玉城 功一さん

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玉城 功一さん

生年月日1937(昭和12)年7月29日生まれ
本籍地(当時)沖縄県
所属
所属部隊
兵科
最終階級 

プロフィール

1937(昭和12)年7月29日波照間島生まれ。8歳の頃に戦争マラリアを体験。1960年琉球大学を卒業、波照間島・西表島の小中学校に10年勤めた後、石垣島の中学1校、高校3校に勤務。1974年強制疎開を体験した波照間島民の証言を調査したレポートを執筆(沖縄県史に収録)。2010年発足した「八重山戦争マラリアを語り継ぐ会」会長を、竹富町史・古謡編集委員を務める。 

取材日:2012/2/5 

インタビュー記録

戦争マラリアの証言に出会うまで

聞き手(よろしくお願いします。まず簡単な略歴というか。)

 そうですね。じゃ、そうですね。

聞き手(あの、順番はお任せします。話しやすいように、話してください)

 ああ、そうですか。じゃ、もういいですか。

聞き手(ああもう、どうぞどうぞいつでも、はい。すみません。)

 [左の地図を指しながら]私はですね、八重山郡の最南端の、この波照間島という、これを拡大してこの島[右の地図を指す]ですけれども、これ波照間島ですけれども、こちらで昭和12年7月29日に生まれて、波照間で育って、波照間の当時国民学校の2年生のときに、戦争体験をして、そして戦後の混乱期、波照間の小中学校で過ごして、それから石垣に出て八重山高校、そして琉球大学を卒業して、この波照間の小中学校で7カ年間、小学校4カ年、中学校3カ年勤めて、それから西表の大原、ちょうど南風見(はいみ)のすぐ近くに大原中学校がありますけれども、その大原中学校で3カ年、そして離島を10年間勤務して、それから石垣島の大浜中学校で3カ年、そして八重山高校、八重山高等学校で7年。農林高校、ちょうど八重山高等学校に居ったときに、本土復帰を迎えるんですけれども。

聞き手(すみません、ちょっと)

聞き手(はい、大丈夫です。すみません)

 離島勤務も、波照間を含めて離島勤務10年の後に、石垣に上陸して大浜中学校3ヵ年、八重山高等学校で7年間、八重山高等学校に居ったときにちょうど本土復帰の年を迎えてね。沖縄県史の波照間関係の戦争マラリアに調査執筆することに関わって、そして八重山農林高等学校に7年、八重山商工高等学校11年で定年退職して、定年してからもう今年で14年過ぎてしまうのですがね。それで私が戦争マラリアを体験するのは、この自分の郷里、この波照間に7年間居ったときですけども、この7年間に居ったときにですね、1960年から67年まで居りましたけども。この波照間小中学校に勤務している頃は、戦争マラリアの話を聞くけどね、あまり皆が聞きたがらない、話したがらない。そういう雰囲気のなかで、だから話したがらないから、自分の方で調べようとも思わなかったし。そういうなかで学校の、7年間の学校生活が終わってしまって、勿体無いと思うんですけど、そういう雰囲気のなかで居ったものですから、それでこの戦争を体験するのは、波照間の国民学校の2年生のときに、戦争を体験しているんですがね。それで2年生のときですから、大人のようにしていろいろ細かいことをあまり体験しなかったけど、ところが沖縄県史を書くことになってですね、波照間の調査・執筆を私が担当したものですから、いやが上にも調べないといけないので、録音機を担いで駆け回って、お願いをしていろいろ証言を取ってもらったんですけども、そういう話のなかで、自分が体験しなくても八重山の、波照間の戦争マラリアの全体像がだんだんつかんできたといったようなことで、今日もそれを話したいと思っているんですがね。

聞き手(はい)

全島民への強制疎開命令

 それで、国民学校の2年生の終わり頃、2月頃になりますかね。(しばし沈黙)

 山下っていう日本軍、日本の特務兵、山下軍曹、山下虎雄という日本の軍曹が赴任して、これは偽名ですがね。こういう偽名で山下虎雄、山下清、それから酒井喜代輔(中野6期戊種、離島残地謀者)っていう3つの偽名を持って居る訳ですけども、これはもちろん偽名であるっていうことを我々はわからなかったんですけど、後から調べてみたらね、当時は山下虎雄で通して行って居ったんですけども、偽名を使いながら、波照間の国民学校に赴任して、そして青年学校の指導員といった形で波照間の学校に赴任してきた。で、学校ですることは、我々はあまりわからなかった。そして本人もあまり、おそらく当時の校長先生も、識名信升(しきな・しんしょう)校長先生もそう言っていたことだけども、あるいは同僚の職員も、当時同僚だった職員も言って居られますけれども、昼間何して居るかわからないけれども、学校の教員として働いている。あちらこちらを何か調査して居るみたいで、まともな授業らしきものはしなかった、みたいなことをね、そういう証言があるんですがね。〇〇目的としているというようなことをね、そういう話でしたけど。その先生が赴任して、4月の…そうですね(しばし沈黙、カメラがクローズアップ)。あ、3月、ごめんなさいね。

 そして山下が2月の初め頃、たぶん赴任したと思うけども、3月になって3月の終わり頃、まぁ4月の初めになりますかね、軍からの命令で、軍の命令が村長に、そして村会議員に伝えられたと。波照間に米軍が上陸する恐れがあるから、波照間の全住民は西表島に即刻強制疎開。当時強制疎開と言っていたようですね、波照間では。(地図を指しながら)この波照間の全住民がここに住むことを意図して、ここに強制疎開という言葉を使ったと思うんだけども、石垣ではこれを強制避難と言っているんですよね。同じ島で山岳伝いに避難したものだから。ここで強制疎開という言葉はあんまり使っていなくて強制避難って言っている。波照間では完全に強制疎開という言葉を使っている。西表島に強制疎開するという軍の命令が伝わって、そしてその命令が伝わってきたときに島の人がびっくりして。というのは、こちらの西表島にはかつて1734年に疎開地である南風見、波照間の人が400名も疎開して、これは戦前すでにマラリアで廃村になっている所です。そしてさらに今度は1755年に西部の方に今度は280名位、波照間から琉球王府の命令によって、あの当時はね、寄百姓(よせひゃくしょう)、強制移住です。寄百姓という当時の言葉で言って居ったんだけども、させられて、そしてこれも戦前にマラリアで廃村になったの。波照間の人はそれをよくわかっているから、かつて南風見に400名、崎山に280名の人が強制移住、すなわち寄百姓をさせられて、しかも皆全滅してしまっていることがわかっているからね。これがしかも廃村になった所、マラリアで廃村になった所に強制疎開ということですから、波照間の人は、これはもう納得しない。行ったら、マラリアの死地ということはみんなわかっている訳ですよね。だからこれは絶対許せない、聞けない、行けないという、もうものすごい反発が出てきた。あの当時はオーセというから、今の公民館と言われる島の集会所。集会所に集めてその協議を行ったときに、島の人は絶対ここ[西表島]に行くことはできない。行ったらもうマラリアで全滅する。しかも昔は一部の人だったからあれだけど、今は全島民の疎開ということは、これは大変なことだ、絶対許せないということで、猛反発が起こった。と当時の実際その会議に参加した人の証言とかそういったものがあるんですけどね。

 そしたら、そのときにですね、島の人が絶対これは受け入れられないと反発している、そのときに現れてきたのが、今まで学校の教員で教師の姿をして、普通の教師の姿をしていた山下虎雄が軍服姿に変えて、ブーツを履いて帯刀して出てきて、軍人に変身してね。「聞かない奴はこの日本刀で叩き殺してやる」と言う。そのようにして、今まで学校の指導員としてペコペコ校長に頭を下げてやっとった山下虎雄が、軍の命令ということで、それが出たら、今度は軍人に変身して、そしてもう抜刀して命令を聞かないのは出て来い、叩き切ってやるみたいなね、そのようなことをこれをちょうど(地図を指しながら)ここにキパリヤマ(慶原山)って言う所があるけど、ここに避難している部落民に抜刀、威嚇して命令を伝えた。聞かない奴は許せないというみたいにして。軍の命令は天皇陛下の命令、いつも口癖のようにそれを言う。彼の前では当時は軍の命令、あるいは天皇陛下の命令って言ったら、どんなそれでも、それらに反対することはできなかったんですね。

牛馬の屠殺

 それで、即刻疎開の準備というようなことが伝えられて、そして行く前にまた島の人がびっくりしたのはね、全島の牛馬家畜を全部殺す。なぜなら、米軍が肉食人種だから、米軍が上陸してきたら、牛馬を残しておくと、米軍の食料になる。だから牛馬を残しておく人は、利敵行為になるということでね。利敵行為になるから、全島の牛馬を殺して、肉を燻製にして西表島へ持って行ける人は持って行ってもいいけども、持って行けないものは軍が来て処分する。当時ね、島には年寄りと子供と婦人しかいないの。牛馬を殺すっていうのは、これは大変なことなんですよね。大きな牛馬をね、殺すっていうのは、とてもじゃないけども婦人にはとってもできないし、年寄りも簡単にそれをできない。体験者の話を聞くとね、最低4名、大の大人が最低4名かからなければ牛馬を、大きな牛を倒すことはできなかった。そう話しているんですがね。

 私も実際、牛馬を殺す場を見たんですけども、「子供は見ちゃいけない」と叱るのを私は隠れて、どんなにして殺すのかと見たんだけども、これは大変なことなんですよね。まぁ詳しいことはもう我々にはそんなに見えなかったけども、体験者の話からすると、牛を一頭殺すのにまず男が4名がかりで、一人は鼻綱をつかむ。で木の近くに連れて行って、そして鼻綱を木に巻いて、一人は後ろ脚を縛って。最初から縛ると牛が暴れてあれだから、一人は今度は大きな斧を持ってね、1、2の3の合図で、木の側に連れて行ったその牛を木に縛り付けると同時に、足を引っ張って倒して、もう一人の人は横倒しにして倒して、そして斧を持っている人がね、牛の脳天を叩いたら、脳天にバスリとこうやるとすぐ全身痙攣を起こしてあれするから、その間に今度は血が固まってしまったら皮が、牛は皮が硬いからね、皮をみんな剥ぎ取るんですよね。剥ぎ取って、血が通っている間に、心臓もまだしっかり止まらないうちに剥ぎ取って。私は剥ぎ取ったものを見たんですよ。剥ぎ取るときのそれを見たけども、そして皮を剥ぎ取った牛っていうのはね、血管からまだ血が、脈が動いていますからね。それを、内臓を取り出して、当時は内臓などはもう処分された。肉だけ。肉だけを取るみたいにして。それは班で殺すの、って的なものを私は見たんですがね。そのようにして、一頭殺すのにも、これは大変なことです。だから各班でなかなか殺せない。各班で、私たちの班は、村は波照間のなかの富嘉(ふか)部落っていう小さな集落でしたので、そこの一班でおそらく十頭と殺しきれなかったでしょうね。

 それを殺したんだけども、そのようにして各自各班で牛馬を殺してですね、おそらく肉を分け合って、各自の家で燻製にして、疎開地の食料として準備して持って行くという。

 ところがね、そのようにして各班ではなかなか自分の家、当時波照間は珊瑚礁の島だけども、これは段丘地形になっていて、だいたい4段位の段丘地形になっているけども、その島の中央の高い所に水が出る、そしてその周辺は水田地帯になっている。島の中央の高い所に井戸があるし、井戸を頼りにして集落があるし、その周辺は水田になっているっていう所であったから、水田耕作のために波照間は牛馬がたくさん居ったんでしょうね。だからそれを軍は狙って、昭和20年の3月頃、20年に入ってくると、もう米軍が。だから結局八重山全体で、何しろ1万人位の、この小さい島々に3つの飛行場がね、海軍飛行場が2つ、陸軍飛行場が1つってな○○にして、約1万人位の兵隊が来てるから、その兵隊に食料を確保するためには、現地で食料を確保しなさいっていう指示があったみたいで、それでそのために牛馬の多い黒島と波照間が狙われて、波照間と黒島は西表島に疎開させられて、牛馬が取り上げ[られ]て、日本軍のタンパク質が不足して供給できないから、この離島に居る牛馬が標的にされて、その土地の人がマラリアの地に強制移住させられたって言ったらね。

 いろいろ、当時の体験者の証言とか、牛馬を屠殺したり、あるいはそれに関わった当時の人の証言からすると、明らかに牛馬の多い黒島と波照間が狙われた。その牛馬を取り上げて軍のタンパク質の食糧に補給するために、この島の全住民を疎開させたんじゃないか。そのために住民を追っ払ってやったらと言ったら、これはもう大変なことだけども、そういうことは軍のなかにはおそらくはっきりしたそれは、文書とかそういうものって、残したそれはないと思うんだけどね、体験者の証言からは、そのために波照間と黒島が標的にされたんじゃないか、ってそう言われているんだけれども、そのようにして、全島の牛馬家畜が殺される。そして波照間の人は、いよいよ疎開地南風見に強制疎開させられた。

 強制疎開したときの様子を、何しろ漁船で夜しか行けないので、その前の晩出産した人の話など聞くとね、前の晩出産したらもう行けないから、一番最後の便で行くことになって、畑で出産を迎えた。そしたら畑の周辺にはね、親牛を殺された子牛が鳴いて逃げ回ってやってる。その鳴き声を聞いて、自分たちも今から西表のマラリアの地へ行くけれども、こういうことになるのかな。親もマラリアで死んで子供が子牛のようになりはしないかな(カメラがクローズアップ)と思って、子牛が鳴くのを聞いて自分も一緒に泣いたというみたいなそういった体験もあるんですけどね。

 なかにはまた、船で避難する夜、途中で陣痛が起こって、西表に着いて何回か周期的に来る陣痛を堪えて、この大原からこちらに着くんですよね、南風見っていう所に。ここまで何km位あるかね、4km位あるかね。その道のりを周期的に起こる陣痛を堪えながら着いた途端に出産したって言う。そういう体験もあります。これは大泊ミツフさんという方が沖縄県史のなかに書かれてあるけれども、この県史を、もしよかったら大泊さんの証言が書かれていますので。

西表島へ

聞き手(ありがとうございます)

これお分けしましょうね。

聞き手(あ、はい。ありがとうございます。はい、すみません)

 これ貴重な証言ですので。(大泊さんの証言が書かれた県史のコピーを映す)この証言のなかにも、今のようなことが語られています。避難するときに船のなかで陣痛を起こして、南風見に辿り着いた途端に出産したという。だいたいここで出産した子供とか、あるいは疎開前に出産した子供たちは、ここ[西表]に着いたらもう、出生届も出せない。マラリアで死んでしまった。ほとんどがマラリアで死んでしまったようです、赤子はですね。だからこういう子供たちはですね、名前もつけられないから出生届も出せないから、もう戦争マラリアで亡くなった人の数には入っていない。何しろ名簿等そういうものがなかったら、名前がなかったら、こういう子供たちなんか、結局一人前の人として扱われない。そのまま無名のなかに葬られてしまったという、こういうのがたくさん居るようです。

 それでこのようにして、この西表に避難をして、最後に私は、私の親戚に当時の村会議員をして居った仲本信幸(なかもと・しんこう)さんという方が居られたので、この西表の南風見に疎開した、かつて戦前ここに疎開した人はみんなマラリアで全滅したから、だったら自分たちは、自分たちの親戚はここには行かない。由布[島]に行くということでですね、由布っていうのはこの西表の東の方に、小浜島の近くに由布島っていうのがあるんですよ。ここはマラリアがないのでここに疎開するということで(地図の由布島へクローズアップ)、それで山下を説得したかどうかわからんけども、私たちの親戚は幸いにここ[由布島]に疎開することができて、なかには古見(こみ)に疎開した人も居る。大半はこの南風見の方に。というのは、由布島は小浜に近いから、当時小浜には軍隊が駐留して居るので、これが狙われるから、由布島はすぐ近いから狙われるから、そこには空襲が怖いから行かないという方も居ったみたいで。ところが、空襲よりはマラリアが大変になってくると、当時波照間はマラリアがなかったものだから、マラリアの体験がないものだから、南風見に疎開することを、とにかく空襲にやられるよりは、空襲のない南風見の方が、岩も多いし、[波照間]島にも近いので、そこに疎開した方がいいとして、ほとんどの人は南風見に疎開して、ごく僅かの人が、私たちの班の人が10戸位の家族がここ[由布島]に疎開して。古見にもわずかな人が疎開したみたいだけど。そのようにして、西表島に強制疎開させられたんですがね。

無人島となった波照間の惨状

 そして、約5ヶ月位、半年近くもこの島[波照間島]はもう無人島です。だいたい戦前は、1500名余り、1600名近い人口が居ったけれども、この1600名の人がみんな西表島に疎開したものだから、これは完全に無人島にされて。そして残った牛馬を、先に自分で牛馬を燻製にできる者はここで燻製にして持って行ったから、残ったものはそのまま残しとけ、軍が処理するということで軍隊が来て処理したのでね。残ったのはあちらこちらに居る牛。牛馬だけ残って、そしてその牛を、疎開しない、徴兵されない前の青年、これを挺身隊を組織して、軍から来たそれと、獣医とか、軍から派遣された部隊と残った青年たちが挺身隊を作って屠殺した。

 屠殺した所はプルマヤマという山で屠殺したんだけども、なぜこの山が屠殺場になったかというと、何しろ昼間は空襲があるから、これはヤラブ林ですから、ヤラブっていうテリハボクの木があるので、ここで木の下で屠殺できるし、そしてこことか島全体の各地のヤラブ林で屠殺された。このプルマヤマで屠殺されたのは、その近くにまたカツオ工場があって、カツオ工場がずーっと海岸伝いに、あの当時いくつ位ですかね、8つ位のカツオ工場の煙突が林立して居ったけども、カツオ工場が近くにあるから、そのうちの何箇所かは空襲でやられてしまったんだけども。プルマヤマに近い所のカツオ工場は残っていたので、このカツオ工場にカツオ節を燻製にする石炭とか、燻製にする施設があるから、日本軍はその牛馬の肉を燻製にする施設があるということをちゃんとわかっているので、そこで燻製にして軍に持っていくということがわかって、おそらくちゃんと計画してね、前もって調査してやったことだと思うんだけども。そしてこの近くに銀鉱の廃坑の跡があったので。この牛馬の骨はこの廃坑に持って行って、そしてカツオ工場で燻製にする。そして各地でも、各地のヤラブ林でも屠殺するという訳で島全体が屠殺場になってしまった。

 で、西表島に疎開している間にね、まだお米が残っとったから、お米を収穫するための収穫隊というのが、何名か島にお米の収穫のために行ったときに、島全体が銀蠅とカラスと、そして銀蠅が島全体の木や枝に垂れ下がるほど、銀蠅がぶら下がって居るし、カラスが島全体を覆って、何しろ各地に捨てた、内臓は取れないからそのまま捨てたものが散在して居るので、島全体が悪臭と銀蠅とカラスとで大変な地獄だったという証言をして居られるけどね。このようにして、この島が無人島にされるし、家畜も人間もいない島にされてしまった。これはこの島の歴史が始まって以来の初めての、歴史の空白を作ったというんですかね。無人島にされてしまうという、そういう運命を辿るんだけども。

帰島するための直訴と対決

 そして約半年間、ここでも西表島も次第次第にマラリアに罹って行く。幸いに我々の所は離れて居ったから、ここに疎開しているときにはマラリアに罹らなかったけどね。ここ[南風見]ではもうマラリアがどんどんどんどん、蔓延して行く。特に体の弱い年寄りとか子供たち、識名信升校長先生は子供たちを引率して、そして昼間は空襲が危ないから、朝夕の涼しいときに岩の上で山学校を開いて、ここで歌を歌ったり勉強したりやった。そのように識名先生がやって居ったけれど、ところが子供たちもマラリアに罹って、山学校も開くのがもう困難になってきた。そういうときに、ここでだいたい80名位の人がマラリアで亡くなって行くんですよね。

 それでここに居ったらもう、かつてマラリアで全滅したように、今は全島の人が、ここ[波照間島]に波照間の人が一人も残っていないで、みんながもう避難して居る。波照間の人はここ[南風見]で全滅してしまう。これでは大変なことになる、ということで、識名信升はですね、夜こっそり、山下に気づかれないようにして、山下はときどき、山下の愛人が由布島に、マラリアのない由布島に居って、ときどき通ったりしたりしていたものだから、識名先生は山下の留守の間に、川の上に避難した古い漁船に、船長と機関長と自分たち3名で、直接石垣の、八重山郡全体の旅団を指揮している宮崎旅団長に直訴して、最初は軍医とマラリアの薬を少し分けてもらったけども、ところが蔓延して行くマラリアがどうしようもないから、もうだめだ、どうしても島に帰るということで、もう一遍、2回直訴をしているんですね。2回の直訴では宮崎旅団長から「そういう事情だったら、もう帰りなさい」と言って、識名校長は喜んで、ここに疎開して居る部落民に宮崎旅団長からもう島に帰ってよろしいと許可を受けた、とみんなに知らせたら、山下が出てきて、これはできない。ここを指揮して居るのは自分が指揮して居るんだから、自分の命令でないと帰れない。ということを言うので、識名校長は宮崎旅団長の許可を受けてきたのに、なぜ山下が帰さないというのか、そんなことは通るか。当時のね、こういう所に派遣されて居る牛馬を屠殺とかそのために派遣されて居る、これは陸軍中野学校の出身で特務兵といわれるスパイ養成学校出身の連中だから、これは特務兵の意識として、天皇陛下から特別の任務をもらっているから、特務兵だから、特務兵の派遣された所では、普通の軍隊の指揮系列に関わらず、特務兵自身が判断して処置して良い。というそういうことを陸軍中野学校では徹底して教育されているようですね。それで山下は帰さないと言うので、ここで山下と識名校長の間で対決が起こる。

 それで住民が識名校長の後をバックして、ここで決死の対決をして、島の住民ももう、ここで引き下がれば、[波照間島に]行けなくなったら、もうここでマラリアでもう全滅してしまうという危機に燃えてるものだから、もう山下が軍刀振りかざしてやっても、もう殺すんだったら殺しなさい、みんな殺しなさい。ここでマラリアで死ぬよりは、島の墓がある所でしか死ねないっていう感じでね、決死の覚悟で決起した。本当に女の人、年寄り、子供しかいない所だけれど、ここで今だから決起集会とかは戦後慣れているけどね。当時にしては、そういう考えはもちろんなかったけれど、死ぬか生きるかの戦いですから。その死ぬか生きるかの戦いのなかで、やっぱり婦人の力というのは非常に大きいですよね。とうとう山下の振りかざす軍刀も功を奏しないで、さっさと自分たちの荷物をまとめて、終戦になる前に、1週間前に引き上げて行った。

 これがもしね、山下が言うようにずっと居ったら、おそらく集団自決に追い込まれた。というのは、ほとんど第一避難所はみんな海岸近くに作られた、各村ごとに。ところが、第二避難所を山の中腹に作る計画で作業が始まった。そのときに、山下は第三避難所を山の頂上近くに作るから、そのときは女の人は一張羅を準備しておきなさいと言って居った。婦人の方々はなぜ一張羅を準備しろと言うのか、意味がわからなかった。後から、終戦終わってからね、後から沖縄本島では集団自決というものがあちらこちらにあったということを聞いて、ああ山下が言っていたことは集団自決を考えていたんだ。もし山下の言いなりになって、そのまま第二避難所に移動し、第三避難所まで作るようになって以降、ここまで避難することになったら、最後ここで集団自決を山下は考えていたんだ。というのは、波照間に学校の指導員として赴任したときに、山下の机の周辺には大きな重たい木箱がいくつかあった。みんな疑問に思って居ったって。なぜ学校の教員なのに、そんな荷物が必要なのかと。あの重たいもののなかに何が入っているのか。みんな職員がささやいたら気づかれたのか、いつの間にかまたどこかへ持って行った。おそらくこれは、おそらく手榴弾だったはず。だから山下は最後は、手榴弾を使ってここで、第三避難所まで作って避難したときにはここで、集団自決へ追い込む心算をおそらくして居ったんだろう。という感じで、そこに参加した人が山下が一張羅の着物を準備しておけと言って、後でこれが集団自決だとわかったときにぞっとしたという、そういう証言があちらこちらからあるんですがね。

 で、このようにして、島に帰って行くんだけれども、時間大丈夫ですか(腕時計を見る)?

聞き手(あ、はい。大丈夫です)

帰島後のマラリア蔓延と食糧難

 そして半年ぶりに、さぁ島に戻ってきた。食料の大半はここ[西表島]で食べ尽くした。おまけに、ほとんどがマラリアにもう感染している。帰ってきた、半年ぶりに島に帰ってきたら、島の畑にはもう雑草が背の丈位伸びてきている。作物が何もない。耕す牛馬が一頭もいない。それで食料がないから、結局島に帰ってきても畑に食料がないから、結局ソテツ、幸いに野生のソテツがね各地にあったので、そのソテツを頼りにソテツを食料にする。ところがソテツは生では毒素があって、食べられない。だからこれは発酵させて、毒素を水で発酵させてドロドロにしてから、デンプンを沈殿させてそれを上澄みにした水を流して、何回か繰り返して毒素を取らないと食べられない。こういう面倒くさいことをしないとこれが食べられないものだから、それでも、そんなにしてでも食べないといけない。

 だからマラリアの、マラリアって病気はね、マラリアに罹って高熱が出る前にものすごい震えが来る。寒気がする。寒気がして、震えて、そしてその後に40度位の高熱を出す。高熱が続いたらまた、しばらくしたら熱が下がる。熱が下がったらまた動き出す訳。だから熱が収まった間に、食料の準備をする。しばらくしたらまた、マラリアの寒気がして高熱が出る。それを繰り返していくなかで体力がもうどんどん衰えて死んでいくのがマラリアですけれども。そんなにして、ソテツに頼らざるを得ない、しかもソテツを食べるためにいろいろ発酵させてデンプンを水で流して取ってという、この面倒くさいそれをしなければ、食料ができない、加工できない。そういうなかで結局、栄養失調とマラリアと、何しろ水を確保するだけでも大変だった。今みたいに水道がないから。ほとんど井戸から水を汲まないといけないので、こういうなかで結局島がマラリア地獄、ソテツ地獄。島全体が本当に人間の生き地獄。疎開する前は家畜の生き地獄だったけども、家畜の生き地獄が今度は帰ってきたら人間の生き地獄に変わってしまった。

 それでこの墓、墓はみんなが入ってしまっている。われわれ部落の人の墓はみんないっぱい入っていますからね、墓には人がもう入れないし、なかにはもう腐ったような臭いがするし、なかがいっぱいだから。仕方ないのでここにサコダ浜っていう浜が、これは砂丘地帯になっているんですよね。海岸近くの砂丘地帯。このサコダ浜に、ああごめんなさいね。せっかくみなさんに地図もあったのに慌ててあげんで、ごめんなさいね。これあげましょうね。(プリントを配る音)

聞き手(あ、すみません。ありがとうございます)

 ああ、これもっと早く気づいていればよかったけどね。

聞き手(ああ、大丈夫です。ありがとうございます)

 これ余分に、あなたにあげるつもりで余分にコピー取っておいた。

聞き手(ありがとうございます)

 今何までやった?何までもらったかな?

聞き手(資料1?)

 資料1、地図がね。ああこの地図ね。(地図のプリントを手渡す)

聞き手(ああ、ありがとうございます)

聞き手(サコダ浜の方に?)

 そうです、サコダ浜がありますよね。そこに、これ砂丘地帯だから、掘りやすい。墓はいっぱいだし、土を掘ろうと思ってももうみんなマラリアに罹っているし体力がない。だから土が掘れない。だからみんなサコダ浜に、サコダ浜は集落に近いので、サコダ浜に、砂丘地帯に集団埋葬した。せいぜい2〜3名、交代する人が居ったら4〜5名で、もう棺桶なんか作るそれはない。そのままムシロとかあるいはモッコに包んだまま持って行って、砂地を掘ってここに埋めて、墓標も何もない。木の枝を挿しておくか、石を後から墓標代わりに置いておく。そのようにしてみんなサコダ浜は集団埋葬地になった。それでこのようにして、島全体が本当に地獄になって、特にサコダ浜ではここはもう、死人の集団埋葬地になったものだから、大変な地獄のようになっちゃうね。

島の人口の1/3が犠牲に

 こういうなかで島の人口が、ここの統計をちょっと見ていただけますか?(資料1・マラリア死亡者数(八重山自治体別)の表資料を指す)これは上の方はこれは宮良作という先生が『日本軍と戦争マラリア』という本を書いたときに、作った表ですけれども、この下の表は(資料2・1945年戦争における八重山群島のマラリアに就いてと書かれた表資料を指す)これは1947年というと戦争が終わって2年後に、当時民政府という米軍の政権下にあったので、民政府が調べて作った統計資料だけども、これが終戦の2年後っていうのは、まだ波照間辺りではね、この西表で80名の人が亡くなっているから。ここも砂地自体に墓を集団で埋葬してあるんです。ここ[西表]からまだ島に持ってこない。サコダ浜の集団でたくさんあれされている方。しかも葬式した人も、マラリアに罹ってまた亡くなってしまった。だから誰の墓がどこにあるか、これは戦後大変混乱して、これを白骨を掘り起こして、墓に納骨するまでには大変苦労しているんですよね。

 それで島の習慣からしたら、亡くなって3年間は亡くなった人の墓を掘り起こしてはいけない。それがあるものだから、3年経つまで、3年経ってからまず西表で亡くなった人のお骨を拾いに漁船、体験者の証言で漁船三艘というかね、一挙に朝行ってその日のうちに、幸いにここで集団で埋葬してあったものだから、あちらこちらバラバラに埋葬していたらこれは大変だったけども、またマラリアに罹りながら埋葬した所は砂地に多く埋葬されて居ったので、それを掘り起こして、そして持って帰ってきたというんだけども。これは3年後だから、1948年、48年でないと出ない。まだまだね、こちら[西表]の骨も持ってこられない。サコダの骨もまだ納骨しない。だから納骨しないからまだ位牌もまだ十分作られていない。そういうなかで調べた調査だから、これは不十分であるから竹富町においては、竹富町史を編集するために、この調査をもう一遍やり直して、調査したのがこの数字(資料1を指す)。だからこれ[資料2]では波照間の亡くなった人の数は477人。477人となっているけども、実際はその後、竹富町が調べた頃では552人。だから正確な数字はこの数字[資料1の数字]が正しいはずです。なかには、もちろんこれはここ[西表]で、名前もつけられない人、つけられないで赤子のまま、埋められた子供たちなんかは、もう入っていない。名前がないと一人の人間というのにならないからね。それなども入らない、人数に。

 それで、この552人。戦前は1600名位居ったうちの552名だから、人口の約1/3。この[資料2の]合計は死亡率はですね、罹患者に対して、罹患した人に対しての死亡、亡くなった人。だからマラリアに罹った人が亡くなった率だから、これは人口に対する率ではないですよね。それであんまり比較にならないんだけども、上の表の宮良作先生の書いたこの表は人口に対する人口比。人口比としてこれを作ったので、この波照間は人口比にしたら、約33%。だから人口比にしたら八重山で最も死亡率が高かったのが波照間で、33%ということは3名に一人、戦前は1671名居った人が、552人だから約33%、1/3の人がマラリアで亡くなってしまった。これが八重山における、いや波照間における戦争マラリアの体験ですけど、私は波照間で戦争マラリアを体験して、波照間についていろいろ調べたので、波照間についてを中心にあれしましたけれども、石垣については、潮平さんとかね、山里さんとかの方が、石垣については潮平さん、あるいは山里さんなんかの体験者の話であれしたいと思うんですが、離島、特に離島のなかの波照間、黒島はそれほど派遣された、黒島に派遣された特務兵は何て言ったかな、ちょっと名前は今は思い出せないけれど、そんなに抜刀威嚇して疎開命令をするという、山下のようなそんなではなかったから、やっぱり島の住民の恐れを考えながらやったから、そんなに波照間みたいなひどいそれにはならなかったようですがね。まぁ黒島の(表を見る)、黒島の資料は出してないね。まぁだいたい。

聞き手(すみません)

聞き手(失礼しました)

 まぁ大雑把にさっと私が思いつくままに、戦争マラリアの成り行きをね、あれしたんですけども。

聞き手(ちょっとテープを交換し)

体験者の証言を聞き取る

(オオシロさんはこういった資料を、何でしょう、これってあの市史編纂?)

 そうですね、町史編集です。今ちょうど竹富町の町史編集の作業を今しているんですがね。波照間は今年で原稿締切っていうことであれして居りますけれど。そういう町史編集などに関わったりしたものだから、当時国民学校の2年生では、意味がわからなかったけどね。その後、県史を本土復帰の年、1972年の復帰の年に県史に沖縄戦の記録として、県史の10巻、1は沖縄本島の戦争体験、2は先島編ということで、私は波照間の調査、執筆を担当したんだけど、それまでの間はね、体験者は何しろ一家全滅の家が何軒かね、今すぐちょっと思い出せないけれども。一家全滅、特にこの大泊さんは、(資料を指す)この大泊さんですよね、大泊ミツフさん。

 いろいろと体験証言者の証言を聞き取りながら、大泊さんは大変な苦労をした、大泊さんから証言を取られた方がいいよと言われたので、できたら大泊さんはちょっと体験を書いてもらおうかなと思いながらね、お願いに行ったんですよ。そうしたら大泊さんに叱られてね。自分は今まで30年間、この辛かったことを忘れようと思って、思い出したくない、忘れたいと思って今までやってきたのに、これを思い出して書けと仰るんですか。こんな残酷なことがありますか。自分にはできません、と言ってね。叱られて、私大泊さんの叱られたそれを、はっと気づいたんですよね。ああ体験者はそういう思いでこの30年間、ああもうあんな辛いことは思い出したくない、話したくない、忘れたい。という、これで終わられたから、あの辛かったことを私7年間も波照間の学校に勤めて居ったけどね、あまりその話をしたがらない、したがらなかった。だから県史を書くようになったのは八重山高校に行ってからですからね。それでそのときに大泊さんに、これでもう大泊さんに書いてもらうなんてことは、聞き取るということはもう無理だと思ったものだから、大泊さんに「いや、それでもね、大泊さん、大泊さんの家族16名、17名の家族のなかで16名がマラリアで亡くなってしまって、大泊さん一人だけ、たまたま生き残った。だから生き残った大泊さんの家族のことをわかるの大泊さんだけだからね、一人だから。これを何とか自分のノートにでも、メモでもいいから書いておかれて、子供たち、孫のために書いておかれた方がいいと思いますよということで、もうそれ以上は大泊さんにもうお願いするのは無理と思ったんだから。そんなにしてお願いして、それは大泊さんに関して取材するということはあきらめたんですよね。

 そしてまぁ2週間位過ぎたんかね、そしたら大泊さんから「ちょっと書いてみたけども、見ていただけますか」と電話があったものですから、私行ったんですよ。行ったら、ノートにね、本当にもう殴り書きのような感じの罫紙、原稿用紙ではなくて罫紙に書かれたそれがあったものですから。これを読んだらね、もうこの通り(前に置いた資料を指す)。おそらくね、大泊さん、あの17名の家族の位牌を下ろしてきて、亡くなったあれを調べながら、涙を流しながら、祈りながら、おそらく書かれたんじゃないかと思うんですがね。そして、それを読んだら、もうこれはそのままあれだということで、私は一気に原稿用紙に書き写して、ほとんどちょっとした表記の程度を直す位でね、その通り書いたのがこの原稿です(前の資料を指差す)。これを書いて、大泊さんの所へ持って行って、「大泊さんが書かれたものを原稿に整理したらこういう形になったけども、これぜひ県史に載せていただけないですか」と言ったら、「いやぁでも、思いつくままにもう殴り書きしたから、そんな県史に載せるというのはあれだ」と遠慮しておられたけども、結局私に押し切られたみたいな形で。「せっかくこんなに書かれたこれをそのまま家の家族だけのものにして居ったらね、これは勿体無い話だから何とか県史に載せますよ」ということで。私が原稿に整理したものだから、そのまま私に押し切られたみたいな形でね、県史にそのまましたんですがね。その件、だからこの証言が大変な貴重な証言になった。後からもし、ぜひ読んでいただけたらと思うんだけれど。

 県史にこの大泊さんの証言が載ったからね。今度はね、そして県史が発行されるようになったらね、戦争マラリアの研究者が波照間まで大泊さんを訪ねて、どっと来られたと。まず沖国大、沖縄国際大学の石原昌家っていう先生が、私らが波照間のことを県史にまとめて、大泊さんの証言も入れて、もう一人仲本信幸さんの証言、「戦争マラリアで死線を越えて」という仲本信幸さんの証言があるけど、それは信幸さんがしゃべってもらったものをテープに録音して、私が原稿に掘り起こしてやったものだけどね。この2人の証言を県史のなかにそのまま載せることができたので、その後、復帰の後、波照間に戦争マラリアの調査に来られる人が、特に研究者、戦争マラリアについての研究者などがいろいろ来られてね、大泊さんは最初はね躊躇されたけども、ところが、次第次第にああ自分が書いたことがこんなに大事なことなんだ、ということが自覚されるようになって、そして沖縄県史ができて、約10年位、83年でしたかね、1983年に沖縄国際大学の石原昌家先生が自分の大学のゼミナールの学生を10名位引き連れて、私が書いた県史には、具体的な数値化されたものを書く余裕がなかったものだから、亡くなった人の名簿と年齢位を何とか調べてもらって、それを載せる位で。島全体のマラリアの犠牲者やその証言とかは載せることができなかったものですから。

 それをゼミナールの学生を10名位連れてきて、だいたい1週間位島に滞在して、各村ごとに聞き取りの調査のためのね、集会を持ってもらって、そしてそれで調べて具体的な数値化された。これが『もう一つの沖縄戦』という本があるんですけども、これに『もう一つの沖縄戦』という本に、あのときに県史を基にして波照間で聞き取り調査をして、数値化したそれがまとめられてですね。しかもその表紙に、今まで識名信升先生が海岸に「忘勿石(わするないし)」の文字を刻んだということを、わからなかったんです。私も島の体験者から、識名先生が波照間の人を救ったよ、識名先生からぜひいろいろ体験を聞かれた方がいいということでしたので、何回か行くけども、識名先生はそのとき体調を崩してね、本土の病院で入院して居られた。3ヶ月、半年近くかね、原稿を待たせてやったんだけども、ぜひ識名先生の証言を取りたいと思ってね。原稿を提出するのを待たせてあったけど、とうとう識名先生はもう帰られないで、間に合わないんでね、識名先生の証言をあれすることはできなかったけどね。

忘勿石の発見

 それで、その石原昌家先生の書いた『もう一つの沖縄戦』という記録、もう一つの沖縄戦、すなわちそれは八重山の沖縄戦だけども、八重山の沖縄戦の戦いは、沖縄本島では米軍が上陸して、しかも銃弾がもう雨の、鉄の暴風雨と言われる、そういうなかで住民、それから米軍、日本軍、この三者が入り乱れてね、戦場のなかで逃げ隠れするなかで血みどろの体験をされたのが沖縄の体験だけども、ところが八重山は違う。米軍の空襲で亡くなった人はほとんど少ない。波照間でも空襲で亡くなった人は一人もいない。いないけれども、八重山においてはマラリアで、しかもそれは日本軍が、今[言った]みたいに食料調達のためにマラリアの地に強制疎開させられることを最も象徴的に、そして石垣では山に避難させられるという、そういうなかで八重山における沖縄戦は、沖縄本島における地上戦とは変わって、マラリアでたくさんの人が、特に波照間では人口の1/3もマラリア地獄と食料のソテツ地獄で亡くなったという。それを石原先生が八重山における戦争体験は「もう一つの沖縄戦」だということで、戦争マラリアの地獄を『もう一つの沖縄戦』というタイトルでその本を出されたんですがね。

 その本の表紙のなかに、識名信升先生が岩に刻んだ「忘勿石」、これは私が県史を書いたときはその存在がわからなかったんです。それがあるということがわからなかったんです。識名先生も、奥さんにもそれを話されなかった。奥さんにさえもそれを話されないで、奥さんもそんなものがあることなんてわからなかったけど、西表に戦後、波照間から移住された方々が、あの当時山学校、海岸の岩の上で山学校に参加した子供たちがね、大人になって、戦後西表に移民で、琉球政府の計画移民で移民されたときに、そこで西表に疎開された方々がこれを発見しているんですよね。岩の上に文字が刻まれている。ということを亡くなられたモリチョウセイ[保久盛長正]さんがそれを発見して、しかもそれは「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻まれているからね。これは識名先生が刻んだものではないかということで、あらためてその当時、その山学校にあれ[参加]した人などの証言を聞くと、識名先生は引き揚げるその寸前に、西表から引き揚げるその寸前にね、識名先生が朝夕の山学校を開いたその岩の上で、そういえば何か、引き揚げる寸前の前にね、ツルハシで何か識名先生座って何かして居られたよ。ということを話す人とか、それがわかったものですから、これは明らかに識名先生が刻んだものだということで、それがわかってですね、『もう一つの沖縄戦』の本の表紙に忘勿石の写真が載って。これがまた注目されるようになって。

 結局、あの忘勿石の刻んだ識名先生は戦時中に石に刻むというね、これを忘れてはいけないという。石に刻まれたこれは戦時中に刻まれたものだから、戦後石に刻むといえば、例えば摩文仁の丘にある平和の礎など、みんな石に刻まれていますよね。だから忘勿石という『もう一つの沖縄戦』という本のなかに石原先生はね、この写真にある、表紙にあるこれは識名先生が戦時中に刻まれた反戦平和の原点になるような、戦後各地の石に刻まれた戦争の体験の記録、これを識名先生はすでに戦争中にそれされた。だから石に刻むという平和の記録をね、これを識名先生が戦時中に刻まれたものがこれが原点だということを、この本のなかに書かれてあるんですがね。

唯一の証言遺稿

 だからそれにならって、戦後各地に石に刻んでそれを忘れるな、ここでこんなことがあった、こんなことがあったというそれを石碑があちらこちらに建つ原点になったのは、この識名先生の忘勿石のあれですがね。それでね、その石原昌家先生の『もう一つの沖縄戦』という本の表紙に忘勿石の写真が載ったものですから、これがまた注目されて、今度はその10年後には忘勿石の碑を建てよう、建立しようという動きが盛り上がって、そして西表に戦後移住された方々を中心にして、忘勿石の碑ができる運動が展開されて、それが沖縄本島だけでなくて、しかも識名先生がそれを山下と決死の対決をしながら、島の人を西表島のマラリア地獄から救い出した。しかも子供たちももちろん救い出したという。これが大変評価されてできたのが、あの忘勿石の碑ですよね。だからこれが県内だけでなくて全国からこれに対する賛同があって、外国からも賛同があったと聞いたけども。で、できて忘勿石の碑がこの疎開地の山学校のあった所に今立派な碑ができているんだけども。

 それでこの忘勿石の碑を作るときに、識名先生にはぜひ、私は石原先生を識名先生の所へお供して、ぜひ識名先生から私が県史を書いたときに聞けなかった話をね、聞けないものかと思い、またぜひ識名先生の体験を、証言をあれしてもらいたいと思ってね。石原先生のお供をして、識名先生の所に行ったら、もう識名先生は会話ができない。奥さんが手真似でね、いろいろあれするけども、なかなか通じない。結局そういうなかで、忘勿石についてのことを『もう一つの沖縄戦』の石原先生が書いた本のなかにも、識名先生の証言を載せることはできなかった。

 ところがね、忘勿石[の碑]ができたときにね、記念誌を作ろうということで、それであれしたらね、識名先生が刻まれたあれだから、識名先生の所へ行って、奥さんにもいろいろ話しながらあれしたら、あのときは識名先生は亡くなられておったですかね。奥さんから…ああそう、もう亡くなられて、識名先生が亡くなられてね、識名先生の机の引き出しを調べていたら、こういう原稿が出てきた、と言って原稿を見せてもらったんですよね。そしたら、波照間の小学校のね、70周年か90周年ですかね、原稿を依頼されたみたいだけども、途中までは何とか書いたけども、山下を宮崎旅団長に直訴して、2回直訴したときに、宮崎旅団長から帰ってもよろしいと許可を受けたから、喜んでカケン?に上がって疎開地に行ったら、山下に拒否された。というところで、筆跡がもうちょっと乱れてね。そこまでは書いたけども、もうちょっと続かなかったと思うんですがね。見たらそういうあれで、筆跡は最後乱れてもう続かないで、途中で切れているみたいだったので、ああこれは識名先生自身が書いた証言ということで、これはそのまま埋もらせておいたらあれだからと思ってね、これはぜひ忘勿石の記念誌のなかに載せようということで、奥さんにお願いしてその原稿をコピーしてもらって。そして私が忘勿石の記念誌のなかに原稿を載せたんだけどね。それが忘勿石の記念誌のなかに識名先生の証言、これ唯一の証言です。

 識名先生は自分の奥さんにさえも、戦争マラリアのことをね、自分が体験されたことを話して居られない。自分が学校に勤務した職員にすらも話して居られない。おそらくそれはね、識名先生がもう忘れたい、話したくないという、ちょうど大泊さんが原稿を依頼したときに私を叱ったようにね、そういう気持ちでおそらくずーっと識名先生は居られたんではないかと思うけどね。そして識名先生は波照間の学校に赴任しているときに、何とか戦争マラリアから生き延びた娘一人、娘、これを校庭の池のなかで溺死して、溺れて死なせてしまったんですよね。だから戦争マラリアで生き延びたその娘を池のなかで溺れて死なせてしまった。これで奥さんはショックでね、教職を辞められて、そして識名先生もそういうショックがあったから、あんまりもう話したくない、思い出したくない気持ちで今までずっと来られたと思うんですよね。だからその点で識名先生は職場の周囲の人にも、全然戦争マラリアのことを、自分が刻んだ忘勿石のことについても全く誰にも話していない。話していないで西表に疎開された保久盛長正さんだとかが発見されてね。

 だから発見されたときには、識名先生が生きて居られたか、ちょっとその辺りのことはあまりよくわからないけど。残念ながら忘勿石の建立のときには、識名先生はもう亡くなられておられたものだから、そのなかに識名先生の証言、唯一の証言らしいです、それが。識名先生が戦争マラリアについて自分自身が書かれた証言として。まぁ最後まで書かれなかったけれども、脱稿できなかったけどね。それを一応忘勿石の記念誌のなかに載せることができたのは、これはまた幸いだと思って、もし見ることができましたら、忘勿石の記念事務所、西表の…何て言いますか。あらら、もう70過ぎるともう度忘れしてしまうんですよね。西表の平田一雄さんがやっている民宿のなかに、平田一雄さんが忘勿石の記念碑を建立する実行委員会の委員長を務めて居られたので、そこにその記念誌があるはずですから。何回か増刷したと思うけども。持っていれば、ぜひそうですね、皆さんいろいろ記録して居られるからそこにもこれ必要ですね。識名先生の証言が、そのなかに載ってますので。これもう唯一の識名先生自身が書いた証言の、最後まで脱稿できない原稿ではあるんだけどね。

聞き手(その原稿は県史の方に、県史の10巻?)

 いや、県史の10巻には間に合わなかったんですよ。

聞き手(あ、そうかそうか。間に合わなくて)

珊瑚礁が作った波照間の地形

聞き手(波照間島っていうのは、基本的に畜産の島だったんですか?)

 いえ波照間島はね、不思議な島で、これ珊瑚礁の島だけどね、この黒島とか竹富とか新城(あらぐすく)島など、これは行かれたことありますか?

聞き手(あ、ないです)

 ああ、ないですか。これ見たら、ご覧のようにわかるように、平坦な島ですよ。珊瑚礁の島は一般に。本当にこの、平坦な島で海岸線すれすれにあるような、少なくとも標高、竹富島でいくら位あるかね、まぁ20m以内。海岸線が標高20m位の平坦な島だけどね、波照間島はね、段丘地形になっているものだから、四段丘。どんどんどんどん段丘が上がってきているんですよね。上がってきて、この島の中央がね、一番古い地層。島の中央が、波照間の珊瑚礁が周囲に覆われているけれども、これは珊瑚礁の基盤になっている基盤側もね、もともと海底の泥だったいわゆる東シナ海の海底の泥。これが隆起したことによって上がってきて、どんどんどんどん海面近く隆起したら泥だから流されて、そのうちにまた隆起してきたら、その周辺に珊瑚ができて、ずっと上がってくる。そうしたら、ずーっと流されて、その上に珊瑚が這って、それが上にまた隆起してその周辺に珊瑚が這ってまた[上に]伸びて、というのが四段丘位あるんですよ。だから島の中央の方はね、一番古い地層だから、珊瑚礁は石灰岩だから、雨が降ったりしたらね、風化して流されてしまう。流されて鍾乳洞になって、鍾乳洞が落盤したら今度はいわゆるすり鉢のような地形、これドリーネって言うらしいんだけど、すり鉢みたいな地形になって、あちこちポコンポコンと凹んだ地形になって、それが今度また年数が経つとね、今度は連結してね、連結して結局引っ込んだ地形、これはウバーレって言うらしいんだけども、そのようにして島全体の中央の方は珊瑚礁がもう、島を覆って居った珊瑚礁がみんな風化して、その珊瑚礁の下の方に海底の泥があったでしょ、粘板岩。この粘板岩があるから、粘板岩が島の中央の方に表土に露出している。粘板岩は泥だから、水を通さないのでね、ここに島の中央の高い所が平坦地で、しかも水を通さない粘板岩があるために、この珊瑚礁が風化しないで残っているその間から流れているそれとか、その周辺のすり鉢式ドリーネが落盤して、落盤した所にその周辺にね、井戸ができる。井戸ができて、その井戸を頼りにして集落が中央の方にできて、そしてその周辺は粘板岩、粘土質の土が表土近く露出しているから、水田ができるという。

 だから不思議な島なんですよね。珊瑚礁でありながら、島の中央に井戸があり、井戸を中心にして島の中央の方に集落があり、その集落の周辺に水田があり、というこういう地形だったものだから、琉球王府時代からね。ここ(地図を指すが見切れている。西表か?)はもう米がとれない所。マラリアの所とかなかなか耕作できない。波照間は、島の中央の高い所に豊富な水田地帯になっている。そこに水田を耕作するためには、牛を連ねてね、天水田だから、泥を固めないといけない。固めるから牛を5〜6頭横に連ねてね、土を踏ませる。踏ませるために牛馬が、たくさんの牛馬が必要だから、各農家にはね、各家々にだいたい5〜6頭。私の家にも5〜6頭位居ったけれども。多い家では10頭位の家畜を飼って居った。牛馬を飼っていた。

 だから、戦前は水田地帯であるために、マラリアもないし、人口がどんどんどんどん増えて行ったことに目をつけて、西表、マラリア地帯に波照間から強制移住をさせて、そしてこれは西表だけじゃなくてね、1771年にね、明和8年に明和の大津波という大津波があって、この西表[石垣の言い間違い]の東、大浜、白保、東海岸はみんな全壊してしまった。全壊してしまったので、琉球王府はね、この波照間から白保に418名かね、古文書にそうあるけど。白保に418名、大浜に419名強制移住させられて、明和の大津波で壊滅状態になった白保、大浜を波照間からの強制移住で復興して居るんですよね。そして宮良のような部落には、小浜島から、小浜島の高い所から強制移住という具合にして、この石垣島の東側の明和の大津波で壊滅した状態のこれは、離島の、平坦な島じゃなくて、豊かな人口の多い所、波照間はそのなかでも最もこのような地形で水田地帯になっているから、これに目がつけられて琉球王府の時代から、しょっちゅう強制移住させられている所で。

 戦前[戦時中の言い間違い?]は水田地帯だから牛馬が、水田を耕作するために牛馬が多いから、そこにまた日本軍が目をつけてね。今度は全島民をまたここ[西表島]に行かすという。波照間は豊かであった、豊かな土壌の不思議なこの土壌の豊かさのために、波照間は権力によって、時の権力に翻弄されてね、寄百姓、あるいは強制移住、強制疎開。こういう悲劇を受けた島だけども。それで特に波照間は土壌の関係、地形、恵まれた地形がある。島の中央に水田地帯がある、珊瑚礁の島のなかの水田地帯が広がっているという、そこに琉球王府の時代からいろいろ目をつけられて、人口も増えるし、増えた人口を強制移住、あちらこちらに寄百姓したりする、そういう運命になってきているんですがね。

 今度の戦争マラリアにはもう全島民が、この牛馬の肉をそっくり軍が取り上げるために、住民が居ったらおそらく邪魔だから。西表島へ強制疎開。ここにもう住まわせる。この牛馬をみんな取り上げてあるから、強制疎開して、最後はここで集団自決であれする、という軍の腹積り。実に今考えられないようなことが、ある面では本当に不幸な悲しみの歴史を辿ってきて居るけど、本当に権力によって翻弄されている歴史を、ここ波照間のなかにはあるんですがね。

聞き手(ありがとうございます。ちょっと休憩しましょうかね)

 ああ、そうですね。お宅も疲れたはずだから。私がしゃべるばっかりで。

聞き手(いえいえ、何かもう一つの他のグループのちょっと)

 

 

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体験記録

  • 取材日 年 月 日(miniDV 60min*2)
  • 動画リンク──
  • 人物や情景など──
  • 持ち帰った物、残された物──
  • 記憶を描いた絵、地図、造形など──
  • 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─

参考資料

戦場体験放映保存の会 事務局

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