鈴木 開之助さん

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鈴木 開之助さん

生年月日1924(大正13)年生
本籍地(当時)東京都
所属第117師団(弘兵団)
所属部隊弘1471部隊
兵科無線通信手
最終階級 

プロフィール

大正10年(1921)生  

両親と木工屋を営む。尋常小学校卒。青年学校普通科卒 

昭和15年(19430) 生家の木工の仕事で左眼を負傷 

昭和16年(19431) 徴兵検査 

昭和17年(19432) 近衛兵歩兵二連隊へ入隊が決まっていたが左眼の視力を理由に入隊不可となる  

昭和18年(19433) 徴兵検査 左眼の視力のため第三乙 

昭和19年(194435)1月15日 召集→仙台で編成され、ハルマヘラへ向うところ、7ヶ月間の待機を命ぜられる。 

同年7月 ばいかる丸で台湾を経由し、船の故障で、フィリピンルソン島のサンフェルナンド上陸をせざるを得なくなる。第14方面軍野戦自動車廠に合流、イワサキ隊に所属し、後方部隊のまま終戦。 

※ばいかる丸(日本の商船。1921年(大正10年)大連航路の貨客船として建造されたが、病院船として徴傭され、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)中に被雷座礁した。) 

インタビュー記録

「生い立ち~中国出征」

 鈴木開之助(かいのすけ)と申しまして、昭和19年1月15日に召集を受けまして、仙台で編成されまして、その目的地はニューギニアの(注:正しくはインドネシアの)ハルマヘラというところに1,200名の部隊が行くことになって(ました)。ところが、船の便、いろいろとあって、内地に7ヶ月間置き去りにされてしまったわけですね。これが私の部隊のスタートです。

 仙台は、1月は大変寒いんだけど、夏服でずっといましてね(笑)、大変な苦労したんです。7ケ月間内地にいる間にいろいろ(ありました)。ブラブラさせる訳にはいかないもんですから、そこに分けて、軍需工場で生産に協力したわけです。7月に入って、出動命令が出て、下関に集合して、それから、ばいかる丸という船に乗ってね、先ず取りあえず台湾まで行く。ただ一隻だけ、台湾まで、(台湾の)基隆(キールン)に上陸したんですけどね。そこまで行ったけど、その時は、友軍機が援護して、上からこう(手を回して)、(アメリカの)潜水艦の攻撃を監視してくれたの。で、基隆(キールン)に上陸して、今度は(台湾の)髙雄まで列車で行きましてね。で、髙雄に着いたのが8月です。

 たまたま僕の部隊は、余計な話かもしれませんけど、伝染病患者が出ちゃったんですよ。それで中隊そのものが120名隔離されちゃいましてね(笑)。それで、大変助かったような感じなんです。その間に、1,200名の部隊の中で、櫛の葉が抜けるように、転々と、マニラまで、皆船で行った訳ですよ。僕らは最後まで残って、8月末ですけども、そこで、髙雄を出航して、そして何回も(アメリカの)潜水艦の攻撃を受けました。たまたま僕の船は助かりました。

 船団は支離滅裂で、その中でもって一番大変だったのが、先ず大変だったのは、皆、船が逃げた。僕ら「○」以外の船は皆逃げてる訳ですよ。僕の船だけエンジンが止まっちゃって、残されちゃった訳ですよ。これには非常に参りましたね。とにかく一昼夜かけて、エンジンを直して、(フィリピン)サンフェルナンドに上陸と。これがルソン島に着いた第1歩です。

1944(昭和19)年9月 マニラに集結し、第14方面軍野戦自動車廠に

 とにかくニューギニアまでまだ何百キロあるか分かりませんけれど、やっと部隊がマニラで集結しましたのが、(昭和)19年の9月ですね。そこで結局ニューギニアまで行かれなくなっちゃって、マニラで別の自動車廠という(部隊)があったものですから、そこに合流して、フィリピン方面自動車廠という大きな約7千名いる大きな部隊ですけど、そこで各隊ごとに、いろんなところへ分散された訳ですよ。そのなかで自動車廠という仕事をやったわけです。

 自動車廠というのはどういう仕事かといいますと、内地から新しい自動車部品全体をパーツで送ってくるわけです。それを受けて組み立てて、いわゆる新車の組み立てがあるわけですよ。それから修理。それを受け持つのが自動車廠の仕事なわけですね。いわゆる後方部隊の一つの部隊です。ですから、私の場合は、第一線には行ってないわけです。その中で一つの中隊、120名の中隊ですね、それがイワサキ隊という隊ですけども、話が前後するけれども、終戦まで隊長のお世話をしていたもんですから、なんとか一命を取り留めたんです。

 そこで自動車の修理をやる、あるいは新車の組み立てをやりました。その間に、軍の最高の目的として、(昭和)19年の暮れに捷(カチドキ)一号という、ショウ(捷)という字ですね、捷一号作戦が、これ内地から大船団を組んで、それでマニラまで軍需品を運んだんですよ。ところがマニラに着いた途端に、ボカボカボカボカ(手首を上下に振って)皆敵機にやられちゃってね、大変な損害だったわけ。死傷者が出て、もちろん、軍需品は(ダメ)、船は沈没する、こういう状態でしたね。そんな中で部隊が解散したもんですから、もうどうしようもないんで、さっき言ったように、新しい部隊に、私はイワサキ隊というところへ入って、そこでショウメイしたわけです。これが前段のマニラでの生活でした。

バギオ~バンバン間、3往復

 マニラを(昭和20年)1月7日、戦況不利と見て、もちろんレイテ島はやられている。そしてその中で、北部ルソンにバギオというところあるんですよ。そこは、ちょうど内地の軽井沢みたいなところ、赤松の生えた、いわゆる避暑地なんです。で、サンフェルナンドという下からと、ベンゲット道路というところを通って、バギオに入る道があるんですけれど、もちろんマニラから別ルートがありますけども。そのベンゲット道路というところは、明治時代にフィリピンでそこに道路を作ろうと思ったけれど出来なくて、日本のいわゆる人達、土工さん?明治時代にその難険のところ道路作りに行って、無事に完成したというひとつのベンゲット道路というところがあるんです。

 そこは逆算して、今度は(昭和)20年の3月頃に、アメリカが、僕らが上陸したところに逆上陸して、そこからバギオを攻撃くってきたわけです。私らはバギオに最初行かれなくて、途中から、バレテ峠と、さっきちょっとお話したように、幼児(移民など民間人の姿か)を引っ張って歩いて行くとね、その「○」フケン?のね、バレテ峠というのがそこのへんにあるんですけど。それを過ぎて、バンバンというところでね、そこに部隊が全部集合したわけです。で部隊集合といっても、結局的にはもう中隊ごと、120名単位がもう行動範囲でして、部隊として行動できない。ですからこれからいう部隊っていうのは、イワサキ隊一つそのものなんです。

 我々はあの中でバンバンに落ち着いて間もなくですね、そのバギオまでに、食糧を運ばなければということになりました。そこ(バンバン)は、ちょうどお米の獲れるところなんですよ。そこから、水牛に約50トンくらい載せて、お米100キロくらいを背中に載せましてね。れでバギオまで約80キロくらいあるのかなぁ、それを闇に紛れて、運ぶのをイワサキ隊が命令されたわけ。私はそれに付いて、その夜陰に紛れて行きました。昼間はもう飛行機が、飛行機でもって歩けんでしょ。その水牛にお米を載せてね、それでバギオまで運んだんです。運んで、まぁ日にち的に幾日たったのか知らないけども。

(バギオまで行った後は)、今度は、韓国の出身で洪中将って方(注:第14方面軍兵站監・洪思翊中将、コウシヨク、朝鮮語読みはホン・サイク)、中将です。それが兵站から、この人がバギオってところから退避してバンバンまで行くということなので、イワサキ隊が米を運んだその直後に、今度は護衛ですよね。護衛でもってバンバンまで、我々苦難して歩いた道をまたすぐ戻って、その間(洪中将を)護衛して、バンバンへまた送ったんです。

 そしてバンバンで落ち着く間もなく、我々は自動車廠ですから、その廠長というのがいるわけです、大将みたいなのね(注:廠長は鎌田精一郎大佐)。それが今度はまたバギオに行くって、それをまた今度はイワサキ隊が、それを隊長から廠長を護衛しながら、また道をまた歩いて行った。だから3往復してるの。これには参りましたね。でもおかげさまでマラリア一つ罹らないで、健兵の状態ですから何とかできた。

自動車廠が松根油の採取部隊に

 バギオで落ち着くと、今度はサンフェルナンドから上陸したアメリカの兵隊が、夜間でもボンボン迫撃砲を撃ち込むわけですよ。それは話に聞くと、直接聞いた訳じゃないけども、不寝番がいますよね、我々。それが交代で7発ずつ間断なく打つわけです。ボーンボンボンボーンと聞こえるわけ、発射音が。寝てると、ヒューンとこう(音が聞こえる)、それは全然心配ないわけ。寝てるところボンと(音もなく)落ちるのは、ヒュルヒュル(の音)もないわけ、ボーンときてスンと落っこちたら、それで終わりなんやけど。ヒュルヒュルという(音が聞こえる)のは、まだもっと先の方へ落っこちるから心配ないんですけども、まず(心配で)寝られないですわな(笑)。

 それから、そこで過ごしてた時に、やっと3回目のあれ(往復)が終わってから、バギオから今度は90キロのとろ、ボントック街道というのがあるんですよ。ボンドック街道の途中、21キロ、90キロっていう拠点があって、もう至るところ死屍累々で、どこに行っても、皆蛆がわいちゃってるし、もう戦闘処理?がすごいですよね。我々は一般後方部隊ですから、先ず(死体)無いところに行こうと思ったら、行く先行く先が全部死屍累々なんですよ。それの感傷に浸ってるわけにいかんし、で90キロっていうところでもって、今度は命令が変わりまして、自動車廠といっても、自動車も無い訳ですよ。修理する自動車がなけりゃぁ、なにも無い訳。それなのに兵器廠ですよ。

 あるところに行ったら、兵隊が旋盤をね、こうやって担いで行く訳ですよ。なぁんでこの山の中ね、電気も無いのに(担いで運ぶのか)。旋盤ってご存知でしょ?鉄鋼の機械があるんですよ、削ってく機械があるんですよ。軍隊に入ると、ナントカ一類兵器とか、ナントカ兵器って、格付けされる訳ですよ。それを兵隊がね、担ぐ、担いだ先に電気もある訳じゃないんですよ、こんなバカなことやって、なんでバカなことやってんだろうと。

そうと思うとね、砲兵がいるわけ、3人位、兵隊が。するとね「弾何発あるんだ?」って聞いて、「3発ある」ってわけ答える。でも、3発でも大砲の弾撃つとね、逆に(アメリカ兵に)ボコボコやられちゃうの。だから撃てない訳。で持て余して、馬を引っ張ってるの「○」が。その馬の肉を我々に売りつけるわ(笑)。

 そんなことしてる時に、僕ら、転進してる最中に、途中で、隊で、道路際にこう寝たんですよ。で、私の背嚢に、こんな小嚢っていうのがありますよね?あれに岩塩を一杯詰めて、それで別に小出しにこう缶に。朝起きたら「あぁ?」と思って眼を開いたら、私の背嚢が開いてる訳ですよ、そしたら岩塩だけが無いんです。岩塩盗られちゃったわけですよ(笑)。岩塩ザラメでしょ、あれ一粒一粒、塩をその舐めて、毎日をこう過ごした訳ですよ。それで、もぉ頭にきましてね、だけどどうしょうもないですよね(笑)。もうそんなことがありましたね。

 で、90キロでもって、まあ、そこで松根(ショウコン)油っていうやつ採ったんです。ガソリンも無い、じゃあ何するのかって言ったら、まぁその松根油採って、自動車動かすって言う訳。あるいは軍の通信機の油として、赤松の木の根っこをね採って、小さくして、それを煮てタラタラタラタラ垂れたら、それが精製されて油になるわけ。それは内地でもやってましたよね、後で聞いた話。それを自動車廠の我々は、松根油の採取部隊に変えられちゃったわけ。

編隊の爆撃にあう

 ドラム担いだり、パイプ担いだり、道具を転進するわけです。で、90キロで、私が一番怖い思いしたのは、ある日、その100キロのところに、タダっていう名前の地点があって、私のイワサキ隊長がそこに行ったわけですよ。私も付いて行ったわけ、隊長当番ですから。そしてそこで一晩泊まって、朝、隊長は戻った。後始末があるから私は一足遅れて来た。

 8時になると、(現在でも)この辺も飛んでいるセスナっていう飛行機がありますよね?あれが、こう回ってましてね、信号弾を落とすんですよ。もうP38とかね、51だとか、グラマンだとかね、7機編隊でね、ずーと飛んで回ってるわけですよ。そして信号弾が落とされると、グーンときて、ドンドンバラバラ始まるわけですよ。それでたまたま私が戻ってきた時に、「あぁもう8時だ、危ねぇな」と思ったら、案の定、まぁ自分がやった、狙ったわけではないんだけど、約7~8メートル先に、自動車が隠蔽したんだけど見っけちゃったんですよね。ほぅら信号弾が落ちてきて、ザバァと(編隊が)来ましてね。合計21機ですよ、これにも書いてありますけどね。背中に背嚢鉄帽、「○」、道路にビシャーと這ったままね。もうするとバリバリバリバリ周りで突き刺さるんですよ。で、もうB25ってのは、ババンと前から撃ってきて、時たま後ろからわざとババンと撃ってきて、爆弾を落として、それ相当長い間やられて。そうするとこう戦闘機が反転するんですよ。操縦士が見えるわけですよ。こっちは道路の真ん中でしょ、そうすると幸いにして、松の木の枝なんかが(落ちてる)。前から爆撃が続いていますから、小枝なんか落っこちてるんですよ。それをそぉぅとこうやって(拾って)、(飛行機が)反転した時はやらないね、こうやって(小枝で)身体隠すわけですよ。こんチクショー負けてたまるかってねぇ、その時はもう、お袋の名前を呼びましたけどね。それでたまたま道路でもって、山がこうあって、道路があって、こっちが高いわけですよ、こっちがえぐれているわけですよ。見たら、それはこれは「○」だと思って、ソロソロソロソロね、これ(反転)がなくなる時に、バーと(小枝を)持って崖の窪みに入っていってね。あ~長かったですね。2~3時間あったと思いますけどね。やがて終わったわけですよ。はぁ(安堵の溜息)とした。

 そう21機にやられちゃったでしょ。それからその後もね。おかしいぞと、虫が知らせたんですかね。爆撃がありそうと思って、急いで防空壕に入ったんです。防空壕の一番奥に将校さんの荷物が置いてあるんです。だから私は防空壕の入口の玄関のところにこうやって立ってたわけ。そしたら皆ドシドシ入ってきて、私は押されて一番奥に入っちゃった。で、この入り口のところに、仙台で編制されたときの班長が、そのたまたまマラリアになってたんで、それでもって足を組んでこうやってた(座ってた)。それが(最初に)私が立ってた所。でその内、爆撃が始まって、その兵長、両足取られちゃった、(爆撃の)破片で。だから、私がそこに居たら、私がやられてたわけですよ。私の運命っていうのは、紙一重ですよ。それで逃げちゃった。そういうこともありましたね。ハハハ(笑)。そういうことが続きましてね。もう大変な苦労しましたけどね。まぁ、怖い思いしたのはその程度でしょうか。

敗戦後も続いた松根油堀り

 8月の・・ちょっと(話を)飛ばしますけど、8月の15日、終戦ですよね。(終戦の話)ですけども、またその一番最後の、キロク?ってとこまで行って、そこで松根油を採ってたんですよ。だけどね、15日はね、飛行機が来ないんですよ、敵機が来ないんです。で、まぁ側に富士山に近い高い山がある麓ですからね、プログ山っていう山なんですけど。丘に上がると、もうずーっと見渡す限り静寂なんですよ。大砲の音一発もしないわけです。おっかしいなぁと思って。重湯に松根油の葉っぱかけて、松の油が獲れるわけですよね。それが2日続いて、そこで同じこと続けてた。そしたら(戦争に)負けたんだと。で、やっと3日後に、終戦になったわけですね。で、終戦分かって、イワサキ隊は、何かしらその時の命令で90キロのところまで全部部隊は戻れと、そこで武装解除するからと言われたんだけど、イワサキ隊は残された。なにかっていうとまだ松根油採ってろと。最後まで大本営、東京とね、軍通信のための油を通さないといけない、イワサキ隊が武装解除の日まで残されて、そこで油採ってましたね。そして、武装解除になって、今度は山を下りるわけですよね。我々は、ずーと歩いた所を今度は逆に戻るわけです。

 話は前後するけれど、サンフェルナンドへ上陸して、一週間後くらいですか、本部付きの将校が病院へ入るんで、「鈴木、マニラまで護衛につけ」と、何も分からないわけですよね。一兵卒が、本部将校の護衛で、先に出て行ったわけ。(私が)出て行った後に、サンフェルナンドで上陸して待機してるところへ、ボカスカやられてるわけ。それも私、逃げちゃって、助かって。それで途中まで来たら、9月20、21日、もう大編隊がね、見たらね、B29の大編隊なんですよ。それが、9月20、21日、マニラの大空襲なんですよ。そん時は途中で見てたわけですよ。そんなこともありましたよね。ですからほとんどが、ま、全部しゃべりきれませんけども、紙一重で(命が)助かったと。

戦犯容疑者

 戦犯容疑にもかかったんですよね。戦犯容疑、鈴木(姓)が千人以上、二千人くらい集まって、鈴木(姓)だけが。質問なんかはね、日本人の習性としては、昔話から、昔っからこうくる(日本人の話の順序は過去から現在へする)わけですよ。ところが、奴らっていうのは、二世が香水ベタベタつけて、こんチクショーと思ったけど、香水ベタベタで匂わしている奴、二世の兵隊が質問するわけですよ。そうするとこっちが間違っていると、向こうの方が良く知ってるわけですよ。ね、そこでもって、そうじゃないだろ、こうだろう、ああだろうと、で、向こうは今日、今、今日でしょ、昨日のこと、一昨日のこと(アメリカ兵の話の順序は現在から過去へする)、逆に聞いてくるわけ、日本はこう逆にこうでしょ、質問(時系列の順番)が違うんですよね。で、分かんないと、(相手の方が)よく知ってるもんだから、「そうじゃないだろう」と、もちろん我々戦犯(容疑に)かけられる、あれ(原因)はないわけですけども、相手にしてみれば、フィリピンにしてみれば、誰でもいいわけですよ。あれがやったと言えば、ポッと(首をはねる手つき)、刀でやられるわけですよね。そういうことで戦犯の鈴木っていうのは3人くらい。おかげさまで助かりまして。

 その後、いろんな使役をされて、14ヶ月バタンガスというとこで、使役を受けたわけですけどね。たまたま、バダンガスで、風邪ひいたりしたんだけど、ちょっと歯茎から血が出たんですよ。それでキャンプの医者に診せたら、すぐ病院へ行けっていうわけ。あのモンテンルパって聞いたことありますか?渡辺はま子(歌手名)の「(あゝ)モンテンルパの夜は更けて」(曲名)って、所謂、捕虜収容所があるんですよ。戦犯の収容なの、その隣に病院があるわけ、そこへ僕は行かされたわけですよ。だけど全然(病状は)なんともないんですよ。と、そこでベッドの上でゴロゴロしてたんですけど。たまたま、そこの病院付の海軍の兵曹長だったけど、名前も覚えてますけど、大西さん(公開時はイニシャルに)という人が、戦犯で引っかかっちゃって、見てる前で顔がサァーと血の気が引いてね、やっぱりなんか思い当たることがあるのか知りませんけどね、サァーと(血の気が引いて)連れて行かれた。

 その病院の脇は、鉄条門が二重三重あって、24時間ジープが機関銃を付けたまま、24時間ぶっ通しでもって、グルグル監視している。そこは例の山下大将とか、ああいう人達が皆そこで絞首刑になったそこの場所なの。

 その隣に病院があるわけ。そこでそうですね・・あれは1ヶ月くらいいたのかな?そこでゴロゴロ。別に歯茎は全然、何でもないんですよ。それで、そこで復員命令が出された。(昭和)21年の10月ですね。ですから14ヶ月(間)バタンガスで、捕虜生活していたわけですね。

 そして10月の半ば、やっと復員が叶って、名古屋に上陸したのが10月20日頃でしたかね。そこで私の、そのぉ軍隊生活は終わるわけですけどね。まぁ、そうした中で見れば、戦闘員じゃないし、ビデオなんかで見ても物凄いアメリカの攻撃を受けているんですけど、まぁ、たまたまそういうことで、まぁ亡くなった方には申し訳ないけども、なんとか無事で帰って来られたと、こういうことなんですよね。えぇ、一応、概略説明はそういうことですけどね。こんなことで良いんですか笑

1942(昭和17)年 近衛兵歩兵二連隊へ入隊が決まっていたが、視力不足で即日帰郷

聞き手:最初は自動車廠じゃなくて、ちゃんと戦闘兵としてとられる(召集)ことになっていたんですよね?

 最初は、私は召集と言いましたけど、昭和17年兵なんですよ。だから(昭和)16年に徴兵検査を受けているんですよ。ところがその、(昭和)15年頃に左眼を怪我してね。外見じゃ分からないですけど、たまたま家の商売が、木工屋さんでね、親と一緒にやってたんですよ。切った破片が飛んで、この左眼のところにこう(左手の親指と他の指で覗き穴のような輪を作って左眼につける仕草)もろに当たって気絶しちゃったんですよ。それがね、5センチ角くらいの破片なんですよ、それが角が当たったら、眼がぐしゃぐしゃですけど、不幸中の幸いで平らに当たったんですよね。それでも気絶しましたよね。それが元でね、今でもこうやってお宅の顔をこうやって見ましても真ん中がこうやって(両手の指で輪を作り)、ぼやけて見えないんです。それでもね、徴兵検査の時は、あのこのやろうと思う相手は、皆兵隊を取りたいから、こっちはそらを使っている(知らないふりをしている)と思って、最後まで鞭を叩かれながら検査を受けて、癪にこっちも障ったけどね、なんとか終わったわけ。

 それで終わって、私の入隊先が、近衛だったんですよ、あの靖国神社のこっち、田安門っていうのがありますよね。あそこに近衛歩兵二連隊っていうのがあったんです。そこに入隊することになったんですよ、(昭和)17年1月に。ところがこれ(左眼)がためにね。なにしろ相手は天皇陛下ですから、御真影があるんですよ。大丈夫だって言うんだけど、ダメなんですよ。それで帰されちゃったんですよ。ですから、勝ってくるぞと勇ましくと出たのが、恥ずかしながらでね。とうとう一週間オジの家に泊まってましたよ。恥ずかしくて。

 そのうちにそうもしてられない。たまたま横浜市内で、飛行機の仕事があったもんで、そこで昼夜働いてましたね。紛らわしましてね。それで翌年ですよね、(昭和)18年に、またこの(左眼)の為に、再検査があったんですよ。だから徴兵検査を2回やっているんです。で、前のあれ(徴兵検査)があるから、すぐここ(左眼)だけで第三乙になっちゃった。第三乙の身体じゃないわけですけど、第三乙になりまして。それで(昭和)19年の1月にさっき言った、召集になるわけ。ですからこっちの眼でもって、エライ(経験をした)。

 これ冒頭にも書いてますけども、一番最初にあの青年学校でね、米原の。校長からね、あの当時、内蒙古、内蒙古の領事に、領事館員としてね、紹介をもらったんですよ。ところが、私、小学校6年しか出てないわけですよ。それで行ったら、(他は)良いんだけども、ちょっと学歴が足りないということで、学歴がないために、内蒙古に出ずに済んだわけですよ。あのまま行ってれば、どなたかと同じシベリア抑留になってた。ですから学歴が無いのが幸いだったから、そんなことがありましたね。それで仙台に入ったでしょ、仙台でもいろいろあるんですけどね。とにかく7ヶ月間ゴロゴロしてましたね。異常な部隊ですよね。すぐまぁ戦地へ行かれなかったというね。これが運が良かったんでしょうね。

自動車のことは知らないまま(自動車廠での仕事)

聞き手:隊長付になったり、将校さん付になったりした理由は何だと思いますか?

 結局、マニラで、イワサキ隊に編制になった。僕はさっきもちょっと話ましたけど、自動車の自の字も知らない。今もって自動車のことは知らない。もちろん車の運転もできない。それが自動車廠。兵技兵っていう名のもとにそこに入ったんですけども、何も知らない。で、入ったらもう、庶務の仕事でしょうね。兵隊さんは皆もう、古年兵から汗水流して、あるいはさっき、マニラ埠頭での、荷物入るとき、皆行ってるわけ、私は行かなかった。じゃぁ、何をしてるんだって。知らない伍長の人が入院してるもんで、「お前、輸血に行け」って(笑)、二週間に一回くらい病院まで、マニラの脇にケソンっていう第二都市がある。そこに病院がありましてね、陸軍当時、陸軍。そこへ行って、輸血して、そんなことだとか。あるいは、陸士出の若い人でね、Mっていう大尉ですけどね、26歳で部隊長ですよ。その人なんか、イワサキ隊に来てね。ちょっとなんか隊長と話しをしていて、ちょっと護衛で行けって言われてね、車にね重機関銃なんか乗せてね。その将校さんと一緒に、どこに行ったか分からないけど行かされるとかね。そんなことでね、実際には軍隊の中ではね、本来の仕事は何にも知らないんですよ(笑)。可笑しな話ですけど。ですから、これでも、客観的になっちゃうんでしょうね。自分が本当にそういうことで、自動車廠としても、仕事で何も苦労していませんから。

 ただ、一つ目的が、家のあれが、前歴が木工なもんだから、その放っぽりだしちゃったアメリカの重機関銃の弾帯、弾帯ってこう弾が帯になっているの。それが庭先に転がっているの、それでもって木箱を作りましてね。それを隊長に話しをして、木箱「○」、そんなことをやっていたんですよ。ですから、本当に何も知らないですよね。自動車のことも(笑)、おかしな兵隊ですよね。

 ですけど、なんとなくね、軍隊には自信があったんです。これがあるように(指さし)。戦争に行く前から、軍隊教育をうんと受けてましたからね。ですから絶対に自信があったんです。しかも歩兵じゃないもんですから。兵技兵でしょ、だから全然気楽だったんですよね。

 これは(昭和)16年の話なんですけど、当時、(昭和)18年に、神宮の外苑で、学徒動員・・学徒出陣の神宮外苑でもって、毎年時期になると、報道されますよね。あれの(昭和)16年の10月、2年前に我々、青年学校というのに行ってましたからね。それが天皇陛下の親閲を皇居前で受けているんですよ。その時は、もう当然天皇陛下が白馬に乗ってきてますから、新聞に出てますけど。それからは、学徒出陣のあれ(報道)がでてからは、これ(私達の親閲)は全然出ませんからね。知らない方が多いと思うんですけど。で、さっき言いましたように、(昭和)16年、徴兵検査を受けてますから、翌年これの、7人のうち5人は、中支でもって戦死してますけどね。まぁ、そんな状態でしたよね。そんなことも、まぁたまたま私が近衛兵だっていうことで(笑)助かっているわけですけどもね。ですから本当に紙一重の生活でしたね。まぁ、駆け足で思い出しながら喋ったんですけども。他に(質問)何かありましたら。

戦死したS中尉

聞き手:台湾・髙雄に居たときの、S中尉について

 S中尉、この方気の毒でしてね。えぇ東京で相当な方でしたけど。ですけど、我々から言わせると、ちょっと笑い者だったんですよ。あのぉ、船の…ばいかる丸っていう船の、あの..テル部隊っていうんですけどね、テル一○六二八(イチマルロクニハチ)テル部隊っていうんです(注:所属した野戦自動車廠の通称号は威10681で言い間違いをしているのであろう)。ばいかる丸に乗ってたんですけど。この方はね、下関でる(出航する)ところからね、もぅ軍刀を背中に背負って鉄兜被ってね、グレー(?)の帆桁あるでしょ?そこに立ってこうやって(腕組して)んですよ。だからね、笑うわけにはいかないけどもね(滑稽な感じがした)。僕らその時は、船底でゴロゴロしてましたけどね。まぁ、まだ(居る場所が)内地でしたから。まぁ、そういう人です。

 これにも(資料)書いてありますが。フィリピンのマンカヤンっていうところに、三井鉱山があるんですよ。三井鉱山で、当時、第一線で働いてた虎部隊(注:第19師団のことか)っていうのがありましてね。そこで弾薬かなんかを調達するんです。そこが大爆発した。その時、数百名兵隊が死んでるわけです、爆発によって。その時に、S中尉って人も、そこに居てあおりくって、それで瀕死の重傷を受けて。そのマンカヤンってところから、さっきいった90キロのところまで10キロくらいあるのかな。そこをね、これも人の話ですから、僕は見てませんけども、這いずりながら、その90キロを、這いずりながらあがってきたっていう訳ですよ。とうとう亡くなられましたけどね。こちらの内地の(S中尉の)奥さんが、京都の出身の方ですけど。奥さんが2人の子供さんと旦那のことで、資産があったらしいんですよ。まぁ、心無い悪い奴に騙されて、大変な目にあったんですけどね。ですからそのサギモリさんっていう人は、私もちょっと恩を感じてたんですけどね。で、そういうすごく繊細な感じの人物でした。

聞き手:ここ(資料)によると一緒に映画館にも行った?」

 そう。ハラダ准尉っていうのがね、病気になっちゃったの。そこでその中で、もう一人、今生きてるイノウエソウサクっていう戦友なんですけども。あのぉ、伝染病に罹っちゃったの。ですから私の中隊は、あの十中隊っていうんですけども。あのぉ、隔離されちゃったわけですよ。髙雄の廠舎で。ですからその間、何もしないでゴロゴロゴロゴロしていて助かったんですけどね。

 その時に、そのS中尉が私を呼んで。そのハラダ准尉のお見舞いに、私が同行したんです。同行した時に終わってから(映画館に連れて行ってくれた)。で、片方、イノウエってのは、伝染病ですから、見舞いに行かれない。その帰りに映画に連れてってくれて、で、眼鏡屋さんに入って、Sさんって眼鏡をかけていましたからね、そこで眼鏡を買って、その間ずっと付いていたわけ。そんなことでね。すごく自分で言っちゃおかしいけど、案外そういう(上官に可愛がられていた)ことには恵まれていたの。(「そういう映画に観に行くことは普段あったのですか?」)いやいや(笑)、あり得ません、あり得ません。ハハハあり得ません。まぁ、(台湾)髙雄の話でしたから。えぇえぇ。フィリピンではそういうこと(映画や買い物同行)もちろん出来ません。まぁ、なんとかかんとか大事にしてくれましたね。

フィリピン人の殺害

聞き手:フィリピンでのM大尉について

 M大尉というのは、さっき言いました。士官学校での錚々たるメンバー。26歳で大尉、すごいですよね。えぇ、考えられない。その人に付いて一緒に行って、その時にたまたま運転していた、ササキという上等兵がいた。飛行機が飛んできたから、脇へ避けてちょっと休んでいた。その時に、ササキ上等兵っていうのが、フィリピンの民家へ入っちゃったんですよ。そこでもって、叩きのめされた。それで、短剣持っているんですよね。そしたら、もう青ざめて帰ってきたわけですよ。「どうしたんだ?」って聞いたら、「やられちゃった」と。バカが行かなきゃいいのに。そんなところ(フィリピン人の民家)へ行ったわけですよ。そしたらね、あのその先をね、端をずっと歩いている、「あそこに(ササキを叩きのめしたフィリピン人が)いる」って。それから僕ら、重機関銃を、さっき言った重機関銃整備したヤツ(車に)を乗せてましたからね。バンバンと撃って、(フィリピン人が歩いているのを)止めて戻して、首ひっぱったら?「コイツ(ササキを叩きのめしたフィリピン人)だ」って。そしたらM大尉が怒っちゃって、かあっと(軍刀を)抜いてね、(取り出して)上げたヤツ(刀)おさめて、「鈴木!剣よこせ」って、私の剣を取ったんです。それで、たまたまそこに大きな穴が開いてた。そこに(フィリピン人を)座らせてそこでエイって(刺した)。それがあるから、僕は戦犯に引っかかる可能性あるなぁと思ったんです。直接くだしてないけど、嫌な思いしてる訳です。そのM大尉ってそういう人だったの。

聞き手:M大尉が怒った理由はなぜですか?

 結局、ほら、ササキ上等兵がね、叩きのめされちゃったからね。当時といえば、軍隊の威権があるじゃないですか。ね、プライドがあるじゃないですか。この野郎って、それで持って、サァと(刀を)抜いたんだけど、納めちゃって。「鈴木(の刀を貸せ)」って。(「それは何故?自分の軍刀では斬りたくない?」)(自身の刀で)斬るほどのことではない、鈴木の(刀)でやれと、(声に出して)言わないけども。だからこれは、後で僕は絶対に(言わざるの仕草)。これ(資料)には書いてるけども。戦犯になることはないと思いますけどもね。

即日帰郷 その2

聞き手:初年兵教育はどうだったんですか?
 初年兵教育なんかじゃないですよ。とにかく、もう班長っていうのは、兵長でオッサンでしょ。そうすると皆ね、第三乙の兵隊ばっかりなんですよ。背が足らないとかね、ヒョウエ?だとかね。僕も第三乙なんだけど、ただこれ(眼)だけのことなんです。だからいつも、命令して体操させられたり、やられたりとかね。そんなことばっかりやってた。ハハハ。

聞き手:眼が悪いとご真影が?正視できない?

 ええ、ご真影の為に(眼鏡)。僕は大丈夫なんですけど、いわゆる中隊長以下、あそこの二連隊のなかでの、宮中隊(宮城の守備隊)って入っていたんですよ。宮中隊の第二班で、班長が伍長。それで私の戦友として兵長をつけてくれた。第三、最右翼ですよね、兵長のね。そして、准尉がいて、中隊長がいて。ところがご真影があるから、不敬しちゃいけないと、間違いがあっちゃいかんと、という思惑で(よける仕草)。「そんなの絶対に○○」、こうやって鉄砲だって撃てない。どうしても言ったんですが、ダメでしたね。で、鈴木、何も軍隊だけがお国のためだけじゃないから。まぁ、今日は帰れと。で、その兵長、東京駅までつけてくれた(送ってくれた)んですよ。これには、また別の訳があるんですけど、近衛兵に入ったのにはね。あの幸いにしてそこ(近衛兵)に入ったんですけど。東京駅まで申し訳ないから帰ってもらった。兵長は後でもって大変だったらしいです。これのあれを帰しやがって。こっちは全然平気な訳ですよ。

 ところが頭ボーっとしてますでしょ?で、まだ(昼)2時頃でしょ。家へ帰れないですよ。行ってまいりますって(敬礼して家を出てきた)。帰れないですよ。それからもう夕方になって、(列車)乗ったら、横浜駅へ行かないで、(間違えて)上野に行っちゃたの。やっぱりボーっとしていたから。反対に乗っちゃったわけですよ。それから急いで乗り換えて、家へ。(家の場所は)すぐそこなんですよ、浅間(センゲン)町。そこまで帰って、オジの家へ行って、一週間ほど。もうそこで隠れてた。恥ずかしくってね。

聞き手:終戦になったのに、松根油が残ってたから、まだ続けていたとは、どういう意味ですか?

 結局、油をね。軍通信というのは、大本営との通信だけは色々と連絡してる訳ですよ。松根油というのは、各隊皆、松根油(を採取する仕事)なんですよ、自動車廠関係は。その中でイワサキ隊だけは、最後までやらされていた。で、他は皆、武装解除して、全部清掃して、90キロまで帰れというなかで、イワサキ隊だけは、軍通信といってまだまだ通信に支障があるから(残った)。

聞き手:松根油とどういう関係があるのですか?

 通信機の、あの油のなか。それで側に、キアンガンというところに、山下大将がいたわけ。山下大将はすぐ側にいたわけ。我々の部隊と尚武集団というのが、山下大将が、北部ルソン島を、12万5千かな?ぐらいの兵隊だけでね、戦闘部隊だけでそれだけ。それから真ん中が、クラークというところ、大飛行場があるところ。そこに建武(ケンブ)集団、マニラが振武(シンブ)集団という、こういう風に、山下さんは3つに分けたんですよ。山下さんは北部のルソンに行ったんだけど。マニラは、山下さんの腹は、非武装都市ということにしてたんだけど、海軍だとか他の陸軍の将校が反対しちゃって、それであそこが、大変な戦場になっちゃったわけですよね。山下さん自体は、あそこは非武装都市だという風にしたかったわけ。それにもかかわらず、戦犯になっちゃったんだけども。

 そういうことで松根油というのは、そのための、イワサキ隊だけが、残ってさせられた。そういうことだった(笑)。でもね、その時(終戦後)はもう全然怖くないですから、安心しながらね。ただ内心思ったのは、これから(終戦後)どうするのかな、どこかへ連れて行かれるのかな、殺されるのかな。新しいね、命助かったんだけど、今度は新しい心配がそこでよぎりましたけど。

聞き手:終戦を知った時には皆で喜びあった?

 ええ、本当に3日くらい、皆泣きましたよ。で、喰うものも無いわけでしょ。だから我々、健兵って丈夫なヤツは、自分の足でもって歩ける範囲まで、芋の葉っぱ(採りに行った)。それがせいぜい主食ですよね。それ以外はネズミを喰ったりとかね、ドジョウを喰ったりだとかね。ドジョウってのは、最高に良かったですよね。田んぼの中にドジョウがいたの。そういうことしてたんだけどね。もう兵隊になると、ううん、病気なっちゃうと野戦病院と言ったって、名前だけが病院で、野っ原ですよね。野戦病院に行ったって、自分は自分の食事、食糧を取りに行かなくてはならない。我々が例えば、これだけの範囲で歩ける、これ以上先に行かないと食糧がない。ところが病気になっちゃってるから、動けない。皆のたれ死に。だからフィリピン70万のうち50万亡くなったというのは、その大半は餓死でしょうね。第一線部隊は(戦死が)あったとしても、大半は餓死、栄養失調、それが結果です。

敗戦の安堵と不安

聞き手:フィリピンのゲリラについて

 “ゲリラ”はすごい、すごかったです。ですからマニラなんかは1人では歩けない。すぐボーン(撃たれる仕草)。それで最後のバタンガスという捕虜収容所で、そこで十数日いましたけど。そこはまた凄いところでね、もう、フジシゲ部隊というのがいて(注:第8師団歩兵第17連隊、連隊長:藤重正従大佐)、これも相手の欺瞞作戦だと思うけど、一兵隊も全部、将校のね(洋服)つけたりなんかしたりして、それでもう相当、バターンガスの茂みを傷みつけていくわけですよ。その反動が我々にあってね。捕虜のときに、たまたま一人でね、あのフィリピンの憲兵隊に使役がありましてね。さあ、エンピツを(指の間に)挟まれてグルグルやられてね。「お前何人殺した?」と、「フィリピン(人を)何人殺した?」と、まぁエライ目(尋問)にあいましたよ。ハハハ(苦笑い)。バタンガスでフジシゲ部隊というのはね、もう最悪の有名部隊でした。えぇ。

聞き手:(フジシゲ部隊が最悪なのは)それは戦時中からですか

 そうそう、戦争途中からね。それは部隊を大きく見せる欺瞞作戦でもあったんでしょう。だから兵隊が将校の(章)つけたりとかね。そこも逆上陸しちゃったし、レイテが攻撃されているから、そこにあがってきた。マニラも参謀がこうやって(集まってきた)。我々はサンフェルナンドから逆流してきた。で、もう最後、チノックというところで終戦を迎えましたけども、もう完全にもう降参した。ですから、もう1ヶ月いたら、こういう(今日)チャンスはなかった(生きてなかった)。本当に嬉しかったですよね、ハハハ(笑)。ですからドンパチの直接あれは、私としては体験していない。けどもまぁ、そういって客観的に見るかもしれませんが、死の恐怖はもう痛いほどやった。ただ私ね、神がついていたか知らないけれど、本当に(生死は)紙一重ね。いろんなところでそういうのは見てきたんです。ハハハ(笑)

聞き手:戦争が終わったと聞いた時と、その時の気持ちというのはどんなものでしたか

 はぁぁ良かったと同時に、また新たな不安です。というのは、武装解除が当然ある。その後どうなるのかな。ですから私の戦友で、今でも会います、今度また紹介しますけどね。多少大着なヤツなんですけどね、ルートが違うところから、やっぱり同じ部隊ですから。そこで「○」散々手こずって。帰ってきたときに、40キロくらい「○」したのかな。一番先に(日本へ)帰されたの。そいつが言うには、マニラから船に乗せられて、どっか、海の中に捨てられに行くんじゃないかって、というわけでね。いやぁ、そういう心配があった。だから我々もここでとにかく、空からの攻撃、地上からの攻撃、それはなくなったけれど、これから(終戦後)どうなるのか、この不安というのは大変でしたね。

 山を下りるとね、ここら走ってる大きなトラックがありますでしょ、トレーラーが、初めて見えた。そのトラックが山から下りてきて、マニラの収容所に行くまで、乗せられるわけ。これ(トレーラー)が、(トラックの)後ろに席にグゥと(近づいて)きて、後ろに移れって、なんだろうと思ったら、これよりもっと長いでしょう、ヘェと思って、第一、物量にはかないませんよね。これじゃあ(アメリカに)負けるわ(と思った)。

特攻

 とにかく飛行機が無かったし。特攻機がね、たまに飛び立つわけですよ、1機で行くわけですよ。さっきの話、前後しますけど、バギオっていう町から下にサンフェルナンドが見えるわけですよ。と、そこへ特攻機が皆やってる(激突してる)んですよ。バギオから見えるんですよ。あぁ可哀相だったね。特攻機がね。まぁ、部隊が違うからしょうがないんだけどね。そんなこんながありました。

聞き手:特攻をつくった大西瀧治郎について

 大西中将は、台湾でね、台湾沖航空戦っていう大きい戦闘があったんだけど。その時にいたのかどうか分からんけれど。とにかくあの頃は、大西中将は逃げたということで、大変な評判でしたね。

聞き手:(噂は)広まっていたんですか?

 これはご存じの方、多いと思いますよ。関心持ってたら。その後、どうなりましたかね。まぁ、ひどいですよね。我々部隊、部隊というか、イワサキ隊というのは120名ですよね。中隊がちょっと。もう総合部隊はできませんから、中隊が一つの個ですからね。それがトラック50台くらい。まだマニラ出るときはそれくらいあったわけです。それに我々も荷物の上に乗って、それで逃げたわけですよ。それにさっき言った、大西中将も、「○」航空隊の人も50台に分散して乗ってるわけですよ。だけど、僕がさっき言ったように、バンバンというところまでしか行きませんもんですから、それから先まだ100キロ以上歩くんでしょう。大変ですよね。全く軍隊ってのはひでぇやつ(笑)。一将校のためにね。そういうことでね。

聞き手:オオニシ中将って、大西瀧治郎という方ですか

よくご存じですね。

聞き手:大西瀧治郎が特攻を作ったと?絞首刑になったのを見たと?

絞首刑は見ませんけど。

聞き手:さっき言われましたよね?違うんですか?

マニラではどうだったでしょうかね。

聞き手:絞首刑と言われたのは?さっきオオニシと言われましたよね?(戦犯で)真っ青になったというのは?

 山下大将、本間さんもそうでしたね。あ、そのオオニシさんというのは(別のオオニシ)、海軍の兵曹長。そこの病院付としていたわけですよ。その人が戦犯にひっかかっちゃった。それで引っ張り出された。

聞き手:もし大西瀧治郎だったら自殺したと思うんです

自殺?自決?いやぁ、してもいいでしょうね。ああいうことしたんだからね。

聞き手:やっぱり特攻隊のことを?気に病んで

責任取ってね(自決すべきだろう)。

聞き手:自殺したって聞いてます

 あぁ、そう。ですから現地で、そういう話(大西瀧治郎は逃げたこと)は聞きましたけど、その後の結末については知らないです。

聞き手:現地で評判になっていた?

えぇ、知る人ぞ知るでね。

現地の人との関係

 けれども。街中は単独の歩行は許さなかったですね。大東亜戦争勃発時は、こうやって(肩で風きって偉そうに)歩いていたでしょうけどね。(昭和)19年になったら、ほとんどゲリラの巣ですから、独りじゃとても歩けません。複数でもやられるでしょう。ですからほとんど兵隊の、もちろん我々は兵隊ですから、そんなことはあってはいけませんでしたけどもね。将校でも歩けなかったもんね。もう殆どがゲリラですもんね。皆、内通していましたからね。

 でもこうやって工場で働いてもらっているとね、やっぱり今度はそれに部隊で逃げるっていう時に、できるだけ分からないように準備してね。そんで1月7日にコッソリ朝5時に出たんですけどね。そこで一番の印象がね、(朝)5時にね、もう明け方近いんですよ。南十字星が、こう(手で差して)南の方に、こう遙かこのくらいの角度でね、(目線から上15度くらいを差して)、燦然と見えるんですよ。地上のね、殺戮なんか、ね、(南十字星は)知らないわけですよ。すごく印象に残りましたね。あぁ、これでもう、さよならだ、さらばだと思ってね。

 それでね、ひとつ、笑い話になりますけど、一人で将校をマニラまで護衛したときに、途中にクラークというところがあるんですよ。そこが東洋一と言われる航空基地があるわけ。そこはね、僕はそのサンフェルナンドから上陸して、将校のお供で通った時はね、汽車の窓からね、米軍の飛行機がね、山になってるわけですよ。壊れたやつが、それが敗戦になって、山を下りて、今度は無蓋車に乗せられて、また同じところをマニラを通って、そしたらね、今度は日本の飛行機が山になっているわけ、そこに。

 無蓋車ですから、もうボカスカ殴られてね、殴られてね。パタイパタイ(死ね、死ね、タガログ語)ってね(首を切る仕草)。兵隊が、アメリカ兵隊が乗っているわけですけど、アメリカの兵隊まで尻尾?つかまれたりね、あとバンバンバンバンって撃ってね。負けちゃだめです(戦争には)。負けたらおしまいです。まぁ、でもね、悪いこと(日本は戦争で)したからね。

 ですから私、正直言いまして、(昭和)19年の10月からですよね、だから1年足らずですよ(軍隊生活)。だからフィリピンまで逃げて歩いて行ったわけですよ、それで行ったわけですね。こんな(私みたいな)兵隊もいたんですよね。でもね、今、戦友とも言ってたけど、皆絶えましてね。

 部隊の戦友会もあったけど、山梨県に慰霊碑を建てたんですけど、これも山梨県の市街に、甲府市街になんですよね。なんでこんな所に建てるのかなと、慰霊碑をと内心思ったんですよ。で、慰霊碑の供養があるんで行ったわけですよ。そしたら納得できたんです。あるテル部隊の(音声途切れている)、他の中隊の隊長が、そこの住職だったんですよ。息子さんも後を継ぐべく住職になったんです。だからそこへ慰霊碑を造ったもんですから、慰霊碑があるところには、住職が必ず居るわけですよね。それで納得できたんですけどね。まぁ、今、全国で慰霊碑も大変でしょ?面倒を見る方が居なくなってきたからね。現地(フィリピン)でもそうですよね。新聞紙上を賑わしている。何百という旧戦場にあるんだけど、それを皆、あとを見る人がいないんですよ。遺族ももうお年寄りだしね、なかなかやっぱあっちゃいかんことですよね。戦争はやっちゃいかんですよね。そんなとこですかね。

邦人の姿

聞き手:邦人の話、通り過ぎた様子をお話ください

 これが、ちょっと概略話した(ペンを取り出しながら資料を見て)これがさっき話しした、バレテ峠というところ。ここがサンホセというのがあって、こっちがマニラなんですけど、これを、ずっと部隊がこういう風にあがってきた。で、ここにバンバンというところがありまして、ここまで我々は、行くことになったわけ。

 本当は、こっちを行く予定だったんだけど、ここゲリラが凄くて、行かれないんで、このバギオですね、行かれないんで、とりあえず、こっち来たわけですけど。で、さっき言った、邦人はこの山こういって、これがマニラまで何百キロあるわけですから。どこをどういうふうに来たか知りませんけど。我々は、ここで、私が見たのは、このバレテ峠の最中だった。で、これをして、これから、これが「○」島、これがアパリっていう海岸、まだ何百キロあるんでしょうね。で、そこに、あのイブラオってとこがあるんですけど。ここにたまたま、米軍の、これがバレテ峠が米軍の攻撃で落ちちゃって、ここもずーっと米軍が着きまして、このイブラオってところが大雨で通れない時に、米軍の戦車でもって、この邦人もここで、銃撃されたと。そういう話は聞いているんですね。ですから、勝てば官軍でそういうことは知らされていないですけども、米軍の戦車で邦人の人も、女子を抱えて、皆、ここでひき殺されたと、そういう悲惨なところが、このイブラオなんですよ。

 今さっき言った一人の戦友、私は、このバギオからこれ通って(地図を見ながら)、一応ここまできて、ここの帰りに21機にあって、(音声途切れる)、ここで終戦なんですよ。ね?こういう状態です。ここがキアンガンで。ここが山下大将が、降伏文書を協議したところなんですよ。こういうところなんです。これが北部ルソンの一部です。これすごい難険でしてね、ここは満州から来た戦車部隊が、戦車を埋めてね、頭だけ出して、ここだけでもって、1ヶ月以上激戦になった。で、ここで邦人が、もう、お母さんが子どもの手を引いて、必死に歩いているわけですよ。どういうふうに行くか知らないけれどね。あれを思い出して、あれを見た時は本当にもう参りましたね。こういう人まで巻き添えをくっているということがね。兵隊同士の喧嘩はしょうがないとしてもね。一般人が皆そうやって。我々は、まだこのときは車があるから乗ってきてるわけだよね。この人達は乗せられるわけにはいかないから、歩いてるわけですよ。途中で子供なんか倒れちゃいますよね。私はこれが一番つらかった。

聞き手:そういう方はいっぱいいるんですか?たまたま見たんですか?

 右も左も(いる)皆もう子どもらに声を掛け合って歩いているわけですよ。どうにもしようがないもんね。我々としては別の任務があるからね。

聞き手:助けると命令違反になったんですか?

 (音声途切れる)だからさっき(音声途切れる)だから、航空部隊は、ここでバンバン、ここで降りてもらって、これをずっとまたアパリというところまで、これ(地図)でいきますと、ここにアパリというのがあるでしょ。ここまで歩かなきゃいけない。あと潜水艦で台湾まで行かなければいけない(笑)。だから航空部隊の人も大変な苦労をしているでしょうね。その間しょうがないから自動車廠、隊付きに(航空部隊の人も)してね、岩崎隊付きにして進んだわけ、そうしないと・・・。

聞き手:またそれも任務外になるんですか

そう、ここバンバンで降ろして、ご苦労様、気をつけてとなった(航空部隊と別れた)んです。

聞き手:一応、潜水艦は出ていたんですか?

 それはその話だからね。その時の話というのは、潜水艦と連絡をどういうふうにどうとっていたのか知らないけれども、日本の潜水艦がそこで待って、それに乗って台湾に乗って行くんだということを、彼ら(航空部隊)は信じて、私にそういう話をしていた。私は、ああそう、ということしか返事できない笑。これまた大変ですよ。道なき道を歩いているんですから。まぁ、断片的な話し方になりましたけども。

船団のボカチン

聞き手:あれですよね?ハルマヘラへはとてもじゃないけど、行けない?どこですか?

 ハルマヘラは、どうなったか分かりません。あのこれ地図で行くと・・・。(「ハルマヘラというのは、西ニューギニアでしょ?(注:当時は同じオランダ領だが、ニューギニアではなく現在のインドネシア)だから、西ニューギニアに行ってたら生きてるかどうかわからない」)これまた分からない。どっちみち、どっちみちいいことはない。あの地図あるでしょう。(音声かぶる)(「ずっ~と西ニューギニアだから、ほとんど、パプアニューギニアでも死んでいるから」)

 ここで僕は、ここからこう陸路に行ったんだけれども。ここからまた船でこう行った。ここからまた船でこう行った。ここから船がもう無くなったわけですよ。船があってもボカチン(攻撃)くうのが関の山ですよ。すごいんですよ。1万トンくらいあるやつがね、バーンとね、2つに割れてスーッと(沈んだ)。ものの1分も経たないうちに(沈んだ)。だからさっきもちょっと話したけれども、このパシー海峡でね。僕らの隊が乗ってたのは、照國丸って言うやつは、戦闘がないんですよ。ですから僕達の隊だけしか乗ってない。それで、船が穴だらけなんですよ、古くて。ポンスカポンスカやって、7ノットが精一杯なんですよ。そうすると、真ん中あたりに1万トンくらいの新鋭の輸送、貨物船が真ん中を行く。そして僕らの船が狙われていたとかで、船がいい塩梅に舵を変えたわけですよ。そしたらスーッと行って真ん中からバーン(割れて)バーン(沈んだ)バーン。すごいですね。真っ二つに割れて。

聞き手:巻き込まれたりはしなかったんですか?

 僕らは、ほらまぁ海没しないから。船はエンジンがストップしてしまってウロウロしてたから。そういう意味では本当に、真っ二つですね。バーンと、ものの1分も経たないじゃないですか?轟沈ってやつは。だからここのパシー海峡というのは、どれくらい物資が兵隊が船が沈んでやられているかわからないですよ。こういう経路でもってずっと行ったわけですよ。

聞き手:これ(資料)すごく分かりやすいですね

はははは。

戦争体験を伝える

聞き手:こういうものを書き残そうと思ったのはいつ頃からですか?

 あのね、最初はね、私もね、全く思い出さなかったんですよ。それで平成4年にね、たまたまワープロっていうのを手に入れて、それで覚えましてね。家内なんかにも(戦場体験を)言うとね、ああそうっで終わっちゃうわけですよ、その断片的に(戦場体験を)話をしても。これはまずいな、と。それで思い出しながら、平成4年に、ちょうど 8月にあの広島のね、あれの前に書かんといかんと思ったんですけど。作ったのが初めて。ええ、平成4年です。やっぱり、ある程度の年を取ってから15年ぐらい前ですからね。思い出そうと思うんだけどね(戦場体験は)黙っていようと思ってたんだけども、やっぱりこういうもの(記録として残しておくこと)がないと。ですからね、これで、まあ、ちゃんと製本すれば良かったんですけども。これで約80部くらい作りました。親戚から、友達から皆にこう、送ってました。 今また、ぐるぐる回ってる(回覧している)やつがあります。で、街医者に行って、月に2回は血圧を測って(もらって)いる(かかりつけ)医者がいるわけですよ。そこにも戦争の話があって聞かされたから、私こういうもの(戦場体験記)作ってます。ドクターに、先生ありますからと言ったら、見たいと言って。そしたら、それから、診察室に(戦場体験記を)置いてあるわけですよ。そうするとね、ご年配の患者さんが来るとね、見るとね、それを皆、周り持って、貸してるというわけですよ。だから、やっぱりこういうもの(記録)にしておくと、やっぱり見る方がおられるということですね。言葉だけじゃ、その場だけのことになってしまうですから。ですから80(部)作りました。その都度コピーしてね、ははは。まあよかったか悪かったか分かりませんけれども。ですから総務省の方にも(戦場体験記は)いってます。

聞き手:あぁ、そうなんですか。結構な量ですよね?

 (紙を手に取りながら)これが、あの、仙台のね、あの召集受けたところへ、今年行って、話をして、で、この中の第二方面。これか、これだ。ここの部分だけ送ったんですよ。あの、仙台の資料館に。そしたら貴重な資料ですから、これ当館でも保存させていただきますと、返事もらいましたけどね。ね、これを見れば、移送の部隊が分かるわけですから。あちこち振り回されましたからね。仙台から栃木に行って、また栃木から仙台に行って、仙台から今度は軍産出てね。ちょっと普通の軍隊じゃ考えられない期間でしたね。ですから、一説には、解散するんじゃないかっていうぐらい言われましたよ。普通考えられませんもの。7ヶ月もゴロゴロしているってね。その間(仙台にいる期間)、夏服でしょ。寒くてね、ははは。仙台でね、お風呂に1週間に1回くらい風呂入りますでしょ。手の平ピーンと(ペンを垂直に立てる仕草)凍ってて、仙台の1月15日というのは、もう凄く寒いですよね。軍隊の入浴場から自分の中隊に帰るまでに、手の平凍って棒になっちゃった、凍って。それ夏服で(仙台の冬を過ごした)。

聞き手:それはすごいですね

 ま、貴重な体験させていただきましたよ。先般のあのお話。23日の日比谷(注:日比谷公会堂で開催した戦場体験を語り継ぐ集い)のお話伺っていればね、もっと切々たるお話が多かったんでしょうけど。私はそういうね、直接間接問わず、そういうあれ(戦闘体験)がないもんですからね。だから客観的かなっていうに感じしてるんです。これも事実の行動ですからね。それだけはご理解いただけたらと。

聞き手:なんか。。すごくなんと言うのかユニークな体験もされていらっしゃると思いますよ。なんか独特な体験をされていらっしゃいますよね

これ随筆だからよく分かります。あぁこういうとこ、ああいうとこってね。

水牛での米の運搬

聞き手:水牛の話とかも。戦場体験というのは忙しい話だけではないので、全部が(そうではない)

 そうなんです。ただこの中で、これ(戦場体験の具体的な日付)が何月何日っていうのが、全然ない(分からない)。笑本当に壕堀りとかね、油だらけになったとか、全然無いんですよ。それだけ幸か不幸ね、他の兵隊さんと違ってましたね。このバギオなんていうのは、素晴らしい街でしてね。高台のね。その千数百メートルのところ、避暑地ですよ。日本の海遊山みたいなところです。

聞き手:大変だったんじゃないですか?

 (水牛の角を現す仕草)お米をね、(水牛の)背中にくくりつけて、夜歩くから、後ろ回って、牛の尻尾に捕まってね(牛の尻尾に捕まる仕草)。だって灯りも何もないですから。(牛のしっぽに)捕まって、そうしてこんなところ(手で山あり谷ありを現す仕草)歩いて行く。そうするとゲリラがパパンと来て、それでたまたま重機関銃持っていたもんだから、2、3発やったことありますけどもね。それで 2人ぐらい死にましたけどもね。僕は助かった。何もあれですけどね。

 でもう、谷が深いところを通っていくでしょ、で、水牛の持ち主が、仔牛まで連れてくるわけですよ。仔牛なんて(道が)分からないんですよ。で、一頭落っこっちゃってね、丸太外して落っこっちゃってね。あーもったいない。はははは(笑)。仔牛といえば相当な食料になるもんね。もったいないなぁと思ったけど、そんなこと言えませんけどね。

 そこを3日がかりくらいで歩いて、それ行ったらまた戻れって言うでしょ。戻って今度は洪中将(の護衛)。参謀あたりは始末悪いんですよね。「敬礼せんか!」とかね。洪中将っていう人はね、自ら戦犯容疑で、あの亡くなった人なんですけれども。すごい人。

聞き手:自ら?

韓国、韓国人だったんです。しょってね。戦犯の死刑を受けた人です。優しいおじいさんでした。

聞き手:おじいさん?あ、もう大分年配の?

中将ですから。

聞き手:あ、そうですよね

 それを僕がね、一緒に囲んで(護衛して)、またお米持った出発点まで行ったんです。それでまた戻ってまたバギオまで(行った)。兵隊としてね、こう言ったらあれですけど、兵隊として随分歩いたの、私ぐらいのもんじゃないかな。えぇ、結構歩いてるんですよ。上陸以来から、ほら将校の「○」ずっとでしょ。

聞き手:韓国系の人で、それぐらいまで、中将ぐらいにまでなった人はいたんですかね?一番上ぐらいですよね?

 えぇ、洪中将、中将ですからね。兵隊階級?最後ですからね。結局、戦犯容疑みたいなの、かけられたんです。で、やっぱり潔く刑に服したんです。

聞き手:ゲリラというのはフィリピン人ですか?

そうです。現地人、現地人です。

聞き手:やっぱりその対日的よりは、アメリカの方を支持、フィリピンは応援していたんですか?

 結局まぁ言うなれば、私の感覚ですが、それだけ日本の兵隊が、日本国が悪いことをしたっていうことですよ。これはもう一言もないですからね。そうでしょう?だって反感持たれてゲリラになるぐらいだから、決して好意的ではないわけでしょう。好意的であれば、ええ、そういうことないわけでしょ。全部内通してるから、すぐ全部わかっちゃってるわけですよ。

聞き手:元々アメリカの植民地ですからね

 えぇ。そうなんです。で、あの当時は、日本びいき結構いたんですけど、さっきも言ったみたいに、バタンガスのあの藤重部隊(注:前述)みたいにね。あの街全体がね、もうそういうことでもって、痛めつけて、誰が見たって腹立ちますよね。反日になりますよ。ならない方がおかしいと思いますよね。まあ、そういう仲間で入っていなかったけれども、やっぱり 同じ日本兵で戦犯にかかるわけですけどもね。すごいですね、鈴木(姓)3000人ぐらいでしたからね。 鈴木(姓)多いからね。もう全くびっくりした。えー??って(笑)ははは。フィリピンの人が、あれ(あの日本兵が)が(フィリピン人を)やった(殺した)と言えば、それでおしまいです(首を切られる)。

聞き手:他にもそういう、そのひどいことをやったっていう例を見かけられたことってありますか。あるいはその後とか

 だからさっき言ったでしょ。あれ(大尉によるフィリピン人の殺害)がね。その後はないですね。あれは自分にかかってきたら問題あるからね。

弾の一つも食糧もなく

聞き手:50万人くらいが、フィリピンの場合、飢餓で。その様子というのは随分見られたと思うんですけど

 あの部隊があれですからね。私らね、あれ、「○」ね、何も(音声途切れる)持ってないんですよ。というのは第一線部隊じゃないでしょ?(音声途切れる)戦闘部隊といえば(音声途切れる)1,000人以上ですから。それがどこどこ行くわけでしょ。やられ、やられたり。で、私どもはそれがないわけですよ。だって、仙台で入隊したとき、十個中隊ですよ、一応形は1,200人ですけども、中隊で三八式の騎兵銃が1つの班で2丁ですよ。それを責任もたせられて、預かって、ずっと行ったわけですけどもね。ないわけですよ。正直言って、僕、終戦まで、この小銃持って、前は重機関銃あったけど、それは別として、もうなくなっちゃったけど。車がないから放かしたけど。あと自分の小銃でしょ、そしてさっき言った、洪中将の護衛でしょ。これは、初めて話しますけども、僕の中(銃)には鉄砲玉 1つも入ってなかった。何もないです。それで、他の奴はね、自決用に手榴弾をもらったとか皆あるんですよ。私は鉄砲の玉も1つもないんですよ。銃は持ってるけれども。(音声途切れる)終戦まで一つもない。

聞き手:銃にも(弾は)入ってない?

 銃には弾をこめるわけ、5発。それを(弾)薬盒、革で作ったのがあるわけですよ。それを120発もらうんですよ、普通はもらえるんですよ。ほんで後ろにも、もう一つあるから、(合計)240発もらえるわけですよ。一発も持っていない。

聞き手:中将の護衛が全然丸腰なんですね?

 だから今、初めて話したんですよ。全く嘘みたいな話でしょ。ですから、さっき言ったように自動車廠っていうのは、後方部隊ですから、それでもう第一線に、全部(武器は)持って行かれてるんですよ。第一線に持って行かれて、鉄砲も何もない(持ってない)んですよ。皆第一線にいってる。で、パパーン打たれて死んでるわけですよ皆。そんな状態だったんですよ。

聞き手:その弾を持っていないというのは、あの部隊っていうか

 皆中隊、120ぐらいの編制でね。120ぐらいの編制が、だんだん減っていくわけですよ。餓死したり、栄養失調なったりね。 バーンと当たって死ぬような者は、まずいないわけですよ。半分以上はそれですよ。でも隊として、岩崎隊という隊として最後まで残ったっていうのは少ないですよ。だからもう最後まで運が良かったですけどもね。そら苦労はあったですけどね。苦労の話はしませんけどもね。今の話以外はね。

 だって飯だって、隊長当番というのは隊長の(音声途切れる)飯を作らなければいけない。けども米がないでしょ。芋、芋だけですよ。芋だけでも(用意は)大変ですよね。まして岩塩盗られちゃってね。その出汁がない。だから靴の革なんか剥いでそれ食べてました。ひっぱたいてこう小さくして短冊みたいにして、バケツで煮てね、それを煮たりして。

聞き手:ネズミが?

ネズミは美味しかったですよ。

聞き手:調理の仕方は?

 あのね、押収銃でね。散弾銃があるんですよ、でアメリカのやつ。それを持って行かなくちゃいけない。ネズミの巣があるんですよ。それの入り口をバンと打つとね、こんなのがね(肩幅より狭いくらいの大きさ) 7匹ぐらい出てくるわけですよ。最高の料理ですよ。。それでここ(体の正中面)で切って、頭だけ、皮がね尻尾の先まで全部剥けちゃうんですよね。もちろん腸は取っちゃうんですよ。岩塩で塩漬けにして。焼き鳥と全く同じですよ、最高の料理でしたよ(笑)。だから将校の食事がね、本当に大変でした。

聞き手:なんかこのワタナベ隊長さんていう方はこれ見た感じだと、とてもいい方

 あぁ、岩崎隊長ね。岩崎中将(注:中尉の間違いではないか)って言うんだけどもね。あの東京の深大寺蕎麦の、その側ね、生まれ、あの場所がね。良い人でしたよ、僕より(背が)小さいの。小柄でした。

 だけど最後まで一緒にね。あのさっき「○」したように、松根油をもう止めていいと。それでこっちの本隊に追いつけと言うわけで、それで急いで武装解除のところまで行ったんですけども。そこまで隊長一緒でしたからね。それで、たまたま将校が、将校っていうのは使役何も要らないんですよ。これジュネーブ条約で決まってますからね。だから将校幕舎というのが、将校がゴロゴロしていました。それでたまたま、あの網のこっち方に僕がいて、たまたま向こうに岩崎さんがいて、あぁっと手を挙げてそこで別れたのが最後ですね。それから戦後30年、40年経ってから会ってそんなもんですよ。奇跡でしたけどね。

さまざまな死

聞き手:マラリアにかかった時ずっと

 マラリアは1回ね。あのさっき言った3往復した最後に出たんですよね。でも(マラリアの症状は)軽かったですね。その時は岩崎さんが『鈴木、お前をどこまで連れていくぞ』と言われて嬉しかったですね。それで迎えの将校、いや廠長が一緒だったから、バギオから迎えの車が来て、それを待ってて、ガタガタ震えながら待ってて来てから、今言われたように乗せられて、バギオへ帰ったですよ。そしたらもう熱は出なかったですね。

 おかげさまでね、ずっと健兵でいましたからね。全然、まぁ栄養失調だったんでしょうけどね。 それだけが取り柄でしたね、幸いにしてね。途中で病気になったら私も(死んでいた)。バギオなんていうのは、(病人の)兵隊皆、青酸カリ注射されてた。でもう逃げられないでしょ。バギオから撤退して90キロ の所へ行くんだけども、もう病人は置き去りでしょ。青酸カリで皆注射したって、そんな話が耳に入るわけですよ。えーって(眉をひそめる)、悲惨、悲惨ですよ。戦争ダメですよ。

聞き手:その他のまぁ部隊で、でもっと前方の部隊なんかで、その餓死をしてらっしゃる方たちだというのは、そういう大きな通り沿いに一杯いるんですか

 あの90キロって再々話ししているでしょ。あの辺は地形的にね、ずっと部隊が、部隊っていうか、各(部隊)いたんですよ。それがやっぱり(アメリカ兵に)見つかるわけですよね。それで松根油っていうのは、谷川が流れてるようなところ、そういうところに皆作るわけですよ、竈をね。そうするとね、さっきも1人、兵長が「○」踵とられて死んだって時にね、もう一人横須賀の兵長は、あの火炎弾を落とされて谷底へ、丸焼きになった。川に火がバァーと流れてきて、(松根油を作っていて)逃げ損なって丸焼けになった。その人と二人、その僕ら逃げた、こっちの丘の上へ。埋葬してきましたけどね。まあ今から見れば遺髪とかあったんでしょうけど、当時は考えられなかった。

 まぁ、今どうなってますかね(戦場跡)。これのここもちょっとね(地図を見ながら)、サバンナとかなんとか、ありますでしょ。ないなあ(地図を見ながら)、ここんとこね、「○」。こっから入った道のとこでね 。つい最近テレビでやった、ミイラのミイラ。ミイラ。ここのこの道がこう行くでしょ。なんて言ったっけな?サバンナ?テレビでやってましたよ。サバンナというところがあるんですよ。そこでね、あのなんか昔からね、ミイラ、全部ミイラなの。フィリピンにそういうところがあるんですよ。テレビでやってましたよ。

聞き手:ミイラっていうのはどういう人がミイラに?

全部。こうちゃんと形整った、そういう風な、あの亡くなった人は皆そうするらしいです。

今でも爆音がダメ

 あとね、一番今でも頭に残すのはね。突如、プロペラ機がね、飛んでくるんですよ。まあ、私の金沢(注:横浜市金沢区)の方にね。バーンビューンとね。プロペラのエンジンね、あれでもって、うーって(身体を縮こめる動作)、今でもなるんですよね。驚くんですよ。ダメね、抜けないね(アメリカの航空機21機に襲われた時の恐怖心)。困っちゃいますね。あの爆音がね、8時前後にね、プロペラ機がね、金沢ですけどね。横須賀の海の方に向かってバーンと行くんですよ。その音がね、あまりも激しいんですけどもね。その時、そんで21機でやられた時の思い出してね。

 いやぁ、あと最後になるかもしれないけどもね、すいませんね。これもテレビで2年ほど前かな、ずっと見ましたね、やってましたけどね。アメリカの戦略ね、米国の戦略ってことでね。あのなんとね、僕は1921年生まれでしょ。1920年頃から、もうアメリカには、もうあの島伝いのこの辺のね、戦略ができてたんですってね。それはなぜかと言うと、こっちは全部もう島がうんとあるでしょ、島が。それで島があるから、こと戦争に関しては、この地域の戦争に関してはまず艦砲射撃だと。艦砲でもって、船から攻撃して叩いて、あと飛行機で叩く。そういう作戦が、僕の生まれた大正10年頃から、アメリカは練られてたんです。すごいですね。それ聞いて僕は唖然としましたね。なぜかって言うと結局、島だから。あの昔の戦闘といえば、第一戦の歩兵部隊が行ってこう、そんなことじゃなくて、先ず船から完膚無き叩いちゃう、で飛行機をやる。歩兵なんかもういらない、いらないとは言わないまでも、少なくとも。そういう戦略を、なぜかと言うと、島だからそういうことができるんですよ。中国大陸みたいなのだと、艦砲じゃ、こんな沿岸だけでしょ。そういうことがね、僕の生まれた頃にね、もうアメリカの戦略にあったというのは、すげえなぁと思ってね。これはもう肝に銘じた、驚いた。そんな辺が最後になりますかね。アメリカ相手に戦争しちゃいかん。

聞き手:鈴木さんが居られたへんでは、そんなに艦砲射撃ありましたか

日本だってあったんですよ。仙台もそうだし。艦砲あったんですよね?

聞き手:ありましたね。一番あったのは仙台ですね。仙台多かったですね。動けないんですよね。

 そういう戦略をね、持って「○」したってね。それを聞いて唖然としましたね。これは勝てるわけないと思って、これからも、僕ら後方部隊ということでね、命長らえてますけどもね。これからは後方部隊もへったくれもないわけですよ。今もいったように、今の、これからの戦争というのは、先ず前よりも後ろを叩いてやるでしょうね、それで息の根を(絶つ)。後ろを叩けば、食料も弾薬も来ないでしょう。そうすると、こっち(前)は孤立しちゃうでしょ。そういう戦略じゃないですかね。 これからはね、あるとすればね。とにかくアメリカ(戦略)は衝撃です。そいうことでございました、少しは役に立ったんでしょうか。ありがとうございました。

参考資料

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