青木 キミ子さん

生年月日 | 1925(大正14)年生 |
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本籍地(当時) | 福岡県 |
所属 | 満洲黒台在満国民学校勤務 |
所属部隊 | ─ |
兵科 | ─ |
最終階級 | ─ |
プロフィール
青木キミ子さん福岡県出身1925年(大正14年)生まれ。1944年3月旅順師範学校卒業、満洲黒台在満国民学校勤務。同12月竜爪在満国民学校、開拓女塾勤務。終戦後は中国に留用され官僚として勤め、1953年帰国。
インタビュー記録
序章
私、開拓団て言っても、団員の人達と一緒に生活したわけじゃありませんしね。学校っていう特別な、部落から離れて学校の近辺で住んでおりましたんでね。だけど、終戦の時のことは皆さんとずーっと一緒だから。ある程度までは暮らしとか、たまには生徒の家に行ったりしてましたからね。私が、後の方は開拓女塾におりましたから。そんなことはよくわかるんです。
私が書いた本の中に、女塾のこと書いとったんですけど、あの子たちは、向こうの開拓地の花嫁になるために、あそこで募集して行ったはずなんですよね。それにはまた裏事情があるわけですね。自分たちは行きたくないのに、村に割り当てられたようにして行って、2年間過ごしたら帰ってくるんだっていう約束で行ったって。本を読んで、反論が来たんですよ。手紙ここありますけど、これはね、とっとかないかんなと思って、とっておりますけど、これなんです。これ、13枚ぐらい。
聞き手:その方も相当の年配になられますよね。
私とあんまり変わらないみたいです。
聞き手:学校を出られて
そうです。そしてちょっと話ちぐはぐになりますけどね、2冊同じものが出てきたわけです。「ある開拓団の記録」っていうんです。これが、「沃土の果てから」っていう文章と、これが在校生の名簿なんです。これが、開拓団の指導員の方が書かれた「第六次竜爪」ですね。これだけがこの開拓団の記録です。
東安の方に、私、半年ぐらいおったことあるんですけど、同じ、学校ですけどね。そこは、団長さんがしっかりしなかったかなんかわかりませんけど全然記録が残ってない。残ってたら、私のとこにも少し誰かが持ってくるはず、全然来ないんです。だけど、前の黒台っていうとこの団長さんは、奥さんが、内地に帰っておられたんですよね。だから、どうしていいかわからなかったんじゃないかと思うんですけどね。これ(「ある開拓団の記録」)は残ってます。それで、これが、避難する開拓団の村が、全部書いてあるんですよ。東満の方ですね。それで、ここにも開拓団がずっと出ておりまして、何人おって、何人生きて帰って、それでどこの出身かっていうことと、そして避難する途中のどこの部落はどんなしたっていうことを書いてあるものが1つ残っております。
それで、これともう1つ(資料を指して)信濃村が有名になりましてですね、信濃村っていうのは第5次の開拓団であって、黒台信濃村っていって400人の団体で、入植は各県が混合で入るはずだったのに、長野だけ独立して入ったんですね。だから、信濃村っていう独立した村になって、片っぽの方は黒台っていう開拓団になったんです。だから、400人が200、200に分かれて、黒台と信濃村っていう風になったっていうことがここに書いてあります。
だから、これは、お貸しすることはできますけど、もう私も80いくつになったから、先はないですけど、なんとか自分の手元に置いておきたいんですよね。そいで、大事な地図ですけど、廃版になっちゃう地図なんてもうここに置いとけばいいわと思って、護国神社に全部この前持って行った。8月に。まあ、私の、ただの成り立ちは、そういうふうなものです。
きっかけ
聞き手:あちらに行かれたきっかけは
きっかけはですね、私、重要な、なんていうんですか、進んだ考え持っとったわけじゃないけども、女学校の先生が開拓団の話よくなさってたんですよ。行ってみようか、行きたいなあ。あの頃、幼年倶楽部とか、少年倶楽部とか出とったでしょ。あの頃、山中峯太郎の、作者の、あっちの「匪賊」やなんかのこと多かったんですよ。小学校4年から6年生にかけてですね。それ読んでおったっていうこともありますよね。だいたいそういうことがきっかけなんですよ。私、本をよく読みよったんですよね。それで、先生に勧められて師範に。私より2つ上の先輩が1人、旅順の師範に行ってるんです。そしてまた1つ上の人が行っとるんですよね。そして、私たちが2人行って、私の下の人が1人行った。そして私たちと私の下の人まで卒業しました。そして、10回生が在校中(想像ですが2年生は実地授業=教育実習が中心だったので、こういう言い方をしている?)、9回生が2年生で、10回生が在校生、10回生が1年生、1年生はもう半年ぐらいだから、そんなに学校に対して、印象っていうか、引かれるものないんですよね。
ただ、同窓会しても女学校の方に行くんです。旅順大連の会をしても、女学校の方に行くんです。だからこの間26日の日も、旅順は私1人だった。だーれも、女学校も中学も高校も高女(?)も誰も来てない。他は誰も。がっかりでした。旅順は私1人でした。いろいろお話聞かれてると思うけども、これ(資料)は必要ならば。
聞き手:大事なものでしょうから、後で写真撮らせていただいて
これが開拓団の数。大体のところをですね。青年義勇隊もあるし、それから鉄道の、満鉄警備隊の農場みたいなのもあったんですよね。ちょっともうここら辺はわかりませんからね。12次までぐらいまで毎年入ったんじゃないですか。旭志(きょくし、熊本県菊池市旭志、戦後の開拓地)なんかがまだ荷物がつかんうちじゃなかったんですか。今旭志に、帰ってきて旭志に入植したんですよね、団体で。これ(名簿)なんかはもう生徒の名前まで載ってます。わかるだけです。これ(「第六次竜爪」?)は何人かが書いてるんですよね。いろいろ。入植当時の現地の写真とかあります。
聞き手:こういうのはどなたかが持ち帰られて
私、多分、兵隊にいっとった人とかなんとかがうちに送る、内地の誰かに送ってたか、それとも、新京の方に学校に行っとったりなんかした人がおるから、その人たちが持ち帰ったんじゃないかと思いますけどね。(資料を見ながら)これ、避難の経路なんですけど、ちょっと地図が間違ってるとこがあるから、私、訂正してるとこもあるんですけど、学校の場所が違ってたから。本にも書いてたと思います。(地図を探している)
(地図を指しながら)一番最初に赴任したところはここなんです。第5次がここにずーっと、 永安、朝陽、黒台(こくだい)、信濃って、並んだんです。信濃村がここに、こっから(註:東安)入った。 黒台、永安、朝陽でしょ。これ、朝陽って書いてある。すると、哈達河(ハタホ)。ここずっと並んでたんです。だからここが1番国境線近いんですよね、ここ。だからここ(ソ連側)で野焼きしてるのはこっちから見えるんです、火が。この間ここまで行ってきました。一足踏み込めば、ソ連領っていうとこですね。
後からの竜爪(りゅうそう)っていうところはですね、もう全然学校も何にも形残ってませんけど、黒台の方は 学校も宿舎も残ってるんです。そして、満鉄の駅ですね。それもそのまま残ってます。特別の形をしてますけど、残っておりました。
写真を見られてもわかるんですけど、大体開拓団ていうとこんなものですよね。 今映画で千振があってますけど、 実際はもっとひどかったんじゃない、あれぐらいじゃなかったと思うんです。
そして、この竜爪っていうところは、国営のいろんな施設がいっぱいあったんですね。緬羊牧場があって、孵卵場があって、種馬場という馬のところがあって、 畜産学校があったんです。緬羊牧場なんかものすごく大きかったんですよね。
聞き手:開拓農業の拠点みたいな
ていうか、やっぱ6次ですから、 もう安心していろんな設備ができるっていうんじゃないですかね。 そして、鉄道の沿線ですしね。どうかしたら開拓団なんていうのは、もう線路から何キロ、何十キロも、何百キロも離れたとこにある開拓団もありますし、 ここのように線路にずっと沿ってあるとこもありますからね。 そういうとこだから、わりともうある程度治安が整って、ある程度の設備をしても大丈夫だっていうとこで、そんなのができたんじゃないかと思うんですけど。
でも、女塾(じょじゅく)の生徒で、お嫁に行って残留婦人になって帰ってきた子もおります。島根県にいるんですけど。
聞き手:師範学校を出られる時にどこに行きたいというようなことを希望は
希望はあったんですよね。だから、私はどんな書いたかなと今思ってるんですけどね。多分開拓団て書いたんだろうと。私たちの同期、4人開拓団行ってるんですよ。千振に1人行ったし、私が黒台だったし、 水曲柳(すいきょくりゅう、吉林省)っていうところあるんですよ。もうちょっと南、こっちの方ですけどね。
聞き手:同期は1学年何人ぐらい
1学年がですね、80人ぐらいいたんです。
聞き手:じゃあほとんどの人は開拓団じゃなくて満洲の都市部に
みんな都市部の先生。もう1人開拓団で阿城に行った人がいるんですけど、その人はハルピンに赴任して病気になって、 補欠が入ったもんだからその人がいらないてなってから、阿城の開拓団に入ったんですけど。 ほとんど都市部ですけど、私たちの同級生の中では、公学堂(註:現地人の子弟に日本語を教育した機関)って言いまして、中国人の学校に行った人がものすごく多いんです。関東州内の公学堂に行った人が。公学堂っていう学校の資格もって、 日本人の教育とあんまり変わらない教育を中国人にするわけですよね、 満洲にいた人は、公学堂は知らないかもわかりません。旅順におったら、特に私たちは教育実習やら、公学堂に2、 3日ぐらい行きますから。
聞き手:中国の人たちを、新しい満州国の国民として、日本人に準ずるように
だから、どこにでも、ちゃんとしたお宮がありましたんですよ、 神社がですね。でも、学校はちょっと歩かないかんだったですね、駅から。前は汽車通ってるんですよ、2、300メートル先はですね、線路がずーっとあるんですよ。だけど駅からはちょっと遠かった。でも、この竜爪ていう名前の開拓団の中には、4つ駅があった。 便利は便利でしたけど、学校からやっぱちょっと歩きましたね。
終戦になって、 避難する途中はもうどこの部落も多分一緒だと思うんですけど、 さっき話したように、やっぱりこんな、いざとなった時、やっぱもう一番主になる人の判断力って言いますか、決断がなかったら、もうやっぱり他のものは、憐れですね。
聞き手:校長先生、教頭先生が、その時不在だった
いないんですよね。自分の顔ばっかり作ってって言いたいんですよ、ほんとは。後からもそうだったらしいんです。だから、奥さんたちと別、1つの団体の 引き連れる主任みたいなふうになられたから、あんまり奥さんたちの面倒見られなかったような話なんですよね。みんなのことを世話してですね。だから、結局子どもさんも亡くされるし、奥さんも亡くなるし、子ども3人亡くなった、 1人は私一緒におる時亡くなったんですよね。2人は後で亡くなったし、その奥さんも残留婦人になって 帰ってきたんですけど、校長先生が、自分の弟さんが戦死して、弟さんのお嫁さんと一緒になっとったんですよ。それで、奥さんが帰ってきたんですよね。 帰ってきたって一時帰国で、もう自分は帰るつもりなかっただろうと思うんですけど、そういう状態だからまた中国に帰られた。 そしてもう亡くなられましたけど。
私なんて女塾の生徒と一緒には生活してましたけどね。 女塾の生徒に、先生の子どもをおんぶさせとったら、お腹が痛いって言い出したもんで、もう 先生の生徒さん(子どもさん)、私おんぶしたから。荷物を女塾の生徒が持っていったでしょ。そしたら、もう1時間もせんうちに、生徒がおらんようになってしもうた。でもう、私は無一文になってしまって。 もう着替えも何もなくなってしまってですね。それで、その生徒たちが、今度は、いろんな集まりの時になんて言うかな と思ってたんですけど、やっぱそういう記憶はないみたいですね。あの時の話、何て話出すだろうと思って、私からもう全然言い出さないでおったんですけどね、 全然その話しないから、その時はもう自分が生きるのに必死だったんだなって。 人にどんなことが降りかかってるなんていうこと、もう全然考えてないんだなと思いましたけどね。それでもまあ、私は60何年生きてきました。
「女塾」に関して
聞き手:その女塾に来てるのはどういう人たちなんですか
女塾でしょ。 私の知ってる女塾はまだいい。他にいくつかあるんですよね。勃利にも1つあったしですね。私の知ってるのは島根県からと鳥取県からが多かったんです。京都から来とったかな。1人。そして、尋常高等小学校を出た人ですね。昔、6年生から2年間ありましたね。 そこを卒業した人たち。女学校卒業してるのが1人来てました。 だからちょっと仲間外れのような格好になったんですよ。一人女学校から来てた人は。普通は尋常高等小学校卒業してるからですね。そして、さっき話したように、なんかこう、村でね、割り当てみたいなことがあったんじゃないかと思うんです。 そして、入植してる開拓団の人のお嬢さん。もう学校卒業して、 家のお手伝いしてるような人ですね。それで、1番最初は20人ぐらいいたんですよ。そして、私たちが行った時はですね、朝、ベッドの部屋は、もう寒いからですね、 畳の部屋が、30畳ぐらい、おっきい部屋があったんです。そこで寝泊りしてたんです。ベッドの部屋が、ずーっとベッドがあったんですけどね、もうそこは荷物置き場になってて。寒いから。そして、夏は暑いし、畳の部屋でみんな布団敷いて寝てたんですけど。
聞き手:皆さん通うわけじゃなくて、そこに
塾です。そして青年塾もあったんです、男の子だけど。男は、私が行った当時は、 青年塾の先生もいたんですよ、ですけど、みんな兵隊に行って、 2人か3人しか残ってなかった。そして女は、終戦の年に7人ぐらい おったんですよね、内地から来た子。残ってたのが、(内地に)帰るって帰ったんですよ。そして、先生は新しい生徒募集のために内地に帰られたんですよ。そして、(満洲に)帰られたのは5月、6月の末じゃなかったですかね。生徒を連れて帰ってこられたの。 だから、終戦になっても情がないんですよ。新しく来た子どもたちだから。前におった子ならね。
聞き手:いわゆる花嫁候補を集めて連れていく役割があったんだという話を
だから、花嫁候補にするために、そこで、開拓団の生活に慣れさせるんですよね、 その塾だったの。だから、料理でもなんでも、現地のものなんですよね。お砂糖がない時代だから、甜菜糖ね、砂糖大根も取ってきて、 お豆でもなんでも砂糖大根で炊くから、ひとつも美味しくないんですよ。 そして、もうあんな時代で、その女塾の先生が、砂糖大根まで食べろっておっしゃるんですよね。固くて食べれないんですよ。で、乳牛が女塾のとこに、1匹おりましたからね。みんなで乳絞ったり、 部屋の掃除をしたりですね。掃除なんか、青年塾のものが来て、手伝ったりしてましたけど。で、青年塾は女塾の方にご飯食べに来たりね。青年塾の方はもう中国人の家と同じでした。1つ大きい建物があるんですけど、真ん中が分かれてて、両方に部屋があって、 真ん中をこう通路になってると。こっちとこっちにオンドルがあるんですよ。 家入ったとこに大きいかまどがあって、余熱でオンドルの方に来るっていうようなあれでした。女塾の方はストーブでした。で、ストーブだから、薪割りせないかんですよね。薪割りももう女の人でしてました。 だけど、木が凍ってますからね、割と割れやすいんです。 それで、お風呂も薪で焚くんです。お風呂も毎日は入りませんもんね。水道はなかったですからね。(中国は)深い井戸掘ってるでしょ、 こう、これぐらい(肩幅ぐらい)のかな、綱を巻いて、下の方に桶をやってするもんですから、冬はね、もう氷がこんななっちゃうんですよ。それで、それを壊すのも大変です。冬の間は。
(女塾の写真を見ながら)こんなに女塾、生徒おったんですよ、これ女塾の生徒です。これがチダ先生っていう先生だったんですけど、これは団本部の。
聞き手:10代後半ですか
そうですね、16、17…もう20歳に届くか届かんかぐらいですよね。
聞き手:卒業したら、花嫁さんになる
それは、花嫁さんに、なかなかその当時は若い(男子)生徒いないんですよ、若い子がね、現役で行ったりするでしょ。だから 今残ってるので私が知ってるのは、1人行ったんですよ。お嫁に行ったんですよね。そしたら終戦。すぐ兵隊に行ったんです。 そして、ソ連に抑留されて、今度は帰ってこないでしょ。そしたら、この避難する途中は、自分の親と一緒に避難してるんですよ。嫁ぎ先の親じゃなしに。それで、帰ってきたら実家におるわけですよ。で、実家でも食べるのに困るでしょう。大勢子どもが帰ってきてるから。 それで他の人に縁があって結婚したんですよ。そして後でソ連から引き揚げてきたんですよね。だから、その後で引き揚げた子は絶対、竜爪の会があっても来ない。 ただ元気にしとるっていう、個人的なお付き合いはあるわけですよね。だけど、会合なんか絶対出てこない。
聞き手:女塾に来ないでお家でお手伝いしてるお嬢さんの方が多いですか
いや、だけどね、口減らしがあるでしょう。自分の家におっても、まともに、収穫ができなかったり するから。ここにおれば、いろんな裁縫やら教えてもらえるし、 食べれるものも食べれるでしょう。そして、いいとこがあればお嫁に行けるから。そして、忙しい時は女塾の生徒がそんな家にお手伝いに行きよったんです。そして高等科の生徒が遠い所から、自分の家が遠いから、2人か3人か、ここに一緒におったんです。だから、家の人たちも、ある程度のことを勉強させるから、裁縫とか 料理とかですね。だから、こっちにもだいぶ。それと、タダ、無料でしょ。払うわけじゃないんですからね。
聞き手:かかる費用はどこから
団からとか全く関係(ない?)。満洲拓殖っていうのもありますから。そして、 自分たちで牛乳を絞ったりして売ったりね。それから、羊毛を、羊を自分たちで刈ったりして、ホームスパンをこうやってね(握った手をこすり合わせて)、つむぐんですよね。今のきれいな毛糸じゃないけど、ボコボコのある毛糸を作って、それを売ったり、自分たちのものにしたり。今も毛糸にありますよね、ボコボコは。もうちょっと目の粗いですけども、やっぱあれをするのも大変でしたよ。
聞き手:自給自足とまではいかないけれども、自分たちで生活の糧を作り出していくことをやったんですね。
私たちは直接、学校が主体で、ここに 教えに行くのは行くんですけど、まあやっぱほとんどおんなじ年齢の者が、というと、ちょっと嫌なんですよね。 子どもの方がいいんですよね。だから籍はあるんですけど、あんまりね、進んでは行きたくなかったっていうことはありますけど。でも生活は一緒にしてましたからね。あの頃ですね、 給料が65円ぐらいでしたかね、初任給が65円ぐらいで、手当てがね、3倍も4倍もついてたんですよ。
聞き手:初任給は国内もそうですか。初任給自体がベースが高かった?
高かったんじゃないですかね。私たちの時から学校が昇格して専門学校(註:旧制)になったんですよ。師範が。短大位置になったんですよね(註:師範の入学資格が旧制中学か高等女学校卒業となった)。だから、 私たちにとっては60円になった。前は65円ぐらいだった。それで前の人も同じように上がったわけです。 後から入ったものが高かったりですね。そして、僻地手当がもう20割30割ついてましたからね。
聞き手:ハヤシダさんの奥さんは初任給が 30万円て言ってましたね。その時に支度金を300円とか。
だからそれに青年学校が時間いくらで付くんですよね。あの頃、 200円くらいもらえたんじゃないですか、毎月 。本俸の他に20割でしょ。そして石炭は原物支給で給料外からもらう。 1トンか2トンぐらい来よったですよ。だから石炭は外には山のごと積んであったんですよ。
終戦
楽しいのは楽しかったけど、終戦になってからがまた憐れでしたね。やっぱりね、 もう鈴なりになって、汽車が南の方行きよるのにどうしていいかわからんで、3日も4日もいてですね。私怒られたの。校旗を焼かなかったって怒られたけど、どうしよう、焼いていいのかなんかわかりませんもんね。
聞き手:情報が入らない訳ですからね
気易くは焼かれんですよね。校旗に、桐の箱に入った教育勅語があるんですよね。教育勅語と校旗と焼かんかったて怒られたけど。 いや、ちょっと女には判定がつきませんもんね。 今ならもういいけど、年取ってからならいいけど。まだ20歳ですよね。それで、やっぱり男の先生方がちゃんとおって指揮してくれたらいいけど。 学校の、職員室だけは鍵かけとったから入れなかったですけど、教室はもう その日のうち、あの8月9日の日に、もういっぱいになった。しかも、みんな土足で上がるもんですからもうね。
校長先生の奥さんは、飛行機が来た時にですね、 トウモロコシ畑の中を逃げて回りよなさったことは、私、思い出すけど。 あんなに逃げないかんような状態じゃなかったけど、と思うんですけどね。たまーにしか来ん飛行機が飛びよると、校長先生の奥さん畑の中を逃げて回るようなったけど、ダーッて、思ってですね。
聞き手:それはソビエトの飛行機?
それはわかりません。めったに飛ばないんですよね。 だけど、終戦の時は、やっぱ 開拓団が一番哀れでしたでしょ。
今ね、私がお付き合いしてる 日本人ですけど、残留孤児ですよね。本当の国境の町におるんです。東安に。それがね、偉くなるのは自分の努力もあるでしょうけど、共産党副書記なんですよ。 それで、市長よりも偉いわけでしょ。その、共産団の副書記と思ってたら、今度、 政治協商会議の主席になったんです。今はもう退職しましたけどね。この間電話したら、北京に行ってるって言うんですよね。なんで北京に行ったんだろうと思って、もう帰ってきたかなとは思ってるんですけど。この子が、あのコクソシ(黒ソ(口偏に且)子)っていう、ここ、こんな離れたとこですよね。線路からずっと離れたところの開拓団で、東安まで来て、東安が爆破された時の生き残りなんですよね。で、自分が、どこの誰、名前も生年月日もわからないんですよ。それで、 親探しの時に2へんも団長として来てるんですけど、誰も名乗り出る人がいなかったって。 それで、私もう、可哀想だけど、帰ってこない方がいいよって言った。それで、たまに上の許可をもらって帰ってきた方がね。かえって悪いんですよ。今はもう本当、駅に行ったらみんなこの人に声かけるんですよ。それで、いちいち私に、この人はどこの学校の教授だ、どこの誰だって言って紹介するんですけどね。 もうほんとも偉そうに、偉そうだって言ったらおかしいけど、ちゃんとした服装してる人、あ、この人はソト(?)だなっていうような人はみんな挨拶していくんですよね。いや、これでも幸せ で、今のままの幸せ持っ(「守っ」かも)とった方がいいわと思って私は帰ってこない方が、むごいようですけどね。 実際を知ってるものは帰ってこない方がいいと思うんです。去年、一昨年と一昨々年と帰ってきたんです。それがね、本人の希望は家内に日本を見せたいっていうのはもう最大の希望だった。奥さん連れて2年続けて帰ってきた。よかったねーと思ってですね。それが、今年の正月に電話したら、北京に行ったって。人民代表会議もまだ今やってないのになって思って。 多分、娘さん、この人の時代はまだ1人っ子時代じゃなかったですね。それで、 多分、次女のご主人が兵隊だから、その関係で行ってるんかなと思いましたけどね。ちょうどこの前行った時、東安を離れるのが、9月18日(満州事変勃発の日。中国側の呼称は九一八事変)だったんです。 駅まで送ってきて、いつも会議がないのに、今日に限って会議があったからっていうから、ふと考えたら、9月18日なんですよ。あー、しばらく会議がなかってもね、ちょうどこの日だから、午前中会議があったんだなと思って、大変だったねって言って話しましたけどね。汽車の中までついてきて、 お土産をいっぱいくれたんです。そのお土産っていうのはね、バナナ一房とか、水蜜桃とか葡萄をね。 そしたらね、私たち5人だから、そんなにいらないって言うけど、汽車の中で食べて行けばいいって…。それでね、もう自分も涙見せるの嫌なんですよね。 全然後ろ振り返らないで帰っていくんですよ。だからこれも開拓団の、1つの、犠牲者と思うんですけど。まあ 今は幸せに暮らしてるからそれもいいかなと思いますけどね。
話は飛び飛びだけど、避難する途中のことはやっぱもうあの時ほど…。 普通はもう部落にいないで学校のとこにいるから何にも考えないですけどね。 あの時は、団員の人たちは守る馬車も持ってるでしょ。いっぱい荷物積んで避難されるんですよね。子どもは車に乗せられるしね。 すると私たちはもうずっと歩かないかんでしょう。リュックサックで。それでまた、私は考えが浅いもんだから、まだ帰れる(戻れるの意)と思ってるんですよね。だから荷物でもそのまましとけばいいのに、ベッドの奥の方に押し込んだりね。本当に着のみ着のままでしょう。そして、なんか着替えだけは と持ってたら、塾の生徒が持って逃げたもんだから何にもないし。ほんとに。
だけどね、一番最後の、私が朝鮮人に捕まる時ですよ。捕まる前の日ぐらい。もうそこに涼しい木があるんですよね。そこにみんな休んでるんですよ。5、6人で。そこまで歩けなかったことがあるんですよ。もうほんとにあの時だけは歩きたかったですね。もうそこの、カンカン日の照るとこで眠りこけたことが、あれはやっぱ疲れてたんだなと思いますね、ほんと。 やっぱそれでも夕方になると歩き始めないかんからですね。一人ほったらかされたら山の中で、わかりませんから。
終戦の日、終戦の8月9日の晩にね、 青年塾で2人で寝てたんですよ。女の子と2人で。 その子のお母さんが、お姉ちゃんが手術して入院しとったもんだから、牡丹江に行ってたんですよね。それで2人で寝てた。隣の青年塾に男の子がおると思ってたんですよ。そしたら、もういなかった。 どこに行ったかわからんけどいなかったんですよ。その子と20年ぐらい前会った時、あの晩、私、誰と寝てたんだろうっていうんですよね。小学校(女塾の生徒ではなく偶々預かった子だろう)2年生なんですよ。その時が。2人で寝てたのに 、私と寝てたんじゃないというと、誰かわからんかったっていうんです。それでも覚えてるのは、お母さんが塩をいっぱいリュックサックに入れてもっとったよって言うんですよね。 私が覚えてるのは、女塾の先生が、マッチをですね、黄燐マッチですから、 普通の日本のマッチと違うんですよね、石にこすったりすれば(火が付く)、それを、油紙にいっぱい包まれたこと、覚えてるんですよね。あの頃、まだ40代と思うんですよ。だけど、えらい年取って見えたんですよね。それがあったから、ある程度は夜、野宿する時に、草をむして 蚊やりをたいたりですね、なんかのあれになったと思うんですよね。 塩をいっぱい持ってったの、どんなにして使ったか私分からないんですけどね。多分、中国人と何かと換えたんじゃないかと思うんですよね。
聞き手:塩っていうのはかなり貴重なものだったんですか
そうらしいんですね。塩もいっぱい持ってたの。岩塩ですよね。それで、多分、最後はもう私一緒じゃなかったからわからないけども、山の中で 逃げる途中に中国人と何かと少しずつ換えたんじゃないかと思うんですけどね。そして、その子が言うには、先生、あの、一瞬ね、一遍 子どもの泣き声が全然しなくなった時があるでしょうがって言うんですよ。あん時はね、小さい子ども全部あん時一緒に殺したんよねって言うんです。私、全然それ覚えないんですよね。それだけは覚えてるよっていうからですね。そして、その子のお父さんが召集で兵隊にいっとったんですよ。お母さんがいないから、私と2人でおったでしょ。そしてお母さん、その翌日牡丹江からまた帰ってきたんですよ。 それで、一緒には避難したんですけど、 やっぱあのお母さんたちがしっかりしとったから、私がついて回れたと思うんですよ。もう、だけど、あの時、あの人たちと一緒じゃなかったら、とてもじゃないですね。感心します。
聞き手:敗戦の時、おいくつだったんですか
ちょうど20歳です。20歳になったばかり。 それかと思うとですね、私の師範の先輩でした、永安ていうとこにおった男の先生ですよね。 3月に、帰りたくないけどもう卒業してからいっぺんも帰ってないから、帰れ帰れって言うし、結婚問題もあったと思うんですよね。私より4つ上だから、24か5になってるんですよね。それで、 内地にいっぺん帰ってくるからって言って、私んとこの女塾に1泊して帰ったんですよ。そしたら、なかなか帰ってこないんですよ。 それで、7月31日に帰ってきた。奥さん連れて。そしたら、その人が、その永安の部落の人にいろいろ聞くと、 奥さんは見たけども、先生見たことないって言うんです。 だから、終戦になってすぐに、あの頃、状況がわからんで、どんどん召集がかかって連れて行かれたんですかね、終戦になってから連れて行かれてると思うんです。 それと、黒台の先生もそうなんです。あの先生も避難する途中、見たことがないっていうの。この先生はもう30過ぎとったんですけどね、男の先生、その人も見たことないって。 だから、その人も、その永安の先生も、多分、兵隊に連れて行かれたんだと思うんです。 奥さんだけは長春まではおったって言うんです。みんな見たって言うからですね。
聞き手:その後の消息はわからないんですか
奥さんは亡くなったらしいんですよね。そう、運がいい人は、 私の一つ下の人で徳島の人がおるんですよね。その人は 師範を(昭和)20年に卒業してるんですよね。そして、もう1人徳島から来とった友達が結核だったから、内地に帰るんだったんですよね。それで、その人を一緒に連れて、 内地に帰ったわけで。そしたら、今度は赴任しなきゃいけないから、その人慌ててるけども、赴任できないわけですよ。それも、7月31日に帰ってきてる。 で、その人は残留婦人になって、帰ってきてから20年はならんです。なんで帰ってきたのっていうぐらい。それこそ、船の切符が取れなかったらしいんですよね。
私のとこにいろんな学校時代の写真とかなんとかあるんですよね。 それはですね、男子部が、兵隊に行くでしょ。予備学生とかいっぱい行ってるんですよね。 その人たちが荷物を内地に送ってるんですよ。写真なんか。だから、男の人は写真なんかいっぱいあるんですよ。女子部はそれがないもんだから。ほとんど写真ないんですよね、みんな。男子部の写真は運動会とか音楽会の写真はあるんですよ。
だからいろいろありますね。でも、私たちはあの時はもうどんなんなるかわからん と思ってたけど、人に比べたら まだましな方じゃなかったかなと思います。わりと早く団体で捕まらなくて、団体の大きい収容所に入らなかったの。 わりと小さいところの朝鮮人の部落に入ったからですね。 だから大勢のところはものすごく苦労してるでしょ。拉古(ラコ)とか、山市とか、日本人の収容所に入った人たちは、 大きい部屋に寝せられて、子どもの泣く声とかなんとかで、いろんな問題が起きとるでしょうが。 私たちはね、収容されたのはされた、小さい旅館に、2、30人ぐらいでしたかね。 そして、1週間ぐらいした時に、私たち若い女の子だけ、日本人が 働いてるとこの食事作りに行ってくれって、行ったんですよね。それからは、食べ物も楽、ちゃんとしたとあるしですね。ただ、夜、逃げ回るのが大変でしたけど。朝鮮人やら中国人が、自分たちの身を守るために、日本人があそこにおる、ここにおる、すぐ教えまわるんですよ。いつも隠れて見えないように、見えないようにしとってもね、すぐ教えるから、どこにおるってわかるんですよね。だけど、朝鮮人の中にも、親切な人もいましたしね。冬になるから、ここでご飯炊くばっかりしとっても、冬になって寒くなるから病院に行けとかね。 病院の先生は、共産軍が入るっていうんで、財産や荷物持って朝鮮に帰られるでしょ。 そん時に1人だけ連れて帰ってやるっていうんで、一番若い人を連れて帰ってもらって。それももう、どんなんなったかわかりませんよね。帰ったのは帰ったかもわからんけど、 それから先どうなったかもわかりませんしね。
その子たちは開拓団じゃなしにですね。1人は開拓団の人でしたけど、1人はあの、 郵、電電か、満鉄かの交換手の人たちが2人おったんですよね。開拓団から離れて、 私、団長さんと一緒に行動したから、大勢で行動してないから、わりに 自由な行動だったんですよね。でも、みんなと一緒に歩いてる時は、山林鉄道の上を歩くんですよね。そしたら、枕木がこう(枕木が並んでいる様子)なってるでしょう。それ、上手に歩かないと歩けないんですよ。もう鉄道だけしか道がないからですね。そしたら今、山林鉄道にもね、この間、テレビに出てたけど、ほら、 こうこう(両手を握って上下に動かす)動かして、修理の人が乗る台車だけみたいなのがあるでしょ。 ポンプみたいなんで、こうやって動かしてね、走る車があるでしょ。あれに乗って移動する人もおったんですよね。いいなー、若い人は あんなのに乗って移動する人もおったし。線路の上をね。
聞き手:トロッコじゃないんですね
こう、向こうとこっちとあってね、こうやって動く車で、 あれはどこまで移動されたか知らんけど、あんなの羨ましいと思いましたよね。ほんとに。
大方20日か1ヶ月ぐらい歩いたんですよね、私 。8月の末だと思うんですよね。で、9月になってから病院に行ったと思うんですよね。寒くなってここでは過ごせないからっていうんで。で、その途中は雨が多かったんですよね。そして、私たちが一緒に仕事してる部落に兵隊さんが何人かいたんですよね。 そしたら、亡くなってるんですよ。病気か、そこでこぜり合いがあったか知りませんけどね。それを埋めてるのが、こう下掘れんでしょ。きつくて、自分たちがきつくてですね。だから 泥をこうかぶせとるだけだったんですね。そしたら、雨が多いもんだから、家の修理に行くっつってから、 2、3人でひょろっと出ていきよったですよね。なんだろうと思ったら、死体が出ると犬やら何かに食べちぎられるから、土かけに行きよったんで。でも、そういう風に土でもかけられた人は幸せですよね。ほったらかされる人ばっかりですからね。でも、もう嫌ですね。
中国の話
私、 中国に行こうって誘われた、ずっと何回も誘われたけど、初めのうちは行かんて行ってなかったんですよ。 やっぱりあんまり中を知りすぎとると怖いですもんね。そしたら、もう安心だろうと思って行ったのが14、5年前ですかね。それでも行った時は、教え子4人と一緒に行ったんですよ。1人だけうちの主人の同僚とですけど。6人で行ったからですね、 生徒と。自分が住んでる家に行ったんです。 そしたら、そこに中国人が住んどったんです。その中国人は、自分たちが使っとった中国人。それで、よくしてくれましてね。 だけど、やっぱもう道が変わっとってですね、ちょっと行き着くのに困りましたけど。まあよかったねー家があってって。で、もう1人のとこに行くときは羊を20匹ぐらい連れて 放牧してる人が道をずーっと歩いてきたんですよ。わー、こんなのどかな風景はいいなーと思って見てきましたけどね。それで行ったら、 その人の家もあったんです。それは中国人式の家じゃなくて、本当の日本人みたいな家だった。そのまま残ってました。 開拓団がこんな家を建てとったのね。普通あんなあれだったのにって言って。きれいな家でした。それで、これが残ってるよーて。
地方の田舎におった者はやっぱ思い出も多いですけど。そして、私は、開拓団の年数よりも、後からの方が長いでしょ。
聞き手:8年
そうです。後からの方の記憶の方があるんですよね。
聞き手:どういう経緯で残られることになったんですか
朝鮮人の学校の 建設のとこに働きよった日本人の炊事しよったでしょう。それから、 朝鮮、協和会ってあったんですよね。協和会の朝鮮人の人が、ここでは冬は越せないって。だから病院に行けっつって、2軒あった病院に、3人と、2人と分かれて 行ったんですよ。そしたら、3人行った方の先生が 朝鮮に引き揚げられたんです。その前に、公安局の局長が、拳銃が暴発してですね、左手ですよ、こっからこう(手首から親指の方に)抜けたんですよ、弾が。 それで、治療に来たんです、ハンカチぐるぐる巻いて。そしたら、朝鮮人の先生は後が恐ろしいから全然出られないんです、留守だと言って。そして、その公安局の人と2人で、 ガーゼがいっぱいありましたからガーゼでぐるぐる巻きして、ここら辺(手首)をしっかり止めて止血して、 そして、早く寧安に行ったらいいよって言って。処理だけは2人で。その間違いかどうかわかりませんよ、私たちが勝手にしたことだから。だけど、止血して、包帯ぐるぐる巻いて、早く寧安に行くようにって言って 行ったんですよね。そしたら後で、怖いねー、化膿したりなんかしたら、またなんか言ってくるかもわからんねって、内々話してたんですよ。 で、1週間ぐらいしてニコニコやってきたんですよ。あん時ちゃんとしてもらったからよかったつって。そして、寧安にはしばらく帰れないから、消毒だけしてくれっていうことで、 その処置は1週間ぐらいしてやったんです。そしたら、その先生が朝鮮に帰ることになったでしょ。 そしたら、私たちの、おるとこないじゃないですか。そして私は中国人の家に行ったんですよ。もう一人の人は、朝鮮に帰る。一人は、協和会の、私たちを面倒見てくれよった人のうちに行ったんですよ。そして、 その私がいた中国人のところは、 中国の警察に勤めよった人だったんで、私、そこで正月過ぎまでおったんです。春先になると、山の方に日本人がまだだいぶおったんですね。 それで、その人たちを連れに行くとかなんとかいうことで、公安局の仕事するようになった、 警察の仕事、ここの家から出て。それがきっかけなんです。そん時にですね、モリナガさんって黒髪(熊本市)にいるんですけど、その人が 山の方におったんですよ。ツチムラさんって小川にいるんですけど。その人は、私たちと一緒におる部落におった。それで、ツチムラさんとは今もって、8月9日には護国神社に行くんです。話とびとびですが、護国神社も今もう4人しか来ない。 一時は、あそこいっぱい集まりよったんです、慰霊祭に。 1人は私と、そのツチムラさんっていう人と、丸亀(?)のヒグチさんですよね。はい。そうすると1人はね、黒河におったっていう人で、ご主人の死んだのが黒河だからって言って。4人です。去年は、義勇隊が何年かって、大きな会をやったんですよね、去年の追悼式、 そういうことで残ったんですよ。それで、私はもうあっちこっちって動いてるんですよ。
聞き手:残られた後で、中国の内戦が始まるんですよね
そうです。 田舎の方だから、東安の方だから、そんなに戦争があってるっていう 気分はなかったんです。四平街では戦争やってるっていうのはあるですけどね。
聞き手:じゃあ、野戦病院に急にかり出されるとかは
そんなのはなく、ただ、公安局に行ってからすぐですよね。中国の部落がありますね。 そして、こっちとこっちと四方にね、門があるんですけど。私はこっち(左の方)の門に近いところにおったんですよね。 そしたらね、ここの中に共産軍と国民党軍が混ぜこぜでおったんですよ。 こっち(左)の方の人が国民党で、こっち(上)の方はもう延安(えいあんと聞こえるが、この時期延安に共産党の中央委員会があった発祥の地の延安と言ってるのではないか)から来たローカムの人たちがおるような共産党の兵隊だったんですよ。そしたら、夜ね、中国のトイレは外だから、外に行こうと思ったら、なんかピューッて音がしたんです。ヒュルヒュルーっていう音が出て、それからもうパンパンパンパンやり始めたんですよ。それで、恐ろしくてですね、一晩は家の中におったんですよね。 それから、その次の晩は、隣が中国の大きい屋敷でしたから、そこに行って、上におったら危ないってんで、野菜の貯蔵庫の中入っとったんです。地下を掘ってね、野菜を、白菜とか大根とか。地下に掘ってるんですよね。で、上には土かぶせてね、してるんだけど、その中に入り込んで。はしごがついてるから、 あそこに14、5人入ったんですよね。間がこう空いてるとこにね。それで、何も食べんでも、おしっこ、排便なんて、もう何にもできないんですよね。そして、3日ぐらいたって、様子を見に、それでも、なんか、バーンバンって、もうたまにですが、聞こえるんですよね。 そして、1人が上がって行って様子見たら、もう大丈夫だって言って、上がりましたけど。 それから本式に、片っ方逃げたんです。逃がしたんですよね。変な打ち合いしよったらみんなに迷惑がかかるからって。それが、時計を打ち合わせとったのが、どこかが早く発砲したらしいんです。 何時っていう約束だったのをね。大体捕まえるつもりだったらしいんですけど。でも、結局捕まりました。山の中に行ってからね。そして、そこで銃殺されんで、鶏寧っていうとこ行ってからの人民裁判があったんですよね。そして、殺されたんですけどね。
それでもまあ、私は恵まれとったと思うんですよ。 字が書けない人が多いし、読める人が少ないでしょ。中国の女だったらね。だから重宝されたんですよ。曲がりなりにも学生時代に中国語をちらっと習っとるぐらいで、 そんな中国語ができるわけじゃないしですね。幸いに、協和会の人で、私たちの面倒を見てくれる人なんかが日本語が上手でしたからね。そしたら、公安局の局長なんかも牡丹江の局で警察におったから、日本語がある程度わかったから。 それでもやっぱ、山の方に日本人がおるからそれを 連れに行くっていうことは、もう恐ろしいことでした。まだ、兵器も銃やら持ってますしね。だけど、モリナガさんたちがある程度組織的にしとったんですね、山の中で。もう今、モリナガさんもわからんことになったけど。
聞き手:連れに行って
一応、こっちで仕事させるんですよね。油房(ユウファン・大豆から油を搾る工場のこと) て油作るところがあったんですよ。油絞るところ。ほら、日本人を使えば安くて仕事できるでしょう。そして、捕まった日本人の人たちも、安定した食事ができて、 お金はもらえなくても食事ができて、生活がちゃんとしたとこでできるから、 そして、便があったら大きい収容所に送るっていうことですね。
聞き手:その時は山の方に行って説得されたわけですか。
そうですよ。もう恐ろしいことないからって言って。私たちもこんなにしてるからって。 大体私は憎まれると思うんですよ ねえ。若い娘がそんなとこ行ってね、中国人に騙されてるとかなんとか言われたと思いますよ。行けって言われて行かんなら、また私も 食べることも住むとこもなくなるしね。そして、その山の中におる人たちも、だいぶこっち来て、その油房っていうとこ出て、 7、8人仕事してました。普通の、そこで働く人たちの宿舎がありますからね、そこで暮らして、そして、1ヶ月何回か、町の方からトラックが来て、荷物運んだりしてましたが、その空いたトラックに乗って、 町の方に収容されたりですね。
聞き手:その山にいた人たちは、軍隊としての組織的な抵抗なんかはなかった
ないんですよ。もう、いわゆる、逃亡兵ですよ。
聞き手:民間人よりは、兵隊がほとんどなんですか。
民間人…半分半分ぐらいですね。 民間人はやっぱり銃を持ってる人につきたいし、軍隊の人はもう民間人いたらめんどくさいし。 それが本音ですよね。
聞き手:でも民間人だったら捕まってもその工場で働くのでいいでしょうけど、兵隊はどこか行かないと
着物なんか全部変えてしまってるんですよね。 でもあの頃、民間人にしても兵隊さんと変わらんような服着てるでしょ。逃げてる途中に自分が着とったものはなくなるし、どこかそこら辺にある物を拾って着たりなんかしてるから。そう見分けはつかないけど、話の内容で見分けがつくようになるんですけどね。私たちと一緒に仕事してた人も、兵隊っていうことを話聞いてわかるけども、見た目じゃそんなにわからないんですよ。 武器とかなんとかはどっかに捨ててきてますしね。
聞き手:部隊が組織的に 降伏をしたなんていう形じゃない訳ですね
ないです。そんなの見たことない。 私たちも小さい所ばっかり回ってましたからね。人のいないとこ、いないとこって回ってましたし。でも逃亡兵って言っても、斥候に出て本隊がわからないようになったとか、それから、もう完全に逃げ出した人とか、いろいろありましたね。
そして、しばらく私、軍隊におったことあるんですよ。ちょっとばっかり。それも衛生処ね、 なんもすることないんです。ただ、減ってきてから、怪我したっていうぐらいのことなんですよね。そしてその間に、私は家庭教師をしたことがある。中国人の。算数ぐらいですよね。 局長って言いよったけど、元々は共産党の地下活動しよった人が、終戦になったら自分の本体を表して、局長なんかになったりし とるんですよね。その人の家の、孫の小学1年生ぐらいの子どもの(家庭教師を)。 折り紙をしたり、算数をしたり、遊んだり、2、3ヶ月でしたけど。それから、また異動させられて。その 局長のところは、煤鉱局(メイコウキョク)っていって、炭鉱を管理してるとこだった。それは、1番上の商工管理局っていう、貿易するところの支配下にあったんです。それで、その管理局の方に行ったんです。で、そこに5年おりました、東安に。
そして、国営農場にも行った。 で、国営農場の時に、新中国っていうのが出来たんです。あの、東北人民政府っていうのが出来た。 中国人民共和国ができる前に、こっち(地図を指して)だけですね、東北人民政府ていうのが出来た。そしてから、全部、ここら辺の蒋介石がおらんようになってから、 中華人民共和国になったのが。だから、こっちだけね。東北人民政府っていうのが できてから、私たちはハルピンに行った。そして中華人民共和国ができて行って、それから朝鮮戦争が始まってから、またハルピンに行った。
だから私、この鉄道線の、行ったり来たり、行ったり来たりしてるんです。
聞き手:仕事はご自分で選ぶというよりも、全部言われるまま
いわれるまま、どこ行けって。それで、中共の仕事ていうのも、家族なんていうのはあんまり考えてないんですよ。奥さんは奥さんでこっちで仕事して、旦那さんこっちで仕事、子どもは 育児院に預けてるような、戦争中はそんなふうだったですよね。だから、行けって言われて 行かんかったら、思想的になんだかんだ言われるんですよね。行けって言われたらその場で行かないと。
朝鮮戦争と帰国
私なんて朝鮮戦争が始まった日はですね。私、仕事しながら工場の中に住んどったんです。 主人とは別々に。で、その日は多分日曜(月曜?)だったと思うんですよ。だからうちに帰っとったと思うんで。そして出勤したら呼ばれて、帰って寝具の布団 、着替えなんか用意するようにって言われて、なんかわからんで、帰って用意したんですよ。で、また工場に帰ってこいとか、帰ったんです。 そしたら、お金を何千万も渡されて、瀋陽の駅に行って、どこに行くかわからん汽車に乗ったんですよ。上の方は知っとるんですよね。 それで、乗って着いたとこはハルピンだった。ハルピンに降りて1時間だった。そしてから、今度また阿城に行けっていうから、そっからまた阿城に行った。阿城ではね、家もないんですよ。だから、中国人の旅館に住んどった。行った5人で。
聞き手:5人というのは
5人というのは、中国人。中国の、男ばっかり4人と私1人っていうのが、会計課、経理課ですね。 私と出納と課長だけしか、昔から組織の中で働いとるのがおらんで 、瀋陽が新しく解放された地区でしょ。そこから採用したもんばっかりなんですよ、他の人が。
だから、やられるわけですよ。日本人でながら、女でながら、私が行かんなんようになったんですよね。 阿城に行ったら、住むとこもないから、中国人の旅館、 オンドルがこうあって、みんなこう雑魚寝ですよね。食べるものも準備しないといけないでしょ。もう後からどんどん来るんですから。工場の場所も探さないとですよね。私はもうそんなことしなかったけど。
そして、瀋陽におる時にですね、戦争が始まる(時は) 農業局だったんですよね、国営農場は。それから私は、工業局に移らせられた。東部電器工業管理局っていって無線機を作るとこだった。でんきのきはね、器なんです。だから、もう、転々と変わってるんですよ。びっくりするくらい。
聞き手:ご結婚はいつ?
(昭和)25年です。
聞き手:やっぱり、軍に所属した方
電器工業管理局におる人です。それもね、私、全然知らん人なんですよ。それがね、その人たちは知っとったらしいんです、2、3人は。その人たちはね、元満洲電報電話局の人なんですよね。30人ぐらいおったんですよ、その電器工業管理局軍工部というとこにね。 そしたら、その人たちはね、私が働いてる商工管理局の近所に、軍工部の人だけが買えるような売店みたいなのがあったらしいんですね。そういった春雨作るところとか、 そこに働いてたんですよね、日本人の人たちが。私は商工管理局の中に1人でしてますね。 中国人の幹部の人たちがね、よく知ってるんですよ、私のことを。 しかも同じ日本人1人でそこで働いてるもんだから、目につくわけですよ。ほいで、もう1人で置いとったらいかんとかなんとかいいながら、探してたらしいんですよ、適当な人、自分たちで。それで勧められて、そういう風になったんですけどね。
農業局から工業局に移る間、1か月ぐらいあって、遊んだ。 仕事の場が決まらなくて。そしたら、日本人が一番たくさん働いてるとこが工業局だった。そして、そのしかも第一廠いうところでね、一廠から十廠まであったんです。 無線機を作る部品だけをずっと各廠に分かれて作ってたんですよ。それで、あっち行ったりこっち行ったり、ここからですよ、(地図を指しながら)こっからこう行って、こう帰って、またここまで帰って。こうですよね。またこう帰って、結局は、ここで。
聞き手:働いてたその男性の人たちっていうのは残されて
それはですね、電報管理局の、満州電電の人たちはですね、 帰れるっていうことで、30人出したらしいんですよ、負傷兵がいるっていうことで。 ハルピンでそんな話が出てですね。ほいで、南に行くつもりで30人出した。そしたら反対に牡丹江の方に行っとったらしい。 それで、幹部の人たちが、それじゃ若い者だけ残しとったらいかんっていうとこで、それを追っかけて行った。 そして、結局東安まで行って、東安でもまともな… 技術者の人たちはいいんですよ。製図のことかなんとか。技術者たちはいいけど、 電報電話局の人たち技術なんてないでしょ。無線の技術はあってもいらないわけですからね。 で、この人たちが働くのは、ボイラー炊きとか、製材所の下働きとか、それから、炊事場の野菜ごしらえとか、そんなのばっかりだった。技術者の人たちは、官舎もちゃんとしたところに住んで、 大事にされてますけどね。
だから私は、帰ってきたらどっか言われると思ってた。でも、あんまりやいやい言った人は、後で人事課に来て給料計算ばっかりする人もおりました。1人は、 警備課に入ってきたんですけども中国語はわからんでしょ。で、ちょうどその阿城に行った時期がですね、朝鮮戦争が始まった時ですよね。あの頃は、中国が 計画経済に入った時期なんです。だから、計画経済っていうのは、計画があって、実際があって、計画と実際の差が、その国の利益、団体の利益になるわけですよ。だから、その計画をしっかりやっとかんと、利益が出ないわけですよ。 それで、私はもう飛び回って、その材料を集めるとかなんとかしよったんですよね。その経理課に入ってきた日本人は、 中国語がわからんもんだから、私もその人に付き合ってるわけいかんもんだから、バタバタしてたんですよ。そしたら、この人が怒っちゃってですね。だけど、しょうがないですよね。中国人とばかりバタバタ話してからってね、 自分たちには仕事を与えんでっていうような風ですよね。 だけど、一生懸命になってバタバタしてる時は、1つ材料が間違えば、どんな損が出るかは、損益が出るかわからんという大事な時期でしたからね。やっぱね、 妬まれたり、批判されたり、このもう狭い世間でしょ、一つのね。 その中ではもういろんなことありましたよ。
聞き手:逆に、日本人ということで、中国の人から何かということはなかった?
中国人が、そんななかったですけどね。朝鮮人が悪かった。私は朝鮮人にひどい目に合わされたことあるもん。 朝鮮人が悪かったですね。何か1つ掴めて、私を、批判会の対象にしようと思ってたんですよ。貿易局の時にですね、 その警備が朝鮮人の部隊だった。それも14、5人ですけどね。 だから、みんな朝鮮人は心配せんといかん、用心せんといかんって言ってましたけどね。本当にそうでした。昔のことを根に持ってると思うんですけど、それを表面では言わんですよね。それから、貿易局が、元の銀行の 建物を使ってたんですよね。
やっぱ、この8年間っていうのは貴重な時間でした。私も28でしょ。帰ってきた時。そしてすぐ、主人が、結核になったんです。治ってしばらくは働いたんですけど、平成元年に亡くなって。それでもみんな大事にしてくれて、電電の人たちは。今年も会があります。
聞き手:戻るのは、どういうきっかけで戻ることになったんですか。
戻る時はですね、日本人の人でね、なんとか会議に出られて、ビザなしで中国に入られて、 名前は私書いとったんですね、本に。ちょっと私、忘れよる。急だったんですよ。急に帰ることになったんですよね。その頃はですね、日本と手紙やり取りできるようになってたんです。ごめんなさいね。私も。あ、ここ。『帆足計(ほあしけい)さんとか、高良(こうら)とみさんとか、宮腰喜助(みやこしきすけ)さんの3人が政治家として ビザなしでソ連から中国に入国して、帰国促進について中国側と協議された』(本か新聞記事から)そういう新聞、よく見たことがあるんですよ。それを私も名前を忘れてました。それから、急に、私たちは 一般の人とは接する機会はわりとないけども、工場の中に一人家族持ちの人がおりましてね、 その人が一般の民間の人と付き合いがあるもんですからね、その人が1番に手紙やり取りとかできるようになったから、手紙書けって言ってきたし。それからもう1人は、帰れるかもわからんっていうことになったんですよ。それから早かったんです、バタバタバタとですね、第1次が帰ったんですよね。第1次が帰って、 それからね、2ヶ月もせんうちに私たちが帰れたんです。で、(昭和)28年の6月でしょ。それから早かったんですよね、ビザなしで大体な下話ができたんですよね。そして、正式に決まって、 バタバタでした。これが、帰国の、引き上げの年表ですよね。27年頃じゃないかな。ここらへんじゃないですかね、だから、これ前なんですよね、あの人たちが入られたのは。1952年。
聞き手:27年は講和条約発効ですが、この時は中国は入ってないですよね。
入ってないです。だいたい、この船はですね、初めは、蒋介石にアメリカが物資を送ってですね、その帰りの船がカラだから、それに日本人を乗せて帰りよったっていう話なんですよね。この間なんかの時になんかの本で読んだんですけどね。
聞き手:中国としては、自分の意思で手伝って残ってくれてるみたいな形になってるんですか。
そうでしょうね。国としてはね、仕方なしに使ってたっていうような形でしょうね。日本が船をよこさんかったから…
聞き手:技術者に要請をして残ってもらったみたいなこと言ってるじゃないですか パイロットか看護婦、お医者さんとか、確かに分かりやすく残っていますよね
パイロットって言えば、林部隊長(註:林弥一郎、中国偽名:林保毅)がね、 中国で初めて飛んだっていう飛行機を作られたのが、林部隊長っていうのが、 東安にいらしたんです。八八一部隊(註:東北民主連軍航空学校のことか?)って言うてね、中国の部隊があったんですよ。
これ(「引揚げ 舞鶴の記憶」)は、私たちの満友会(?)って言って、残留しとったもんだけの会があったんですけど、それの記念品なんです。これも護国神社持っていくかなと思ったけど、これだけ置いときましょうと言って、もう皆さんに見てもらった方がいいからと思ってね。ですけど、私が、もうちょっと生きてる間、 意識のある間はと思って、また残しときましたけど。ある時、せいぜいなんかするときに、こっと出てきたらね、また見ようって思う気持ちもなりますしね。
これがね、ハルピンからですよ。私たち、秦皇島って言って、北京の方から帰ったんですよね。 1ヶ月かかりました、そこまで行く間に。っていうのがね、ハルピンで、1週間ぐらい、烈士記念館とか、映画を見たり、芝居を見たりしてね。1週間 遊んで、遊んでっていうか、船、交通の都合があったでしょうけど、それから奉天に行って、奉天で2週間ぐらいおったんですかね、で、そん時、町を歩きよって偶然に、 一番最初の、局長が怪我をした時に付き添いで来た中国人とバッタリ会ったんです。私も、主人と2人で歩きよって、バッタリ会うたんです。 そして、向こうは、キミ子さん、キミ子さんって話して、そしたら、なら私たちが今おるとこに行こうつって行って、もう尽きぬ話で、いろんな話して。翌日は、局長を連れて、その、怪我した本人を連れて来たんです。そして、また、いろんな話をして。それで、あの人たちは、住所はちょこちょこ変わるからわからないんですよね。だからもう文通は行ったり来たりはないんですけど、 実家がわかってるからですね、局長の実家が分かってるから、探せば探せないことないけど、まあいいわと思って、もういいわ、お互いに年だからと。
そして、 ハルピンで2週間ですよ。ハルピンで2週間、瀋陽で2週間。そして秦皇島で10日ぐらい、船の来るの待っとったんですよね。その間に亡くなる人もおるしね。 その間に亡くなる人、具合の悪くなる人もおるっていうふうで。船の中に乗って亡くなった人もいるんですね。水葬をして、海に投げ込んでですね。 そして、舞鶴に着いて、舞鶴で1週間ぐらいおったんですよね。その時に行方不明の人をずーっと書いてあるんですよ。尋ね人覧っていうのがあって、この人知りませんか、この人知りませんか、って書いてあるんです。そして、私がさっき話した 先輩の名前も書いてあるんですよ。あー、やっぱり帰ってきてないんだなと思って。
聞き手:中国時代のお給料はどうだったんですか
一番高い時はね、その頃ドルは380円か360円台だったんですよね。 そん時の一番高い時は270万ぐらいもらった経験があるんですよね。だから、どんな計算になるんですかね。
1ドルが360円ぐらいの時だから。そして、紙幣切り替えがどーってあったんですよね。そう、270万だけ覚えとるんですけどね。360円と 似合う金額であっただろうと思うんですよね。 何千円にならなかったかな、何千元にならなかったかと思うんですけどね。全然、あの、知ってる人がもうなくなっちゃうしね。その記憶だけはない。
聞き手:270万の単位は元ですか
円。
聞き手:ドル換算すると360分の1
ぐらいじゃなかったかなって思うんですけどね。
聞き手:これは、その当時の中国の水準の中ではどれぐらいなんですか。
いい方ですよ。元々は、私、現物支給で給料もらってなかった、ずーっと。農業局に行った時に 給料制だったんですよ。貿易局の時も、全然給料もらってないんです。衛生費として200円ぐらいもらってたぐらい。全然もらってないで、着物もちゃんと着せてもらうし、家賃も払うわけでもないしね。 農業局で行った時にね、ものすごくいい給料、あーこんなもらってって思うぐらいあったんですよ。 それが基礎になってるから、ずっと給料良かったって。いくらもらってたってその時に言われるでしょ。そしたら、これだけってちゃんと記録を持たせてくれるからね。で、その記録でずっといったから。
聞き手:職種は管理職ですか
一番下の管理職。 いわゆる係長ぐらいのもんですよね。それがですね、現地採用が多かったんですよ。元々からずっと 工場と一緒に移動したんじゃなしに。 現地採用の人はどんぐりの背くらべみたいで、特にどうっていうことじゃなしに、持っていきようがないで、私に来とるようなもんですよ。それで、大体、うちの主人の方が会計の方で、私は原価計算の方におったからですね、片っぽの方が仕事はできるんですよ、本当言って。 だけど、原価計算の方は、そういう風でね、こっちの経済の内容はあんまり知らせん方がいいっていうような こともあったんですよね、現地採用の人は。だから、原価計算の方に新しい人置いて、こっちの経理の方は、古い人たちが多かったんですよ。だからですよ。
そして、その時代は、上海とか 南の方から、どーっと、知識のある人が入ってきたんです。いろんな、原価計算とか、外国語とかの知識のある人が。技術者でも、そうですよね。その時はばーっと入ってきたんです。だから、 その人たちは、あんまり、重要な職にはつかないけども、給料としては、いい給料出してたんですよね。だから、言葉が全然わからないんです。南の方の、 特に上海の人はわからない。 だから、東北部の中国語に合わせてもの言うんですけどね、なかなか、難しい時代でした。
いや、本当にもう、政治学習。日本人の中でも、早く要領よく 中国の政治情勢を掴む者もおるし、あくまで日本人のやり方で、考えでいく者もおるしですね。揚げ足取られないように、あたらず触らずの生活をしなきゃいかんかったり、それかといって、中国人なんて○○(聞き取れず)そんな生活しよったらまたいろいろ言われるし、 日本人だからって遠慮しないからですね。政治的なことになったらですね。
でも、 電電の人なんか、中国人の学習に入らないで、日本人だけで学習するんですよ。そうすると、またそこで、もうやっぱいろんな問題が起きてくるんですね。そして、 日本人が、延安で中国共産党の本家本拠地で捕虜になってる人たちが、 政治指導員として日本人の中に入ってきてるんですよね。その人たちは、いわゆる、こんなこと言ったらあれだけど、あんまりその知識環境、学校出とるとか、そんな人じゃないでしょ、 兵隊に行って、捕虜になって、そこで、共産教育された人たちでしょ。 だから、字なんかでも、書けるのは書けるけど、上手に書けなかったりね。漢字でもね、中国の難しい漢字なんかあるでしょうが、そんなのでもね、 なかなかちょっと問題があったりするんですよね。 だから今度は日本人を集めて政治学習するでしょ。で、その中からこの人を使えっていうような人を、まず自分の助手みたいに使うんですよね。 政治学習っていうのがもうやっぱ大変でしたね。
帰ってきて思うのに、時々ふっと中国語が出てきたりするし。 昨日も、ちょっと中国の料理ができたから取りに行こうって言って。留学生がね。取りに行きましたけど。まあ、今日はゆっくりしてください。私では役に立たなかったかも。とびとびの話でね。
聞き手:こちらにご両親は残ってらした?
そうです。
聞き手:お手紙ができるようになるまでは、ご無事かどうかも知らなかった?
それがですね、私の旅順の時の付属小学校の校長先生が、 東安っていうこの国境の町に、新しい女学校を建設するのにおいでてたんです。それで、私とは親しかったんです。避難する途中も会ったんですよ。そしたらその中に、私たちの先輩の先生もこの学校に勤めてたから、 校長先生は言わないけどその先生がね、モリ先生って言うんですけど、その人が私を呼んで一緒に行こうって言われた。だけど、私は自分の学校の先生と一緒におるって言って一緒に行動しなかったんです。この先生らと一緒におったら、私はよ帰ってきてますよ。
それで、その先生が福岡の教育大の付属中学校の校長してた。それで、しょっちゅう、福岡の家(青木さんの実家?)にね、行ってらしたんですよね。それで、もう私は死んだっていう噂があるから、諦めろって、 そう言われたらしいんですよ。うちのおばあちゃんだけが、絶対うちの娘は生きとるって言ったっておっしゃるんですよね。 で、私が帰ってきたら、もう先生も喜んで、幽霊が帰ってきたって。それで、私、復職がすぐ出来たんです。 その先生のおかげでですね。それと、1つは、 その先生が帰ってこられてですね、福岡には青年師範っていうのがあったんです。それが、だいたい福岡の雑餉隈(ざっしょのくま)にあったのが、筑後市に来てたらしいんですよ。 で、そこにもしばらくお勤めだったらしいんです。そして、私が八女高女っていうことで 思い出して、私の女学校を訪ねられたんですよ。そしたら、私を知っとる先生がまだおって、 私の自宅を教えてくださったんです。それから、うちとの交流があってね、うちの母の実家がね、筑後市でも4町歩も5町歩もある百姓なんですよ。今はもう百姓せんでから、マンションを建てたりなんかしてますけどね。それで、先生の家に父が行くと、ぶどうやら、あそこ、産地ですからね、出されるんですよ。 だけど、飯ごうのふたに出されるってですよね、 食器がないんだなって言って、うちも古い家だからいっぱいあるんですよね、そんなの。だから、持っていくし、 おやかんがないようだ、鍋がないようだって、もう大体想像がつくんですよね。だから、鍋、釜からお米、お米がない時でしょ、引き上げてすぐですからね、22年か23年頃ですからね。それで、母の実家が 百姓だから、お米を持ってってあげたりなんかしてたらしいんですよ、私の留守中に。
だから私、就職すぐできたんです。だから、人はやっぱり、都合よう助け合って生活していかなーと思いましたけど。でも、恩師てありがたいものですね。それで、その一緒に行こうって言った先生も、つい最近亡くなられてですね。 その先生も、徹底した、校長先生の信頼する人でね、青森なんですけどね、その先生の実家は。校長先生じゃなくて、話とる先生の実家はですね。 帰ってきて東安学園っていうのを作ってらっしゃるんですよね。 保育園と幼稚園と作って東安学園っていう名前つけてらっしゃるから、ほんとに、先生を、信頼してね、そして、最後は、玉川大学の教授だったんですよね。それから、定年になって、帝京大学の薬学部の教授をしてらしたんですけど。
誰か彼かに守られて生きてきました。一度、誰とかに、助けられたりね、誰かと接触したり。電報電話局の人なんかはですね、私は全然知らないことが多いんですよ。 だけど、みんなよくしてくれますしね。今もって会があるからって言えばですね、もう残りが、集まる人数が少ないから、 そうするかもわかりませんけどね。苦しい時を生きてきた人たちだから、 お互いに大事にしてるんですね。その当時は憎みあった人たちもね、 ほんとその当時はやっぱ自分が大事だから、ほんとにもう隙あらばと思ってるんですよね。みんな。ちょっとしたことでいがみあったりね。
でも、よう生きてきました。テラオカさんたちの4人ね、大連におってね、 さっと帰れるならいいけど、あそこも出るまでもね、あの1ヶ月間歩いたこと…。でも、私が1人だったから、自由に振る舞えたんですよね。 あれが旦那でも1人でもおったらね、お互いに、やっぱ 助け合ったりしないといけないから…
聞き手:悪いことじゃないけど。
大変ですよね。あとは、やっぱりいろいろありましたけど、今考えたら、そう苦労したと思えんですね。
聞き手:普通にお話だけ聞けば、ものすごく苦労してるお話
普通の時のお互い様はいいんですよ。 だけど、いよいよもう苦しくなったり、なんか変なとこになったりした時に、これはお互い様ですからねっていうのは便利なようで不便なものですね。 いい方に取ればいいけど、悪い時にしたら、もう私は私で行く っていう。いい時はお互い様ですから、一緒にやっていきましょう、なるでしょ。 悪い時にお互い様、お互いにこんなだからっていう感じでしょう。 だから、やっぱ人っていうのは、わからないですよね。
でも、ほんと、もう死んだ方がいいって思った時もありますよ。こんなんなら死んだ方がいいって思ったときもあるし。だけど、今になって考えれば、ああいうこともあって、あんな時生きられるからまだ生きられるわって思いますね。
でも、お話お聞きになって、私の話は途切れ途切れの話で悪いですけど、 思い出して思い出しての話で、でも、こんなにいろいろしてくださるのも、やっぱ熊大のアララギ先生(蘭信三氏のこと)が一生懸命、してくださったんですよね。山口の残留婦人の会に行ったりですね。 残留婦人の会が中国からお友達を呼べば、熊本に呼んで、いろんな食事会をしたり、どこかに連れて行ったりですね、しましたから。それをもう、熊大のアララギ先生なんか、やっぱり一生懸命してくださいました。
皆さんに助けられて今まで生きてきてると思えばね、苦労した甲斐があったかな、とも思うし、 まあ、自分の青春はなーんもなく、もう苦労のしずくめだったって思うこともあるし。
あのね、私、中国のお料理、万頭っていうのを作っときましたからね。今からちょっと食べてください。 もうあとは何もないでしょ。
聞き手:はい、別にありませんけども。
・・・電線ですね。そして 組み立てた無線機を作りよったとこは、今電池を作ってる。輸出向けの電池を作ってる。 これ(資料)1冊私取ってるんだけど、これが阿城の工場の内部。現在。もうちょっと良くなってるかわからんけど、この間行った時はね、門のところが綺麗になってるんですよ。 だけど、中は変わらないもん。
聞き手:この作りは当時と同じですか。
はい、煙突もちゃんとあるし。だからこれだけ切りとると、またわからんなるから。 阿城っていう町は大体の歴史のある町でですね。 ・・・そうすると、その女塾のあった方は、 山口、岡山、鳥取、島根、兵庫、和歌山、 あそこら辺の混合です。 開拓団の中で、私、家庭訪問に行って、山のこんな岩、岩のところ、家庭訪問に行ったことがあるんですけどね。 そしたら、お父さんは海軍で戦死する、お母さんは結核で亡くなる、お姉さんも亡くなる、妹も亡くなる。きょうだい2人で帰ってきたとこあるんですよ。
このごろ、電話かかってくるけど、1人は、今大きい工場してるんですけどね。本当、「お前たち一人(だけ)でいいかって言ったら自分たちだけで帰るって言うから、 そのまましといたけど」っていう人がいるんです。それが高等科の1年じゃないですかね、そん時が。下の子が小学校4年生だって。
聞き手:高等科ならば
13ですかね。お母さんはもう終戦前に寝とったですもんね。 お姉さんは終戦になってから亡くなった、妹も亡くなったし。弟も亡くなった、小さい1年生の子がおったから。かわいい子でしたもんね。弟の方は。かわいらしい。
だけど、私、中国人よくしてくれたと思います。貿易局におる時なんかはね、 秤、今のようにこう置いたらクーッと回って する秤じゃないんですよ。分銅でする秤なんですよ。ほんで中国人はやかましいんですよ。自分が積んできた時とおろすときの重さが違うとですね。それでも、分銅でこうこうして測るでしょ。そうすると、 食事時に帰ってこれないんですよ、倉庫から。そうすると、幹部の人たちの食事は終わればいいんですよ、一般の職員の食事を取っといてくれるんですよ、厨房の人たちが。他の人は知らんですけどね。厨房の人たちが親切にしてくれた。
まあ、そんなことがあればですね、考えたら幸せだったんだろうなと思います。 でも、コンクリの上にあの秤を量るのはやっぱきつかったですねえ。 1日中立ちずくめですからね。若かったからしたようなもんで。
参考資料
- 地図:満洲開拓民入植図 満蒙開拓平和記念館
- 書籍:梅君妹妹(メイジュンメイメイ) 青木キミ子 三章文庫
満州女塾 杉山春 新潮社
日本人が夢見た満洲という幻影 船尾修 新日本出版社 - 年表 ───
戦場体験放映保存の会 事務局
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