インタビュー記録 (この証言は数年後全面公開します)

1943(昭和18)年1月 現役 

 満洲へ、一選抜上等兵に。

1944(昭和19)年4月 ○○島上陸

 島はパラオ近くにあり1300m×300m、海抜5m、海洋民族の島民110名の島に466人の兵が上陸。うち36名が山砲兵(所属した中隊の3分の1)。
 一緒に上陸した歩兵2個中隊は東京の部隊で農耕ができず60%が死んだ。一方山砲兵は東北の部隊で36名中30名が帰った。

 食べられそうな島中の生物を皆が食べ尽くしてしまう。このままでは餓死してしまうため、切って植えるとすぐに生えてきて連作もできるさつまいもの葉と、愛知の兵隊が薬として食べるといった雑草を育てた。この雑草は繁殖力が強く短期間で大きくなった。
 島民のタロイモやヤシの実は取ってはいけないことになっていて、盗ると重営倉送りになった。重営倉を出てくると衰弱は激しく人減らしとして使われている側面があった。

 毎日島の周りを定時にまわる双発があって、これを撃つと小隊長が言い出した。 1発だけ撃ったところで守備隊長が許可していないと怒り中止となった。 その日は島の南が徹底的に爆撃されたが、これによって森が焼かれ日当たりの良い土地ができた。ここが畑となった。

 島には流木が多く、その下には貝がいて、またその貝を食べに魚も集まり食料となった。また流れてくるヤシの実も多く、これは取ってもよかった。

 テング熱で亡くなるものは多かった。私もかかったが流行りだす前で、たばこなどと交換で島民からいろいろ手に入れることができ力をつけられた。
 全体に早い時期に罹患した者の方が体力の消耗前で死ななかった。
 遺体は火葬した。流木が多いので火葬が可能だった。
 やせ細って背骨が見えるような遺体はあっという間に燃えてしまう。島に来る途中で心臓発作を起こした兵を火葬した時に3日かかったのとは対照的だった。

 中隊は3分の1の36名がこの島に、残りが別の島に上陸した。
 この時の上官の配分に今でも疑問を持つのだが、こちらには甲幹の新任少尉1名、軍曹2名のみ、しかも軍曹の1人は乙幹で将来は大学教授になるのではという学識だったが軍隊向きではない人物だった。 もう一方の島に大尉、中尉、准尉2名という奇妙な配置となった。
 小隊長は満洲にいたころは立派な人と思えたが、島に来て兵が飢えていても、自分は山盛りに飯を盛らせ犬を飼っているような人物であった。
 軍曹の1人が食糧庫の衛兵に難癖を付けている間に配下の兵に食糧を盗ませようとしたが、これがばれて守備隊全体の知るところとなった。
 下士官を重営倉に入れる訳にもいかず、小隊長は軍曹に軍人勅諭の書き写しを数十日続けさせた。軍曹はこの事態を悲観して乾パンと銃を持ち出し、もう1人の軍曹と島から脱走して仕舞った。しかし、おそらくは生きて帰れなかったのではないかと思っている。
 同伴の軍曹は溺れかけているところを島民に救助されて戻ってきたが、軍法会議にかけられる出来事なので、このあと何をやる気もなくなり廃人のようになってしまった。

 ある時島民のタロイモを盗んだ兵を小隊長が素っ裸にして20日間の重営倉とした。
 さらに全員を集め、兵は飢えでふらふらなのに連日立たせて精神訓話を繰り返す。そこである班長(伍長)を中心に「このままでは自分たちは殺されてしまう。手の1本ぐらいは折ってもよいから隊長の権威を失くそう」という相談がなされた。
 小隊長は島民の家を借り上げてそこに住んでいたが、皆で蚊帳をかぶせて袋叩きにした。このとき誰かが重営倉中の兵にこのことを知らせ彼を出して仕舞った。彼は申し合わせに参加していなかったので殺すわけではないことは知らず、硬いヤシの棒で小隊長の頭を殴り、それが致命傷となってしまった。 皆は慌てて遺体を火葬し、アメーバー赤痢で(事実そうだったが)死んだことにしようと口裏があわされた。
 参加しなかったのは、小隊長の当番兵の自分と、学歴があったのに幹部候補生になることを拒否した大阪の兵隊、病弱者数名のみだった。

 早速守備隊長の厳しい取り調べが繰り返されたが、自分も含め皆、何も知らないと頑張った。いつのまにか嫌疑は当番兵だった自分にかかっていた。
 これ以来もっとも階級の高いのが首謀者の伍長となった。
 身の危険を感じたが殺されてなるものかと思い、常に短銃、銃弾(38式6連発、実弾36発)を離さなかった。参加したものでも同年兵は味方をしてくれ、それなりの勢力だったので何とかなったのかも知れない。

1945(昭和20)年10月末

 敗戦のビラが配られたが、小隊長はデマだと言い特別教練などを行った。
 白い旗を持った日本人将校を乗せた米駆逐艦が姿を現し敗戦が確定。この駆逐艦にはコンビーフやビスケットが積まれていた。

同年11月3日 浦賀上陸

 帰りの船で自殺者が数名出た。船員から日本が焼け野原であることを聞き、病気の重かった者が戦病死のほうが家族への手当が多いと考えた。
 何も感じなくなっていたので、自殺者の遺体を海軍の兵が1体ずつ丁寧に水葬するのを見て驚いた。
 浦賀であれが敗残兵だと言われ腹がたったが、確かにふんどしに雨外套をはおった格好では、そう言われても仕方がない。
 保管、奉祀してきた小隊長の遺骨を当局に引き渡すのが私の任務であった。

Copyright(c) 2012 JVVAP. All Rights Reserved.