池田 幸一さん 

シベリア
  1. ホーム
  2. シベリア
  3. 池田 幸一さん 

池田 幸一さん

生年月日(大正)年月
本籍地(当時)
所属
所属部隊
兵科
最終階級 

インタビュー記録

はじめに

聞き手:―の時のお話をこのカメラの前でしゃべって頂いてそれを記録させて頂きたいのですけど。

そうですか。その話とそれから?

聞き手:その話を主に

ん?

聞き手:その話を主に。

主にね。私の経験は非常に乏しいですよ。はい、それから?主にそれですか?

聞き手:―主に

そうですか。

聞き手:あとできましたら、その後の戦後戻られてからの活動等のお話も少しお時間の範囲で。

抑留を語る視点

 本当はね、シベリア抑留なんだあ、私なんかがねえ、話をねえ。これはね、なぜ起こったかということとね、それが実際どういうことであったかということをね、現状をね、それからそれが曰く、どうこの現在と繋がっているか、言うたら、どう処理されたかということ、こういう風に起承転結で終わるんですよ。3つね。大きくね(3本指を出す)。殆どね言われて語られてるのは、2番目のどうであったかちゅうこと。まあ早い話が、ひもじかった腹減った辛かった、それから、んー寒かったと、いう三重苦が殆ど主になってるでしょう?私はね、それはほんとはね、言いたくないんだけど、言うてもね、そうゆうこのシベリアエレジーってやつはね泣き言以外なんにもない、みっともない話だ。

 ただ、やっぱなぜ起こったかちゅうことについては、いろいろね、たくさんモノ書いておられるでしょ。ぼくはむしろ重視してるのはそういうこの戦後ね、帰って来てから日本という国はね、どうこの応えたかということ。これが一番大きいんですよ。でむしろ私達はね、相手、相手ちゅうか対象、これがね、殆どの人がねソ連、曰くロシアだと思ってる。確かにそれはその通りなんだ。でもそれはね、たった3年間。我々が向こうで経験して、それで一応争ったことがね。ただそれ以後の66年間いうのはね、僕たち主に何やってたかというたらね、自分の祖国であるね、日本政府と争っていたんよ。だからね、まったくこの見方が違うんですよ。私はむしろね、それを言わにゃいかん。シベリア抑留ちゅう問題をね、戦後、この日本という国がね。どう捉えて、そうしてそこで苦労をした60万の兵隊、これに対してどういう扱いをしたかということです。これがね私が一番問われにゃいかんことだと実は思ってる。

 この間もねやっぱ色んな、特に8月は戦争と平和についていろんなNHKあたりでもね、ずいぶんいいドラマなり物語を、ドキュメンタリーを放送して、やってるでしょ。それで僕あん中で非常に感心、非常に感動したのはね、やはり、例えば戦後シベリア抑留から後、撫順へもってかれてね、ご存知かしらないけど、撫順で戦犯管理所、あそこへ送られて、6年間、中国がどういう扱いをしたかという物語、これなんかね、人間の特性というか最も大きな人間賛歌を物語っている。それからもう一つあった。この間、例えば中国のね、共産軍に戦後流用されて医者とか看護婦とか、炭鉱へ行って石炭ほらされた人間もおるし、それから新しい鉄道つくった人間もおる。それなんかの物語。これに対して日本政府はね、どういう扱いをしたか、これは実に非常に酷いんです。非常に酷い。いちいち詳しくは言いませんけど、それとシベリア抑留も全く同じ扱いされてるんですよ。

 まあ結論的に申し上げると、やっと昨年の6月の16日にご存知の通り、シベリア特措法っていうのがやっとあれ成立して、まあ一応曲がりなりにも格好がついたことになった。ただこれだって大変大きな不備がいっぱいあります。でそういう風なことについては目が触れないんだな。なぜか。その辺私はシベリア抑留というものに対する、ある意味語り継ぐっていうかなあ、次代の方々に、どうしてもこれだけは申し残しておかないかんということは、私はむしろそれが一番大きな問題だと実は思ってる。だから向こうでね、腹が減った、寒かった、辛かったという風なことはね泣き言、みんなが言ってるでしょ。殆どそうです。こんなことはねしゃーないんだ、何べん言っても。

 もう「猪熊さん」(註:猪熊得郎。シベリア抑留者支援・記録センター世話人を務めた。)がそれをいうんだけどね、あの人が。要するになるほどそういう三重苦、3つの大きな。ただし猪熊さん自身おっしゃるよりももっと酷かったのは、あの人がいうのはね、お互いに仲間を、自分が帰りたいために、一切れの黒パンを余計喰いたいためにね、仲間を密告した。相手を引きずり降ろさんことには自分は早く帰れない、いう風なことをね、そういう風な非常に物理的な辛さよりも、そういうこのものあっけど、精神的なトラウマ、あれが如何にたくさん兵隊を傷つけているのか、いう風なことを猪熊さんはその方に重点を置いた。話するときに。

 確かその通りなの。だからね我々は向こうで、本当に、地獄のさ、釜の底まで見たの。人間のいやらしさ、人間の卑屈さ、これは酷いものだった。だからね我々、戦後帰って来ましてね、よく戦友会みたいな形で、向こうで一緒に苦労した仲間たちと一緒に、年に一回、集まって、それで温泉泊ってな、いろいろ昔の話するわけだ。そういう風なことに出てこられる人々、これは非常にね幸せな人なんだよ、これは。出てきたくても出てこれない人がいっぱいおるんだから。なんでか言うたら、行ったらまた仲間に吊し上げくうんじゃないかというのは、どういうことかいうたら向こうで酷いことをした人間、それがためにね来られんひとが一杯おるんよ。だから来る人はまだまだ幸せな人たち、と言う風ないっぱい裏面がありましてね、ただ単に言われてるように、ごく単純な物語ではない。そういう風な、私は考えを持っている。

 だから、申し上げたように、向こうでのことは、正直いって聞き飽きたでしょ、おたくらも。あーなんだ色んな人がとにかく、道端に広がってるね、あー馬鈴薯が落ちてると、馬鈴薯やと思って持って帰ったら実は馬の糞だったとか。だから向こうでね、蛇を喰ったカエルを喰った、こんな話いくら聞いたってしゃあないでしょ。こんなもん。

国際法とシベリア抑留の辛さの原因

聞き手:でも、兵隊さん同士のそういう、むしろ精神的なところ、密告とかあるいはそのアクチーブとか話とかは意外とされない。

 されない、というのはね、みんなね、心にねある、1つの、なんちゅうかなあ、汚点を持ってるんです。お互いに。人間ね、やはりね、とにかくはやく帰りたい。はやく帰りたいと思ったら人を引きずり降ろさないと自分は帰れない、それが為には、いろんなことがあるんだけどね、僕はこれ色んなこと言ったらキリがないけど、なぜそうであったかということ、これ。

 なんでかいうたらね、いちばん大きな原因はね、日本軍は国際法知らなかったちゅうこと。これ一語に尽きます。要するにね、この国はね、負けるはずはないんだ、この国が、日本という国が、それから仮に負けたところで捕虜にはなれない、捕虜になるんだったら舌噛んで死んでまえと、というね例えば生きて虜囚の辱めを受けず、という非常に厳しい掟がありましてね、原則的に捕虜はいないんですよ、これ。だからそれがためにね、国際法なんていうものをね、捕虜になってからどうするかという勉強をね、誰一人やらなかったんですよ、これ。国際法。当時ね、当時から今はジュネーブの○○条約(註:ジュネーブ条約か)というのがありますけど、その前身として、ヘーグの陸戦規約(註:ハーグ陸戦条約)というのがちゃんとあります。これは日本も批准して、そうして日本もそれに従うと、いうことになってるはずです。これは1920何年かに(註:日本においては、1911年(明治44年)11月6日批准、1912年(明治45年)1月13日に「陸戰ノ法規慣例ニ關スル条約」として公布)、決まったこの国際法があります。それで全部捕虜なんかの扱いは国際法に全部組み入れらたんですよ。それに従って我々は向こう行ってやりゃよかった。ところが我々はどこの部隊でもそうだけどね、誰一人として国際法知らなかったわけ。だからロシア人にね、もういとも簡単にね、ややこ(赤子の大阪弁)の手ひねるみたいにやられたわけです。何も分からんから。どこまで要求していいか、それからどっから先はやっぱり従わなきゃいけないかを、基準が何一つ分からないんですよ。だから、ロシア人の言うままにされたん。だからああゆうことになった。

 これが全く反対はドイツ兵です。まあ結局負け慣れしてるっちゅうかな、戦争に。彼たちは何べんもこのことは百も承知で国際法なんてものは、もう将校だけやなくて恐らく兵隊まで知ってる。だからね、ロシア人が色々言うてくるでしょ。全部撥ね飛ばす。「あなたたち何言うとるかと、国際法見ろと。そんなことは決してやってはいけんことだ」と。絶対言うこと聞かない。それを押してやれば、ドイツ兵はね全部ひとり残らずハンストやった。サボタージュ、仕事しない、一切。なんぼやられても草野球やってねサッカーして遊んでましたよ。ところが日本はね、向こうの言うままにやられたわけです。それがあのザマです。だからね、とにかく腹減った辛かったなんやかんや言うてる泣き言は、これ何にも、国際法すら知っていれば拒否できたわけです。それがもう言うままになったの。これがあの悲劇を生んだ一番大きな原因です。何のことはない。結局ね、これがだから結局戦後もずっーと尾を引いてるわけ。

 ドイツ人の場合には将校以下、全部結束して、それで全部行動して、決してソ連の言うままにはならなかった。それがために、日本人よりも早く帰ってます。彼たちは。日本人は一番遅くまでコキつかわれた、11年間も。とにかくそういうふうなこと知らないっていうことが一番大きな理由です。例えば、将校、将校たちね、これは国際法によれば全然労働すること、いらないよ。将校は。何もせんとね、ぎゃんとやった。国際法の一番もとは、自分、相手側に対しては、自分とこの軍隊とおんなじ待遇を与えなければいけない。だから仮に、陸軍大佐、大佐なら大佐という位やったらね、ソ連の大佐、あれと同じね待遇をせないかんわけです。で将校は原則としてね、作業はしない。全部て、なにもせんでええの。将校待遇を受けたらいいわけです。向こうのおんなじ大佐なら大佐の、受けたらいい。で給料もその通り貰えるの、将校は。作業させられるのは下士官と兵隊だけ。そういう風に国際法ではキチっと決まってるわけ。ところが日本の将校はね、殆どが全部働かせられた。なんでか。国際法知らないから。その点ロシアがどういう手を使ったかいうたらね、あの、なるほど将校は働くこといらない。ところがね、自分で志願したという形をとったわけ。どうぞ私に働かせてください、という一筆を全部とってる。だからそれまで、だから日本の将校の殆ど皆兵隊と同じように働かされている。一事が万事、全部そうです。だからあらゆる例えば、辛かった、決まった、どういうかな、食料を与えなきゃいけない。これが物凄い食料が少ないから、だから腹減ってようけい(たくさんの大阪弁)栄養失調で死にましたよ。これやって国際法通りに飯が足りないと、これじゃ働けないと言うてね、頑張ったらね、だったらね向こうとしてはそれだけのものを食わせないと、最低限喰わせないかん。これ、日本人分からんもんだから、もう全部搾取された。例えば10なら10の配給量があっても、全部中抜き。括ってくるごとに。だからこんだけあるものがこんだけになってきたわけ。(大きかったものが小さく減っていく様子)なおかつこんだけになってきたものを、あんたたちは知ってる通りにね、これえらいさん順にたくさん食べて、われわれみたいな二等兵は、いちばんべったはね、とにかくものすご少ない。そういう風なあらゆるこの不条理がね、あんなかに凝縮されているの。その辺をね、やっぱり解明していかにゃいかん。だから、いっぱいあるんだ。

慰問袋と国際法

 例えば慰問品の問題。どこの国でもね、全部やっぱり抑留されている内はね、なんぼ国が貧しかろうと、慰問袋、あれをつくってみんな送ったもんです。どこの国でも。そんなことが無かったのは日本だけですよ。なんでか。捕虜になるはずがないから。日本軍。日本はね、全部その建前です。例えばある時期に、外国のどこの赤十字だっけな、ある国の赤十字から「日本の兵隊はね、捕虜はね、全然慰問袋貰うてへんと。気の毒だからうちのね、慰問袋余ってるからね、それを回すからね、あげますから。分けたってくださいよ。」と見るに見かねて、そういう申し出があったわけ。それで結局それを受けて、これどこ言うたら赤十字。赤十字同士の話。日本の赤十字がそれを聞いて、そしてどういう返事を起こしたかちゅうと、「我が国には原則として捕虜はいないはずだから、ご好意はありがたいけども、一切御無用に頂きたい。」という返事をして、そんだけ好意的に回してくれた慰問袋も一切なしです。どう思うこれ?実際現実に捕虜はおるんです。ところが建前から言ったら、我が国には捕虜はいないはずだということ。その時の日本の赤十字は言っているんですよ、これ。

聞き手:それ、戦後の、敗戦後の話?

 敗戦後、僕らが抑留されてる時。ほかの国はいま言うたとおり、全部国民がね、みな乏しいながらも、物資を集めて、慰問袋。日本軍はぜんぜんそんなのないよ。なんにもない。えらいさんも来ない。一人だけ来た。「高良とみ」、女性の参議院議員。あれがやっと一人だけ。こっちの状況調べ、国の許可なしに勝手に来たことがあります。ほか、誰一人来ない。そういうのがね、我が国なんですよ。だから僕はね、それ以後ね、赤十字の募金、赤い羽根。あれ、他には色々カンパするけどね、日赤のね募金だけには私一切応じない。未だに。そういう酷い国なんです。ただしそれで、一切慰問袋送ってへんか言うたらね、例えば近衛文隆さん知ってるかな。前の近衛さん(註:近衛文麿)の長男。これは気の毒にね、帰る寸前にあれソ連に殺されました。ソ連に。(註:近衛文隆は抑留中に亡くなっているが、ソ連に殺されたかどうかは不明で、あくまでも一説。)これなんかはね、抑留されている内はね、慰問袋送ってるんですよ。なんでか。日本のえらいさんやから。  

戦後の日本における抑留者の対応・差別

 そういうふうなことを我が国の政府はやってる。それ以後われわれがずーっと、ダモイして帰ってきたでしょ。帰ってきてから我々シベリア抑留に対する我が国のこの、対応の仕方、どうであったかということ、これもみなさん聞いておられる通りに、まあとにかくね私達帰ってきてからね、まともにね、就職できないのよ、これ。シベリア帰りちゅうことだけで、アカだってことです。我々としては向こうで、成程ね、スターリン万歳とか天皇島上陸(註:日本に帰ることを、天皇の島に敵前上陸して革命を起こせと言った)とかなんだかんだ言うて、向こうでねずいぶんほら、共産党に頭宣伝されて、そしてアカになったように言うてますけどね、そうでもせんかったら向こうでは暮らしていけなかった、そうでもせんかったら。なんにもすき好んでやったんとちゃいますよ。そういう社会であって国に僕らはやられた。そうでもせんかったらとても生きていけなかった。そういう風な実情があるわけですけども、我々が帰ってきてからどれだけ酷い目にあったか、この国に。どこ行っても使ってくれない。使ってくれてもずっと尾行されたりなんだかんだして、いう風なのが現状でした。そういう国なんですよ、この国は。だからそれで、そっから我々はその立場に立ってものしゃべらないかん。これこそ大きな問題です。

 まあ、私はそういう風に考えてるんだ。だから、向こうでのことはいっぱいあります。おっしゃった通りに本当に、人間いうたら酷いもんで、自分が本当に腹減ったらね、友達のものを盗んでも喰う。ある種、友達、横におる戦友がね、死んだらね、死んだことが嬉しかった。なんでか。前に聞いておられる知らんけども、その辺に上がってくる黒パン、あれ一番手近におる人間が食べられるでしょ。これから形見分けと称してね、着てる人間、衣服を全部剥ぐのよ。死んだら、ほとんど素っ裸で葬るわけ、処理するわけ。着てるものは全部、形見分けだ言うて勝手に自分でとるわけ。そのとって来たものをパンと交換する。だから隣に寝とった戦友が死ぬことを、悲しむよりも先に、喜んだ。

聞き手:池田さんはどのあたりに?抑留されてたんですか?

私?私は幸いなことにね中央アジア。今日のウズベキスタンっていう、タシケントという大きな町、あそこの奥の炭鉱に、3年間。だから私がこうやって生きておられるのはね、シベリアやなくて中央アジアであったことです。10度違った、気温が。僕らのときはいくら寒いいうても零下30度でした。シベリアはもう10度寒いからね。そらシベリアなら僕はとても、よう生きて帰らんかったんちゃう。いろんなことがありますけどね、そういうなことでね、ごく一面的にこういう風に語られていることについて、私はどっちでもいいじゃないかと、実はそう。だからね私になってもね、そういうことについてはね殆どありませんし、もう語りつくされてると思う。

 この間の、4、5日前にNHKでもあったでしょ?なんていう題だったかな、シベリア抑留のね、引き裂かれたなんとかという題で(註:2010年8月8日(日) 午後9時00分~9時49分放送『引き裂かれた歳月~証言記録 シベリア抑留~』で)、ありました。1時間40分。これまで26人くらいの兵隊が出てきて、それぞれにしゃべってるわけ。私も知ってる人間が3人おりましたね。それぞれにしゃべってました。なかなかいいドラマだった。あらゆる面から。今おっしゃたようなことの要素もね、かなり突っ込んで作ってある。しゃべってましたけどね。だから、僕の理論の理屈は、とにかくそれはそれとしてね、もっともっと大事なことがあるよと。帰ってきて、シベリア抑留っていうものが一体どういうことであったのか、と。それはこれはいったい現在にどう引き継がれておるのか、という一番肝心なことがね、ポコンと抜けてる。

シベリア特措法

  で私達は、ご存知でしょうけども、昨年の6月16日に特措法が成立しました。やっと一年たって、今年のついこの間、8月の何日かにね、やっと政府の基本方針ちゅうものが出ました。一年間かかって。なんでか言うたら、13条ちゅうものがありましてね、あれはご存知の通り、生きている日本人だけになにがしかの、支給金。あれを与えるというだけじゃなくて、13条ちゅうのは我々が盛り込んだわけですよ。(註:13条は「強制抑留の実態調査等に関する基本的な方針」が定められている。)簡単にいうとどういうことか言うたら、やっぱり今までやってきたことをね、ちゃんと引き継いで継承しろということと、やはり一番大きな問題はね、シベリア抑留というものの本質的な解明、これ全く今のところ出来てないんですよ。これをね、もっとアカデミックに、しっかりやれという風なことを含んでね、13条ちゅうものを見て頂ければ分かりますけど、これについては我々色々盛り込んでるですよ。これをね、どう具体化してくれるかということを、なんぼ言うだけじゃね、仏つくって魂はいらずと一緒ですよ。

 だから我々としてはこれを国としては誠意を以てどういう風に取組んでくれるか、早い話が来年から予算なんぼつけてくれるかという話。予算なんぼつけて何をしてくれるかということを、具体的にね、なんにも決まってないですよ。なんにも。やっと一年間かかって、この間、はっきり閣議決定しました。それに答えて我々は、いろいろやってほしいこと山ほどあるけど、すぐに全部が全部というわけにもいかんだろうから、3つに絞って、これだけはぜひやってほしいという声明書をこの間出しました。細川律夫労働厚生大臣(註:厚生労働大臣)、あれに手渡しして、そうして、これだけは大事にしっかりやってくださいという要望をしたとこです。まだ。一年かかって。さすがにお役所仕事ですよ、これだけやるのに。これね、わりかし大事なことやから言うときますけどね、今まではね、それはどんなね戦後処理の問題でもそうだけど、政府に交渉するでしょ?そうすると全部やられるのは、たらいまわしです。それで「あ、その問題は財務省ですわ。うちは違います。財務省いってください。」「あそれ、それですか。総務省いかんとわかりまへんで。ここちゃうお門違い。向こういきなさい。」総務省行って「その問題は内閣官房いってください。」あそれはなんだ財務省だ、これは厚生大臣が管轄だ、全部たらいまわしにされるんですよ。

 これはね、本当にやる気があったならね、一本化、シベリア抑留問題、特別問題っていうね窓口を作って、そうしてそこへさえ言えば全部政府がやるという風にね窓口を一本にせんことにはね、一歩も進まない。ところがここがこの国のね、全く責任を回避するというかノッペラボーなやり方で、どこに目があるか鼻があるかさっぱり分からん、この国は。一切責任とらないんですよ。やっと一本化してくれた。一年間かかって。だから今からは、13条に書かれている通りに、事後の問題は厚生労働省と決めたから、厚生労働省はやらんわけには行かないわけだ。厚生労働省が他の省庁と全部連絡をして、調整して、こういう風なことを今後やりますよと決めてくれたんが、やっとこの間です。政治とはそういうもんなんだよ。今からです。俺らがやらなきゃいかんのは。

 だから我々としては先ほど申し上げたように、実態解明です。やっとね、去年から新しく学者の先生方、このねあるグループが出来まして、これやってる方がね、成蹊大学の教授の「富田茂」(註:成蹊大学でシベリア抑留の研究をしているのは富田武のため、言い間違い?)さんです。この人が中心になって、やっと日本でね、アカデミックにシベリア抑留を取り上げようということをはじめてできました。このことをどこの国でもそうだけど、当然国がやらないかん問題ですよ。まあ、いちいちねドイツと比べたらいかんけどもね、ドイツはいかにそういう風なことをやってるかということは雲泥の差です。

 日本は何やったか、ご存知かなあ、あそこの例の新宿に住友ビルの上にある行かれた?平和祈念のあれです。あれが典型的なお役所仕事です。あれ誰がやってるか言うたら全部丸投げですよ。例えば乃村工藝。乃村工藝なんていうのはマネキン人形とかなんかやってる。あそこに丸投げしてそこに全部やらせてる。だから僕らが見てもね全然魂が入ってないの。それからね、例えばいろんなことを予算毎年、予算組んでやってる仕事、これはもう全部おざなり。だからシベリア抑留ゆうもんに対して、時代にね何を引き継げるかということです。僕の考えからいったらね、参考に申し上げますけど、第一番はね、全抑協(註:全国抑留者補償協議会)(全国強制抑留者協会は自民党系のシベリア抑留に関する組織で、長らく2団体が対立をしていた。)、ご存知か知らんけど、われわれの団体がこれ斎藤派と言われている、裁判やった連中。野党派ですわ。全抑協がやったね、裁判。16年間裁判やりました。これ非常に大きい裁判です。これ結局は最高裁で否決されました。ただしこの間に、特に「斎藤六郎くん」(註:全抑協の会長を勤めた)があらゆる問題について集めた資料、これに対する裁判記録、これは見事なもんです。恐らくは後の時代の学者がシベリア抑留を調べる場合に、一番大きな史料、とっかかり、信用できるいうのはおそらく裁判闘争です。これはちゃんと公文書がありますから、これが第一番。二番目はね、「高橋大造くん」が中心に、江口十四一(えぐちとしかず)っていう男知ってますか?去年死にました。これあたりのグループが作ってくれた、全八巻のシベリア抑留記。全八巻(註:捕虜体験を記録する会編集・発行「捕虜体験記」、1998年菊池寛賞受賞)。これは菊池寛賞をもらいましたけどもね、これあたりは次代に伝えられる非常に有力な史料です。3つ目はね、ご存知かな、村山常雄という男が向こうでの死んだ捕虜、あれのね詳細なるこのデーターベースを作って、記録を残してくれました。これ3つ、これあたりがシベリア抑留ちゅうものを調べる非常に、これは村山常雄のやつ、吉川英治賞を貰いました。これ全部ね我々の努力ですよ。国の努力ちゃうんですよ。国は何残したか。あれだけの金を使ってね、住友ビルにあるあんなインチキ品ばっかり。全集作ってますけどね、あの全集とね、先ほど申し上げた我々が作った全8巻の全集とね比べてみてください。全然違います。だから全く国はね全く無駄遣いするばかりで、何一つ残さなかった。

シベリア抑留研究とロシアとの交渉

 やっと今度そういう風なアカデミックな研究が発足しまして、これは非常に大きな力になるでしょう。これがないためにね、ソ連と後身のロシアと、まともな勝負ができないんですよ。その辺からねお互いに日本とロシアの間で真面目な研究を重ねていって噛み合わせて、そこに共通の歴史認識を得ると、ということが第一歩なんですよ。

 これまたドイツの話をしますけど、今のEU、ヨーロッパの連合ね、あれなんで出来たかいうのも、とにかく一番大きな問題はドイツとそれからフランスがね、いっぱいあったでしょ。これ戦争しました。あれをお互いにね、そういう風なアカデミックな研究から事実を見つめていったわけ。そうしてドイツにはドイツの言い分がある、フランスにはフランスの言い分がある、これをねガチャンと合わして、いろいろとにかくどういうの、長年の忍耐強い折衝から「そうか、それは君のとこの言い分が正しいな」「そうか。それはそれは君の言う通りだ」という風に調整をしてやっと共通の教科書を作ったわけです。ドイツとフランスの間で。

 当然日本とロシアもそれをやらなきゃいけない。これをやっと去年から始めた。それなんかも今度はやはりこの国の予算でやらなきゃいけないということを我々はいうてるわけです。だから本当はシベリア抑留なんかいう問題はね、今からなんですよ。はじまりは。我々は残念ながらね、この歳になりましたから、だから、足踏みばっかりしてね、本当に試行錯誤の繰り返しで何もできなかった。だから今からなんです。これを私達はぜひ次代の人にね、引き継いでやって頂きたい。例えば北方四島の問題がありますけど、これね、我々が主張していますのがね、大体ねあんたご存知の通り、一週間の参戦ですよ、まったく条約違反です、ご存知の通り日ソ、なにが、協定(註:日ソ中立条約)がありまして、お互いに不可侵条約結んでる。まだこれね有効期間中に向こうが突然このようにして攻めてきたわけです。それもポツダム宣言にも反してですよ。これソ連はたった1週間の参戦です。なんでか。これ火事場泥棒ですよ。今のりこんで戦争やらへんかったらえらい損やという、それでね、とにかく樺太、それから千島、あれを全部とって、その上に我々労働力、60万の労働力これを全部賠償として取り上げて、よくもそれ以上に北方四島なんていうたらね、欲が深すぎますよ。だから我々の究極の願いは外務省にもガタガタいってるんだけどね、なぜシベリア抑留をね、踏み台にして北方四島をねすぐ返せという交渉をしないかともうしょっちゅう言ってる。それが為にはね、シベリアの兵隊にね補償しなさいと、僕が言うてる通りに、とうことを僕ら言い続けてきたわけです。なんでか。とにかくそれを仮にロシアと外務省が色々話始めるでしょ、僕が言うてる通りに「あんたそれは欲が深すぎますよと、せめて四島くらい返したらどうだ。」とうことをね、仮に日本の外務省がいうとしませんか。相手はどういうと思います?「その通りやと。けどねあんたのとこ一銭も損してへんやないかと。損したのは抑留された兵隊が損してる。」我々が。ただ働きですよ。一銭も貰わずにね、どっかから金貰う。損したのは兵隊であって国は一銭も損してへんやないかと言われたら二の句もつげんでしょ。その場合にね我々に対してはちゃんと補償をして、ドイツみたいに。そうしてね我々はこれだけ損してるんだと。君んとこも四島くらい返したらどうだということを言わんことにはね、これははじめから話にならん。今度ね僅かにしろ二百億規模の補償をしたわけですよ。自主的な。したんだったらね、これでやっとロシアに対して今からですよ、口きけるのは。お前んとこも考えてくれと。俺んとこも彼たちに補償したんだからということをなぜ外務省は本腰入れて交渉できないか。いろいろあるんですよ。

 まず一番本質的な問題はね、これね非常に難しいんですよ。ご存知ですか?我々が向こう行って、60万の兵隊が長いのは10何年こき使われて、これが一体いくら労働料あるか、計算してみますと、総労働利掛ける1日、1万円くらいの計算してみるとね、驚くなかれ46兆円くらいになるんですよ。当時で。それを戦争で勝った国、こういう風な大きな賠償を実質的にとっているのはロシアだけなんですよ。他の国は全部放棄してくれました。ほとんど。若干ありますよ。若干ね迷惑かけた小さいアジアの国々が、これはね個々に対して日本が補償してます。だから日本は戦後、内にも外にも戦後賠償した金、金額は全部でなんぼか言うたら1兆円あまりです。有償無償ふくめて。ドイツはこれ模範生になったんですよ、なんでも。ドイツはいくらしたか言うたら11兆円です。約10倍以上しとるんです。ただし日本は1兆円くらいしかね賠償してないんですよ。みなねこれ以上日本にとったら日本はつぶれてまうと、国民はものすごく大きな被害で米が喰えない、だからな可哀想やと言うんでね、殆どの国は全部まけてくれたんですよ。特に中国。中国だってすごい被害。あれをね要するに「怨に報いるに徳を以てする」みたいな言うて蒋介石及び周恩来、毛沢東、あれが全部放棄してくれました。一銭もとらずに。そういうふうな非常に大きなね優遇を戦後日本は受けてきたわけ。そん中で60何兆円、一人だけソ連だけがとってるんですよ。実質的に。ところがねこれは戦後サンフランシスコ条約あるでしょ。これで平和条約結んで講和したわけ。こん時に他の国はね全部、今いうたとおりに負けてくれた、放棄してくれた。ところがそのなかの26条のうち1項があります。もし仮に日本がこうなっとる(註:賠償を要求しないこと)けど、勝手にある国と特別な契約をしてその国だけ賠償したようなことがあるならこれは認められないと。だからやった事実があるならほかの国も全部同じようにせえとという、最恵条項というものがあるんですよ。26条。これに引っかかるんです。だからね、要するにソ連に対してシベリア抑留っちゅうこの無償の労働力、これは賠償ということになったらとっても日本は持たないんですよ。なんでか。ほかの国がソ連だけにするんだったら俺のとこにもよこせ言うて、どんどんこれを請求したら日本は潰れます。だから日本はあれだけ酷い目にあって我々が苦しめられて、向こうで実質的には労務提供したわけです。働いて返した。これは賠償とは認められないんですよ。日本もソ連も。これをそういう風に表現するとね、世界中がね、黙っておらん。どっかが文句言うでしょ。ソ連にもういっぺんかえすか、それとも日本もほかの国に同じようにやれと理屈から言うたらそうなるでしょ。だからこの問題がね日本とソ連には非常に大きいアキレス腱になってるの。これを明らかにしたら非常にまずいんですよ。

 これを日本の政治家はみな知ってる。だからシベリア抑留に対しては国は補償できないの。我々に。だから今度、我々に対する給付金でもそうでしょ。補償金・賠償金とは言わない。特別給付金、という名前です。だから、もし仮にほかの国が言うて来たら、いやこれは賠償と違います。これは特別給付金でございますと。そうするとシベリア抑留とはあんたのあんなとこに国民60万が向こうに行った、あれは一体何事やと、勤労奉仕かと、ボランティアかと言うことになるでしょ。どう思います?これ明らかに○○賠償です。しかも、向こうで食うてた飯代、これねソ連はねああいう捕虜に対してね、飯をただで喰わすほどお人よしではないんです。我々が働いた賃金の中から、それに物凄い水増しをして本当は5円しかかかってへん食費を、これは15円だというて物凄い吹っ掛けて我々の給料から天引きして全部とってるでしょ。そうするとその間の食費はね、これは日本国が払わないけんの。なんでか。我々が向こう行ったときの資格は日本兵なんです。日本へ復員してきて入って、帰ってきてから兵役を解かれて初めて兵隊じゃないわけです。だからシベリア抑留言うたらね、まず僕らの資格は第一の資格は日本兵なんです。日本兵でありソ連の捕虜であった。だから日本兵である以上、どこに行っても飯を喰さんと、飯を喰わせん代わりに喰わせられへんかったらその代わりにお金に替えて払わなかきゃいけない。日本国は我々に対して一銭の金も払ってないですよ。というね賠償の他にそういうふうな食費、陸軍給与令という戦前からの法律にちゃんと書いてある。ちゃんと兵に飯食わせと。そらそうでしょ。飯食わさんことで腹減って戦はできんから。軍隊っていうとこはね、とにかくつまらんとこだけどね、飯だけはたくさん食わしたの。だから、我々がシベリアにおったときの飯代を当然国は払わないかんの、払ってない。いう風なね、いろんなことがあるわけです。ま、そのことをね、もう全部その辺の、因縁を含んで、そして昨年の6月の16日には、まあまあなんか、なかなか、この辺で折り合えないかということで決めたんが特措法ですよ。

シベリア特措法が孕む課題・問題点

 僕らが言いたいのはね、もう腹減った、辛かったけど、泣き言よりね、そういう、この根幹に関わることをね、なんぼでも僕は論しないかん。これがね、全く抜けてるんですよ。まあ、この辺を明日また僕は東京行きますけどね、行って、1日かかって、また全部、議員先生とも会って、また色々文句言いに行きますよ、「しっかりやってくれ!」と。これどうなるんだという。しかも、大きな問題として、あんたご存じの通り、あの外国籍兵除外の問題、それから遺族、先死んだ者には一銭もないですよ、これ。これに対する悲喜劇がいっぱいあります。

 例えば6月の16日の日にね。死んだ人間はもらえます。慰労金。現実はあるんですよ。私達に随分応援してくれた北海道のある人があります。この人は6月16日に死にました。やっとお金もらえます、遺族は。ところがあくる日、17日死んだんなら、貰えないですよ。6月17日、生きてない人間は同じシベリアで苦労しても一銭も貰えません。これ、誰が値すると決めるの、これ、同じ苦労しながら。こんなね、不幸なことないですよ。だから、死んだ遺族に対してもね、これは何がしかのことはしてもらわなきゃいかん。

 特にあの外国籍兵の問題、明後日のこと、韓国から向こうの僕らの仲間が、代表が来ますけどね。で彼達を連れて、で、またあんた、永田町行って、ガタガタ文句言わないかんのだけどもね、本当、彼たちは、やっぱし、天皇陛下のあんた、赤子やなんか言うてからに。で、日本人と同じように赤紙で召集されて、で、持ってかれて、ほんで、随分日本兵として苦労して、死ぬ思いで帰ってきて、帰ってきたら今度はお前たちは日本人じゃないから金やらんちゅう。こんなあほなことありますかこれ。こういう風な不条理がね、未だに解決されずに残ってるんですよ、これ。だから、そういう風なことをね、もうぜひやっぱ国民の皆さんには知っていただきたい。だから、外国籍兵除外、要するに、今は君たちは日本人やない、日本と韓国の間においては日韓条約でもって、もうこれはもう最終的に貸し借りなしに清算されてるんだから、あんたたち金欲しかったらた韓国の政府に言うてくれと、私知らんと、こういうことでしょ。世界はどうなってるか。例えば、あのイギリスの、あれでしょ、ゴルカ兵もおります、これインドでね、インド兵です。

 これはね、あのインパールの時なんかにも、随分、これ、日本の兵は、苦戦した。彼たちは勇敢ですから、 これはやっぱりインド人で。ほんで、戦後、インド独立しましたから、だからイギリス軍は、やはり今言ったようなことでね、もう独立したんやから、イギリスは関係ないと言うて、初めね、やっぱし彼たちに対しては、一切やらんかった、恩給も何もやらんかった。 ところが、だんだんやっぱそうはいかんということに目覚めてね。そして後から、やはり、宗主国の責任として、 本国兵と同様に、やはりインド兵に対してやってる、イギリスは、フランスの場合もそうです、アルゼ、アルジェリア。 あそこの兵隊をフランスは使ってたわけですね、前の大戦に。これも同じようだったけども、フランスはやはり前の宗主国であるから、 フランスは本国兵同様に全部、今現在外国籍兵ではありますけどね、皆補償してる。

 アメリカもそうです、フィリピン民兵あれに対して、どこの国でもそうですよ、日本だけです、 こういうことやってんの。これはね、恥ずべきことです。わずかなことです。 わずかなかこと。もう何も残ってない、彼たちは。これ恥ずべきことです。そういうようなことをね、僕らはね、むしろこのことをこそ、僕ら皆さんに知っていただきたい。

 まあ、そんなことでね、 こういう戦争体験のこと、これは非常に、大事なことや、思います。ただし、僕はね、向こうで、色々ありましたけど、よりも、僕は、その後の問題が非常に大事じゃないかっていうことを、ま、ちょっと変わった、稀少かもしれんけど、申し上げたい。

終戦まで

 まあ向こうでのことも、簡単に申し上げますけどね。 そんなことで、ちょっと、ウエイトが違うだろうけど、そうでよかったらね、私の、向こうにおける3年間のね、ことについて申し上げます。簡単に言うたらね、先ほども申し上げた通りね、 これはもう、国際法を知らんかった、これがためにね、そういう風な 、赤子の手をねじるようにソ連にやられた、これが実態です。でね、1番、これ、1番初めに、私はね、あの、8月の15日が終戦でしょ。 私がね、召集を受けたのはね、そのね、15日前、8月1日です。 8月1日、満洲におりましてね、満洲でね、国民学校のね、代表教員してました、2年生。もうそん時にはね、もう、ほとんど、どういうの、男手は、満洲でもおりません。で、 第一、私が満洲に、3年ほど暮らしたんですけど、なんで満洲まで来たか言うたらね、 だったら、ちょうど戦争が起こった時に、私、あの、徴集年(註:徴兵検査を受検して徴集される年のこと)言う、20歳でした。

 で、その時にね、あの、戦争が起こる前に、12月にね、召集を受けまして、 これで、京都のね、伏見の9連隊ちゅうのがあるんですけど、あそこにね、召集受けて、入りました。 その時には、あの現役兵、僕らの同級生、同級生、48人おりまして、そのうちのね、当時は、あの、1番体の強いの元気なんは、これがね、甲種、甲種。甲種は現役です。それから第一乙種、第二乙種、それから丙種といろいろあったわけです。ランク。僕は第二乙種。大してして丈夫じゃなかった。だから、第二乙種というのはね、通常、現役兵じゃないから、 兵隊いかんでいいわけです、本来であれば。だから、正しい召集を受けて、そうして、あの現役の兵隊と一緒に、 入隊しました。それで、その時には3ヶ月の義務教育を受けて、僕らは約束通り返してくれるわけ(註;基礎教育だけを受けて90日で除隊となる「教育召集」だったと思われる)。ところ、その時の一緒に教育受けた現役の同級生たちは、そのまま 夏服を着せられて、それでフィリピンへ行きました。で、ずっとフィリピンへ行って、向こうで ようけ死にました。だから、僕らの同級生は、ほとんどがフィリピンで死にました。もう1番ね、戦争で、兵隊が死んだのが、あの、僕らの年代です。 あの、ちょうど、なんちゅうかな、 大正10年、9年、10年までの人間、1920年、21年前の人間が1番たくさん死にました。で、そうやって、僕は幸い、召集免除で、返されたわけですね。帰ってきたのは、3月でした。 戦争の始まってから数年、45年、40年、40年で始まった戦争。

 それでね、まあ、簡単に言うたら、こんなところに、大阪でしたから、こんなとこにうろうろしとったらね、またすぐに召集来るに決まっとるん。うん、当時は、これは私はかなわんと、私も軍隊ものすごく嫌いでね、ものすごい嫌なんです。だからね、とてもじゃないから、こんな、嫌だっていうんでね、ほんで、当時、満洲の支店がありまして、で、あんまりね、人はね、行きたがらないんですよ。やっぱ、内地が1番いい。そんなね、あの、わざわざ外地までね、 行きたがらないんだけど、僕は、これ幸いで志願して、「ほな、ほな、私行きます」言うてね、あの、満洲へ行ったわけですから、どこへ言うたら、奉天、今の瀋陽です。そこの、あの、ノート屋さん、紙製品の問屋へね経理やってましたから、そこで、向こうへ行って。向こうに、だから、そういうわけで、3年おったわけ。それで、幸いね、ずっとその間は、満洲国におったせいか知らんけども、召集を免れました。これはね、卑怯でしょ、戦争、逃げ回ったんだから。決して自慢じゃないけど、ほんとはね、もう戦争嫌い。ま、結局、やれやれと思って、向こうにおったわけだ。そうして、色々ありましたけども、そこもやめて、それから、体も悪くしてたもんだから、あの、国民学校の代用教員になったらどうだと。私はね、学校どこも行ってませんから、その資格はないんですよ。だから、いや、あんたなら入ってから試験受けりゃ通るから、入りなさいと代用教員になりまして。ほんで、3月間ね、1学期だけね、4月から向こうで2年生の男の子と女の子のクラスを持ってました。

 また、結局、その1学期が終わった時に召集令状が来まして、そして8月の1日にあの新京へ入ったわけです。 そん時に、私は、ちょっといい顔した、仲のいい娘がおりまして、 それとね、もうこれで、もう終わりだから、だから、もう、縁がなかったもんやと思って、これで別れましょうと言うたんやけども、いや、もう、この、どっちみち、待つんやったら、その、待ってた方がええと言うんでね。で、その辺の人に相談したら、そんな、あんた、もういっそのこと、結婚しなはれっちゅうんだね。それから、召集令状来てから、私、結婚したの。 ほんで、3日間だけ一緒に暮らしました。

 それで、それで、その当時、その嫁はん、ほっといて、で、あの奉天へ行ったわけで。え、あの、新京。新京の部隊に。で、何してたか言うと、新京の部隊ではね、あの、どういうんかな、どんなはずみかは知りませんけど、私は大隊本部のね、伝令に出されました。伝令言うたら、まあ言うたら、メッセンジャーボーイみたいなもんです。あの、隊長のね、命令で、あそこ行って、どこどこ行って、何してこい、どこ行って、あそこ行って菓子こうてこいとか、行って使い走り。伝令言うね、腕章まいて。だから、そんなことでね、よう、新京のね、町にはね、しょっちゅう出る機会があったんです。で、それで、8月15日、あの日、終戦でしょ。

終戦後の新京

 あん時、どこにおった言うたらね、あの、満洲国の皇帝、あれのおった宮殿です。そこでね、見張りしてた、警備を。だから、あのまま戦争が起きたら、もうそこで、もう宮殿を枕に、死ぬ舞台だった、そこにおったんですよ。で、それから、うろうろしましたけど結局、8月16日の日に、あー、もう戦争終わったと、だからね、その朝に、隊長がね、もうちょっと様子おかしいからな、もうちょっと町行ってね、ちょっと、あの、情報掴んできてくれやと言うんでね、私、2人でね、上等兵と2人でね、町へ偵察に行った。ほんと、とにかくね、その時言うたら、ほんと、街がシーンと静まり返ってね。 そらそうやろね、ちょうど8月15日、お盆ですからね、商店街も休んでるし、ま、そんなこと一緒で。でも、どうも様子がおかしいな。 8月15日ですよ。ほんで、結局ね、吉野町ゆう繁華街に一緒に行った上等兵の親戚が、子供の世話してあった、そこ行って聞こうやって、そこの店行ったわけ。それで、行ったらね、ったらね、2階からね、 そこのおばさんがね、もう転げ落ちるようにね、降りてきてね、「あんた、もう、これで、今、天皇のお言葉があって、どうやら戦争負けたらしいんですわ」って言うんです。「えー!」言うて、その、それが、ちょうど8月15日のあの 天皇の録音聞いたその時、私はその時、今言ったように、長春の町の吉野町どまん中で、あそこで直接聞かなかったけども、そういうこと。

それから、何したかいうと、それはえらいこっちゃと。すぐに、それからね、関東軍司令部へ行って情報を集めてこうと。 きちんとこの間違いない情報を聞いて、それを僕らのあの本隊へ持ち帰らないかんから。そこへ書類がね、全部掘り込んで、そこから黒い煙がもうもうと上がってんだよ。これ、このドラム缶4、5本あって、そこへ 証拠隠滅で書類を全部焼こうってことで。で、そこ、横の2階でね、今度はその将校がね、おってね、これが、あんた、 上裸で、してね、なんや喚いとるわけ。酒飲んで。それで日本刀振り回して、ものすごい、結局、ま、悲憤慷慨してるんだろうなって、あんた、そういう黒い煙がね、もうもうと立ち上がってんだよ。
「えー!」で、しゃあない、そこ行って、とにかく「これこれで情報をもらいに来ました。」っての、「おお、お前らよう来たな、ええとこ来た 。これを、早来た手柄にこれくれてやる。」て言ってね、あの、内地から来た電報、電文、それをそのままくれましたよ。
 それで、これを持って、僕らは、本部へ帰ったわけ。でた、もう、その、時分にはね、もう新京の町はひっくり返ってる。 それでね、ヤンチャオ(註:中国の馬車のことか)言うて、ほら、馬車あるでしょ。大概僕ら馬車で移動する、ヤンチャオを止めても乗せてくれない日本人は。 で、やっと捕まえて、そしてヤンチャオを走らせて、この隊へ帰ったわけですよ。もう、そん時にはね、後ろからね、石は飛んでくる。街どういったら、もう、騒然としてる。もうその時にはね、全部、ほら、この青天白日旗って中国の旗、これが全部並んでる。日の丸は全然ないよ。そっからソ連の赤い旗、 これあたりいっぱい並んでる。で、もうぜん、その市民がね、あの満洲人が全部今からね、出てきてね。デモやる、用意寸前やね。そこを僕は逃げて帰ったの。

 で、そん時にね、見てきた告通、電通。 あそこにおける風景は未だに忘れられませんよ。もう日本人の将校がね、裸で日本刀振り回して、 酒飲んで、ワイワイやっとるわけですよ。すごい風景でした。
 だって帰ってきてからやもん。なんで、帰ってきてから、あんた、あの大隊長に「これこれこうでした。」と報告した。「こうらしいですよ。」ったらた、 「お前ら、それは絶対に口漏らすな。」って言われて、伝令にね。だから、「絶対に口を割ったらいかんぞ。」と。それで、ところがその、大隊長はすぐに証拠を全部集めて、それで密かにこの会合してるわけ。やっぱりそういうね、風景はね、すぐにもう全軍に伝わりますからね。どうもおかしいと。だから今日、僕がこの内務班帰りました。 だから「お前今日町へ伝令に行ったやろと。どんな具合やった。」やかましく言うもんだから。ある兵長がおりました。うるさい兵長が。で「包み隠さず白状せえ。」って、俺が「どうやら負けたらしいですよ」って言うたら、その兵長がどういうこと言うと思います?「へー、負けた。アメリカも口ほどにない、わりかし弱かったな。」って言うたよ。 その時までまだ、日本はね、負けない国、神国不敗の迷信があったわけ。 「そうか、でも、このアメリカも、そう簡単に負けると、お前、あいつらも口ほどにない、弱かったね。」っていう。「いや、兵長、違いますよ。こちらが負けたんですよ。」「えー!」っていうわけですよ。で、そんな噂がね、すぐに、バーっと、こう、広がるでしょう。 ただ、もうその時にはね、将校連中はね、腹切るつってね、裸になって、この、騒いでるやつがおるし、もう色々、 それからね、うわっーと、いろんなことが始まって、ま、色々新京におりまして、そうして、方々へ無事取り上げられて、そして結局は、 このうち、この、いろんな噂が飛びました、あの、大連経由でね、これは、内地へ帰るんだと、 あ、いや、そうやなくて、今度はね、やっぱどうしてもね、日本海側から帰るんだよとかね、 いろんなことがそれに対する、ソ連の兵隊たちが言うのは、「トウキョウダモイ、東京へ君たちは帰るんだ」

8月15日以後の新京と池田さんの動向

 その時のね、新京のね、戦後の混乱、これはひどかったよ、これは、 これはね、僕はちょうど、2、3日してかなあ。街へね、大隊長があんた、吉野町にある菓子屋のね、あんまきが好きなの、あんまき、菓子屋、食いたいもんだからお前ちょっと街行って、あんまき買うてきてくれと。僕はその時はね、どういう気持ちでおったか言うたらね、 こちら、あんた、ほら、別れた、結婚して3日目に別れた女房があんた、奉天におるでしょ。もう帰りたくてしゃあないよな、こんなもん。全部もうほっといて、脱走して、ほんで僕はそれからすぐ新京の駅へ行って、 駅でね、奉天行き、南行きの汽車にね、列車並んだわけ、帰ろうと思って、 あんなところがね、もういつ出るかわからん汽車、ここにずらっーとものすごう並んどるわけだ。いつになったら切符が買えるかわからない、今の事件上。で、そう気になってる時にね、よく見たらな。ど、どうやら、憲兵が来よる。憲兵が。憲兵に見つかったらね、あの、つかまった日には、それはひどい目にあいますからね、もうこれはあかんと思って、 せっかく並んだ順番もやめてね、これから、トボトボ諦めて帰る。諦めて帰った時にね、どういう風景見たか。
 あのね、突然ね、「きゃー!」っつってね、あのー、鳥が叫ぶような悲鳴が聞こえるんだよ。「助けてー!」って言ってるんですよ。で、そこへ、バタバタバタバタと、みなこれ、街角ですよ。白昼で、人と人が寄ってきよる。 これで、人垣の間から見たらね、とにかくね、白いこの肌から、着物を広げて、白いね、肢体がね、もつれてね、で、横倒しに倒されて、 それでそこでこのしきりと助け呼んでるんですよ。で、僕はもうすぐにあること直感してか、かー思って、 そこへ近寄ろうとしたわけで、そこでね、日本人の年寄、立ち塞がってるわけ。「見るな。」「見てくれるな日本人なら。これは決して言うな。」言うてね、中入れなかった。要するに「ロスケ」に強姦されてる。ほいで僕らたまげて、戦争に負けるとはこういうことかと。そしてそれから、もうまた逃げるのを諦めてね、帰ったんですけどね、もうそん時にはもう、ふわーと、 あの、ソ連の赤いマークつけた戦闘機が、上空、飛んでましたよ。もうあれからもうすぐに、もう全然、僕らも他の町なんかに行けなかった、もうすぐに。それから、もう武器接収されました。
 それで、ある晩ね、こういうことがあります。そん時にね、やはり隊ではね、大きく意見が分かれたわけ。もうこのままね、軍隊も、戦争終わったんだから、だから、皆、家庭持ってるでしょ。皆。なんでか言うたら、僕らの部隊は、ほとんど、1番最後の召集にあって、満洲の隅におった人間ばっかりです。もう、根こそぎ動員でやられて。特に新京に住んでるね、連中なんかはね、もう、すぐそこが家だから、帰りたくてしゃあないわけですよ。 今日、専売局に僕らおった時ですけど、だから、そのね、帰ろうという派と、いや、やばいよという派と両方ある。そん時に、どういう状況かいうたら、あんた、もうすでに満洲軍(註:満州国軍)いうのがおりまして、満洲軍ちゅうのは日本軍の友軍です。日本人が育てた軍隊、これが反乱しましてね。それで、これがね、 攻めてきよるわけですから、それがために、そいつを撃退するために高射砲をね、高射砲つうたら、上向けて撃つでしょ。 これ、高射砲を水平に向けてね、どんどん打ちましたよ。これで満州軍の反乱をね、防いだような始末でした。
 で、非常に殺気立ってる。で、その時にね、やはりね、皆、特に新京に、家族持ってる兵隊はね、そんな気が気じゃないですよ、 飛んで帰りたい。それで、結局、あるこの軍曹が仲間を連れて、で、脱走したの。 その前の晩にね、僕らずっと用事でやっぱしそこのとこ通ってたらね、みんながね、分けてるんですよ、みんな。何分けてるか言うたら、バケツにいっぱいで、あの銀の、銀色のね、つぶつぶ、もう僕も分からん、 いっぱい。これ、コップに1杯ずつね、みんな分けてるわけ。だから「軍曹、これなんですか?」って聞いたら、お前、これ知らんのか。これはライターの火(註:ライターの発火石のことか?)だ。 ライターあるでしょ。ライターの発火する前に、これはね、かさ低いけど、ものすごく高う売れるんだと。で、これ持ってね、これとか、色々な物資、あの、なんやシャツとかね、それをみんな持たせて、脱走する人間には、それで一緒に脱走する。 だから、その脱走を、闇に紛れて脱走した、脱走してからすぐに、激しい銃声がありましたよ。 無事脱走できたかどうか、この情報、私、未だに聞きません。だから、あん時に脱走した方がよかったか、しない方が良かったか、これは未だにわからない。だから神様しかわからないね。で、私はその時は、 やはりね、この軍は悪はせんだろうと。ま、なんとかこれにおる方が安全だっていう 気持ちでした。だから私は脱走せんと。しかも、奉天やった。奉天やとね、やっぱり南行くときに途中で飛び降りないかんわけ。だから、南行く時には、あの奉天の駅で、とにかくもうやぶさかと飛び出して、脱走してまた帰ろうと 言うつもりでおったんですが、どこ行くかったいうたら、南行かんとね、北へ。とこ、とこ、とことこ、行った。 ま、結局僕は、新婚早々の嫁はんとは生き別れ。いうんです。この嫁はんと違う…

北安、ブラゴヴェシチェンスク、バイカル経てウズベキスタンへ

 そんなね。私は、とこ、とこ、とことこ、北行って、あ、どうやらこれはね、やはり、満洲はやばいから、ウラジオストック経由で帰るらしいということで、それで、連れられて ずっと北へ行って、それから、北安(ペイアン)という、1番黒河(コッカ)という、1番北の町があります。あそこの町へ行くまでの風景もすごかったよ。これももちろんね。車はね、あの汽車はね、 もう窓が全部閉じられて、それでもう表が見えんようになってる。これで、 そういう、このぎっしりすし詰めで、その、オイルサーディンに並べたようなもの。そっからね、だから便所するんでもね、あんた、おろしてくれへんよ。この戸の隙間から全部やるよ。 大便は、このぐらいの瓶が置いてあってね、そこで全部するの。すごい。 そういう囚人列車に詰められて、降りてきたところを来た。

 と「おわー!」言うて、上の上段寝台に乗ってる人間がね、声あげるのよ。「なんやなんや。」って聞いたら 「ようけ死んどるわあー。」言う。たらね、ちょ、隙間から見たらね、電柱あるでしょ。 電柱の間の、この間、あそこにね、ロープを張ってね、そこにね、10数人くびられてる(首を絞められる仕草)。日本人。全部。ちょうどあれ、北安(ぺいあん)いう、北安っちゅう、北安ちゅう場所があそこ行く前です。そこで町なんて言ったら、もうもうもうとくる。煙あげて燃えてる。日本人の一部が吊るされてる。そういうところ、まざまざと見て通りましたよ。
 そして黒河という、この1番北。何が流れてる、黒竜江、アムール川、あれが流れてるね。これを渡れば、ブラゴヴェシチェンスクです、ブラゴヴェシチェンスクからずっと東を向いていけばウラジオストクへ行くわけだ。ハバロフスク通って。ウラジオストク通ってそのつもりでおったわけ。それで明くる日に、皆喜んでブラゴヴェシチェンスクから汽車が出て「ほれこれおかしいよ。お日さんこっちから上がらいかんやつがこっちから上がってる」とみるとどうやら西へ向いてる。で結局そのまま。西へ西へと行った。

 それで1週間ぐらいしたら、大きな海みたいな、見えたけど、あー、やっぱこれ日本海だ、やはり喜んで。結局やっと、そこで降りて、そこで、あの、飯盒炊爨。降りたら1番先するのはね、ウンコよ。そのときにはね、沿岸にグワーっと糞塚、すごい糞塚。これ全部、先送られた人間がおったことを証明してる。 そこで、野糞をして、それから、そこでね飯炊きだっていうわけで、前の湖があるから、 そこ行って舐めてみたらね、しょっぱいは日本海のはずが、全然しょっぱくないわけだ。やられた。てか、やっぱ結局、そこは、バイカル湖だった、 いうようなことで。それからま、どんどん送られて、まね、こんなことでね、私たちが、あの、初めてソ連行った時にはね、 僕としてあの時にね、これが1番利口な道だと、これが1番このいい道だって思案した挙げ句に選んだ道が 、そういう抑留であったわけですよ。だからもうね、ついてね、もう自分の愚かさに腹が立ちましてな。もう地団太踏んで悔しがった。「しもうたー。」ちゅうわけですよ。一番最悪の道を選んだ、愚かさっていうかな。ただ、それが最悪の道であったか、最良の道であったかっていうことはわからない。今生きてること考えたら よかったのかもしれませんね。新京で脱走した人間、途中から脱走した人間、果たしてこれが無事で帰ったか。 その話今まで聞いたことありません。まあそんなようなことで、僕もシベリア抑留は始まったわけです。


ラーゲリにて(飢えと食事)

 結局、それからね、どういうことだったかなんていうから、要するに、あの 腹が減った、寒かった、辛かったってことはね、これはね、もう物理的な話。 もうとにかくね、飢えなんていうのはすごいですよ。これもう人の理性狂わしますね。ひと切れのパンを余計食べたいためにどれだけ人間酷いことするか。いろんなことがありますけど、これみんなが言ってる通りです。

 それね、やっと1年、これこうわかんないが、あの、例えばね、これね、そうだ、よく蛇がおりましたよ、向こうに。中央アジアの蛇はね、とかげ、蛇っていうより、とかげに近いかも、尻尾がポーンと切れるね。そしてね、ずんぐりして、 で、のろのろのろ、動作が鈍いんですよ。だからみんながね、よっぽい蛇、よっぽい蛇言うて、よっぽい言うて、「よっぽいな」って言うたら、ばかもんっちゅうことで。あ、もっと悪い意味の言葉だけど。馬鹿にしてる蛇がおりましたけどね。明くる年にはほとんど1匹もいなくなった。 日本人が全部食いつくした。ひと冬で。結局生きとし生けるもの、もう全部。もう、私なんかもう、蛇は怖いし、苦手。結局ね。でも、それでもね、よう、あの友達がね、これはウサギの肉だとか、カンボーイ(註:ソ連の警戒兵のこと)がね、売ってきよったん。これ、うまいから食うてみなんて言って食わしたんが、実は蛇。 なことでね、とにかくね、蛇の、どういうの、あ、あんまり苦手なやつはね、見つけたらね、だったら、ちゃんと首のとこに傷入れて、そっからパリパリパリと革剥いでね、ほんで骨抜いて、そこにね、パーンと干してくわけですよ。干物になるわけ で、これをね、ちびちび削って食べるんだ。蛇。

今、だいぶかよ、ある兵隊がおりましたよ。 Kつうたかな。これはね、ちょうどあ、鉄道工事行ってる時だ。寒い時だった。ここをね、あの、穴掘って(つるはしを振る)、そん時にね、あの、ガマが出てきましたよ、冬眠中のガマが。そしたらね、 その、腹割った途端に、すぐガマ、捕まえて、でね、バリバリと割いてね、そのままね、かじるんだ。 それ見てね、カンボーイ言うて、あの警戒兵(短機関銃を構える動作をする)、ソ連の。これがね、「うわー!」絶叫してね、へなへなへなと、腰抜かしましたよ。 とにかく、あの、そういう、日本人のね、蛇を食おうがガマを食おうが、なんでも食うでしょ。それをね、彼たちはすごく恐れたね。 話すことだけ、言わずおいて。そういう風にね、あのー、ガマでもカエルでもね、生で食うやつはね、目の色が違いますよ。ギラギラ光って、これはね、生臭い感じ、そんなのがおりました。 だから、みんな、こう、僕はあかんたれ(註:意気地がない人、大阪弁)で、あんまりそういうものについても苦手だから、腹減ったら減った、なりに、おりましたけどもね。
 だからね、そのね、食いもんになるとね、人間の本性がすぐわかる。もう、汚い人とね、淡白な人と。僕はね、向こうで1番尊敬した男がおる。これね、「佐藤正之」という男で戦後、俳優座あそこのね、幹部になって、それで、俳優座、映画、映画放送の社長、やっていた男ですけど、これ、大変立派な男。2等兵、私達、最下級の兵隊。 いや、これはね、小さいくせにね、非常にこの大人(註:たいじん。徳があり立派な)の風がありましてな、
だから、あのー、飯食うんでもね、あの、飯、おかゆですわ。飯違うの、薄いおかゆ。で、あいつはね、「あーっ」(おかゆを流し込んで食べる動作をする)てやってね、もうさも、いやや、嫌そうに食べ、飲み込むんだ。他の兵隊なんて言ったら、おかゆにね、そこに、取ってきた雑草を入れて、炊き直して、ま、量を増やし、それをね、スプーンをね、2、3本作ってね、 1番端っぽでも、うまいこと、こう、すくえるようにね、角度作って、こんなんとか、普通のやつとか、3本ぐらい使ってね、楽しんで、楽しんで食うんですよ。その、佐藤だって男、とかもう、嫌そうに、「あー」、と流し込むだけで、あれ見てね、僕は感心しましたよ。 へえ、こんな男おるなと思って、僕はそれから尊敬することにした。ずっとね、私のね、死ぬまで私が、この尊敬すべき友達でした。
 だから、結局ね、食にね、あの、非常に、あのー、どん欲っちゅうかな、 食い意地の張った人と、それから人間とね、これは違う。 1番ね、あの、みっともないと思ったのはね、ほら、バッカン(飯缶)言うて、木の桶にね。さっき言うたドロドロのおかゆを入れて、みな配給するわけです。で、そのバッカン(飯缶)に行くんだな、炊事当番が。ほんで、その返したバッカン(飯缶)がね、 炊事のところにはね、ずっとね、10本ほど並んでるんですよ。で、それをね、 あのー、僕らよく、僕、あの、芝居やってましたからね、芝居の打ち合わせや、稽古するのにね、ある幕舎にね、晩にね行って、そこでやる、そこの炊事の横通ると。で、そこへね、飯盒を下げてね、5、6人の兵隊がね、行ってね、しとるんですよ。何してるか、 バッカン(飯缶)に残ったね、かす、あれを全部こさげて、舐めんばかりに。そこに飯盒にあつめて、それを持ち帰って食べてる。

 もう、そんな風景はどんな、(沈黙)はい、ひどいものでした。 結局あれじゃないですか。あのー、人間の尊厳っちゅうかな、これをね、壊されてしまったっていうの、本当に。あれ、地獄の釜の底、まざまざと見た。1番辛いのはね、やっぱり、自由を剥奪されるっていうかな、 人の言うままにならなきゃいけないっていう屈辱感。これは大きいです。(沈黙)いろんなことがありますけど。で、僕非常にそうやってね一切れのパンでもたくさん食べる。から、一切れのもんでもね、余計食べるという風にね、して、 自分の体の健康、しかもその時にはね、もう余計なね、エネルギーの消費は絶対避けるっちゅうことです。これも兵隊のね、哲学。向こうにも、捕虜の哲学いうたら、まず第1には、もうなんとしてでも早く帰りたいっていうこと、1つ。2つ目はね、もうできるだけ一切れなもんでも、余計食べようっていうこと。それから3つ目は、もうどんなことがあっても、要領よくね、 エネルギーの消耗を避けるっていうことで、これ3つ。これだけはもう絶対みんな向こうで励んだことで、 というてね、一生懸命それに励んだ連中、これが果たして元気で帰ってきたか言うたら、そうでもないね、これ。不思議やね、これ。

ラーゲリにて(労働と演劇)


 私なんかはね、あのー、そんなわけで、そう、あのー、どん欲の方ではなかったんと同時にね、逆に、で、 ものすごく消耗したんですよ、あのも、昼間はね、一生懸命こう、働くでしょ。僕らの他にね、特種技能がない。 能無しだから、もうやる仕事言うたら、もう土方か、それからもう、左官屋の雑役とか、レンガ運びとか、もう1番ね、あのー、分の悪い仕事ばっかりやね。やっぱり技術があったらね、非常に優遇されるわけですね。旋盤やるとか、 これから、あの、電気工とか、あれから、うん、車を運転できるとかな、やったらね、やっぱり割かし分のいい仕事が、で、我々は何にもできんもんだ。 そういう、なんでも、土方が主だった。けどね、非常に消耗する。

で、結局何してたか、僕は妙なことからね、芝居の脚本書きでしてね、向こうでね、月に1回芝居やるの。それのね、芝居のね、シナリオ、これをね、 いっぺん書いて応募したらね、採用されて。それからね、向こうの座付きの、刷本屋になりました。 本屋、本屋、言われた。ほんで、それがためにね、やっぱ、次にあるこの芝居の脚本、同業者がね、4人ほどおりましたけどね、競争ですわ。やっぱり自分の書いたものを舞台にのせてもらいたいから、それがためにね、色々考えてねえ、書くんだ、 いろんな芝居をね。それ書くのどうやって書くか言うたらね、本当、あの、仕事して 45分働いたら、まあ10分か15分の休憩になるでしょ。休憩ってことになったら、皆そこらもうばーっと伸びて寝てる。
 で、僕はその間何してるか言うたら、作業してる時にはね、芝居の筋書ばっかり考えてんですよ、台詞を。ここで、こういう舞台、 これは、俳優Aにはどういうセリフを言わせたろ。それに対する受け応え、どうさしてこ。どういう。それをね、考えるわけ。
あ、それをね、休憩になったらねえ、そのスコップの柄あるでしょ。これ木ですわ。あそこにね、ちびた鉛筆持ってきてね、忘れんうちにね、全部書いとくんですよ、ずっと。そうしながら仕事してる。 で、休憩になったら、その書き写したやつをね、タバコの巻紙、あの紙。あれに写し書いて、 それをネタにして、晩ね、帰ってきてから、遅うまでかかってまとめるわけ。芝居をそんなことばっか。だから、僕はもう、いや、締め切り日が近くなったらね、徹夜で書きましたよ。そうやなかったら、次の芝居に間に合わない。
 だからね、そんな無理ばっかりして、まあ、若かったから出来たけどね、それか、好きなことだから 。結局ね、そんなことして、無理ばっかりして、してる人間の方がね、うん、却って元気だったっていうことだからね。人間って、わからんもんです。ただ、ありがたいことに、そうやってやってますとね、 色々、この、ファンがおりましてね、芝居の。だから、あの、色々ね、贈りもんくれるわけです、 プレゼント。夜帰るとね、「おい、これ」言うてね、飯盒にね、炊事の残飯持って来てくれたりね、から、黒パンちょっと持ってきてくれたりね、励ましてくれる。いい芝居書いてくれつって。 ま、そのようなこともあって、助けられました。だ、結局、行ったら行ったでありましたけど、結局、私はね、それで助かったようなものです。

ラーゲリにて(反軍闘争と文化研究会)


 もう、すごく、ま、僕は1番ね、辛かったのが1番、当然、これ、1番最初の時です。これで、ほとんど、あの、2万人死にましたからね、1番最初の冬で。 あの時に辛かった、何が辛かったって言ったら、色々ありましたけど、いじめですよ、 あのー、軍隊のね、あの、内務班のつらさ、いじめ、これは、あの、猪熊(猪熊得郎)さんが書いてます。酷いものです。これ、もう、日本の軍隊言うたらね、あの、どういうもの。これ悪魔にするんだな、人間を。もう、理性を取り上げても、曰く、獣性っちゅうか、もう、こういう、やらしさ、 悪魔にする。そういう風な人間の方が強いという一種迷信があったわけですよ。野蛮人の方が強い。で、わりかし、この、どういう風に、情にもろいとか、これからね、 いうな人間はね、あ、決して強い、兵隊にならんということからね、もう徹底した、暴力、いじめ。もう殴られっぱなしですよ。ま、それがしかもね、あの古い兵隊の世話、洗濯してやる、帰ったら巻脚袢は解いてやる、靴の掃除をしてやる、そんなようなことをね、全部 1番下の兵隊がさせられるわけです。だから、二重三重もね、辛さです。これが1番。

 そのうちにね、もうその1年が明けますとね、さすがにあんたは反軍闘争っちゅうかな、あの、下層への(註:「下層からの」のニュアンスか)抵抗がありました。ただね、 これにまで来てね、何が階級、階級だという風なことからね、非常にこの激しい反軍闘争が起こって、 やっと、あと明くる2年目の夏頃にはね、それが実りまして、やってね、階級章、これ全部外す。だから、その日から、誰々さん、何々君という呼称に変わりました。 お互いが友達付き合いで、やっとできるようになりました。 

 2年目のね、その時分に、それを成し遂げたのは、まー、何ともしれん大きな力ですけども、これをリーダー、リーダーシップを取ったのは、やっぱりあの学者、新聞記者ようね、あのインテリゲンチアです。当時の 。私たちの部隊は、あの満州の最後の召集に引っかかった連中でね、 そういうね、非常にあの各要所、要所にこれがおらんかったらやっていけんちゅう非常に貴重な優れた人材がおりました。
 で、そういう部隊であったためにね、そういう申し上げたような人たちがリーダーシップを取って、でね、あの文研、文研といった、文化研究会 というね、1つの組織を作った。で、これがね、ラーゲルの 将校がやっとった、イニシアティブをね、取ったわけですよ、みんなが選んで。それで何をやってくれたか。もう1番先にやってくれたのは、配給の明朗化。随分横へ流れてるやつをね、はっきり向こうと交渉してね、 それで、量をね、確保してくれた、これは大きかったです。それから、ノルマの是正、 非常にあの分の悪いノルマがあって、なんぼやってもね、ノルマが上がらん、非常にひどい、これをね、是正してくれないか、いうようなことからね、非常にね、あのー、どういうかなあ、一緒のルネッサンスですよね、いう事例がありました。
 で、これ、翕然(きゅうぜん)とね、起こったのはね、あれなんですよ、例えばあのー、 俳句とか、あの短歌の会、サマンク会言うてましたけども、要するに、そういうグループがだけどね、これからね、あの劇団、楽団、これがね、また充実してて、これからね、例えばほうぼうの、地方から来てますから、で、みんなそれぞれね、百姓も多いわけですよ、篤農家、篤農家が集まってね、それぞれの、自分とこの特産、それからあの農業に関するね、委員会、農業委員会っていうのを作って、色々そういう、知識の交換をすると。これは、あの東北の人間も九州の人間も集まって、百姓が、それで、帰ったらこれをやりたい、 帰ったらこれ種送るからお前とこでやってみろとかいうような、いろんな、このこと、農業研究会、それからいろんなそういう風な会が出きました。
 もう何があったかな、他に。いろいろあります。そん中で、起こったのはね、やっぱ、マルクスの研究です。 ちょうどその時には、僕らの時にはね、帰ってきてから、日本でも有数の学者になった、 例えば、あの神戸大学の教授だった国際法の尾上さん(註:尾上正男氏と思われる)、尾上先生、それから狭間源三さん、これはあの大阪市大の名誉教授で、これは経済学の大家ですいう風な人たちと一緒だった。 これを先生にしてね、資本論とか、えー、剰余仮説とか、そういうものをね、 手ほどきを受けたたわけだ。ずっと1から。何にも教科書ないの、そのひと専門だから。だから、その時、僕らはね、ちょうど小学校しか学歴のない男、何にも知らなか知らない男でしたけどね、 これね、あ、そういう新知識はね、すごい魅力でしたよ。これがね、あの海綿があんたの 水をすいとるみたいにね、ふーっと、こう、頭入るんですよ。だからヘーとあってね、僕、新しいそういう風なものに対する、ものすごい感動を受けましたよ。 だから、それで、若者はね、みんなね、そこへ集まって、そういう知識受けたわけです。 え。これはね、何もソ連から強制されてやったわけやなくて、我々が、夜、暇でしょ。それで、クヨクヨしててもしょうがないと。せっかくの機会だから、お互いにそういうの、いろんなサークルがありましたから、そこへ顔出して、僕はおっちょこちょいだから、いろんなとこ顔出して、 皆さんのいろんなことを、教えを受けたわけです。で、そのような関係で、僕はなんか芝居のグループと 親しくなったんですけどね。 

で、結局ね、やってるうちに、あんたの、マルクスのこれだけ立派な哲学がね、それから、現実に見る、あの、ソ連の不合理。ソ連軍のやり方、それから、ウズベク人ですけど、僕の周辺に、ウズベクの村のね、現状、これの貧しさ、 これのギャップが凄いんですよ、これ。なんでやねんちゃう。これだけの立派な学問でね、なおかつ、現状、これか、 これどういうことですか。っていう、いろんな説があってね、それは、うん、ロシアっていう、この農奴主義、最もこの低い段階から、資本主義飛び越してね、 途端に社会主義に入っちゃったもんだから、随分その他のギャップがあるんだ。これがドイツの、ドイツみたいにああいう形で、 もし、このワイマール憲法みたいに、ずっとこの普通の道を行ってたんだったらもっと上手くいってた。この国は一足飛びにこう来たもんだから、いろんな矛盾があるんだなんていうなことを、その先生たちは言ってましたけどもね、 あまりにね、その矛盾がひどいもんだから、僕はその勉強はもうやらなかった。 ちょっとこれおかしいということで、僕たちはそれ以上深入りしなかった。


ラーゲリ内でのプロパガンダ・つるし上げ

 ところが、やっぱそれをね、ずっーとやって、結局それがどういうことになったか言いますと、3年目がそうです。 抑留三年目は、この連中はね、僕らの近くですと、タシュケントっていう1番古い都がある、 あそこへね、学校があります。要するにこの共産党の学校が。で、そこへね、三月間、教習を受けに行きました。僕らのところ。そういう僕の一緒に仲間もわりかし頭のいいやつ。これがそこ行って三月間ねこってり勉強して、ほんでね、これが筋金入りの闘士になって、それで帰ってきたわけ。で、これたちが、 今までやってきた、そういう、どういうの、僕らの、僕ら研究会の仲間、インテリゲンチア。これをね、名指しでね、非難しましたよ。曰く、あのー、オポチの思想である。それから、どういうの、 この、プチブル主義者である。芸術至上主義者である。日和見主義者である。こういうね、レッテルをボンボン貼るんですよ。 あ、要するに、結局、彼たち言うのは、やっぱ、労働の祖国であるソ連、これのね、国力を増進することが、我らにとっては1番革命の早道であると。だから、祖国ソ同盟の復興をやるためには、総意を挙げて働かないかんということですね。 で、それが、に対する、ハラショーラボーター運動、 スタハーノフっていうね、向こうに労働英雄がいるんだけど、スタハーノフ運動っちゅうのが始まりまして、要するに、それと同時に、1番問題は、よく働いた人間から先返すっちゅうことで、そうなったら、あんた、それ言われたらね、みんなね、 もうあれこれ言うとられへん。そういう風な流れに逆らう人間は、当然これはあの反動であると いうので、つるし上げが始まった。それから当然この反動、下がるものも反動だけども、決して前へ一歩踏み出さん人間、日和見主義者、これなんかが最もたちの悪い反動であるというこの格付けですね。 これがあの、そのね、3年目における大きなどういうの、これ、条理かな、 なったわけです。

 だ、結局、我々がやってる芝居、これはね、もうどっちか言うたらね、まあ文学もんというか、読んだ彼等言うんだな、あの芸術至上主義者だ。僕らの書いた、脚本、これもう全部ウンキョ(バツを示す)です。こんなことやってるから、君たちはちょっともラーゲリは進歩しないんだ、 もっとね、政治性の高いプロパガンダ、これをなぜやらないかというのが、新しい指導者の命令。我々はね、やっぱそう簡単にね、いけないんだよね、これ。結局ね、その時分にね、やったのはね、 みんなね、その文化グループ、これにね、リーダーたちが言うことに対してね、賛成の人、これはね、あの帽子、軍帽、この前にね、こう、星のマークが、ま、昔の星のマークを外して、で、赤いねキレ、赤いキレを、はっつけるの、僕ら、とさか、とさか言いましたけど。 結局ね、みんな、それ、そやかったら、あんた、それこそ。

 で、しかも、それを、同時に起こったのはね、ソ連に対して害応をしたと言われるこの憲兵、それから警官、それから政府高官、それから満洲におけるね、あの共和会っていうのもありましたが、そこのね、会員、これたちの前歴、 そういう風な仕事をしておった人間はおるかっていうわけですね。それがね、密告、 密告するんです。密告すると点数上がる、自分。そうすると、点数上がったら早く帰れるという風なことで、それから、そういう風なね、友を売るっていう密告が始まったわけです。これね、 誰がやったかって、それ。決してね、ソ連がやってない。このことは当然、全部、こ、国際法違反です、こんなこと、思想、特別な思想主義、これを強調する、強要するとか、宗教これ強要するとかっていうなことはね、国際法で全部禁止されてるんですよ。だから、ソ連の政治将校は、そのことをね、一言も言ってないんです。 だ、これを、多分そうだろうっちゅうのね、やりだした。アクチブってやつで、これたちがやった。日本人がやったわけでしょ、これ。
 だから、言われてるように、ソ連が洗脳したわけじゃ決してない。そういうことのために、自分たちの勢力を、広げるために、アクチブ。僕は、わからんでもない。彼たちの気持ちは。なんでか。やっぱりね、あの、モラールをあげて、 そして1つの統一したあの形にしてね、やはり、ソ連側にも発言権を増やして、 あ、みんなの、全体的にこの権益守ろうっていうね、彼たちの気持ちもわからんじゃないですよ。ただ、やはりそういう、非常にあの、暗いね、どうにもならない、この問題が。だから、結局、仲間は 吊し上げる。だから、一緒の暴力ですね、ものすごい暴力で。で、そういう風なことがね、もう随所に起こりました。

 で、そこでね、 もう僕らはもう、劇団はもうずっとね、それ以後ね、長いことね、芝居ができなくなったの。なんでか。なんぼ書いても、書くのあかんと。いうてね、あんた、しょうもないプロパガンダ書けますか我々。結局ね、あ、そのうちに、この心入れ替えて書くようにしますなんて言うて、なんやかんやかんや延ばして、同時にね、 向こうのアクチブ委員がね、しょっちゅうさ、話し合いするんだけどもね、なんだかんだ言ってやりましたけども、結局、この赤いマークをね、劇団関係はね、 何人かな、10人ぐらいはつけなかった。そうすると、今度は、それをね、批判されるのはね、誰に批判されるか。みんなですよ。なんでか言ったらね、それ、お前らはな、それはええやろと、自分の気ままでな、つけたくなかったから、つけなかったと、いい。けどもね、 それだとね、このラーゲリの全体がね、反動だと思われたら、他のラーゲリに比べてダモイが、遅くなる。 非常にみんなに対して迷惑だと。だから言うんでね、僕らはね、仲間から非常に白い目で見られた。でも、結局こちらもね、 そんなふざけたことできないよと、何ぼなんでも人間瘦せても枯れてもと。だから、もうこれは毎日ね、もう揉めてもいいと、 しゃあないと、お、僕はつけたくないと。結局つけなかった、僕と4、5人。帰るまで。だから、それのためにね、ずいぶん不利益を受けましたよ。

 けどね、ま、幸いなるかなね、ソ連側は、そうじゃなかった。3年で僕帰りましたけどね、これは僥倖です。だからね、シベリア抑留者の中にはね、非常におおきな流れがあります。顕著な。何か言いますと、3年以内にね、帰れた連中はね、証言なんか、こういうのがあります。見ますとね、 大体ね、穏当です。皆。4年越した連中はね、随分厳しいですよ。なんでか、ひどい目に遭ってる。我々の気ままはね、僕らが帰ってから、あと、とても通らなかった。ますます、厳しくなった。だから、俺らはね、ちょうど、あれ、あ、その、もう4年もかかってたら、どうなったかわかりませんよ。
ま、その点、僕は、非常に運がいいと思ってます。

引揚船でのリンチ

 まあ、その後もね、いろんなことがありますよ。例えば、船がね、ナホトカからね、やっと船に乗りました。名雄丸って船が、あった。ちょうど、あの、出ましてから、2日間はね、嵐だったんだけどね。ちょうど、台風の余波で。その時、船中でね、あの、ほら、 ご存じ通りの反乱がありました。船に乗るまではね、どんなことがあるかわからんけども、 あの、わからんから、だからね、ま、言うたら、簡単に言ったら、右翼、ですわ、これは、大人しくしてる。一言も言わん。けども船に乗ったが最後、岸壁から離れたが最後の、たちまちね、どっからこの都合したか知らんけど、白いこの 生地にね、あのヨードチンキ、あれで日の丸を作って、それで鉢巻きをして、日の丸組が現れた。
 それで、結局、今まで、あのー、ソ連よりだと言われてる、さっき言うた民主グループの連中、この幹部、これをね、全部を摘発して回ります、出てこいって、お前、出てこい、これで甲板へ、連れて行ってね、これをね、厳しくやるわけだ。 お前はこうこうこうで、こういう風なことをしてから我々をいじめたと吊るし上げた。全く逆の風景が始まったわけですよ、これ。あそこで。結局お前たちみたいな国賊はね、返すわけにいかんと、今からお前の好きなソ連にもう1ぺん帰れと海の中放り込んだる、いう事件が起こったわけ。私も引っ張られた。なんでか 、お前らがな、妙なことするからね。1番最初のあの学研とか、文研と言われた運動ですわ。初めてのルネサンス、2年目の、するからだから、そもそもだんだんそれが、こういう風になってきた。それをこうやって草分けやったのがお前らやというんでね、私も罪に問われた。え。で、前出されてリンチでしょ。私。その時にね、横からね、 みんなが言うてる。おい、ちょっと、ちょ、ちょっと待てと。池田の帽子見てみろと。赤いマークあるか。俺はない。 赤いマークのやつを赤いマークの人間がやるとは何事だと。もうこれで1発でしまい。あ、そうかと。しゃーない。助かりましたよ。こういう事件があったの。その時に船長がね、出てきてね、進めましたよ。

「船の中はね、全部の権限は船長にあるんだと。で、こういう風なことを帰ってからやってくれ」と。「船中におる間はね、決して許さん」と いう船長の一言でね、ことなく終わりました。そうでもなかったら、あんた、10人ほど放り込まれてますよ、 逆に。

 だからそのね、やった日の丸組たるや、ソ連におる時に何したかっちゅうのお前。これあたりまたね、どういうか、1番迎合をしたのそいつらです。そういう風なあの連中に 。人間なんてものは、コロコロ変わる。もういざになったら。だから私はね、 口で偉そうに言うてる人間ほどね、卑怯もんはおらん。1番で、あの日本人強いのはね、律儀な人、真面目な人。これがね、いざになった場合に一番強い人。口先で大きなこと言うやつ言うやつほど卑怯。 私の経験からしたらそういう風に思ってる。え、そういう風なね、もう織りなすね、このドラマっていうかな、 これが僕らの3年間でした。

池田さんの補償要求運動の参加と特措法成立まで

 だから、結局その延長が、さっき言った、帰ってきてから、どうだっていうことになるわけです。 で、我々は、なんぼ考えても、これは日本政府がおかしいいうことから、私、ずっとやってきました。 ご存知か知りませんけど、さきほど申し上げた、あの、全抑共の裁判が16年かかりました。私、それまではね、何にも知らなかったの。今日に一生懸命で。だから、そんなことはね、彼たちがやってるから、これも勝つに決まってる。どっから考えても。だからね、 任しといていいと言うんで、間接的に幹部はしてましたけども、もう何にも、正しく1つしたことありません。 ただ、16年かかって、最高裁でね、結局あんたはわけのわからんことで、これ否決されたわけです。 僕、それでね、猛然と腹が立ったわけですよ。こんなふざけたことがあるかというので。
 それから、私たち、別にね、仲間5人集まって、それで裁判始めたの。もう一件。 「斉藤六郎」の意志を継いで、これで、あの、カマキリ訴訟(註:池田さんが組織した「カマキリの会」による訴訟)言われてます。それでね、ずっと 4年ほど、最高裁まで争いました。で、いっぱい言いたいこと言うて、したんですけども、やはり同じ理由で棄却されました。 基本的にはね、そんなこと金ないでしょ。全部。でね、やっぱしね、この問題はね、一応間口が広い問題 だからね、まともにやろうと思ったらね、大体ね、7人から8人ぐらい裁判の弁護士がいます。その中でね、俺らには会った者はありませんし、どないするか結局考えたらね、他のことは知らんけどね、 シベリア抑留っつうことに関しては、我々が1番よく知ってるはずだと、誰よりも。だから我々が直接ね、言うたらええ、もう弁護士に言わんでも、言う理屈。結局、それと、 まあ、おかげでね、1人ね、「わしが本当はやったらないかんのやけども、俺らとてもそんな余裕ないと、 だから、いろんなことはな、教えたるから、だからな、君たち自身でやってみろ」と言うて、いろんな、そういう、ルール、セクション、それを教えてくれたね、非常に優れた弁護士は、1人おります。 ただし、その人は、あの、表に出ずに、直接、だからね、あの、事務所名、そうだ、ずっと書いてるのは、私です。 私の手ほとんどで、それでね、ただしね、それが1つの原因とね、第一あんた、弁護士さんにね、この、僕らが言いたいことをね、全部言うて、理解していただくだけでも、あの、これ、1年2年かかるでしょ。大変なこと や。そんなことはね、もうね、80何歳の年寄りにとっても、ま、待てない 。で言うんでね、もう、弁護士なしでやりました。ただし最高裁の時だけは、ちょっと、あの、色々具合悪いんで、1人だけ助けてもらった。あと、弁護士さんが東京におりますけどね。 

 そんなことで、我々の言い分も、同じように負けました。 結局、それはですよ、結局ね、司法、裁判でね、あかんね。裁判が言うのはね、お前の言い分はようわかると。けどね、これはね、何にしろね、法律がないことにはね、どないもならんっていうんです。法律作ってこい、立法部へ行って、あ、そうかと。んな、結局は、今から立法部へ行ってな、法律作ろうといんうでやり出したのは、あの立法推進会議という私の名刺に書いてある。あ、これで残党皆集めて、それからですよ、議員に新しい法律を作ってくれ、言うて作ってもらい、 それで、それをね、やっとこれ、あの、通してくれたのは議員さんの力、特にね、長妻昭さん、 彼が1番法律の原型を作ってくれました。これが随分ね、痩せ細ってさ、最終的にああなったんですけどもね。 で、それと、やはり、あの、政権交代でもなければ、永遠にダメでしょ。ま、幸か不幸か。 私はね、民主党の政府がね、ええことやったのはね、シベリア抑留だけやと、思いますよ。あと、子供手当もね、ああいう風にな、結果になりまして、だからね、おそらくね、シベリアの問題と、子供手当とか、えー、「蓮舫さん」がやった何?仕分け。ぐらいで色々あるかと。ただしそんなかで堂々構造で成立したのはシベリア問題だけです。これはね小さい風穴ではありましたけども、実は非常に大きい意味を持ってると思います、いろんなことで。

 これで、パンドラの箱、ねじ開けたわけです。今からです、こういう戦後、 あー、責任問題、戦後補償に関するね、幕開けは、あとに続くものとしては、BC級戦犯の問題、慰安婦の問題、それから、あの、大きいのは、あの、空襲被害です。とかね、そういう風なことに対してね、色々あるでしょ。これあたりもね、 やっぱりの小さい開けた風穴をね、パンドラの箱をね、 しっくりあけて、これをきっちりやらんことにはね、私は戦後はないと思ってる。いうことを私は言いたい。えー、まあ、いろんなご質問があったらね、色々おっしゃてください。

戦後日本と共産党嫌い

 例えば、この間、2、3日前に見たね、あの、先ほど申し上げましたけど、戦後、中国の八路軍、革命軍に頼まれて、そしてあの手伝った療養、これ何年かな、6年か7年ね。日本返されんと、向こうでね、本当に苦労して、解放軍のために戦ったあの日本人がおりますね、これの物語 で。彼たちはね、それでもって帰ってきたわけですよね。それがね、全くシベリア(抑留)と同じ扱いされてるんですよ。「あいつら、あ、洗脳されたアカだ。」というわけで、ほんで、ある看護婦さんなんかね、こういうこと、僕はもう非常に辛い思いで聞いたんですけど、看護婦さんこういうこと言われてるんですよ。「あんたたちね、あんたは、長年、中共軍と一緒におってね、 で、何回強姦されたか。」っていうんですよ。

池田さんの奥さん:ひどいことね

 これ、そういうこと言う。ほれで結局ね、看護婦さん初めは意味わからんかった「え?そう、そういうね、兵隊は解放軍には1人としておりませんかったよ」言う、言う。
日本人ちゅうのはね、自分がそうだからね、自分がしたから、敵も当然やるだろう。そういう考えなんですよ。要するに下衆の勘ぐり。これだけ非常に、ものすごいですよ。で、あん時ね、看護婦ね、看護婦資格のね、免所をね、もういっぺんも、帰ってきてからも、看護婦生活のために、看護婦をやるんだと言うて、申請に行った。 たら、許可とれないんですよ、なんでよと、そういうことを言うてね、本当の看護婦資格を持たんね、人たちが、申請して、してますよと、あんたはな、果たして本当の看護であったかどうかわかりませんから、あげませんじゃ。で、その人は、やっと自分の、その一緒にしておったドクター、医師の証明を受けて、やっと再交付してもらった。 もう、まさに嫌がらせ。で、彼たちが、それもね、随分就職なんかにも困ってます、 あ、それだけのことをやりながらね、こういうね。

 僕が言いたいのはね、日本人っていうのはね、その方々が、なんやった言ったら、これ、日中友好のね、架け橋として、ま、随分ね、大きな仕事をいっぱいしてます。それぞれの立場でね、 そういう風にね、みんなね、日本のね、この草の根っていうかな、あんたたちもそうですよ、 そういうね、草の根の運動がね、いかにこの日本のためになってるか。
 例えば、あのアメリカの捕虜でも、それからあのオーストラリアのオランダの捕虜でも、どこでもそうですけども、もう日本人は、けしからんと、日本は。 けどね、日本人のあれだけのね、あの草の根の運動を考えたらね、 これはやはりそうはいえんと言うとんであってね、やっぱこういう草の根の運動はね、いかにね、日本のね、あの戦後責任ちゅうものについて、多くの力持ってるか。あの、あんたたちが知ってる神さんなんかのグループそうだし(註:Bridge For Peace)、 それから、あのアメリカの捕虜のためにやってる「伊吹さん」(註:伊吹由歌子。戦後、米兵捕虜との交流と研究を行ってきた人物)もあり、それからの、「徳谷さん」なんかのドラマ、あれなんかもね、もう全部そうです。そういう風な、非常にこの 草の根の運動がどれだけ大きく、この日本のね、こういう、この友好のためになってるかっていうなこと
 で、上行くほど、日本、ちゅう国はもう全部ダメなんです。 これはひどいですよ。だから、もう僕はね、いっぱい言いたいのはね、あのシベリア抑留がそうですよ。僕らがね、何年間か戦ってきた大きな経験から言いますとね、 スターリンに洗脳されたようなね、あの不貞な輩にね、一銭たりともくれて、やれるもんかっていうのは、これも根底にずーっと。それですよ。シベリア抑留に対して今まで時間かかったの。 これがね、本音なんです。なんにもね、僕ら、彼たちに洗脳されたわけで、違うんです、私ら、ただ、スターリンみたいなの、これ、まさに人類の敵やと思ってますよ、あんなひでえ、あのね、ところのね、日本のね、あの保守的な、これね一番我々が敵ちゅうかなあ、相手は誰や言うたらねあれなんですよ。あの吉田茂を、中心にその前、この前のね、ちょうど敗戦当時のね、宮廷派と言われた連中です。ただ、あの木戸孝…木戸(註:木戸幸一内大臣)、それからね迫水久常、それから吉田茂、それからあの一連の宮廷派言いましてね、で、なんやって言うたら、これはね、ほんとはね、和平派ですね。で、特に、特にあの、アメリカから、イギリス派ですね、 これは宮廷派。これがね、直系がね、吉田茂です。吉田茂がずっと下った現在地に自民党があるわけです。 で、これなんですよ。で、これがね、もうまだ日本の戦前の中ではね、マシな方だったんだけど、まあ重臣的で。ただし、これの1番大きな欠点はね、アカ嫌いです。 徹底した共産党嫌い。だから、我々に対しては、もう全く見、よくやられましたよ。
 あるね、自民党のあの領袖ちゅうかえらいさんに頼みに行った時にね、「大体君たちはね、筋が悪ろすぎる」ということですよ、筋が悪いと。なんや言うたらこんな問題はね、我々自民党に頼まないかんの。これをね、野党に頼むとは何事だと 、いう考えですね。だからもう、徹底したアカ嫌いです。保守です。これがね、僕らの本当の敵なんですよ。

議員・政治家たちとの協力

聞き手:「長妻さん」(註:長妻昭)、「長妻議員」は私達のイベントにも顔を出してくれたことがあって。

去年?

聞き手:去年。

去年ね、げん、もう「長妻さん」はもう、僕らといとこというか親戚づきあい。

聞き手:親戚づきあい

 だからね、僕らも時々あったら、必ずお目にかかったらご挨拶するし、それからもう我々の会合でもね、長妻さんはよく来ていただけるし、去年のシベリアデー、8月23日に今年で9回目になりますけど、これ本来ならば国がやらないかん行事を、我々がなけなしの金集めてやってるわけですよ。これに初めて現職の大臣として来てくださったのが長妻さんです。去年の8月にはまだ厚生労働大臣でしたから。そのあとすぐクビになりはりました。

聞き手:なんかそういう戦争に対して思いがあられるんですか?

 いや、あの人はね、何のことはない、僕らの、ま、代表やってますものが、あの平塚光雄っちゅう者は、あれがね、あの中野区ですね、 同じ選挙区です。

聞き手:あ、なるほど。

 だから、やってるうちに、あの中野区の選出の「長妻さん」と 我々の代表の「平塚」(註:平塚光雄。元全国抑留者補償協議会会長)が同じ選挙区だから親しくしていただいて、そして、力を貸していただけるようになりました。みんなそうですよ。例えばその次のあの、例えば あの、この前の、死にましたけど、あの「寺内良雄」っちゅうのも、全抑共の会長でありましたけど、 彼は栃木県の何区になるかな、あそこの、県会議員でした。で、それと県会議員って、同じように県会議員やっておったのが、今のあの、あの人、うん、なんだ。思い出せない…「中野やすお」やなくって、なんだ。その人なんか特に今現在のシベリア抑留議員連盟のね、会長でやってもらっておりますけども、これはやはり、その時におった、あの、我々の仲間の寺内の、同じ選挙区です。 で、私の同じ選挙区では世話になってますのは、「中野寛成さん」です。
あれは私と同じ選挙区ですから。

 やっぱりね、そういう風な、自分たちが親しい議員さんに頼みに行って、そして、色々 力を、いただいて、そして、やっと出来たわけです。みんな、そうですよ。だから 何もね、天から降ってきて、やってくれはったわけやないんで、こちらで説明して、何べんでもこうこうですって言うと、お願いして作って、それの積み重ねです。だから、明日も東京行きますけども、私は半日かかって、今までお世話になった先生方、まあ少なくとも20人ぐらいは全部、回りまして、そうやって、ご挨拶して、また今後のこともお願いするわけですけど、なんでか言ったら、もう年ですから、もう何べんもいけませんし、どうせ今度は民主党は選挙負けますから。明日行っとかんとね、いかんからね、

聞き手:次に続けないと。

 こんなね、名刺作って、御礼参上と書いてあるでしょ。(池田さんが自身の名刺を見せながら)行っても半分以上留守だから、 やっぱり行ったことだけでも一言申し上げておく、ま、そういう気があるわけです。だからこれね、ちゃんと用意したんで。へへへへ。

池田さんの奥さん:有名なおじいちゃんね、

聞き手:うん、本当に

池田さんの奥さん:議員会館行ったらね、みんな大事にしてくれるなんて

大事にしてくれる・・・(言おうとしたが、ひっこめうなずくような)

池田さんの奥さん:なんで、あたしがいっぺんもついていきませんね。もう。とにかくみんながね、いったら大事にしてくれはるから大丈夫や。

 我々で、こんなん、一介の市井の老人が 何にもせんかったもん。ノンポリで。これやりだしてから、これ12年目になるのに、もう火が付いたように飛び回ってやってますけどね。果たして、本当はね、 これはやっぱし、素敵な本でも読んで行きたい旅行いっぱい行って、晩年を楽しむつもりでね、しておりましたけども、とうとうこれが出れずに、こんなことばっかりやってしとりますけどね。あとは、来て、これ、どっちが得やったかなあと、 やはりね、ありがたいことに、大きく、ほら、 世間が開けたっちゅうかな、いろんな方々とお目にかかって、お話を聞けたこと、それからね、あの、いっぱいお友達ができたこと、これは大きな、プラスでした。 普通、僕らの年になりますとね、もう電話は上がらへんし、手紙はけえへんしね、みんなね、もうすることがないですよ。 だからね、みんな早くボケる。うん。だから、おかげで、私たちはもう、しょっちゅう、メールのやり取りがあったりで、なんだかんだ、連絡があったり、 ま、仕事もありますので、おかげでね、どうのこうの、まだ元気でおりますけども。まあ、その点では、なくしたもんもある代わりに、得たる方が多かったと言って、喜んだりもします。

池田さんの補償要求運動参加のきっかけ

聞き手:やっぱり、その、裁判・全抑協の方の裁判が、敗訴になってしまったことがきっかけです?

 そうです、あん時にね、斎藤六郎が元気でおりましたけど、私、実はね、「斉藤六郎くん」とはね、文通したことは若干ありますけど、会ったことも今日びないです。もう、そん時に死んでましたから。だから、彼がもう、死んでから、向こうの最高裁の判決が下りたわけですけども、これ、なんぼ考えても理屈に合わん。だから、もう。 それでね、まあ、腹が立ったのが、発端です。 ま、彼も色々功罪相半ばする点がありましてね、ちょっと、あとあと、ちょっとまずいことがあったもんですから、非常に、この、非難される向きもありますけども、やはり、何をさておきましても、 この問題は、彼、やっぱり1番大きな功績者です。非常にあの、大きな仕事をしましたね。

聞き手:その裁判記録が、先ほど、とても、その、貴重なものだとおっしゃっていて、そういうものは今どこかに、こう、保管されてたりなんか公開されてたり・・・

 え、これね、公開されてますけどねえ、あの、どこでも手に入ります。なんでかいうたら、裁判関係のところで、こうこうこうで、もう要求されたらすぐ手に入ります。それとね、それがね、大体、僕の申し上げてるのは、 あの、「斉藤六郎」の功績が半分です。あの、前半戦。あと、後半戦、 これをやり遂げた男はご存知かな、「有光健」(註:現在のシベリア抑留者支援・記録センター代表世話人)さんです。
 あとね、引き継いでまとめてくれたのは彼です。僕はね、あの男のことはね、鞍馬天狗と言ってます。鞍馬天狗ってご存知?あれね、幕末時分のね正義の味方だ。これはすばらしかった。彼、僕ね鞍馬さん、鞍馬さんって呼んでた。彼がまとめてくれましたよ。だから、「有光健さん」に1番逆らったのは私です。もうしょっちゅう逆らって・・・
 ただね、私はね、あの、前半の、あの、なんていうかな、あの、「斎藤六郎」の功績、 これについては、先ほども申し上げましたけども、裁判記録があるし、これについては、いろんな人が書いてます。彼、「斎藤六郎」は、しばらく大変立派な本書いておりますし、 「白井久也さん」(註:シベリア抑留等の研究者)あたりも、非常に評価の高い本出してくれてます。

 ただしね、1番問題はね、それで一旦負けたんですよ、彼は。あとどうしたかって言うたら、 彼がやったことは、後継者、これ、あの鶴岡におる「神林共弥くん」(註:全抑協元会長)ですけど、これが2代目の、全抑共代表。 これ、何したかって言うたら、ジュネーブの国連へ直訴しました、こうこうこうで、我が国はね、我々に対してこんなひどい仕打ちしてる。これ、どっから考えると不条理だからね、国連の方からね、言うてくれて、。でも、これはね、適当にあしらわれて、これもうまくいかなかった。結局、 えー、しかも、これ、いろんなもの全部、それからの、仲間割れがようけい(註:多くの大阪弁)あって、で、もう、ガタガタになりました。でも、1番問題は鶴岡が中心でした。鶴岡で、どうにもこうにもならなくなりました。裁判沙汰が起こりまして。

 で、その後の残務をね、東京で引き受けたんですよ。 これも色々問題があったんだけど、で、東京で、じゃ、もう引き継いでやろうということで、ところが、何やっていいかわからんでしょ。だ、結局、そこで、その時残ってる、私、ちょうど、カマキリの会の組織してました。これとか、これがさっき言ったあの記録する会の、あの全8巻の捕虜記を出してくれたあのグループとか、 ほんでカマキリの会とか、他の、残党ですな、言うたら。残党を集めて作ったのはシベリア抑留推進会議。なにやるかい言うたら行政司法ダメなら最終的に立法府で法律を作る以外ない。 いや、これはやろうやないかというんで、それから始めたわけです。で、それから、以後のね、記録がないんですよ。それをね、私、今度皆求めました。

聞き手:はいはいはいはい。

 もうまとめてね、あの、ホームページに入れてあるんですよ。(註:この辺りは池田さんのHP「老いたる蟷螂の言い分―シベリア抑留裁判の顛末―」に纏めてある。)あ、けどね、 これは、正直言うて、その後の流れだから、それはそれと、「斎藤六郎」時分のやつと合わせてもらうとね、 繋がるわけです。

聞き手:なるほど。

 それはね、何のことはないね、あれ、「有光健さん」に対するね、オマージュです。で、結局、ま、その通りやって、彼がおらんかったらとてもできてません。いろんなことがあります。だから、その流れをね、 全部私、作ってね。で、これ、とにかく、「有光さん」に読んでもらわんことにはね、これ、オープンできないので、彼に読んでくれ。読んでくれ。彼忙しくて一年間読めん。ちょっと待ってくれ、ちょっと待ってくれ。ただ、1番問題はね、全部実名でしょ。これからね、歴史になりきってないことがいっぱいある。 だから、公開するかせんかっていうことは問題があるんでね。やっぱし主人公である「有光」に聞かんとわからん。だから彼が オーケー出すなり修正するなりしてくれて、すれば、ま、私の生きているうちにね、あの、公開したいなとように思ってます。

聞き手:―ぜひ。そうですね。もう、こういう記録が残らないことには次につながらない。

池田さん

 そうそう、私もね、そのつもりで、これだから、 書いたことが、色々この、差し障りがあって、そして、あの、批判があるならね、私、いつでも責任持って受けますから。 うんそうしろと。これこれこうだ、という、ちゃんとしたことは、あの、責任持ってできるから、だから僕は、あの、生きているうちに公開したいんだということを有光君には言ってあるんですけどね。ま、これも非常にね、やっぱり申し上げた通りに 政治性を孕む問題ですので、やはりもうちょっと固まるまで待った方がいいんかなあ。

聞き手:公開のタイミングはね、あるでしょうけど、ただね、正確な記録が残ってるってことは非常に心強いというか。

 ね、その中にはね、うん、いっぱいね、あの議員さんのことも書いてあんですよ。 色んなね。当然、これは、あの野党のみならず、あの与党の方々、 いろんな方々に会うて来た時の印象、その他いきさつ、なんかもね、全部書いてありますからね。読んでもうたら、その意味でも面白いと思う。そういうな、色んなプロセスを踏みながらね、やはり、あの、 歴史の必然性っていうかな、こういううねりがありまして、これにね、まあ、うまいこと乗れたという、1つのこと、まあ、ゆうたらドラマです。そんなようなこともあります。何でもおっしゃってください。あの、せっかく来ていただいて。

池田さんと舞鶴

聞き手:えっと、池田さん、この辺りの出身なんですか?

ん?

聞き手:この辺りの出身。

私?丹後舞鶴。


聞き手:あ、じゃあ、やっぱ京都出身?

そうそう

聞き手:だから、9連隊に行ったんですか。

 ええ。そうそう、ええ、舞鶴でね、ちょうど、忘れもしませんけども、舞鶴の記念大会やりましてね、 あの、もう何年前になるかな。4年になるんかな。まだあの法案も通らん。ちょうどほら、例の旅行券が、ご存知かな。 途中であの、自民党が出した旅行券、これでもうお茶を濁そうっちゅうことが、あの、決まりましてね。それが決まった直後に舞鶴で、 あん時は最後の高砂丸(註:最後の引揚船は興安丸のはず?)が帰ってきた時の、あの記念大会やりまして。あれは舞鶴でやったんですけどね。 で、その時の私、世話人で、向こうでの舞鶴市とのやり取りとか、 いろんなこともやったんですけど、あの時に僕は失敗しましてね。あの、舞鶴市のことをボロクソに言うたんですよ。
 それがために「有光くん」、どんだけ苦労して、尻ぬぐいしたか。なんでか言うたらね、あそこはね、大体あのシベリア抑留のメッカでしょう?あそこは 。そういう、しかも私のふるさとでもありますけどね。だから僕は事前にね、何回僕は下見に行ったかなあ。 もう数回行って、有光くんも来てくれて、ほんで色々と地元としてのね、協力をね、お願いしたわけですよ。大したお願いじゃないの。何もあんた、金くれ言ったわけじゃありません。ただ、やっぱ色々と、この舞鶴市として協賛していただくとか、それからあらゆるところの便宜図ってほしいなんてのことなんですか。向こうには記念館もあることですから、したけどもね。だが、そこがもう、地方都市のね、情けな。野党的でしょ、我々は。野党的なんですよね。だもんだからね、全然ね、対応がね、 あの、冷たいんですよ。ほとんど何にもしてくれなかった。やってくれたのはね、幸いね、マスコミですよ。 マスコミがね、大変ね、動いてくれました。だから、それのためにね、あの、出きたんです。あの、成功しました。
 で、その時にね、1番最後に、僕はね、悪態言うたんですよ。ここは大体ね、シベリア抑留のね、メッカであると、 その国がね、これだけ、その町がこんだけ冷淡とはけしからんと、しかも私の故郷であると、なんだって言って。そりゃ・・・でも言いたくなりますよ。うん。もう、とにかく、そういう点でね、ま、ああいう、このゆうへいな田舎の都市言うたらね、権力に弱いんですよ。
 あの、舞鶴の記念館で、あれがどういう風かご存知ですか。あれやったのはね、何にもね、国がやったんちゃうんですよ、あれ。あれはね、あの死んだ歌手の・・・

池田さんの奥さん:三波春夫。

三波…

池田さんの奥さん:三波春夫。

 「三波春夫」がね、確か2000万円寄付したんです、 舞鶴市に。それに舞鶴市も乗っかかって、そしてあそこの施設作ったの。うん。で、未だにね、あそこに対して、国はね、一銭も補助金は出してないですよ。あれはね、舞鶴市の財政で支えてやってるの。
 ところが、だんだん見る人が減ってくるでしょなん、関連者が死んでいきますから。だからね、ずっと赤字ですよ。 ところがね、未だにね、あの国はね、一銭の補助もしないんですよ。で、しかもね、あそこにはね、現在自民党の「谷垣」、「谷垣禎一」、 あいつの地元ですよ、あれね、京都五区。に関わらずね、 一銭の補助金も出せない。で、我々は今度、どういうかな、要望する場合もそうですけどもね、当然、舞鶴のね、あの引揚記念館、あそこにもね、あの、補助を出せというようなことも含んでます。そのぐらい冷たいんですよ、日本の国っちゅうのは。そういう風なことをね、なぜこれ、もっと、どういうかな、知ってもらいたいと思いますけどなあ。 いかにも我々、力が足らない。(暫し沈黙)だから、私はあの町には、あ、西舞鶴です、私は。両岸がそう。東舞鶴が軍港です。でも海は…思い入れもありますから。

満洲国の景観等

聞き手:満州にいた時、満州にいた時は、その国民学校の代用教員?

そうそう、

聞き手:そうだってことですけど、その終戦前までの、その奉天とか、その、満州っていうのはどういうなんだろう、状況だったんですか。

 そうですね、まあ、よくご存知の通り、とにかく、どういうんかな、日本が作った、にせ国家ですからね、とにかく日本人の、この威勢たるや。 簡単に言いますとね、日本のね、あの人の月給、これが十やったらね、その半分の5がね、朝鮮人です。その半分の2.5、これが満洲人です。これ全部そうです、同じ仕事して。 それぐらいね、格差がありました。
だから、日本人は、それ以外にね、いろんなね、点でね、物資の配給、その他、特にあの主に内地から輸入してましたから、だからね、特権があるんです。例えば地下足袋とか、地下足袋とかね、薬品とかなんでもそうですけども、何1つでも闇に流せばね、何倍かに売れるでしょ。 ただ、日本人はそういう点でポケットマネー稼いで、それから、簡単に言いますとね、よく、向こうでね、あのビアホールがありました。 あと、日本と違ってね、まだ満州はわりかしね、ギリギリまでゆとりがありました。だから、ビアホールでね、あの、ジョッキで飲ましてくれる。日本人はね、2杯まで飲めるんですよ。日本人以外、1杯しか飲ませないよ。 もう全部さ。だ、我々はね、向こう行ってね、さすがにね、ちゃんと、これこれ、 あのね、色々、日本人の1番まずいことはね、占領政策のまずさはね、あの、愚にもつかぬことにね、力入れるんですよ。あの、相手がね、嫌がることばっかり。  

 例えば、あの、もうね、あの、例えば、どこの町でもそうですけど、ちょっとした町には全部ね、神社作ります、神社を。だから、奉天には奉天神社がある。奉天神社の前に行くとね、ずっと誰でも行き来するでしょ?だから、普通の日本人やったら、そこで止まって、向こう行って、遠くからでもいいから、こう拝んで来いと。 だからね、朝鮮人でも台湾、満州人でもそんなこと知らん人間よくおるでしょ?そのままね、ずっと通り過ぎるんです、そこに憲兵が待っとってね、待てつって、 馬車に乗ってると年寄りでもなんでも、全部引きずり降ろして、そこでビンタくらわすんですよ。だからね、神さんに頭を下げるか下げんかでね、 相手の嫌がること、すぐにな、なんだ。ここのあたりがね、あのイギリス人なんかとね、違うんです。イギリス人なんかはね、 細かいことはほとんど言わない。この根っこだけね、キュっとこう閉めて、それで掌握したわけで、日本人はね、細かいことに全部言うんです、相手の嫌がることばっかり。朝鮮の場合やったら、ジョッポウ、あの名前を奪う、言葉を奪う。 なんか、さっき言うた信仰、この神社崇拝を押し付ける。ほんとせんでせんでも大したことないでしょ、本当相手の嫌がることばっかりの日本。

 そのまずさ。それから奉天、全部に、見られました。だからね、 奉天全部に、僕、色んなことがありますけども、当時でもね、あの密かに 独立運動をやっておったグループなんかにもね、お会いしてますよ。あの、僕らちょうど向こうのノウタイ(?)におったんですけど、下請けやらしてるね、朝鮮人の、製本屋がありました。そこは僕らが係ですから、よく行って打ち合わせしたり、それから、まあ、指導したり、こうするんですけどね。
そん時にね、あの、残高調べてるとこ見たら、紙の中にビラが入って、ビラ見たらね、ものすごい、抗日ビラですわ。日本はもうすぐ負けると、もう少し辛抱だとか、なんか書いてあったんだな。しかもこれ、もう少しなんて、もう辛抱せいうのことがね、ビラ、 それ見てたらね、それに、そこのね、おばあちゃん、気が付いた、飛んできてね。「頼むからし、知らん、知らんことにしてくれ。」それ、息子がね、やっぱりそのメンバーでね、そんなことわかったんや、もう殺されますからね。で、そこでね、また、その晩、もうすぐにね、朝鮮焼肉連れてってくれてね、 口止め、こちらも別にそんなことする気はありませんけどね。そういうね、どういうかな、あの、開戦前夜のね、ひしひしとしたこの世情いうなものが、未だに覚えてます、いろんなことが。

 からもう日本人の悪さ、横暴言うたらね、ひどいもんです、これはこれはひどいもんですよ、これは。どうしてああいう時代な…教育でしょうね。 とね、あの、日本人は、これ、どういうかな、あの階級、例えば僕ら普通の、ま、平民ちゅうか市民ですね。 ところが、これがね、みんなそれぞれ貧乏してる。ところがね、お前らのね。だから、苦労はわかるけどね、お前らの下にはね、まだね、まあどっちか言うたら「部落民」の話したらいいかな、まだまだ「新平民」とか、あの、「えっと」とかいう階級があるんだと。 で、その下にはね、朝鮮人がおるんだと、その下にはね、「チャンコロ」がおるんだと。だから、お前らはね、まだあの上なんだから 辛抱してくれという風な意識が戦前にはあったの。そういう意味で、やはり内地で迫害されてるような人は、満洲へ行ったら、逆に今度はね、自分がこう、いばる。いう現象がずっとかありました。だから、そういう風なね、ほころびがね、しょっちゅうあるんです、この間もあの方正、方正県っていう町で、 日本人のあのどういうの、あの、周恩来が作らせたっていうんだけど、ジュンダンイン(準団員、開拓団のこと?)が、あれが破壊されましたね。(註:方正県にある日本人公墓内に2011年7月新たに作られた名簿石碑が、ペンキをかけられ、建立10日後に撤去された出来事)いろんななりではあるんだけど、あれなんかもずっと、あの辺一帯はほとんどもう全部、強制的に取ったものを、日本のこの、 なんね、あ、与えて、そうして開拓させたわけでしょ。その恨みつらみあそこに全部来て、その戦後色々あったんだけども、ただし、その辺を大きくまとめてね、したのが周恩来ですよ。 だから、そういうようなことについてね、日本人とはね、全くこの感覚が違うんだけども、 ま、あらゆること考えてもね、あの時分には、日本は非常に悪いことしました、我々の責任はあんまり、僕らかって向こう行ってね、あの、当たり前と思ってましたよ。 なんでか言うたら、いざっちゅう時にはね、我々死ぬんだからと、みんなのために、みんなのためというより、満洲のために。だから、ジョッキに1杯ぐらいで、余計飲ましてくれたところで、当然、やという頭ありましたし、当時。ただし、それがね、相手から見たらどう思ったかっていう問題ですね。そりゃ、ほー(註:嫌な、否定的なニュアンス)としますよ。一が万事、ぜんぶそういう風にされてた。

聞き手:えっと、その、勤めてた国民学校っていうのは、日本人の学校なんですか。

 そうそう。そうそうね。向こうにね、鉄西区っていうのがありましてね、鉄西、ちょうどあの奉天の駅の裏っかわになります、 そこはもう、いわく重工業のね、大きな一大拠点でして、これはあの、戦後も、これは中国の非常に大きいこの産業の拠点になりました。だからあそこであの蓄積したノウハウ、これを全部中国全土へ持って行って、あそこであの慣れた職人が全部方々行って、んで、そこで新しい鉄工場を作ったり、新しいっぱい作ったり、 いう風なこともね、随所にあります。だからあそこは、どちらか言うたら、あの中国の重工業のメッカです、そこには日本人がたくさんおりました。で、そこへ、私、ちょうど、1番最後に下宿していましたからね。だから、そんなことで、何人おったかな。50人ぐらいおったかな、出征する前にね、全部にね、ほら、私の絵、絵、描いてくれまして。図画、このぐらいの、このぐらいの大きさの(見切れていて大きさは不明)画用紙にね、 みな、1人1人の、私のね、絵を描いてくれます。それを持って。で、ずっと、あの、背嚢につめてシベリアまで持って行って、結局、なんかで、取られてしまったかな。だから、今でおったら、いくつになるんだ。全部無事で帰ったかどうか知りませんけどね、これはひどい目にあってます。向こうで。

池田さん奥さん:74歳ぐらいになってます。

そう?そうなのかな。ああ、そうよなあ。いい子がいたな。

抑留者60万という数について

聞き手:そういえば、1人だけ、過去に、私が直接聞いた話じゃないですけど、えっと、満洲から汽車に乗ってる、汽車に乗る直前だったか、乗って直後か、脱走して帰ってきた人がいます。1人、お話をうちの会で聞いたんです。

あ、そうなんですか。

聞き手:ずいぶんこう、なんだろうな。こう、苦労っていうか、なんかスパイ小説みたいな話でしたけれど、 あの、その、民間人に、偽装してたり。ま、いろんな手を使って。

それ、勇敢な人ですよ。なかなかね、思い切れない、あれね。うん。はじめシベリア抑留はね、あの、ご存知ですか。あの、8月の22日にね、 アメリカのトルーマンと、スターリンと色々、やり取りしてまして、北海道の占領問題。 要するに、あの留萌と、それから、あの根室、あそこを結ぶね、北半分。あそこはソ連は占領するって言った。ほんで、もう軍艦全部そこにおおきく並べて、ほんで、 アメリカのトルーマンがオーケーと言ったらですね、ソ連は、北半分を、旭川含めて全部占領するつもりやったんです。それをトルーマンは断った。 それでね、あの、スターリンは腹を立てて、それで、あくる日の23日に、それまではね、スターリンはね、あの、北海道を押さえたらね、ま、これで、ええと、ああー、これで収支合うということでね、彼はね、それで、シベリア抑留っていうものをね、 あの、や、やる気なかったんですよ。ただ、準備はしてました、ずっと。それをね、あの、その後、変更しまして、 あの、その、必要はないということで、おったんですよ。で、これを、トルーマンがね、蹴っ飛ばしたもんだから、これで、スターリンがね、腹立てて、ほんで、あくる日の、23日に、シベリアの労働に耐え得る兵隊を、 あの、50万、50万、集めろということで、あの、シベリアに送るのが始まった。だから、我々は、 8月の23日、これ明後日ですが、を僕はシベリアデーとして、そうして、あの国でもって慰霊祭やれと。これ、あんた、あの広島、長崎とか あれか沖縄か、あれと同じようにですね、シベリアもやってくれということを僕ら要求しとるわけで、言い出しは私ですよ。
 で、それがね、あるんですけど、初め、そういうわけでね、50万だったのね、あのスターリンの指令は。で、これは明らかにそういう北海道の北半分の蹴られた代償にやりたい。あれが、もし北海道占領できてたらシベリア抑留はなかった 。で、そうであったんだ。ところがね、なんでもそうだけどもね、余計に見越してね、60万、招集したわけですよ、 余分に、あの、この集めたのを目標にね、送り込んだわけ。ま、そんな中で、途中で、あの、まあ病弱だから、使いもんなら人間もおって、これの途中で逆走するので、ま、いろんなことありますけど。 で、そういうわけで60万っていう数が出てきたわけですよ。だ、これがね、今おっしゃったようにね、また途中で脱走する人間がおった色々。 で、これでまた分減りしたわけで、こら、あかんちゅうんでね、その分を、あの満洲におった「ロスケ」の司令官どうしたか言うたらね、今度はね、兵隊に関わらず、一般市民、男狩りやった。ま、そこら歩いとるやつ全部連れてきて、 男狩り。これでもってまた埋めたわけです。だから、あの、本当にシベリアに送り込まれたのは兵隊ばっかじゃなくて、いっぺん逃げてきた人も、またもういっぺん捕まった人も、これからやっと、このおった、もっと年端のいかん人、16歳ぐらいの人間なん捕まって、これも全部後から。持ってかれた。
 あと、結局は、まあほぼ60万であり、死んだのが6万という風に言われてはおりますけどね。このね、正確な数もまだわかっていない。いうことなんです。だから、果たして、逃げて帰った人がね、得したか損したかがこれだけは、ようわからんのですよ。途中で多分ね、やられてるかもしれません。

池田さんの奥さん:この間のね、テレビでもね、やっぱりあの男の人は16歳、18歳やけど、あのね、 えー、16歳やけれども、18歳と言え言われて、連れて行かれた。

そんなんもありましたなあ。

池田さんの奥さん:今、83、4歳の方いうのは、そんな人ですね、みんな。はい、若いですわ。

軍人恩給と戦後補償

聞き手:長野で、あの、満州国の燃料省に勤めてた役人の人がいて。

どこ?何省?

聞き手:満洲国の燃料省。

燃料?ああ。

聞き手:あの役人の方がいて、その方も抑留されてますよね。 その方はでも、なんか視察に、ダムかなんかの視察に行ってるところで、つかまって、 軍、軍隊、関東軍と一緒に行動してたから、ま、そこに混ぜられて、背広のまま、ラーゲリに着いたっていう話をしてました。

 それね。なるほどね。だから、結局、あの60万言うのはね、1回にばっていった。何回でも、そういうなりがあるんですよ。 あ、これ逃げていった、だいぶ足らんだろ、分減りしてるから、またもう一遍、いうね、男狩りっていうやつがしょっちゅう行われたこと。ただ、これ非常に面白いね。これ結果論かもしれません。こういうことを言えるんですよ。
 なぜね、あ、僕みたいにうるさいこのシベリア抑留を、これ言いますけども、約ね、300万余り、当時、各あの戦線からね、帰ってきましたよ。 これにいっぺんで帰らんと、色々なその事情事情によってね、帰ってきたわけですよ。 そん中でね、これみんなね、ひどい目にあってんですよ。この間か、ずっとテレビでやってる通りにね、ほんとにね、人命軽視っちゅうか、それでね、向こうではね、細かいこと言うたらね、さっき言うたね、あの飯代、これ、当然軍がやらないかんもんをね。補給してないでしょ、あの間のものをね、変わるだけ、もう払わないかん、全部。 それから、いろんなことは、これは軍人恩給の問題もありますけども、いろんなことがありましてね、あの、そういう風に、あの、行き届かんというかな、もしくは政府の不条理で、何のこの恩典も被ってない人間はね、あの、兵隊はよくおるんです。

 いや、こん中でね、ただ1つだけね、文句言うたんがシベリアです。他の連中はね大人しく・・・なんでやねん。 これには理由があるんです。なんでか言いますとね、これ、あの軍人恩給に大きく絡んでます。あの軍人恩給は、ま、今色々、あの、ご存知か知りませんけどね、病気(制度的問題を示唆しているニュアンス?)なんですよ、これ。大変ね、ややこしいよ。ま、簡単に言うたら、 あの12年、兵隊は、将校は13年、これ、あの軍歴がないとくれないわけ。 たとえ1か月足らんでもくれんわけで、12年、13、これ、なごう聞こえますけどね。これ全部ね、行ったところによってね、差があるんですよ。あの2倍、3倍、最前線、最も危ないところ、これちゃんと書いてある、ここにね、おったと、この場合には3倍加算。加算、一年おったら三年で見てくれる。え、次に、そう危のうはないけども、日本に、内地におるより危なかったっていうとこは、これ第2。ここの場合、2年、2倍加算、加算みてくれるんですよ。それを合わして、まあ12年に満ちたら恩給くれるわけ。1か月足らんでも恩給くれない。 そういうね、あの恩給法なんで。

 ところがね、だから総体おしなべて言いますと、恩給もろうた人間が大体4割 から、恩給が当たらん言うたら12年足らんわけですよね、足らん兵隊が6割、ほぼ。だから、軍人恩給言うたら全部がもらうとるわけちゃうんです。いう風になってるわけ。ところがね、これもまあ色々不合理あり…これね、ドイツの場合、またドイツ行きますけど、ドイツの場合にはね、あの、大将であろうがね、一等兵であろうがね、全部同じ金額です。この、ただ、ドイツの場合にはね、年月が長い人間ほど加算するようになってるの。短い人間はね、あの、率が低いの。そういうな。ただ1番原則は 大将であるものが一等兵であるが同じですよ。これなんでか言うたらね、軍人の間はね、これノウハウ色々ありまして、才能が、まあ重要な仕事してる人間が高いってもらうのは当たり前というか。ところがいったんね、軍人辞めてね、一旦市民に帰ったらね、これ大将も一等兵もないでしょ。全部同じやという解釈です。
 ところが日本の場合にはね、これ大将はね、約年間833万円。毎年ですよ、毎年。だから、1番べったがね、70万円おるんです、ものすごい格差です。ものすごい。しかもそれね、ずーっと払い続けてるの。だからね、億以上もらった人間はゴロゴロおります。
こういう風に、日本のね、恩給はね、ものすごい不合理にできてるんです。ところが、それはね、なんでこのシベリアがね、だけ騒いだ言うたらね、シベリアの兵隊はね、ほとんど軍人恩給もらってないんですよ。なんでか、8月のあんた、主にね、 1日に召集されてから、15日したら敗戦やと。ま、12年たらん。だから、シベリアの兵隊のほとんどはね、ま、なるほど、中国から回ってきたり古い人間もおりますよ。でも、大部分はね、軍人恩給ないんですよ。
 軍人恩給もらったやつはね、一言も言わないの。不足を。ところがシベリアの連中はほとんどもろてないから。これがブーブー言う。 これも大きな原因です。だから文句言ってる。で、ここの戦線をね、 ほとんどあの南方行ったら一番長いでしょ。だから恩給対象者の率が多いわけです。皆、毎年毎年貰ってるから。ところがね、日本なんていう国はね、大体、さっきも申し上げましたけど、日本がね、 内にも外にもね、大体、戦後、責任を感じて賠償したの、 さっきも申し上げましたけどね、1兆円ちょっとです。ドイツは11兆円だった。ところがね、あの日本、金がないからできんのか言うたら、さにあらず。先ほど申し上げた軍人恩給、これ、なんぼ払ってると思いますか。 50兆円越してますよ、すでに。 で、毎年毎年、まだね、今年でも去年でもそうですけど、約8600億円ぐらい払ってます。多い時にはね、1兆6000億ぐらいありました、毎年。すごい数。だから日本のね、 金、国民の税金はね、ほとんど軍人にやってるんです。なおかつ、これ、軍人のえらいさんに。
 そういう現状ですよ。これ。で、一銭五厘で集めた兵隊に対しては一銭もやらない。
こういう風なことをね、やっぱし僕はもっともっとね、明らかにせんとね、国民のね、僕は判断が得られると思います。私が言いたいのはね、 今現在、あの、内にも、外にもね、いろんなね、あの、 戦後賠償の問題がいっぱい残ってますよ、まだ。僕、一遍聞いたことあるの、議員に。「あの、仮に、先生、これ全部ね、綺麗にね、補償しよう思ったらね、一体何ぼ入りまんやろ?」って聞いたことある。「そやな、大体3兆5000億ぐらいやろうな。」言うて、 3兆。しかも、これもね、いっぺんで払わんでええと、10年ぐらいかかってね、ぼちぼち分割で払ったらね、これきれに全部なくなる。 あらゆるこのアジアの国々、その他いっぱい、いっぱいあります。内にも外にもいっぱいあります。綺麗になくなる。これをな、綺麗にせんことにはね、日本はこれ、東アジアで、なかなかこの、 先先、具合悪いですよ、これ。だからな、結局、3兆5000億をね、どうやって集めるかっちゅう問題です。

 で、僕のね、今、自論あったの、そのうちに僕、暗殺されるかもしれません。なんでか言うたらね、軍人恩給もね、一旦これやめっちゅう。払わん違いないっちゅうの、このね、多い人がね、 830なんぼ。これはね、本人が死んでもね、遺族もらってん、半分 。じゃ、○○○○これもうね、億以上はゴロゴロおります。毎年、これをね、払わんというんやないけどね、1番低い人にね、合わしてくれへんかっちゅうんです、年に70万円。ドイツと同じ理屈です。 大将も一等兵も一緒やないか。そうしたら、その差、この傾斜がね、 大体、僕の経験のことから言いますとね、大体年間ね、3500億円ぐらいになります。こんだけ余ってきます。これを全部の、この戦後補償にね、10年間 投入することにおいて、きれいに全部消えます。

 いや、僕はね、今度せっかく政権交代したんやったらな、思い切ってね、法改正やれと。なんでもそうですけどね、もうこの戦後補償の問題はね、よう、理屈はわかると。でも、金がないっちゅうのが理由ですね、 だ、財源の問題だ。僕は財源をね、なんかで見つけたらね、思い切ってやったらいけるでしょ。 で、僕はそのね、逆傾斜方式を、提唱してる。
特にあの、今、あの、それを取り上げて、わりかしよく研究してくれてるのはね、あの、空襲被害者です、空襲被害もね。あれちょっと、ほんとは難しいです。誰にやったらいいんかわからへん。けどね、あれ、1番大きな問題はね、 財源がないと、財源を、僕が言うたような方法で、軍人恩給っちゅうものをね、法改正すれば、毎年3500万浮いてきます。これ使えや。 ただね、空襲被害なくてね、他の問題全部片付きます。ただね、そんなこと言うたらね殺されますよ。けどね僕は死んでもええと思ってる。

体験一覧へ

体験記録

  • 取材日  2006年4月22日(miniDV 60min*2)
  • 動画リンク──
  • 人物や情景など──
  • 持ち帰った物、残された物──
  • 記憶を描いた絵、地図、造形など──
  • 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─

参考資料

  • 地図 ───
  • 年表 ───

戦場体験放映保存の会 事務局

■お問い合わせはこちらへ
email: senjyou@notnet.jp
tel: 03-3916-2664(火・木・土・日曜・祝日)
■アクセス
〒114-0023 東京都北区滝野川6-82-2
JR埼京線「板橋駅」から徒歩5分
都営三田線「新板橋駅」から徒歩7分

Copyright(c) JVVAP. All Rights Reserved.