伊是名 米さん

生年月日 | 1928(昭和3)年生 |
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本籍地(当時) | 沖縄県 |
所属 | 第28師団 |
所属部隊 | 第3野戦病院豊5681部隊 |
兵科 | |
最終階級 |
プロフィール
1928(昭和3)年石垣町字石垣生まれ。1944(昭和19)年10月、第二十八師団第三野戦病院(豊五六八一部隊)に採用、薬室勤務。石垣小学校(当時の石垣国民学校)にあった野戦病院は、1945(昭和20)年6月開南へ移動。終戦後、残務処理の後9月除隊。1949(昭和24)年に結成された第三野戦病院の戦友会である「石垣会」の八重山での中心的存在。
*この項参考資料:『月刊やいま』2009年12月号 特集「乙女たちの戦争体験2 野戦病院にて」
インタビュー記録
1944(昭和19)年10月、第28師団第3野戦病院(豊5681部隊)に採用
…ていませんでしたけれどもね。入ってから、もう何もかも注射であるとか、包帯の巻き方とか、三角巾の使い方とか、ああいうの。みんなね。
(ああ、じゃ学校で。)
[学校で]やってから、自分の職の方に就いたんですよ。で、私が一番小さいから、年も一番年下だったから、私は薬室の方に行ったんです。薬剤部。わかるでしょ、薬剤部。
(はいはい。じゃ学校で、看護学校とかで勉強した訳じゃなくて、いきなり現地へ行って。)
もう部隊に入ってから。
(いきなり。)
ええ。
(周りはそういう人ばっかりでしたか?看護学校へ行っている人多かったですか?)
看護[学校]の人も居りましたよ。年上の方は民間の看護婦やっていたとかね。
(じゃ16歳のときに野戦病院に入って、それは自ら行ったんですか?)
はい?
(自ら入ったんですか?)
えーっと。昭和19年のね、10月。10月に入りました。
(自分で入りたいって言って入ったんですか?)
いやいや、そうでないですよ。当時はね、今は職業安定所って言いますよね。あのときは、職業指導所って言ったの。で向こうから、向こうへ行きなさいと、野戦病院行きなさいということで。
(ああ、もう行きなさいってことでね。)
はい。
第28師団第3野戦病院跡地
いやぁ、滑るんだよね、やっぱり。(暁之塔と掘られた石碑の前に進み、手を合わせる)[軍の野戦病院跡に建立された慰霊碑「暁之塔」(石垣市平得)には女子学生や日本兵など11名の戦没者氏名が刻まれている] 草取っちゃおう。(石碑の周りの草を取った後)雨続きだからぬるぬるしてる、ねぇ。(「第二十八師団第三野戦病院跡」という石碑の文字が大写しになる)怖い。
(同行の女性:伊是名さん、病院があった所とか教えてあげたら。)
病院はね、あの森の中かな。
(病院は、あの森の中?)
ちょっとこっち。あの森にですね、木が生えてますでしょ。こっちからずーっと、裏側は道ですから、この森の中からずーっと。ずーっとこれ道があるんですよ、こっちに。だからあれからずーっと向こうから、このキビの生えてる所もずーっと、ずーっと。これだけですよ、野戦病院は。それで、所々にね、病棟があったの。こっちとかあっち、こっち。みんな病棟があって、あの森の下の方は炊事場があって、またあの後ろの方は外科室があって。
(そこ?)
そう、あのキビの生えてるでしょ、小さい道。あっちの所は炊事場。あの森は、もう少し木が生えとる所だね、あっち側は外科室。 外科室。またこっちのちょっと森があったんだけど、こっちはないか。
(結構離れてる、もうちょっと集まってるかと思った。)
で、病棟が1、2、3、4、5…こっちにね6つ。6つ病棟があった。こういう茅葺のね(両手で三角を作る)。そしてこっち(建物の中心を指す)から真ん中まっすぐ道が、患者の通る所が[ある]。そして[中央通路を挟み]こっちに10名、こっちに10名。一つの家で20人。これいっぱいだったんですよ(周りをぐるりと指差す)、マラリア患者。
(マラリア患者で?)
はい。みんなマラリア患者。それであの外科棟は…
(え、あの空襲…。)
(遮るように、やや大きな声で)外科棟は、一つしかなかった(指を1本立てる)。ということは、白保(しらほ)の飛行場とか、ああいう宮良の後ろの陣地とかは爆弾が落ちて、怪我した人、亡くなった人もいらっしゃるんだけども、ああいう人をこっちに連れてくるのは病棟は一つしかなかった(両手で屋根の形を作る)。20人位しかいないんです。で亡くなる人が多いんですよね。あの爆弾でやられる人が。
(じゃマラリアの患者と爆撃の患者は別々だったってこと?)
そう。マラリアの患者は、もう本当に[病棟が]6つあるんだけど、20人の一つの部屋で、家で、20人が居ったんだけど、それが6つあったらいくつになりますか。
(120、120とかになります。)
大変ですよ。こういう患者をね、私なんかはもう本当に毎日のようにね、〇〇したり(バイクが通る音でかき消される)、そして患者には、マラリアには3日熱というのがあるの。それと熱帯熱というのがあるの、熱帯熱というのが。
(熱帯熱。)
2種類あるんですよ。熱帯熱罹ったら、もう熱が脳に上がって、この辺走り回って歩きましたよ。熱が高いからね、頭がおかしくなって。走り回って歩いたら、あっちから、こっちからじゃない、向こうから飛行機が、グラマンの飛行機がもう飛んでくるんですよ。そしたら4機編隊、4機編隊でね飛んでくるものだから、この組(両手の4本の指で編隊を示しながら)が1、2、3、4、5。私は壕の中に居ってこうして(しゃがんで上空を見上げ数える仕草)「1、2、3、4、5」と。「喜舎場、何してるか!」「お前、隠れないで何を読んで[数えて]るか」って言って[怒られた]。私旧姓喜舎場って言うんですけどね、怒られてね。こう回って白保に行く飛行機もあれば、また今のあの飛行場ですね、向こうは海軍飛行場ですよね。向こうは、白保は陸軍飛行場。
(うん、海陸ですね、海軍陸軍ね。)
そう。それでこっち側にあるヘーギナ飛行場も海軍飛行場。だから飛んでくるのはこのバンナ岳のね、井上部隊というのがあって、向こうには高射砲もある。大砲もその間に出たんですよ。で、向こうでもうバラバラバラバラ、みんな機銃掃射。機銃でね、バーっと。ある所には爆弾落として。で、こっちにね、学校があったんですよ、学校が。あれ立ってますでしょ、棒が。
(はいはい、はい。立ってますね、あれか。[カメラが杭を写す])
こっちからずーっとこっち側まで学校は、あの川原小学校とか、大本小学校とか、名蔵小学校、そういう所の子供たちは台湾人がいる。みんなこっちに学校来たんですよ。だけど、もうこれは兵隊が使って、この部隊が使って、こっちに爆弾が落ちたの、初めて。機銃は何遍もやりますよ。だけど爆弾落ちて、もう何て言いますか、材料、内科の使う材料、外科の使う材料なんかもうみんな飛んでしまってね。もう大変だったんですよ。 食料も、その辺に壕があったんですよね。壕の中に食料を入れてあったから、これはどうにか助かった。だから一遍だけ、炊事場にロケット弾が落ちて。ロケット弾ってわかります?
(はい。)
ロケット弾が落ちて、火事になったの、炊事場がね。だから、患者も兵隊も私たちもみんな一日は飢えた。ご飯は食べられない。そしたら夕方になって、乾パンがあったからね、乾パン。乾パンを小さい袋に一個ずつ、みんなもらったんですよね。ああいうこともあったねぇ、本当にね。
マラリアの蔓延
(いつから増えました?患者さんいつから増えました?)
いつから?もう民間がまだ山に避難しない、村に居るときから。もう飛行機は来てるから。そして命令が出たからみんな山に避難したんですよ。
(うん、みんな動きますね。)
だから避難しても、もうみんなマラリアになるんですよね。この山から、このバンナ岳から、こっち[手前]側はみんなマラリア。
(みんなマラリア?)
マラリアに罹る。で、あの山から向こう[奥]側はマラリアはない。
(マラリアの患者さんっていうのは、ずっと慢性的にいらっしゃったんですか、病院に?)
(深く頷き)たっくさんよ。
(ずーっと、期間は3月とかから?)
ずーっと。昭和21年の2月…
(20年かな、昭和20年?)
戦後よ、それは。
(戦後?)
最初は石垣小学校だったんですよね。それから、あんまりひどくなったものだから、こっちに来たの。石垣小学校に居ったときは2〜30人位しかいなかったけど、こっちに来たら、もう各部隊から連れて来ますでしょ。こっちの部隊、こっちの部隊、こっちの部隊からみんな連れて来るからもう、何十人も。もう大変だったですよ。だから薬作るのが。薬作るのが大変だった。薬はね、マラリアの薬だけでね、もういくら作ったかわからない。そしてこの部隊でも、またマラリア患者が居るから、部隊からも[薬を]貰いに来たしね。こっちはもう、衛生兵が居るからね。私なんかが作る薬を各部屋に持って行って配って、飲まして居ったですよ。大変でしたよ。
(治療は、そんなにないですよね。治療薬とか。)
え?
(どんな治療をするんですか?マラリアは。)
マラリアの治療はないです。
(ない。薬も当時あまりなく?)
マラリアの治療はないけど、ただ薬だけですよ。治療というのは、もうない。
(ない。)
だから悪性になる場合はもう、[走り]回って来て熱が下がったら、ちょこんと座って、自分の着物についてるシラミですね。これをほぐして居ったんですよ。それでまた熱が出て来たら、また。最初はね、寒くなるの。ガタガタガタ震えるんですよ。震えて、今度は震えたらね随分時間かかるんですね、この震えが。
(長い時間痙攣みたいなのが続く?)
震えるんですよ。足がだるくなって腰が痛くなって。で震えて、震えがなくなったら、熱が出るの。熱が出たらもうそれこそ大変ですよ。私も罹りましたから、わかるんです。
(ああ、そうなんですか。看護婦さんの中にも罹る人たくさんいたんですね、きっとね。)
ああ、みんな罹りましたよ。
(みんな罹った。)
はい。だから自分で、私は薬室に居るんだけども、薬も目の前で作ってるのに、やっぱしね、いえば軍隊のものだから。軽々しく自分で口に入れることはできないから。薬剤官に言って、薬をもらって飲むと。そういうようなことですよ。
(薬は。)
だから戦後でもね、なかなかマラリアは治らないですよ。村に帰っても1〜2年は発症しますよ。
(薬は軍から優先的に支給された?)
いや、村にはない。
(だから軍人が最初ってことですよね。マラリアの薬が行き渡るのは。)
これは薬の場合は、やっぱり薬剤官がね、権利を持っていらっしゃるからね。そして私は聞いたことあるんですよ。終戦後、この薬どうしたの、余ったのはって言ったらね、薬剤官が何とか言って、アメリカさんが没収したとか何とかと言ってましたね。
看護教育は石垣小学校で
(陸軍の病院にはいつからいつまでいらっしゃったんですか。)
こっちの病院?
(うん、ここの病院。)
昭和20年の6月に来た、こっちには。
(20年の6月にここに来たんですか?)
うん、こっちに来た。で、私は[野戦病院に入ったのが]昭和19年でしょ、で10月でしょ。向こうでどうにかお正月は済んだ。[空襲が]バラバラっと来るけど、隠れながらね。
(この前はあっちに居て。)
石垣小学校。
(小学校に居て。)
小学校に居って、終戦になったから石垣中学校へ行った。
(終戦はここの病院で、終戦だったんですか。)
そうです。
(じゃ結構長くずっとここに居たんですね。)
こっちで。終戦やって。
(6月から8月位までここ。)
そうです。
(そこにいらっしゃって、その前が小学校だったってことですね。)
そうそう。
(看護の簡単な演習みたいなのを受けたのもここですか?)
演習?
(演習っていうか、看護婦としての。実習みたいな、さっき仰ってた。)
うーん(考えこむ)。
(現地で教わったって言ってたじゃないですか。)
ああ。あの(包帯を巻く仕草)。あれは石垣小学校に居ったときに。
(あっちは石垣小学校で。ああ、わかりました、わかりました。)
あれは石垣小学校で、入ってからすぐ。
(小学校で習ったんですね。わかりました。で、ここで終戦ですね。)
慰霊碑「暁之塔」
(石碑に彫られた戦没者名を指で辿りながら)ああ、この人が頭撃たれてね、直接。頭打たれて目ん玉ぼこーっと出て。
(田中さん?衛生兵?)
この人衛生兵でね、軍曹だった。
(どういうときに撃たれたんですか?)
だから向こうから来たときに機銃でやられた。
(機銃で?外に出てたんですね?)
いや、家の中。
(家の中?)
はぁ。もう1人も居るね。この人も、大須賀。大須賀さんもお家の中に居るんだけども、大きい柱があったんですよ。これを[銃弾が]滑って、本人に当たって。弾に当たって亡くなった、2人。残りはみんな…
(みんなマラリアですか? )
ああ、マラリアで亡くなってる。
(衛生兵が何で家に居るんですか?)
お家にって自分で事務取ってる人だから。この人は、田中さんはね経理士。この人(大須賀さんの名前を指す)は本部に居ったんだ。本部のお家の中に。あそこに電信柱が立っていますでしょ。すぐこっちに家があったんですよ。
(お家って誰のお家ですか?)
この田中さんが居られた。
(田中さん?じゃここら辺なんですか、本当にすぐ。)
はいはい。だからこの家の奥さんはね、自分の子ども連れて、自分の主人が亡くなった所を教えてくださいって言って。向こう連れて行って、ここの石を拾って持って行きましたよ。
(なるほど。)
青年会館[日本青年館のことか?]っていう所がありますでしょ。
(ああ、知ってます。)
あっちで、私なんか総会と言って、こっちから行ったんですよ、たくさん。一緒に私ら。で、行って空港に降りて、新宿に行って、新宿からまた四ツ谷を通って行きますよね、向こうは。で、向こうでこの隊長[第28師団第3野戦病院院長・横井忠男軍医大尉]がいらしたんです(と碑の上方を掌で指す)。ナンキョク(不明)の会は。いらしたんですよ、だからそのときに石垣で、こっちでこういう塔を建てたいということを言われたものだから、じゃそのときは寄付をして。伊是名、じゃあんたが責任持ってこの塔を建てるように、できるか?と言われたから、はい、じゃ私も八重山工業の社長さんがよくわかるから、じゃこの社長さんに頼んでね、お願いしてから作ってもらおうということで、Mさん、わかるでしょ(と同行した女性に尋ねる)?
(女性:わからない、ごめんなさい。)
あなたなんかの近くじゃない。
(女性:わからない。)
何よもう、わからないって。で、Mさんに頼んで、こっちを作らせたの。この石を探すのは、また一緒に行って、あの山ですね。あの山の方大きい川があるんですよ。あっちまで行って、この木を擦って、こっちまで持って来て、上に上げてあるんですよ、これ。だから、きれいに出来たときにはもう、こっちで除幕式ね、除幕式もやりました。きれいに、みなさんがたくさん集まって。あのときはみんな元気でしたから。今は山梨県に2人から3名ほどしか居られません。私が横浜に行くときは、必ずお参りしに行きます。
野戦病院での業務
(一個の野戦病院でどれ位の人が亡くなったんですか。この周辺というか。)
これはわからないですよ。
(わからないですよね。日々亡くなっていきましたか、患者さんは。)
はい、亡くなった方はもう。それであっちの看板がありますでしょ、ずっと向こうに。向こう側に屍室(しかばねしつ)という所があったの。
(屍室。)
はい。だから亡くなった方は担架に乗せて、私たちなんかが向こうまで行って(担架を運ぶ仕草)、向こうで屍室に置いて、私なんか来たんですよ。
(え、歩きで? )
歩いて。
(担架みたいので。)
担架よ、担架。
(2人位で。)
そう。で、1人はついて来てね、疲れたら交代して。ずーっと向こうまでだから。だから大変でしたよ。あんな歳も若いのにさ、私ももうそうね、向こうで10月だから向こうで正月終えたから、もう数え17になってこっちに来ていた。
(もう毎日運ぶような状況ですか?)
そうですよ。そして、飛行機が来たら、もう担いでるのを放っぽらかしといて、小さい木の中にこう(身をかがめる)うずくまって、難を逃れるような感じ。
(撃たれるかもしれないから。)
そうよ、本当。だからこっちにも機銃やるでしょ、だから向こうから飛んでくるのはもう急降下でこう来るんだから。あっちにあるのも急降下でやるんだからね。大変でしたよ。もうただ、話で大変って言うけれども、身の上にならないとわからないでしょう。
(そうですね。)
(ここに、薬があったと。看護業務っていうのは、伊是名さんの場合はどうだったんですか?)
え?
(伊是名さんの場合、業務は薬を持ってくること?)
薬を作る。
(作るんだ。)
はい。台の上に置いて、薬紙(やくし)って言うんですよね。薬包紙(やくほうし)って言うの。四角い薬を包むの[薬包紙]をみんな並べておく、ずーっと並べておいて。もう飛行機が来ないうちに、包んで袋に入れて、これははい何号室、これは何号室、何号室ってみんな渡して行かす。で部隊からは(直立不動の姿勢になって)「はい、僕は参りました。6464部隊から参りました、お薬いただきに参りました」って、もう気をつけして、こうしてね(敬礼のポーズ)。もう各部隊から。6464、6461、62、63(注;球6461部隊・独立混成第45旅団独立歩兵第298大隊、6462部隊・独立歩兵第299大隊、6463部隊・独立歩兵第300大隊、6464部隊・独立歩兵第301大隊)。みんな〇〇に来るんですよ。だから部隊の名前もみんな覚えてる(笑う)。 こっちには防空壕があって、こっちが薬室で、こっちはこういう風に病室があってね。
(日本兵はどうでした?)
え?
(軍の人はどうでした?軍隊の人は。)
軍隊?
(何か、どういう人たちでした?)
いやぁ、私なんかでも他の内科とか外科へ行くときは、もう気をつけしてね、 「喜舎場参りました。入って良くありますか?」ってそういうようにしないと入られない。
(きちっとしている感じ。)
そう。軍隊ですよ、みんな私なんか。それで朝の朝礼はね、ずーっと向こうの、木の生えている所で、この野戦病院の看護兵なんかも私なんかもみんな集まるの、点呼。 朝の点呼、夕方の点呼と2回やりました。そして晩勤って言って夜勤の人が居るのね。晩勤何名って言って、それも報告しないといけないしね。
石垣島事件についてか?
(どこから聞いたんですか?)
こっちは、この事件のはね、あの兵隊なんかがみんな話してるのを聞いた。
(話してるんだ。)
そう。
(なんて、何て言ってるんですか。)
えっと、Kの、Kかな。この人もやっぱりこれやったみたいですね(手で何か仕草をするが見切れている)。銃剣で2人ですよ。2人、2人殺してる。で、自分は上司の命令でやったんであって、自分の好き好みでやったものじゃないと言って、戦犯にはならなかった。
(まぁ、そういう状況だったんでしょうね、たぶんね。刺せって言われてね。)
だからもう本当にね、そんなのはもうやっちゃいけない、人間としてもやっちゃいけないんだ、本当は、ねぇ。同じ人間だから。捕まえられたら、それはもうその人の運だから、これ誰かを殺さなくちゃならなかったのかっていうことなんですよね。
(そうですね。)
終戦、兄の戦死
(終戦って聞いたときはどうでした?)
終戦?
(終戦どうやって聞きました? )
終戦って?
(終戦。)
こりゃもう、私なんか石垣中学校の看護から終わって、マラリア患者をね、LSTって船知ってらっしゃる?アメリカの輸送船。この船でポンポン船に乗せてね、輸送船に上げるまで、私なんかがやりましたよ。終戦後は。
(え、何を上げるんですか。)
兵隊のお尻を上に上げて、[輸送船に]乗せる。あの綱の梯子だったんですよ。だからもう…
(お手伝いするんですか。)
そうそう。
(それが終戦?8月15日?)
そう。8月15日が終戦ですよね。だからこれから街へ行って石垣中学校って言いましたでしょ。で、向こうから昭和21年の2月にLSTに乗せて行かせて。
(どうやって知ったんですか、終戦は。)
終戦っていうのは別にどうということは。
(どうとかじゃないんだ。)
どうということはなかったね。終戦って聞いてね、ああ、日本はもう負けたのかって。ただ残念だねぇというだけ。毎日こっちを占領して、毎日のように提灯行列もやったんだけどね。もう負けたからどうもこうもできないしね。私の兄も2人戦死したんですよ。珊瑚海海戦で。駆逐艦か、駆逐艦。あれに乗っとったんですよ。1人は台湾のね、大砲を撃つ係していたけど、あるとき爆弾でやられて死んだ。
沖縄に向かった飛行兵
タオルとか、金平糖とか入ってるから、こっちに居る人で分けて食べなさいって言って渡したの。そして明日は2名で自分は飛ぶということで。ということで、坂を登って自分の兵舎に行ったんでしょうね。で翌日は飛んで行って、帰ってこなかったんですよ。それで1人だけ帰って来たら、何お前は帰って、死ぬのが嫌なんだからお前は帰って来たんだろうって尻をパンパンパーンと打たれたらしいですよ。それでね、お前はね、もうただではおかんって言って、バッター(海軍の殴る時用いられる棒で、現在のバットより長く平べったい)でお尻を何遍も打って、叩かれて、ああいうようにやったんだけども、どうして帰って来たのって言ったら…(身を乗り出して窓の外を見る)やっぱ〇〇?ちょっと、ちょっと。
(運転している女性:私に言ってた?ごめんね。)
次の道通れるかな。あ、こっちから通る。こっちから。(車が止まりバックする)[話の続き]叩かれて、宮古の上空でエンジン故障したものだから、自分は沖縄まで辿りきれないと思って戻って来ました、と言ってようやく。
(今日本兵の話?)
(頷く)日本兵、飛行兵よ。こっちの飛行兵。そして翌日は飛んで行って亡くなって、帰ってこなかった。そういうこと。大変でしたよ、かわいそうだったよ、本当に。もうそんなね、軍隊はあんなに厳しいのかな、人のかわいいねぇ息子を。なんかね若い子どもでしたよ、あんなに殺して。大変じゃないかということでしたね。(運転する女性に向かって)もうちょっと向こうやね。
井上部隊跡地
もう少し前見て、見えるように。はいはい、はいはい。この辺ですよ。(車が止まり、左手を指す)こっちにね松林があったの。松林が茂ってあったんですよ。あ、こっちから通れるか?こっちから通れるかね、Aさん?(と運転する女性に尋ねる)
(女性:あ、何とか。)
(この辺?)
もう少し行ってから、今キビがあるから見えない(窓ガラスを下ろす)。もうちょっと先行ってから。(車がゆっくり動き出す)そうそう、そうそう、この辺。(車が止まる)この辺だよ、この辺。この辺にあった。(車の右手方向を腕を回して丸く指す)
(あの、杭があったんですか?)
松がね。松が茂ってあったんですよ。で、こっちの中には部隊が、井上部隊が居った訳。これ井上部隊、これだけみんなね。井上部隊だったんだよ。だから捕まえてきて殺したのは、こっちに松林があったんですよ。で、こっちの中に括って。括ってから刺させたんです。(注:海軍の石垣島警備隊(井上乙彦司令官)が、撃墜した米軍機の搭乗員を殺害した事件について)
(女性:何人? )
(たぶん3人ですね。)
(女性:3人。 )
そして、こちらこの辺にはたくさん海軍の兵隊なんか、埋められてるのがたくさんありますよ。まだ取らない人もたくさん居るはずですよ。
(ここの下に?下に。)
(黙って頷く)で、こっちの部隊じゃなくて、井上部隊の方が。
参考資料
『月刊やいま』2009年12月号 特集「乙女たちの戦争体験2 野戦病院にて」
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