原山 文雄さん

生年月日 | 1919(大正8)年生 |
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本籍地(当時) | 熊本県 |
所属 | 第37師団 |
所属部隊 | 歩兵第225連隊3大隊 |
兵科 | 歩兵 大隊無線手 |
最終階級 | 軍曹 |
インタビュー記録
プロフィール
1919(大正8)年3月23日生まれ
当時の本籍地 熊本県
1939(昭和14)年12月10日入営 現役兵
第37師団歩兵第225連隊3大隊
歩兵 大隊無線手
1943(昭和18)年7月17日 満期除隊(兵長)
1943(昭和18)年12月7日 召集
102師団独立歩兵第174大隊
1944(昭和19)年1月23日門司港出稿、2月20日サイゴン上陸、4月14日サイゴン出航、4月16日比島マニラ、5月1日マニラ出帆、5月16日セブ島上陸後警備地ネグロス島へ
1945(昭和20)年9月までネグロス島警備、終戦を知る、12月14日レイテ島より出航、12月23日浦賀着、12月29日兵役解除、帰郷(軍曹)
召集
召集されてから、まああの、なんちゅいますか(=なんて言いますか)、終戦まで…終戦しても、ま、我が家に帰り着くまでは、もう苦難のいちずだったですね。
聞き手:この、2回目に行かれた時のほうが?
はい、ええ、もう、行くときはですね、まああの、今、オタクさんあたりが信じるか…とも思いますけどね、まあ、5人でですよ(指をパーにして5を示しながら)、防毒面がひとつ。〈はあ・・・〉ね。そしたら、ゆったら(=言ったら)もう、いらんもんでしょ。もう、無いんだから。ね。 そして竹槍ですね。あの…(資料をめくりながら)これがあの、召集を受けてからの隊員の名簿なんですけどね(資料を持ちながら)。私、熊本でいましたから、あの、ひとりにですね、まああの1メーター、2メーター…2メーターまでなかろうけど、ひとり3本、竹槍ですよ、竹を切って、先をとんがらかして…。ひとり3本。それが兵器なの。
聞き手:小銃はないのですか?
無い無い。〈はあ…〉防毒面が5人に1個、竹槍がひとり3本。そうすと、竹いかだですよね。あれ、一個分隊にひとつ。それが兵器。信じます?他は、兵器ない。手ぶらです。
聞き手:この2回目に行かれた時の、この部隊も…
そう、この225連隊に行く時はね、あの…さっき写真でも、あの…兵隊でね、出ていく前の写真なんかあったでしょ。だけどさ、もう召集受けてから、そういう何はなかったわけですよ。
聞き手:これでも、1回目から帰ってから半年ぐらいですぐに呼ばれたんですよねぇ?
半年ないですよ。8月の17日に帰って12月の7日、丸100日こっちにおりました。ちょうど100日。召集受ける前はね、うちおったのは。それで田んぼでから、稲刈りしおったところが、「原山さん、おられますか?」と言うから「はい」って。もう私、その時は拳万(げんまん)を取って上海で商社に勤めること手続きしちょったんやけど。あの、採用が遅れて、帰ってきたわけ。だけどその、中国のほうに、上海のほうに行く手続きを取りよったもんだから、それであの、そして訪ねて行ってから、召集が来るかもしれないから待っててくれって。そしたらもうすぐ。召集令状が来てですね、もう12月7日の、うちにまる100日おっただけ。そして1日(※先に12月7日と言っているがここは1日とはっきり聞こえる)に入隊して。まあこれ、後からでもよかったら見といてください。
戦地へ
これ、70年前の。
聞き手:へえ・・・。それは、2回目、まあでも呼ばれると思っていらっしゃいました?
おお…。それは、もう、思うよりか、帰ってきてほっとしたくらいのね。なのにまた召集が来たからさ。そして1週間くらいしか余裕ないでしょ。そして私が八幡製鉄所に来とったんでね。慌てて今後また手続き取って、我が家とな、会社のほうの、辞めて手続きしてそして帰るそこも召集でしたよね。
聞き手:それでその、行って配られたのが竹槍3本?
それも演習しおったところ、あの、私の、あの…同隊に中村というのがおったのですけど、それがあの…熊本の保田窪、ちゅう所で農家しよったからそこの山に行ってひとり3本ずつ竹を切って、そしてその先をとんがらかして持って帰って、それが兵器でしたね。
聞き手:じゃあ、それは向こうに渡ってからは何か配られるようなことはあったんですか?
いや、それは向こう行ってからね。結局あの、イギリス、えー、英国ですかね、ああいうとこ、ほら、あの、鹵獲(ろかく)した(=戦地で奪った)小銃とか弾(たま)とか、それからあの重迫(重迫撃砲)とかね、それもらいましたけど、それが向こうでもらった兵器ですよね。それが終戦まで使ってたの。
聞き手:へえ…。19年に門司港を出られて…えー、この間の船旅は割と順調だったんですか?19年っていうともう結構?(大変でしたか?)
うん。いえ、2回くらい、あの、イギリスのあの…、潜水艦ですか、あれが浮上して、それであの…カムラン湾とツムラム湾と、えー、浮上してきたから港に入って、1週間くらいずつあの、稼いでそして出て行って、そして最後はでも、サイゴン島出て、あー、サイゴンじゃない、いや、マニラを出て、「(潜水艦の)潜望鏡発見~」ということでまた、引き返して、そして2日くらいおって、なんちゅったけ?その沈められることはなかったけれど、私たちの後から来たのはもう、ふんどし一丁とか、飯盒ひとつとか、裸ででしたよ。着るもんも着られんして上陸。
セブ島上陸、ネグロス島へ
今、私たちは符(ふ)が良かったと思うんですよね。
聞き手:ああ…。19年にもう、セブ島というとなかなか行けないですよね?
19年の2月だったと思うんです。
聞き手:セブ島に行ってすぐにえーとこの、ネグロス島に入られる?
いえ、セブ島にちょうど私たちと同じ、あの、編成された大分部隊とですね、私たちと、私たちがセブ島に入った時もうこっちの大西部隊っちゅうのはセブ島に入っちょったわけ。それであす(=そ)こで亡くなった大将、何つったか、あの…飛行機で行きよって、不時着して、あの…フィリピンの部隊に…、古賀峯一さんじゃったかな。
聞き手:そうです…かね。えっと、あの…何か、海軍か何かの作戦が全部それでバレたとかっていう…。
それで不時着して、あの…捕虜になって、(注:海軍乙事件のこと)そして大西部隊がその、地区を包囲して何したらその、日本軍に証拠をその、引き渡すから停戦してくれと、言うて停戦したら確か古賀嶺一大将ではなかったかと思うんだけど、
聞き手:古賀さんのっていうと、そうですね、古賀さんのは行方不明のままなのかな?
えー、いや11日に11名の将校、将官なんかと一緒に連れてきたわけです。それで一応、こう、包囲しちょったら、その、連れてきて、その間にこの、逃げてしまった、こうにしとったらね(両手で抱える動作をしながら)。で、そうして連れてきた、翌日に私たちはセブ島に入ったわけですよ。そういう話を、なんちゅうか、先から聞いて、はあ、そげんことじゃったかいうことで、それから私たちは何ちゅうか、して、ネグロス島の方に、あの、警備地ですか?に入ってったわけですよ。
聞き手:ネグロス島ではまずどんなことがありました?
まあ、言うてもしょうがないね、あれは…、あのもう、あすこで3月の23日、ちょうど私の誕生日に、私あの、一個分隊に、第一戦に配属されとったから、朝起きたら私たちがここにおってね、(机の上に指で地図を描きながら)ここの、海の方に29隻か、大小船がこう、来とったわけ。おう、来たぞ来たぞ、言うて。もう敵が来たぞ、言うて。それで目を覚まして、もう、ほぞ(臍)を固めた(覚悟をした)わけですよね。もうその前レイテなんか、やられとるわけでしょ。それでもう、ネグロス島もそうなんして、セブ島あたりも、どんどん押し寄せてくるもんだから、もう、ほぞを固めたんだけどもう駄目だった。それで今度は、一歩一歩下がって山の奥の方に入って行ったら、まあ23日の、昼頃…昼頃…なんですかね、その、木製の飛行機がフ~ン、フ~ンちゅって、その、20~30mの高度で、飛んできたんですよ。ほお、この頃アメリカの飛行機も(空を見上げる動作をしながら)、いらんことになったのお、言うて。そしたらその、上から話すると音が聞こえるわけですよね。まあその言葉はわからんけど。ただ私たちバナナの木の中に、こうやって見ちょる。(上を見ながら)。はなして(=離す)こう、旋回しよってるけ、上からその、バナナの木の中で、「プッ、ピッ」っちゅうか、その、なんて言うん、そん時はそういう感じなかったんだけど、拳銃みたいので撃つわけですよね。それが観測機じゃったんですよ。敵の。〈へえ…〉こっちはそうとは思わないけん、ああ、木製の飛行機が飛ぶくらいだから、もうアメリカも、負ける気あれして、飛行機が飛びよらんとやのと、そんな調子で簡単に考えとったわけですよね。そしたら昼過ぎになってから、なんていうんですか、その、発射音、まあその時は思わなかったけど、ポンポンポンポン、いうて、それからその、4回ずつ音がしたわけですよ。
えー、何か音がしたのう、くらいの、もうその、片一方はバナナの棚の、何十本か、あるくらいのなんで、(手で場所を示しながら)こういう所に、1人がおるの。全然その、下を見ても見えるところでないから、もう、思いよったら「ドンドンドンドン」って4連発ですかね。2発目がその、畳1枚半くらいの小屋を作って、中隊長のね、やっちょったわけでした。中隊長じゃない、小隊長のね。2発目がその、発砲しちゃって。まあその、バナナの木のとこの、おったからその、助かったけど。装備なんか、小屋にっちゅうたら、それやけど、戦争中だからね、大した物は持たないけど、刀とかね、それと隊長が持っちょった物、吹っ飛んじゃったの。それでその…、そんななんちゅうかこっちはそういうその、何が思ったことなかったけね。2発目があんた…かえって、さあこれじゃあ、本当か。戦争になったんかと。23日の朝、船が着いちょっとるのを見て。もう、昼過ぎにはそれでしょ。というのはこの「ウ~ン」ちゅて回りよった観測機が下に、距離、ね、場所、方角なんかを知らせたとしか思われないわけです。
聞き手:その、撃ってきてその、2発目当たったっていうのは船からの攻撃の?
いやいやもう、朝なにしてから、大砲なんかをその、陸揚げして、上陸用舟艇で何するから、ね。水の上じゃ船やけど、丘に上がったら自動車と一緒でした。もう設定してもうて。日本人だったらとてもできない。私たちのおっちょった、重迫(撃砲)でも、一応こういうと眺めて(※迫撃砲なので方向を定めるための動作をしていると思う)、横に古城を見つけてね、それと正面とを見つけて、それと、方向をこう、合わせて、そうして、第一発の弾を打つまで、何秒かかかるわけですよ。そして引き鉄を引いたら、ね、それから、発射ですよ。それからみたら、向こうは一発撃ったら「ポンポンポンポン」って、こうやって出てくるでね。それじゃとても太刀打ちできない。そうしたって日本は、もう、戦地じゃ、間に合わなかったの。支那にいる時は勝ち戦じゃったからね。日本が飛行機でそんなんおって何しよったけど、もう大東亜戦争になっんて、私どもがあの、19年の2月に行ってからってものは主客転倒でしたよな。私たちが逃げち周りよった。大人と赤子が戦争しよるようなもんですよね。何言っても手が出ないんだから。今の人にそんなこと言ってもね、「うっし(嘘)ゃあ」、としか言わせんと。な。けど私たちはそれ体験してるから言うけど、今の若い人は、そういう事実を知らないから。これなんか見ても、わかると思うけど…。(聞き手に資料を渡し、しばらく考え込んでから、アルバムをめくり出す)
聞き手:へえ…。そのあと、じゃあ、島の中の方に逃げていくかたちになるんですか?
島の中よりか、奥でしたよね。山にある、山の方に、山の方に、てね。そして大体、山の下の方に、下の方といっても、まあ、海岸の見渡せるようなとこにおったんだけど、もうそこでその、結局、第一発目がそげして(=そんなふうにして)入ってきたわけ。奥に入って、そして今度は横穴掘って、そしてその、中隊、分隊ごとにね、自分たちの蚊帳の下に、あの、火炎放射器ですか、あれでその入り口からやるから、横穴の中であの…やられてね。死ぬ人が、部隊におって、部隊長、分隊がね、なんぼでもやられとる。
聞き手:そういうのは実際何度も見られましたか?
見られるよか、もう、逃げていかんとね、焼き殺されるの、ま、体がね、ま、どうかしとったら入り口で焼き殺される。中におるところまでは見られへんけどね。
切り込み隊
それで、9月の17日、それであれ、終戦が8月15日でしょ。一か月の上、知らなかったわけよね。それで、軍使っちゅうのが来て、あの、アメリカはね、なんと、日本のなんと、戦争に負けたから、この山を武器を持って3日間のうちに降りなさい、と言って、その軍使が来たわけね。それからもう、自分たちの持っちょるとほな、まあ少しは持って降りなきゃね、何するからあの、最小限の武器は持って、あとはみんな、壊したり、掘って入れたり、そして下に降りたり、そして収容所に収容されたわけで。
聞き手:部隊ごとにまとまって動けていたのはいつ頃までなんですか?動けた?部隊ごとで行動はある程度続いていたのですか?それとも皆ばらばらなんですか?
いやそれは、ネグロス島に警備に入った部隊が全部そうでしょうね。他にはおらないから。
聞き手:それは、一応最後までなんか、指揮系統がちゃんとなってて?
それはもうおって、そして私が、あの、新聞にこれにも載っとるけど、こうした…(資料に目を通しながら)こういったあの…〈はいはい〉これと、(手をパチンと合わせ)ペアで切り込み隊に、1泊2日で命令もろうて切り込み行って、それで私たちのおる所から敵さんの所までちょっきょり(=直線?)800あるかないかくらい。山あり谷ありでね、ちょっきょりですよ。それを今度は迂回して、2泊3日。1泊2日の命令が。上陸できへんで。2泊3日で、あの、私たちは重迫それから、牽引車やる、組。それから、大砲かなんか、三組(=みくみ)出たわけですよ。第一発目だったけ、私たちは助かったと思うのよね。うん。もう、3回目からの切込み隊はみな、帰って来てないの。へえ、つっても(=と言っても)まあ、第1番にやられたから、まあ、私たちは今があると思うけどね。そやけどその時はそんなこと思わない。なんで俺たちが一番に行かなきゃならんかと反感さえ、な、思ったけどそれが、却って良かったかもね。今思えば。今思えば、その時(を)思えばね。もう3回目から、行った人は帰って来てないから。
聞き手:その、切込みをして、その先というのは相手のどういうところなんですか?
私たちはね、あの、この太さくらいのね、(15㎝くらいを指で作って)こんくらいのね、この爆薬ね、道火(みちび、導火線)が12センチしかないの。火つけたら、それがシューシューシューいうてな。燃えるの上がね。それをその、点けて、今でいう、何っつうか…これが道火が火が点いたり、水に濡れたりせんように、ビニールみたいのね、あれを巻いちょって、こういう所の長さの何をかろうて(=背負って)、そして手榴弾一発、自害するための。あとはなんにも持たないの。
聞き手:はあ…、銃とか、そういうのは…
全然ない。持ってるのは、もう手榴弾一発。自害用のね。〈じゃあ、自分の身を守るものも…〉無い無い。それで、1泊2日の命令を夕方もろうて、そうしてこげ(=こんなに)ある山を下りたところで、ここで話し声がするんで、もう敵さんがそこまで来ておるぞ、と言うて寝ちょって、それで夜が明けて朝、友軍の切込み隊が二組(=ふたくみ)おったわけ。それと、それたちが話しよるとな、へへへ、なあ~、お前たちだったかって。なあ、敵兵じゃろうとしかもこれから行く・・・・・・・夜が明けてから・・・・・ もうそうだったかー・・・・・言うてね、まあ、あれでも道中かな。それで、さあこれで2人1組だから6人、それで2人が先に行って、偵察する、それの後ろから二組が付いて来て、そんなんしてからその2日3晩かね。
聞き手:それは相手の司令部みたいな所なんですか、行く先が。
いやだから、敵さんもやっぱこんなとこ、あの海岸からずっと上がってきてね。これまで電線?やら重機やら持ってきてるから、そこまでが直距離で800m位かと。私たちの所から。やっぱ山あり谷ありで上がってはきちょるけど。私たちがスコップで10杯、なんするとか、今の、なんちゅう、あの、あれなんかで押していくから(←ねこ車・一輪車?)、3日かかってなんするところ、1日もかからず道路、戦車通せるだけの道路が出来るの。それだけの差があるのよね。スコップでは、私たちはせなあ(=しないと)、道がないんだけど。機械持たないから、持たないっちゅうか、機械なんかないから。向こうはその、そういう機械を持っちょるからさ、ね。そしたら瞬く間に、大きい道路でも戦車でも何出来るわけ。戦車なんて、こげん(こんな)山坂でも乗って行けるよ。我々はもう、大砲担いでから、重迫(=じゅうはく)なんか、長いでしょ。こげんして藪の中から、こげして(背負って向きを変える動作をしながら)いかなあかんから、10m進むにしてもね、そりゃもう、話にならないの。それだけの、文明の差、ちゅうかね。そう思ったのよ。
聞き手:2人。たった2人でその切り込んでいくその、先っていうのは、人がたくさんいるんですよね?その切り込んでいく先?っていうのはあの…ていうのは2人とかで行って何とかなる可能性がある所なのですか?
いえその、結局こういう所に敵さんもその何っていうか、大砲なんかでもやっぱ、場所のいいとこ備えるでしょ、ね。で、戦車なんかにしても、みんな一緒だけんね。それで夜はその、まあ、兵隊なんかもおったし、向こうも兵隊がおるけどね。兵隊っちゅうか、部隊っちゅうかね、それとかその、なめらかな、こげなとこに、夜は寝とるけど、機械なんかはまあ、機械というか、兵器だよな、そういったその、自分たちのなんでそこ、いごかせるけど(=動かせるけど)、向けてるのは、我々日本兵の所に向けてるんだから、1回1回、直しよるのかそれは私たちにはわからない。ね。そやけど切込み隊に、この、お前たちは、何を目的にやってこい、お前はこっち、お前たちはこっち、命令を貰っていくわけ。そしてそれ探してたらもうその、初めてやったけ(=初めてだったから)、向こうも油断しとったかと思うけどね、第1番に直したのが、その、牽引車がね、それにその、切込み隊の第1番のが、あの、爆薬しかけて、燃え上がって。〈はあ…〉昼と一緒でしたよね。〈へえ…〉燃えて。〈へえ…〉それで私たちはこげんして(身をすくめながら)行かんと分からんわけ。そやけど向こうは気づいてないの。まさか日本軍の切込み隊が来ちょるとは思ってないから。何も音もしやしないの。ボンボンとその燃えよったけれど、まあ私ら考えりゃ、何で燃えとるんだとくらいにしか、勘付いてなかったかと思うよね。〈じゃ、見つかりそうになって、撃たれる中を逃げるとか、そういうことはなく戻って来れた?〉それがね、私たちはその、ほかの何がその、自分の目的をね、なんしたら、帰るでしょ。他に兵器を持たんのやけどうしようもないから。で、私たちは迫撃砲、重迫をその辺に破壊してこいやって、探して回るのに、時間ちゅうか、時が過ぎたよね。そしたらバナナの木の…麻とバナナの木は違うけんね、同じバナナの木もあるけど色が違う。それが4~5本立っている所に重迫を隠しとったり、でその横にはなめらかなね、ま、その…野営…えー、何十人かが、その、交代で寝とるわけね。それがまあ、どこの兵っていうことは分からんけど、何、その、我々には敵であり、アメリカ人には味方だけど、ま、そのへん寝ちょるて、それがその、バナナなんかの中に、見ぶつけたから、帽子をね、こうして火をつけて、こうして道火になにして、敵さんに知られんごとにこ壕の中に挿入して。爆発すればもうこっちもやられるから。そうすると、それと一緒に手榴弾を、安全栓を抜いて、投げかけて、(腕を振って走る真似をする)そしたら片一方の川の方にはこげんなってんよね、(手の甲から、指を下方に動かして示す)これだけになってる、下からその、コードですね、今の電気なんかをなすね、もう何本も、何十本も通っちょる、そこの兵器なんかにね。照明とかの。そこなんせ、とっても、そうしたら夜の弾は高いんですよね。下を這持ってもパーン、パーンっちゅうてね。近いのはピシュ、ピシュッ、ちゅうて、これも足元来た時…。夜の弾は高いから、そやけどその、捕まえられん。(走る動作をする+手の甲を丸めて崖の地形を示す)逃げて行きゃ、そしたらまあ、こういう崖何してから・・・・・・・・どげんして転げ落ちて、へへ、下、・・・に出たかわからん、・・・・・・・・走ってって、川渡る・・・・・・・・・なんしたら、その石の上に、まあ湿っとる、あれ靴ごとじゃ、とてもなかろうと思うて、なんか湿っちょるけん、敵さんが先、回っちょるかもしれんのにそして慌ててなんするけどその、こうやって、偵察してね。探してその、上がってきて、そしたらちょうど私たちの部隊のおる所の下で、それたちがあの、足を洗いよったところに私たちが追い付いて行って、ははあ、お前たちの足音じゃったか、あの石の上に濡れちょったけ、そうじゃろうかね、と言うて帰って来た。そしたらその、部隊長に報告したら、確かにゆうべは見届けただて、おめでとういうて、初めて褒めてもらってね。それでまあ、日中戦争の時は、あの…金鵄勲賞というのがあった。大東亜戦争になってからそういうのはない。もう、言葉だけなの。な、まあ、あの…1階級上進ですか、そういうあの…、恩恵はあったけどね。それだけなの。
聞き手:あー、その、切込み隊で軍曹になられた?
うん、その時に、いやん~、それが一つの、お褒めのなんじゃったのかな、とは思うけどね。
聞き手:それが、えーっと、何月頃ですか?その切込み隊は、まだ3月…
いやいや、3月には、敵さんが上陸した、それでそれから叩かれてからだからね。8月…いやまだ8月までなってなかったやろ。またその頃はあの、向こうから大砲撃ち込まれよったくらいやったからね。6月か7月からだったかね。
8月15日を過ぎて
それで、その、まあ、飛行機が、まあえらい上を飛ぶなあと、言い出したのがもう8月ね、15日過ぎなんですよ。それで9月の17日に、いや9月の14日か15日に来て、3日間で山を下れて言うて、軍使が来たっていうのが17日にはあの、わかったし、その、戦争に負けたっちゅうのがね。
聞き手:戦っていた相手は米軍だけだったんですか。その、“ゲリラ”みたいのも?
いえ、それは、あの…フィリピン兵なんかもおったのは確かです。というのは、私のいとこっていうのがあの…隊長になってね、隊長というかあの時の、曹長やったけど、隊を引き連れて、切込み隊の、あの、エサ取りでしたよね。塩とか、肉とか、これを海岸まであの、ネグロス島っていうのは島のこの(くらい)しかないから、東も西も、それに塩切込みとか、鳥とかそれからあの肉…、それと徴集にね、行っいて、あの…殺されましたけど、ほん時は…何ちゅうの、殺されて、あの…“土民兵隊?”、フィリピン兵隊ね、それからあの、撃たれてから死んどるけど、遺骨収集もできないの。そのまま。
聞き手:いとこの方と同じ部隊だったんですか?
いや、あれは大隊本部におった。私はあの、機関銃中隊じゃっただけどね。次、これにも載ってるけど、それが…〈何ですか?〉召集兵のね、数字が載ってて、12中隊から3中隊とか、11回・・・・・とか、機関銃中隊とか。日本が中国と戦争しおったのと、結局ひっくり返って、日本と大東亜戦争になってからね、アメリカとの戦争が、日中時戦争と逆転というか(手で身振りしながら)ね、それで中国との何があったら、飛行機なんかもある程度持っちょったしね。
聞き手:食糧はどうであったんですか。今あの、塩の切込みの話が出ましたけど、原山さんのいらっしゃった部隊のあの、食糧は。
というのは、現地の人がね、あの…何ちゅうの、唐芋、それからとうきび、とうもろこしね、ああいうんとを作っとるわけ。それを徴発に行っとった。籠をあの…農家に行って、籠を取ってきてね。それを背中にかろうて、それであの、里芋でもこげん長いんとね、こんくらいの、日本の里芋とちごうて(=違って)、1株引いたら30も40も付いちょるの。(手で身振りして)こういうのが。ひと株引いたら1人でかろいきれん(=背負いきれない)ごたるの(=あったの)。それをその、何人か、組んで、取り行って、そして、分隊、中隊にね、分けて、そして唐きびちゅうか、あの、とうもろこしとか、こうやって下ろしてね(大根おろしする真似をする)、そしてバケツみたいなあの…何を農家から取って来た、水、入れてから沸かして、あの、炊いたりしてね、それを食糧しとった。それで、肉なんかでも、あの、まあ私たちは自分で、食ったことはないけど、分けてもらってから、何しよったんだけど、牛の頭とかね、ああいうところは、あの、部隊で取るんだから、干しくずしかもらえないわけね。それとその、まあ1か月に1、2回ずつかな。一番食べられんかったのは猿が1番。〈へえ…〉臭~い。もう、包丁なんかで切ったら包丁に臭いが1週間も付いてね。(鼻をつまみながら)つぶしてから何して、臭いんであれだけはやっぱ忘れてられんな。それでその、槍なんかで長く置いちょったら、臭いが取れるっちゅうて、言うでしょ。もうそげな(=そんな)暇がないのよね。食べたいばっかりで。肉の気とかないから。塩気がないって・・・・・塩って1週間摂らないとね足がかくん、かくんしてさ、坂なんかを下りるとね、こんなんして、塩なんかないとね、(がくん、がくんと倒れる身振りをして)、そういうのあったんですよ。〈塩はどうしてたんですか?〉海岸に…切込み隊の時、取りに行ってた。トッ、トッ、トッ、トッ、トッと。そして、農家なんかの、海岸のね、農家なんかの、取って来たり、塩水だけ持って行かれてさ、バケツみたいなの何してから、うわ水が浮くでしょ。そして少しずつ固めて、あの、日にちをかけて取って、干しよって、そして使ったの。〈現地の方は、まあ、行ったら仕方なくくれるのですか?逃げちゃってもう、居ない感じなんですか?〉おらんところに行って取って来る。おうた(=会った)ことはないけど、おうたら向こうの方が、まあ兵隊が来ちょるいうから逃げたかもしれないけど、まあ、おうたことはない。〈じゃあもう行ったら住んでた家は空っぽ?でそこから?〉いえいえ、家の中に入る時は、もうその、向こうの方が逃げちゃってたけどね、徴発なんか、行ってから広い野原なんかする時はもうおらんからね。それで…芋の葉なんかこげ、大きいからと思って掘ったらもうこんくらいしかないとかね。葉っぱはこんな(小さい)だけど芋は大きいのとかね。結局あちらは温いからね、毎年植えるわけではない掘ってから芋だけ採ったら土をかぶせちょる。そしたら葉っぱはこまいけど芋は大きいのとか、葉っぱは大きいけど、取ったら芋はこんな小さいのとかね。取ったらこま(小さい)(※方言)いとか、それは覚えたよ。〈へえ…だんだんわかるようになって…〉うん、初めは葉っぱが大きいけ、大きい芋が生えちょると言うて、おおもうこんなにこまいじゃないか、言うてからその、同じ芋を取ってもね、大きいのとこまいのと、そんな、あれがあった。〈ふーん〉、なしてやろう、調子やったから、自然とやっぱ、そういう…ね。
中国戦線の思い出
(原山さん、席を立つ。資料を取って来る。)アルバムは1枚もないの。
聞き手:それどころじゃない、ですよね…
支那の時はこんな、写真がもうこんなんして沢山あるけどもさ(アルバムをめくる)。この人はあの、支那にいる時はあの、(アルバムを指さしながら)これ熊本から来た、慰安の女性なんかだけれどね。(アルバムをめくりながら)これなんかはあの、餅つきなんかしてね。(ずっとアルバムをめくり続けている。)
聞き手:中国時代は大きな戦闘というのや、作戦みたいのはあまりなかったんですか?
いや、ありますよ。(地図を広げながら)でもね、支那は蒋介石の直轄軍だったけね、強いんですよね。あれだけでもやっぱ、あの、一番ね。えー、日本兵ね、そして八路軍、ちゅうてからその、一目置いちょいったけどね。あの、日本軍の一目置いちょいったけどね。(しばらくアルバムをめくりながら)
聞き手:強い部隊だったんですか?
うん、それで、あの熊本6師団っちゅったらね、日本で一番強いっていうくらいだったんです。で、その、悪いっちゅったら何か、言葉も悪い。「何ゆう(=言う)か、この馬鹿が。」って言うくらい、ね。なんでもけんかするごたるある。それでその、同じ日本兵でもさ、「またも負けたんか7連隊、そこで勲章はくれん隊(9連隊)隊ちゅうてね、そういう、何まで言われるような部隊もあったけど、6師団っちゅうたらこの…(胸を指さし)青三角見ただけで逃げていったという、同じ日本兵がですよ。そのくらい、その、第一線っていうのはもうたいてい必ず6師団の兵隊が出てたの。それだけあの、恐れられとったよな。同じ日本兵でも。それでどうかしたとこなんかでも、その、歩兵部隊がね、「行けー、行けー」ちゅうてからその(右手を前方に振り出しながら)、その、兵隊は、先、行かんといけないけどさ、そういう刀振って後ろからなすのは(右手で刀を振りかざす動作をしながら上体は後方に引き、後ずさりする動作を笑いながらしてみせる=上官は腰が引けている様子を示す)そげな(=そんな)話までね、あったり、それは事実か知らんけど、そういう話までして、同じ兵隊の仲間でね、そういう何もあったんだよ。
聞き手:中国時代で一番印象に残ったのはどういうことですか?
まあ、あの頃はね、あの、12月の8日かね、あの…日米戦争の、何ですかね、山の中の、もう、これ見たらわかるけれど、山の中も、もう山の中もと、ここまであの石炭を積んで出しとったね、それラジオで聞いたくらいだけど、とうとうやったか…ちゅうようなね。まあ、それまでも勝ち戦、勝ち戦で米英とか、そういうの云々はなかったからね、今、そういうのがひとつ(印象に)残っちょるでしょうなぁ…。まあ、あの頃は勝ち戦で行きよったからさ。戦争ってこんなもんか、ちゅうて。
聞き手:でも、最前線で戦ってはいらっしゃるんでしょ?
私たちは支那におる時は、その、何だけど、歩兵砲じゃったからね。〈こう、通信の教育も受けてらっしゃるけど、無線の教育も受けてらっしゃるけど…〉それはあの、初年兵の検査を受けてからね、〈はい。〉1期の検査を受けてから蹄鉄とかラッパとか、ね、〈はいはい〉通信とか、その1期の検査の結果によってあの、割り振りされるわけ。それでいって、なったのが私は通信であったの。〈でも通信兵ではなくて歩兵砲だったのですか?〉いえ、歩兵砲のなかに、通信〈歩兵砲の部隊の通信〉それは私たち通信が、大隊本部に無線をね。無線と有線と、有線って電話でしたよね。それと無線とふたとおりあるんですよ。そういう手技を受けて、大隊本部に行っちょったわけで。私たちのこういう大隊砲(歩兵砲)ちゅうのはこんなにこまい(=小さい)の。
(アルバムを指さしながら。写真がアップで映し出される。)
聞き手:北京ですね…
まだ…よかったら見てください。〈はい〉大体こんなしてから、注釈が入れてあるけどね。今どきになってみれば、何十年も前にこっちゃけど、はあ…、って思い出してね。なんてその…ちょっかいかけてね、おもしろいね。これなんか、すいか食べよるとことかね。あれなんか、あの、中国の農家の人が、馬でこう、ずーっと水上げとるとね、こんなん出たりね。(アルバムの写真の説明。時々指さされる。アルバムが何ページも次々とアップで映し出される。)
聞き手:これは慰問ですか?
はい。で、中国あたり行っちょる時はこれで良かったけど、大東亜戦争になってからこういう、あのやつは2度もできんかったわけ。こんなんして、餅つきなんかでもね。
聞き手:中国時代の戦闘の中でこう、印象的な思い出とかはありますか?
ありますよ。(アルバムの写真を指さしながら)たらしてそれで火をつける前に出てきたのよ。道がここしかないの。そこをその日本人が何して40何名もバタバタバタバタ、ちょうどここに狙いをつけとるから(左手を握り、指のこぶの部分を右手で指して戦闘の経路を示す)、ここ上がって行って、何すりゃ、こっちから、ここ狙っとるから、ここ来た弾でみんな死んでる。40何名。それで山の上からドラム缶を(頭の上に両手で大きな円を描く)、ガソリン入れて、つるして、火を点けてから、ここの、洞窟のね、入り口に下げよって、そして明日すると言った時に情報が入って、こうしてあの、出てきたのがね、(写真を指さしながら)捕虜、千なんぼ。こん時あの、私もあの、ここの廟におって、無線取ったけどね。もう出て来るわ、出て来るわ、捕虜がね。みーんな連れて、出て行って。ひと部隊でから何したけどさ、あれがもう、本当、私もあん時は、無線手で頑張っとったけど、この廟の中にはね、廟の中じゃない、廟のひさしの下で無線しよるけどさ、上から、瓦なんか、落ちて来るから、自分で鉄兜かぶっちょったから良かったけどね、生きた気持ちせんかった。一番それが短かったね。
聞き手:廟の中を、一応攻め込もうとしている?
いや、その廟の中には入れないの。この廟からね、300mから400mくらいあるやろね。その、裏の所にね、大きな洞窟があるんですよ。で、そこの横に、黄河が流れて来てよる、そしてこのとこから、黄河が70mくらい、山と山にはざかって、70mくらいしかない、でこの廟の横からこうに広がって300mくらいある、黄河がね。それだけ広いとこになる所のちょうど手前だったんですよ。
聞き手:で、相手はそこに籠ってる?
結局70mくらいしか、川幅がないでしょ。向こうは敵地じゃから、銃眼を掘ってね、そこからこげんして撃つ。70mくらいしかないから、船で行ったり来たりこっちの洞窟の中には夜になると行ったり来たりするわけ。でこっちは70メートルくらいの所は自分の所の敷地があるから、もう西安にちょっと手前なんですよ。もうちょっと行けば西安ちゅうとこで。そこに黄河ちゅうのがあるんですよ。(地図を広げる)西安になるわけよね。ここ、地図に何しよるけど、ここ、これから出た所、もう300mくらい黄河。
聞き手:黄河が広がるんですね…昭和16年…ふーん…
そうですね。
聞き手:11月か・・・作戦名も付いてるんですね。
はい。(しばらく地図上を探しながら)そういうの、ここの、私たちの河津県(かしんけん)(地図に映っている地名は臨晋ですが、かしんの音は河津だと思われます。テープ2の最後に中国時代の部隊史が映っていますが、そこに大隊の警備地として出ています)。この辺だな。ここが私たちの大隊本部があった所だね。はい、もうちょっと、ここ辺りに、蒙古っちゅうのがあった。山野の陣(さんやのじん)なっとるでしょ。ここが大隊本部。
人肉
聞き手:その、捕虜になった人たちはそのあとどうなったんですか?
それもあの師団司令部の…、こっちに連隊の師団本部があって、〈うん…〉こっちを、・・・・・これまで・・車で何台かね。ここに入ったけ、焼いて食べるかねって。そしてその、焼いて食べさせたんよね、ほんとに、久しぶりに食べたけ、おいしかったよ。そして食べてしまったら、「何さ今の肉、何と思っちょった?」と言うけ、「おいしかったけ、何とも思わん。」ありゃ、『つっこぴん』の肉だったぞって。〈『つっこぴん?』〉知っちょる?支那兵。中国兵のことを『つっこぴん』っちゅった(=言った)の。それの肉を焼いて食べさせたの。人間が人間の肉を食べたっちゅうことなの。(舌を出して)おえー、おえー、と出したけどもう出ちゃ来ない。
聞き手:へえ…それは原山さん自身のご体験ですか?
そうよ。私たちのは通信兵つったってやはり小銃中隊とかと一緒に食事なんかするんでね、「ねえ、今の肉つっこぴんの肉じゃったよ」言うて、べーって出すけど出なしない(=出やしない)。まあそういう、ほんとかうそかだけど…肉がないけ、その、わからんけどね。そういうこともあったの。大体、人間の肉は、酸いとか、知ったことを(?)言うけどね。なあ。食べたいとか、ひもじい時はご飯でも何でも食べたけ、その味までは、何ちゅうんだろうねえ。おたくさんたち、ひもじい時、何と何食べたか、わかる?〈わかんないでしょうね…〉へへへ。
聞き手:でも中国の時はまだ食糧はそれなりにあった…
いやもう、それはふんだんにあったからね。〉うーん。もう南方に行ってから、もう戦争ちゅうて、こんなもんかって、やっぱ、味わったけどね。中国あたりはもう、ふーん、ちゅうくらい、大判切りだったけね。勝ち戦でそれはほんとかもね。負けたってことがないじゃけ、でも大東亜戦争はもう、負け戦でしょ。もうあの最後の連絡でマニラ辺りに行った頃は、あの…まあそれは、後になってからだったけど、日にちを調べてみよったらね、結局ソロモンあたりで日本海軍が負けて、そしてその、マニラ湾に逃げ込んじょってね、で確かにマニラ湾では、マニラでは、兵器なんか集結しよったから、あの…じき戦争があるっちゅうてね、あの頃何って言ったか、うーん、あの…、何とか作戦っちゅうてる、それか思っちょったとこだが、後から話聞いたらその日にちを、何してみたら、日本海軍なんかがその、マニラ湾に逃げ込んだ、まあ、インパール作戦があるっちゅうてね。朝も晩も、ああインパール、インパール言うて、ラジオなんかも放送しよったの。日本海軍なんか、負けてからマニラ湾に逃げ込んだっちゅうね。それが、あとの祭りであるけれどさ、「ああもう日本海軍がマニラ湾に入っちょる」と、インパール作戦っちゅうのは本当ねえって、こっちは手を叩いて喜びよったけど、負け戦で逃げ込んでるていうんでね。(少し沈黙…)
再びネグロス島、切り込み隊
聞き手:ネグロス島で、最初に3月に攻撃を受けてから、切込み隊に行ったのが5月かまあ6月ですよね。それまでも間はどういう感じで進んでいったのですか?
もう、山におるだけでしょ。それでその、重迫は持ってるけど、たまにしか、撃ち込めないんですよね。向こうは、ボタン1つ押せば4連発とか、2連発は出るけどさ、こっちは、こっちの物になにしてか、こう合わせて、照準合わせて、なんしたら1分かかったりね、2分かかったりするの。そして、引き鉄を引いて、それからバンでしょ。もうそんなんなったら、向こうは10発も20発も撃てるだけのボタン1丁押し、照準だけ合わせて、観測機からの飛行機の、木製の飛行機が来ちょるからさ、ただボタン押して、観測機が指示する通りに撃てばいいの。日本のは、そういうわけにいかん。
聞き手:じゃ、もう下手に撃ったらやられるだけだから
そうそう。
聞き手:ずっと隠れてる…
そうそうそうです。そや、弾に制限があるでしょ。山に上がっとるけん、どえらい撃っちょったら、後の補充が利かない。よくよくその、適格なね、照準じゃないから…10発なら10発撃ったら、あとは補充する山小屋にあって、持ってきてくれる人がおらないから。つこうて(=使って)しまったらそれまで。
聞き手:向こうの攻撃は休みなく来るのですか。
もうしばらくすると意外と…それは何しとる、思った通りに撃って来るんだから私たちには計り知れませんよ。
聞き手:うーん。毎日のように空爆があったり艦砲射撃があったりなんですか?そこまではいかない?
いや、そりゃもう、観測機がこう回ってるから、何つうかその、ほら来たぞって言ってから隠れちょるしかない。
聞き手:観測機は定期的に1日に何回か来るのですか?
それ向こうがね、作戦上何することであって、我々の知る由はないもの。
聞き手:病気が流行ったりとかありました?
あったよ。マラリヤなんかね。あれで何十度って熱を帯びてね、ウンウン言ってからなったことがある。熱が出て3日くらい熱、帯びてね。
聞き手:原山さんご自身も?
はい。もう、布団も毛布も3枚も掛けてね。上から人間が乗って、押さえつけちょってもさ。やっぱ、戦争っていうのはやだな。やだな、ちゅうたって、こっちが大将じゃねえけ…。へへへ…自分で決めるんじゃないけ、今なら一軒家の大将じゃけ…(笑)。決められるけど…へへへ。
聞き手:でもこういうネグロス島でも、ずいぶんこの部隊は減耗したのですか?あの部隊のまわりで戦死される方は結構多かったのですか?それとも持久戦で割ともってはいるけれども、まあまあ皆さんそのまま?
さあ…。やられたのはおるけれども、火葬するとかいうのはないけね。穴掘ってから、どのくらいのうなった(死んだ)のかは分からん。それとあの、発表とかするようなその、敵のことじゃったらね、何名くらいやられたとかあるけど、自分たちの兵隊のことはね。こげして(=こんなふうにして)何名死んだとかね、戦死したとかいう。
聞き手:逆に言えば、今まわりの方が目に見えてどんどんいなくなるというわけではなかった?
いや、それも、同じ山に、上がっとっても分散してるから、たとえ火炎放射器でやられても、何名やられたとかいう発表はなかったから、分からんでしょ。ひと所におってね、そして少のう(=少なく)なったっちゅうんだったら分かるけど分散してるからさ、どの部隊が何名おって何名が亡くなったとかいうのは分からん。100人が100人のうなった(亡くなった)っていうのは分かるけど、3人、5人、10人のうなったっちゅうてね。
聞き手:分散っていうのは実際にはその、機関銃の人たちだけ一緒にいるという感じ?
結局山は分散しておらなきゃ、守備、守ることの何もね。一か所だけ何しても、どっから来るか分からんから、東西南北ね、やっぱそれぞれの部隊を配置しとかないかんでしょ。守るとね。攻めるにしても守るにしてもそうでしょ。
聞き手:向こう側から見てネグロス島はなんかこう、飛行場があるとか、占拠して…
飛行場はありますよ。私たちあの、ちょうど私が、中隊におったけど、大隊本部に用事があってね、行ったところが初めてやったけど、あの…爆弾、B29から爆弾落とすのね。わからんかったんや。そしたらその、「ダンダン、ダンダン」いうて…なんてね、「なんじゃろか?」言うてね。またタコ壺こっちったけどね。それによって入ってから…何じゃったんだろうね、言うて覗いたら、土けむりっちゅうかね、「ははあ、飛行機でやったんかな、大砲で撃たれたんかな。」くらいの調子やった。それからもう毎日のね、B29が高度とって、そして、近くにね、飛行場があってその飛行場に落としよったな。それ知らんかった、初めは。そしたらね、やっぱ、このくらいではなかろうかな、(50㎝幅くらいに両手を開いて)、その、B29から落とすのがね、数にしたら、ま、数えたことはないけどさ、その飛行機も、進行してから落とすのだからさ。飛行場に落ちて来るのがね、落ちて来るのが幾つか分からんけど音だけでね、察知するとに、まあ、あの、ひとつか二つじゃないということは分かるたいね。それか何十か、何百かということは分からんけど、それからがもう、恐ろしかったよね。〈もう実際、自分のすぐそばに。〉ああ、もう飛行場ったらあんた、1㎞ない所だけね。こう身近落ちよるごたるあるでなてな、ね。音なんかから聞いた場合ね。もう飛んで帰ってから。生きた気持ちしなかったよ。まあ、経験じゃあるけどね、負け戦したことねえもんだけさ。
聞き手:中国の時と対照的だったから余計でしょうね。
うん…地上じゃね、その、特師団っちゅったら威張っとったら良かったけど、空中戦なんかになるとダメ。威張っとられんもんな、これこそ。日本のあの、ゼロ戦かね、あれが追っかけてから、あの、飛行機落としたところに、どっちが落とされてどっちが落としたのかは分からないけどね。へへへ。
聞き手:そういう、火炎放射器とか空爆とかでこれは危ないと思ったことってありますか?
私たちあの、空爆つって何したらあの、何ちゅうか、同じ山に上がっとる何あの…軽飛行機を落としたんやね、向こうの計測機を、観測機を。あの時は恐ろしかったね。もう、集中砲火壊だもんな。もう、あたり構わずだ。で、それが何したらね、私はこげな(=こんな)木があったから助かったかなと思うけどさ、8mか10mくらい穴が掘れたよ。爆弾で。それでこげな木があったからさ、隠れたけ、良かったけど、あれ何秒か遅かったら、自分でやられたかなと思うことはあった。その他は、もう恐ろしかったってことはあんまり…。切込み隊行ってからさ、まともに帰ってくるかなくらいは、まああったけどね。
聞き手:相手の兵隊をすぐ近くでこう、見かけることというのはありましたか
ええ、ありましたよ。
聞き手:へえ…そういう時は、隠れてるんですか?向こうは気づいてない?
武器を持たんもん。大砲じゃ撃とうっていっても回られんけ。そりゃ手榴弾なんかは一発持っちょるけど。それ使こうたらあんた、〈そうですよね、あとがないですもんね…〉うちら使う、あれも。自分の命が危ないと思った時はね、使うけどさ。隠れるよりほか仕様ない。中国あたりはね、そういうのはその、補充が利くからね、なんぼでも使えるんだけどさ、大東亜戦争になってから、そういう武器の補充がない。初めから言えばその、防毒面が4人~5人に一丁とさ、竹槍でも持っとっちゃって、あんた、戦争にはならんもん。それで戦争せい、ちゅうもんがおかしい。な。
聞き手:わざわざ部隊を集めてる意味がないですよね。
そう。死ぬとか考えてもね、戦争じゃないもん。大人と子どもでもそんなね。〈向こうに行ってからいくらか武器をもらったといってもやっぱりそんなになかったんですか?〉そうよ。やっぱあと補充が利かんとやから。〈実際もう擲弾筒1個と、手榴弾と、持ってるだけ?〉そう。〈擲弾筒はね…まあ…〉そしてその、迫撃砲弾なんかは持っちょるけどね。まああの、弾を抱えて持っていくと、あれ3発しか重とうて持てないわけ、ね、弾薬手っていうのは。それが12あったって30発でしょ。そしたらそれだけ持ったら補充兵がそれを別におればね、いいけど、補充する何がないとにさ、むやみやたらに撃つ、まあ、あれでしょ。
聞き手:それはそうですよね。そしてまわりに小銃とか、他の色んな部隊が組み合わさって、機関銃と小銃とか色々いれば、なんかそれだけでもね…
私たちの部隊は歩兵だけだからさ。(少し沈黙)
聞き手:敗戦の軍勅が…、知らせが来たときは割と皆すんなりと?受け入れ?
すんなりというか、もうその、なんて言うか、飛行機が高度とって行きよってな、何してるのかねぐらいの調子だったけどさ、軍使来たらああ、負けたか…ちゅうてな。それが9月の15日くらいだからさ、山下りたのが9月の17日でしょ、1か月過ぎてから、8月15日でしょ?いや飛行機がビラ何回か撒いて来たんだけど、アメリカがね。まーさか、とか言いちょったら、作戦くらいしか思っちょらんけど、そやけど飛行機が高く飛ぶってことだけはやっぱ認識しちょったよな、なぜだろう?てな。
聞き手:でもまあ、このまま戦い続けるぞみたいなことを言い出す人はいなかった?
いやもう、ちったあ(=少しは)飽き秋が来ちゃおろうけどさ、兵隊やけ、やっぱ口な出さんもんな国賊と言われるけさ。
聞き手:まして、熊本の兵隊さんですものね。
もう召集受けたとかあ(=時は)夏服着させられましたけんね。2月やけ、もう推して知るべしだな。
聞き手:9月で12月に戻って来れてるから、割と収容所とかに居た期間は短いんですね。
うん、それあの、山から下りてって、収容所に入ったのが2か月くらい、ですよね。そしてレイテの方に、収容所を移してね。そして12月の14日にレイテからあの、船に乗って、
聞き手:あの…よくフィリピンのほうだと最後、帰る時に面通しとか、その戦犯のチェックがあったという話される方がいるんですが、ここにいらしゃった方たちは、あまりそういうことなかったんですか?
いや、それあの、証拠やらね、なんなんかも、面通しとかね、それあの、アメリカ兵の方でしよったよね、これ、われわれも兵隊の方では、その、戦争はしてもさ、これいうて(=それといって)、その害を与えとらんからな…そういうのにはなかった。
聞き手:徴発は行ってるけど、そもそも現地の人とそんな接してない?
うん、現地のとは接触してないですよ。というのはもう向こうで害っつたら、なんか食べ物なんかのね、害くらいですよ。それでその、戦争とかね、殺されたとかいうね、被害はないからさ、それでもやっぱり山から下りた時はね、あの車に向けてね。あのフィリピン兵の、なんちゅうん、空(から)撃ちっちゅうかね、それに向けてか向けんでか知らんけど、「パン」とかいうてけれどね。実害はなかった。まあその、下に下りてからのその食べ物が違うでしょ。山におって、野菜なんかを食べてから今度は下に下りたら缶詰とかね。アメリカの何でさ、レーションの、うーん、下痢が付いてね。もう10くらい、トイレ掘ってはあるけどさ、出たかと思ったらまた入るっちゅうもんやもん、3人も4人もなんちゅか・・・・・・・、あれは困ったね。〈急に、脂っこいものを食べたり〉そうそうそう。〈受け付けなくて…。〉(少し沈黙)
初年兵教育
聞き手:全然話が戻るんですけど、あの…ここのあれもありますけど、やっぱり6師団だとその他の部隊以上に初年兵教育とか厳しいんですか?
私たちはその、兵隊っつうのはそんなもんくらいかと、その、一応思っちょったけど、こんなあんなじゃなかったよ。思ってなかったよ。自分が自分で分からんでて倒れとったけね。13発までは覚えとったけど。それで今のあの、スリッパなんかの裏に金の鋲(びょう)が打っちょるよね、あれで叩かれたり、バンドの金具金属でね、何っつたら口が腫れてね、こげなってる、そしたら班長が来て、「おう歯が痛いとか、おうおう。」言うてくれて。叩かれたとか言われんけんね。言うたってまた、班長に一応聞くと、みーんなそう言わないけん、「おう、歯が痛いか、おうおう」って言うてくれて、そしてこげな(=こんな)…(顔が腫れたような手ぶりを、苦笑しながらする。)ハハハ…。それで熊本であの、入隊してからね、21日目かにあの、引率外出つうのがあったんよね。そして熊本のであの、まあ、21日の何つうん、食堂で昼食でも食べろ、言うて、これ何も食べて構わんかったけないから食べて、うどんとって食べろ言ってあの、給仕十字の女性の方が来て、「まあー、兵隊さんが来た。」一つ星だから初年兵つうことだけど、初年兵ってことは言わない。「兵隊さんが来た。」って、「あんた、顔がちっとも肥えとらん?」って。へへへへ。物言うてもこう、内側がね、破れとるけさあ良くもの言えんだもんね、ふふ、ふふって言って。痛いとは言われんけど、言うたってまた、どうにもならんけどね。「兵隊さんが来たぁ、兵隊さんが来たぁ。」言うてその、向こう僕はその、かわいそうだなと思って言うんだろうけど、こっちはもう、口の中が切れちょるから、その返事は仕切らんよね。それでその後戦地行ったらね、あの、1年先なったらこれなっちょるけど、13年徴集の、宮崎の兵隊だった。人間だった。で熊本と宮崎とね、県が違っとったら激しいよぉ。もう、朝の晩のないんだ、戦地でもね。毎晩叩かれる言うて。(沈黙)
聞き手:そんなもんかなって感じ?それは辛いってことはなかったですか?
その、どこへ行ってもね、県が違おた(=違った)ら、あんなもんかなと思ったけどね。それは宮崎の人も、悪い人じゃなかろうとは思ったけどさ、なんかその、親の仇でも打つようなね。朝の晩のなんちゃ、そして一人が打ったらほかのとこが来て、どうしたって(殴る仕草)。仇打ってくれるっちゅう、それから私たちの後に来た熊本。の、自分たちが打たれとるき来た時はやっぱ、かわいそうと思ってよう(=よく)(よう~否定で不可能の意味)打ったんでしょ。「お前たちがしないけん」こっちが・・・・・・・(へへへ)このやろっ、たるんどるってこっちが叩かれて。して良し、せんで良しな、良しじゃない悪い、へへへへ。まあ今になって、やっぱそんな話をしても、本当にするそんな人はおらんちゃいね。(長―い沈黙)
復員
私たちが一番貧乏くじ引いたよな。帰って来たら、米がないしね。食べる物に困って、で、民主主義とか言うて、勝手主義っていうか、民主主義か、分からんようなね。
聞き手:私たちがというのはつまりこの世代的に?…
私たちも民主主義っちゅうけんどさ、アメリカがいいと思ってたらまあその何したんだろうけどさ、自分たちが受けたのはね、思ったらだ。自分たちは教育のしようもなかろうさ、分からんから。ねえ。そしたら戦ったら民主主義・・・・若い人もその、戦いに行ったら、「今、民主主義だ」って言われりゃさ、ふふふ。悪いことして叩かれるんじゃ嘘じゃないけんどさ、そりゃ民主主義じゃなかって言わっしゃるだろうけど。へへへ。悪いことがはびころうが、親殺してみたり、子ども殺してみたり、な。あれでも民主主義というか、勝手主義というか。へへへ。自分が自分の子どもをあんなね、投げ殺してみたり、包丁で殺したりしてね、当たり前のこと、しか思っちょないじゃろ。
聞き手:戻られた時は割と早かったから親御さんたちもそんな…帰って来られるだろ、といった感じでした?
あの、私が何て言ったらね、え・・・、フィリピンを出る前だったか、あの、相良(さがら)っていうのが何したらあの、お互い葉書き出しとこうや、通知書しとこうやってことでね、それであの、正月前にうちに2・3日前に来た言うて、私が元日に家に帰ったもんでね。そして何さ、「おお、お前、帰って来たか。相良っていう人から、葉書き来ちょった。」って。そしてやっぱ、うちの方で、その葉書き見て、何日か前に知っちょったのね。うん。
聞き手:復員としてはまあ、早い方ですもんね。
早かった。
聞き手:フィリピンの方でも翌年の方が多いですよね。すごく早い。あの・・・21年になってから戻った方のほうが多い気がするですよね
うん、私の本隊もぼうこうろまで行とったけどね、1月の21日かに帰って来ちょるもんな。名簿見たら。まあ、捕虜の期間が割かし短かったからね、そやけどねぇ・・・、浦賀に26日に船が着いたんですよ。そしたらその、浦賀に上陸する人が多かった。その3日間か、仮泊したわけ。そしたら29日でしょ、また30、31、元日ちゅったら気は焦るのよ、さきのつら(=先の面?)、さきのつら、何てったってその、上陸できんたいな。それで、29日に上陸して、どのくらい、残務整理がかかるだろうかって、1週間くらいかかり、…馬鹿、1週間かかったら正月に間に合わないなと。へへへ。そしたら30日に、いや31日じゃった、31日に終わったから午前中に出て、そしたらもう、東京駅さ走ってね、アメリカからのね、ずた袋いうて、このくらいの長さの衣類やらもらうわけ。それかろうて(=背負って)から東京駅に行くんやけど、なかなか足が運ばんたいな。まあ若いその、その他よりか…、そのホームに一番先、もう普通の人なんかも1㎞くらい並んじょったちゃうん、正月前だったしね、そのずた袋なんしてかホームにいて、プラットホームで一番先なんだ、「ヘイ、ジャップ、カモーン」って、言うてから、その、アメリカ兵が2人来て「あ・・・?、何か言いちょるぞ」言うて、へへへ。言葉が分からんけん、「ヘイ、ジャップー、カモーン」って。「来い」っちゅうとるんだなあ。何せんか分からんから、手を引っ張ってくれちょって、そして連れてってか、へへ、後ろ並べっちゅうわけ。しゃあねえ、ちっちえなあって、あんな木から叩かれたら仕方ない、一番最後に並んで、そしてもうその日の、汽車が来たけどね、どこへ行くもくそもないその、バス停から下りや、九州の方な、乗れ乗れって、そうしたらその、町田って確か書いてあったと思ったな、田舎の所に車停めたん。ここ停められちゃあって。〈へえ…〉そしたら朝方になったら出た、その間あんた、てれ~っと。汽車の中で乗ってらしてね、これ、正月に帰れるかえって。それで何して、朝方になって出たと思ったら、まあ、各駅、各駅、でその、昇降口から、ぶらりんとで一杯じゃけんなだけどな、窓ガラス割ってから窓から乗りよった乗ったらまあ、あんたもう、身動きが出来ないしね、まあ、あなた、トイレのトの字も行けんとった。こういうふうにして。(股間を押さえ、モジモジする真似をして)
そして、門司に着いたのが31日のああ、1日違いか…31日の朝じゃった。そしてそれから久大線に乗って、日田まで行って、さあもうあとはもうそこじゃけっていったら、「もう今日は車出ません。2日に今度が下ってくるバスが、元日の夕方」なんて。「俺それじゃあ元旦に帰れないじゃないか。」っつったら(=って言ったら)「しゃあありません(=仕方がない)。」なんて言って。それで元旦の夕方、夕方違うなあ、3時頃じゃったろうか、あの…バスが出てそれ乗ってって、そしてあの、今言うあの、杖立(つえたて)温泉ですかね、あそこ行ってこげなずた袋抱えちょるけん、2里半も歩いちゃ行けんけなあ。それか言って車ないしさ。ぼちぼちでも歩けよっていうて、そしてふがよく(=運がよく)トラックが来てな、あの、材木積んでいくのがね、久留米辺りに持ってくのがね、「なして帰る」言うて。「すんません、すんません」言うて。そして後ろにPの字が入っちょるんだよな(注:捕虜のPWの文字のこと)、背中にね、ここに、そしてずた袋かろうて、まあ、「止めてくれ」なんて言って、「乗せてもらえませんか?」言うたら「ああいいよ」って乗せてくれた。それで、元旦の晩に。帰って。あれでほっとしたよな。
聞き手:やっぱりお正月おうちで迎えたかったんですよね。
そうですね。そしたら相良さんから葉書きが来ちょったぞって言ってくれて。
回想
命を拾うたかもしれんよね。死んだ人から見たらさ。これ見て分かる?(最近の新聞の切り抜きを見せながら言う。)
聞き手:東條さんのこと悪く言う人も多いですけど、そうは思われないですか?
もう今更言ってもしょうがないけれどさ、やっぱり上に立つ者は上に立つ者の考えもあるわけだねぇ、ま、それでか、何百何千という人が苦労したけどさ。あんまり、いい気持ちはせんわな。自分ひとりのこと考えちょってもしゃあないけどな。(沈黙)で、そげん時、靖国神社に祀るとか祀らなんとか言うけどさ。どげん思います?
聞き手:へえ。私はこの人を祀ってるのは抵抗がありますけどね。
責任が大きいけな。一人二人ならね。ま、だけどさ。そやけどその、宮崎県知事の東国原さんが言うように、まああの、徴兵でなくてね、産業戦士みたいにね。1、2年その、するのは私はいいと思うよ。もう、徴兵とかいうのは、まあ東国原さんも望んどんじゃないけれど、産業戦士としての重要なことね、弁明しちょったけどさ、それだったらやっぱ今の若い人にそういう与えて、与えるっちゃおかしいけど、してもらう人間形成上ね、私は必要かと思うね。もう今は自堕落すぎるものね。
聞き手:じゃあ、原山さんは軍隊に居てよかったなと思うのはどういうところですか。
やっぱね、人間っていうひとつの締まりっていうのかな、今の自衛隊なんかでもま、あって、私は然るべきかと思うよ。それでもその、徴兵制とか言うたらね、抵抗を感じるけどさ、ひとつの人間形成上はね、あれも必要かと思うね。ひとつの価値としてね。他に道がないもん。自堕落になるばかりでね。
聞き手:はあ…なんか…あれですね。こう、親が、あんまり怒る時代じゃないですもんね。
今の親をつくった私たちの時代も、確かに、悪いのは悪い。その、それというのも、民主主義はどんなものか知らんかったけね。叩くな、とかさ、ね、悪いことすんなちゅうくらいでさ。活を入れてきちょらんけね、それでその、勝手主義ちゅうかね、自己主義というか、それに流れ過ぎちょりゃせんかと思うよね。ひとつのルールはあるはずじゃけ。ね。こげしていけ(殴る仕草)じゃないけど。な。で、そのルールを何せんでね、自分流にやってくるっちゅうのはこれ違法と私は思う。確かにね。
俺が連れて行け、着いて来いって言ったのでさ、連れて行ってからその、はたしよったんやり、それでもう、しょうがないから懸賞金付きで捕まえたら5万円やるってその、いのうえ大したもので。
聞き手:それはもう、向こうからの懸賞金が付いているというのはそれくらいこう、今年の情報でいろんなとこの…
そうそうそう、それじゃその、敵のたまりのとこね。〈はい。〉これで便衣、小輩(子ども)にやらせて教えてさ。それと話を聞き出して、それで日本兵で包囲させて・・・・・・・・。へへへ。同じ兵隊だったんだよな。
聞き手:今の方は無事に日本に帰って来られたのですか?
うん、帰っちゃおるけど、おうた(=会った)ことないけ、分からん。(アルバムをめくりながら)いい歳をとって、ほんと…ふふふ。(振り返るようにめくる)
聞き手:ちゃんとこういうの貼ってるのは、可愛らしいですね。
いらんこんなことばっかり書いてるから。これが中隊長。〈あははは〉(この後、アルバムの写真が色々とアップで映し出された。)私たちの無線は細(こま)かったもんでね。六号無線といってね、〈はい。〉六号無線は電話機ですがね、これはろくろく(?)無線だからキイを叩いてね。
聞き手:大隊砲だとこう、分解したやつをこうやって、背負って登ったり?
はい私たちは砲身交信でも、56㎏あったからね。それを背中で担いで。ええ、今でいう、携行まだ若かったから。20代やろ。
聞き手:まあでも、やっぱりどうだろう?なんか都会の兵隊さんが、あんまりできる気しないけれど。
そのくらいの何を、今の若い人に教えないかんって。徴兵はようないけど、そのくらいの体使う(ことは)、精神的にもまあ必要じゃないかろうかっちゅう。
参考資料
- 地図 ───
- 年表 ───
戦場体験放映保存の会 事務局
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