槇原 幸成さん

生年月日 | 1926年(大正15)1月23日 生 |
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本籍地(当時) | 島根県出雲市 |
所属 | 第124師団 |
所属部隊 | 牡丹江重砲兵連隊(通称:展4387部隊) |
兵科 | |
最終階級 |
プロフィール
出身地 島根県出雲市
1945年(昭和20)5月22日 牡丹江重砲兵連隊(通称:展4387部隊)入隊
(ご本人のメモに抜けていたと思いますが、通称には「展」のような師団ごとの漢字1~2文字が数字の前に入ります。秘匿名と言い、敵に分かりにくくするためだそうです)
1945年(昭和20)8月9日 朝鮮咸興移動準備中、ソ連軍戦車隊飛行隊に急襲され全滅に近い700名が死亡
1945年(昭和20)8月30日 捕虜としてシベリヤのウオロシロフ市内収容所へ移動
1949年(昭和24)7月7日 復員
インタビュー記録
始めに
―ところで、それで生き返ってきたわけ。生き返ってきたんですよ。2回息して、あら、これ生きてらと思って。死体の山ダーって。そういうときに、あなたが本当にそこにおったかどうか証明する人いないですかって、こんないいやがる。
聞き手:きついですね。
労災ちゅうのがあるけど、あれはね、その一緒になった者、或いは係長或いは課長、主任の証明が要るんですよ。本当にこの人はそこで仕事しおって怪我したと。医者の証明以上に、それと同じ持って来いっていう。はぁ終わったーと思ったけど、その連隊長の娘さんが何とか言って、あっちこっち電話かけて1人ほどおったの。生きてるやつは奈良県に。ジュウニンちゅうてね、もうヨボヨボじゃ。それに無理やりにね、槇原さんと一緒にそこでね戦争へ行ってひどい目に遭いましたって証明。そしたら今度はね、この写真が民間でしょ。
民間のこれ出雲市にあるし。後藤医院といって僕はここの優しい―
奥様:個人病院ね
で今度こっち来てもね、うちの娘が生協病院におるからあそこで取ってもらってね。信用ならないちゅう。それでね、それならどうしたらいいかってのはね、あそこの新宿のね、何ていう戸山町かな春日町か、あすこへ総務省の恩給庫(註:「庫」は不明だが、恩給を扱う総務省の第2庁舎のことと思われる)があってそこから200m離れた所に国立国際医療センターちゅうのがあるんじゃ。そこの黒木先生のところへ行って、診断受けてレントゲン写真を写して持ってきなさい。「それなら、こんなこれが最後やな」言うたらな、
「うん、まあそうでしょうな」こういうふうに言う。それが去年の8月23日。何で覚えているか、ほら甲子園の決勝があった日。それで病院行ったんだ、5時受付。5時と言ったらもう終わる時間よ。4時から決勝じゃん。あいつが優勝したんだよね。
聞き手:ハンカチ王子の。
ハンカチか雑巾か知らないけれど、それを見てて終わったらね、「先生今カミカゼです。早稲田が勝ったです」「そうか。よかったな。それでアンタ何の用だったかね」「何の用じゃないわアンタ。写真撮ってくれよ」 それから写真撮ったらね。いや、助かったね。民間のいわゆる貧乏お医者のところのレントゲンより性能がいいからひどく綺麗に写っちょる。で横から撮ってもピシャっと撮れちゃう。
奥様:やっぱ機械がいいですよね。
で先生が「どげしたか」ちゅうから、「いやこれこれシベリアでね、弾が入って」「ようアンタ61年もそこへ貯金しよったね」「そうでしょうが」と。
「これにね、全然傷痍軍人で手当も恩給もないんだよ」言うて。「へー」ちゅうて。「先生書いてくださいよ」「おお書いたるわ」て。普通今度はそういう病院から
あの何って言ったかね「わし手便で持って行きます」言うて。「もう5時半前だからね、総務省閉まっちょるわね。皆帰っちょるわ」「いや、わし今から行って来る」て。総務省行って、こうやってレントゲン写真持って。まあ目の前だからね。知らんでしょう場所、なんぼ言うても。それで持って行った。だが守衛はね「何だ」ちゅうけん。「何だ」て。「もう今日は閉めた」ちゅうけん。「閉めたって、俺はこんなもん下げていて、ここの命令で持ってきたんじゃ」って言うたら「ああそうなんですか」ちゅうて。で持って行ったら、みんなお菓子食べてお茶飲んでいた。それで「また槇原さんが来られた」て。わしはまた十遍ぐらい行っているから顔なじみ。(笑い)
「これこれ持ってきた」「あら、それはもう向こうから後で送ってくるんで」「いや、ええちゃ。急ぐからこれ持ってきたから早く決めろ」ちゅうて。
向こうも早くせんとまた私から説教喰らうからね。それで決まった。それで9月20何日来て、10月は何日来て。(裁定通知書と傷痍軍人手帳を取り出しながら)ちょっと送ってきたんよ。こういうの2年かかった。
奥様:2年がかり。
裁定通知書ですよ。これが傷痍軍人手帳。たったこれだけものをもらうのにね。これ書いてあるでしょ。「右、下腹部内砲弾破片残存」て理由が書いてある。これ見てください。恩給をなんぼくれたかと言ったら3万2000円。1回終わり。
聞き手:1回限り。
いやそれでもさ、国家予算の一部をわしがかじり取ったんよ。これ、理屈が合わない10円の金でも政府は出さないですよ。このね傷痍軍人手帳ちゅうのは、1級から15級まであるので私は12級じゃ。恩典ちゅうのは、例えばどっか旅行1回だけ無料とかね、それから税金だったら住民税を免除するとか色々項目がいっぱいあるんですよ。そういうのをもらってきた。 そういう内容よりもこの手帳をね、わしが戦い取ったちゅうのはすごいでしょ。
で連隊長の娘さんが褒めるね。「すごいねえ。アンタねばったねえ」ちゅうてね。こういうこともみんなひとりでやっちょる。そういうこともこのレジュメに書いてある。東京におるからやるんです。それは今年金もらってるからね。 暇でしょう。来いと言われんでも押しかけていくわけ。
午前中テニスやっちゃあ、戻って飯食うて1時間半寝ちゃあ3時頃のこのこでかけて行く。なんかすごいですよ。これ61年経って、向こうからすぐ戻ってすぐね。傷痍軍人て言うのはアンタらにご説明しておらんけど、手が無い、足が無い、目が片一方無い、肺が飛んだ、いわゆる昔で言えば「ちんば」そういう人に皆くれるばい。わしみたいに内蔵してる者にはなかなか出さない、しかも61年経って。 それ取るために島根県なんか何遍こういう色んな資料送ってくれたか。それも去年から出してる瓦版にずっと載せちょる。
たまたまいいことに、あの厚生省が新聞にシベリアのもので必要なものがあれば、今日エリツィンが死んだんかな。
聞き手:昨日ですね、亡くなったのは。
あれが来た時に色んな資料が来とるんですよ。だけん問い合わせてしてくださいと。たまたま僕があっちで入院しよった時のカルテが出てきたんよ。ロシア語で書いとるき、翻訳もできるも何も知らへん。だけど僕は2ヶ月入院しとったことは間違いない。カルテがあった。これが一つは○○。
もう一つは捕虜の時の未払い賃金の支払い命令書ちゅうのがロシア語で書いてあった。
(命令書を見せながら)本当はこれを日本政府に持って行ったら、日本政府は払わにゃいけない。ところが国交回復してないから払わないとこう言う。それでもこんなもの持ってる人僕ぐらいのもんですよ。これは貴重品なんですよ。こういうものもあったから、こういうことに踏み切らざるを得なかった。お前どこにこれあったか知っちょるかって、厚生省の倉庫にあったんだよ、てね。
最後はこれ厚生省が出してるんですよ。ね、おもしれえね。こういうことを一人で頑張ってやったんですよ。こういうもんでもね、あの新聞用心してよく見ちょっと色んな記事が出ちょる。大事大事にね。よし、これだーって。
(写真を見ながら)これもフィルム10本持っていって自分でみんな撮ってきたんよ。これ写真は全部シベリアね。倒れかかった家やらね。編集上手でしょ。
こういうのは全部展示会のときは外してね。花持っているでしょうね。男前でしょうが。(笑い)それとね、あれはなんちゅうヤツかな。瀬島龍三。アイツがね、ここに墓造っちょるのハバロフスクに。草だらけよ、ぼうぼうの。これに5億なんぼ出して造っているの。
シベリアの話 死体運び
それはね、アレが会長で一応9年間おったんだけんね。アレは関東軍参謀でおるときに日本人をシベリアへ売り込んだ。わしはそう思うちょる。(写真を指しながら)ね、すごいでしょ。これはべっぴんさんと思ったよ。ハバロフスクの大学の。ハバロフスク平和委員会てね、平和委員会がこういう指導してくれた。僕はウオロシロフちゅうところにいた。それで13名で行ったけれども、それはこのテルマちゅうて一番上でしょ。僕おったのハバロフスク。ウオロシロフのこの辺に僕は4年間おったんですよ。これ歩いて行ったんですよ。牡丹江からずーっとこうやって歩いて行って。最初の年はグリデコボ村ちゅうところにおった。ここは仕事するところじゃないけど越冬ちゅうてね、戦争が8月に終わったからみんな夏服でしょ。薄着でしょ。
それでここで冬を越さにゃあいけん、零下30度40度で。それでバタバタ死んでしもたわけ。僕は19歳で一番若いし満鉄のとき駅伝の選手だった。大会出たことはないの。練習ばっかりでね。 それで僕は死体運搬をひとりでやっとったですよ。毎日死ぬんですよ。
それが200mぐらい先に小屋があるんですよ。そこまでそりに乗せて引っ張って。引っ張って行くときどうすると思う。全部真っ裸ですよ。ふんどしまで除けちゃう。ふんどしって知っちょる?何故かってのは、それを全部に分けてあげる。じゃんけんで分けて、お前ふんどし、お前シャツ。汚いやつですよ。
でもみんな重ね着をせにゃ寒いから。それで僕はまた死体運搬して、また出たぞって。元気やったんですよ。ただそれをやると役得で好き勝手に物が食えたんですよ。それが狙いだったんですよ。それでますます元気にね。それを翌年の4月までやって、それから今度こっちの方へ行って仕事。死体運搬、45年でしょ。石炭運搬から国営農場から解氷作業ちゅうのをやってね、材木降ろしから橋脚造りから鉄道工場、道路工事、大豆工場、砂糖工場。この辺になると楽しかったよね。食べ物ばっかりだから。最後の49年のあと半年はね、あの通訳の人が死んじゃったんだよ、にしむらさんちゅうのが。
それで誰かおらんかって、僕はハルピンにおって。ハルピンってのはロシア人が多いところでね、交番にも現場でもロシア人がおったし、まあ生かじりに知っとったのと、ここで3年もおるとね必要に迫られ覚えるわけね。そんなら僕は通訳やりますでしょ。
うまいもんですよ。少々なことはみんなやりますよ。そういう仕事をしてきたんですよ。だから寒さもハルピンにおったから無い状態ですよね。慣れちょったんですよね。だからもう19歳ね。成人式は捕虜ですよ。捕虜。小学校行って講演するときに一番ね、みんなで改まることは、4年間、4年間1回も風呂入ってないですよ、4日間じゃないんですよ。全然風呂ちゅうのはないんだから。ただシラミが湧くからね、滅菌消毒ちゅうのはあるんですよ。みんな脱いでね、体もね、真っ裸になってその滅菌小屋へ入って行って。風呂、全然。ほうーっと皆びっくりする。おじさん、うそじゃないかって言う。うそじゃない4年間。だから爪見てごらんなさいよ。いまだにこんなになっている。風呂へ入らないから。足の爪もあれになっているんですよ。これ見てアンタ涙ですよね。(右手の小指を見せて)ね、これ。4年間全然入っていない。
それからね、死体運搬の時なんかね。
みんな馬小屋にいるんですよ、ベッドみたいな板が引いてあるところに2人が足突っ込んで毛布1枚で寝る。と、このおっちゃんがね死んでしまうわけ。
死ぬるっていうのはシラミが移動するけわかる。シラミがこっち来たなと思ったら、このおっちゃん冷たくなるけんシラミが諦めて温いほうへ来るわけ。で3日ぐらい黙っておく、死んでも。何故かったら、こっちからこのぐらいの豆、小豆いっぱいずつ、うずら豆煮たやつが1回が一食じゃん。で2人分食べられるわな3日ぐらいな。だけん黙ちょるのよ。
だからもう4日も5日もなると保てんから、この人死んでるよって言うて、わしが行って引きずりおろすわけ。そんなことはもう平気。人間がね、シベリアの捕虜になったら、地位もない、名誉もない、金もない、友達もいない。そういうときに本当の人間ていうのは動物以下になってしまう。
誰が一番先死ぬるのかと言ったら40代以上のインテリ、インテリゲンチャ。わかる?労働したことがない人。粗食に耐えられない人。だけん誰が残ったか。九州炭鉱労働者、農家の人たち、土木作業している人。そういう重労働に今まで経験のある人は残っている。なぜ残るか。春先の5月頃になるとね、もうその辺に散歩に出たらね、草をむしって食べるわけ。草をむしって。
生きるために
食べるものないからね、ちょっとでも芽が出たらみな取って食べる。そういうことができないんだ、その弁護士やったとか、大学の先生やったかっちゅう。ああいうのは本当馬鹿ちゅうんだよね。生きるためには何でも食べにゃいけん。それでも枕元へ何かパンくずでも置いちょったら、みんな夜中に盗られるからね。
そんなことは全然人の物盗るとか盗らないとか罪にはならないわけ。そういう人間。さあ凄いですよ。それで零下30度40度になってね。だからもう死体捨てるちゅう手もあるんですよ。人数、今日は何ぼ捨てたけ書いとこうとか、誰それが死んだか書いとこう、そういうのは全然無視。とにかく溜まってる。それで、小屋へ持っていったらね戸が閉まらないようになるわけ。何故かというと隣の棟からも死体運搬来る。恐ろしいもんだから、入口へ入口へ放たるから、戸が閉まらない。
だからタポールちゅうて、ロシア語でマサカリのことタポールちゅう。タポールで膝のところをパーンと叩くとピーンと折れるよね。箸でもこうやって(不明)ここパーンと叩くとパーンと折れるよね。裸だからマネキンみたいなもんだから。で今度それを30ぐらいたまったらトラックに乗せてね。国境のソ連軍のトーチカっていう要塞がある。そこへ持って行ってダンプじゃから捨てるわけ。それ3人ずつ持っていかにゃいけん。いや大変でね。もう道路だってこんなアスファルト道路じゃない。
(波打っているジェスチャー)もうこんな道路だよ。
あとクッションするたんびに落ちるとね、後ろから犬がね、大きな犬が7匹も8匹も追いかけてきよる。落ちた、バンバンとお互い食いちぎる。こっちはもう必死やから。落ちんようにしないと。そういうこともやりよった。それと兎に角、食べ物がないちゅう時は、人間ちゅうのはもの凄いヒステリックになる。それで僕の哲学は、今でもシベリア抑留生活ですよ。哲学。そこの哲学は何か。人間は体力だ。それから戻ってからずーっともう野球やる、ソフトボールやる、バレーボールやる、卓球やる、テニスやる。今でも人間体鍛えなければ駄目。
戦争が悪い
もう哲学。健康でなければ駄目。なんぼ高齢化社会だってね、健康でなきゃ駄目ですよ。だから僕は瓦版でそういうの訴えている。帰ったらうがいせいよとかね。いろんなことで世の中のために貢献するかちゅう。(瓦版を写しながら)それから舞鶴中心のシベリア友の会ちゅうのもあるんですよ。これもみんな高齢化しちゃって。僕は最低で81歳で一番若いんですよ。 それから満鉄っていわゆるハルピンの時、満鉄友の会に4人ほど友達おるだけさ。あとは、みんな死んじゃったりなんかしてね。だけん、今本当にね、なんちゅうか戦争問題も一緒で、当時の問題を語り継ぐちゅうのが難しいですよ。そういう中で僕みたいに生き生きとして生きていねるやつは珍しいでしょう。 この間もね、ちょっと改ざん史の兄弟、残務兵がね、あれも僕書いちょったけどね。
本当にいわゆる慰安婦問題とか、ああいう問題はね、初めは南京占領頃はね日本軍がダーッて行ってねもうめっちゃくちゃに中国の女をやっつけてるわけ。でいうことを聞かにゃ首を切ったりね、それからもう散々弄んで挙句には川へ捨てたりね。
これじゃあ、もう軍隊の秩序が保てない。なぜかったら今度は、日本軍が野営しているところに夜中に襲撃に来るからね。当時で言う支那の人がね。それで少し男どものそういう血気にはやる、明日の死ぬるような者が女を見つけたら強姦するというのはね、別に日本だけじゃないんだそれは。ロシア人もやってる、アメリカ人もやってる、皆やっている。問題は戦争だよね。その一つの手として従軍慰安所ちゅうのをこさえたわけ。
僕らももう3ヶ月しか軍隊いないし。そんなことでこっちは叩かれるばっかりで、そんな慰安どころじゃないわね。だけどもそういうことを自慢して話す人がおるんよ。俺は何人やっつけちゃったとかね。国際的なシンボル持ってる人がいてね。あれをやったこれやって威張っているのが多いです。だからもう本当に戦争が悪い。だけん日本軍が悪い。今度はシベリアから戻った者はロシア人が悪い。中国から戻った者は「チャンコロ」が悪い。中国人のこと。「チャンコロ」ちゅうよね。
けど戦争が一番問題なんだ。なんで戦争せんねいけんのか。仮に朝鮮侵略してもうやめればよかったけどさ、まだ満州が欲しい、中国大陸が欲しい、南方欲しいって手を広げるからあげになる。それは今の資本家も一緒です。土建屋が儲けたらゴルフ場造る。ホテル造る。ボーリング場を造る。そしてみんな多角経営で失敗する。あれ理屈が一緒なんだよ。日本ていうのは人間のエゴだよね。もうほどほどにしてやめちょけ。
お腹も一緒よね。腹いっぱい食ったら駄目よね。アンタそういうの一つも反省せんよね。今の政府は全部戦争体験のない二世ばっかりでしょ。だから歴史でも当たり前に書いておけばいいのに、南京20万殺したら殺したでええんじゃ。100件焼けたら焼けたで。それをわざわざ30件にすることないわね。100件は100件でええんだ。焼けたちゅうたら。ああいうのはね歴史の改ざんは問題があると思うよねそれ。
だけん戦争だけはやっちゃいけんね。この牡丹江ちゅうところからね、あのグリデコボまで歩く間でも随分死んだよ。食べ物ないんだけん。それで野営でしょ。野営って知っている。野っ原に寝るんだよ。2000人くらいダダダダ歩いていくんだから。
聞き手:テントみたいなのもないんですか。
何をそんなキャンプするんじゃないだき。慰安旅行じゃないんだき。
5列に並んでざっと2000人ぐらいがシベリアへ行く。両側にはソ連の兵隊がマンドリンて自動機関銃持っているわけ。マンドリンちゅう。で、ちょっとでも列はみ出るとババババーっと。で寝る時には、この辺で今日はもう縄も何も張らせん。ソ連の兵隊がね、せいぜい100mか200mかこの範囲内で寝れって。で必ずそういうところの場所には水溜りがあるわけ。
それを飲めちゅう。夜中に着くけわからんから、朝出る時に見たらもう死体が浮いちょるね。もう泥水です。そんなのみな飲んだ。でそれこそ草ちぎってくべたりね。焚くもんて何もないからね。木も何もないから。そんなの5日間歩いて行ってごらんなさい。それもよっぽど体力ある者ならいいけど、生きて帰れない。シベリア入った時も相当死んじゃった。死んだら道端の縁へ置いて帰るわけ。
戦争っていうのは行ってみにゃわからんよね。
奥様:よう生きて帰りましたね。
それを軍人恩給も何もくれないわけで、僕は総務省行って女の人集めて戦争の話をしよるとね、これは槇原さんにあげんにゃいけんなちゅう雰囲気が(笑い)。であの子らが上手に書けばいいんじゃね。上の者は更にわからんからね。
わかったーって。(首を振りながら)いやー本当、体験した者でなければわからんですよ。今の連隊長の娘さんちゅうのは優雅に生活しておられるけどね。この人らはまた違うんだよ。あの偉い人。昔の連隊長はすごいからね。当番兵が10人ぐらい付いちょって、女中さんもいっぱいおってね。豪華な生活してた。ただそれを引き揚げる時はちょっと苦労しておったやけどね。
元に戻って生活しておられて。まあ、あの人は心がけはええのには、自分とこの部隊でね、お父さんが連隊長で死んだ人の弔いせんにゃいけんと思って、毎年毎年靖国神社で3月15日に決めたけどね。人間がなんぼ少のうても、偉い人の、もうこの人はこの人で僕は偉いと思うよ。 だけん、僕はただ戦争はいい悪い別としても、自分の部下を慰めるため一生懸命やってるちゅうので敬意を表して、この間も軍楽隊にしょうがないと言ったんだけどね。
あの雰囲気見たらすごいでしょう。あの雰囲気。(九段会館であった軍歌の会への参加について話しているのではないか)
聞き手:すごいですね。
奥様:最後までおったの。
聞き手:一応いました。最初から。
奥様:お付き合いだものね。
まあ、そりゃあれはあんだけのもんでね。九段会館の中で騒ぐのは別にどうってことないけど。今度は、靖国8月15日にまたあの馬鹿が先頭になって歩いてね、チンドン屋みたいな。(取材者)でもなんかそんなにこう凄いピリピリした雰囲気ではなかった。
奥様:ないよね。懐かしんどってね。
海軍・陸軍の兵隊さん、皆バイトで雇うたやつ。右向け右って左向くやつもおるし。愛嬌がある。だけど僕はとにかく戦争体験は、もう出発から兎に角全部一人です。
だ から同じ収容所行ってもね、おい、うちの部隊もおらんかって探してくれる者も全然おらん。それからこの小豆山ちゅう所で全部戦死したような状況の中でもね、誰もわしを助けてくれる者いなかった。わし1人で山から下りてね。山から下りたというより山から転げ落ちたとこが、たまたま水の中で助かったんですよ。
僕はずっと1人。シベリア行っても誰にも会わないしね。それから今度は靖国神社集まってもね。誰も、いや槇原お前よう生きちょったな、いやご苦労さん。お前は本当軍隊でえらい目に遭ったちゅうこと誰も(言わない)。僕なんか全然無視。そっちの方で偉い人ばっかり集まって、軍隊は昔は良かった話ばっかり。腹が立つけど、僕の目的は他にあるからじっと我慢しておったけれどね。それで今頃になって漸くその連隊長の娘さんもわかってきたわけ。
こうなるともう来年は彼女と僕と2人だけになっちゃう。1199名おった者がね。そいでここで連隊史ちゅうのがあるけどね。
連隊長の骨が山の上で発見されたとかね、連隊長戦死するまえ尺八吹いたとか嘘ばっかり買いとる。そんな余裕は全然ない。(略、筆者や金銭への批判は略した方が良いだろうが、連隊史に書かれる事が建前だけ(嘘)なのはよくあることで、一方で正史としてひかれやすいので、事実でないと言う証言は残した方が良い)
(箱を出して)これ凄いでしょ。その大戦争の土地、小豆山のね。小豆山からキクラゲ送ってきた。何故か送ってきたかっていったら、その何べんもね戦場にそこの山、小豆山ちゅう所に慰霊祭に行くわけよ。写真あったよね。慰霊祭に行くわけでしょう。中国人がね、これ欲しさに4、5人ついてくるわけ。それようしてやるわけ、で向こうもようしてくれるわけ。
掃除してくれたりね。その中の1人がね、これ何年かキクラゲを送ってきた。だからキクラゲちゅうのはね、結局、死体が累々としているところのキクラゲ。こんな100mばかりの山でそこで採れたキクラゲやからていうてね。小荷物で送ってきたやつを、また私に選んでくれた。それ書いてある。まあだからね、食べられもしない。
遺骨収集
僕なんて現場を知ってるもんね。よその部隊の何千人て山の上でちゅうか。これはソ連の戦車砲は凄いね。○○やられて、デデデデデデ。みんな身動きなんて〇〇にてしもうた。 で、わしはバーっと吹き飛ばされてね。あーと思って、本当目から火が出るよ死ぬ時は。目から火が出るバーッと。今度は鳴りやまぬ大砲の音、戦車砲の音は耳がガーンとしてもう聞こえん。
これで終いか思うた。それから3日か4日したら目が覚めちゃったかな。あら、俺は生きちょるよって思った。もう○○は死体だらけよね。軍馬、馬の死体なんかこんな腸がはみ出てねギラギラ光ってるよね。それは凄いですよ。そこの跡に生えた木にキクラゲが実ったけ送りますちゅうだけどさ、そのこのキクラゲね、仏さん代わりに僕は仏壇のへりに置いちゅう。その女の子は何か留学生として迎えるとか言ってね。
聞き手:日本に?
向こうも好意を持ってこういうことをしてくれる。シベリアの方は厚生省が行ったら、あの遺骨収集団で持って帰れるわけ。 だけ千鳥ヶ淵に9000人分ぐらい持って帰っとる。中国は一切認めませんし、だけん中国の場合はひとかけらでも持って帰られんわけ。なんかどういうしきたりか知らんけど。それで今、全国の遺族会がどんどんどんどん厚生省に交渉に行くけど、全然遺骨収集の仕事にならんわけ。
南方の方はできるわけね。中国だけは何か宗教的な問題があるか、何か知らんけど。いわゆる戦争の損害賠償はもう放棄してる。やらないけれども、こういう問題になると。可哀相だね。ソ連の方は厚生省さへ行けばね、行けばいくらでも死体は掘って。これあるでしょ。
この写真見てごらんなさい、これ。もっとこっち来てよう見なさい。ブルドーザーでまずザーッと探すんで。そして死体がどんどん出てくるでしょう。それとこれぐらいの頭蓋骨がこんなに泥まみれになっちょる。そういうのはこう全部集めてね、ほら。ほいでこの辺の白樺の木を切って、積み上げてこうやってその上に並べるわけ。それからもう1回焼くわけ。(註:現在はDNA鑑定のためこのような焼骨はしていない)
もう1回焼いて、それを日本に持って帰る。この作業をやるのはもう大変なんだ。だけどロシア人手伝ってくれるんよ。これはねありがたいことには。行けばなんぼでもやってくれるけど、厚生省の役人員がなぜ行かないか言うたらね、ホテルがないです。全然ホテルがね。
僕なんかも行ったときはね、たまたま小学校の夏休みで、教室使ってくださいっていう。教室ってこう板の間にね、ござ引いて寝るだけ。でトイレはないんですよ。あるはあるけど何かね汚い部屋で飲み水はないしね。それがもう待遇が悪いちゅうもんじゃない。待遇が悪いもクソもない。食べ物はもうリンゴとパンだけ。
厚生省も行かないんですよ、役人がまず。そういうのようわかってんの。そういう条件はハバロフスクみたいな都会に出ても一緒だから。もうシベリアなんて本当殺風景なもんです。僕はね僕がおる収容所行ったんですよ。ロシア人2人ほど雇うて自動車借りて。(地図を指して)このウラジオストックからここまで1時間半。ここのホテルがあるところに1時間半で行くの。全部あの辺は日本の車ですよ。行ったらね、日本の中古車がね99%です。
何とか農協とか何とか商店とかね、こんにゃくはうちで食べないとか色々書いた車がいっぱい走っとる。それでね僕は特別に2万円出してねロシア人2人雇うってずっと行った。この辺が僕がおったところ全部ずっと回ったけど、地形がひとつも変わっていない。で収容所の跡地はそのままあるしね。
砂糖工場もあれば魚工場もあるしね。日本やったらちょっと3年間やったらね、何子さんの家はどっちから行っていいかわからんようになるでしょう。道路改造でね。もう兎に角シベリアなんてそれは殺風景なもんですよ、今行っても。だから本当に厚生省が遺骨収集やろうと思えばなんぼでもできる。
おまけにね、骨は皆残ってるんですよ。腐ってないから。南方はね違うんですよ、南方は。戦死するとね放ったておくとね蛆がわく。蛆がみな食べちゃうんですよ。骨まで食べちゃう。シベリアはそうじゃないですよ。だから僕は、知った人は、いや確かあの辺に埋めてあるよっちゅうところはね、こう草むらをね、こうやって上からスニーカーで歩くとね、ザクッザクッていったら、まてよここかなと思うんでね。それから手にシャベル持ってちょっと掘ってみると遺骨があるんです。
浅いんだ、とにかく。それであんまり狼もおらんしね。いわゆるその死体を食うような動物がいない。ツンドラだからね。だから行けばね本当なんぼでも。収容所跡地はね2000ヶ所あるちゅう。それを今の瀬島龍らがね「いや、シベリアの遺骨はもう探して歩いたってわからないからこの辺で打ち切ろう」言うて、ハバロフスクに5億円かけて慰霊公園を造って終わりにしよるんだ。で引き揚げた者みな10万円やるというて。わしらも10万円はもらったんですよ。
総理大臣の銀杯ももらったんですよ。あれでごまかしてしまっちょる。それ事務処理あるところが新宿にある何とか平和基金ちゅうのがあって、総務省の天下りでいっぱいおるわけあすこに。もう今年で解散するけどね。
余剰金をもう1回シベリア帰りの人に10万円ずつ旅券をあげようなんていう話は出てるけど、どうなるか知らんけど。だけど僕はシベリア問題っちゅうのはね、今全然無視されている。腹立ってしょうがない。だけど、それはまあ難しいのはね、例えばあそこの昔東京で大空襲を受けたよね。
この人たちは補償は全然ないんだけ。家が焼かれ人が死んでむちゃくちゃになった。まあそれらも一緒じゃないかって言われれば、そんな気がするよね。それから南方で死んだ人もおるし、あっちこっち死んだ人もおる。ほとんど皆放(置)。だからあすこ千鳥ヶ淵に行ったら書いてあるよね。どこそこは大体何人おって今なんぼここへ戻ってきよる。シベリアが一番悪いね。
死んだのは6万で、今ここへ着いているのは9000なんぼだからって。そこへ向けて僕はひとかけら持ってて供えちょるわけね。偉いと思う。して厚生省派遣の遺骨収集団は全部官費で行くわけね。僕は個人で行ったんだけ。全部自分の金で。僕を(遺骨収集の派遣に)入れてくれ言うても入れてくれんのよ。
なかなか又これが難しい。あいざわ何とか言う鳥取の代議士、相澤英之。かあちゃんが女優のやつ(註:妻は女優・司葉子)。あれが会長なんで。で選挙で自民党に票を入れてくる者やけんにゃ、世話しないちゅう方針なんだ。で僕らはどこやったか山形のね何とかさん。
奥様:斎藤六郎さん。
斎藤六郎さんの方に入っとったわけ。
こっちの方は例えば年間100万円で4年おった場合400万、3年おったら300万補償せいちゅう運動やってるわけ。あと今の相澤の方はそんなことはせん。どこも一緒だと。東京の空襲も南方行った人も中国おった人も皆この戦争は一緒やから、そんな要求をすべきじゃないっていう。で選挙に利用しているわけね。 だからもう考え方が違う。それでもう今の瀬島龍三なんか伊藤忠の社長(註:実際には副社長、会長を歴任。社長には就任していない)になったりね、なんだかんだ偉い要職に就いて、まだ生きちょるんでしょ、アレ。
聞き手:まだご存命ですね。
存命よね。だから何ちゅうたらいいか、ただ戦争なんかしちゃいけんね。(キクラゲを収めた箱をアップ) まあよう僕は生きて戻ったと思ってうけどね。だから僕なりに、やっぱり風化しないように、ここ東京へ来てからが縁故がないから難しいけど、語り部で講演してくれゆうたらどこでも行きますよ。90分かそこら1時間半、2時間は原稿なしでなんぼでも喋れますよ。
しかも、感動するような涙が出るような話なんぼでもしてあげますよ。これはもう語り部ちゅうても講演ちゅうてもね、原稿見て話すようじゃつまらんですよね。大成工業の庶務課におって、もうそのときはもう兵隊でどんどん出ちょるから、僕みたいな若い子と女の子5、6人おったよね、タイピスト。とにかく課長の方もどこそこへ○○して行けってのはもう絶対に。それまでは皆ね先輩が入隊すると皆送っていったり送別会したりしよった。もう5月22日って終戦前でしょ。
全然内緒で行けちゅう。そんなんですよ。機関車工場でね、軍用機関車を仕立てられたら憲兵がいっぱいウロウロしよる。憲兵隊って知っちょるでしょ。軍人を取り締まる。だからもう本当それ。ハクウンタイシャて独身寮におる。荷物みんな放たらかしですよ。貯金通帳も全部、まあ貯金は余りしよらなかったけど、そんなん全部没収ですよ。
兵隊生活
それで親とのお別れも何にもない。早便で出しよる。戦局は大分悪くなっちゃったからね全体で。軍隊行ったら迎えに来ちょるわね。行ったことのないとこの田舎の駅だからね。向こうから2人が迎えに来ちょる。一晩ほどは上げ膳下げ膳で2日目からはもう凄いね。ここまでのことも通過仕事でね、スリッパの裏でビシって殴られたりね。それから飯当番ちゅうたらね、ちょっと桶だから飯粒が桶の筋のところに二つでも三つでも残っちょったら、10人ほどおる初年兵「全部集合」ちゅうて、お互いに殴り合えって、殴り合いっこさせたりね、そりゃもう無茶苦茶ですよ軍隊ね。あんな事をしていやいざ戦争になったら上官の命令なんか聞きやせんと思うちょったけどね。
そういう軍隊ですよ。だけ今連隊長の娘さんが僕に同情しちょらがね、槇原さんなんか軍隊入って楽しいことなんかひとつもなかったですよねーちゅうて。上の人は楽しいこといっぱいしてるよね、それはね。軍隊そのものの組織ちゅうのが無茶苦茶。それともう戦争に負けたっていう軍隊は駄目だね、もうね解散でしょ。
統制効かないでしょ。物はもうお互いが持ち逃げ同士でしょ。だけ部下を可愛がるていうのはそんなの全然ないし。だからアンタね軍隊の。あれですよ軍隊ちゅうのは、上等兵とか上の人を古年兵ちゅうのだけどその人たちが演習から戻ったらベッドの上で大の字。僕らがゲートルちゅうの解かしてあげて、靴下解かしてあげて、お湯で水?洗ってあげて、それから暑い時は扇子で扇いであげて。
もうそらぁ、奥さんより凄い。嫁さんよりもっと親切ですよ軍隊ちゅうところは。それで、今度は食事時だったら、こうちゃんと○○で「上等兵殿ハイ」」「一等兵殿」と言うてみんな持っていく。これが終わっら、あと自分らが今度バババババと食べて、あと掃除して片づける。それで、余りよく言われるのは、腹が立って上等兵の飯の上につば吐いて混ぜちゃったり、フケをこう入れてざまあ見やがれって。
聞き手:バレない?
バレない。「兵長殿、食事持って参りました」「おう、ご苦労」て。もう色んなことがあるけど軍隊組織だからね、言葉で言い表しようがない。まあそれを持って帰ってよう読んでみて。僕はいかに1人でね、本当1人旅です。未だにまあ1人だけどね。
聞き手:捕虜になるときも1人だったんですね?
1人。もう全部ね。大概が部隊ちゅうのはね固まってね、3人とか5人とか一緒になって捕虜になったって人が多いんですよ。だから僕は一番痛快だったのはね、同じ収容所に400人おるでしょう。同じ部隊の人たちがこうおるんですよ。
そしてそこで上下の関係が生きてるわけ。だから僕はその時に言うたんですよ。あのね、もう捕虜になって戦争終わったんだから、そこの襟章解いて、もう将校じゃ下士官じゃ兵隊じゃ言わずにみんな平等にやりましょうっちゅうことを言うと、上の人はそれじゃ具合が悪いわな。 下の者はそういう気でおっても。でも下の者の方が人数多いからね。それで僕はね、反軍闘争とそれ○○きて。1人で反軍闘争。僕はね、体力気力はね凄いある人間。みんな食うや食わずでヘロヘロが多いからね。将校を引っ張っていってね、おいお前それ(襟章)取れと。そしてもう軍隊は解散したと、もう食べる物ちょっとしかないのに、兵隊にそれを持って来いとかお前水持って来いとかそんなことはもう言うなと。
みんな平等で帰るまで仲良くやろうじゃないかっていう。言うこと聞かんやつは、つるし上げちゅうのやる。それでもの凄い信用ができる。
聞き手:それはいつのことですか。
それはもうね、入ってから2年目ぐらい。 2年目ちゅうたら、45年46年が2年目だけね47年ごろ。言われやせんけど随分やっつけちゃったもんですよ。
聞き手:その時はもう軍隊っていう組織そのものに対して、もの凄く批判的な見方をされていたわけ?
いやもう僕は殴られっぱなしで戦争終わって、しかも誰も世話する者もいない。もう軍隊に対する反感つうのはもう増々募って。しかも捕虜になって食べ物がちょびっとしかないのにね、そんなある時ならいいよ。沢山ある時に、あの偉い人は威張って良いものだけ食べるつうのはええけど、もうない時にね。
抑留中の食事
こんなパンですよ。こんなパンをね固い黒パンを人で分けて食べるんですよ。8等分するんですよ。それ分ける時は皆じゃんけんするんです、じゃんけん。もう毎日それが仕事だけ実によく切ってるんですよ。みなこれぐらいずつ。じゃんけんすることないけどじゃんけんで一番先勝った者はどこ取ると思う。
パンがあるんですけど、これを8つに切る。8つに切るというのは4つに切って縦に切る。じゃんけんポイ。一番勝ったのはこの固いところから取っていく。何故かったらね、真ん中は柔いでしょう。噛みごたえはない。だからみんな四隅の固いところから順番に取っていく。そういう生活をしておるところに俺は将校だから、俺は下士官だからちゅう者。そんなもの関係ないちゅうて、わし。それから僕なんか砂糖工場へ行きよったんですよ。
書いてる砂糖工場。砂糖工場行ったらね。全員が砂糖工場行くわけないよね。400人のうちの20人が砂糖工場。みんなにも砂糖をね食わしてあげようじゃないか。だけどソ連ちゅうのはね、ジャガイモ1個盗んでも死刑なるっていうほどそれは酷い話やけど、泥棒ちゅうのはすごい刑が重い。だけど砂糖ちゅうのはグラニュー糖。砂糖大根を煮て砂糖にしちゃったグラニュー糖なんですよ。サラサラして。
ふんどしの中に入れて持って帰る。ふんどし。○○垂れとる。検査に、分からなかったですよ。ロシア人はふんどしなんて知らんからね。「ダヴァイ」良しって。持って帰ったらどうするかやったらね。セメントの袋があるじゃん。あれ広げてね、こうしてパッとやってね裸になって、ふんどしを前を外すとね、ズルーっとあの砂糖がこぼれるわけ。だけど洗濯なんかして風呂入るわけじゃない。洗濯なんかしてないから見事に汚いふんどしですよね。
チン毛も入っちゃら、うんこのカスも入っちゃう。混ぜるやつは落ちるわけ。それをまた8つに分ける。それを8等分するわけ。今日お前ら食べろて、それでもみんな喜んで食べるね。
奥様:糖分はやっぱいくらか必要でしょう。
作業に行ったのは現場で適当に食べてるわね。砂糖大根がちょうどサツマイモみたいな味がするから。そうやってみんな助け合うちょった。それから大豆工場に行くのは、大豆を靴の中に入れて持って帰るわけ。痛いですよあれやと。戻ったようにはもうぐちゃぐちゃになっとる。それもみんな助け合いですよね。
聞き手:山を降りてる時に開拓団の方たちの話書いてある。
その記事をね。
残留孤児
こういうことなんですよ。結局ね、山を降りて、僕ら怪我した者ばっかりが7、8人固まって山の中で生活しとったんで。ある時ね、開拓団のおばさんがね、7、8人だったか10人だったか子供連れでぞろぞろ戻ってきて「兵隊さん日本に帰りたいから、もう終戦」 まだその終戦知らないんよ。「日本どうしたん」言ったら「負けたんよ」って言う、それが。僕らは皆怪我しちょるから、まだ十分動けんよ。だけど、子供連れちょったらね、それは子供が泣いたらね、またロシア人に捕まってダァーっとやられるぞ、と。「もう子供は捨てろ」と言って僕らは指導したわけ。
そういう子供が結局残留孤児になって戻ってきてるわけ、ね。だけん、それはなんぼ戦時中であろうと、不利な状況であろうと、同じ日本人に子供は捨てろというふうなことを言ったことについて、自分としてはね、終戦60年になっても今反省しておるということを書いとる。
これを東京新聞は採用してくれて、2000円何ぼかもろたけどね。そういうこともあったんですよ。それ捕虜になる寸前ですよ。それで結局、ソ連の兵隊に見つかって、そのおばさんたちどうなったかそれ知らない。その子供がどうなったかも知らない。
僕たちは僕たちで7、8人ほど引っ張って行かれね、捕虜になって。そういうことがあった。それを自分のね、戦争の反省として書いている。そういうところを募集されたのは、今だから言える。戦争への反省点とか言うでしょう。わかった? だけん、僕はね、前にも、島根のときは山陰中央新報に大きく出ちょったけどね。結局は残留孤児がどんどんどんどん来だしたでしょ。 それで出身地が牡丹江や何だって出るとね、あの時のそういう子じゃなと思うわけ。
ところがね、中国ちゅうのはね、卑怯なのはね、小孩(しょうはい)ちゅうて、中国語で小孩、いわゆる7歳から15歳ぐらいまでの子供をね、何ぼでも集めるわけ。集めてどうするの、それ労働力なの。靴磨きとかパン売りとかタバコ売りとか新聞配達とか、みなさせるわけ。そうすると、なんぼか収入はある。それを、10人でも20人でも、自分のうちに入れちょったらね、左団扇で生活できる。本当に親切に日本人の子供を育てたとは限らないんだよ、それは。残留孤児ちゅうのはね。
義父母に育てられた、感謝した、ちゅうことはあんまり出て来てないんですよ。僕らが満鉄におるときでもそうやった。今はもう全然違うけど、あの頃でもね、僕は本館ちゅうて、事務所におって、各工場、鋳物工場とか、組み立てとか、仕上げとかって、いっぱい工場があるでしょ。そこの事務所が出先の事務所に文書を言付けた。皆その小孩(しょうはい)を使いよった。
10歳くらいの男の子、女の子を使い「これあすこに持ってとけ」言うたら、「はい」ちゅうて持って行く。また何かもろて来る。今ほど事務が機械化してない時期やね。そういうのでも、ほんのわずかにそのお金をやって雇いよった。戦争のどさくさにね、ああやってものすごい子供を集めてるんですよ。
それがね、50なり60になって、こっち戻ってきちょるわけ。だけん、赤ちゃんは皆殺しとるはずだけん、もうちょっと小走りができるような子供はみな育てている。それがまあね、中国人と結婚して、結局大人になって、孤児、孤児言うたって皆大人だけどね。それはすごい混乱しとったけね。『赤い月』でも紹介されちょったけど。 そういうふうに質問をどんどん出してくれた方が、話が進みますよね。
戦闘の話
聞き手:レントゲンで撮られていた弾丸っていうのは、いつ入ったものなんですか。
小豆山(あずきやま)で一斉攻撃を受けたわけ。ダーッとね。もうこっちは何も抵抗せんうちに、小豆山の向こう側ったらソ連領やからね、もう3キロか4キロとか、一斉にやられたわけ。 だけん、それが8月13日か14日かどっちかなんだ。それで吹き飛ばされた、僕も。それで今さっき言ったように、目から火が出て、ああこれで終いだなと思って倒れた。それで3日か4日したら蘇生しちゃったわけ。生き返ったちゃったわけ。その時は脇の下から血がものすごい出たんですよ。 今でも小かい穴が開いちょるけどね、開いた跡があるけど。ダアーっと全部。だからこのバンドのところで止まる、その血が。
奥様:膿がね、血膿が。
それが今度ね、乾いちょってカラカラになるわけ。乾いたら痛いからね、こんなもん。シャツのける(※除ける)わけ。 まあそういうことで、左脇がやられた。ところがそれからね、若さやね、それとスポーツやっていたからね、その傷なんかあんまり苦にしなかった。それが日本に戻って結果としてここへ今残っちょる。
奥様:破片がね。
だけん、段々段々下へ下がってきたわけね。 それはどういうものかと言うと、ソ連の砲弾ちゅうのはね、これぐらいの太さでこれぐらいの長さの戦車砲が一ぺんに雨あられのようにこう飛んできて、それの破片がね、どういう塩梅か入ったんだ。ソ連に入院したちゅう時はそれが原因かどうかわからんけど、脳脊髄膜炎なって意識不明だった。 倒れたわけ現場で。気がついたらソ連兵の、ソ連の軍隊の看護婦さんが、ロシア語でね、いろいろ話しかけて来る。それで3月ほど入院しちょった。
収容所の生活
聞き手:それはいつ頃ですか。
それがね、ようわからんけど、49年に戻っちゅうけん、48年?の最初の方じゃろと思う。 その時のカルテがある。そんなものがあってね、すごいよね。 それで収容所で最後に帰る前は、僕は非常に良い立場でおったよね。通訳やったり、いわゆる文化生活部長ちゅうて、収容所の中の食料やら。 だけん、皆さんにね、1回騙されたと思うてね。ノルマというものがあるんですよ。大体、仕事の量でね。
例えば石炭やったら、トロッコ1人一杯。10人おれば10台。それが20台あったらあと10台分はね、お金あげますって向こうが言うんだよ。僕は通訳やり、それはわかる。だけど、みんなは「いや、それは嘘だ」と。 いやまあとにかく、元気な者で一回やってみい、と10人で。やったら本当に金くれ出したんだ。ノルマやるっていうのは安いもんなんだから。日本人ちゅうのは働き屋だからね。
その金でパンを買ったりね、それから、肉を買ったり、食べるものに余るほどになった。ほんならもう余ったからどうするかっちゅうんで、アコーデオン買ったり、バラライカ買ったり、マンドリン買ったりね。で、楽団作っちゃった。新京の交響楽団の秋葉良造さんって、そういう専門屋があった。僕は新星楽劇団ちゅうのを作ったんだ。もうロシア語のカチューシャ、例えば「泉のほとり」とか、もうロシア民謡を片っ端からやった。とにかくね、仕事から戻ったら5時でしょ。
日が暮れるのが10時やから、その間用事がないけ、その楽団でね。終いにはロシア人から喜ばれて。ロシア人てのは歌が好きやからね。それで広場に来てくれって。行ってやるとパンくれたり砂糖くれたり。最後の1年間という非常に良かったです。そういう音頭取りを僕はやった。だけ、今でもロシア民謡聞いたらあの歌だこの歌だってみんなわかりますよ。 そういうこともやった。偉いでしょ。
それで僕はこれは手記でも書いちょる。日本にカチューシャ楽団ちゅうのがあって。知らんでしょ。カチューシャ楽団。いわゆるロシア民謡を主体にした楽団がね、終戦後ずっとあったんですよ。全国回りよった。それも公演もやったことあるよ。それから、ああいう歌声喫茶。ああいうところでロシア民謡やっているでしょ。懐かしいね。ロシアは本当に歌が好き、ダンスが好きね。こんなに太ったおばちゃんでもジャジャジャ(ジェスチャーで)、やるときにね。若い者は若いものでテンポ早めて歌うとかね。 だけどものすごく皆さんのために良くしとるんですよ、僕は。軍隊をやっつけろ、みんなを平等にしろ、みんな仲良くしろというのが目標だからね、わかるでしょ。僕は誰も相談相手がいない。同じ部隊もいないし、同じ会社の者もいないしね。 よう一人頑張ったと思うとね、自分でも感心しちょる。
そういう癖が残っとるから、ずーっと今でもね。今でもテニスしとるとね、いろいろなこの、僕は瓦版ちゅうのを出しているけど、大体70名ぐらい読んどる。いやぁ、あれは面白い、この話もと。僕は瓦版で葬式の話なんかも書いとる。直葬ちゅう。直葬。
聞き手:ちょくそう?
直。直接の直に葬。直葬の話ちゅうのは、2年続けて出してる。大体30万40万で葬式が出来る。それをね、自分で企画して子供に言いなさいと。葬式なんか200万も300万を使うことない。最低限度、死亡診断書、火葬許可書。火葬いってもね、坊さんなんか呼ぶことないって。 孫が1人ずつね、じいちゃんありがとう。長いことありがとうって言えばそれでいいんだと。それで何だかんだそんなことでね、あんまり宗教的にやることないって。そうしたら大体30万か40万で済むというのを提案しよった。新聞にもその提案が出ちょったんですよ。
それで今も聞く人がいる。あの直葬はどうしたらいいかなって。それは、僕みたいな年寄りが、俺が死んだ時はこうしてくれって娘に言えばいい。書いてね、僕は親戚の人にみな配っているんですよ。それと遠いからね、葬式は来なくてもいい。葬式はうちわでやってね、あとお知らせする。忍ぶ会やるなら別にやればいいんだよね。
少年時代
聞き手:お聞きしてもいいですか。槙原さんがお子さまだった時、軍隊に入る前はどんな子供時代を過ごされていたんですかね。
僕の子供時代はね。僕は材木屋の、出雲市に神戸川(かんどがわ)ちゅうて立派な川が出雲大社に流れる川がある。その川岸に、マルサンちゅうて材木屋があって、そこの長男に生まれた。 そこはね昔はね、今と違ってね、トラックで上流から材木を来ない。筏で来るわけ、筏で。筏ってわかる?
聞き手:はい、木で作った。
木をつないで。それを船頭さんが竿で。それをついて、そこへ横付けにしてそこで解体して揚げて、それを製材所で丸ノコで切ってね、柱にしたり板にしたりする。それで筏が着くと、筏の上でチャンバラをやる、チャンバラ。 チャンバラってわかる? 近所のガキらと一緒に。そらぁ素敵なもんさ。八双飛びとかね、筏から筏へ飛ぶとかね。それで川は落ちてもせいぜい1m50ぐらいだからね。今度は川へ潜って魚を捕まえる。実に上手かったですよ。
こんな鯉をね、抱きかかえて上がってきたりね、もういっぱい。昔は水が綺麗やかったからね、鮎とか鯉とか鮒とか鰻とか鮭までおったからね。ちょうどね、そこの砂利を取る商売の人もおった、砂利を。砂利を取ると、こうくぼんでしまう、川は。そこへ魚が溜まってくるわけ。 そこへバーンと飛び込んでね。魚を手づかみです。それ非常に何ちゅうかね、いわゆる野生的な遊びをしよったね。外でね、天真爛漫なね。
奥様:自然なところだね。
今でもね、ありますよ、神戸川ね。そういうことを手記に書いてあるのも持っていますよ、子供時代の。たまたま、こないだ荒川の巡視艇に36名が乗ってね、ずっと隅田川下ってね。それから東京湾を一周して、ディズニーランドの沖のところを通ってね、ディズニーランドっちゅうか。それから今度は荒川を上がってきたんですよ。 4時間の旅。その時の手記にもね、最初、僕はそういう生まれながらにして川端で育っているから非常に懐かしかったと。橋を見るにしても、川を見るにしても、全部書いてますよ。それは北区のね、「北区史を知る会」っていうやつ。機関紙に僕は投稿していますよ。
聞き手:当時は、国のために命を捧げるのが最高の名誉っていうふうに何かされていたわけですよね。そういったことをやっぱり子供時代に。あの、お父様は何をされたんですか。
いや、材木屋さんですよ。
だからそのことで言われるとね。12月8日のね、真珠湾攻撃があったときは確か16歳やね。やったーっと思ったね。日本はやったーと思ってね、ラジオ買いに行ったんだよ、ラジオ。それで、俺も何かせんにゃいけんちゅうて満鉄行ったんだよ。 その頃はね、とにかく開拓団に行くか、満鉄に行くか、軍隊に行くか、いわゆる満州ね。その頃の面白い歌があるよね。「狭い日本には住み飽いた。俺も行くからお前も行け」ちゅう歌があるんですよ(注:「馬賊の歌」)。 だけん満鉄に行くか、もう開拓団か、軍隊か、何だもう一つあったな何かね。もう満州に行く、満州に行く、支那に行くっちゅうのは、もう全部雰囲気がそれになっちょったね。
聞き手:もうじゃあ何か夢、夢って感じだったんですか。日本人の満州に行く、満州で何かをやる、満州で、こうなんていうか国のために働くということが、当時の日本の人たちの夢というか。
軍国主義時代はね、あっちに向けて行くっちゅうことはね、しかもそれを志願して行くっちゅうことで、ものすごく良いことだっちゅう風に、雰囲気がそうなってる。 もうあの頃は、もう戦争大賛成ですよ(自分を指さす)、それはもう。行ってみればまぁ違うけどね、それは中身は。だから大概、満蒙開拓団で行ったっちゅう人もそういうことですよね。内原で訓練場で訓練受けてで。また支度金も余計くれるしね。あの頃で満鉄、僕が入った頃は月給が60円。その頃支度金300円もくれたけね。すごかったです、満鉄ゆうのは。
軍隊の真実
聞き手:当時そういうふうに思っていたあの時代の戦争に対する認識ってあるじゃないですか。それはやはり戦後になって、今から振り返って、変わった部分があったんでしょうか。やっぱりその戦争のに対するその認識っていうものは、その頃と戦後と、変化があったんですか。
いや、僕なんかみたいに戦争体験者の一番言えることは、入隊して、いかに軍隊がね、もう上位下達のね、横暴極まる軍隊がかなり、まずがっかりしたことと、それから終戦という日本が経験したことのないとき、土壇場にもう軍人が、上の者が下の者をかばうとか、あるいは軍人が民間人をかばうちゅうこと全然なかったですよね。
これは沖縄でも言えることよね。そういうのに、もうがっかりしちゃったちゅうことと、戦争が如何にこの世の中の罪悪の一番大きいものであるかちゅうことを知ったわけ。だから、それは知ったから僕はシベリア行って1人でもあって、半軍闘争と言っとる、軍に対して反発闘争をやったちゅうことよね。だけど、入隊するぐらいまではね、満鉄がまだ社員として在職中、もう明日入隊するちゅう前の日までは、まだまだ戦局が不利だちゅうことも新聞にも出てないしね。新聞には、もう負けても負けても、勝った勝ったって書いちゃるんだからね、始末が悪いよね。
今でこそ言えるけど、当時は。だけん、僕なんかは憲兵隊を見ても、やぁ、あんたらご苦労さんですって言いよったからね。だからそれ軍隊に入った途端に、もう嫌になっちゃってね。また案の定、今度は敗戦。本当に軍隊が天皇の命令をもとに統率されておるなら負けてもね、部下を可愛がりね、邦人、民間人を大事にして、日本に引き揚げることをやらにゃいけんけど、そっちのけにして、将校やら下士官や上の方も全部いわゆる帰国の列車に乗り込んでね。真っ先に自分のことしか考えない。やっぱりひどいよね、それは。内地の空襲なんかでもそうじゃないの。時々ちらっと映画なんか出てくるわね。
自分だけが助かろうと思ってね。例えば、防空壕で民間人追い出して、自分らだけ入り込んで食糧盗ったよね。だから、兵隊に行かなかったらこんなに戦争に反対するちゅうか、戦争を罪悪と思うようなことはなかったと思うけどね。それはみんな一緒やないの。
聞き手:軍隊に入る時は、本当に天皇のためにだったら死ねるっていうふうに思っていらっしゃったんですか。
死ぬるってことについては全然考えんけどね。まあ名誉なことだなと思って、俺にも来たかっちゅうのはあるわね。とうとう俺も順番が来たけ考えにゃいかん。ようし行ってこうちゅうのあったね。だけど見送りも何にもないけん、ちょっと淋しかったよね。 私、出征兵士の見送りにものすごい出ちょるんだけん。出征兵士ちゅうのはあんなにして出るんだ思って。それ1人ぼっちでハルピン駅からね、こそっと出て、誰も見送りに来んと、荷物や財産を全部没収されてね。
奥様:なんでそんなに静かーに出発していくのだったの。
それはもう、なんちゅうかな、憲兵隊の命令だっちゅうので、そんな理由なんか何も言えやせん。
奥様:内緒で年齢を下げて引っ張るいうのが一つ。
それも一つ内緒だわね。
奥様:内緒ってことだわね。
日本が危ないからこうなったんだちゅう発表しないわな、当時。勝った勝ったの放送しかしない。
奥様:勝ったことしか言わなかったもんね、あの当時は。
取材者:ご両親は何かおっしゃってましたか。
ご両親は、満州ちゅうところと日本が。
奥様:日本から離れてるから。
文通なんか全然ない、電話もないし。だからもう兵隊に行くだちゅうのも全然連絡してない。する間がない。する手段が無い。
聞き手:じゃあ、ご両親が槙原さんが戦争に行かれたってことがわかったのは、もう終戦後?
それは終戦後だわね、おそらく。だから引き揚げて戻ったときは、なんちゅうかね、うちには長男が戻って100万ドルをもろったって喜んじゃったいね。
聞き手:亡くなられたと思われていたとか。亡くなられていたと思われていた可能性が高いとか。
いやあったよ。だけん、位牌こさえてあったよ、位牌を。うちの部隊全滅やけんね、そういう情報は入ってるわけ。それが戻ってきたけ幽霊が戻ってきた○○○○。そういう家ちゅうのはかなり多いんじゃないの。
聞き手:生ける英霊なんてよく言いますよね。
だからシベリアから文通ができるようになったのも49年頃、文通ができるようになったけど。実際には届いてないけど、なんぼ葉書出しても。
聞き手:やっぱりあの葉書を出されてた?
ああ出してますよ。 それはもう、いわゆる、ソ連も捕虜いじめてばっかりおっちゃいけんからね。少しは優遇せんにゃいけんと一つの手段として文通を始めたちゅうのあったよね。だけど、それは届いてない。舞鶴に揚がったときは、あの岸壁の母じゃないけどね、いっぱいおばさんらが迎えに来ちょった時は嬉しかったよね、やっぱね。81歳にもなって釈然として生き、元は陸軍二等兵だのう、僕は。(笑)
二等兵ちゅうのは一番下やからね。 僕はね、一つね面白いことがあったんだよ。軍隊でね、こう書いちょる。78日しかおらんやった。3ヶ月も丸々いなかった。よく僕は、軍歴はどうですかって聞かれるとね、3ヶ月軍隊おって4日ほど戦争して4年に捕虜になったって、こう言うんや。その通りなんだ。 軍隊経験がないから初年兵で入るとね、もう言葉から何から、やりかえにゃいけん。うるさいんだよね、あそこはね。「私が」なんてのは「自分が」て言わないけんねんね。それから、「洗面器」って言うのを「面洗器」って言わにゃいけん。言葉は「であります」とかね、もううるさいんだね。
理不尽な軍隊
それだけど、慣れないうちにある日ね、「初年兵皆集まれー」っちゅうて、初年兵集まった、13人か4人。だから偉そうに上のやつはね、銃剣術、銃剣術ってこう突き合ってやる。これまたね「試合をやるからそこへ皆車座になって座れー」っちゅうて。初めはね、古年兵ちゅうて古いものがやりよった。
「初年兵の中にね、銃剣術やれる者はおらんか」ちゅうて言った。みんな下を向いちょったからね。「お前できんか、お前できんか」ってわし頭上げたら、「おー、お前やるかー」ってなった。いやあ、「支度せい」ちゅうから、「はい」となった。それを軍曹をね、突き飛ばしてしまったんだ。 僕は剣道やっとったから。銃剣術も習っとったから。少し勾配のあるとこでやるもんじゃから、下側へ行って下から顎のところを突き上げたら倒れちゃったんよ、向こうが。さあ大変だ。ほら大変だ。大体、軍隊なんて自分がなんぼ強くてもね、後で知ったことだよ、上官をやっつけてはいけないんじゃっていう、上官は強いってことになっていて。そんなこと知らないからやっちゃったんよ。
向こうは大怪我しちゃってね。それから、「槇原来い」っていうことになってね。「お前は営倉や」って牢屋に入れられた。それが終戦の1ヶ月ぐらい、15日ぐらい前か、その罰の代わりに8月の8日の晩に、兵舎がずっと何ちゅうかな、300m周りぐらいあるね、東京ドーム、あんな立派なもんやないけど、あれぐらいの広さのところを夜通し回っちょった。 それでくたびれて、開戦があった8月9日は昼まで倒れて寝とった、部屋で。
それでみんなが出て行った留守に兵舎はどんどん燃えるしね、1人でトコトコトコトコ出ていったわけ。そういういきさつもあったんよ。だからもう本当、軍隊に対する憤りちゅうのがすごいですよ、僕は。 ただ今度はようやく向こうの陣地着いたら、「お前みたいな初年兵は邪魔になるから」すぐわかるんすよね、初年兵。「蛸壺掘って入っとけ」っちゅう言われたけ。砂の中、蛸壺って、こんなの掘ってね、上から毛布かぶって、あれで助かったんよ。上をソ連の戦車がどんどん、どんどん。それをみな突撃しよる、ばからめ。重砲っちゅうのはね、重砲兵連隊になったら知らんけど、これは24センチ、直径がね。これぐらいの大砲の弾をね、ばーっとソ連の方に飛ばすためにね、5mぐらいの大砲が4門ほどある。それをソ連が知ってるもんだけ、攻撃かけてきた。
聞き手:それは周知をされて?
ああ。だけん、一発も撃たんうちに、準備もせんうちにやられたんだ。それで結局、部隊長がね、連隊長か大隊長か知らんけども、歯がゆいから「皆玉砕じゃー」言うて。みな牛蒡剣っていう剣がある(注:銃剣の別称)。あれを持って突撃や。向こうは30tと50t戦車で、みんな踏み潰されてしまう。死んでしまう。でもわしは蛸壺に入っちょるけん、知らんね。
それでもう、それはひと段落した頃にそっから這い上がって出て行ったらね、いっぱいまだ生きたやつがおるわけ。それがどこ行くんかしら、ついて行ったら、小豆山ちゅうとこ行ったわけ。そこで各部隊が皆また1000人ぐらい集まってね、ソ連をやっつけるんだと言って体勢を取りよったら、逆に向こうはバーッと来た。何百台って戦車。ソ連は戦車が一番強いんじゃけん。それはもう全然戦わずしてやられた。その時にここをやられて、ここへ弾が入ったことになってるわけ。
それで今度そこで全滅して、逃げる分は逃げて、やられる分はやられて、誰もおらんようになってまた1人で下へ、川へ落ちるまで1人。だけどそこの小豆山ちゅう一番ひどいところのね、最後に1人で出たのも僕は1人。捕まった時も1人じゃ。シベリア行っても誰も知った者いないし、1人。
だから僕は偉いと思うのは、死体運搬やったんよ、死体運搬をね、元気やったから。誰もやる者いなんだ。ロシア人来て言うんだ。「誰かこれをやれ」「トゥダー スビビーチ ヤー?」(ロシア語)(トゥダーはあそこへの意味、文末はチェビヤー=youの一部ではないかと、肝心の間の動詞と思われるものが聞き取れません)、って言うて。なら俺がやっちゃるわ、って言うて。ただそれは役得があったせいね。僅かな豆しか食えん。なんぼ食うてもいいわけ、そういう仕事するから。 意外に川落ちて良かったなと思った。そこへ林の中で負傷兵が暮らしておったやつらが水汲みに来たわけ。僕が見つけたわけ。向こうが僕を見つけた。お前はどこの部隊や、って。いやこれこれで今山の上から落ちたんだ、って。
お前の怪我は治る、俺らのとこ来い、ちゅうて引っ張っていかれた。そこで一緒に生活したわけ。だけ、運が良かった、ある意味じゃね。水のないところ落ちたらだめだ。水があるところだからなんぼ水飲めるでしょう。まあ、汚い水だよ、死体も浮いちょったしね。そもそも小豆山っちゅうのは、こうどっかに出ちょる。『我が心の小豆山』ってどっかこの辺にあるね。
僕はすごいでしょ。この山から転げ落ちた、この下に。こんな急勾配で。これは、このうちの人らが行ってから写してきたんだけどね。ここの小豆山の上で撮れたのはこれだわ。もう死体がすごい。もう3日もすると腐るからね、8月15日頃だから。だけん、僕は終戦てのは、8月15日、実際に知ったのは9月入ってから、ソ連の兵隊から教えたんだ。「ヤポン ヤモー?」(ロシア語)「ダメ」ちゅうて教えてくれたんだ。
だけ、もう全然、もう軍隊同士の縦横の連絡とかああいうものは全然ないね、もう。だけん、2000名がずっと歩いて行ったって言っても、いろんな混成部隊にいろんな人たちが入ってから歩いて行ったわけ。 それはすごかったよ、死の行軍だよね。ああいう時、若いちゅうのと体力があるちゅうのはいいもんやね。
ドイツ兵の話と労働
聞き手:ちょっと収容所の話になるけどドイツ兵も。
おおドイツ。初め一番最初に入ったね。初め一番グリデコ村の収容所ちゅうのは、仕事はもうせんでええかったわけ。越冬するための収容所やから。翌年の5月頃になってね、お前はどこへ行け、お前はどこ行け、ってトラックが迎えに来て行ったわけ。 最初行ったとこはね、炭鉱やった。ずっと地下がね、200mくらい降りて。この炭鉱でね、ドイツの兵隊と一緒やった。ドイツも捕虜になっちょったからね。ドイツのやつ鼻はでっかいし背は高いしね。手はまるで熊手みたいな手をしちょるね。
あいつらと一緒に、言葉は通じんでええんじゃ、上からとにかくトロッコ降りて来るとそれにね、炭掘っちゃ入れて、一杯になったらまたそれが上がっていくから、もうとにかくなんちゅうか精度が幼稚だから、3台も5台もね、機械が引き上げるっちゅうことはない。向こうではなにかこう回転式のやつをみんなで押してからね、ロープで引っ張って、貨車にいっぱいになったらそこも休憩だ。
貨車にいっぱいになったら、どっか汽車が引っ張る。中でね、ドイツ兵と3ヶ月ぐらい一緒やったかな。でもまあドイツ語わからんし、日本語向こうわからんから、もう。仕事は別にやることは決まってるからね、見やすかったけど、怖かった。
聞き手:怖かったですか。
怖かった。大きいから、鼻はこんなしね。 だけど優しかったよね、いじめるちゅうことはなかった。そこへ20人位いたかな。
聞き手:20人くらい。なんかそういう待遇なんか、そんな鉱内の待遇なんかそんなに差はなかったですか。例えばドイツ兵が優遇されたとか。
いやそれはないもん、もう。日本だったら炭鉱労働者だったら、厚生年金も倍だし、退職金も倍とかで一時あったけどね。山口県の宇部にあったっけ、よく知っちょるけど、それはない。 だから随分職業変わっちょるでしょ。これずっとあれ書いちょるよね。比較的良かった。後からテルマ行った人とかまだ奥行った人は、森林伐採、もう土方仕事ばっかり。それから鉄道線路を造るからね、重労働。
奥様:あれは辛かったんでしょうね。
私は本当に。オーロシラフ市ちゅうところがあってね、どれくらいだろう、8万か9万ぐらいの市やったな。そこの一円のね、農場行ったらジャガイモが食べられる。ポミドーリ(トマトのこと)ちゅうて、トマトが食べるとか、だけ比較的いいとこ、鮭のね解体作業とか行ったことある。
聞き手:魚の処理工場というのがある。
うん、処理工場。魚は生でね。なんぼでも生で食べる。美味しいもんだね、鰊とか鮭ちゅうのは。だけん、食糧事情が悪いところで「食べる職場行った」なんて言ったらね、「本当恵まれとったですね」って他の懇談会でよう言われるんですよ。 それから鉄道工場に行って。僕は鉄道工事おったからね。そういうのも良かったし。それがね、またね、6年前行った時、そのまんまあるんじゃけ、まだ。工場も何も。収容所跡もね、医務室とか、炊事場とか、監獄みたいなそういう建物も残っとる。ロシア人おって、たまたま話したけどね。ここは前収容所があって、ヤポン ヤ(ロシア語で)ちゅうて、ヤポン ヤちゅうんだけどね。ようけおったな、っちゅう。あんたなんぼかいな?、72とか3とかやったら俺と同じ歳ぐらいやな。知ってるか?言ったら、知っとる、と言って、それで話したりね。ロシア人も僕らと一緒に行った人なんか戦争も知らないけん、収容所があったちゅうも全然知らない。わしが勝手に作った地図で回って歩いて通用するけん。
立派なもんですよ、僕は。
感心しちょった、向こうの人はね。よく覚えてますねって。地形が変わってないんやから、日本みたいに。日本では駄目。10年前とか今では全然違うね。忘れん出雲の田舎でも、たまに帰ると、もうあっちこっち変わっているよ。道路付いたりね、何かできたり。 シベリアってかわいそうなところですよね。
なんか読んでみて気がつくこと言ってみて。
奥様:モスクワの方へ行くとまた違うんですよね。
まあね、大都会行きゃあ違うけど、ウラジオストックとかハバロフスクはあんまり変わらんね。
奥様:20年経って変わってない、いうのがすごいね。
変わっていない。とにかく日本の車がね、もう何々商店、何々会社っちゅういっぱい走ってるんだけん、向こうではそれは「外車持ってる」って威張っちょる。 信号なんか一つもないですよ、もう。道路の舗装もまだ半分じゃね。
奥様:日本の中古車がその安く払い下げるんかね。
新潟とかね鳥取なんか、自転車でもそれね。 今、北朝鮮なんか自転車も日本から持っていってる。 墓参り、慰霊碑拝んできたいと、できたら自分でね、骨を持って帰ってね、誰のでもいいと。それやったからね、偉いでしょ。 改革で、これ全部日本車よ、みんなね。これが砂糖工場でしょ、これが大豆工場でしょ。鉄道工場、大豆工場。みんな僕が探していった。で、お前ら、俺の写真撮れっちゅうて撮らせた。証拠残さなきゃいけんからね。これも機関車庫。ウオロシロフの駅だ。こういう銅像もそのまま残っちょる。
ああいうブローカーがおるからね。俺はあれが気に食わない。どこの国でもああいうのがおるね。ここはここで、アメリカって言うしどこ行ったっちゅうのは知らんと、シベリアなんか寝るところはあれだよ。こんなあれだけ、教室だよ、これ教室。小学校の教室。このベッドなんて本当安物のボロボロよ。こんなとこにね、便所もろくに無い。
奥様:そんなようけお金かかるはずがないのにね。ようけ取ってからに。
わし今残してるのはね、もうね、写真帳は全部処理したの。いろんな写真帳を持ってるけん、これだけは残してる。 僕は家の中で眼鏡をかけるの。 1人だけの平和展もやったし。偉いでしょ。 詩も書いちゅうんだ。「シベリアの旅と言うから俺は頭を坊主にした。髭は9日の間、家に戻るまで剃らなかったってね。普段着は俺1人だった」みんな背広着ちょった。「足に合ったボロ靴履いて、借りたリュック一つ、なぜかトイレットペーパー2巻、蚊取り線香も入れた、ミネラル飲料水3本は重かった。墓参の旅行というから、ろうそく立ての板2枚、マッチとろうそくと釘も持って。米もひとにぎり入れて。借りたリュックいっぱいだった。シベリアの旅というか、なぜかこれが似合うらしい。シベリアの土産はこれしかない。マトリョーシカが微笑んでいる」これ今うち一つあるんですよ。見たことある。あれ母ちゃん持って来い。
奥様:開けると次々とね、入っているの。
これを買うた時にね、ハバロフスクのお店で買ってね、大分2、300m行ったらね、向こうから「ターレシャー、ターレシャー?」(ロシア語)言ってね、女の人が駆けてくる。「数えなくて渡したから、もしひょっとしたらなかったら困るから見せてください」って言って。それで出したら全部揃うちょって。本当、親切だった。
僕はこうやって帰ったらすぐこう手記書いてね、「私の戦後処理、シベリア墓参」だったり。
聞き手:やっぱり、文章のお仕事していらっしゃったから、字が綺麗ですよね。
だから今さっき言った謄写版の仕事をしちょったって。加工の中にね、字を一字ずつ入れてね、細かいやつをね、あれをやっとった。それを今活かしてる。
奥様:もうちょっと、ひねらんといけんね。
ね。ここ、(マトリョーシカをひねって開けると)こうなっとる。
聞き手:沢山入ってる。
これ安いもんだったけどね。こうやってね、なんぼでも出て来る。 やっぱこういうふうに子供を作らなきゃいけんよ。 土産じゃ。日本でも売ってると思うがな。新宿あたり行くと。 もうこれで終いかな。もう一つあるかな。
奥様:いやもうそれで終い。
これで終いか。
奥様:よう作ってあるね。
それずっとこう並べちょってね。たったそれだけやけどね。 これ(砲弾が入った胸部レントゲン写真、アルバムの写真)を撮った病院はね、僕心やすい?(気心が知れたの意味)病院で、1ヶ月ぐらい展示しよったよ、僕が書いたやつを。どこそこでこういうふうなったち。 これ(遺骨火葬風景の写真)くれたんよ。こんな7、8枚あるけどね。
聞き手:現地に残ってた?
そうそう。
聞き手:遺骨ですよね。これが火葬風景ですか。
作業風景じゃな。いやそんなやっぱり遺骨を全部持って帰るわけにはいかんから、もう1回焼いて。何体を持って帰ったかっちゅうのは整理をするときは、ここの大腿骨の骨を2本で1人にするわけ。
頭蓋骨があればまあそれでいいけど、頭蓋骨なんかも腐って砕けて無い場合があるでしょ。いろんなこと書いてますよ、ちゃんと。さあ、こういうものを実際に孫たちに残しても、すぐ捨てるだろうね。お宅の会寄付しようか、あっさり全部。 俺、遺骨収集ちゅうけ作業服で行ったよ。みんな背広を着てね、着替えまで持ってっちょる。 本当すごいね。遺骨収集ちゅうたらね。
聞き手:本当ですね。背広のイメージはないですよね。
奥様:皆さんは慰霊祭みたいな感じで。
ヤシの実が一つ置いてあるんですよ、ヤシの実が。そのヤシの実は、僕のね、従兄弟の分です。
奥様:おじさんに当たるよね。
おじさんか。おじさんは従兄弟って言わんかよ。
奥様:なんでね、おじさんは叔父だわね。こういうもの(出雲大社の浜に流れ着いたヤシの実の写真)があるんですよ。これがまた貴重品でね。ヤシの実が流れてきた。島根県出雲市のね。
奥様:大社の出雲大社の浜に。
それはフィリピンで戦死した叔父さん、山之内辰四郎ちゅう人が流したやつがね、たまたま郷里が出雲市やけど、出雲大社の浜に流れてきたんだ。 それを30年ほど、どんぶらとんぶらと流れてきてね。それをたまたま拾った人がね、市役所に持ってきた。これは山之内辰四郎ちゅうの、これ名前が出ちょってね、わかったんですよ。こここれ、故事来歴が書いてあるけどね。 それがね、天津羽衣が聞いてね、これも当時テレビにも物凄い出たんですよ。30年ぶりに流れて来て。それでそれを浪曲にしてこれを売り出したわけ。その時、出雲市が体育館でこのオープンをやったわけ。それも僕の
奥様:フィリピンからね、出雲大社の浜には専門的に潮の流れからあれして絶対にそこへは流れ着かないものが。
そういう奇跡でね、うん。
奥様:30年ぶりに流れ着いたいうので、すごいニュースになったんですよ。
あそこヤシの実があるでしょ。あそこヤシの実が半分ほど、あそこぶら下げてあるでしょ。あれはわしが北海道
奥様:よそで買った分だけどね。
変わりない、変わらない。軍属で志願しちょったのよ、軍属。子供が4人おるのよ。 行かんでもいいのに行っちゃったわけよ。それでフィリピンの方へ輸送船団で行って、戦死。もう駄目だと思ってする前に、ヤシの実に「飯塚正一」て自分の同じ郷里の友だち宛に名前を刻んで流したわけ。それ1個流したか2個流したらそれ知らんけど、31年ぶりに、しかも、出雲大社の自分の郷里の目と鼻のところね、そこへある人が魚釣りしちょって拾ってね、それで自分とこのなんか庭か何か
奥様:縁側に転がしてたら日が当たって、ばあっと名前が浮き出たんですって、乾いて。市役所へ持ってったらね、持ち主がこれはわかったわけ。
それでこれはもう奇跡だっちゅうんでね、新聞に出てね、大騒動したことあるんです。それを今、靖国神社に飾ってあるし、これ。 僕はね、軍属で、軍属ちゅうのは軍人じゃないのよね。軍属ちゅうて、やはり今では何ちゅうか、派遣労働者みたいなものね。 そう言えば、あそこの靖国神社のあんたら入ったことある?あすこの遊就館。
奥様:資料館。
あすこの乃木大将と東郷元帥とか偉い人の遺品?いっぱいある中でね、たった1人、軍属のこの人のヤシの実はね、飾ってあるんですよ。 僕はこの間なんかね、このヤシの実の長女は、出雲市から同級生連れてね、修学旅行へ来た。
奥様:修学旅行。(笑)
修学旅行じゃねえ、あれはもう60やから。
奥様:団体旅行でね。(笑)
それで僕も行ってね、会いに行ってきた。偉いでしょ、僕はね。すごいんですよ。 それで同じ従兄弟でも、中将がお父さんっていう人おるんですよ、出雲市に。 そいつは全然つまらん。僕はそこへね、2年ほどおったんですよ。こう書いてる。北朝鮮、咸興に2年おったって書いちょるでしょ。あれはその母親が死んでね、小学校5年6年はね、その人が中佐。終戦ときは中将やったけど、そのとき中佐やったけど、それでもねやっぱ、飛ぶ鳥を落とす勢いで陸軍官舎のとき、僕はそこへ身柄を引き取られていったんですよ。 お坊ちゃまですよ。お坊ちゃま。七つボタン。毎日兵隊とキャッチボールするし。
聞き手:従兵?
そういう生活もしとるんですよ。
聞き手:中佐だと参謀か何かですかね。
参謀じゃない。参謀はね、まあ大尉ぐらいやね。軍隊で言や、まあ副連隊長やね。だけ、連隊旗の軍旗祭の時なんか、もう一番ええとこ座らされてね、お坊ちゃまだから。 だから非道軍隊ちゅう憎んで、上の者はすごい生活しとるね。正月なんかこんな皿に10杯ぐらい。ここはすずめの佃煮。こっちはたこの刺身。こっちは鯛の刺身。兵隊いっぱい呼んでね、軍隊の。そら良い生活してるんですよ。 このキクラゲでもすごいでしょ。
聞き手:いろんなものが詰まってそうですね。
ねぇー。キクラゲが、こんな量があるね。よく寝てよく行動すると、だけん、今日も話した秩父のねサクラソウ見にいつ行くかって言って、もうそういうのもどんどんどんどん出かけるんですよ。この間はあそこへ、館林行ってきたしね。 今度ね5月に入ったらね、JRのジパング、あれ入ってるんだよ。1日6000円で乗り放題でね、北海道まで行かれんですよ。去年もあれ行ったんですよ。 どんどん年寄りはね平日に出ればいいんですよ、土日は動かずにね。 でも1日で大体仕上げちゃうね。1回書いて、どっか間違った変換がおかしいと思ったら、それでもまだおかしいけどね。 これもおかしいんさ。あんたら気が付かないけど、これもおかしいんさ。この文章ね。
奥様:(「60名を救った航空事故」(『まき牧さんの瓦版』)の記事を見ながら)名前なんか一切言わないんだもんね。
取材者:落ちると出るんですけどね。
聞き手:そうなんですか。
落ちるとニュースになるしね、一応副操縦士も。
奥様:名前がパンと出るけど、これだけのことをしても、機長の名前なんか一切
(「300万が供託金」(『牧さんの瓦版』)の記事を見ながら)300万たら誰でも出れるんですけど、ね。あれは大体50万(票)取ったらもう金が戻るんじゃね。50万以下1回だったら戻らないんだよね、供託金没収になる。とういう意味で新聞配達する人にはね、すごい感謝しちょるちゅうの書いちゃるけど、採用するかせんかは別としてね。そういう具体的な例を挙げてね、説明しておくと編集者がどう取るかしら。 これは(「抑留中の未払い賃金労働証明書」を見ながら)、4,781ルーブルって書いてある。 今、日本円で換算したら4000円だから安いのよね。
聞き手:当時はこれどうだったんですかね、今から60年。
もっと安かったでしょう。これは国際法規でね、未払いがありますから、たら払わにゃいけんね。 それを、これを入手したっちゅうのすごいでしょ、僕はね。皆さん持ってないですよ、こんなもん。抑留中の未払い。1日なんぼで本当は払わないけんやけど払ってないわね。
聞き手:これはいつ入手されたのですか。
これはいつもらったんかね。やっぱ、あれをもろた頃やね。
聞き手:どこで見つかったのですか、これは。
これは、これはねいわゆる我々が入っているソ連引揚者協議会のね、事務局がモスクワに行って、いわゆる何かもろてきたらしい。 これは(「○○経歴書」を見ながら)厚生省じゃないですよ、これ。
聞き手:これは厚生省の倉庫にあった?
これは厚生省の倉庫にあったんですよ。
奥様:ようこれが出てきたね。
これ出てきたらあすこのクラゲじゃない、あれは何か。
聞き手:キクラゲ。(笑)
キクラゲ、ねぇ。 金持ちは行くわね。同じ行くなら、こういう人、こういうの知ってる?その組織名。
聞き手:旧関東併合○○ 。知らないですね。
この人はねすごい講演してくれたよ。あのね、中国はね、もうオリンピックが終わったらね、もう大混乱が起きる。結局は農村と都市の格差がものすごい。
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