近藤 宗太郎さん

生年月日 | 1932(昭和7)年3月26日生まれ |
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本籍地(当時) | 東京都 |
所属 | |
所属部隊 | |
兵科 | |
最終階級 |
インタビュー記録
1945年2月 空襲で家が焼失する
聞き手:お生まれは?
昭和7年3月26日ですね。
聞き手:当時ご家族は?
お祖父さんとお祖母さんは側にいたんですけどね。親は次男坊なんだけど家を出ちゃって。私は日本橋の新大橋で生まれました。記憶に残るようになったのは現在の墨田区立川一丁目に住んでいました。兄弟は6人いて姉と私、弟が二人、妹が二人いました。私の下が妹で、その下が弟2人で、その下にもう一人妹が。当時は国民学校、中和小学校に通っていました。(地図資料を見ながら)堅川(たてかわ)橋付近に住んでいた。私が住んでいたのは、川とこの(道の)真ん中あたりですね。この薬師さんっていうのがある、弥勒寺っていうんだけどね。こっちが森下。ちょうどこの川と(川と平行に東西に走る)道路の間辺りですね。
2月25日の空襲の焼け跡っていうのがここに書いてあるんです。2月25日雪の降る日、空襲により家が焼けた。祖父が住んでいる千歳町に一旦、避難した。山梨へ疎開しようと考えたが母がきかず、父が一人、東京に残り亡くなったら子供6人どおすれば良いのか。死ぬなら一緒に死のう。ここに留まることに 当時の森下の八名川学校の傍へ引っ越しをした。2月25日焼かれて。また、焼け跡に逃げちゃったんです。
聞き手:2月の空襲はどんな状況でしたか?
2月の空襲は爆弾を落としていったから。ちょうど、真ん中だったんです。直撃を受けたところがほとんどだめになった。ちょうど真ん中にいたから爆弾と爆弾の間だったから人的被害はなかった。家は焼かれた。みんなであるものをもち、逃げた。その時はなんともなかった。その時に皆、疎開をしていて、周りが空き家だらけだった。だから、そこに住もうと空き家の、1軒に住むことになった。空き家に住んだことが目測を誤った悲劇の始まり。
東京大空襲の夜
わずか2週間くらいの間に、3/9に。焼け出され その焼け跡に逃げちゃった。周りが全部、家。その家に火が付いたから、その中でどうにもならない熱くなって。とにかく、火が燃えるとものすごい風が、ふいちゃう。周りの家が火の塊になって、その下にいるから、たまったもんじゃない。3月といっても、体がじりじり。子供たちには見せたことはないが胸にやけどした跡がある。火の粉でもってきている服が燃えだしちゃう。熱さで。私は、足が悪い。小さい頃から松葉づえをついていた。松葉づえを地面の上においておいたけどそれも自然に燃えちゃうくらいの(火の強さ)だった。相当、熱かったと思う。
そうゆうところで足の悪い私が助かって、私の姉さんだの親父だの、年下の人間が死んじゃった。どういうことか後でよく考えたんだけどね。これはつまりその、私が死というものは、死んじゃうということはわかるが、虫を飼ってて皆、死んじゃったから、死んじゃったということはわかるんだけど、死の恐怖がない。親が死んでいるのをみたけども、お父さんが死んじゃった。その程度しかあれがない。火の粉と風でもって。もちろん、目が見えなくなった 。ごみでもって。それを見たとき死んだらどうなるかわからない。年がね(幼いから)。ああお父さん、死んじゃったんだという程度にしかわからない。でも目を押さえながら、周りを見たら誰もいない。焼け野原で、ただ風がビュービュー吹いてるだけで。寒い。何にも着ていないから。どうしようもなくて、中和学校のほうへ。歩くこともできないし、這いずって歩いていって。恐らくガラスで手やなんかを切ってべたべたしてたんだけどね。一人の男の人に出会ってね。その人に中和学校で連れて行ってもらって、学校だから板の間 そこで座っているだけで何にもできない。寒さ、感覚がなくなってきてね そのまま気がとおくなるっていうのかな。
大勢が避難をしているから色々声はかけてくれる。「元気だしな」とか着るものも少し分けてもらったりとか、だけど、段々気がとおくなって、死ぬ恐怖とか全くないんだよね。ただ、なんでそうなちゃったのかということすらわかんないで。そうゆうのがね、ジタバタしなかったのが助かった原因なのかなと今になって、こう考えてはいる。なんで私だけが助かったのか。ほんとに因果だね。
娘さん:防空壕に分かれたんですって 全滅しないように。
熱いから、寝てるんだけれども、風で体がふわっと浮いちゃう。掴まるところがないから。土だから。(近藤さんは別の防空壕に入ったのではなく、その近くの地面にへばりついていたのだと思います)その後ろのの方で防空壕がウォンウォン燃えている。浮き上がったらおっこっちゃうそこへね。 (補足;燃えている防空壕の中へ) あくる朝に防空壕を見たら姉さんたちがそこで死んでいた。荷物もって皆、逃げるから。荷物も一緒に防空壕に入れちゃったんだよ。ところが火の粉が降ってきて、防空壕がすぐ燃え出しちゃて。弟たちは防空壕から出られなかったと思う。姉さんは弟をかばっていたと思う。私より幾分、大きかったから、お母さんと姉さんは腰から下は骨みたいにになってて、白くなって。一番下の弟はトタンにくっついちゃってとれない。そのくらい焼けちゃって、何にもない。燃えるものない。荷物なんかがあったからそれで燃えたのかなって思うんだけど、それで焼けちゃったのかなと思うんだけど、トタンにくっついちゃってね。
父親だけは何の傷もなかったような気がする。とにかく裸なって寝てたからね。白い体がずうーと印象に残っているだけで、ほんとよくわかんない。恐らく父親は焼け死んだんじゃなくて子供たちが皆、熱くて騒いでる。年を取った親を抱えている。お袋ははぐれちゃった。自分の女房はいないし、親はどうして良いかわからず。心臓麻痺を起こしたのではないか。そうゆう突発的病気で生き絶えたと思う。今になって思うと、その当時はもちろんわかりませんけれどもね。今になってみるとそんなところですよね。
八名川小学校で避難と治療
学校へあれしててもねえ大変ですよね。途中で会った男の人がね、男の人がいくつだったか、子供だったからよく覚えてないんだけど、どこかからお米がおっこっちている。焼けたやつが、そういうの拾ってきて、窯の中で煮たんだと思うだけど、水道だって出ぱなしだし、そういうんで煮て。私がちょうど這いずって通りかかったんだろうけど、私はその人を知らないんだけど。
『坊や ちょっとおいで』と言われて、それでその人にあれして。そしたらなんかこう(補足:手に)ここにこうのっけってくれたんですよ。熱いね、ご飯だよね。『ご飯、食べな』って言って。それ食べたんだけどね。確かにぐちゃぐちゃなお粥みたいなんだけどね。焼けた米だろうと思うんだよね。今、思うと、固いんだよね。芯の固い。全然、食べてないから、それは美味しかった。その人がどんな人か覚えてないけど。
自分の学校へ入る時も大変だった。大勢そこへ避難してきて、入りきらなくなって、警防団の人が門を閉めちゃって。それでもまだ大勢の人がはいってきて、それでもう逃げ場がなくなって。みんなそこで死んじゃっている。 だから、ドア開かない、死体の山でね。
あの時は死体とかは気にならない。年も小さいし、死体というのはお人形みたい。中に入るだけでもよういじゃない。死体をどかして、その人が中へ入れてくれた。もうお昼過ぎだと思う。でも中に入っても何もすることもなし、とにかく動けない。火傷はしてるし、目は見えない。足は悪くて動けないし、そのうちに眠くなってうとうとしてたら、女の人がギャーと騒いでるんですよね。なんだかなぁと思ったら、その人の子供がやっぱり焼やけどでしんじゃったんだよね。きっと。きちがいのようになって。その人も騒いでいたけどもね。かわいそうだと思った。
どうする事もできないんだよね。そうすると今度、その子をね、死んだ子をね、地面に捨てていくしかない。連れていく訳にいかない。どうする事もできない。その人ね、かわいそうだと思った。でもそのまま、ほとんど気が遠くなっていたところへ、おじさんがおふくろと一緒に探しにきてくれたですよ。そんで今度、『いるかぁ、いるかぁ』って。親が呼んでるように聞こえたんだけどね。お父さんが呼んでるように思った。それはおじさんの声だった。そのまま私は気を失っちゃった。後のことはほとんど覚えてないんですよ。そのあと、どのくらい経ったかなぁ。自分で意識を取り戻したのが八名川小学校。八名川小学校ってとこでね。私たちが焼け出されて後で住んだ、家の傍の学校なんですよ。ここの学校へ避難、皆、避難して。それで、兵隊さんがきて、傷の手当とか、目の消毒、幾日も幾日もかかって。目を消毒してくれて、洗ってくれて。三日、幾日迄かかったかなぁ。一週間くらいかかったんじゃないかなぁ。やっと、目が見えるようになってね。そのね、あの火の中のね、いたんだけど、恐ろしいという気がないんだよね。子供というのかな、なんていうかあれだから。なんていうか、ただ大変な今思ってね。大変な世界だったなと思って。だからそういうことをね子供たちに話ししていいのかどうか、自分でもわかんなくなっちゃって。そいでまぁ、ここへね自分で、そういう事はだいたい、自分のあらましをかいて。あとこれを参考にしてもらってね、こういう詳しく書ける人のあれを参考にしてもらって、それで私は私だけの体験したことをここへ綴ってあるんですけどね。
山梨県へ疎開
だからこれまだ書けばまだいっぱいあるんですよ。日頃まだ行った事のない、親父のいとこの家、麻布なんですけどね、そこへお世話になっていくんだけど。お袋もまた気苦労したんだろうとおもうんですよね。
子どもが痛がってないているし、よそのうちっていう、滅多にあった事もない親戚の家、ほんとに名前だけの親戚でそんなとこにお邪魔に行ったんだから。大変、お袋が相当、気を使ったんだろうとおもうんですよね。そこにも長くいられないんで、そいでまぁ、一週間位いくかなぁ 。それでも。
それでやっとお袋の実家に、山梨県に疎開したんだけども。山梨県はここへは書いてないけど、そんなことまで全部書いちゃうと、戦災記ではなくなって一代記なっちゃうからね。だから、山梨に行った事とかは書いてないけれども、山梨でいじめられたりね。山梨では空襲なんか全然体験してないし、第一、戦争してるんだかしてないんだかわかんないようなところだからねぇ。そこへ行ったんですよ。そいで田舎ってのは山があって谷があってそこに川が流れるんですよ。その川を中心にその部落ってのが点々とこうるんだ。20軒30軒位の部落が。 だから、そこは村の名前は同じなんだけども、その部落がこうあると、その部落が全然、部落同士は集まるけれども、部落が離れちゃうとあんまりその疎通がないんですよ。だから、それがまして子供となるとね、全然部落が違うともうよその人。よその人なんだよね。私はね、東京から来たってんで、ほら珍しいってんで、皆、見に来たんだけどもね。すぐきて、とにかく焼けてボロボロの着物きて、お風呂も入った事のない臭いような体してたんでしょうね、きっとねぇ。それでもってまぁ大変な騒ぎになっちゃって、それでもってもう、東京からきた 乞食がきたってんでね。それからいじめ、この部落の中でいじめがおきちゃったんだよね。部落の子供たちは仲が良いいんだよ。親戚の。他の部落の子供はだめだからね、合わない。そこでもって東京からきた乞食みたいな人間だったので
これ、いじめの対象ですよ。ほんとに、ひどいめにあいましたよ。とうじと?石投げられたり、足が悪いとね、“ちんば猫”と言われてね。だから学校も行かなくなって、小学校は卒業したんです。卒業証書もあったんだけれども、燃えちゃいましたけど、中学は3月に卒業する予定だったんだけど、3/9に燃えちゃったもんで、卒業できないで、卒業じゃないなぁ。田舎でも学校に行ったんだから、2年生頃から1年、1年生の半ばころ行ったのかなぁ、一ヶ月か二ヶ月、学校に行ったの覚えているんですけど。後、学校はもう行かなくなりました。不登校になっちゃったんですね。 人間てのは一生どんなことがあるのかなぁ。て思うんだけどねぇ。穏やかにこうやって暮らしてられるのは本当に幸せだなって思ってます。も親も子供も東京都の慰霊堂で祀られて。もちろん、その焼いた場所はわかるんだけども、遺骨をね、もらうんだけどねぇ。焼いた場所ってのがね、だいたい、何番地ってのは覚えてないけど、ここで焼いたなという。兵隊さんがきてね、皆、鳶口(とびぐ)でひっかけてトラックの上に乗せてって、そいで一か所に集めて燃やしちゃうんですよ。だから、骨はもらってきたんだけど、誰の骨かはわかんないんだよね。それが今、本家のうちのお墓に入ってますけどね。実際の骨は東京都の慰霊堂に入っていると思うんです。大変なね、人間一生どういうあれがあるかわからないけども、そういうことあれだね。子供にどう伝えるべきかなと思ってね、考えてみたんですけどね。考えて考え抜いてこれだけのものが出来たんです。
家族の写真
娘さん:戦争前の写真がちょっとだけある
聞き手:ありがとうございます。
娘さん:これはお父さんとお母さん。奇跡的に残ったね
聞き手:焼けないで残ったでんすね
娘さん:そうなんです。兄弟の写真も一枚だけ
(弟さんの写真を指差しながら)これ弟、これしかないんですよ。弟、他にももう一人いたなぁ
娘さん:赤ちゃんだったからね
これはおじいさんのお墓だ。お葬式の時。
娘さん:お父さんが消防団だったんだっけ
そうそう
娘さん:だから兵隊に行かなかったんだよね
(警防団の写真を示しながら)警防団っていうんだよ。昔はね。警防団どれだったかな、映ってるわけだ。これが私? これじゃないな。
娘さん:書いているよ
(用紙に記載:一番後ろから左から二人目)
これが姉さん、これがお袋、抱いてんのがあれだ(弟)。これが私だ、そうだねこんなあれだね。
聞き手:よくお写真、焼けずに残りましたね
娘さん:山口にあったみたい
(上野動物園の写真を示しながら)私だけだよ、お父さんがついてきたのは。足が悪いからって、やっぱりほらついて行かなきゃいけないってんで、どこだっけかな。
聞き手:入学式ですか? あっこれ動物園ですね
動物園。遠足、遠足。上野のあれでね。
(写真)なんだかわかんないな
娘さん:お姉さんだよお姉さん」
(警防団の大人だけの写真)これおやじだな、お親父が写ってるこれ、昔の警防団てやつだね。
聞き手:お父さん、当時、おいくつくらいですか?
親父がねえ40代だろうとおもうんですよね。40で40代だろうと思うんだけどね。
娘さん:40そうだね40代
50代にはなってないと思う。これがね(写真4枚)これがね二人の弟、これがねとたんにくっついちゃった弟、これが姉さん。こんなとこだ。だからまだね、そういうあれが、本当にうんなんていうのかな、今になってね、悲しさ辛さ、そういうのがでてくるけれどもね。やはり孫にね、二人の子供に恵まれ、5人も孫に恵まれ女房に先に死なれたことが非常に残念だけれどもね、今幸せに暮らしていられりゃ、それでこれが自分の人生だなぁと思って、今、思いますけれどもね。
娘さん:従妹はね、全員助かったんですって。同じところにいて従妹は助かったんだよね
戦後の暮らし
それでもねぇ、それで都営住宅に当たって、こうやって住んでるとね、結婚するにもね、お金もないんだよね。
聞き手:東京にはいつ頃出てきたんですか?
二十歳頃、おじさんがね、うちはね傘屋なんですよね。傘の商売。おじさんもやっぱり傘の関係だった。親父も傘屋だった。おじさんが呼んでくれて、それで東京で住み込みで働いたんだよ。住み込みだからね、給料ってより、おこずかい程度しかもらえないんですよね。ほんとにそれでいつまでたってもだから疎開した人たちは私たちだけじゃないんですよ。まだね3組位いたんだけど3組とも皆、東京に出てきちゃってね、私だけなんですよね、親をどうしても東京に呼べないのが。それで、これじゃいけないと思ってね、都営住宅なんですけどねここは、都営住宅に申込んで、そしたら偶然にもここ当たっちゃったでんすけどね。おじさんがすぐ側に住んでいたからね、こんなここ田舎だったんですよ、田んぼだらけだったんですからね、おじさんが住んでいたからそれを頼りにここへ申し込んだところが偶然にも当たったんですね。それでお袋たちを呼びに行くんだけれども、呼びに行くお金がないんだよね。趣味でギターをやってたからね、趣味で買った安いギターなんだけどもねそれを売って、それでそのお金で迎えに行くっていうようなねえ、そんな始末ですよ。
だから、昔はね家有、カー(補足:車)有、ババ抜きっていうのがね結婚の条件だったんですよ。私は家無しでしょ、カー無し、ババ有の逆なんだよね。こんなところ嫁に来る人もいないなあと思ったけんども、まあなんていうのかな障碍者の青年団みたいなのをね他に困っている人もいるんだろうと思って声を掛けてね、皆、集まって青年団みたいなのを作ったんだよ。私がひまをみて、まだそのころ一人だったからね、私。お袋も働いてくれてたから。青年団には私がまだ一人だった頃、障碍者の会長がいたからね、その会長にお願いしてねその青年団を作ったんだけども、私まだ一人の頃に3人位なんとか纏めてね所帯を持たせたんですよね。そしたら会長がおまえは人のことばっかやんないで自分の事考えろって言われて、そこにいた女性女房がねなんとか話をして、だけどお金がなくて困っちゃってね。だから会長にここをなんとか自分たち結婚したことにしてあれしてくれって言ったらだめだと言われてね。おまえ、仮にも青年部の部長なんだから、役所にもね顔が多少とおっているんだからなんとかしろっていわれて、なんとかしろって言われてもお金ないし。それで昔、テレビでねテレビ結婚ってのがあったんですよ。そこに女房と二人で手紙を書いてね送ったんですよ。採用にならないで2ヶ月くらいたってからかな、だめかなあと思って諦めてたら採用されちゃって。だから偶然にもね大変な結婚式になっちゃってね。30分間主役を務めたんですよね。そういうね記念のあれもあるけれどもね。
娘さん:あれどこにいっちゃったんだろうね。なんかテレビに映ってる写真があって、ねえ
中村メイコって人がね司会して、それから徳川夢声っていうのが、あの人がね、司会してくれてね。その写真もどっかにあるんだよね。まあそれはそういうのはね、そこまで言っちゃうと私の一代記になっちゃうからね、そこまで言っちゃったらあれだけれどもね。今日はね空襲の話できたんだろうから、空襲はね、これ見ればねだいたい書いてあると思うんですよねわかんない所はこれを見てもらってこれねこれでもこれね困ったね。
娘さん:それ寄付すればいい。寄付していいんだよ。寄付して持っててもらったほうが
聞き手:でもまだ大事そう、大事そう
そうだね
聞き手:もう10年か20年か30年位先に寄付してください
子供の為にねあれしたんだけんど、寄付しちゃうか?
聞き手:なんかまだ早そうですよ。もうしばらくお手元で
そうだなあもうこのこれ手に入らないと思ってね私も大事にしてきたんだけど
娘さん:でも本当に良く見つけたよねその本ね
これがねちょうど私が逃げた所のあれを書いてあるからね。それでこれまあちょっと奮発して買ってきたんだよね。神田の古本屋さんで見つけたんだよ。こういうものがあった。こっちは私の体験したことをね、全部書いたつもりなんだけどね。
ただ地面の土につかまっていた
聞き手:近藤さんも一緒に一度防空壕に入っておられるんですか?
防空壕入っていたけど熱いからね、やっぱしほら、まだ弟たちは逃げられなかっただろうけんど、私はなんとか熱いってんで夢中になって逃げちゃったんだね、そこをね。妹もそうらしかったね。妹も私のすぐ下の妹はどうやって逃げたか、やっぱし逃げられたんだね、そこの防空壕の中から。防空壕たってね、私の胸位あったからね。それで昔の防空壕てのは、家の建ってるこの縁の下を掘って作ったんですよ。ここへ周りの道路へ防空壕を作る事は出来ないですよね。だからね家が建ってたんだから、今考えてみるとね、そんなとこ防空壕入ったって家が燃えちゃったら皆死んじゃうのは分かってんだけども、なんであの家の中へ防空壕作ったかねえ。あれねわかんないだけんど、表防空壕作ったら道路だからね、作る訳いかないし
聞き手:それはお家の防空壕なんですか? その地域の防空壕じゃなくて
地域のじゃない、自分の家の防空壕。皆各自家の中に防空壕を作るから、だから穴だらけなんですよ。実際にいくとね。そういうね家の中に作ったらね、たしかに家が燃えたらそれで中に入ってられない事はわかるんだから、なんであんな事したのかね。戦争というのはどういうものか体験したことない人たちが考えるんだからね。それは無理もないなと思うんですよ。そうかといって、そこの空き地とかに作るわけにいかないんですよね、いくら何でも、昔だって。公園だのそういうのあったけんど。そうだね私の思い出っていうのはそんなところかな
聞き手:下の妹さんはお怪我とかはなく
うん下の妹は怪我はなかったんだよね。その一番下の妹はお袋がまだおぶってたからね。お袋と一緒に逃げてなんとか。それはそれでだいぶ妹もほっぺたは火傷したまんま、今でも多少残っているけれどもね。それはそれでお袋がなんとかくぐり抜けたんだと思うんですよね。
娘さん:火の海の中どうやってどこに逃げたの
火の海ねどう逃げたか、おじさんとね偶然一緒になったらしいんだよ。逃げまどってる最中にね。それでおじさんと一緒に、お袋一人だったら死んでたと思うけど。
娘さん:お父さんはどうやって逃げたの
お父さんは焼け後に逃げちゃったから(※本人のことを聞かれたが自分の父のことを答えている)
娘さん:違う自分だよ。おじいちゃんは、お父さんはどうやって逃げたの?
だからお父さんは(自分)親についていく以外ないんだから。
娘さん:付いてったってら、はぐれちゃってたでしょうよ
いや付いて行って防空壕で一緒に入ってそれで
娘さん:その後出て
その後お袋が来んの待ってたんだけどさ、お袋がいつまでたっても来ないからさ。そのうちに家も周りに火が全部周りが火の海になっちゃって。
娘さん:その後どうしたの
その後は今いったようにただそこに寝てるだけだよ。熱いから。
娘さん:そこでじっとしてたの
そこでじっとしてた。
娘さん:這いつくばってたのそこで
這いつくばるのもないんだもの、だって逃げられないだから。
娘さん:そおだよね、その足じゃあ
足が悪いんだから、熱いから着物は全部脱いじゃうし、子供だから。
娘さん:それで地面に穴を掘って息をしてたの
地面に穴なんて掘れないよ。ただこう地面にこう土につかまるしかないんだよ、つかまるとこがないからさ。
娘さん:でも地面に穴掘ってその中で息してたって言ってたじゃん
うんそれはね苦しくなると、煙でもって苦しくなると、どうしたって下へ少し掘るとね、それ今の警防団で教えてくれたの、苦しいときはそうやって逃げろって。土を掘るとそれ以上下に煙がこないらしいんだよ。
娘さん:そうなの
それでその地面の香りを嗅ぐようにして逃げたりしてたんだけどもね。
娘さん:それで窒息しなかったんだ
窒息はしなかったんだよね。だからね窒息っていうよりも火の粉が横に飛んで行っちゃうからね。そういうもので煙で皆、飛んでいっちゃたんじゃないかなって思うけんどもどね。そういうあれでね。そこから逃げられなかったもんね。
聞き手:そんなに動いておられないですよね。きっと、防空壕出た後、距離としては、あの学校に連れて行かれるまでって、何本かですもんね。道って。
そこはね這いずってね。見渡す限り誰もいないんですからね、ただ、そのコンクリの家は多少、残ったのはあるんだけどね。学校だっていうのはわかった。こっち側が学校だって。分かったから、そこを這いずってね。ずっと行ったんだけんどもねえ。だけどねえ。今思うと良くあんな事できたなあって思いますよね。この年になると欲しいものもないし何もなくなっちゃうとね。ただ 、一人だと考えるとね。ほんとによくあんな事やったなと思う。思うよね。今になっちゃうと、命もいらないし、何もいらいなあと思うんだけどもね。その頃は何にもわかんないもんね。命とかね。そういうあれが、どおしたらいいかとか、そんなことはただわからないし、ただ、漠然と息をしているだけで虫と同じようなもんですよ。
娘さん:叔父さんがいてくれてね、良かったんだね
そうだね。叔父さんがいてくれたからね。だから、まあ、それであれしたんだろうと思うよね。叔父さんだってね、そんなあれ連れてね、麻布の従弟の家なんか滅多に行ったことない家なんだもん。そこに行くのは相当気苦労があったと思うんだよね。今、思うと。いくら親戚だからって、私も会って(?)、これ親戚だからって、そこに行って世話になるなんて事は、とてもじゃないけど出来ないもの。頼るところがないと、着るものもないし、風呂にも入れないんだからね。頼らざるをえないのかなあと思って。その当時の人の気持ちを考えると、本当に大変だなあ、気の毒だなあとも思うし、こっちは子供だから何にもわかんないからねえ。ただ、それにやった事にただ、付いていく以外ないんだけども。本当にね、そう思うよね。たしかにね、その避難所に行っててね、その子供とかね、避難所で死んじゃった場合ね、その女の人じゃないけんどもね、本当に気が狂っちゃう。そこに子供を置いて行かなきゃなんないだからさ、地面に2、3才の子供をね、どおやって置いていくんだろうと思うんね。一緒に死にたいだろうと思うよね、今、思うと。
我が子をね、捨てて行っちゃうんだからね。こう考えられないよね。ほんとに。戦争っていうのはね、そういう悲惨なね、あれなんだよね。かたまりなんだもの(?)、だからね、戦争を今、外国でね、そういうのがおきて、子供たちが犠牲になっているけんども、こういうことはやっちゃいけないね、ほんとにね。そら、何でも、北朝鮮がね、ああやって少し、平和的な心持ってくれたってのは嬉しいよね。あれは。戦争になったらね、いくら、日本なんかすぐにめちゃめちゃにされちゃうからね。怖いと思いますよ。だから、戦争だけはいけないね、やっちゃ。あんなのはね、皆、壊したり殺したりするだけの事でね、何の得もないんだもの。だって、ただ、意見が違うだけでそうなっちゃうんだからね。人間なんて恐ろしいなって思います。まあ、じゃあ、いい。(補足:本を)持ってって下さいよ、これ。
これを参考にして読んで頂ければ。
遺骨の行方
うちの親じゃないけど、ちゃんとああゆうところ、大きなお宮みたいな所でね、慰霊堂で祀られているって事はね、どうせ死ぬんだったら、その方がいいかな、個人のお墓に入るんじゃね、いつ、お墓なんかなくなるかわかんないし、今の世の中になると。お墓だっていらないって言う人もいるんだからね。そういう公の場所で保存してもらえれば、それは有難いかもしんないです。
聞き手:写真もいくつか撮らせて頂いて。ご家族のご遺骨をどこで焼かれているかわかっていて、それは叔父さんかお母様が追っかけられたですか?トラックで持っていっちゃうじゃないですか?
トラックでもっていくところね、叔父さんかうちのお袋が見てて、後をついて行って、そいで、ここへ捨てたという事は、ここで集めて焼いたって事は分かったらしいんですよね。だから、そこへ行って、誰の骨かわかんないけど何百ってあるんですからね。そこから大体、拾って、その瀬戸物は残ってますからね。そういう、瀬戸物屋みたいなとこで拾ってきて、それで蓋のある瀬戸物の中に入れて、それで、持ってきたって事は覚えてるんですよね。それはあくまでも私も曖昧な中の記憶ですからね。たしか、瀬戸物に入れて、持ってきました。
娘さん:それが慰霊堂にある。
それが、本当の骨は慰霊堂にある。それでもらってきたお骨は、今は私の墓地じゃないんですけどね。本家の、近藤家の本家がありますからね。うちは次男ですから親が。長男の家の、その当時はお墓なんか持っていませんからね。だから、本家で一時、葬ったけれども。いずれ、もらいに行くつもりなんだけれども、そこまでも行かれなくなっちゃった。叔父さんも叔母さんも皆、死んじゃってますから。今、言ったように行った事もないような従弟ですからね。
そこへ行ってこれ下さいって訳には行かないから。それはもう、そのまま。浅草のお寺は分かっているんですよ。だから、たまにこれらを連れて行った事もあります。日暮里にもあるんですよね。本家だって、そんなにお墓いらないんだから。どっちか、もらえば良かったなって、思うんだけどね。
聞き手:お父様とか弟さんたちの亡くなられた様子というのは後で見られたんですか?その離れる時に
離れる時は夢中ですからね。どうなったかあ、わかんないけんど。後でもう目が見えねえんだけんど、どうなっているか辺りを見た時にね、ちらっとこう、見えたんですよね。親の傍へは行ったんだけれども、弟たちのあれはただ防空壕の上から見ただけでね。それでほら、妹が飛び歩いているからね。それでお袋も生きてた朝、なって、やっぱり、ほら、自分がもと、住んでたところですからね。もと、住んでた家の跡へ行ったら、やっぱし、妹がいてね、それで妹がお袋にお父さんがここで死んだよ。って、言ったらしいんだよ。それで、見たら、私だけいないわけですよ。だから、じゃあ、あそこの学校に行ったんじゃないかって、側にね。この地図見てもわかるように、すぐ側でしたからね。学校に行ったんじゃないかって、それで学校に探しに来たらしいんだよね。大変な思いでした。だからね、私が本当に助かったのはそういうふうに、何にも知らない。ただ、無知というのかそこまで知恵が回らない。それが私が助かった、原因じゃないかなっと。それしか、考えられないですよね。達者な人間がね、死んじゃうんだから。あそこで、後で聞いて話だけども、5、6千人死んだって、聞いたんだけども。なんか、本で読んだ事があるけんど、その中でねよく助かったなあっと、助かった人、何人もいなかったらしんだけども、よく、助かったなあと思うね。あれがありますよね。
まあ、自分が車を運転するようになってからね、何回かそこへ、行った事もありますけんどもね。ああ、ここで死んだんだなあっと。今、みんな、家が建っちゃって、あれだけども、あんな悲惨な事があったんだって事は、まったく、想像もできないような街になってはいるけどもね。人間、一生のうちに色々あるなと思ってね。今、子供や孫に囲まれて何とか幸せに生きてることをね、有難く思ってます。戦争だけはだめですよ。やっちゃ、どんな事があっても。戦争っていうのは物を壊して、物を破壊して、人を苦しめるだけだもの。他に何にもいいところがないんだから。人の意見の違いっていうのはね、それは話せばなんとかなると思うんだけども。恐ろしい体験だったです。ほんとに。
セルロイドの定期入れ
聞き手:その戦争の時のお話から、少し離れるんですけれども、空襲が始まる前はどんなお子さんだったんですか?
空襲が始まる前はごく、普通のあれですよ。父親もうちで傘の仕事してたしね、母親は専業主婦で、それで6人の子供を養っていかれたんだから、まあねえ、今からじゃ、とてもじゃないけどやっていかれないけども。その頃はそれで食べていかれたんだから、生活するにはそんなに悪くはなかったと思うんですけどねえ。学校にもちゃんと行かしてもらったし、まあ、ただね、姉さんは上の学校、卒業して、そうだな。働きにいってまもなくだったかな、なんか姉さんは働くようになったんですよね。だから、さらにまあ、家の中はさらにけっこう、まあまあいい、あれだったんじゃないかなって思うんですよ。姉さんはね。隅田川の厩橋にライオン歯磨きってのがあるんですよ。その事務員になったような記憶があります。だから、それで、生活して、まあ、下町の普通の生活ですね。そんなところだったですね。これと言ってあれをするところもないし、悪い方でもなかった。ごくごく、家もねえ、家も自分の家じゃないんですよね。4軒長屋だな。長屋って言うあれがあってね。ひとつのあれでもって、4軒にしきりしてある長屋なんだ。昔はね、そんなもんなんですよ。長屋ってのがあってね。借家住まいだったような気がします。
聞き手:軍国少年みたいな部分はありました?あまり、そういうタイプではなかったですか?
うん。私も学徒動員っていうのかな。それで、中学だったからね。昔の尋常高等小学校っていうんですよね。今の中学だったですね。だから、学徒動員で軍事工場へ。そうだなあ。何か月か勤めたような記憶はあります。鉄砲の弾かなんかを作る工場だった気がします。そういう経験もありますね。ずいぶん。
聞き手:それはどちらにいらっしゃってたかは、ご記憶はないですか?その鉄砲の弾はどちらで作りにいってたか
それはね、太平町っていうところの錦糸町のすぐ側なんですよね。錦糸町の側の太平町ってとこにね、工場があってね。
娘さん:何で通ってたの?歩いて通っの?」
ううん。電車で通ってたの。そのね、その電車で通ってたその、定期っていうのかな。今のね。あれが昔、セルロイドできてたんですよ。それを胸のポケットにいれてたの。恐らくね、あれに火が付いたんじゃないか、セルロイドってのは燃えやすいんですよ。とても。
それでね、その熱さってのが、熱いよお。私がね、大声だしてね、あれしたの。なんかね。一瞬に焼けるね、その熱さってのはね、今でも、覚えてます。胸がね、バアーっと燃える。恐らく、それに火が付いたのかなって、気持ちもあるですけどもね。こんな経験はね、子供たちにはさせたくないです。もちろん。誰にもさせたくない。ほんとに。
聞き手:その火傷の傷はもう山梨に行った頃にはもうなお
治らない。もう。山梨に行った頃、まだまだ、その火傷の傷もね、こう、べたっと膏薬みたいなのがあって、塗り薬みたいなのがあって、膏薬。毎日行くんですけどね。一晩経つとくっついちゃうんですよね。それが剝がすのが痛くてね。子どもの頃、泣いてねえ。あれしたってのを覚えてますよね。それで、もちろん、その不衛生ですからね。昔の一晩経つと虱とかね、下手すると蛆がわいちゃう時もあるんですよ。先生がね、ピンセットであれして、そこへなんか、練り薬を塗ってね。まだ、何の薬かわかんないけども、そこへ塗ってガーゼ、こう当てておくだけなんですよ。包帯、巻いてくれるんだけどもそれがね、一晩経つとくっついちゃってね。明くる日、病院行って、痛くてねえ。それ剥がすのに、もう、あれも辛かったですよね。
娘さん:けっこうね、ケロイドになっちゃてるもんね。大きくなったね
聞き手:お母様も治療費だけでも大変ですねえ。
そおよね。火傷。私だけだったですね、火傷を負ったのは。下の妹、ほっぺた火傷したから、そういうのもありましたけどね。お袋は怪我もしないでなんとか逃げられたんだけども。恐らく、下の妹も火の粉が飛んできてこう、くっついちゃったんでしょうね。きっと。小さいまだ、赤ん坊だから、払う事もできないで、お袋もおんぶしてたから、わからないし。
娘さん:無傷で逃げるってすごいですよね。火の海の中をね。
こんな話はね、ほんとに、子供たちにもね、今、初めてするようなんだけどもね、ほんとに、子供たちにもあんまり、やな話だからね。やな思いはさせたくないなって話したことないんだけどもね。恐らく、これだって見たことないですよ。
聞き手:それはさっきも、初めてとですから
娘さん:ずっと言ってて、何もしてないみたいだから。何も残す気ないんだなあって思って。
私が死んだ後にこれ、みてくれればいいと思って。
娘さん:死んだ後じゃ、質問できないもん。ねえ
聞き手:お電話、頂けてありがとうございます
まあね、何かの役に立ってくれればいいんだけどもね。
娘さん:ちょうどほんとに真ん中いたんですもんね。いたんですもんね。一番ひどい所にいたんだもんね。
そうだね。ちょうど、地図見るとだいたい、焼け跡の真ん中だったねえ。
聞き手:そこで、動かないで生き残るって、なかなかこう、考えにくいことですよね。
娘さん:すごいですよね。ほんとですよね。
まあ、恐らくねえ、ほんとに何百分の一だろうと思うんですよねえ。偶然、本当に偶然に助かったっていうだけでねえ。人のそのなんていうかな、運命というか、寿命というか、今、考えると生きてるのが不思議だなと思う時もありますもんねえ。
娘さん:そうですよね。川に飛び込んでもだめ、石のね、コンクリの建物に逃げてもだめ。
だめ。
娘さん:その場にいて燃えなかったのはすごいね。
川はお湯みたいになっちゃうんだからね。川ん中、すごいよ、死体でもってね。いっぱいだからね。皆、飛び込むから、熱いから。なんだかもう、そうなっちゃてたね。だいたいこの地図見るとね、焼けた所の真ん中、2月25日の焼け跡って書いてあるからね。こんな事まで書いて、調べてあるんだなっと思ってね。私も2月の25日日覚えているからね、それ、書いたんだけどもね。その焼け跡に逃げちゃったんだよ。だから、周りが家だからね、それに火がついたら、たまんないですよ。ほんとに。
聞き手:中和小学校は燃え?
燃えちゃいました。燃えなかったんだ。中は燃えなかった。それでもう、人が入り切れなくなって閉めちゃったんだよね。中和小学校は燃えなかった。だから、中に逃げた人は助かったんだけども、ちょっと、遅くなって閉められちゃった人は、その前でもって火に追われて、逃げ場がなくなって、それで、死んじゃったんですよね。八名川小学校はたしか、プールがあったような気がするんですよ。プール、死んでる人がいたけんどもね、それ、その水で生活したんだからね。どうやって飲んだかねえ。恐ろしかったよねえ。
聞き手:お水はどうだったんですか?どこくらいで、最初に飲めるとか。
うん。水はけっこう焼けた後からね、この水道がこう吹き出てるのが、けっこうあったんですよ。それは飲めた。
それは飲めるからね。恐らくそんなあれじゃないかなって思うんですよね。そういう所で汲んできたんだろうと思う。お金もねえ、けっこう、落ちてたんですよ。もちろん、お札は燃えちゃうんですけどもねえ。だけんども、お金、拾う人。まあ、その、焼けなかった跡の人は焼け跡へ。焼けた跡を皆、見に来てそういうの拾ってたんだろうと思うけんどもね。私なんかも、ずいぶん、お金、触ったけんども、そんなもの欲しがる物がなかったからねえ。持ってこなかったけんど。
聞き手:さっき、お米がね。落ちてる。そういうものもけっこう。
お米とかそういうものもね、皆、そういう物、持って逃げるからね。ところがもう、持ちきれなくなって途中で、落っことしちゃう人もいるし、そういう物がね、けっこう、お米なんか燃えないからね。ああいうのは。けっこう、残った物がありますよね。そういうのを拾って食べた人もけっこういるんじゃないかと思いますよね。食べる物は無。あったってそれだめだもんねえ。だからね、それ、中学校のね、女の子、子供が死んじゃったっていう、火傷してね、動けないような人がいっぱいいるんですよね。だけどね、お医者さんは居たには居たんですけど、歯医者さんなんですよねえ。近所で見たのはね。近所で見たことがある、歯医者さん。お医者さんいたって、薬はないわねえ。道具はないわ。手の施しようがないんですよねえ。実際に。そいで、軍隊がでてきてね、それで軍隊の衛生班がでてきて、だから、避難して二日くらいかかったかなあ。軍隊がでてきて、初めて、そこで死んだ人を片づけたりね。もう、いちいちこう、抱いてあげられないからね。トラックの上からこう、棒で、鳶っていうんですよね。
こういう、ひっかけるやつでね。それでもってね、ダーッとひっかけてね。 トラックの上はね、死体で山になってるんだけれど、崩れないんだよね。手とか足とかがつっぱっちゃってね。固くなっちゃってるから。それ、これ、とげのあるようなもの積んでるような感じだから、皆、つっぱっちゃってるから。落っこちないんですよね。それで、積んで行って、また一か所におろしてね、それで、そこで焼いちゃったんだよね。だから、お袋たちを焼いた所はいまでも、ここだってのを聞いてね、いまでもそこ、家がたってますけれどもね。その骨は皆、後拾って被服廠に入れたっていうんですけどもね。大変な所に家に建てたなあって、家、建てた人はそんな事知らないで建てたんだろうと思うんですよね。今。
戦後、障碍者の青年団を作った
聞き手:敗戦はどういうふうに。
敗戦は田舎ですね。田舎でもう、いじめられている最中、そこで、敗戦のね、ラジオ、新聞なんかもありませんからね。そんな、田舎。ラジオが部落に一軒か二軒、金持ちの部落が持ってて。今日ね、天皇陛下の放送があるぞ、とか、なんとか、そういう知らせがきたもんで。そこへ行って、その、終戦のあれを聞いたっていうんですけどね。玉音放送っていうんですか。天皇陛下がね、初めて、天皇陛下の声なんて初めて聞いて。その頃はね、田舎なんていうのは、全然、そんな戦争のあったかりがないからね、わかんないんですよね。どんな苦労をしたかっていうのは。その、部落だけの事しかわかんないんだから。それで、世の中とおったんだからね。ほんとに。
聞き手:敗戦をした時はどんな印象でしたか?
そおね。子供の頃だったから、めずらしいってんで聞きに行っただけで。戦争、終わったらどうなるかなんて、そんな事、考えた事なかったですねえ。ただ、村の人はね。大変な事になるぞっとか、なんとか色々、話は聞いたけんども。私自体はそこまでは考える余裕もないし、考える知恵もなかったんでしょうね。
聞き手:ちょっと、離れますけれども、戦後はその障碍者団体の青年団作る、きっかけがあったんですか?
身障新聞っていうのが、そこで働いてて、身障新聞ていうのが、新聞に挟まってたんですよ。それで、どこへ旅行に行ったとかなんとか、そんな事ばかり書いてあったんですけどもね。私はそんな団体があるのを知らないで、それで、こういったね、いつも旅行に行ったとかね、こういうことしたっていうのをね、新聞がくるけんども。
後から聞いても困るんだって、先に聞かなきゃ参加もできない。それで、その、電話番号があったから、そこへ電話したんですよ。そしたら、大急ぎで役員の人が飛んできてね、私のすぐ側へ勤めてたからね。そこで、来てくれて、今度、必ずあれしますからって。それから、身障団体に入ってあれしたの。だけんど、若い人はいないんですよね。私しか。あと、皆、年取った人ばかりで。これじゃいけないってんでね。その、区役所、陳情して、障碍者の届け出があるだろうから、そういう人の名簿を見せてもらって、それで訪ねていくとね、隠しちゃうんですよね。家にそんな子いませんよって。親がね、障碍者、隠しちゃうんですよ。そういう時代だったんですよ。だからね、集めるのが大変だった。それでも、15人位集まってくれたかな。新聞にもだしてね。あれ、身障新聞っていうのにだして、それで、あれして、15、16人、集まったかなあ。だから、おまえ、一人じゃ仲人もできないんだから、仲人は会長が引き受ける。引き受けてもらって。それで、三組か四組は纏めたつもりなんだよね。
娘さん:この話、最近、ほんとに最近、聞いたの。そんな行動的な人だって知らなかった。
聞き手:すごいですよね。
聞き手:すごいびっくりした。テレビ結婚の話も知ってましたけれども、どうしてそうなったのか、私も聞かなかったんですよね。へえ。そうなんだ。なんか当たったとか言って、そうなんだ位にしか、思ってなくって。最近になってこの話をして、そんなに活動的な人だったんだなって、思って、ちょっとね、すごい、びっくりしたんですよね。でも、なんか血を引いてらっしゃるんじゃないんですか
娘さん:なんかね。なんで、私がこんなに仕切りやなんだろうと思って、色んな事に興味があるし、突然変異かと思ってたんですけど、やっぱりね、血筋なんですね。すごい、思いました。血筋なんだなと。
これで、申し込み、区役所行かなきゃいけないですよね。そうすると、会社、休まなきゃならないでしょ。一番、会社ってのが大変なのが、皆勤賞をもらう事ね。そうすると、1日休んじゃうと皆勤賞がもらえなくなっちゃうんですよ。それでね、区役所へ申し込みに行くのがね、これ、皆勤賞がね。生活にひびいちゃうからね。1日休んじゃったら、大変だなあって、だけども、申し込まなきゃ当たんないし、それで、しょうがねえと思って、親をこっちに呼ぶにはね、どうしたって、家が必要だから、それで、休んで申し込みに行ったんですよ。
でも、何回か行ったんだよなあ。それだけ、給料減っちゃうのはね、恐ろしいけんどもね。それで、申し込み行って当たって、それで、ここへね、きたんだけんど。まあ、大変な青春だったですね。ほんとに。もう、小さい頃から、親父と親父の代わりを務めなきゃなんないんだからねえ。だから、みんな、働いても、少しずつ働いて、月給じゃない、小遣いみたいなお金なんだけんど。それを貯めてね、お風呂行かないと怒られるからね、公園行って手ぬぐい濡らして、帰ってきてお風呂行ったような顔してね。いってきましたってね。それで、お金を残して、それで、田舎へ送ってね。自分の小遣いなんてありませんよ。それで、なんとかお袋も生き延びてられたんじゃないかと思うんだけどね。子供たちが皆、卒業するまでね、あれしたんだから。まあ、ほんとだね。考えてみると、良くやったなと自分でも思うよね。
娘さん:一番下の妹さんとは12才離れてるの。今、叔母さんがね、世話してくれてね。おかえしに。お礼にね。恩返しだね。
聞き手:学校、行かせてあげてたんですね。
聞き手:でも、ご自分やご家族だけでも大変なのに、団体まで
娘さん:ほんとですよ。
聞き手:すごいですね。
娘さん:私が小さかった頃、障碍者の集まりがよくあって、そこすごい、覚えてるんですよね。皆さん、すごい仲良く。その発起人が父だったのは、最近知ったんで、それもびっくりしたんですけど、たしかに皆さん、すごく仲良かったなあと思って。ねえ。ずいぶん、長く続いてたしね。
やっぱり、昔は障碍者は邪魔者だからね。いてもいなくてもいいってあれなんだから。皆、遠慮してね、その、引っ込んじゃうからね。今、言ったみたいに家に障碍者がいても、隠しちゃうくらいだからね。親が。障碍者なんていませんよ。そういう時代だったから。障碍者は人間としてあんまり、扱ってもらえないような時代だから。その中でそれが、私たちが運動したもんで、今はね、バスの券をもらえたりね、障碍者手当とかそういう手当とかそういう、運動した、私たちが運動してやっともらえるようになったんだから。今の障碍者はずっと楽には楽ですよね。届けさえだしゃ、障碍者として、ちゃんとね、そういう福祉手当、そういう、みんなやってもらえるんだからね。私たちはそれをその手当とか、そういう物を勝ち取るために努力したんだからさ。運動も楽じゃないですよ。やっぱりね、仕事をしながら、やるんだからね。通いになって初めてね、給料もらえるようになってきたからねえ。いくらか生活がね、お袋もまだ、働ける時代だったから。近くのあれでね。今でいう、アルバイトですね。そういうのにもいったし。そうだね。ほんとに。あの時代をよく乗り越えたなって思います。今、考えると。
体験記録
- 取材日 年 月 日(miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
戦場体験放映保存の会 事務局
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