インタビュー記録

1943(昭和18)年末 南洋庁拓殖練習生に志願

弘前で筆記試験と口頭試問を受けた。全国で47名が採用、ほぼ1県に1人ずつだった。

パラオに向かう

  • 1944(昭和19)年1月8日 門司に集合。
  • 同年1月10日 パラオに向け1回目の出航
  •  エリー丸(5000トンの貨物船)で出航するも艦載機の攻撃を受け沈没。
     板につかまって泳いだが、海中に爆雷が落とされ、はらわたがちぎれそうなほどの水圧を受ける。夕方救助船に、近海だったので大部分は助かったが、熱い風呂に入っても震えが止まらなかった。
     1度帰郷させられる。
  • 同年3月下旬 再度資金を作って集合し出航
  •  ジグザグ航行で進むうち船団の船は攻撃で減っていった。
  • 同年4月22日 サイパンに補給のため寄港
  •  船火事が出て、パラオに向かうメンバーは別の船に乗り換えた。
     シラミがひどかったりタマネギの山が腐ったりしたが、サメ釣りなど楽しいこともあった。
  • 同年4月末頃 ペリリュー島近くで座礁
  •  ダイハツがパラオ本島から来て、それに縄ばしごで降り、コロール島を経て翌日パラオ本島へ。
     コロール島の港には沈没船がたくさんある。
     4畳半の部屋が並んだ建物もあった。今思うと慰安所か?

南洋庁拓殖練習生

 兵站部門を担う目的で集められていたと思う。木の伐採、ジャガイモの栽培などをしていた。
 皆出身県が違うので方言でお互いの言うことが分からず苦労した。
 南洋興発株式会社は引き揚げた後だったが、パイナップル缶詰工場やカカオ畑があり、カカオは収穫が可能な状況だった。

1944(昭和19)年7月下旬 現地召集

 高崎から来た第14師団歩兵第15連隊第1大隊(照7757)の通信部隊に配属される。
 徴兵検査も受けていない。
 アメーバー赤痢で下痢が止まらず配属日を野戦病院で迎えた。野戦病院は水も飲ませてくれないので水枕の中の汚い水を飲み、余計に下痢は治らない。

 ペリリューが占領されると米軍はサイパンに行ってしまい、パラオは戦局としては放置されたままになる。米軍は1945年初め頃無くなった。
 芋畑、蛇、黄色いトカゲ、シギ(飛べないで走るだけ)、カタツムリ(砂で洗う、そのまま食べると酔ってしまう)、ビンロジュ、椰子ガニなど。
 いびきをかき始めると死ぬのが近い。持っている食物を奪えるので皆狙っていた。畑をやっている最中に爆撃で死ぬ者もいた。

 蛸壺を掘ったが利用する機会はなかった。グラマンに追われ立木の廻りをぐるぐる廻って逃げた。椰子の葉の家は逃げ込んでも燃えやすい。

 3回逃亡をした上等兵がいた。今考えればおかしくなっていたのかもしれない。小隊長が「介錯してやるから自刃せよ、家族のために戦病死として届けてやる」と言った。自刃しきれないでいるのを小隊長が首を落としてしまった。そこはしばらく誰も通らなかった。

1945(昭和20)年8月15日敗戦

同年 11月30日 召集解除

 「お前達は現地召集だから現地除隊だ」と言われ、練習生組だけ残し、部隊はさっさと帰国してしまった。皆独り者で現地での生活基盤があるものでもないのに酷いと、今でも憤っている。
 牛の塩漬け、卵粉、ひきわりコーヒーを貰う。

1946(昭和21)年2月中旬 帰国へ

 巡洋艦か駆逐艦か帰国船が来て、農耕などで現地に行ってた人と一緒に乗船した。
 途中グアムに寄港、煙草やチョコと扇子や浮世絵を投げて交換。
 10日ほどで横須賀着、真っ直ぐ航海出来るので行きの三分の一の時間で帰れた。
 体重は30キロになっていた。
 妻帯者と独身で貰える金額が違ったので妻帯者だと偽った。

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