目次
- 内田 宇吉さん
- プロフィール
- 海軍志願、機雷学校へ
- 機雷学校卒業、駆逐艦を希望する
- 駆逐艦「潮」乗艦
- 「志摩艦隊」出港
- コロンで砂を積む
- 「志摩艦隊」の陣形
- 「阿武隈」から誤射を受ける
- レイテ沖で戦闘、「阿武隈」魚雷被弾
- 「阿武隈」撃沈、「潮」が乗員救助
- 陸軍兵士のレイテ島増援任務に就く
- マニラ湾で空襲、兵員23人戦死
- 片肺航行、船体右に傾く
- ジョホール水道に寄港、船体修理
- 内地に向かう(カムラン湾にて油槽船撃沈)
- 兵隊よりも軍属の死亡率が高い
- 内地に向かう(ベトナム~海南島~高雄)
- 内地に向かう(金門馬祖~関門海峡)
- 「大和」長官が「潮」視察
- 横須賀に帰港、上陸
- 退艦後、防備隊に就く
- 終戦、復員
- 再び、レイテ沖の戦闘の話(砂は血糊の滑り止め)
- 再び、マニラ湾の空襲の話(人間が白ロウになる)
- 体験記録
- 参考資料
内田 宇吉さん

生年月日 | 1925(大正14)年1月21日生まれ |
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本籍地(当時) | 群馬県 |
所属 | 海軍 |
所属部隊 | 横須賀海兵団 「潮」 |
兵科 | 水測 |
最終階級 |
プロフィール
1925(大正14)年1月21日生まれ 群馬県安中市出身
1943(昭和18)年夏 海軍志願
1944(昭和19)年2月5日 「海軍機雷学校」入校、後に「海軍対潜学校」に改称
1944(昭和19)年9月20日 「海軍対潜学校」卒業(第14期普通科水測術練習生艦艇班)
1944(昭和19)年9月29日 第5艦隊(志摩艦隊) 駆逐艦「潮」乗艦
1944(昭和19)年10月24日~26日 レイテ沖で戦闘
1944(昭和19)年11月13日 マニラ湾で空襲
1945(昭和20)年1月14日 横須賀に帰港
1945(昭和20)年7月5日 横須賀防備隊に転属
1945(昭和20)年8月28日 復員
最終階級 海軍二等兵曹
インタビュー記録
海軍志願、機雷学校へ
私はですね、戦争たけなわで、たけなわというよりも、昭和18年だから、まあたけなわかな、夏、海軍に志願をしてですね、それで海軍に入ったのは昭和19年の2月の5日でした。海軍というのは入ると海軍の基礎教育とでもいうか新兵教育というのがありましてですね、新兵教育は海軍全般についても教えるんだけども、主に、主にやるのが陸戦と、陸戦訓練というのですね、海軍機雷学校なんだけども、学校は久里浜の浜から海に向かって左側の岬に、学校がありました。そこは現在では神奈川県の刑務所(横須賀刑務支所・久里浜少年院)になっておりますけども、そこで海岸の練兵場で訓練をすると浦賀水道を大きな軍艦が入ってきてですね、それで教班長は、「おい、あれが「大和」だぞ」と、「大きいだろう、一所懸命勉強しないとお前たちはとても乗れないぞ」というふうに言ってですね、励まされたということがありました。
それでですね、新兵教育もいろいろたいへんなんだけも、3月の25日に機雷学校は海軍対潜学校となると、要するに潜水艦をやっつける水中聴音機とか探針機とかの勉強をすると、それで4月の10日にですね、新兵教育が終わって、今度は普通科の練習生と、水測の各兵器の勉強をして、新兵の時には毎日汗をかいて飛んで歩っていてですね、それで仕上げには江の島の向こうの辻堂演習も行ったんだけども。
今度は練習生になったら朝から晩まで毎日毎日座学ということでね、昼間4月5月暖かくなってきて眠くなるんだよね。居眠りがでると。居眠りしても班長怒らなかったんだけども、それでは勉強にならないというので、長野県の松本に久保田君というのがいてですね、彼といつも並んでいたんだけども、縫い針を持っていて、「おれが居眠りしたらお前腿刺せや」と、「お前が居眠りしたらおれが刺す」と、チクチク刺して、それで眠気を覚ましながら勉強やってたわけなんだよね。
それで卒業が9月の20日になるのだけども、その間ずっと毎日勉強ということでね。それで久保田はですね、180人の分隊の中で、この180人の分隊は艦艇班が6個分隊かな、そして陸上班が4個分隊、全部で10個分隊ぐらいあったから、まあ1,800人から2,000人近くはね、いたんじゃないか。第14期の普通科水測練習生なんだけども、そのくらいいたと思うんですよね。それで彼は、久保田はですね、分隊の一番で、恩賜の、時計でなくて万年筆を貰ったっていう話ですね。それで、ただ頭もいいんだけど、生意気なところがあって、私よりも齢は2歳下なんだけけども、おれは頭がいいんだっていう顔をして、確かに頭はいいんだけども、卒業の頃、ちょっとね、仲が悪くなっちゃって、あんまり並んで勉強しなくなったんだよね、そんなこともあってですね。
機雷学校卒業、駆逐艦を希望する
それで9月の20日の卒業で、同日、「潮」に乗り込む駆逐艦、これ、海軍というのは今でも通るということは、卒業成績の決め方なんだけども、これは点数でいくからいいんだけども、希望の、要するに、どこにすすみたいっていう希望だよね、希望の船を書けという時に、私は駆逐艦っていうのが、一番速くて、小さくて速いから、安全かと思ったんだよな、安全かと思った。で、駆逐艦出したら、駆逐艦通ったというので、ああ良かったなと思ったんだけども。その時に、15歳の岩手県の工藤君、これは平成元年に亡くなるけども、これと2人一緒にね、9月20日の卒業で。
それでこの時、船で行った覚えがあるんだけども、船に乗って、ずっと久里浜から横須賀の海兵団まできて、それで海兵団に仮入団ということでですね。それでそこに3日いるんだけども、たかだかその仮入団の分隊というのは何か決まっていてですね、それでなんか慣れないし、初めてで誰も顔も分かんないしね、本当につらい、嫌な思いをするんだよね、慣れないから。
3日我慢したら、「潮」に乗り組みの者は2人、「弾壕?」(不明)岸壁に行けと、その岸壁に行ったら、航空母艦の「隼鷹」というでかい母艦があって、これに便乗しろといってですね、その工藤と2人でその船に乗って、乗って行くんだけども、そんなにいつまでも乗っているんじゃなくて、柱島の沖合に行ったら降りると。そこにもうボートが来ていて、それでボートに乗って、巡洋艦「那智」に連れていかれたと。
「那智」へ着いたら、私と工藤は、工藤は別の方へ行っちゃって、私はこっちへ来いと、連れていかれたのが、巡洋艦の前の一番砲っていう一番でっかい大砲の班に入って、それで「何もしなくてもいいから邪魔すんな」と言って、小さくなっていたと。1日小さくなっているのもたいへんなんだけども、何のしようもないし。その班の人たちの生活ぶりはある程度分かるんで、ああこれが海軍の軍艦の乗組員なんだなと。それでその船は以前は北にいたんだよね、千島の方に。だからね、下士官の古い兵隊はあまりよくなくて、セーターを編んでいるんだよ、兵員室で。その2本の棒で。ああ、ああいうことをしてるんだなと思ったんだけどもね、若い兵隊はどこに行ってるか、作業しているところは全然見えなかったけれども。
ある朝、「おい、その便乗者、一番砲の早朝訓練で大砲の操法があるから見てきていいよ」と、「見学しろ」と言われて恐る恐る一番砲の砲塔に入って、見たんだけども、大砲の砲身の長さが長くて、前の弾の出るところは20センチだからそんなに大きくはないんだけども、その弾をこめて打ち出す部分っていうのはものすごく大きいところで、大きいものであって、それで1つの砲身に7、8人付いて、弾をこめる。続いてその火薬をこめて、こめ終わると尾栓を閉めて、それで砲身を動き出すと、ということがあって、実際には撃たなかったけれども、訓練を見せてもらってですね、ああすごいなと、1万トンの巡洋艦でこのすごさなんだから、「大和」の大砲の砲塔の中はね、どんなだろうと、想像できないぐらいすごいだろうなと、思ったんですよね。
駆逐艦「潮」乗艦
それで3日いたら、「潮」が四国の沖合から入ってきて、それで、こっちは知らないんだけども、船と船とでは交信していてですね、それで「「潮」よりの転入者はすぐ荷物を持って舷門に来い」と言うんで、舷門に行くと、もうそこに「潮」からの内火艇(ないかてい)が来て待っていて、それでその船に乗って目指す、20日に卒業したんだけども、9月の29日、9日間ですね、あちこちにいて、それで柱島の沖合で、目指す駆逐艦の「潮」に乗り込めたわけです。
乗り込めたんだけども、やっと落ちつくところには落ちついたんだけども、今度はここが自分の住処であり戦闘配置であり、今度は早くいろいろなことを覚えないと困るわけなんだけども、そんなに急にね、覚えられっこないんだよね。
まあそれなんで、行ったのは午後3時頃で、ちょうど休憩時間が終わって、作業に移る頃だったんだよね。それで工藤君と2人でですね、行ったら、「じゃいいや、お前たちにもあげよう」というんで、酒保(コンビニみたいなもの)のね3時のお茶菓子だったんだろうかな、小さい袋のお菓子を2つ、袋をもらってですね、それを誰もいないところで、2人で食べていたと。そしたら作業中そこを通過する兵隊ですけど先輩がいるんですよね、それがタタタタと駆けて通ってくるんだけども、誰かも分からないし、そこで新聞があったんで、新聞を見ながら菓子を食べていたと。そしたら、夜になって夕飯の時に皆が来て、「今日乗った新兵、いいか、明日からはテーブルで新聞読んだり、お菓子食べたりなんかしてはいられないぞ、これからはおれたちのやることをよく見ていて、あまり教えないからよく見てて覚えろ」と言われてだよね、それで、ああ、おっかねえなと、思いながらね。そのごとくだよね。教えないこともない、聞けば教えるんだけども、見ていて真似していると。
それで掃除をする時に、まあ普通なら雑巾とか箒とかあるわけだけども、行ったら雑巾が無くなっちゃって箒しかなかったと、それで箒持って掃いてたら、「いいか、今日はいいけども明日からはな、新兵は箒を持っちゃ駄目なんだ、箒は先輩が持っていい、新兵は雑巾を持つんだ」と、そう言われて、ああなるほどな、と思ってですね、ただその時には、今度は、早く飛んで行って雑巾を取られないように早く取ると、もし雑巾が無ければ、先輩の雑巾を奪い取ると、いうようにしてだよね。それで箒を持たず雑巾で甲板を拭くというふうにしなければいけないんだと、怒られるんだというくらい、そんなことで一事が万事そんなんで、多く神経使って、こんなに神経使うんなら、ひと月もいれば死んじゃうかなと思うような時もあったんだけども。
でも段々慣れてだよね、段々慣れてくるわけなんだけども、それで、瀬戸内海で、須ノ浦のあたりで訓練もするんだけども、やっぱりちょっと波があると揺れるんだよね。その時にね、気持ちが悪くなってだよね、ただ水測の、我々の任務の水測の、湾内ではね、とてもやらないんだけども、ああ、これは船酔いかな、と思っていたんだけども、その時にいくらか酔っただけで、それから太平洋出ても、どこ行ってもね、酔うことはなかったんだけどもね。
まあそんなことがあって、呉の、入港したりなんだりして、呉に入港すると今まで北にいたもんだから、船室にだよね、スチーム、暖房設備だよね、あれがいっぱいあって、それをね、海運工場の工員が来てね、取ってくんだよね。ばらしていくんだよ。それで乗ってる先輩が「ああ、今度は南だぞ。北に行くなら取らなくていいんだけども。南だな、南に行くな」と。
「志摩艦隊」出港
そんなことがあって、呉で入港したり、湾で訓練したりだよね、やってて、それで10月の14日の夕方、我々は知らないんだけども、海軍工廠の工員が慌ただしく電線とか、あるいはガスの管とかそういうものだよね、船からどんどん降ろしているんだよね。降ろしていて、それで、降ろしきるとそれで行っちゃうんだけども、こっちは何だか知らないんだけどもね。
それで、夕方、岸壁から離れて出港と。出港して、どこへ行くと思ったら、柱島だよね。そして柱島に行く途中に、いよいよ5艦隊、5艦隊というのは、「志摩艦隊」だよね。さっき言った、「那智」、「足柄」、「阿武隈」、それと「潮」、「曙」、「不知火」、「霞」と7隻だよね。これ、海軍っていうのはね、入港中は言わないけども、出港してもうどっか寄るところないっていうと、どんな秘密でも話してくれるんだよね。だって、外にばれる心配がないから。
そんなんでね、柱島の沖合に行ったらもう暗かったんだけども、艦長がどっか旗艦かどっかに集合して、それで綿密な指示なり行動とかの話があったと思うんだけども、それ帰ってきてすぐ出港なんだよね。柱島から出港するというと、豊後水道通るんだけども、なんか地図では確認できないんだけども、豊後水道のなかにね、狭いところがあるんだな。狭いところはね、通過する時にはね、多少危険を伴うんでね、暗いしね、それで、「航海保安配置につけ」と言うんだよな。航海保安だよね。兵隊がだね、前甲板まで行って、ハンマー持ってんだよね、それで危険が生じて船を急に止めるために、ハンマーで錨のストッパーっていうのを外すとね、錨がガラガラと落ちるんだよ。これは海軍で船に乗った人は経験があると思うんだけど、それで船を止める。それもちろんスクリューも逆回転してだよね、ブレーキかけると。そういうんで「航海保安配置につけ」と。
それで寒くはなかったけどもね。9月(10月)だったからね。それで前甲板に出た覚えがある。それで翌日、豊後水道を艦隊が出てだよね、それで行くわけだけども、夜が明けた時には、天気の塩梅もあるけども、九州とか四国の山は見えなかったな。それで二等巡洋艦の「阿武隈」が先頭で、その後ろに、「那智」と「足柄」がついて、その横に「曙」と「潮」、それから「不知火」と「霞」がつくという艦隊の戦闘態勢だよね。その後で15分か20分ぐらい走ると方向を変えるんだよね。それで、ジグザグ航法なんだけども、危険な海域程その角度が深いと、そうでなければ比較的浅いんだけども。
まあ軍艦旗をなびかせてだよね、それで進むんだけども。で、卒業の時に、おれはどこだどこだ、っていうのがあるんだけども、まあいきなりこうやって、その実際に活動、戦闘する船にいきなり乗れたというのは、卒業生のなかでも数が少なかったような気がするんだよな。それで水測の、もちろん配置もあって、2人ついてて、聴音機とか探信儀やってて、艦橋に上がって伝令なんだけど一番若い我々がね、伝令ってのは下から言ってくることを上の艦長なりにね、つなげればいい、話せばいいわけなんで、話すというより報告すればいいんで、そんなんでいてだよね。それと艦橋だからね、艦隊の様子がよく見えるんだよね。
それで何ていうのかな、その頃から、当時はだよね、そういう兵隊とか海軍の兵隊とかね、軍艦に乗るということに、憧れていたわけなんだけども、ああ、おれもこうやって男に生まれて船に乗れて、まだ良かったなと。ただこれからおこる戦闘のことについてはまだ全然知らないから恐ろしくも何ともないんだよね。ただ毎日の新聞に戦死者がでてくるんだけども、それは遠くの出来事であってだよね、自分の身にふりかかってくるというのは当時考えられないから、それで出撃する時に、古い兵隊は、今度はなんか危ねえような気がするな、というような先輩もいたけれども、直接こっちにね、自分の体が戦死すると、とてもそんな思えなくてだよね、ひじょうになんつうかなあ、有頂天と言っちゃあれだけどね、ああ男に生まれて良かったなというようなね、気分でいってたよね。
それで、出撃していくわけだけども、3日目あたりかな、だんだん暑くなるんだよね、南に行くんで。それで今までの長袖長ズボンの服でなくて、「防暑服に替え」って言うんだよな。そうすると防暑服が来てるんだよ。服脱いでさ、半袖半ズボンに着替えて、ああこれは軽くていいやなんて、涼しいしね、まあそんなこともあってね。
そうこうしているうちに、敵に発見されて、また方向を変えて、九州から琉球列島あるけども、琉球列島の列島線だよね。列島線をくぐって、くぐる前に奄美大島で燃料補給するんだな、うちの船だけ燃料補給する。その燃料補給はドラム缶を積んできた船がいて、それをクレーンで上げて、取ってね、「けんぱつ風呂?」(不明)っつうのがあるんだけどね、けだ(四角の)の風呂だよね。そしたら人が下の給油口に繋げて、それでドラム缶をその「けんぱつ風呂?」に開けてだよね、じゃんじゃん開けていっぺんに3本4本と開けるわけだよね。それで重油を補給すると。あんまりいつまでも時間かけないでね。それで補給して本隊を追いかけると。
それでさっきあったように、(10月)20日かな、馬公(台湾澎湖諸島)に入るんだよね。それで馬公に入って。うちの船は性能はいいんだけども、比較的性能のいいクラスのなかでは古い方だったんだよね。でも武装はいいだけどもね、燃料食ったんだよな。だからね煙突の太さは前も後ろも同じでね、格好はいいんだよ、格好は良くて、その次のクラスの船は、かごが4つあったのが3つだからね、煙突も同じ太さにすればいいけども、前の煙突がちょっと細いんだよね、幅1個ない。だから、その方が合理的なんだけど、見たところはね、ちょっとアンバランスでね、格好悪い。
そんなんでね、それで馬公に入って、馬公に初めて入ったんだけども、あれは随分南なんだけど吹いてくる風は割合涼しいんだよね。それでまだ9月(10月)なんだけども、それ山が無くて、馬公というのは澎湖諸島、島がいくつもあるんだけどね、そんなかで馬公が一番いいところだと思うんだけど、海軍の要港があったんだけどもね。30、40メーターの山の高さがあって、あとはずっと平原なんだよね、平ら。それで街らしいものも見えるんだけどもね、家の数っていうのはあんまり見えないんだよ。これで街なのかなと思う。それで風がもうね、そうだなあ、この辺の西風が強い時のああいう風がね、それで山も無いから、風が一定の強さで一定の方向にね、年中吹いてるんだよね。だからね、寒いほどじゃないんだけどね、ああ随分風が強いなと思いながらね、いたことがある。それで出撃するんだけども、さっき言ったように船が出港すると、難しいことでも何でもね、秘密のことでも話すというのが、外部に漏れる心配がない、もっとも上陸しなければ漏れないんだけども。
コロンで砂を積む
それで出港したら、これからうちの艦隊は、ブルネイから北上してくる栗田艦隊なんだけども、栗田艦隊の主力隊が2隊あって3隊目が今言った「山城」「扶桑」の旧式戦艦なんだよね。これは西村中将が率いているんだけども、西村艦隊とうちの志摩艦隊、うちの艦隊はね志摩艦隊と言った、これは一名ね、第2遊撃部隊とも言ったし、志摩艦隊とも言ったんだよね。それでうちの艦隊はブルネイから上がってくる西村艦隊と合同して、それで10月の24日の朝、25日なんだけど、24日の朝、未明だよね、レイテ湾に突っ込むんだと。合同で突っ込むと。
そういうことでね、話があって、それでレイテ湾の中にはアメリカの船がいっぱいいるから、日本の艦隊はね、全部マストの頂上に白い吹き流し、大きな吹き流しを上げてるからね、機銃員なり砲員はだよね、吹き流しが上がっているのは日本の船だから撃つなと、「支那事変」の時にね、よくね、人襷っていうのがあったんだよ、要するに敵と味方を見分けるためにね、襷をしているのは日本兵、味方なんだと、だからね、それは決して撃つなと。それと同じようにね、マストの上に白い吹き流しを上げて、突っ込んでった。
それで行くんだけども、途中でさっき話したコロン(フィリピン)というところでね、油槽船で油を補給するんだけども、油槽船が来てないというんで、時間が多少あったのかな、カッターを降ろして。オスタップって洗濯桶のこと、オスタップっていうんだよね、それで海岸に行って砂を取ってきたと。その砂を何に使うか分かんないだけども、知らなかったんだけども、砂を取ってきたと。それ何にするのかなと思っていたんだけども、それ後で分かるんだけども。
「志摩艦隊」の陣形
それでそこを出撃して、航行中、右翼の「那智」からね、後ろからホースを流して、それで拾い上げて「かい〇ぶ?」(不明)につないで、コロンで油積めなかったから、それでまた油もらうんだよね。巡洋艦から。そんなこともあったりしてね。それで見てるとね、そうだな50メートルぐらいあるんかな、「那智」の後部とうちの船の間はね、そこホース流してさ、それで「那智」の後部とうちの信号兵がいて、それでホースの油の流しを、話してんだよね。ちゃんと手旗でやってるんだけどね、胡坐かいて座っていて、こうなんだよ(手旗を振る仕草)こうやってんだ。まあ慣れてくればあれでいいんかな、向こう(「那智」)でもそうなんだよね。それで油の補給をしてた。それで補給が終わると、ホースきって、ホースを引き上げてだよね、それでまだスピード上げていくと。
それでよく絵や写真で、絵によくあるんだけども、船と船がね近くにいて、戦争してるというんだけども、実際に航海の、今言った「阿武隈」先頭に「那智」と「足柄」、それから両側に駆逐艦が4隻つくと。その船と各艦の距離はね、800(メーター)から1,000なんだよ。800から1,000。だからはるか向こうなんだよね。だから、1,000ならばさ2,000メーターなわけだよ、はじからはじまでね、実際もっとあったのかな。これがこの之字運動で行くからね、よく見てないとね、分かんなくなっちゃうんじゃないんだけども、それで先頭を行く「阿武隈」というのはね、これ旧式なんだよね。ただエンジンなんかは途中直すからスピードは出るんだけどね、型が古い。ブリッジはね低いんだよ。だから遠くで、先頭いくだろ、なんかね、這って、雲の上を這ってるように見えたよ。それで2番目の「那智」、「足柄」、これはいい船だったからね。高さもあるしね。
それでどっちでもいいと思うんだけども、航海中だよね、時刻整合、その旗艦からだよね、旗が上がって、これから時刻整合やると、信号でやるのか知らないんだけど、艦上にいると信号兵は「那智」の時刻整合の旗が上がったと、言い方があるんだけどもね。それで何時何分にやると、合わせると、それで東京のラジオのだよ時報に合わせれば一番いいと思うんだけど、それで旗はね、5秒前になるとね、旗がさっと下がるんだよね。それで「何時何分5秒前」と、5秒だからすぐだよ、「時間」って言うとね、信号兵は見てて言うんだよね、それで時間を合わせると。艦隊全体の時計の時間が合うということだよね。まあそんなこともやりながらね、行くわけだけども。
「阿武隈」から誤射を受ける
それで(10月)24日が過ぎていってフィリピンに近くなってくると。それで西村艦隊と合同、というんだけども、西村艦隊がどの辺に行ってるのか、我々には分からないんだよね。分からなくって、24日夕飯が早めに済ませて、それで対空戦闘ではないんだけども、対空戦闘の号令がかかっていけばいいと思うんだけども、なんかみんな兼務機銃員で、水測なんだけども、戦闘の時には弾こめに行けと、いうことになってるからね、機銃台にあがってるんだよね。機銃台は高いからね、状況よく見える。ただずっと立ってるんだけどもね。若かったからね、立ってたってくたびれゃしないんだけども。
それで夜になって、夜ご飯食べて、また戦闘配置に行って、それでいるわけだけども、それで夜中になってだよね、夜中を過ぎて、まあ朝方になってかなあ、「阿武隈」がね、艦隊でいくんだけどもね、「阿武隈」というんだけども、「阿武隈」がね、うちの方に機銃を撃ってくるんだよ、バラバラって。「阿武隈」でも向こうに船はいるけれども、さて、日本かな敵かなと、迷ったらしいんだよね。それで先輩がね、「あ、あれは日本の船だ」と、弾の色で分かるんだって。飛んでくる曳光弾って色があるんだよね。アメリカの色はねもっと明るい色だって、日本のはね、黄色みががかった赤でね飛んでくる。それで前の方から飛んでくるから、弾がどんどん来るんだよね。こう(横から)飛ぶのは速いけど。ここに(自分の船の方に向かって)くるからね、なんだ、これは避けられないじゃないかと。うまい具合にこう(自分の船の方に向かって)来るんだな。まあ自動連射で10発ぐらい撃ったのかな。それですぐにね、あれは日本の船だ、前のマストにね、味方信号だよね、グリーンとね赤のね、鮮やかなグリーンと赤だよ、電気が2秒パーっと点いた。これは味方信号なんだよ。それもよく確認できた。
レイテ沖で戦闘、「阿武隈」魚雷被弾
それで行くんだけどもね、さらにどんどん進んでいくと。ただ伝令がいてね、艦橋の様子をね、こっちに直接関係の無いことでもね、知らせてくれるようなね、そういうシステムになっていたかどうかは分からないけども、ただ状況がね、「只今本艦最大いっぱいで走っている」とかね。それから、合同して突っ込むはずの西村艦隊は既にもう行っちゃっていると。それで、西村長官とうちの志摩長官が、だよね、話し合いをすればだよ、合同で突っ込めると思うんだけども。ただ、今考えてみるに、例えば合同して突っ込んでいった場合にね、スピード上げたらね、西村艦隊の「山城」「扶桑」は置いてかれちゃうんだな、スピードのろいから。そのために、西村長官は一足先に行ったんだろうと。それでレイテ湾の入口あたりで合流すればいいと、いうつもりでいたんじゃないかと思うんだけどもね。
どんどん走っていくと、細かいことは分かんないんだけども、今言った、メートルで何海里ぐらい先かな、はるか進行方向前方が赤いんだよね。ダーンと弾が飛んでパッと閃光が上がってさ、弾道が、弾が分かるんだよ、弧を描いて、それで命中するとパーっと開いたりね。それが日本とアメリカの艦隊の撃ち合いが始まっていると。それで真っ暗なんだよね。それで日本の場合には、まだレーダー射撃ができなかったな。レーダーで飛行機はある程度つかまえたけれども、レーダーで敵の船の距離を測って撃ってくと、要するに「めくら」だよな、見えてない。それがレーダーで見てるわけだ。アメリカが既にね、旧式の船でもそれがあって、真っ暗なんだけども撃ってくると。それがよく当たったんだな。だからその大砲で「山城」と「扶桑」はやられてしまったと。それで「最上」もやられたんだよな。それで撃ち合いが始まって、そんなにいつまでもやってないんだよね、敵も味方も海の戦いというのは、日本海海戦と同じように、停まって落ち着いて撃つんじゃなくて、フルスピードだよな両方が。そうでなければ余分な被害を受けるわけだから。
それでその中をどんどん進んでいくと、さっき撃ち合っていた船が被弾してだよね、火災をおこしている船がね、左に浮いてるんだよね。まだ沈まずに。日本の「山城」「扶桑」っていうのは非常に高い櫓マストなんだけども、あの格好でいるんだけども、艦橋からだよね伝令がだよね、筆前水雷長(筆前享中尉・海軍兵学校69期)だけども、これ副長なんだけども、「左に燃えているのは敵の戦艦」と。ああなるほどなと、高いところにいるからよく見えるんだよね。2つに割れて、1つが後ろの方がね小さくなってそのまま燃えてると、沈まずに。だからね、あれほど火の塊になってしまえばね、例えば弾に当たって死ななくもだよね、海に飛び込む以外に生き残れねえなと思うぐらいに、思ったんだけども。その時は、敵の戦艦と言ったけれども、後になってね、あれは「扶桑」だったと、日本の戦艦の、いうのが分かるんだけども。
それをさらにどんどん進んでいくんだよね。進んでいくんだけども、なんかいろいろあったらしいんだけども、アメリカの魚雷艇が一番左を進んでいく駆逐艦を狙って撃ったと、魚雷をだよね。そしたらそれはうちの船なんだけども、うちの船に当たらずに、魚雷が通り越していって、向こうの「阿武隈」に当たってしまうと。それで「阿武隈」が、不発弾で爆発はしなかったんだけども、当たり場所が悪かったというか、「阿武隈」はだよね、前のめりになって帆を下げてだよね、それでエンジンはやられないのに、速力が9ノットしかでないと。普通なら37、38ノットでるのがね。9ノットなんてのはね、だいたい1ノットは2キロ弱(時速)なんだよね。1ノット2キロ弱。8ノットなら16キロ。だから14、15キロしかでないと。だからね海の上でね、14、15キロなんてのはね、まあ「いざってる」(座ったままで移動する)ようなもんなんだよな。それで落伍と。それで前どんどん進んでいくと。
といって夜が明けてきた。そしたらあんまり無いんだよね。さっき魚雷艇がいて、魚雷艇を4本の大砲で9斉射、4×9、36発撃つんだけど当たらないんだよね。それで魚雷艇は煙吐いて煙幕を張って逃げていく。こっちを見るとだよね、まだはるか向こう遠いけども、「最上」が1万トンぐらい、こんな(体を大きく傾けて)になってんだよね。前をずっとすくい上げて、艦尾、後ろの方はもう水に着いちゃってるという形でだよね、断末魔の姿っていうかな、いるわけさね。それで「那智」が、聞くところによると、停まっていた「最上」にぶっついてだよね、それで「最上」の沈没が早まったということではないんだけど、「那智」の前の方をちょっとケガするんだよね。まあそんなこともあって。
それで上の方の偉い人は、どんなことをしてるか、我々は分からないんだけども、「那智」と「足柄」はもう引き返すと、それで「曙」と姉妹艦の「潮」が残って、「曙」が「最上」を守ると、傷ついた「阿武隈」をうちの「潮」が守って、それで引き返すというんだけども、「最上」はとても走れないから「阿武隈」の魚雷で、救助してね、味方の魚雷で沈めると、そうすると今度は残ったのはうちの船と「阿武隈」だけだよな。これは本当に牛が歩くぐらいにのろく帰って行くわけだけども。夜になって、ダピタン(ミンダナオ島北部)っていう湾があってね、そこに入って、応急的な修理をするんだけどとても駄目なんだよな。それで、よくは分からないんだけども、その時、「阿武隈」からうちにまた燃料を貰うということをやったそうなんだけど、知らなかったけどね。
「阿武隈」撃沈、「潮」が乗員救助
これで次の日が(10月)26日だよ。それで、朝明け方すぐだよね、その湾を出てマニラに向かうんだけども、それで8時か9時頃かな、アメリカの4発のコンソリデーテッドっていう飛行機なんだよ、4発のでっかい飛行機、B29より大きいんだけどね。これが20機ぐらい来たかな。それで14機と6機で分かれて、14機が「阿武隈」にかぶさってくる、6機が後ろに来ると。それで「阿武隈」を護衛するはずの「潮」なんだけども、護衛と言っても寄り添ってだよね。守ってやるんじゃなくてスピードいっぱい上げて、離れると。向こうに行く飛行機を1機でもこっちへ引っ張ってやるということしかできないんだよね。それで戦いが始まるわけだから、それで機銃台1台弾をこめて撃つと。爆弾落とすけどね命中はしなかった。だから非常に恐ろしい思いをしたけれども、命中しないんだけども、遠くに離れている「阿武隈」には命中してだよね、火災が発生していると。遠くでも分かるんだよね。それで近づいていくと、火災だからもうどんどん広がるわけだよ。消火器なんか使えないからね。もう手の施しようがないわけだな。
それで向こうから信号がきて「「潮」、横づけせよ」と言うんだけども、横づけの場合はすーっと後ろから行ってすーっと横づけするんだけども、もう爆雷とか魚雷とかのね、砲弾とかが誘爆するんだけどね、爆弾が多く跳ねるんでね、近寄れないんだよね。それで「飛び込まれたし」という信号を送って、だいたいもう停止しているからね、300メートルぐらいのところで停まって、錨を下ろすわけではないけどね、それで泳いでくる兵隊を引き上げるわけだよ。ちょうど怪我はしててもね、これで泳がなければ死ぬんだから、人間はね、ここで泳がなければ死んでしまうという時にはね、よくこれ泳いできたな、と。この太腿にだよね、撃ち抜かれてだよ、それで手拭いで縛ってね、棒を突っ込んでぐるぐる回すんだよ、その棒が戻らないように、また細い紐があってね、それで止血だよな。だから片足は全然動かないんだよ。それで片足両手で泳いでくると、いうぐらいのね。それから上半身火傷というのもいるし。火傷をして海に飛び込むんだから痛いと思うけどな。でもね、泳がなければ死んじゃうんだと。泳げるんだよ、人間てのはね。それで紐につかまれと。引き上げるわけだけどね。それでうんと大怪我しているのは、カッター降ろして、カッターで行って連れてくると。それでそれやっているうちにね、もう1回敵の飛行機が来る。まだ漂流者がいっぱいいるんだけども、カッターもいるんだけどね、またスピード上げてさ、ひとまず逃げてだよね。飛行機ってのはいつまでもいないんだよね。それで飛行機行っちゃってからまた救うと。それでそうだなあ3時間ぐらいやったのかな、それでもう1人もいないか、という時に、艦長が行ってだよね、やっぱり艦長は嫌だよな、「1人でも置いちゃいけない」というんでね。双眼鏡でよく見て、「もういません」と。その時はもう船は沈んちゃってたからね。それで全部引き上げて行くわけだけども。
その時にさっきのね、「阿武隈」の砲員で左手首を持ってかれちゃったという人はね、去年の11月の10日かな、厚木にいてだよね、うちの戦友会があるのを知ってて、熱海までね来て、お礼に来てね、それで「あの時「潮」がいなければね、今の私はないんだ」と言って、それで焼き物の趣味やっててね、ちょっと待ってね(もらった焼き物の湯飲みを取りに行く)。だからね助かったということはね、そのくらいうれしいことなんだよな。それで一杯始まるんだけども、それ終わったら帰ったけどね。この湯飲みがね、これ持ってきてくれた。これお茶なんだけどね、おれ酒飲まねから。そんなこともあってね。
それで「阿武隈」の、約700名乗ってるんだけども、300名助けると、だから狭い船にいっぱいだよね。だけど、あとは死んじゃったわけだよ。だから船に残って沈んだりね、だからね400名ったらさ、戦闘全体でみればあれだけど、命が消えてくと、いうことはね、その時は夢中だったけどもね。それで狭いからね、怪我人や何かがね、通路にね、寝せとくわけだよ。それで応急室に連れていって軍医が手当するんだけども、それで真っ暗の中で、歩ったり飛んで歩くわけだからね、狭いんだよ船の中ってね、中には怪我人をさわっちゃったり、けっとばしちゃったりするわけだよ。「ああ痛い痛い」、「悪かった悪かった」と言いながらね、そうかといって手を取って謝ってるのはないし、真っ暗いしね。まあそんなこともあって。
陸軍兵士のレイテ島増援任務に就く
それでそれから今度はマニラに帰るわけだけども、マニラが毎日のように空襲なんだよね。それで今度は、いつ「阿武隈」の救助した人たちが降りていったかそれは覚えがないんだけどもね。第1回の、今度は、レイテ海戦は終わったんだけども、レイテ島に陸軍がいると、陸軍が守備していて、マッカーサーとアメリカ軍がそこに上陸してだよね、激しい戦いになるんだけども、戦いになればまあいいんだけども、戦いというよりも、一口で言えばアメリカに気散らされるという状態なんだよな。だからそこへまた日本の兵隊を送っても、勝ち目があるかどうかというのは、先に立った人は、おれたちも分かってたと思うんだけども、そうかと言って、日本の軍隊がまだいる以上はだよね、見殺しにはできないということで、こっちからマニラから陸軍を送ろうということで、当時はね、駄目だと思っても、こんな作戦やっても駄目だなと思っても、やらざるを得なかったというのが本当だと思うんだけどもね。それで第1回目は油槽船4隻に駆逐艦海防艦合わせて8隻ぐらい護衛して連れてったのが一師団、玉兵団っていうんだけどもね、これは東京の連隊だったといって、後で聞くんだけども、この玉兵団っていうのは、二・二六事件っていう事件があったんだけども、その事件に参加した連隊なんだと、連隊長がいるのね。大尉クラスやったんだけども、そのまあ今になってみれば、汚名というか、勇敢だったなというかね何とも言いようがないけども、そういう連隊が満州に行っていて、それが南、フィリピン来てマニラに行ってだよね、それを乗っけていったと。第1回のレイテ島の増援作戦なんだよね。9回行われるんだけども、第2回目に、うちの艦隊も、うちの船も行ったと。それはまあうまくいくんだけどね。それから第3回があって、うちの船は第4回に行くんだよね。これが激しい戦いでね。さっきのウノさんなんかの戦時商船のね、ウノさんの船が沈むんだけども、商船の乗組員なんかも行ってだよね。それで4回目に行くのは泉兵団(第26師団)なんていう兵団なんだけど、それで乗ってって、それを上陸させれば米艦はたいへんだから上陸させないうちに叩ければ叩くと。もちろんね、だから夜、船がまだ陸兵が乗っているうちにバンバン沈められると、いうようなことがあってね。それでその時に激しい戦いでうちの船も魚雷に弾片が当たって魚雷が燃え出すと、それで急遽それを捨てるとていうことがあったり、また一番砲塔に弾片が飛び込んで、それからヨシダさんっていう兵隊がだよね、断片が飛び込んで男の急所をそっくり持ってかれちゃうと、これは後で戦死するんだけどね。あとで死んじゃうんだけどね。それでその妹はね、戦友会に来るんで、調べてね、会ってるけどもね。まあそんなこともあってね。激しい戦いで、弾片が艦長の私室に飛び込んで、艦長の礼式用の、海軍はこんな短い剣なんだよね、長い剣もあるけどね、長い剣が半分に折れちゃったと。そんなこともあったりして、まあ激しい戦いで。それでも「潮」は無事にマニラに帰ってくるんだけども。
マニラ湾で空襲、兵員23人戦死
それから2、3日して、11月の13日、この日朝からアメリカのグラマンの戦闘機とTBF(雷撃機)というのがあるんだけどね。これはフィリピンの東部の海上に母艦から来るからね、すぐ来ちゃうんだよね飛行機だから。それで爆弾落とすとまた行ってまた来るというようなことでね。だから来た飛行機がずっといるんじゃなくて、入れ代わり立ち代わり来るからね、朝の9時頃からね3時頃までずっと連続なんだよ、ものすごい戦いでね。でこの戦いで、巡洋艦の「木曽」が沈む、それから駆逐艦が3隻沈むんだけども、それでうちの船は幸いにして、本当の至近弾だよね、外舷から2、3メートルのところに爆弾落ちるわけだよな。それがさっき言ったように当たればだよ、ほんの一滴も残らず吹っ飛んじゃったと思うんだけどもね幸いに、そこは運だよね。
3メートルにわたって爆弾が落ちて、それで海底が浅いから斜めに乗ってくるね。それで爆破した時にはちょうど船の底だったと。それでものすごい振動で缶室から機関室へ行く蒸気のメインパイプがずれてだよね、機関兵が23人死んだと。それで左舷側でも2人死ぬんだよね。両側の機関室が見えるところに機関長がいるんだけども、窓が開いてたかどうかね、機関長も顔をみんな怪我するんだよ、顔を火傷する、しばらくはね顔じゅう包帯を巻いてた、目だけ出して。だからねもう死ぬほどではなかったな。機関長は海軍大尉なんだけどもね。まあそんなこともあってね。それで23人の遺体は夕方あげて、封筒に名前を書いてハサミで遺髪を切って、それで遺体は毛布にくるんでね、陸上にあげて火葬を依頼すると。それでその晩の夜中に、夜中でもなかったな、10時か11時頃逃げ出すわけよ。明日も明後日も空襲あるだろうと。ここにいればやられちゃうと、いうことなんだよね。
片肺航行、船体右に傾く
それでうちの船はやっぱり多少水が入ったんだよね。水平よりも右に5度傾いてんだよ。5度傾いていて、それでエンジンが片肺だから左のスクリューしか回ってないから、舵を真っすぐにおくとね、段々段々右へ船が行っちゃうんだよね。だからその場合に左のスクリューだけなんだから、この場合に右に行かずにまっすぐ進ませるには当て舵するんだよね。舵をね5度左に切っておくんだよ。そうすっと、こっちの力だからそれでやっと船が直進すると、ということだよね。それがね最初はね、左に舵を切ることを取り舵って言うんだよね、「取り舵5度」「取り舵5度」って言ったんだよね。ベテランでも間違うんだよな。ベテランの士官でも。本当は取り舵と言うんじゃなくて当て舵と、「当て舵5度」これが本当の号令なんだと。ああそういうもん。それから当て舵5度になった。それまでね、(舵を左に回す仕草をしながら)これが取り舵、(舵を右に回す仕草をしながら)これが面舵なんだけどね。取り舵5度、それが真っすぐだよね。だから取り舵5度じゃなくって、当て舵5度というのが本当の言い方なんだと言うんでいって。
それで当時、新南群島(南沙諸島)だよね、それでその時に外海がね、時化たってほどじゃないんだけどうねりがあったんだよね。うねりがあって、それで聴音機の故障とかもあって直してだよね、それで静かにいくから水測なんか仕事ができるわけだよ。それで探信儀と聴音器やってくけどね、それで比較的、その探信儀につくんだけども、おれと工藤っていうのはね一番若かったからね、伝令に交代っていう時が多かったけども、そんなんでね、行くんだけども、それでねソナーって探信儀なんだけどもね、船が走るとね、後ろに航跡っておこるんだよな、航跡、泡だよな。あの泡でね、反響来るんだよ。だからずっと1,000メートル、2,000メートル船が走ってだよね、軍艦の場合には割と速いからさ、だいたい4、500メーターね、泡ひくんだよ、航跡というの。それ英語でウエイク(wake)なんだよね、ウエイク。そこに音波が反響する。それがサインになるとね、なんだそのそっと聞くんだよね。右90度、広い範囲で反響がある、何なんだ。何かなってそっとね、あれはウエイクだと、波の泡、航跡だよね。だからね、そうなる場合もあるんだよね。それでいって、新南群島、そこ行ったら、やっぱり戦艦にはね「伊勢」なんていう戦艦がいてね、ぎっしりいるんだよな。戦艦から見たらさ、駆逐艦なんてボートみたいなもんだからね、やられた方の1階のところをね、見に来たりなんかしたけどもね、これは駄目だと言うんでね。
それでシンガポールに行く前に、あそこ赤道が通っているんだけども、赤道の南にね、リンガという泊地があるんだよ。そのリンガの泊地へ行って、それで行ったら、負けたっていうんだけども、結構船があるんだよね、なんだまだこんなにあるじゃねえかというような。
それで1晩いて、次の日うちの船だけシンガポールに行くんだよね。それでこの時に、あれほど激しい戦闘をやったんだけども、比較的シンガポールの近海はね、比較的当時としては穏やかだったんだよな。それで海が静かだしさ、あの激しい戦闘だったんだもんね。やっぱり艦橋で伝令立ってるわけよ。だけどねすごく静かなんでね、居眠りしゃちゃったんだよ、おれがさ。それ本に書いたけどね。居眠りしちゃったらね、それ艦長が見てたんだよな。「何だお前は、居眠りしちゃって」それで怒らないんだよね。まあ比較的安全だったけども。それで先輩がね皆見てんだよ、見てるんだけどね、それで艦長の双眼鏡を外してね、「いいかこれで見張りしなさい」ってね。(双眼鏡で見る仕草をしながら)これで見てればさ、ところがね、でっかい双眼鏡でこうやってね、寝てるのがいるんだよ。居眠りしてるのが。こうやってね動かなくなるとこれ寝てる、っような話もあるんだけど。まあそんなこともあってね。
ジョホール水道に寄港、船体修理
それでシンガポールの、シンガポールは島なんだよね。それでマレー半島の突端に島があって。羽田の空港もそうなんだよ。島なんだよ。川があるんだよね。それがジョホール水道と称して。そのジョホール水道の一角にセレターっていう軍港、これはイギリスだったけどね、軍港があって、そこに浮きドックがあるんだよね。そこに入って、それで修理と。修理中はうちら用ないんだよね。それでずっと戦闘に長くいたから、毎日だけども兵隊のなかで隔日上陸だよ。それで汽車が走っててね、小さいトロッコみたいな。それで上陸すればね駅員がね、じゃ車両増結しますというんでね、そこ行くとジョホール水道ってのがあってね、今は国が別だけども、それで水道を渡るとジョホールバルというのがあって。それでこっち行くとシンガポールの街だよね。シンガポールのほんとの街は区域外で行ってはいけないと。ジョホールバルは行っていいと。
それでジョホールバル行っちゃうとね、最初の日はね、長袖の服着て上がったんだけど暑いんだよ汗びっしょりになる。その次の日から次回からは半袖半ズボンの防暑服でいいと、それで行ってだよね、ジョホールバルに行って遊んでさ、遊ぶったって別に何にもないんだけど。それで集会所があってね、そこは日本の娘が来ててね、それで売店があるんだよね。そこへ行って何かお土産買ったりさ。それで今度内地に帰れば、あるいは休暇があるかも知れない。それでね、子どものね、アメゴムの靴買ったりさ、あとはね何か買った、何かと覚えはない、アメゴムは覚えがあんだよね。それで1日置きだから結構あるんだよね。それは入港してから、あそこに20日ぐらいいたと思うんだけどね、20日でもないな、11月の13日からずっといて、20日ぐらいいたんだな。
それでね、もう3月も4月も風呂入っていないんだよ。それで汗臭いんだけどもね、そういう連中ばっかりだからね苦にならないんだよね。それで巡洋艦の一番の船が1隻いてだよね、何だったかな、そこに風呂があってね、それで風呂貰いに行くんだよ。それで風呂貰い、これがおもしろいんだよね、風呂ん中裸だからね、階級分かんないんだよな。それでね行くとね、小さい石を2つくれる。それで洗ってね、その石はね、上がり湯。その石をね、上がり湯1杯貰うために石をやるんだよ。上がり湯はね洗面器で小さいんだよ、2杯しか貰えないんだよ。それで洗うったってね男ばっかりだからね、そんなに洗うでもない、髭も剃ってるんでねえしさ、みんな適当なんだけどね。だけど上陸の時には服を着て、結構きれいなセーラー服の兵隊になったよな。風呂入ってなくてもね。そんなこともあったりね。
それと陸上ででっかい柱2本立ててね、幕を張ってさ映画すんだよ。何か映画は忘れたけどね。そうするとね幕の向こうとね、こっちで見れるわけだよ。幕の向こうでこっち映ったらね、そうするとね、なんか「左ぎっちょ」みたいに見えるんだよな。そんなこともあったりしてね。それで修理が終わって、それで1つのスクリューを外してクレーンで鋼甲板に上げてだよね、よく縛って。
内地に向かう(カムラン湾にて油槽船撃沈)
それで帰って、出港したのが12月の12日なんだよ。その時一緒に帰ったのが、帰って来ようとしたのが、1万トン巡洋艦の「妙高」なんだよね。「妙高」にはね、同期生が乗ってたんだよ。乗ってたんだけどね、それは後で聞くんだけども、行く時は乗ってたけどね、おれは卒業の時にはね、お前何だって聞いたら「おれは「妙高」に乗る」と、それで出港した次の日、魚雷にやられちゃう、「妙高」は。それでうちらに曳けって言うんだけどね、やっぱり曳けないんだよね。それでセレタ―から曳き船を呼んで、また帰るんだよね。だからね、ああこれで内地に帰れると思っていたに相違ないんだけども、やられてだよね、また帰ると。それは後でね、佐世保にいて、後で会って話を聞くんだけども、どうだって言ったら、「今だから言うけどあの時はがっかりしたよな」と、「あの時に「妙高」のそばに駆逐艦が1隻いたんだけど、あれにおれ乗ってたんだぞ」と言ったらね、「ああそうだったんか」、まあそんなんでね。
それで帰ってくるわけだけども、それであれは今のベトナムになるかタイになるかね、サンジャックってあるよ。サンジャック(ベトナム・ヴンタウ市の旧名)。そこで夜中に来て、夜来て、その時にはもうドック入って直しているわけだから船はちゃんと水平に戻って、それで片肺だけどもね21ノットでると。普通の商船だってね17、18ノットでる商船っていうのは、すばらしく性能が良かったんだけどもね、21ノットでると。まあそれで帰ってくるわけだけど。それでいつかどうかね、夜のうちに入って燃料を積んで夜のうちに出港すると。陸上ではスパイがいるんだよな。だからねそれを無断でやるからね、なるべくそういうところには昼間はいたくないんだな。
それでくるとね、今のベトナムの真ん中からちょっと南のあたりにね、カムラン湾ってあるよ。カムラン湾。その湾内に入ってね、してやったこともあるしね。それいつかどうかね、4隻ぐらいのね、4、5隻のね、5隻かな、商船護衛する、あの船はね全部ガソリンを積んでるんだと、揮発油を。だからね、あれを全部内地に届ければね、内地にある飛行機はね、半年飛べるっつうんだよ。そのくらいの燃料持ってたんだな。ところがね、今言ったカムラン湾のすぐ北あたりでね、それでここら辺が難しいんだけども、それで陸岸に沿って北上してくれば潜水艦の警戒は外海側だけでもいいと、いうことでね、陸岸に沿って北上したんだよね。商船もそうなんだよ。だけどもね、なぜかね場所によってなんだけども、魚雷がね陸岸から来るんだよな。それでその辺も日本では真似できないんだけども、いっぺんにね3隻沈んだんだよ。いっぺんにやられちゃうんだよ。だから1隻やって、また次の1隻やるっていうのは日本だってできるよ。だから何隻かいてだよね、水中に何か打合せをしていてだね、よしやろうと、いうふうにやっているとしか考えられないんだ。その水中兵器はね、やっぱり向こうは進んでいたな、アメリカがね。それ同時にやられるんだよ。それその時はね知らないから。
それで航海中はね、夜食っつうのが出る。「夜食受け取れ」って言うんだよね。普通は食事は各班でやるんだけども、夜食の場合にはそれぞれの配置なんだよね。それでね夜食もらってきたんだよね。それで探信儀室に行って食べようと思ったらダダーンだよ。
夜食はね、その時のは覚えてるんだけども、あんこの汁粉だよね、あの中に餅でなくてね、うどん粉っていうかな、うどん粉のね、すいとん、この辺ではすいっこって言うんだよ。すいとんがね、ああいうのがね、おとしてあるんだよ。それでそれがね、だいたい人数分作るわけ。それでそれを探信儀室ていうのが中間部にあるんだけども、そこへ行って盛ろうとしたら、ダダダーンだよね、そこでものすごい音だよ。それで飛び上がってさ、甲板出てみたんだよ。それでうちの方はスピード上げるしさ。そうしたらね、ガソリンだからね、海が燃えてんだよ。海面が。やだ、気持ち悪りい。それで1隻残るんだけどね。それで燃えててさ、それでね、みんなが食べに行けないわけよ。それでほんとは気持ち悪いんだけどね、ひとりでね食べてたの。だいぶ食っちゃたんだよ。そのうちに来てね、「なんだ、これきゃないんか」って言ってさ、「だって皆さん来ないから食べたよ」って言ったら、19ならどんどん食えるわな。そんなこともあってね。それでそれはいいんだけども、まあ気持ちが悪いんだよね。
兵隊よりも軍属の死亡率が高い
それで戦後、最近だけどもね、兵隊の犠牲の率と、船員だよね、これ軍属だけどもね、倍だな。陸海軍の平均でね、損耗率がね、死亡率がね22%ぐらいなんだよ。22%。というのは18年19年20年っていうのは、もうとったんだよ兵隊をね。とったけども外地行かずにね終戦になった。それを入れると22%ぐらい平均でね。ところが船員とか軍属は44%だよ。だから100人のうち44人死んでると。船員はだよね。そのくらい、兵隊じゃない、軍属だよ。だからね、兵隊扱いでね、やってたけども、それくらいひどいあれだったな犠牲払ったな、船員は。
内地に向かう(ベトナム~海南島~高雄)
まあそんなんでね、それでくるんだけども、ベトナムの沖合からあの辺はね、その12月はね季節風が割合強いんだよね。それでね雨は降らなくてもね、風が吹いて波が高いんだよ。それで海防艦がいたりいなかったりするんだけどね、海防艦なんかのね(マストが)10メールぐらいあってもね、ちょっと離れているとね、波の間に入っちゃうとね、そのマストが見えなくなる。そんなこともあったりね。それから今言った5隻のうち1隻残ったのがね、確かね「橋立丸」っていう船だったかなと思うんだけども、それで1発目でね吃水が下がっているわけだよ。それで波が高いだろ。喘ぎ喘ぎね、見ててね、それは駆逐艦もたいへんなんだけど、見ててだよね、ああ商船もたいへんだなあと思ってるんだけどもね。それでね、比較的、海は荒れてるんだけども、双眼鏡で見てるとね、誰とはなしにね、ブリッジが長いんだよ商船てのは、端の方が見えてるわけだよ、あそこにね女の人が乗ってるつうんだよな。女の人が乗ってるわけ無いなと。だけど真っ白な服着て、看護婦かなと思って。それでねそれは艦長とか士官に聞こえない小さい声が聞こえてくるんだよ。それで双眼鏡で見てみるんだよね。それで女の人が乗ってるって聞くと、なんか胸がわくわくするというか、確かに乗ってんだよ。それで動いているように見えて、隠れたりまた見えたりすると。それで看護婦さんが乗ってるってるとしてもブリッジに上がることはないだろう。そんなこともあったりしてね。それもひとつの何て言うかな慰めみたいなもんでさ。
海南島まで来るとね、また波が静かになる。それで海南島に来て、海南島ってのはうんと遠浅なんだな。それでそこに錨を下ろすんだけども、街の方は遠くてね。見えないくらいなんだけどもね、海南島にも寄るには寄った。
それからその1隻を連れてまた出港して、それで台湾の高雄、高雄へね、入港するんだけどもね。もう昭和19年の12月だよね。押し迫ってんだけどね。それで商船をそこに入れて、内地まで行けばね、どうなるか分からないというんで、その高雄で上陸、陸揚げするらしいんだけどもね。それで港に入ればさ、護衛の用はないわけだよ。それでその晩上陸だよな。上陸したらあそこにね、高砂族っていうね、日本が植民地長いからね、日本語喋るんだよね。夕飯が早いんだよ船っていうのは。上がってまだ明るいうちにね行ってね、道端にねバナナ売ってる。あとねモロコシの殻みたいなの売ってるんだよ。知らなかったんだけどね、あれは何なんだろう、それはサトウキビだったんだな。それでバナナの房をね4人で割ったんだよ。おれと工藤とね、あ3人だ、あともう1人オクヤマっていうのが死んじゃったからね、一緒に行ったキタムラさんだね。3人で割ってね、それで宿に泊まるんだけどさ、そしたらね女中さんがさ、来て帰らないんだよね。「兵隊さん、そんなにバナナ食べたらお腹壊しますよ」と言ったりしてね。それでしばらく話をしてさ。それで寝て、朝帰るんだけども。それでその晩ね、半舷っていうんでね、例えば100人乗ってるとね、こっちの50人が右舷、そして左舷。右舷左舷だよね。右舷左舷分かれるの。半舷っていうのは半分上陸するんだよね。これ一番の上陸なんだけども。それで今度はね、次の日は半分上がるわけだよ。それで今言ったように夜中にね、機動部隊がね、アメリカの船が近づいたらしいってんでサイレン鳴らしてね、呼び出されるんだよな。それで寝ててもさ、それ鳴ると帰ってくんだよ。それで点呼して、全部入り終わったと、全部乗ったと、いうとそれで出港するんだよね。
内地に向かう(金門馬祖~関門海峡)
それで出港してだよね、今度は馬公寄らずに台湾沖をずっと行って、金門馬祖っていうとこあるよ。金門島、馬祖島っていうんだ。それでね馬祖島の名も無い湾でね、入って、それが昭和20年の元旦なんだよ。それで元旦だけどもね、戦闘中でもね、結構ご馳走出たんだよな。でこっちは食卓番だから並べるのたいへんだったよ。それで12月(1月)だからね、あの辺まで行けばね、相当南だけどもね、外の景色は冬だな。冬だったよ。それで名も無い湾なんだけども、そこの住民がさ、双眼鏡で見るとね、よく中国でこういう(両手を両袖に入れる仕草)格好して子どもとか大人がね、綿入れ着てだよね、海岸線ずっと並んでんだよ。ああ、あの人たちはどうかなと、戦争してるの知ってんのかなと思ったけどもね。それでご飯食べて、出港して、あの辺の海はね、今言ったように陸岸を左に見ながら行くからね、海岸沿いなんだよね。海の水が黄色いんだよ。青く澄んでない。季節によるんかも知れないけどもね。
しばらく通って、それで上海の沖あたりから、朝鮮の済州島とかあの辺まで渡って、それで今度は一気に関門海峡にすべりこむ。関門海峡見えてるんだけども、そこで小さな船が1隻合流するんだよな。あの辺は機雷原っていうんでね、日本の船は知ってるんだけども、うっかり敵の船に知らずに近づいていくとね、機雷にぶつかってはねると。そういうとこあんだよね。その間をずっと走ってくと。それで船がさ、誰が見たんだかね、緊急一斉回頭、船がこう行って航跡に乗って変針するんだけどもね、一斉回頭っていうのはこう戻る、幾隻いても同時に舵をとるというのが一斉回頭なんだよね。その時は2隻しかいなかったけどね。それで波をよけて、もう関門が見えてきたというんでね、その船と別れてね、だあーと入っていくと。関門海峡の今のあのあたりだな、橋のあたりだよね。まだ明るいんだよ。
それでね、入った途端にね、警戒がガクッと弱くなる。今まで二直配備がね、十直配備になるんだよ。今までは船の乗組員の半数が警戒にいたというのが、100人で十直配備だと、100人乗ってれば10人が警戒してればいいと。まあそんなになってね。それで帰ってくると。そん時にね本当にね、ああこれで日本に帰ったな、という気持ちだよね。それでまだ明るくってね、双眼鏡で見るとね、狭いからね、民家でさ、お母さんが洗濯物なんか入れてんの見えるんだよ。双眼鏡で見ると。それとオスタップに水汲んでね、缶室から蒸気でバババとすぐお湯になっちゃうんだよ。それであの寒い1月だよ、風呂に入りたいから古い下士官がね、体洗うんだよな。そん時いってね、背中流した。そんなことがあるんだよ。それで「内田、おまえ関門初めてか」。行く時は豊後水道行ったからね「初めてです」「じゃいいや背中はいいからな。外ちょっと見ていい」と。いうようなこともあったけどね。
それでずっとくるとね、8つの島、八島って島がある。それで八島でね、これは仮泊なんだよね。それでそこに仮泊するんだよ。そうするとね、新聞電報っていう電報で新聞が来るんだよね。新聞が(壁に)貼り出されるんだよ。そうすっと、さっきのレイテ海戦の、レイテ島の上陸はだね、もう駄目なんだよね。それでアメリカの船団が今度は、マニラを得るためにルソン島のリンガエン湾に艦艇、油槽船からね、700隻以上がリンガエンに向けたという新聞電報なんだよね。だからね考えによってはさ、ああいいとこ帰ってきたなと。リンガエンと向こうのタイの沿岸はだよ、距離はあるよ。あるけども警戒厳重になるわけだから。
「大和」長官が「潮」視察
それで八島に仮泊してだよね。次の日また朝出港してだよね、出撃した柱島っていうのがある。地図見ると分かるよ。そこにね、沈むね「大和」がいるんだよ。それで「大和」が近づくにしたがって、こっちは知らないんだけどね、「大和」の高い艦橋の中ぐらいあたりでね発光信号が見えるんだよね。こっちもやってんだよね。それで「大和」から電信してると。「大和」と話をしてるわけだよ。その話の内容は分からないよ。それで「大和」から3、400メートルのところで錨を下ろすんだよ。それでね話があってね、「大和」にね、沖縄に行って戦死するね、伊藤長官(伊藤整一第2艦隊司令長官)ってね、伊藤長官が視察に来ると、だからね少し掃除しろと。と言ったってゴミなんて無いんだけども、そうかってもうね、割合焼け焦げだよ。戦闘ずっとしてたから穴は開いてるしね。それでもね掃除の真似だよな。箒持ってね掃くような真似してた。それで艦長は髭なんて剃らねえんだよ。でも一応軍服を着て、それで剣を吊るすんだけども、剣が今言ったオルモックで折れてんだよね。折れたところを帆で結んであんだよ。それで艦長行ってさ。もう来ちゃった長官が。それで迎えた。兵隊は箒持ったまま迎るんだよ。それで長官が上がって船の右舷から上がってずっと艦尾の方に行って、それで今後は向こう左舷に回ってずっと来てそれで階段上がるとね一段高い甲板があるわけだよ、前甲板ね。そこに上がらずにね、ずっと行って帰っちゃた。それで艦長はそれからこっちの内火艇でね、「大和」に行って報告してだよね。そん時にね、これ読んでみるとね(本を指さして)、羊羹をもらってね帰ってきたと。こっちは知らない、食べないよ。食べないけど羊羹貰ったってここに書いてある。
横須賀に帰港、上陸
それで呉に行って、それ済んだよね。呉に行って一晩泊まるんかな。それでまた出港して、それで瀬戸内海を今度は大阪に向かって行くわけだよ。瀬戸内海縦断だよね。今度橋が出来たけどもね、来島海峡って、今度橋になったな、そこが狭いんだよね。「航海保安配置につけ」だよね。ずっと行って、神戸の向こうに明石大橋が出来た今度は、あの下をくぐってね、当時はなかったけどね。それで大阪湾からあそこの水道を通ってあそこに和歌の浦ってあんだよね。そこでね、夜の方が危険なんだよ、潜水艦に対しては。その和歌の浦に仮泊。それで仮泊だよね。
それで錨を下ろしてさ、船と言うのは錨を下ろしてもね、錨を下ろし終わると艦長がね、機械室の方にね、「10ノットあるいは15ノット即時待機となせ」と、即時待機だよね、即時待機というのは罐(缶)を燃しておいて、すぐ10ノットで走れるように蒸気に圧力をかけておくんだよね。必ずそれがある。すると錨を下ろすときに捨錨用意、錨を捨てると、緊急事態にね錨を巻いてらんない、錨を巻いてると時間かかんだよな、そん時に錨を切って捨てると。捨錨用意だよね。「捨錨用意をなせ」と、それと「10ノットあるいは15ノット即時待機となせ」とこれは機械室だよね。それで仮泊するんだよ。だから緊急事態の場合には錨を捨てて逃げると、それとその時にまだ蒸気の圧力が上がってねえからね、あと10分20分駄目だというのでは駄目なんだよな。すぐに走らせると、いうふうにしておけと言ったんだよね。
それで朝出て、紀伊半島を左に見ながらずっと行ってね、志摩半島、伊勢だよね、地図見たら分かるよ、志摩半島にね的矢湾ってある。扇の的だよね。そこに入港してね、また仮泊なんだよ。仮泊も捨錨用意とね即時待機はやるんだけども、このね瀬戸内海は割かしね景色良かったんだよ。的矢湾っていうのは殺風景だったな。
それで夜が明けて、それが14日だよ、今度は一直線だ。その一直線で来る途中あたり航空母艦「信濃」が沈められた場所もあるわけだけども、陸を左に見ながらね、だあーと来て、それでちょっと離れるとね、海岸線は見えなくても富士山だけ見えるんだよな。それは遠くから来ると分かる。まだ海岸線なんか見えなくてもあれ高いだろ、富士山だけ見えるんだよ。それでね目視でも見えるようになればすぐだからさ。それで大島をどっちに見たかな、東京湾の岬だよね、房総半島の突端に洲崎(すのさき)ってあんだよ。野島崎もあるんだけど、そのこっちにね。これを越えればさ、だいたい安全なんだよね。野島崎と、岬(剣崎)と洲崎を結ぶ線を越えたと。それでほんとに、ああーというわけだよ。それでもう横須賀すぐだからね。それとね、今言った二直配備がね十直配備になんだよ。その号令が「十直配備となせ」とかあるんだけども。それと横須賀に来ると上陸用意だよ。この前の上陸から幾日あってもさ、今度はどの番かは分かるんだよね。「上陸員、上陸用意」と。それですぐね服を着替えてさ、上陸する用意さね。
これで集会所があったり、まえからの下宿があったりするからね、入港中はね、上陸なんだけども、泊まれないね入湯上陸っていうのがある。短時間入湯上陸。それはね短入っていうんだよ、略して。それはね夕飯食べないで服着替えてね、行って風呂入って9時か10時に帰って来いと、これなんだよ。短時間入湯上陸。だからね、半年ぐらい(風呂に)入らないんだよ。海軍はそうだからね、陸上の部隊にいてもね学校にいてもね風呂なんか入いらねえんだよ。だからねどうせ汗臭かったと思うけど割合苦にならなかったな。で短時間入湯上陸。それから泊まっていい上陸はね、さっきの女の子のあれは、泊まってもいい上陸ね。それで日曜日に行ってさ、上陸してって、それであの子がね来年学校出てくるのよ。その子を連れて先輩と、あれヤマサキさん、広島行って「〇〇〇〇」(不明)だけどね。
それでいるうちに、船は修理中だからさ、用はねえんだよね。そしたらね練習生の時に針を刺して勉強したのがね、それが駆潜艇に乗ったんだよ。駆潜艇っていうのは沿岸防備ぐらいなんだよね。それでその頃もう船はあんまり無かった、横須賀には。それでね腕章してね、公用つうのがあってね、お使いだよね。郵便物を受け取ったり、それから「〇〇〇〇」(不明)買えとか。そういうのがあってね。頼まれると街へ出るんだよね。それで、その奴もそれやってるんだよ。奴はね、「あそこにいい船があるけどあれは何だ」と、あれは「潮」だと。「あ、内田が乗ってるやつか」というんでね。わざわざ訪ねてきたんだよね、ところが2回来た、2回ともね、おれが公用上陸していて、いなかったんだよね。それで帰ってくると、「内田、久保田っていう上等兵が、兵長が会いに来た」と、「おまえ公用で上がって、いなかったよな」と。そんなことがあってね。それで2回来て会えなかった。
それで彼は、8月終戦だけども、6月頃出港していって東北の方にね金華山ってあるよ、ちょっとあの北あたり、あそこ湾になってんだよね、そこで魚雷に当たってね、戦死しちゃう。1人だけ死ぬ。あとで、手紙があるけどね、兄貴からね、戦後になってね、久保田ヨシオっていうんだけどね、手紙貰って、それで仲良かったからと、最後は喧嘩みたいなんだけどね、せっかく家まで来てくれたからね。だからね線香だけ上げてくれと、やったけどね、そんなこともあってね。
退艦後、防備隊に就く
それで1月の14日に帰るわけだよ。それで修理したり何だりするんだけども、もうねその時には、油も無かったり、それから沖縄戦もそのうち始まるんだけども、もうとても駄目なんだな。それで修理中止になる。それで第4予備艦になって、船は解散だよな。
それで7月の5日かな、横須賀の防備隊行けと、防備隊行って、防備隊っていってもね最初用は無かったんだけども、そういういろんな体験があるからね、応急救難隊っていうんだよ。何か事件あるとね行ってさ、いろいろ作業する応急救難隊。それからうちの防備隊の船が千葉県に行って、東京湾の真ん中でね、撃たれてね戦死してね戦死者が海に落っこってね千葉県に流れ着くんだよ。今でも分かるよ、佐貫町って町があるよ。佐貫町、そこに流れ着いてね、それで「取りに来い」というんだよね。それで行ってさ、エンジンのある船にカッター付けて行ってさ、それで遺体積んで帰ってくる。それで分隊室に兵曹長がいてだよね、いやたいへんなんさな、8月じゃない、幾日も経ってないのに、もう腐乱しちゃってね。ひどいもんなんだよ。「防備隊着いたら、陸揚げから他の作業員にやらしてくださいね」。ああもうたくさんだと。そういうことがあってね。
終戦、復員
まあそんなことで、それで8月の15日に終戦になって、28日に帰ってくるんだけども。28日がね日本を占領するアメリカ軍のね艦隊のね東京湾、今まで相模湾にいたんだよ、28日にね東京に入ってくるというのはニュースで知ってた。これ28日でね復員だから、ああ良かった、だってね、やっぱりあんまり顔見たくないよ。それで防備隊のもう荷物背負って出る時に、見えるんだよ、向こうの水道が、浦賀水道が。アメリカの艦隊がわんわん入ってくるのが見えた。
それで帰ってくるわけだけども、その時はね久里浜まで電車が行ってたの。それが久里浜入る時にはね、工事しててね、浦賀の方から行ってたんだけども今度は久里浜まで、今のJRだよね、駅行って帰って。それで上野に来てね。上野に来ればさ、もう列車混んでてもさ帰ったようなもんなわけ。それで暗かったからね東京の焼け野原は見えなかったんだよ。
それで今のメイン改札のね、広場の左に、今ね自動切符売り場になってる、広い待合室があった。それでそこで休んでね荷物下ろしてさ一服した、埃だらけだよ。そしたらねおれの前にね、真っ白のお爺さんがね来てね、正座してね、(拝んで頭を下げる仕草をしながら)拝むんだよ、おれを。復員する兵隊つうのは分かったんだよね。それでこっちに荷物置いてあんだよ。最初分かんなかった、この人、気持ちおかしいかと思ったんだよね。そしたらね、目を見るとね、こうやって拝むんだよね。黙ってんだよ。ああーこのお爺さんはお腹が空いてるんだと思ってね。網に入った乾パンがあって、あれが5つぐらいあったんだよ。上にあった。紐をほどいてね、1つあげたんだよ。点で嬉しそうな顔してね、またこうやって拝んでね、それで立って行った。だからね、まあ教養があるっていうかさ学校の先生とかさ、あるいは公務員で定年になったとかさ、ある程度教養があればさ、兵隊に「何か食い物がありますか、食べ物あったら頂戴」とか言えねえや。それで腹は減ってると、それで家が焼かれてだよ、家族も死んじゃって、それで1人になってると、家は無いんだもんね。駅でしかいるとこないじゃない。駅なら屋根がある、上野駅は焼けなかったんだよね。それでおれにこうやって(拝む)。だからね今考えてもね、たとえ乾パン1つでも、ああいいことしたなと。あれだよ、あのお爺さん、幾日か命が先にのびた、それは分からないけどもね。そういうこともあった。
それで家に帰ってきて、どっちでもいいけども、その前にね休暇があったの。休暇があった時にね、今の家内がね、あれはねおれの家内なんだけども、本当言うと、どっちでもいいけどね、兄貴がもらっていって戦死しちゃったんだよ。それでおれは19年の2月に行ったよね。兄貴は19年の4月に嫁に来たんですよ。兄貴は4月に来て、兄貴はうちにいなかったんだよね。内原(茨城県水戸市)の満蒙開拓の義勇軍の教官みたいなのやっててね。どうしたってあそこ通いづらいんだよな。だからね、ずっとうちにいたら、子どももいたんだろうけどさ、子どもいなかったんだよ。それで6月に兵隊行っちゃった、それで8月に死んじゃうんだよ。おれが学校の練習生の時にもう死んじゃったんだよ。あのフィリピンのバシー海峡だよ。それでずっといてさ。戦死の公報が来たのが22年の暮れだからね。だからね、それでうちにいたしさ、おれはおれで昭和20年の8月に復員してだよ、12月に鶴見行くんだよ。おれ次男だもの。うち手伝っていくのは兄貴だからね。それで就職するんだけどね。ただ腹が減るんだよね。来ちゃ何か持ってくけどね。持ってったって幾日あるって。鶴見造船に行ってね、鶴見造船行ったらね。この海防艦だよ、この海防艦のね、まだ船台にね、3つ4つあったよ、この海防艦があってね。これはもちろん壊すんだけどもね。それで兄貴が戦死したっていうんでうちに帰って。だからね、そんなことでさ、戦争というのはね、当時は夢中だったけどもね、絶対にしてはいけない。絶対に。
再び、レイテ沖の戦闘の話(砂は血糊の滑り止め)
馬公を出港してですね、フィリピンに向かうわけだけども、フィリピンが近くなってきて、マニラ湾のちょっと向こうにコロンってあるんですけども、コロンに入港とは言っても港じゃないんだよね、湾にちょっと入っていくと。そこでですね、油槽船から油をもらうわけなんだけども、油槽船来てないということでしばらく休憩というか、そこにいるんだけどね。そしたらカッターを下ろしてですね、カッターにオスタップ、洗濯桶をいくつか積んでるんですけども。それは私が行くんじゃないんだけども、見てたら行ってですね、コロンの島のところへ行って、小さい砂浜があって、そこで何かしてるんですけども、何してるのかなと思っていたんだけども。帰ってきてるのを見たら、そのオスタップ、洗濯桶のなかにですね、川の砂、砂がいっぱい積んであると、それが3つ4つ積んできてですね、それを船に積んだと。何に使うのかなと思っていただけだけども。
それでその後そんなに苦にもしないで、そこを出港してですね、それでレイテに向かうわけなんだけども、レイテで西村艦隊と合同して突っ込むと、てなことでですね、それで西村艦隊が先に行って、アメリカのレーダー射撃によって、まあ全滅、1隻残るんだけども、その1隻も「時雨」という駆逐艦だけどね、これ舵故障で帰ってくるんだけども、これも終戦までは健在でいられなかったんですよね。まあそんなことでね。
それで「潮」は「阿武隈」を護衛して、「阿武隈」が前の方に魚雷をくらってですね、それでスピードがでないということで、9ノットつうとね、ほんとのろいんだけども、それで翌日の26日にミンダナオ海で、まあ地図で見れば狭いんだけども、走ってみればね周りに何も見えないような大きな海なんだけども、そこでコンソリというB24という4発の大きな爆撃機が20機来て、それで爆撃されるんだけども。その時に、その爆撃機の来る前に、1機が来るんだよね、戦闘機が。戦闘機が来て、前の、船の前の右側の上空から突っ込んできて、それで船の艦首、真ん前をずっと回って、左の上空から突っ込んでくると。それですごく敏捷なので機銃がですね、対応できなかったようであまり音が聞こえなかったんだよね。それでバリバリバリと撃ってくると。それで私は、ちょうど背中の方から撃ってくるんだけども、弾がですね、全部じゃないと思うんだけども、日本の場合には3発に1発ずつ、あるいは4発に1発ずつ曳光弾というので光る弾が、目に見える弾がね、来るんだけども、それによって弾道が分かるから射撃が修正できるということでね。ただアメリカが何発に1発入っているのかはそれは分からないんだけども、要するに火箭ですね、光った火の筋が何本も来るんだよね。そうすると何としても弾がだよね、自分の背中に刺さってくるような気がしてほんとに恐ろしい思いをするわけだけども。それでバリバリと撃って、ずっとそれで海面すれすれに逃げてくと。
それでそうすると艦橋の方でだよね「人員兵器の損害知らせ」という号令が来るんだよな。「人員兵器の損害知らせー」というと、そうするとどこそこ、兵器はいいんだけども、どこそこの誰々さんが戦死、どこそこの誰が重症とかね、そういうのが報告行くと、またそれが帰ってくるんだよね。それで中部機銃の左の3連装の弾込めのサイトウさんが、見ると倒れているんだよね。それで弾は、鉄帽をまだかぶっているんだけども、鉄帽の真上から下腹部に抜けてると。それでものすごい血でですね、それで飛行機はまた来るんだから、その落ち着いてらんない。それで応急員という人たちが待機していて、その戦死者を担架を持って連れに来るんだよね。それで連れに来るんだけども、非常に鉄甲板が血糊で滑ると、そうするとそのうちのすぐ隣なんだけども、砂を撒いたと。ああ、コロンで積んだ砂はこれに使うんだな、と、それで砂の用途が分かったと。いうような状況でね。砂を撒いて次の戦闘に備えると。
それで1人の、これは推測で言ってるんだけども、オクヤママスイチという、徴兵で先輩だけどもね、これは左の肩から入って右の横っ腹から弾が抜けてると。それでこの人はね、もちろん戦死なんだけども。この2人だけで、この時に4人戦死してるっていうんだけども、あとの2人は後部の居住区だったら分からないけども、棺箱、棺の箱を作ったのは、この2人だけで、箱の蓋にね海軍上等水兵何々の棺と書いて、流したんだけども。流す時には私は立ち会わないですよね。後部の兵隊がそれを持って行って、後部と艦橋と連絡し合って、それで「何々上等水兵、水葬用意よろしい」という報告が艦橋にいくとですね、艦長が「よし、それではそれぞれの持ち場で後部に向かって黙祷」と「後部に向かって黙祷、流せ」と、ただそれだけなんだよね。それで流してしまうと。それでそれぞれの配置についている見張り番はちょっと後部に向かってね目をつぶって黙祷すると。瞬間だけでもね。それで流せと、それで終わりなんだよね。そういうことがね、何回もあった。ただ入港中の戦死の場合には陸上にあげると、それは遺体を流せないよね。そんなんでね。それでその遺体には錘が付いていて絶対に浮かないようになってると。
再び、マニラ湾の空襲の話(人間が白ロウになる)
そのへんで終わるんだけども、その直後にですねレイテ島に陸軍の兵隊がいると。アメリカの軍隊も上陸してるわけだから、その陸軍の守備隊を見殺しにできないということだろうと思うんだけども、前後9回にわたってマニラからレイテのオルモック、あの付近に陸軍を輸送するんだけども、全部が全部上陸して戦えるというような状況でなくて、あるいは人員は上がったけども兵器弾薬は上がれないと、いうようなこととか、あるいは兵器弾薬兵員ともにボカチンくっちゃうと、いうような場合もあったりしてですね。
これはあの大岡昇平の『野火』であるとか『俘虜記』だとか、あのへんを読むとよく分かるんだけども、レイテ島の守備隊が戦いらしい戦いができなかったというのが本当らしいんだよね。だからアメリカ軍の思うがままと。だから駄目だと思っても日本軍がいる限りは何としてもそれを支援していくということで9回のレイテ島増員作戦をやられたと思うんだけども、その2回に行ってて2回とも地獄を見る戦いと。4回目の、うち方では2回目だけども、全体でいうと4回目なんだけど。
帰ってきて、それでマニラ湾にいて、それで朝ですね、朝から空襲始まるんだけども。これは朝、朝食が終わらないうちに私は、時間の関係かな、艦橋に飛び上がってそれで見張りにつくわけだけども、見張りについて間もなく陸上の方を見てね、雲の切れ間から黒い塊が急降下してるということで、「ああ、敵機」と、「空襲、敵機」という叫び声をあげて、それが終わらないうちに警急ブザーの短三声、ビーッビーッビーッという、これは艦内全体に響くんだけども、これは配置につけ、ということなんだよね。そうするとご飯を食べかけた箸を置いてでも配置に飛んでいくと。実際そうだと思うんだよね。私が艦橋に上がった時にはご飯を食べてたわけだから。そういうことがあってね。
それで対空戦闘の連続になってくると。それで9時に、8時半頃かな、湾内には船はいっぱいいたんだけども、うちの船の後ろの200メートルぐらいのところに二等巡洋艦の「木曽」がいて、それで船の横の、右だよね、左の方に「木曽」がいたと、それで右の上空から降角にして70度80度あたりから翼を振ってる戦闘機がいるんだよね。あれは味方だっていう人もいたんだけどもね、味方の飛行機がいるはずないんだよね。それが急降下に移るという時に、銃長が「あれは「木曽」を狙ってる」というふうに聞こえたんだけどもね。それでほんとかなと思いながらもね、撃つ状況はいい角度だ、うちの方にどんどん撃ってくる。飛行機の方は見てないんだけどね私はね。弾をこめるということで、二弾倉めをこめたという時に船が飛び上がってだよね、2回バウンドするんだよ。ものすごいバウンド。それでバウンドと同時に海がひっくり返ったような水がくると。流されそうだね、つぶされそうと、いうふうに感じて、これで私は轟沈と思って、こんな鉄帽が重ければ泳げないと思って、鉄帽に顎紐に手をかけて、やっと外れたという時に水が切れるんだよね。
それで船は浮いてるんだよ。ああ轟沈じゃなかった、良かったと思うんだけども、その時に外舷電纜とか、甲板に貝殻とか砂とかね、いっぱい流れ残っていて、それで機銃台の人が3番発射管、魚雷の発射管なんだよね、そこからものすごい蒸気が上がってるんだよ。それで熱いんだよね。それで銃長が「魚雷は大丈夫か」と言ったら「魚雷は大丈夫だ」という返事があってですね、それでずっと撃ち続けるんだけども。
そんなんでね、それでその空襲は、お昼は戦闘配食っていうんですね、戦闘配食で、おにぎりを配って歩くんだよ主計がね。それを食べながら戦うわけだけども、それで全身ずぶ濡れなんだけども、それが乾いてしまったというぐらい暑かったりするんだけども。それで水なんか飲まないんだよね。今考えると、今暑いのに汗かいて水飲まないと、なんかつう変な病気になってぶっ倒れるというんだけども、あの暑さの中で汗をかいて何時間も鉄甲板の焼けてる上でいて、若さもあったろうけども貧血をおこして倒れる者もいなければ何もなかったと。ということもあって、それで3時頃になって敵機が来なくなったと。まあ来なくなったと。その敵機は今まで連続で来たというのは、フィリピン東方海上のアメリカの航空母艦から入れ代わり立ち代わり来ていたと、だから絶え間なく飛行機がいたと思うんだけども。
それで急に来なくなって、それで一応戦闘が一段落という時にだよね、機関室から機関兵の、戦死した機関兵のだよね、蒸気に吹かれて、高圧蒸気に吹かれて、それで上げるんだけども、その機関兵がなんと、普通は火傷をすると火ぶくれになるんだけども、全身を高温高圧蒸気で吹かれて、あるいは2分でも3分でもいたとすると、火ぶくれでなくて、人間の体の中の水分がとんでしまうということなんだろうが、顔も手足も痩せて細くなって「白ロウ」のようになっちゃったと。
それでそれを鰯のようにと言ったら申し訳ないけども甲板に並べて、でも誰が誰かは分かるんだよね。それで封筒に名前を書いて、それで頭の毛をハサミで切ってだよね、封筒にとると、遺髪だよね。それとってその遺体を毛布にくるんで、また船に積んで陸上に運ぶと、いうことをしたわけなんだよね。それが23人かな、戦死してですね。だからその時に、マニラ湾は奥地行くと浅くなるからね、だから船の下に何メートルぐらいの間隔があったか分からないけども、おそらく2、3メートルかあるいは4、5メートル、4、5メートルなかったと思うんだよね。それですぐ後ろにいた巡洋艦の「木曽」は爆弾で沈むんだけども、沈むんだけども、ちょっと目にはなんか浮いているように見えてるんだよね。だから3メートル4メートル例えば沈んだとしても船が底についちゃっているから、うんと上は見えてるんだよね。
そんなことでね、うちの船は戦死者を陸揚げしてですね、それでその晩に、また明日も空襲あるだろうということで、その晩に片肺なんだけども右の機械もあるからマニラ湾を出港だと言っちゃいい言葉だけども、まあ逃げ出したと、いうことだろうと思うんだけどもね。それでシンガポールに行って修理するということなんだけども。
体験記録
- 取材日 2006年4月2日(miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
戦場体験放映保存の会 事務局
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