平田 文子さん 

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平田 文子さん 

生年月日1932(昭和7)年
本籍地(当時)沖縄県
所属民間人
所属部隊
兵科
最終階級 

インタビュー記録

返らぬ父

 私がね、一番、戦争には憎しみを感じているんですよ。何でかって言ったらね、私はこっちから二番目の大きい2階ヤー(家)の…実家、向こうなんですよ。うちの父が数え32歳の時、私が数え7歳の時に、座間味の国民学校に入学したんですよ。あんたはお父さんが戦争に行くから、一番前になりなさい、って。この1年生の一番先頭に座らされてね、父は改めて私の手も捕まえないで、『行ってまいります』って言ってね、この座間味3か部落の人に総合センターの前で歓呼の声で送られて父は戦争に行って。母が27歳とか28歳とかだったらしいですよ。そして父はあれからまだ帰ってこない。「お帰りなさい」言いたのによ。

 私は本土のほうで定年退職迎えたんですよ。日本専売公社、JTの定年者なんですよね。定年2か年くらい前ですかね、その時の沖縄の遺児たちに「中国――父が亡くなった所の近くまでは行けますから」って国のほうから言われて。「参加できます?」ってきましたからね、「できますよー」って言って。そしたら座間味村の援護課から2万円頂いたんですよ。私は30万持って。24名の団体で県庁とか援護課の偉い方なんかと一緒に中国に行ったんですよ。沖縄の空港からすぐ香港に行って、香港からは中国の8か所回ったんですがね、同じ国内線でも、飛行機に乗って2時間、2時間なんですよ。そして北京まで来たら、北京から1日かかってドウザン(唐山?)という山の中で、うちの父は一番先に道を作ったり、工兵隊と言いますか、穴勤めだったらしいとか。あんなに愛している子供達を置いて、父は32歳の若さで。うちの一番大きい孫と同じ歳だったんですよ。

 私は定年した年・平成になってから中国へ行ったんですよ。そして北京の大きくて立派なホテルに隠れて、お父さんたちの供養をやったんですよ。私は筆箱を持って行って、その時の線香をその筆箱に入れて、実家に行って次女に、「行ってきましたよ、お父さん、一緒に沖縄に帰ろうね」って言って。帰りは北京から香港まで列車に乗りました。涙もぽろぽろこぼれてね。可哀そうにね、32歳といったらね。

座間味村

 この田舎は島が小島ですから、台風の時には潮が上がって、農作物がみんなやられるんですよ。昔の座間味村といったら、みんな貧乏だったんですよ。渡嘉敷村は山が高くて谷間が深いから、今は一千万農家があるという話ですがね。座間味では風が凄く当たって、渡嘉敷では村が手前のほうで、田んぼとか畑は後ろの山の陰になっている所にあるんですよ。だから台風の難も逃れられますが、この座間味村は逃れられなくて、もう餓死するんですよ。

 私の父は、この後ろのクシという所の次男なんですよ。息子ですが。向こうにおじいさんの養子に行って、私の生まれた家の屋号はおおかわというんですがね、まさか皆さんが、うちのお父さんが戦争に行って死ぬとは思わんから。昔の年寄りたちは、がんこというよりは、今は必ず住民票がないと学校も行けない、皆さん、住民票・戸籍というのは大事ですよね。だのにね、同じ高江洲だからおおかわの養子に行っても、おじいさんの養子に行っても、高江洲ですから、分家したという届け出ないで、最近も、今年も、みんな軍人の援護金の切り替えで証明しますがね。孫が来て、おじいさんの戦争の援護金の手続きは、向こうのお家の戸籍が出たのよ、って言って。私たちは22番地だけど、向こうは42番地で、手続きもやったのよ、と。こっちは次男ですからね、長男がいるから、お父さんが養う義務はないんですよ。向こうに養子に行ったお家には、おばあさんがいますのでね、私は養子という届けが出ていないから向こうの母親ももらえない、こっちの母親ももらえない。その時私は13歳で、援護金の紙――恩給の紙切れが8枚くらいあったんですよ。郵便局に行って切って取れれば、1枚10円の紙とか4~5円の紙とかを1枚切って、現金をもらったらしいですよ。でも戦争が激しくて、うちの母はやっと1枚切ったらしいですよ。那覇の中央郵便局ですか、この書類は使えないからと。

 お父さんは手柄立てたからと言って、金鵄勲章が2つあったんですよ。金鵄勲章1個についてあの当時の金が300円。当時の300円は今の3000万に等しいんじゃないですかね。300円の大きな証書が2つあったんですよ。お父さんの金鵄勲章をね、これくらいの(A4程度のサイズを指で示す)黒塗りの細長い矩形(クケイ)みたいな箱に入ってて、紫の紐がついていたんですよ。子供心に分かるんですがね。これをいつも仏壇に置いといたんですよ。

空襲

 3月23日の大空襲の日、その時に私は13歳ですがね、座間味村は本土からの船が戦争のために泊まったら自給自足しないといけないという習わしで。うちの姉は遊々といってね、座間味に嫁いでいるんですが、姉は私より2つ上だから今の中学生ですよね。私は7つ上がりだから今の中学校1年生じゃないですかね、6年生まで学校行きましたから、7年生ですね。教頭先生が、「今日は情報が悪いから、万が一、空襲があったら、あんた方は・・・」役場の27~28歳のお姉さんが2人おいでになってね、これくらい(両手を広げた程度)のお鍋に雑炊――雑炊っていっても野菜もないんで、畑に生える野草で雑炊を炊いていたんですよ。あと何回か刈りたらあんた方はお昼があるよ、って言って。そしたら私たち女生徒はお利口だから、すぐに刈りてるから、あと何回か刈りたら雑炊食べられるから頑張っているのに、男の子たちはやんちゃですよね。沖縄ではやんちゃ坊主たちのこと「ウーマク」って言うんですよ。5~6名のグループを作って1度も刈りないで、やまももが実っている山に、先にやまももを食べに行くのを私は見たんですよ。

 やまももを取って食べたから、たい肥を刈りるといって。そうしたらいよいよ那覇本島で、空襲の時には弾の音がぐわんぐわんするの何か聞こえるみたいにね、どろんどろんっていってたんですよ。「あれあれあれ~、今日は本物が来ているよー」と言って、女の子たちは早めにその場所に行ったんですよ。そうしたら係の人がこっちで印鑑打ちますからね、はい、何回刈りた、何回刈りた、って。『もっこ』という、米のわらで綱を作った、草を入れるロープを借りて頭の上に乗せて。パラパラパラーって機銃射撃が聞こえたんですよ。そうしたら、水もあるのに田んぼの中に座って、機銃射撃が終わるまで私たち4~5名のグループはしゃがんでいたんですよ。音がなくなったから走って行こうとしたら、麦畑があったんですよ。そして今度はその麦畑の中に耳も頭もこうして臥せって。ようやくその時の最終の場所に、はじめさんの偉いおじいさん、万年村長や座間味村の農業組長やってた人なんですね。今言ったら座間味村には、阿佐には1つしかなかったんですよ、売店はね。このおじいさんが、私たちが雑炊炊いている奥の竹やぶに避難小屋作っていたんですよ。仮のかやぶきの家で。その時、お父さんの兄弟、はじめさんの。3歳くらいのみえこちゃんが、そのおじさんが戦争が激しいって言って、座間味にはいないで、この避難小屋の、あっち、マチャンというんですよね、避難して隠れている時に、朝鮮の人夫の青年たちが防空壕作るのに木を切ってね、軍属ですか、日本兵の手伝いに。この若い青年たちもその1日をいっぱい同じ所で過ごしたんですよ。隠れている時に最初に山を焼いたんですよ。昭和20年3月23日が上陸ですから(注:上陸は3月26日、空襲は23日~)、22日ですよ、大空襲の日に。

 この部落ではカツオの組合が1つあったんですよ。あっちの山の下にこの船の避難をしていたらね、最初に橋と船からやっつけたらしいんですね。その度に私たちがいる所から先に火がついたんですよ。私の父と長男、今のダイバー船みたいな5トン未満の小さい船をね、私たち個人は両方で船がいたんですよ。だからもうお父さんはこんな大事な船も、子供達も置いてね、あの戦争に行ってまだ帰らんですがね。そしたら沖縄本島の大里村の稲嶺という部落出身の、85歳になるうちのおばあさん、こっちの参加部落の学生の親兄弟が1人も探しに来ないのにね、うちのばあばが1人。私たち生徒がみんなこっちで集まって。

 この雑炊は、10cmくらい木灰がたまっていたんですよ。みんな木が、山が燃えたから。その木灰をこうしてかきわけて、食べる能力は子供でもありますよね、木灰をそばに寄せて、中のごみが入らん所を食べていたら、うちのばあばは泣いて、「うちのふみこがいないよー、帰ってこないよー」って泣きながら来たんですよ、私を見て抱いてね。私たちはこっちで山城やすひろという教頭先生の言うことを守って。先生は戦後、沖縄テレビの社長だったんですよ、こっちの出身ですからね。人員が合わなかったって先生が言って、びっくりして。この後ろの山から本部の道から帰らんでね。半数の生徒が後ろの山から座間味の自分の部落に降りて、道もないのに山をかき分けてね、子供達の半数は必死に帰って。私たちは後でしたがね、もう浜のほうが火の海で、パチパチパチって火の粉も飛ぶがね。私たちは帰ってきて、あっちにお墓があるから、お墓の近くの前まで来たら、あっちの部落はウチャー(?)じゃなくって、畑村なんですよね。みんなの屋敷がないから、こっちの次男・三男が部落の畑にお家を建てたと。あっちの部落はあるんですがね。大きい爆弾が落ちた穴があったんですよ。この目で見たんです。そして一応お家に帰ってきて、もう母はお父さんの金鵄勲章どころの話じゃない。子供達も年寄りもいるし。うちの母はその時に36歳だったんですよね。荷造りして。そして私が帰って来る時に、高血圧で倒れたおじいさんがね、うちの実家の前は昔、フクギが密集していて、こっちに寝かされてね、「ひぃひぃひぃ」って、おじいさんのうなっている声が聞こえたんですよ。男の子はもう皆さん台湾とかに行っていないから、娘と母親のおばあさんとがね、看ていたんですよ。

自然豪

 それからすぐこの夜は、ユヒナのガマ、自然壕に行ったんですよ。そして母は3日目におうちにお父さんの金鵄勲章取りに帰ったんですよ。そしたらもう人の話では、日本兵が持って帰ったとか言うんですがね、もうその金鵄勲章はない。隣のお家は弾で燃えていたんですが、私のおおかわは残っていたんですね。隣の豚小屋が焼けて、黒い豚が焼けて真っ白になって、私が帰ってくるとね、「ンー、ンー、ンー」ってね、やけどで痛かったんですよ。うちの屋敷まで来てうなっていたんですよ、豚も。そして大空襲、この壕、洞穴に入って、あれからまたもう1つのガマはもっと遠くだったんですよ。2~3日してから、「遠くの洞穴にもしも敵が来たら」と言って。軍艦は網の目のように隙間がなかったんですよ。アメリカの軍艦が怖いぐらいにいっぱいいて、近くで艦砲射撃やるから。

 私ら12歳でね、何にも役に立たない弱い少女だったんですよ。でも姉は2つしか変わらんのに、強い少女だからね、母と2人、こっちにあった整備中隊の日本兵の壕に。川の中からこうして歩いて行ったんです。壕の食料が詰まっているっていうもんだから。軍も民間も、みんながそっちに探しに行ったんですよ。そしたらうちの母と姉が行く時には、もう米類はなくて、粉味噌があったと言って、こぼれているのを取ってきたんですよね、母たちは。

 そしたらまた問題ですよ。この穴の中ではね、座間味の何十名かの人が玉砕したからね。その時、みやむらはじめさんのお母さんも18歳くらいの娘で、穴の中にいたって。そしたら次々にみんなが殺して。おじいさんとある1人のYというおじさんと、2人で首を絞めて殺しよったって。そしたら1人1人並べて寝かせて毛布を頭からかぶせているんですよ。もう真っ暗で洞穴が深くて物も見えないから、姉も母も人間の上から歩いて。お腹の上を歩いたらね、ぴしっとぴしっと人間の汁の音まで耳にしたって。死んでいる人が膨れてて、その上から歩いて。

 中に食べ物があるんかと…。盗みだから。こうして何か月か避難して、ある日この弱い少女は、姉と母について「じゃあ、今日は自分も水酌みに行くよー、お母さん」って言ってね、私はついて行ったんですよ。そして目を逸らしたらこっちに人間が、死んで倒れて3~4名膨れているの見えよったわけ。怖かったんですが…。

 その年、沖縄は雨が少なくて、田んぼの稲が立ち枯れするからって言って、1mくらいの小さい穴を掘って水を溜めたんですよ。全部じゃないんですが、各お家に。その水を汲んで稲にかけたんですよ。泥水よ。避難小屋の岩の所から来て、この泥水を汲んで、命の少ない持ってった時にね、私はあの青年たち見てね、あの青年は座間味村の高校生なの。後ろに石垣のいしかわっていうお家のおじさんがいたんですよ。そのいしかわっていうおじさんはみんなに「先生おじさん、先生おじさん」って言われてたんですよ。この人は聞くのも書くのも、英語が上手だったって。アメリカが放送しているの聞いてね、避難小屋に回ってね、「今ね、『殺しはしない、食糧も与えて、腹も満たしてね、何も殺しはしないから住民の人たち出てきなさい』って、今、マイクでそう言っているから、皆さんは早く阿真島へね、このユヒナの山の上、崖の上から、捕虜されたほうがいいよ」ってこの先生が言っていたらしいですよ。だのにね、この先生、この壕で殺されて膨れて死んでいた人間の中に入っている。アメリカが殺さないんですよ。後ろに日本兵がいたって。捕虜されて行くのを見たから、後ろから撃って。日本兵は民間までこうして犠牲にしているんですよ。本当に休まらん。

 そしたら向こうにうえはらというおじいさん、おじいさんといってもその頃はまだ60歳にもならん、50代でしたけど、その頃はおじいさんおじいさんと言われてて、先に捕虜されて、阿真部落に行ったらしいんですよ。自分は妻子はいないが、家族がいっぱいいましたからね、兄弟の子供達が、同じ家に住んで。自分の孫たちを早く阿真に捕虜されたら命拾いもするし、ご飯もあるからね行こう、って言ったらね、壕に入っている座間味の避難民たちがね、「こいつはスパイだ、スパイだ」って言ってね。このおじいさんは組合の書記とか経理とか区長をやってた、頭がいいおじいさんだったんですよ。この人は大変だ、もうアメリカに教えているからね、軍がやがてはこっちに攻撃しに来るんだ、って言って。おじいさんはもう二度と向こうの捕虜の所に行けなくなってね、みんなに怒られて。ある日おじいさんは自分のお家に行ったらしい。その時、本当の話か秘密か分からんが、日本の軍が来てね、日本刀でこのおじいさんの首をたたき切ったて殺したんですよ。戦後、みんなが捕虜にされて出てきてからね、おじいさんを葬りましたがね。その時はおじいさんじゃない、おじさんだよ。

 あんなに厳しい厳しい戦争があってね、私は7歳でしたがね、何でも分かりますよ。うちのお父さんの部隊の名前まで憶えている、今も。うちのお父さんの部隊はね、ちゃむろ(?部隊長名?)部隊と言って、北京の廬山(?廬山は北京近郊ではない、冒頭で出てきた唐山)の山の中で全滅したらしいんです。私たちの家の表札は『誉れの家』っていって白い表札だったんですよ。普通の表札は黒ですよね。私たちのは白い表札で女所帯なんですよね。こっちの島では6月、7月、8月の3か月に、方言ではスクと言う小魚を捕りに行くんですよ。これは塩辛にして食べる、こっちの人のいわば漬物なんですよ、1年中のおかず。これを取りに行くのはね、必ず男しか権利がないわけ。昔はそう決められたのか。うちの弟はおじさんたちと行かされたんですよ。今のお母さんたちは、学校に行かないと怒りますでしょ、不登校したら。だけどうちの弟はよ、「学校に行く、海には行かない」と言っては、早く行け行け、ってお尻叩かれて。行ったらこのスクガラスの半分ぐらいの配当はもらえるから、これもらうんだ、って。お母さんは、弟が学校に行くんだって言っても、お尻も蹴って、泣かしてね、この子はもう10歳か11歳くらいだったんですよ。そして弟は青年・おじさんたちとね、おかず取りに行かされて。もう学校もない、もうあんな暮らしでしたがね。

 歌までもね、私たちが習う歌、戦争の歌だから。私たちには誉れの遺児と言ったんですよ。(歌を歌い出す)♪ほ~まれ~の~遺~児と~、も~ろと~も~に~、小さいながらも僕たちは~、きょうえ~い~けんの~友となる~♪って言って。あの時の音楽の本もみんなこんな歌だったんですよ。今でもね、お父さん、学校で習ったのね、低学年の時にね。共栄圏の友となる、この誉れの家の歌にあったがね。共栄圏といったら、今の何党、民主党、共和党、ありますでしょ、こんなのを言っていたのかね。私はつくづく考えるんですよ。大変でしたよ。

 台風がきたら、餓死したら、ソテツといって、葉っぱは手突っつくね。歌がありますでしょ、大島のね。(歌を歌い出す)♪赤いソ~テ~ツ~の、実の~熟~れる頃~、愛人(かな)はと~し~ご~ろ~♪ってね。このソテツの赤い実を鉈で半分に割って、割る時にもね、これはすべすべだから、もうあっちにもこっちにも飛び散るんですよ。これを腐らせて、手に触ったら痛い所を鉈で削り取って、これを芭蕉の葉っぱとかクバの葉っぱとかを山から取ってきて、水に浸けておいて、3日ぐらいは。毒素を取るんですよ。折ってみたらパクッて折れるからね、毒素が取れたんだね、と。これを木の臼に入れて、つつく棒がありますよね、こんな大きいの(杵のようなものでつつく仕草をする)。それを洗って、上の水は10回くらい捨てて、入れてはこぼして捨てて毒素を取って、これをメリケン袋に入れて、豆腐とかもち米を挽く臼に入れて、石で押さえたら汁が出て、今度は饅頭みたいに作って、太陽に干して毒素を取って、これにお砂糖を付けて、ゆがいて、砂糖で煮しめて、みんなで食べたんですよ。だのに、私はワガママで、私の喉からはこれ落ちて行かないのよ。喉から通らんのよ、この芋のタキツ(?)って、この毒のソテツを。「お前はね、お父さんが戦死して軍事補助があってお金があるから、闇で何でも物が買えてワガママしてるから、お前の喉からは通らんのさ」って、お友達がみんな言うんですよ、今のいじめみたいに。そしたら、うちの85歳になるばあばはね、糸満の人が来る座間味しかこんな小魚を網で採って、こんな人たちもお肉も1斤ずつざるに入れてね、売って歩くから、この山道から買いに行くの大変ですよ。学校の帰りはこんなお買い物も自分達はやるんですよ。また、帰りに座間味の村でお肉が600グラムずつ入っているのをうちのばあばは買って。「お前たちは、親は敵に殺されて、そのお金でこんなの買っても、喉に落ちるもんか」って、うちのばあばは私たちを怒るわけ。親は戦争に行かせてね、このお金、何か月かに40円あったらしいです、軍事補助が。そうしたら1か月の校長先生の給料が40円だったらしいね。この40円は半年分の救済のお金だったんですよ。これがあるから、よそのお家は現金がないのに、これで少しは***(聞き取れず)方も、現金というお金があったんですよね。

 私が4年生の時の日露戦争ですね、ロシアと戦ったんでしょ、これもすぐから仕込むんですよね、子供に。戦争の歌も。華やかな歌はない、みんな戦争の歌。日本の将軍は乃木大将ね、ロシアの日露戦争の時には。敵の将軍はステッセル将軍って言ってね。『昨日の敵は今日の友、語る言葉も打ち解けて、分かれて行くや右左』、って言ってね、これ、音楽の本にあったのよ、4年生の。そしたらある農家のお母さんがね、自分の息子の名前が一太郎だってって、五里の山道踏み越えて、ただ一言を告げんとて、お母さんは五里の山道を何日もかかって、村まで行ったの。息子が船に乗って、戦争に行くのに間に合わせに来たのはね、一言告げたかったから。「一太郎や、船に乗ったら筒を上げろ」って言ったらね、一太郎の返事は、「はいお母さん、乗っていますよー」って言って。「お天子様の御為にお前は死んで来い、日本の国のために死んで来い」って、このお母さんはこの一言を告げるために五里の山道を降りて来たって言ってね、私たちは子供の時からもう仕込まれていますよ。小学校、10歳から。(歌い始める)♪五~里の~や~まみち~、踏~み~越~えて~、た~だひと~こ~と~を~、告~げ~む~と~て~♪。今の母親が、孫や子供にね、はい、天皇陛下の為にお前必ず死んで帰るのよっていうバカがいます!?どこのバカもいませんよね?

お国の為に

 うちの主人の話に聞こえますか?ちょっと変わりますが、うちのお父さんは嘉手納農林高等学校に、この戦争の時は1年生でした。10月10日も那覇の街が丸焼けで、人の死体の上を歩いたって。農林高等学校の上級生たち、2年生とか3年生たちは航空兵に志願できたって。特攻隊の船とか、体当たりする飛行機に乗るの。そうしたら不合格したって、早く日本の国のために死にたいのにね、私は不合格したって、泣きよったって。今の高校生が、「はい私が日本の国のために戦争に行って、軍艦に突っ込んで死にたいです」って、泣く子がいます?1人だっていませんよね?だから人間は、学問っていうのは大変ですね。仕込まれて。

 朝、学校に行ったら先生がグラウンドの台の上に立ってね、日本地図出されているんですよ。日本地図を飾ってね、もう戦争はこっちまで来ているから、あんた方は、座間味の生徒は早く宮崎に行って疎開しないと、みんな座間味で死んでしまうよ、と言われて。もう12、13歳だから、死ぬというのは怖いですね、母親と別れて宮崎に行くのも怖いからね、涙ぽろぽろしてね、学校に行っても泣きましたよ。そうしたら座間味の学校はね、まだ御真影、天皇陛下と皇后陛下の写真が教室の大事なところに保管されて、はい天長節、何節って言ったら、部落の父兄が全部集めて戸を開けて拝んでいましたよ、昔。そうしたら先生たちは訓練するわけ。昔は給食といっても、阿佐部落と阿真部落の子供達は、ハンカチといってもないよ、弁当っていっても白いご飯もないよ。洋服の布切れ――布くずに、お芋1個包んで、教室で食べていたんだよ。玉城先生っていったんですよ、この校長は。50歳前、40代の校長先生だったんですよ。この校長先生が白と赤の紐で綱を縫われたのでね、おんぶしながら、他の教職員も後ろと前から訓練しているんですよ。女の子って、何見ても笑う年頃さね、まだ12~13歳だからね。私たちは何かおかしくてクスクスクスクス笑っているわけ。もう、下に下にで、最敬礼で、天皇と皇后の御真影を迎えるわけなのにね。声を出さないで笑っていましたよ。学校は大変でした。座間味のどこかの軒下で平均台に腰かけて勉強を習ってましたよ。

 うちのお父さんは農林学校でね、今は嘉手納農林、八重山農林、北部農林、南部農林ってありますでしょ、沖縄でも。お父さんたちは入学しても嘉手納の読谷の浜から戦車が上がれないように、上がったら穴に落とすってね。私たちが1考えたらあっちは100は考えてる。持てる国だのにね。この穴を掘る作業のため、勉強を1日もやらなかったって。ようやく去年、この農林学校はみんな解散しました。お父さんの見せるのがあるから。

 男の子の学生服着てね、これを何かで作られてね、昔の嘉手納農林には、財産がいっぱいあったらしいんですよ。農園がね。それを嘉手納の中学校にも寄付してあちこちに寄付して、畑いっぱい持っていたから、昔の農林高校は。これで何か集まりがある時も自分の手からは出ないで、その財産を売ったお金でね、みんな賄えていた。去年はうちのお父さんたちが87歳で1番、1年生だから、上の人たちはほとんどいないから、こっちは解散したんですって。焼野原から1日も勉強をしないで、あんなに尽くしてね、これが座間味に渡ってくるの、運搬船、普通の船も、いないでね、漁船から隠れて見られないように機関場に入ってね、16歳の少年がね、こっちまで帰ってきたらしいですよ、この部落まで。昔の戦争って恐ろしいですね。

 皆さん、戦争には反対して下さいよ。絶対、孫たちを戦争に行かせないって。だから私たち言うんですよ、自衛隊、何隊とかっていったらね、これを決めた大臣たちは戦争に真っ先に行きませんでしょ。若い子や孫が行くでしょ。この人たちが真っ先に行ってね、弾を機関銃を回せばね、諦めもつくのにね、若い子がまた犠牲になりますでしょ。もう絶対反対しますよね。

インタビュアー:1つ聞いてもいいですか?お父さんが戦死されたのはいつの事ですか?

 昭和12年8月29日。北京の(唐?)山の山で。

インタビュアー:出征はいつだったか覚えていますか?

 私が数えで7歳の時。私が1年生の時に。歓呼の声に送られて、3か部落の方に送られて。座間味で1番偉いのはね、役場の軍人の係のはじめさんのおじさん。座間味に忠魂碑ってありますでしょ、その時の私たちの大きな写真があるんですよ。はじめさんのおじさんが座間味の兵事係だったんですよ。一緒に写真があります。その時の除幕式、「忠魂碑」(注:昭和16年建立)と書かれたこの白い幕の除幕式、引っ張って開けたのがうちの姉、9歳の時に開けたらしいですよ。その時に座間味村の慶留間から1人、こっちのお母さんいなかったのかね、おじさんが連れて男の子、本当にその時に座間味村で戦に出て、戦争で死んだのが私、高江洲正次(注:平和の塔の名簿で確認)ですからね、私たち兄弟3名と母とおばあさんと長男のおじさんと高江洲正次の兄貴と、忠魂碑の写真がありますよ。向こうのおじさんが座間味村で村長の次に偉かった、はじめさんのおじさんが。 そうしてまた、はじめさんのおじいさんが農業組合長で、その時にうちの主人の妹おばさんは、赤ちゃんを産んで2日で亡くなったから、おっぱいもないでしょ。座間味村の農業組合は考えて、座間味村での非常用のミルクの配給をこの赤ちゃんだけに配ったって。この赤ちゃんは親もいないから。ミルクを買う店もないですよね。村の配給を、避難小屋作ったこのはじめさんのおじいさんがまた考えて。お湯も沸かせない、火もつけられない、焚けない、このチシという避難の穴の中でね、敵に見られないように入口に立てていたアダン葉から落ちる水の雫、沸かしもしない水でね、粉ミルクを作って飲ませたら、この赤ちゃんはお腹も壊さないで生きていた。大きいお姉ちゃんになっていた。だからこの赤ちゃんのお腹は違いますね。

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体験記録

  • 取材日  2006年4月22日(miniDV 60min*2)
  • 動画リンク──
  • 人物や情景など──
  • 持ち帰った物、残された物──
  • 記憶を描いた絵、地図、造形など──
  • 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─

参考資料

  • 地図 ───
  • 年表 ───

戦場体験放映保存の会 事務局

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