インタビュー記録


1937(昭和12)年 国学院大学卒業、徴兵検査

 歩兵第10連隊に入隊。(岡山)

1937(昭和12)年 4月 幹部候補生として仙台陸軍教導学校入学

1937(昭和12)年12月 上記卒業、原隊復帰、見習士官に

 800人中600番で、その後「おい600番」と呼ばれた。

1938(昭和13)年 歩兵第110連隊(鷺3911)に転属、北支派遣

 河北省 保定、雄県の警備。30~40人で動いていたので大きな作戦はなかった。
 中国人がけしを栽培している。缶詰の上を切った缶でケシの頭を傷つけて廻ると白い汁が出て翌日は乾き大麻となる。天津へ売りに行く間に日本兵や警察が取り上げて資金源にするので4分の1ぐらいに。彼らは筏の中をくりぬいたり、髪に隠して運んだり、旅芸人が運んだりした。

1943(昭和18)年 満期除隊

同年12月 結婚

 県立倉敷商業高校の教員になる。主に教練を担当していた。他には国語や社会も。

1944(昭和19)年5月 召集

 早々に呼ばれるだろうとは思っていた。

30師団(豹)に転属、平城へ

 (報告者註:歩兵第77連隊か?豹5448と記録されていたが、これは後の鉄5448との混同と思われる。)
 小銃が小隊に1丁しかなくがっかりする。「これはどうなるか」と思った。草の上を這いまわっての訓練。

1944(昭和19)年10月 下関を経て台湾北部・基隆(キールン)へ

 米軍の爆撃を初めて経験する。港にいた駆逐艦が5機中3機を落とし火を噴いて落ちてくるのを見た。
 また、爆撃機から後ろ向きに機銃掃射を受けた日本軍の戦闘機が、キリモミしながら爆撃機に突っ込み一緒に落ちてくるのも見た。

1944(昭和19)年12月 高尾進駐

1944(昭和19)年12月25日 ルソン島・北サンフェルナンドに上陸

 輸送船はハッチの中の段がはずされ、縄梯子がかけられて、兵隊は皆船底に座っている。バシー海峡、夜爆撃を受ける、船の後ろにどんどん落ちてくる。避けながら走れたが、縄梯子が激しく揺れ、登れないほど。
 ミンダナオに行く予定だったが行けずルソン島に上陸した。海岸には、後半分が無くなった船。ヤシの中には揚陸された武器や弾薬があるが、使える状態でない。
 直前に歩兵第10連隊(鉄5448)の一部(爆撃で沈没した部隊)が北サンフェルナンドに上陸していた。この大隊長が両足を負傷したため、豹の中隊長から歩兵第10連隊の大隊長代理で転属することになった。実際には豹と鉄が入り乱れて行動している状況だった。
 アゴーからブンカンへ移動した。ブンカンの南では戦車隊が戦闘をしたが、日本の戦車は背丈もない。米軍の戦車に戦車が踏みつぶされた。

1945(昭和20)年1月 バギオの師団司令部に連絡将校として派遣される

 ブンカン以南の部隊の状況報告と地図や薬を得るため、当番兵と2名でブンカンからバレテ峠を抜けバギオへ徒歩で移動した。おしまいになって地図とか言っても仕方ないのだが、夜だけ歩き約1ヶ月を要する。ゲリラの襲撃があり拳銃を抜いて撃った、あたりはしないが。

1945(昭和20)年3月 陣地に帰隊

1945(昭和20)年4月25日 ブンカン~バレテ峠の陣地からの後退を命ぜられる

 後退の後衛をしろと言われる。もう戦えない、部隊はバラバラになって移動。
 迫撃砲は3門くれたが、1門につき弾が3発ずつしかなく、使い方を知っている者がなく、教える余裕もなく最後まで撃つことがなかった。
 兵器はない、食糧はない、薬はない。

   米軍はジープがあるので、平地は歩けず山の中ばかりを移動。セスナが30~50mぐらいの超低空を飛び、爆弾では面倒なので手榴弾を上空から投げてくる。

 歩き始めて1か月もすると、本当に何もなくなって、ないと言ったら本当にない。
 中国で罹ったマラリアが出てき、てんぐ熱も、5月末には後退も難しくなる。
 部隊の一番最後を歩いているので、通るところは死人の散らかっている所だけ歩く。

 バナナやパパイヤの木を倒しその芯の白い所を食べる、木は一度だけ早いものがち。野生の芋があるが、口に入れると口が腫れ上がって喉を通らない。カエルや蛇は御馳走、焼いては食べた、ナメクジも焼いて食べた。大きなカタツムリがいてこれも焼いて食べた。
 帰隊時ある軍曹から「私の部隊は全滅しました。生きて帰ったのは私だけです」と報告を受けた。「馬鹿者!」と叱った、「生きて帰ったとは何事だ」と偶々言ったけど、ぐたっとしてしまう、そこまで行くとなんか言うと気弱というんか、倒れてしまう。
 転進してもバタバタ倒れる、気迫がないから倒れるんだから、きつく言わないと倒れる。きつく言っても倒れるんだけど 次々倒れる。
 倒れたらもう立てん、後から行きますって皆言うんだけど着いてきた者はおらんのよ。
 4月25日30名で出発して、最後たどり着いたのは4~5人だった。
 気迫がなくなるんだな。いや悪口は言えない、私も半分死んだようなものだったんだから。


 夢を見た。
 兵たちが後から後から追いかけてきては、追い越して後退していく。自分は歩けないからよたよたしながらついていく。大隊の副官が「おい」と声をかけたら座ったまま死んでいたが、その彼が霧の中を歩いていく。その光景が見えたのが最後でそのまま気を失った。

1945(昭和20)年7月 後退不能となり筏に乗る

 当番兵が起こしてくれ、歩いては行けないので谷に降りる。前の部隊から余った筏をもらいそれで川を下ることに。
 また意識を失い1週間から10日で意識が戻る。切り立った崖が岸に続くが、スコールが来ると一気に水位が上がるため、川岸の木のとても高い所に流された死体がひっかかっていた。

1945(昭和20)年8月 マデラ到着

 川の谷から開けるところで、岸にいた日本兵に声をかけ、筏を引き寄せて貰う。廃屋みたいな所に1か月ぐらい生活、次第に日本兵が集まってくる。
 セスナが敗戦の情報を撒く。日本軍の連絡将校が来たという話もある。
 将校連中が集まり軍旗の焼却式、神主だったので式進行を担当した。

 最初は北部の収容所へ、最後は南部のロスパニオスの収容所へ移動。収容所の金網の外には1面の十字架が並び、その下に日本兵が5~6名ずついると聞く。天幕に24人ずつ入る、収容所は2千人ぐらい。

1946(昭和21)年6月 佐世保に復員

 (奥様のお話)フィリピンは激戦地だと聞いているので、どんなんかなどんなんかなと思っていたが、帰って来た人たちの話で何かしら生きてるんじゃないかと思っていた。悲観はしていなかった。
 公職追放令により教職に戻れなくなる

1952(昭和27)年 高校教員に復職

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