インタビュー記録

1940(昭和15)年7月末 徴兵検査で第一乙種合格

同年12月1日 現役入営 中部第4部隊

 歩兵229連隊第3大隊第11中隊所属。
 (旗手護兵になってからは連隊本部づき)  

1941(昭和16)年3月 南支派遣決定

 家が貧しく家族は岐阜駅に送りに来てくれなかったのでむくれて屋台で酒をあおっていた。船上でも酒をあおり、船酔いにもなって吐きまくった。

 軍人になることが嫌で、不真面目な兵士だった。
 南支に派遣されてすぐに、軍医からマラリアに関してのレクチャーがあり、掛からないようにしなさいとのお達しがあったが、逆に掛かれば内地に帰れると思って、トイレで蚊に刺されまくった。
 思惑通りマラリアに伝染。野戦病院で療養。
 ただ、野戦病院で次々に日本軍兵士死体が運ばれてくるのを見て、「これでいいのか」と自問し、心を入れ替えて兵隊の任務を全うすることを誓う。いくら殴られても、大丈夫になった。

 野戦病院退院後、上官からも「見違えるようになった」と評価は上々。中隊長伝令に抜擢。中隊長伝令は一番働く人間がなるものだった。
 「支那事変が長引いているのは、香港から物資が入ってくるからだ」と兵士の耳にも届く。

1941(昭和16)年12月8日 日米開戦

 香港攻略戦に参戦。散発的な銃撃戦を体験。いよいよ重火砲による全面攻撃をしようとした矢先に英軍軍使が白旗を掲げて降伏。12月25日制圧。
 英軍要塞でウィスキーなどの洋酒をあおる。兵士でウィスキーの品評会をしながら戦勝を祝った。

1942(昭和17)年1月中旬

 シンガポール沖を通過、ムシ川を遡ってパレンバンに上陸。パレンバンの空挺部隊降下の支援。地上のオランダ軍掃討作戦に参加。ただし、すぐにオランダ軍は降伏。自転車の部品を渡されて、組み立てろといわれた。スマトラ島かんてい作戦やりとげた。

 このころ、上官より連隊旗手の旗護兵になるか、連隊伝令になるかの打診があり。名誉な連隊旗護兵を選択する。
 赤道下でもボタンをはずさず、軍服を崩さないことは大変だったが名誉な仕事と誇りに思っていた。
 日本軍の劣勢がどことなく伝わる。ガダルカナルへ38師団の派遣が伝わる。

同年9月頃 ガダルカナル奪回のために派遣

 ニューブリテン島・ラバウルへ移動。
 11隻の大型輸送船と護衛艦25隻に護られて、重火器、食料、1万人の兵士をガダルカナルに投入のため輸送。靴下にも食料をつめろと命令。夜が明けて甲板へあがると輸送艦と護衛艦の姿を見て、「こんな大きな戦争に参加しているんだ」と感慨深かった。

同年10月14日 12時40分 ラッセル島 北北東20海里

 黒い塊が空に見えたら、飛行機の集団。「あれは友軍か」と言っていたら米軍機だった。
 米軍240機の艦載機の攻撃を受け、輸送船6隻沈没、1隻中破離脱。
 乗っていた船も爆弾を受け、火災と煙に船上は覆われる。周りで体が2つに割れて、“蝋が固まったような”死体を実際見ながら軍旗を必死に探し、負傷している連隊長を発見。「よくきてくれた」爆弾で負傷をしていた。
 旗手が死亡したことが確認され、自分が軍旗を持つことに。

 被弾していたが、佐藤さんの乗っていた輸送船と残り3隻はガダルカナル島に強行接岸。海岸に乗り上げ、座礁、炎上。貴重な食料、重火器は揚陸されたが、次々にくる米軍機の攻撃で大半は炎上、散失。

 以後ジャングルに逃げ込んで、やしの実をかじりながら空腹に耐える。休んで寝ていた戦友が、起きることなく死んでいることもあった。現地人が農作している芋畑をあさったり、米軍に夜襲をかけた部隊が手に入れたレーションを中隊長から貰って食べたりする。
 このままでは野垂れ死にだ。敵の飛行場 アンダーソン飛行場 に突っ込んで玉砕しよう。歩けないものは「処分」しようという声もあがった。小さな船に乗って音を鎮めて進むと海軍の軍艦に会えた。

 米軍機の機銃掃射で足を負傷。野戦病院に相当する連絡所で休む。実質、連絡所は死体を埋める場所だった。

 やがて、海軍の船に乗って、陸路の反対側から上陸して米軍キャンプに切り込みをかけるので、1Kほど離れた海岸に集合の命令がかかる。
 歩けないものは銃で殺す命令が出ていたが、直接は見ていない。
 1Kのジャングルを歩くのは、空腹で倒れるものも続出。
 小船がきて、海軍駆逐艦に拾われてブーゲンビル島に到着。撤退のための作戦だったことに気づく。

ブーゲンビル島

 砂糖水を飲めといわれたが、疲労と食べていないので口にすることしか出来ない。
 ドラム缶に火をたいた。殆どの兵士は野戦病院に行った。旗護兵集まれとあった宿営地に歩いていった。他は特別に理由のない限り野戦病院にいった。因果なことだ。野戦病院で楽しかったのに。竹の上に布きれをひいているので、骨だらけで痛かった。潰瘍が出来て、さらに痛くなった。野戦病院に行った奴がうらやましいと思った。一月たって野戦病院を訪れたら、死人の山。大きな穴が掘ってあった。野戦病院に入らなかったから生きたんだと思った。

 その後、ラバウルに移動。しばらく留まる。

 上官より今までの戦歴と戦死者の記録を命じられる。原隊にいたら、全員戦死だった。約200名。
 内地帰還命令。記録を大本営に持っていくこと、遺骨を日本に持ち帰ることが任務。帰還。

 報告後、すぐにラバウルに戻ることに。船が不足しており、第一次大戦のドイツから鹵獲した老朽船(9ノットしかでない)に乗ってラバウルに幸いにも戻れる。

1945(昭和20)年8月15日 終戦

 戦争を負けたとは言いたくなかった。「天皇陛下の御意志で戦争を止めたのだ」と言い聞かせた。

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