花岡 四郎さん

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花岡 四郎さん

生年月日1922(大正11)年12月23日生
本籍地(当時)愛媛県
所属陸軍
所属部隊第10師団 野砲第10連隊(鉄5451部隊)
兵科砲兵
最終階級 

インタビュー記録

1944(昭和19)年2月 入隊まで

昭和16年にその当時軍需工場の従業員の不足を補うために、徴用制度っていうのができたわけです。その徴用制度というものは、いわゆる軍隊の召集と全く一緒で強制的に国家から徴用令がきて、それに基づいて軍需工場に派遣されるわけですね。

で、私はたまたま16年の1月にその徴用令を受けまして、それで呉の海軍工場へ就職したわけです。派遣されたわけですね。それで戦艦大和の建造なんかに携わったわけです。で、昭和19年に・・・あのう・・・あ、18年に徴兵検査を受けまして、まぁ20歳になってですね、それで”第一乙種”ていうこともあるんですね。一番上は”甲種合格”ですけど、あのう、満州事変が始まってから軍隊の人員が減ってきたために、(※昭和13年から)”第一乙種までが現役入隊”ていうことになってきまして、現役で19年の2月に姫路の野砲連隊に入隊ってことになりまして。それで姫路に入って1週間ほど姫路におっただけで、すぐ満州のジャムス(佳木斯)っていうとこへ派遣されたわけですね。

で、ジャムス(佳木斯)っていうところはご承知の通り、ソビエトの国境に近いとこで非常に寒いので、零下30度くらいになる所だったんです。そしてそこに行きまして6ヶ月の初年兵教育を受けた時点で動員が下って、南方に派遣されるってことで、あのぅ・・・基隆・・・あの、ちゃうわ、釜山から一旦門司へ帰って、で門司で船を乗り換えまして、台湾の基隆に上陸しまして、で、基隆に上陸して台湾防衛っていうことで3ヶ月おったわけですけど、また再動員が下って満州・・・あの、フィリピンに行くことになってきまして。それで基隆の方からじゃなくて、高雄の方の港から出まして、私の所属してました野砲10連隊ていうところは先遣隊で、「有馬山丸」という船でマニラへ上陸したわけです。で、師団の主力が私らより1週間ほど遅く出発して、これは北サンフェルナンドに入ったんですけど、そのサンフェルナンドに入った部隊の中に「乾瑞丸」っていう船が、そのサンフェルナンドの沖で撃沈されまして、で、その船には私の一番上の兄が乗っていましてね、で、その兄は歩兵で、岡山の歩兵連隊でしたんですけど、そのときには兄は助かって上陸したらしんですけど、これはのちにサンホセ・・・あの、プンカンていうところで戦死してるんです。

マニラ上陸

まぁこれは余談になりますけど。私らはそれなんで満州・・・マニラに上陸しまして、マニラで、もぅ上陸するなり敵の空襲がありまして、もぅあの、武器弾薬を上陸しているときに、もぅ敵の艦載機がバリバリバリバリ、銃撃したり爆弾落とされたりしたんですけど、まぁそのときには幸いにも何の被害もなくって、一旦上陸しまして。

それから今度ずっと、あのぅ、百何キロ、、、う〜んと、あれはなんぼ?150キロくらいあるんですか?あのう、サンホセってとこまで、ずっと、馬で砲車を引っ張って。で、五号国道ってとこを北上したわけですね。で、サンホセで、あのぅ・・・そのときの師団、あのぅ・・・いや、方面軍ですね。山下(※山下奉文)方面軍の、14方面軍の、あのぅ、、指令では、プンカン地区を師団の主陣地として陣地布陣せよというような命令だったらしいんですけど、私らの野砲10連・・・ちゃうわ、あのぅ、10自師団の、鉄兵団の参謀連中が現地を見たら、”こんなとこでは制空権がない我々で、こんな禿山みたいなとこでとてもじゃないが、戦闘できない”と。だから、”もっと奥の方の、木がたくさんある、一番峠の、高いとこのバレテ峠を主陣地とするように”ていうことで、方面軍と参謀と、かなりやり合ったらしいんですね。結果的には、やはりバレテ峠の方の主陣地、てことで決着して、結果的にはその方が良かったわけですけどですね。プンカンの方面で主陣地やっていましたら、もう2月の時点で全部突破されてしまってたと思うんでね。ところがバレテ峠を主陣地としたために3ヶ月近く、抵抗がありましてですね、5月の末まではバレテ峠を死守したわけですからですね。これは方面軍の参謀より10自師団の、鉄兵団の参謀の方の見解が正しかったと思うわけですね。

戦闘準備

ただね、これはあとから私らがいろんな、そのぅ、戦争がすんで帰ってきてからいろんな、調査をしたんですけどですね、やはり、山下(奉文)将軍は、14方面軍で、任命する・・・赴任するまでにフィリピンの、あのぅ、司令官だった人が、全くの、もぅ能力っていいますか、もぅゴルフに明け暮れて、ゴルフとダンスに明け暮れて、フィリピンの防衛っていうことに対しては全く準備してなかったそうですね。そのためにフィリピンのルソン島で戦闘するためのですね、正確な地図とかそんなものはほとんど、あのぅ・・・いわゆる、満州から来た我々の部隊に対してですね、何の資料も渡されてなかったんです。

ですから、その、方面軍の参謀あたりがですね、プンカンを主陣地とせよというのも、現地を見て命令したんじゃなくって、ただ地図を見てから「ああ、ここがちょうど平地から山岳地帯に入る峠口だから、そこの方を守っとけばいいだろうってなことで現地を見ずにその地図上の、いわゆる机上の空論っていうわけですね。そういうことをしたために、その方面軍の参謀と鉄兵団の参謀とが相当やり合ったらしいんですね。で、そのせいがあるかどうか知りませんけど、撃兵団(注:戦車第2師団)とか他の兵団には軍司令部からの師団に対する感状というものが出ているんですけどね、鉄兵団が一番抵抗して防備したのに、鉄兵団に対する感状が全然出てないんですね。こういうところは、やはり、その、方面軍の参謀と、それから師団の参謀との、それでやり合った後の尾を引いてるっていうことを、我々後から考えて、その、思うんですけどね。

分隊に感状

師団に関する感状は無いんですけど、私が所属している分隊に対しては感状が出てるんです。こういう感状なんて言いましたらですね、本当はもう大きな師団とか、もうその次の連隊単位にはあちこち出てるんですけどね、この分隊なんて言いましたらですね、15名くらいなんです。15名くらいの分隊にこんな感状が出ているっていうことも全く、もう、ごく稀なんですよね。

フィリピン方面では他に例が無いです。で、これもその当時はわからないんですね。20年の7月23日とあってでしょ。この時分って言いましたらですね、もう戦争末期でしょう。ですからね、もう、方面軍なんかでもキャンガンの方に入って、もう山下奉文さんあたりがもう、ちょうどこの時分にね、7月23日・・・8月のねぇ、・・・8月の・・・10日前後、終戦の5日ほど、5日か6日くらい前ですかね、私・・・、山下奉文、私らずっとキャンガンの奥の方で大休止してましたらですね、ちょうど山下将軍が参謀を連れて、7−8人連れて、それで護衛の兵隊が前と後ろで10名ぐらいいて、ちょうど私らが、あの、小休止しているところを通って行かれましたがね。その時に、その日の夜だったかと思うんですよね。軍隊でいう「大休止」っていうことは、いわゆるそこで寝るっていうわけですね。寝るっていう、まぁ、寝る準備をしてましたらね、中佐の参謀懸章した(※タスキ掛けの軍装)参謀がやってきてね、「お前らに長いこと苦労をかけたけど、まもなく戦争は終わるから自重してくれ」と。「日本に帰れるから」と。「内地に帰れるから」ていう話をしてくれましたんです。で、その時分にはですね、もう全くもう、えぇっと、昭和の20年のね、5月の中頃から軍隊からの、あの、何を、食料の援助というか、配給が全然なくなったんです。自給自足です。食べるものは自分で探さんといかんわけですね。でもう、骨と皮ばっかなんで、ヒョロヒョロヒョロヒョロしてやってたときですからね、戦争が終わって帰れるってたら、もうそんなことより、その日の晩に食べる食べ物を探さんというほうが頭がいってしまってますからね、そんときにはあんまり気にもしなかったんですけど。

宣伝ビラ

それから5〜6日して、パタっとアメリカの飛行機がね、宣伝ビラを落としてくれたんです。ほんで日本軍がポツダム宣言を受諾して無条件降伏したと、ていう、その、宣伝ビラを落としてくれたわけですね。そんで落としてくれたと同時に、ピタッとその日から、朝から砲爆撃が止まってしまったんです。ああ、これでやはり、本当に戦争はすんだなぁていう気がしましたですけどね。ところが米軍の攻撃はなくなったんですけれど、フィリピンのゲリラの襲撃は引き続き来るわけですね。ですから、えー、9月の14日に山から降りて来て、米軍に武装解除されたんですけど、それまでは、まだ、終戦後1ヶ月くらいは山の中で時々と、毎日じゃないんですけどね、あの、フィリピンのゲリラ兵とまだ交戦しておりましたんですけどね。

バレテ峠

で、今考えますとですね、その、我々の部隊は一番、そのバレテ峠って最前線のとこでやりましたからね、戦死者の中でね、中隊で、だいたい、そうですね、7割くらいは実際の敵の砲爆撃で死んでます。ほいで、あとの2割くらいはもう病気と飢えですね。飢餓、栄養失調で死んでます。で、帰ってきたのが1割ですね。で、私はその1割の中に入っているわけです。私の中隊が、145名の中隊で、生還した人が13名です。それで現在生きてるのは、もう2名だけです。皆、あの、もう年が。私が一番若いんですけどね。初年兵で入隊したわけです。それでももう85歳ですからね。はっ。当然といえば当然ですけどね。もうそんなんで、だんだん、だんだん、戦友が亡くなってしまいましてね。あの、寂しいーいうことですよ。ふっふっふ。

でも、この、あの、○○も書いてました(おたくも書いてました??)、曙光会(しょこうかい)っていうの、これはフィリピンで戦った人は誰でも、また、遺族の人とかが加入されてますけどね。だから毎年総会があったら80名から、多い時は120名くらいおりますけどね。そんなものはごく稀でして。今ほとんど戦友会ってのは、みな、あの、もうなくなってしまっているはずですわね。で、私らのなにも、部隊も平成6年、えー、戦没者の50周年を記念して最後の慰霊巡拝に行って、で、毎年姫路の護国神社で遺族の人も含めて、あの、寄っていただいて、毎日、毎年慰霊祭を重ねてましたけど、50年を最後に、一応打ち切ったんですけどね。今も、他の各部隊毎の戦友会っていうのはほとんど、もうなくなっておりますわね。

ほんで、まぁ私がね、皆さんに特に言いたいのはですね、この、戦いもさることながらね、食べるものがなくってね、それこそ毎日毎日、もぉ草の、草を取ったり、木の根を掘ったりしてですね、あのぉ、やった。これのことほど、あんなに苦しいことはありませんからね。今の政治家がですね、日本の穀物の自給率が40%きって、39%とか38%なんて言ってますけどね、今の政治家のね、あの、何が、ほんまの怠慢ですよね。これはもう、今ドイツやとか、あのぉ、フランスなんかでもまだ30・・・いや、75%か80%くらい、国としての食料自給率を持ってますがね。最低でも75%ないことには、いざっていう時になってきたらね、もう人間・・・、あの・・・はぁ、人を殺してでも、自分が生きようとしますよ。で、こんだけ現在の、もう無茶苦茶な我々から見ると、もう想像に絶するような、親が子供を殺し、子が親を殺すというようなね、そんな殺伐とした今現在の何がですね、もし食料が不足してきて、もう我々が経験したような時代になってくるとですね、もうどんなに恐ろしい国になるか・・・。もう今私はそのことをいつも考えているんですよね。だからね、食料の不足するって、飢餓に、人間飢餓になってくるとね、全く、あの、野生の動物と一緒ですよ。弱肉強食です。それはもう大変なもんですよ。ほんで、もう戦争なんて言いましたらね、もう人を殺すっとかっていうのが、あの、主目的ですからね。だから、敵兵を殺すってだけじゃなくってね、終いには仲間同士でやることがあるわけなんです。でもってもね、その、死んだ人間の肉を食べるっていうのは、これはもう、あの、戦友同士で納得ずくで。あの、死ぬとね、皆、もう・・・はぁ、あの、そのへんはもう、あの、死んだ死体がもういっぱいですからね。もうハエがものすごくわくんです。ウジがわくわけです。・・・身体にね。

でね、あの、「十里風腥(なまぐさ)し新戦場」ていう、乃木将軍の、あのぉ、203高地の何がありますけどね(注:漢詩「金州城下の作」)。実際ね、行けども行けどもね、道路の両側にね、もう・・・。今死んだんと、今まだ生きとんとちがうか、とような人もおるかなと思ったらね、もう、目のとことか鼻とか口とかに、蛆がずっとわいてるという何がですね、いっぱいおるわけ。そうかと思ったら、川の中にね、首を突っ込んで水を飲むために、首突っ込んでね、そんでそのまま息絶えて、ほんでこの辺(首)とかなんとか、(ぼくのと言っていると思われるが削除でいいでしょう)足とかなには、皆白骨化してしまっているんですね。ほんで(顔は)川の中に入ってるから、そこの部分だけはまだ原型をとどめているわけです。

そしたらね、あの、フィリピンの現地でおられた、戦争中、戦争前にフィリピンにおられた日本の、邦人ですね、この人あたりも皆、あの、山の方へ軍と一緒に逃げとるわけです。そしたらその人あたりが自分のおじいさんやおばあさんは息子が現地徴集で、あの、戦争が酷くなってきてきたときには現地で、軍隊に徴集されてるわけですね。それから、あの、そこの嫁さんなんかは、あの、これもいわゆる看護婦団なんかで現地徴集されてるわけです。そのおじいさん、おばあさんがですね、もしや自分の息子と違うやろかと思って、こんなね、身体は白骨化してしまってんのに、顔だけは、その、水についたのを、それをずーっとね、顔をね、手を出してね、あの、自分の子供と違うかと見たりしてるんですよね。ああいうことを見るとね、本当に、もう・・・どない言いますかね、今だに考えて、もう涙が出ますよ。・・・で、これはね、私も、私らの部隊の一部分がね、サイパンに行ってるんです。そんで、サイパンに二回ほど遺族の人を連れて慰霊巡拝に行きましたけどね、サイパンの話なんかも聞きましてもね、あんだけの、もう小さい島で何されてるんでね、日本の、その、軍がですね、あの邦人なんかを、いわゆる・・・もう、その・・・どない言いますか。あの、非戦闘員だから、あの、何をして、あの、助けてもらうようにっていうことで交渉したらいいんだと思うんだけど、まあそれは、そん時に軍がそういう、あの、交渉しても、ひょっとしたら邦人そのものが、そんなあの、わざわざ何や、その、、、なって、米軍に投降するってことを、あの、承諾したかどうかはわかりませんけどね。話を聞きましたらね、本当に酷いもんですよね。あの、サイパンのあの、多くの婦人が皆、絶壁から身を投げたっていう話を聞くでしょ? 私もそこまで行ってきましたけどね、こんなとこでね、皆さんね、どんどん、どんどん海へ飛び込んだっていう話を聞いてね、なんと戦争っていうのは酷いことをするもんだなぁと思ってね、これ軍司令官あたりは、あの、もう少し非戦闘員に対する、沖縄でもそうですけどね、あの、戦争に巻き込まないようなあれをしないことには嘘だろうと思うんですよね。

で、私はね、若い時、若い時というか学生時代の時にね、その当時戦前の話ですけどね。あの、山中峯太郎っていう、あの、作家がおってですね。この人が「日ソもし戦わば」「日米もし戦わば」っていう、そういうよくその、本をですね、「少年倶楽部」とかなんとかに、書いとられた。で、それをね、ま、そのとき私は「少年倶楽部」をずっと読んでましたけど。その時にいわゆるヨーロッパあたりの戦争についてはですね、あの、今の私私が言ったような、あの、いわゆる兵隊でない、あの、一般市民はなるべく戦争に巻き込まないような、ことをしてますし、それから、もし戦闘員でも、あの、全く勝ち目のない、その、まぁいうたら、敵に包囲されてしまって、もう全滅するしか仕方がないっていう状況になったら潔く投降をしてですね、捕虜になって。それで捕虜になって、敵の収容所に入ったらですね、今度は殺されない範囲に騒いで、収容所の中で暴動を起こしてですね、それで少しでも敵の収容所が騒ぐから、そこを鎮圧せんといかんから、兵隊を、戦闘員をそちらに振り向けんといかんでしょう。そうすると実際に戦闘する人員が減るからてんで、もう勝ち目のない、全然見込みがないときは、潔く投降して収容所に入ってそういうことをする、ということを読んだりしてましたからね。東條(英機)さんの「戦陣訓」を読んでですね、日本の、まぁ昔から、「玉砕、玉砕」て言いますけどね、そりゃ少し疑問に思ってたんですよね。そういう、いわゆる、その、何がありますから。特にフィリピンやサイパンあたりでの、あの、なにを、その、非戦闘員が、ああいう酷い何をされるっていうことについてはですね、その時分でも疑問に持っておりましたですね。

非戦闘員たち

そりゃぁ山の中に入りましてね、あの、おじいさんおばあさんがおって。おばあさんが、その寝たきりになってね、おじいさんが自分の5つか6つの男のお孫さんを連れてね、おりましてね。ほんで、おじいさんが、「あの、すまんけど兵隊さん、その、孫を連れて、あの、行ってくれんだろうか」て言うわけね・・・。「私はもうおばあさんが動けなくなってきてるからね。おばあさんを看てやらんといけんから、もう子供まで、孫まで見るわけにはいかんから。孫をここで、ころ・・・死なすんは忍びないから、兵隊さん、孫を連れてってくれんか」てね、言われたんですね。それは一人じゃないんですよ。あちこちでそういう話があるんですけどね。だけどその時分は自分の身体を一つ動かすだけでも、それこそ、もぅ、一歩、二歩、歩くだけでどんだけ力がいるかわからん。もう本当にね・・・骨と皮だけですね。目だけが・・・ギョロ、ギョロとしとるだけ。もう人間がね食べもんがなくってね、最後になってきましたらね、そりゃぁ、もう、一歩二歩歩くのが、どんだけ強いかっていうことはね 、そりゃもう経験したもんじゃないとわからんと思うんですけどね。そういう・・・まぁいわゆる、兵隊でない、非戦闘員に対するね、思いやりっていうのが全くないんですよね。

だから、ヨーロッパあたりの人は昔から陸続きだし、昔から何回も戦争してるでしょ。百年戦争だとかね、なんとか戦争がってやってますから、そういう点で・・・あのぅ、戦争は同じ負けても、勝ったり負けたりしても、負け方とか勝ち方っていうのが・・・あのぅ、なんと言いますか・・・あのぅ、うまいことコントロールできてるわけですよね。日本も、そういう時分のあれを心得ておけば良かったんでしょうけど。そりゃ日本のあれ(トップ?)が悪いんですよね。

で、さっきも言いますように、山中峯太郎の本を読んでましたらね、開戦前に、あの、ヨーロッパとかアメリカあたりの駐在武官って、昔は皆大使館には、あの、軍隊が、軍人が、駐在武官で赴任しているわけですね。ほんで、そのヨーロッパとかアメリカに赴任した駐在武官が、十人が十人とも「絶対アメリカやイギリスと戦争したらあかん」と進言してるわけですね。それやのに、そのドイツと、ヒトラーのいるドイツと同盟して、東條が開戦したっていうのがね・・・それは全く、もう・・・どない言いますかね、その時分の、軍の、大きな間違いだったと思うんです。特に、まぁ東條さんのあれが、非常にまぁ、罪が大きいと思うんですよね。だから、私も今、東條が靖国神社に祀られているからっていうんで、東京に行きましても靖国神社はなるべく行かないように、千鳥ヶ淵の、あの国立墓地の方にはお参りするんですけどね。まぁ何かの会合なんかで、もう部隊として、あの、会として、もう靖国神社に参ると言われたら「俺だけ参らん」とはいかんから行きますけどね。あの、自分だけで、まぁ東京で、このところはもうしばらく行きませんけど、この前に仕事で東京に参る時に行きましたけどね、千鳥ヶ淵には参りましたけど、靖国神社には参ってないんですよ。・・・で、靖国神社は東條を祀ってる以外にも、靖国神社の、あの遊就館なんか見ますと、もぅ戦争を美化するでしょう。あんなものはねぇ・・・(ため息混じりの笑い)もうめちゃくちゃですよね。

飢餓と食料自給率

・・(少し沈黙)・・・まぁ、さっき言いますように、そりゃぁもう人間っていうものは、そりゃもう食料がなくなってきて、飢餓なってきましたらね、どんなことをするかわかりませんからね。もうこういうときは声を大きくしてね、今の政治家にね、言っていかんといけんと思うんですよね。・・・まぁ今のこの時代、金さえ出せば世界各国からなんでも入ってくるようになるわけですけども、やはり、万が一っていうことはありますからね。食料の自給率だけは、最低でも75%くらいの・・・75%と言いましたらね、あの、少し腹が減って、あの、減ったなぁていうことで、まだ辛抱できると思うんですよ。ところがもう50%になってきたら、こりゃもう辛抱できませんよね。今の39%なんて、いうような自給率なんていいましたらね、それこそ殺し合いが始まりますよ。・・・まぁ、この点だけはね、なんとか、まぁ、あの・・・政治家がよく考えて、あれ(対策?)してもらわないと。・・・まぁ国を守るとかなんとかねぇ、今の兵器だとかなんとかって言いますけど、そんなことよりは・・・ふふふふ(笑い)、もう、昔から言うでしょう。「腹が減っては戦にならない」っていうね。本当にそうですからね。

バレテ峠の戦い

(聞き手)「バレテ峠での戦闘っていうのは、何年ですか?何年何月ですか?」

あのね、バレテ峠って・・・うーん、今の鉄兵団が守るのはプンカンから始まりましてね、バレテ峠に対してはですね、プンカンの方は2月の初めの頃から戦闘が始まったわけですね。それから私たちのバレテ峠の、あの、私らの砲の砲撃は3月10日から始まったんです。3月10日から始まって、5月の、おー・・・にじゅう、27〜28日頃まで、戦闘したわけです。その時分、27〜28日頃に、私らの中隊の砲が一門にですね、敵の砲撃を受けて、爆撃を受けて、一部破損したんでね、アリタオの方へ下げてましたんです。

で、アリタオの方に下げて、「修理ができたから取りに来い」て言うんで、アリタオまで行って持って帰ってきよったと思いますけど、もうその時分は、バレテ峠の方も、もう末期状況でですね、峠までとてもじゃないが持ってあげられないというので、ボネという場所でですね、これはバレテ峠から手前へ約・・・なんぼ・・・10㎞くらい手前ですかね、あの、北の方です。で、そこで、もう、移動砲列といっても、皆さんに言ってもわからないでしょうけどね、普通の、その、爆撃とかなんとかで、峠でやるときには、壕を掘って砲を隠して、そして射撃するときだけ砲を前に出して射撃して、終わるとすぐ中に入れるわけですね。で、そういうような、もう、壕を掘るだけの余裕はないわけですね。ですから、道路上に砲を置いて、ほんで移動させながら、敵の砲爆撃とかそういうものを避けながらですね、まぁ空襲を避(よ)けるためには、その辺の木の下にですね、砲を隠して、ほんで、また撃つ時には道路に挙げて移動して、撃ってたんです。まぁそういうなにをしていたわけです。

それが、え〜、6月ね・・・2日か3日頃まで、その・・・やってたわけです。それが私らの四中隊の、あの・・・サワラ隊っていうね。もう最後に残っていた一門が、それやったんですね。だから私らとすれば5月の・・・あ、6月の2日か3日で、砲がもう全部なくなって、もう野砲としての役目は終了したわけですね。ですけど、まぁ、今度は、野砲はね、あの、歩兵は皆兵一人に銃一丁を持ってますよね。で、砲兵っていうのは砲は大砲で・・・大砲で、これが兵器ですからね。えぇっと、人員の3分の1に一丁くらいの割合しか小銃を持ってなかったんです。で、その小銃を持って、後方へ下がって、あの、敵と交戦したわけですけどね。だけど、その、銃が3人に1つ、1台くらいしか、1丁くらいしかないわけですからね。ですから、もう、あの、それからあと戦闘すると言いましても、もう全く・・・あのぅ、どう言いますか・・・あの、敵のその、ゲリラがやって来たときに「こちらにまだ兵器があるぞ」ていうことを知らせるための、ポンポンと撃つぐらいなことであってね。その、撃って敵を殺傷してどうこう、というようなとこまでは、もういかなかったんですね。第一、もうその銃を一丁持ってヨロヨロヨロ歩くのが精一杯の時ですからね。でも・・・私は先も言いました、初年兵ですからね、一番、その、昭和19年に入隊して、私らの後から誰も入って来なかったわけですからね、最後まで初年兵ですからね。とにかく、あの、しんどい目するのは初年兵ですからね。ですからヨロヨロしながらでも小銃を持って歩いてました。三八式の小銃って重いもんなんですよ。それがね、もう、やはりね、銃を持ってるとね、心強いんですよね。いつ敵が、その、ゲリラが襲って来ても、こちらで応戦するだけの兵器があるっていうことはね、心強いですからね。それこそもう、あのぉ〜なんですか。もう、あの・・・手銃弾を2発持って、こっち(腰に手を当てながら)に下げてるんですよ。これは敵と遭遇した時にね、その、なにされたらいけませんから。また自決する時には手榴弾がどうしてもいるから、手榴弾の二発っていうのは。あの手榴弾っていうのはね、なんぼありますかね、目方(重さ)が・・・・・・1つ、300g・・・500gもなかったと思いますけどね。これも重いんですよ。それももう食べ物がなくってヨロヨロいてるときにはね。それでも絶対にはずせなかったですよね。だからさっきの小銃もですね、小銃はもっともっと重いんですけどね。そういうものを持って、後方でやりましたけどね。・・・もう、あの、ですから、6月の3日か4日以降は、私らとすれば組織だった戦闘はほとんど経験がないんです。もう敵のゲリラに対する、あの、なんですか、抵抗をするために何発か撃ったということだけですね。

砲撃戦

(聞き手)バレテ峠では砲撃戦をやられたんですか?

砲撃戦です。

(聞き手)じゃあ要するに米軍の方も野砲で応戦していたんですか?

米軍の方はね、砲よりね、やはり最大のなに(攻撃)は空襲です。あの・・・そうですね、えー・・・朝、だいたいね、6機、6機かね10機くらいですね。ほんで午前中2回来るんです。それから午後になりましたらね、え〜・・・あの、いわゆる爆撃機ですね、あのコンソリデーデッド(B)24っていうやつですね。あのあたりが500㎏爆弾を持って来て落とすわけですね。で、地形的にはね、あの、5号国道っていう、(地図で指を刺しながら)この国道なんですよね。これがいわゆる昔の、あの、ルソン島を縦断する、あの、車が通れる国道というのはこれしかなかったわけです。だからこれが最重要地点だったです。

(バレテ峠は)その一番の峠の頂上ですからね。全く、最重要地点なんですよ、戦闘する場所のね。ですから、あの、敵の、そこへは・・・まぁこれはもう軍の専門家が、その、地形を見ると、どこに砲を据えて、なんやする、防御するのはどこが一番効果的かっていうのは、これは敵も味方もないんです。軍人である以上は誰でも、それがわかるわけですよね。ですから、この私らの、あのぅ、陣地におる、そこのところが、最重要地点であるっていうことは向こう(米軍)も分かっていますし、こちらも分かっていますから、そこで布陣したわけですけども。その、向こう(米軍)がわかっているだけにね、それこそ執拗に撃ってくるんです。で、おまけにね、制空権がありませんからね、あの、観測機っていうのが一日中頭の上を飛んでいるんです。観測機ってご存知ですか?宣伝用の飛行機があるでしょう?この辺に飛んでるでしょう。あれと同じ軽飛行機。これがですね、ずぅ〜っと朝も夜が明けるとやって来てですね、それで日本軍の行動を監視してるわけですよね。で、人間一人動くのを見てもですね、すぐ無線で知らすでしょう。そしたらそこへ集中的なあれが、あの、攻撃が、砲爆撃が来るわけですよ。ですからね、もう、その、どない言いますか。もう、煙一つも立てられないんです。炊事するときは夜しかできない。日が暮れてからでないと。だけど、あの、敵に向かった方面で火が炊いてたら、煙が見えなくても、火が見えますわね。だから火を見せないように物陰に隠れてやるし。で、私らの場合は壕の中でそれをやりますからね、そりゃもう、炊事するのも大変でしたし。それから、もう一つ、あの、あれ、あの・・・水がなくって。峠の上ですから。

たまたま私が、私の生まれが岡山の倉敷なんですよね。で、子供の時に、小学校のときにね、確か高学年5年生の時でしたか、6年生の時にね。あの、今の岡山のね、今は玉野ってなってますけど、昔は玉、玉と言って。玉っていう町でね。そこに三井造船の造船所があったんです。で、そこの造船、新造船を、あの、進水式があるっていうんでね、学校から見学に行ったことがあるんですね。

現地に届かない兵隊、物資

で、その船がね、有馬山丸という名前だったんですよ。それは(台湾の)高雄からマニラに行く時に乗った船がたまたま有馬山丸やったんですね。ほいで私ね、あの、そこの船員さんにね、「この船が進水したときに私見学に、小学校の時に見学に行ったんです」て言うたらね、「わぁ、それは珍しいなぁ」て言うて、で、「その進水した当時からこの船に乗ってる人をいっぺん、喜ぶからあんたを連れて行って話をするわ」と。で、その船員さんがね、連れてってくれたんがね・・・一等航海士か二等航海士やったと思うんですけどね、その人がね、後からね、「兵隊さんなぁ、大きい声では言えませんけどね、今この日本からね、外地へね、送り出す船のね、半分!向こうへ着いたら”大成功”ですよ」て言った。半分以上がもう撃沈されてるんですね。

・・・ですからもちろん、食料も武器弾薬も半分以下しか着いてないわけですよね。で、そういうことが、あの、大本営のなに(トップ)は分かっているはずですよね?それやのにですね、内地では、まだ、あの、なんでしょ、女学生にでも竹槍で、へへへ(笑い)、敵を、竹槍で突けとかね、なんでか、その、訓練されたとかね。それから私の家内なんかでも女学校時代に、あれ(妻)も倉敷ですからね、その時分に三菱(製作所)のね、飛行機工場が、今の水島っていうところにあったわけですね。それにもう学校で授業なんかしなくって、勤労奉仕で毎日飛行場へあれ(行か)されてるわけですね。まぁその、「総力戦」と言えばね、聞こえはいいですけどね、考えてみるとね、あんな馬鹿げたねぇ、ふふふ(笑い)。飛行機から原爆でも落とそうっていうような相手に対して、竹槍でどうこうっていうような、そういうような何(戦い)をする・・・大本営の参謀の頭が知れんとるわけですよね。へへへ(笑い)。もう少しサイパンあたりが、もぅ落ちた時に・・・いや、もうほとんど勝ち目が無いわけですからね。あの時分にあれすれば、よかったわけですよね、降伏すればよかったんですけどね。

太平洋戦争最大規模のフィリピン

50万人以上死んでるんでしょ。・・・私の、今さっき言いましたとおり、一番上の兄貴なんかでもね、子供3人おって、4番目の子供がまだ母親の腹の中におるときに召集で行って、ほんで戦死してるんですよね。・・・もぅ、とにかく、もぅめちゃくちゃななんですよね・・・あのぅ・・・戦争ですよ、考えてみるとね。

この人なんかはね、お互いに戦友仲間で、もう死んで、あの、なに、ウジに食われるよりは、「俺が死んだら、俺の肉を食って生きて帰ってくれ」と。で、「もしお前が死んだらお前の肉を俺が食って生きて帰る」というような戦友仲間でお互いにそういう話をし合って、帰ってきたっていうんですね。で、あの、結局・・・あの、どない言いますか。あの・・・生きるのが、生きて帰るのが最高の道徳だ、と。だから、その、戦友の肉を食って生きて帰って来てもね、少しも恥とは思わん、て書いてる。私もそう思いますよ。あなた方は覚えてないでしょうけどね、戦争済んでね・・・これは・・・10年くらい後か。

(聞き手)「ひかりごけ?」

いや、あの、南米のね、今のコロンビアかどっかでね、その時分の飛行機がジャングルに墜落してね。山の上にね。

(聞き手)ああ、映画でありますね。

それでその時にね、結局救出が非常に遅れたわけですね。で、生きた人がですね、その、飛行機の何(墜落)で、その時に死んだんじゃなくて、救出が遅れてジャングルのずっと山の中ですからね、食べるものがなくてね。で、死んだ人の肉を食べてるわけです。で、殺して食べたわけじゃないですよ。死んだ人の肉を食べて。で、何人かが生きたわけですね。それに対してですね、誰も非難できなかったわけです。これと同じことなんですよ。「生きるのが最高の道徳だ」と書いてある。

(聞き手)花岡さんは実際にそういう現場は見られたんですか?

え?

(聞き手)そういう現場は見られたんですか?

現場は無いですけど、何を、お尻の肉をえぐられてるやつを見たことがあります。・・・だけどそれは、見たところでね、別に不思議に思わなかったですね。

ところがね、戦争が済んで収容所に入った場合にね、これはね、アメリカ軍っていうのはね、非常にね、あの、その点よく考えてますよ。あの、戦争中に自発的に投降した人がおるわけですよね。あの、どない言いますか。怪我して友軍に見捨てられて、それで後からアメリカ兵がやってきて、その壕の中でその人を見つけて。まぁ倒れてるんでね。重症とかそんな人。で、そういうかたちでアメリカ軍に収容されて捕虜になった人は、これは論外です。そうでなくって、自発的にもう戦争はやめてアメリカ軍に投降した人がおるでしょう。で、そういう人を含めてで、終戦になってね、収容所にね、日本兵をたくさんずっと入れるでしょ。そうしましたらね、あの、部隊を一つにしてるとね団結したりして反抗したりしたらいかんということでね、もぅあっちこっちにバラバラにした。そうすると、その、早く戦争前に投降した人も、戦争後に、いわゆる終戦の詔勅によって、あの、武装解除を受けた人とね、区別ができないようにバラバラにしてるわけです。これはアメリカ兵はよく考えてますよ。それでなかったら、帰ってきてから「あいつは先に敵前逃亡した」とかいうようなかたちでね、究明されるでしょ。それを防がすために、そういうことをさせた。ちゃんとこう、そうしてるんですよね。だから、そういう点ではね、アメリカ兵はよほどよく考えて、同じ????をしてるんだな、と思ってるんですよね

恐らく日本の軍隊なんかだったら、逆に、あの、日本が仮に立場が逆だったらね、恐らく前もって投降したやつらは、コイツらはいわゆる、職場放棄したからってんで、それは差別しただろうと思んです。アメリカはそれが逆だったんですね。だから、日本に対する、日本の国民性とか、そういったことをね、非常によく研究してたわけですよね。だからマッカーサーは天皇制を維持するって言うのは、日本を統治するためには天皇制を維持しとくのが一番統治しやすいっていう、あれが、算盤が動いたと思うんですよね。だから、よく日本を研究してるってわけです。ところが日本は逆だったわけですね。もう敵性語だって言って、私ら学生時分にね、英語なんて授業なんて言うたら英語の授業が皆教練ばっかし。あれでしからね。だから今だに横文字はさっぱり分かりません。ははは(笑い)。だから、横文字アレルギーで、新聞とか雑誌・・・

鳥取の63連隊っていう歩兵連隊でね。これがまぁ一応主役なんですね。で、砲兵っていうのは、なにに付属したもんですから。63連隊の方のバレテ会っていうのは、今だに活発に戦友会まだやってます。

(聞き手)お知り合いとかいます?

ーーーおります。でもね、もうかなり、年老い・・・

(聞き手)63連隊?

ーーーええ、歩兵63連隊。

(聞き手)どこですか?駐屯。

ーーー鳥取です。

(聞き手)鳥取・・・

ーーーええ。

(聞き手)フロント・・・前線はその、鳥取歩兵63連隊が前線で壕を掘っていて

ーーー歩兵の主力ですから

(聞き手)そうですよね。で・・・

ーーーで、プンカンっていうところは、これは岡山歩兵10連隊、私の兄貴がそれへ、あの、したわけですね。で、歩兵の10連隊は、その、プンカンで(戦闘を)しましたからね。あの、早く(昭和)20年の2月の末にはほとんど全滅しとるわけですね。

(聞き手)あと、20年の3月10日から5月まで、その、戦闘の焦点がバレテ峠にあったと思いますけれど、弾薬だとか、そういうのは来てたんですか?

ーーーいや、後方にですね、あの、弾薬庫があって、糧秣庫とかそんなんがあって、3月の・・・4月の中頃までは、まだ、あの、細々ながら、あの、糧秣なんか来たわけです。あの、モミをね、脱穀してないモミですよ。モミがね、片手に一杯が1日の食料なんです。で、これを鉄棒でですね、これをついてモミを、いわゆる精米せんといかんのですよね。ですから、モミですから、こんな鉄帽だとかね(鉄兜に籾を入れてそれをつく)、あの、一升瓶なんかに入れてこう搗(つ)くていうんやけど。一升瓶なんかその時分ね、私ら兵隊なんか持っておりませんから。鉄帽でね、ついて、それで、あの、それが、一握りのモミが1日の食料ですから、とても足りっこないでしょう。だから、その辺の草を取ってきて、草と一緒に炊いて食べてたわけです。それが、もう5月の中頃になってくると、それが途切れてしまったわけですね。だからあとはもう、自分で食べるもんを探さんといかんわけで。

(聞き手)撃つ弾はあったんですか?弾薬は。

ーーーえ?

(聞き手)弾薬はあったんですか?

ーーー弾薬はもう、何から、満州から持って来たとき以外の弾薬はもう無いわけですから。ですから終いには、戦う、撃つ弾がなくなってしまったわけですね。

(聞き手)1日数発とか、そういうレベルですか?

ーーーえ?

(聞き手)1日何発か撃つだけですか?

ーーーあのね、えーっとね、朝、まだ日本軍は大砲は持っている、撃つだけの弾は持ってぞっていうのを、敵に知らしめるために、さっき言いましたように、観測機が来る前に、夜が明けるか明けないかくらいのときに、2〜3発ポンポンと撃つわけです。ほれから夕方観測機が引き上げたら、また砲を出して2〜3発撃つってわけですね。で、これはもう、こちらの方にまだ砲があるぞっていう敵に知らしめるために撃つわけですから、別にはっきりした目標を設定して撃つんじゃないんです。もう終いにはそんなような状態でしたですね。始めの時点は、もちろん観測所っていうのが、あの砲っていうのはね、まぁ皆さんに言ってわかるかどうかわかりませんけど、あの、直接敵を見て、見ながらそれを狙って撃つんじゃなくってですね。遠くのぶんでしょう?ですから、まぁ仮にこれがその敵の陣地であるとしますよね。そうするとね、私らの砲がここにあるとしますよね。で、ここにこう、山とかなんとかあるんですね。直接見えないわけです。ですから観測所って言うのがありましてね。これとこれとの、その、横の方にですね、敵も見えるし、だからこっちの方も見えるっていう、ちょっと小高いような山とかそういうところへね、観測所っていうのを作るわけです。で、それが、こことこことここの三角法で。で、あの、この高さですね、高低があるわけです。その、敵の方のおるところが、海抜5m、それから砲があるところ海抜15mとすると、こっちが高いわけでしょ。で、そういうことも含めて、三角法で、角度がなんぼで、高低がなんぼで、ていうことで連絡して指令が来るわけです。で、それに基づいて、砲をそこの敵の方に向けてですね、それでその指令によって撃つわけです。だからここに障害物があっても構わないわけです。障害物や山超えて撃つわけですから。ところがね、終いになってきたらね、この観測所がやられてしまってね、敵がどこにおるかわからないわけです。ですから、ただ、日本軍がまだ砲を持ってるぞということを敵に知らしめるために、目標なしに、2〜3発ずつ撃ってやってたわけですね。

(聞き手)じゃあ米軍は午前中、もう日課のように爆弾を落としに来て・・・来るわけですか?

ーーーと、その時には砲を壕へ入れてしまってますから。だけど、その、どう言いますか。私らがいた時にはね、19年の12月に、あの、マニラに上陸したでしょう。それでバレテ峠へ布陣したのが、1月の9日か10日頃なんですよね。で、敵がもうその時分にはリンガエンに上陸したでしょう。本格的な大砲を入れるような大きな壕を掘るなんて言うてもですね、そんだけの機具も何も無いわけでしょう。はじめは工兵隊が半分くらい掘っててくれてましたけどね、工兵隊もあっちこっち、何せんといけませんからね。その砲をやっとこさ入れるだけの深さしか掘ってなかったから、自分らで、あの、ツルハシのね、なんぼ?ツルハシが2〜3丁ですか。エンピが4〜5丁、何もそんなトンネルを掘る技術なんて何も無いもんが掘っていって、やったわけですから。そりゃもうお粗末なもので。後ろへ抜けてないから前を塞がれたらそれっきり。生き埋めになってしまう。で、現に、私らの隣の二分隊っていうのは、敵の爆撃の直撃を受けて、壕を潰されてしまって全滅しました。

・・・それでね、さっき言いますけどね、あの、峠の上ですからね、水が無いんですよね。はじめはね、共同、これにありますね、これはね、スペインが初めフィリピンを統治していたでしょう。で、アメリカがスペインと戦って、アメリカが勝って。そのスペインとアメリカが戦った時のですね、バレテ峠の頂上にドライブインがあったわけです。まぁ宿屋ですね、昔の。そこのね、ドライブインの、まぁホテルですね。そこがね、水道を持っていたわけです。で、私らの峠の山のところの反対側の方の高い山の面にね、水源地があったらしいですね。そこから水道を引いてるわけです。ですからこのホテルのね、この、峠のところの頂上に、これがあって、私らは、その峠の頂上に壕を掘っておりましたからね。ここのところまではね、4月の・・・4月の初めころまでにはですね

アメリカ軍の日課のような攻撃

さっき言いましたようにですね、昼間は観測が何して(飛んで)ますからね。ですから夜日が暮れて行くわけですけどね。だんだん、だんだん、それが、あの、難しくなってきて、終いにはね、一つ谷を隔ててね、向かい側の山にはね、もうアメリカ兵が幕舎を作ってね、夜になるとね、大きなスピーカーでね、音楽流してね、あの、歌をうたってんですよね。それこそまるで、ふふふふ(笑い)、赤ん坊と大人が戦争するようなもんでしょう。ほれでね、アメリカ兵というのはね、あの、狙撃が上手いんですよね。まぁ、今、おたくらは西部劇なんかで観られるとおりね、本当にね、狙撃が上手いんですよね。あの、昼間はね、その、もう、渇きに耐えかねてね、昼間は絶対に、その、出て行って、その、水を汲みに行ってはいかんていうことになってるんですけど、渇きに耐えかねて、行く人間がおるわけですよね。そうするとね、パンパンパァン!てね、その、敵の小銃の音がするわけですね。「あ、また誰か降り行ってやったな」てね。で、日が暮れて行ったら・・・やられてるんですね。だからね、アメリカの、あの、狙撃っていうものは、そりゃなかなか、あの、上手いもんですよ。ふふふふ(笑い)。だから、水が、食べ物がない。それから水がなかなか無いっていうことでね。ほいでその水も、本当は、生水は絶対飲んだらいかん、ていうことになってんですよね。あの、大腸菌とか、なんとかがね、多いって言うのでね。それがね、あの、さっき言いましたとおり、その辺の水があるところには、みんなもう死体がゴロゴロ落ちてるわけでしょ。

・・・で、そのままで、流れるやつ(水)を飲むわけですからね。そりゃもう、言ったら(水質が)悪いのが決まりきっているわけですよ。ですから、その、あの、水を、あの、生水を飲んだらいかんということやからね、さっき炊事をするときに、あの、片手にいっぱいの籾を何でついて、鉄帽でついて、精米して、それと一緒にその辺の取ってきた草を一緒にして雑炊みたいにして、食べるわけでしょう。その、それを炊くっていうのは飯盒ってやつですね。ご承知のとおりね。で、この飯盒っていうのは、もう各人が一つずつ持っているわけですね。で、敵に、その、見られたらいけませんから、壕の中で炊くんですけどね、その水を先に沸かさんといかんわけですよね。で、米を炊く前の飯盒を、空の飯盒にその水を入れて、あの、お湯を沸かして、で、それを水筒に詰めて、その後に、その、お米を入れて雑炊にして食べるわけです。そしたらね、水筒いっぱいの水ではね。特にね、マラリアなんか出ている時にね。もう、マラリアってご存知か知りませんけどね、初めはものすごく、あの、出る前にはですね、熱が出る前にはものすごく寒くなるんですよ。ガタガタガタガタってね。それが3時間くらい続いて。で、それが済んだら今度はカーッと熱くなってくるんですね。で、熱くなってくると、もう喉がカラカラになるわけですよね。で、水筒いっぱいくらいの水は、もう半日持たないわけですね。で、夜まで待てれないから、絶対昼間行ったらいかんっていうやつを、飲みに行くわけですね。水、汲みに行くわけ。(そうし)たら、狙撃されるわけ。そういう悪循環がずっと続くわけですね。だからね、あの、食べ物が無いっていうのもつらいし、水が無いっていうのもつらいわけですよね。だから終いには、まぁ汚い話ですけど、まぁ飲むまではしませんけど、もう、口の中潤すために自分のシッコを飲みます。・・・そういう、何を経験してきてますから。ふふふふ(笑い)。・・・だから食べ物が無いっていうことが如何につらいか、あの、水が無いのはいかにつらいかっていうことはね、一番よくわかるわけですね。ただ、幸いなことに日本は水のことについてはそんなに心配することは無いと思うんですけどね、もう、食べ物の、食糧の無いっていうことが、もし現実にこれから日本で起こるとすると、そりゃ今のようなこんだけ荒れ果てた、人間の、あの、人心でしたらね、それこそ、お互いに、あの、今の暴力団が、まぁ今以上に勢力を、ふふふふ(笑い)、伸ばして何をするかわかりませんよ。

アメリカ戦車との戦闘

(聞き手)あの、まぁ、なんだっけ、バレテ峠が終わった後に砲をジジュ?するためにボネに後退というか北上されていらっしゃるんですけど、ボネの方の、その、戦闘の様子っていったらどんな体験なんですか?

ボネはね、さっき言いましたとおり、戦車撃滅隊っていう何がおりましてね、これがね、あの、道の両側にね、あの、紐で爆雷っていうやつをね、作って。で、戦車が来たら、その、キャタピラーに、その、爆雷を踏まして、爆破さすってわけですね。ところがアメリカはね、他の戦場でそういうことを経験してますからね、もう、ボネに来たっていうのが、あの、えーっと、5月・・・6月の初め頃でしょう。もうその時分には、そういう、その、例をあっちこっちの戦場で知ってますからね。

もう道路の両側の方にね、戦車が来てですね、ボン!ボン!と20メートル、30メートル先の、その、草の茂みだとか木のあるとこに、ボンボン!ボンボン!弾撃って・・・いや、20メートル、30メートルやない。100メートルか200メートル先の、そういうとこにね、弾を撃ってくるわけですね。それが近づいて行って、20〜30メートルなってきたら道の両側に火炎放射器でバーッと、あの・・・何を、火を放つわけです。そうするとタコツボふって、掘ってるとこに、頭から火がついた油が来ますから、皆焼け死ぬでしょ。そいで飛び出るでしょ。その、壕から。ったら、ボンボンボンッてやられるわけ。ですから、戦車撃滅隊がですね、実際に、あの、敵の戦車をなんぼかその、あの、撃破したってのはね、あの、撃滅隊の先方、先方っていってもね、せいぜい3両くらい、じゃないですか?・・・それで、6月の5日には、あの、(地図を出す)・・・これが私らの、この枠でくんでるところが鉄兵団が守ってたとこなんですけどね。ね、これが・・・うーん・・・アリタオってどっか?さっき・・・あ、これや。(別の地図を出す)・・・これバレテ峠ですね。ほんで、アリタオ。ほんでボネっていうのは、この、ヤンギランって、このこれ、南ボネと書いとるでしょ。ここのことなんですよね。で、ここに6月5日に敵がここまで来ているわけです。で、バレテ峠は、もう、5月の28日くらいに、あの、このバレテ峠突破されてるわけです。ですから、こっから(バレテ峠から)ここ(ボネ)まで間がね、1週間ほどですよね。この間、やはり、あの、我々の、あの63連隊の何が抵抗して、ここまで、アリタオの、6月5日までやから、ここ(バレテ峠)を突破して、えーっと、23・・・えー、1週間ちょっとですか。これ、まぁある程度抵抗してたわけですけどね。すごくもう戦車撃滅隊がおったとこでほとんど、さっき言うように、あの、敵の戦車を3台・・・3両くらいは撃破したらしいけど、もうそんなもの、あの、米軍からしたら、あの、「大したことがない」ていうことでですね。で、こっからここまでは一車線で、・・・もうここ、ここから、うーん、ここ、サンホセからですね、このバレテ峠突破するまで、これ2月の初めから5月の末まで、ここを突破するのにそんだけ手間がかかってるわけですね。だから如何に鉄兵団がよくここを守ったかっていうことがわかるわけ。こっからあとは一車線でバーッと、あの、いってしまって。ここの、うーん、バガバッグ、ここ辺りまで。こっから(アリタオから)ここ(バガバッグ)まで、ほとんど4〜5日で来てしまってるんですよね。ほとんど抵抗らしい抵抗は日本はほとんどしてない。できるだけの、もう、軍備が無かった、無かったわけですよね。で、私なんかは、もうここのボネからですね、あの、ここまで来て、で、命令がですね、私らの砲が一門、このオリオン峠に、あの、私らの連隊の10中隊とこの中隊の砲がここに一門残ってたわけです。この、ずっとこちらの、ここへ上陸してね、あの、僕の何が、ここにありますね、江ノ島丸っていうのがね、この辺りに上陸する予定が、アパリっていうのが、あの、このルソン島の一番北の大きな港町なんですね。で、これは非常に港町で、あの、この、いわゆるその、クレーンとか何とか揃ってますからね。だからここに上陸すると、あの、早く、その、大砲とか弾薬なんかは上陸するのに良かったんですけど、ここが空襲でやられてしまったために、こんなとこへ上がってった。で、これは港が無いわけですから、沖合の方に泊まって、ほんで小さい船でこの、何を、砲を、あの弾薬をやって(運んで)ますからね。砲をずっとここへ持って来て、あの、バレテ峠まで来いっていう命令やけど。こんだけのとこをですね、舗装されてない、まぁいわゆる国道とは名がついてますけどね。舗装されてないわけですね。それをちょうど雨の、雨季の状態ですからね、ぬかるみのとこを、あの、人力だけで砲を運んでるんでね。全部ここまで持って来られなかったんで、一門ここのオリオン峠に残してったわけです。そのために私らがこのボネで最後の砲を、その、敵にやられたために、このオリオン峠に砲が一門残っているから、ここに集結せよっていう命令で移動してたんです。

そしたらここの、これが4号国道でこれが5号国道で、これがちょうどバガバッグっていう、ここのとこにね、あの、三叉路があるわけですね。で、ここへとこに行ってましたらね、夜、まぁ夜、っちゅうか歩けないわけです。昼間はその、先言いましたとおり飛行機がずぅっと観測所が、観測機が見てますからね。夜歩いてましたらね、ちょうどこの日あたりからね、ものすごく、あの、雨季になってたんですよね。そのためにね、毎晩雨が降るわけです。で、雨が降ってね、あの、自動車のタイヤをね、切ってね、ほんで、それを燃やして松明代わりにしてね、ずっと入ってって。ほんならここ、バガバッグの三叉路まで来るとね、憲兵がね、あの・・・10名くらいの、その、兵隊を何してね、あの、皆通る国道をずっと、あの、後方へ下がっている兵隊は皆ね、呼び止めてね、「お前らどこの部隊か?」て色々と聞くわけですね。で、「私ら野砲10連隊の、あの、何です」と。「オリオン峠へ集結を命ぜられてる」ていうことを言うたらね、「鉄兵団は全部キャンガンへ行け」ってわけです。「いや、そんなわけにはいかん」と。「中隊命令でオリオン峠に砲があるからね、ここへ集合せんといかん」と言うたらね、「何を抜かすか」と。「これは方面軍の軍司令部の命令やからっ中隊長の命令なんかよりははるかに」・・・ハハハ(笑)「優先するから、皆キャンガンへ行け」ちゅうわけです。ほんで仕方なしにこっち、キャンガンの方に入ってったわけですけどね。ところがね、私らのね、その、同じ連隊でもね、その、私らの中隊の分だけがね、その、砲が一門あったためにね、このボネで戦闘したからね。そうでない人は皆こちらの方にね、あの、東海岸の方へやらされたわけです。だからこちらの方に行った人間が苦労してんです。

というのがね、ものすごく山でね。こちらの方はまだ少し平地があったためにね、まだ、草とか何とかは、多いかったです。でもこちらの方は山に入ったためにね、ものすごく苦労して、それでここの今何しているように、お互いに「俺が死んだら、俺の肉を食ってくれ」と。ほんで「お前が死んだら、お前の肉を俺食うからな」ていうようなことでね。だからこちらに入った者はものすごく苦労してんですよね。私らは、うまいこと、ここの砲一門あってボネで戦闘したために、こちらのキャンガンの方に入ってこられて、まだこちらも、そりゃ、食べ物はないんですよ。ろくな食べ物も無いんですけど、まだこちらよりは良かったわけだよね。ですから、あまり、その、人の肉を食べたり、どうかってことをしなくって済んだわけですけど。こっち入った人間は相当苦労しているわけです。そんで私らの連隊の主力はこっちに行ってるわけです。で、私らの中隊の者だけ、私らの分だけが何や(別のところに行ってる、生き残ってるというような意味だろうが無理に文字にしなくても)してますからね・・・。

運隊

ま、軍隊ていうのはね、運隊っていうの。運、運ですね。はい。軍隊って運隊っていうんです。もう、運が、運一つであちこち、何されるでしょう。そのようなかたちでね。私たちの砲が一門、もしこのアリタオへ下がっている砲が修理ができなくって、もうこれ無いっとなってくるとここのバレテ峠を撤収した時には、こちらに入って行けっていう命令で、皆こっちへ、鳥取の63連隊なんかは皆こっちに行ってるわけですね。で、私たちの砲が一門あったがために、こちらのキャンガンの方に入ってこれただけに、まだ、その命拾いしているんですね。こっち入ったときには、果たして私も帰っているかどうかわかりませんけどね。

聞き手)一応でも、ボネに行っても砲はあったけれども、ほとんどやっぱり、戦闘らしい戦闘はしてないっていうこと?

ええ、もうその、さっき言うように、敵をですね、直視して、あの、何やする(戦闘する)っていうにはもう(軍備)無いわけですからね。あの、だいたいね、あの、日本の砲っていうのはね、満州でですね、ああいうだだっ広い、あの、平地みたいなとこで戦闘するっていうことを前提にしてるわけで。で、その場合は、砲の持ってる自身の、あの、いわゆる眼鏡(注:照準眼鏡)ですね。それで敵を見ながら、その、戦闘するっていうのが、まぁ主体なわけですね。ところが、あの、山岳地帯でそういうような、壕を、砲を、壕を掘って敵の直接、あの、見、確認できないとこで戦闘するっていうのはね、いわゆる、どない言いますか、あの、本当の、満州で私ら訓練受けたときには、さっき言いますように敵を直視しながら、撃つっていうようなことを主体にやってますからね。あの、ちょっと、あの・・・この戦場する、戦闘する場所の相違が非常に大きいわけですよね。

(聞き手)そのボネから後はもう・・・

もうキャンガンの方へずっと、はい、これはもういわゆる、どない言いますか、敗走ですね。ま、転進っていう名前はいいけど。ハハハハ(笑い)。敗走ですね。でキャンガンの方に入っていってもね、さっき言うように、敵の空襲はありますよ。毎日もう空襲はあるんですけどね。それから、あの、攻撃も時々はありますけどね。もう敵はね、もうバレテ峠を突破したらね、もうあの、このルソン島の戦闘はもう済んだって言われてんですよね。ほんで(アメリカの)大部分の正規軍は皆、日本へ上陸するために撤収して沖縄とかそちらに振り向けてるわけですよね。だいたいね、えぇーっとね、あれ・・・テレビの何を見てましてもね、この、5月の末、バレテ峠を制圧してしまったあとはね、あの、ごく一部の分だけを残して、ほんで後は、あの、フィリピン軍、ゲリラ兵を指揮してですね、それで日本軍を山の方に追い込めて、ほんで、あの、主力は全部もう引き上げているわけです。ほんで日本の、日本への上陸を予期してですね、正規軍はもう全部、後方へ下げとるわけです。

(聞き手)その頃花岡さんはずっと、もう移動と、もう食べ物無くてっていうかんじで?

ええ、もうこのさっき先言いますようにね、このボネのとこあたりまでは、まだ、あの、どない言いますか、バリバリ戦闘できるだけの体力はありました。それから後はもう全然ありませんので。ほんで、さっき言いましたようにね、こちらの方の砲はね、戦闘してない、あの、今の航空隊とか海軍の者とかね、海軍なんかでもこっち入ってきてんですよ。そういう人間がね、早くどんどんどんどん後方へ下がってるわけですよ。だから目ぼしいものは皆、その連中が先、取って食べてしまってるわけですよ。ほんで一番最後まで、いわゆる戦闘をした人間が一番最後に後方へ下がるから、何にも無いってわけですね。で、昔からの、あの、日本の、あの、戦国時代の話でも聞かれたら場合・・・あるでしょう?殿部隊っていうのが一番、いわゆるその、敵の銃撃をですね、防ぎながら味方を早く後方へ下がすために何を(戦闘を)せんといかんわけですよ。それと同じことなんですよね。殿部隊が一番しんどい目をして、ほんで一番食べるもんが無いわけですよ。だから、矛盾してるわけですけどね。ま、これが何と言いましても、ハハハ(笑い)!“運隊”ですよ。フフフ(笑い)。だから私らのね、あの、何で、フィリピンへ行ってね、慰霊祭で一緒になって、ほんで今だに私兄弟みたいにね、仲良くしてる、あの、フィリピンでの戦友がおるんですけどね。これ石川県の七尾におるんですけどね。これ、軍司令部の航空隊の何です(兵隊です)よね。弾一発も小銃一発も撃ったことが無いっちゅうんですよ。フィリピンで。ハハハ(笑い)!で、早くこのエチアゲのこの辺まで行ってるわけですね。だから早く下がってますからね、食べ物なんかでもほとんど苦労してないっていうわけです。・・・フフ、ハハハ(笑い)!こちらの方で、それこそね、もう9割まで戦死してる部隊の人間とですね、こちらの方で、もぅ弾一発も撃ったことがないっていうような、それと同じだけど、どない言いますか。あの、あれですよ。その・・・戦争が済んで、あの、あれしてもですね、待遇が一緒ですよね。・・・今私らは何の、あの、軍人恩給の欠格者なんですよ。

軍人恩給

(聞き手)え、そうなんですか?

欠格。

(聞き手)何でもらえないんですか?

あの、軍人恩給はね、あれ、10年以上か知らん、ないと恩給くれんわけです。ほんで、入隊が遅かったからね、その、人数が、年数が足らないんですよ。

(聞き手)ここってでも、外地で、結構年数加算されるんじゃないんですか?

いや、でもフィリピンはですね、実際に戦闘したのが1年足らずでしょ。

(聞き手)そっか・・・

12月にフィリピに上陸して、ほんで8月の15日に終戦なったわけでしょ。それから後の戦闘なんてゆうのは国家はそんなこと関係無いわけで。15日にもう戦闘済んどんじゃから、もう、それから後は、なんじゃない(関係無い)っていうわけですよね。どっちみち、それにしたとこで、あの、あれ、年数足らないわけですわ。で、私より1年前に入隊した人間も足らないんですよ。ですけどね、あの、5年に1回だけ恩給欠格者に対してはね、何か賞状くれたり、何かするわけですよ、フフフフ(笑い)。でも軍人恩給なんて言いましてもね、年間70万くらいですからね。・・・月6万円くらいっていうようなことを聞いてるんですけどね、まぁそんなもの今になってみると貰おうが貰わまいがね、そんな変わりは無いんですけどね。

あの、全然、あの、私の岡山にね、おる医者の友達なんですね、これは南方の方へ行ってますけどね。島の方でね、あの、警備になってね、これも一発の弾も撃ってないんですよね。だけど年数だけは2年ほど、私らより前に入隊してるからね、軍人恩給貰ってるんです、フフフフ(笑い)。何にもせんでも、何にもしなくってもですね、ただじぃっと持ち場の警備だけでおって、ほんで、そういうことなんですね。まぁ軍隊っていうのはそういうようなもんですよ。

戦闘末期

(聞き手)どなたかご質問あれば・・・

(質問者)キャンガンの後はもうどうなってるんですか?

え?

(質問者)キャンガンに行かれたんですよね?

何を?

(質問者)キャンガンていうところに行かれたんですよ?

はい。

(質問者)その後はどうされたんですか?

いや、もうそのキャンガン・・・何が、終戦になるまでですね、もう、(終戦)までは、とにかく、あの、どないか敵はいつ、ゲリラがですね。いつ送って、襲ってくるか分かりませんからね。ただその備えだけで、もう別にどこで、あの、おって、どこでその、陣地を作ってどうこうせぇっていうことはね、もう、あれ(指示が)無かったんですよ。決まってなかったんで。もうその時分には、もう軍司令部でもね、もうそれこそ、山下閣下でもね、あの、写真でみると皆でっぷり肥えてる。あの時分に私ら見ましたけん。あぁ山下閣下でも痩せてましたからね。食べる物がなかったんでね。だから後から山下閣下なんかの、何が、書いてる人がおったけど、なんか、あの、サツマイモを二切れほど、あの、閣下に差し上げたら「二つも貰ってもいいんか?」ていうようなことを山下奉文が言ったっていうようなね、ことぐらいですからね。

もう食べる物も何もなくってね。もう毎日食べる物を探すのが日課でしたから。ほんで、あの、フィリピンのね、私らが助かったのはね、あの、原住民がね、あの、山のね、あの、落雷して山、山火事が起きますね。そしたらその辺燃えてるでしょ。で、燃えた後にね、サツマイモを植えてるわけです。これは昔、あの日本でも「備荒食」言いましてね、あの、飢饉が起きた時に、お米が取れない時に、その代替としてそのサツマイモを、その、空き地に植えてる、ていう。それと同じことなんですよね。で、それがね、備荒食として植えてるんだけれども、その、まぁ、飢饉が起きないから、もうそのまま、ものすごく増えてですね。もう遠くから見てもね、そういう所が木の色と、それから、その、畑のイモの生い茂っている何が、一目で分かるわけですよ。遠くにね、そういう所があったらね、「あ、シメた!あそこにイモ畑がある!」ていう。「さぁそれを(取りに)行こう」て言うんでね。もう、力を振り絞ってそこまで行くわけですよ。そうしましたらね、全然手付かずの、その、イモ畑が時々あったわけです。で、そういう時にはね、あの、イモの蔓がね、もう何重にもこないしてね(重なっている)、土を出したらね、もうどこへ剣を突き刺してもイモがゴロゴロ出てくるくらいあるんですけどね。ところが、その、こんなに、もう四重にも五重にも重なってる蔓をどける方が力が要るんですよ。というのが、切る刃物が無いんですから、あ、銃剣はあるんですよ。銃剣はありますけどね、とにかくそれまでにもう、芋掘りっていうか草を掘るために使ってるから、もう刃がなくなってしまって、まるで、その、もう、何、パイプみたいになってるわけ。それで、その芋の蔓を切って、こう、どけんといけませんからね、大変なんですけどね。ただキャンガンの方に入った場合、時たまそういうとこがね、見えたわけですね。

で、私はね、あの、そこの、それに書いてますけどね、足元にね、敵の砲撃を受けてね。それで、胸とここ(右二の腕あたり)貫通してるんですね。ここ(右二の腕あたり)と、そんで胸と、それから足に銃打って、ほんで野戦病院にそのまま人事不省でですね、野戦病院に担ぎ込まれて、で、あくる日胸の破片を軍医がその、何(処置)してくれてる時に、痛みで、あの、気がついたくらいで。それで、えー、それが初めはね、その日はもう、えっと、あの時分にはカレンダーがあるわけじゃありませんし、あの、何月何日とか、そんな覚えてなかったんですけどね。後から分かった。これ(感状)で見るとね、これがね、あの、3月の、あの、何で、この4月の19日に、私、怪我してるわけ。やられたわけ。そんで野戦病院にいれて、入ってですね、それで、4月の29日にね、「今日は天皇誕生日だから特別な配給や」て言うんでね。その時分に野戦病院のね、あの、給養がね、テニスボールとゴルフボールとのちょうど中間ぐらいの大きさの、あの、いわゆる握り飯ですね。これが、食事なんです、1日の。ゴルフボールよりちょっと大きい、テニスボールよりちょっと小さい。それが1日の食糧でくれてた。そんで4月の29日にね、「今日は天皇誕生日じゃから」てね、あの、何、「配給は特配や」言うてね、二つくれた。それは覚えてるんですよ。

それから4〜5日した後に私はね、5月の、いや、あの、5月の初め頃だと思うんですけどね。何しろ川原に寝させるだけで、野戦病院って言うたところで、壕なんかにはね、その、軍医だとか衛生兵だとか、そんなんが入ってるでしょう。あんまりに、その、怪我人とか、そんなんが多いわけですからね。もうそんなとこ、壕なんか、もう満杯で入られないから、川原に寝さされてるんですよ。雨が降ったらもう全部ずぶ濡れでしょう。ほんで、敵の、あの、機銃掃射があったらもう逃げ道無いわけですね。で、こんなとこでね、何される(殺される)より、まだ、前線の、私らの砲入れてる壕に入った方が、壕があるだけね、安全やからね。こりゃもう、こんなとこで、野戦病院なんかにおったら殺されてしまうかと思ってね。そんで、無断退院したんですよ。で、後方に下がれば敵前逃亡で処刑されますけど、前線の方へ帰るんだったら問題無いだろうと思ってね。ほんで私、無断退院して、何の、前線の壕へ入ったんですよ。バレテ峠の陣地へね。そうしましたらね。でもその私らが、その、負傷した時に、分隊長もその時にすぐ即死で、即死じゃないけど、あの、なんぼ、2〜3時間の間に、後に死んだらしいけどね。あの、腹に、敵の砲撃、砲弾を受けてね。ほんで「痛い、痛い」言うて、言いながら2時間ほどして死んだってことを後から聞いたんですけどね。その時分にね、あの、私と一緒に、あの、怪我をして野戦病院に担ぎ込まれた人が一人ね、あくる日に死んでしまってるんですよ、野戦病院でね。後から気がついて聞いて、あの、あんたと一緒に、あの、来た兵隊さんが一人、もう、あの、来たあくる日に死んだよってね、衛生兵が教えてくれたけどね。その時分にね、あの、野戦病院に担ぎ込まれたのは2名だけなんです。で、他の人間は、あの、たまたま、あの、その、分隊長は戦死したけど他の人間は、あの、あんまり怪我をしてないわけですよね。

だから、帰って、あの、壕へ帰って来るとね、まだ10人くらいおったんですけどね。ところが半分くらいがマラリアでね、寝てしまって動けないわけですよね。ほんで一つ、その、谷を隔てた向こう側には、アメリカ兵の陣地があって、幕舎が建ってて、その、先言うように夜になってきたら煌々と電気をつけて音楽流してね、ジャンジャンやってんでしょ。そういう時ですからね。で、いつ敵がそうなってくるか(攻撃してくるか)分からんからね。「花岡、お前は元気やからね、野戦病院の下番(かばん)で」、下番って言うたらね、軍隊用語でね、野戦、病院なんかに入ったりなんかしてね、それから治って帰って来たら、退院した場合ですね、そうした場合にはね、「病院下番」て言うんですよね。「下った番」て言うんですよね。ほんで野戦病院入った時は「上番」て言うんですね。ほんやから「野戦病院下番でかわいそうやけどな、壕の前で歩哨で立っとってくれ」て言われて。ほんで、ここ(右二の腕)をやられてるから右手は使えませんから、左手でね、銃持ってね。ほんで、敵がいつ、その、攻めてくるかわからんから、その、歩哨で立ってたわけです。ほんでその時にはね、だいたい敵の砲、砲が、砲撃があった場合ね、だいたいボーン!と音が聞こえて、ほんで、着弾するまでに何秒したら来るっていうのがあって。これは砲と、それから、砲があるとこと、それから受ける方のね、陣地のとの距離に関係するわけですよ。音の、あの、音が、その、伝播する速力と、ほれから弾飛んでくる速力との何があって、違いがあってですね。だいたい、あの、その時分に、あの、申し送りを受けたのは敵の発射音が聞こえて6秒後に着弾する、と。だから気をつけとけって言われてたんです。

ところが申し送りの時に私らが行った時にはもう敵の砲列がもっと近づいとったわけですね。だからボーン!と音がしたから、「ああ、これは壕の方に入らんといかんな」と思ってね。のんびり構えて、へへへ(笑い)、おったわけです。ほしたら、ボーン!と音がしたと思ったら、ヒュルヒュルー!と言う、弾が来る音がした。「あっと!これは危ないな!」と自分では、もう、身体を伏せたつもりやったけどね、ダメでした。ボーン!とね、すぐ目の前でね、敵の砲がね。で、これ(下唇)やられて。ところがこれはね、砲弾の破片ではなかった。砲弾で飛び散った石が当たったわけです。ですからね、2〜3メートル前に(弾が)落ちたわけですからね。本当に砲弾の破片でしたら、もうこっち(後頭部)に突き抜けてしまって、もう即死ですけどね。石だったためにね、歯に当たってね、歯が4〜5本、あの、飛びましたけどね。だけど、ただ、この奥まで突き抜けなくって助かったわけです。ところがね、これ(下唇)ウジが湧きました。・・・へへへ(笑い)。もうあの時分にはね、さっき言いましたように、死亡した、戦死した人がゴロゴロしてから、もう、それにウジが湧いてね。もうその辺、もうウジがいっぱいでしょう。蚊がいっぱいでしょ。ハエがね。ですから怪我をしたら、あの、ウジが沸くってことはよく知ってたんですけどね。だからいつもタオルをここに、口に置いてたんですけど、やはり、ダメだったんですね。

4〜5日してからね、この方が(唇が)チクチクチクチクし出した。ほんでこの怪我した時にね、分隊長が、あの、「怪我したから野戦病院行くか?」て言うけどね、野戦病院の状態がそんな悪くって、こんな、行ったとこでね、自分で逃げて帰って来たくらいなのにね。そんな「行くか?」言われて、「そんな野戦病院なんか行きませんよ」て言うてね、言って、くらいやからね。ほんでもう、薬も何も無いわけでしょう?だからタオルで口を塞いでたんですけどダメでした。で、だいたい4〜5日してからチクチクチクチク。「ああ、これはウジが湧いたなぁ」と思ってね。で、たまたま、誰か知らん、持ってた鏡のね、こう、あの、壊れた鏡があってね、で、それを借りてね。で、こうやって。ほんでその時分に私ね、ちょうどナイフの肥後守(折り畳み式ナイフ)っていうのをご存知ですか?パッとこないするね。あれを持ってましてね。ほんで肥後守を、鏡を見ながらね、グーっとね、これをえぐってね。あれ、5〜6匹、小さい、あの、ウジを引き出しました。それから後はね、タオルを巻いてね、ほんで紐でこう縛ってね、それこそ勇ましい格好、フフフ(笑い)してました。だけど、どない言いますか。あの・・・不思議なもんで、これ(下唇)やられましたから、タオルを巻いてましたからね。ほとんどそれから後、1週間くらいはまともにモノを食べてないわけですよね。だけど、不思議に生きて帰られましたよ、フフフ(笑い)。

ほんでこれね、この感状なんかがあったっていうことをね、その時分全然知りませんでして。ほんで、さっき言いました、差し上げましたこれにあります・・・あ、これは、これ、この中に書いてますけどね、この、追悼記念誌っていうのをするからって遺族の人にね、あの、あのぉ〜、何を、原稿を出してくれってね、頼んだらね、ほしたら、この、たまたまイシクラ分隊長の弟さんって言う人がね、鳥取の方なんですけどね、あの、島根県なんです。この人は、あの、松江のすぐ近くなんですけどね。弟さんって言う人がね、あの、「花岡さん、私の兄の、山下司令官から感状が出てることを知ってます?」て言うから、「いいや、知らんぞ」と言うたらね、「そんなこと無い筈です。あなたも私の兄の分隊の分隊員やったらね、知らん筈が無いんやないか」て言うからね。そんな4月の、7月の23日なんて言うたらね、さっき言うように、もうそれこそ山の中の何、ぐるぐるしとる時でしょう。ほんなものが、交付されても自分らの分隊にそんな伝達されるとか、そんなことなんか全然あるわけ無い、と。そしたらね、日本の、あの、新聞にですね、日本の新聞にもう皆、これ、出てるからね、だから必ず、あの、何してるもんやから、よく調べてくれって遺族の人から言われたのが、あの、昭和何年?あの、60何年くらいですか。それまで知らなかったんだ。それで初めてね、その、何から、新聞の切り抜きをコピーして送ってくれたんですよ。ほんでね、鳥取の、あ、島根の方の人でしょう。「そりゃお前、むこうの新聞とこっちの方の新聞といっぺんよく調査せんといかん」と。私、東大阪の、大阪府の、あの・・・いや、ちがうわ。中之島の図書館へ行って。昭和20年の7月の、あの、新聞を借りてね。見て。ほんで、実際出てるんですよね。ほんでコピーしてもらって、ほんで帰って来てね。ほれで、あの、実際に出ているのかいっぺん、その、何を、防衛庁の方に聞かんといかんと思ってね。ほんで防衛庁の方に手紙を出したんですよ。「こういう新聞の記事が出とるんやけど、これ、間違いないか?」と言うたらね、「間違いない」て言うわけですね。そしたらね、イシクラさんがね、この感状が出ているんだから、この感状をその、何の、家の宝やからね。感状を送ってくれっちゅうわけです。なら、私ら、あの、現地でこんなもの貰ったことがないんだからね。だから、「何が(感状を手に入れる方法が)、ありませんよ」て言ったらね、「だから何とかしてくれ、何とかしてくれ」て言うもんですからね、そんで私、防衛庁にね、手紙出して聞いたんですよ。で、新聞にこんなふうにね、「感状が出てると聞いてるけどね。これ、感状の原本あるか?」って聞いたらね、「そんなん無い」っちゅうわけです。

(聞き手)まぁ無いでしょうね

【41分46秒】ふふふふふ(笑い)。「ほんなら原本無いんやったら、この、感状の写しを、あの、こちらで、あの、作ってもいいか?」て言うたらね、「それもう結構です」て言うから。ほんでその、新聞の記事に全く・・・えぇっと(感状の内容を確認)、この“戦死傷セリ”までは新聞に載ってるんですね。それから後は、これは、あの、他の部隊の人が感状を貰った時に、あの、何してる、同じような、あの、内容を、これ付け足したわけですよ。ほんで感状の形式に習ってね、私、感状の形式を変えて、変えてと言うより、これからあと、「感状の何にしてもいいか?」て聞いたら「結構です」て言う防衛庁の話やったからね。そんでこれ作ってね。ほんでイシクラさんに送ってあげたんですよ。ほんでイシクラさんの弟さんと、兄さんと弟さんと、それから妹さんとおったかな。3枚どうしても欲しいって言うんでね。ほんで、もう一緒のことやからね。じゃ、あたしらの分隊の、あの、サワダ隊っていう四中隊のね、人間が14枚・・・いや13名おりますから。13名、そのうち一人が早くから死んでましたからね、12名おるから。12名分を、あの、何(作成)しようと思うてね。もうついでのことやから、もう、20枚ほど作ってくれ言うてね。ほんで、これ、作ってもらってね。で、イシクラさんに差し上げたんですけどね。

(聞き手1)他、何か質問とかは?

(聞き手2)はい・・・

まぁ、あなた方はこれから何ですから。まぁ実際に戦闘というものはなるべくしないくってね・・・すむような・・・まぁ国と国との間のね、何は、まぁ今、あのぉ、北朝鮮との間のこともありますし。まぁソビエトとのね、領土問題とか何とかありますけどね。これはどんなことがあっても、話し合いで話をつけて、実際に戦闘をするようなことは絶対に避けないことにはね。・・・あの、どない言いますか。これからの戦争って言うのは、まぁ原爆や水爆があるわけやからね。まぁ我々がしたような戦闘というのは恐らく無いだろうと思うんですよ。国家間の戦闘なんて言うたらね。だけど、あの、何ですか、あの・・・今の、あの、中近東辺りでとか、アフリカ辺りで起きてるような、あの、いわゆる部族毎のね、あの、争いとか、ああいうものなんかでも、もう絶対にね、あれ(争い合う)することじゃないですよね。私なんかもう、あの、何を、あの・・・テレビなんかでね、あの・・・アフリカあたりの、あの、何を見るとね、本当に胸が痛みますよ。夜はね、寝られないですね・・・。それで、その、まぁそこ(手記)には書きましたけどね、あの、足元に敵の砲弾が落ちて、ほんで、この胸と腕と足をやられた時にね、人事不省になって野戦病院に担ぎ込まれた時にね、あの、今の私の手記に書いてますけどね。あの、ポンと足元に(砲弾が)落ちて、身体がね、浮き上がってね、で、フーっと硝煙の匂いを嗅いた覚えがあるんですね。

で、昨日、NHKか知らん、テレビで、あの、やってましたね。あの、人間が匂いで、あの、記憶を何とか(思い出す)っていうね。あれと同じことでね。私、戦後帰って来てね、あの、花火。あの、昼間、いや、夜、子供が花火するでしょう。あの時のね、硝煙の匂いをきくとね、その晩は必ず寝られなかった。寝られなかったというよりね、寝ついてもね、もう、硝煙の匂いが頭についてるわけ。ですから、すぐ、あのバレテ峠の戦闘の状態をね、思い出してね。なっかなか寝られなくて、朝方2〜3時間うつつとするくらいで・・・あの・・・困ってたんです。ですから、あの、子供がね、まぁ男の子2人おるんですけどね。その、子供なんかが夏になってくと、皆、あの、花火するでしょう。だけど私は子供なんかに花火、自分から花火買ってきてどうこうっていうことを滅多にしたことないんですよね。時たまね、近所の子供らと一緒にね、あの、何かするから、そういう時には仕方なしにその晩寝られないのを覚悟して、あの、付き合ったこともありますけどね。そうでない限りはね、遠くでね、あの、道を歩いてましても花火やってるあれ(光景)を見るとね、遠回りして。そこの場所を絶対行かないように。その硝煙の匂いを嗅ぐと必ずその晩は戦争状況・・・思い出して、寝られなかったです。今だにそうですよ。やから、あの、家内なんかもね、あの、大阪の、あの、何の、LPの・・・

(聞き手2)PLの花火。

何が、あるでしょう?花火とかね。それから大阪のあの、何、淀川の、北の方の、花火があるけどね。「お父さんはね、私が大阪に来てもね、花火を1回も連れてもらったことがない」て言われたんですけどね。そういう記憶があるんでね。もう硝煙の匂いをプンっと嗅ぐとね、もう、それで頭無い・・・。

それとかね、あの、あれ、今の、アメリカがイラクへ攻め込んだことがあるでしょう?あれは、9月の何、何日やったかな?あの時にね、ちょうど今から5年ほど前、5年ほどですか?前。あれ、ちょうど、慰霊巡拝でね、あの、フィリピン行ったんですよ。で、マニラに着いてね。あれ、お昼頃に着いたんかな。お昼ちょっと過ぎくらいに着いてね。ホテルに着いてね。ほいで、(巡拝の参加者が)東京から来る、あの、飛行機がまた、時間がね、時差があるんでね。ほいで、来るのを待つためにね、マニラのホテルに入ってね。で、まだ部屋は決めてない。その晩はもう、あの、そこで泊まらなくって、すぐ、あの、奥地の方へ行く予定やけど、東京から来る(参加者たち)を待つためにね、ホテルのロビーで待ってたんです。そしたら、アメリカがイラクへ侵攻したっていうね。ほいで、あの、ピカピカっと空爆をしてるね、あれ(テレビ映像)を見たんですね。もう駄目です。もうその晩は・・・あれを見るとね、うわ!ともう、その、自分の昔のことを思い出してね。なかなかその晩寝られなくって困ったですね・・・。だから、あの、どない言いますか。いつまででも、戦争って言う何は、50年経っても、60年経っても、尾を引きますよ。

今の政治家なんかでもね、あの、威勢のいいことばっかし言うてる何があるでしょう。これはね、気をつけんといけませんよ。私のね、あの、初年兵で、あの、先に満州のジャムスに行った話したでしょう。その時にね、士官学校出たてのね、ホヤホヤの、少尉が、私らの、中隊に入ってこられたわけですね。そりゃね、とにかく張り切って張り切ってね。そぉれこそもうね、もう初年兵教育でクタクタになってんのにね、夜中に「非常呼集講習!」て(命令を)かけるんですね。で、非常呼集なんて言うたら、寝てんのを飛び起きて軍服着直して、ほんで、小銃なり何なり持ってすぐ 営庭の前に並んでですね。それで点呼を受けるわけです。そしたらそのあんた、少尉がストップウォッチを持ってね、ほんで、何分間かかるってちゃんと計ってる。「こんな時間がかかったらお前ら敵が来たら全滅や」と。「もっぺん帰ってから服脱いで寝間入れ」て。ほいで、もう一回非常呼集かけるから、今度は何分以内に整列せえ!てなことでね。ものすごく張り切って、それこそ手が付けられないくらい・・・ない(と聞こえるが、無理に文字化しなくてもよいと思う)。それがね、動員が下って、門司から出て台湾に行く間にね、門司行ってすぐ一隻、あの、船団が撃沈されたんですよ。その時分からね、(少尉が)途端に、もう、あんまり、物を言わなくなってきてね。ほいで台湾に行った時に、さっき言いましたように、私らの分隊は台北飛行場の警備で行って、他の部隊、あの、本隊は、あの、他の陣地構築に行ってましたからね。その時分にその小隊長(=少尉のこと)と一緒にはなかったから台湾でのことは知らなかったんですけどね。フィリピンに行ってね、ほんで、あの、実際に戦闘して、私らの部隊の者の中で2人ほど敵の機銃、あの、機銃掃射を受けて戦死したんです。それから(彼は)もうパタっと物を言わなくなってしまって・・・。ほんで壕の中に入ってね、中隊長から、観測所から電話で色んな命令が来るんですね。「敵のどこを、目標はどこで、撃て」て。電話が鳴っても小隊長、全然出てこないんです。ほいで、分隊長に「小隊長はマラリアで寝てるから、お前が代わりに聞け」て。ほいで、こ・・・こっから先もう、戦闘には加わってないんです。・・・そう言う人がおるんですよ。ほいで、私の、怪我してね、野戦病院に担送されとる時に、後から、その時私はその、まぁ人事不省ですから、後から聞いたんですけどね、あの時にね、小隊長「俺も病人やから野戦病院に連れて行け」てね、散々にごねたらしいんですね。だけど、野戦病院は戦傷以外に、病気は、マラリアとかそんなもんでは全然受け付けてくれんっていうことを知ってるから、だから誰もね、小隊長の言うことを聞かなくってね、なんや放ってたらしいんですよね。そしたら中隊長が見かねてね。「こんなもんがおったらね、士気に関わるから」て言うんでね。ほいで、自分の観測所のところにね、連れていってね。ほいで、タコツボ掘って。ほいで、一人当番兵つけて。「中隊長の命令が無い限り、俺の命令が無い限りは、絶対こっからは出すな」と。ほいで「もし、出るようなことがあったら、射殺してもいい」て、ふふふふ(笑い)、いうな命令を受けたって言うんだ。そういう人もいてるんです。で、普段ね、偉そうなことを言うてる人ほどね、あの、そういうこと多いですからね。今の日本の政治家の中でもね、あの、何です、あの、勇ましいことを言うてる人があってもね、これはもうそのままで聞いたらあきませんよ。そんな人間に限ってアメリカとかスイス辺りで外貨預金を作ってね、ほいで、もし、日本が戦争になってきたら、もういきなりすぐ飛んで外国に逃げてしまうような人が、もう、90%間違い無いと思います。私の、もう、ふふふふ(笑い)、命を懸けた経験では。ところが10%くらいの人は実際に、あの、最後まで頑張ってやる人が、あると思います。私ら中隊長がそれでした、はい。そりゃ鹿児島の人でしたからね。この中隊長は、そりゃものすごく、あの、立派な中隊長でしてね。私も、ですから、あの、2回ほど中隊長のお墓参りをして来ました。鹿児島でね。・・・だから、あの、同じ、何でも、士官学校出て、士官学校なんて言うたら戦争するための学校ですからね。それやのにね、いざ戦場になってきて、敵の弾が来て、あの、周囲で死ぬ人が出てくるとね、そんな人がいる。だから、もう“戦争恐怖症”って言うより、“戦死恐怖症”ですね。戦争するための学校に行ってるわけだからね、へへへへ(笑い)。

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体験記録

  • 取材日   年 月日 (miniDV 60min*2)
  • 動画リンク──
  • 人物や情景など──
  • 持ち帰った物、残された物──
  • 記憶を描いた絵、地図、造形など──
  • 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─

参考資料

  • 地図 ───
  • 年表 ───

戦場体験放映保存の会 事務局

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