じていたんです。そしたら、アメリカの資料を見ると戦後、G2という。アメリカ軍の報告書の翻訳してるのを見ると、たった2人しか死んでいない。これもね、防衛隊、島の防衛隊が、スナイパーがいたわけですよね。ヨナミネコウヘイと言う人が、この人が射殺した2人だけ。日本軍から、日本軍の攻撃では1人も死んだのがいないアメリカ軍は。従って、じゃあ記録簿に戦って戦って16名が戦死してる、じゃ誰と戦って、誰を殺してきてるんかなと今思ってるわけよ、もう今、これあんまり、〇〇は公にはしてないけど、なぞの切込みですよ。26日晩に一斉に切り込んで、でその時に整備中隊が16名、で他はね、人的損害そんなになかった。切り込んで行ったところ、アメリカ軍はもうそこはいなかった。〇海?外に全部退避している。日本軍は〇〇突撃というのを必ずやるから、切り込みというの、玉砕突撃というのをやるから。
アメリカ軍は日本軍が来そうなところには居るなと言うことで、全部海岸線の安全地帯に避難しておったらしい、これもアメリカの資料でわかった、だからいったいあの切り込みの26日の晩は誰と戦って誰を殺してきたのか、今もってこれ謎なんです。みんな戦記を見るとこっちから帰ってきた元特攻隊や兵隊の手記を見ると、いっぱいアメリカ軍を殺したと言うことを書いているんです。
ちょっとこれは謎だな。はい、ちょっと余計なこと。よく、我々はそう。アメリカ軍は3日間で引き上げたんだけど、絶えず彼らはパトロールする海岸線を、と言うのは日本軍の、投降する日本軍がいたからね。有名なのはソネと言う少尉が、関西大学の出身でね。
投降
少尉よ、中隊長なのに一戦も交えないでアメリカ軍に手を挙げた方がいるんですよ。この人はね、アメリカ軍の捕虜になって手先になって、日本軍降服しなさいという勧誘に使われているんですけど、いやあの人のおかげでだいぶ朝鮮軍夫とか、あるいは兵隊たち、厭戦気分の兵隊達が投降していってるんですよ。まあ。わかりやすく言えばその人の働きでもって、多くの人が助かったということも言えるんじゃないかなと思いますね。
だから本人は戦後インタビューに応じてるんですね。TBS(テレビ局のインタビュー?)の報道で私達はちっとも恥ずかしいことはしていない。(そういう価値観の方なんですね)私は戦争負けるのもう分かっていた。無駄な死に方はやめろというのが自分の考えだから、私はいの一番手を挙げた。で戦友達も、無駄な戦争だから血を流すなと言って、私はみんなに訴えてアメリカ軍の手先になってマイクで喋ったんだけど、君達から見れば裏切り者と言うかもしれないけれど、私はそういう気持ちは、今も今でもないと、それを誇りに思っていると。
戦後のTBSの番組に出て訴えていましたね。くる人たちも戦闘前は優しい将校さんでしたよ。さすが戦後は慰霊祭にはこない。(そうですね、うん)で。飢餓戦が5ヶ月から、3ヶ月から5ヶ月続いて、みんなもう本当に死ぬ直前ですよ、みんな栄養失調で、(山を)下りたつと?よぼよぼで歩くのがやっとだったんですよ。日本軍もそうだったね、最後に残ったのは150名、でここで降伏式をやったんです。
もうやっぱり。気勢を張った時から、日本軍のあわれな姿、今どこ? やっぱり、少年としては非常にあれはね。言葉はちょっと、落胆かな。ああ日本って、日本というの負けるんだな、神州不滅って言われて、神の国は負けないと言われて、我々ずっとこれを信じてきたのに、結局はこういう惨めな、思いで、敵軍の軍門に下る。で日本軍は捕虜になり武器も全部取り上げられて去っていくでしょう。結局、捨てられたわけさ。(うん)じゃあアメリカ軍はちゃんと命、生命の保障するんだという保障は全く無いし、今から、あしたからどうなるかという不安ですよ。
でも幸いにね、二世の人たちが活動しておりましたね。沖縄出身もいるし、広島県出身の渡辺という人たちが住民の中を走り回って、絶対にアメリカというのは人命を尊重する国だから民主主義という国だから。日本軍と日本の国と違うんだよと、君たちの命もわれわれと同じだ。ちゃんと保証してあげると、こういう二世たちの働きもまたありましたね。で案の定食料配給あるし、食べたこともない肉の缶詰えらい一杯、カリフォルニア米というの生まれて初めて食う飯でしょ。おいしいご飯。あれ、食った時は生きていてよかったなと。半面また、今からどうなるかということもありましたね。
沖縄へ
で、あれから私は、アメリカ軍の、進学のために沖縄本島に渡るんですけど。ほかの島のほかの人たちは自分たちの伝統的なこのあれがあるし。島の産業、カツオ漁それをそれを復活し復興させて、みんな漁業に従事するんですけど、私は少し勉強したいなという気持ちがあって、また級友たちと一緒に沖縄本島に渡った。
案の定、アメリカ軍が作ったハイスクールっていうのが今で言う高校さ、それが昔みたいな競争じゃないし、あっちもこっちももう乱立ですよ、高校。高校試験ではみんな入る。こういうことがあったけどね。だから、あれだけちょっと希望を持って行ったんですが。やっぱり異民族支配 (うん) あれはやっぱり僕はだから両方を経験した。日本軍との戦い、今度はアメリカ軍に5ヶ年居たんですけど、(はい)だからアメリカ軍の組織もファミリーもそのときに知って、あの民主主義国家っていうのはこういう生活、アメリカのファミリーの生活がこう見たわけですよ。両方の文化を見て、こう、やっぱり民衆と自由の国っていうのはすごいな。奥さんに非常にこう頭が上がらない、将校でもレディーファーストでドア開けてやるし、もう全然別世界の経験を私はしました。ほかのあの〇〇〇は復学してもう一人は札幌医大に行って大学院まで行って帰った時、30代なのにもう医学博士になって帰ってきて、あれを見た時私はもう。
ああ、自分の道は間違っていだと思いました。でも、あの軍のアメリカ軍の5ヶ年っていうのはいい経験だったなと思います。でそこでブロークンイングリッシュ(broken English)を習ったし、単語だけで四五百ぐらい覚え、英語って面白いです。単語をひっつけたら言葉になるんです。ヒアリングっていうのはね、一番は慣れ、何を言ってるのかすぐわかる。今でもわかるんですよー言うよりは聞くのがあー、
だから、あなたあのアメリカさんが何を言ってるか分かる?って。あのわかるんだけど、言ってごらんって言ったら言えないわけ、意味はわかる、そういうブロークンイングリッシュをあの5年間で習ってね。でも、まあ、ほかの人に追いつけなかったというのはマイナスもあっただったんだけど。で、それから余談になるんですが、これからどう生きていくかですよ、アメリカ軍政権で、色んなことを考えて、これは将来公務員にならんと大変だということで、で、勉強して無線免許取ったり郵便局に入って無線の仕事を定年まで。郵便局の中に電通業務があったんです。無線通信を扱う局、部署で、そこで僕は。従事して61歳で定年を迎えて、それからちょっと議員もやったしね、3期やって、代表監査もやって。自分を振り返ってみるといろんな経験して来たなと、約90年、生まれてから90年、波乱の時代ではあったんだけど。
いろいろ経験して、今日までこう、しかし、あの戦争の体験というのは忘れるもんじゃないです。昨日のように記憶にあるんで。小さいことで全部記憶に残る。(ちょっとなんべんかゆっくりお伺い、何度もちょっと通います。今日は梅さんもすごいもうしっかり覚えておられたから)こう子供達に体験談を聞かせよう、あの過酷な戦争どう生きてきたのか思い出し是非知ってもらいたい。〇〇〇ってて。子どもたちあんまり真剣に聞いてくれない。これがね、少し残念かな、だからかえって外部の人がね聞いてくれる。あなた方、大学生なんか内地から本土からよくくるんですよ。韓国の人も多い。年間100名ぐらい来てるんですけど、今年はさすが日韓関係がよくないもんだからこないけど、去年はTVある東京にあるね、 KBSの人から貰ったんですけど、KBSのテレビ放送で僕は何回か出てるんですけど、
慰安婦
聞き手:あの朝鮮人の軍属の人の話ですか?
うん。軍属もいたし、慰安婦もいたし。慰安婦、慰安婦と言う人も、僕は1週間ずっと見ている。ここに、隣にいましたから、彼女彼女達が商売をする前に○○の声が〇〇だものだから。ぶっちゃけ近いですよ、今みたいにこう遮蔽物がないから、もう毎日目の薬になりましてね。初めて見る。朝鮮の女の人は色が白いし、自分たちはみんな農業やってるから色真っ黒でしょう。もう化粧もしないし、田舎の裸足の女たちで、彼(女)らは足のつま先からみんな色白くて。体躯はいいしで中に日本語のうまいのが居て、中には18歳という体のちょっとおーきな女の子。彼女を見て、私もちょっと、異性を意識感じるから、異性の存在を知ることが出来ました。変な気持ちになったよ。で何をしに来たかわからなかった、うちの兵隊が場内に14名いました。安藤軍曹とって北海道出身がおったんですね。聞いて、あんたら女郎というのは知ってるか、沖縄では「じゅり」て言ったんですよ。公娼、公娼があって、沖縄本島の辻町というところにあって、遊郭があって、そこでもやっぱり今言う淫売さね、売春。それを公娼、公にやっていた。(はい)あれは朝鮮の公娼だというふうに兵隊から言われました。いや、あんな遠いところから〇〇〇から〇〇〇〇〇〇感心もするし、呆れもするし。で、朝鮮らって我々軽蔑してんだけど。バカにしてましたから、やっぱり差別ということは当時はよく3等国民という朝鮮と台湾は、お前たちは2等国民だと沖縄は、そういうふうに日本の兵隊から言われてね。で、僅かな期間があったんだけど、朝鮮Pの人たちは2ヶ月ぐらい居て、基地隊と一緒に移動する兵隊がいたんです。
その人達とくっついて行って、残った野田隊長がよかったなと思うの、我々は特攻隊員だから女郎なんかいらない、女いらない。あんた方連れて行きなさい。基地隊にくっつけてて沖縄へ帰したら。ほかの渡嘉敷、座間味の特攻のへ人たちはそのまま、自分たちの慰み者として残した。あれちょっとまずかった。だから、渡嘉敷と座間で何名か亡くなるんですけれど。
聞き手:今も跡が残ってるそうですね。あの慰安所だった場所の跡が
あの、おうちはもう取り壊して改築してないんですが。場所はそのまま残ってますね。慰安婦問題で、韓国の人たちがこう長い期間、日本を恨んでるような、今でも恨んでるような言い方、あの国の人の国民性でしょうね。昔から我々が中学の頃に、朝鮮人も一緒にあの兵隊と一緒に来たんですよ。軍夫も大勢
朝鮮人
雑役で、いろんな荷物運び、いろいろな雑役を彼らがやっていましたから。あの階級がない、軍夫が付けてる軍服は階級がない、でワッペンが腕についてる。軍服という、いや軍夫と言うマークが付いて朝鮮人だという。この人たちが一緒に来てましたね。だから韓国の人が今持って恨み目に思ってるこれだなと、人間はっきり言って人間扱いじゃないもん、どう見ても。もう足で蹴る、監督と言うのが居て、軍夫の中には何十名かに1人している。彼らいつも竹刀か木刀もってる、もう二言目に(叩く動作)やるんです。能率が悪いから、お前たち何してるねん、馬鹿野郎とか、もう足蹴にするし、投げ飛ばしたりするし、とかあれ我々見てますから。やっぱり、ああいうことをやったから、今でも恨みに思ってるだろう。でもう一は国民性、彼らと喧嘩すると、弁当持って喧嘩に来るよと。だから絶対トラブルは彼らと起こしてはいけないということ、僕らはいわれている。だから今でも恨みをずっともってるのはあれ、国民性だと思うけど。歴史、歴史のあの日清戦争から舞台は全部朝鮮、韓国でしょう戦場は、あの日清戦争も日露戦争だって満州、戦場満州だけど隣は朝鮮だし、と向こうも被害被ってるんです。だから二つの大戦、あの世界大戦、日露戦争と日清戦争、全部彼らは被害を被っている。
ある世界大戦、日露戦争、日清戦争全部彼らは被害こうむっている。そういうね、やっぱり、あって。今もってそういう気持ちになるけども、あれもう一つは国民性だと思う。フィリピンなんかそうじゃないですよね。東南アジアも戦後大変だったんですよ。ジャポンバタイとかそういう悪口言われた。船員なんか沖縄出身のフィリピン航路にに乗った船員達ですよ。ジャポンバタイと言われてですよ、死ねと。でも、今行ったらもう友好的でしょ。で中国だって、私の言うのはは余計な事かもしれんけど、孫の嫁が満州、中国の出身です。子供できている。彼らに聞くと、彼女らに聞くと全く満州という国も知らず、自分はもう自分たちは昔から中国人だったと、あんたの国は、昔はね、日本の植民地だったよと私が言うとそんなことないでしょう。聞いたことない、聞いた覚えがない。
天安門広場事件があれ、(歴史を基本的にまあ)毛沢東主席の写真を僕は持っていたので、「これ知ってるか?見たことないですか?」と言うと、どうゆう人なのか私から聞くんですよ、それほど?面識というかないです。だから。あの国は今友好的でしょあんまり、でも1000万の人間が殺されてるんですよ。支那事変で。日本軍は18万人しか死んでないよ。彼らは1000万人の被害を受けている。今そんなに韓国みたいに恨みを持ってないです。これも国民性かなと。(韓国のその軍夫の人たちで、まあ、その特にその飢餓の状態に入ってから、まあ殺された方がいるっていう話はね)あれは僕が証言したんですよ、見てるから、遺骨も私が、私たちが収骨して魂魄(こんぱく)の塔に葬ってあげて、じゃあ、この戦後のなんだから。収集手段がないでしょ。遺族だってわからんさあ。ただ朝鮮の軍夫の遺骨だということは知っていたから、処刑されて死んだ、病気で死んだ人のうち、飢えて飢えで死んだ人もいたから、我々全部この戦時中に葬ったところに行って、戦後全部掘り出して、で名前わからんでしょう。かますに入れて、一袋に墓苑を作って、でもずっと。我々も宗教的には朝鮮と似ているところがあるさ、儒教の教えがあるもんだから、この人たちも全部戦後、慰霊祭して、で役場から昭和27年からそういう人達の遺骨は一箇所に集めなさい、我々墓苑を作って葬ったんだけど、役場の行政の命令でもって全部一か所に集めて魂魄の塔と、あそこに全部。で僕は言いたい。朝鮮の人たちがお参りするんだったら、どこに慰霊塔じゃない。韓国の慰霊塔にはいないよ、遺骨は全部魂魄の塔、教えてあげる。この証言する人も少ないさ、朝鮮人を殺したとかいうの、それは、なんか日本軍の恥ずかしい部分だから、恥部だから、公表するなという暗黙の何かがあるわけよ。私はこれは事実だから公にせんといかん、こんなのは隠す必要ないです。
村史
すぐ村史に載っけたのもわたし。(うん)で、戦後の証言として私が堂々と言いましたよ。(うん)村史にも載って、県史にも載っているんじゃないかな。これは事実として残さんと。(処刑されたひとは7人ですか?でも、全体で亡くなった10人ぐらいいて)朝鮮人の処刑を我々確認したのは7名なんです。でも、遺骨収集が何10名があるわけ。病死もいるしね、ケガで死んだ人もいるし、日本兵の病死も一緒に葬ったもんだから、どれが朝鮮で、それは確実にわかったのは、7名。あの人たちは本当に処刑された。で、場所が分かってるんだ、この人たちは処刑の部分というふうに分かれて、まあでも収骨は一緒にやって葬ってる。だから戦後ね、日本の兵隊達は帰る間際に戦友の遺骨を収集して慰霊祭をやったということを戦記に残した人もいるんだけど。
これはね、事実と違う。そんな余裕がないので、アメリカ軍の捕虜になって、すぐに武装解除で引き揚げていったものだから、遺骨収集とか慰霊祭の余裕なんかできるはずないですよ。戦後の遺骨収集、そういった一切あの人たち、元軍人もたちはやってない、全部住民がやって、それはやっぱり政府もみんな国民も分かってもらいたいなと思う。いろんな、我々、辺野古基地の問題もあるんだけど、やっぱりあれですよ、安保条約を結んだ以上、安保条約の中にアメリカ軍は自由に沖縄の土地を使いなさい、使うんだという契約があるんですよ。
あれを破棄しない限り辺野古みたいな事件が、今後もどんどん起こりますね。どんどん拡張していきます。ヤンバルっていうのは昔からほら、あの、もう、ひとも住まないへんぴなところだと、今、大きな基地が集中的にあるんですよ。だから、そこの人が生活っていうのはもう大変だと思うよ。一時はね、基地経済で潤っていましたから。まあ、基地を誘致して自分たちの生活が豊かになろうという一部の人たちがいて基地を勧誘した人たちもいたんですけど、今みんな基地収入がもうほとんどないですよ。5%、我々の軍作業時代は15から20%が基地収入、それで潤っていたわけよ。沖縄に政府と沖縄人の生活を維持していたんだけど、今はわずか5%の基地経済。だから、アメリカ軍に頼らんでも生きていけるんだという、みんなそういう気持ちになって基地はいりませんよ。基地以外は大変ですよ。もう今だから、それをあの問題にならん、復帰前、毎日、女の人たちが犠牲になってくるでしょう。僕は言いたいの、戦時中のあの3ヶ月から、うん、何ヶ月間の地上戦では、男の人たちが戦死しているんだよ。戦後27年間の民族支配からの支配から、でどれぐらいのどれだけのね。女の人たちが死んでいったか分かるかと言いたいわけ。大変な数ですよ。強姦して捨てられるんです。もうレイプしたら、まずあれさ、被害者なのに、そういう目で見ないわけよ、レイプされた女は人間じゃない、スクラップだというふうにみんな偏見で見て、結局、生きることを失った女の人たちが自殺して、戦後何千件あるんで、6000件以上と言われてますよ。だから戦後のね、復帰までの27年間に沖縄の女の人たちがどんなに人権蹂躙され、哀れな死に方をしていったか、少しはね政府も分かってもらいたい。基地被害っていうのこういう問題。これはやっぱりみんなわかってもらう、だから戦争というのはいろんなものを残して行くし。勝ったから勝った、じゃないですよね。勝った側も大変だと思うけれど、でも自分たちがこう両方の兵隊を見る、見比べて、やっぱり民主主義の国のGi。彼ら兵隊のことをGiって言うんですね。GiはGovernment issueという意味らしい。
沖縄戦
政府が発行してGovernment issue Giっていう、彼らはあんまりこう上下の差も無く。軍隊兵隊なのにあまり規律も厳しくないし。上下関係もそんな厳しくなかった。だから日本軍人とは全く違う。自由の国はこういう軍隊だって、それだけ厳しくは無いなと。(ええ)いろんな思いをします。彼らは第二次世界大戦で、太平洋戦争で9万人の兵隊が戦死するんですね。日本兵はいくらだったら百万でしょ。太平洋戦争だけで、あれ一体、戦争は何のためにやっているかな、今振り返ってみると、1億総玉砕、あるいは軍令部と大本営の人たちが計画してるんだと。だから旧軍が旧軍人が悪いんじゃないんですよ、軍令を、軍令部と言うのは海軍、大本営は陸軍、このトップの人たちが狂っていた訳ですよ。と私は思いますね。もう浅学ではあるんだけど、少しはものを読んだり検証して、自分なりの判断もできるんです。だから、あの沖縄戦っていうのは何だったかという振り返ってみると、全くの捨て石。沖縄を守るために兵隊は来たんじゃなくして、捨て石作戦の、もう玉砕しに日本軍も6万の兵隊が来たわけですよ。で、中には大陸戦を4、5年戦って、自分たちはもういよいよ満期だと、家族の元に戻るんだという兵隊もいっぱい、何万人もいたらしいよ。この人が突然、この人たちが突然、沖縄戦に全部投入される。どんな思いで死んでいったか、この人たち沖縄にきたときに言っておりましたよ。私たちは僕たちは、満期する身で、満期して家族の元に本当は帰って行く。お前たちの国は、お前達の郷里を守る為に、こっちに派遣されたんだって、言われましただからお前たちは一生懸命やれって、陣地構築を率先してやれって、そう言われましてね。(島にはいつ戻ったんですか?その昭和19年、20年の頃は、あの19年に牛島さんに会った頃はまだ牧志の方にいらっしゃった。あのこっちにはいつ頃戻られた?)十・十空襲という(ああ十・十空襲で戻ったんですか)十・十空襲の沖縄の(はい)あの沖縄の県と那覇が90%の消失される。あれをもうほら身をもって体験してるし。11月に全部島に帰ってくるんですよ。進学した子供たちも、下宿が危ないし、学校もなくなったし、もう行くところがない。本島の本島出身の中学生なんか全部あのあれですよ。
鉄血勤皇隊ですね。志願して行って、あれ召集じゃないんですよ、志願なんですよ。2年以上は、私は1年生でしょう。島に帰るときに船がないものだから軍用船に乗ろうとしたら、兵隊が目の前に戦争をきてるんだよ。空襲も受けたんだろう、ここは戦場になるんだからなんで志願せんかと言われた。いや。もう下宿屋暮らし学校も無いから、島に帰って島の防衛に当たりますって言ったら、それもあるな、それもひとつの理由だな、じゃあ乗れと、もうやっと乗せてもらって、帰ってきたら情報もないし、ここに兵隊がいるとことも全然知らんもんだから、来たらいっぱいの兵隊がいる、で自分のおうちに帰ってきたら兵隊がいる、16坪のおうちに。(はい) いやあびっくりしたね。島の出入り、出入りが自由じゃなかったから、すぐ君たちはどこから来たかって。親戚の家に隊長さんが、〇〇隊長というのがいて、すぐ、中学に行った子供たちです。ああそうか、この人だと隊長とも一応面通し、面会っていうかな。今後ここも厳しくなるんだから、みんな協力して郷土防衛に当たりましょうって。ですぐ義勇隊の訓練に入って。青年団と一緒に戦闘教練はもう慣れていましたからね。各中学校に三八式歩兵銃が来たんですよ。学校に、校舎に。で、週に3回ぐらい訓練がやっぱそこ。もう本当に鉄砲三八式の歩兵銃〇〇持って訓練して。で各学校に配属将校と言うのがいて。この人が訓練をするわけ。その人にその下にまた下士官が何名か居て、この人たちはもう在郷軍人で、戦闘を実戦にやってきた人たちだから厳しかったですね。で、彼らの教練はもう実戦さながらです。だから15歳でも、もうあれですよ。兵隊として○○が取られる。射撃にしても。で動きが早いでしょう。かえって正規の兵隊よりは、何というかな、兵隊としては優秀だったじゃないか、(うん、)伝令だって兵隊が30分で走るところ、僕らは15分で走ってました。(もともと島で体力もあるし)
それで弾薬を運ぶでも、兵隊がもう1時間もかかるところ30分で平気で、もぐらみたいにはいずり回って。
聞き手:でも義勇隊って考えたらそのなんでしょう。えっと、その中学出身の3人以外は誰がメンバーなんですか?義勇隊のメンバーって?
当時の学校制度というのが小学校六年でしょう、高等科というのがあって、(はいはいはい)一年二年っていうこれ、この高等科二年がちょうど14歳、15歳。で高等科二年生も一緒になって、義勇隊になって18名。私たちのグループが
聞き手:そっか、そうですね。子供の方が呑み込みが早いとか動くのはすばしっこいとか
あの射撃だって我々がうまかったですね。鉄砲欲しいけど、鉄砲を配ってもらえなかった。無かったんですよ。鉄砲があれば兵隊よりは、射撃がうまかったから(でも、そうしたら突撃とか行かされたかもしれ、切り込みに行かされたかもしれないかなくてよかった。)
義勇隊の戦力をよく聞く人がいるんですよ。14、15歳の兵隊って、兵隊言って何もね。何をしているのかと」よく疑われるんですが、もう実戦させたら正規の兵隊よりは上だった。実際、何をさせても。
聞き手:特に旧制中学に行っている人達っていうのはねちょっとこう、また特別なグループでしょうし
軍力としてはすぐ即戦力、送る。だから兵隊の前でも堂々と隊長がね、またこういう、お前だったら特攻隊よりお前が体格いいなと、(うん)言われた場合もありますよ。僕は15歳からあまり大きくなってないんです。同じですよ。だから隊長にも言われましたよお前の体格だったら特攻隊よりいいなと。義勇隊に何名か大柄がいたんですよ、隊長は褒めてましたよ。俺の部下よりお前達が良いって。みな関東関東関西出身のボンボンが多くて山歩きができない。俺ぐらい幼い時から、薪拾いで山を駆け回ってるし、農業やってるし足腰を鍛えているから。もう即戦力、兵隊以上の動き、働きがありましてね。だから。時々兵隊からほめられましたよ。僕のあの回想録というのが編集中なんです。原稿もできてるんであれに書いてるんですよ。別れる時にコウモトと言う、(はい)降伏の日、8月23日アメリカ軍に包囲されて、もうギブアップして、コウモトという東京出身の当時35歳ぐらいのね、召集兵が居たんですよ。で、郷里に子供3名残して来てましたから、私と義勇隊と別れるのが辛くて、君たちえらい間ご苦労だったなーと。今からアメリカ軍に捕虜になってどうなるか分からんけれども、日本人としての誇りを捨てるなよ。みんな肩をたたかれて。いや、今ってあれを、これ嘘だろうと言う人もいるんですよ。本当にそういう情け深い、もう人間らしい兵隊もいたな。戦後、機会があったら会おうかなって思って。何名かあったんだけど、とうとう会えなかった。
もう27年間の歳月ですよ、復帰までに。自由渡航ができなかったんだ、その前は。渡航できた頃からもうこの人だって、60歳以上となってたから、ひょっとすると亡くなっていたかもしれない、ちょっと心残りがありますね。隊長も鬼隊長として恐れられ、肉親もあったんだけど、戦後27年ぶりに島に来て、みんなの前で涙を流して謝罪した。みんなから罵声もあったな、はっきり言って。罵声を浴びせられ、私の叔父叔母も処刑されてるのがいるんですよ。アメリカ軍の捕虜に一番先になった叔父叔母61歳と60歳、スパイだったんじゃないかと、何もスパイする能力もクソもないですよ年寄りだから。それを処刑してるんですね、僕はそれを何の理由であの年寄りを惨いことして、しかもさ、あの斬首さ、やり方が残酷でしょ。日本刀で切っているんですよ。僕も現場見たし、追及したら隊長は俺は私は殺せとは言ってない、部下に適当に処分せよと言った。何をおっしゃるんですか、当時ね、処分せっていったら殺せってことですよ。何をあんた嘘いってるんだ。だからね、僕らも絶対このチャンスを逃したらいけない。本当のことを言ってもらいたいということで、追及したらとうとう両手をついて、でも分かってもらいたい、私も君達も日本軍のひとつの駒、歯車だということをやって?もらいたい。私の上司、あるいは上からそういう風に、現地では住民を扱いなさい。彼らが方言を使うのは全部スパイだ。
聞き手:まあ、20代戦隊長、戦隊長20代ですもんね。だからこう人生経験とかが全然あるわけではないから、陸士出てあれでしょうけど。
部隊長、まだ野田隊長にも3度会って、当時、自分達も軍隊という組織の中に入って、人命と言うのを軽く見てたし。少し軍法に反すると。厳しい罰があるという当時は、だから住民が捕虜になるというのを我々としては許せなかった。これが我々の教えだったという事で彼も言ってたし、まあだから許してるから、まあ自分たちも一つ、日本軍人の一人だった。ということで。忘れるといけない、許してあげて。それから、隊長がいたおうちとはずっと長い間付き合ったんだよ。7月、そうすると必ず、私のおうちに隊長から酒が、お盆と正月ね、中元、夏は中元お歳暮で、死ぬまでですよ。だから彼も反省して、自分が今日あるのは、みなさんのおかげだと絶えず言っておりました。多くの部下も死んでいって、自分たちは生還して、どの面下げてここに来るかと言う人がいるんだけど、つらいと。そう、で、おうちでも、家族同士の喧嘩があったらしい親父はねお父さんは沖縄で何をしてきた?こういうこと言われて辛かったということ言ってました。で野田さんは、離婚して、娘3名、全部離婚してここに来る時は別居状態で、自決がでもなかったのがまだ救いなんですね、だからそうやっぱり、座間味とか渡嘉敷のようになってしまえば、もう。そうやってね。
ここは玉砕、集団自決がなかったもんだから、戦後、こう元軍人との交流をずっと。〇〇(合同祭?)をやってくれないんですよ。やってくれないとできないんですよね。たくさんの集団自決があったと言った。何がお前たちえらいかという反発もあったんですよね。だから向こうの、渡嘉敷や座間で戦死した人たちの遺族もあんまり。戦後来てないし、慰霊祭に参加してないです。
すみません、私4時の船に乗るんですけど申し訳ないもういっぺんまた来ますね。ちょっと、あの、若いあのメンバーも連れて、今日、あの、お目にかかれるかどうかが半々ぐらいだったんで、本当は阿嘉島で少し民宿探したんですけど、ちょっとぎりぎりすぎて、もう一度ちゃんと改めて、まだ聞きたいこと山のように私も年ですからね、(すぐに行きます)90になります。90だからもう明日もわからんし、つとめて長生きして、今日も何を喋ったか?喋ってるか分かりませんけど。つまらない話。もうひとつ、こうなんていうの、ヤマトくちをあまり使ってないですよ。(普段は島言葉で)でもね方言ばっかりですよ。我々の年代だと。急にね共通語を使って、言葉を忘れてるんですよ。
参考資料
- 地図 ───
- 年表 ───
戦場体験放映保存の会 事務局
■お問い合わせはこちらへ
email: senjyou@notnet.jp
tel: 03-3916-2664(火・木・土・日曜・祝日)
■アクセス
〒114-0023 東京都北区滝野川6-82-2
JR埼京線「板橋駅」から徒歩5分
都営三田線「新板橋駅」から徒歩7分
Copyright(c) JVVAP. All Rights Reserved.