児島 秀綱さん

生年月日 | 1919(大正8)年3月20日生まれ |
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本籍地(当時) | 鹿児島県 |
所属 | 海軍 |
所属部隊 | 佐世保海兵団 「瑞鶴」 |
兵科 | 操縦 |
最終階級 |
プロフィール
大正8年(1919)3月20日 鹿児島県姶良郡隼人町真孝(現・霧島市隼人町)に父・横枕浅男、母キヨツルの7人兄弟の長男として生まれる。小学校5,6年の頃に隼人町新川尻の小島の上空で宙返り中の飛行機が墜落するのを目撃し飛行機乗りに憧れる。隼人青年学校卒業後の昭和12年(1937)、18歳のときに佐世保海兵団に海軍四等水兵として入団。翌年5月に第45期普通科整備術練習生となる。
隊内の搭乗員募集に応募し合格。昭和14年(1939)11月、第49期操縦練習生として筑波海軍航空隊百里ヶ原分遣隊に入隊。昭和16年(1941)11月、空母「瑞鶴」の三等飛行兵曹として真珠湾攻撃に参戦。
以後、ニューギニア、インド洋,珊瑚海と転戦、昭和19年(1944)11月、海軍飛行兵曹長に昇進。昭和20年(1945)神奈川県・厚木基地で終戦を迎え、同月23日に爆撃機「銀河」に妻、部下2名を乗せて鹿児島県・国分海軍飛行場に向かい復員。同年9月、海軍少尉に任ぜられる。(いわゆるポツダム進級)。
戦後は農業、鉱山保安監督官を経て昭和28年(1953)南日本航空(後の東亜国内航空)にパイロットとして入社、種子島線など離島路線の開拓に携わる。昭和52年(1977)定年退職。同年12月、日本近距離航空にパイロットとして入社、昭和54年(1979)飛行時間2万時間を突破。同年3月、60歳を迎え航空局の行政指導によりパイロットとしての人生にピリオドをうつ。 (『南国イカロス記』 平木国夫 著/酣灯社 1987年刊より)
インタビュー記録
戦歴
聞き手(お名前をお願いします)
現在は児島秀綱 (コジマヒデツナ) です。戦争中は、私は隼人(現・鹿児島県霧島市隼人町)の生まれなんですよね。隼人から海軍を志願して、16歳のときだったですかね、海軍に入ってですね。それから真珠湾攻撃に、いえ、最初は佐世保の海兵団でですね、飛行機乗りになるために試験を受けて茨城県の霞ヶ浦海軍航空隊、ここで飛行機乗りの、パイロットの試験に合格して。そこでいろいろこうして訓練をやってから瑞鶴(ズイカク)に乗組を命ずるってことで、航空母艦「瑞鶴」ですね。瑞鶴っていうのがこれなんですよね、(手元の戦艦を指して) 模型ね。で、ハワイの真珠湾攻撃、この航空母艦「瑞鶴」から発艦して、当時ハワイのヒッカム飛行場を攻撃やったんですよ。その時にこうして私の母艦から出たのは犠牲者一人もいなかったですけどね。まあ飛行機の上空から真珠湾攻撃をやったもんですからね、真珠湾のですね、わたしら攻撃やったのはヒッカム飛行場というの。
それで真珠湾を初めにですね、ニューギニア作戦、インド洋作戦、珊瑚海の海戦までずっとこうして参戦しましてね。それで珊瑚海の海戦の時、飛行機の後ろに敵の戦闘機の弾を3発くらっとったですけどね、燃料タンクなんかには当たらなくて助かったんですよ。母艦に着艦してから見てみたら3発弾をくらっていましたから、飛行機のね。まあ運が強かったですね、戦争だからずっとですね、ハワイの真珠湾攻撃を初めとしてニューギニア作戦、インド洋作戦、珊瑚海の海戦とずっと参戦して、ずっと攻撃に参加したんですけどね、真珠湾攻撃はあれだったですけど珊瑚海の海戦の時にですね、途中の戦闘機に襲われて、私が艦上攻撃をやったですからね、でまあ向こうの戦闘機に襲われてですよ、私が艦上攻撃機で魚雷を抱いてですね、母艦なんかを攻撃する任務だったですからね。途中で戦闘機に襲われて帰って着艦してみたら3発弾を飛行機にくらってましたからよ。だから燃料タンクにでも当たってたら火災を起こしてやられとったんですけどね、幸いにそういう事が無かったから助かったんですけどね。
聞き手(その時はおいくつだったんですか?)
えーとハワイの真珠湾(攻撃)はだいたい16歳ちょっと過ぎとったかなあ。初めてのあれだったですからね、17、18になっとったかもわからんけどね、海兵団に入ったのが16歳だったですからね。
航空機の戦争
聞き手:(ハワイの真珠湾攻撃をされる前日とかに何かお達しがあって行かれるとわかったのですか?内地に帰ってきてからは何をされていたのですか?)
あの真珠湾攻撃をやるっちゅうのは航空母艦に乗っておって、そこに司令官がおって。私なんかは九州の飛行場で飛行訓練をやっておって、それから航空母艦に帰投せよっていう命令を受けて。それで航空母艦に帰ったら私物は全部、こうして飛行機に積んでね、僕らの飛行場の一部にこうして私物を置いてですよ。それから母艦に帰ったらですね、すぐに出航して。どこへ行くんかなあと思ってたんですよ。そうしたら北の方へずっとこうしてね、母艦が進んでいって。北海道を過ぎて千島の単冠(ヒトカップ)湾に入ったんですよ。それで単冠(ヒトカップ)湾に入ったらですね、他の部隊の航空母艦なんかも入ってきてましたから。ああ何かあるんだなあと思って。そこで一晩上層部の人たちの会議があって、そして母艦は出航してずっと北海道から北の方へまた行ってですよ。なんかその単冠(ヒトカップ)湾に入って単冠(ヒトカップ)湾からまた北の方に行って、それでまた南の方に下って行って。それから途中でですね、ハワイの真珠湾を攻撃するんだという攻撃命令が出た。それで私は真珠湾のヒッカム飛行場という飛行場の格納庫、それに入ってる飛行機とか飛行場に並んでいる飛行機、そうしたものを攻撃やったんですよね。そうやって無事こうして航空母艦にまた帰ってきて、ハワイの真珠湾から、真珠湾攻撃が終わったから今度はヒッカム飛行場の攻撃、ニューギニアもですね、それからまた帰りがけに珊瑚海の海戦の母艦の攻撃に参加して、そういったものをやってそれから内地に帰ってきたんですよね。まあ幸いにして助かったから。
内地に帰ってですね、まあずっと海軍におる時はですよ、いつ戦争に参加するかわからんもんですからいろいろこうして、飛行訓練をやっぱりやってましたね、航空母艦を発艦してですよ。
聞き手(ニューギニアの作戦ではサラモアの飛行場を攻撃されたんですか?)
うん、ニューギニアのですね、サラモアの航空隊をですね、飛行場を攻撃したんですよ。ニューギニア作戦、インド洋作戦、珊瑚海の海戦まで参加しましたからね。
真珠湾
聞き手(真珠湾攻撃をするって聞いたときにどのように感じられましたか?)
あのー聞いたのはね、ずっと北海道の単冠(ヒトカップ)湾に船が入ったでしょ、それから何か作戦をやるんだなと薄々は知っていたんですよ。それから単冠(ヒトカップ)湾に入ってから、ちょうど一晩か二晩だったですね、ずっとそうしてそこにいて。上の人がですね、戦争の会議をやっとったんですよね。私なんかは友がおらんもんだから。それから2、3日して出発して。ゆくゆくはハワイの真珠湾の攻撃だと途中で知らされてですね。ハワイの真珠湾っていったら米軍の飛行機隊が全部まとまっているんですよ。だからちゃんと用心しなければいけないなあと思っておったんですよ。私なんかはヒッカム飛行場のね、真珠湾の、アメリカ軍の飛行場を攻撃するようになって。それで攻撃が終わってから、私なんかは艦上攻撃ってやったですからね。そうしたら日本の戦闘機なんかもね、母艦から発艦して攻撃に参加したんですよ。戦闘機なんかはね、海の上をずっとこうしてね、艦攻隊でなければ海の上を飛べてなかったよ。それで戦争、ヒッカム飛行場なんかの攻撃をやって終わってからですね、一時海の上の集合地点が決まってましたから、そこには日本の戦闘機なんかを引っ張っていくんだ、母艦に帰ってこなきゃいけないってことでですね、まあそういうものがありましたね。
聞き手(飛行機にはおひとりで乗られるんですよね。)
いや、飛行機はですね、上を飛びますからね、偵察員と電信員を乗せているんですよ。
聞き手(じゃあ常に3人で乗られてたんですか。)
そうそう。
聞き手(3人は仲が良かったんですか?)
いや全然そんなのない。私が操縦してたらね、死んだ。一飛曹だったですけどね。たいてい私が上に乗るんですけど、それから電信員が一人、3人1組で乗ってたんです。で、私は操縦士ですね。もう長いことなるんで忘れかかってる。あなたは見れんよね。その時の思い出はずっと書いておくからよ。あなたはいつ帰るの?
航空母艦「瑞鶴」
聞き手(今日帰ります。)
ああ今日。回顧録見ればね、全部戦争中の章を書いてありますからね。よかったんじゃけどね。まあちょっと1時間や2時間じゃ話がね、すむわけにいかないもんですからね。えーとあなたはどこの会社からおいでになったんですか? あれですね、真珠湾攻撃があったときにヒッカム飛行場をですね、攻撃をやったんですけどね、初めての攻撃だったものですからね、まあずっとこうして思い出が残ってますよ。それからハワイの真珠湾攻撃が終わってからニューギニア作戦、インド洋作戦、珊瑚海の海戦、ずっと参戦してきたんですよ。
まあいろいろと航空母艦「瑞鶴」に乗ってましたからよ。瑞鶴でずっと戦争やってきたんですよ。だからインド洋作戦なんかの場合はですね、セイロン島のコロンボ、トリンコマリーというところに攻撃に行ってやって、それから帰りに珊瑚海の海戦に行って参戦したんですけどね。まあいろいろ戦争やってきたんですけど一時、珊瑚海の海戦のときなんかはね、敵の戦闘機に襲われてね、危ないとこだったですよ、私が操縦やってる飛行機の後ろの方にね、母艦に帰って着艦したら3発弾をくらってた、さっき言ったようにね、当たり処が悪くて燃料タンクにでも当たったらね、火を吹いておったよね、まあ今こういうことなかったんですけど。その点助かりましたよ。
(空母の模型を見せながら) これ瑞鶴なんですけどね。飛行機が普段はですね、こう中に入っているんですよ。(甲板の中心前方を指して) だいたいこの付近に1か所、(後方を指して)この付近に1か所、飛行機を下ろしたり甲板に上げたりするところが2か所あるわけですよね。私が真珠湾攻撃をやったのは航空母艦「瑞鶴」から飛び上がってですね、(甲板後方に並んだ飛行機を指して) これは攻撃やるためにこうして並べてあるんですよね、ここからどんどんどんどん発艦して、飛び上がったら飛行隊長がですよ、指揮をする人がおるわけですよ、隊長ですね、その人がこうしてですね飛び上がってしばらくしたら「ただいまからハワイの真珠湾を攻撃する。お前ら部隊はヒッカム飛行場を攻撃するんだ」ということのあれが、飛んで攻撃に向かっている先に出たわけですよね。(棚に飾ってある 「日本海軍 九七式三号艦上攻撃機」と書かれた飛行機の模型を見せながら) 1/100艦上攻撃機ですね。(右側の 「空技廠 銀河11型」と書かれた飛行機を指して) それからこれは練習機の時の。(ガラスの棚の中に古い写真や戦闘機、JACと書かれた小型旅客機などの模型が飾られている。) これが艦上攻撃機、それで帰ってから銀河に移ったんですよね。こっちのほうがずっと航続距離が長いですからね。それでこういった銀河という飛行機ができたんですよね。やっぱりある程度の燃料を積んで長い事飛べるような飛行機でなけりゃいかんですから。
聞き手(どれくらいの時間飛んでいらっしゃったんですか?)
母艦からですか?攻撃する前?ハワイはですね、ハワイ真珠湾攻撃のヒッカム飛行場の攻撃する時は…2時間半ばかりじゃなかったですかね、片道。海の上を飛んで行ってね。
聞き手(やっぱり海の上を飛ぶのは大変なんですか?)
ああ推測航法ですからね。陸上はですよ、ずっとこう、ああ今どこを飛びよるなってわかるけど、海の、航空母艦から出るのは航空母艦の位置を出発の時にちゃんとメモしとってですね。航空母艦は同じところの航走、同じ方向に走らんわけですよ。何時から何時までは何度の方向に何ノットで走って、それから何時になったら今度は航走変えてね。こういう具合にして走ると。そういうことを知らせてくれるんですね。ずっとパイロットの航空指示っていうのが乗ってますからそれを皆知っとって。それでずっと2時間3時間攻撃に参加して帰ってきたときには航空母艦はね、どこの地点におるってことを計算してそこに帰ってくるようにあれして。
まあ帰りがけに珊瑚海の海戦に参戦してインド洋作戦にも。ま、いろいろね。あなたすぐ帰るわけ?またこうして航空母艦の話を共有して。まあ飛行機が好きだったもんですからね。それと私がとある国内航空(東亜国内航空、前身の南日本航空から在籍) を定年退職になったときに東京から飛んで来て 「児島さんね、東亜国内航空を定年になられたということを聞きましたけれど、東京に来てひとつみんなを教育してくれませんか。」 ってね。「まあ飛ばしてもらえるんだったら行きますよ。」と。(笑) だからその訓練、飛びながらね教育してもらいたいと。それで羽田の飛行場から飛び上がってですよ、伊豆大島とか三宅島とかずっとこう離島ですね。羽田から飛んだでしょ、お客さん乗せて。そういうことをやっとったんですよ。その当時のパイロットというのはね、海の上を飛ぶってことはなかなかね、できなかったんですよ。それで私は海軍でね、ずっとそれやっとったもんですからね、推測航法っていうんですけどね。離島は飛行機で3時間くらいかかるところありますからね。そうして自分で飛びながら若いパイロットを教育しながらね。
聞き手(戦争中に乗っていた飛行機は戦後に乗られた飛行機よりだいぶ劣るものというか、乗るのが大変だったと思うんですが。)
まあこうして戦後はですね、飛行機っていうのはお客さんを乗せる飛行機ですからね、だから大勢お客さんを乗せますから。戦時中はまあ結局乗っても5、6名ですからよ。まあしかしなんちゅうことなかったね。民間の飛行機を乗り回すっていうことをね。
聞き手(やっぱり海軍での飛行機のほうが大変でしたか?)
そりゃ大変だろうね。
体験記録
- 取材日 年 月 日(miniDV 60min*2)
- 動画リンク──
- 人物や情景など──
- 持ち帰った物、残された物──
- 記憶を描いた絵、地図、造形など──
- 手記や本にまとめた体験手記(史料館受領)─
参考資料
戦場体験放映保存の会 事務局
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