原田 要さん

中華民国/太平洋
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原田 要さん

生年月日1916(大正5)年生
本籍地(当時)
所属航空母艦「蒼龍」
所属部隊
兵科操縦
最終階級 

インタビュー記録

最初に

(3機の戦闘機の模型を見せながら)私はこういう物を持ってお話しているんですけどね。(白の戦闘機を持って)これは支那事変の後半まで使って、九六戦(注:九六式艦上戦闘機のこと)と言ってね。これは非常にいい飛行機だったんだけれども、戦線が広くなっちゃうとね、これでは距離が飛べないもんだから。(黄金色の戦闘機を持ちながら)これが最後のゼロ戦という素晴らしい飛行機。でもね、これでもB29には全然ダメ(及ばない)。それでB29に対抗するために、(グレーの戦闘機を指して)このロケット機を作った。でも飛ばないうちに終戦になっちゃった。で、このパイロットを私は、最後に千歳で養成をしてた。これはドイツのメッサー・シュミットという会社で作った。それを一機だけ潜水艦で日本へ持ってきて、日本で改良を加えて、飛行機がほぼ出来上がった。パイロットもほぼ私たちが養成して出来た。ところがもう広島・長崎に原爆投下で日本はダメになった。これが早く飛べばね、広島の原爆のあれ(エノラ・ゲイのことか?)も落としてやったのに。でも、戦争は負けて、かえって良かったんじゃないかな。まぁ、「負けるが勝ち」と言ってね、昔から。負けても勝つ方法はあるわけ。それが今、日本の立場だと思いますよ。戦争に負けて、日本がどうなるかなと思って心配したけれど、それが今、世界で一番幸せな国は日本だ。勝ったアメリカやイギリスの方が苦しい。もちろん、中国や韓国も苦しい。一番幸せなのは日本。だからね、皆さん、私に喋ることが必要であればどんどん言って下されば、私は喋りたいことは山ほどある。98年生きているから。それこそ一日中喋っても終わらない。私は50年間、2歳児、3歳児と幼児教育でずーっとおつきあいしてきたから、子どもと同じ頭になってるから、どうしても皆さんの要求するお話ができないわけ。子どもとのお話しが本職になっちゃった。だから皆さんの方で、「この時はどうなんだ」「これはなんだ」と質問をしていただくと、答えられれば答えますから。

生い立ちと当時の世相

私は大正5年8月11日です。だからもう98歳を超しちゃってる。私が生まれて7年経った大正12年に関東大震災が起きた。その関東大震災のときに私は小学校の一年生だった。それで小学校に行って、一年生は午前中だけで帰ってきた。そうしたらもう地震でこの辺まで、この村の一軒も倒れちゃった。小さい子が落ちてきた物に当たって死んじゃった。そういうものだから、私も帰ってきてご飯を食べ始めたらガタガタガタ…。お祖父さんが『すぐ逃げろ!』というのですぐ逃げ出した。井戸端で見ていたら家が(横揺れの手振り)こうなっていた。家が倒れるかと思ったらお祖父さんが家の中に入って行って、養蚕の蚕の繭が一杯あるのを押さえ(柱を持つ手振り)、お祖父さんは勇気があるなぁと思って私は外で見ていた。そういう記憶があります。関東大震災のあとで、この辺は養蚕の絹糸を取って、アメリカのYシャツ生地などに売って生活を立てた。

 ところが世界的に不況になっちゃった。アメリカでも絹糸はいらないということになった。それから東北ではね、震災のあと、今でいう冷害が来て、田んぼの稲が実らない。雨ばっかり降って冷たくて。だから自分のうちで食べる米も足りなくなっちゃった。みんな米を作って、米を売って生活をしていたのに、その米が自分のうちで食べるのまでなくなって困ってね、自分のうちの可愛い娘を、人身売買で歓楽街へ。いわゆる昔の芸者さん(三味線を弾く手振り)に、悪い意味でいえば人身売買。口減らしということで奉公に出す。その奉公のお金を要求して、それで生活をしてた。そういう人間としての最低の生活をするような時代にね、私は育ったわけ。だから結局ね、日露戦争、日清戦争にいって、あの大きな中国と戦い、そしてロシアと戦って、どうやら日本がイギリス、フランスの応援で勝てた。日本が軍隊を強くして、アメリカ、イギリスやフランスの先進国と肩を並べるくらい軍事力を強くして、それで早く先進国に追いつけ追い越せという時代でしたからね。国を挙げて、そんな自分の可愛い娘を売ってまでも軍事費を作って、そして軍国の日本が出来ちゃった。だから当時ね、私たち男の子は、満20歳の成人を迎えると、自動的に「徴兵検査」といって、身体検査、頭の検査をして、男性として使い物になりそうな男の子は兵役の義務を負わせられた。2年間。軍隊へ連れて行って、戦争の訓練をする。身体の少し悪い人とか、それから頭の少し弱い人、そういう人は第一乙、第二乙といって、軍隊には行かないけれども、もし日本が外国と戦争したら、その人たちも召集して第一線で戦うようにした。だから日本に男性として生まれたら、もうすべて、戦争があれば第一線に出される。そしてお国のために戦え。そういう、もう憲法になっちゃってた。そして女性の人は、男性を送り出したら日本の本土を軍国の母として守りなさいと。そして女性の人もね、「国防婦人会」といった組織を強くして、もし敵が日本本土へ上陸して来たら、日本の女性も竹槍で外国人と戦いなさいと。これが「明治憲法」と言って、明治のあの時代に日本の進む、いわゆるメカニズムというか、そういう厳しい中で私たちは育ったから、もう、とにかく戦場へ行って自分の命を差し出して、戦って、日本のために死ぬということが、何よりも名誉だと思っていた。ひどいもんですよね、自分の命を差し出して、いつ死ぬかわからない、向こうの外国人も国は違っても人間同士殺し合って、そして死んで、お国の為になれば、これが男として生まれて最高の名誉だと。そしてそういう人を靖国神社に祀って、まだ子供でも、戦争に行かない人も皆んな行ってお参りをしなさいといったのが、靖国神社。

 それから今度は支那事変が始まる、大東亜戦争が始まる、そして大東亜戦争で日本は負ける。そうすると「昭和憲法」で、今までの「明治憲法」はダメだと。今度は日本は絶対、平和な国になりますと、そして平和憲法をつくって、日本は軍隊を持ちません、戦争は絶対しません、平和の為なら何でも世界の犠牲になりますと、そういうことを世界に向かって発信をしたわけ。そして残った日本人が一生懸命に経済的に働いて、いまは日本が世界の経済大国のリーダーになった。だから平和国家のリーダー、経済大国のリーダー。日本が世界の中で一番いい国になった。ところがアメリカもイギリスも中国もロシアも、みんなそれぞれ困っている。アメリカもね、戦争で一番親玉になって、勝って、日本を潰しちゃったと。どんなに幸せかと思ったら、同じ仲間のソ連と(手の甲をすりあわせて敵対の仕草)こうなっちゃう。中国は日本を(拳でやっつける手振りで)こうやりたいものだからアメリカの所まで行って、そうした所が、ソ連と北朝鮮がまた(手のひらを合わせて)くっついちゃってる。ねぇ、世界では原子爆弾よりも100倍強い爆弾をいつ落とすかわかんないような怖い世の中になった。そういう中に、アメリカも中国もソ連も、ソ連もいま盛んにあれでしょ、ウクライナだの何だのと困っている。みんな困ってるんだ。日本は一つも困っていない。ねぇ、まだせいぜい困れば、消費税が上がる程度だ。消費税なんて上がったって下がったってどうでもいいじゃない。

日本という民族と国

 ところが、日本人というのはね、義理堅い民族なんだ。だからその義理堅い民族というのはとてもいい民族なんだ。昔、恩を受けたらそれをちゃんとお返しする、恩を受けた人が困っていたら助ける、と。それはいいんだけれども、戦争はしません、軍隊は持ちませんといって世界中に発信してあるのに、アメリカが困れば日本に頼むって言って来てるんだよね。集団自衛権といってね、日本の仲間たちが困ってたら、自衛隊が手伝えや、と。それに(首を左右にかしげて)こうやってるんだよね。だから私はね、今の日本の立場もね、苦しい。日本も負けてどんなにひどい目にあうかと思ったら、みんなして日本を助けてくれた。で、日本は幸せになった。その代わり日本もこれからは戦争は絶対しないよ、軍隊を持たないよ、そういうイザコザは困る、と言っちゃってるのに、友達(同盟国)が困るから、おい少し応援してくれや、も言って来たら、日本の国民性というのはつい「そうだな、世話になったから」となりかけているんだよ。だからね、ここが難しいところ。私のような自由な立場で自由な事を言える人はね、非常に心配なんです。私も昔の立場だったら「それ、やっちゃえ」、日本のため、仲間のためならやればいいじゃないかとつい言いたくなるの。でも今は、日本は戦争に負けて、もうそういうことは一切、嫌なんだと、戦争くらい悪いことはないんだと、自分は言っている立場だから、そういうことはなるべく避けたい。もしここで友好国(仲間の国)が困って、そこへ手を貸した自衛隊が戦争に巻き込まれたら、また昔と同じだよ。それを私は次の世代の貴方がたや、もっと小さい幼稚園の子の(※原田さんは幼稚園を経営している)世代にそういう苦しみを送りたくないわけ。今のように非常に和やかに、まぁ多少ほしいものが高くて困るとか、食べたいものが安くならないかとか、そういう希望はあるけれども、これだけ幸せなんだから、これに満足しなきゃならないのよ。もっといいことないか、もっといいことないかと言うと、非常に危ないところへ入って行っちゃう。だから人間はね、「希望」と「欲」は違うんだよ。自分が立派な人間になりたい、そのためには勉強もしなきゃいけない、その代わり自分の健康も自分で考えて病気にならないように、ケガをしないように自分を大事にしなきゃいけないけれども、それに対する過剰な「欲」を出しちゃうと、かえって悪くなる。だから「私欲」ということと、「希望」ということ、これを分けて。まだ小さい子供はその「分け方」がわかんないから、あまりそういうことを強くは言えないけれども、とにかく自分を大事にするということ。自分の命、身体を大事にすること。それと同時に、友達も大事に、友達と仲よくする。そのためには「嘘」を言っちゃいけない。それと、すべてのものに「愛情」をもたなきゃいけない。「あの友達はイヤだ」と言えば必ず友達の方も自分のことを「あの人はイヤだ」と言ってくるよ。「あの人はいい人だな、こういう所がいいな」と思えば向こうもこちらを信頼してくれる。小さい蟻んこだって、草花だって、みんな将来の希望をもって動いている、生きている。自分の立派な子孫を作りたい、きれいな花を咲かせたい、立派な実をなりたいという希望をみんな持ってるのに、面白がって踏んづけたり、殺してしまうのはいけない。自然を大事にする、友達を大事にする、嘘は言わない、人の嫌がることを言わない、人が少しでも喜ぶことをすすんでやる。そういう性格に自分の作った幼稚園と子どもは段々流れが向いてきているなと思う。機会があったら私の幼稚園へ行ってみてください。(子どもたちは)いろんな動物を外に行っては遊んでると連れて来て飼っている。蟻んこ、蟹チョロから亀、海老、ドジョウ・・・何でもいるよ。そういう「愛情」ということに対してね。また、今度保育園までやりましたから、年長さんは赤ん坊や自分より小さい子どもの面倒をよく見ている。小さい子どもは先輩のいうことをよく聞く。誠に楽しそうにやっている。

ゼロ戦パイロット

 私は年寄りになっちゃったから、昔やった軍人の、しかもゼロ戦パイロットとして、それこそ世界のパイロットを随分落としたり、逃げていく船を爆弾で沈めちゃったり、陸上では逃げていく兵隊を機関銃でダダダと撃ったり、それで兵舎みたいな所へ追い込んで皆んな集まればそこへ爆弾を持って行ってドーン!と。どのくらい人の命を殺めたかわからない。でもね、それが私に与えられた日本の仕事だった。軍人で、ゼロ戦パイロットで。日本が戦争をやっている、日本が勝たなければならない、それには敵を倒さなきゃならない。その第一線に行って敵を倒しなさい、倒してこいと言われたから一生懸命でやった。自分の欲でやったわけじゃない。しかも自分の一番大事な命を差し出しておいて戦った。そうすると日本の人たち、日本の国は、「よくやってくれた。有り難い」「もっとやってくれ、もっと!」と。それが日本の軍人に与えられた仕事なの。だから私は、やっている(戦っている)ときは、俺の私欲でやっているんじゃない。日本の国のため、日本の国が勝つためにやっているんだという、自分の誇り、自分がやっている仕事に対する誇り、プライド、満足感。「あぁ俺は腕が良くて、敵を落とした」という悦びと、ある。そこをちょっと過ぎて、次は人間として考えれば「俺くらい悪い人間はねぇな」。相手は、国は違っても何の恨みも憎しみもない、知らない人間なんだ。同じ人間同士。その人間が、ゼロ戦という戦闘機を見れば逃げる。強いから。それを、逃げるのを追いかけて行って、そばへ行くと、彼らは「もう、やめてくれ。命を助けてくれないか」という姿まで見えるわけ。それを「いや、俺は国のためだから」と追いかけたら必ず落として、殺してしまう。こんな自分は人間として最悪の人間なんだけど、私という人間は、軍人として手柄を立てた最高の軍人だが、裏を返せば、人間としては最高の悪い人間。これが裏表一緒になって。だから今私は、こう静かな平和な中になっちゃって、それが一番つらいの。昔のことを想えば、人間としてあるまじき非人道的な人殺し…人殺しって言葉は悪いけれどもね、人の命を殺めた。

 しかし、日本の国のために自分の命まで差し出して、最終的にもうこれ以上できないというほど闘って、どうやら日本は平和になった。だからどっちを取れば自分はいいのかと。ところが年を取っていよいよあの世、極楽浄土に行く年になると、あぁ自分はどっちを取っても戦争という嫌なこと、戦争くらい嫌なことはない、戦争さえなければ人の命を殺めないでよかった。人を追いかけまわして撃つこともなかったのに。しかも日本が負けたとか勝ったとか、戦争ほど罪深いものはこの世には他にないと思う。それが今、98歳になって特に強く心に残っている。だから次の世代の人が戦争というものがない世の中に生きてもらいたい。戦争というものがあるところに行けば必ずみんな不幸になっちゃう。戦争をして幸せになる人は誰もいない。そういう風に私は思う。戦争に勝った人が幸せかというと、(負けた人と)同じだ。負けた人が苦しい嫌な思いをする。勝った人だって、そういう思いの人が自分の勝ちの向こうにいるんだから、そうすると自分も苦しくなる。昔からよく仏教では「因果応報」というが、人を助け、人の喜ぶことをすれば自分の喜びが得られるし助かる。人に嫌な思いをさせたり人を殺せば、自分にその思いが来る。これが「因果応報」という言葉だ。それが今私はわかってきた。だからね、次の世代に私のような嫌な思い、戦争をしている時の自分の満足感というか誇らしいプライドのようなことも決して良いことじゃないんだよと。そして今この平和な世の中に「もっといいことないかな~」なんて考えないで、この平和を大事に、もっと良い平和、内容の良い平和をつくることに努力してもらいたい。今は確かに日本は平和でいいけれども、そういうわがままが出てきているから、お父さんから「勉強しろ」と言われたら親父の頭をバン!(殴る真似)とする、お母さんは「この子はあまりいうことを聞かないから」と橋の上から捨てちゃう、というような嫌な平和の面もある。そういうことのない本当に明るい楽しい平和にするように、みんな努力してくれないかな~と。そう思うと自分も何とかそういう気持にならなきゃいけないと思う。だからこうして朝晩こう(合掌)してお参りしては幼稚園に行って子どもたちと遊んで、幼稚園では「おじいちゃん先生」でね、私が来たら喜ぶんだよ「おじいちゃん先生!」ってね。また子どもに遊んでもらって、だから健康にいい。だから、自分の人生の過去を反省すれば、そうした良い報いが来るの。

「蒼龍」の搭乗員として

これが、(記録書を渡しながら)私が軍隊にはいった時の記録の絵。そしてこれが海軍のパイロットとしての戦争の大体の記録です。

聞き手「この記録というのは、当時の記録ですか」

それは、「蒼龍」に乗って、私が主に航空母艦から飛び出して、航空母艦に帰ってきた、そういう戦争。

聞き手「航空母艦、これは任務のたびにこの書類を書く?」

いや、それは海軍省と言って、海軍の大元の人がそれぞれのパイロットの行動を全部調査しているわけ。記録が残っているわけ。

聞き手「この書類というのは、戦後手に入れたんですか?」

うん、これが戦争の度の功績なんです。この「特」。「特」というのは、最高に手柄を立てたこと。その下に「A、B、C、D」と等級がある。敵の船をたくさん沈めちゃったり、何百人何千人もの人を一度に葬った、そうすると「特」になる。敵の飛行機を一機落とすと「A」になる。そういう記録なんだ。だからそういう記録を残されるようじゃ、いけないの。それは人殺しを余計しているってこと。(自分の顔を指さしながら)

聞き手「こちらの便箋は・・・武官履歴って書いてありますけど、赤いの。専用の用紙なんですね」

あ、これ赤いのはね、法令でね、憲法の内容だけどね、規則が改正になった時の、特に赤い字で書く。赤い字は法案改正のね。それで、これが(写真を見せながら)一番最初に、逃げ回るイギリスのパイロット、ジョン・サイフさんといってね、この人が、セイロン島で私が一番最初に追いかけまわして落とした人。その人が生きていたの。終戦後十何年経ったときに会いに行ってきた。そして握手をして…この人は通訳。(別の写真を見せながら)そしてこの人は、ミッドウェーの海戦で私が最後まで追い回して、この人の飛行機だけが向こうに帰った。あとは全部落とされた。そのパイロットの―ウォームって、私の撃った弾が、この人の帽子に穴をあけた。この人にも会った。それから(また別の写真を見せながら)もう一人ね、ガダルカナルで向こうはF4F(グラマン)、私と撃ち合って、彼も落ちた、私も落ちた。彼は向こうの飛行場の上空だからどうやら帰った。私はジャングルの中に落ちて帰れなかった。ところが私には命運があって、あっちこっちに助けられて帰ってきた。そういう、ガダルカナルで両方ダメだと思っていた人が生きていた。この人とも戦後、会った。この人は偉くなっていてね、アメリカで日本の飛行機を二番目にたくさん落とした人で、28機落とした。その28機目の一番先(先頭)が私の飛行機だった。ところが私はアメリカの飛行機を20機落とした。その最後の飛行機が彼のだった。そういう因縁があった。それで彼はサウスダコタ州の州知事を4期やった。アメリカンフットボールの理事長までやって、アメリカのルーズベルトから勲章をもらった。有名人だ。そういう人たちね、ここにもいるし…(写真を探しながら)これは整備の人たち。戦後七十何年経ってるから、もうこういう人ばっかりになった。向こうにも、もうパイロットは一人もいないそうです。みんな死んじゃった。だから日本でも私ひとり。ミッドウェー海戦までやったのが、(自分を指さして)今ひとりになった。5年前だか、ミッドウェー海戦で亡くなった敵と味方の合同慰霊祭に、是非日本から来てくれと。私一人しかいないから、それで代表で行きましたけどね。これがその時の写真です。私がガダルカナルで落ちた飛行機はこうなった。(壊滅的な飛行機の写真)

聞き手「残ってるんですね」


いやもう、10年前に片付けちゃってね。これが(破片らしき写真)その残っていた破片らしい。それでね、いまガダルカナルは、ミッドウェーは、こういう(島の写真)平和な島になっているらしい。アホウドリといってね、鳥の島になって、鳥が威張って人間のほうが小さくなってる。それで、戦争というものくらい嫌なものはないんでね、これが(女性と子どもの写真)湾岸戦争でアメリカやイギリスがロケットで、あの、イラク人がね、あそこの住人をミサイルやロケットで吹き飛ばした。それ(写真)は中学生の女の子が乳飲み子を残されてね「おっぱい、おっぱい」と言われて困っている写真。これが(長崎の火葬を待つ少年の写真)長崎の原爆の、小学校一年生が子守をして赤ん坊を背負っておったら、原爆でピカっとされて死んじゃった。そして困ってね、迷って、そうしたところが火葬場へ行って順番を待ちなさいと言われて待ってたのを、アメリカの報道機関が写真を撮った。そして最後は、私が着艦した飛龍の人たちが、(写真を示しながら)これが艦長の加来止男さんという大佐の人。こっちがその司令官の山口多聞さんという海軍少将。この人たちが、戦争がどうも負けそうだと。飛龍ももう駄目だから君たちは俺たちの仇を取ってくれと。

私たちが横付けした駆逐艦からこの人たちと別れて、この二人は船に残った。そして自決した。だからね、日本の指揮官というのはみんなそれだけ責任を感じて、船を一つ沈められれば、その船の責任者は自分で(喉を撃つ真似をして)自決した。

だからね、日本という国は「士農工商」といって昔、武士が政治をやった、それがね、まぁ善かったり悪かったり。私は悪いと思う。とにかく、武士、それから農民、工業、商人、そういうふうに人間を差別した。等級をつける。武士が一番偉い、その次に農民。農民が何で偉いかというと、武士が戦争をするときに連れてっちゃうんだよね。そいでね、臨時の武士にする。「足軽」という。だから農民は犠牲が一番多い。武士というのはね、最初からそういう家に産まれたから、生まれながらにして武士なの。ところが農民というのは一般の人でいっぱいいるわけ。それをね、武士の人が戦争で自分で戦うのが嫌だから(農民を)連れて行って戦わせた。で、臨時の武士だ。足軽。それに利用された。ところが戦争をするには必ず鉄砲も要るし、弾も要る。それを作るのが工業。その生活を守るのが商人だ。ところが一番ダメなのが商人で、可哀そうに商人がね、その代わり商人も悪いところがあったんだ。自分さえ儲ければいいから。ところがその商人の下に、まだ悪い階級があった。皆さん、いまそういうことを言うとね失礼だけれども、いわゆる一般の農民であって、その地域の・・・なんて言うかな、見張りみたいな、秩序を保つ一般の平民の下に「水平民」といって、部落解放という、そういう制度があるんだ。だから私たち子どもの時というのはね、一般の農民のところにね、平民という階級があった。その下に何があるといって、水平民。そんなことまでしてね、人間をね、格付けするという。これがいわゆる武士階級、徳川幕府だけで300年。その前には400年以上続いているでしょう、鎌倉。そういう歴史は、一番日本の恥。そういう流れの中で育ったから、あの大東亜戦争も大きくなっちゃったんだね。だから私は、戦争くらい罪深いことはないんだと。戦争さえなければそういうことはなかったんだと。だから「戦争反対」なんて生易しいものじゃないんだよ。私は戦争を憎むものだ。そういう今の心境です。

これが(人間魚雷 回天の絵を見せながら)回天といってね、これに人間が入って敵の方にぶつかるんです、人間魚雷。それから、これが(人間爆弾 桜花の絵を見せながら)桜花と言って、人間爆弾。これを飛行機に吊り下げて行って、向こうの陣地の近くへ行って、落とす。するとこの中に入っとる人がこの噴射式のエンジンで目標へ向かってぶつかる。ここへ入ったらもう帰って来れん。必ず死ななきゃならない。人間魚雷もそう。ここへ入ってね、上からハッチを閉められたら、もう出られないの。何が何でも死ななきゃなんない。だから是非、こうしたものを、これ、神風特攻隊と言ってね…自分が行きたくて行ったんじゃない。まぁ嫌だとは言わないけれどもね、命令だから行ったんだけれども、もう帰ってきちゃいけないの。是非死んで来いという。こういうことまでやらなきゃいけないのが戦争なんだ。それがみんな嘘なんだ。戦争は嘘と嘘ばっかり。戦争が負けてるのに勝ってるようなことを言ってる。報道機関までそのときの政府の方針に従って、日本が負けてもうダメなのに「まだまだ勝ってる、勝ってる」と報道したの。だから一般の国民の人は、自分で食べないものも、勝ってるんだから出して、自分の着物までみんな出して「兵隊さん、頑張ってください」と。負けてるんだよ。何にもならない。そういうのが戦争なんだ。そして私のね、飛んで歩いた戦争の場所はこれだけ。(手描きの地図を見せる)自分の戦争10年間。ハハハ(笑)戦争に明けて戦争に暮れた。だからね、3000時間以上ね、空中に居た。

聞き手「飛行時間は最終的に3000時間を超えて」

それでもね、3000時間というのはね、戦闘機だからね、少ないほうで、大型機になると何万時間と飛んでいますよ。10年間だもの。10年間で3000時間だから、1年間で約300時間でしょ。

聞き手「戦闘機はやはり出撃の飛行時間は短い?」

ええ、短いですよ。それでもね、この飛行機(ゼロ戦の模型を持って)になったら7~8時間は飛びましたよ。それまではね、せいぜい2時間か3時間。だからね、まぁまぁ私も戦闘機として3000時間以上飛んだというのは、あまりいないと思いますよ。アメリカへ行ってね、アメリカの戦闘機の海軍大将の人に飛行時間を訊いたら2000時間だって。ほお、じゃあ少ないねと言ったら、あんたは?で、俺3000時間と言ったら、えーとびっくりしたよ。だからね、日本で戦闘機で3000時間っていえば多い方だし。一番最初に私は中国に昭和12年に飛んで行ったとき、300時間で飛んで行ったんだもの。それでね、これが(「戦陣訓 死生観 生きて虜囚の辱めを受けず 死して罪禍汚名を残す勿れ」)あの頃の総理大臣の東条英機さんが考えたこと。これがね、陸軍の兵隊さんはもう何よりも大事に考えていたらしい。生きて虜囚の辱めを受けず、生きて捕虜になっちゃいけない。死んで、その捕虜という罪禍の汚名を残しちゃいけないという、そういうことをね、ここに書いてある。捕虜なんてね、なりたくてなる人いねぇんだよ。意識不明になったり、重傷者で動けなかったり、栄養失調でもうダメ、そういうのを向こうの攻めてきた人たちが「可哀そうだ」って連れて行って介抱して、そして捕虜にしたの。だから捕虜が「殺してくれ」ったって殺さない。病気や怪我は治します、栄養を与えます、でも我々は捕虜を殺しません。その代わり捕虜になった人が逃げ出せば、これは殺しますよ。何をするかわかんないから。それだけ日本人と外人の、命に対する見方が違うわけ。日本人は、攻めてきた、やれ、戦争で倒れてる人、そういう人は当然これは邪魔者で、生かしておけばまた攻めてくるから殺しちゃえ。戦った相手を殺すのは、日本ではむしろ「誉」だ。これだけ日本の民族と外国の民族の命(生命)に対する価値観が違った。いま、日本人も命ということが大事になりました。これが平和なの。だから私はね、日本という国のね、いいところもいっぱい、自分の国だから知っていますけども、日本人の悪いところもいっぱい見てきました。だから今でもその悪いところもね、多少あちこちあります。ひとつの町で自分の商売が上手くいかなければ、同業者が多いからダメだ、その同業者が競争するからダメだとすぐそこへ持ってっちゃう。だから相手の妨害をしてみたり、相手が困るように追い込んでみたり、マーケットの大きなのが来ると反対してみたり、そんなことをするから町全体がダメになる。それよりも皆んなして協力してお客さんが喜んで来て、歌うたって酒飲んで、いっぱいお金置いてってくれるように皆で協力すればいい。ところが、自分さえ良けりゃいい、相手の方が邪魔になるの。それが日本の悪いところ。だから私はね、そういう幼児教育というものも、そういう面もあったから、なるべくそういうことを無くすように自分ではしたんですが、なかなか難しいですよ。お互いの欲があるから。でも、欲と希望をごっちゃにしちゃいけないと思う。

志願の話

聞き手「原田さんは昭和8年に海軍に志願されて、その時にご両親はどういう反応をされたか』

私が飛行機に興味を持ったのが5歳の時なんです。大正10年。大正10年、その年に日本に初めて飛行機が来たらしい(註:初飛行は明治43年。「日本に初めて」ではなく「長野に初めて」なのか?)。私がお祖父さんに、今日、長野へ飛行機というものが飛んでくるそうだ。そして今、長野市の南の端に信濃川の源流の千曲川という源流がある。その千曲川の河川敷に着陸するそうだ。そういう話がこの辺に伝わってきた。それでお祖父さんに可愛がってもらっていた私に、「おい、今日長野へ飛行機というものが飛んでくるそうだが、お前、見たいか?」と。私は「見たい、見たい」。じゃあ連れて行ってやろうと、ここから約8㎞ですよ、そこで「朝から待っているけど来ねえんだ。そのうちにブーーーンと音がしてきた。あれ、へんな音してんな。東の方を見るけど、音はしているけど見えない。へんだな、何の音だろう?そのうちに小さなカトンボみたいのがどんどんどんどん近づいてきて、そうした所が、羽根がついていてプロペラも回っている。それがツーっと降りてきた。ほいで着陸した。見たら、二人乗っている。で、また飛び上がっていった。グルグル降りたり上がったりしていた。あぁ~これは素晴らしいなぁ!人間も鳥のように空を飛べるようになった。俺も飛んでみたいなぁ~とそのとき頭の中に。

それからすっかり忘れてね、もう飛行機も来ないし、飛行機なんて関係ないもんだから忘れて昭和8年まで過ぎた。そうした所が、私が勉強、今の長野高校ね、この辺では長野高校は有名校で、そこへ試験を受けたら、私みたいな者が受かりっこないのに、まぐれで受かっちゃった。行ってみたらね、優秀なのばっかりでしょう、そいで私なんかは勉強しないで悪戯ばっかりしていた。だから付いていけないの。あぁこれは勉強はダメだなぁ、それならいわゆるこの戦争で20歳になればいずれにしろ軍隊に連れて行かれるんだから、早めに軍隊へ行っちゃって、軍隊で威張ってたほうがいいやと、それには陸軍と海軍と両方ある。そうした所が、海軍の方は、いわゆるあの水兵服、ペラペラしたの。陸軍は鉄砲持って這って歩く。やっぱ海軍のほうがねぇ。海軍へ行けば軍艦に乗って世界を回って遠洋航海ができる。それだ!!ってんでね、昭和8年に海軍を受けた。そうした所が身体検査でどうやら入った。横須賀の海兵団という所へ3000人も入った。あぁ、海軍もずいぶんいっぱい兵隊を採るんだな、これじゃあなかなか遠洋航海に連れて行かれないなぁと思ったら案の定、遠洋航海なんてものはその時、ちょろっと行くだけで、それよりも軍人精神注入棒で毎晩殴られる。

あぁ、これはダメだ、殴られに来たんじゃないわと思って考えたのが、飛行機。その頃でもね、どうにか身体が合えば飛行学校へ入れる道が出来た。ちょうど昭和11年でした。それで私もね、その試験を受けようと思って、上官に「私は飛行機の試験を受けてみたいと思います」と上官に言ったら、「お前、何言ってるの?飛行機乗りなんてものは恐らくなれないんだよ。1000人に1人か、それくらいしかなれないんだからダメだよ、お前みたいなのは。それよりも、でっかい40㎝の大砲をドーンと撃った方がいいじゃないか。砲術学校ならすぐに入れてやる。飛行機の試験なんてとんでもない。」と相手にしてくれないの。それからしょうがないから親父にね、手紙で、飛行機の試験を受けたいんだが、飛行機の試験を受けるのに親父の承諾書が要るの。許可書が。そうした所が、親父が「いや、ダメだ。飛行機なんてそんな危ないものに、とんでもない話だ。お前は軍隊が終わったら家へ来て、農家の長男だから農業をやらなきゃいけないんだから生きて帰ってこい」とダメだった。しようがないから、こうなったら皆な反対だから、逆に自分でみんな(承諾書を)作っちゃった。それだから私は親に一回だけそれだけ悪いことをした、親の承諾書を自分で作っちゃった。そいで三文判買ってきて捺して出した。じゃあ受けてみろ、と受けた。

そうした所が又まぐれに受かっちゃった。それで航空母艦の鳳翔から鹿島灘の飛行学校(注:霞ヶ浦海軍航空隊のこと)へ行ってみた。そしたら150人も受かったのが来ていた。こんなに皆パイロットになるんですか?と訊いたら「冗談じゃないよ、このうち一割も(パイロットに)なればいい方だよ」。それから毎日身体検査。今でいう宇宙飛行士になる検査みたいなの。クルクル回して放り出して歩いてみろ、とかね。もう、いろんな検査。それから約150人いたうち50人が駄目になって100人になった。この100人を8カ月かけて飛行機に乗せてみる。それを8か月間やったら、順に「ダメだ、ダメだ」と帰された。一番最後に残されたのが26人だった。その26人のうちで、またまぐれなんだなぁ、私が一番成績が良かった。そうした所が卒業の時に、軍令部総長が伏見宮博恭殿下で「天皇陛下の名代だ」と言ってきて、私に恩賜の時計をくれた。いやぁビックリしちゃってね、いくらなんでも俺には「まぐれ」がつき過ぎてんな~と思ったら、親父もそれを喜んじゃって、この県下でね、初めてだって。こんな所から海軍行って飛行機に乗って成績が一番だって。将来、海軍のリーダーになる人間だ、そんなことまで言われちゃったから、さあ困るじゃない。それが、私が最初に中国に行った時の初めなの。 そいで戦争もね、私はツイていたんだね、3回も4回も「もうダメ、今度はダメだ(死んでしまう)」。私も最期におっかさんが「こっちおいで、こっちおいで」(呼ばれる気がしたので)「おっかさ~ん!」と言おうと思っていると、そのおっかさんがスーッと消えちゃう。それが不思議なの。だから私は戦争中、戦死した人をいっぱい看取ったんだけれども、みんな最期は「おっかさん!』と言って死んだ。「大日本帝国、万歳」だ、やれ「天皇陛下、万歳」だって言って死んだ人は私は一人も見ない。みんな最期は「おっかさん、おっかさん」。だからね、おっかさんという存在がね、これほどね、人間の最期に出てくるのは、母親くらい大きな存在はないなと思った。ところがその存在が私はいつもね、「こっち、こっち、こっち来い」と母親が呼んでるからそっちの方へ、もうダメだなぁと思っちゃ行って、そしていよいよ「おっかさん」と言おうとすると、そのおっかさんがスッと消えちゃう。それから目が覚めてみると、とんでもないことに生きてる。まぁどういうことかね、そいで私は最終的にはガダルカナルで撃ち合って、潜水艦か何かに助けられて、最終的にはいわゆるマラリアとデング熱と腕の腐れとがみんな重なって、毎日40℃を超した熱だから意識が無くなっちゃった。最初はね、国が負けるんじゃないかとか、その次には俺の家内がどうなるだろうか、家族がどうなるんだろうか、一人息子がいたから息子がどうなるんだろうか…と心配した。それも順に、心配するだけの気力がなくなった。最終的にはおっかさんの膝なの。おっかさんが「こっち来い、こっち来い」と言うからおっかさんの方へ行った。おっかさんが「座れ、おれの膝の上に座れ、おれが抱いてやるから」で、抱いてもらった。で、おっかさんの顔を見て「おっかさん」と言おうと思ったら、おっかさんがスーッと消えちゃった。それで覚えがないの。ところがね、そうして暫く経ったら、気がついたの。気がついたらきれいなお部屋でね、うんと清潔な白のお部屋で、そこへ大きなベッドに私が寝てるんだ。「あれぇー、これはえらいことだ!捕虜になっちゃった。」そう思っちゃったからね、これは捕虜になった以上はね、向こう(敵)は頼んでも殺してくれないから、脱走すれば撃ち殺してくれる、じゃぁ撃ち殺してもらおうと、脱走しようと逃げようと思ったら、ドサッと、体が利かないからベッドの上から落ちちゃった。その音で隣の部屋の看護婦さんが二人飛んで来て、見た所がね、日本人らしい。そいで「兵隊さんどうしたの?!」と。あ、日本の看護婦さん。ここはどこですか?と訊いたら「兵隊さん、ここはトラック島の第四海軍病院なんです。ここへあなたは拾われて助かったんだから、もう心配いらないからこんな逃げたり隠れたりすることない。ちゃんと病気も傷もみんな治してあげるから、ゆっくり寝なさい」。「あ~あ、また助かった。どうして俺はこんなに助かるんだろう…」。それで今度は順に内地へね、もう向こうも手狭になっちゃって駄目だから(ガダルカナルから)、内地へ帰された。その内地へ向かう氷川丸という病院船で呉(広島県の軍港)へ連れて行かれた。佐世保から呉、呉から横須賀、横須賀から霞ヶ浦と順に送って来られて、傷の方も病気の方も順によくなってきた。少しは飛行機に乗れるようになってきた。じゃあ霞ヶ浦の飛行学校へ行って教官をやりなさいと。それで教官を始めた。そうした所が、あの敷島特攻隊の第一号の指揮官の関 行男(セキ ユキオ)大尉を私が教えた。そういう因縁がある。だからね、私は非常に奇妙な戦歴を持っている。私のような戦歴は珍しいよ。こんなに飛んで生きている。しかも、一回も敵に追われたことがない。みんな追っかけた方。

中国の話

聞き手「一番最初に赴いたのは、この中国になるんですよね?」
 昭和12年の2月です(註:2月は35期操縦練習生の卒業。12航空隊付となったのは10月)。その時はもう中国にもいっぱい外国の軍隊が入っていた。アメリカもイギリスもソ連も(註:実際にはソ連軍は中国に駐留していない。ただロシア租界はある)。租界、中国の上海だけでもいっぱい各国の町が出来ていた。その町の人を護るために各国から軍隊が入ってくる。日本も、上海に日本人の町があった。それを中国からいじめられたから、それを軍隊が行って護ったわけ。ところが、順にそれが奥地のほうへ進転していったから、脇坂部隊という強い陸軍が杭州湾に敵前(上陸)を勝利して、中国の軍隊を追い払いながら南京まで攻めていった。それを私たちが応援したわけ。だからね、南京で中国人を30万虐殺したとか、そういう色々、あとから中国から日本が負けたら言われたけれども、そういうことはありません。私も南京の陥落まで行って、南京の飛行場へ着陸して、ずーっと上を飛んでいたんだから、そんなことは見たことないし。中国の、日本に悪い感情を持っている人はみんな早めに逃げちゃった。だから私は南京に着陸してずっといたんだけれども、南京にいた民間人とはとても親しくしていました。だから中山稜だとか光華門だとか太平門だとか、そういう所を皆んな一緒に見て歩いたりして。ただね、その外国船と一緒に南京から軍隊が重慶へ逃げていく、それを沈めたことは(自分を指さして)事実。それでアメリカやイギリスの商船や、アメリカの軍艦を一緒にいたから沈めちゃったから、その責任を取らされた(注:パナイ号事件のこと。原田さんは12空潮田隊の一員として攻撃に参加した。パネー号事件ともいう)。それだけが私の失敗なんじゃないかな。でもね、それはしょうがないですよ。上(空)から見りゃわかんないもん。だから私ばっかりじゃないね、指揮官も降格された。一応ね。それで損害賠償。あの頃で何千万円取られた。

聞き手「この昭和12年頃の所属というのはどちらの航空隊に所属されていたのですか」

昭和12年は航空隊戦闘機ですよ。

(聞き手とともに指さして)聞き手「これに乗られてた?」

片翼で帰ってきた樫村(注:樫村寛一)なんか、あれ皆んな仲間だったの。坂井(注:坂井三郎)は私よりまだ後輩だもの。
聞き手「その頃は佐伯の海軍航空隊に?じゃないか・・・」

聞き手「パネー号・・・」

うん、いやパネー号というのはまだこれ(模型)より古いの。九五戦(注:九五式艦上戦闘機のこと)と言ってね、二枚羽根。それで60キロ爆弾でやっちゃった(落とした)。

聞き手「指揮官の方がこの船を・・・」

えぇ、えぇ、指揮官も皆やったの(爆弾を落とす真似)。私も小隊長だったからね。下士官の古い方だ。

聞き手「初めて実戦に参加した時が、そのパネー号?」

そうです。それが一番最初ですね。

聞き手「初めてその~戦う時というのは、緊張したり・・・?」

そうです。その頃はまだ向こうの飛行機は来なかったからね。空中戦って言うのはなかった。

聞き手「さっきおっしゃった「脇坂部隊」という・・・」

脇坂部隊をね、援護して○○○○ ○○○○(聴き取れず)あの、光華門と太平門というのが頑丈でね。なかなか落ちない。あぁそりゃ徹底的に爆弾で壊した。そこに脇坂部隊が(突入の仕草)。(注:脇坂部隊は鯖江の歩兵第36連隊。南京攻略戦で、光華門の一番乗りをしたことで著名)

だからね、まだ12年頃は戦争があった。空中戦で思い切り相手を落とすとかそういうことはなかったからね。地上の人を上(空中)から機関銃で撃ったり、爆弾で潰したりしているから表情がわかんないわけ、顔が。ところが、飛行機と飛行機で撃ち合えば、相手が苦しそうに「うう~」と火だるまになったり、それを目の前で見ている。それが辛いの。辛いですよ。だから今、若い人が「誰でも良かった」なんて平気で自動車で人を引っかけたりしてやってるでしょう。私はああいう人の気持ちがわかんねぇな。そこへいくと、韓国の人が、(新大久保駅でホームから下に落ちた日本人を韓国の人が助けて犠牲になった事件のことか?)列車が入ってきて慌てて拾い上げたと。立派じゃないですかね。それが私は本当の人間だと思うのよ。それを誰でも良かったと、自分の思うようにならないからと殴った、殺したと、ああいう人は生きていてもらいたくないね。

聞き手「太平洋戦争が始まるまでずっと中国に行っていたんですね?」

太平洋戦争では、中国は、どうなんだろうねぇ?日本という国をやっぱり敵国として憎んでたんじゃないですか。あの時は、日本に好意を持っている国は一つもなかったと思う。中国は、日本が行って、非常に迷惑をかけている。それから、ソ連には、一応は不可侵条約(注:厳密には中立条約)という条約を結んで、ソ連とはある程度友好関係のようなことを言っておったけれども、その裏で、イタリア、ドイツと三国同盟をして防共協定を結んじゃった。これがいけない。こっち(ソ連)と不可侵条約を結んだら、そっちと一緒になって防共協定をやるという敵対行為になる。そういうことを日本がね、させられたんだか、やったんだか知らんけども、やったことが私はよくない(と思う)。だから結局最後にソ連が、ロシアが、日本が負けたらダアーっと満州国へ入ってきて日本人を抑留して連れてっちゃった。しようがない。日本もそういうことをしてきたの。戦争というものは、両方がどっかで悪いから、戦争になる。本当に片方がまともに、正直に、良ければ、戦争にならない。

 だから私は、戦争に罪がある。だから戦争というものには必ず両方が大人らしくないところがあるから喧嘩になる。だから今でもね、アメリカだってね、中国とこうなりかけてる(両手の甲と甲を合わせて)。あれ、一時は一緒になって日本と戦った国だけれども、両方が自分の権利を主張しすぎると、こうなっちゃう(両手の甲と甲を擦り合わせて)でしょう。ハハハ(笑)だからね、必ずね、いやな戦争が起きてくるんじゃないかという、そういう予感がするの。だから日本がそこへ巻き込まれるか、ちゃんとしたスイスのような立場を貫かれるかどうか、どうも今の政治家はね、戦争を体験していない政治家でしょ、だから心配なの。我々みたいに戦争を体験した人間がいま政治をしてくれれば、戦争というものくらい嫌なものはないんだと、まず戦争を避けるためには、多少苦しくてもしょうがないんだと、義理を欠いてもしょうがないんだというくらいのね。勇気が出て来る。ところが今の政治家の人たちは、平和の中に産まれて、平和の中しか知らないから、戦争というものほど最終的には人類の破滅につながるんだと、そこまで考えている人はいない。何とかなるぐらいに思ってる。これからの戦争はね、両方で始めたら、両方が無くなりますよ。そこまで今、科学が進歩しちゃったんだ。私たちの戦争、最終的にアメリカ、イギリスの原子爆弾というものを落とした。その前に日本だって原子爆弾の研究を東京大学でやっていた。だから我々もね、あの研究が、東大で、マッチ棒の先ね、そのくらいの原子で、5万トン、6万トンもの戦艦を轟沈できる研究を今してるって、そういう噂を聞いていたの。(拍手しながら)あぁ、それは早く出来ないかな。そうすれば日本の戦争は負けないな、ところがそれがアメリカの方が先にできちゃった。日本は一回失敗したんだ。それでもう一回やり直しをしているうちにアメリカでは原子爆弾が出来た。そしてその後にね、私も科学に多少興味を持ったから、大学の先生にね、いま日本でも色々な爆弾の研究をしているみたいだけれども、どんな爆弾を研究しているんですかと訊いてみたら、いま日本はその原子爆弾に刺激されて、水素爆弾というのを研究(している)、その水素爆弾というのは原子爆弾よりも相当強いの。その次に、中性子爆弾というのができた。それが今はもうほとんど出来かけているよ。これはどうだって、その上にもう一つの段階があって、それは原子爆弾の100倍くらいの威力をできる(持っている)もの。そんなこといって、両方でそんなことしていれば地球はどっか行っちゃうじゃない。まぁ地球まではどうか知らないけれども、地球上の生物が生活できない、生きて行かれない、そこまでいきますよ。それじゃあ今のうちに早く火星に行った方がいいな、ところが火星に行くのに何年もかかる。(笑) だからね、この科学というものはね、こんな怖いものはねぇの。

「ゼロ戦」

聞き手「このゼロ戦を初めて見たのはいつぐらいになりますか」

昭和16年9月。私が大分航空隊で、甲飛(甲種飛行予科練習生)といってね、私が少年…中学卒業程度の優秀な兵隊さんをね、戦闘機や日本のパイロットに養成するために大分航空隊でね、甲飛を扱った、教えてたの。そうしたところが急にね、蒼龍という航空母艦に乗りなさい、命令が来た(自分を指さして)。「航空母艦に直接行くんですか?」と訊いたら「違う。航空母艦はもう湾外へ行ってるから、飛行機隊は今、佐伯航空隊にゼロ戦隊がいるから、そこへ行きなさい」と。そこへは30分もあれば電車で行けるから、すぐ、南の佐伯航空隊へ、私は長くそこで育ったところだから、昔の古い家へ行ったような話しで、すぐ行ってみた。そうしたところがゼロ戦が約30機、ずらっと並べて、飛んでる。「キミ、今度このゼロ戦隊で軍艦「鳳翔」…航空母艦「鳳翔」に着艦するんだよ」と。へぇ~~、航空母艦に乗りたいということ、(指折り数えながら)これが一つのあこがれ。ゼロ戦に乗れるということ。これ、「棚からぼた餅」みたいなもんだから、早速乗ってみろって言われてゼロ戦に乗った。そうしたところが、今までの戦闘機のように軽さはない。ドッシリしてる。その重さ、重量感。大きさも大きい。乗ってみたら操縦はしやすい。まぁ~攻撃兵器は素晴らしい。二十ミリ機関砲を…。こんないい飛行機に乗って、しかも重慶であれだけの戦果をあげている世界中からビックリされるような戦闘機だ。こんな戦闘機に乗って戦えるということは、男の本当の花道に乗せてもらった千両役者みたいなもんだなぁと思って嬉しくなっちゃった。それでもう一生懸命、操縦。ところが私は、操縦隊の下士官では、戦地から帰ってきた経験者では一人(自分を指さして)。一番 下士官でね、その経験者のパイロットで古いほうだった。「小隊長をやれ」と。(言われて)あ~こりゃいいなと思って、部下をもらって。それで下士官兵の先任パイロット。まず、自分ではこの時一番、男の花道、千両役者を与えられた気持ちになりました。ただ、心配なのは、世界中の、特にアメリカを筆頭にした世界中A、B、C、D…これだけの国と戦わなきゃならん。これにはちょっと、日本だけでね…いくらゼロ戦が優秀でも、日本人がいくら優秀でも、一つの国と世界中とが戦って、これでいいのかな…それだけが心配だった。ただ、ゼロ戦に乗っている限りは、絶対自分では負けないな。それだけの自信は持っていた。また日本の飛行機乗りは全体がね、ゼロ戦がついてきてくれれば大丈夫だよ、そこまで皆、ゼロ戦に対するね、まぁ期待や自信を持っちゃった。だから、後になって考えたら、そのときにゼロ戦というものが、ゼロ戦の栄光であり、それがゼロ戦の悲劇で終わる初めじゃなかったかな。ゼロ戦というものの、あまりに評判が良すぎちゃった。日本全体が安心をして、ゼロ戦の次にはどういう飛行機を作ろうという意欲が無くなっちゃったんだ。アメリカはグラマンのF4Fでやったら(飛ばしたら)ゼロ戦にやられちゃう、このゼロ戦の上に何をつくる、すぐF6Fをつくる。そのF6Fでまたダメだったら、また次に…そういうふうにどんどんどんどんやってるのに(アメリカは新型飛行機を作っているのに)日本はゼロ戦でもう満足しちゃって、なんでもゼロ戦、ゼロ戦。遅れちゃった。そんだもんだから、あとで雷電なんての作ったけど全然ダメ。それでも紫電改というのが出来て、まだまだ良かった。でも紫電改でもB29にはダメ。だから早くこれ(何かの模型をつついて)を作れば良かったのに、これが遅れた。だからゼロ戦というものの、あまりにも評判が栄光であり、それが悲劇に繋がったんだと、私はそう思います。だからゼロ戦の栄光と悲劇が繋がっちゃった。

真珠湾へ

はい。そいで真珠湾の攻撃に行ったときに、もちろん私は真っ先に真珠湾へ突撃で入っていると思って、攻撃のメンバーを見たら、私は向こう(真珠湾)へ行かないで艦隊を護れと、その小隊長。「おかしいじゃないですか」と。「私はこの蒼龍航空母艦の下士官では、戦争体験者でもあり、自分では絶対、ゼロ戦の技術に関しては誰にも負けない自信があるのに、どうして俺を第一線に向けないのか」と言った。「だから君はこの艦隊を護るほうだ。この大艦隊が、もし向こうに攻撃されてダメになったら、日本はダメになっちゃう。このほうが大事だと俺は思うから、こっちを護れ。俺が命令だ」と言われた。じゃあしょうがない。本当はそんなこともない、まぁ奇襲なんだから、攻めてはそんなに来られないと思うんだけれども、そう言われれば、軍隊で、上官の命令は天皇陛下の命令だというふうに教わっているから仕方がない。じゃあ私が護る。不服で面白くないけれども、艦隊の上を三回も飛んで回った。けれども奇襲作戦だから向こうからは来ない。そしてまぁ引き上げた。そいで後でね、もう一回攻撃すればよかったとか、南雲中将だからダメだったとか色々言われるけれども、私はあの場合は、あれで良かったかなぁと思っている。あれで3回いくと、2回の攻撃でもだいぶ犠牲が出たんだから、3回目には相当な攻撃が来る。そうするとね、我々が上(空)におっても夜間になったら着艦しちゃう。そうすると、夜の航空戦というのは、我々、私でも夜の航空戦の経験はない。そこをもし、敵から攻撃されたら日本の艦隊もだいぶ傷む。そうするとせっかくのハワイ空襲という戦果が減っちゃう。そうすると日本の国民の人も心配をする。戦争に不安を感じる。そうすると戦争が不利になる。戦争をやるからには不安を与えちゃダメなんだ、子どもにね。「勝った、勝った」で嘘を言わなきゃ。それが戦争なんだ。国民の士気を(上に持ち上げるしぐさ)こうやらなきゃ戦争にならねぇの。国民が冷静でね「戦争をしたって大丈夫かよ、おい、危ねぇじゃねえか」というような戦争はダメだ。「勝った、勝った」で提灯行列、旗行列、それで戦争になるんだ。それが戦争なんだ。だから私はね、戦争ほど罪なものはないと、正直な人をだましてる。そいで退却することを転進だ、とそんな風に言うことないじゃない。負けて逃げていくのに、違う方へ攻めていくんだって。それをみんなに信用させるんだよ。それが戦争のいわゆる悲劇。

ウェーキ島

聞き手「あと、ウエーキ島にも…」

ウエーキ島(ウェーク島)(※現在の表記は後者)はね、ハワイの帰りに、これそういう計画が入っておったんだそうです。そしてウエーキ島というのは南鳥島(註:大鳥島の言い間違い)といってね、これは日本はぜひ欲しい島だった。そこに基地を持っていれば、アメリカから直接日本に攻めてこられない出先の防波堤になるわけね。だからそれを是非取ってしまいたいと言うので、もうハワイ攻撃に行く時にね、一つだけ別動隊として用意していたんだそうです。そいでハワイ攻撃がね、一次攻撃、二次攻撃、大成功したから、そいでそのまま引き上げる。その別動隊として蒼龍と飛竜の山口多門さんの指揮官が、そのウエーキ島の攻撃に参加した(自分を指さして)。その時も私は真っ先に飛んで行きました。そいで向こうから飛び上がってきたグラマンのF4Fを攻撃してダメにしてしまったから、日本の攻撃隊は悠々と上陸した。ただその時に、日本の爆撃隊の名士の佐藤兵曹長(註:佐藤治尾飛行兵曹長・操練18期、真珠湾攻撃水平爆撃隊嚮導機機長)というのが操縦して、その後ろで爆弾を落とす金井(註:金井昇一等飛行兵曹・偵練35期)という日本一の名爆撃手がF4Fに落とされちゃった。これが日本の大きな損失だったみたいです。でもその時にはね、偉い名手を失くしたといって日本の悲劇にはなったんですが、それでもちゃんとした駐留軍が入って南鳥島を最後まで持てたということは、私はそれは確かに作戦の成功だったと、そう思います。その南鳥島を私が攻撃している時に、私の長男がここで生まれた

結婚

聞き手「ご結婚されたのはいつですか」

その年の1月1日なの。昭和16年1月1日。こんなことは珍しいんだって。それがね、私がいわゆる飛行学校を昭和11年にトップで卒業した天皇陛下から銀時計をもらったことが、この長野の新聞に大きく書き立てられて、今でも(新聞が)ありますが、陸軍の連隊区司令部からわざわざうちまでその報告が来たんだそうです。そいで親父は、戦闘機や飛行機乗りになっちゃいけないって反対したのに、いつの間にそんなことになっちゃったからびっくりして、あれ、俺反対したのに〇〇の野郎、とうとう飛行機乗りになっちゃった、まぁ飛行機乗りはしょうがないけれども、一番で、天皇陛下から時計までもらって、困ったような嬉しいような…だから爺さんはね(うちの父親)、最初はとんでもないって言ったのが、けどあんまり結果が良かったからびっくりしちゃって、「あぁ~」って震えていたらしいの。それを私の家内が、当時、高等女学校を卒業して貯金局に勤め(始め)たばっかりなの。そうしたところがその、タイミングがあの頃に合ってた。朝日新聞が、神風という飛行機がロンドンに行ってて、ロンドンのニュースを東京本社まで飛行機で飛ばした(註:神風号による亜欧連絡大飛行のこと)。それが長野県出身の飯沼飛行士(飯沼正明)だった。そして機関士が塚越機関士(塚越賢爾)で、二人で飛んで来てそれが有名になっちゃった。それをうちの家内が貯金局で見ていた。両方見て、飯沼飛行機操縦士も素晴らしい。原田要、海軍の戦闘機パイロット。どっちかひとつ自分のものにしよう(笑)。それでね、早速「わたしは海軍の方へ行きたい(嫁ぎたい)」って、すぐ自分の勤めを辞めちゃった。

新婚生活

最終的にね、私は別れるときに(死別のとき)家内に言ったんだ。「お前に一つだけ悪いことを言ってお前を騙したことがある。それは今ね、お前がもう体が弱くなって、いよいよもう夫婦としての、私との人生が終わるかも知れないから、最後に一つだけ謝罪しておきたいことがある」と言ったら、「お爺ちゃん、それは何のことか」と言ったから「実はなぁ、お前に俺が「軍隊でこれが俺の給料全部だ。」と言って渡して、これで全部うちのほうの子どもの生活まで頼むよって渡したら、お前が「はい、わかりました」と言って私の給料を受けてくれた。ところが俺はそれだけでは一銭も無くなっちゃうもんだから、それが嘘だった。そして私はその他に、飛行機に乗って、危険手当という加俸…俸給と違う手当があった。それがほぼ給料と同額だった。それを私は使って、友達との付き合い、それからまた部下との付き合い、そういうことをしてたんだ。本当は給料全部だと言って渡したのは、給料全部じゃなかった。」と言ったら、「お爺ちゃん、私それ知っているんですよ」。「え~!なんだ。お前知っていたのか」と言ったら、「うん。わかっていたんだよ。私は、貴方がこれ全部給料だと言って渡したのは、本当に給料だ。あなたが使ったのは給料じゃなくて手当てで、危険手当っていうのが付いていた。それをちゃんと私は知っていたけれども、はい、給料全部私が受けました。そして、貴方はお付き合いをして友達とも不利にならなくて済んだんじゃないですか。本当の夫婦というものはね、私は、秘密はできないもんだということを私は知っていたんですよ。」

「あ~、そうか、それは悪かったな。余計、余計、お前に感謝するよ。」「感謝されるのはいいけれども、嘘を言って、騙した、ってそういう謝り方は辞めてください。」って言われたから、「あぁそうか。私にしてはね、出来過ぎた女房だな」って私、今でもそう思う。その女房のお蔭で私は地域に頼まれて、最初の保育所を開いた。それもね、自分のね、人間としての人を殺めたという罪の償いでね、やっちゃいけないなと思ってね。辞めようと思った。そしたらその家内がね、「それは違うよ。私は貴方が自分でやった仕事がお国のためだと自分の命を差し出して、お国のためだと言われたからやったことなんで、それは確かに良くない。人を殺めたということはよくないけれども、自分が心から殺めたくてやったことじゃない。殺めなけれればならない立場だったからやったんで、やらされた戦争が悪いんだ。だから貴方は決してそんなに自分をね、苛めることはないんじゃないか。やったことに対して自分は反省は大いにする。その反省があればこそ、次の世代にそういうことがないような子どもを育てることが、本当の反省じゃないか」。そこまで家内が言うんですよ。「え~、お前いつの間にそんな勉強したの?」って言ったら、「実は貴方が戦地に行っている時に、私は村のこの和尚…長福寺という和尚さんと相談して、戦地へ行っている若い人たちの奥さんがみな、子どもがあって(居て)、働くのに困るから、その子どもたちを集めて面倒を、お世話しましょうと言うので、私は貴方が戦地へ行っている間中、村の和尚さんと相談して託児所をやっていたんですよ。だからみんな喜んで来てくれたし、そのお母さんも一所懸命で働いて、生活できたんだ。その仕事を今貴方がやってることが、自分でやった戦争の、働きに反省を加えてやったら、大いに続けていくべきだと私は思います。もし貴方が辞めると言ったら、私は離婚します。」とそこまで来ちゃった。「あぁそうか。そこまでお前考えているのか」「私も絶対貴方は殺さない、死なないという迷信ではあるけれども非常につらい行(合掌の手振)をしているんです。」いわゆるその頃の「呪文」ですね。なんか、朝起きて、囲炉裏で火を焚いてご飯を作っているその時に戦地へ行っている自分の亭主を護るために、まじないの言葉を、長いのがあるんだ、それを三回呼吸をしないで唱えるんだそうで、そして「南無阿弥陀仏」と最後に言って、辛いんだそうです。呼吸をしないで三回も同じことを言って「南無阿弥陀仏」。それをずっとやっていたんです。だからもし貴方が死んだと言ったら、私はすぐその場で自決をして軍国の母になる。一人じゃ生きない。貴方と一緒に死ぬと、そこまで私は覚悟をしてやったんだから、今そこでこうなったことにね、人を殺めたとかなんとかそんなことで辞めようなんてそんな弱い人とは、私は一緒に居たくない!そこまで言われちゃったからね、「よーし、何言ってるんだ、俺だってそこまでは、そんな弱い人間じゃないぞ!」、それまで吸っていた煙草をパッと辞めて、一滴の酒もバッと辞めて、「よし!」そしたら「お爺ちゃん、いつの間に煙草辞めたの?」知らないの。「いやぁ俺だって男だよ。自分でこうだと思ったら絶対誰が何と言ったって自分の思うとおりにする。それでこそあんただって。それから本当のね、家内が死ぬ数カ月前にそれがあった。それで余計にね、家内というものの存在を強くしました。家内が死んだことがちっとも寂しくない。大往生をしてくれた。いつでも私が行くのをあの世で待っててくれる。だから私はいつ死んでもね、いつでも迎えに来てくれ。そうかといって、死にたいとも思わない。生きたいとも思わない。できれば次の世代の人に私のこういう気持を一人でもお伝えできれば、それが本望だ。だからもう、大勢人を集めてお話しするというようなことはあまりしたくない。ただね、そういう、話を聴きたいという人があれば、私が思っていることをみんな隠さないで、悪いところもみんな、聴いてもらいたい、そう思っている。

参考資料

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