インタビュー記録

1944(昭和19)年10月1日 陸軍少年飛行兵に志願(19期生)

・大分陸軍少年飛行兵学校に
 家は貧しかった。7人兄弟の3番目(長男)で、父はシベリアに出兵、金鵄勲章を貰った。それを誇りにしていた(後日母は長男が兵隊に行き生活が苦しいのでこれを売って仕舞った)。父は49歳で急死、仕事の前払いの借金が700何十円残り母は政則が卒業したら返すからと親戚を廻ったが、あれだけ人が集まった家だったのに父が死ぬと人が寄りつかず、母は家を売って実家に帰った。
 反対されるに決まっているので、ハンコを黙って押して志願。H先生が「忠孝一致」、君(天皇)に忠義を尽くせば死んでも不孝にはならないんだと教えてくれた。不孝にならないんだと自分に言い聞かせ、自分が行けば困る事は分かっているけれども考える事を止めた。自分が死ねばお金も入るし、弟も3人いるから何とかなるだろうとも思っていた。母親は泣き叫んだが、壮行会は行われた。大政翼賛会で郡下の何千人も集まり「雛鷲とその母の会」を開催した。翼賛会の会場で壇上に6組の母子が上げられ賞賛される。それが自分を変えた。

1945(昭和20)年7月

 自習室に区隊長が来て、操縦するには飛行機が間に合わない。本土決戦で志布志に上陸する戦車のキャタピラに飛び込む人間地雷に賛成するかどうか、紙を配るから書くよう言われた。
 隣と相談は出来ない。「咲いた桜は散るのは覚悟と歌われたけど、自分達は蕾でなんで死ななきゃならないの」という気持ちが浮かんだ。先日練兵場で訓練の見学に来た女学生が休憩時間に水筒で水をくれた光景が浮かんだ(未練と打ち消す)。あれだけ泣いていた母が「軍国の母は泣かない、征きなさい」と言うイメージが出た。そんなこと言うわけはないんだが自分を切り替えてしまう、洗脳されたんだね。「雛鷲とその母の会」で讃えられておめおめとは言えない。
 紙を集めて見た区隊長は初めてにっこり笑った。全員が人間地雷を希望したと発表された。
 空襲が激しくなった事もありグライダーの訓練は無くなった。大型のリアカーで戦車の模型を作り、箱地雷を背負って飛び込む猛訓練。

 大分海軍航空隊が爆撃を受け、特攻への出撃を待機している将兵を校舎に泊める事になった。長谷川大尉の当番兵を命ぜられ、生きた軍神だから恐れた。食事を持っていったが食べ残しが多かった。笑顔の良いハンサムな人だが、一人の時は少し青ざめ一心不乱に読書をしていた。知覧に行くとき全校生徒1000人を前に、「死して護国の鬼となる、君達は少年飛行兵だから特攻隊に続くことを信じている」と短く言った。信じていると言われたことが重くのしかかった。飛び立ち上空を3回旋回し、翼を上下に振って去っていった。

同年8月10日 焼夷弾で校舎が炎上

 原爆のニュースに高性能爆弾は光が入ると死ぬから防空壕に光が入らないようにと言われ、我等消防隊も防空壕に光が入らないようにしていたら、壕の上から星見習士官がどんどん踏み鳴らして「出てこい、校舎が燃えている」。燃え上がる煙の中から米軍P51が急降下し機銃掃射で狙われたが無事だった。

同年8月15日

 玉音放送を「陛下がソ連へ宣戦布告したお言葉だった。別命のあるまで待機せよ」と中隊長が言われ、第一装(正装)を着て武装した。普段はこうりゃん飯になっていたのに、夕食から白米や赤飯、美味しい果物が出る。

同年8月18日

 区隊長に遺書を書けと言われ、遺書を書く。その日夜になったら「日本は無条件降伏した」と言い渡された。それまで噂も無かった。ビックリして一晩中泣き明かした。
 谷軍曹が刀を抜いて柱を切りつけて暴れ回っていた。「神州不滅」の日本が負けた。ウソの教育だったと二重の大ショック!
 流言蜚語が飛び交い、「トラック島へ連れていかれて米軍の飛行場作りにこき使われる」とか、「男性の子種を抜き取り日本民族を絶滅する」とか・・・。

同年8月23日 復員

 大分駅まで送ってきてくれた区隊長が突然「もう国家には騙されないぞ~。お前達も騙されるな。俺は孫子の代まで軍人にはしない。何だこのざまは」と叫び散らした。
 自分も家族のために生きていこうと列車の中で心に決めたが、武装解除した格好は敗残兵に思え、佐伯駅に降りても昼間には帰れなかった。
 夕日の落ちる大空に、後に続くと信じていると言われた長谷川大尉の顔を思い出した。夜道を我が家へ。

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