五十嵐 耕平さん

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五十嵐 耕平さん

生年月日19〇〇(大正〇)年生
本籍地(当時)埼玉県
所属海軍
所属部隊舞鶴海兵団
兵科普通科飛行整備
最終階級 

インタビュー記録

1942(昭和17)年5月1日 舞鶴海兵団入団

 軍人恩給は軍属にいた場合は加算になると書いてあるんです。僕は海軍でね、技能職の仕事に就きました。僕は新潟の方ですからね、新潟、富山、日本海側は舞鶴が管轄、鎮守府(注:海軍を管轄する根拠地)があって、関東、東北は横須賀、中国地方、近畿は呉が管轄、四国、九州は佐世保がそれぞれ管轄しています。僕は昭和17年5月1日に舞鶴の海兵団に入った。訓練を受けて、8月15日に特務艦鳴戸に乗ったんです。油を運ぶ軍艦です。

 呉から出て南方方面に向かい、ソロモン海に入った。ラバウルの先のカリンゾウ(? 話題はショートランド諸島(泊地)についてで、この前の音飛びしている部分で言っている気がする)へ行った。そこに連合艦隊が集まり、給油をするんです。そしてまた、帰ってくる。11月12日未明に、そこへ米軍のB17が来て、爆撃をしてきた。ドカーンと250キロ弾を食らい、船に穴が開いた。すごいんです。ガーガーガーっと揺れちゃって、まさに大地震ですよ。軍艦って部屋が分かれている。こっちに水が入っても、向こうの部屋にはいかないことになっている。でも穴が開いてしょうがないから、呉の軍港に帰ってきたんです。そこで修理しました。

第1001航空隊

 17年12月25日にトラック島を抜けて帰ってきて、試験を受けた。僕は水兵だったけど、普通科飛行整備練習生に合格して、トラック島で退艦したんです。博多の海軍航空隊で訓練を受けて、台湾の新竹に行った。転勤が多く、鹿屋にも転勤になって、そこを卒業して、第1001航空隊に入った。いわゆる空輸整備の仕事、大型機で出来たばかりのゼロ戦を引っ張って運んだ。ゼロ戦は一人では洋上飛行ができないんです。飛ばすには誘導する大型機が必要なんです。⒑機ぐらいを連れて、南方の方、マレー方面に引っ張って行ったんです。

 帰ってきたら、今度は第一二航空艦隊の司令部付、これは千歳なんですが、ここに移った。ダグラスに長官とかお偉い方を乗せて、各地を飛んだ。羽田との間をもっぱら海軍省との連絡に飛びました。樺太、当時、北緯50度からこっち、千島、択捉、カムチャッカ(訳者注:カムチャッカはソ連領)は自分たちの配下でした。そこの基地を視察したりもしました。

1945(昭和20)年8月1日 三沢第三航空隊 天雷特別航空隊

 20年の8月1日には三沢の第三航空艦隊へ行った。そこで天雷特別攻撃隊が編成された。知らないで行ったら「我ら転勤で参りました」「ご苦労であった。本隊は秘密航空隊である」と言われてね。「こりゃ、いよいよあれか」と思いました。そこは各航空隊の生き残りを集め、編成した部隊です

 8月20日に作戦を決行することになりました。サイパン、沖縄、グァム、テニアンの4か所で強行着陸し、飛行場を制圧するという話でした。でも考えてみれば、一時、飛行場を制圧しても、後が続かない。飛行機がないのになんであんなことやるかね。そして8月15日になって終戦、それで生きながらえたのです。8月25日に田舎に帰ってきた。みんな自分の出身地に帰れって言う。あの時、確か4000円(訳者注・最初、400円と言っていたが後に訂正)をもらった。飛行機は生まれ故郷に近いところを飛ぶと言われて、「九州の近くの人は集まれ」みたいに言われた。私が「鈴鹿の航空隊ではどうですか」、と言ったら、「鈴鹿ならいいよ」と乗っけてくれた。終戦のとき、赤本とか軍国時代の書類を全部焼いた。捨てちゃえっていうんで海の中にボイスカボイスカ捨てちゃった。着の身着のままになり、鈴鹿の航空隊まで来て、「じゃここで降りる」といって帰ってきました。

 今回の戦争(の一番の問題)は教育だね。教育が一番大事。ぼくらの子ども時代は軍国教育。昭和の初めで、「肉弾三勇士」で育っている。少年倶楽部、講談社が出しているアレとか廣瀬中佐とか、山中峯太郎という作家の「敵中横断三百里」とかそういうのを一生懸命読んでいる。勇ましいなとか思いながら、お国のために死ぬのが男子の本懐だとか、そんな教育ですよ。教育は大事ですね。男と生まれたからには兵隊に来いとかね。軍隊はかっこいいとか宣伝をすると、みんな憧れるんだ。今の野球選手みたいなものですよ。そういうところへ入るのが男の本懐だと思った。

 海軍ではぼくが一番背が小さかった。ギリギリのところで。今考えると、大きいのはだめだね。飯はうんと食うし、敏捷性がない。戦争には向かないね。海軍は機械をいじるのが中心だから、ひっぱったりする力もいらない。今、考えると小柄でよかったなと。

聞き手:海軍を選んだ理由は?

 先輩がセーラー服姿で帰ってくると、かっこいいなあと思ったんだ。そういうの、少年は憧れますから。航空兵なんか、じゃあそういうふうにやろうと。(兄弟は?)5人で、今生きているのは一番下の弟だけ。(何番目だったんですか?)3番目。すぐ上の兄貴はすぐ病気で死んじゃった。一番上の兄貴は陸軍に引っ張られた。

聞き手:海兵団に入ったころ、教育はどんな感じですか?

 徹底的に鍛えられますよ。お前らシャバの人間はだめだ。ここはシャバとは違うんだと言われた。とにかく体操をやって、いろんなことをやって体を鍛えるんです。朝起きると海軍は釣床ですから、1分以内にハンモックをまとめて片付けなくてはならない。そういう訓練をやる。朝、「総員起こーし」という号令がかかる。海軍は何でも何かやる5分前と言うのがある。「総員起こし5分前」という号令がかかって、ハンモックであと5分で起きなきゃ(起きあがる準備をしている構え)、「総員起こし」という号令がかかるとウオーっとパッと飛び起きてハンモックを取ってくくってそこに置く。マラソンとか腕立て伏せもやらされた。バッター(※後述の軍人精神注入棒のことで、現在のバットではない。バットより長さもある)でも殴られた。手をあげさせられ、(訳者注・立ち上がり手を挙げるポーズをしながら)「足開け」と言われ、力いっぱい(場所については言及していないが、殴る場所は一応尻)殴られる。これ軍陣精神注入棒がぶら下がってる、赤い房がついているんだよ。あれは確かに気合が入る。ぴしゃッとします。全員やらされるんです。たたく方も大変だ。汗をかいていますから。鍛えられましたね。

 練習生の時、厚木航空隊のとき、海軍は必ず卒業する時に演習があるんです。江ノ島で演習があり、海岸で鉄砲と背嚢をしょって、藤沢から厚木まで歩かされました。あれ、何キロあるのかな。2時間ぐらいかかったかな。飛行機がどうして飛ぶのかも教えられるんです。エンジンとかプロペラとか。

聞き手:船から飛行機に変えられた理由は?

 船じゃしょうがない、飛行機に乗ろうって試験受けたんです。

聞き手:試験は定期的にあるんですか?

 何期の何を募集するとか出るんです。学科試験を受けて、受かったらどこの航空隊へ行けって。

聞き手:船から乗り換えるひとは多くないですよね?

 少ないですね。

聞き手:航空隊に移ったらすごいとか周りの人はいうんですか?

 いや転勤になって艦がどこに行ったか分からないですよ。あっちこっち行きますからね。僕が乗った船は鳴戸。確か最後はラバウルかどっかで沈んでしまいました。海軍はいつまでも同じ部隊に一緒にいることはないです。転勤ばかりです。

強行着陸作戦

聞き手:三沢基地はいわゆる体当たりの特攻ではないですよね?

 飛行機で行って強行着陸し、そこの飛行場を占領するという部隊です。あんなことをしてどうなるのかな。後が続くならいいけど、それをやっても補給がないわけだから、何であんなことをやるのか。死にに行けということですね。作戦練ってる連中はなんでこんな事をやるのかなと思って。悲劇です。軍隊というところは上から言われたらハイっと言って逆らうことができない。「こうやったらいい」なんて提案できない。変な指導者だったらたまらないですよ。

聞き手:他の人とはそういう話はしなかった?この命令は変だとか

 いよいよ死ぬかってねえ。一人結婚している奴がいて、子どももいた。「もう一遍、坊主の笑い顔を見て死にたいな」とか言っていた。僕は独り者だったからね。そうか僕も端の端(ハナのハナ)になって死ぬのかなって。今までしょっちゅう飛び上がったり(落ちる仕草)するのは何でも思ってないけれど、「お前今度は死ぬ」とか言われるとなると、これは考えますね。2時間ぐらいしてすっきりしたけど、言われた時はみんなそうですよ。自分で希望して出撃した人はまずいないでしょうね。これは命令ですよ。

聞き手:特攻隊を希望しないということですか?

 あの頃だったらまず希望なんかしないですよ。全部命令ですよ。お前はどこどこの航空隊へ行けと。そこが特攻隊だったと、そんなもんですよ。最初から特攻隊なんて言わないんです。お前は○○に行けと言うから、ハイって行ったら、ここは特攻隊だって。そんな調子です。自分はもうだめ。いつか死ぬんだとみんな思ってましたよ。この戦争は勝つわけないと。あんなにやられているのに、まだやめないんだからね。おかしいと思うよ。馬鹿みたいだな。焼け野原になってもやっているんだから。

聞き手:いつ頃からそう感じていました?

 昭和20年の初めごろにはもう絶対だめだなと思っていた。勝つなんて思っていませんでした。

聞き手:何か見たり、経験されたりして、そう思ったのですか?

 だってね、飛行機に乗って上から見ると分かるんです。焼け野原なんです。こんなになってて、なぜまだやるのかなと。やれというから最後の一兵になるまでやるんですよ。1億みんなが死ぬまでやれと。

聞き手:海軍の他の人とそんな話をしましたか?

 「ダメだ」ぐらいの話はしましたね。僕らは飛んで歩いているからわかるんです。原爆でやられてるし、焼け野原だし。

聞き手:広島や長崎の上を飛んだんですか?

そうです。

聞き手:硫黄島のこと本で読んだんですが、日本本土でも同じような状態になるということですか?

 硫黄島は玉砕ですよ。そうです。勝つんじゃないんです。死ぬことがお国のためになるんだ、そんな考え方。沖縄でも「敵が上陸したらやられるんだから、自決しろ」というのがありましたよね。

聞き手:8月20日は何人で出撃する予定だったんですか?

 どのぐらい集まったのかな。飛行機もあまりなかった。10機もあったかな。あっちもやられた、こっちもやられたで飛行機もないんです。

聞き手:どんな飛行機に乗る予定だったんですか?

 ぼくは爆撃機だったから。転勤の場合は電車です。軍服来てますから、どこぞの航空隊っていえば行けるんです。

聞き手:特攻の時、どこに行くと決まっていたんですか?

 僕は沖縄でした。どうしてああいう計画を立てるのか分からない。

聞き手:占領された空港に着陸してですよね

 でも後が続かない。こっちは飛行機がないんだもの。本当に行ったきりですよ。お前はあそこに行って死ねということですよ。ただ、お国のために死ぬんだと。

聞き手:沖縄の状況当時、正確に伝わっていましたか?

 いやいや、細かいことは全然入っていない。死に場所というだけ。

聞き手:そこに行けと言われたのは?

 ここの部隊に来た時すぐですね。8月1日に行ったときに20日の出撃を言われた。

聞き手:どのような訓練をしましたか?

 目標に行って相手に爆弾を落とす。大型機で行っても 戦闘機が付いてこなければ、話にならない。向こうは待ち構えてバンバン打ち込んでくる。みんな撃ち落される。戦闘機はこっちにないから。爆撃機は爆撃しかできないからね。機銃ついていてもたいしたことはない。戦闘機は宙返りするけれど、大型機は飛んで旋回するだけでね。後ろと上と横に機銃はあるけど、戦闘機に捕まったら、爆撃機はだめですよ。

聞き手:輸送中に戦闘したことはないんですか?

 ないです。ラバウルまで行くのに船に乗った時だけですね。後はなかった。

聞き手:戦闘機に追い回されたりはしなかったのですか?

 ないです。戦闘機に捕まったらおしまいです。搭乗員なんか消耗品ですから。人の命をなんだと思っているのかね。

一人前の搭乗員になるには

 やっぱり一人前になるのに徹底的に訓練して一年以上はかかるね。練習生が来ても実際、操縦桿は握らない。サブで乗って先輩のやるのを見て覚える。まっすぐに飛ぶというのはヨーソロー。取り舵一杯とか。面舵は右。取り舵は左。飛行機の用語は船と同じです。当時、飛行機というのは科学の粋を集めていた。計器がいっぱいあるんです。昇降計とか旋回計とか。スピードだとか。エンジンのケージとか。何度で旋回しているとか、何度の方向に飛んでるのかとか、計器に出るんです。今、何メートルのスピードで上昇しているとか。

聞き手:夜間は計器に頼るんですか?

 そう計器飛行というやつ。晩になって見えなくなったらそれが出来る。陸軍はそれが出来ないからダメなんだ。せいぜい近距離しか行けない、ダメ。

聞き手:海軍はマラソン、陸軍は短距離というように違うんですか?

そうなんです。

聞き手:敗戦はどういう状況で知ったのですか?

 お昼に、12時に放送がある。天皇陛下の話があるから全員集まれってね。最初は「もっと頑張れ」ということかねと思ったけど、聞いても何言っているかさっぱりわからない。雑音が入って、わざと分からなくしてるのかと思いました。みんなに聞いても「何言っているか分からない」というんだ。あんまりはっきり言うと困るもんだから、むにゃむにゃ言って雑音を入れた。おそらくそう思うんですよ。

 はっきりあんなこと言わないものですよ。今のは何だったんだ? 何だか分からねえよって。僕は戦局は悪くなった一生懸命やれということかと思ったら、誰かが「負けたんだよ」って。大変だ。でも命は大丈夫。帰れるんだってね。中には「俺は最後まで戦うんだ」といって飛び出して行って、憲兵に捕まったのもいたな。

聞き手:ホッとする気持ちが強かったんですか?

そうですね。これで死なないで済むのかと。連中みんなもそうですよ。「ああ命ながらえた」。軍隊行ったらいつ死ぬか分からないからね。誰々、死んだぞ、やられたぞとかって。

現場から入る戦況

聞き手・各地の状況は耳に入っているんですか?

 いやー。大体そんなの教えないんですよ。戦況がどうなっているなんてことは言わないんです。

聞き手:じゃ、訳も分からずやっていたんですか?

 どこがやられたとか、そんな細かいことは分からないです。負けているなというのはわかりますけど。無電で入ってくるけど教えないんです。ただ、電信兵は分かっている。暗号で入ってくるから。

聞き手:基地に新聞はなかったのですか?

 なかったね。新聞はあったかな?。大体見なかったね。でも、あいつはここでやられたとか。大体、負けることは分かるんです。

 呉の軍港に入ったとき、舞鶴にいた二等巡洋艦「利根」がいた。同年が乗っていたんで、「どうしたんだ」と聞くと、「けがしちやった。ソロモン海海戦で艦橋をやられたので修理している」と言っていた。「直した後はどこに行くんだ」と聞くと「分からない」と言っていた。

聞き手:ソロモン海戦はどのような作戦だったんですか?

 ガダルカナル島ってありますよね。南方でヤシの生えた密林の島。あんなとこが「取った」とか「取られたのか」とか、よく事情が呑み込めなかった。鳥が飛んだりして。オウムが飛んでギャギャという静かな所ですよ。あんなとこ取ってどうするんだと思ったね。ラバウルはちょっとした港街だった。航空隊もあったしね。

聞き手:死守したり、奪回したりとかしたんですよね?

 ガダルカナルは夜襲をやったけど、逆にやられたんです。一等巡洋艦を先頭に駆逐艦がついてくる。勇ましいなとみていたんだ。20ノットぐらいのスピードで白波がシュっと出ている。格好いいなと。

聞き手:乗っていた鳴門は爆撃を受けたそうですが、その時の様子をもうちょっと?

 空襲警報があって「全員配置に付け」と言われ、大砲などに向かうんです。撃てって号令があったら撃つんです。敵機襲来というけど、高すぎて敵の飛行機が見えない。撃てという号令はかからなかったね。普通なら「撃てー」「目標どのぐらい」って距離を言って、そちらの方向に撃てと号令がかかるんだけどババ―ッと(爆弾が)落ちてきて、ダダっとなってガラガラ…。大地震みたいだった。浸水はしなかったんです。ドアは防水扉だし。1つの部屋に水が入っても、ほかの部屋は平気なんです。傾くとバランスをとるようにできている。

聞き手:実際に攻撃を受けた戦闘はそれが最初で最後だったんですか?

 ぼくはドンパチやらなかったんです。攻撃を受けたのはそれだけ。輸送の方をやっていたから。だから、全然けがをせずに帰ってきました。陸軍みたいにあっちこっち行って、鉄砲を撃つことはなかった。

聞き手:鳴戸の中での仕事は?

 私は探照灯の担当です。飛行機が来たらそちらを照らす。(訳者注・探照灯は)こんなにでかいと(両手を広げる)。それをぐるぐる回したりしてね。

海軍だと大砲は3人で操作する。弾を込める人、相手との距離を測る人、弾を打つ人です。

聞き手:弾は当たるんですか?

 飛行機に当たるわけがないですよ。船と船とでやるなら分かりますけど、高射砲(訳注:海軍では高角砲とよぶ。以下同様)を打っても相手は高いところにいるんですから、届かないんです。高射砲は(口径)13センチ砲で撃って1万2000メートルまで、8センチで8000メートルまでしか届かない。8センチ撃ったって届くわけがない。向こうは低空で来ないんだ。東京大空襲もそうでしたよ。ほとんど高高度から爆弾を落としている。高射砲は一定の距離に達すると1発がバーンとさく裂し、細かく割れるんです。海戦の場合だと船と船の戦いでは徹甲弾で船に穴を開けるんです。

聞き手:用途別に弾を使い分けていたと

 船同士だと徹甲弾でないとダメ。でも艦隊同士の海戦はあんまりなかったな。大和みたいなあんなでかい船も艦隊同士の海戦では使われなかった。アメリカさんは飛行機でどんどんやるでしょ。空中戦が中心なのにこっちは船に乗っているなんてね。

 山本五十六はトラック島に行って、大和を指揮していた。山本は死ぬ気で行っていたんだ。戦争に反対していたからね。最初からダメだと言っていた。山本はあちこち行って(戦争の状況を)知っているけど、陸軍の連中は良く知らない。東条英機なんかは「神国日本は絶対勝つ」なんて馬鹿なことを言っていた。海軍はあちこちまわっているから分かるんですよ。だから、山本はダメだと言っていた。やるんだったら一発だけやる。ハワイ攻撃だけ。一式陸攻に乗って基地視察に行ったけど、本来はやる必要がなかった。死ぬつもりだったのだと思う。普通だったら戦闘機が護衛するのに、全然、それもなかった(訳者注:実際には山本長官遭難時の護衛戦闘機は6機)。それでやられちゃった。

 あの人は新潟の人。(長岡藩家老の)河井継之助を知らないかな。幕末に新潟で官軍に反抗したのは河井のいる長岡藩だけなんだけど、山本は河井に似ているなと思う。河井は世界の情勢も知ってていて、負けることが分かっていたからね。

聞き手:特攻を見送ったことは?

 ないです。19年10月から特攻は始まるんですが、私は司令部付になっていた。最後になって飛行機を全部、三沢に集めました。大型爆撃機の一式陸攻ばかりで、戦闘機はもう飛べない状態でした。

聞き手:そういう場所だったから、終戦後、書類を燃やしやたんでしょうか?

赤本をね。秘密の本ですね。それを全部焼いた。

聞き手:どんなことが書かれているんですか?

 軍の機密だね。これを知られたらまずいという軍の秘密。軍極秘というのが一番あれなんです。書類に秘とか判が押してあるんです。これを見せちゃいけないと。

聞き手:もし残っていたら貴重な資料ですね

 当時は漏らしたら死刑になるとかデマが飛ぶんです。どうせ殺されるんならやろうじゃないかとか、そういうのがいるんですよ。

聞き手:米軍が入ってくるまで三沢にいられたんですか?

 僕は厚木の航空隊に荷物を置いてあったんです。そしたら厚木にマッカーサーが来ることになった。僕は厚木にいけないまま、軍隊から解放された。だから荷物は全部取られちゃった。近所の農家の人が入って持って行ったらしい。こっちは飛行服を着たまま、半長靴を履いて、そのまま帰れといわれ、軍から4000円もらって帰った。みんなに渡してた。階級に応じてかなあ?もう少しあげるとも言われても、これだけあればいいかなって。月給20~30円の時代ですよ。欲はないですから、生きて帰れるだけでいいやと。

 今考えれば、あの金で何か買っとくべきだった。あんなにパーになるとは思わなかった。うちは農家で食べるのに困らなかったからね。その時分は閉鎖になったでしょ。その後500円以上、(一回で)使っちゃいけないとなったんです。自分の金も下ろせないし、そういう時期もあった。

聞き手:預金封鎖ですか?

 親父がお前は大金持ちだと言っていた。当時は100円とか200円とかで家が建てられたからね。物に代えとけばよかったけど、そんな事情はよく分からない。4000円はちょっとずつ使ったけど、土地を買うとかに使っておけばよかったと思います。東京の人は食う物がないし、家も焼かれたし大変でした。うちは農家だからね。そんな心配はなかった。

聞き手:4000円くれたのは搭乗員だけ特別ということですか?

 どうだったかな。これ持って行けと。こちらは欲がないからね。

海軍と陸軍

聞き手:陸軍と海軍は仲が悪かったというが、待遇差もあったのですか?

 仲悪いも何もぼくは陸軍と一緒になったことがない。一緒になって作戦することはなかったですね。

聞き手:同じ飛行場を使うとか?

 いや、それはなかったですね。海軍は海軍の飛行場、陸軍は陸軍のですから。ただ、あの当時、不時着する場合は電報を打ってやるけれどでも普通はなかった。

聞き手:もしかして開戦する時から仲が悪かったんですか?

 えらい連中はどうだったか、下の者はそんなの分からんですよ。でも、一緒に何かすることはなかった。海軍は「陸さん、陸さん」って陸軍を馬鹿にしていたんですよ。あいつらは泥臭いやつだと、何も知らないやつだと。海軍はあちこち(の基地を)歩いているでしょ。

 だいたい、海軍は英語も使っていましたからね。用語の中に英語が有るんですよ。サイドとかラッカーとか。帝国軍人は英語を絶対使っちゃいけないというです。でも、海軍には普通使っている言葉の中に英語があるのにね。ハンモックとか。これはイギリスから来てますから。英語を使っちゃいけないというので、全部に日本語に直せとなって、ハンモックは釣床(※教官によれば、釣り床、吊床もあるが、釣床が最も一般的らしい)かって。でも、毎日ハンモックという言葉を使っていましたので、なかなかそうは呼べない。ああいう馬鹿なことを言っているんです。エンジンは機関(訳者注:正確には発動機)だとか、プロペラは回転翼だって。(そう読み替えるのは)大体無理。向こうからきたものだから。日本語に当てかえるなんて無理ですよ。飛行機の部品にまでなんて、かえっておかしいですよ。ラジエターは気化器なんてね。

負ける戦争?

聞き手:志願なさった時はイケイケどんどんで、国もそうだった思うんです。みんなが同じ方向を向いて志願されたと思いますが、戦争が終わった後で自分たちのやったこと、日本はなぜあの戦争をしたのかを考えたことはありますよね。それはどの時点からですか?

 負けた時から負けるのは当たり前と、こんなんで勝つわけないんだ。

聞き手:これは誰のための戦争とか、そういう話は当時はできませんよね?

 腹の中でみんなそう思ってましたよ。そんなこと言ったら○○にやられちゃうからね。「陛下のため」天皇陛下のために、それが最高のあれだった。

聞き手:陸軍は目の前で敵軍と対峙することが多いですよね。死体も見るだろうし、戦争の後、考え方が変わった方が多いように見受けられますが。人を殺しているという実感はありましたか?

 ドンパチやったことがないからね。

聞き手:それって、逆に客観的に戦争を見られることでできるのでは?さっき、ガダルカナル島がヤシの実に覆われてという話をしていますが、石油のためにその島が必要だったのでは。何でこの島に行くのかと意味づけてみたことはありませんでしたか?)

 当時は命令(訳者注・がすべて)ですから。この船はどこに行けったら、そこに行かなきゃいけない。船に乗ってる自分もそこに行く。軍隊は命令だけで動いていましたから。あそこへ行けったら、ハイと。

聞き手:先に触れた4000円、多額の退職金、報奨金みたいなものは陸軍になかったのでは?そんなに多くの人に与えていないのではないですか?

 そうかもしれません。(奇異な感じはしましたけれども)終戦後、原隊が厚木なら、厚木へ行けと言われるんです。海軍に主計兵というのがいますが、給与を支払ったりする人です。「このぐらいの人数が帰るからこれだけ必要」とおおざっぱに数えて、お金が動いているんです。出す方は適当で、領収書を取るわけではないないからね、さてどうだったか。

聞き手:軍事物資は上官が売りさばいたとか聞きましたが

 そうかもしれないね。僕らはそんなこと頭にないからね。命あって帰れればいいや、こんだけもらって家に帰ればそれでいいやって。そういう経済観念はないんです。そろばん勘定はないですよ。兵隊とかそうじゃないですか。いちいち細かいこといわないですから。

聞き手:家族は喜ばれましたか?何か言われましたか?

 親父はお前よく金をもらってきたな、いいなと言っていました。あれで田んぼでも買っていたらね。でもそういう頭はなかったね。

聞き手:生きて帰ってこられたことに関して家族はどう思っていましたか?

 「親は良かった」と言っていました。僕らは歓呼の声の中、神社の前で旗を持って「行って参ります」とか言って、駅まで送られましたからね。駅ではさっそうと電車に乗ってね。

聞き手:お兄さまは陸軍に徴兵されたとおっしゃられましたが、陸軍のこと、何か話を聞きましたか?

 兄は戦争中、東京にいたんです。焼かれたでしょう。焼け跡の整理をしていた。焼ける前に、強制疎開というのがあって家を壊していた。

聞き手:戦場には行かなかったのですか?

 行きませんでした。強制疎開ということで、打ちこわしをやっていたんです。僕が自宅に帰って一週間ぐらいしたら、兄も帰ってきたんです。

聞き手:五十嵐さんの復員はいつごろですか?

僕は一番早かった。8月20日ごろだったかな。

聞き手:25日と、ここには書いてありますが

 ああ25日かな。帰ってきたら、軍隊から帰って来たというの一番早かった。「生きて帰って良かったですね」と言ってたけどね。僕の同級生がね「うちの兄は死んじゃった」と言っていた。確か朝鮮かどっかですよ。

特攻

聞き手:特攻のことをもうちょっと詳しく来たいんですけど、特攻に決まって特別にされたこと、例えば、ご家族の写真を見られたとか、脱走したいとか、毎日、泣いていたとか、夜眠れなくなるとか、どういう風に過ごされていましたか?

 いや、そういうことはないですね。そんな深刻な、よく(書物に)書かれているけど、僕らはあんな、終戦でああよかったとね。(あんまり実感がありませんでしたか?)俺は生きて帰るなあというというのはありましたがね。当時は死ぬのが当たり前。「お、お前は生きていたな」というぐらいで、死ぬことに恐怖感はありませんでした。ただ、「お前は特攻隊だ」と言われた時は、俺もいよいよ死ぬんだなと考えたね。そうかと。あとは悟りを開いたというか、そんな感じでしたよ。

聞き手:陸軍は切り込み隊というのがあって、生きる希望がないのに行けって言われて悩んだというのを手記で読みました。そこで戦争の非人間性に気づいたとか。先に死んだ人に対して生きて申し訳ないとか、ここで逃げたいとか心の揺れはありましたか?

 悔やんでもしょうがない、スパっとそういうのを(切り落とす仕草)あれする気持ちになりました。あんまりくよくよしないってね。大体、搭乗員というのはそんなものですよ。いちいち考えていたら戦争なんてできるわけがない。細かいことは考えないんです。死ぬときは死ぬんだと。ああ俺は生き残ったんだ。こりゃよかったなと、そんな程度。あんまり深刻には考えなかったですね。

聞き手:特攻に決まったとき、家族に何かを残そうと考えましたか?

 お前はどこどこの航空隊に行けと慌てていってみたらそこが特攻隊だったんですよ。「ただいま転勤して参りました」と言ったら「本隊は秘密航空隊である」なんだこれはと思いました。これが特攻隊なんだと。家族には、何も知らせなかったな。くどくど心配してもしょうがないんですよ。親も息子が兵隊に行ったのだから、いつか死ぬと思っていたんでしょうね。だから、いなかにも手紙を出さなかった。みんな最後は死ぬと思っているから、改めて決意だの何だのは、なかったですね。

聞き手:自分の思いとは関係なく、死ななければいけないというのがあって、それをどうやって自分に納得させるのでしょうか?

 そもそもお国のために死ぬんだ、ということで兵隊に入っている。だから、いよいよ来たんだなと思うんですよ。あまり細かいことは考えない。俺もいよいよ最期が来たんだなと、あまりくよくよ考えない。そうしないと兵隊は神経衰弱になるから。だからそういうことは考えてないですよ。死ぬなんてことは当たり前。生きてりゃ、これはもうかったっていう話ですよ。

聞き手:青年が軍隊に入ると価値観が変わるとか聞きます。陸軍ですけど、命令に対し何の批判を持たないようにするための制裁がひどかったと聞きます。洗脳、つまり批判精神を持たないようにさせ、恐怖心で従わせる。そうでないと生きていけないようにする。それらは、人間を兵隊に変えるための行事だということがわかったと兵士から聞いたことがあります。海軍でも上官がイライラを発散させみたいな理屈の通らない制裁はありましたか?

 いや、上官には理屈はあるんです。「お前はこういうことをやった」ととうとうと述べる。30分ぐらいかけて。(納得しましたか?)いや、(訳者注・ひどいことを)やっちゃいけないなと思いました。(上官は)「お前はこんな失敗をやっとか」いうんです。一個班って15人位なんですが、連帯責任。一人がそういうのがいると全部がやられる。

聞き手:それは納得できる理由だったんですか?

 いや、ただね、ああいうことやらないとね。上官は「お前たちはシャバっ気がある。シャバとここは違うんだ。それを抜くためにやるんだ」というんです。普通にやったんではね、確かにああいうことをやらないと、抜けないんです。命令を伝えるためにはね。よく、目から火花が出るというけど、軍隊行って初めて分かったんです。歯をくいしばってから(筆者注・右手は頭を殴るポーズで上官が)ガンとやるんですよ。これが目から火が出るということなんだと。やられた後は、なぜか頭がすっきりする。ケツっぺたを叩かれるでしょ。確かにシャンとするんです。ケツ痛いけど、あれに耐えられたんだという一つの気持ちは残るんでしょうね。

 海軍では必ず整列というのがあります。練習生の時も艦隊にいってもね。夕食後全員が並んで、きょうの出来事に対してああだ、こうだと。一日の任務に対する反省みたいなものをやります。

聞き手:海軍は紳士的なような感じがしますけど、理不尽なことは軍隊につきものだと思っていました。制裁というのは、上の人が理屈に合わないことをやるものかと思うのですが…

文句、言われるようなことをやっているから、(訳者注・殴られることを)やられるんですよ。「お前たちは今日、こんなバカなことをやった」と。海軍の人はしゃべるのがうまい。感心しました。30分ぐらいしゃべって「一人ずつ出てこい」って言って(筆者注・棒でお尻をなぐる仕草をしながら)終わったらありがとうございますと敬礼する(敬礼をするポーズをとりながら)。あれだけたたかれるとシャンとしますよ。たるんでいる時あるでしょ。聞いたら、東郷平八郎があのバッターを海軍に入れたとか。みんなテレンコ、テレンコしていますから。一つ何かするには鍛えなくちゃだめですよ。

海軍生活

 海軍では整理整頓をよく言われます。船は狭いですから。だからピシッと(置いて、そうでないと)何でもちょっとでも取り上げられます。後で来いって、文句たれて頭ぶん殴られて貰って(返して貰う仕草)。甲板士官がずっと見て歩くんです。本がピシッと入ってなかったり、帽子が変なところにかかっていると(訳者注・持っていく格好をする)。狭いところだから、だらしなくしていると、収まりがつきませんからね。時間についても「5分前」というがあって、必ず5分前にそこにいなくちゃならないんです。これを海軍は徹底的やった。というのはね。海軍といえば船。上陸するでしょう。入湯上陸というのがあって、夕食後、島に上陸し、一泊して帰ってくるというのがあります。「朝、何時までにかえって来い」と。朝の7時、その5分前に帰ってこないと。船は出ちゃうんです。海軍は何かやるときは、必ず「5分前」。それが徹底的にやられたですね。

聞き手:食べ物はどうだったんですか?

海軍は割と良かったですよ。三食ちゃんと出て、ひもじい思いをしたことはなかった。普通の物を食べていました。

聞き手:全体に物資は十分あったのですか?燃料とか

 陸軍と違って飯を食わないとか無くなったとか、そんなのはない。陸軍は場所を移動しますよね。そこで食料が足りなくなって草を食べたりなんてことはあります。海軍はそういうことはないです。基地があってそこにいる。だから、食べ物はちゃんとある。食うや食わずというのはありませんでした。

聞き手:飛行機の燃料は最後まで十分あったんですか?

 いや、なくなってきた。だんだん飛べるだけの量はなくなってきた。松根油という松の根から取った油も使いました。でも、あんなんで足りるはずもない。爆撃機のでっかい奴なんか、ドラム缶で20本も入るんですから。

 僕ら他の基地に行くでしょう。そうすると「そこに燃料があったら満タンにして帰ってこい」と言うんですよ。燃料をいっぱいにして帰って来る。航空燃料というのは品質が一番高い。自動車のとは違うんです。ハイオクタンでオクタン価が一番高いやつを使うんです。馬力が大きい飛行機ほどオクタン価の低い悪い燃料ではダメなんです。92以上かな。87じゃダメ。エンジンの馬力が出ない。ガソリンを精製して一番良いところを使う。赤とんぼ(訳者注・九五式一型練習機のことか?)のような馬力のないものだったら、オクタン価は低くてもいい。重爆撃機とか戦闘機の場合は、いいやつでないとダメなんです。

 飛行機がある程度あっても、燃料がないと飛べない。大体、国内の燃料がなくて南方へ行って持ってくるなんて、そんなことはできません。船はみんなやられているから、油を持ってこれない。油があったとしても、精製しなければ使えません。確か四日市に燃料廠(訳者注:第二海軍燃料廠のこと)、精製所があったはずです。

聞き手:米軍の潜水艦のターゲットに真っ先にされるのが、そういう輸送船ですか?

 そうです。輸送船なんかいの一番です。潜水艦は潜望鏡をちょこっと出して見ているんです。船はジグザクに動くのですが、潜水艦から見れば、次どの辺に動くか分かる。

聞き手:日本にも潜水艦はなかったのですか?

 あったんです。みんなやられちゃったから。中には優秀なものもあったんですけどね。日本には魚雷も、魚雷は圧搾空気で行くんだけれど、日本のやつは液体酸素とか第二空気(が動力のを)、あれを日本が作ったんです。酸素を液体にしてしまったんです。(※従来の圧搾空気を使用する魚雷は空気魚雷で、主として航空魚雷。液体酸素や第二空気といった「純酸素」を使用する酸素魚雷は、無気泡で雷跡をほぼ引かない)

聞き手:戦後、戦争体験を知り合いに話しましたか?

 そんなにない。こんな(訳者注・今回みたい)に根掘り葉掘りってのはないね。もちろん、聞かれたら話しますよ。でもね、話しても分からないみたい。相づちを打つはずもない。同じところに行った連中なら分かりますけど。ピンとこないだろうね。

聞き手:戦争の話をするのは初めてですか?

 こんなに根掘り葉掘りはね。今考えると、教育っていうのが一番大事だと思うね。僕らのころはお国のために死ぬことが最高にいいことなんだという教育だった。昭和の初め頃、満州事変のころ、肉弾三勇士とかが出てきた。あんなこといい加減で(実際はどうだったのか)分からないですよ。(訳者注・手で爆弾を持って突っ込むポーズをしながら)三人が爆弾抱えて飛び込んだっていうけど、一人一人爆弾持ったっていう話もあります。あれもなんだか、陸軍の事はよく分からないけど。あれは国のためにやったんだって、新聞や本は書きたてていました。講談社がいの一番だったね。幼年倶楽部、少年倶楽部、婦人倶楽部、キングとか出していた。幼年倶楽部は小学校の低学年、少年倶楽部は3年生ぐらいからかな。俺なんか少年倶楽部を読んでいた。ご婦人方の婦人倶楽部。講談社の社長、野間清治とか知ってるかな?昔は講談社とか譚海(たんかい)とか、あんまり出版社はなかったな。講談社がそういういろんなものを出してましたね。

聞き手:戦争に入る前の世の中の動きに関心がありますが、今の時代をどうみていますか?

 あんまり物がありすぎていると思う。殺人あるでしょう、親が子を殺したり、子が親を殺したりとか。俺はなぜ起こるかよくわからないんです。昔はあんなことなかったから。

聞き手:ネットカフェ難民とか、格差で這い揚げれない人がいます。リセットできるので、戦争になればいいという声も聞きます。厳罰主義を唱える人もいて、世相が変わってきたという感じがします。教科書で住民の集団自決のようなマイナス面を隠すとか。政治もテレビも雑誌も一つの方向性を持たせようとしている。世相も荒々しくなってやられる前にやれとか、先制攻撃をしろとか。教育も動いているような気がするんですけど?

 僕は戦争は絶対にやったらダメ。戦争は人殺しでしょ。殺人罪なんです。命をもっと大事にしなきゃダメなんです。みんな生き物なんだし、どんな人も生きる権利がある。あの野郎、変な奴だからやっちまえみたいな考え方はおかしい。命を大事にすることがまず第一。どんな人も命あってこそ。命を大事にするということを教えるのが教育です。生き物はそれぞれ、それなりに生きている。お互いに認め合わないと。戦争は絶対ダメ。話し合いやってお互い納得しあわないとね。

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体験記録

  • 取材日 20 年 月 日 (miniDV 60min*2)
  • 動画リンク──
  • 人物や情景など──
  • 持ち帰った物、残された物──
  • 記憶を描いた絵、地図、造形など──
  • 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─

参考資料

  • 地図 ───
  • 年表 ───

戦場体験放映保存の会 事務局

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