インタビュー記録


1942(昭和17)年1月10日 入営 現役

  • 北支派遣独立混成第8旅団独立歩兵第32大隊(通称春第2982隊第三中隊)
  • 河北省平郷県城に中隊入隊。一期教育後、警備に討伐に日夜奮闘。この地は順徳‐広宋‐威県を結ぶ重要な交通の要地
  • 数ヶ月間冀東作戦に参加。万里の長城を西に東に戦闘

1943(昭和18)年

 広宗県城に移動。河北、山東にまたがる広い地域の警備、討伐に参加。討伐要員なので月の20日間は歩いていた。  中国山間部は衛生が悪い。水を沸かして飲んでも腹を壊す。  あるとき、憲兵が部落民を集めた。部落民の手を彼らは見る。手にたこがないと農民ではないとみなされる。

 地雷を踏んで死んだ兵士もいた。踏んだ兵士は残ったのは骨と靴だけだった。警備道路の脇に地雷を埋めていた。地雷が埋まっているのは土の色が変わっているのですぐわかる。ただし、夜は困る。色がわからないから。尖兵の初年兵が踏んだ。有ると言っていても夜の行軍で眠たく、うとうとして踏んでしまった。

 軍人のほとんどが南方へ送られてしまう。ために、一個中隊も要員の半分くらいしかいなかった。中国軍は定員どおりいたので、同じ中隊数でも戦力差が非常にあった。 待ち伏せにあって、逃げるときは、とにかく撃つ。弾さえ出ていれば敵は追っかけてこない。

1944(昭和19)年

 冬、中共軍との散発的な戦闘。豊潤で後ろからわき腹に銃撃を受ける。負傷。
 昼食するために小隊が休憩。無防備。4中隊の尖兵が全滅。軽機手は銃を奪われるのを恐れて自爆。壕に出て、敵のいないほうに行ったが、途中から敵兵3名に追いかけられて、左脇腹を貫通。つかまったら自爆するつもりだったが、山の稜線から亡くなった母が手招きをしているように見えて、気力を振り絞って逃げた。落合伝令手が、中隊長を探しにって戦死。同年兵の衛生兵に手当てをしてもらった。一命をとりとめた。

 逃亡する兵士が多い中隊で有名だった。教育中にひどい仕打ちを受けたから? 逃亡してつかまったら死刑。ある兵士は、骨壷を荒縄で縛られて内地に返される。戦死にならないので遺族年金も出ない。

1945(昭和20)年 終戦 国民党軍に武装解除

 華北にいた日本軍は負けた気がしない。兵士もいるし、武器、食料もあった。
 まだまだ戦争はやれると思った。

 同年10月中旬から 大屯高地周辺で共産軍の鉄道、通信線の破壊活動が続く。

同年11月3日(明治節) 共産党軍の攻撃で負傷

 軍隊生活最後の思い出に演芸会を開く。
 演芸会当日、共産軍の激しい攻撃を受ける。
 双方至近で手榴弾の投げあい。この戦闘で手榴弾の破片で目を負傷する。
 密雲の陸軍病院でピンセットで破片を抜く荒治療。復員まで入院。

1945(昭和20)年12月24日 復員

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