武村 豊さん

生年月日 | 1929(昭和4)年1月31日生 |
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本籍地(当時) | 沖縄県 |
所属 | 白梅学徒隊 |
所属部隊 | ─ |
兵科 | ─ |
最終階級 | ─ |
インタビュー記録
生い立ち~女学校入学
私は昭和4年1月31日に生まれて現在87歳になります。元白梅学徒隊と言われております、そこに動員されたんですけれども、生まれは那覇市です。那覇市の武村豊です 。トヨという字は豊ひとつで。いつもねこれがもう時々笑われたり男の人と間違われたりするんですけど。ちょうど私たちが生まれた昭和4年ですので2年ぐらいから15年戦争が始まっておりますね。そういう時代に生まれて、小さい頃、小学校の時代に女学校に入るまで本当に戦争の中で大きくなったっていうことなんですけれども。それまではみんな出かけて行って国から、郷土から出かけて行っての戦争で本当に実態、戦争の実態というのは分かりませんけれども、小さい頃からもうお国のためにみんなはやるんだ これは我慢しなさいというような時代に生まれましてね。それでもそういう小さい頃からのこれですので全然苦にもならない。いつも兵隊さん ありがとう、食事するにも天皇陛下に感謝、それから親に感謝、それから兵隊さんに感謝っていうような気持で何でもやりよったんですね。そして軍を先に。兵隊さんが先に、みんなは我慢しなさいというような時代に生まれて、それが当たり前というような気持ちで大きくなってきたんですね。
小学校がすんで女学校に入る時、その時も私の家はあまり裕福な家庭でなかったので。父が小学校5年生の時に亡くなってですね。裕福じゃなかったので大体もう6年、あの時代は6年までが義務教育ですから義務教育を過ぎたら働いてもいいというような時代だったんですけれども女学校に行きたい、行きたいって言ってね 母親に大変こうお願いをしてやっと自分の希望する学校に、女学校に入ったんです。女学校に行けばもうねえ、こんな勉強ができる、ああいう勉強ができるとみんなと一緒に。あの時分は女学校と言ったら高等教育になりましたからね。教育を受けられるという事で喜んで入学していったんだけれど。1年生の頃までは本当にあの学校も綺麗でね。花もたくさん咲いて、音楽もとっても綺麗な外国のミニオンとかそういうものが流れてきて自分たちはその中で1年生の頃は楽しい学園生活を送ってたんですけれども、もう2年生になった頃から大東亜戦争が始まってこうやってるもんですからね。ちょうど一番自分たちが希望していた英語の勉強ができるという、これが一番のもう嬉しさだったんですけどね。それが 敵国の言葉だからっていうことで途中でこれはなくなって、だんだんだんだんこう戦争が激しくなってきたんですけど私たち自体はわからない。今のようにこういうマスコミとか、また何ていうんですかね、報道なんか自由じゃないから。入ってこないんですよ。いつでも日本の国はアジアを守るために大変聖戦をしてるんだ、どこどこではもう、大変、なんて言いますか、戦争を勝ってるんだということでね。そういう報道しか来ない。そいであの万歳万歳でね。日本万歳、日本万歳のような時代だったもんですから外に出て中国なんかがあんなに酷い目にあってるとかね、日本軍のために酷い目にあってるとかそういうことは全然知らないんですね。
学校教育ももう軍事教育に変わってきて竹槍持ってね、敵国のルーズベルトとか蒋介石とかそういう人たちの似顔絵を藁人形みたいに作って学校の教練といったらこれを竹槍を持ってヤーって突いたりしてね。もし敵国が攻めてきたらこうしてやるんだとかやってたんです。全然戦争の相手の国の苦しさとか戦争自体描かれてないんですよね。ただ目の前で自分たちは勝ってる勝ってる、いい事をしてる、いい事してるんだということだけしか教えられてないもんだから、あれですね、わからない。それでまず体を鍛える。今までの授業というのは、もうほとんど授業はしないで体を鍛える。この、(行進する手ぶりで)行進をしてずっと大きい荷物を持って歩いていく。あれするっていうか体を鍛えるという事でね、薙刀、それからこういう、公式の、何ていいますか、行進、こういう風にして体を鍛えることばっかり。それでだんだん戦争が始まって昭和16年頃になるとね、私16年に入学してるわけですよね、女学校に。16年に入学してるもんですから、この時から太平洋戦争に突入してきてるんですけどね。そして1943年、昭和18年頃から学徒動員、あの作業とかね、そういうものに駆り出されてしまって、授業も半分くらいでね、半分はまた作業に、飛行場つくったりとかね、そういうのに駆り出されて。結局お弁当持って作業場行って、向こうの飛行場行って飛行機の台座を作ったりとか。それからまた軍の防空壕、壕堀り、というようなものに駆り出されて1週間に半分はもう作業ですね。で半分は、授業らしい、授業、ちょっとした国語とかそういうものをやってたんですけども。
10月の10日になって昭和19年ですね、1944年か、10月10日の空襲があって、その前にちょっとずつも軍隊も兵隊が入り込んできて、兵隊の足跡が沖縄県に入ってきたんですね。そしたらみんな万歳、万歳って兵隊さんありがとう、ありがとうで道の方に出て旗を振ったりして迎えていたんですよ。兵隊さんが来たって喜んでね。そうしてるうちに10月10日の空襲がありまして那覇は全部焼けたでしょ。私はあの時の母と姉と私と3名家族だったんですね。3人家族。 兄たちは東京に出てました。長男は私が小さいときに東京に出て向こうで大学、ここで中等学校は出て大学までは向こうで自分で働きながら夜間の大学行って弁護士 してたんです。そして次男の人も兄を追って、私も勉強がしたいということで行って、向こうの書生をしながら法科の学校に入ってたんですね。三男はこちらで中等学校卒業して東京に、軍需工場みたいなところに行ってたんですね。男の兄弟はみんな向こうに行って沖縄に残ったのは私と姉と、ちょっと県庁にお勤めしてたんですけど姉と、母と3名で女所帯だったんですね。あんまり裕福でない貧しい暮らしをしてたんですけれども、昔の人は偉いですね。昔の母親っていうのは自分はもう本当にきつい思いをしながらでも子供たちは、これをしたいと言うんだったら行かしてね、やってたんだけど、疎開が始まったの。軍としてはもうちゃんと沖縄に上陸するっていうことが計画的にわかっていたはずです。それで働けない者、年寄りとか女子供、そういう人達はみんな疎開ということで学童疎開もありましたしね。 私たちももうこんな家庭だから 女所帯だからそれに当てはまるんですけれども、私が行かないと言い出してね。本当に軍国少女だったわけですよあの時分は。もう私は今でもね、戦争を語る時にはこの辺からやらないと。そして今でもこの苦しみは持ってるんです。今でも母親たちにすまないという気持ちは持ってるから、その辺からやらないと自分の戦争、戦争はその辺から私は始まってたんですよね。だけどこういう本当に軍国主義の教育を受けてるもんだから、自分たちが沖縄を守らなきゃ誰が守るかっていう風になってしまって。半分の人はもう疎開した人もたくさんいるんですよね。それであの、私たちの学校は那覇の中心にあったもんですから、ちょうどいまの松山公園、ありますでしょ?福州園の向い側ね、そこにあって文教の街だったの。ここには、(記憶が曖昧な様子)ちょっとちぐはぐになってます、整理してください。そこはね、沖縄県は、その時代は、県庁の視学さん(注:視学官のこと。現在の教育委員会に近い)とか学校教育の視学さんとか、ちょっと上の方はみな本土からいらした。沖縄県のかたも偉い人がいた。いますけどもやっぱりたくさん向こうからいらした。知事さんもそうだしね、それから視学さんとか、学校教育の視学さんとかみんな内地からいらして、そこに社宅があったわけ。うちの学校の傍には社宅があったんです。知事官舎があるしね、視学さんの、その人達の子供たちも一緒でしたから。疎開はもうたいてい内地の方だから(手で戻る仕草)。それとまたね、鹿児島から商社が、商人が来て大きなお店を構えてたんです。その方たちの子供たちも私とみんな一緒にやってた学校なんですよ。学校的にはわりと明るくって、そして情操教育を重んじてやってた学校でしたのでね。半分くらいは疎開して残ったのは少なかったんですね。だから自分たちが守らないで誰が守るかっていうような気分がありますしね。そういうことをしたもんだから母も姉も近所の方たちみんなで、みんなと一緒に疎開の申し込みはしていたんだけど、私が行かないって言ったもんだから「じゃああなた一人残して、ここ沖縄に残して自分たちは疎開することはできない」っていうことでやめたわけ。
1010空襲
それで結局は3名で暮らしていたんですけども10月10日の空襲で、うちは港の近くでしたから、那覇港の、ちょっと空港からこう、一番真っ先に空襲があったわけですね。だから一番真っ先にやられるところだったんですよ。私はその時には飛行場の作業で出ていたわけ。7時くらいでしたからね、早めに出てお友達を誘って道中なのね、空襲が始まったのは。「今日は演習かなあ」って。沖縄の人みんな、空襲とかなんとかわからないから、初めてのあれですからね。「演習かねえ」って言ってたらドドドドドッてやりだして。結局家にも戻れない、それで友達と3名、誘いに行ったお友達の家の壕に入ってね。3名でやってたんだけど、ちょうど12時くらいにアメリカさんの休憩時間で飛行機が一時休みに入ったから、そのときにすぐ家に駆けていったのね。そしたらうちのところはもうみんなシーンとして人ひとりいない。 犬や猫さえも見当たらないくらいシーンとして誰もいないんですよ。お家も隣近所もみんな。もう怖くてね、そのまま家に入りはしたんだけど怖いからそのまままた帰って「どうしよう、どこに逃げようか」(家の人は)一番真っ先に避難させられていたわけですよ。どうしようかねえっていって友達の家にまた戻っていってね。むこうもお母さんちは慶良間に、集団自決があったところ、そこにお仕事で行っていたお友達なの。そこの家はきょうだい2人残って、だから3名で一緒になって、もう壕もみんな入れないから避難しなさいって言われていたもんだからお墓に入ってですね、沖縄のお墓って最近はみんな小さくなってるけど昔は大きなお墓でね、このお家くらいのお墓があるし。だったからすぐ開けて「すいません、ここで命をしのがせてください」って入っていってやってたんだけど、その中には、あの時は沖縄には火葬ってのがなかったの。亡くなったらいまはお骨になりますでしょ。火葬がないからお墓の真ん中に棺があって遺体がある。昔だったらお墓ってのはとっても怖いところ、墓場があるから近所にはお家ないから、墓場だけしかないから。もう大変怖いところなんだけどみんなもう「助けてください」ってお祈りして入ったんですね。そうすると棺桶が入ってて遺体も入っているわけですよ。それもお骨になりかけていたでしょう、わかりませんけどね。そこへ入って防いでいたんだけど、それで夜になったら那覇市は危ないから北部の方にみんな避難しなさいってことで出て行ってみたらもうほとんどが焼けてるわけ。この辺なんかもみんな焼けて、その火が、家が燃えてる中をこの道をみんな北へ北へって。那覇の人は90%くらいのお家が焼けて、那覇は全滅に近いくらいでしたから。
夜通し歩いて、那覇市があって中部があって北部に入るところ、金武ってところがありますけどね、辺野古まではいかないけど、まだまだこっち側ね、北部の一番入ったところ金武っていうところへ来て。夜通し歩いたですよ。昔の人たちはここは那覇から2日くらいかかって行きよったらしいけど、それを夜通し歩きどおしでね。道を行くときにはみんな大きな声で「〇〇さーん、〇〇さーん」って自分の家族を呼んだり、本当にたくさんの人が那覇市の人がみんな行くもんですから。火がパチパチパチパチって周囲が焼けてやられてる間をみんなそれぞれ北部の方へ北部の方へって移ったわけ。それまでは何もわからない。怖さだけだからね。やっと北部に着いてから「母や姉はどうしたんだろう、どこに逃げたんだろう」ってその時に思って。那覇の人たちはみんな北部に来てるから探して回ったんですけどね、名護の辺まで行ったけれどもわからないから、ひょっと考えて、南部の方に親戚が学校長してる人がいてそこへ行ったかもしれんと思って。よく向こうの(親戚の)お家の方に行きよったもんですからね。避難してるかもしれんと思って。歩いてまた北部の宜野座村ってところからずっと歩いて、線路を伝って歩けば着くだろうと思って。南の方へ南の方へ線路伝って歩けば着くだろうと思って線路伝いにずっと行ってやっと東風平まで着いたらやっぱりそこへ来ていたと。「今ね、あなたを探しに那覇に行ったよ 」って言ってね。やっぱり向こうも私を探して那覇の方へ、私はまたこっちに来てますでしょ。やっと会ってしばらくはもうどうにか3名、家族会ってやってたんだけど。ちょうどそれから学徒動員の話が出てですね、女学校の第二高女の校長先生のところに動員がきたんですよね。
1945(昭和20)年3月 学徒動員へ
20年の3月6日、ちょうどその時みんな4年生になってますから。4年生は看護教育を受けさせなさいと。もしここにアメリカ、まあ空襲もこんなあったしここに、沖縄に上陸するということがだいたい軍としては分かってるんでしょうね。そこで迎え撃つような話もありますけど。沖縄で迎えて(手で遮断するような仕草で)本土戦をやるというようなあれもあるから、ということで私たちはもし上陸した場合には看護婦さんのお手伝いみたいにして看護教育を受けさせなさいと。全然何にもわからないじゃあれだから看護教育を1か月間受ける予定でみんな入隊したんですよ。山三四八六部隊(注:第24師団第1野戦病院に該当)の衛生看護教育を受けることになって、みんな集まれって言われて56名の者が、みんな散り散りになっていますが着の身着のままで集まってきてその56名の者が衛生看護教育隊というところに入隊をして。その入隊っていうところも小学校の校舎なんですよ。東風平、現在の八重瀬町の東風平小学校、現在は中学校になってる、あの時分は東風平村、東風平小学校でしたけどね。そこに入りました。
そのとき先生方は2人の先生が付いていって、みんなもう闊歩闊歩して、小雨が降って濡れても大きな声で歌を歌いながらほんとに女らしさってのはあの時は全然ない、みんなと闊歩闊歩して、モンペつけてモンペに救急袋、これには身の回りの物じゃないですね、ケガをしたらあれするような、すぐ救急できるような包帯とかちょっとしたヨードチンキとかそういうくらいのものを入れて、もう泊まり込みですからリュックも背負って、リュックはあんまりなかったから鞄にみんな入れてこうして行ったんです。そこで教育実習を受けて、衛生看護教育隊って言うんですね、ここでは。本当に兵隊さんが、初年兵が教育を受けるようにしてね。内務班、一班、二班、三班って分けて朝は5時半からラッパで起こされるんですね。
(取材者:ほんとうに軍隊ですね。)
軍隊ですよ。5時半から起こされて、そしたらみんな大急ぎで床、床といっても教室に毛布を一人2枚ずつ配られてますから、これでみんな寝てたからそういう毛布をたたんで身支度をしてすぐ出て行くんですね。点呼があるんですよ。「第〇班、〇人、異常ありません」ってもう本当に軍隊。そこに少しでも遅れて行ったらもうこの分隊、私は第五分隊でしたけどね、一人でも遅れたりしたら全部責任。ビンタ。運動場を(走り)回されたりしたものでした。大きな声で軍歌を歌ったり、軍人勅諭というのをやりました。「一(ひとつ)、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」、ああいうのを唱和させるんですよ。でここで「第〇分隊〇名異常ありません。」って本当にやって、それからみんな顔を洗ってね、めしあげってのがあってこれも「ご飯を取りに来ました」なんて言ったらすぐに「軍隊にはこんな言葉は使わん」って。「女はいない」って。「めしあげに参りました。第〇分隊、○○(誰々)。」って言ってからね、こんな風にして持って行って班長さんを前にしてこんな風にして食べよったんですね。その時で一番もう本当に自分の時間というのがないんです。ただ顔を洗うときだけ、あそこに川がね、学校のそばに小川があるんだけどそこでもうみんなで顔を洗って、手で汲めるぐらいのところありましたから、そこでその時だけはみんなの笑顔が見えてね。顔を合わせて、ちょっと時間がありましたら「うさぎ追いし」なんて懐かしいふるさとの唄なんかを歌ったりして。それでまた時間を間に合わさんといけないからね。午前中、もう講義。本当にもう詰め込み詰め込みでね。とにかく外傷のあれもあるし、内科の勉強があるし、骨折したときの手当の仕方とかそういうの本当に俄仕込みの教育を受けたんですよ。そしてみんな午後からは今度これのテスト。午前中習ったのを午後はすぐテストする。だからみんなね、自分たちが学生時代にこんなに勉強すれば大変優秀な生徒になりよったはずだねって言ったりして。夜に寝るときにはみんな頭を突き合わせてこうして寝るんですよ。そして誰かがお家から持ってきた黒砂糖を寝ながらポリポリって回すわけね。それから不寝番というのも二人ずつ組んでこれも夜中起こされて回るんですね。怖かったですね、あれは怖かった。そういう風にして勉強するし食事は食事で決まった時間にやるし、学習に行ってる間、講堂で学習しますけど帰ってきてみたらせっかくたたんでおいた毛布が全部引き出されてるんですよ。 1人のものが整頓の仕方が悪かったらね、全部取って。これね「整頓かぜ」っていったけどね。整頓かぜってこれが、帰ってきてみたら散らかってるでしょ、それをまたキレイにして。そういう風なとにかく看護教育隊も大変な軍国、軍隊式の教育を受けてですね。
3月23日空襲ー八重瀬・第一野戦病院に招集
だけども17日間で勉強して、3月の23日になったら空襲が始まったの。4月になってから中部からは上陸していくけど3月はね甲板、空襲、艦砲射撃。南部の方は船がねもう全部港のこの辺、南部の方に船が集まってこれから来て艦砲射撃だったり爆弾が落ちたりしたもんですから。23日から空襲が始まって、この学校も危ないということですぐもうこんどは実地、 18日間、30日間のものが18日間勉強してすぐ実戦に召集されていったんですね。 この学校から私たちが入ってるところが八重瀬っていうところです。第一野戦病院。八重瀬のほうに壕があるからすぐそこに行きましたね。3月24日の晩に移動して壕に行ったらね、ここの壕は、こう見るといいですね。南部では一番高いところにあるんです。八重瀬岳といって岳だから山のあれですよね。八重瀬岳っていうところにあって。壕が人工壕なんですよね。コの字型に壕が掘られて500名ぐらい収容できる壕。入り口が5つあってね、中のほうに碁盤の目のようにして道がつくられていたんですけれども。私がいたときには奥の方はまだまだ作業をやってました。まだ作業の途中だったんだけどそこに入っていってね、注射の練習をしたり、まだまだ患者さんは少なかったんですよ。(米軍が)まだ上陸していないからあんまり負傷者はいないけど、腸チフスとか赤痢とか、肺炎とかそういう内科的な患者さんが少しボツボツ入ってたんですね。
1945(昭和20)年4月1日米軍上陸、負傷者が増大、手術壕に
でそこでちょっと勤務をしたんだけど、(米軍が)4月1日中部の方に上陸してきて、それが2つに分かれて、アメリカさんよ、北部に行く人、それから南部に攻めてくる。やっぱり施設があるところは南部に多かったから全部そこに寄せてきて一番ひどかった首里、前線まで来たんですね。そこからがもう患者さんが溢れて溢れて、4月1日2日、4月からは患者さんがたくさん運ばれてきましたね。首里の前線が 落ち始めてからとても激しい戦線があって、そこから患者さんは昼はもう運べないから、すぐ飛行機から見て爆弾落とすし、また船から艦砲射撃が飛んでくるんですよ。だから昼は絶対に歩けない、動けない。偵察機がずっとまわってるから。どこに色んな施設があるとか人がいるとかそういうのわかったら、船の方に連絡をして艦砲射撃がそこへまた落ちてくる。だから昼は動けないんですね。患者さんもずっと首里の方から送られてきますけど、首里から八重瀬岳までといったら7、8㎞くらいあるんじゃないですか。そこをトラックに乗せて連れてくるけれども大変な人でね、負傷者が一杯でもう壕に入りきれない。私たちの方も この1口、2口、3口、4口、5口と口が5つもあって500名くらい入るんだけどここも一杯。私たち5名は手術場付きで本部壕から80mくらいいったところに手術場の壕があったんですね。手術といったら殆どが手が切れたり足がこう、(手で足を払うような仕草)、殆どの負傷兵がみんなそれなんですよ。本部壕は内科的な人だったんだけど、それも小さな傷なんかだったけれども。手術の壕というのはもうみんな連れてくるまでに真っすぐは来れませんから、昼は休んでまた夜になってこうしたりしてトラック で来るんですけどね。負傷した場所から私たちの壕まで運ばれてくるまでに、もうガス壊疽って黒くなって腐ってからですね、ガス壊疽おこしたり、蛆がわいたりって状態できよったんです。もうほとんど助からないような状態で来よったんです。最初のほどは麻酔をして切断をして、足を切断、手も切断ってけっこうやったんだけれども、 もう後になったらね、あんまり負傷兵が多くて壕に入りきれなくなって。さっきのありましたでしょう。(壕の写真をみせながら)その壕にはもう入りきれなくなってですね。これ上の壕の写真ですけど。2段ベッドといったら大変上等みたいですけど、本当に壕を柱で2つに区切って、蚕小屋みたいな感じね、蚕棚みたいな。(取材者に)あそこで見ましたでしょう。床のほうは竹で編んでね、そこに地域のほうからみんな逃げてますから、危ないからって民家のほうはみんないませんから畳をとってきて、敷いてあるのは一番上等なほうですね。将校さんたちとかそういう人たちはそういうのあったんだけど、他の人は何にもなくただ竹で編んだ台の上に毛布が1枚あれば上等なほう。そのまま寝かされたりしてたんですよね。本当に蚕棚みたいなとこなんですけどそういうところに寝かされて、まあそこに入った人はいい、そこにも入りきれないで入り口の方にもう空も見えるような、ちょっと木で偽装してますけど天井(空?)も見えるようなところに寝かされておってね。順番を待って寝かして。そしたら「痛いよ、痛いよ、私はいつ手術してくれる」ってこんな大きい人たちが泣いたりして喚いているのね。それで見たら腕なんか骨が折れて皮ひとつでブラブラしている。そして蛆がいっぱいいるんですね。この蛆が咬むのが痛いんですって。それで「痛いよ。痛いよ。私の番はいつね?」って順番待ちで待ってるんですね。そこへ来るまでにほとんどの人がこういう状態で運ばれてくる。最初の程は麻酔をかけて切断をして。私たちの仕事っていうのはロウソク持ちなんですよ。手術とかってことはできないからね。看護婦さんと軍医さんが立ち会ってやってました。その軍医さんの手元を明るくするためにロウソク持ちをするんですね。普通のこういうところ(壕)にはロウソクはありません。石油ランプを点けていた。真っ暗じゃあれだから壕の中はあちこちにランプを点けていた。手術場だけはロウソクじゃないとできない。(こんな〇〇)私それを持って軍医さんの手元を明るくするんですけどね、16歳ですよその時。この傷を見るのも怖い。恐ろしさがまず来る、またほとんど寝られませんから睡眠不足もくる。初めは12時間交代でやってたけど、あとは忙しくなったからほとんど寝ない。ただ(図を指しながら)こういうところに凭れてまどろむくらいですね。寝る時間というのはない。手術場には看護婦さんもたくさんいたんですけど私の仲間は5名行ったんです。その中の2人は手術の立ち合いでロウソク持ち、2人で2本ずつ持って4本で明るくする。で、2人はまたオシッコ(の世話)「看護婦さんオシッコー便器ちょうだい」「傷が痛いよー」ってワアワア喚いてます。だから寝る暇なんかないですよ。いつ寝たかねえ。ただこうして壁にもたれて。うたた寝までもしませんね、寄りかかって体を休めるくらいで。寝てはいるはずですけどいつ寝たかわからない。そんな状態でやってるから睡眠不足もある。食事も1日1回めしあげに行ってもらってきて。栄養も足りない。というような状態ですからふらふら、ふらふらするわけよ。軍医さんはこう(手術を)やるんだけど(ロウソクを持った)的が当たらないでふらつきますからね。ふらついていたらお医者さんは手は消毒されてますから足でポンと蹴ってくるんです。そうすると目が覚めて、というような状態でやりよったんですね。それで、その落とした足、普段は足の重さなんてわかりませんでしたけど、切られた足というのは1人では持てないくらい重たいんです。2人で持って入口の方の箱にいれて捨てにいかんといけないので夜になるのを待つわけですよ。捨てるのも私たちの係。学徒隊というのは看護婦さんとは違った下の世話をしたり、こういうものを捨てにいったり、包帯を洗ったり、使役みたいな仕事なんですね。
ここまではまずいいんだけれども、下の世話というのは最初は本当に大変でした。16歳でしたから、こんな見た事もないような仕事。一番これが辛くて慣れるまでは大変なことでした。 それから艦砲射撃の来ない時にそっと出て行って この足を捨てに行く。 艦砲射撃の跡の穴があるんですね、砲弾の落ちた跡。そこには水も溜まっているしね。 そこに投げて、もう本当に体の一部じゃなくてなんか棒切れでも投げるみたいにしてまた壕まで逃げて帰ったりして大変これも辛い思いをしました。それから 包帯も十分にないからその包帯はまた洗わんと使えないから、洗いに行ったときには蛆虫もくっついてますからね。 一か所に包帯を置いてクレゾールの液をかけると(蛆が)モゾモゾしてくる。それを落として洗うと手にも上がってくるというような状態で、こういうのも大変きつかった。きつい仕事はこれもあるし、それからめしあげというのもとても怖かったです。壕から外に出ていって80m ぐらい上の炊事場壕に行きよったわけですよ。そこでみんなの(食事の)桶を2つ、2人で棒にさして(2人で担ぐ身振り)持って帰るんですけど、おつゆなんかここへ来るまでに半分くらい無くなっちゃう。敵機が来ますでしょう、それを抜けながら、音が聞こえたらすぐ(桶を)ぽんと置いて木陰に隠れる。だから少しずつこぼれていって壕に着くまでに半分くらいになるときもあったんですけど、これ(食事)はみんなの命の綱だから責任をもって持っていかんといけないからこれも大変。もう死に物狂い。いつやられるかわからない。そして壕の入り口から人が入っていくのを見られたらここに人がいるんだということがわかってやられますからね。だから敵機には絶対見つかるな、敵機が来たら絶対外に出るなと。 とにかく そこでは大変きつい思いをして。兵隊さんの麻酔もなくなっちゃった。今まで蓄えてあったのがどんどんどんどんあれして、麻酔も半分くらいで手術をしたり、あとはもう麻酔なしでもやるような状態になってましたからね。 こんな大きな兵隊さんがワーワー泣いて「助けてくれー」ってバタバタするんですね。(軍医が)「じゃあもう切らんでもいいか。やらんでもいいか。君は兵隊だろう、軍人だろう」って怒鳴られながらやりよったけど、あとはもうほったらかされてましたね。一番最後の頃はもう軍医さんもどこへ行ったかわからないくらいになっちゃって。そのまま入り口で事切れる人もおりましたけどね。中の方は また「オシッコー、便器ちょうだい、尿器ちょうだい」って言うんだけど、その尿器の数も少ないから、この広口壜がありますよね、マヨネーズの壜みたいな、それに包帯で結んで引っ下げて尿器の代わりに持っていきよったんですよ。本当の尿器っていうのはもう絶対に足りない。また有ったか無いかわからないくらいになってましたから、みんな薬の広口壜に包帯を巻いてこう持ってきて、オシッコ取りよったんですけどね。 もうなかなか要求されてもすぐ「はい」とは持っていけないくらい、もういっぱいでしょう。人数も足りないし、また尿器も足りないから「はいはいはい」とは言いながらも、何もしきれないでそのままこういうところ(寝台の端)からショーッと垂らして、上と下がまた喧嘩してみたりね。2階にいる人が垂れてから、またやったりしよったですけどね。中の方は地獄ってこういうようなところかねえ、って思われる。地獄って見たことないけど話に聞いた地獄ってこんなものだろうかなあと思うくらい。匂いはほんとうに臭いですよね。傷の臭い、膿が出る膿の臭い、それからランプつけてますからランプの煤の臭い、汚れてますから体の匂いとかも全部がごっちゃになって。
(取材者に)「向こう(陸軍病院壕跡)でも臭い嗅がしてなかったですか?」
(取材者:嗅ぎました。)
あれは何でもないほう。私も行ったんですけどね、この臭いとは少し違うねえと思ったんですけど。とにかくもう考えても大変な、何十日も2、3ヵ月もお風呂にも入りませんでしょ。私もそう、髪も洗ってないから自分たちも虱が湧く。着物にも着物虱っていって白い虱があるんですよ。頭に湧くのは黒い小さい虱。着物虱っていうのは白くて大きくて米粒まではいきませんけど、米粒の1/3くらいの白い虱がずっと 縫い目に並んで、初めの頃は虱潰しもしたんだけどこれも慣れっこになってね。 そして 患者さんは「おーい尿器ちょうだい、尿器ちょうだい」って怒鳴る。私は「はいはい」とは言いながら手も足りない。それで 持ってったら怒られるんですね。「何を ぼやぼやしてるか。沖縄の女の子は気が利かない。」と言われたりする。もうこんな恰好して髪もぼさぼさになって顔も汚れて服も汚れてこんな格好で。そしたら中には「あなた方、お家におったらお嬢さんなのにねえ。」ってこういう風に声をかけてくれる兵隊さんもいる。そういう言葉を聞く、この一言一言にね。ここでは怒られる、ここではこういう優しい言葉かけられるところで、シュンとなったり少しはホッとしたりっていう風な状態でやって、みんなもう本当に疲れ果てて、アメーバ赤痢にかかる学生もいましたよ。友達も。そして女性だけれどもメンスなんかも上がってしまってね。これもなくって、なかったからよかった。月のものが、メンスがあったらもう大変で。脱脂綿もない、包帯もない状態でしょ。あれがあったらもう大変だったはずね。みんななかったからよかった。栄養状態でみんな止まってましたからね。無かったから良かったものの大変だったはずね、と思って。こんなにしながらも上の壕は、兵隊さんは良くなって出ていくという人は見ませんでした。退院ということは。大怪我をした人が来て、手足切られて這って、ぐらいなんだけどみんな寝たきりでこうやってますからね。それで6月4日には歩ける人は壕から出て本隊に帰りなさいっていう状態なんですよ。6月4日っていうのは私たちの壕の解散。
1945(昭和20)年6月4日 第一野戦病院の解散
6月4日、解散。第一野戦病院は解散でした。ここはもう敵が下まで来てるから、この八重瀬の手術壕、第一野戦病院にくるのはすぐ目の前だからもう解散だと。そうしたら今まではこんな汚い、苦しい思いはしたんだけれども、砲弾に当たって死ぬとか、そういうのはなかったんですよ。やっぱりちゃんとした壕に入ってるから。だけど外の住民の事は、私はもう全然わからなかったわけ。どんなにしてるのか全然。もう離されていますから。私らは山の上の手術壕の、野戦病院でやって、外のことはわからなかったんです。とにかくどんどんどんどんやられているのは兵隊が運ばれてくることでわかるし、音もどんどんどんどんしてるし、飛行機はゴーってきてババババッと。音は聞こえるけど、その下の住民の様子というのはわからない。この壕には住民は一人も入ってこないでしょ。怪我した人が1人も運ばれてこない。ということは、ここの壕には住民は入れてもらえないっていうことなんだけれども、負傷兵がいなかったのかねえと、それも考えきれない。住民は怪我をした人がいないのかねえ、とかいろいろ、どうしているのかねえということも考えきれないわけです。 忙しくてそんなにいろんなこと考える暇がない、家族のことを考える暇もない。そのくらいここではもう 一生懸命というか夢遊病者みたいにただ、ただやってるんですよね。だからあの、軍隊は住民を壕に入れない、壕から出したというのをよくみんな体験した方たちはおっしゃいますけど、私たちはそういう様子は見てないわけ。ただ住民は誰も入ってこない、ということはもう、入れてもらえなかったはずです。前の方でね。私らは中の方にいるからわからない。という事はね、後になって分かったんですよ。ここを解散になって出てから。おにぎり1つぐらいはもらえて、汚いところで、本当にもう蛆の中、膿の中、血の中、便の中、そういうところでやってはいるんだけれども、人命、命には、ここでは私たちは誰も、生きられる時は本当に人間って生きる。命っていうのはあれね、短くないですね。どうにかして本当に最後の最後まであれしてたら、3か月おったんだけれども誰も亡くなる人はいなかった。ということは普段から鍛えられてたかもしれないんだけれども。
アラグスク分院での出来事~青酸カリ団子での自決強要
「外へ出なさい。解散。」と言われてからね。みんな本部壕に呼ばれたんですよ。これが6月4日です。6月3日にはね、私たちの友達の5名がちょっとここから離れた新城(アラグスク)というところの分院に行った人がいるんです。新城(アラグスク)分院。そこへ行った人は大変大事なあれですのでね。(資料を見ながら)私たちは行ってないけど5名の人が行ってから、ここは3日に解散ってなって帰ってきてからの話なんですけどね。やっぱり向こうでもちょうど同じような負傷兵がおったんですけれども、3日の日に兵隊たちに「歩ける人はみんな本隊に帰りなさい。」と。こっちも同じように怪我人だから歩けない人もいるし、また少しは何か持てば歩けるような人がおってですね。だけどみんな動けないからやってたら、(手で団子を丸める様子)ここで。自決じゃない、やられてるんですね。みんなに青酸カリ、青酸カリで団子を作って。また、大変、ここから出てきた人たちはね、ここの壕には行ききれなかったです。そこの壕の説明してくれた方は「行くよ」って、行くけれども、その壕の入り口まで来たらもう下まで行ききれないで「すみません」って断って帰った人もいるんですけどね。動けない重症患者には青酸カリで団子を作って、自決ですね。本当に無理やりにこれを飲まされて、それでも人によって致死量っていうのが違いますよね。強い人と少し飲んですぐに亡くなる人もいたんですけど、ほとんどの人が亡くなりきれないで、大変だったと言っていました。そして、こうして自分でできない人は衛生兵が銃でやったというような。この壕、ガマはね、私たちの友達5名が行ったところでは、こういうことがあったってですね。だけどその薬を包む、それを配る、これをやったので。
(取材者:友達が?)
うん。だから絶対そこに向けない。(行くことができない。)ずっとそういう人がいますね。北部の方に1人、元気で帰ってるんだけど。もう全然、こっちのみんなの集まりでもなんでも出てもこないし、また体も弱って少しお家で寝たきり、までじゃないけど寝たり起きたりで外にも出ない状態。だからああいうものを見ると後遺症でまだまだ人前に出きれないような状態の人もおりますね。また飲めない人には注射を打って。だから日本軍の、あの殺されたっていうね。今でもね、この人たちは、こうやらなければ、どうにかして這ってでも帰れた人もいたかもしれないと。私も6月4日に解散になって外に出てからこういう兵隊さんの様子がわかったんですよ。歩けないけれども、ぬかるんでるところを這い這いしながら、でもやっぱり生きたいという気持ちの人が。生命は強いです。そしてまたみんなからもらって、私たち学徒も歩けそうな人には杖になるようなサトウキビとって置いてあったのを渡して、これで歩いて行きなさいって。これに頼っているんだけども、結局途中で岩陰にこうして亡くなっている人もいますしね。だけども最後まで生きようというその気持ちの兵隊さんたちもたくさん見ましたけどね。一番ここがもう、思い出すと。こんなにして殺されなかったらどうにかして家に帰っていたかもしれないのにね、と考えてみたりすることもありますね。ここでも自決したことになってるんですけど、新城(アラグスク)にヌヌマチガマ(地名)ってところがあります。たいてい学習に修学旅行の子たちをそこへ連れて行ってもらえる。今はNPOの○○自然学習…(思い出せない。)今までは案内人がおって普通のボランティアの人が仲間でいれたんですけど、何ていいますかね、これは、何とか学習、今はNPOのあれしてる方の許可を得て入っていますけど。私たち は時々行きますよ。立派な公園になっていて、その中の一部に壕の入り口があってね。どこに書いてあったかな。(資料を指しながら)これは慰霊塔ですね。ここに書いてありますねヌヌマチガマ。
(取材者: 武村さんの壕は6月4日に解散命令を受けてそのあと歩ける人は本隊に戻った?)
戻りなさいと言うんだけど、もう戻れなかったと思うんです。患者さんたちはもう足の無い人たちでしょ。私たちはもう解散。ちょっといま飛びましたけど、6月4日解散命令が出たときにみんな集められて「白梅学徒隊、二高女のみなさんは軍から解き放します。解散です」と。みんな私たちも一緒に連れて行ってくださいって。私たち那覇のものは八重瀬といったら全然わからない土地だから。またこんなにひどくなってからね、軍から解き放されたらどうしたらいいですか。一緒に連れて行ってください、という人もいたんだけど、命令が出てからはもうここの壕はここまで米軍が寄せてきてるから、自分たち、その部隊も後退しないといけない。その後退して行く壕も小さくてみんなを収容できるようなものでもない、ということで現在の真栄平にある壕ですけどね、慰霊塔のあるところ。そこの壕に行ったけれど(資料を指しながら) ここに壕があるんですよ。慰霊の塔があるそばにね。そこに軍は第一野戦病院を後退していったけども、あのそんなにも野戦病院のあれは果たせないぐらいの小さな壕でね。
解散、壕から外へ
それからが大変でしたね。解散になってからが。解散になったらみんなお友達どうし、組を作ってですよ。1人じゃもう本当に怖いからね、あんなところ。だから3、4名とか、また同じ田舎から来た人は同じ村生まれの人たちとか、そういう風にして組を作って出て行ったんです。私たちもね。そうしたら兵隊はもう(私たちに)出なさいと言って出してから出て行ったんだけれども、ちょうど6月といったら雨期が上がって、雨は過ぎてるけれども暑くて暑くてたまらない。6月大変でしたからね。岩陰にこんなにして(寄りかかってる様子)歩けないで止まってる兵隊さんもおるし、またこんな風に(手で地面を這う様子)いざりながら、最後のあれでしょ。私たちに「おい、手榴弾ちょうだい。」って言うんですよ。「私そんなの持っていません。」って。私はもらわんかったですけど、何名かもらったっていう人もいるんですよ。日本の女性としてね、敵には捕まるなと、死んでも虜囚の恥はかくなというような、そういう風な教えを受けてはいるんだけれども、ここの隊長さんはそういうことは言わなかったですね。「港川(ミナトガワ)通って北部にでなさい」と。という事は捕虜になって。もう湊川といったら米兵の船がたくさん囲んでね、私が出る頃にはあの辺ではほとんど捕虜が始まってたんですよ。捕虜になってる人もいるんだけど。港川の方面へ逃げなさいっていう兵隊さんもいる。それから敵には捕まるなよ、敵に捕まったら大変だよっていう兵隊さんもいる。というような状態だったんだけど。自分たちはそれまではアメリカ兵は敵視していましたからね。女の人は捕まったら大変だよっていってたから。それで降りて行ったんですけど、もう道へ行ったらびっくり。入ってくる時にはそこら辺が青々として木もあるし、八重瀬岳っていったら少し小高い丘になってるから木も緑もたくさんあったのが、もう岩肌が見えて眩しいくらいですよ。木がみんななくなって石がみえるでしょ。岩肌が艦砲射撃にあたって岩が見えてもう昼くらいに明るいわけですよね。そこを歩いていったらもう入る壕が全然ないです。どこへ行ってもない。ここの土地の人たちがちょっと小さな壕に入ってるような状態だけれども。そして水がない。昼はもう歩いてはあれですから、夕方、夜からは道はもうお祭りみたいに人がワサワサワサワサして。私は道がわからないから前の人に付いていったら向こうからも来るんですよ。「向こうは大変だよ。向こうに行けないよ」って戻ってくるわけ。私たちは「後ろは大変だよ。」って。結局もうどこが安全なところかわからない。夢遊病者みたいに人の行くところに付いていって。そして丘のところにくると人が寄りかかってね、そこで死んでいたり。また道の真ん中は日本軍のトラックがあって、その下には死体がいっぱいあるんですよ。タイヤの下にかき集められたみたいに死体が入ってるわけ。
トラックがあるでしょ。タイヤとタイヤの間が少し地面からあいてるでしょ。そこにみんな死体が入ってるわけ。ということは機銃掃射かなんかそういう時に何かに寄りかからないといけない。だからそういうところに隠れてバババーッてやられたあともあるしね。それから何にもない道の真ん中で折り重なって山のように死んでる人もいる。そしてちょっと木陰の下のほうにはこうして(倒れてるしぐさ)死んでる人がいる。本当に折り重なって道は歩けないぐらい。ここを飛び越えて歩いていくぐらいに、いっぱいに民間の人、住民ですね、また兵隊ね、もう入り混じって。本当にもう道も歩けないくらいに死体が転がっているところがある。また何でもないところがある。だから一ヵ所みんな集まってるときにバババーって機銃掃射でやられたりね。また爆弾が落ちてやられたり。特に家の井戸のあるところは大変でした。あそこはみんな水を求めて来るでしょう。だからその辺には死体がかたまって。私も入る壕がないから、ちょっと小高い石垣みたいなところに木陰があったので、あちこちから集まって11名一緒になったんですよ。歩いてるうちに「〇〇さん、〇〇さん」って声が聞こえるから付いていったりして。結局11名のグループになったわけ。大人数の。そして少し小高くなったところの木陰に入って昼は動かない。夜になるとサトウキビを取りにいって。
結局サトウキビがあったから沖縄の人は、半分は、このくらいは生きていたんじゃないかなと思うくらい、とにかく水がなくってサトウキビで命をつないだ。サトウキビって水分もあるし糖分もありますでしょう。だからサトウキビでだいぶ命を繋いだ。夜になるとサトウキビを取りにいって昼はそれをかじって水分で潤してという状態でしたけどね。それが米兵にもわかったんでしょ。サトウキビ畑は火炎放射器で全部焼いて。本当に根っこのこのくらい残ってるわけですよ。地面に入ってるくらいの根っこね。これも黒くて汚くはあるんだけどそれを取ってきてみんなでかじってね。というふうな状態でね。何にも食べる物がなかったということ。飲むものもなかった。 水がないと、一番は水ですね。食べるのは我慢できるけど水はもう絶対にあれだった。でそういうものを取ってきて夜はサトウキビで潤してこんなにやってたんですよ。
そうしたら昼に榴散弾というのが打ち上げられて、空中で爆発して私たちのところにバラバラバラーって降ってきた。みんな疲れてるからおしゃべりしながら(寝転んで)ウトウトしていたら音がして「あ痛ー足がもげたー。」とかね、もげてはいないんだけど、このへん(足の付け根を指して)少しやられて「足が焦げたー。」って大きな声でみんな大騒動になったのね。そしたら私もその時には本当に小さな破片だけど(左側頭部を指して)頭に当たって、もう耳が全然聞こえなくなっちゃって。足、ちょうどこんなにしていたんでしょうね(体の左側を上にして寝る様子)。 頭もこっち(左側)足もこっち(左)、まだまだ傷口がありますけどね。(傷痕をみせながら)こっちから入ってこの辺まで入って。もう6、70年になるんだけど残ってる。まあ一番(傷は)小さい方だったんですけど、お友だちの中には胸をえぐられてね、胸やられた人とお腹やられた人と2人はもう重症だったんですね。一人はもう息も絶え絶えになってたからね。どこかそこの近くに病院がないかね、診てくれるところはないかねと探したら、ちょうど私たちは第一野戦病院だったけど、第二野戦病院というのがあるんですよ。そこの壕はとっても広くてね、そこへ担いで行ったわけ。そこに1人兵隊さんがおったから手伝ってもらって。まだ部落のほうに家が残ってるところがあったから戸板を外してきて乗せて、2人を連れて行ったの。夜ですね、連れて行ってそこの壕まで行きました。そしたら「怪我したから入れてください」と言ったら「民間人は入れない」と。そこで、ああやっぱり、民間人は断ったていうのを私はそこで初めてあってね。今までは自分たちは軍と一緒だからそんなあれはなかったんだけど。民間人となるとああそうなんだねと思って。もうこのお友達はもう息も絶え絶えですよ。 「水が欲しい、水が欲しい」って言いながらね。「もう少し我慢して、ここの病院に入れるよ、この病院に入れてもらおう」って連れて来たんだけど、民間人は入れないって言われたから、私たちは「ここは第二野戦病院でしょう。私たちは第一野戦病院の学徒だったのよ、勤務だったのよ」って言ったら「じゃあ上の人に聞いてみる」って入れたんですよ。入っていいと言われた途端にまた2度やられちゃってね。入らないうちに入り口の方でこの人がやられてしまったから。もう息も絶え絶えになってね。水が欲しいと言われて兵隊さんが助からないから飲ませてあげなさいと言われて。そこから少しもらってきて、亡くなりましたけどね。もう一人の人はずっと奥の方にこの人も付いて行ってもらってベッドに寝かす。ベッドっていったってこんなベッドさ。(床を指さす)。 だけどこの人もお腹にもう蛆がわいたりしていたんですよね。この人は助かりまして、元気でおりますけどね。この人は一人壕に入れられて患者だけおいて私たちは出なさいって、ここにいられなかった。この人はもう意識があまりなくて、目が覚めた時に誰もいませんでしょ、友達いないですよね。ここでちょっと私を見捨てて行ったという風な勘繰りをしてたみたいだけれども。そうではなくてあなた方は入れません、出なさいと言われたわけだったのね。このゆりちゃんって言うんだけど、この人はもう長いことこの壕におってね。 この壕は水も流れてきて大変だったんですって。雨の時に大水になってここに寝てるのにずっと下まで流されていったり、そうしながら生きていたの。子どもさんもできてね。こういうことを考えると、やっぱり沖縄戦っていうのはもう、住民が矢面に立たされてね。兵隊は頑丈なとてもいい壕に入れた。いいところはもうみんな軍がとってますからね。住民たちが一番最初に入ってたところもいい壕だったらすぐ軍が来て「ここの壕は軍が使うからあなたたち出なさい」って出されたみたいですね。私たちはそういう目には合わなかったけど、この一番最後のところで「ああこんなだったんだね。民間人は入れない」と。大変でしたけどね。その後も水がなくてなくてこれからが大変でした。夜歩いてたらね照明弾が上がるわけ。この照明弾というのは真昼みたいに明るくするんですよ。こっちから人が歩いてるのももう船から見えるわけね。船から打ち上げるわけよ。照明弾でもって人が歩いてる、ここに何があるとか全部見える。だから兵隊さんから「照明弾が上がったら絶対に動いてはいけません。すぐそこに死んだふりをして動いてはいけません」と教えてもらって、こうやって(伏せて)いたらヌルってするわけね。ヌルってするから見たら周りの道端に亡くなった人が横たわって、もうお腹も膨れているわけよ。そこの顔にこんなにしたもんだから(手を付く様子)こうすると(伏せたまま顔をそちらに向ける様子)顔が見えるわけでしょ。「ごめんなさい。助けてください。」っていってね。こんなこともありましたけどね。もう怖いということはなかったですね。「助けてください」って。膨れ上がっている人が横たわっているという事もあって。だけど水が欲しい、水が欲しいってみんな、おしっこも飲んだっていうけど、これだけは私は絶対飲めなかったねえって、後から話してるんですけどね。
摩文仁の丘へ。捕虜になる
そしたらもうずっと、摩文仁の丘の果てまで追い詰められて、海岸の近くにこういう岩と岩との間があるんですよ。そこに入ろうって。木の枝を伝ってね、木の根っこを伝って下に1人ずつ、11名おったお友達、みんな1人ずつこうして。みんな一緒におるから順番順番に降りていった。もうこんなに苦しい思いするよりは死んだほうがいいねえ、といって、ここで死のうかねえ、って思ったりもして。みんな降りていってここでうたた寝をしていたらね、本当にもう死んでしまいたい、誰にも見られないようにそこで死んだ方がいいね、と私は思ったですよ。だけどまたこっちにだけいたら敵に見つかるから場所を変えないといけないわけですよ。1人ずつ間隔を空けて出なさい、ということでね。たいへん気の強い同級生がおってその人が命令するわけ。みんな一緒にドカッと出たら目立つから1人ずつ離れてっていってからね。1人が行って、4、5、6メートルぐらい行ったらまた次の人が出ていく。結局私はもうよじ登るのも難儀、もう力がない、登りきれないといって、ここで死んでもいいねえと思って目を閉じてやってたら、ちょんと岩陰から雫がたれたわけ。もう水も飲んでない、カラカラでもう死んでしまいたいということでこうやってたら、チョンと唇に垂れた。「あっ水だ」ってもったいないから持ってた脱脂綿に浸して、こう(口に)絞ってこうやってたら一番ビリになって誰もいなくなっちゃったんですよね。自分1人取り残されてこうしてやってたら、もうこれだけ飲んだから死んでもいいって思ったんだけど。「ああ美味しい」って。そうしたら私全然人の霊とかなんとか信じない方なんですよ、あんだけ人が転がっていても。大変だとか信じない方なんだけど。だけどその時自分の母親の顔が見えてね。雫が落としてから「生きるんだよ、生きるんだよ」というような声がしたような気がして。ああ自分はこの水で生きられるかもしれない、と思ってやっと力がでて出て行ったんですね。そして友達を探しても誰もいないから、自分1人どうしようかねと思ったんだけど、近くにこの土地の人がおられてね、そこに降りたら水が流れてるところがあるよっていうことで、みんななんか向こうに降りてく人がみえたの。私も付いていって降りていったらね、まあ水が流れて、海に流れ込んで。もったいないくらい流れていくんですよ。そこはそこの村の人達が使った、囲って芋を洗ったり、洗濯したりした跡があってですね。水が流れてるの。見たら人がいっぱい、みんなこれを探していたんでしょうね。すぐ飛び込んでいってまずは飲むものから。汚い、洗濯もした何やかんやもしたはずだけど、もうとにかく飲みたい、口を潤したいということでガブガブ飲んで、それから頭も洗って。頭ももう本当にね、70日間も全然洗ってないから。そして今度は体もこう拭いて、とてもさっぱり、までじゃないけど、とにかく夢中になってこう顔を上げてみたら、まあ背の高い毛むじゃらのアメリカさんがね、赤い顔して上を裸にして。もう真夏ですからね、顔も真っ赤に日焼けして髪も赤いでしょ。銃を持って立ってるんですよ。ここはもういっぱい住民がみんな水を欲しがって来て、結局ここで捕虜ということで。「歩きなさい、港側に歩きなさい」と。海岸を伝って岩だらけのところを歩いて行こうとしたらね。あのアメリカさんが肩たたく わけ。「ああ。もうおしまいだ。本当に捕まった。」と思って、「アキサミヨー」って。アキサミヨーといったら沖縄語で「ああ大変だーっ。」っていうようなこと、急に出る言葉。「アキサミヨー」って言ったら、そのたたいたアメリカ兵がここにいるおばさん、ちょっと歩きにくそうにしてる人がいるわけ、「この人の手を捕まえてあげなさい。」って言ったから、アメリカさんにもこんな優しい人がいるんだと初めてこの人の暖かさっていうのを。まずはアメリカ人といったらほんとに今まで私たちは敵愾心でみていたんだけど。手をつないでたくさんみんなが集まっているところに摩文仁の海岸だから岩でゴツゴツしているところに足も痛いんだけどやっと着いて。港側の捕虜がこうして初めに着いたところ、座ってるところに行ったらね、お友達がみんないるわけよ。また11名一緒になった。そしたらもう丸くなってみんなもう髪の毛も虱でやられてるからボサボサになって、毛が3本くらいになって、やってるんだけれども、若い子っていうのは目立ったんでしょうね、アメリカさんから。チョコレートを持ってきてね、箱に一杯のチョコレートを持ってきて置いたんです。そしたら私たちは「だめだよ。敵のものは食べない。」って(顔を下に向けて)こんなにしてたら。(ちょっとおかしいね、要らない話をしてもいい?これは全部カットして)あの私たちが食わないってしてたから、子どもたちがワサワサワサってみんなきて(チョコを)取ろうとしたわけですよ。そうしたらアメリカさんが「NO、NO、あなたたちじゃない。こっちのものだから。」って。それでも私たちは(下を見て)こんなにしてたから開けて毒入ってないよって食べてみせた。だからここで(アメリカ人も)同じ人間だねえと思ったんですけどね。でもまだまだこの人たちの顔見るのも嫌で、みんな俯いてやってたんだけど。とにかく捕虜になりまして、まあ命はながらえたけども、まだまだ家族のことを思うゆとりはなかったね。まず自分、本当に自分がどうなってるか、家族のことを思うのはまだでしたね。逃げた、その恐ろしさから、逃げて生きるか死ぬか、死んだ方がまし、だけど今生きてる、恥ずかしい。生きてるのが恥ずかしいということでしたね。そこではみんなまだ恥ずかしいと、こうして俯いていましたけどね。
そのうちに収容所へ連れて行かれて、まだみんな若いから作業に出なさい、っていうことで作業に借り出されて、1日働いてきてお芋ひとつもらってきて。配給なんですよね。働いた人はお芋1個。そうして南部から今の辺野古、大浦湾に連れて行かれたんですよ。沖縄の捕虜収容所があったからね。船に乗せられて南部の方から、島尻の方から、捕虜になった人たちはみんな船に乗せられて 辺野古、大浦湾に連れて行く。後ろからトラックも入る船でした。後ろをこう開いてね、トラックが何台も入っていった。みんな捕虜の人たちを入れて船が出たんですけど、その時も私たちはもう沖の方に連れて行かれて沖で(海に投げ込む様子)殺されるんじゃないかねとかね、もうそういう事しか考えてなかったですね。
辺野古収容所へ
もういいや、諦めて船からこう着いてみたら、向こうの港にはいっぱい沖縄の人たちが出迎えているんですね。北部の方に疎開した人たちが南部から捕虜が来るっていうことでみんな待ち受けてる。そしたらまず一番初めにお友達が1人「お母さんだ」ってね。そこで1人だけお母さんが迎えにきて。
みんな羨ましがって。その時にみんな、ああお母さんに会いたいって。私はもうあの水を飲んだ時に、ああお母さんに会えた、お母さんが行きなさいって言ってる、お母さんに会いたい、どうしてるかなっていうのはそこで感じはしたんだけど、みんなそこで、ああ自分たちもお母さんに会いたいってってことでね、羨ましくって。みんなだけど、それぞれ迎えに来たり、親戚と会ったりして。結局私はまた自分1人。どこで亡くなってるかわからないんですよ、うちは。そこでも1人であっちこっち探して、それでもわからない。それから宜野座にお友達の家があったから10月10日空襲でもお世話になったけど、また今度もね「家に行こう」っていうことで。お友だちの岸本さん、いまはイヘイスミさんって言うんだけど、この人とはいま切っても切れない縁でね、お友達で。どこへ行くにも今一緒ですけどね。この人の家に連れて行ってもらって。そこを拠点にしてまたあっちこっち親を探して。「向こうに那覇の人がいるってよ」っていったら行ったり。
だけど北部の方にはいないと、今度は南部に行って。まだまだお骨がいっぱい転がってる頃です。着物の柄も見えるくらいの、髪の毛もくっついた遺骨が転がってる頃。あっちこっち探したんですよ南部も。ところが「最後にあんたのお母さんと会ったよ」という方と会ってですね、この辺だったということで連れて行ってもらったけど。この屋敷内いっぱいにお骨が。家が一つだけ残ってたらしい。だからそこにみんな集まってきてね。そこでたくさんの人がやられたと。だからこの辺じゃないかなって。このおばさんが「私たちはもう危ないから行こうって言ったら、あんたのお母さん(うちのお母さん)がね、いや娘が( うちの姉ですね)大怪我してるから歩けそうにないからあんたたち先に行っときなさいって言ってここで別れた」と。それを聞いたもんだから一緒に行ってもらったけどわからないでね。もうあんまり遺骨が多いもんだから、人のお骨を拾っていっても悪いかなと思って。そこでもう石ころを。とにかく最後でしたから、よそも探したけどわからんかったから。そこで最後に石ころを拾ってお墓にあれしたんですけど。
この前ちょっと墓を開ける用事があったので遺骨を見てみたんですよ。お父さんのお骨はこんな大きな甕、まだ火葬してないから大きな甕に入っている。小さい甕もあるけど、この小さな骨甕にね、中にね石ころが2人分、2人一緒に入れてあるんですけど。あれを見たから、ああ私も間違った、あの愛国心というか、間違ったこの教育のためにね、姉なんかまだ20歳、あの時分21だったか、ちょうど青春もねわからない頃に亡くなって。母もまだ60ぐらいでしたから。いつもお祈りするときに「お母さんごめんね。また向こういってからうんとうんとお詫びしますからね」って。 私も近くなってるから、お詫びしますからねってお祈りをするんですけど。まだ続いてますね、私たちの戦争は。だから皆さんみたいに若い方が、戦争は本当に二度とあってはいけないと。あそこで親を亡くして、また道に迷っての孤児院なんかに連れていかれた人たち、それから母親は死んでいて母親の背中でパタパタして生きていたけど、私たちは自分もこんなして歩いているからそれを助けてあげることもできなかった。そういう苦しさもあるんですよね。人間らしさを失った。こんな困ってる人がいたら本当は助けてあげるべき、小さい子はどうにかしてあげる、声かけてあげるべきだったはずだけど、それもやらなかった。だからたくさんもう、人間喪失、そういうような。戦争というのは人の心も失くしてしまうということですね。そういう目にもあったし、また70年経っても鮮明に覚えてるわけです。現在のことは全然人のお名前も、失礼だけど、忘れてしまったり、いろんなことよく忘れるんだけど。その時のことはもういつまでもこびりついて、私たちは。こんなこと二度とあってはいけない。だから生きてる間はその厳しさ、戦争というのは大変無駄なこと、本当にね、人の命もありとあらゆるもの自然だって何だってみんな失ってしまうから。戦争というのは二度とあってはいけない。小さい子たちに言ってもわからないはずだけれども、何か物語みたいになって。わからないはずだけど、この後を継いでくださる方たちが引き継いで「戦争というのは無駄だ。無残だ。」ということをですね、やってください。それでみなさんみたいな素晴らしい方にお会いすると、私は普段はあまり話をしないんです。うちの中山きく会長が「あなたはいつも引っ込み引っ込みしてる」って言われるんだけども、話だしたらもうこれだからね。みなさんみたいな方に会うと、非常に心が、気持ちが大きくなってありがたい。あと(残り)少ないですからね。もう体も弱ってくるし、頭も弱ってくるから、話せるあいだにと思って。みなさんに期待をして。
(取材者:こちらも体験を後世に残せるお手伝いができればと思って。)
そういう事を考えてくださる方っていうのは素晴らしいですよ。もう現在をみるとね、人を殺すのもなんでもないでしょう。人の命を大事にしないと。命の大切さっていうのを。だから私らが見たら自分の命と替えてあげたいぐらいの気持ち。残された人の気持ち考えるとね。やるせないですよ。
家族の話
70年っていったらまだまだ私は親の顔が…(立ち上がり写真を探しに行く)写真がないの。全部10月10日の空襲で焼かれたからね。全部やられた。これは人からもらったの。〇〇からこんな色になってしまったから。(奥から額に入った家族7人の写真をだしてくる)
ちょうど小学校5年生ぐらいだからお父さんが亡くなった時期の写真だと思う。
(写真の3人の兄を指さしながら)こっちはねみんな東京へ行ったんですよ。こっちは沖縄で亡くなりました。こっちは広島の軍隊に召集されて行って。大学卒業して少しお勤めしたんだけど一昨年亡くなりました。こっちも一昨年病気で亡くなった。ここは前に亡くなりましたけどね。この2人です。これは私の姉、子持ちだったから疎開して、これが私、これが母です。沖縄の服装をしてたの。カンプー結うてね。
(質問者 この着てる服は?)
これは普通の、これだけがね、私、2本線。普通のこういうジャンパーもあったんだけど、ジャンパー付き、吊りスカートでもよかったわけです。ただ2本線で学校の印。小学校でしたからね。女学校は日本全国統一。
(取材者: 広島で軍に取られていったお兄さんと もう一人、上のお兄さんたちはどういう感じだったんですか?)
一番上の兄は兵隊に行ってます。兵隊に行ってそこで鹿児島の彼女、奥さんを探してきてるんですけどね。いっとき国内の召集があって(考えながら)はっきりはしないけれども兵隊に行ってその帰りに沖縄に寄って私たちは初めて会ったんです。私が生まれて一か年位してからすぐ行って。向こうで生活をしてそれから向こうから召集されて。それで明けるときにちょっと家に寄って帰ったという。
(取材者:初めて会ったんですか。その時どう思いましたか?)
初めて会いました。兄がいるという事はわかってはいたんだけど。あの時まだ自分は子供だったからね。私はやっぱり2人の兄のおかげで学校も出してもらった。その恩義は大変感じてますね。母親の稼ぎだけじゃ食べるだけしかできませんから。お兄さんたちの給料をもらってその働きでもって仕送り、たくさんじゃないけど、ちょっとずつやってもらったということで私と三男は 兄たちの力で学校を出たということですね。
(取材者:次男の方は?)
次男も中等学校まで出て東京に行って兄の家で書生、アルバイトをしながら夜間で中央大学行ってるんですよ。それで帰ってきてからは召集されて 広島で原爆にあたってます。
(取材者:あたって?)
何でもなかった。ちょうどその日はいっぺい?っていうんですか何ていうか、広島城址に行って自分の宿舎に帰ってきてからちょうど12時(注:広島の原爆投下は8時15分)これ(原爆)にあってですね。この人もまたあれがあるのよ。帰ってきて原爆にあたった時、兵舎は全部つぶれたんですって。それで下敷きになったからよかった、それでそこにちょっと明かりがみえたから、そこから母親の顔が見えたんだって。そしたら結局自分は、私は学徒隊で沖縄もこんになったていうことが分かってるから、私は亡くなって母親だけは生きてるだろうと思ったんですって。母親が顔を出してるからね。私のことは全然出てこなかったって。何回か母親が顔を出したと。だからお母さんは生きてるんだねえと思ったそうです。だけど逆になってるよって帰ってきてからそう言ってましたけどね。それで潰されたときにね、水道管が破裂して水が出てきたんだって。それで全部浴びたって。それで被爆をしなかった。
(質問者:すごい奇跡。)
もう93歳ぐらいまで生きてましたけど ね。
(質問者:もう本当にお母さんが…)
だからみんなね、そんな感じ。兄がそんな言ったのはずっと前に聞いてたんですよね。だけど私もそういう風な、ちょうど同じ頃、いえ私は少し早いね、広島より。でも同じくらいのあれよね。だからお母さんが助けてくれたんだはずねえと思うんですけどね。
(取材者:そういうことがあるんですね、で生きて帰ってきて再会して…)
帰ってからここで次男は生活していた。だけど私は兄弟にも助けられたけど、もう周囲の方にたくさんお世話になって。もう家族誰もいないでしょう。終戦後はここのおばさん、それからクワエ?の実家のおばさん、まだ結婚してませんからおばさんのお家に引き取られて みんな女ばかり2所帯の、おばさん、長女、次女、三女、四女、私、6名みんな女だけの所帯に助けられて。うちに来なさいということで向こうに拾われて。その子供たちが みんな小さい、私よりも下であるわけさ。みんな女だけの6人女そろってやってですね。終戦後田舎の人は自分で畑をして自給自足をやり始めたんですよ。お芋なんかも拾って。だけど私は〇〇だから土地もないしただ避難民みたいにして暮らしているから。その方の畑の後を追って小さい芋は捨てますでしょ、大きい芋は取って小さいヒゲ芋は捨てる。「叔母さんこれもらっていいですか。」ってもらって袋に詰めて持って帰った。そんな事もしたしね。このまま食べたらもったいないから全部、あの芋煮にしてももったいない、おつゆに入れて食べたりね。それからカタツムリを取ってきて食べたりね。カタツムリ、それから蘇鉄、ツワブキ。ツワブキの茎も食べる。沖縄ではチーパッパって言いますけどね。ツワブキ、蕗さ、山蕗。山に生えてるチーパッパ、といってもすぐには食べられません。葉っぱも刻んで 茹でてそんな風にしてこれも食べたしね。終戦後はもうありとあらゆる緑、生えてるものは何でもいただきましたね。
(取材者:物が無い。)
(頷きながら)終戦後は本当に。けれどもアメリカさんの配給で、缶詰の配給とかお米の配給、またメリケンコの配給が多かったですね。そういうもので繋いで。とにかく働き手がいなくって私を頭に2つずつ下、一番下が1年生。それだけみんな女でね、暮らしたもんだからおばさんは大変苦労なさったと思いますけどね。そのおばさんのところに行って、また次の叔母さんのところが自分一人だからうちに来なさいってから行って。それからお友達の岸本さんのお家も行って。みんなのおかげで助かって命を繋ぎましたけど。私がいたからまたこの子たちね。(家族の写真を指差しながら)みんな生まれてきてね。孫とかそういう、命を繋げたから生きていて良かったねえと今思っているところです。
(取材者:三男の方は?)
三男はね、工業高校を出てそれから内地の方で、戦争が始まる前だから…私より2つ上ですからね、向こうでお勤めしてました。東京でちょっと務めて、それから疎開の引き上げでみんなが引き上げる頃にこの人も引き上げてきて、終戦後いっしょに。それで市役所に勤めてましたけどね。もう亡くなって7年くらいになるかね。
(取材者:ここに書いてあるんですけど、戦後は教員?)
ああちょっと、ちょっとじゃなくて39年かね。最初は小学校ないから幼稚園の先生してて
それから小学校。講習、講習でね、学校行かないで、師範学校じゃなくて講習でずっとやって39年勤めました。
(質問者:何を教えられたんですか?)
小学校だから全部。各教科よ。小学校はそうですよ。中学校からは専科になりますでしょう。小学校の4年生からは理科の先生が出てくるし、音楽は自分でやりましたね。たいてい理科と音楽は専科の先生がいらっしゃるから。理科も4年生、5年生くらいまではあれじゃないかな。
(取材者:師範学校に行かずどういう形で教員になろうって思ったんですか?)
あの時分はね、 終戦後だから学校は始まってるけど男の先生があまりいらっしゃらない。だから女学校を出た人たちはみんななれたんですよ。教員が足りないから。そして、あの何と言ったかな、文教学校というのが戦後1年ぐらいして建ったんだけれども、私はその頃は親を探してあちこち行ってたから 行かなかったんですけど。それで講習、夏休み、冬休み、また 夜間講座、そういう教員の資格を取る講座があってそれを受けて普通の仮免から教員をできよったんですね。 それから2級、1級って学校?の切り替え、切り替えでね。だから結婚してからも大きいお腹してまでも単位をもらわんといかんで琉球大学の学校に通ったね。
(取材者:そうやって免許を取って教員として)
あの時はほとんどそうでした。師範学校はもうないんだもん。終戦後は師範学校は無くなりましたから。女子の学校もみんな沖縄は無いんですよ。
(取材者:無くなっちゃったんですか?)
うん、、もう廃校っていうか後がないわけです。
(取材者:全部焼かれて?)
焼かれたのもあるし、また女学校っていうあれが無くなった。女学校はないです沖縄は。
小学、中学でしょ、すぐ高校さね、高校ってのは女子高ってのはないんですよ。女子はみんな普通の、男子も女子も一緒の高校。女子だけの女学校ってのはもう廃校になった。
(取材者:最後の女学校。)
最後のって私はもう卒業でしょ(3本の指を指しながら)、3年生、2年生、1年生がおったわけ。この人たち(1年生)ももう1年で終わり。また他の高校に行った。戦後の高校に出てるわけ。この人たちも(2年生)戦後の高校に1年くらいは出たと思う。こっちは(3年生)もうそのままだと思いますけどね。
(取材者:戦争の影響で学校も 解散。)
そうそう。女学校はもう無くなりました。女学校だけっていうのは。いまみんな男女共学になっちゃったでしょ。中等学校はそのまま残ってます。
(取材者:結構今ある学校は戦後に建てられた?)
うん、戦後の制度で。あの高校になったでしょ。その時に女学校は。みんな高校。男子高校、女子高校になった。だからあそこに (資料をみせながら)〇〇高校はあったんですよね。県立二高。こっちが師範学校ね。女子師範というのがあってここはもう先生、女学校4年卒業したら受けられよったわけですよ。だけども全部この女学校無くなったもんだから女学校はみんな無いです。
(取材者:こんなにあったのに全部なくなったんですか)
うんもう廃校、廃校っていうか制度がね、高等学校になって男女高等学校。一緒になった。
(資料を指しながら)ここはもう2つ無くなりましたね。私たちの二高女も、白梅も無くなりました。なごらんというのも、本当はなごらん女子だけはないけれども、今三中と一緒になってます。名護高校になってます。それでこっちも無い。瑞泉ももうないです。梯梧(でいご)もないですね。このへんはまた八重山高校とか宮古高校とかってあるけれどもこれは続きではないですね、女学校ではない。高等学校になってる。
(取材者:ひめゆりとか白梅という名前はどこからつけられたんですか?)
これはね、私たちは校章からです。白梅…(携帯のストラップをみせながら)こういう校章だったんですよ。こっちも校章が百合だったの。ひめゆりも。 なごらんというのは、名護には蘭の花があって。これもそう。こっちは戦後つけてる。だから女学校はない。三中、名護高校、みんな高校になってるから。あとは継いでますけどね。他も女子高校はみんな無くなりました。後を継ぐのもなくって。これは何だろう?積徳、積徳はすぐそこにありますね。こっちも無いですね。
八重山にはね、八重山高校ってのがあるんですけれども女学校というのは無くなってる
(取材者:教員はどこでされたんですか ?)
あっちこっち。だいたい那覇市ですね 私は。一番最初は東風平。
(取材者:東風平にある幼稚園?)
いやここは小学校でした。那覇に引っ越すときに那覇が空かなくって、それで幼稚園が空いてたから幼稚園に入ったわけです。
(取材者:あーどっちも)
出来た。だけど幼稚園は誰でも。ここの師範学校卒業したおばちゃん達も、幼稚園の先生をした方たくさんいましたけどね。(資料をみながら)教員をしておったのどこに書いてあったかな。
最初は小学校におってですね、2か年くらいやりましたかね。それから結婚して那覇にくるからって幼稚園に入って、それからまた小学校に。
(取材者:そういう教育の場で自分の戦争の体験であったりを話そうと思わなかったんですか?)
みんなそれは同じ気持ちですけどね、最初はみんな話したがらなかったんですよ。 話すのがきつい。苦しい。思い出してくるのもあるし、また人の前に出てこれを語るということはやらなかったですね。私も学校やめてから外に話には出た。そこいらの近くの人とかそういう人たちにはただの話をするけれども私は。中にはもう絶対にこれ、子供たちにも話して聞かせたことはないという人もいますけど。私は子供たちにはしたけれど学校ではやらなかったです。そしてこの前八重瀬のところに行った時に、マスコミの新聞記者の女の子 が来てたんですよ。教え子だったわけ。偶然にも教え子だった。「先生、先生は私が学校にいる時にはこの戦争の話全然しなかったよねえ。」 っていうから、「ええそこまでは話せなかったのよ。」って。本当に人前でこういう話をするの。個人的な話はやったんだけど。それにね慰霊祭なんかのとき。慰霊祭にはちょっともう向かわれなかった(行けなかった)ですね。
あの、遺族の方を見ても、向こうが「うちの子供も生きてたら あんたたちぐらいになった。子供もいるようになったんだね。」とかね、そういうこと言われたことがあったもんだから、あれからもうちょっと行くことができなくなった。自分たちは生きて帰ったけれど、亡くなった友達のことを考えるとなかなか向けなかった。が 現状を見ると、現代の社会を見ると是非ともこれは語り継がなければいけないということをみんな思ってます。
(取材者:みんな思ってるんですか?)
そう。みんな思ってますよ。
(取材者:もうだめですか今の社会は?)
だからね、いや、こう(戦争が?)やってきたら大変よ。まったく似てるからね。似てるからこんなんなってきたら大変だからね、と思って。だから学ぶことですよね。 私たちは全然そういうことを学ばしてもらわなかった。
本当にしっかりこう学んで、良し悪しはどこかには共通するところもあるけれど、またもう絶対に相容れないところもありますしね。それはもう自分で勉強してないと。社会をよく見つめて、偏り過ぎてもいけませんけどね。 現状 沖縄はもう。二度とあんなことがあったら大変だから頑張らなくっちゃ。
(取材者:56人の女学生が第一野戦病院に送られた。そのなかで帰ってきた子というのは?)
22名 はなくなりましたね 。
(取材者:どこで、どうやって?)
わからない。5体は親の元に帰ってます。56名のうちから5人は親元に帰ってます。22名亡くなったうちから5名は親元に帰ってますがら。17名の人たちはどこで亡くなったかもわからない。お骨はあがってない。場所のわかってる人もいますけど、お骨はあがってない。
(取材者:それが一番多分 親としては心苦しいですよね)
親御さんは亡くなりましてね。いま慰霊祭やっても兄弟は残ってる方もあるかもしれない けどたいていは甥、姪になってますね。
(取材者:若い人が参加しなくなってる)
それもありますしね。もう年、亡くなった人が87、8くらいでしょ。結婚してないから子どももいない。姪や甥くらいしか。
(取材者:(資料を見ながら)ここに行かれたんですよね。 第一野戦病院、どこに行かれたんでしたっけ。)
学校からは東風平の学校にあれしてますね。(資料を指しながら)一番ここが駅から出発して看護教育隊に入るでしょ。 東風平の小学校で教育を受けてそれから八重瀬の野戦病院に行きますね。野戦病院に配置されますよね。56人が。そこから10名は帰されます。あの返されるっていうか、本人たちもわからないで。「どうして私帰らんといけませんか。」っていうあれした人もいるんですけどね。家庭の都合とか、体のちょっと弱い人とかはね。10人は帰った。
(取材者:10人帰って、手術場壕で)
(資料をみながら)ここで解散ね。4番、手術場壕、本部壕。野戦病院に半分おって、手術場壕に5名、残りはまた東風平分院、アブチラガマ、新城分院に。
(取材者:そこでいろいろと分かれていった?)
ええ。本部はこっちですね。
(取材者:本部に残られてたんですか?)
わたしは本部の中の手術場壕に行ってます。中山さんと私と。
(取材者:一緒だったんですか?)
ずっと一緒です 。だからもう兄弟みたいになんでも言える。言いつけられる。ずっと一緒です 。
(取材者:手術場壕はこないだ陸軍病院の跡で説明を受けたんですけど。 なんか何もないっていうのはわかるんですけど、説明を受けていると悲しくなり胸がしめつけられるような。手術といっても何もできなくて切るだけで、それを女学生たちが最初は怖がってたんですけど大根だと思うようにしなさいって言われて、大根だ大根だって言いながらやってたって聞いて。それが戦場なんだなって。もう経験されてますものね。すごい。)
本当ねえ。あれは怖かった、最初は。ロウソクが本当にゆらゆらするみたいに(身体が揺れる様子で)
(取材者:お腹空いてるし眠れないし…)
栄養不足、睡眠不足、怖さ、そんなのがそろってから。
(取材者:話が飛んですみません。それで教員を辞められてその後から話を始めようと思った?)
ずっと後ですね。教員して辞めてからかな。解散してから。
(取材者:なにが話そうと思わせたんですか?)
同窓会に。あの、学校を退職してから。勤めてる間はね、やっぱり家族があるでしょう。 私の場合はまた姑もおって、その姑の世話をしながらお勤めして子育てして。こうちょっとみゆく?人のことを考える余地もなかった。そしてたまに1年に1回 慰霊祭に出かけて行く時に、ちょっとその遺族の方にお会いするのがきつかった、ということで。だいたいわかるでしょ、子育てしながら忙しくて〇〇もみることができないって。そのあとはみんなまた動き始めてますね。語り部というのはその後から出てるんですよ。最近。でも最近っていっても 私も退職してもう30年近くなりますからね。そのあたりから。
(取材者:子どもが手を離れて…)
私の場合はそうですね。
(取材者:いま同窓会の会長…副会長・)
会長は中山さん。こっちの同窓会も一緒だからいつもあんた行きなさいって。ほとんどの人が語り部を始めるのが遅かったですよね。 一番最初にやってくれた人は、もう今ちょっと倒れてわからなくなってますね。あの人が今の慰霊塔の壕も見つけてくれて、とっても働いた人なんだけど。もう一人は中学の先生でやってたけど。彼女が一番真っ先に語り部をやってますね。だけどこの人も今はあんまりわからなくなってる。年々そうなんですよ。
(取材者:こちらが早くお話を聞きに行かなくちゃ。)
あの時分はね、みんな最初は語りたくない、思い出したくない、そういう気持ちでやってたんですけど、現状がね、最近の状況を見ると是非伝えておかなければいけない。社会がそういう風になってきているので。頑張ろうと思ったときには年齢が。できなくて。
(取材者:ぜひそのお手伝いをやっていければと思っています、)
期待しています。いまかえって若い人は学問的には知識的にはよくわかってる。私はいつも言うんですよ。頼まれたら「わたしは政治的なこと、それから社会的なことはあまりわからないけど体験したことだけだったらやります。」と受けるんですよ。
(取材者:ああもうそれが一番です。)
そう仰るんだけどね。 本を読めばいくらでもあるんだけれども、体験した人の話を聞くのがいいんですよって言うから。そうかねえと思ってやるけれども。
(取材者:いや全く本当に自分も大学では その戦争の時代について勉強していろいろ本も読むんですけど、やっぱり学術的な年号が書いてあってっていうだけじゃ、その時に暮らしていた生きていた人の思いだったり 考え方だったり生き方だったりが分かってこないので本当に人に会ってこうやってお話しするのが一番だなって思います。)
そう仰ってくださるから高校生の修学旅行の人にもね、あなたがたは何も取柄ないかもしれないけれども、戦争に当たったおばあちゃんと会ってきたと、それだけはお土産に持って帰りなさいって。(笑いながら)おばあちゃんと会ってきたというだけでもあれだからね。色んなテレビなんか見てもまた 沖縄の子供たち見ても高校生ぐらいの人でも何にも感じない。本当に話を聞かせても、それ昔々の昔話みたいにきて。あれね、感想文来るんですけれども、あれはねなんかありきたりのこと書いてくるのもあるし、ではあるけれども、それだけでも関心を寄せてくれたかなとも思うが、実際一般的な子どもたちはわからないの。まあ沖縄の子でもわからないですよ。
(取材者:少しでも伝えることができればって思うんですけどね。)
やってますよ。ここは。高校生なんかも時々は。
(取材者:長い時間とらせてしまって)
いえいえかえって。いらないところはみんな(手で切るようなしぐさで)カット。これがまた難しいんですよね。カットするのが。
(取材者:カットしないですよ。)
新聞記者だってさ、こう話したこともこれくらい全部カットしてこれまとめるのにまた一晩かかるねえって人もいるんですけどね。
(取材者:じゃあ記録をさせていただいたのでありがとうございます。)
体験記録
- 取材日 20 年 月 日 (miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
- 地図 ───
- 年表 ───
戦場体験放映保存の会 事務局
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