湯浅 謙さん

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湯浅 謙さん 

生年月日1916(大正5)年生まれ
本籍地(当時)
所属陸軍 
所属部隊潞安陸軍病院
兵科軍医
最終階級 

インタビュー記録

プロフィール

湯浅謙 (1916年、埼玉県生まれ)

慈恵医科大学卒業、都立駒込病院勤務、旭川歩兵第28連隊、中国山西省潞安陸軍病院(軍医中尉)、1945年敗戦後、中国国民党軍徴用に応じ残留(国民党軍第2戦区軍医)。1949年人民解放軍により解放され政府病院勤務。1950年捕虜として河北省延安(永年)捕虜就労所収容、1952年戦犯として太原監獄に拘留。1956年釈放され帰国。慈恵医大勤務を経て西荻窪の民主診療所に勤務。中国帰還者連絡会(現:撫順の奇蹟を受け継ぐ会)会員。2010年没。

なぜ自分の加害体験を話すのか

それで、あの、ボク以外にもあなたも証言とっとるでしょうけどもね、加害の反省をしてた人はいた?

聞き手:うーん、加害、いわゆる不戦兵士の会の方とか、グループとして活動していらっしゃるかたは、そうなんですよ。ですけれど普通の方で加害体験を、まあ話される方はいらっしゃいますけど、そこをそのー、まあ悪かったと思ってるという言い方をされる方もいらっしゃるけど…

 後悔している人、それはいるんだ。具体的に話す人はいなかったでしょうね。じゃあ私の話を聞いてちょっとみんなショックだったかな?僕はねえ、僕はなぜ、自分の加害体験を、あっちでもこっちでももう600回もはなしてんだけど、わかる?え?目的。なぜしなくちゃならないっていう、動機。話、日本の汚点をね、一般に口外しなくちゃならないていう、その目的、わかる?僕の意図。なぜそんなに熱心になってんのかって。なんか必要ないじゃないか、必要ある?

聞き手:必要あると思います。

なぜ?

聞き手:それは…そうしなかったら、こう、繰りかえしてしまう?

 ああ、そう、戦争の事実を知らなかったらね、ああ、そう。これが一つ。それから、もう一つは、僕がこうやって、その、軍国主義に染まって戦地にいって生体解剖をしたりする、しなくちゃならなかったりする過程っていうのを、過程を話すの、戦争に入っていく過程ね、なぜ戦争になっとったかなんてことはあなたは研究したこと、ある?

聞き手:研究したことはないです。

 わかる?どうしてこんな俺は戦争やっちゃったんだろう。国民はゆるしちゃったんだろう。戦争にはいっていって、僕が生体解剖をやる過程っていうのは日本の軍国主義者が国民を洗脳して戦争つれていった過程でしょ?ぼくのやったことは、ぼくだけのことだけじゃなくて、日本国民の代表とした、の、話だよねえ?僕は指導者じゃないから、みんなに影響なんか与えられない。みんなの外界(がいかい)の影響で、僕という人間が作りあげられたんでしょうね。外側ですよ。戦争、戦争体質を創った。だから僕がそう陥った思想過程をながむれば、いま、いまあなたがいう現在のことを、もうやはりそう一歩辿ってるっていうのがわかるわけなんだろうね、そいで、僕はこうやって話してんの、一生懸命。だから、うーん、まあ僕の仲間でも、自分の体験などを私はこういうこと悪いことをしました、これは戦争の事実ですってそこで止まっている人がいるけれども、僕は、現在と引き比べて、いつも現在みながら、おんなしことを歩んでるなあっていう感じで、みてるんだよ。そうしないと、気がつかない、ねえ? うん…まあ、そういう僕の目的意識をちゃんと握っていただいて、聞いてください。

 そいで、僕は普通話しすんの、第一にまあ、一般に話すのは、戦地でどういうことをしたか、何があったかって、みんな、ああって言うと思うんです。その次に、どうしてこういう風になっちゃったか、ということで、今いったようなことを、強要から、圧迫から自分のあの…事実、便乗というか利益ですね、それを望んで、そうしてこういう身になっちゃった。しかし、そういう人はたくさんいると思うんだ。なぜ話さなくて、話す人ない、僕しかいない、医者で。看護士さんや衛生兵はいるんだけど、軍医でいない。いや何千人も軍医がやってんだから…、誰も言わない。なぜか。どうして僕だけ、喋るようになった、その過程、経過、それから話すようになった転機。そしてあとで、何を日本でどうなったかっていうのを時間があったら話すんだけどね。そんな順序で一般には話してるんですよ。

戦争下の医学犯罪を国民に知って欲しい 

 でも、私は隠された医学的犯罪を一般に知らせることで、警告してるっていうかねえ。それを主としてやってる、念願。そいで、それ以外には、あの、新宿の人骨の問題なんて知ってる?それに関係して話してるし、それについては僕は人骨の研究会で、「駐蒙軍の冬季衛生」、生体解剖の本って珍しいでしょ、ないでしょ。だけどこれは「冬季衛生」って、やってね。それで、あの捕虜を捕まえて、内蒙古軍(補注:駐蒙軍)で、こうやって(写真を示す)、まるで人工で創らして(補注:凍傷実験のこと?)、あとでみんな殺しちゃって、で、弔辞やって慰霊祭やってんの。これあなた、もってって。こんなんか問題にならないんだよねえ。これあの、軍で、その、手術しろって命令書なんかがあった本が出たんですよ。十万円ぐらい出して、それ借りたんでちょっとひっぱって、それについてぼくが講演したのがあるから、これ、ね。ええ。それからもう一つ…、(書類捜す)みんな知らないんだ(書類を捜す)、そういうこと、こういうことがあるって。みんな隠しちゃってるんだ、みーんな。新宿の戸山学校(補注:戸山の軍医学校跡地)のところから、石井四郎がやった研究所んところから人骨がでたの知ってんでしょう?あれだって、書いてる本があんですよ、その人が書いてる、『悪魔の日本軍医』、石田新作さんが。それみると(本をめくってみせる)…「マルタ」(補注:丸太 実験用の中国人捕虜)、わかるでしょう?「40年後いまでも馬鼻疽菌の標本…「○○○○」このコピーみせるから、こんなこともあるんだから、なかなか信頼できない話。あれ僕たちで、国は燃やしちゃえって言うんだけど、僕も加わって、裁判に訴えて燃やさないでっていったら、とうとう燃やすことできなかった。で、いま飾っておいてあるんでしょうね、僕たちの運動の効果なんだけど。それも、「○○○○かつおか?」なんかで、この本に出てるから。石井四郎が731中隊からもってきたもんだっていう、なかなかみんな承知してくれないんだ。ああ。弁護士さんにこの本を渡したんだけど、もうこの人も死んじゃってるんでね、なんか証言にならないっていって、無視されているんですよ。まあ、たくさんそんなことがある。ねえ…ところが日本軍の、その、生体解剖をやった事実なんか、みんなここに、今度の展覧会で、日本医学会総会に、戦争と医学展示実行委員会の,この人なんかみんな書いてる。

 これ「731○○○、生体※報告書を読んでる」。みんな書いてる、こんなの新聞で取り上げられないだろうねえ。医学界は看過している。まあ731部隊っていうのは、いま正式に公になってる?政府は認めてない。医師会もまだあの犯罪は認めていない。そういう部隊があったけれども、なんか研究したってことはある、それだけしかない。細菌実験して人を殺したってことは認めていない、日本の医学界も。政府も認めていない。国民がみんな「めくら」にされているわけだ。そらいや、言われたら危険ですよ。でもね、あんたもね、協力してね、で、医学学会でこういうことやってんの、少ないんだよ〜(笑)

 ねえ、ひどいよねえ。ひどいよいうか、危険だ、みんな。みんなもう「○○びだ?もん」しか知らされないから。知らないぐらい強いもん、ないもんね。

あ、これはあの、戸山学校のね、鑑定書について学者、常石(敬一)って人知ってる?いろいろ運動してる。鑑定したけど、これは、鑑定書には、それこれ多くの、間違ってるんですよ。佐倉って人が鑑定したんだけど、これは骨だけど、あの内臓の病気だとかなんとかって推定してね。この本によれば、石井四郎が、「731部隊」飛行機で運んで、馬鼻疽菌っていう、馬の鼻から動物に感染する、馬の鼻の、その馬鼻疽、ロッツって聞いたことある?ああそうそれそれ、それを研究して、でまあ細菌戦に使おうとすれば、どうせ味方だってなる。その症状を見つけるために、向こうの骨を、首をもってきて、首と手だ、転移するから。それで学生に見せたんだ,医学生に。その報告書が載ってんだ。だけど信頼しないし認めようともしない。活動家の中でもこれを信用しようとしないものある。ああ〜、危険だねえ。

 何千っていう軍医が生体解剖やった。一人もそれを告白しないっていうのは、どういうことなんだろう…。慰安婦問題がある、暴行、強姦からなんかあるけど、僕以外には喋るのいない、もうひとり僕らみたいな戦犯になって捕まった人がちょっと話してるのがありますけどね、話してない…のは、なぜ話してないと思う? …僕があとで、話しましょう、それね…ああ。日頃、想い出さないんだ、忘れてんだね。忘れてんのよ?信じられる?僕の言葉。人を殺し…。それを僕が立証するから。それとか…僕は二つほど言ってんの。中国へ戦争にいった人、まあ他の、外地でも同じだけど、ひどいことをやってる軍人は、みんな戦争犯罪を犯してる。しかし国へ帰ったら…南京虐殺でも、慰安婦でも相当なことはありますよ。だけど問題は、知らない。そんなものはなかった。

差別意識を刷り込まれた子ども時代

 んと、簡単に話そうかな、僕の子どもの時からこう話して、育った家庭から話すうちに、時代を追って話しようか。だね、はい。で、今までのはもう撮影してんの?じゃあできるだけ作ってるんでしょうね。

 みなさん知ってるとおり、僕は去る大戦に中国戦線に軍医として従軍し、陸軍病院に勤めたんだけど、おそろしいことに、生体の手術演習、中国人の捕虜を生きたまま手術の演習のため斬り殺すということをしなくちゃならない身になって。陸軍病院では5回にわたって10名の人間をそういうことをし、そしてそのほかとでもまたしてしまった。脅迫か、自分から進んでやったか、いろんな問題があるけれど、自分の子どもの時、育った教育課程からして、一言はなしましょう。

 私は1916年、開業医のうち(家)にそだって、まあ、まともな教育を受けて、まあわりあいに勉強するとできる家庭だったんで、良く本を読んで。そして中国の『水滸伝』『西遊記』とかいうああいうもの、あるいは、これは中学校に入ってからかなあ、漢文で『論語』『孟子』、そういうの読んで道徳とかいうものを勉強した。しかし、このわたしの家庭は、当時ほかでもそうだったように、中国人・朝鮮人を侮蔑することをたびたび母親から聞いた。「ほら、あそこにいる中国人、汚いかっこしてんだろ?朝鮮人も汚いかっこしてる。ああ、もう国から出てきてんだ、あの国ってのは、みんな朝鮮は日本の支配のもとにあるし、中国は…支那もっつった、みんな外国に喰いもんにされてるだらしない国なんだ。日本は天皇陛下様がおられてありがたいんだ。今はイギリスやアメリカなどの一段下になってっけど、もうがんばって同等の国にまでなるんだから、おまえもよく勉強しろよ。」これが、一番母親の言葉として私に残ってるんです。ほいで、まあ、社会問題として覚えてるのは、私が小学校1年のとき起きた、関東大震災。ええ、そのとき火で焼けて逃げて、知らない人たちに助けられたんだけども、その頃聞いたのは、朝鮮人が襲ってくる,怖いな、ていう、こういうこと。朝鮮人を敵視したり劣等視したりする習慣もついちゃった。中学は九段高校というとこ(補注:当時は東京市立第一中学)いってね、そこでは、まあ、普通の勉強もしたけれども、隣に靖国神社があって、5年間、そのとき中学は5年だった、朝な夕な前を通るときに、私はもうあなたのような立派な人に、愛国の士になりたいって、じーっと拝んでいたことを、僕だけじゃない、みんなそうだった。そして、戦争はあの、満州事変が起きたときのことを想い出すんだけども、暴虐な支那兵どもが、日本の権益である満州の鉄道を破壊した、やっちまえ、ひどいやつらだねえ、こらやっつけろ、新聞の論調そのまま信じてしまった。満州国ができると、まああ、万歳と、うん、うん…。みんなそれの、日本の権力者が作った侵略の口実なんだけど、土地が日本は狭いから、人口が多いから、どっか資源を取らなくちゃいけないと、ということも暗に言われていた。そうしなくちゃ日本は発展しないで、外国から襲われるだろうと。自分が帝国主義国家になるような成長をしなかったら、日本も滅亡するんだな…やむを得ない戦争だ、正義の戦争だ、こういうことを頭に吹き込まれた。

軍医となり戦争に尽力することを決意

 大学に、中学5年を終えて慈恵医科大学に入ったのが、1900…昭和9年でしたよね。そのときでしたけど、学生時代の青春としては、僕は碁を打ったり、それから水泳部で活躍したりね、がんばっていたんだけれども、やはり、プレリタリア小説をね、読む機会があった。小林多喜二の『蟹工船』読んだことある?あれは、『太陽のない街』?何だっけな…想い出せない、そういうので、あるいは、長塚節の『土』、農村に生きる矛盾を感じたんだけど、そうかなあ〜、僕らの周りと違った別世界があるんだな、なんてことを感じていたんです。大学はいって、友だちはみんな…あ、僕はストレートで学校入ったんだけど、浪人して入ってきたのが多かった。そんなかで、第一高等学校、そのときに共産党員になって活動して、地下活動して捕まってきた人が、転校して、それで慈恵へ入った人がいた。林という人だった。それがきて学校の雰囲気なんかも随分変わってるし、政治批判的な意見も聞かれた。私が聞いたのは、いまの戦争が終わったら、地主が、階級がなくなる。へえ、そんなもんかなあ、一つだけ覚えてる。そんなかのグループのひとりが、僕らん中のグループを作って、ほいで、政治に批判的な、批判する、体制を批判するグループをつくって、本読んで語らってきた。それで、7・7事件、1937年の中国の国内の侵略(補注:盧溝橋事件)に対しても、ぼくたちもこれは侵略であるということを教わったし、私も納得して、良くないことだというふうに思って、覚えていた。そういう語り合いをやって、社会に対する目をいささか向けてはいたんだけど、僕としては、大学の4年頃の1940年頃になると、卒業前になって勉強が面白くって、勉強をやっているっていうと。まあ、新聞にでてるそういう政府批判の者はみんなアカとしてよく捕まったんだよね。僕たちのグループに対しても、学校の教えを禁じるということが言われちゃったから、これはこれ以上がんばったら危ないなと思ったし、逃げだそうとも思ったし。それがもう一番僕に響いたのは、僕たちの勉強じゃあこの戦争は間違ってるっていうんだけど、新聞報道によれば、どんどん戦火が広がっていて、で、日本と聯合するようなニセの中国の政府ができてきたりしてる。うーん、僕はどっちを選ぶか…その、学んだことでもって○○○○○?たら、それは危険が身に及ぶこともあるだろうし、それよか、もう、この確たる戦果を、軍隊を支持しようという風になってしまったと思うんだよね。僕はそれは、まあ、うーん、当時言われたのは、「転向」って言葉わかる?転向。革新がね、そうなって妥協すること。小さいけど、一つ転向だと思う。僕はもう君たちと勉強することはしないって別れたんだけど、まあその機会にみんなも、そのサークル解散しちゃったんだけれどね。そのころからもう、戦争一点張りだった。まあ、僕たちの勉強っていってもたいしたことなくてね、南京占領したなんていう、そういう新聞報道がでると、ああ、今日はビール飲めるぞ、万歳万歳って、銀座あたりを闊歩したもんだけどね。思想的に分かったんじゃ無くて、ちょっとした知識だったね。観念的なや知識でしかなかったですね。もっぱら僕はこの軍隊いったら、将校。将校っていったら身分は上なんだねえ。それになれるんだから、その道選ぼうと思って。

大学を卒業したときは、陸軍が設けた、戦争で本職の軍医が足りない、大学を出た若い医者を二年間だけで現役にして戦争に使うという、こういう制度ができた。そのあとで今度は予備役になるんだけどって。多くの人が、同じようにそっちをうけて、試験をうけて、もちろん受かるんだから。試験官なんか見に来やしない、僕の試験場。落っことしたら戦争に困っちゃうんだから、受けなかったら。ところが僕らは同窓じゃあ、普通の兵隊からいくとぶんなぐられたりなんかすんだけど、俺それを覚悟していくっていうしっかりした男も何人かいたねえ、ああ…それはもう僕も偉いっていうよりか変わってるぐらいとしか思わんかったね。

で、1941年の3月に卒業したら、戦地にいったら、伝染病を見るようになって見落としたら困るっていうんで、僕は駒込病院ていうね、伝染病院、あそこにいって半年ほど学んで、それで志願して、その秋に北海道の旭川の28連隊というところで軍隊に入って教育を受けて、最初から1ヶ月間軍曹という下士官、1ヶ月したら見習士官っつって、将校のはしくれになっちゃうっという、急に偉くなる。そういう制度のなかでもって、軍医になっちまった。はあ〜…得々としたね。兵隊はもん(物)ぶっつけられて、一所懸命走り回って、ぶん殴られたりしてっけど、俺たちは特別なんだっ

て、兵舎でそれを見ていたよ。うん。ほいで、訓練をうけ、教育じゃ捕虜になったら死ぬんだっていう教育も受けるし。そのときに12月8日、アメリカの戦争の布告がきたんだね。そのときの僕の心境… あ!これはいい、日本は中国と戦争をやって、弱い中国をいじめたんだけど、とその時思った。本当は弱い中国じゃなかったんだけど、新聞報道でそれしか頭になかった。本当は軍はもう戦争やって、もてあましちゃったんですかね。ええ、それで、解決策がなかって、石油資源を取りに行くんでインドシナへいき、アメリカと戦争になっちゃったんだけど。そんなことわかりゃしない。はあ?ハワイを攻撃したと、アメリカが捕まった、軍艦沈めた。イギリスの軍艦を南太平洋で沈めた、万歳万歳と。やっぱし日本は、日本人は天皇陛下をいただいて、アジアに覇を制するような国、はあ、すごいなあ。ウキウキ…だね、天下を取った気持ち。その軍隊で俺は天皇の直属で、偉いんだぞって、家の誉れって、自分の名誉だって。こんなウキウキした気持ちで、感じをもって軍隊にいて。

中国山西省潞安陸軍病院に配属される

 そして配属先ってのが、中国の山西省の真ん中の、山の真ん中の、潞安(ろあん)っていう町に軍医として行った。軍医なのに、拳銃を下げて、軍刀を創って、堂々と威張って中国へ単独赴任した。占領地。ねえ…。その頃の意識としたら、中国人を見ると劣等民族だとおもってた。列車で山を通ると荒れている、子ども達が駅にいるんだけど、もう栄養不良で裸足で、ろくなもん食っちゃいない。はあ可哀相だなあ、という人間的な同情感もあるんだけど、いやいや、だから国は負けちゃいけないんだよ、戦争には。命を捧げてもこりゃ国を守らなくちゃという気持ちになる。これ軍国主義思想っていうんでしょうねえ、ええ…。同じひとつごとを見ても、軍国主義だと、そんな感じがくるんだねえ。

 そして、この潞安陸軍病院ってところへついたのが、翌年の1942年の2月1日。そして、病院に勤務して、私は内科で伝染病やったから、そこでも伝染病の初診とか病理検査室の係になった。まあその病院に行った時の得意な有様は、この写真があるときに(集合写真を見ながら)証拠はみんなお国が、まあこれ良い学校、いい服きている。看護婦も居る、下士官も100名ぐらいのとこだけど、みんな僕に対して、ハイって(目をつぶって直立する姿)、看護婦もお辞儀するし、ハイ!って(勢いよくする仕草)敬礼するし、僕らは「おお…」…ゆっくり(おもむろに敬礼する仕草)。敬礼の仕方からして違うんだ。兵隊はバッて敬礼する(勢いよく敬礼する仕草)て、僕は「おおそうか」って横行に(ゆっくり敬礼する仕草)。僕が敬礼するのは病院長とか先輩の軍医数名だけど、町に遊びに行ったり飲んでいるとこいっても、まあ、軍医さん軍医さんってモテるしね、強面だろうけど。それから居留民の日本人みても、ああ、お国のためにご奉仕ご苦労様でございますって、もう偉いもんだとおもって、こりゃすごいぞと思って。実際は、中国を占領したっつったって(襖に貼ってある中国の地図を振り返って指さす)、点と線しか…離れてるんだよね。中国は山西省3千万ぐらいの人口がいたんです。まあ、2千…、そこに軍隊が6、7万いて、何したかって、そこに資源を取りに行ったんだ、戦争、資源の獲得ですよ…ああ、まあなんとかいったって、戦争は全部、資源の獲得。だから、兵隊はそこいってなにしたかっつったら、あの、トーチカっていう防塁を造ってあちこちいって連絡して、そして、何か畑で何かあったらそれが敵地区に流れるかどうかを監視している。こっちとる、軍用に使う、石炭も同じだ、炭鉱を占領して、そういう資源の獲得だった。

 あんた、侵略戦争ってのは、どういうことかわかる?侵略戦争…定義すりゃね、武力をもって他国を侵し、そこを支配するって意味があんだけど、それをどんなものかイメージわかんないと思うんだけど。僕は中国へいって聞いたら侵略戦争、いい?こりゃ実感よ。おお…日本の武装強盗が押し寄せたんだって聞いたんだ。実感あんだろう、強盗だよ。だから、僕なんかね、軍人の病気を治し、いいことをしていたなんて、いい感じで… そうじゃなくて、強盗団、資源を取る。手向かいをしたら殺す。そういう武装強盗がよく、強盗できるように病気の患者を治して前線にだしてたんだよ。侵略戦争なんて、その方が実感があるでしょう? 信じられる?そういうこと。たいてい聞くと、もう反駁を受けたことはないんだよ。もう少しなんかかっこいい言い方ないかとか言うんだ笑。資源獲得、じゃない。しかも強奪しにいった強盗ですよ、みんな。わかる?その方がピンとくるでしょ、身体で。体感できるね、そう、強盗ですよ…僕たちは。兵隊が要求すれば、村々を襲ったり、村いって女性を連れて行って暴行したり、家を焼いたり、糧秣さらったり、勝手次第だ。みんなそうですよ、…敵なこといったって。ああ…そういうことを僕は助けていたんだね。ねえ…それが、部隊の駐在なる僕の一番大きな犯罪ってこと。ね、侵略軍の病気を治してもっと積極的に,略奪とかなんかをさしたのは、僕の責任が大きいよ、何百人という兵隊を働かしたんだから、ねえ…、何人かの兵隊が中国人殺すどころの騒ぎじゃないんだ。侵略罪だ、それは。そんなんの聞いたことないでしょ?個人のことしか罪じゃない、そんなことない? 

国民動員のための戦時下スローガン

 ああ、そして、行ってから一月半ほどしてから、2月1日から勤務したんだ。得意になって、ああ、日本はいいことをしてるぞ、なあんだ、中国人は日本の言うこときかん、ああ、完全な独立国だって外国からいじめながらしても、言うことをきかないから、言うことをきかんだら、やっつけちゃえ。「○○○これ?」話にならん。やっつけちゃえ。言うことを聞かす。だから、中国を侵略するのスローガンって知ってる?国民を動員して、そして日本人を納得して戦争へもっていく恐ろしいスローガンってのがあんの。どういうスローガンだったかわかる?あの、ブッシュ大統領が、国民を、アメリカ国民を動員して、イラク戦争につれてった。議会でもって演説した。で、彼に戦争の行使を許す権利を与えたんだけど、反対したのはひとりの議員だけなんだけど、バーバラさんていうね、女の人なんだ。あの時みんな賛成しちゃった。そのときのスローガン知ってる?国の出したスローガンって、怖いわ。

聞き手:テロか戦争か…テロに屈しないとか…

 そうそうそう。テロか戦争か!? テロに負けるか?それなら戦争するだろ!…政治家だねえ。もうそれ、反対したら、きさま非国民!って言われるから、みんな反対できなかった、みんなねえ。…はぁぁ〜。じゃあ日本は国民を納得させるには、なんていった…? 覚えてよー。

聞き手:五族協和とか?

 それはねえ、あとの話だ。あとでもないんだけど。五族協和、うん、それも言ったねえ。日本が戦争をしなくちゃならない理由。さあ、日本は貧困で経済危機で、みんな飯食えなかった、多くの人が。欠食児童ができて、女性の身売り、金融はバタバタ潰れる、あの経済危機が …あの「おしん」の事情、時代だからね。さらに経済危機がきたんだ。それであの、226ていう、軍人なんかがとったんが、この事情を見るに耐えれるかってんで、天皇親政の政治をするったんでしょう。スローガン、ねえ。日本は滅びちゃう、だからその時というのは、満蒙、満州蒙古、日本の生命線だって。わかる?うん…、生命線だ!もう一つ、そのころ日本はもう満州とったりするから、日貨排斥、日本の貨物を排斥したりね、そういう犬猿な状況だったんだ。それに対して、支那の膺懲を懲らしめる!…ね。(コピーを見ながら)侵略戦争の最大の目的の…、僕は講演の時に、学者の言葉を引用して僕は話すんだ。これ、明確な… これもっていってね(論文コピーを渡す「戦前日本の侵略戦争・職員値支配と戦後政治」)。そうだそうだ、支那なんかやっちゃえ!うわーーーーって国民を動員したんだねえ、それで。僕の頭も、そうだ、このままじゃ外国に負けちゃったら、日本も食われちゃうかわかんない。強い帝国主義国家になんなくちゃいけない!日本を守るんだ!頭はいっぱいですよねえ。多くの人もそうだったでしょう。そうじゃない、共産党員とか平和型のクリスチャンとかいたんだけど、それも力になんなかったね、みんな押しつぶされた。多くの国民は賛成しちゃったんだ。ねえ…うーん。その一翼を担ってきたんですよ、僕ら、あぁ…。意識すると意識しないと。そういう意味じゃったら、戦争を支持した人、国内の人もみんな、やっぱ良くないことをしたってのを反省したくなるよね 戦争した人だけが悪かった、軍人だからって、そうじゃないよね? 国民の全部が「反省」しなくちゃいけないわけだ、そう、日本は…歴史を反省しない。まあいいや。

 そんなかで僕はまあ得々として、診療してた。兵隊入院患者に、「もういいかげんよくなった、お前もう退院していいな。」「はい!!」僕の言葉に嫌って言う人はいないんですよ? 「もう自由にあれだよ、家内だって自由にならないよ。」変な言い方だけど。みんなもうみんな兵隊になって、ハイって敬礼するし。  

 「おまえこれやっとけよ」「ハイ!」「ハイ(ぼそぼそと)なんてったら、返事が悪い!」…一喝だ。僕の後ろには軍人だしさ、天皇陛下がいるんだよ。「上官の命令は朕のように思え」って言葉を、兵隊はみーんな頭に入れたんだ。きかなかったら、ぶんなぐられてもしょうがないんだよ。「敬礼が悪い(敬礼する仕草)、おい、敬礼が悪いっ!やりやおせっ!」「ハイッ!」(敬礼する仕草)こういう社会だねえ。うん。で、だからもう病気がなおんなくても、退院したのもいただろうねえ。うん…。まあ、反省できないけど、ほんとに随分悪いこともしたんだ、病気も死んじゃったら解剖だ、いいかげんな治療でねえ。もう少しいろんな手を貸したかったけど、残念だった。大学だって半年居て、そんなチョロチョロなんかみて処置して、できるわけないんだけどねえ。早期診断とかになると実力もないしね。そうして得意になってるときに、全土はもうこの戦争は、日本は発展するって思ってた。それをなんかを支えている自信、こりゃあ、たいした自信でしたよ。ええ。名誉ある戦いの中に戦死してもしょうがないだろう、という風に思ってたね。

運命の生体解剖“演習”の日

 あの時ひとつき…一か月半、したときに病院長から、食堂で炊事のおばさんを押さえて、今日は手術演習するから1時に解剖室に集まるようにって言われたんだ。そんときに、ねえ…この病院長から(写真をだす 西村中佐)。どうだったと思う?その時の感じ。こりゃ中国人殺したんだ。だけど、もう命令は、もうハイって聞く習慣がみんな、軍人はついてんだ。ね、嫌とは言えないよ。で、僕は日本の内地にいたときも、学生時代の先輩の軍医がきて、中国いったら生体解剖やらなくちゃならんて聞いたことあんだよ。あんた、生体解剖やらないといけない身だったら、どういう風に考える? 反射的に。何にも感じない? 生体解剖やらなくちゃならない、いけないってことに、どういう風に感じる?何も感じない?

聞き手:いやあ、ちょっと。

何にも感じない?

聞き手:いやあ、とんでもない…

そう、とんでもないっていうの、たいてい考えるでしょ? 僕、学生時代にやるって聞いてね、とんでもないっていうふうに感じないな、もう軍隊勝利のためには、何でもやらなくちゃいけない。それで、気持ちが悪いな、気味がわるいなと思ったけど、これは許すべからず、しちゃいけないってことだっていう感情は一つもなかったよ。学生時代からそういう教育だったのよ。ええ、学生の時に人道「○○しさん?」の教育なんて受けたことないよ。これやったら、いい医者だって言われるって、褒められるなんていう、そんな話はきいた。慈恵医大では。

 みんな、4、5人もいたけど、そう薄気味悪い。はっ、○○○がもうきたか、とおもったよ。さあ、しかし、避けようって気持ちはないねえ。そら、もうやるんだ。命令違反だから、さぼったら。先輩だけはさぼっちゃったけどね。いやぼくの最大の抵抗は、ちょっと回診があるからっつって、10分ぐらい遅くいったってこと。この、この広い、中学校を占領している校庭のはじっこにあるもんだから、歩いて行ってる僕の姿を想像するんだけど、いつもいばってこうやって肩はってね、その時はこうやってしゃがんでいただろうねえ。ほんとうにこうやって思ってると、いつもそこで、「クーリー(苦力)」ってわかる?中国人の労働者、ああ、病院で使ってんだ、それがいつもひなたぼっこして、1時頃、昼ごろだから、あの、シラミとってるんだ、みんなこうやって(右腕をさする仕草)。発疹チフスが多いところだから。ところがそのとき、いないなって気がついたんだよ。あの当時考えたら、むしろ、いつものようにひなたぼっこしてると、日本の兵隊がこう見てる(目を左右に動かし、じろじろという仕草)、「おまえなにやってんだ、日本の秘密さぐってんだ、来いっっ」て捕まって憲兵隊に連れて行かれて、そんでしごかれるでしょ、拷問されるでしょ。だから、みんな今日そういうことがあるって知ってても、出てこないんだ、部屋の中にいるんだ。ほんとに○○○○ねえ。

 ああ、ほいで、ぼくは監視する兵隊がいるから、それの敬礼をうけて入ってって、そして戸を開けた瞬間のこと覚えてる。軍人は20人ぐらい、みんないんだけど、12、3坪ぐらいんとこだ。

 そして、ほんとう、ほかには、そこに駐屯してんのは36師団ていう1万2、3千人なんだ。その師団の軍医部長という大佐がいたんだ。それと病院長の、この西村中佐と話してる。それを見て僕はサッと敬礼して(敬礼する仕草)、その、軍医部長の、大佐だ。つまり軍人は固まったら一番上のものはだれか、そこでもうグループができてるわけだよね、指揮命令が。それが命令したらパッと動かなくちゃいけない、上官が命令したら。僕はこうやって「はっ」って敬礼したら(仕草)、ああ、大佐が「おお」って敬礼した(敬礼する仕草)。それから入っていって、中国人がふたりいるんだけど、(録音飛んで聞こえず) …たらおかしいから、かっこつけようとババっと歩いて行って、で、壁の後ろに座った。(録音飛んで聞こえず)立った。いたいた、二人の男がいた。一人は私より背が高いほうの○○若い30(歳)前だ。それは日本軍が敵性と疑った共産軍の八路軍か、あるいはもう共産党かどっちかでしょう。じーっと下向いて 指○○○?、で、兵隊が鉄砲持って立ってる。もう一人は、お百姓さんだ。まあ4、50(歳)だろう。アイヤー、アイヤー、両手を出しながら泣いてるんだ。そうでしょ。そこでは手術台が2つ並べてあって、この看護婦(写真を探してみせる)あ、これ二十歳ぐらいの若い看護婦、だいたい日赤の看護婦は二十歳ぐらいだ。それが2人いて、機械出しだ(補注:手術用具を出す役割)、ほんで、部隊から演習にきた軍医が10名以内だね、7,8名から10名ぐらいいた。で、こっちの病院の指導する外科の軍医が2人いて。あとは、わりあい若い新米の便衣兵が4,5人いて、古いのは逃げちゃっていない、もう。あんたその雰囲気、どう思う?今から、斬り殺しちゃうわけだよ。その雰囲気…。

 なぜなら、しーんとしちゃうんだろうけど、しーんとしちゃいけないんだ。看護婦も笑いながら軍医と冗談言いながら聞いてる。みんなは無駄話している。平常とおんなし。なぜかわかる?可哀相なんて顔はできないんだよう!だって日本軍が、戦争に勝つために、部隊の、その外科の○○きしょう台?の手術を覚えさせて、戦線で兵隊の生命を救う手術をしている。正しいことなんだから。それを嫌だと言えないんだよ。看護(婦)もニコニコ「軍医どの」なんて冗談言いながら笑ってた。考えられる?鬼気迫る感じさ。そりゃ看護婦もね、嫌だったろう。だからよく言い含められて、もうなんかか、もう慣れてた。ああ、あたりまえになってた。国のためだし。もしあたしそんなの嫌だとか、嫌な顔したら、そんな役にたたないの、日本に帰しちゃえ!むしろ帰されたらね、こ〜ら戦争に協力しない非国民だ!売国奴だ!村八分になっちゃうんだ。ギリギリその、その線でそこにいるわけだよ。だから、悲しくても嫌でも、ハイハイって普通の手術するような様子で、いるんだよ。その光景。ボクの言葉わかるかな?軍医どのって。片いっぽうは、お百姓は泣いてる。片っぽうの兵士はじーっとしている。あと(の人)はもう、普通にしている。光景…そんな光景、写真でも見たことないだろ?恐ろしい光景さ。ええ〜 あのー、森村(誠一)さんの『悪魔の飽食』っていうのがあったでしょ。あれは確か俳優座でね、あの、劇やったんですよ。そのとき、事務所からボクに聞いたの。生体解剖どうですかってつったら、ちょっとその光景は、看護婦も平気な顔して冗談言って、我々だってニコニコしてやった、つったら、それは劇にならんだろって帰っちゃった。そうでしょ、信じられないでしょ、みんな。普通そうだったら、看護が怯えてんのに、軍医が、「なんだ、そんな。これからなんだ(いばる感じ)えい しっかりしろ!」と。国のためなんだ!」 そうじゃないんだよ、楽々とした平常な気持ちでやってんの、それが。そりゃ、怖いよねえ、ああ。そら嫌だって…って、そりゃ慣れだ。もうそうするもんだ!って決められていったら、そっから逃げられない。うん、志願してきた看護婦もそこまですると思わなかったろう、そらあ。平気でやってんのよ。わかる?人を殺すの、手伝うの。それが戦争ですよ。ああ、逃げられない。で、ちょっと話したのは、緊急の、日本は負けてて、軍医の数でも、手術をできる外科医がいないわけだ。第一線でケガをしたって、手術できないわけだ。だいたい盲腸が多かったんだね。盲腸で死んじゃうんだ、手遅れになって。抗生物質もなくて、当時、たいしたものも。だから緊急手術が必要だった。だから各部隊から何名か出してこいっつって教育したんですよ。だから、必要に応じてやったんですよ、勝利のためにはこれは絶対やらないといけない、勝利のためには何でもやる!いまは国民の意思としちゃあ、とにかく戦争勝つためには何でもやる。

7,34〜いまはみんなの意見、どう一般の人の意見。金のためなら何だってやる。

 そんななかで病院長が「おい!始めよう」っつって。「はい」って。まあ、病院長が煙草やったら、その兵隊は煙草をとって吸ってたよね。うん。そうすと衛生兵が、「おい、前へ行け」っつって、手術台へ押し出したんだよ。ぼくが意外に思ったのは、そのとき、ま、勘弁してくれって言ってもダメだろうけど、抵抗すっか怖がるかと思ったら、悠々足取りでそこへ寝たんだよ。これをどういうに分析する?悠々行って寝たんだよ。恐るもののこともなしに。どういうに考える?あんた。認識できる?あとでいったんだ、先輩の軍医がいったんだが「あいつはもう日本軍に攻落して落ち着いて、悠々歩いていったねえ」つったんだよ。そお?そーおじゃない。「この酷い日本軍め!必ず仇は仲間がとってくれんだろう!」悠々と歩いて行ったんだ、その心境が読めなかったんだ、こっちは。支配者ってのはわかんないもんだ。ねえ、そういう気持ちでした。だいたい中国の人ってのはね、顔に表情がない。顔と心が違う…

 そうでしょ。悠々と歩いていったんだ、死んでみせるって。わかる?そのときはそんなもんだ。それで、僕の先輩はそっちについていった。そうすると、もうひとりのお百姓さんが僕のすぐ前で、「お前、前でろ!」衛生兵が鉄砲でおすと、後ろ後すさりする。僕の目の前で推したり引いたりしてる。僕の立場はどうすんの?あんただったらどうする?見てる? 日頃日本が勝つと、天皇陛下の部下だといばってる僕にしてどうするか。見ておられない。きさま、病院長なんかおまえ、看護婦が意気地無しと、こう言われたらもう軍医としての権威がなくなる。しかしそれを突き出すにしても、ああ、日本の国からきて一月半だ、母のもとから去って一月半たって、こんなことしなくちゃならなかったなんて、辛い、可哀相。一瞬の間心の中で割れた。どうしようか。しかし僕は負けた。えいっ!(右手で突き出す仕草)前へ突き出しちまったよ。突き出すときの心理ってのは…うん…普通はもし俺はすまないけど悪い地位にいるからね、やるんだぞ!って弁解なるけど、そうじゃないんだな。足ぶんばって、こんな汚い男、ま、野良に生きてるからね、とっくみあってすってん転がったらみっともない、足に半分力いれて、八分の力でやったの覚えてんだよ、前に突き出すの。お百姓さんは衛生に引っ張られるし、僕におされて、しかたがない、頭を下げて(下げる)、手術台のところにいって、掴まったよ(掴まる仕草をする)。そしたら僕の意識はどうだ。ああ、これはもう涙だ、ほんとに(左手で涙をぬぐう)。はあ〜〜〜(天を仰ぐ)まいったよ、おれは悪い役目だよ、しかたない、ごめんよってなるけど、やったぞ!みんな見たか!って気持ちだね。将校ったあ、こういうもんだ、えい!やってみせる!……ああ、…つらいよねえ、一生のうちでね。時々その光景を想い出すよ。んで、お百姓さんは看護婦んとこ行った。こんだそれ、載せんの、看護婦がのっける。手でやるんじゃない、口だ。「ええ、ええ。麻薬給、不痛(マーヤオゲイ、ブートン)、睡覚(スイジャオ)、睡覚(スイジャオ)。」麻薬あげるから痛くないよ、寝なさいよっつったら、しかたない、掴まって寝たんだよ。たら、看護婦はボクの方を見て舌出したの。この看護婦(写真をさす)、こっち、みずほ?だったかな。若い軍医に向かって、どうですかって。

「先生とやりましたかねえ」みんな忘れていた

 これが…。信じられないでしょ、みんな。そんなこと。戦争を知ってる人だってそんなことわかりゃしない、理解もしない。どうですか。

 ちょっと余計な話だけど、その看護婦については、僕は後で言ってもいいんだけど、その1989年頃から、あのころぼくは中国へいた人を連れてお詫びの旅行にいった、平和と謝罪の旅行して、この病院へいって、そいで、みんなから集めたお金のうちの20万円を渡して、そいで帰ってきたんで、今度は戦友会のあったときに、みなさんからいただいたお金は、ちゃんとお金をおさめてきましたよっていって。たら、この看護婦が僕の話聞いてるんだよ。(じっと聞いている姿を真似る)……平気な顔して。だから、あとで宴会のときに、「へえ、あんた、今日僕が金持っていった話、したろ?あんたとは、ねえ?生体解剖の俺が初めてんとき、アンタが一緒にやったんです。」そんときの彼女の答え。予想できる?…「先生とやりましたかねえ」。彼女は何回もやってんだよ。僕は初めてだったから覚えてんだ。彼女は覚えてない、もう4、5回やってたんでしょう。「先生とやりましたかねえ」。罪の意識も何も、な〜んにもないわけだ。そりゃもう戦争中のことだからあたりまえのことだ、想い出しもしない。ねえ…戦争の反省なんかしないもんだねえ。これだけのことやっときながら反省もしないんだし。平気なんだよ。だけど僕が中国に行ったときは、やっぱり、あの僕が行くっつったら、みんな出したよ、お金を。その時みんなで話したのは今でも覚えてる。中国ではこれは10万円出したらば、こんなりっぱなんくれたんだ(大きな赤いカバーの領収書をみせる)。これは日元5万円だしたら、こっち(小さい赤いカバーの領収書をみせる)、領収書の大きさが違うんだよ。それ覚えてんだ。みんなにみせて、これはこっち、これはこっち(大きい方を掲げる)。みんながあたしもって言ったんだから。どう思うこの事実。日本人はやったことを全然覚えてない。聞いたってひとごとなんだ、みんな。はああ……、覚えちゃいないんだよ。だから僕がやった、忘れてるっ、て、ねえ。あの、辺見庸さんが言ったのは事実でしょ。もう、おそろしいじゃない?そりゃ戦争はとかくのことがあります。でもやったことをねえ、その…謝罪までもしないも覚えてもなきゃいけないわけだよ。「先生とやりましたかねえ」、恐れ入ってんだ、うん。

 そいで、まあ、そこで手術したんだけど、まず盲腸なわけだ。盲腸切るのヘタでしょ、盲腸はこれくらいの指が入ればいいんだけどね、そのころはまだ、ちょっと小さく切るってのが始まったときだった、ちょっとかっこよく小さくきったんだけど、指だして探り当てられないんだ。じゃ、またもう少し切った、まだわかんない笑。3回切って盲腸引っ張り出して(笑)、慌てて取ったんだよ(笑) そいで印象覚えてる、なんか変わったことがあったら覚えてんだよ、ねえ。あとは、服の正中を切って直腸の縫合をやる。その時だ、僕はあの、部隊の軍医が練習するのを手伝いしろと言われたんだ。ほいで、麻酔なんかの準備なんかして、腰椎麻酔、全身麻酔のときは押さえつけて、麻酔をしたんだけど、見てたんだ、むらむらっと、僕の前には試験体が寝ているわけだ。材料が、マテリアルがあるわけだ。むらむらっとやるきになって、んで最初と二回目かわかんないけど、確か気管切開ってのをやったんだ、ねえ、ピャーッと赤い血が流れたんだ。ギュー、ギュー、ギューって、このカニューレ入れて止めて、ね。そんなことをした。そいから、他の軍医が(両腕肘の上を触りながら)  切断やった、二回目は僕が切断やったと思うんだ。そいで、もううちも1時間半ぐらいたった、そのお百姓さんもう死んだ、死んだっていったって、ころしちゃったんだけど、なんも息しなくなった。すると、看護婦やら部隊の上はみんな演習終わって帰っていった。向こう側でもおそらくおんなじことをしたでしょう。そうすると死体を、お百姓さんとかもう息絶えてたんだけど、それを放り込むのにね、古い兵隊やって、おい!その穴をほるんだけどね、穴はその、解剖室からだいぶ離れたところよ、掘ったんだ。近くはもういっぱいだったんだ。もう一杯だったから、向こう遠くに…もう見て覚えてる(遠くに指をさす仕草)。放り込んだ、何メートル先で。がっちりした兵士は、は〜、まだ最後の息をしてるんだ(両手を拡げるしぐさ)。で、あと病院長が通って、これちょっと息をしてるのを放り込むの気が引けたのかどうかわからんけども、心臓に注射して、ひいてみたらちゃんと血が出てきて、こりゃ余命最後の時するねえ、ああ。今度は注射でもって、そのときもって空気入れだしたんだよ。そしたら空気入れたらすぐ死なないでしょ。脳へいってEnbolism(補注:(空気)塞栓)おこししたりするんだけど、古い兵隊が、ボクは教わって、「全身麻酔で使った麻酔薬、注射打ったらすぐ死にますよ」って、ぼくはそうか!って5ccの注射薬を左腕を出して(服の袖をめくる)、がっちりした男だったよ。全身麻酔の…クロロフォロム…こうやって2.5CC入れたら(注射する仕草)、「ああん、ごほん(咳き込む真似)」絶命した。すぐだった。そんなことやった人間はあまりいないかね、実験したのや、俺ぐらいかね、クロロフォルムを静注したら、すぐ。2.5CCで死んでいった。そしたら、よしってんで、そりゃまあ衛生兵がほうりこんじゃったんだけど。ああ、ちょっと、その日は気持ち悪かったけど。

その後も続けた生体“演習”

 ああ、おれは人を殺したって後悔なんかしないよ? おれもできたぞ!やったぞ!なしとげたぞ!って感じ。卒業したぞ!ってつもり。知ってる?侵略戦争のとき、人を殺したときの意識。精神状態。子どもを放り投げて、えーいって殺しちゃうの(後ろに放りなげる仕草)。どんな意識だと思う?初年兵の教育で「刺突」、えーい(突くしぐさ)って練習でみんな殺しちゃうの。どんな気持ちだったと思う?まあ、最初は嫌だろうね、恐るるだろうけど。ボクの友だちは中隊長、将校になるとき上官の前で人を殺すなんて、クビを切ったんだけど、切る前は日本からきたばっかりで戦地の古い兵隊に睨まれてるような感じがしたって言うんだよ。しかしそのとき、えいってふるいきったら、そんな怖くもなくなった、兵隊が。勇気が出るんだ。やったぞ!あの悪党同志で、人を切ったり殺したりすると、強くなんだねえ。ええ、やったぞ、平気になる。そういうの何回もやった、生体解剖に。

 最初はそれでも薄気味悪いくらいだった、まあ恐る恐る…、二回目は平気で、3回目は進んで。というのは進んでってのは、僕は初年兵教育を20名ぐらい自分のうちの兵隊を教育したときに、僕は考えたんだね、衛生教育に解剖学を教えるんですよ、そうすると、うちに人体の図とか、それから模型もあったんだ。こりゃ実物でやったほうがよく覚えるだろうと思って、内臓の検査とか。僕は憲兵隊に電話して。憲兵隊ってわかる?よこせって言って、兵隊にとりにやって、それで今のように手術してみせたんだね。ああ、そしたら1人兵隊が脳卒中になって、そうじゃない脳貧血おこして倒れたんだよ。今でも覚えてんだけど。だけど、進んでするようになる、なぜか。国のためなんだから、これが!こういう教育方法が。中国人の一人二人(拳で机を叩く)何だよ。すごい民族意識だねえ。平気になるのよ。命令されて1回1回しかたないしだった、しかたなしだった、上官がみてる、しかたなしにやった、じゃないの。進んでやっていくの!精神構造というのはね、特異よ。だからあんたに質問する。ぼくはこうやって人殺しする話をしょっちゅうしてる。そういう身ですよ。で、悪夢に悩まされるかどうか。質問うけたことあるよ、「先生、じゃあ夢に見るでしょ?」って。どう?あんた答えられる?ぼくの答えを。ある中学校でこういう対応をしたら、みんなが他の生徒が笑ったんだよ。笑うんじゃない、大事なんだ。悪夢って、ぼくは今夢をみるのは、やはり、医学校時代に授業におくれることとか、診療してて難しい患者を夜中にやらなくちゃいけなくて、夜に夢でもってあああやだなって思いする事あるけど、全然みない!生体解剖やってる自分のおびやかされること、ない!夢に。なぜかわかる?これ僕だけじゃない。僕らの仲間にも聞いた。人を殺したり強姦したりこうしたったり悪いこと、悪夢に悩まされるか。1人もいないってわけじゃないんですよ、一般にはいない。なぜ悪夢に悩まされないか、わかる?考えわかる? 悪夢ってのは、むかしね、学校に遅刻するとか宿題忘れるとか、しまった!先生に怒られる、大変だ!って思ったときにはそうだけど、終戦したら、大変とは思わないんだ、国のためで、正しいんだ、そのときは。忠義なんだ、それ、天皇への忠義でしょ?戦争に勝つために必要なことで。褒められることなんだ。特に印象なんかないんだ、だから。夢みない!あえて!進んでやれる!これが侵略戦争の罪悪をおかした人間の意識。そこまでの精神構造とまで書いた本って、なかなか書いた本少ししかないですよ。お母さんを強姦して、池の中へ放りなげて…逃げて飛び込んだ。子どもがあとから、おかあさーんって飛び込んだら後ろから拳銃で撃っちゃった男がいるけどね、そんなんばっかしよ、日本人っていうのは。ちょっと聞くけど、日本人ってのは悪い人間?民族的に、残虐な性質? ちょっと考えて(立ち上がって退室)。

 なんでそんな残虐なこと日本兵はしたんだろう。これ笠原十九司さんのね、戦争責任研究の。「(コピーよみあげ) 兵士の性犯罪に駆り立てるしくみと心理。ええ?なぜ普通の人がそうした犯罪行為をできるようになるのか。」これ僕の友だちだ、「鈴木氏は古年兵が初年兵の訓練所で10人の全裸の女性を目隠しをして立たせ、身辺に銃剣を突き立てて刺突した体験を語ってくれた。肝試し。」そうじゃないんだ、どうしてかって、兵隊…明日をもしれない命だ。国にはお母さんお父さんが畑たがやしてんだろう、やりきれない思いだよ。上官は威張ってる、将校になったら勝手に女性買いに遊びにいってる。俺たちは命令されたりぶん殴ったりされてる。抑圧されてるね。抑圧を、ぶつけ先はどこ?弱いとこだ。そいではらすんだ、抑圧の移譲。わかる?移す、譲る。ぼくは1回だけ弟をぶったんだけど、母親が僕のことを怒ったんだけど、不当なんだよ。母親が勝手なんだか、弟を1回だけばーんって殴ったこと、1回だけあんだけど、抑圧、言われるとわかるでしょ。ギューッて抑圧されたら、こんな形で反駁する。ねえ。近ごろ女性が刃物もって亭主殺すなんかはね、抑圧の反発だな。そんなんもあるよ。抑圧の移譲…移す、譲る、心理わかる?その精神構造なんかの本とか持ってるけどね。そうよ…もうあとは面白くなっちゃうんだ。ぼくらの友だちの、ちん○○○○?鎮坊?なんかでね、僕と一緒に収容されてこうやって自分の罪を反省した人が日本に帰って。4、5年まえに慰安問題で国際法廷があったでしょ、日本で。あのときこの僕の鈴木・金子、2人とも証言した。「私は女性を犯しました」って、「もうしわけありません」って白状してみんな涙で言ったんだ。それをカットしちゃったもんだから、裁判で訴えたわけなんだよね。普通の人間が本当の事を言ってる。戦争ってこんなものよ、侵略戦争。はあ、ひどいもんだ。少し侵略戦争のこと、わかったでしょう、ねえ。

 それから僕は、だから今話するんは、最初は1回、まあ嫌々ながらやって、あとはハイハイってやって、その次は自分から進んで、国のために尽くそうとおもうんだ、そういう面で。ねえ、あるいはそこで初年兵教育だけじゃなくて、日本から僕の病院長が、もとの部隊長が頼まれたっつって、昔の塩野義製薬か臓器製薬だか、頼まれて、瓶をもってきたんだ、アルコール瓶を。で、脳の生体解剖した中国人の皮質を送ってくれって言われた。ステロイドホルモンの研究だね。で、僕は最初は1回瓶を送った。こんどは10(個)送ってきて、生体解剖した中国人の脳から皮質を送ったことがある(削ぐ仕草)。まあ、日本で研究したんだ、それを。まあ、僕は自分の罪をたいしたことないっていってるんじゃないんだ。いろんなことみんなやってるんだ、ああ、そりゃ。僕なんか潞安陸軍病院にいたときに、特務機関って糧秣収集する部隊があって、そこで僕のHっていう軍医が、先輩の軍医がいて、慶応出てたんだ。解剖学なんだよ。解剖の先生がきて、中国人の人種的な価値を調べるから首が欲しいって言うんだよ。で、Hさんは特務機関だから中国人の首を切って渡したら、石油缶にいれてもっていったんだ、それを。その解剖学の講師がきて。あとから手紙がきて、ああ無事に帰ったと。山海関で通るときに変な臭いがして憲兵から怪しまれたんだけど、まあとにかく持って帰ったって返事がきたって喜んでいたよ。ああ。それ僕の本に,あの本に書いたよ。みんなひどいのがあった。

山西省全土でされていた生体解剖

 生体解剖は僕のところだけじゃない、全般でやっているってことを話しましょう。そのときの2月1日に手術したんだけど、4月頃、僕のこの山西省の状況部隊で第1軍の司令部が太原っていう都市にあったんです。そこで第1軍てのは5、6万の部隊がいましたね、軍医を集めて軍医教育があるから、病院の軍医集まれってわけで、野戦病院から陸軍病院から軍医が集まって、40人集まった。そうすっと内科外科が教育があって、その午後にね、軍医少将の兵頭っていうのが、ヒゲが自慢の男で、「今日は皆にいいことをさしてやるから集まれ」。太原の監獄、中国人を入れるために作ったね、監獄。なんだろうっと思って集まっていった。そしたら、監獄だから、広い土間がある、入り口に入ったところにある。いってみると中国人が結(ゆ)わかれて目隠しされてじっとしゃがんでる。ふたりいて。そしたら、法務官って法務の軍属がでてきて、「さあ、やりますか!」て拳銃抜いて、僕とそのくらいのところにいる、バンバン、バンバンって2発お腹にぶち込んだ(撃つ仕草)。すぐ側にいるの撃たれた。「へええーへええーへええっへえええ」てやってんだよ。40人のうちの10人で ひとり捕まえて別室に連れて行った。そんときに監督にきた軍医部長が「弾を抜くまでは、生かしておくように」(少し胸を張ったように)こんな抑揚な言葉で言ったの覚えているよ。僕たち運んで、それで手術演習をやる、弾をとる練習をやる、ねえ、そりゃ戦争に有利だ、それできたら。そいで、やってんだけど、酸素もないし止血剤もないし、何にもないんだ、ったく麻酔もないんだよ、それで演習やった。隣の部屋でパンパンパンパン、バーン、あとの2人も。10人で1人、10人で1人、40人で4人だな、4人を殺しちゃったんだな。しかしもう、ぼくら下手なもんだから、僕はもう何やったか覚えてないんだけど、気管切開かこの切断か(右腕を左手で切る様子)、どっちかぐらいのこと。内臓は触れなかった、ぼくは内科だからね。そいでちゃんと終わったんだよ。たら、ひとり手を出さない軍医がいるんだよ。どうしてやらないんだ?って言ったら、「こんなの前線で随分やってるのに、なにも都会まできてやる必要ないじゃないか」って言った。そうか、じゃあ生体解剖、潞安陸軍病院だけでやってるんと思ってたら、ええ?この山西省の各地の陸軍病院や野戦病院でやってんの。ああ、そうかなあ…て思った。

 そういえば、捕虜を捕まえたらね、日本の捕虜政策って知ってる?捕虜に対する方針。戦闘中捕虜を捕まえる。捕虜は2種類ある、国民党軍と八路軍だ。国民党軍は何とか騙してこっちでもって使えば使えないことはないんだ。ただし、八路軍はもう思想的にできてるから、愛国心ができてるから、降伏しない。じゃあ、どうする?これは。放したら敵だから。殺すのが一番でしょう、ええ? 拷問して白状なんかさせても白状しない、どうしようもないじゃない。上海戦線、南京戦とかあるでしょう、たくさん捕虜できたら、どうすんの、これ。前進ったって、うーーん何百人ていうの、10人20人で監視してなんかできやしないよ。だから、一番戦争に有利なのは、捕虜は殺すこと。ね、わかる?日本の方針。捕虜は殺すこと。放すなんてできない。じぶんたちの飯がないのに、捕虜に飯なんかやれやしないよ。宿舎もなにもないし。次々に殺して、揚子江で殺した。またそういうの、南京の主要部から殺してしまえ、っていうような、捕虜を作るなっつって。前進する部隊に捕虜なんかいらないよ、何百人も捕虜捕まえて行軍なんかできないよ。たったこれだけのことが、教科書に載らないんだ、歴史のにはね。言ってたよ、だから、ぼくはわかったんだ。ま、聞いた話と想像だけど、少年兵が魂を入れるっつって、えい!って殺すね(刺突する仕草)。これをやった。それもきいた。軍医は手術演習、さっきの本で…僕の軍医の本だ…やったねえ、みんな公にはされない。されても見ない。日本人は戦争の反省をしない。

 でぼくは、そこで、はあ〜、山西省でやってんならものすごい人を教育をして殺しちゃったんだな、と。実際これは敗戦の年ですね、ぼくは偉くなって、庶務主任っていう副官をやってる時に、北京の司令部から通達を貰った。僕は開けてみたら機密書類。その文書は、「戦線は思わしくない!」そうでしょ、アメリカ軍がわーーってね、フィリピンから何から戦線してるし、沖縄来る前だよ。「軍医部としては熱心に手術演習すべし!」そういう命令だよ。なら病院長と相談して、今まで春と秋に二人ずつやってた、これを3倍の数にして計画回答送ったんだよ。3倍やろうと思って。だからもう敗戦前で、もう教育なんて一月ぐらい前に計画なんてやらないとわかんないけど、実質どんどん(部隊は)移動しちゃうんだもん。アメリカ軍だって沖縄へもう行ったし、できなかったからホッとしたんだけど。しかし僕がわかったのは、じゃあ、こういう命令は方面軍が命令出したんだ、僕たちのだけじゃない、第1(軍)の山西省だけじゃない、北支全体でやったんだ。そうでしょ。そういう認識にたって。軍医でも、1,000名を越す軍医を、ぼくの病院でも60〜70人の軍医を教育したんだから、だから北支だけだって山西だけだって、300人400人なんかの軍医を教育してる。まあそりゃ2回教育した人もいるかもしれないけど。みんな喋らない。ぼくはどうしてわかったかってことになるでしょ?

敗戦後、自分の意志で山西省に残留する

 ぼくはそれから戦闘にいったりして、ぼくは1945年の敗戦の時は、太原の陸軍病院で赴任して帰ってきたときに盲腸になったんで、手術して寝ているときに、敗戦の命をうけたんだ。そうすっと潞安の部隊は撤収して太原に集まって、第3赤十字病院ていうのがあったんだ。

 石井四郎っていう731部隊のやつは、勝手に財政使うし女遊びはするで、しょうがないんで、陸軍参謀から嫌われて、満州の731部隊から太原へ昭和18年、1938年か、あの、43年かなんかにきていたんだよ。そこで凍傷の実験をやった、石井四郎が。で、石井四郎からその話を聞いたんだ。教育があったときに。どうしたら凍傷になった人間を救えるかって。予防できるか。実験をやった。あの、中国人の捕虜を冷やす。最初は冷やす。一番最初に呼吸がなくなってその次意識がなくなって、っつたかな。その次、脈がなくなって 、こんどは熱いお湯をいれて、37度にしてると息吹き返す。そういう実験を得々として、聞いたことがあったんだ、うん。で、僕はその防疫給水部ってそこにあったのと一緒になったときに、防疫給水部の軍医が2人、合体したらすぐいなくなっちゃったんだよ。なんだって聞いたら、こりゃ石井四郎のもとで、実験やって顔を知られてるから、中国人を実験してるから。逃げちゃった。それを僕は十年前ぐらいに名簿みたら731部隊に転任してたよ。そりゃ転属した。逃げちゃったんだ。ああ、悪いことをしたなあってことを、僕はそれを聞きながらね、自分がしたことはあたりまえだと思ってんだ、戦争だからしかたがないと思ってんだ。

 それで、山西省で知ってたんは、『蟻の兵隊』っていう映画みた?あれ、僕はその一員なんだ。そのときに、残るのが国のためか、帰るのかを討議したんだよ、残留のための会議ってのが、幹部なんか集まって。僕も呼び出されていったんだけど。いまアメリカが西アジアにいて日本が独立できないから、中国国民党の勢いを借りて、みんなアメリカ軍をどかして日本を独立させるんだと。いま国民党が入ってきたらば、国民党からの協力されたんですね、八路軍にかなわないから、国民党軍に入ってくれって。で、一万人の部隊をそこに編成して、日本の国軍そのまま使おうという腹だったんだけど、まあ、国際条約から国際状況からそういうことできなくて、結局最後に遺ったのは2600人残ったんだ。ぼくは強制じゃない、勧めじゃない、国のためとおもったし、自分の有利な点で、いま帰ったってアメリカがゴタゴタしたところで、ろくな勉強もできない生活もできない、様子見ですこし1、2年残っていこうと。そいからいま日本では軍隊の薬があふれているし、医学の信用はたいしたもんなんだ、そいじゃあ、その2600人の部隊のための日本居留民の病院をつくろうってわけで、それに参加しようって僕は全く自分の意志で中国に残ったんです。それで、残った人のための病院、診療所っていうのを、僕も関わってつくってて。

 そのうちに見通しは、まあ国民党も共産党軍も8年間戦ったんだからねえ、日本軍と。もう戦争はしないだろうから、このままいくんだろうと思ったらば、国共が戦争になった。で国民党はやられてきちゃった。それで最初に部隊を遺して教育だけだったものが、こんどは鉄砲持ってでていくようになった、ぼくも防衛戦にいくようになった。出陣。狙われたなんかしたけど。結局3年半たたかった。それで、千人ぐらい、人数はちょっとあいまいなんだけどね、3回ぐらい帰る暇があって、次々に帰っていったよ。1,600人が、実際かえったって1,000人ぐらいかえってきて、505人が戦死、戦病死とか民間人も死んだ、病気で死んだ人もいたよ。

捕虜として収容、そして太原監獄へ

 あと700〜800人が捕虜になった。捕虜になって捕虜収容所に集められた。永年、河北省。邯鄲の夢って言葉知ってる?「邯鄲夢の枕」。永年の訓練所、捕虜収容所、そこに収容されたんだ。ぼくは残って結婚したんだけどね、子どももいたんだけど。「捕虜収容所にいくんだな、こりゃ日本に帰るんだ、こりゃいいぞ!」なんて言って行ったんだ。捕虜収容所に入っていったら、みんなが文書書いてる。「何だ?」って。先に入ってる連中がいたんだ。「これ俺たちの悪いこと書くんだ」、「そうか、おまえら鉄砲もって悪いことした!あっ!」、そんときにぼくは生体解剖思いだしたんだ。忘れてた。残留して残るのは国のためか天皇のためになるか反対かだったけど、討議したときに誰も自分たちの罪というのを告白した人はいなかった。訴える者もいなかった。もしぼくが、「おい、おれも、あの防疫給水部の軍医みたいに、逃げちゃったのかあれみたいに悪いことあったらばね、逃げるのにね。今までいる、ここに残ることはない」って言ったらば、だいたいかちゅう?(華中?華北・華中・華南の華中か? 渦中?)に2600人も、残んないでしょ、うん。たら、捕虜は、みんな忘れてたのよ、したことを。でも捕虜収容所になって「悪いこと書き出せ」って。みんな、もう惨殺さと、強姦から殺人から、まあ拉致からのひどいのから、みんなしてるんだ。そこでしかし、その罪状についての取り調べってのは、あんまりなかったの。ぼくも、うーん、弁解たらたらね、命令されたんです、みんなでやったんです、僕だけじゃなかったんです、ってこんなの書きながら。告白だ、それは懺悔だ、弁解のね。

 いまあの会社なんかで間違いがあったりなんかしたらテレビで謝るけど、ほんとに心から謝るじゃないね、逃れるための弁解、ね。こないだ福知山線の事故があったでしょ、あの出てきても、あれが怒ってねえ、被害者が。これは、それはないって。私がこういうことしたからこういう結果になったんですっていうの、でてこない。みんなの、運転手一人の事故に押し込まれて。しかし時間をこう短縮したね、計画した責任者がでて、わたしがそうしたんだ、悪かったってこうしたら(頭さげる)、こりゃあお詫びになるけど、でてこないでしょう、あれには。だから被害者の家族が怒ってるわけだ、みんなねえ。ひどいの。謝罪ってのは事実をみとめることでしょう、まず第一に。

 ぼくなんか、事実は書いてあるんだ、しかたがない。いやぼくはごまかそうとおもったんだけど、やっぱり残って戦ったのに、潞安陸軍病院の兵隊がいたんだよ。おれが言わないであいつに言われたら俺はもうどうしよう、怖い、怖いから言ったんだ。詫びるじゃないんだ。そういう状況よ。その白状したときは、あああーと血が逆流したね、いやあおれはか○○○か?と思ったけど、そういうわけで、嘘も書けない。弁解たらたらとしても、こんなんしても?…中国は受け取ったよ。

 そのときの情勢は、日本の状況は革命的な情勢で、東西対立で東はロシア・中国、そういう社会主義国のが強くて、日本のなかでも政権がひっくりかえんじゃないかっていう、こうだよ。ねえ。あるいは天皇制打倒まではいわないけども、なんかアメリカ軍の力を借りて、政権を○○○○? そんなか○○した状況だった。だから捕虜収容所では、罪を追求するよりかも、新しい情勢に適応する人間になる、平和のの教育だ、社会主義の教育もあったけどね、そんなことあった。2年間、自分の軍国主義思想のってことで、ひとつは労働するってことで労働人民になる(指を折って数える仕草)ひとつは政治学習するってことで、政治のあり方を知る。ひとつは自分の罪状を告白する、「担白(タンパイ)」。白状するって自分を改造するっていう思想活動の運動のなかに入れられたんだねえ。で、ぼくは告白して、ビクビクしているときに、集団だけで中国人から話があった。何を話すのかと思ったら、みんなにこういうことを書かしてみんな落ち着かないだろう、と。だけど中国人は知ってる。あんたたち勝手に鉄砲持ってきた人はひとりでもいるか?って。みんな、軍隊の強制だろう。徴兵されてきたんだろう、中国へ。そういう事情を知ってる。だからみんなを許して監視したいんだけど、しかし中国人民の被害ってのはあまりにも大きい。それやったのは、あんたたちが手になったからじゃないか。だからやったことは、すべからく告白してお詫びしなさい。そうしたら許されるだろう、と。ああああああ、心の大きいき○○民?だあ、有り難いと思ったけど、やっぱりぼくは中国人を殺してやると、中国人へのべっ視の念が人一倍強いんだよね。劣等民族に許されたって感じなんだよ。尊敬するなんてなかなかできなかった。だから学習ってのがあって、講堂で、こんどの戦争は日本は負けるべくして負けたんだ。なんていったときの僕の受け取り方としては、へえ?アメリカのおかげで連合軍になって勝ったくせに、偉そうなことをいってるなあ〜と思った、そのとき思ったんだ。しかしその次の言葉は、例えば鉄の生産量というのは、アメリカの10分の1だったんだそうだ、君たちそんなこと知ってたか?って。みんなが話した、おお、そうかい?って。そうだ、そうだ、そうだって。なんにも知らなかったんだ。それで正しい戦争だ、勝つ戦争なんだ、天皇は神なんだ、みーんなそんなこといって、勝つ勝つ勝つっていって、だまされてきたんだ、うわーーーひどい、バカだったなあ、もう、そんなかに、おれ平気で命だって捨てようと思うし、罪悪も犯したし、まあとんでもない身だったなあってことを僕はつくづく分かった、捕虜収容所で。それがまあ転変っていう、分かる?思想転変の、端緒ね。認識が改まる端緒だった。

 それでいろいろ労働したり、学習したりいろいろやったなかで、いちばんきいたのは、日本でメーデー事件ってのがあったんですよ。球場前でメーデーしたら、アメリカ兵に撃たれたなんてのがあった。『赤旗』が送られてきて、それにあったんだけどね。ああ、可哀相だなあって。そのときに一緒に民主診療所のことが出てたんだよ、民主的な診療所ができてるなんてことが。おれ日本に帰って許されたら、そこに勤めたいって、結局最後…(テープ切れ)。

生体解剖した中国人の母からの手紙

 で…3年半、監獄へ入った。ええ、ほいで、そんなかで、まあ、狭い10畳ぐらいのとこで10人以上入って隅に便所があるとこで3年半過ごしたけど、まあ待遇はね、午前中はじっと反省して、午後から体育やったりなんか、なんかして。そのうちに中国全土の発展を見ろって、発展したら、中国人はそんなこと(音飛び)っておもったらもう、自動車の工場から炭鉱やら自動化されて、へええ、中国人でもこんなことできんのかっと思ったのが、やっと認識改めることができたんだね。

 そんなかでも、もう、なんか許されて帰れそうっといった雰囲気で感じたときに、あの、手紙をぼくは、取り調べの看守が、渡したの。それがこうかいてあったの。湯浅よ、わしはおまえに生体解剖された、連れて行かれて殺された誰々の母親だって。息子が連れて行かれた日に、わたしは憲兵隊にいって待ってたんだ。中国人の小さい(音飛び)纏足って知ってる?ね、纏足のおばあさんが、憲兵隊で待ってたの。そう、門が開いてお前が自動車でわしの息子を連れて行ったと。まあ、僕じゃない、僕の部下がやったんだ。文章はそう書いてあったんだけど、僕はそれ否定もしなかった。僕はあの坂道をね、ああ、一生懸命トラックの後を追っかけったっていう、その文章を見てね、本当にもう涙を流したんだ。ああ、僕はね、人を殺しました、これからこうして殺しました、悪かった、で済んでいたんだけど、そうじゃないね。家族から何から苦しめたんだなあ。ところが、自動車を失ってしまった。心配して家へ帰ってくると、見送りに行った友だちが言った、おかあさん、あなたの子どもは陸軍病院に行って生きたながら殺されちゃっんだ。えっっ?ああああ、泣いて泣いて泣いて泣いた、飯も食えなかった、畑も耕せなかった。いま解放されて、そして生活できるようになったけど、息子は帰ってこない、どうか、上書(じょうしょ)は湯浅を極刑にさしてくれっていって、手紙だった。僕はね、見て、極刑っていわれてもね、そのとき僕の心理はそうあまりおどろかないようだったね。却って、おかあさん、よく憎い私をみつけて、ほんとに悪かった、ほんとにすいませんでしたって。心の中で思って。で、その当時の時期もちがってたし、僕が連れて行ったのでもなかったけど、そのことを告訴したことを取り消す元気もなかったね。日にちもまだ僕の方があっていたと思うんだ。病院長が辞めたときの年に就いたから、10月のことだと思うんだけど、なんか違うことのようなこと言ったんだけど。あああああ、ぼくは反省したんとは、ちょっと、ちょっと新しく知ったぐらいのことで、思想的にはなんにもやってなかったっていう、…わかったねえ。

1956年7月帰国、平和活動の道へ

 で、1956年の7月に許されて、日本へ帰ってきたんだけど、帰ってきたら…。あ、牢屋でかんくどう?で結核になったけどね、その当時貴重だったストマイ(ストレプトマイシン)なんか打ってもらったんですよね、恩着せがましいことは一言も何にもいわないで、みんな、自分の国民に使わないで僕らに使ってもらってね。で、許されて帰ったんだ。そんなに重大な罪はないし反省の意っていうのはどうかわかんないけど。興安丸で帰ってきたんですがね。帰ってきて結核で日赤で1年病院入院したあと、慈恵の大学へいって、また医局へはいって、若いのに勉強、頭下げてましたよ、勉強しながら、そのうちに杉並の西荻窪の民主診療所の口があるっていうから入って、それからはいろんな平和に関する活動を始めたんです。それからもう撫順にもこういう連中がいたんで、それと一緒になって千人ぐらいの「中国帰還者連絡会」ってなそういう組織があんだ、その役員やって、もっぱら僕は自分の体験を通じて、戦争って言うのはこういうもんだよ、ということをずっと喋ってきたんです。それから、僕としては、今言ったように、僕の成り立ち、思想が悪くなる傾向の元ね、いろんな事象のなかで、自分がまともに世の中みないで、自分の栄利栄達、自分の利益のため名誉のために、あえてこういう身になった人殺しの、人殺しの身になったなんかを話して。で、みなさん戦争のこと知らんだろう?と。どうして戦争になったかなんてことを考える人はほんとにいないんだ、600ぐらい殺しても、そういう人いないんだ。ああ、戦争っていうのは、ああひどいもんです、で帰ってたんだ。どうしてこうなったんだろう?って追求する人、ほんとにいないんだよ。それが心配だから、もう私はどこでも講演してるし、そうして、特には、右翼から脅迫状が、これ、脅迫状だけどね(ハガキを見せる)、右翼の脅迫状っていっても、そんなん負けないで、そいでいままで講演しているわけだ。まあ、あんまり(音飛び)また日本における一般のことは、安保闘争からなにから、僕はずっと第一線で活躍してから。民主診療所に勤めたからね。それ話します。

7分19秒

 また聞きたけれりゃ、小沢先生の勉強の日にきてもいいよ。学生時代のことを中心に話して、それから戦争の集団自決だの戦闘の状態。日の丸・君が代が、日本の兵隊を殺した!そういう場面を見てるんだ、突入の場面を。日の丸が前にいくからみんな一斉行って、みんなバラバラ殺されちゃったんだ。…はああ〜、……可哀相に。そんな事実も知らない。日の丸・君が代と、軍隊の先頭立ってるから。だから日の丸?反対だったんだ。それだけじゃない。日の丸にくっついていかないと、「きっさまー 日の丸に遅れて意気地無し!ばかやろう!」バカじゃないんだ、「意気地無し!」って。兵隊、意気地無しだと兵隊生きていけないんだ。だから突撃、弾の○○○○くんたい?が飛んでくんだよ、撃たれて僕の前で死んじゃったんだよ〜、兵隊が。中隊長が突撃しようかって言うんだけど兵隊が向こうむいて、おう!って言ったんだよ、ほいで大隊長が「せ○○? 突撃、突っ込め!」って言ったら、ばらばらばらばらばらーーって撃たれて死んじゃったんだな。はあああ、中隊長も迫撃砲弾で撃たれてんの死んでんの気づいて、縫ったんだけど、はああ……。……加害の反省のことをしても、あんまり聞かないでしょ。ねえ、この意識状態ね。これが本当のことなのよ。他にいくつもあるから。(音飛び)戦にも加わったし、略奪にも加わったし。だから話すんだけど。(音飛び)って話すんの。こういうことは、普通の軍医ならみな関係してる人は何千人といるんじゃない、(関係者… 以下音飛び)

無かったことにしたい軍医たち

 私が帰国したとき、帰ってきたら、軍医が覚悟をしながら迎えにきたわけでしょ。そしたら歯医者の軍医がいて、(音飛び)歯医者の軍医が「あんたは真面目だから、戦争反対(音飛び)たんだ」って。「戦争正しいって言ったんだろ?」って。中島っていう軍医で歯医者の○○歯科医師。「違うよ、中島君、あんたと一緒に歯じゃなく、ここ切ったじゃないか(喉を真横に切開するしぐさ)」「えっ!あれかっ?」たら、驚いて、みんなの団らんの輪から離れて、後ろ向いてじーーーっとしちゃった。彼は戦後11年、自分が戦争犯罪を犯しているのを初めて知ったんだ。忘れていた。千葉の船橋市の歯科医師会の会長になるって言ってたんだけど、辞めちゃった。………みんな忘れてる。ぼくはこの本を出版したときに、もとの仲間に百人ぐらいにみんな送ったんだ。ほとんどの人、何にも言ってこなかった。だから僕がやってる軍人会には、みんなそれ知ってるから、それに触れないような話だった…みんな、ああ、軍隊を、万歳を叫ぶような会にはならなかったよ。僕がいると。

聞き手:あんまり直接、戻ってきてから当時の人達と、そういう話したことはないですか?

軍人と?

聞き手:軍医さんとか、病院関係の軍人さんたち同士でそういう…

 慈恵にいって話しても聞いてもくれないよ。うん。病院、医学部長が、教授が、みんな(音飛び)中国で酷い目にあって長くおかれたんだ、(音飛び)陰では言ってたろう。僕はみんなに、話してる。それから、医師会の組み会っていうね、大事な理事にまでなったんだけど、あれで、こんど選挙があって自民党の後援会ができるんで、みんな名前書いてくれっなんてのがあったけど、僕んところは飛ばすよ。うん。もう仲間はずれだよ。…なんかが入ってあったときに、うん、石井四郎、あれは731部隊でほんとはおかしてんだったら、軍医のひとりが「ソ連だって日本軍を抑留したんじゃないか」って。「そういうことも顧みなくちゃだめでしょ」って。そんなこという奴がいるんだよ、とんでもないこと言う奴がいたんだよ、相手にしなかったけど。医師会も新自由主義史観の影響で、医師会も(音飛び)の雑誌にも、そういうこと書いて投稿してんのが載ってるから、おれ文句言いにいったら、誰だった?発表しない。そのうち医師会の友だちが、「そんな追求してもだめなんだよ、湯浅さんのは賛成者が少ないんで、みんなそうなんだから」っていわれて。日の丸、君が代、南京はなかったんだ、慰安婦問題はなかったんだ、そんなの堂々と医師会の雑誌に出す医者がいるわけだよ。

聞き手:湯浅先生の手紙を、少なくとも当時軍医として行った世代のお医者さんたちは、湯浅先生に触れれば、自分のことを、こう想い出しますよね?

 うん、そう。そいで僕と一緒に生体解剖やったOっていう良心的な軍医がいるんだよ。それが手紙書いて。僕はこの本を書くときにね、みんなに許可を得たんだけどで、これ○○○○旅行いったが?〜軍人会…(手紙を出して読み上げる)「○○○〜お話になった回想録の出版の件ですが、小生には正直なところ、甚だ脅威に感じられます。」書いてある。「小生のごとき小心者に天の巡り合わせにて悪い役回りとなり、以来想い出すごとに良心の呵責に責められております。貴兄はわたしと同じ山西軍共産軍のなかに生活され、その反省の場も経験され、いわば青天白日でありましょうが。わたくしは今日までビクビクの○○であります。どうか貴兄の温順によって荒波の立たぬ方向へお導きください。伏してお願い致します。同宿の折にはお言葉に争うことなく黙しておりましたが、わたしの以上の心情をくんでください。わたしの微意くんでください」っていうのが。僕はその本書くときに、Oって書くのをやめてO中尉にしといたんだ。これはまだ、去年上京して僕と会った。言ったんだ、「湯浅さんはあとで太原に残って、戦争のために勇気があったけど、ぼくは意気地なくて日本へ帰っちゃった」なんて言ってたけど、「そんなことないよ」って言った。親しい友だちだから。こういう人もいるわけだよね、ビクビクしてたっていうんだよ、この人はね、良心的な人。ぼくが旅行いくと30万円くれたんだよ、旅行費に使ってくれって。それで僕は寄付してきたんだけどね、この金に寄付してたんだけど(さきほどの領収書を指さす)。

よく中国から許されて帰ったね。ねえ。もういい?

聞き手:当時の医学教育自体が、学校で教育を受けているときから、もう軍隊のためというか、軍のためっていうのがあったんですか?

 もう、雰囲気がね。全体的に、もう全般的に、ええ。日本の戦争の、ほら、さっき印刷した「マインドコントロール」って書いてあるけどね(コピーの記事)。オウム真理教の教団のようなのが日本全体だったって、家永(三郎)さんが書いてんの。家永さん知ってるでしょ?そういう意識の中にいたんだ。天皇制の戦争教育で、まったくそんなかにいたんだ。そのほかのことは、まあ一部でね、抵抗はあったけど。ぼくたち一般にはそういうことわからない… いや戦争に負けて、中国に負けてってなんて、とっても言えない状況だったんだ。そういう言論の自由がなかったんだ。こんどの靖国の映画のことで、言論の自由のためには、あれくらいの…あれだって左翼から見れば、あれはあたりまえでしょ。右翼からみたらこら、左翼的な映画だと言うと思うんだよ。だけど多少そのズレがあったとしたって、言論の自由ってことは同じだからね、そうだと思うんだ。そうでしょ、あの映画だって。多少のズレがあったねえ、どっちにむけたその、片側から見れば、靖国派からみりゃ、あの映画は左翼的だよ、観なくてもわかる。ああ。わかる?しかし、表現の自由ってとこだけは守んなきゃいけないわけだ、どっちだって。そんなかで議論さすのはいいことだ。脅かすなんてのはいけないんだ。

すごい過去でしょ。でもみんなだいたいしたことについては、全部やっちゃってんのよ、みんな。だから、あのー、あんた、あのサッカーをもってね、重慶でやったときに、もう、わーーーって反日デモって。反日デモ?そんとき日頃言わないけど、こういうときに、こいつら靖国神社にずっと、まだあの侵略戦争に役だった靖国神社の、靖国神社は戦争を合理化してんだからね、って、みんな怒ったんだけどね、家族からね。たら、日本じゃそれを反日デモと決めつけて処理しちゃった。反日デモ?違う! あれは愛国デモでしょう。戦争を否定することに対する憤激した中国民衆の怒りで。まあ、ゆきすぎはあったよね、ゆきすぎは多少あったんだけれども、だけどあれを愛国デモって書いた新聞、ジャーナリズムあった?日本に。見ないなあ。中国にとっては愛国デモです!あれは!運動だから言う、ねえ、ゆきすぎはあった、確かに何か壊したりなんかして。愛国運動でした、あれは。だけど日本のジャーナリズムはもう右翼化しちゃって、もう体制的で、こんなもん、ほんとに。

 こないだ、胡錦濤きたときでも、天皇陛下と話したり こうした場では、日本の侵略戦争のこと言わなかったから。早稲田大学んときは言いましたね。あれね、ちゃんと言うことは言う、場合は言ってる。侵略戦争の頃はこうだったっていうような、ちゃんと言ってる。そういうところを見ないとね、ああ、胡錦濤はこうやったら満足しちゃったなんて、そんなもんじゃないでしょ。

 今日も毎日…『朝日新聞』見てる?『朝日新聞』の記事ね。日本の何とかっていう女優さんが、この朝鮮の特攻兵、特攻隊の亡くなった人の碑を創るって、韓国行ったんですよ。知ってる?土地を提供するって話だったんだけど、断られちゃったの。朝鮮の特攻兵ってどういう人かわかる?その理由はあんまりちめいかんなんか?なんだけど。分かる?これ、難しいよ。『開聞岳』っていう本があんの(注:堀之内三夫編『開聞岳を後にして ——特攻戦没学徒への追悼』堀之内三夫)。日本の特攻隊がそっから飛び立ったんだ。朝鮮の特攻を志願する人で、必ずの日本の言う事が、話かなんかきかないとか処分受けたなんかの人なんだけど、俺も特攻志願するって突っ込んで死んじゃったんだよ。それが高倉健がやった『ホタル』っていう映画あったの、観たかね?観た?観ない?観た?ぼくはそれ○○。あれは本当じゃないのよ。あれは、なぜ彼は死んだの?特攻隊を志願したの?(映画で)出てた答えは? 日本人とともに突っ込んじゃったんだね。映画はそうしか作らない、でもあれを追求して書いた新聞記者が書いた「ホタルの海」、原作があんだよ。 ➡『ホタル帰る、特攻隊員と母トメと娘礼子』のこと❓️

 なんで突っ込むとおもう?日本に恨みがあんだ。「日本人には負けないぞ!ダああーーーー!」って突っ込んじゃったんだ。そんなの映画にできないね。はははは(笑)。あれ監督の…いまだ  監督だ?。あれはできない。みんな少しずつ真実がずれてんだ、本当のことは。分かる?「日本人には負けるか!」突っ込んじゃったんだよー。だから朝鮮の人は対日本になると、なんでも強いねえ。力出てくんだ。まだ国際的感覚は日本はだめだよ。穏やかに過ごしている時、外国からわーっと吹き出るかもわかんない。危険な状況だよなあ。ねえ、今だって、まあ、経済がおかしくなったり(咳で聞こえず)だったり、どうして政府これ切り抜ける?公共物管?か、税金とるかな。今日の日曜討論も、ちょっと観てたんだけどね。ごまかして、ごまかして。国が、道路の税とっちゃって、ねえ、自分のいうなりにして、そいで、あと政党の方へカンパで、ねえ、政治資金にいって。その裏側が、また小説なんかでたら発売禁止だ、そんなもん。そんなルールあんだ。

 ああ、心配で死ねないよ、こんなもう(笑)。もうみんな、しっかりしてよ、ほんとに、ねえ。でもう罪悪感…まああんた正確に見てんだろうけど、真実、戦争の真実。僕が真実っていうときには事実と違うんだ。みんなこう、「白」としようとしてる、いやそれは「黒い」んだ。そっちが真実なんだ、あるいは知らされないんだって。こういうこと言ってんのに。佐藤学っていう東大の教授も同じような事いってる。戦後の教育はね、帝国主義の教育を受けたんだって、言ってんだ、彼は。佐藤学って有名な人だ。特に外国のことに関してはね。本当の事を教わらない。僕の言った事はみんなおそらく新しい事実だろうと思うんだけど。もう一回また機会があって、取材とは別に来てくれたら、頭の中に、まだ話すことがあるから。

戦争だから仕方がなかったと、僕は思わない

聞き手:ひとつだけ、わたし、どうしてもおききしたいことがあるんですけれども、今日お話をお聞きして衝撃的だったんですよね、それで、かなりはっきりとご自身がされたことについて、わたしたちに語ってくださったんですけれども、そういうふうに語るにあたって、これは戦争だったんだからしかたがなかったんだとか、状況がそれを許さなかったんだとか、いうふうにして、まあ人間て、やっぱりそういうふうに自己を合理化してしまうと思うんですけれども、湯浅先生をそこをしないで、真正面に向き合われたというところがすごく胸を打たれるんですけれど、湯浅先生はそういうふうに自己を合理化しなかったんですか?戦争だからしかたがなかった、状況が許さなかったということは事実ですよね?それはどうしてなんですか?そこに葛藤はなかったんですか?

 葛藤はない。真実だ。自分が騙されてたって事がわかったんだ。僕は埼玉県の生協の連合会で、講演頼まれて行ったときに、ひとりから質問されたんだがね、「僕は戦争とはお互い様だから、やっぱり殺し殺さなければならないんだから、しかたがないでしょう?」っという質問があったんだよ。あんたがね、しかし、殺したっていうのはね、あんた捕虜を殺してんだよ。チャンチャンバラバラでこうやってやることなんかないんだよ。みーんな捕虜!有名な裁判だった、100人斬りの物語、知ってんでしょ。あれうちの兄の戦争に行って帰ってきた時に聞いたんだ。新聞に出たんだよ、野田っていうのがね、証言、百人斬りやったっつって。凱旋したって聞いたんだ。ところが野田ってのは、僕が行った大学の予科んとこの郵便局の局長の弟で、僕が行ったら会ったんだよ。「おう、湯浅君の弟君、じゃあ兄さんに休みんときは言ってくれ」って偉そうなこと言ってたんだよ。だから、兄貴に「今日野田君に会って、こういう事があった」って。「あいつは嘘まで言いやがって、捕虜ばっかし殺してんのに、自分が戦って殺したようなこと言ってる」って、こう兄貴が言ったんだよ、ああ。ね。戦争でお互いに殺し合うからっていうんじゃないんだよ、捕虜を殺してるんだよ、みんな。無抵抗の捕虜を殺してんの。だから殺したり殺されたりするからって、そんなことじゃない。それ思い違い、全部。わかる?じゃあ、よく間違って「誤射」っていう言葉、新聞に使うんだよ。誤射っていうのはどういう意味かわかる? 間違って撃つというのは、話に○○○よーく、もう言葉から何からね、戦争を合理化するようなこと言ってんだよ。どういうのを誤射っていうのか知ってる?イラクでも中国大使館も、誤爆したっていうんだよ。いまアメリカ軍のイラクの攻撃はどういう方法だかわかる?人命の損害を極に防ぎたい、もう2,000、3,000人になるのか?ああ。だから、じゃあ、撃たれないためにはどうする?空爆ですよ。飛行機でやんなくちゃ。そりゃ安全だもの。基地に帰ってくりゃいいんだから。街んなかで掃討したら被害被る。ちょっと、もしあそこにいるかもわかんないと思うと、バーンと爆撃する。で、あれは敵のと思ったんだから、爆撃したとろが普通の良民だったって。そうでしょみんな、怪しい部落があれば撃て!ばーーーーん!って撃っちゃって、みんなやっつけて帰ってくんだよ。敵と、はっきり敵がいるとわかんなくてもやっちゃうんだよ。それを新聞紙上では誤爆という。誤爆っていうと、ああまあ、誤って撃ったんだ、まあしょうがないんだ…そうじゃないんだよ。戦争ってのは。何かチラっとあって敵かもわかんない、じゃあ撃っちゃえ、なんだよ。これ誤爆じゃないだろう? それ僕らの頭のなかで、新聞見てっと、誤爆だからしかたがないっていうのは、みんなそういう言葉で、全部合理化しちゃうの。戦争は殺し合い。殺し合いじゃないよ、一方的に殺すですよ!住民を。みんな感覚が違ってる。そういうことをずっと反省したらね、もう真実を何の抵抗もなく、これ僕はいう事ども、これ脅迫状きてもなにしてもね、僕が講演したら、いつかは奈良の方、大阪へ行った時に、僕が講演したら、なんだ、爆発音、破裂するものバーンって放り込まれたよ、そういうこともあるから。負けない。講演したら、ちょっと来てって呼び出されて、こういうこと言ってった。「お前ぶんなぐられるぞ」なんつって。「何を言うことあるんだ、おれはぶん殴られるのねえぞ」っていったら。「俺がやってやるわ」なんて捨て台詞いって逃げたのがいる。いるよ。相手にされない。

聞き手:でも湯浅先生は合理化しなかった。

戦争は自分をかばえない。そういう言葉、質問うけたことなかった。合理化しない、自分のやったことは合理化しない…。うーん。

聞き手:だって非国民って言われるわけですよね、僕はやらないって言ったら。そこのところでみんな妥協していってしまう?

 一生、このことに携わろうと思っていたんだから。戦争でしかたがない、そういう感情とか感覚がないわけでもないけどもね、ああ。だけど講演じゃ、絶対そういうことしたことはないね。

聞き手:最初、収容所に入った頃は、しかたがないっていう気持ちのほうが強いというか、やっぱりそういう気持ちばかりだったんですか?

 そうですね、しかたないっていう気持ちはあったけど。特に監獄に入って反省をしている中から、本当に心から間違いだって分かった、最後の終局はあのおばあさんからのね、手紙があったんだ。俺は反省したんだ、反省しなかったら、家族の苦しみさえひとつ想像するのも、できなかったんだ。反省じゃなかったんだよ。うん、反省したらお詫びの言葉を、中国の人たちにお詫びの言葉を言うよりかも、実際に日本の国民にこのことの事実を知らすことが、お詫びにはなるんだ。そうだね。

聞き手:葛藤はなかったですが?語るにあたって。語れるようになるまでに、葛藤はなかったですか?

 なかった、ほとんどなかった。その代わり、最初講演したときなんかは、軍人が入っている病院なんかでこういうこと言ったら、「へえ?洗脳されてるんじゃないか!」なんてこんなことヤジ受けたこともある。うん…でもだいたい民主団体が多く講演したから、直接そういうことはなかったね。事実をもって僕がこれまで事実をもって言ったんだから、右翼だって反駁するのは、お前の方が間違えだっていったって、あれだよ、事実なんだけどいけないっていう、この僕の真実性、僕のこう述べたらね。嘘だっていうことを言うのは、いないよ。さっき話してね、これだけ僕は細々これだけ正確に話したら。私は何人殺したんだって言葉で言ったら、こりゃ良いこと言ってるって思うかもしれないけど、細かくこれだけ言ったらば、嘘と思う人いないでしょ。右翼すら反駁できない、事実に関しては。

ああ、また暗い世の中がくる

 こんど慈恵医大で楽しみだ、医学生にね、学生に本当に私の道を辿らんでくれって、知らないうちに迫ってくる。これあまり言うといけないんだけど、有事法制のとか、もうどうだろうね。ビラまきゃ掴まったりね。だってイラクの反戦のビラ撒いてるから掴まったに違いないんだよ。司法までもがもう政治に加わっちゃってる、行政に。ひどい世の中だよ、ねえ。道路法案だって、また多数決やるでしょ。衆議院で。無茶だ。壊れた政治、どうすんの…。

聞き手:医学というのは、わりと容易にこういうものに利用されてしまう方向性を内側にもってますかね?

 731部隊に参加した人たち、部隊のが、日本に帰ってきて、偉くなってるね。ああ、そうか、京都か大阪には…ドイツから医学会で戦争犯罪の展覧会,東京でやったけど、京都ではできなかったんだよねえ。京都ではできなかったんだ。あそこの大学では、その名残がずっと続いてるから。阪大には誰か、731の名残が誰かいたかしら? 阪大は…まあいいや、誰かいただろうけど。全部どういう気持ちで行ったと思う?医局から派遣されて。森村誠一の本(注『飽食の悪魔』)みると、大学から行った人間は、こりゃてきえいへい?やるなんていうのはなぜか?私にはわからないって。森村誠一が書いてるよ。命令されていったんだ。いや、ああいう生体解剖拒否したの、ひとり。ええ、ひとり神経衰弱になって帰ったのが、秋田の医科大学の学長になったっていう話聞いたんだけどね。拒否して帰って、ああ、命がけだったろうね。本当はあそこから大学(から)派遣されると、もう帰るなんて言ったら、もう医局から除外されちゃうもんね。逆にまた召集だ、強制召集。そんな処分が待ってるでしょ。それよりかも今の目の前の仕事、日本が負けてこんな状況になると思わないんだよ、ああいうことを正しかった、けんけつ?して見直されてる世の中が来ると思ってるんだ。将来に対する展望がね、世の中こんな明るいってことじゃなくて、ああいう時代の繋がると、ぜんぶ。

 いまミャンマーでさ、独裁政権が選挙やらないって、選挙を行ってそして被災者を救わないっていうね。しかしそういう政権がみんな続くと思ってんだよ。だからそっちいかないで選挙やってる。展望がない。日本の展望は、9条にある?(笑) 9条もねえ。すがるようにして、これを柱のようにして守っていかないと。はああ…また、この暗い世の中がくる、ほんとに言ったように。

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体験記録

  • 取材日  2006年4月22日(miniDV 60min*2)
  • 動画リンク──
  • 人物や情景など──
  • 持ち帰った物、残された物──
  • 記憶を描いた絵、地図、造形など──
  • 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─

参考資料

  • 湯浅謙『中国・山西省 日本軍生体解剖の記憶』ケイ・アイ・メディア、2007年
  • 吉開那津子・湯浅謙追補『増補新版 消せない記憶 日本軍の生体解剖の記録 ある軍医による痛恨の証言』日中出版、1996年
  • 小林節子『次世代に語りつぐ生体解剖の記憶 —元軍医湯浅謙さんの戦後』梨の木舎、2010年
  • 石田新作『悪魔の日本軍医』山手書房、1982年
  • 常石敬一『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』講談社現代新書、1995年

戦場体験放映保存の会 事務局

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