伊藤 久雄さん

生年月日 | 1923(大正12)年11月29日生 |
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本籍地(当時) | 山形県 |
所属 | 陸軍 |
所属部隊 | 山形歩兵第32連隊 第2中隊第5小隊第6班 |
兵科 | 縫工兵 |
最終階級 |
プロフィール
大正12年11月29日昭和19年3月15日入営 山形歩兵第32連隊 第2中隊第5小隊第6班 縫工兵 3か月教育招集 臨時召集により中隊250名中2名の一人としてフィリピンへ。所属部隊不詳 昭和19年7月2日門司港より出発 バシー海峡にて被弾 沈没。助けられマニラ上陸。7月20日部隊再編成により、笠間大隊(兵庫県姫路市)の作業隊に。南部ルソンへ。4、5日程で同大隊の経理部へ転籍。タヤバスへ。比島派遣軍威一〇六七二五部隊笠間大隊経理部(勤一〇六七一部隊。山口県。独立歩兵第358大隊か。)昭和21年1月12日帰国。21歳~22歳
インタビュー記録
1944(昭和19)年7月 バシー海峡にて
やっぱり印象に残っていることは もう第一に、行く途中に海で魚雷にやられたことですね。7000トンの輸送船だったんですね。ちょうど機関部あたりに魚雷食ったんですよ。これがちょうど9時…時計がちょうど9時34分に止まってたから。そのときにあったんでしょうね。
聞き手:(そのときの前後どんなことをされていましたか)
もうただもう無我夢中でしたね。もう何が何だかわからないくらい。もうみんなこんな狭いところにだーっと兵隊が寝てるでしょ。暑くて暑くてみんな裸になっているんですよ。ほんとは救命具もつけてね。していなきゃならなかったんだけど。そんなこと出来るわけがないんですよ、暑くて。それで皆裸でいるところに魚雷食って、ものすごいしぶきが上がったんですよ。魚雷で。その輸送船は真ん中にハッチがあるんですよね。そこんところから水がだーっと入ってきた。もう大騒ぎになって、何が何だかわからなかったですねあの時は。それでとにかく靴はもう履かないんですよ、誰も。そして救命具、上着でシャツとズボンも着て、そして救命具だけつけて、そしてもうハッチは一つしかない。大きなはしごだったんですけどね。もうみんな夢中だったんですね。それでも登りきれなかったんじゃないですかね。4,500人いたうち2,800人が。2,800人が助かった。だから、だいたい1,700人が死んだんですね。
聞き手:(その、被弾したのはどのあたりなんですか。海域というか場所は。)
バシー海峡ですね。台湾を出て2日目だから。もう物凄い波の荒いところなんですね。
聞き手:(朝9時34分と言いますとだいたいこう1日のどんなことをされている時間帯ですか。)
いや、仕事なんてもう何も出来ないから、船の中だから。ただ食事した後だったんですね。そうしてドカンと食って、あとはそうですね階段を上った時はあんまり下にはいなかったですね。最後の、奥の方にいたから。やっと甲板にあがった時には船尾と船首がこんなになって(手を斜めにして)、船尾が海にすれすれだったんですね。そうしてまあちょうど運よく大きな波が来たんですよ。大きな波が来て、いっぺんにダーッと持っていかれたんですね。僕なんかもう100メートルくらい離れて、時にちょうど30分くらいですね、やられてから。バーンと立ったんですよ。(手をあげて)船が。船尾を下にして、船首が上になって。ダーンと落っこっちゃうと、ものすごい波しぶきが上がってね。それがなかったら、何にもおらんかったんですね。
聞き手:そのころ甲板に出られた時は、もうだいぶ傾いていたんですか。
もう海とすれすれだったんですよ。俺なんか出た時。そこにうちの大隊長がいたったんですよね。大尉だったんですけどね。早く飛び込め、早く飛び込めいうて言ってたんですけど、自分が飛びこんだかどうか。あの人いなかったから恐らく死んだんでしょうね。
聞き手:飛び込んで船から離れる?
そう、100メートルくらい離れると、渦に巻き込まれないんですね。あんまり近いとみんな巻き込まれて、それで死んじゃう人が多いらしかったですね。だからだいたい僕なんか離れて、それから船が沈んでなんにもなくなってから、だんだんだんだん人が固まっていくんですよね。自然と、どういうわけか。もうバラバラになってるでしょ。これが自然と塊になってくるんです。そして船の上にあった樽みたいなもんが結構浮いてるんですよね。それにつかまって。それで軍歌なんか歌ってましたね。随分。
救助
聞き手:それはより集まって?
そうです。とにかく救助に船が来ても、大きな固まりのところになるべく来るんですよね。だから固まり固まりで。だれが言うともなくかたまったんですねあの時。そうして夕方5時ぐらいですね。2隻の輸送船が、同じ船団なんですよね。助けに来たんですよ。それでロープがこう垂らされてくるんですけどね、ロープでなんか昇れるわけがないですよ。みんなびしょびしょでしょ。こうやってダーッと (手でロープを手繰る動作をして)波がこう行くと船尾の船とすれすれまでいくんですよ。ロープでつたって。まだ波がガーっと引いていくと、ズダーっズルズルずるーてひかれてロープには昇れなくて。真ん中に縄梯子だけあったんですよ。1個だけ。みんなそこに集中してやっぱ。僕なんか昇ってるうちに薄暗くなりましたね。このへんでもうそこに登ってから、3人ぐらい今度死にましたね。やっぱり助かったっていう安心感があったんですかね。そして死んだ人なんかはみんな水葬で、兵隊の中にが誰か和尚さんみたいにいるうんですよね。船の中でお経をあげて、あと、船員が海にドボンと投げた。3体ぐらいありましたね。あと、爆雷というものも多い。船尾から投げるんですよね。こんななんですかね。まるいやつでドーンドンって撃つんですよ。船は進んでいくけど船尾から下ろしていくから、それが敵のなんかでぶつかって爆発するっていう爆雷で。
聞き手:その輸送船2隻に助けられた?
そうです。2隻がこう兵隊が集まっているところで寄って来るんですよね。それからあとそこで助かって、夜になって雨が降ってきて。それでもう1隻、2隻並んでじゃないですけどね、あの1隻に助けられて、こっち側にも救助された人が乗っていたけど、これが爆薬を積んでいるんですよね。夜中にものすごい爆発が起きて、爆雷が誘爆したんですよね。だから1回助かっても、2回目にまたやられた人もがいるんですよね。それから2日目ぐらい、3日目ぐらいですかね、マニラに着いたの。もうほんとうにドブネズミみたいになってね、油が体中ついたりして、で、マニラに1週間ぐらいいて、それで再編成して今度各前線に、陣地構築するところに行くんですよね。もう山ん中に入って、私がいった1週間なんてものは、ほとんどもう何にもないような山の中、フィリピンの。そんなとこに連れて行かれて。陣地構築だからね。ダイナマイトで爆破したりして。穴を掘って。陣地を構築。でもちょっと穴を掘って形ができたなと思ったらすぐ移動なんですよ。ほんとにもう負け戦だったからね、僕たちが行った頃は。
ルソン島上陸
そうして、7月に上陸して、8月にはもうわたし経理の方に行ったんですよね。それからはもう北部の、北部ルソンですよね。そこへ行って、洞窟の中へ僕たちは入ったんですよ。洞窟の中で、8月から9月、11月までいるんですよね。それからというものは本当に爆撃ばっかりでしたね。コンソーリデーデットっていうB-25(訳者注:正しくはコンソリデーテッドB24)で、ものすごい大型の、B-29のちょっと小さいようなものですね。その爆撃機に、だいたい1日3回爆撃が来るんですよ。3機編隊で。バカバカ爆弾をザザザザーッと音がするんですよね。爆弾の。3機がいっぺんに落とすから。
聞き手:その1日3回の爆撃は何時ぐらいから?
3機1回に来るの。3機いっぺん時に来て。ものすごく爆弾積んで来るんですよね。いっぺんにバーッと落とすんですよ。ザ-ザザザって音がするんですよ。雨降るよりひどい音でしたね。それで僕たちがいた陣地の洞窟の上はものすごい木があったんですよね、その木がほとんどなくなりましたね。11月に行ってあと、1月、2月4日には、リンガエン湾っていうマニラのちょっと北かな?敵が上陸したんですよね(訳者注:米軍のリンガエン湾上陸は正しくは1月9日)。アメリカが。それからはもう砲弾と爆撃で毎日だったですね。洞窟の岩山があったところなんか、爆撃で岩がバーッと崩れるんですよね。その下敷きになって死んだ人も結構いますね。
聞き手:洞窟はいくつ回ったんですか?
いや一つだけです。結構大きかったですね。だいたい(人数が)30人くらいですね。通信と兵器と経理と、3つ入っているんですよ。結構大きな洞窟で、毎日毎日爆撃機。ザザザザーッて2○○(聞き取れず)。捨ててるんですよね。バラバラ落としてくるんですよ。くずれて。大変だった、おっかなかったですね。
聞き手:爆撃があった時間帯は決まっていましたか?
だいたい10時ごろからですね。10時ごろから夕方、3時4時ごろまで、結局交替で来るんですよね。一旦来て、爆撃して、帰ってくるとまた次の奴が爆撃してくる。毎日だったですね。そして1、2月に上陸して、2月から、上陸してからは、ものすごい砲弾ですね。野砲みたいな大砲ですね。あれがもうどんどん撃って来るんですよ。飛行機チームがいない時は、大砲が打つんですね。これがだんだんだんだん近づいてくると、ドーンドーンと音がするんですよ。あ、また来るぞって。ババババーンって来るんですよ。その破片ってあとで拾ってみたりしたら、もうものすごい尖っているんですよね。そういうふうに出来てるらしいんですね。(一部不明)だから体なんか当たったら対だめなんだって。つち触って、みんなこう尖ってるものね。ザーッと。
そうして2月3月と4月になって、4月15日に僕たちの陣地はほとんど包囲されて、大隊本部とも連絡がとれなくなって、それで大隊長から「とにかく部隊は解散するから、それぞれみんなできるだけ命を永らえて生きるように」という命令が出たんですよ。それが4月14日あたりかな。で、4月15日に洞窟の中にいる、30人くらいいたったんですよね。兵器と通信と、経理と全部で、それで4月15日の午後7時にここを脱出しようということで。兵器係のほうは、結構爆弾なんかがありましたからね。あと銃なんか。それにみんな触ると破裂するようなあれがあるらしいんですよね。爆薬を。そういう仕掛けをして、みんな陣地を脱出したんですよね。後で聞いたら、やっぱり破裂したって言ってましたね。
午後7時に出発して、それでももう鉄兜の音ですら分かるというんですね、むこうの通信機は。通信の発達で、それでみんな静かに静かに歩け、なんてよ言われて。大体2キロぐらい先にものすごい大きな川があったんです。ミイライ川とかなんとか呼読んでいましたけどね。すごい大きな川で緑があって、どーっとしてるんですけどね。下はものすごく流れが速いんですよ。だから絶対遊泳は禁止されたんですけどね。川まで行かないと、向こうに渡らないとこっちは全部敵ですから。逃げる所が無いんですよ。一番浅いところだったんでしょうね。誰が渡したか知らないけど、こんな太いロープがあったの、100メートルぐらいあるんですよ。そこ行って全部裸になって、頭や背嚢なんかズボンなんか靴なんか皆しょってね、川へ入ったら大体ここまで(腰のあたり?)が一番深い所だったんですけど、ものすごい流れが強いんですよ。石なんかバコバコぶつかるんです、足。そこで3人くらい死んだらしいですね。うわーっっちゃうんですね。死ぬとき。流されるとき。僕なんかもやっとそこ(対岸に)辿り着いて、向こうの岸に着いたですね。そこに着いてからってものは、ぐったりしちゃって9時ごろだったですかね。そうしたらそこにまた砲弾が来たんですよ。大砲が。だけど、ちょうどいた所より通り越して、砲弾は大体6発ずつ来るんですよね。その時は誰も怪我しなかったですね。そこで30人がだいぶ減ったんじゃないんですかね。あそこで死んだりしたから。30人の部隊でジャングルにを歩くのは容易じゃないですからね。とにかく少ない人数にして、食糧とって。食糧とるにも大変ですから、人数を少なく分けて、とにかくみんな生き延びようということで、ジャングルへ入ったんですけどね。そこからは何も食べ物なんてないんですよ。ジャングルの中は。こんな蔓にとげがあるんですね。これがみんなバーッとあるんですから。でも僕たちが行った道には結構兵隊が通って獣道みたいなのが道路みたいに多少はあったんですよ。だからそこを歩いていったんですけどね。
逃避行
入ってからというものは、もう大変でしたね。ヤマビルってのがいるんですよ。フィリピンには。木の上の葉っぱの影にくっついて、それが下で歩いているうちにみんな落ちてくるんですよ。足は靴下はいて、ズボンははいてないですからね。一枚ズボンはいてるだけで、靴下はいてゲートル巻いて、その間にみんな入るんですよ。ヒルが。ものすごい小さいヒルで、せいぜい歩いて2キロぐらいですかねジャングルは、それでも夕方になるとびしょびしょになっちゃうんですよ。大変でしたね。あの時は目の中にヒルが入って、全然自分で分かんないんですよね。それで相手の人に取ってもらったりして。
それから食糧ですね。最初は自分たちで持って行った米と、かつお節ってのを日本軍は持って行ったんですよね。なんにもジャングルの中は食い物が無いもんですからね。新芽というのはあるんですけどね。木がいっぱいありますからね。新芽だけは食う。ただ草はダメなんですね。結構毒の草があるから。木の実いっぱい摘んで、それで最初は塩なんか持ってたから味をつけて良かったんですけどね。それも30日目ぐらいにはなんにもなくなったんですよ。かつお節2本ずつ持った。あれには助かりましたね。嚙んでると、なんとなく味が出て。それから30日ぐらいして、だいた、68日間いたんですよね、ジャングルの中。ただもう歩くだけなんですよ。何にも考えないんですよ。ただ何か食べたいって、田舎でなんか食べたっけなぁって思い出すくらいで。もう思い出す力もなくなったですね、あの頃は。30日過ぎた頃は。髪もみんなボーボーに伸びてくるしさ、暑いから虱がたかっちゃうんですね、頭に。洗わないから。30日過ぎて、タロイモというものを食ったんですよね。これぐらいの木が(手を腹から頭までつきあげて)生えてるんですね。その中に皮をむくと、とろろ芋みたいなずるずるした芋が入っているんですよ。なかなか見つからないんですけどね。それを見つけると、一応みんなに持って歩いて、あれは助かったですね。木の実、草の実のほかにタロイモがあった。ただ動物ってものは何もいなかったですね。あのジャングルには。
だからあとの30日は自分の持ってたものが何もなくなってから、6月20日ぐらい、6月22日に捕まったのですから。だから1週間ぐらい前にジャングルを抜けた時に、ものすごい川に出たんですよ。広い川へ。その時一番先に浮かんだものは、魚がいるんじゃないかということなんですよね。その時は4人だけいたんですよ。主計中尉と軍曹二人と。で兵隊は俺だけだったんですよ。もう一人岐阜県の人に兵隊がいたんですけどね、これはタナベ中尉の当番したんですよ。当番して気疲れしたんでしょうかね。ジャングルの中でいなくなっちゃったんですよ。いくら呼んでも出てこない。だから結局当番が負担になったのかもしれないですね。その人は帰ったかどうか分からないですけどもね。で4人になって川渡って、6月の15、16日ごろですか。中尉だけは持ってなかったけど、あとの3人は手榴弾を持っていたんですよ。最後に自決するなんて言って。自決用なんていうあれで。じゃあ手榴弾を川に投げよう、魚を取ってみよう。それでなかの軍曹で、タナカ軍曹っていう人がいるんですよね。その人はもう満州事変にも出たし、支那事変にも出たのかな。3回目くらい大東亜戦争は。本当につわものだったんですけどね。その人が何でも指示してね。中尉なんかなんにも分からないんですかね。その人(タナカ軍曹)がじゃあ俺手榴弾を投げるから、みんな川の川下によって、そうして投げた途端にこんな魚がわーっと浮いたんですよ。それを夢中で獲ってね。で、後で生でみんな食べましたね。その川に立ったまんま。はらわたとっただけで。それがもう陣地脱出してからの、まあ一番の食べ物だったですね。魚は。
聞き手:それまでは川は見当たらなかったんですか?川とかを探してらっしゃったんですか?
ジャングルの中ですか?ジャングルの中はこんな沢しかないんですよ。もう山の中ばっかりだから。山ってこんな高い山じゃないんですからね。ただこう丘よりはちょっと高いなっていう山で。そこに沢があるわけ。そこを水がちょろちょろ流れているわけ。だけど、スコールやなんか降るとものすごくザーッと出ちゃうんだよね。ただそういう沢の中をちょこちょこ歩いて行ったんですよ、みんなで。ちょっとジャングルの中へ入ったら出られないですからね。全然。だから沢を、沢を歩いて、それで水虫になって、みんな水虫じゃしょうがなかったですからね。今度ジャングルを出て川へ出時本当ホッとしましたね。あの時は。それで魚を2つ手榴弾で獲ったのかな。そして魚を食って、(手榴弾が)6個あるうちに2個はもう不発弾で駄目だったんですよ。投げても発破しないの。その下に下って行って、投げたら今度魚が1匹もいないの。どういうわけだったんですかね。あそこだけ、ものすごく魚固まってるんですね。今度その川をずっと下って行ったら、川の今度は淵に、ものすごい川なんですけどね、水は真ん中しか通ってないんで、あと砂利なんですよ。石がゴロゴロした。川なんですよね。その淵に兵隊もいっぱい組んでいるの。兵隊が民間の人ね。そういう軍属とか。そういう人たちが逃げてきて、ジャングルじゃないけど草むらのなかで生活したんですよね。で、俺たちが行って、「何食ってる』って言ったら、「もうここは食糧がない」って言うんだ。とにかくここから下れば、芋畑があるって言うんだよ。だから民家も近いんだよね。だけんども敵はそこまで来てるから。行ったら捕虜になるか殺されるかどっちかだから。行くのよしなさいってずっと(軍属に?)言われたの。だけど、どうせ俺たちはこうしていたってもう餓死するばっかりだって。だからとにかく芋畑に行って、芋でも何でもいいから食ってみようと、食って死のう。そういうことになって、4人で構わずどんどんどんどん下ったのね。下っていく途中で、砂だけのちょっと平らなところがあったんですよ。そこで兵隊が死んで寝てるんですよ。仰向けになって。本当に自然と死んだんでしょうね。そこで靴を枕元に並べてあったの。その靴を履いたら3人は、他の3人はダメだったけど、俺だけがピッシャリ合ったの。その靴。本当新しかったので、その靴を頂いて、また下って、で、6月の大体20日ですね。20日に芋畑に着いたんですよ。20日も夕方だったですね。それで芋畑いって、芋掘り始めたんですよ。ぺたんとすわってて、土裾の上へで、みんなで手で芋を掘ったの。こんな大きい芋ばっかりなんですね、フィリピンの芋というのは、サツマイモ。やっぱりそれもただも土おろす、皮むくなんてことは出来ないですからね。土をおろすだけで食ったんですね。畑に居座って、随分食べて、それで後明日の分の芋を取ってきた。それで川端へ来て、洗って、夜とか昼間は火焚けないんですよね。夜はもう火が明るく見えるでしょ。昼間は煙が見えるでしょ。
朝方のほんとにこう明るくなるかならないかという時に火を焚くんですよ。そこで21日の晩ですね。雨で芋を煮て、そして支度をして、21日は無事に山の中に入ったんですよ。その日は。
そして22日、次の日に、着いて3日目ですね。まあこれ(手記)には書かなかったですけど、あの中尉ってのはとんでもねえ奴なんですよ。兵隊がという部隊の中では。
部隊長はね、こんなこと言うと、(遺族からの苦情が)うまくないかも分からないけれど、本当に部隊で威張っていた中尉がだよ。ああいうふうに、なんちゅうか、どん底に落ちたときに、泣くんですよね。それはもう。そのタナカ軍曹ってのが今まで皆を引っ張ってきたわけだけど。「タナカ、俺はお前に助けられている。もしお前が死んだら俺は自決するぞ。」と。おいおい泣くんだよね。陸軍中尉が。その人がよ、ウツミ軍曹と二人、俺とタナカ軍曹。大体行動をそのころから共にするから。大体ジャングルの中の半分くらいはそうしてきたんですけどね。二人ずつ二人ずつになって、行動をしてたわけなんですよ。気が(?)合わなかったんですね。その日も22日の朝、昨日芋掘ったやつを、洗って、煮て、山に入る。準備をしていたのに、俺たちは田中軍曹と2人で、ちゃんと準備しているのに、彼ら川からまだ帰って来ないのよ。しょうがないななんて、じゃあ待ってようって言って、そこをまだジャングルいってて、藪の中じゃないから、下草はこんな(低めの高さの仕草)なんですよね。だから平らに見えるんですよ。藪の中央は歩けんでも、ザーッと。そこに俺とタナカ軍曹と二人で見たのね。俺がこういうふうにタナカ軍曹といたんだよね。で、こっち頭にして、こうして、ウトウトしたんでしょうね。そうしたらものすごく(敵兵が)撃ってきたんですよ。バチバチバチーって。本当に銃は大変だったですね。本当はタナカ軍曹はじっとしてりゃよかったのかもしれないけども、こういうふうに行ったら左のここを撃たれたんですよね。弾が。これがたまたま当たったんですよね。ここにそっちゃったんだよね。このまま「痛い!」て言って、後ろに逃げちゃたんですよ。そしたらそれを見た後に狙い撃ちされて、10メートルぐらい走って倒れたのかな。俺はバーンて撃たれた瞬間に鉄兜を脇に置いてたから、被ってなかったから、鉄兜をすぐこう被って、で防いだのね。だから俺には1発も当たらないのその時、ものすごい弾撃ったからね。そして「ヘーイ」って(敵兵が)来るんだ。ひょいと頭をあげたら(敵兵が)「立て」って言うんだ。「ヘーイヘーイ」って。そして俺立ったの。そしたら2人がバーッと走ってきて、これフィリピン人だけどね。アメリカ人は全然最前線には出ないからね。フィリピン人が2人して、身体検査すんのよ。まずして。ポケットしかないけんどね。身体検査なんて言ったって、何にもないんだから。そして荒縄でおれを縛ったんだよね。両手を後ろで、ぎゅうぎゅう。そうしたら、この時20人くらい(敵兵が)いたの。こうザーッと。(指で様子を示す。)楕円形でこうなって。20人くらい一斉にバーッと自動小銃撃ったから、ものすごい音がしたわけね。そうして俺のところに2人来て、あと今度は倒れたタナカ軍曹のところへ行ったわけ、2人は、他の兵隊は。そしたら俺のところでこいこいっていうんだよ。ヘイヘイヘイって言って、すぐ縄解いてくれたのね俺の。そしたら左手がここ穴あいてこういう状態になって、(指で示す。)こう見たのね(下から上を見上げる)。右手はこうなってるんだ。そうしてまあそこの隊長だったかね、あれ。すぐ三角巾出してくれたのね。そして俺に「縛れ」って言ったの。早く縛ってあげて。それで三角巾で縛ろうとしたら、一人の兵隊がここにシャツなんですけどね。シャツを(ズボンから)出してるでしょ向こうは。ひょいとこう銃口であれしたらこう臓腑なのバーッて。(三角巾以降、タナカ軍曹についての描写と思われる)はらわたが出てる。「ノーノー」って俺によこした三角巾をぱっと取っちゃって、そしてもうダメだって。そうしたらもう俺一人じゃない。もうタナカ軍曹の手をとってね、本当になんとも言えなかったですね。「班長殿、班長殿」ってもう泣けてね。あとはもうしばらくそうして手握ったらタナカ軍曹が「佐藤(結婚前の姓名であると本人が説明)頭を撃ってくれ。苦しい苦しい」っつうんだよね。タナカ軍曹が。こんな頭撃ってくれってなんて言いっこないじゃん。そうして「向こうにキャプテンが二人いるから、俺『おーいおーい』と叫ぶから、呼ぶから、向こうへ連れてってくれ」って言ったの。兵隊、敵にでね。「オーケーオーケー」言って。もう捕虜にするだけ彼らはね、カネ貰えるらしいからよ、喜んで。最後「オーケーオーケー」って。それでみんな銃で囲んでるんだよね俺の。それで川端行って、川端はこう、水が高くなってるんだよね。土手のほうなって、でここに立って、「主計中尉殿ー」って呼んだの。「タナベ中尉殿ー」って。そしたら彼「おーい」って枯れ木に手ぬぐいをぶら下げてでてきたのね。とにかく今タナカ軍曹死ぬとこだって言ったら、彼今度俺の話聞くことしなかったんだよ。彼は日大出てるからね。日大出て、まあ会社でも相当偉い人になってたらしいけど。英語がペラペラなの。それで敵と話してたの。おれが言うタナカ軍曹が今死ぬっていうことに対して何の反応もしなかったんだよ。それで敵と英語で話しながら、見てて、これダメだと思ったからウツミ軍曹に言ったの。「ウツミ軍曹殿どうするって。タナカ軍曹今腹やられた」って言ったら、「もう臓物、はらわたが出てる」って言ったの。「いや、腹やられたんじゃもう駄目だろうから、会わない方がいいだろう」ってこう言ったの。その人。もう悔しくてねその時。それでやっぱり敵も、いつ日本軍が出てくるか分かんないからね。だから銃はみなこう突きつけてるしよ、言うこと聞かないんじゃしょうがないんだよね。そうなっと。それでタナカ軍曹のとこはそれっきり行けなかったんだけどね。そしたらそっから1キロくらい下ったとこに、もうものすごいキャンプがある。天幕張ってね、キャンプがあったの。
だからもう俺たちが芋畑に行った時にはだいたい分かってたのかもしれないね。敵が日本軍が来たっていうのが。そうしてそのまま「ヘイヘイヘーイ」とまた呼んだの。銃を突き付けられたままね。行って、敵の所行ったの。そして俺は死んだ人の靴をはいていたから、俺の靴が一番新しかったのね。みんなのより。そうしたら俺をバンバーンってぶん殴って、フィリピン人が。そして「この靴ぬげ」って。足で蹴っぽったの。で靴脱いで、靴下ひとつになってね。そしたら今度天幕の中へ連れて行かれたのね。もう3人しかいないわけだ。4人のうち一人死んだから(※タナカ軍曹が死んで日本兵が3人になっている状況)。そうしたらそこで缶詰ね。あの前線で食う携帯口糧ってやつ。ご飯ものもあったし色んな缶詰があるの、敵のね。どんどん少しづつ「食え食え」「食え食え」って、開けてくれるの。それで箸まで用意してくれる。フィリピン人が。そしてそこで三つぐらい缶詰食ったんですかね。そしたら腹いっぱいになってね。初めて陣地脱出してから、ああいうの食ったの。やっぱりおいしかったんだね。夢中になって食った。
それでもう今度は捕虜生活に入るんですよね。そこで捕まって、いるんだけどもいつ殺されるか、そればっかししか考えないんだよね。あん時その時。どこで殺されるんだろう、どこで殺されるんだろう。それでそのまま今度は缶詰を食って、今度は「立てっ」「こっち来い」って言われて。今度は銃も何も突きつけなかったけれどもね。そして行ったら水陸両用の戦車があってさ、そこの川を往復してるんだよね。ハッチをおろして、乗れって、3人が乗っけられて。ダーッとハッチ開けっと、ぶわーーとみんな敵が6人、角、かどにいてね。真ん中と。そして水陸両用の戦車にダーッと川に行ったと思うと、今度は陸のほうに行ったりするでしょ。もう本当にびっくりしたね、あの時は。日本がそれに対抗出来るわけないですよね。そしてしばらく行ったら、ワーワーワーワーってあのフィリピン人が、警備している兵隊が騒いで、なんだと思ったら、岸の方に日本軍が手挙げて(ポーズ)降伏したのね。一人だけだけどね。そしてそこにまたハッチを開けて、のせて、それで4人になったの。それでしばらく行って、行った所が司令部みたいな大きな所だった。ものすごい大きいの。機動隊っていうか、大砲を引っ張るみたいなああいう。機動車っていうかね。ものすごい自動車がいっぱいあったのびっくりしましたねあれには。ザーッと並んでいるんだもんね。日本なんて歩け歩けで、本当にもう弾なんか一発も無駄にするななんて言われてさ。そしてその夜、師団司令部に泊められるんだけども。連れて行かれて、門くぐったら金網あるの。4人だけ入ったのよ。本当に4人がギリギリのとこ。やっと寝でられるくらい。そんな金網の中です。そこへ捕虜として入れられてね。でそこにも兵隊が銃を持って立って、で1晩ずつ1晩ずつずーっとこう後方に送られていったね。
4日目かな。4日目にバレテ峠っていうフィリピンで一番激戦があった所があったんですよね。そこ行ったとき建物の中に今度入れられて。だからあの建物の中に入って、板の間に座ったのが、11月からだからから7ヶ月ぶりぐらいに家の中に入ったんじゃないですかね。そこでは随分いっぱいいましたね。民間人それからフィリピンが。フィリピン人でが日本に協力した兵隊みたいな人が結構いたんですよ。そういう人も捕まってね。その時ね。タナベ中尉が、結構兵隊もいたんだけども、タナベ中尉将校って、将校ってのは肩章があったな。中尉ってのが。だからたった一人だけ寝台があったんだよね。折り畳みの寝台。で、将校だということで。彼そこに寝かしてもらったのよね。俺たちは板の間で畳引いただけなの。そして、「佐藤! 水を1杯くんできてくれんか」と俺に言ったの。悔しくてね。「水くらい自分でくんでこ-い」って言ったの。そうしたら彼こう言ったよ。「捕虜になったら上官も部下もないというのか!」「ない」っつったの、俺。それが彼と口きいた最後でしたね。そしたらもう一人のウツミ軍曹が水くんできてやったけどもね。本当にどっか行くと威張ってばっかりで、いざとなるとおいおい泣いたりしてさ。本当にあれは悔しかったね。あの人だけは。
捕虜生活
そしてそれから4、3日目、やっぱりトラック輸送で、行って、収容所に着くんですよね。もう収容所に着いた途端に全部もう真っ裸にして、今まで着てたものは全部脱いで、そのまま置いて、洗面所に連れて行かれて、あんとき15、16人くらいいたかね。一緒に収容所へ入ったの。それで洗面所に連れて行かれて、石鹼とタオルを渡されて、それで体洗った時は、何か月かね体洗ったのは。本当に嬉しかったですねあの時は。それからの生活ってのは、あとは捕虜生活で、大体300人をまあ1個中隊みたいにして、食事は良かったですね。6月の22日ですからね。そこに捕まったのは。それで収容所へ行ったのは7月1日。それからの生活はアメリカで、朝はパンとオートミールみたいな、で昼はご飯とおかずがあって、夜は味噌汁がでたね。ご飯と。とにかく食事は良かったですね。だから2か月ぐらいで俺たちはもう体回復したんですよね。
そして8月15日。それまでに周りはみんな金網なんですよね、ダーッと。収容所。三重の金網になっているの、そこの周りにいっぱい原住民が来るの。そして「ジャパンバカヤロー」「ドロボー」って1日中怒鳴っているの。捕虜の俺たちを。そして終戦の日に全員上着をつけて集合しろっていう通知があって、広場へ集合したんですよね。玉音放送はもうほとんど聞こえなかったですね。ただもう終戦になって、天皇陛下の放送があるっていうのを聞かされただけで、あとは何も聞き取れなかったですね。ガーガーガーガーいってね、ラジオも悪いけんど、電波が入らなかったんですね。
終戦後
聞き手:放送が始まる前にそういうものがあるって予め聞いてたんですか。
まあ、分かったんでしょうね。米軍から通知があったんじゃないんですか、あれは。米軍が年中、本部に二人かな、詰めていたから。あと、捕虜の中から英語で、英語喋れる人は5人ぐらいかな。事務所に詰めているから。そこから話しがあったんだと思う。
聞き手:その収容所も監視というか、警備というかしているのは?
みんな米軍。米軍ばっかり。
聞き手:米軍の、でもフィリピンの?
フィリピンはいなかったね。警備はみんな米軍だね。米軍っつたってメキシコとか「くろんぼ」とかもいっぱいいるから。あの四隅にはもちろんだけど、角にこう金網と、所々に高い展望台があって、そこに銃もって皆警備してる。全然脱走なんか出来っこなかったね。
聞き手: 試す人はいない? 試そうとする人もいない?
いないでしょう。いないいない。でも俺たちその収容所に居てても、なんかこうデマが流れてね。こうやってアメリカ本国へ連れて行って重労働させられるとか、オーストラリアに連れて行かれるらしいとか、そんな話ばっかり出るんだよね。デマ飛んで。だけども、結構捕虜収容所の中では演芸系の人も多かったですね。演芸会やるんですよ。しばらくしてからだけどね。その中に映画監督の山本嘉次郎という人がいたったですね。あの人が収容所にいたんですよ。ちょうど映画を撮りに行って、最終的に終戦になったらしいです。それであそこで捕まって、入って来たんですね。彼1回挨拶した時、私は山本嘉次郎です。日本に帰っても映画を撮ると思いますから見てください。なんてね。挨拶したことありましたね。
聞き手:芋畑に行く前に、河原のこう両側に日本兵がいたが、あの人たちはどうなった?
結局終戦になって出て来たんじゃないんですか。もう8月15日過ぎてからはね、ものすごい出て来たの。兵隊が。そのために今まで俺たちが結構良い食事をもらってたのが、今まで食ってたごはんがみんなおにされたよ。でもあんまり多く出てきたから食糧なくなっちゃったの。大変でしたよ。それで俺たちは服なんかちゃんと貰ったけど、2着ずつ貰ったからね。一着は返してきたけど。返せって言われて。その人8月15日以降出てきた人なんか、ここ(腰)に毛布巻いてましたよ。食いものも貰えない。なくて。あんまりにも多くね出て来たから。
聞き手:それはその直接自分が収容所に来る?
そうですね。部隊で投降した人もいるし、ああいう所にいた人は自分で出て来たのかね。結構いっぱいいましたね。
聞き手:隊がそのまま、一人一人じゃなくて、元の隊がそのまま来てる感じですか?
いや、ああいう河原にいた人はそうじゃないですね。みんな軍属とか民間人とか結構いたでしょ。そういう人がみんな来たみたい。河原の周りは。兵隊で部隊っていうのはやっぱり最後は降伏したんじゃないですかね。まとまって。
聞き手:4人一組はタナベ中尉とタナカ軍曹と、元々30人いて、4人グループになって、それを組み分けっていうのは?
そうですね。兵器は兵器で、通信は通信で行ったから。経理は経理で分かれたから。結局大勢でいると、食べ物とるのが大変なんですよね。だからなるべく少人数になって、行動しましょうっていうことで。
聞き手:では経理の人たちで
そうです。経理は経理で。
聞き手:洞窟にいた頃なんですけど、洞窟の中にずっと、30?
30人以上いましたね。
聞き手:洞窟の中にいた期間はどれくらい? 長いですよね?
長いです。11月のね、11月の末だと思うんですけどね。それが4月19日までにいたから。一歩も出ない。あそこの生活は長かったです。もう何にもやることないですからね。もう本当に上官の飯の上げ下げくらい、やること、仕事。
聞き手:そうするともうどんな生活になる?
どんな生活つったって、マニラの洞窟出るところに、どぶ川みたいなドローンとした川があるんですよ。どこからか沸いてきたんでしょうね。山の下から。だからいつも米を研いだりして、そして火を焚くのは洞窟の中の方で焚くんですよ。ごはん食べたら洗いに行って、そういう生活ばっかりですね。
聞き手:ではその物資とか、食糧とかを結構持っていらっしゃった?
持ってたんですね。どうしてあんなにあったのか、最後に出るとき、陣地を脱出するときに、隊長用、大隊長用の酒があるって、言われたんだよね。俺そんなの見たことないから分からなかったの。そしたら6本入りの木の箱に入ってね。一升瓶が6本ちゃんとあったの、清酒が、大隊長用に。こんなの知らねえのに、なんで洞窟の中にあったんだよねえ。だから米なんかも結構あったんですよ。逃げる時、自分たちで1人持つ量なんて決まってるじゃないですか。これでもまだ有り余っていたから。どっから持ってきたかね。分かんないですよ。
あと、缶詰ね、いかの缶詰なんか結構ありましたね。あんなみん最初に食わせりゃいいんだよな。あれ置いてきましたね。
聞き手:最初の北部ルソンで、通信経理兵器担当の兵士たちが30人、その拠点があって、そのまま洞窟に移ったんでしょうか?
そうですね。主計中尉以下、経理担当するわけでしょ。本当は被服、服でもみんな経理が扱うわけ。兵器は兵器、兵技下士官というのがいてさ。それでその下士官の命令によって、あそこに5、6人しかいなかったね。だけども。通信は通信で大隊本部から色んなアレが来るわけだ。命令が、そういうの受けて、それで経理や兵器の方に教えるワケ。でも通信なんかだって5、6人しかいなかったと思うけどね。
聞き手:では、トータルでどれぐらいの期間の話でしたっけ?
再び戦時中
19年の7月、マニラ上陸は7月1日ぐらいだと思うんですけどね。それから20年の6月22日が捕虜になって捕まった日なんですね。
聞き手:で、洞窟の中に、そしたら7月1日に上陸して、8月ごろには洞窟の中にうつって?
違う違う、7月1日に上陸して、一番最初山の中に入ったんだよね。作業隊として、そこにいたのが7月10日ぐらいまででしょう。それから経理の方に移って。だから、19年の7月10から経理の方に移って、それからずっと経理だけですね。経理になってね、作業隊から経理に移った時は、タヤバスっていう町に行ったんですね。そこで10日ぐらい居てで、20日ぐらいかな。その間、その時に、忘れられないのはゲリラを2人殺ったことなんですよ。
ゲリラを捕まえて来たってんで、一応手縛ったりなんかしてね。とにかく生かしたらまた必ずこういう人はゲリラになるから、殺せっていう事になった。それで12人かな、とにかく今手あいている者は皆来いって言われて、俺なんか何もしてなかったので、銃に剣銃(銃剣)着けて、捕虜を真ん中に囲んで、これから林の中に行くって。薄暗くなる頃はあまり(手を振る仕草)、現地人がいるからね。フィリピンの。薄暗くなる頃剣銃(銃剣)着けて、みんなグルーっと囲んで2人を、そこで何キロぐらい、1キロぐらい行ったかね。林なんですよずっと。で、椰子林みたいなああいう林じゃなくて、普通の雑木林みたいな下は草むらだったの。それでみんなに、12人ぐらいで行って。そしたら2つ穴が掘ってあって、2人だからねゲリラ。2つ穴が掘ってあったの。それで十字架がちゃんと立ってあったの。だから誰かがちゃんと準備してたんだよね。その時の隊長になったのが兵技下士官、軍曹だったんだよね。で、その人が軍刀を持って、俺たちは銃を持って、銃剣をつけて、とにかく銃殺はしない、音もするし、無駄遣いになるから。とにかく銃剣殺で刺すって。こういう命令が出て、それで現地へ行って、2つこう並んで、こう縛られてるんだよね十字架に。とにかく動かないようにして。「突けー」ってその軍曹が号令かけるわけ。そして「えーい」って銃剣でボッカボッカ刺しちゃう。「うわー」って言って死んでいったね。俺、その時は突っ込んでいかんで周り回ったの、周り警備で。だから俺直接は刺さなかったけど、その時、タヤバスで2人のゲリラを殺したね。
それでここでも、20日ぐらいしかいないわけだ。そこでまたすぐ移動命令が出て、ルセナっていうところに行ったの。このルセナは結構大きい町でね、ちょっとしたフィリピンの地図にはのってますね。ここは学校か何かの跡があったと思うんですけどね。すごく校庭みたいな広い所があってね、で、まわりにずーっと建物があって、あと建物があって、主計中尉なんかと(不明)は事務室にあって、俺たちは、作業、縫工兵(ほうこうへい)で。それで唯一ここだけだったんだけどね、仕事したのは。各中隊から作業、ズボン。野良着はほとんど着ないから。ズボンを皆、着た奴を修理するんですけども、取り寄せて、女の原住民も3人かな。ミシンに持ち込みで雇って、大きな作業所で、結構6、7台のミシンで毎日やったんですけどね。あそこでは8月から10月ぐらいまで、大体50日ぐらいはいたと思う。唯一仕事したのはここだけでしたね。生活も案外良かったですね。だけどここも50日ぐらい。で、この時、俺腸閉塞になったの。とにかく入院しなきゃ駄目だと言われて、トラックに乗っけてもらって、そしたら小さな診療所みたいな所だったですけどね、そこへ連れて行かれた。そしたら軍医が一人なの。その人もアベっていう陸軍軍医中尉だったね。その人が一人。あと看護婦なんかいない。みんな衛生兵が5人ぐらいいて、小さな病院で、病院はちょっとしたいい建物の中にあるんだけど、病室ってのが土間。そこへ折り畳みのベットがバーッと並べて。20人ぐらいいたんですよね。みんな負傷兵だったね。ここら貫かれたり、銃の、鉄砲玉があたってね、貫通したりした人が20人ぐらい入院してた。俺そこへ入院して、2日ぐらいいて、手術すると言われたの。俺手術しなくていいって言ったの。治ったから。そんなとこで手術したら大変だと思ったから。そしたら軍医に怒られて、「このままいったら死んじゃうぞ」って言われて脅かされて、それで手術したんですけどね。大変だった。手術する時も。麻酔なんかろくに効かないしさ。痛くて痛くて。だから俺大体3回ぐらい死ぬ目にあったね。そこが一番長くいて、またものすごい山の中にどんどん逃げるんですよ。10月ぐらいで。で、それが1か月。10月11月、3か所ぐらい逃げたね。その場所はもうわからない。まあ小さな部落だったね。そういう所行くたびに、フィリピン人の家を占領するんですよね。徴発して。だから行くとこ行くとこフィリピン人はどこかどかされる。それで最後に行った11月に、モグロフの方へ移動すると命令が来て、若かったから良かったけど手術して間もなかったからね。それでもまあ生き延びたから。それで経理のためびに荷物があるからトラックに、南部ルソンから北部ルソンへ移動するって、トラックで。だから良かったんですよ。
聞き手:そのころは物資が不足してるってことはありましたか?
いや、とにかく現地調達だからね、みんな。日本からの物資なんか何も来ないから。だから大変だったね。米はどうして集めたか分からないんだよね。フィリピン米だと思うけど。あと、南部ルソンにいる時はヤシの実とか、ヤシの木の小さいのをとるんですよね。切っちゃうんですよ。そうするとフィリピン人怒るんですよね。(注;椰子の実だけならまだしも、食用として芯だけを取り出すことは、成長途上にある小さな椰子を枯らすだけの行為であり、所有者のフィリピン人は激怒した)そうして中の芯を食うんです。油炒めかなんかで。ものすごくうまい。そういうものがあったから、南部ルソンではよかった。食糧も。あとバナナでもパイナップルでも何でもあったから。だけど北部ルソンへ行ったら本当にジャングルだけで何もなかったね。68日間歩いて、蛇1匹。青い蛇見ただけ。あと何も動物というのを見たことがなかった。
聞き手:10月とか11月ぐらいルセナから洞窟に行くまで、村を何回か移動しながら?
あのう、ルセナ行って、ルセナから洞窟まで、北部ルソンまで来る間に、3箇所行ったね、部落。小さな村を、山の中だね。だけども向こうはヤシ林なんかっていうと、ザーッとあるからね。そういうとこずーっと歩いていくと、結構遠かったのかな。3箇所ぐらい行った。
聞き手:行く時は、まだ無人の村ではなかった?
暮らしている所ある。行ってみるともういない。現地人は。それでそこの空き家へ入るわけ。誰かが先に行って、どかしたんだろうね。それも不思議のうちの一つだったね。
聞き手:ついさっきまで人がいた?
もちろん。綺麗に、向こうは、竹のね、板の間じゃないけど、細い竹を割ってザーッと敷き詰めているの。あと、屋根はヤシの葉っぱみたいな、ああいうので作っているみたいだね。だから割合簡単なんですよ。うちは。
再び「ボカチン」話
聞き手:最後に一番最初の所をお聞きしたいんですけど、船に乗りこんでから沈むまで何日間かありましたか?
6日ですね。6月のね、確か2日頃だと思うんですよ出たの。門司を。そして7月のね、何しろジグザグジグザグと行ったものだから、もう何日かかったか分からないと言ってたもんね。ジグザグに進んだから。台湾行ったのが確か10日ぐらいかかったかね。13日か14日あたりじゃなかったですかね。もう普通だとフィリピンへ8日ぐらで日本からフィリピンへ行くんだって。だけど物凄くかかったみたいよ。それで、台湾着いて、上陸して、港内だけね。そこでタバコとバナナと氷砂糖買ったんだけどね。だけどそれ一つも食わなかった。次の次の日に沈んだから。
聞き手:そのころはその船に同郷の方とかは?
いた、5人。山形でね、南置賜郡だったんだ。南置賜郡で、5人だったの。村がみんな1人ずつだけどね。誰も帰ってこない。俺一人だけ。それも後の4人はみんな長男で、俺だけが長男じゃなかった。だから一人だけ。一人お袋さんっていうのは、俺んとこ来たったけど、もう俺一緒にいなかったからね、作業隊の中では。だから、本当に船で行って、マニラへ着いて、10日間ぐらいの付き合いだったから、ほとんど分からないと言ったの。
聞き手:帰還されてから、その方の、お母さんが?
一人だけ、来たね。俺行くの嫌でさ、よく戦友まわりした人がいるけどね。とにかく嫌で行けなかったね。それでまたあのころ車も何もなかった時代だから。一人で隣の村へ行くっても大変だったの。だからあまり行かなかった。だから戦友ってのは誰もいないんですよ。だから、これ貰ったのよ。これは恩給を貰えない人にくれたんですよね。
で、これが時計なんですよ。これは銀杯なの。
これは村山内閣の時に。
以下、物を確認する。
聞き手: これは銀杯ですか、結構重いですね。
そうですね。
これは新聞に、出たんですよ。恩給の貰えない者は、こういうものを出すからと、友達3人兵隊に行ったのいたったんだけど。一人はミンダナオのほう行ったのよ、フィリピンの、みんな死んじゃったけどね、今は。もう一人しかいないけど。三人で区役所行って、用紙貰ってきたの。それで出したの。したら、誰か知っている者の証明が欲しいってきたの。だから俺なんか誰もいないじゃない。それで他の二人も、「こんな面倒くさいんじゃ、もう俺はいらねえ」って。二人はやめちゃったの。で俺は、とにかくなんにも俺は持っていないって、船でやられ、捕虜になった時は全部全裸にされて何も残ってもないって、二回出したの。そしたらね、2年8か月ぶりにこれ来たの。悔しいもんね、何か。何か貰わなかったら、死ぬ思いして。
聞き手: それは自分で申し出なさいということですか?
そうですそうです。全部自分で書いて、やっぱり山形の連隊の方にもあの打ち合わせ行ったみたい。
聞き手:結構手間暇かけてるんですね。
そうです。いやいや。まだ見たことないですか。たしか貰った人結構いると思いますよ。
聞き手:勲章は無いですか?
ないない。俺は貰えない。終戦の時からは何も貰えないから。
聞き手:現役で入った時、写真かなんかありますか?
ああ、それね、これ一枚だけ撮った。二等兵。
聞き手:何歳ぐらいの時ですか?
19歳ですねこれは。いや20歳。19年だから。星一つだから。最低の兵隊だから。
聞き手:写真屋さんに頼んで?
そうです。20歳です。徴兵検査の次の年ですね。18年に徴兵検査して、19年の確か5月だと思います 。
聞き手:天皇陛下の終戦の言葉は分からなくても戦争は終わったということは感じたわけですね。その時、周囲の状況はどうでした?
別に何もなかったですね。ただワーワーワーワーしているだけで。
聞き手:泣き出すとか?
ないない全然なかったですね。もう捕虜になってからだから無いです、無いです。
聞き手:フィリピンのミンダナオ島に行かれた方は帰って来てからのお友達?
帰ってきてから。この同じ住宅にいたったから。会社が同じなの。だから毎日こう。3
聞き手:やっぱりいつ死ぬかわからないという恐怖心があるから?
そうですね。そればっかりですね。
聞き手: 一説によるとね日本人が日本人の兵隊の肉を食べたとかって話あるけど、実際にはあったんでしょうかね?
あったと思いますよ。とにかく何も食糧なくなっちゃうと、もう本当に何でもいいから食べたと思いますからね。
体験記録
- 取材日 2006年4月22日(miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
- 地図 ───
- 年表 ───
戦場体験放映保存の会 事務局
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