堀江 正夫さん

ニューギニア・ソロモン

堀江 正夫さん

生年月日1915年(大正4年)6月16日生まれ
本籍地(当時)新潟県
所属陸軍
所属部隊第5師団歩兵第11連隊→第51師団参謀
兵科砲兵
最終階級少佐 

プロフィール

1915年(大正4年)6月16日 – 2022年(令和4年)3月20日

新潟県出身。東京陸軍幼年学校(34期)、陸士予科を経て、昭和12年12月、陸軍士官学校を卒業(第50期)。昭和13年1月、少尉任官。中国では第5師団歩兵第11連隊の連隊砲中隊長として指揮を執る。昭和18年11月、太平洋戦争中に陸軍大学校を卒業(57期)、第51師団参謀に就任しニューギニア戦線に出征。昭和19年5月、第18軍に異動、軍参謀として東部で終戦を迎える。最終階級は少佐。終戦後、1946年、妻の郷里、宮崎県日南市で林業に従事した後、昭和27年3月警察予備隊に入隊。陸上自衛隊では師団長や西部方面総監などを歴任。昭和48年に陸将として退官した。1977年(昭和52年)7月の第11回参議院議員選挙に自民党公認で立候補し初当選。二期務めた後、1989年政界引退。(Wikipedea,「歴史群像」参照)

インタビュー記録

生い立ち~軍幼年学校へ

 私は堀江正夫と申します。生まれたのは大正4年6月16日。第一次世界大戦の始まって明くる年ですよね。西暦でいうと1914(正しくは1915)年です。

聞き手 (ご家族について教えてください。)

 僕の家族っていうのは両親。それから兄弟はですね、兄と妹二人。そして弟が一人。ただしですね弟は産まれてすぐ死にましたけどね。実際には兄弟四人の家族ですが。本来、広島県の出身なんですよ。広島市内の出身。親父は七人兄弟の長男でね、昔の水産講習所、今でいうと水産大学ですよね、そこを出て水産技師で、初めは和歌山県の水産試験場に行き、それから新潟県の、今は糸魚川市といいますがね、能生っていう町(旧西頸城郡能生町)のね県立の水産学校の教員になって、その時に僕は産まれているんですよ。

 親父そのものはあれですね、それからね弟が第一次大戦中にハワイで非常に成功していてね、缶詰工場をつくって、軍需品として納入するための。それで親父にぜひ来て助けてくれっていって親父はハワイに行ったんですよね。その間は私の故郷の広島の市内のね、祖父母と一緒に僕ら家族は留守番してたんです。

 戦争に負けた後、戦争が終わった後帰ってきて。ちょうどもうね、僕は小学校の1年生の時にですね、今度は今でいう樺太の水産試験場にね奉職するっていうんで樺太行ったんです。僕はちょうど小学校の1年の終わりですよね。それで小学校の6年の春になったときにですね、樺太の中学校、旧制中学ですよね、旧制中学では樺太ではダメだっていうんで広島にね、僕を帰そうとしとったんです。広島には祖父母もおるし親類はたくさんおった。ただね僕の兄というのがやはり樺太に一応行ったんだけども中学校へ入るんで広島に帰って祖父母のところ、あるいは親類に預けて中学校に行ってたんですね。それでどうも兄と二人までもとても預かりきれないって言われちゃってね。それで親父も困っちゃってね。古巣の水産学校に、また新潟に帰ってきたんです。

 それで僕はそこからすぐ近くの糸魚川の中学校、小学校を出た後、出て、中学校の2年の春かな、配属将校っていうのがその当時はあったんですよ。中学校以上にはね、現役の将校が。それに勧められたのと叔父の一人が陸軍大佐でおったんですね、それに勧められて幼年学校の試験を受けて。中学2年のとき14歳ですよね。東京の陸軍幼年学校に入校した。それで軍人の道を歩むようになった。

聞き手 (もともと堀江家は広島ではどういうお仕事をなさってたんですか?)

 あのね、大体はたいして言えたものないですね。祖父が次男でね、分家をしておったんですけれども、祖父はいわゆる軍属、陸軍の軍属だったと思う。本来は堀江っていうのは今でも松山に、愛媛県に堀江っていう地名も残ってますけど。大体が村上水軍に属しとった海賊の一味じゃないかと思うんですけど。それで戦後、明治維新になって広島に居ついておったんだね。まあごく普通の一族ですがね。

聞き手 (そうですか。ハワイに行かれたりする叔父さまはけっこう進歩的な考えだと。)

 いやもうそうね、ハワイ行って。僕のところにもありますけど、ハワイの戦前の日本人会の記録の中にね、写真付きで叔父なんか載ってますよ。一時非常に成功しとったわけね。病気で死んでしまったものですからね。

聞き手 (堀江さんのお兄さんはどういった仕事を?)

 兄は中学校を広島で出てね、海軍に行ったんですよ。海軍の機関学校を出た。それがね、本家のほうのね、親父の従弟になる連中ですね、それが二人海軍の将校だった。兵学校を出て。そういうのを見とって兄は海軍の方へ進む気になっとったようですね。それで海軍機関学校を卒業して終戦まで海軍でおった。もう兄弟ともね死にもしないで生き残ってずっとおったわけですよね。

聞き手 (軍人の家系というかそういう要素が?)

 まあそうですね、周辺がみんな軍人だったわけですね。僕自身は別に自分で意識的にね、意図的に陸軍になってやろうと思ってなったわけじゃないんだけど。みんなに勧められてね、何となく入っちゃった。しかし結局考えてみると僕の一生は軍人の一生だ。今でも遺骨収集を一生懸命やってね。もう繋がりは全部、この一生というのは軍人との繋がりから離れられない。

聞き手 (幼少期のご自身を振り返ってどういう少年だったか。)

 僕はいい子だったよ。自分で言うの。(笑) それでけっこう小学校でもずっと級長やるし中学校の2年でも級長。まあ普通のいい子だったんじゃないですかね。けっこう先生からも可愛がってもらったしね。まあ特別にどうってことはないけどね。

聞き手 (じゃあ子どもの頃から指揮官というか指導的な立場に?)

 まあ子供のときだからね、わんぱく大将だからあれだけれども、そんなに暴れん坊でもなかったんだね、考えてみると。小学校の時のクラスに暴れん坊おるなと。ふーん。いろいろと暴れさせんために話し合ったりした記憶もありますわね。まあしかしごく普通の少年ですよ。

聞き手 (ご両親はどういった教育方針をされてたか?)

 あーそんなのわかりませんけどね。まあ普通の親じゃないですかなあ。特別厳しい教育、躾を受けたって記憶もなかったけど。いい両親でしたよ。僕にとってはなかなか。母は47歳で、僕が士官学校の生徒の時に病気で亡くなりましたけどね。それから父はずっと一人でおってね。まあいよいよ定年で辞めた後人に勧められて後妻をもらってね、晩年は二人で過ごしてましたけどね。そりゃあもういい母でしたよ、義母も。

聞き手 (戦地でのお話を伺いたいんですけど士官学校を卒業されてまず歩兵第11連隊に。)

 そう。歩兵第11連隊っていうのは5師団のなかの広島の師団司令部があるお膝元の連隊でね。師団の中では4つ歩兵連隊あるうちの一番の、なんていうか頭号連隊ていうかね、11連隊、21連隊、41連隊、42連隊っていうのがありましてね。11連隊はまあ師団の中の頭号連隊でしたね。師団そのものはね陸軍ですからね、もう昭和の陸軍っていったら満州に、ソ連の方に頭が向いとった。そのなかでね、5師団と善通寺、四国の善通寺の11師団だけはね、いざという時には状況によってはね、南、太平洋方面にね、特にフィリピン方面に派遣されるという、何ていうかね、裏の任務をもって。だから上陸作戦っていうのをね平時から訓練しとった。特別な師団。ところがもちろん昔は陸軍は大陸の方を向いて、海軍は日露戦争後、太平洋、アメリカの方ばかり向いておった時ですからね、その中で南の、海軍の作戦といいますかね、それに関連してフィリピン島に上陸を命ぜられるかもしれないという基本的な任務を持った師団、しかし支那事変が始まってから大陸でずっとやったわけですけどね。

士官学校卒業~中国出征/徐州作戦~広東攻略

聞き手 (堀江さんが大陸に渡ったのはいつ頃に?)

 僕が渡ったのは昭和13年の6月だったと思いますがね、(資料を指しながら)これにいろいろ僕の経歴がありますけどね。士官学校を卒業したのが支那事変で繰り上げになって昭和12年、支那事変が始まった年の暮れに卒業したんですよ。そして今度は、一期前のクラスの連中は支那事変が始まった初めは見習士官から、総員なりたてでしょ。はりきっちゃってね、第一線でどんどんどんどんやるもんだからね、たくさん死亡者が出たの。

 それで我々には 「すぐ戦場に出したらいけない。」 と。まず初年兵教育でもやってしっかりと、何ていいますかね、将校として指揮官としての腹構えができた後で出征させようという事で、僕は初兵教育というのを13年の1月から4月ごろにかけて行ったんですよ。その後、その師団はもう中国大陸へ行ってますからね、留守部隊で、補充隊で勤務しとって。それでちょうど13年の6月にね、徐州戦のいよいよ最終段階になろうという時に補充でね、やっぱり第一線の将校がどんどん消耗するんですよね、それでそれに対して人員補充しなきゃならん。その一員として中国へ渡りました。

 聞き手 (まず渡られた北支は場所で言うとどちらに?)

 僕の連隊はですね、というのは師団もですけどね、徐州作戦の時に北の方から攻めていった部隊の一つなんですよ。それで私は船で青島(チンタオ)に上がってね。青島(チンタオ)から列車に乗って、その膠済(コウサイ)、何線っていうんですかね、途中で降りて自動車でまず師団司令部まで行く。そして第一線まで行ったわけですよ。

 大体、北支の、ですから、徐州戦っていうのはね、徐州っていうところがありますよ、(雑誌を見せながら) これに載ってたかなあ、あまりはっきり書いてありませんけど、(記事中の地図を示しながら)これが青島(チンタオ)、徐州ってのは上海の北の方。ちょうど鉄道がね、ここ、南京のほうへ行く鉄道と、それから青島(チンタオ)から済南(サイナン)という所まで行く鉄道のそのずっと南の方。徐州っていう所はね、やはり鉄道の分岐点でここからこんな、昔の洛陽とかね、それから〇?とかいうようなところへ行く鉄道のちょうど交差点でね。この辺の中心地的な都市ですけどね。ここを中心として北からと西北からと南からと両側で中国をここで殲滅しようとしたんですよ、包囲して。そういう作戦。それで陸軍は北においてはね、これを取って戦争を中止したいっていうくらいのつもりで期待をかけたみたい。南では南京をとって北では徐州をとって、ここで中国との間で戦争を止めたいという希望をもってやっとった作戦なんですよ。徐州戦っていうのは。中国なんて何十万って兵力を集中しとった。

 そんな時に僕は初め、連隊、いよいよね、大運河渡河戦っていう最後の攻撃のその日の午後着いたんです。連隊本部に。それでもうみんな海を渡って攻撃をしようって第一線の連隊の部隊はみんな準備をして。行ってすぐ僕は連隊旗手を命ぜられた、(右手で旗竿を持つ仕草) 徐州戦が終わるまで連隊旗手だったわけ。だからその点じゃあね、連隊旗手ですから。運河を渡ってあと攻撃をして対岸の敵を攻撃をして追撃をする、その途中で直接敵の弾を受けるっていうような事は僕自身は無かったね。

 僕自身の一番初めに本当に敵の弾を受けて戦闘のあれしたのはもう広東攻略戦の時です、その後。昭和13年の9月のね。(雑誌「歴史群像」を指して) ある程度載ってますよ、それにもこれにも。いろんな記事が。読んでください。

聞き手 (これによれば9月に歩兵砲の中隊長になられて)

 はい、それでね、ちょうど徐州戦が終わってから連隊は徐州の南の地区の鉄道警備を、南京に通ずる鉄道ね、その警備をやってたんです。でその間に討伐作戦なんかもやりましたけど。8月の初めに青島(チンタオ)に連隊は移動を命ぜられた。青島(チンタオ)に行って何をしたかっていうと今度は上陸作戦の訓練をやったんです。その間は僕はほとんど連隊旗手でそういった業務をやっていたんですが9月にもう中尉になったんです。早々と戦争中で中尉に。それで9月の半ば頃、連隊の歩兵砲中隊ってのがあるんですよ。山砲四門をもってね、歩兵連隊では砲と名の付く70ミリの砲ですよね。(砲をかつぐ仕草) それを中隊長が、その中隊長が病気でね内地還送になったの。その時に中尉で、僕は士官学校の時に1週間くらい連隊砲の教育を受けとった。中尉で連隊砲に少しでも関与したっていうのは僕しかいなかった。それで歩兵砲の中隊長に命ぜられたわけです。広東攻略戦に出発する1週間くらい前に中隊長に命ぜられた。

聞き手 (それからバイアス湾の?)

 そうそう、それでね9月、青島(チンタオ)で船に乗って、台湾の澎湖(ホウコ)島に全部船団が集結をしてそこで体制を整えて、いわゆる広東攻略のバイアス湾の敵前上陸っていうのをやったわけですよ。その時に僕の連隊は特にね、主力と離れて、広東を攻略するのに(記事中の地図を示しながら) 載ってないねえ、ああ広州、広東ね、バイアス湾はここと、この辺ですわね、僕の連隊はね、主力はこのまま上がってから西に向かって広東攻略、僕の連隊だけは山を越えてね、この従化(ジュウカ)っていうところ、敵の退路遮断。独立行動を取ったんですよね。

 あの時はもう僕は中隊長って初めてのあれですからね、中隊っていうのは戦線の一番初めから出征して、連隊はね、長城戦からずっと山西省の厳しい戦いを経て、それから徐州戦の前哨になる作戦をやった部隊ですね。それで中隊はだいたい250名くらい。僕とだいたい同年っていうのは兵隊のうち半分くらいは同年とちょっと若いの。あとは兵隊の半分、下士官、将校、全部僕より年寄りだ。しかも1年間歴戦の勇士を僕の指揮下に入った。僕はまだ23歳の若僧だ。何の経験もない。それで、まあその時に僕はね、何とかねその、みんなに言ったのは、第一線の中隊ね、それを援助するのが連隊砲の基本的な任務ですからね。本当に第一線が役に立つ、第一線にとって無くてはならないくらいの中隊になろうじゃないか、というのは本当に第一線の戦闘と一緒になって戦う。後ろから大砲を撃っておけばいいということじゃなくて、そういう中隊になろうじゃないか。それともう一つは連隊砲っていうのは四門の砲が生命だから砲と共に我々は生きるんだ。いよいよという時は砲がやられた時に一緒に死ぬんだというつもりでね、しっかりとやろうということを中隊長になって一番初めの訓示で言った。

 僕はもう一つはね、船に乗ったらいよいよ上陸するまでの間、なにしろ初めて接触する奴だからどういう、部下はね、名前はすぐわかったけれど、どういう性格でどういう能力を持っているのか全然わからない。それで船の中で将校から始まって後ろの下士官ね、一人ずつと会っていろいろ話をする。それで出来るだけ兵隊の泊ってる船の船倉に行って、そこでみんなと話し込む。というのはね、お互いを知り合わなければお互いの信頼関係は出来っこないっていうのが僕の生徒の時代に教わった教訓であり座右の銘でもあるな。前に戻るけれど、生徒の時代に僕は新潟におったでしょ。上杉謙信の居城であった春日山っていうのが今の上越市の近くなんですよ。僕のところから汽車に乗っていくと1時間半くらいで行ける。夏休暇にそこへ行ってその山麓にあった林泉寺っていう菩提寺にお参りした。その時にそこの坊さんがいろいろ話をしてくれて上杉謙信の座右の銘っていうのを話してくれた。上杉謙信は2つ、座右の銘を持っとった。一つは “義をもって第一とする” 。上杉謙信はいわゆる聖将と言われておった。信義を尽くすという義理を非常に重んじた将軍ですよ。殿様ですよ。もう一つの彼の座右の銘は “宝は心に在り” 。その “宝は心に在り” っていうのは要するに本当の人間の宝っていうのは信義と愛情なんだ、これが人間としての最高の宝なんだ。という事を教わって僕はね、ああ、本当に “宝は心に在り” を心がけようと思って。幼年学校の2年生の時から僕の座右の銘は “宝は心に在り”。だから真の信義とか愛というのはお互いを知り合うことから始める。というのが僕の気持ちだったわけ、ずっと。だから中隊長になって250名の部下とはまず知り合うこと。だから船の中では部下とできるだけ会ってお互い話し合って。いよいよ上陸する前にはね甲板にみんな中隊を集めてね、例の “海ゆかば”って歌あるだろ。あれをみんなで斉唱してそれからみんなで軍人勅諭の五か条を斉唱してそれでいよいよ上陸だって。

 ところがね、バイアス湾の上陸っていうのはあまり敵の抵抗を受けないで上がっちゃったんですよ。上がったけれども上がった後が大変。田んぼ。歩兵は畦道でもどんどん行けるわけだよ。9月ですからね、もう一部あの辺は稲を刈ったところもあるし、残ってるところもあったけれど、ほとんど田んぼには水は無いし。ところが連隊砲は重い。歩兵と一緒に行けないんですよ。遅れちゃって。それで10何㎞くらいかな、そこまで行くのにもう主力から遅れちゃった。主力に追及するのに単独行動をしたの。歩兵の一個分隊を警護につけてもらって僕は四門の砲をみんな持っていくことはできない。なにしろ馬で大体引っ張るのにその馬が一緒に上がってこない。車両もあがってこない。一門だけを持ってね、追及をしたんですね。

 それで追及していく途中で夜ね、退却する中国軍と一緒になって攻撃したこともあるんだよ。わからないんだよ。もう昼でも夜でもいっしょでね、早く行こうと思って。それである所まで行ったら夜ね、両側の村から鐘やったりワンワン騒ぎ立てるところに行ったわけ。そうしていよいよ朝着いて、夜明け方になって命ぜられたのはそこから山手へ上がっていけっていうふうに命ぜられた。ところがどうも右の方へずっと行ってるわけだ。そうこうして僕は命じながら(どうもおかしいぞ、こんなところで、ここに道があるのに上っていくはずはないぞ) と僕はそう判断して。そこで道路端で大休止。いろいろ情報を集めて。そうしたらね、山手に行ったっていう。それで見とったらね、前にある大きい村からどんどんどんどん人が右の方へ広い道の方へ向かって行くじゃないか。もっと先のほうへ。これはね、我々が帰って来るのを待ち伏せをするに違いないと。こう僕は思ったわけ。それでそこからはね、道路の方に待ち伏せしてるっていうことを承知しながらどんどん本道の方へ向かって。もう前進が見えちゃうわけ。ちょうど道が凹地になってるずっと。前に小山が二つあって前には河があるわけだ。そこを出ると前面の河の向こう、堤防の向こう、堤防なんてなき村だよ、まあ高いところから一斉に射撃を受けたわけだ。ぼくらの前進っていうのは。あれは怖かったな。その右左にある小山を向こうが取って撃ったら、もう本当に真下に見ながらやられるから、これじゃ全滅してしまうぞと思ったら、小銃がおったのを分けてね。すぐそれを取れ、それで見とったらうまくとってくれた。ホッとした。

 そのとき頭に浮かんだのはね、広島を出征するときに留守師団長が僕らにね、新しく補充でいく将校に訓示をされたときにね、初めて敵弾の中に立ったときにはまず金玉が縮まがっていないか見ろと。それで君たちの中に煙草を吸う者はおるだろうけど、その時にはまず煙草を吸え、まず気分を落ち着けてと。そうしないと全般状況がはっきり頭に来ないしどうしたらいいかってのがわからないから。それを思い出してね。自分になってみたらまあ特別威張ってるわけじゃないけど?ああそうだ煙草だって火をつけたら小隊長が 「連隊砲、射撃準備終わり」 って言うじゃないか。それで一砲しか持ってなかったけれども砲があってその中隊長だってもう忘れてしまってる。初めて弾を受けてあがっちゃった。(笑いながら) それで前面の目標を示して射撃させた。まさか向こうは砲でやられると思わないから、それでみんなが何発か撃っているあいだに四散した。そのうちにこちらの行機が飛んできた。

 (右手を振りかぶって) それで飛行機が来てね、通信筒を落としてね、この道を真っ直ぐ行けって。それが僕の本当の初戦だ。その時にはね、下士官と上等兵、2人が負傷しましてね、敵の弾でね、急襲受けた、まあ急襲っていうか、あ火がくるぞっていうのは僕は予想しながら用心しながら行ったんだけども、それでも負傷したんだよ。それを担架に乗せてね、こう(担ぐ様子) やってきた。(雑誌を見ながら) その写真も昔あったんだけどなあ、どっかいっちゃった。それでやっと、それから3日ぐらいかかってね、連隊本部に到着した。その時には広東は主力が攻略しとった。それが僕の初戦なんだ。くだらない初戦だけど。

聞き手 (やっぱり(初めて敵の攻撃を受けて)驚いちゃって)

 そりゃもうね、初めて指揮官として、第一線の小さい部隊の指揮官として敵なんかに会った時にね、やっぱりあがっちゃう。死は恐ろしいとかなんとかは気にならない。僕はそれから中国の危ない目に本当に何度も遭ったよ。 僕に狙った弾が僕に当たらないで僕のすぐ傍にいた伝令に当たって即死をしたり。いろんな目に何遍も遭った。死が恐ろしいとかなんとか死に対する恐怖は自分が戦闘してる時には何にもないんだ。

指揮官と部下

聞き手 (その次の戦闘ではそういうショックは?)

 あのね、まあいろんな戦闘というか、指揮官としてのあれだけど、それから後、僕の連隊が広東の市内警備をやることになった。僕の部隊はね、中山(チュウザン)大学の付属の中学校が広東市内にあって、そこにみんな宿営した。それで僕の中隊と速射砲の中隊がその中の寮、学生の寮ね、寮の建物にみんな居った。まあ暇があればすぐ武器の整備と訓練だからね、それでその日も訓練に、その日は何かあって俺は出ないで小隊長に連れて訓練に行かせてた。そうしたら中隊の准尉が僕のところに飛んできてね、「中隊長ね、どうもね博打をやってますよ。」って。「えっ」 僕は本当にまだ若いので経験もないのでびっくりしちゃって。問いかけた。だいたい僕の住んでたところは3階だった、1階にね砲だとか何とかを置いて、2階に居留して部屋が余っとったの。3階は使わないで立ち入り禁止にしとった。ところがそこへ准尉が行ってみたら埃だらけの部屋がね、隅のほうがね、人が坐った(跡が)、そこに煙草の吸殻が落ちててね、車座のようになってる。「中隊長、これ博打やっとる証拠ですよ。」 こう言うんだよ。「えっそうか。」ちょうど給料を貰ったその後の、「じゃあね、一遍あれしてみろ。」と。訓練から帰ってきたところでね、ひとつ財布を調べてみろと。調べたところ飛んできてね、「3人調べましたけどね、とてつもない給料よりもたくさんのお金を持っていて。ベラベラとね白状しましたと。みんな調べたら沢山出そうですよ。」 と。「そんなのもうやめとけ。」 と。 それでそれだけ確認を、僕も呼び出してやった。博打なんて、軍法会議ものだよ本当は。軍法会議をやると前歴として付くわけだ。個人の、本人の。調べてみると本人はいままで非常にみんな真面目によくやってる兵隊だった。他にもやっている。3人だけ?(首を傾げ考える様子。) これをね、規則通りにやったらえらい事になると思った。それで考えた末にね、立ち入りを禁止した場所に入ったら罪を重営倉3日に処す。とやったわけ。その報告を連隊副官に持って行ったらそれを眺めて 「堀江、お前は処罰規定というのを読んだことあるのか。このくらいのことで重営倉3日なんてそんな処罰はないよ。もっと勉強してこい。」 と言って突っ返された。僕はまあ初めから確信犯だからな。それでやっぱり行った。そのあくる日また同じのを持って行ったのよ。そしたらね、「お前本当に勉強してきたのか、勉強してないだろ。よく勉強しろ。」 とまた突っ返された。でそのあくる日、また同じのを僕は持って行った。「私は、中隊長としてどうしても。私の処罰がけっこうでなかったら、私を連隊長処罰してください。」その時にはね、どうも堀江の奴はあんまりしつこいからおかしいぞと思って調べたらしいんだ、内々で。連隊副官がね、昔、出征の時の中隊なんだ、連隊本部の中隊長、自分の嘗ての部下だ。それで、ああそういうことか、っていう事で連隊副官はわかってたんだね。3回目に行ったときは何も説明しないのにね、それ以上言わないのにね 「堀江、そのまま連隊長に報告する。帰ってよろしい。」 そのまま帰された。軍隊の信賞必罰ってのは非常に重視されるの。褒めるべきものはしっかり褒める。罰するときは罰しなければ規律は維持できない。特に〇の〇ね、○の○。命をかけて闘うというときにそのへんが乱れたらダメだっていうのはあるわけ。やっぱりいざっていう時になるとなあ、そう杓子定規にいかないものだという事を俺はつくづく感じた。僕はもう重営倉3日間だ。最初の1日目は一緒に営倉に入って一緒に飯を食べて過ごしたけどね。あのーまあそれからのほとんど3年間一緒にいろんな戦闘をやった。僕はねえ、如何にして、やっぱりね、指揮官というのは部下をしっかり掌握するか。上下の間に信頼関係がしっかりできあがる、ということがそのままその部隊としての能力を発揮することに通ずるんだということを身をもって感じた。だからその後の戦闘でもね、やっぱりそういう気持ちっていうのがね、僕は活きたと思ってますけどね。

 それから3年の間にね、いろんな戦闘をやりました。それから後もね。部下を7名戦死させて病死も1名で、負傷者も10何名出しましたけどね。自分はとうとう怪我ひとつしない、3年間で。まあ運というかね、人間ある程度はね、でも僕にとっては長い人生顧みてこの中隊長っていうのはね、非常にやっぱり長く生きていく、自分の生きる上においてね、この3年間部下との体験っていうのが非常に貴重な教訓だと。まあそれからいろんな戦闘してるけどね、敵の弾の中で実際やったのは十四回。中国戦線で。(資料を指差して) これとこれには大体書いてある。

聞き手 (歩兵砲中隊の戦友の方が書いた本を靖国神社で見たんですけど。)

あった?

聞き手 (ありました。堀江さんの写真とかも載っていて。これぐらいの厚い本で1A会って。)

 iA(アイエー)会。俺持ってる。それはねえ、僕の部下の松岡君っていうのが戦後に書いた本だ。それでいま言ったようなことのあれは、僕はちょっとエピソードみたいなのは(その本に)書いてあったろ。書いてあったと思うよ。中隊の。あの本は南寧(ナンネイ)攻略戦の初めまでしか書いてないんだ。彼はそのまま除隊した。(笑)

聞き手 (あれを読んで堀江さんの中隊はみんな仲がいいというか和気藹藹としてると感じたんですけど。)

 みんなね、本当にお互い助け合ってね、やりましたよ。帰ってからもね、ずーっとね、彼が、その松岡くんが世話役で、そのほか何人か世話役で、毎年中隊会をやって慰霊祭をやって中隊行進?を。僕も自衛隊のいろんな勤務やってるときもその時は休暇をとって必ず広島まで行って。

聞き手 (よくわかりました。ありがとうございます。次にニューギニアの…)

魯南作戦~金鵄勲章受章

 中国ももっといろいろあるんだよ。あのー広東からね、終って1月。14年の1月にはね、青島(チンタオ)に帰ってきたんだよ。青島(チンタオ)を根拠にしてね、もう何遍もね、討伐作戦に行きました。山東省の、青島(チンタオ)から徐州、あの辺にかけての討伐にね、何遍も行った。まあその時にいろんな話もあるけどね。その時に1回は上陸作戦、海州って海の州ってところのね上陸作戦やったときにはね、運河に沿って、沖で、海でダイハツ(大発)っていう70人乗りの、砲を一番前に据えていける上陸用の船ですけどね。それに乗って、夜真っ暗いところを上陸地点まで運河を航行していった。両岸から盲撃ちを受けながら。その時になんかね、兵隊はみんな船の底でこう、(伏せる様子で) 小さくなって。艇長はね、やっぱり舵をとる高いところだから見えない。その後ろに艇長が立ってその下に俺は腕を組んでこうやって(両腕を胸の前に組む)。弾が飛んできて、おっと思った時に艇長が僕に圧し掛かって胸をやられて1発で死んだんだよ。うん。そういうような上陸作戦をやったんだ。二度目の上陸作戦。その時も敵と戦闘しながらね、まあ逃げる敵が多かったけれどね、その時はね。

 それで今度は他にも作戦の時にはね、(両手を真ん中で合わせて搔き分けるように) 本当に陣地をね、リョケン(呂県)というところの前に山がある陣地を連隊が攻撃をする。俺は先ほどの第一線のために役に立つ中隊であろうと、そのためにはなるべく第一線に近くに行ってね、それで直接目標を狙って(前を指差して) 直接照準で撃つと一番よく命中率がいいように。そうすると距離は1,000mくらいだよ。普通連隊砲はね、物の陰から(カーブを描くように) 曲射砲で撃てるんだよ4,000mそこら。そんなんじゃねえ十分に当たらないよ。その時なんかね、こちらの飛行機が来てね、爆撃をする、敵団に。そうするとその間に歩兵がずっと少しでも前進する(匍匐する様子)、で(飛行機が) 旋回して帰ってくる。その後今度は連隊砲が撃つんだ。その間にまた前進する。目の前で歩兵が突入するのを見たり。敵の弾が飛んでくる中でこっちは射撃をやったりした。その今度は部隊を、そこを占領してね、あとは追撃途中にたまたまね、敵の砲兵部隊が休憩しているところに部隊の先頭がぶつかった。それでね戦闘。バチバチバチバチ始まって。それで向こうの部隊が丘を越して逃げようとする。真っ暗な中。俺はその時大隊に配属されている、大隊長といっしょにその丘の上にいて突然そういう状況になった。その下の方でね、300mくらい下でそういう状況だ。それで連隊砲をすぐ呼んで。その時にはもう向こうの車も人もね丘の陰のほうに逃げている。その時にもう距離を測る余裕もないから適当に距離を命じながら逐次(攻撃を)やった。その時にねいい塩梅にね、向こうが砲兵を二門ほどね、逃げる途中で車が倒れてね、馬が付いたままで逃げて。それが残ってた。見たら俺の大砲と同じ大砲。大阪の兵器廠で作った大砲だ。制作年時を見たら俺の大砲よりも新しいので。中国に供与してやっぱり売っとったんだね、昔ね。それで俺の大砲と比べて部品のもっといいところを交換をしたり。それをもう、やったのを(置く様子) そのへんにおったのが弾痕をみてね、大隊砲の小隊長がね、「私の弾です。」って言ったけどね、一緒に行って見たらその辺に落ちてるのは俺が盲滅法に撃った弾だ。それでそのあくる日はね、攻撃してったら住民が来てね、夜、いや朝来てね。夕べね、その山を越した谷底のおる(村に) 中国の軍隊が来て部落を荒らして強姦なんかして行った。やっつけてやってくれと。それで行って見たら本当におるんだ部隊が。それで秘かに態勢をとってね。その時に山の一番奥のとこだったね、そこはね道が。そこからずーっと道が切裂いて。一本道を逃げるやつを連隊砲で(弾を落とす様子)。チェコ機関砲をね、何門だったかな、だいぶ獲ったんだよ。7.8門獲った。僕はおかげで金鵄勲章をもらった。金鵄勲章っていうのはなかなか貰えないんだよ、生きて。帰ってみたらね、親にはね、その時に広島の新聞社の記者が入院してたんだね、俺は知らなかったけど。それがその時の戦闘の状況をね、広島のあれ(新聞) の記事に書いて、それを親父が見て記念に取っておいた。(それを) 俺見てね、笑っちゃった。それはね、俺の名前を出して俺が軍刀を抜いてね、敵の弾がどんどんどんどん来る中を軍刀を抜いて(刀を振る様子) 激励をして指揮したって書いてあるの。敵の弾が来るなかでね、仁王立ちになってやれるかっていうの。(笑) だから戦争中の記事なんていい加減なものだ、士気を作興するための。うん。まあそれは面白い戦いだったけどね。

南寧作戦、フランス軍との衝突

 これが南寧の戦いなんていうのは厳しい戦い。これはねえ結局、何かっていうと援蔣(エンショウ)ルートを塞ぐためにやったんだからね。さらに援蔣(エンショウ)ルートがそれを塞がれた後、ベトナムの方から入る。その拠点が南寧っていうところなんだ。南寧攻略を僕らがやった。その時にはもう(風速)20m以上の突風の中をね、僕の中隊は一番先兵でね、湾口にある龍門島(欽州湾口の龍門群島)っていうのを攻撃をしてそれを占領して部隊の主力が上陸をしたんだ。その時にはね、やっぱり向こうの部隊が射撃をしてくるのをやっつけながら上陸、その先頭をした。そんな南寧を攻略を終わったのは他の連隊がやった。その後ね、ベトナムの国境まで僕の連隊は行ったんですよ。で、行くときにはもう敵の抵抗は無し。帰りはね、南寧の北の方に派遣されておった山口の連隊が酷い目にあった。中国軍に七重、八重に囲まれてね、「救援するために早く帰ってこい。」と。その途中でもう3日間にわたって包囲されて、待ち伏せ、包囲されてね、ものすごい戦闘を繰り返した。その時なんかもう本当に敵の弾がどんどん来るなかで僕の伝令は死ぬし、伝令はすぐ側で攻撃を受けて死ぬし、それからもう一人連絡に、僕のところに行こうと思った僕の部下が死んでしまうしね。サコダグンゾウ。死んだのはエダコイっとか一等兵だったけどね。みんなその時の戦闘で死にましたけどね。

 それを突破して今度は15年の1月、元旦の日に、南寧の北の方の八塘(ハットウ)というところの八塘(ハットウ)陣地に41連隊と交代に行って、そこで約40日間、第一線でね、毎日夜襲を受ける中をね頑張って。その時の写真はね、もうみんな塹壕病になってる。米の補給はあるけれども他の副食などの補給は何にもない。後方連絡船がみんな遮断されて何も補給が後ろから来ないわけ。どこだったかな。ああ、これだ。中隊の。(『歴史群像』の記事の写真を見せて) みんな塹壕病だ、青むくれ。 栄養失調だ。それでその中でずいぶんとね、英気を養って頑張って?。(写真を指して) 中隊の僕の部下といっしょに写したやつだ。僕は真ん中におる。

 結局南寧が終わってから今度はベトナムに入ったわけ。えーと15年の9月。入る時には今度は無血進駐だった。無血進駐だけどもしも抵抗されたら中国の国境の街のところに夜間射撃の準備をして、僕のところが準備しておったら第一線の部隊がその国境のフランス兵のところに近づいたら猛烈な射撃、抵抗を受けてね、それですぐそこから射撃できないから、もう部隊がおるから危ないから。前まで行ってそれで兵営の機関銃、それをやっつけて、それでもう塀が高くて中に入れない。抵抗を受けて。それで砲で突破口を作って戦闘した。その時に明くる日になってみたらね、撃ったところと突破口を作った塀とが30mしかなかった。真っ暗でよくわからなかった。煉瓦塀が飛んできてね、右目をやられたかと思ったらなに、煉瓦の破片が飛んできて(頬をたたきながら) 紫に腫れあがったけどね、その程度。その時もね、弾を受けない。怪我もしたがその程度。

 その後さらに今度はベトナムから一路上海に向かった。今度は馬を全部取られて、後から考えると大東亜戦争の任務のため、自動車、自転車部隊だった。それで一所懸命に訓練をして今度は16年、大東亜戦争がはじまった16年の4月には北九州の唐津湾に上陸して演習。佐世保攻略のまあだから考えてみたらマレー半島の北に上がってシンガポール攻略の訓練をやった。5師団は大東亜戦争の時に本当にそのとおりに行動してる。その訓練の終わった後また船に乗ってそのまま上海の南の寧波(ネイハ)の敵前上陸をやった。猛烈な抵抗を受けた。それで寧波(ネイハ)の街にいよいよ近づいてきたとき抵抗を受けてね、迫撃砲でもってだいぶみんな死んだりしたんだけどね。まあだいたいね、中国では僕の戦闘っていうのはそういう感じだった。

聞き手 (ちょっと休憩を)

 まあ、部下はみんなよくやってくれた。その間にいろんなエピソードがあるけど(インタビュー記事、著書を示し) まあ読んでよ。

聞き手 (この功五級がさっき仰ってた(金鵄勲章)のこと?)

 そうそう。これはね、死ぬと金鵄勲章をちゃんともらって、生きてる者はね、生存者の叙勲っていうのは支那事変が始まってから大東亜戦争が終わるまでの間に昭和15年4月のこの時の叙勲一回だけ。その後生きてずっといろいろやった人は勲章もらってない。これもね、生きて貰うってのはなかなか難しい。僕の連隊の中でも将校は全部で何名だろうかねえ、100名近くおる中で貰ったのは10名?生きてるのは10名くらい。まあ運が良かった。

聞き手 (ちょっとくだらなくて申し訳ないんですけど、髭はいつ頃から?)

 ああ、髭はね、いつ頃じゃない。その時にね、討伐作戦に、その時の討伐作戦は3ヵ月以上行ったね。その時にね髭生やしたんだよ。あれはね中国人はね、やっぱり髭を生やしてると大人(たいじん)だって。(笑)当時まだ23歳だ。それで髭を生やしたんだ。(本の中の写真を指しながら)その上のやつは小学校6年生の時の。

聞き手 (この一番真ん中にいるのが堀江さんですか?)

 これだ。これが先生だ。ふじおか先生。小学校6年生の。この時2位だったんだよ。まだその頃みんな着物だったからな。(「昭和2年能生小6」と記された写真や軍服の肖像写真、馬との写真などを見ながら) これはさっき話した馬の。僕の馬はね軍馬功労賞(軍馬甲功章のことか)をもらった馬でね、やっぱり負傷してるんですよ。戦争中に。(名前は) 忘れた。(家族写真を見ながら) これが僕の家族です。兄、これが親父、これが母です。これは僕が4年生。この妹は去年96歳で死んだ。これは戦後。家内と子どもたち3人。今のあれが(付き添いの家族を指差して) これです。息子。

聞き手 (全然印象が違いますね。こういう格好をなさってたんだ。レーガン大統領とも。)

そうそう。参議院議員のときに竹下さんが総理の時にアメリカ行った時に随行して行って。

陸軍大学校~大東亜戦争突入

聞き手 (陸軍大学校に入るにはやはりその。)

 試験がある。最初ね僕は、15年の春、南寧作戦の終わった後、南寧の町に駐留してる時にその山形栗花生(つゆお)連隊長かな?急に呼ばれて 「お前陸大の試験を受けろ。」 「とんでもないですよ。」 と言ってね、ものすごく僕は抵抗したの。「受けない」 って言って。だいたい僕は中隊長になって部下と一緒にね、もう将来の事は一切考えないで、現在我々が与えられた職務、任務に一所懸命やろうじゃないかと言ってるのにね、将来を約束するような陸大の試験を中隊長が受けたんじゃ中隊長としての骨がないって。反対したんだ。ものすごく何遍も。とうとう 「命令だ」 って言ってね。それで「まあひとつお前、中国行って以来ずーっと苦労のしどおしではないか。こういう時期だからちょっと息抜きをしてこいよ」 と。(笑いながら) 試験を受けてしっかりやれと言いきらないわけだ、連隊長も。それで息抜きをしてこいって言って。それでなんかあんまり言うのにしょうがないなと思って「それでは息抜きに行かせてもらいます」と。そうしたらね、いよいよ試験だ、もう筆記試験だよ。卒業してから初年兵教育からもう戦地だろ。もうその図上戦術とかいろいろ勉強したことなんか一回もないですよ。まあもう中隊長としての当面の問題に一生懸命で。初めてだよ、もう卒業してからこういう事を考えるのはね、試験が出た。それでベトナムにいる時に結果が出たんだよ。そうしたらね、連隊長が 「お前、なんだこの野郎。乙と丙ばっかりじゃないか。」 って怒られてね。俺はね 「え、乙があるんですか。乙があるのなら結構です。」 (笑) そうしたらね、その明くる年ね、今度は上海に行ったでしょ。上海で連隊では試験何名か受ける。じゃあ僕はもう一番先任だ、兄貴分だ。後輩が、2年後輩までそれぞれおるわけ。2年後輩の連隊旗手をやってるのが僕にね、「連隊長が言いますから私も今年の初審を受けさせてもらおうと思います」 と。「ええっ君馬鹿なこと言うなよ。連隊旗手でやってるのに部隊の経験もまだ碌に無い奴がね、陸大の試験を受けるなんてとんでもないよ」って言ったら 「先輩あんまり喧しく言わないでくださいよ。連隊長が喧しくいうんで受けます。」 とそう言うもんだからね、いや、あんな奴にね、そりゃ卒業成績はいいんだけどね、とても通りっこないけれどね、しかしあんな奴よりも成績が悪かったら俺の沽券にかかわると思って。それから上海におる間、昼間はくたくたになるまで兵隊と一緒に訓練でしょ。それで夜はもう寒い、毛布を頭から被って勉強したんだよ。それで南京で初審というのを受けて、それでしばらくしてからすぐ座間の士官学校の区隊長になったんですよ。それでいよいよ年末が近づいてきたらみんな区隊長連中がざわざわする、何だと言ったら 「もう初審の結果が発表になる時期だ。」 えー他人事だと思っていて忘れてた。それでいよいよ発表になってみたら俺合格してるわけだ。それで今度いよいよすぐ再審だって青山の陸軍大学に行って。そこで試験を受けたんだけどね、うーん、いろいろあってね。例えば図上戦術っていうのは、やるわけよ。その解答をやったあと今度は教官の前でその解答についての問答をやるわけだ。なかでも僕は耳が遠いから聴こえないし。ここ(両耳を指して) 鼓膜を射撃で破ったんだ。ガタガタガタガタ言うし、もう面倒くさいから「決意変更なし。」と。誰が言っても「決意変更なしって。」 終いには怒鳴りあげられてね、「お前みたいに頭の固い奴は出ていけ。」 (笑) それからね、いよいよ発表になったときに名前呼ばれる中にね、俺はおらないわけだな。ああ、案の定だな、と見たらね、成績の良い奴がね、士官学校の成績の良かったような奴が入ってる。いよいよ俺は落第で案の定そうだったなと思ったらそうじゃなかった。残ったのが合格してた。初めに呼ばれたのはそのまま旅費を貰って帰る、部隊に帰る。それで陸大に入って2年間教育を受けた。ちょうどね、大東亜戦争が始まったのはまだ陸大に入る前に座間の士官学校の区隊長で。大東亜戦争の放送はちょうど僕は町田にね下宿してた。そこから小田急の駅に行って駅でその開戦の放送を聞いた。もう僕の中隊の連中はみんな大東亜戦争に、シンガポール攻略に行ってたからね、もう。

聞き手 (ご自身としては放送を聞いた時はどんな?)

 放送を聞いた時は、その前からいろいろ日米でその、やりとりが新聞に出たりしておったからね、(はぁーとうとうやったな。) っていう感じだな。と同時に(はぁー俺の中隊が行ってるに違いないがどうかな。) という感じだよな。部下はそのまま一緒に自転車部隊になって僕は自動車部隊だからな。連隊砲はね。それで訓練は一所懸命やっとった。その部下はみんな一緒に行ったわけだから。

聞き手 (昭和17年にはご結婚をされている。)

 そうだよな。16年の12月に陸大に入ったんだよね。それで17年のもう4月29日には結婚した。家内はまだ自由学園の、羽仁もと子の自由学園の高等科在学中でね。卒業するのを待って結婚した。

聞き手 (どういうご関係だった?)

 それはまたね(笑)、何の関係もないよね、僕は広島、家内は宮崎。ところがね僕の陸大の教官がすぐそこに住んでた、そこの〇〇っていって、教官がね。また家内はまたこっちの方に住んでた。祖父母と一緒に。それでその同じ地域に叔母たちがみんな住んどった。叔母っていうのは陸軍少将の夫人だったわけ。それで教官とも非常に親しくつきあっとったわけ。それで家内は二人娘がいるうちの長女だったんだよ。それで叔母が後の事をいろいろ気にしとったんだね。それでその教官に誰かいい人いないかって。係累のないのがいいと。それでね教官が僕らの学年の学生の写真と経歴を持って叔母のところへ行ったらしんだよ。それがそもそもの始まり。それでね2月11日に見合いをやって3月1日にはもう結納だ。そして4月29日、卒業するのが3月中でしょ、4月29日結婚式。スピード。それで今の息子は18年の3月に生まれた。1年後。

聞き手 (お互いに最初の印象はよかったですか?)

ぼくは早くして死んだ母親の面影をなんとなく家内に見出して。

第51師団参謀としてニューギニアへ

 ニューギニアの話だろう?あのね18年の11月に卒業したわけ。100名、陸大同期生は。そのうちでね南東方面に行ったのは僕一人。陸大の学生というのは一緒の学年の学生は僕らよりも6年先輩から僕らの次の先輩まで7期にわたってね(正確には陸士44期から51期までの8期)学生でおったわけ。大体においてね、若い方はみんな師団参謀になる、古い方が軍の参謀になる。中には学校の教官になるというようなのがおったんだけど。僕はね、南東方面というのが当時もう18年の11月といったらフィンシュハーフェンの作戦がね、もう非常に厳しく推移しとった時期ですからね。それまでラエ・サラモアで負け、さらにその前にはポートモレスビー作戦でブナ、ギルワで負けた後、南東方面に対して行くこと自体が大変だった。よっぽどねえ、もうこりゃ大して使い物にならんから、第一線で消耗品としてやられたんじゃないかと思うけどね、僕はね。まあ若いからね、なんとか若さでやれってことでやられたのかどっちかだと思うけどね。一人でやられたんですよ。それで何月かな、他の地域に行く同期生と一緒に飛行機に乗ってね。それで初めは台北に降りさらに、

 あの、マニラに降り、アンボンに行き、そしてニューギニアまで行ったんだけどね。 途中でみんな他の連中はそれぞれの勤務地で降りながらね、僕一人最後はニューギニアに行った。で、 命令はラバウルまで飛行機で行って、ラバウルから潜水艦で第一線の51師団へ行けと。こういう命令だね。でホーランジアってところまで行ったんだよ、ホーランジアってところは何便か飛行機がラバウルに発つんだけど途中で引き返してくる。痺れを切らしてね、ちょうど便があったからウエワクというところまで行って。ウエワクからまた便を求めてラバウルまで行ったわけ。ラバウルで方面軍司令官に申告をして、今度は伊号潜水艦に乗ってフィンシュハーフェンの後方の兵站地のシオってところまで行ったわけだけど。それはね、もう当時はもちろん制空海権は全部敵に取られたから、まともな船はほとんど入らないわけ。で、フィンシュハーフェンに対する補給はときどき潜水艦でラバウルから50トン、ゴム袋に入れて潜水をしてニューギニアまで行って夜の間にそれを陸揚げをして。その船に乗っていった俺は。まぁー行く前にいろいろ戦況は内地で聞いておったけど、ラバウル行ってみたら、まだその時は将校の長靴を履きながら将校行李を持っていったらラバウルでね、「ニューギニアに行くんでそんな服装でそんな物を持って行けるはずがない」と言って。すぐ編み上げ靴に編上靴に替えて巻脚絆に替えてな、服装を替えて。荷物も将校行李はもう持っていかない、ほんとに少しの荷物だけ、リュックというか背嚢に入れたり手に持てるだけにしてシオってとこまで行って。夜が明けて見たらその辺にもうみんな栄養失調だとかなんかでゴロゴロ起きだしたり寝たりあれしてるわけ。(それを)見てね、はー(ため息)、思っていたより聞いていたより状況は厳しいなということを感じた。その師団司令部から迎えがきてくれてそれで一緒にね歩いてね一日がかりで師団司令部まで到着したわけ。キアリっていうところだな。

 ところがそうしたら、それが12月25日で1月2日には軍司令部とマダンとの間の最後のグンビ岬に敵が上がってきた。その時に20師団はフィンシュハーフェン作戦を断念をして後方に後退っていって。僕が赴任した51師団というのはラエ・サラモアで戦って。それでサラワケットという4,000m級の山を越えて後のフォン半島の北端に出て20師団のフィンシュハーフェン作戦の後方警備と部隊の再編制をやっとったみたい。結局マダンとの間を断絶をされて残ったのは1万7千名位、それを51師団の師団長が指揮して中野集団というので今度フィニステル山系を蟹の横這いで頂上まで登って3,000mの山を登ってマダン地区まで行く。その、僕は行ってすぐ転進だ、マダンまで1万7千名が転進する部隊の計画を作らされた。それでいよいよ師団司令部と一緒に転進だっていう時に先頭でね、僕はなるべく早く援護に出ておった20師団の中井支隊と連絡したいと思って主力よりも一日早く戦闘でどんどんどんどん歩いて、いやもう上り下って行ったわけだけどね。

まぁその時に作った歌が (歌集を手に取り) これにね、飛行機でいよいよ行くときからの歌が書いてあるんだよ。“闘魂記”ってこれは自分で終戦後書いたものだけどね。(頁をめくって見せながら) これは行くときの、出発、台北、これは満蒙、これはあれだ。自分で漢字を当て字を作って書いた。それからこれがラバウル、それからこれが、さっき言った、ラバウルに何遍も行って上手くいかなかった。で結局ウエワクに入る、ウエワクから今度ラバウル行って、ラバウルの状況。それからいよいよニューギニアに来て、マダンへのエチカット?、転進のときの山を越えていくときのやつをみんな書いた。あとずっと終戦までの歌です。その時その時に僕が感じた事を下手な、歌なんて作ったことがなかった僕は。ウエワクエイサツ?

聞き手 (この本で詠まれている歌はここから採った歌?)

あーこの中から少し採った。(『留魂の詩』を手に取って)これ読んでくれた?

聞き手 (読みました。)

 ああそう、ありがとう。まあニューギニアのね、僕はもう中国の中隊長と違ってやっぱり参謀で、実際小銃をもって米軍や豪軍、豪州軍と戦うってことはもちろんなかったけど、まあ何度も何度も酷い目にあってるな、危ない目にな。当然だけど。この前僕が話したやつ(講演?)聞いてた?

聞き手 (その時いなくて。)

東部ニューギニアの戦い~アイタぺ作戦~終戦

 僕はその時、東部ニューギニアの作戦というものと他の地域の作戦とはどう違うんだと。とくに昔から 「ジャワの極楽、ビルマの地獄、生きて帰れぬニューギニア」 って言われたり、それから 「帝国陸軍がなめた惨苦が集結したのがニューギニアの作戦だ」 とこういう風に言われたり。それから軍として玉砕した部隊以外でだな、感状を貰ったっていうのはね、ニューギニアの18軍だけ。それはどうしてか、というような事をこないだ話した。ニューギニアっていうのは凄いよ。大東亜戦争は3年8ヶ月でしょ。3年1ヶ月、東部ニューギニア18軍は戦闘しとった。3年間。しかもその我々の正面というのはマッカーサーの主攻撃の正面なんだ。マッカーサーが反攻を始めたのが17年の、本格的に始めたのは10月かな。沖縄に到着したのが20年の4月でしょ。ニューギニアの我々の正面で3個師団でこれを食い止めとったのは19年の4月までだ。17年の8月から、18年、19年、1年8ヶ月くらいやっとるんですよ。その後19年の8月、20年の4月だから1年間ね、西ニューギニアからフィリピン全部、進撃したんだ。それも3個師団だよ。フィリピンなんて何十個師団だ、投入してやられてるわけ。しかも始めから終わりまで制空権、制海権獲られてね、ほとんど糧食、弾薬、人員の補充なし。だから戦うために行動するたびに人がどんどん減る。たとえば師団というのは1万5千名、それがもう最後の数千名とか千名だとか。そんなに減ってる。それでも戦っている。しかもこんな後方部隊っていうのが航空関係の、地上関係の部隊とか陸でもそんな戦闘とは関係ない自動車関係の部隊だとか兵站関係の部隊だとかいろいろ、それをみんな第一線に注入して、第一線の部隊として戦闘している。そういう部隊も他にはないんだ。しかもみんな島も孤島の部隊じゃなくて軍が最後、玉砕命令まで出して最後まで頑張りぬいたっていうのはニューギニアだけだ。それだけ将兵は苦労してる。それだけ将兵は頑張っているってことですよね。僕らは隊形はそれで行く、そうして先頭になってマダンまで行く。

 その時にこんなもうフィンシュハーフェンも獲られた。ちょうどトラックが大空襲を受けて、ラバウルにあった海軍の航空隊がトラックに移った。だからニューブリテン島との間の海峡を越えてマッカーサーの海軍部隊、太平洋に出るのに支障がなくなったわけ。それでマヌスとアドミラルティを獲っちゃったわけ。19年の3月に。それで後は一直線に行くようになったわけ。それで軍は八方面軍の隷下を離れて西ニューギニアを担当する阿南大将第二方面軍の隷下へ。阿南大将は西ニューギニアをやるために早く第18軍をアイタペだのホーランジアに転進しろ、それじゃあ勝たんぞと。ところが距離がさあ、ホーランジアが岡山だとすると例えばマダンは東京だよ。それまで歩いて行く道という道はないね、自動車道も全くない。河が無数にある。そういうところを行くんだから簡単には行けない。その間にまた歩けば歩くほど消耗するわけだ。そんなような事でね、なかなか前進できない。

 ところが4月の22日にアイタペ、ホーランジアに敵が上がってきた。その時に実際は、大本営はね、何とかして第18軍を早く西ニューギニアの方に転進しろっていう、その内意を伝えてきた。総軍(南方総軍のことか?)の方はね、〇〇大将(内容的に寺内大将だが名前の方はそうは聞こえない…)の総軍は、ニューギニア、まあその辺にひとつ持久をして取り残されて補給も何も出来ないけれど頑張ってくれというわけ。ところが軍司令官(安達二十三中将)は全く違う。もう本当に2年、3年か、2年以上戦ってきて疲れ果てて戦力も衰えて無いけれどまだ少しある。でもう、サイパンから占領されて本土に対する爆撃もどんどん始まってる。少しでも米軍が本土に近づくのを牽制をして遅らせてやる。まだこっちが持ってる力を全部それにつぎ込もうというのがアイタペ作戦。それでアイタペ作戦をやる時には僕がその前に軍の参謀になったのは、5月に軍司令部がウエワクのすぐ近くのボイキンってところへ移ってそのアイタペ作戦の準備をしとった。ところが爆撃を受けちゃって、それで軍の参謀部が参謀となんかが入ってる壕に直撃したわけ。そのとき壕の奥の方にはね軍の参謀長とか高級参謀とかそういうのが入っておった。後からね、ちょこっと横の方に入ってきたのはそこに爆撃があった。後ろに入っとったのは怪我はしたけれど命は別状はない。こっちにおるのがね、6名そのまま一発で死んだ。その後任で僕は51師団の参謀からすぐ軍の参謀になった。

 もうその時はアイタペ作戦の準備中。で、僕は結局後方参謀。後方参謀ってそのとき何をやったかというと、第一線の部隊が戦闘するためにはやっぱりもう食料がないわけだから、食料を現地で採るっていったってそんな余裕もないし、それに食べるものも無い。だけどまだわずかにウエワクに保管をしておった食料、弾薬をこの第一線まで送らなけりゃいけない。ところがアイタぺとウエワクのその基地との間は百数十㎞ある。それをどうやって送るか、自動車道も全くない。だから舟で夜の間に運べるところまで舟で運ぶ。そこからはみんな担送で、担いで、それぞれ後方部隊が展開をして前へ運ぶ。その後方から物を運ぶ部隊の監督指導のために僕はアイタペ作戦というのの後方参謀というのをやった。

 ところが毎日船から上がる物資を、航空の地上部隊なんかがね上げてくれる、それをそれぞれ後方の担当した部隊が担いで、限られた15キロの地区をね、担いでいくわけだ。15kgじゃない、20kgくらいの物を担いでいくわけだ。ある地区がどうしても溜まっちゃってね、前へ出ない。そこへ行ってみたんだ。そうしたらそこの指揮官以下みんなマラリアと熱で栄養失調で寝てしまって。しかしそれに替えて他を、担送させる代わりの部隊はない。そこでもう頭を下げて全般状況を話して、それでその指揮官が当直の将校やら士官を呼んで「明日から病人は認めない。」 自分も寝とったが明くる日から出て一緒に荷物を担いで行く。そういうような状況でね。後方の担送部隊もどんどん死んでいく。そういう中でね、やっと4月に上がって、本当はなるべく早く攻撃したかった、ところが攻撃を開始したのは7月。それでもね、攻撃をこちらが準備してやってるというので米軍は、初めに上がってきたのはね一個師団、ただの。それを3個師団がね、米軍それ自体をアイタペ作戦をやる時には増加してる。それで牽制をすることができたわけ。米軍をね。

 それでその年8月の初めまで戦闘。それで帰って来る、もう8月初めになると僕は後方の責任者、参謀長(吉原矩中将)と2人で第一線の軍司令官の戦闘司令のところにもう8月の初めには「もう送るべき何物も無くなって、これ以上戦闘継続はそういうような意味からも不可能だ。」という事を進言に行ったんですよね。結局第一線の取ったり取られたりをやるけれども、兵力が連隊といっても連隊というのは大体約4500名だ。百名程度に減ってしまう。でも補充はない。そういうようなことで戦力も全く尽き果てて後退をはじめる。だけど後退もまた大変。食べるものがない。みんなヨロヨロしているわけ。なかにはそれでもね負傷者を担架に入れてやるっていうのも僕は目でみましたけどね。

 そりゃあなた、だいじょうぶか?後から聞いたら、その僕が見た2日後だったかな、担いでいるのが倒れちゃって。みんな倒れちゃった。そういう状況でね、実際、自活要撃体制っていうのをずっと後退をしてようやくウエワクの南のアレキサンダー山脈を越えてセピックっていう川、その間の草原帯の部落に展開を進めるるようにしとった。1ヶ月半以上かかった。その間に5千名くらい死んでるんです。そこまで移るために。それでやっと移ってホッとしとった頃に今度はアイタぺの敵が豪州と代わって豪州6師団というのが海岸道と山の南から両方から、まあ残敵掃討だな、そのつもりで来た。ところが飛行機を毎日百機くらい飛ばすだけの能力を持って自動車道を全部一機一機つけて大砲を全部推進をする。戦車も持ってくる。ほんでやるわけ。こちらはもう大砲はもう全部無くなってしまった。一砲も。それから迫撃砲なんかもない。とうとう終戦の時には小銃だけ。それも一発あっただけ。30発。一挺あたり30発だけ。そういうような状況で終戦の前の日までやった。僕はもうその間に何遍か第一線に派遣をされてその戦闘指導をやる。あるいは特に軍が後退して後々の事を考えるとセピックという流域においてその資源調査、およびその辺でどういう抵抗ができるかという地形偵察に回る。そんなことをやってほとんど軍司令部におることは少なかった。僕はほとんど第一線。

 終戦の前にはいよいよ7月に軍が、9月の末を目処にして軍司令官を中心にして軍司令部のあったヌンボクという所を中心にして玉砕をするという命令をだした。その時にセピック辺におった部隊をその主力のところまで持ってくるというだけの部隊の力がない。だからそのセピック辺におった部隊は新たに部隊をつくって、主力が玉砕した後も頑張って第二段の玉砕をするということになって。それでその部隊に派遣されて行った。僕はその時の命令を、セピックていう兵団の命令を、起案をもちろんしたんですけれど。派遣をされることになって。いやねえ、そんなになかなか精神的には弱ってる、体力的にも弱ってる部隊だから、なんとか最期をね立派に全うできるようにその部隊の名前を桜兵団、桜の花の散るように最後は散らなきゃだめだよという僕の気持ちで書いたの。そうしたら軍司令(官)からみて 「堀江参謀、これはいかんよ」 と言われたんだ。「桜の花が散るように」、僕は主旨を説明したらね、「桜の花が散るようにパッとやれるような部隊じゃないんじゃないか。実際に最期を全うさせるためには大変な努力がいるよ。」 「簡単に桜の花のように散ろうったって散れない部隊じゃないか。それを君はちゃんと認識しなきゃダメだ。」 と言われてね。はぁーやっぱり俺は知恵が無い。実際のね、軍司令官の気持ち、それはよく理解を出来ない男だったなあ、とその時感じたけどね。それでね、いよいよ、まあ、それへ行って、編成されてね、僕は軍司令官と一緒にセピックのとこにタリンバン?っていうとこに行っておった。もう8月の、命令を出したのは7月の25日だったけど8月の初めには第一線と軍司令部の間に敵が入りこんできて、初めの予定をしとった玉砕の体制を崩されちゃった。それに対してすぐ対応策を講じてる。その最中に終戦になった。だからそれがそのまま、終戦があの時になかったら8月の末か9月の初めには軍司令官はまず玉砕をしている。僕なんかはその時はまだ一緒に、向こうの豪州の出方から見ると残っておって後始末で二段玉砕のための準備できりきり舞いをしとったんじゃないかと思いますけどね。

 まあその間にね、もちろん色んな危ない目にも何度も遭ってますがね、一つの例を言うとね、と言うのはいよいよね、死ななきゃならんとなった時の心境だ、51師団の参謀の時にね、ウエワクにやってきた時にまだ飛行機はもう全く一機もいなくてね、飛行場は弾痕だらけ、向こうのね。ただ師団司令部はまだあったんですよ、飛行師団のね、陸軍の。そこに連絡に行こうと思って僕は。それでそこの飛行場のダウンヒルまで来て飛行場に入ろうと思ったら27機編隊のB17が飛んできて、飛行場の攻撃をするかと思ったらそうしないで西のほうにそのままずっと飛んでったもんだからね、ああウエワク爆撃じゃなくて今日の飛行機はねブーツの攻撃だろう、その間に飛行場を突っ切ろうじゃないかと言って伝令と一緒にね、飛行場の中にちょうど真ん中辺まで来た時にね、その飛行機がみんな引き返してきたのね。そして飛行場の真正面に向かって主力がね來るじゃないか。すぐその辺にあった弾痕にね2人で入りこんで、それで飛んでくる飛行機をこう見て、それで僕がね 「今弾を落とさなければ大丈夫だよ。」 と言ったんだよ。言った途端に弾を落としてきたんだ、パラパラパラ。あの、写真なんかで見るでしょ、弾を落とすときの雨のようにパラパラパラパラーッと落ちてくるの見た事あるでしょ、映画で、あれだよ。全く同じ状況。思わずね僕はね、 「しまった。」 って言ったんだよ。何でしまったなんて言ったかその時は自分でもわからないけどね。そうしたらその伝令がね、「参謀殿、しょうがありませんよ。」って言う。その伝令というのは51師団の時からおって僕について軍司令部に来た伝令でね、なかなかラエ・サラモワの戦いからサラワケットを越えていろいろやってきた経験のある兵隊でした。

 それでその間にボンボンボンボンと弾が落ちてくる。その時に頭に浮かんできたのは何か、(身を乗り出して) 家内とね、息子の姿が頭に浮かんできた。本当のところ。それで ああこりゃいかんと。(天皇陛下万歳、天皇陛下万歳) と頭の中でこう言ってる。その間にドンドンドンドンとこう (弾が降ってきて)最後は自分の入った壕を超えて後ろの方に落ちだしてホッとした。でもね、いよいよ戦っているときにはね、死なんてことは全く考えない。一生懸命やってるから。死の恐怖なんかない。で、その時もね、死の恐怖というんじゃなくてね、いよいよ死ぬぞと、死ななきゃならんぞ、という領域、時間のように思わさせられる。その時の気持ちはみんな同じような気持ちなんじゃないか。国を思い、家族を思い、故郷を思って死んだ。それがね、みんなの気持ちじゃなかったかと僕は思っているんですよ。

 本当にたくさんの者が死んでいった。その死に様はね、いまでも目に浮かぶとね、もう何とも言えん。たとえば僕が行ってまもなく、ガリテンシっていうね、3,000mの山を越えて行かなきゃならん、その海岸を行くときも、海岸の中の人もおらない掘っ立て小屋の中でね、一人はもうね亡くなって何日も経って蛆が湧いてる、その横には死んでね3、4日経った人、さらにその横にはまたね、死んで間もなく、さらにその横にはもう死ぬ寸前の息も絶え絶えの者が。そういう状況を見てね、なんという。

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体験記録

  • 取材日 年 月 日(miniDV 60min*2)
  • 動画リンク──
  • 人物や情景など──
  • 持ち帰った物、残された物──
  • 記憶を描いた絵、地図、造形など──
  • 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─

参考資料

戦場体験放映保存の会 事務局

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