宮村 文子さん

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宮村 文子さん

生年月日1925(大正14)年12月10日
本籍地(当時)沖縄県
所属民間人
所属部隊
兵科
最終階級

インタビュー記録

戦争前の景色

 戦争始まる前は学校に通っていたよ。16くらいが卒業だね。それからさ、どこにも出られない、部落内から以外からはさ、戦争始まるから出されない。台湾に行くつもりでさ、姉が台湾に行ったもんで。台湾に行こうとしたら、部落から出されないわけさ、その頃は。漁船とか何とか全部徴用されてるでしょ、軍が来るって。船はなくってカツオ漁船を全部軍が使うからって出されないわけさ、島から。

聞き手(その時、漁師や船員の方も一緒に徴用されて?)

そうそう、一緒、一緒。

聞き手(当時、島の方は主にどういったお仕事をされていたのか?)

昔の話は分からんけどね、男はほとんど漁業よ。

聞き手(じゃあ、船ごと取られちゃうわけ?)

 そうね~、ほとんどカツオ漁船に乗るんですよ。日帰りで行く所。カツオ製造場があったけど、今のセンター、向こうがカツオの漁業組合よ。向こうでカツオ釣ってくると、カツオ製造は向こうでやってましたよ。工場あったんですよ、私なんか分からんけどさ、小さい時の記憶にはよ、カツオ揚げて鰹節削るおばさんたちもたくさんいたと思うけど。役場の前に記念碑があるでしょ?あれが沖縄じゅうで一番(最初)のカツオ業を作った碑。それが初めて沖縄で一番のカツオ業というのをいって、南洋まで行ったでしょ。ここの前によ、石碑があるわけよ、戦前からの(鰹漁業創始功労者記念碑)。

聞き手(生まれた時から105(ストア)の所に?)

 そう、屋敷の向こうにいたわけ、戦前から。兄弟は7匹いた。5匹がメス。9匹いたけど死んだのがいた。子供(赤ちゃん)の時、いたよって話だけで、私は分からんもん。亡くなったのは私の弟、上の3女と4女の間にいたわけ。私5女だった。その人たち分からんけどね、私、小さいから。親父が南洋出た頃は、親父の顔も分からん。南洋に行ってるけど親父の写真がない、どんな人か分からない。私なんかは学校出た頃かなあ、おばあがよく手紙書いてたんだよね。お金を送ってって。こればっかり見てたんだよね、手紙送られたのは覚えてるんだ。父親は漁業でしょ、いろいろあるけど。向こう(=南洋のこと)行ったんだから。何百名くらい行ってるんじゃないの。

学校がある場所も変わらないよ、同じ。センターの先は、アメリカのお墓作ったのさ。現在の墓の所よ。アパートあるでしょ、運動場のこっち側に。アパートとか『高月』の民宿とか。あの辺みんなアメリカの墓でしたよ。十字立てて、怪我した人運んでくる。それと、海で死んだ人を大きな白い袋の中に入れて持ってきて埋めて。ずっと山の裾まで墓があったもん。アメリカの人も死んでる。

聞き手(日本兵のお墓はなかなか作られなかったのか?)

日本兵の墓は、後で遺骨収集した時に、まとめてあそこ(平和の塔)の方に。

聞き手(学校は?)

 私なんかの時には小学校と高等科っていうのがあったでしょ、2年まで。そしたら、1~2年くらいの時かな、その時に出ようとしたら足留め。もう絶対出さない。それから戦争始まるまでお家で親の手伝いして畑耕したり。あの時はヤギとか豚とか沢山いるからお手伝いするぐらい。出されないもん。

聞き手(お姉さんが台湾でお仕事されてた?)

 あれは看護婦だった。三女よ。あれは戦前に(座間味を)出てるさ。私が卒業するとすぐ来なさい、って。いろいろ行こうとした時に、うちの兄・長男が那覇の工業高校の先生してたもんだから、親が兄に相談したみたい。これから台湾にやるって。そうしたらもうお母さんが怒られて大変だったみたい。やるな、って。戦争始まるの分からなくてよ、それで取りやめになったんさ。私は呼び出しがあった。姉が看護婦しているけどね、卒業したら台湾に来なさいっていうことで。私も行きたいと思ったけどだめだった。

日本兵の進駐

聞き手(卒業した頃は日本兵が座間味に来ていたか?)

 ううん、まだよ。卒業して2か年くらいはよ、まだ兵隊は入ってこなかった。兵隊が来たのが19の頃かな。日本兵が最初に来たのは2,000名くらいかな。余り記憶にはないけどさ、夜の9時頃かね、人の話。だけど私なんかははっきり分からん。兵隊が最初入ってきた頃は、海岸伝いにみんな下ろされて、ここで休んでたみたい。そしていざ各家庭に出すでしょ、大きい家には10何名って行ってさ。私なんかの家はちょっと大きかったからさ、家族7名いるのに、裏の小さな4畳半かな、6畳間かな、その中に(家族は)入れられてさ。私の所は本部だからさ、ここに本部があったからさ、役場の隣がスーパーでしょ、本部だけが使用する家だから他の兵隊入れなかったわけ。その代わり、兵隊が患者になった時は、私の家に連れて来たわけ。専用の医務室よ。各家庭に詰め込まれてさ。大変だったよ、食べるものないしさ。

聞き手(食べる物はどうしたのか?)

 自給自足でしょ、あの時分は。だからお芋掘ってきて焚いて、お家に泊まっている兵隊がさ、泥棒だって、食べて、家族が食べるものが何もないよってそんな話もしてたけど。私のほうは本部だから一般的な兵隊入らないからちゃんとしたけど。とにかくねー、食べるもんなかったよー。本部は向こうに炊事場作ってさ、そこから兵隊が各部隊のご飯運ぶんだけど、飯盒一杯を5名だったかな、うちの前で机広げてさ、そこに何十名ぶんの飯盒置いて。玄米よ、玄米。おかず何もないよ、何とかして作ろうとするけどさ。可哀そうにお味噌汁にしてもさ、丸い麩を2つ3つ入れてさ、兵隊、そんな生活してたよ。だからいつもお腹空かせて泥棒した。島の人は食べるのやっとで、隠して食べるわけよ。そしたら兵隊にみんな供出供出でしょ、何作ってるの、畑にあるもの供出なさい。命令だからさ、出さんといけないわけさ。若いのはみんな軍作業とか軍に使われて軍の炊事場にいる人もいるし、私なんかは行かなかったけど、色々軍のためによ、小さい子供達が働かされているわけさ。

聞き手(戦争が近づいている感じはあった?)

 兵隊が来てからはさ、「あ、そろそろ来るのかね」っている感じはあった。その前はただ自分の想像するだけだが。みじめな戦争っていうのは記憶にはないでしょ。ただいつも映画とかテレビ見る時に相手と戦争するぐらいだと思っているわけさ。話にならないですね、戦争だから。弾は雨降るように落ちるしさ、逃げ回る。

最初の空襲

聞き手(当時、新聞とかはあったか?)

 絶対ない。外の情報は聞かせなかったさ。うちなんか本部だから本部の人聞かすかなと思ったけど、絶対聞かせない。絶対分からなかった。だけどある兵隊はさ、内緒にして「そろそろ敵が来るみたいですよ」と言う人はいた。いたけど、どこの本部だっても実際は知ってる兵隊誰もいないんだよ。最初、渡嘉敷が弾落としたもんだから、25日か26日に渡嘉敷の方でドンドンしてさ。見たら東側のほうで大きな煙出てるけどよ、それでもよ、「友軍の練習だろう」って、兵隊、こんなこと言っていましたよ。最後になって26日頃かな、ユンタ編隊ってあるわけよ

聞き手(本部だったお家にはどんな人がいた?)

 例えば水汲みとかの当番兵がおって、水汲むのも井戸だからさ、それを利用するのに他の兵隊に使わせない。本部付きの人だけ。本部っていうのは、本部でしょ、医務室があるでしょ、それから通信兵とか電報班、この組が本部になるわけさ。その組だけが利用するのよ。通信兵や電報班の人たちはほとんど若いね。

聞き手(当時、宮村さんのお宅にはご兄弟は何人か台湾に行かれている人も入れて(何人いた)?)

 あれは入れないで7名いたよ。おばあさんでしょ、それに母がおって、長女、次女、三女は台湾、四女、五女によ弟、7名でしょ、それにいとこ2人いたんだよ。そのいとこというのはフランス領のニューカレドニアにおって、一番上のおばあちゃんの娘が那覇の人で有名になってニューカレドニアに行った。で向こうで子供3人産んで、お母さん亡くなったからもう1人連れてきて、うちの母に預けて来た。で、いとこでしょ。家は大家族だったよ、小さい子供ばかりで。今から考えるとお母さんは本当に可哀そうだったよ。計算すると40代くらいだね。だから若くて7名くらいの子供達、同じ年配の子どもたちにするには大変だったと思うよ。だからそれには、一番上のおばあが、今の70代っていうのは青年だよね。あの当時は70代っていったらゴーキョーな年寄りでしょ。70幾つになるのによ、防空壕まで私の姉がおんぶしてこの山を登ったんだよ。いざ登ったら、自分達逃げんといけないさね。おばあさん残してみんな逃げたわけさ。私1人、後になって残されてよ、出られないわけよ。敵は忠魂碑までずっと並んでるでしょ、出られない、もう。その壕から家族みんなよ、敵が上陸してからの話だからさ、**逃げんと大変だよ、と。防空壕から出て上からずんずんって防空壕から出て山の本部に上っていくわけさ。私、一番最後だからさ、私の前には朝鮮の人がいたのさ。忠魂碑からピューって打ち込むわけさ、頭の上からよ。一段上った所の。朝鮮人が「あーっ」って、腿押さえてんのよ。血がささささーって流れて落ちるのよ。びっくりしたけどさ、防空壕に引っ込んだのが1人もんになったわけさ。おばさん入っているけど、これどうしても夜中に逃げないといけないからと思ってさ、30日にゆっくりゆっくり登って行って、通信兵の本部の壕があるから、行った時は逃げ回ってほとんど誰もいないわけよ。夜中、小さいから分からんさ、でも頂上まで上って夜まで壕掘りおったよ。

米軍の進行

聞き手(米兵はキャンプ張ってたのか?)

 部落全部焼いてるでしょ、焼いているから、ちょうど地震の後の津波の後みたいなわけさ。家が一軒もない。そこにすぐテント張ってさ、捕虜民は一番端っこの方に金網張られて、連れて来るにはあそこに全部、兵隊も全部入れるさ、自分たちはここ半分によ、みんなテント張っていたわけよ。壕から見えましたよ。見えたけど捕虜になっても、やっぱり私なんか最後になったからさ、向こうの阿真のキャンプ場じゃないけど、今度は阿佐のほうにやってきて行ったけど。

聞き手(捕虜になれないっていう思いは強く?)

 うん、大変だったよ。

聞き手(壕から逃げる時に一緒に行動してた人はいたか?)

 1人だったけど、怖いのは分からんですね。もう、いつ後ろからピューンとくるか、そればっかし考えてるからさ。夜中、古座間味に山から下りて、そこに昔のトウジンってよ、ちょうど今のトウモロコシみたいな感じ、いっぱい植えていくんだよ。その間をくぐっていって、ずっと端っこにゴミ焼却炉があるさ、あそこに下りて行ってさ、すぐに山上ったらさ、ちょっと上ったかと思ったらよ、頭のない人が転んでんのさ、学生みたいな、学生の洋服着けて。こういった感じで頭がないわけよ。それ見ながらさ、ススススス(山を下り登る仕草)阿佐のほうまで上って行ったんだよ。泳がないけど、***をもうもうもう(岩はだを手で伝う仕草)伝って。そしたらその時まで痛くはないんだけどさ、向こう着いたらもう手が真っ赤っかよ。岩を掴まえて上ってるから。

聞き手(どこかに向かうという目的はあったのか?

 あったよ。整備中隊の壕が阿佐にあるわけよ。そこ、元々は兵隊がさ、防空壕掘ってるっていう話は聞いてたわけ。高い所に防空壕あるわけさ。古座間味行って裏の海岸通っていくと阿佐の部落に行くけどさ、行く途中が大変なんだよ。行って、やっと阿佐の道上って壕を見つけたわけさ。人が通っているような感じの道があったからさ、ここかもしれないと思って上って行ったら下の大きな壕には入口が2つあって、上は1つしかなくて、ここに家族が入っているの分からんわけよ、私。そしたらずっと上って行ったら茶色い毛布が掛けてあるわけよ、入り口に。叩いたらさ、返事がない。相手も怖いさね。「母ちゃん、母ちゃん、母ちゃん」呼んだらね、奥から「お前は誰だ、こっち来い」って。もう怖いけど、男なんか怖くないわけさ。自分の*だから。すぐ入って行ったからさ。あと方言で言うわけよ、あんた誰かって。私の親戚のおじさんなんだよね、この人。私もその人を聞いて、もうびっくり。そしたらこのおじさんが、このくらいの繰り船の紐があるんだよ。これで何家族が死んでるわけさ。私行ったの30日だからさ、この人たち29日に死んでるのよ、全部。何十人か知らんけど。防空壕がこうあってさ(と手で形を示す)、この通りは1人が歩くぐらいの道があってさ、段差作ってここに死んでる人寝かしてるわけよ。でも怖いっていう気は全然ないわけさ。いいねーって言ったこともあったよ。こっちの人死んでるけど、いいねーって言ったこともあった。

米軍の攻撃と逃避行

 阿佐部落を過ぎていくと、次に小さい部落があるさ。ここで死んでたよ、阿佐の人。兵隊が死んでいたよ。そしたらよ、夜は衛兵が立つわけさ、阿佐部落に。海岸から、山から下りてくる。夜中に警備が立ってる。そしたらすぐ日本兵がさ、夜中、山から下りてくるでしょ、ご飯盗みに来たりするよ。線を引っ張って、これが上にカンカラ下げて、そしたらカランカランカランって鳴るとよ、衛兵が全部出て(機関銃を四方に撃つ仕草)するんだよ。そしたら翌朝見たらよ、桟橋に、もう人間の肉、骨、肝臓、くっついてるんだ。何でこんなに死んでるかだ。後から日本兵もさ、食べるものなくて野蛮的になってた。米兵にやられた住民はいない。住民は部落内に入って出て行けないことになっているでしょ、そしたら「黒んぼう」が真っ先になって来るんだよね。そしたら若い子は全部、お家から出るなって。暑いのに押し入れの中に入って汗だくよ、みんな。昼は絶対外に出るな、って。そしたらよ、「黒んぼう」がよ、入って来るんだよ、鉄砲持って、みんな、女探しに。夜這い。これが一番怖かった。連れて行かれた人いたけど、途中で山から車で見に行くところに下りてくる人、くさるぐらいいた。大変だった、これが一番怖くてさ。そしたら眠る時に鍵をいっぱい作って、釘を打って、カンカンよ。みんなカンカラ取ってきてさ、足元に置きなさいっていうのがあったのよ、アメリカの命令で。もし来た場合、大きな音で叩きなさい、って。叩いたらこっちにアメリカの衛兵が立ってる。この人たちが来るんだよ。だから戦争っていうよりかは、これが一番怖かったね。昼はどこにも出られないし、汗だくで、夏だから。もう家の中によ、1軒の中によ、何十名くらいの家族が入っていたかな。阿佐のよ、今は石垣だけ残っている診療所。あそこは私のおばあちゃんの親戚の家なんだよ。あそこの家、大きくてよ、阿佐では。何所帯だったかな、何十名も入っていたのさ。

 阿佐部落は攻撃がなかった、っていうことを後で言っていたけどさ。フクギがいっぱい生えてたでしょ、だから弾を落とすつもりのものが、木がいっぱいで、家が見えなかったって、話していたから。だから1戸も遭ってないわけさ。そのまま全部残っていた。住民は阿佐部落のほうに集められて、阿真部落にもいたのよ、両方に分けられていたんだよ。

聞き手(ふみこさんが壕から出たのはどのような状況だったのか?米軍に投降?)

 最後の捕虜になったのはやっぱり何名だったか一緒に、出てきたのが。阿佐のユヒナのトゥルーガマの前から出されたんだよ。そしたら海岸伝いに山道があって、そこから出て行ったら田んぼの入り口にいっぱい兵隊がいるんだよ、銃を抱えて。これが人間かね、と初めて見たよ。(背が)高くてさ、鼻もこんなんでしょ(と言って顔を撫でる)、口はぷちゅぷちゅガム食べるでしょ、世の中にこんな人間もいたのかと思ってよ、一番不思議だったよ。

 その中に普通の兵隊が入った。友達同士の兵隊がいたら、軍服脱がせて変装させる、山から何かの着物拾って。変装して一緒に入って来るでしょ、そしたらすぐよ、色も白くてさ、ちょうどいい年頃でしょ、だから向こうから見たらすぐにジャパニーズって言ってよ、並んでいるの、手掴まれて、引っ張られてよ、すぐトラック乗せられて。

聞き手(トラックにすぐ乗って自分が捕虜になる?)

 そう。だから裸になってよ、可哀そうに褌1つつけて検査されて、そのまま大きなトラックに乗せられる。それから沖のほうに船があるから、それに連れてってさ。どうしようもなかったよ、やっぱり若かったよ。綺麗さ、いい年頃でみんな色が白いでしょ、すぐよ、すぐ。年頃の男性はいなくって、こっちみんなおじいばっかりでしょ、その中に必ず1人、私の知ってる友達の兵隊が変装させて連れてくるんだよ、そしたらすぐ分かる。たまには兵隊が着物替えさせて、子供おぶって、そういう感じで出てきてもすぐ分かる。

投降

聞き手(米軍に投降しようって決めたのは何かきっかけがあったのか?)

 だってもう仕方がないからさ、食べる物もないからさ、先にずっと前に出た人沢山いるでしょ、もう仕方がないから出るわけよ。また、「出てきなさい、出てきなさい」でしょ。

聞き手(最初に出て行くのは?)

 いない。いないよ、誰しも。そしてね、全部終わって、22名の座間味の兵隊が来てさ、22名の船作ったんだよ、座間味の生き残った人間ばかり。その中にIという人がいたんだよ。元大学生みたいだけど。最初、兵隊と来た時も、この本部付きで。そしたら生き残った22名の人間の中にIが入っているわけ。とっても綺麗になっているんだよ、太って。もっともっとよ、どこの会社の社長だって言ってるけど、みんなでバカにされてさ、痩せて骨こけしている兵隊が来ているんだから。そしたら終わってよ、22名の慰霊祭によ、2回くらい来たかね。その時にこのIという人が入ってきて、一緒に。そしたら他の兵隊がこうこう(手招きの仕草をする)するわけさ。あの時分、私、民宿しているからさ、「あんた、あそこに座っている人、誰か分かる?」って聞かれてさ、全然分からんさ、「誰ですか?」って聞いたら、「Iの野郎が、見て、今こんな人間になって。今は銀行の何長になってる」って。そしたら「すいません、Iさんですか?」って聞いたら「はい、お世話になりました」って。綺麗さ。そしたら後でよ、文章作って書いたのに、Iは、上陸した当時はもう骨と皮だけだからさこれでも兵隊だったのかねと思うくらいだったのに、自分の身体がね弱体だから山に逃げることできないからすぐよ、アメリカ国中***みんなでばかにしたのが、そしたらよ、すぐ海岸で待っていたって、この人の話よ。頭がいいんだ、これが。だってよ、自分の身体ではできないからって、すぐ海岸出てさ、アメリカにすぐ入ったってさ。そしたら船から出て来い出て来い、アメリカ人は人は殺しませんよ、って。日本語でベラベラ喋っている人がいたんだよ。それがこのいわはしだったって。「あれは僕だったよ」って言うからさ。最初に私は戦争何もしなかったって。もう弱体だから、すぐ出てってよ。やっぱり言葉が上手だね。これがよ、「マイクで言ったのは僕だったよ」って言って。

 今もう戦争も終わった頃でしょ。あれもそうだったよ、梅澤隊長(注:海上挺進第1戦隊戦隊長)も。梅澤隊長も相当やられてさ、ここの足の肉、全然ないわけよ。骨が見えるわけさ。これは戦争中に向こうからやられたんでしょうね。そしたらここよ(と言って右の太もも外側を指す)。この人もよ、1回入ってきたんだよ。そしたらもう誰もよ。私、言ったわけ、「あの人、梅澤さんに似てるけど」「間違いないよ」「何であんた方そんな人連れて来たの?」って言ったらさ、「僕たち分からん、これ自分で付いて来たんだよ」って。誰も相手しないわけよ。そしたらご飯食べる時によ、この人だけは東に向かって角の事務所で食べるわけよ。他の人と一緒じゃなく。それ聞いたらさ、「僕たち分からん、1人ついてきて」。そしたらお部屋によ、6畳間に2人ずつということで、これ梅澤が隊長だっていうこと聞いていたからさ、布団敷きに行ってよ、「梅澤さんですか?」って言ったら「はい、そうだよ」って言うんだよ。けど、そん時は杖もついてるから、「この怪我は、ナガタキヤマでやってる人がいるから、向こうで怪我したんですか?」って聞いたら「そうだよ」って言うけどさ。たっぴつよー、変な人が来るもんだよ。すぐよ、私の怪我これですよって。こっから肉が取れて骨ばっかりだった。それでも生きてるよ。

 一般の兵隊は小沢隊長(海上挺進基地第一大隊大隊長)は那覇に夜中から行ってるんですよ。残ったのは特幹(特別幹部候補生)の隊長で、これが座間味の隊長になってる。そしたらこの人がもう兵隊を二番、朝鮮ピーを連れて歩いてる。この朝鮮は怪我しないけど。

聞き手(梅澤隊長は戦後何しに来たのか?)

 分からんさー。様子見にきたんじゃないの?

聞き手(平和の塔はまだなかったのでは?)

 まだなかった。戦後どういった感じで私はまた、座間味の人はどう見てるかなということで来たんじゃないかな、どうも。内緒にしてこの人先に来て。晴美のお母さんがさ、自分の家にこの人隠してたんさ。後でよ、癪にさわったけど、この人と、初枝おばさんは文通してたみたいさ。後で初枝が言うには「あんたどうしてこの人と文通してたの?」って言ったら、私に「梅澤が来てるよ」と言うからさ、「誰が呼んだの?」って聞くと「私が呼んだ」と。どうして呼んだのかっていったら「私は白いハンカチとか赤い上着とかよ、こうこうで、連絡取って私迎えに行ってきた」って。そしたら自分の家の中に込めて、部落の中に出さないわけさ。23日になったらやっと出てきて私の組と一緒になったわけよ。

壕の話

聞き手(茶色の毛布がかかっていた壕にたどり着いた時に、中にいたのは日本兵ではなかった?)

そう、住民だけ。元々は軍の壕だった。もう軍は誰もいなかったね。(米軍に投降する時に、若い日本軍の服を脱がせて住民のふりして混ぜて、という話があったが皇軍一緒にしないで。住民の中に兵隊がいたんでしょうね。

聞き手(整備中隊の壕の中に入ると、釣り船のロープで首を絞めて死んだ人が何人か並んでいた?)

 何人どころじゃないでしょ、何十人でしょ。その家族が生きてるんだよ。死ぬことができなくて、最後まで。

聞き手(そこで死んでしまった人は壕の中に置いて?)

そう。死にきれなかった人は一緒に逃げたわけ。死にきれなかった人の傷の具合までは分からんけどさ、なかったんじゃないか。

聞き手(自決をしたのが26日、整備中隊の壕にたどり着いたのが30日)

だからそれまで2日3日だからみんなこうでしょ(と言って首を絞めるような仕草をする)。

聞き手(生き残った家族の様子は?)

 家族の様子って、やっぱり、自分で孫殺しているけど、自分でできないから生き残ってうろうろしてるでしょ。

聞き手(その時はそういう話をするわけでもない。)

 (頷く)住民が何十名だよ。阿佐部落のほうに降りていく所にあるんだよ、整備中隊の壕って。白虎隊の碑がある所からもっと降りた所の部落の近くにあるんだよ。玉砕は10時頃から始まったってよ、10時頃から絞め始めたって。

聞き手(戦後、生き残った人は集落の中で話をすることはあるのか?)

 ほとんど向こう行ったし、仕事がないから、帰らぬ旅に行ったでしょ、話する人もいないよ。那覇に引っ越したって。若い時代だからさ、いないはずだよ。

聞き手(慰霊祭は戦後どのくらいから始めたのか?)

 ここ引き揚げて、ちょっと落ち着いた頃から始まったんじゃないかな、何年だったかね。兵隊が3か4回くらい慰霊祭に来たけど。22名が座間味の兵隊のグループ作って、この人たちが来たんだよ、26日には。何か年続けて来たけど。2~3か年前からみんな年取って来られないでしょ。自由参加っていうことになってたから。

日本軍と米軍と住民

聞き手(兵隊だった人と住民の人との関係は?)

 良かったけどさ、日本兵野蛮だからさ。座間味の人でも野蛮だよ、最後には。住民が物でも脇の下から盗んで取ってったし、防空壕に入っている人も出すでしょ、自分たち兵隊が入り込んで「出なさい出なさい」と、座間味の人だって、出されてしまう話もあるでしょ。住民を助けるために来たんじゃないよ、住民を殺すために来てるわけさ。教育でしょ、アメリカをしたら殺されるっていう。私なんかからするとアメリカ人は神様だよ。本当に神様。アメリカ人、沢山人殺してるけど、座間味の人に対してはみんな神様さ。そんな感じだったよ。日本兵は野蛮。私にとっては(アメリカ人は)神様だったよ。少し怪我した人でもアメリカ兵はちゃんとしてくれるでしょ。ポケットから色んなもの出して、ご飯もくれるさー。子供達も大事にするし、水もいっぱい飲ませるでしょ。日本兵と比較するとよ、神様だよ。日本兵、野蛮。(物資があって戦争が起こる前までは兵隊と住民はうまくやってた?)わずかな期間でしょ、兵隊がきて。あんまり…。

聞き手(そんなに接触はなかった?)

 そうそう。戦争する前にも何でも供出でしょ、日本の兵隊が入ってきたら各家庭が供出供出、みんなこんなだからさ。出していたのは、野菜でしょ、お米作るでしょ。その時分、日本は貧乏だからさ、年寄りのジーファー(金属のかんざし)というのか、こんなのよ、釘も全部集めて取らせる。取りに来よったよ。何でも何でも。兵事係の人が命令する。

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体験記録

  • 取材日 20  年 月 日(miniDV 60min*2)
  • 動画リンク──
  • 人物や情景など──
  • 持ち帰った物、残された物──
  • 記憶を描いた絵、地図、造形など──
  • 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─

参考資料

戦場体験放映保存の会 事務局

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