井出 亀三郎さん

生年月日 | 1926(大正15)年2月5日生まれ |
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本籍地(当時) | 長野県 |
所属 | 陸軍軍属 のちに陸軍で同部隊 |
所属部隊 | 第14方面軍報道部 |
兵科 | |
最終階級 |
プロフィール
1926(大正15)年2月5日、長野県に生まれる
1944(昭和19)年7月30日 国立大東亜錬成院第三部(旧拓南塾)繰上卒業
1944(昭和19)年7月31日 陸軍雇員、第37軍司令部付(北ボルネオ派遣予定)
1944(昭和19)年9月21日 瑞穂丸がバシー海峡で撃沈、救助されルソン島北西岸に
1944(昭和19)年10月3日 マニラの威10234部隊に仮転属
1944(昭和19)年11月1日 第14方面軍報道部に転属
1945(昭和20)年1月15日 臨時召集を受け陸軍二等兵に、引き続き報道部に所属
1945(昭和20)年4月23日 バギオ撤退、ヌエバビスカヤ州バヨンボンへ
1945(昭和20)年6月7日 キャンガンに撤退、17日さらにアシン川流域に撤退
1945(昭和20)年9月14日 米軍に投降、武装解除、翌日トラックと列車によりカランバ仮収容所へ、10日後作業隊としてケソン市収容所に
1946(昭和21)年1月 北サンフェルナンドに移送され作業隊
1946(昭和21)年12月13日 復員
―拓南塾、フィリピン報道部―
拓南塾を出て雇員に、バシー海峡にて沈没、ルソン島へ。ルソンで召集。人見さんの部隊(報道部)の一般兵
インタビュー記録
満州事変にみな大賛成した
満州事変が始まったのは、昭和6年9月18日、今日(収録日は2005年9月18日)なんですがね。ちょうど私が小学校にあがる1年前だったですね。私は長野県の山奥で生まれて農山村育ちといいますか、当時長野県は養蚕業が盛んだった県ですけどもね。その収入の主体を占める養蚕というのはもうひじょうに安くて、全国的にも農産物が一斉に世界不況の影響で安くなった。農村自体、全体が貧しかったんでしょうけども、養蚕で収入を得ていた長野県の農家というのは、もうそれはたいへんな打撃で、それが影響したんでしょうね、満州事変が起きると、ほとんど誰もが大賛成だったんですね。それはもうみんな、戦争で人が死ぬなんてことは全く考えないで、要するに景気が良くなるぞということにおかれたわけですね。ですからバンザイバンザイで軍が唱える「王道楽土」「五族協和」というスローガンですね、これに皆諸手を挙げて賛成する。そしてしかも翌年にはもう満州国ができたわけですから、そこへ移民すれば二反三反の水吞百姓でも一躍大地主になれるんだということでもって、農業移民を大々的に送り出すことが始まったわけですね。それにのっかって、多くの人が満州に出かけた。
私のところは直接あまりそういう人はわずかしかいなかったんですが、隣の大日向村は有名ですけれど、そこは村長自らが、「分村」、村を分けて、満州へ第二の大日向村を作ろうということでもって、村民の多くを引き連れて満州に渡った。向こうで入植をして、多年の夢をかなえようとしたわけですけども、当時私どもは知らなかったけれども、後から聞いた話ですが、結局、開拓という名前でも、土地を耕す、開墾して作り上げていくということじゃなくて、向こうで中国人が農業を営んでいるその土地を強制的に買い上げて、あるいは場合によってはその土地から追い出したということですから、住んでる農家は家まで全部立ち退かせて、安い価格で買い上げると、当然その背後には関東軍の武力があるわけですね。既に耕地になっている土地に入植したわけです。黒土地帯という、世界でもロシアのウクライナとか、あっちこっちに、肥料をやらないでも農作物がとれる地帯というのがちょこちょことあるんですね。その移民した場所がそういうところだったらしい。だからほとんど肥料をやらないで、大豆もとれるし小麦もとれるという状態だったわけですね。実態がどうだったということはあんまり私には子供だったので分かりませんでしたけども、とにかく向こうへ行って大地主になって、自分たちは汗水流して働くかというとそうではなくて、もっぱら、「満人」、中国人のことを「満人」、満州に住んでいるからそう呼んだわけですね。その人たちを雇い入れて、実際の耕作をさせて、自分はまさに地主になって、という生活をしていたようですね。
ですからすべて日本人優先で、満州国というのを創って、当時の皇帝というのは、昔の中国の清朝の皇帝が革命によって退位させられて、その子孫がいたわけです。その人間を引っぱり出してきて、皇帝の地位に据える。形は満州帝国という皇帝のいる国なんだけど、実質は日本人が全部各省庁の次官以下、ほとんどの要職を日本人が握って、日本人がやるがままに満州の政治はおこなわれたわけですね。形は中国人の皇帝のいる国なんだけれども実質は日本人がおこない、そのバックは関東軍という日本軍の武力がひかえるという状態だったんですね。
軍需景気と戦時熱の高まり
そういう熱に浮かされて、それからまもなく、私が小学校の4年か5年の頃ですか、昭和12年、1937年中国に対するいわゆる北支事変と称する戦争が始まったわけですね。そうなると軍需景気でもって、農村の景気はますます良くなると、昔不況の時代には繭、一貫目でいうと3.75キロの繭が、1円かせいぜい良くても2円もしなかった不況の時代から、一躍、繭一貫の値段が10円11円12円とうなぎのぼりにぼんぼん上がるわけですね。そういうインフレ景気の中で、ひじょうに農村が潤ったというか、いわば戦時景気でもって景気が良くなった。
次第に、支那事変が拡大すると召集がかかってくるわけですね。今までは現役兵だけでやっていたものが、北支事変が拡大されていくと、これを支那事変と呼ぶと政府が言い出したわけですね。いわゆる軍事熱と言いますか、都会の人たちはその頃のんびりしていたわけですけれど、私たち農村育ちのところには退役軍人が講演にやってきて、盛んに、東京の連中はけしからんと、遊楽にふけっている、銀座に毎日ぞろぞろしている連中に全部縄でもってくくって、ひとくくりにして、縛り上げて、満州に連れて行けばいいんだと、そうすれば国がもっと良くなるんだというふうなことを、退役軍人が言うわけですよね。退役軍人とか陸軍少将とかが講演にやってきて、小学校の校長は大っぴらに認めて講演させているわけです。そういう話をすると皆拍手喝采をするわけですよね。農村の人は汗水たらして働いているのに、東京の連中は毎日ぶらぶら暮らしていると、こんな国家非常の時にそういう暮らし方は駄目なんだと、はじめから軍国熱がたたきこまれる。
当時、私ども子どもの時分に、『のらくろ二等兵』という漫画が雑誌の少年倶楽部に載って、これなぜ、「のらくろ臼田」と書いてあると、臼田というのは私の郷里なんですけども、これは合併後臼田町になったんであって、私の村は臼田町の隣にあった村で、そこで田河水泡という漫画家がこの『のらくろ』を書き始めたわけですね。その人間が私どもの村の出身者ということを知らなかったわけですが、戦争の終わり頃そういうことを教えられた。これが子どもの間で大うけでしてね、のらくろはだんだん軍隊に入って二等兵から出発するんだけども、支那事変で手柄をたててどんどん出世していって、のらくろ上等兵になり、伍長になり、しまいには連隊長、位で言うと陸軍大佐ですね、そこまでなってしまうという出世物語。最後は軍部と少し折り合いが悪くなったと噂で聞きましたけど、そうなるとのらくろは軍人を辞めて満州開拓に従事するみたいな物語になっていってしまいましたけどもね。
それと並行して、いわゆる南方熱というか、『冒険ダン吉』という映画(漫画)がありました。これは戦後、有名な俳優の西田なんとか(西田敏行)が冒険ダン吉という主役になっていた。南方と言ってもその当時の南方は、インドネシアの方向ではなくて、南洋群島、今のミクロネシアですね。あそこで漂流したあげく向こうの人に助けられて、大いに活躍をして、いわゆる南方の「土人」と一緒に暮らすというか、なりすまして、体中に泥を塗って、南方の人間と同じ皮膚の真っ黒の色になって、しまいには王様になって、大活躍をするという、そういうのも少年倶楽部にありましてね。それがまた、子どもたち私どもの間で大人気になった。
南方に憧れ拓南塾へ
私は、満州よりは、南方にあこがれるというかね、そんな感じを小さい頃からもっていたんですね。なぜかというと寒いところが嫌いなもんでしてね、暑いところで暮らしたいなという感じがあったもんですから、この拓南塾を志望したのも、満州へ行くよりかは、南方に行った方がいいんだという気持ちでいたんです。試験官は、私が暑いところ、南方が好きですと言ったら、拓南塾に入りたいためにそういう嘘をつくんだろうときつく詰問されたことがあるんですが、本当の気持ちは暑い南方に行けば楽に暮らせるだろうなという感じからでたわけです。
もうひとつ、軍隊というもの兵隊から帰ってきた人たちというのは、軍隊の内部の話はあまりしたがりませんけれども、ぽつぽつ伝わってくる話となれば、ひじょうに軍隊内務班というのはきついと。入りたての初年兵はびしびしとリンチをうけて、ひどい目にあうんだと。殴られたり、理由もなく辱めをうけるとか。それを、軍隊の表向きは、兵隊にリンチを加えるのはいけないということにされていたんですが、黙認されていて、初年兵はしごかれわけですね。特にしごくのは、下士官という伍長以上のそういう連中は班長殿と敬われて、将校よりも恐い、偉い存在といいますか、一番身近な存在だったんですが、そういう下士官が初年兵を殴るんじゃなくて、すぐ先輩である二年兵三年兵あたりが初年兵にリンチをかけるということなんですね。そういったものが嫌で、そういう軍隊に行くくらいなら、軍隊に入る前に、南方に行けるんだからということでもって、入ったわけですね拓南塾へ。
大部分が、徴兵を繰り下げでもって、徴兵検査を受けなければならない、軍隊に入らなければいけない。しかし、特別甲種幹部候補生という制度が新しくできて、これを特甲幹と呼んでましたけども。普通、特幹、特別幹部候補生という形で言われているものですが、私どもの場合は、特幹の間に甲種が入って、これが入ると、さらに特別待遇を受けられるということでもって、特甲幹の試験さえ受けられれば、そこに入れるというので、残った連中は喜んでそっちの方へいったわけですが、私どもは待望の南方に行けるんだと、内地に残った連中は、私どもを羨ましがって送ってくれたわけですね。
陸軍雇員として瑞穂丸に乗船
ところが私ども、広島の宇品に集まれと言われて行ったら、ちょうど8月の半ばでしたがね、そこで船に乗せられて、南方に向かったわけですけども、私の船は、瑞穂丸という、当時明治の末に日本が台湾経営を本格的にやりだした時に造られた船なんですがね、長崎と台湾のキールンを結ぶ定期航路につく瑞穂丸という船、これは貨客船と言いまして、普通は客船か工船かですが、両方のあいのこの船で、私どもが乗った時には船齢は40年経っているオンボロ船でね、支那事変の最中には病院船として使われたらしいですけども、私どもの時はもう完全に兵隊を向こうに運ぶために、甲板以下には貨物を積む船倉になっていますが、船倉に蚕棚と私どもは呼んでましたけど、何段にも段を作って、いわゆる寝床ですね、寝床を作ってそこに兵隊を乗せて向こうに運ぶと。たった8,000トンの船に6,000人の兵隊が乗ってたそうです。
私ども軍属はどういうわけか甲板から上の客室に乗せられて、待遇はいい方なんですね。昔は軍属というと、最下級の兵隊は二等兵ですが、その下に、軍馬、軍用犬、伝書鳩、その次、一番最終が軍属だと。ひじょうに軍属というのは、支那事変の始めには馬鹿にされていた。ところが南方戦場では、向こうの、イギリス、オランダ、アメリカの植民地を占領したわけですから、そこの政治をやらなければならないということで、司政官という名前を付けられて、たくさんの事務官が送られたわけですね。ですから軍属の待遇も次第に、学歴によって違ってきますけれども、格上げされていって、私ども雇員でも、客室に入ってよろしいと。
ところが客室に入って驚いたのは、船の客室というと一等から三等まであって、待遇が違うらしいのですが、私どもが入った船室というのは、上下二段に仕切られていまして、入って迂闊に立ち上がると天井に頭がごつんごつんぶつかる。それだけならまだいいのですが、床にはゴザが敷いてあって、畳一畳分のゴザが何枚か敷いてあって、その一畳のなかに10人入れというんです。これはひどいなと入ってみたんですが、これはとてもじゃない、10人座るがやっとですね。寝てみるとお互いぶつかり合って、どうにもこうにも寝れないという状態。押し合いへし合い、それでも我慢、たった何日かの航海で我慢、ということで乗ったんですが、これがまた暑くて暑くて、扇風機は止められてしまって、電気は絶対つけじゃ駄目だって、電源は全部切られている。ですから暑くてたまらない。ということで船に乗って海に出てみると私どもの中からも軍属の中からも敵の潜水艦に備えて、対潜監視要員が必要だということで、私こんな暑いなかで、ぎゅうぎゅうのすし詰めはまっぴらごめんだということで、真っ先に手を挙げまして、対潜監視の方へいった。対潜監視哨というのは一番船のてっぺんにあって、そこから遥か沖合を双眼鏡をもって敵の潜水艦を見張るわけですが、別にプロの教育を受けたわけじゃないから、どこを見ることも、ただ沖合を眺めているだけということなんですが、いざ船団を、当時船団を組んでね、単独でいくことは当時無くなりまして、たいてい何杯かの船が船団を組んで、船のスピードを一番遅い船に合わせていくという状況だったんですね。当時の瑞穂丸は最高14ノットはでると、14ノットでるとその当時マシな方だったんですが、ところが出発すると航空母艦までくっついた物々しい船団でしたけれども、その船のほとんどが、戦時標準船という当時戦争になってから造られた、昔のスマートな商船じゃなくて、全くぎくしゃくした形の貨物船ばかりでしたけど、それは皆重油を焚いて走る。重油を焚くとかなり石炭よりも効率がいいんでしょうね、スピードがでる。ところがお前たち石炭を焚いている船は遅いから駄目なんだということで除外されまして、九州の五島列島の沖合辺りで停められて、お前たちの船3隻は石炭を焚くから、石炭を焚くと煙があがって敵の潜水艦に見つかるということでもって、残れと、佐世保の軍港に入ったわけです。
潜水艦を警戒しながら、台湾を経て南方に向かう
そこで1週間ぐらい停泊させられましてね、いきなり今度は出港だということで船3隻でもって今度はまっすぐに台湾、気がついてみたら台湾のキールンに着いていた。昼間は飛行機が警戒してくれて、夜になると海軍が二式大艇という新しくできたばかりの大きな飛行艇ですね、これを飛ばして厳重な警戒でもってキールンまで3日間で着いた。普通じゃあり得ないことなんですが、どうしてか不思議だなと思っていたら、私が対潜監視をいいことにして、夜ぶらぶら散歩してましたら、大広間に芸者を集めて将校が大宴会をやってるんですよ。そういう場にたまたまぶつかりましてね、これが言われている慰安婦だということなんですが、日本の慰安婦を南方シンガポールに送り届ける最後の船なんだということで、乗ってる女の人全部が慰安婦かと私誤解してたんですが、後から出されたものをみると、いろんな向こうの事務員になるとか、タイピストになるとか、いろんな種類の婦人なんですが、たまたま将校に呼ばれて三味線弾かされているのは慰安婦の人たちだったわけですね。それが約200人ほど乗っているということで特別な待遇をされたらしいです。
キールンに入ったら、キールンの港で、敵の潜水艦が出て危ないからといって2週間ぐらい足止めをくらいましてね、2週間船の中にいるのは退屈だし、対潜監視たいへんご苦労であったと毎日毎日上陸を許される。上陸を毎日してもほとんど買うものがないわけですね。あるものは砂糖とバナナだけ。いやバナナも売ってませんでしたね。砂糖も自由には買えなかった。あとで配給にはなりましたけど。バナナなんかも干しバナナにして、中国人と日本人は別々の町を作って住んでるわけですが、中国人街に行くと干しバナナが買えるというのでそれを買って帰る。乗っている兵隊は半舷上陸といって1日置きの上陸、それしか許されない。そういう兵隊がバナナなんて持ってくると帰りには桟橋に検問所があって、バナナは伝染病の元になるからと全部取り上げられて、それから班長は船に残っているもんですから、班長のために酒を兵隊が買ってくるわけですね。酒と言ったって公然と買ってくるわけにはいかない、水筒に入れて買ってくるわけですが、それをたちまち見つけられて水筒ごと全部海の中へ、波止場ですからね、捨てられると。というようなひどい目にあっているのを見たことはあります。私ども軍属だけの対潜監視哨はのんびりしたもので、そこらじゅうぶらぶらしてましたけれどもね。B29の空襲が1回ありました。船に乗っていると危ないというので、全部埠頭に地べたに寝せられて、もう暑くて暑くて眠れなかったことを覚えています。
キールンで2週間ぐらい待機してると、次は出港だと、たちまち船が出たんですが、太平洋側を行くと危ないから、台湾海峡を通って、一番南の高雄というところですね、これが大きな軍港になってまして、そこに集められて、そこで9隻ほどの船団が組まれて、今度私どもの瑞穂丸が14ノットで一番速いくちになって出発したわけですが、護衛についたのは3隻か4隻の小さな駆潜艇という名前の船ですね、軍艦とも言えない、潜水艦が出たら撃つという、そういう船だけが護衛につく。その代わり昼間の間だけですけども、護衛の飛行機がやってくるんですね。ずっと危ないバシー海峡をこれから渡るんだって、昼間はずっとその飛行機が2編隊ぐらい、2編隊ですから全部で20機もいなかったと思うんですが、そういう飛行機が上空をずっと警戒してくれたから、これがいれば大丈夫だと、その飛行機が時々急降下して、爆雷というものを落とすわけですね。爆弾じゃなくて爆雷ですよ。敵の潜水艦を沈めるには爆雷にかぎるわけですが、気がつくと、これが本当の敵の潜水艦を見つけて爆雷を落とすんじゃなくて、この援護の航空機は実際はどうも演習だったらしいんですね。演習を兼ねて護衛をすると、護衛を兼ねて演習をすると、いう形でもって、爆雷の落とし方はこうなんだということを、先頭の指揮官の飛行機が模範を示す。それに続いて他の飛行機も爆雷を落とすということをやっているわけですね。それを見て、私ども本物の敵の潜水艦を見つけたんだというふうに思い込んで、爆雷が海の底で爆発して大きな水柱を噴き上げますけども、それを見るたびにバンザイバンザイといって大喜びでいたんです。ところが実際はそうじゃなかったということですね。ほとんど敵の潜水艦をそこでは沈めていないんですよ。
夜になると今度はバシー海峡の途中に小さな島が、バタン諸島とかいろんなのがありますけど、そういう島の陰に隠れて夜は行動しないんです。戦後になって、バシー海峡でたいへん多くの船が沈められましたけど、そういうのをみていますと、たいてい真夜中にやられているんですよね。アメリカは潜水艦の使い方がひじょうに上手で、しかも当時日本軍は宣伝のなかで日本の潜水艦はひじょうに優秀なんだということを盛んに宣伝していたんですけども、日本の潜水艦が活躍したなんて話はまず少ないですよね。アメリカの方がはるかに潜水艦作戦は上達していて、私どもが行った頃には、狼群戦法といって、オオカミが組を組んで獲物を狙うやり方と同じで、普通日本の場合だと1隻だけで攻撃するんだけど、向こうは2隻以上が組になって、しかも海中ではお互いに話ができるほど発達した技術を持っているんですね。表に出ないで、どんどんお互いに連絡を海の中でとり合って、日本の船団が近づくと、もう先回りして待ち構えていて、どの地点かで沈めるという戦法をとっていたんですが、そういう狼群戦法でやってくるから、それを避けるために島陰に夜は停まって、昼間だけ、飛行機の援護が始まるまでに出航するという形をとっていたんです。
ルソン島を間近に撃沈される
いよいよバシー海峡を渡りきって、明日はマニラだという日の朝、ちょうどルソン島の北西、もうルソン島の岸が監視哨から見えましたね。木の幹の色から土の肌の色までちゃんと分かるくらい近いところ、いわゆる接岸航行といいますが、近づいて、こんなに浅い海に入っていればもう敵の潜水艦にやられることはあるまいと安心していたところへボカンときたわけです。最初、いきなり私どもがやられたんじゃなくて、私がちょうど監視哨に立ったおりでしたけども、援護の飛行機が来ないんですよ。ところが1機だけ海軍の、アメリカ軍からライターと呼ばれたような飛行機ですけどね、それが1機だけ前方からやってきて、警戒の合図をしながら飛んでくる。これは変だなと思ったら、魚雷が走ってくるのが見えるんです。それを先頭の私の船がうまく避けていたんですけども、たまたま一番最後にいた船がボカンとやられて、それが朝の7時ぐらいでしたかね。その船を私ども監視哨から双眼鏡で見てると甲板にはいっぱい戦車を積んでいて、小さい船ですけども、一発の魚雷で大きな水柱が上がった後はもう姿が見えない。いわゆる轟沈ですね。
さあたいへんだと、皆非常配置につけと、いうことでもって、私ども朝飯を食べ損なったくらいに、緊張して皆で見張りについて、そうして1時間半ぐらいたって、もう大丈夫だとこんなに時間がたって、というところへ魚雷発見ということで、私なんかちょうど監視の番が終わって朝飯を食べようとしたところでしたね。立ち上がってみると、魚雷が3本、私は船のちょうど真ん中の監視哨にいたんですが、そのど真ん中に向かって3本の魚雷が走ってくるんですよね。白い泡をたてて走ってくるその魚雷、まだ遠くの方にいても白い線が見える。もう駄目だと、船は一所懸命魚雷を避けようとして舵を切っているんですけども、とてもじゃないけどこれは命中間違いなしということで、魚雷を見てあれよあれよと驚くばかりだったですね。
そういう状況でもう間違いなく当たるから何かにしがみついていないとふっとばされるぞという感じでいたんですけども、私どものいる場所までは魚雷が当たっても全然大きなショックというか衝撃、爆発音なんかが聞こえないし、水柱も立ててない。ところがあとで聞くと、船室にいた私どもの仲間の話によると、大きな水柱が窓を全部砕いてたいへんだったんだと。もう甲板の上は兵隊がいっぱい引き上げてきて、上がってきているけども、ちょうど私ども、甲板といっても狭いですが、前の方は船室ばっかりですから、後甲板しかないわけですが、後甲板に兵隊がいっぱいあふれて、船倉に入るハッチという大きな穴が普段は蓋してありますけど、それが爆発の勢いで吹っ飛ばされて、そこにいた兵隊は全部船倉にまた落とされる。それから後甲板で大きな飯炊きの釜を船の蒸気でもって毎日毎日のご飯をそこで炊くわけですが、その蒸気のパイプが全部破れて熱気が噴き出す。その火傷を負った人がどのくらいいたか分かりませんけども、漂流しているとそういう焼きただれた人々がいっぱい浮いているわけですよ。私なんかは呑気というか、いわば動転していたと思うんですが、冷静に行動しているようでも、ちっとも身支度が整わない。ゲートルを巻いて海に飛び込もうとしても、ゲートルの巻き方が逆のとんちんかんだったりね、身につける「救命ジャック?」というのがありますけども、それも正式な結び方を習っているはずでも、結び方がよくわからなかったり、もううろたえるというか、一応水筒をかけたりちょっとした物を詰めたり、その上から救命胴衣をつけるわけですけども、それをやった時にはもう船が沈み始めていました。
船長はこの船は絶対沈まないと放送を最初繰り返していました。この船は沈まない、陸に乗り上げるから皆どんどん退船しちゃ駄目なんだということを放送していましたけども、誰もそんなことを聞く人間はいませんでしたね。もうどんどん船が沈むし、私ども立ってた場所というのは船の右舷でしたけども、右舷側に沈み始めて、私が見回した時にはもう誰も船にいないんですよ。皆逃げた後で。一番最後ですがね。その時はもう私のいる監視哨まで船が横倒しになって水がきてましたから、私は海に飛び込んだんじゃなくて、ちょうど海水浴で海に踏み込むみたいな、そんな格好で海に入りましたね。
駆潜艇に救助され、ルソン島北西岸に上陸
とにかく船から50メートル以上離れないと、船のスクリューが回っていてそれに巻き込まれるし、船が沈んでいる時に大きな渦ができるから、その渦に巻き込まれないように船から50メートル以上離れないと駄目なんだと教育されてましたから、一所懸命泳いだわけですけど、ちっとも進まない。気がついてみると救命胴衣が波の方向にぶつかって進まないんですよね。ちょうど船がどの辺にいるのか振り返った時に、私の体がくるんと1回転しましてね、たまたま私が軍刀を背負ってたんですが、その軍刀がおもりの役割になって私が元に戻ろうとしても、水泳のバックで泳ぐような状態で、元に戻れないんですよ。ためしに足を動かすとうまいこと進むんですよね。これ幸いと、救命胴衣は前と後ろにくっつくようになってますから、後ろがうまい具合に並木の役割を果たしてくれましてね、私がどんどん足をバタバタさせるだけで船から離れることができた。その船のマストがちょうど私が泳いでいる頭のあたりをかすめるようにして沈んでいく状態で、ほんとにその時はじめて恐ろしいなと、マストに引っかけられたら一緒に海の中に引きずり込まれてしまうんじゃないかという感じで必死になっていました。
はじめのうちは10何人か固まって泳いでいましたけども、波が荒くてだんだん群れが飛び散って、散らされてしまう。大きな波で、太平洋の波ですから、うねりが大きいんですよね。波の上に乗るとそこらじゅう全部見渡せますから、漂流者があっちへひとつ、こっちへひとつと固まって皆救命イカダなんかにすがっているのが分かりますけれど、波の底に沈むと今度は何にも見えない、時間がひじょうに長く感じられるんですね、自分たちだけが取り残されてるという不安な状態になる。しまいに波の上に乗っても今度は潮流が速く流れているせいか、皆ちりぢりにされてしまって誰も見えない、自分たちだけが浮いているというひじょうに孤独な感情ですね。
どういうわけか激しい潮流のなかでも海の水が1箇所にゴミを集める場所ができるんですね。そういうなかにたまたまはまり込んでしまって、海軍の救命ボートが来てくれたんですが、そのゴミに挟まってしまって私なんかそのゴミから抜け出せない。どうしてかと思って、海軍の投げてくれた救命の綱にすがっても、ちっとも私を引き出せないというかね、よく見ると材木が私の体いっぱいに取り付いていて、その材木に私の水筒が引っかかっていて、そのために私は救命の綱に引き寄せられないという状態だったんです。しようがないから水筒を吊るしている紐を切りますと自然に体が軽くなってぐいぐい引き寄せられる。
しかし、もうへとへとですから、救命ボートに引き寄せられても自分の力で上がることができない。海軍さんに助けてもらってやっとボートに乗り上げる、そんな状態だったですね。助けられて、駆潜艇という小さな海軍の船ですけども、それに乗せられて一時の避難所に向かったわけです。
何時間走ったか長いこと、朝8時ごろに沈められたのに夕方過ぎですね、救助する港に着いたのは。救助する港はばらばら、あっちにありこっちにありということで、当時、バシー海峡で、バシー海峡以外、そのルソン島の西側の南シナ海でもって沈められる船がひじょうに多かったんで、避難所がたくさん作られていたんですね。避難所というか救助所ですね。だから仲間は分散されてあっちこっちに助け上げられていたわけですから、私どもが上がったところには、ほんの数人しかいない。他の連中どうしたんだというと、あれはあっち、これはこっちだというふうな状態だったんで、全く裸一貫の状態でもって助け上げられて、それがルソン島の西海岸の、全くの未開地でもって、あっちにぽつんこっちにぽつんと部落がある程度で、日中そこを守備している日本軍というのも少なかったわけですね。
6,000人乗っていたうち、だいたい助かったのは4,000人と言われていますから、割合は高い方なんです。それは朝早めに沈められて一日中浮いていられたから、それで助かった人間も多かったと思いますが、残りの約2,000人は船と一緒に海の底に沈められてしまったわけですね。私どもの仲間も21人のうち1人が帰ってこない。彼はどうして帰ってこなかったかというと、ちょうど魚雷が当たった時、おれ便所に行ってくるわと言って出た。船の便所というのは船べりに箱を吊るしまして、船べりから吊り出した格好でにわか作りの便所がいっぱい掛けられているわけです。そこへ入っているわけですから、魚雷が当たるとその便所が全部ふっとんじゃうんですね、衝撃でもって。そこにたまたまその1人が入っていてそれで彼はふっとばされたんだろうと、これは推定ですが、そのまんま流されてしまったんだろうということで、そこで1人犠牲者を出したわけです。
マニラに移動、兵站の崩壊
それでずっと北西岸、サロマゲという町でしたけどもそこはもう寒村、わずかな現地民しか住んでない、日本の守備隊もわずかしかいない。そこへ一時期何千人も遭難者が上げられたから、守備隊の持っている食料を全部食べ尽くしちゃうから、おまえらさっさと早くマニラに行けと言われてね、歩いて行ったらいいじゃないかと、というのはもう海没、当時はボカ沈と言ってましたね、なんでボカ沈かというと魚雷一発くらえばそのまま沈んでしまうから、それでボカ沈と兵隊の間では通り言葉になっていて、二度とボカ沈にあいたくない、船に乗ったらまたやられるぞと、歩いて行こうじゃないかと言ったら、歩くったって交通手段が何もないと、道の途中にはゲリラがいっぱいいるんだと、もう一度同じ船団を組んでいた船がどこに隠れていたのか知りませんがやってきまして、私どもを乗せて、お前らは船倉に入って休んでおると言われて、でも誰も船倉に入る人間はいないんです。船倉に入る人間はね。というのは魚雷がもう、またやられたら困ると、だから皆もう、私も同じだったと思うんですが。私、冷やかしの気持ちもあって、仲間連中がどんなことをしているかきょろきょろ見ていると誰も沖の方ばっかりを見つめて、のんびりした顔をしてないんですよ、いつまた魚雷にやられるか分からないという不安があるわけですね。
乗せられた日、朝早く乗せられて夕方、北サンフェルナンド、サンフェルナンドという地名は南サンフェルナンドと北サンフェルナンドと2つありますけれど、北サンフェルナンドというのはマニラに次ぐ第二の大きな港があるんですが、北サンフェルナンドの港に船が入って、ここで降りろと言われて、そこから鉄道でもって、マニラに運ばれたわけですが、北サンフェルナンドにいる間は毎日毎日、4、5日かかりましたけど、荷物を大急ぎで疎開しろと。というのは輸送船がついて降ろしたはいいけれど、それを別のところへ集積するトラックも何もないわけですね。全部人力でやらなければいけない、だから軍属であろうが、兵隊であろうがお構いなしに手の空いている、遊んでいる人間は全部、荷物運びをやれと、毎日毎日荷物を動かせ動かせと。ところが、おにぎりが朝晩1個ずつでるだけ、おにぎりとたくあん、これだけの食事でやれと。当時若かったから毎日腹減ってしょうがないけれど、とにかく暑い中裸足で、軍靴を履いて海に飛び込んだのは、監視哨にいた私とあと1人2人で、あとは皆裸足で逃げ出したわけですから、裸足のまんま熱い焼けた砂地の上を荷物を担いで運んだわけですね。
それが1週間ほど続いて、汽車に乗せられてマニラに着いたのは10月1日の夜中です。これははっきり覚えています。マニラに着くと今度は兵站宿舎に入れられました。兵站宿舎というのは分かりやすく言えば兵隊宿屋というやつですね。通過部隊だとかいろんな兵隊が戦地に行ったり来たりしますけども、それを泊めたり収容する施設なんですが、だいたい主なところにはそういう兵站というのがあります。
最近、日本の自衛隊が海外に行くようになって、これはあくまでも米軍の戦闘に参加するのではなくて、後方支援だということがさかんに言われる。後方支援という言葉が使われていますが、言ってみれば、私どもが経験した兵站の仕事ですね。これを日本軍(自衛隊)がやる。これはロジスティクスと英語では言いますけれど、例の鈴木議員の不正問題が出た時に、外務省にロジ担と呼ばれる職員の人がいたということが新聞に書かれてましたけどね。これはロジスティクスの担当者という意味ですね。ですから兵站の業務をやるんだということで日本軍(自衛隊)は米軍にいま協力しているわけですけども。その兵站の悪さのために日本軍は負けたと言ってもいいんですよ。
これは第一の私どものボカ沈海没が、最初の兵站のくずれた証拠になりますけどね。最後に私どもが陥った飢えの状態、食料も食べるものも何もない状態、これも後方からの補給が一切切断されてしまった、そうした兵站の崩れからきてることですね。マニラを中心に、フィリピンに60万人の兵力が投入されましたけれども、これがほとんど大半が餓死なんだということが言われてますけども、結局食べ物が無くて、というのは現地民から取り上げる食料もわずかだし、本土から運ぶ食料は片っ端、アメリカの潜水艦によって沈められるというふうにして、武器も当然ですね、薬品も無い、もうないないづくしで、そのなかで、日本軍が戦うというより、最後は逃げ回っていたわけですけどね。そういう状態の第一歩ですね、このボカ沈というのはね。
フィリピンに残留することになり、陸軍報道部に配属となる
マニラから任地の北ボルネオに行くことになりましたけども、リーダー格の連中が、マニラ湾の入り口には敵の潜水艦が待ち構えているわけですから、当然シンガポールなんかに行く軍属は、出かけて行った連中が舞い戻ってきてしまうんです。びしょ濡れになって舞い戻ってくる。なんだっていうとマニラ湾でやられた、マニラ湾の入り口でやられたということで、そういうのを目撃しているもんですから、皆恐くなってしまってフィリピンに残りたい。
フィリピンを私ども卒業生が敬遠したというのはフィリピン人の対日感情というのがひじょうに「反日」的というか、米国様さまで、日本にちっともなつかない。他のインドネシアとかビルマの民族は日本軍大歓迎と言ってくれるのに、フィリピン人だけはちっともなつかないから、こんなフィリピンに赴任するのは御免だという空気が強くて、一期生も二期生もフィリピンに行った人間は本当に、さっき言った総合商社の命令でもっておまえはどこそこへ、おまえはどこそこへ行けと会社の命令で、行きたくないところへ行かされたということで、行った二期生は全滅しています。10何人行ってますが。一期生も4、5人行ってますが、これも帰ってきた人間はたった3人だけです。ということで、マニラにいた先輩というのはひじょうに少なかったわけですね。もちろん英語の他にタガログ語というのがありますけれども、これがフィリピンの公用語になってますが、タガログ語を使う人間というのはひじょうに少ない。皆土地土地によって使う言葉が違ってくるんですよね。そういう言葉を私ども全然習ったこともない。一番主流になっているタガログ語でさえも全く教わったことが無い。ただそういう言葉があるということだけを教わったと。
という状態で、なんでフィリピンに留まらなくちゃいけないかということで、私なんかは猛烈に反対して、ボルネオに行くべきだと、ボルネオに行けば自分のする仕事があるじゃないかと、いうふうにがんばったんですが、結局多勢に無勢というか、大半の人間がフィリピンに残りたいと言い出したので、じゃどこにするかということになったんですが、これはもう先輩を頼るほかないと、たまたま向こうに、大東亜錬成院の第二部というところの教官をしていた人間がフィリピンの民間人という形で、宣撫工作用として行ってた人がいるんです。その人間を頼るということを、たった1人残っていた二期生が軍隊に召集される直前に私どもとばったり偶然行き会ったんです。その人間が、困ったらその先生の所へ行けと、ということを言われたもんですから、吉田というんですが、その人を頼って行ったところが、おまえたち呑気なことを言っている時じゃないと、今はフィリピン人を味方につけなきゃならない大事な時なんで、お前たちが働いてくれないと、大人の連中は碌なことをしないんだと、いうふうなはっぱをかけられまして、こんなやりがいのある仕事はないじゃないかということで。
その吉田先生のところに行ったんですが、20人のうち皆分散させられましてね。その吉田という先生は、フィリピン伝統文化研究所という看板を掲げて、日本とフィリピンの日比親善協会の会長におさまっている。その人のところへは2人だけ務めて、あとの人間は軍の宣撫班へ行けと、残りの人間は比人教育隊、フィリピンの若い青年を教育するところへ行けと、残りは報道部に行けということで。
あとで分かったことですが、報道部に行ったのが半分の10人ですね。何でそういうことになったかというと、どこへその吉田先生が私どもを引き取ってくれるか交渉に行くと、もうフィリピンは敵が攻めてくる直前の状況でしたから、お前たちを使う部署がないんだと、どこも受け入れてくれないわけなんです。それで比人教育隊はこれは大事なところだというんで4人ほどとってくれたけども、あとの人間は引き取り手がない。で仕方がなくて、軍の報道部へ行って、当時の14方面軍の秋山大佐(秋山邦雄大佐)というのは日本の大本営の情報担当やってた人物で、当時は秋山中佐でしたけども、その人間が例の有名な「おかわいそうに事件」というのがありましたけれども、米兵の捕虜をたくさん取りましたよね、それを日本の本土に連れていって港何かで働かせて、それを上流階級の日本の婦人が見て、「おかわいそうに」と言ったというんで、それをたちまちやり玉にあげて、こういうことを未だに言う日本人がいるということをラジオでもって全国に放送したもんですから、「おかわいそうに事件」ということで一躍有名になった人物ですけど、その人が、フィリピンが決戦場になるというんで、山下大将と、少し先でしたけどもフィリピンの日本軍の報道部長に任命されて来たわけです。その元にいって頼み込んだところ、秋山大佐がまあよかろうと、吉田さんは何て言ったかというと、この連中は日本の内地でもって民間だけれども士官学校並みの教育を受けてきていて気力も充実している。
報道部は司令部とともにバギオに撤退する
報道官待遇の嘱託という立場でしたから、軍の宣伝を中心にしたそういう構成でしたから、荒っぽい若者を受け入れるのは反対だという空気が強かったわけですね。ところが秋山中佐のツルの一声でもって、まあよかろうと、ということでもって私ども引き取られたわけです。ところがたまたま向こうで、日本から赴任したばかりの軍属の若い30代の人たちが秋山大佐に気に入られて、相談相手になっていて、おまえらが若者の面倒をみてやってくれということでもって、1つの寮に私ども入りましてね、2人ほどの高等官軍属から毎日毎日、昼間は仕事ですが、夜になると、今の情勢はこうなんだというふうな生々しい話を聞かされた。行ったのは11月1日、私は病院に入ってて遅れたんですが、レイテに敵が上陸したわけですね、そのレイテの敵の船に向かって、特攻隊がどういうふうに飛び立って、そういう話ばっかりでしたけども、たまたま報道部は。
日本軍がその頃、14軍というのは、台湾の軍隊ですね。朝鮮軍がいたと同様に台湾軍がいて、台湾軍の主力がフィリピンを最初攻め取ったわけです。ほとんど戦闘師団は京都の16師団を残しただけで、あとは現地守備隊という格好の、ひじょうに兵力、装備の弱い兵隊しかフィリピンには来ない。あとは前線にもっていってしまったわけですね。そういう状態で、フィリピンは南方でいうと、扇の要の役割を果たしていたわけですけども、ただ反感を持っているフィリピン人を日本人に背かないように、なつかせようという、そういう政策できたわけですから、守備隊をおくだけの緩い統治体制をとっていたわけですね。あと、前線で戦う本当の兵隊は、既にニューギニアとかソロモン群島、あっちの方へ送られてしまって、いなかった。ニューギニアも駄目になり、ソロモンも駄目になり、あわてて満州から強い軍隊を引っ張ってきたけども、これも、レイテ決戦だと言い始めて、レイテに皆強い兵隊を送ってしまった。これはなぜそういう誤断をしたかというと、例の台湾沖の海戦で海軍が大勝利して米軍の航空母艦の大部分をやっつけたんだという、全くの嘘っぱちの宣伝をやった。それに陸軍がひきこまれたというのが真相のようですけども。そういうかたちで、皆戦う兵隊はレイテに送られてそこでほとんど戦死してしまった。
残っているのは後から送られてきた、山下奉文大将がフィリピンに来たのが10月なんですけれど、ちょうど私どもと相前後するわけですが、山下大将は「マレーの虎」と呼ばれて、国民からあの大将がいれば大丈夫だと言われたくらいの人気のある将軍だったんですね。その人が赴任してきたもんですから、フィリピンにいた兵隊たちは皆、軍属、私たちも含めて、山下さんが来たからにはもう大丈夫だという安心感になってね。山下さんとしては肝心の期待した兵隊は皆レイテにとられてしまったけれども、残っている兵隊でもって、ルソン島を守ろうじゃないか。ルソン島を守ることによって、米軍をルソン島に引きつける、それによって、米軍が本土進攻を目指しているのは明らかなんだけど、ルソン島でくい止めるのがフィリピン軍の任務だと言うもんですから、皆その気になって一所懸命やっているわけですが、肝心の武器が無いわけですよね。第一線の兵隊と言っても、山下大将が満州で育てた戦車1個連隊のほか、3、4個師団しか戦える兵隊はいなかったわけです。あとは60万と言っても頭数だけの話で、補給部隊とか飛行場の整備とか飛行場を守る飛行場大隊とか、いわゆる後方部隊がほとんどを占める状態だったわけです。
私ども1944年の年の暮れに、山下大将の方針が決まって、マニラは戦場外におく、司令部はバギオに移すということで、司令部の付属ですから、私ども報道部は、それで至急バギオに移って、バギオの上から見下ろしてみると、米軍は1月9日に上陸してきましたけれど、その前の1月6日頃から、私ども助けられた北サンフェルナンドの港からリンガエン湾にかけて米軍の戦艦が艦砲射撃をやるわけです。30、40センチの砲弾をどんどん撃ち込む。南洋群島のサイパンをはじめとする島々で日本軍が玉砕という形で全滅させられてますが、その時に艦砲射撃をうけてます。艦砲射撃をくらえば、波打ち際にいくら陣地を作っても無駄なんだということで、皆水際から離れた場所で、敵の砲弾が届かない場所で陣地を作って待ち構えるという形にルソン島ではなったんですけども、それをバギオの山、これは1,500メートルもある高い町ですけども、バギオというのは米軍が植民地にしたわけですが、夏になると、総督以下皆避暑を兼ねて、夏と言っても雨期じゃなくて乾期ですね。暑い時期になるとマニラからバギオに来て、政治を執る。第二の町だったわけですが、そこへ司令部を移して、そこを中心にルソン島を守ろうと。レイテは既に駄目になりましたから、他の島、60万の兵隊全部がルソン島にいたんじゃなくて、フィリピンは3,000ぐらい島があって、そのうち、700ぐらいの島を守らなければならない、ということで、ばらばらに兵隊を置いているわけですね。ミンダナオ島をはじめとしてビサヤ諸島のセブ島、ネグロス島、パナイ島、というところに兵力を分散していて、ルソン島にいたのは30万足らずの兵力しかない。そのうちしかも戦えるのは、レイテに送りきれずに間に合わなかった鉄兵団(第10師団)と称する姫路の連隊、師団ですけども、あるいは盟兵団(独立混成第58旅団)というこれは旅団ですが津軽の兵隊だとか、戦車第2師団、戦車部隊ですけども、あと年末ぎりぎりに朝鮮から送られた虎兵団(第19師団)というのがありますけれど、まあそんな程度の兵隊しか前線にたって戦える軍隊はいなかったわけです。マニラを根城にして戦えば、これはもう、米軍にやられるに決まっているから、日本軍は山に入ろうと、山の上に囲って、米軍と戦えば長期に渡って米軍を本土に向かうのを助けることができるんだと、バギオに司令部を移したわけですね。
部長談話と戦線の実情
ところがその山の上から見下ろしてみると、毎日毎日、米軍が上陸してくる前に、夕方あるいは朝、海が遠くに見えるんですが、海の上が真っ黒になるんですね。日本の飛行機がいわゆる特攻隊として突っ込んでいく、それを防ぐ○○砲火が、米軍は大きな船団を作ってきてますから、それが一斉に対空砲火を打ち上げると上空が真っ黒な雲だらけになる。そのなかでピカピカと稲妻がきらめくように砲弾が炸裂する。それは特攻機が突っ込んでいる証拠なんですけども、そのなかで秋山部長がまた談話を発表する。サントトーマスという高い山が近くにあるんですが、その上から毎日敵の状況を眺めていると、敵艦が味方の飛行機によって毎日毎日どんどん沈められているのを見るんだ、これは全くの嘘っぱちなんです。あそこで沈められた船というのは、わずかしなないんですけども、そういうことを言って、味方の士気を高める役割をしている。実際にはサントトーマスまで秋山部長が行っているはずはないんですが、そういう状況で。
ところが米軍が上陸してきて、もうひたすら米軍をそこに引き入れるためと言っていながら、実際は、前線に立っている旭兵団(第23師団)っていう満州のノモンハン事件で全くひどい目にあった軍隊なんですが。これが再編されて、一級の戦備を持った軍隊なんですが、それを前面に打ち立てて米軍が上陸してきたら、ただ日本軍は逃げるだけじゃなくて、このくらい強いんだぞと見せかける必要があるというんで、その旭兵団を前面に立てて、その旭兵団に斬り込み部隊を出させる。普通斬り込みというと数人の仲間を組んでそれが夜、夜中に米軍の幕舎に寝てるところに飛び込んで行って手榴弾を投げつけたり、爆雷を投げ込んだりして、かき回してくると、そういうのが斬り込みなんですね。ですからこれはまともな戦争じゃないんですね、ただ単に敵の虚を突いてかき乱してくると、敵を一時的に慌てさせるだけ。大勢はどんどん米軍が押しまくる一方なんですよね。
ですから山下大将が持っていった戦車なんてもう、米軍が持っているM4という戦車がありますが、これと比べると大人と子どもの違いなんですね。こちらがいくら砲弾を撃っても、米軍の戦車を突き抜けることはできない、向こうの砲弾を一発くらえば、日本軍の戦車はもう完全に全滅ですね、砲塔だけは厚く装甲されていますが、砲塔以外のところに当たるともう全員乗っている人たちが死んでしまう、という状態で、戦車師団はたちまちに、全滅してしまうわけですよ。それを引き揚げさせて、後方で歩兵部隊にあらためるという状態ですね、戦車を捨てて。この歩兵部隊が山下司令部の主力である北部ルソンの山岳地帯の戦いに、配転して戦うという南の入口と言いますか、米軍はひたすらまずマニラを占領することが第一だということで進撃していましたから、北部ルソンをとにかく固めようということで、3月以降、北部ルソンの南の玄関口にあたるバレテ峠とサラクサク峠という2つの峠があるんですが、これを守るために鉄兵団という姫路の連隊を主力にあてて、ところが付属の兵団もいっぱいいたんですが、それがどんどん片っ端から殲滅して、いまにもおちそうになった。これはたいへんだといって、戦車師団を歩兵に改編したのを至急峠のおもりにつかせるという形で、5月の時点まで守らせる。
報道部も前線へ
ところがバギオの方はベンゲット道路という日本の移民が苦労して造った有名な道路があるんですが、これはマニラからバギオに避暑に行く当時の米軍の総督なんかが使った道なんですが、そこを防備するのが一所懸命で、西のサンフェルナンドからやってくる別の道があるのを、なおざりにしたために、4月の中頃になると私どもも前線へ出るようにと特令がくるようになったんです。というのはサンフェルナンドの方からやってくる米軍を守るために、朝鮮から来た虎兵団というのをあてていたんですが、日本軍のバギオの後方に、いわゆる米兵軍のゲリラというのが、どんどん増えて、日本の補給、カガヤンから持ってくる米の輸送なんかを妨害し始める。それを追っ払うために虎兵団という強い部隊を後ろへ下げなきゃいけなくなった。
そのためにがら空きになってしまったということが原因して、4月の中頃、15日頃でしたか、報道部もお前たちの部隊も前線をかためろという命令でもって、私ども住んでいた丘のなかに陣地を作って、壕を掘って、陣地と言っても壕なんですよ。そこに小銃を持って潜む。たまたま私マラリアに罹って寝てたもんですから全然出ることは無かったのですが、という状態でバギオが陥落したのが4月29日なんですが、その前々日の4月23日か24日頃まで、報道部の部隊も前線と一緒になって壕の中で敵の砲弾がくるのを避けながら陣地についていた。こういう状態ですということを、毎日司令部の残っている参謀に、山下大将はその前に逃げちゃいましたけど、参謀の方に報告に行くと、お前たちいたのか、参謀は私たちを前線に張りつけたことをちゃんと知っているはずなんで、それをお前たちまだいたのかと、とぼけた言い方で、ようやく報道部が撤退することを承認にするというひどいことをやったわけです。
食糧不足と捨てられた米
その前から、マニラに着いた直後から、食料不足というのがあったわけですよ。軍に貨物廠というのがあります。食料を全部支給する所ですね。そこの貨物所の配給が、1人あたり1日100グラムの米だけです。本当は給与規定があるらしいんですが、これでいくと、1日に確か600グラムの米と肉は150グラムとかね、塩は8グラムか10グラムとかいうふうに規定があるはずなんですが、もうそんな規定を守ってることなんかできないんですよ。貨物所が配給する米は1日100グラムだった。それもずっと続いたわけじゃなくて、しまいにはもう米が無いと、配給どころか無いといって、貨物廠が断るという状況です。私どもは逃げる時に、貨物廠の脇を通りましたら、いっぱい白いコメが道に放り出してあるんですよね。貨物廠はいつまでもバギオを守れると思って一所懸命米を残したのが、急に逃げ出すことになったもんだから、米に火をつけて逃げ出したと。それを見てひじょうにくやしい思いをしましたけども。
ともかく米がバギオに行った早々から無いわけですね。正月の餅だけはマニラでついてきたんだと言って、餅と言っても南方産のモチ米ですからぼろぼろで不味いわけですけど、その餅をたった3日ぐらい食わせただけで、あとは毎日おかゆですよ。おかゆですからお腹がすく、それを満杯にするために最初昆布を入れたり大豆を入れたりということをしてたんです。大豆なんかは馬の食う食料ですよね。馬をたくさん連れてきてましたから、そういう馬の食料を人間の食料に充てる。ところがそれも無くなって、思いついたのがヘゴシダ、日本の内地でも最近は温室なんかでヘゴシダをつくっているのを時々みかけますけれど、フィリピンの谷底に入るとヘゴシダはいっぱい生えているわけです。ヘゴシダの表は真っ黒で固い殻ですけど、切って中を割ると白い豆腐みたいなのが出てくる、豆腐より固いですけども食えなくはない。その中身の芯の白いところだけを刻んで雑炊に混ぜ合わせる。とにかくそれを食べると腹だけは満腹しますけど、たちまちお腹がすいちゃうわけですね。そういう状態がずっと続いて、4月23日逃げ出すまで続いて、カガヤンにたどり着くと、報道部でマニラから逃げ遅れたというか、バギオに皆集まらなければならない報道部の一隊が、途中でもって米軍の上陸が早過ぎたといって、バギオに来れなくなってその一隊いが、カガヤン川にいたもんですから、そこが今となってみれば幸いしたわけですね。そこへ逃げ込んで、そこでようやく、1人前の食事というか、おかゆには変わりないわけですね。ただ100グラムのおかゆが300グラムに増えたという程度なんですが、そこで4月の末から5月にかけて逃げ込んだのが、1ヶ月もたたないうちに、バレテ峠というのが陥落して、米軍がどんどんやってくる。
これはたいへんだといって、私どもカガヤン平野に残った部隊は、いろんな情報の誤りがありましたけど、遅れて逃げ出す。行ったところが、大きな川じゃないんですけど、ちょうど雨期に集中豪雨にぶつかって、橋が流れる、これは防衛庁が書いた戦史を読むと、天然災害で川が流れただけじゃなくて、軍が堤防を爆破して、川を氾濫させて、氾濫によって米軍の進撃をくい止めるという作戦をとった。そういうことがあったことは分かったんですが、そういう氾濫にぶつかって橋を渡ることはできず、山の中にはいってひたすらに逃げ回る。それを数日繰り返して、ようやく本部に合流しようとしたところ、これまた途中で、憲兵がでてきて、お前たち司令部に行っちゃいかんと、途中で1週間ぐらい止められて。
本部に合流した時には、もう敵の米軍の砲弾がどんどんひどくなる、キャンガンという町ですけども、そこに集中し始めて、もうただちに撤退だと、夜中に、昼間はもう動けないですね、飛行機がいっぱい来ますから、夜の間しか動けないんで、その中を松明をつけて雨がどんどん降る中を、さらに奥のアシン川の流域を目指して進むと。そのアシン川で最後の6月末から7月8月と住むことになったんですね。
山岳民族の米と芋、南方春菊
アシン川の流域で、司令部はそこで、もうすることがなくなって、皆、敗残で滅茶苦茶になった戦闘部隊、前線で戦った部隊を、司令部の周りの山に集めて、そこで最後まで戦おうという方針をたててはいたんですけど、実際には兵隊がそこにいるというだけで、米軍と戦争するという状況は無かったですね。私どものいたアシン川の一番米軍が攻めやすい場所だけが、激戦がおこなわれたという話ですけれども、実際に私どもが、戦闘に参加したということは無かったわけです。
もう毎日自分たちの食う食料をいっぱい集めるということだけ、そういう食料というのは、山岳民族がちょうどそこにイフガオ族というのが、イゴロットと呼んでましたけど、イフガオ族の作った米ですね、これはライステラスと言って、世界の七不思議と言われているんですが、1,500から1,800(メートル)ぐらいの山奥なんですが、その山の中腹まで石垣を築いて、そこに細長い水田を、日本で言う棚田ですね、これをライステラスなんてハイカラな名前で呼んでるんですが、その畔の延長は地球を1周するというくらい、もう戦前から有名だった場所です。戦争の最中にその谷へはいっていって、そこに住んでいるたった2,500人ばかりのイフガオが作った米と、ちょうど収穫直後だからもみ蔵に、もみがいっぱいでしたね。
それを私どもが真っ先に、そこに逃げ込んだものですから、それを差し押さえて、それから芋畑、さつまいもですね、甘藷、それをカモテと称していましたけど、カモテだけはどっかに運ぶことはできないですからね、米と芋だけではもちろん暮らせない。当然なんか他の物ということですが他に食い物は無い。たまたま雑草に南方春菊と兵隊が呼んでいる柔らかい草があったんですね。これが主食みたいになって飯盒にぎゅうぎゅういっぱいに詰めて、茹で上げると、飯盒1/4にもならない。これを南方春菊だけでカロリーを採ろうとすると、1日11キロ食べなきゃいけないそうですよ。11キロというと牛がだいたい1日で食べる量ですよね。ところが11キロなんて食べようがない。ですから当然皆栄養不良になってどんどん痩せていく。
これがただ食料が無いというだけなら、まだいいですよね。向こうで有名なマラリアがはびこっている。ひじょうに悪性で、マラリアの脳症に罹ればもうおしまいだと言われるくらいで。私なんか一番最初にかかったくちですが、わりと軽くて、山奥に入ってからは、出なくなりましたけど、衛生兵が打ってくれた注射のおかげかと今でも思ってるんですが、そのなかで、マラリアの他にアメーバ赤痢がどんどん流行ってます。ということで、病気と飢えと両方でもって、どんどん兵隊が死んでいく。
最後の臨時歩兵部隊編成
しかも後方部隊で兵器もろくに持たないわけですから、3人に小銃が1丁みたいなね。そういうなかでも、前線の部隊がどんどん全滅していくから、後方部隊をどんどん臨時大隊に仕立て上げて、その兵隊でもって、米軍が進んでくるのを防ごうということをやったわけです。私どもの報道部からも兵隊を出せということで、一番最後に作られた戦闘部隊ですね、これら3個大隊ほどあるんですが、1個大隊は約500人編成ですけども、そのなかに私どもの仲間も3人、他の宣撫政務班というところへ入れられた部隊からも2人、合計5人ほど一緒に行った仲間が臨時歩兵部隊に転属という形で出されたわけですね。
そのなかでたった1人帰ってきた人間がいるわけですけども、その人間に私たまたま山の中で会ったんです。お前なんでこんなところにいるんだと聞いたら、俺は食料を補給してくれない部隊で戦えなんて、そういう理屈に合わないそんな軍隊にいることはないから抜け出したんだと言うんです。当時そんなことをいう人間っていうのはまずいないですよね。私はそれを聞いてびっくりして、その人間が自分1人で生きていくんだと。
ちょうど私その時、私ども報道部はアシン川の1カ所にいただけじゃなくて、何カ所かに分かれて駐留していたもんで、もみをあっちこっちに分散して持ってたわけですね。そのもみを取りに行けという命令を受けて、使役命令ですね。その使役命令で行く途中で友だちに会った。友だちは私のその話を聞いて、たった一握りでいいから米を分けてくれと、私に頼むわけです。ところが私はそれを断った。というのは、もみを無断で渡したと、ちゃんとこれだけ数は数えているのに足りないのはおまえが仲間に分けたんだろうと責められることが怖かったから渡せなかったんですね。ちょうど私がその時もみを持っていればどうだったか分かりませんけど。帰り道にもみを背負って帰ってくる途中にもう友人は姿を消していなかったんですね。
その友人はマラリアを病んで、あれはもう駄目なんだと言われた人間、そういう病人が臨時大隊に皆出されたわけですね。だから報道部で達者な人間だけが残されて、病気の人間が臨時大隊に出されるという矛盾したことを軍は平気でやったわけです。
結局大元を突き詰めれば、兵站ですね、兵站で内地から送るべき食料を何も無くなる状態に、国を守る兵隊を飢えさえたところに大元の原因があると思うんですが、現地では山下大将が俺がいけないんだと、俺が兵隊に飯を食わせないから兵隊がどんどん死んでいくんだと、負けもするんだと、腹が減っては戦はできぬという言葉のとおりですね。全く戦うことも、気力も失って、敵が来れば逃げることしか考えない、そういう部隊になってしまったのは、俺の責任なんだと、山下大将は現地責任者としてそういうことを言うわけですが、もう初めから備えが無かったということが、戦争の一番最後の段階で皆ばたばた死んでいった一番の原因ですね。
たまたま私の郷里の、私の出身の郡の兵隊の戦死者名簿というのがありましたが、それをたまたま入手したもんですから調べましたら、明治以来約2,500人陸海軍が死んでますけども、その大半が、もう8割くらいまでが、昭和24年から25年(1944年から1945年の言い間違いでは?)にかけて死んでいるんですよね。そういう状態は一体どうしてこうなったのか、戦争というものはいけないものだということを、はっきりと主張しなければならないというふうに感じて今に至っているわけです。
質問
聞き手:”バレテン”でいいですか、陥落したのは?
“バレテ”ですね。もうひとつは”サラクサク”ですね。バレテ峠というのは米軍がフィリピンを占領した時、自動車道路の建設を主体に、あまり汽車を通していないんですよ。1号線から始まって順繰りに付けて、バレテ峠を通って北部ルソンに向かってマニラからアパリまで行く道ですね。これを5号線と名付けたわけです。それから別のリンガエンの方を通る道を国道3号線と言っていました。バレテ峠が主動になっているわけですが、スペインが300年ほど前からフィリピンを占領してましたけれども、この時に造った道がサラクサク峠なんです。これはもっぱらスペインの宗教者ですね、宗教をひろめる人たちが切り開いた道ですね。この2つの峠を突破されると、もう北部ルソンはがら空きになるので、これを守るのに必死だったわけです。
聞き手:陸軍主力がいた町は”キャンガン”?
“キャンガン”です。バギオに逃げて、バギオからキャンガンに逃げて、そして最後にアシン川の一番奥ですね、そこにたまたま洞窟陣地があって、それを大和基地なんて名付けてね、司令部だけは洞窟に入っていたようですね。私どもは何も陣地も作らない、ただのんびりと、イゴロットは逃げちゃっていませんでしたから、空いてる民家に入って過ごしたわけですけども、2,500(人)のイゴロットしかいないところに、5万人の日本軍が逃げ込んだという話です。ですからもうたちまち食い尽くしてしまうわけですから。
私ども収容所に入ってから、そこの山岳地の民族が飢え死にしているという報道を、確か壁新聞で読んだことがありますが、自分に罪の意識がそういうところにありますね。私1人じゃないんだというふうに思っても、やっぱり自分もその1人なんだと、せっかくイゴロットが作った米やイモを、全部武力で追い出して。報道部はまだやり方がマシだったんですよ。いわゆる交換物資といって、塩だとか布だとかマッチだとかそういう物をほんのちょっぴり与えて、それと引き換えにもみをよこせと、くれないかと、という形で交渉して、双方納得づくでという形なんですが、実際は、日本軍は鉄砲を持ってるし、向こうが持っているのは投げ槍だけですからね、そういう状態の中で、日本軍が住民のあれ(食料)を食い尽くしたから、それで原住民が飢え死にする。その飢え死にしているフィリピン人、同じフィリピン人でありながら、フィリピン政府は何もしないんですよね。そういう住民を救うということはね。
聞き手:“兵科なし”ですけど、これはどういった意味で?
日本軍は、歩兵から始まって輜重兵(物資の運搬を担う兵)までありますけど、おまえは何兵だと言われたことないです。ただ今日から陸軍二等兵だと言われただけの話で。だから一種の歩兵でしょうね。歩兵と言っても戦闘部隊でないわけですから。
ただ報道部で、軍属から兵隊になれと言われただけで、やっている仕事は陣中新聞で南十字星というのを配って、味方の士気を高めようとして、嘘っぱちでも何でも書いて。一番最初に出たのを覚えているのは、「敵は我が腹中に入れり」という山下奉文が喋った、本当に喋ったかどうか知りませんけども、そういうのをでかでかと漫画入りで書いて、それを陣中新聞と称して前線へ出張するとそれを配って歩くわけですね。
戦地に行って出張というのはおかしいと思うわけですが、出る命令は出張命令ですよ。出動命令じゃないんですね。あくまでも戦争中であっても、出張命令というおかしな名前の命令ですね。誰それと誰それ伍長に誰それ二等兵は、何日どこそこへ出張せよという命令ですね。
聞き手:60何年前の体験されたことを実に正確に記憶されて話された。すごいもんだな、たいへん苦労されてご苦労さんだったなという一言ですね
これは初めての体験ですしね、沈められてから、どこをどう歩いたっていうことは今でも原稿なしで克明に覚えておりますけども、そういう話をこうやってだらだらとやっても、今は聞いてくれる人がほとんどいないですね。特に家族なんか、そんな古臭い話と言って聞こうとしないんですね。これは私どもが日露戦争の話を、なんて古い話を今頃やるんだ、馬鹿馬鹿しいということですが、これ今の私どもが話しているのと同じですよね。今はもう、ジェット機だとか、ミサイル、原子力潜水艦の時代でしょ、ですから、こういう時代に、私どもの戦った、三八式の小銃で撃った、そんな話をしても、そんな古臭い話なんて聞いてくれないですよね。よほどの人でないと聞いてくれないんじゃないかと思うんです。
体験記録
- 取材日 2005年9月18日(miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
戦場体験放映保存の会 事務局
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