本間 留蔵さん
生年月日 | 1912(大正元年)年11月12日生まれ |
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本籍地(当時) | |
所属 | 陸軍 |
所属部隊 | 第108師団輜重隊→、第125師団野戦病院 |
兵科 | 輜重兵 |
最終階級 |
プロフィール
1912(大正元)年11月12日生
マルクス主義者。治安警察法違反で前科2犯。無産者運動に携わる中で赤紙を受取り、輜重兵として弘前から河北省へ出征、河北省・山西省で従軍(第108師団輜重隊)。2年数ヶ月の従軍の後、現地除隊し満洲で就職。2年ばかり働いた後日本に帰国。再度渡満し満洲製鉄に就職、終戦直前に再度日本軍の召集を受け、第125師団野戦病院に配属、通化にて2週間ほど従軍し終戦を迎える。通化事件の際は事前に避難。国共内戦期は人民解放軍側で従軍し野戦病院に勤務。
インタビュー記録
憲兵隊に尾行されての召集入隊
その内容に、スローガンの中に「帝国主義戦争反対」ってなったんだよ。最初は、いろんな会合には「警察立ち会いでなきゃ許さない」とか何か言ってるうちに、だんだんだんだんといろんな経過を経て憲兵隊が来て会合に参加するようになって、誰それがどんなことを言ってるってことを記録していくんでしょうね。それで結局、戦争が始まって召集がジャンジャンジャンジャン始まった頃、もう東京で1年ばかり居って…田舎の方です…小作争議があって「そいつを解決することになったから帰って来い」という電報もらって、それで帰ったら組織が全部解体してバラバラになって、もうそういうこと、会合ができないようになってる。だからそれぞれが自分の行く先を決めて、飯を食っていけと、こういう状態になっちゃって行く所無い。しかし僕はもうしょうがない、どんな弾圧されてもやらざるを得ない、ということで、荒れ果てた、あの、我々のやっとった事務所がある其処へ行って、2人行って掃除しておった。
そういう所へ赤紙が来たわけですよ。「いつ〇〇日まで入隊せよ」と。こういう赤紙で。来たからには行かにゃいけないと。行かないと、途中逃げるわけにいかないから。それで家に早速帰って、その日に間に合うようにして、いわば召集されて行ったんですよね。行ったらね、雨降ってね、もらった日の丸の旗がみんなね、色落っこっちゃって赤旗になって「赤旗持っていくのか」なんて他人に冷やかされながらね。それでまあ一応停車場に行って汽車に乗って弘前まで行ったんですよね、弘前の輜重隊。
輜重隊の入隊手続を経て、まだ軍服着ていない前だから、ブラブラして居ったら、2人、ネクタイ着けた紳士が2人来て「お前、我々は憲兵隊だよ。お前を送ってきたんだけど、お前の家行ったらいい人ばっかりだったね。」と言うから「ここへ来てこれからどうする?」「どうするったって、ここへ来ちゃったんじゃしょうがないじゃないか。」という話で、ちょうどそのとき農民運動が、冬が雪の害があって大変いろいろな被害があって、雪害対策をやってた頃で「そんなこと今更ここへ来て話したって、もうここまで来たらどうしようもないじゃないか」という話から、そうしているうちに小隊が決まって配属が決まっていったときで、小隊長が「本間、出て来い」と。
出て行ったら「お前戦争に対してどう思う?」「へへへ」って笑ったら「意見があったらいつでもこの小隊長に言って来い。」大きな、なんか怒ったような言葉で僕に話しかけて、それっきり、班に編入されて、それで毎日忙しい。
輜重兵になり中国へ
平時の所謂練習だね。輜重隊だから物を輸送する。昔は輜重隊って言うと兵隊の仲間に入れなかったんですね。「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々やトンボも鳥のうち」こう言われて馬鹿にされておった兵隊なんだけれども、そのときは輜重隊と言って…輜重隊員って言ったのかな?…どうか分からんけど、とにかく兵隊になっちゃって、でそのまま班に編入されて、今までかつてそういう経験が無い馬を持って、その馬に車をつけて弾薬を積んで、出発。その練習を毎日やるんですよ。そして、馬をとにかく手懐けなきゃいけない。その馬も全部召集された馬そのままだからね。女馬でしかも大きな馬。見れば怖いような馬。言う事を聞くわけがないよね。だけどそいつを自分の物にしなきゃいかん。というわけで、車をつけて、練兵場までとにかく行くわけですよ。馬は物凄いこう暴れるんじゃないけど、前から馬は集団生活しているからね、前の馬から離れたらもう走ってもすぐに追いつかなきゃ気が済まない。そういう馬に車を引っ張って行くもんだからまるでもう酷い目に遭う。こっちは殺されるよねホンマに。何回もそうやって馬は逃げて行って、どっか山の中に逃げて行って、こっちは手ぶらで兵舎に…兵舎ったって野営だからね。召集兵はその時は普通の現役と違って兵舎に入れない。全部外に小屋を作って中に入ったわけで、その中で後は民間に宿を取って、夜中に起こされて練習に連れて行かれて、そんな生活一月ぐらい弘前でやったかね…一月もやらない、1週間か2週間ぐらいだろうと思うんだ。
そうしてるうちに出征ということで弘前まで連れて行かれて、弘前のウジナっていう所で(弘前ではなく出航前の宇品と混同か?)、そこで練習をやって、毎日その練習。馬を扱ってその馬を自分の言うことを聞かせるような練習、物を積んで引っ張る。毎日毎日朝早くから夜中までそういう作業でもう追われてね。忙しい思いして、そうしているうちに船に乗せられて、中国のタンクっていう所かなタークっていう所かな(塘沽)、港が入った砲台の近所のそこに夜中に上陸して、そしてその馬に車を付けて、本格的に今度弾薬も積んで、そして出発。
どこへ行くのが全然こっちは知らないから、とにかく命令、前が行った後にくっついて行くだけ。で確かにね、盧溝橋を渡ったよ。盧溝橋というのは、あそこの盧溝橋事件のあったところをね。あそこから戦争始まったんだから。そこを渡って、後はもう、こっちは戦闘部隊じゃないんだ。物運べばいいわけだから。そういうことで、どこまでどんなふうに行ったか全然分からないけど、河北省の中をぐるぐるぐるぐる、こう前にくっついていただけ。戦争の酷いっていう奴は、それからが本格的に始まってきたわけだけどね。
こっちはもう何遍もこのあいだ車のバランス(?)がわからないから、適当にこっち連れて引っ張るから、ガタガタガタガタやっているうちに、馬の鞍って言うのかな、あいつがブッ壊れたりすると、人に手伝ってもらって、直して、そうすると前の距離をとるから、その時にそれだけ遅れるから、馬は止めておいて、終ったらソレ行けって。そうすると馬は、◯◯飛んで、こっちは躓いて転んで、脚の上を鞍の鉄の車で脚が折れたかと思ったぐらいね、あれ、どういうわけか調子がよくて、それで何でもなくて、ちょっと痛いから車に乗って、2~3日それで行軍したんだけど。そんなこともあったし、もういろいろな事故を起こして死に目にあったことが2~3回ありますよね。馬の癖があってね。こういう道路を壊されているから、壊れた所の道路を逆さになってっこう、馬は車を引いていくっていう場合があった。それが、行って、ガッと曲がって、門入ってこう、行くんだけど、そういう危険な所何箇所かあってね、で、背中の轅木って奴に車が両側にあるでしょう。あれ背中突かれてね、それで前の門のレンガのところへ車と〇〇が突かれるのとね、それで挟まれてばったり倒れて、それで人が見てさ、「あ、本間死んだ」と、こういうふうに思われたららしい。赤いレンガだから真っ赤になって。ところがそれがまたね、不思議と何でもなかったんだよね。背中が真っ直ぐ轅木に突かれて、馬の走る勢いと轅木の尖った所で背中突かれた、穴空いて突き貫かれたって不思議じゃない程の力なんですよ。それがね、倒れただけで起きて、それから1週間ぐらい、ロバの上に載せられてずーっと行軍して行って。それが今になっても何でもないのね。不思議なぐらいそうやって死にそうな、そういう状態を、治って、まだずっとこう進軍するけど、どこをどういうふうに歩いたか、それはもちろん分からないけど、途中で雨が降って道路が悪くなって、人が殺されている中を、死人の上を車引いていくんですよね。
真面目な良い兵隊になることにする
その残酷さってそのとき初めてよう分かったけど、戦争は占領とか作戦とか占領とか侵略とか言うけれど、そんな言葉じゃないよ。謂わば、無理やり人を殺し、略奪し…食い物なきゃ略奪もするからね。そして火を点けて焼く。だから最もやっちゃいけない大犯罪を、戦争はそれを大げさに繰り返していくだけ。
僕らの前はそういう歩兵とか砲兵とかそういういろんな部隊が前へ行っているわけで、後方を物積んだのがくっついて行くだけだからね。戦闘が大事じゃないから分からないけどね、そうやっていく。そしてだんだんどこをどう歩いてるか、どういう作戦やってるか全然分からないけど、で夜遅くなって、集合位置に付けば、そこにちょっと広場があって、そこへ馬をずーっと入れて行って、そこで休ませる。その時、一番最初にやらなきゃいかんこと。馬にまず草を食わせること、水を飲ませること。そして自分のことをかまわない。とにかく馬を倒してはいけないと。これは鉄則なんですよね。もし馬が倒れて、車を引けないようになって「お前それ背負って行け」と、こういう無茶なことを言われるんだから、だから馬を大事にするということです。結局ね、それを水を汲んできて、どこで水であるか探して歩いて分かったやつを汲んで、飲ませて、草を食べさせよう
と思って、草のあるところに草を掴んだ瞬間、その下に人間が殺されている。暗いから分からないんですよね。びっくりして…同じ人間が。そうやって殺されているんですよ。それで水を汲んで来て飲ませた水も、その水で我々は飯盒炊爨して御飯を炊くでしょ、その炊いた米を研いだ水、朝見たら…夜が明けて明るくなって見たら、その池の中に死人がいっぱいいる。とてもじゃないけど話にならないね。
それでも死ぬわけにいかないから、食わして飲み食い食わしていくためには、そういうところも平気でやっていくようになっちゃうんだね。それはだんだん慣れてきたけどね。僕はその時考えたことはね「俺は弾に当たって死ぬということそれは避ける。何とかしてそれは避けたい。こんな所で死ぬわけにはいかんで、生きていく。」生きていくという方法。いろいろ考え出した。やるには、「俺は戦争反対やったんだ」なんていうとやられるから、真面目に良い兵隊になると。表面はね。真面目にやったんですよね。何年間ね。あそこに居るうち。
そうしたらね、やっぱり真面目にやっただけに、階級が上がるんですよね。成績が上がるんですよ。作戦するために僕も最後は班長代理なんかやって、20人ぐらいいる班の序列をつけていくんですよ。それがその良い序列の1番、2番になってくると、成績からだんだんだんだん上っていくんですよ。んで、選抜上等兵になっちゃって。そうすると、ある程度自由が利くんで、僕はその前にその運動をやっていたときの憲兵隊の…あの名前が載ってるわけなので…ブラックリストっての。
だから「お前そういうことやってきたから逃げられちゃ困る。だから、中隊本部来て、陣中日誌を書け」と、こういうことを言われて、陣中日誌係になって。中隊本部で。だいぶ体は楽になったんだけどね。陣中日誌ってのはねえ、大変いい加減なものなんですよ。軍曹あたりが口述するんですよね。こういうことあって、どこそこ行って、戦いをやって、こんなふうになったということを、まあ大体オーバーに。我々が戦いに勝ったというふうな方法で、ずっと述べるのを記録していくんです。それが陣中日誌になるわけですよね。
そういうことをずっとやりながら。ある時は自分の所属する班に帰ると、班長が「班長できなくなったからお前班長代理をやれ」とか、そういう意味では待遇をされるんだ。だからある程度自由効くから。危険な戦争の場合は、ある程度危険なところはなるべく避けるということができるようになるんですよね。
そうやって生きていこうと。で、陰に回っちゃ、皆召集兵だから皆苦労して家のことを心配して。行った途端に、いつになったら我々帰れるか、そんな話ばっかりしているんですよ。だから帰りたくて。誰だって死にたくない。「いや、この戦争は長続きはしない」と「今に負けちゃう」。
日本が戦争する原因というのは、不景気で食っていけなくて、資材が無い。日本はもうほとんどそういう大変だと。だから侵略し、そして略奪して、その中で生きていくというのが、本来そういうものから始まるんでしょ。そういうことがだんだん分かってきて。
あの戦争は何年ぐらい居ったかな。おそらく2年数ヶ月じゃないかね。部隊名もね、何回も変わったんですよね。最初弘前行った頃はね、「谷口兵団」(第108師団、師団長:谷口元治郎中将、弘前で編成された)とか確か言ったね。それが番号に変わったり、また部隊長が代わる度に名前が変わっていって、もうほとんど記憶がないんですよね。
生きているものは全部殺した
特にね、酷いもんだなと思ったのは、ジンダイソン事件というのがあったんですよね。山西省の山奥で作戦したとき、3個中隊で1個連隊になるわけで。あ、1個中隊じゃない…3個小隊で1個中隊になるのか。それで僕らの中隊が、大体180~200頭ぐらい持ってるんだね。1個中隊でね。で、それだけの馬車を持って行こうとするんだけど、何かあってね…3中隊だったのかな。3小隊だったのかな。その小隊で死んだ兵隊が居って、その慰霊祭か何かやるので、1日遅れて、その代わりに他の中隊が前に僕らが行くときの時間に合わせて前へ出たとか、そういう話を後で聞いたんだけど、本当かどうか分からないけど、その中隊が、ジンダイソンという途中であって、山を登ってた上に広場があって、そこで馬を休憩させて昼飯を食べたりする場所があって、そこが襲撃されてほとんど全滅したことがあるんですよね。あの時の馬で18頭しか残らなかった。人がバラバラと逃げちゃっていなくなっちゃって、どこにどうなっているか分からん。3人が4人、とにかくそこから逃げて帰ってきた兵隊が居って、「こんな状態だ」って報告を受けて、これで「我々でなくてよかった」というのを一番先に僕は考えたよね。
で、そこへ兵隊を「戦わないで逃げてくるとは何よ」とか、或いは「軍法会議だ」という話もあって、どうなったか分からないけど。で翌日、僕は小隊そこへ行って、そして死んでいる兵隊を集めて、そしてそれを…馬はもうどこかへ連れて行かれた。ほとんど馬はいなくなって、あちこちに死んでいる兵隊が居るんでそれを集めて、そして、いわば木材を集めてきて、そこへダーっと並べて、焼くんですよね。だから死んだ人間なんていう、考えられない。まるで薪雑把でも担いで歩くような格好ですよね。みんなこんなふうになって担いで、そして馬車に載せたり、トラックに乗せたり。そしてそこまで持ってきて、それで焼くんだからね。ああいうふうにしてね、死んだ兵隊を…もう焼けないとみんなかきまぜちゃうから、誰が誰の骨か分からないようなね。それをきちっと、戦死したということそのものがそのまま扱われるかどうか分からないけどね、その後のこと。そんなこともあったり、それは戦争ってあんなもんかと。
そしてそこへ襲撃されたところへ行って、今度この逆襲するんですよね。こっちの兵隊の方がね。それがね、生きているものは犬でも猫でも子供でも何でも全部殺しちゃう。そこにいるのは農民で、もちろん兵隊はいないわけだから、残っている者は全部どこも行けない農民ですよね。そういう連中を全部殺しちゃう。酷い殺し方をする。中にはね、生まれたばかりの子供に火の中に放り出して殺したりね。
それはもう徹底して戦争ってのはそんなことなんですよね。占領とか侵略とかという言葉で文章にはなるけれど、実際戦死した者でないと分からん殺し合いなんですよ。しかも残酷な殺し方。それは相手構わず皆殺しなんですよね。生きているものは全部殺した。もっといろいろな、ひどい話、いろいろあって、ところどころに僕ら進軍するときに歩兵が5~6人ずつ警備しているところがあるんですよ。いろいろな話をしている所を聞いたことがあるけど、戦争に来たんだからね、たまには戦争の、人間の肉も食ってみたい、だからそういうことで若いパチパチしたその男を連れて来てさ、その肉を取って食べてみたらさ、その感想を述べて居ったよ。美味いとか美味くないとかね。ひどいものだなと思いながら、そういう話を聞きながら、もうこれはだめだと。そういう事件もあったし……
作戦
作戦のことは全然分からないからね。ある一定の場所に来て、1月、2月休憩して、そして次の作戦に準備するという期間があって、それが終ったら今度何処其処を侵略攻略すると。例えば重慶を行って重慶を攻略するとか、そういうふうな一定の場所を決めて攻略する場所を決めるんですよね。そこまで1個旅団か1個師団か、とにかく全部揃えて行くわけですよね。僕ら一番最後尾。物・食い物やら弾薬やら積んだ車引っ張っていくわけだけどね。そこまで到着するまでは大した事故なくしてそこへ到着するんですよ。おそらく1週間ぐらいかかって。そこの目的地まで行くんじゃないかね。だけれども、その期間は大して戦いもなくてスルスルっと行くんですよ。所々でこう銃撃やったりなんかしてやるけど、それはもうなるべく、そういうときはもうね、弾に当たらないように、そしてそこまで行っちゃう。で、そこを攻略したら、そこで1週間ぐらい生活するんじゃないかね。そこでやって……食べ物がないと全部略奪。どこの家でも行って家捜しして食べ物あったら持って来る。それからもう馬は全部その家のある所の中に入れて、だからそこの町・部落全部馬小屋とか、人間がそれを出して、そして何でも勝手にこうね、振る舞う。人殺しもできる、何でもできる。もうそうなってくると、そこの町、村の人は皆もう避難してどっか行っていなくなっているから、もうほとんどそういう所に行って、思い切り散らかしちゃう。みんなもう馬小屋みたいになって、もう全く酷い状態の中に荒れ果てて、最後に帰る段階になって、火をつけて全部燃やしちゃう。で、帰りになってくると、謂わば、中国の、あの頃八路軍と言われた、あの解放軍ですね。それがこう全部陣地を構えて待っているんです。〇〇のこうやるんですよ。その時が危ないんですよね。殺される。その時は元気な兵隊は側方警戒と称して、僕らはほら、戦闘部隊じゃないから……それを守っていく兵隊を作るんですよね。1個中隊10人ぐらい。僕はその側方警戒の責任者にされたことあるんだ。この下をずっと歩く、行軍する、兵隊と一緒になって上がったり、山を登ったり降りたり、こうやって側方警戒ということだ。敵がいるかいないか、それを探りながら行くんですよ。居ればね、弾が飛んでくるから。居ないってことになると今度旗で合図しながら。
そして帰ってくるけど、おそらく作戦やるとどのぐらいか知らないけど相当な犠牲を払うんですよね。工兵隊と砲兵が居る、歩兵が居る、歩兵はもう歩けなくなって重い背嚢背負って歩くから足を痛めてほとんど這って歩くような。疲れちゃって。そして僕らは車を持っているから「乗せてくれ、乗せてくれ、荷物を乗せてくれ」と言ったってね、そんなの勝手に載せちゃいかんと言われながら、でもやっぱり可哀想だからね、乗せたり、荷物を載せたりして。そして、元の出発した所、前の所に帰って来るわけだけどね。
戦争っていうのはね、そんなところですよ。おそらく、略奪と、殺しと、せっかく戦争来たんだから人を殺してみたいなんていう人も出てくるし、田んぼん中歩いておって人が居ったらバーンともうね、鉄砲を持って歩いてるからね、殺してみたりね。それでね、敵の兵隊だったらしいものを連れてきてね、将校あたりだんびら(軍刀)を持っているからね、首を切ってみたりね。そりゃ酷いもんでそりゃもうね、これが侵略戦争というものだと。こんなことがあって堪らないな。
だから僕はいつも、表面じゃ真面目にやっているけど、裏に回っては「この戦争は長く持たない、必ず負けちまうんだ。」そういう話をすると喜んじゃってね、「いつ頃になったらこの戦争は終るかね、これは分からないけど、長く続かない」この戦争がどんどん拡大していくでしょう。そしているうちにこう世界…大東亜大戦ナントカ戦争いうね、アメリカや鬼畜米英なんていうときはもう、アメリカにだんだん兵隊がこう、南方方面にどんどん行っちゃうでしょう。僕は南方には連れて行かれなかったけど、満洲から中国を征った、ああいう兵隊の中で全部大部分南方に回された兵隊も居ったらしいね。僕は行かなかったけどね。
除隊、満州で就職する
そしてね、2年数ヶ月そういう戦争をやってるうちに、一旦ここら辺で、帰還すると、日本に返すということになったんですね。帰還っていうのかな。復員というのかな。何ていうのかね。とにかく帰るということになった。その時に部隊長に手紙を書いてね「俺は日本で居った時マルクス主義者で、思想運動やっていろんなことをやって、今頃日本に帰ったって就職するところも雇う人もいねえだろうし、俺も帰るつもりは無いから、俺は現地にここに除隊させてくれ」と「俺帰らない」と、こういう手紙を出しちゃったんですよね。中隊長を通じて、中隊長が部隊本部に。あのときは粕谷部隊って言ったな。中佐か(輜重兵第108連隊長・粕谷留吉中佐)、そこへ持って行ったらしい。そしたらそれが1日か2日おいて、部隊の副官から「本間来い」っていうんで、その本部に行ったら、「お前どうしても帰らないということだったら、それは許さない。どうしても帰れ。これも部隊長の命令だ。その代り満洲に就職先を決めてやる。そしたら帰るか。」って言うから、「なら考えてもいい。」と。そして僕のこと、やっぱり履歴書を出しておいたから、その履歴書を、郷里の謂わば役所がどこかに問い合わせしたんだろうと思う。そしたら「お前は賞罰なしと書いてあるじゃないか。嘘を書いたな。」僕は前科2犯なので、あの、小作争議やったり労働運動やったりして居ったもんだから、治安警察法違反。それで前科2犯。それで、それを書かなかった。「そんなの書いたら、だって、仮に就職をアンタがやってくれるにしたって、前科者だったら頼んで雇ってくれないだろ。」と。「いやそれは大丈夫だ」と。
なんで決めたのが満洲の佳木斯(ジャムス)という所ね。牡丹江から向こうへ行ったあの、所謂東満洲っていうのかな、謂わばソビエトに近い方。ずっと奥の方なんですよね。そのところの本店は哈爾濱だったけれど、支店は牡丹江だとか佳木斯だとか言うところにあって、そこの支店に就職する。紹介して、来てもいいということで行ったんですよ。一旦帰ってすぐ準備して行っちゃったんですよね。
そうすると、兵隊の方から僕を紹介するのに良いことを書いて紹介したんだろうと思って、僕を期待しておったところが、考え方が全然みんなと違うから、僕は中国人に対して、あの頃満洲人いったね、よくしてやる。ところが皆がその「日本人はここは治外法権だから殺したって構わねえんだよ。徹底的に使いこなしていいんだ。」僕はそれは出来ない。そういう関係だから上手くいきっこ無いんですよね。
だから僕はあそこで2年ばかり居ったんだけど、そうしてるうちに少し貯金もできたし、ここら辺りでもうそろそろ28、29、30近くなってるのね。だからそうなってくるとね、今度時間が合わなくなってくるんだよね。兵隊本当はね、21、 22じゃなくて、24歳ぐらいのとき行ったんじゃないかと、召集されたんじゃないか思うんだよな。そこら辺を忘れちゃったんだよね。なんでだんだん俺も所帯を持った方がいいなと思って、長い手紙出して、一旦いっぺん帰るから、嫁でも居ったら探しておいてくれないかということで、すぐ帰ったんですよウチにね。
そしたらね、偶然にこの婆ちゃんね、うちの近所の僕の部落の奥の方の部落の人と結婚する約束して、そこで見合いするということになっておった、そういう矢先だったらしいがね、だからうちの家内の親の実家がうちのすぐ近所なんだよ。部落のね。そこの家の、部落一緒に居った所の、親父が東京出ておった、その親父と兄弟の兄の方が田舎へ残っておって、弟の方が東京へ来て、家族を引き連れておった、その娘なんですよね。その娘が、前の予約しておった、見合いするはずの人をやめて、僕の所に変えちゃったわけですね。誰も知らない。うちの兄貴が、どっか行くので汽車に乗ったら、これの叔父にあたる人も、汽車に乗って「お前どこ行くんだ?」と。父の相手のこれの叔父が「これから東京へ行くんだ。東京でこういう娘がおって、何処其処へ嫁行くように見合させようと思ってこれから迎えに行くんだ」って言ったら、「ああそう、俺の弟も満洲から来てるんだ。嫁をもらって行きたいと言って来てるんだ。」「ああそうか、それだったら、お前んとこやろうか。」その汽車の中で2人で話して決めたのが、そもそもの縁の始まりなんですよね。だから、お互い知らない、みんなね。知らないけど、突然そういうふうになっちゃって、でウチに来ちゃって馬鹿に近い所になって、不思議に思いながら、問題しないままでもう結婚式が始まっちゃって、結婚してその翌日、満洲に行くために東京に来て、だんだんそういう話が分かっていって。そんな状態の、縁は異なものでね、これで結婚して65年一緒に居ったっていうわけですよ。最近、去年の10月に死んじゃったけどね。こんなところだよ、戦争に対する思い出ってのは。
満洲製鉄に就職、2回目の召集と敗戦
それで第2回目に満洲へ就職してから、終戦ちょっと直前にまた召集されるんですよ。そして通化という所の、東通化の山の下の広場のあるそばにテント張りの野営の、所謂野外部隊がね、そこで召集されて。そこで約2週間くらい居ったかな。腹壊したりなんかしてね。
そうしているうちに天皇の放送があって、ガーガーガーガー言って何言ってるか分からなかったけど、戦争終わったんだって。じゃあここで居ること無い。電車内でそこで居って、じゃあここずらかっちゃおうと。ここでおったら、あの命令ではソビエトに武装解除を受けよと、そういうことだったけど、ここで武装解除されるわけがない。俺はこっちで家があるんだから。出ちゃえと思って、ありったけの物を背負って、そして、謂わば脱走だね。戦後の脱走だから脱走兵にはならなかったけどね。帰るのにも、汽車はもう無いんですよね。でないのは、その汽車は出たんですよ。で朝鮮人もこの兵隊に全部召集されておったから、それで運転のできる男が居って、最後の列車を運転して、僕が停車場へ行ったら、あぁこれから出るんだって。乗って、僕の勤めておった満洲製鉄という所に、石人(セキジン)という所まで行って、それで降りて家に帰ったら、家の家内がびっくりして。そういう状態で家に帰って、それから戦後始まって、それからずっと皆…
918という言葉、今でもね、向こうで言うけど、9月の18日、918ですよね(満州事変の日)。その日は暴動しちゃったんですよね。周辺の農民が立ち上がって日本人の家の所で。とにかく襲撃して来るんだ。だからどこの家も全部とにかく壁の中から、天井から下から全部剥がされてある物全部持って行かれちゃった。そして皆そのね、青年が入っとった寮があったんですよね、その炭坑の寮。そこへ全部集まっちゃって。そこで僕はね、その隣であった病院の、隣にあったヒ廟子(?)、そこに中国人が、僕が前にそういうことをやっておった人間だっていうこと、いろいろな機関があるのかねえ。僕が話したことからそうだったのは、僕は労働運動をやって戦争反対しておったっていう人間であるということは。それで僕を守ってくれたんだよ。だから中国人から僕は助けられたんだね。あそこへ行ったら安全だからあそこへ行け、っていうふうで病院の隣にあったヒ廟子(?)に入って、僕ん所だけはやっぱり暴動が来ないんですよね。だけど、ここでずっとしているのもおかしいなと思って。まぁ隣がちょうど寮だったから、その寮の部屋に入ったけどね。そういうことで戦争が終って、僕は戦後が始まるわけですよ。
国共内戦の中、人民解放軍の野戦病院に勤務する
そうしているうちに中国の内戦が始まって、蒋介石軍と毛沢東軍という八路軍と内戦が始まったでしょ。内戦があると負傷人が出る、負傷兵がね。そういうのを、野戦病院を私が作って、そこに人が足らないから、日本人の中で日本人は文化程度が高いから、医者でなくたって大概のことができるってな訳で募集に来たんですよ。一番先に僕は名指しで「本間行ってくれ」と。日本人民間人が集まっている場所があるんですよ。そこからさ。俺という人間がやっぱりそういう所じゃ「うん」と言うだろうと思って来たんだろうと思うんだよ。それで僕はもう家を回って、40人ばかりね、子供を含めて人を連れて、その解放軍の野戦病院開いたら…所謂民間…を全部病室にしてそこへ行ったんですよ。それからがずっと8年間その仕事をやって。
あの頃、毛沢東の論文でね、「1年余半で以て中国全部を解放する」と、「しなければ駄目だ」と、こういう論文があったんですよ。それを実践するためにはこういう作戦、という作戦会議をやったんだろうと思うので、僕等はその時はもうね、通化という所はね。朝鮮の隣なんです。で臨江という所に居ってね、あの鴨緑江を境にして、こっちは朝鮮こっちは満洲と。ずっと山奥へ入って、謂わば戦争を負けて追い込まれたという格好から始まる。そこでこの、いよいよ反撃始まっちゃって「1年余半」という論文が出てから、それがずっと前に出てきちゃって、1年余半で本当に海南島の方まで全部を解放しちゃったんですよね。んで蒋介石が負けて、台湾に逃げて来ちゃったけど。
その間ね、昔話やいろいろな張学良が解放軍と一緒になって戦った話とか、張作霖が日本の謀略によってあそこで…張学良の親だね。あそこでほら、戦争の満洲ナントカって、あの事件があって、それからこの戦争が始まっていくわけだからね。
それで結局、そういう所もずっと通って、湖南省を◯◯って、湖南省から海南島の手前まで、その海南島作戦に僕等付いて行って、病院になった。後方病院だから、尖兵はずっと向こうへ行って死んでいくんだけど、そこから出て来る病人を扱っていたわけで、それで8年間かかってそこまで行った、それが経験。8年間の解放戦争の経験者さ。日本軍の占領、侵略戦争と中国の解放戦争と2つやってるわけです。両方やっているんだからね。よかったのは、解放軍に入って8年間の間に勉強しましたね。だから今でもいろいろあるけれど。唯物論とか、謂わば前に僕がやっておった戦争反対論がそのまま実践できたという、今になってくるとね。
小泉内閣があんた方支持してるかどうか知らないけど、やり方はね、やっぱり日本の軍国主義になりかけたときとよく似てるね。5.15事件2.26事件から5.15事件、ああいう事件があって、僕は農民運動やったり労働運動やっておる関係で、あの頃の噂話、知ってるのは見てるわけじゃないけど、その影には必ず日蓮宗があったんだよね。井上日召っていう人知っているかな。あれは5.15事件(井上日召が首謀したのは血盟団事件)か。あれは日蓮宗の坊さんでしょ。だからね、今の公明党みたいなものね。あの先駆者じゃないかね。だから必ずね、裏にああいを担っている。必ずあるんですよ。(以下公明党のくだりの3文、2行は非公開か)俺も大嫌いなのは公明党。創価学会。これが戦争犯罪なんだと思うんですよ。そういう過去が今だんだん憲法問題を通じてひしひしと感じるようになってきましたね。だから危ないんですよ。だけど、前みたいなああいう戦争はできないと思いますよね。だから、お手並拝見という所で今は見ていますけどね。必ず失敗しますよ。これから改革という名前でみんなが騙されてね、改革しなきゃイカンわけだから、良くなりっこないんだよ。だからみんなが考えて、今小泉内閣もしてるのは、改革という名前がふれて投票するでしょう。その改革はどういう改革をするかということ分からないでしょう。あなた方はどっちか知らないけれども、僕ならそういう考え方、悪い方向、日本に1千1兆円も借金を抱えて、そしてこれから老人がどんどん増えてくる。我々にくれる年金はどうしてくれるのか。先のこと真っ暗ですよ。
他民族はまるっきり人間扱いしない
だからちょうど中国を攻めて行くときに、経済状態が、日本はものすごい悪くて、食う物は無い、何も無い。分捕って来て、ある所から分捕って来いという戦争なんだから、結局は分捕るということと、戦争は侵略戦争とか占領とかいう美名みたいな、そういう名前誤魔化されてああいうふうに最も酷い犯罪を犯しているっていうのはね。
多くの人を殺し、中には道路悪くて車が走れないと部隊長が来てね。「そこらあたりにいる支那人は皆悪い連中だから、道路が悪かったら連れて来て皆道路に埋め込んで、その上に車を通せ。」なんてこういう命令する部隊長もいるわけだからね。人間扱いしないんですよね。だから昔は中国人というと、おいチャンコロいって馬鹿にする。朝鮮人っていうとまるでね、まるでもう動物のように、いわば馬鹿にしちゃうと。こういう民族差別で、我々大和魂で何でもできるんだと、こういうふうなものが、今でもそれを信じている人いるかな。チャンコロだとかね。ヨボだとか言ってね、他民族はまるっきり人間扱いしない。だから今、北朝鮮どうのこうの言うけどね、どれほどの人間をね、日本に拉致して労働させて殺したか。
中国で言うと僕ね、あの一時居った所が危なくて、そして僕寄らば大樹の陰って奴でこの満洲製鉄、石炭、よく最近テレビでちょいちょいやるタイジュっていう、ああいう所で、いわゆる鉄掘ったり銅を掘ったりする山がたくさんあるんですよね。そういう地下資源の豊富な所。で僕が居った所は石人(セキジン)っていう所で、そこは石炭、炭鉱。そこ行っておったら、そういうときはね、特殊工人という、あの、特殊な工人、労働者がいるんですよ。それは鉄条網張って電気で以ってね、建物、それはもうそこへ入ったら出て来れない。出てこようと思ったら電気にかかって死んじゃう。冬だってさ、暖房装置が無い。凍死する。毎日何十人という人が死ぬんだよね。そういう人が僕は〇〇居ったからね、ガンバコを作るんですよ。そのガンバコを取りに帰って来るんですよ。みんなヨレヨレに痩せちゃって、今にも死にそうな格好をした連中、ガンバコを取りに来るんですよね。それを僕が見て、エラいことになっちゃってるなこれはエラい。それが人が足らなくなるとね、人間狩りに行くんですよね。そして元気な人は北朝鮮あたりから、満洲の至る所で若い者が居ったら無理矢理連れて来て炭鉱の中に押込んじゃう。そうやって殺したんですよね。それがどういう処置の仕方したかって、ガンバコに入れて、山へ放り出してくると。で野犬が来て食い散らす。それを北朝鮮から探しに来た親がおって、その山を回って歩いて顔を見て、ここだと。自分の倅が殺されているということが分かって、村に持って行って、村の人から焼いて骨にしてもらって、そして帰って行く途中に僕らの所に寄って、「金がなくて帰れないんだ」と。「だから貸してくれないか。」で一緒に居ったアレがね、東京へ行ってさ、何百円かの金、旅費を借りて。
あの人方今ね、北朝鮮の人でしょ。怒りますよ。だから北朝鮮問題で拉致拉致拉致と言うけどね、その前にそういう問題解決しないでさ、拉致した方が悪いと、こういうふうにね、もう昔のこと忘れちゃって、「そういうことどうでもいい」と。「それは昔のことだ」と。「今の問題が大変だ」と。経済でとにかくあれはこうしろとか何とかかんとか言ってるけど、そりゃ気持ちは分かるけれどね、その以前の問題を全然無視して、「勘弁してくれ」とかね、「これだけの物を保証する」とかさ、一つもそういう話は出ないでしょ。だから僕はいつでも不愉快に思うなぁ。出てくる度にね。気持ちは分かるけど、以前はどうするんだ。韓国の方は話合いして、まあどうにか決まってるんだけど、今になってまたぶり返すでしょう。これは日本はそういう点で中国にしてもね、朝鮮にしても、そういうことを、根本的にそういう悪い事したことを謝らないで、ただ話合いの、幹部同士の話合いで、それはやらんでもいい、貰わんでもいい、そういうことあったから、それでいいんだと。だからさ、何やってもいいというふうな状態で今いるんだったら、そりゃ大事になると。これは基本的に日本のやったことに対して解決するっていう方法は別にある。そういうことをやらないで本当に謝らないと駄目なんですよね。ああいう悪いことしてさ、あれは良い戦争だったとかなんて、今頃言う人間も居るから、問題は決まらない。いつまで経ったってこの問題は。如何にも僕はデモやって、今の若い連中は、あれが悪いんだと、こういう見方で外交が上手く進むとは全然思いませんね。
65年、国共内戦も夫婦一緒だった
聞き手:2遍目にいらっしゃるときは、もう結婚してらして、結婚して…◯◯さんと。それからまた2遍目の…
2遍目の◯◯召集を終って、そしてほら、中国の内戦が始まって、「日本人から出してくれ」って募集に来たときに、僕は先頭を切って「行こう」と、こうなって、各部屋を回って、日本人に「希望者居ったら」っていうことで連れて行って、一緒に連れて行ったの。40人居るけど。子供含めてね。
聞き手:「その時は奥さんいらしたんですか」)
え?
聞き手:奥さんは満洲へいらしたわけですか」
一緒。
聞き手:「一緒に。」
ずーっと帰るまで一緒。65年、去年の10月死んじゃって、それまで一緒だったから。だから僕と一緒に戦地に行って、戦地ってあの解放戦争に行って、看護婦をやって、そして、大変苦労してきたんですよね。
勲章ある、勲章。あの箱に勲章入ってるんですよ。子供たちが来てね、向こうで協力したということは、「何かやっぱり貰った物が欲しい」という我々の仲間の中に居って。これが一揃いの母ちゃんのものじゃないか。これが◯◯勲章。ブリキのね、おもちゃみたいなものだけど。これが向こうに居ったときの。
聞き手:写真撮らせて下さい。
はい、いいですよ。これ僕のね。それがウチの婆ちゃん。これが一揃いだ。毛沢東のコレもね、向こうの兵隊の…みんな出していいですよ。
だから日本に帰ったのはね、戦後8年間経てから来たから、原爆も知らないし、東京大空襲も知らないし、食い物も豊富で、良かったよ、とにかくもう。もう、あの、人民解放軍の中に入ってから、本当に待遇も良かったし、食い物・着る物は全部、もうね、保障して…。
まあいいよ。1人分でいいんじゃないの?同じですよみんな。みんな同じですよ。いつ貰ったか忘れちゃったけど、後で送って貰ったの、これ。向こうで貰ったけど一旦返して来たから、それがまたさ、「くれ」って言って、誰かこういう要求して、この人たちが、一緒に居た人たちが。札を立てて、火をつけて、薪を積んで、焼くんだけど、そんなに簡単に焼けるもんじゃないね。
聞き手:八路軍はどうでしたか?
え?
聞き手:八路軍は。
え?
聞き手:蒋介石たちと戦っていらしたわけでしょう?
蒋介石と戦ったってね。僕らは後方の、所謂病院、野戦病院だから、後をくっついて行くだけなの。前がどんな戦いしているか知らんけど。とにかくね、どんどんどんどん戦いが勝っていく。あの、捕虜がね、それは向こうの蒋介石軍の捕虜というのはね、寂しい格好をしてね、震えながらね、ダーッと列を作って付いて来ましたよね。あれどうなったのかね。その後、あれは、まぁね、兵隊はまだ、あの解放軍に入った人もいるらしいし、処理は分からないけどね。何千、何万という人でしょう。それがそのね、日によって増えてくるんですよ。で蒋介石がどんどん逃げて行っちゃうのね。
ずっと僕ら南下して、海南島の南だからね、行く途中に、ここで張学良が居ったという場所はあって、そこは見ながら行ったけどね。あの、張作霖の倅が、あれがね、中国に行って、いわゆる解放軍と一緒に戦うときに歌った歌がね、非常に悲壮な、可哀想な、聞くだけでもね、「♪我的家在东北松花江上…」「俺の家は松花江の辺であったと。そこは日本の兵隊が来て、全部焼き払ったんだよ、みんな追出されてね。父母は今どうしているだろう。」という、兵隊に行って、自分の郷里のことを思って歌う歌があるんですよね。それがこの間なんかテレビでちょっと出たなぁ。その歌がね。
中国人に助けられ、通化事件を免れる
結局、うんっと大変なんだ。戦争というのは。もうね、侵略とかね、占領とかね、そんな優しい言葉では言い表せないよ。「そこ歩いているのはみんな悪い連中だから道路が悪かったら連れて来て敷いてその上へ車出せ。」兵隊もなかなか、これはいけないから全部連れて来てさ、車をさすったり、回したり、叩いて言うこと聞かせよった。これは滅茶苦茶。人間扱いしないんですよ。それが戦争のときもそうだし、戦後もそうだったんですね。僕が満洲で就職斡旋されて、そこでおったけれど、あそこの連中もそうだったんだね。道路の事業のために使っている中国の労働者を、みんな虐めるんですよね。言うこと聞かなきゃ叩いたりね、蹴ったりね。
ああいう連中さ、から僕はもう、こんな所には居れないという所で、安全な所、通化っていう所、そこに、関東軍が最後に全部逃げて帰って来たと思う。そこで居たんですよ。僕は調子がよくね、安全な方向、安全な方向、ずっと来てるんですよね。そこに、通化、最初来て、行った所が、前に勤めた所と同じ系統の仕事だったけど、そこで居ったけど、あそこでもやっぱりね、後から行ってみたらみんな焼かれちゃってね、その親父はね、半殺しでさ、田んぼの中の畔の中に居ったとかね。「俺もここで居ったらやられたかな」と思いながら、しかし俺は中国人を大事にしてやったから、それに助けられた。あれで、だいたい日本人、俺を虐めた連中、俺いじめられっ子だったから、虐めた連中は、みんな叩き殺されたんじゃないかね。だって殴ったり蹴ったりさ、そうしてもう搾取も思いのまま。親父の言うことはまるで神様の言ったようなこと。そういうふうに思って、そういう悪いことをする連中はさ、戦後もずっとそうだったから。だから日本人はそれをやられましたよ。みんな。
しかも通化なんかね、暴動起きたんですよね。スギタ(通化事件の話と思われる。藤田実彦参謀の間違いではないか? 以下同様)っていう参謀が居ってね、スギタ参謀がね、ちょうど僕の居った石人に避難して来たんですよ。で、そこから僕はその通化の方へ、「お前来い」「行こう」ってわけで通化の街に出て、そうすると今晩すぐ、1週間経ってから僕、友達のね、所で居った、だからそれを迎えに来て、で僕はさ、何でここで居るってことが分かったのかな。だからスパイが入ってるんだぜ。で、「こういう人間がここにいる」ってことが分かったんだろうと思うんだ。それで「すぐ来い」。で、そこへ行ったら、この前に一緒の職場で居ったキンブンキという人が僕を迎えに来て。で、「今晩ウチに来て泊まれ」。で、家に泊まって明日すぐ、あの通化っていう所ね、あの僕があの炭鉱に居った所の石人という所に、帰って行けって、明日ちょうど旧正月だから、送って行く人いるから、手榴弾持って送って行くから。そして明日何時にここに集まる。で、そこへ行ったら、来ないんだ、誰もね。で、そのキンブンキだけ来て、みんな行けなくなったから、今の司令の証明書をもらってくるから、それを持って、これを書いたの、途中で何かあったらこれを見せればいいから。で、それを1冊書いたものを証明書をもらって、歩いて、途中で一晩泊って歩いて行かなければ遠い所ですよ、石人っていうっていう所はね。そこへ行ったんですよ。で、帰って行って、じゃあもういっぺん通化へ帰ろうと思って僕は電話をかけた。「いや、駄目だ。もう帰れない。何かあったらしい。」で「何かあったらしい」っていうのは、スギタ参謀が僕らの所一緒に寮の中で居って、それが連れて行かれて、それが蒋介石軍の残党と、あの、示し合せて暴動を起こして、日本の部隊が、1個部隊その武装解除されない部隊があったんですよ、飛行部隊がね。一緒になって暴動を起こしちゃった。それがその「明日こういうことがある」ってこと。キンブンキが俺に教えに。「とにかく今晩帰れ、明日中に帰れ。」僕を助けるために。で、それ帰った後にその暴動が起きて。男っていう男は。で、通化、石人から行った者はスギタ参謀と一緒に居った所の者は文句無しに殺されちゃった。だから僕はそれで居ったら殺されたかも知らん。で、キンブンキっていうのは、後で何か立派な格好して僕の所へ来たから、幹部だったでしょう。共産主義者の幹部だった。だんびら下げて、あの証明書を返してくれって来て、で持って帰って行ったけどね。いや、僕はだから、日本人は俺をいじめだけど、中国人は俺を助けてくれた。
聞き手:「もしアレでしたら、あの…。じゃあ一応あの、テープの都合でこれぐらいで一応終わらせて頂いて、写真を撮らせて頂いていいですか。これは写真撮ったんですけど。
辻褄の合わない話だけど、あまり長い話で、思い思いの話。思い出したことだけしか言わないから。悪かったね。俺はこういうことをやってきた人間だと、ね。今帰ったってさ、日本だってさ、居場所が無いと。友達はみんな刑務所で殺されちゃって。俺はもう今帰れない。だからここに居るんだ。で、なるべく、戦争に残って中国でああいう内戦に参加したおかげで、恩給を貰って、〇〇。物事っていうのはあの……