インタビュー記録


1934(昭和9)年6月 

 高松南高校の前身・香川県立香川農業学校3年の途中で海軍志願。横須賀海軍航空隊予科練習部に入隊。

1937(昭和12)年8月まで予科練。

 普通学(数学、英語、漢文等一般の授業)と兵学(兵術、機関術、航海術等海軍の全て)をみっちり。
 体を鍛えるのが半分。「空を制せんとする者はまず海を制せ」ということで、夏は半日は水泳だった。
 予科練に入って最初に1回だけ体験飛行で飛行機に乗せてもらったが、それ以降3年間飛行機に乗ることはなかった。

1937(昭和12)年、予科練を卒業、
  1年間は毎日飛行機に乗って訓練。

 霞ヶ浦で単独飛行できるまでやる。(練習機)
 偵察、爆撃、機銃等、飛行機の上でやることを全て学ぶ。
 特に目印のない海の上で何時間飛んでも戻ってこられるように訓練をした。

1938(昭和13)年 今度は3カ月(本来は半年)の延長教育。

 各鎮守府ごとに分かれて、管轄の飛行場で実際に戦闘で使う飛行機に乗って訓練。四国出身なので佐世保鎮守府。大村の飛行場で訓練をした。
 これが終わるとやっと一人前。艦隊で実用機に乗れるようになり、実習部隊に派遣される。支那事変の最中だったので、すぐに戦地へ。
 佐世保から上川丸に4~5人乗せられて広東の南、三窯(さんそう)島という島へ。海軍第14航空隊に配属される。
 1年ほどここで、援蒋ルートの爆撃。イギリスから蒋介石軍への物資補給を断つために、日々鉄橋や線路を爆撃。このころは相手の飛行機はほとんどなく、下から撃ってきていた。

1939(昭和14)年暮れ 巡洋艦妙高の艦隊へ転勤。

 妙高に4機配備されていた水上機で爆撃や索敵。
 その年のうちに、三重県の鈴鹿航空隊の教官となり帰国。
 しばらくして爆撃専門の募集があり、千葉県で訓練に入る。

1940(昭和15)年10月、飛竜で戦闘訓練。

1941(昭和16)年8月ごろから、鹿児島での基地訓練。

 3000メートルの高度からの爆撃訓練だったのが、海面すれすれを飛んで爆弾を落とす訓練に変わる。

1941(昭和16)年11月中頃、8隻あった航空母艦が集結。

 11月18日出航。択捉島単冠(ひとかっぷ)に着いた。

 11月22日、目覚めるとあらゆる船が集まっており、いよいよ戦争が始まるのだと思った。

 11月23日、飛行機の搭乗員が集められ、アメリカと戦争をすることを告げられる。このときはまだアメリカとの交渉中で、交渉が成立すれば攻撃せずに引き返すことになっていた。

 11月26日朝、単冠(ひとかっぷ)を出航。航空母艦、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦等、集まっていた船全てで船団を組み、北を通るルートでハワイに向かう。

 12月4日、オアフ島の北230カイリに到着。ずっと天気が悪く、上空に雲がかかっていた。その上を敵機が飛んでいて、「我が哨戒圏内に何ら見えない」といった電報を打っているのがわかった。
 このころ艦上では、灯火管制をし、無線の発信を止めていたが傍受はしていた。
 艦の上で射撃訓練や敵の船の識別訓練。8畳ぐらいの広さの模型を使って図上訓練をした。

 12月7日の夜、すでに交渉は決裂、いよいよ明日攻撃をするということで、艦長が祝杯を用意してくれた。髪と爪を切って包み、遺書を書く。特に書くこともなかったので、「男児の本懐これに勝る(すぐる)ものなし」と書いて託した。その日は早く休み、翌日は早くに目が覚めた。

 12月8日午前4:30ごろ、制服に着替えて甲板に出ると空は晴れて半分ぐらい雲がかかっている状態。
 整備の人たちがエンジンを回して整備、試運転をしている。
 急いで食事を済ませて、出撃用意で飛行甲板に上がる。

 5:00ごろ1次の183機、6:00ごろ2次の167機が出撃。1次として出撃。そろって編隊を組んで飛ぶ。

 7:30ごろ、オアフ島上空着。

 7:35、突撃準備態勢をつくれとの指令。

 7:40、全軍突撃せよとの命令により、出撃。
 海面すれすれを飛び、水雷を発射。他に、3000mほど上空から爆弾を落とす飛行機、急降下爆撃をする飛行機、敵の飛行機を迎撃する飛行機で総攻撃。

 7:49、「トラトラトラ」の電報が内地に打たれる。

 その時はちょうど夜明け前で、半分くらいいったところで太陽が出て、雲量4ぐらいで海が見える、攻撃が十分できるような天気だった。ちょうど雲の上に太陽が出て、非常にきれいで、あんな美しい日の出と言うのは生まれて見たことがないという感じがした。搭乗員みんな同じように言っていた。
 これで日本が大変なことになる戦争の初めをつくるんだなということで、複雑な感じがして、しかしそういう世紀の大きな戦争のはじめを先駆けてやれることは、男の生きがいだなと思った。
 戦争時代を美化したり肯定したりはしないけれども、やはり戦争そのものには今日本は我々がやらなかったら、誰かが出て行ってやらなければならない、だったら自分が先陣を切る。これは男の生きがいだ本懐だということで、強い喜びと言うか感動的なものをもっていた。
 こういう太陽を見るというのは素晴らしいという気持ちでいっぱいだった。

 1次2次合わせて29機が落とされた。ハワイをたたいて本土まで行くのではないかと言っていたが、それはできなかった。

 真珠湾の後、飛竜と蒼竜はウェイク島の攻略に参加したため、他の船より5~6日遅く日本に帰った。それで、休暇をとって帰ることもできず、別府で正月を過ごした。

1942(昭和17)年1月12日、インド洋作戦に出発。

 アンボン、パラオ、ポートダーウィンにある施設の攻撃や、陸軍のニューギニア上陸の援護をして4月までいた。さらに、ジャワ、スマトラを回り、イギリス艦隊の船を攻撃。
 4月9日に、イギリス艦隊の基地になっていたセイロン島東海岸のトリンコマリーという港を攻撃したら帰るということになっていた。
 その最終日の攻撃でやられた。

 爆撃を終わって引き返そうとしたときに、敵の戦闘機が2機上がってきており、13ミリの機銃が40発ほど機体に当たった。
 かぶっていた飛行帽に弾が当たって炸裂、ゴーグルを上げていたので破片が目に入った。触るとべろっとした。燃料タンクを撃ち抜かれて、霧のように燃料を噴きだしながら、母艦に向かったが、ようやく母艦が見えたところでエンストしてベンガル湾に不時着。
 3人で乗っていたが、後ろに乗っていた同郷出身の稲毛君は直撃を受け意識がない。もう1人耳の後ろを撃たれた高橋君と2人で、稲毛君を飛行機から引っ張り出した。
 40分ほどだか泳いでいたら、味方の飛行機に誘導されて駆逐艦が来て拾ってくれた。駆逐艦は母艦の横について、そこからそれぞれ簀巻きにされて3人ともひっぱりあげられた。
 そこで気を失い、次に気づいたら稲毛君は死んでいた。
 翌日、(たまたま兵隊としていた)坊さんの読経と葬送曲とともに、稲毛君の水葬が行われた。緯度と経度で水葬地点はわかるので、そこが稲毛君の海の墓地になっている。まだ勝ち戦で余裕があったからこういうことができたのだと思う。

 飛竜に戻ったが、そこではほとんど治療ができない。赤城の軍医長は眼科を見られるというので、赤城に移った。
 そのとき、飛竜の甲板に艦長と山口多聞司令官がいて、「大変だったが、片目は大丈夫だから早く治して現役復帰して、これから搭乗員が足りなくなるから教育部隊でがんばってくれ」と握手をしてくれた。感激した。
 赤城で治療を受けたが、義眼をつくる等本格的な治療はできないので、内地へ。  飛竜は佐世保に帰ったが、自分は赤城で横須賀へ運ばれた。横須賀の海軍病院に入院し本格的な治療を受ける。それをやってもらっているうちに、5月、飛竜もミッドウェーに行ってしまっていた。
 その後5月何日か、ミッドウェーで生き残った人たちが、何人かずつに分かれて収容されてきた。飛竜の同じ分隊だったのも、横須賀海軍病院に10人ぐらい来た。高知から来ていた小山という若い兵隊が夜中に訪ねてきて、ミッドウェーの話をしてくれた。
 飛竜の搭乗員は108名ぐらい乗っていたのがだいぶやられていた。飛竜で生き残った搭乗員は大分いたが、他の船に乗って戦争して、終戦時には11名になっていた。
 私も行っていたらやられていたと思う。インド洋で目をけがをして入院したから生きながらえたことになる。しばらくは情けない、みんなにすまないような気がして終戦になって帰ってからも話をするのも嫌になっていた。

 佐世保の海軍病院で療養勤務で、佐世保鎮守府付ということで、3カ月ぐらい、佐世保に下宿して病院に通う。

1942(昭和17)年6月、静岡の大井海軍航空隊の練習部隊へ。

 そこで教官をやっているところへ市丸少将が来て、徳島航空隊へ転勤させてくれた。 徳島で教えたのは、1943(昭和18)年に大学が停止になって学徒動員された人たち。13期~15期の予備学生。14期に裏千家の千や、水戸黄門の西村晃がいた。
 教え子は最後は特攻隊へ。各地から編成されて出ていく。訓練も短くして送り出した。何人かずつ編成されて出ていくので、選ばれなかった者は、「なぜ特攻にだしてくれないのか」と怒っていた。
 「いっぺんに行くわけにはいかないし、そのうちみんな行くし、しまいには我々も行くから慌てるな」と言ってなだめた。

1945(昭和20)年8月、そのまま徳島の航空隊で終戦を迎えた。

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