インタビュー記録

1942(昭和17)年1月10日 現役 


当時は「天皇陛下の軍隊」「天皇陛下の赤子(せきし)」という教育を受けていた。 戦争に行くことは一家の誉れであり、戦死は名誉だった。田舎だったので頭が良くて金がないと軍隊に行った。  戦争に行って体験してその価値観ががらっと変わった。
 

1941(昭和16)年


 3月 高等農林(現鳥取大学農学部)を卒業 4月 農林省に入省。満蒙開拓青少年義勇軍の内原訓練所の指導も行った

1942(昭和17)年1月10日


関東軍10師団輜重10連隊要員として姫路師団に入隊 一人が悪くても連帯責任で古年兵が木銃で付いたりビンタを取ったり夜寝させてくれない。軍人に賜りたる勅諭を暗記させられる。食事の前に中隊長の解釈がある。眠くて解釈中に居眠りをして三八銃をぱたんと落とした者が居た。見せしめで中隊長以下中隊付き将校、小隊長、小隊付き下士官と殴るので顔が腫れ上がる。見かねて飛び出して「代わりに俺を殴れ」と言うと、涙は出るは顔は膨れるは、食事はひっくり返して食べさせて貰えない。演習に行って帰ってくると中隊長に呼ばれ「内心泣いとった」「戦友愛に溢れた模範兵である」と言われた。

1942(昭和17)年4月上旬


満州・佳木斯(ジャムス)に駐屯 3ヶ月の初年兵教育 中隊で1番、連隊で3番で甲種幹部候補生に合格するも、馬で遠乗りに出て横隊で奇襲攻撃をかけようとした時、前馬が事故を起こして蹴られ怪我をして学校に行けず甲種幹部候補生となれなくなる。悔しくて怪我をしていないと言い張ったが、大隊長に「廃兵になるより入院して直せ、士官適任章も出るから」と言われる。
我が物顔。満州の人が輜重車(荷車)を横切ると長い鞭で叩く。 山に演習に行くと、中隊長が馬賊だから家に火を付けて燃やしてしまえと言われる。ぐずぐずしていると中隊長が焼いてしまった。何が皇軍かと思うようになった。
輜重隊は馬が何より大切。兵器検査で師団から兵器部長の少将が検査に来る。馬にぼろが付かないよう前夜は本来徹夜で馬を寝させないが、僕は内務班の軍曹で40名ほどの兵隊を抱えていたが、就寝の時間になったら寝させた。他の班は徹夜でやっているのに自分の班だけやらなかったので、1個分隊だけ悪かったとなった。連隊長が「軍曹1人2人をよう使わないのか」と僕の班の馬の手入れを全部中隊長(上とは別の人)1人に命じ解散にした。連隊長の推薦で陸大を受けるはずの優秀な中隊長だった。 演習から戻ってくると中隊長に呼ばれ、軍刀を放ってきて真剣勝負だと言われた。なだめると益々カンカンになった。「連隊長が兵器部長に誉められるために馬をピカピカにして兵隊を寝させないのでは戦争になりません」と言うと「皇軍の強さは進めと言ったら進むことにある。上官の命を朕の命だと思え」「どうなるか覚悟しろ」と言われ、すぐに南方行きを言い渡された。 連隊で1名だけの転属だったので、皆戦死させるために南方行きになったのだなと思った。(後に残りの部隊は全部ルソン島へ送られ、途中潜水艦に攻撃を受けて戦死する者も多かった)

1944(昭和19)年6月初め 第133飛行場大隊補給中隊に転属を命ぜられる


フィリピン・ミンダナオ島に送られることに 6月15日、名古屋小牧で第133飛行場大隊の編成が下令。大隊で361名。 7月4日、門司から船団を組み出航、最後の大船団で輸送船14隻、空母1、巡洋艦2、駆逐艦4。船内は積み込めるだけ積み込んで身動きが出来ず、魚雷を避けジグザグ走行。周りの船は火を噴いていたり、兵隊が溺れてアップアップしていたりでも船を止めて助けることが出来ない。幸い僕の船は無事だった。
同年7月20日 マニラ着 埠頭には濡れ鼠になった兵隊が並んでいた。サトウキビが山積みになっていて、皆甘い物が無く、お腹をすかしているので、飯盒にザラメを詰め込んでいた。 競馬場に野営。不衛生で便が流れているところで寝泊まりするので、アメーバー赤痢やマラリアが出て、大隊長が早く戦地に行かせてくれと交渉。 8月7日マニラで乗船、400トンの小さな船で、島々に隠れながらミンダナオへ。
同年8月15日 ミンダナオ島北端のカガヤンへ上陸  島中央部のバレンシヤ飛行場に。飛行場は、軍属がすでにかなり作っていたが、更に土砂を運び固めたり、横穴の壕を作ったり。 同年9月9日 最初の空襲 40機ぐらいの飛行機が来た。日本軍だと思っていたが急降下してくる。部隊の少年飛行兵は日本軍は着陸前に空中演習をするので見ていましょうと言われそんなものかと思っていたが、絨毯爆撃。ニッパハウスの兵舎は燃えガソリンや車両も燃え上がる。
「蛸壺に入れ」と怒鳴られるが、初めての爆撃、蛸壺の中にスコールの水が溜まり小さなネズミがグルグル回っている、その方が気持ちが悪い感じ。「入れ!」と言われて飛び込むと、ボカーンと爆弾が落ち戦友の胴体が飛んできた。10人が戦死。 それからは飛行機が来ると「今度は自分の番だ、今度は自分の番だ」と怖くなる。
食糧や兵器を運んでいたが、輸送船が沈められるので運ぶ物が無くなる。パイナップルやバナナの畑に行って取ってくる。ザボンやアサリも。原住民は怖くて逃げてしまっているので、金を払うとかじゃない。配るので兵隊には喜ばれるが、実質略奪でどしたんだという感じ。軍票が手にはいるとどかっと置いてくるが、向こうは使うところもないので相手にしない。協力する現地民も居た。

1945(昭和20)年4月26日 飛行場を爆破し山岳戦に


車両も山中では使えないので燃やしてしまう。プランゲ河をロープを渡して船で渡る。それをやってくれ、荷物も肩に担いで運んでくれていた現地民たちが、朝起きたら全員居なくなっていた。米軍が近付いてきてこれ以上一緒にいたらやられちゃうと思って離れたのだろう。警備中隊の中隊長は我々の行き先を知っているはずだ、先回りされたらやられちゃうから追いかけて殺そうと言ったが、これまでこれだけ協力してくれてやってきたのに殺しに行くって何なんだと言ったら、大隊長が見逃そうと言ってくれたので、後に戦犯にならずに済んだ。
 やせ衰えた自分たちが山中荷物を運ぶ。食糧はない、マラリア、デング熱。召集兵がマラリアになる。「谷口班長、お母さんが迎えに来ました」「お母さんが迎えに来ました」と手を握って死んだ。手だけ焼いて遺骨にして持ち歩いた。その後僕もマラリアになるが、彼の面倒をみていたのを知ってる兵隊たちが「班長を連れていかなあかん」と支えて連れていってくれた。
島の真ん中に他の部隊も追われてきて、どの部隊とも分からない3~4人ずつが固まって倒れている。割に早く蛆が湧いたり白骨になったりする。毎日スコールが来るので、天幕を木と木の間に張り休んだまま死んでいる。死人からものを取って食べるのが楽しみになり出した。死人のポケットを探ってみる。雑嚢を持って歩いているとどこから撃たれるか分からない。倫理も何も無くなってくる。補給中隊は背負っているのは部隊の物だからどんなに飢えても盗ったら厳罰だが、死人のものなら構わない。
皆が看病してくれて段々元気になった。貴重品のキニーネはカガヤンまで行って受領しなければいけないが、その受領場所も無くなって、衛生兵が個人的に隠し持っていたが、それを分けてくれたのもあって助かった。
警戒陣地を突破され、主陣地に警備隊も来ていた。警備中隊の中隊長は切り込み隊で亡くなった。 玉砕するしかないと軍隊手帳や写真などを泣きながら焼いたが、急に師団司令部から通信が来て、「更に奥地に入って自活生活をしなさい。東條が大艦隊を連れて来るからその時米軍を挟み撃ちにするから」と命令が出る。自活と言っても畑がある訳ではないので、親米派の山中の耕作地を探すしかない。
哨戒機が来るので銃も撃てない、火も燃やせない。大きな動物は滅多にいないが、兵隊がサルを撃ち落として肉をほんの一切れ食べた。指が残っていて捨てようとしたので貰って、ゴムのようなのを噛みながら唾液を出して力を出した。 最初は連れていくのが戦友愛、次は手榴弾を1個渡して捕まったら自爆しろよと置いていくのが戦友愛、そのうちどうせ死ぬんだから彼の血肉を生きている者の兵力とするのが戦友愛だと変わってくる。死人と一緒に寝たとか、死人のものを食べたとか、死人の服を着たとか、死人の靴を貰ったとか、皆知っている。

1945(昭和20)年6月下旬 大隊が解散


部隊行動はもう出来ないので5~6人に分かれて自活してくれと部隊長も泣きながら解散。大隊が最後に残した非常食糧の倉庫(雨に濡れないようニッパでテントで覆った簡易なもの)があったが、翌日ある僕の中隊の上司の曹長が兵隊を2~3人連れて襲撃、同じ大隊の主計兵5名が乾パンの箱に頭を隠しているのを銃剣で刺し殺した。  天幕のある所で寝たいが天幕を張る力が無いので、先に行って野垂れ死にしている所に寝る。湿っているので朝起きるとヒルがいっぱいくっついている。
いざる如く進む。分かれて2日目ぐらいに自爆の音を聞く。一緒にいると食糧に出くわさないので違う道を進むことになるが、次第に顔を遇わす事がなくなると寂しくなってくる。何処の部隊か分からないが死体に遇うと日本軍がいたんだと寂しさが紛れ安心した。 マニラ麻の白い芯、陸稲の枯れかけた葉を囓る、飛んでくる虫を捕まえて苦い、オタマジャクシを喜んですくってピンピン跳ねる、蛙は叩いてポケットに入れておくと夜には生乾きになってするめみたい。弱い者はそれも出来ない。僕はこのままでは気が狂って5~6人でもお互いが殺し合いになると思ったので、「これからは階級は無い、家族だと思って元気な者は弱い者に分け合おう」と説いた。
5~6人の兵が輪になって近付くと、倒れた兵隊がいて息をしてるかしていないか分からないぐらい、その爪を剥がそうとしている。彪兵団だと聞いた。もう連れて歩けないので爪を剥がして持って歩こうとしていると言う、涙がぺろ~っと出ていた。
顔色が良く太った兵隊達に会う。羨ましくなって食糧の場所を知っているなと思い何を食べているのか聞いてもにた~っと笑って返事をしない。臭いは肉。分けてくれと頼むと3人でコソコソ相談して、飯盒の中盒に肉と野草を煮たものを入れてくれた。御礼を言って食べた。何の肉か聞いたが言わない。喉が渇き谷川に出ると日本兵の腿が削がれて、隣にたき火の跡があった。1名が「あの野郎、仲間の肉を騙して食わせたか、ぶち殺してやる」と自力で歩けないのに銃にすがって戻ろうとしたが、返り討ちに遇うからと止めた。
もう1日頑張れ、もう1日頑張れと騙し騙し歩いた。敗戦の前日、ジャングルの間に青い畑が見えて近付くと芋畑。喜んで芋を掘り出して囓ると、撃ってきた。日本兵。少尉と7~8人いて「この畑は俺らのもんだ、無断で掘ってけしからん。早く出て行け」と言って、頼んでも食べさせてくれない。頼みに頼んで1晩泊めて食べさせて貰う事になった。どうせ朝出るのだからと袋に詰める。朝になると皆寝たまま下痢でびしゃびしゃになっている。栄養失調で膨れ気味だった顔が、ぺちゃんこになり岩に紙を貼ったよう。動けないので頼みこんでもう1泊した。

1945(昭和20)年8月15日


敗戦の伝単ビラが撒かれるが、中国戦線から戦った兵士たちが謀略だと本気にしない。僕もそうだろうな~ぐらい。 奥地に入っていく。「班長は俺らを野垂れ死にさせるつもりか」と言われ、相談をする。元気なのが「どうせ死ぬなら山を降りて飛行機を焼こう」と言って降りることに。 よその兵隊が拝むようにして一緒に連れて歩いて下さいと泣く。こちらもいざっているし、「自分たちは戦死するんだぞ」と言っても「それでも良い」とすがったが駄目だと断った。どうなったろうか。
1945(昭和20)年9月30日 投降 白旗を掲げた集団に2組ほど行き交う。中国帰りの部下が皆で1丁しか銃はないのにそれを持って「何のざまだ、撃ち殺すぞ」と言うが、向こうの方がまだ元気。「軍曹殿、本当に負けたんですよ」伍長が居て「ソ連が参戦したのを御存知ですか」と言われ信じる気になったが、中国戦線の経験者は聞かない。発破の音を、兵を敗戦だと騙して横穴に詰め込んで爆破して殺しているんだから絶対出たら駄目だという。中国戦で自分達がやったことしか頭に浮かんでこない。 飛行場に近付いて米軍の様子を見ながら説得。かって自分たちに協力してくれた現地人が輸送をやっていた。
収容所 トッラクに乗せられカガヤンへ。先に投降した日本兵が痩せ細った僕等を物珍しそうに眺めていた。名前を申告する時他の部隊では戦犯にかからないように歴史上の人物などを名乗っている者がいた。部下とはここで違う幕舎に分けられた。 レイテ島タクロバン収容所、更にルソン島オドネル収容所に。 収容所は最初、炊事場の権利を巡ってやくざ者同士の争いがあり殺されて収容所の床下に埋められて仕舞った者がいた。やがて米軍も数が合わないことに気づき、Japan Gang狩りを一斉にやって重労働に付かせた。そこから収容所は原始的な社会から文化的な社会に変わり、講演会や演芸会が行われるようになった。小説を書く者、絵を描く者、捕虜の学者から原子爆弾の講義も受けた。

1946(昭和21)年12月25日 名古屋に復員


わが子の名や、わが夫の名を新聞紙に書いた人が港にいっぱいいた。皆戦死したのに生きて悪かったかな~と。  大晦日に鳥取の家に着く。戦死したと思われていたので驚かれた。  1年間は栄養失調を治すため自宅療養、1948(昭和23)年農林省に復職。

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